アブラハム・ラビノビッチ「ヨム キプール戦争全史」並木書房 滝川義人訳
「おばあさん、あなたの国防大臣は能なし。そのため、あなたの孫が3000人も死んだ」
第四次中東戦争のドキュメント。現時点では文句なしの決定版。質量ともに、充実度は凄まじい。唯一の欠点は、とにかく物理的に重い事。通勤中に読むと、いい運動になります。
ソフトカバー2段組、約540頁。文章は決して読みにくくないが、とにかく量が凄まじい上に、登場人物がやたら多いので、読み通すのは相当に時間がかかる。重要な戦場には地図がついているので、地図を参照しながら記述を追いかける形になるため、それなりの時間は覚悟しよう。とまれ、決して眠い内容ではなく、開戦前の政治的状況の解説を除けば緊張する場面の連続であるため、決して苦痛な時間ではない…本を持つ腕の疲労を除けば。
時間的には1973年10月5日、つまり開戦の前日から、双方が本格的な戦闘をやめるまでの2週間程度を中心に記述している。視点はイスラエル側が大半であり、前線の兵卒から小隊・中隊・大隊指揮官、旅団・師団長、参謀総長ダビッド・エラザール、国防大臣モシェ・ダヤン、そして首相ゴルダ・メイヤーに及ぶ。エジプトはサダト大統領・イスマイル国防省・シャズリ参謀総長の他は、バーレブライン攻略に従軍した軍曹が少し顔を出す。シリアはアサドぐらいしか名前が出てこない。これは資料収集の関係だろう。加えて両超大国を代表して、米はキッシンジャーを中心にニクソン、モスクワはブレジネフが出てくる。
六日間戦争の決定的勝利に湧くイスラエルは空軍中心の国防方針を立て、また陸軍は戦車万能論がまかり通る。それに対しエジプトはソ連製の武器を大量に獲得し、SA-6等の地対空ミサイルと、サガーやRPGなど歩兵用の対戦車兵器を充実させる。シリア・エジプト両国はスエズ運河沿いとゴラン高原に戦力を集結させるが、イスラエル情報部は「戦略爆撃機とスカッドを入手しない限り、アラブは開戦しない」と判断、停戦ライン沿いの戦力集結を怠る。
1973年10月6日午後2時、エジプトはスエズ運河を渡河し、シリアはゴラン高原に雪崩れ込む。いずれも大兵力を広く展開して力で押し込む形である。特にエジプトは巧妙で、対戦車兵器を大量に装備した歩兵を先頭に立て、次に戦車が続く。ゴラン高原の北側では寡兵ながらイスラエルが善戦してなんとか前線を保持するが、南部では方面司令部のナファクまで攻め込まれる。ちなみにゴラン高原の戦力比は、イスラエル戦車144に対しシリア1400、歩兵200名に対しシリア4万。押し込むわな、そりゃ。以下、ゴラン高原に動員され集結した予備兵の様子。
将校たちが即座に「できちゃった婚」をやった。たまたま同じバスに乗っていた者同士が、一緒に働いたこともないのに、その場で車長、操縦手、砲手、装填手の組に編成されたのである。
六日間戦争でパーフェクト・ゲームを演じたイスラエル空軍は地対空ミサイルにバタバタと落とされる。私の好きなスカイホーク隊が壊滅する場面は涙が出たよ。シナイでは戦車万能論を信じ突撃するイスラエル軍だが、エジプト軍歩兵のサガーやRPGに次々と屠られる。砲兵は遥か後方に位置していて援護射撃ができない上に、出来ても砂地の多いシナイでは効果が薄い;岩場の多いゴラン高原、特に北側では長距離砲が大きな戦果を挙げたようだが。
イスラエル領内まで攻め込む覚悟だったアサドに対し、サダトは「地対空ミサイルの傘」からは出ず、「イスラエルに一発食らわせた」状況でソ連を介して停戦に持ち込むつもりだった。しかし勢いに乗ってシナイ南部では東に出すぎてしまい、イスラエル軍の逆渡河を招き、南部を受け持つ第三軍を包囲されてしまう。イスラエル軍も対戦車ミサイルへの対策を編み出した。戦車の前を砲撃して砂塵を巻き上げ、同時に戦車を激しく前後に動いて狙いを外し、敵兵近辺を砲撃する。サガーは有線で手動誘導のため、歩兵は狙いがつけられない。
ほとんど戦車一両でゴラン高原南部を一晩支えたツビカ・グリンゴールド中尉など、細かいエピソードはてんこもり。以下、空軍司令部の作戦部長アビフ・ビンヌン大佐のエピソード。
テルアヴィブの空軍司令部で作戦部長として勤務するかたわら、三日ごとにファントムに搭乗し、自分の立てた作戦に参加した。早朝、攻撃任務を発令すると、車で基地へ行き、自分がだした攻撃任務について、ほかのパイロットと一緒にブリーフィングを受け、出撃するのである。帰投すると基地で結果報告を受けて司令部へ戻り、今度は作戦部長の立場で、夕方に報告を受けるのである。
この戦争の後、サダトは急速に和平路線に舵を切り、イスラエルとの首脳会談まで実現してしまう。ナセルは英雄だったが、単なるリリーフと思われたサダトも相当な政治家だと思う。以後、ソ連崩壊などの世界情勢の変化に伴い、エジプトはイスラエルに対し穏健かつ現実的な対応に変わる。
第四次中東戦争に限らず、現代の戦記物としては一級品。戦車が戦車らしい活躍を見せた最後の戦争であり、また対戦車ミサイルが華々しくデビューした、画期的な戦争でもある。歯応えは充分。気合を入れて読もう。
なんと、この本をネタに「やる夫」シリーズを作ってる人がいる。なかなかの労作。まだ途中だけど、是非ご覧あれ。 →やる夫達は第四次中東戦争を戦うようです
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