ジョン・パドニー「スエズ レセップスの運河」フジ出版社 弓削善治訳
スエズ運河建設から現代に至る、政治・外交・経済面に焦点をあてた、19世紀のプロジェクトX。中東戦争に興味を持ったついでに読んだ本だが、意外な拾い物だった。こういうのがあるから図書館通いは止められない。
ハードカバー一段組み本文390頁。一見威圧的に見えるが、訳文は日本語としてこなれていて、翻訳物にありがちな不自然さは全くない。19世紀の外交文書を多く引用しているため、やや古めかしく感じる部分もあるが、それが格調をかもしてもいる。表紙をはじめ随所に掲載されているエドワール・リュウの挿絵の魅力も手伝って、物語のように楽しく読める。内容の健全さや読みやすさは、中高生向けの課題図書に指定してもいいぐらいの口当たりの良さと、読後の充実感を与えてくれる。
スエズ運河を主体としながらも、本文の多くは、建設計画を推し進めたフランス人、フェルディナン・ド・レセップスの奮闘に割いている。元外交官。明るく活動的、乗馬に長け友情に篤い。礼儀正しく外交的、その魅力は時として政敵すら虜にする。機を見るに敏だが時を待つ忍耐力もあり、楽天的な表情の下に幾多の困難にもめげない不屈の意志を秘めている。ほとんどこの本の主人公みたいな人物だから多少の主人公補正はかかっているにせよ、彼の残した外交文書からは、外交官としての彼の優れた手腕がうかがえる。
領事の子に生まれ、親の後を継いで外交官となる。アレクサンドリア副領事任官時にエジプト太守イスマイル・パシャとその子サイード(後のエジプト太守)と親しく交わる。44歳で一旦隠居を余儀なくされるが、50歳の時にサイードが太守に即位する。表敬訪問に訪れ旧交を温めた際に、長年の夢であった運河建設へとサイードを導く。計画に対しエジプトとフランスは乗り気だが、太守の主筋にあたるトルコと、その宗主国イギリスは反発する。「運河は世界に開かれていなければならない」と主張するレセップスは、持ち前の活力と闊達さでパリ・ロンドン・カイロ・イスタンブールを飛び回り、あの手この手で説得に努める。論敵である在トルコ英国大使ストラトフォードに宛てた書間に、彼の人柄が出ている。
…この問題がフランスあるいはオーストラリア一国で論じられることを好まないように、イギリス主導のもとロンドンで論じられ、一国の政府の手で決定されることには難色を示すだろうと思われます…
…閣下は聡明な愛国者であられるとともに、英仏両国間の同盟-私自身もこの同盟の熱烈な支持者の一人であることを誇りとしていますが-
…正直に申しますと私はこれまで閣下に対して誤った印象を持っておりました。しかしそれも霧散いたしました…
相手の利益を説き、相手を罵倒するのではなく持ち上げ、相手との相違点より相手との共通点を強調し、あくまで礼儀正しく振舞う。官としても優秀だが、民間企業の経営者としても優秀である由は、この後の運河開発・運営を取り仕切る会社での、計画推進や資金調達で遺憾なく発揮される。
レセップスばかり述べてしまったが、彼の先達、英国海軍士官ワグホーンの執念も素晴らしい。「スエズ地峡を越える陸路を開発すれば英国の利益になる」由を母国に認めさせるために、自ら母国からインドへ公文書の写しを運ぶ仕事を引き受け、七年間を費やす。結局、官は動かなかったが、英国商人たちには認められ、事業を起こして地峡の駅馬制度を整備する。その意思と行動力には、ひたすら感服してしまう。
最終章近くは、「今世紀の人類は、運河改良計画よりも封鎖計画のほうに熱を入れてきた」とあるように、暗い話題で終始する。21世紀の終わりには、明るい最終章を追加できたらいいなあ。
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