2026年6月 8日 (月)

E.T.ベル「数学は科学の女王にして奴隷 Ⅰ・Ⅱ」ハヤカワ文庫NF 河野繁雄訳

本書では、数学の巨大な蓄積から話題を選んでお話するが、そのことから少なくとも数学が生き生きとした生命をもち、成長の過程にあるということ、また科学・技術のある部門の理解に不可欠であることを感じとっていただけることと信ずる。
  ――読者へ

この広範な理論(集合論)は、大まかにいえば、曲線や曲面などを点の集合として取り扱う。
  ――第19章 “天を強襲する”

【どんな本?】

 数学とは何か。算数とは違うのか。数学者は何を考えているのか。数学にはどんな分野があって、どんな事ををやっているのか。数学は何の役に立つのか。お釣りの計算に役立つのは分かるが、それ以外にどんな事に役立つのか。科学と数学には、どんな関係があるのか。

 全米数学者協会の会長も務めた著者が、数学の全容を伝えようとする、一般向けの数学の解説書・エッセイ集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は2冊の本だ。The Queen of Science, 1931 と The Handmaiden of the Science, 1937 いずれも著者は E.T.Bell。これの改訂・増補版が Mathematics,: Queen and Servant of Science, 1951。日本語版は1951年版をもとに東京書籍から1972年に「数学 化学の女王・科学の奴隷」として全3巻で出版。文庫はハヤカワ文庫NFよりⅠ・Ⅱの2巻で、Ⅰが2004年9月30日発行、Ⅱが2004年10月31日発行。なお、2巻とも副題がついていて、Ⅰは「天才数学者はいかに考えたか」,Ⅱは「科学の下働きもまた楽しからずや」。

 文庫で2巻、本文約340頁+312頁=652頁に加え、訳者あとがき2頁+文庫版訳者あとがき2頁+古永良正による解説「数学はどこから来て、どこへ行くのか」6頁。9ポイント39字×17行×(340頁+312頁)=約432,276字、400字詰め原稿用紙で約1,081枚。文庫2巻としては標準的な厚さ。

 文章は比較的にこなれている。内容は…うん、やっぱり数学の本だ。数式も専門用語もバリバリ出てくる。というか、数学の基本的な専門用語を説明する本でもある。環とか群とか。また、数学っぽい言い回しも多い。「もしa,bが類に属し、a=bならば、b=aである」とかね。著者によれば、数式は無視してもいいそうだ。けど、数学っぽい言い回しの方はかなり注意深く読む必要がある、と私は思う。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているが、第3章までは最初に読んだ方がいいだろう。以降は気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  •  Ⅰ
  • 読者へ/人名表
  • 第1章 さまざまな観点
  • 1-1 数学の目的
  • 1-2 黄金時代
  • 1-3 アーベルの忠告
  • 1-4 現代数学の精神
  • 第2章 数学的真理
  • 2-1 数学とは何か
  • 2-2 公準的方法
  • 第3章 束縛を破る
  • 3-1 初等代数学
  • 3-2 規則を変える
  • 3-3 公準はどのようにして生まれるか
  • 第4章 “同じであるが、同じでない”
  • 4-1 種痘代数学の実現
  • 4-2 有理数、実数、可算、非加算、離散的、連続、複素数、解析学、関数
  • 4-3 道の果て
  • 第5章 抽象術
  • 5-1 関心の移行
  • 5-2 非初等代数学
  • 5-3 環
  • 5-4 準同型、同型、自己同型
  • 5-5 束
  • 5-6 部分環、イデアル
  • 5-7 部分体、拡大
  • 5-8 斜体、線形代数
  • 第6章 大樹も一個の種子から
  • 6-1 変換
  • 6-2 幾何学の問題、変数再説
  • 6-3 行列
  • 6-4 国際連合への提案
  • 6-5 自然界の不変
  • 6-6 シルベスターの予言
  • 第7章 絵で考える
  • 7-1 グラフ
  • 7-2 デカルトの工夫
  • 7-3 無用な困難
  • 7-4 三つの示唆
  • 7-5 直線を代数学へ
  • 7-6 代数学を幾何学にもちこむ
  • 第8章 古い道標、新しい道標
  • 8-1 幾何学とは何か?
  • 8-2 クラインを越えて
  • 8-3 多次元空間
  • 8-4 双対
  • 8-5 “非計量的”対“計量的”
  • 8-6 連結性
  • 8-7 結び糸
  • 8-8 トポロジーの一種
  • 8-9 抽象再説
  • 第9章 群
  • 9-1 乗法表
  • 9-2 同型、準同型
  • 9-3 部分集合、剰余類、正規部分群
  • 9-4 置換群
  • 9-5 意味づけ
  • 9-6 無限群
  • 9-7 正20面体
  • 9-8 ガロアの理論
  • 第10章 “メトリカル”な宇宙
  • 10-1 ピタゴラスからデカルトへ
  • 10-2 デカルトからリーマンへ
  • 10-3 リーマンからアインシュタインへ
  • 原注及び訳注/解説:中村義作/索引
  •  Ⅱ
  • 人名表
  • 第11章 数学の女王
  • 11-1 始末に負えない領主
  • 11-2 フェルマ数とメルセンヌ数
  • 11-3 素数についてひとこと
  • 11-4 ディオファントス解析
  • 11-5 代数的数
  • 11-6 超越数
  • 11-7 ウェアリングの予想
  • 11-8 女王たちの女王の奴隷
  • 第12章 抽象と予測
  • 12-1 マックスウェルからレーダーまで
  • 12-2 二つの方法
  • 12-3 ある説明
  • 第13章 キュジコスから海王星まで
  • 13-1 王道
  • 13-2 ケプラーの信仰
  • 13-3 計算プラス洞察
  • 13-4 再び数学的預言
  • 第14章 二種類の絵
  • 14-1 科学における連続性
  • 14-2 科学における離散性
  • 14-3 永遠流転
  • 14-4 古代の哲学者と現代の衒学者
  • 14-5 微視的自然
  • 14-6 科学者の出番
  • 14-7 積分
  • 14-8 境界値問題
  • 第15章 応用数学の主な手段
  • 15-1 変化率
  • 15-2 高階導関数
  • 15-3 偏導関数
  • 15-4 微分方程式
  • 15-5 流体の流れ
  • 15-6 積分
  • 15-7 微積分額の基本定理
  • 第16章 微積分学を越えて
  • 16-1 極大極小
  • 16-2 最小作用
  • 16-3 変分法
  • 16-4 ハミルトンの予言
  • 16-5 複素関数論
  • 16-6 等角写像
  • 16-7 特殊関数
  • 16-8 一般化
  • 第17章 波動と振動
  • 17-1 周期性
  • 17-2 周期性をあらわすには
  • 17-3 フーリエの定理
  • 17-4 粒子から場へ
  • 第18章 選択と偶然
  • 18-1 確率
  • 18-2 パイと蠅とコンクリート
  • 18-3 統計と力学
  • 18-4 “確からしさ”は確からしいか?
  • 第19章 “天を強襲する”
  • 19-1 無限へ
  • 19-2 どのようにして無限は数学に入ってきたか
  • 19-3 無限を数える
  • 19-4 数とは何か
  • 19-5 デデキントの切断
  • 第20章 基盤
  • 20-1 数学的存在
  • 20-2 大いなる幻想
  • 20-3 ヒルベルトからゲーデルへ
  • 20-4 次代へ
  • 原注および訳注/訳者あとがき/文庫版訳者あとがき/解説:古永良正/索引

【感想は?】

 タテマエは一般向けだ。しかし、内容は高等数学紹介といったところ。普通科高校の数学の一歩先、ぐらいだろうか。そのためか、著者も「数学の全貌を伝える」のは諦めている。

専門的数学者でない者が、現代数学を深く立ち入って研究することは時間の浪費であることを認め、おおまかな展望で満足することにしよう…
  ――第1章 さまざまな観点

 まあ、それは読者も同じだろうけど。

 元々は1931年に出た本だ。そのためか、コンピュータ関係の記述はいささか怪しい。なにせ真空管の時代だし。だが、それ以外は、かなり歯ごたえがある。というか、私は多くの箇所を読み飛ばした。読みこなせるのは、大学で理系を専攻した人ぐらいだろう。これが数学の怖い所だ。

 さて、数学の正体そのものは、けっこうアッサリしている。

数学の本質は、公準と名づける明確に記述されたいくつかの仮定に基づく演繹的推論である。
  ――第12章 抽象と予測

 偉そうな言い方だが、「ルールを決めて、それに従ったらどうなるか見てみよう」、そういう事だ。このルールを公準と呼ぶ。

公準とは単に証明なしで認めることにした記述をいう。その有名な例はユークリッドの平行線公準(→Wikipedia)で…
  ――第2章 数学的真理

 その上で、たまに「ルールを変えたら面白いんじゃね?」とか「このルールは邪魔だよね」とか言いだす人もいる。

当面われわれにとって重要なことは、(N.I.)ロバチェフスキー(→Wikipedia)がユークリッドのゲームの規則を変更して、他のこれと同じくらい、面白いゲームを創案したという事である。
  ――第3章 束縛を破る

 ということで、非ユークリッド幾何学ができましたとさ。

 代数も自然数かた整数・有理数・実数・複素数と広がってきたけど、その先は…

有理数、実数、複素数と進んでくれば(略)なぜこのような一般化の方向をさらに押し進めないのか?(略)
このような特定の方向でこれ以上の一般化はできない…
  ――第4章 “同じであるが、同じでない”

 ということで、複素数までで終わりだそうです。ああ、良かった。

 はいいけど、普通の人は思うよね。「虚数って何よ?」私は「なんか知らんけど、そういうモノ」で誤魔化してるし、二次元の座標系で表すと、なんかわかったような気になる。こういうイメージは数学者にも必要らしい。

どの論理学者にせよ、またどの数学者にせよ、その意識の奥に何かモデルをもたずに、純粋に抽象的な推論によって多くのことを達成した人が、いまだかつていたかどうか疑わしい。
  ――第5章 抽象術

 でも四次元より多い次元のモデルを思い浮かべられる人って、いるんだろうか? いるんだろうなあ。まあいい。先の二次元の座標系ってのは、思ったより重要な発見らしい。

代数学と解析学――連続変化の数学――を、幾何学の伝統的語彙を用いて、“空間”のグラフ的言語に翻訳するという、きわめて稔り多い習慣が発展した。
  ――第7章 絵で考える

 おかげで幾何学と代数学・解析学が、互いに翻訳可能になったのだ。これが数学に与えた影響は…

…変換の一つの目的は、未解決の問題をすでに解決された問題か、でなければもとの問題よりも簡単で近づきやすい問題に帰着させることにある。
  ――第6章 大樹も一個の種子から

 互いのライブラリが利用可能になった…って、プログラマにしかわかりませんがな。そして幾何学からは、新しい数学が生まれたのだ。

トポロジーとは位相変換のもとで不変な空間の性質を研究する学問である。
  ――第8章 古い道標、新しい道標

 私もよく知らないけど、一筆書きとか球とドーナツとか。四色問題(→Wikipedia)もコレらしい。

 トポロジーはボンヤリと「何をやっているのか」が思い浮かぶんだが、見当もつかないものの一つが群論だった。

群論の広範囲に渡る威力は、それがみかけ上異なるものの、背後にひそんでいる同一性をさらけだすという点にある。
  ――第9章 群

 本書が説明している群は有限かつ周期性のあるモノで、曜日やルービック・キューブがソレだね。でも無限のモノもあるそうだから、わかった気になると後が怖い。

 さて、本書のテーマの一つは純粋数学=数学のための数学と、応用数学=何か応用目的がある数学の問題だ。意外と数学者も具体的な応用問題がある方が嬉しいらしく…

幾何学者たちがリーマン幾何学について論文をたくさん書くようになったのは、一般相対性理論(1916年)がこの幾何学を一般に普及してからにすぎない。
  ――第10章 “メトリカル”な宇宙

 なんて傾向も。数学にも流行りすたりがあるんだな。さて、本書の出版当時は数学の女王扱いされていたのが整数論。

ギリシア人が残した幾何学の問題のうち、現代人が解決できなかったものは一つもない。しかしギリシア人が残した整数論のあるいくつかの些細な問題――“完全数”など――となると、われわれはまだ解決できず当惑するのである。
  ――第11章 数学の女王

整数論は、数学において残された最後の大きい未開の大陸である。
  ――第11章 数学の女王

 と、純粋数学の女王に君臨していた整数論だけど、コンピュータの普及により今は暗号やビットコインで最もホットな領域になってるなあ。

 対して昔から物理学や工学の奴隷としてコキ使われていたのが代数学・解析学。力学の本を開けば数式が続々と出てくるし。

解析学(略)には、連続変化量(略)に関することがらはすべて含まれる。
  ――第12章 抽象と予測

 というのも、モノの運動や変化に関する事柄は、やっぱり数式が最も表しやすいからだ。

数理物理学の重要な方程式は、そのほとんどすべてが変化率のあいだの関係を表現したものである。
  ――第14章 二種類の絵

 中でも重要なのが微分方程式。

物理科学の重要な“法則”全体の99%までは、微分方程式、またはその系に含まれている。
  ――第14章 二種類の絵

 銃弾・砲弾の弾道計算とかね。そんな微分方程式の代表がニュートンの運動方程式。その元をたどれば天体の運動が楕円で云々にたどり着く。楕円の解析は数学の歴史でも重要らしい。

楕円がわれわれに教えてくれることがらに比べれば、円がわれわれに教えるものは何もないのと同様である。
  ――第13章 キュジコスから海王星まで

 この章で最初に登場するのがアレキサンダー大王の教師を務めたメイナイクモス(→Wikipedia)で、紀元前380年の生まれ。うーむ、私の数学能力は紀元前より劣っているのか。

 さて先に出た微分だが、この逆が積分。これは数学者でも扱いが難しいらしい。

優秀な解析学者でも解けないかもしれないような微分法(微分学)の難問は、解析学の非常に熟達した専門家でないと作れないといってよい。しかし積分法(積分学)の問題なら、2,3時間積分を勉強して記号の意味を理解した程度の初学者でも、現在の数学者はもちろんのこと、今後数世紀にも解けないような難問をつくることができる。
  ――第15章 応用数学の主な手段<

 いわゆる∫で表すアレね。これがよく出てくるのが…

古典的な力学や物理学において登場するのは微分方程式(変化率が項に含まれる方程式)であるが、履歴現象を扱う理論においては積分項が方程式中に現れる。
  ――第16章 微積分学を越えて

 だそうです。よくわからんが、オウムアムア(→Wikipedia)がどこから来たのか、みたいな?

 オウムアムアは太陽系から出て行っちゃったけど、地球や火星は太陽の周囲を回ってる。つまり周期性がある。また、音も波で周期性がある。交流電流や電波も波だ。これらを数学者は波動として扱う。

数学者にとって“波動”とは、ある微分放映式の解として得られる関数が周期性を持つことを表す便宜上の用語にすぎない。
  ――第17章 波動と振動

 怪しげな世界じゃ“波動”に別の意味があるらしいけど、数学じゃそうなんです。で、コレを扱う際は、どうしても三角関数が出てくる。

正弦や余弦が現代の科学や工学において重要なのは、それらが周期関数だからである。
  ――第17章 波動と振動

 で、例えば音の場合、たいていの楽器は幾つかの倍音を含んでいる。

フーリエの定理によれば、ある条件のもとで周期曲線は単純な成分(正弦あるいは余弦)に分解される。言いかえれば周期曲線はこれらの成分を加え合わせることによって合成される。
  ――第17章 波動と振動

物理学の立場からフーリエの定理をみると次のようになる。「任意の周期的変化は調和振動(正弦曲線あるいは余弦曲線で表される振動)の和に分解される」
  ――第17章 波動と振動

 という事で、シンセサイザーは、複数の周期曲線を重ね合わせているワケですね。知らんけど。

 他にも統計力学なんて言葉は知ってたけど、ソレが何をするのかは見当もつかなかったが…

統計を力学に結びつけるという方法は、特に熱力学(熱に関する現象を研究する科学)において役立つ。
  ――第18章 選択と偶然

 きっとエンジンの設計とかじゃ重要なんだろうなあ。

 と、数学全体を見渡して、それぞれの分野から面白そうなトピックを拾い出し、「どんなことをやっているのか」「どんな風にコトを進めるのか」「ソレが何の役に立つのか」などを、一般向けに解説…というか紹介する本だ。とはいえ、数式はバリバリ出てくるし、説明文も数学の教科書っぽい。著者は「わかんなきゃ読み飛ばしていい」と冒頭の「読者へ」で宣言しているので、そういう読み方ができる人にお薦め。

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2026年6月 1日 (月)

キース・トムスン「海賊たちは黄金を目指す 日誌から見る海賊たちのリアルな生活、航海、そして戦闘」東京創元社 杉田七重訳

大航海時代も終わりに近い17世紀後半に、バッカニアと呼ばれる海賊たちがいた。カリブ海でスペインの植民地や商船を襲撃した、イングランド、フランス、オランダの海賊である。(略)本書は、ある海賊団に属していた七人の海賊のしたためていた日誌をもとに、彼らのリアルな生活、航海、戦闘の模様を冒険物語風に明らかにするノンフィクションである。
  ――訳者まえがき

【どんな本?】

 大航海時代も終わりに近い1680年。中米から南米を支配するスペインの船を、イングランド・フランス・オランダ等の無法者が一獲千金を狙い私掠船として襲っていた。いわゆるカリブの海賊である。

 場所はパナマ地峡のダリエン地峡(→Wikipedia)。先住民クナ族の王が、カリブのイングランド海賊に話を持ち掛ける。曰く、孫娘がスペイン人に攫われた。スペイン要塞を襲い孫娘を取り戻したい。要塞は南海(太平洋)沿いにある。力を貸してくれ。

 海賊には美味しい話だ。南海で暴れた海賊はフランシス・ドレイクぐらい。カリブと異なりスペインの守りは薄い。町を襲えば濡れ手に粟の荒稼ぎだ。しかし、問題もある。ダリエン地峡だ。

 ここは地形が複雑な密林で気候も厳しく、アナコンダやクロコダイルが潜む秘境だ。21世紀の今もなお、南北アメリカ大陸を縦断するアメリカン・ハイウェイはこの地域で途絶えている。当時の海賊に、この地峡を越えるのは不可能だ。

 だが、地元民の案内があるなら話は変わってくる。

 クナ族の王は、スペインと通じているのかもしれない。それでも、地峡を越えれば手つかずのブルーオーシャンだ。疑念を抱きつつも、海賊たちは王の誘いを受ける。ここから、荒くれどもの大冒険が始まった。

 海賊のなかには、几帳面に航海日誌を付けている者が複数いた。その何人かは、手記を著しベストセラーをモノにしている。ただし、当時の書物だけに、信頼性はアレだが。立場の危うい海賊だけに、自らの無法や悪事は誤魔化してるし。

 本書の著者キース・トムスンは、彼らの航海日誌を突き合わせ、また裁判記録なども漁り、海賊たちの冒険の足跡を辿るとともに、海賊たちの食事や雇用条件などの日常生活をも再現してゆく。

 「短くとも楽しい人生」をモットーに、「吊るされるために産まれた」とうそぶく荒くれたちの生き方を描き出す。少し変わった歴史本。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Born to be Hanged: The Epic Story of the Gentlemen Pirates Who Raided the South Seas, Rescued a Princess, and Stole a Fortune, Keith Thomson, 2022。日本語版は2023年7月28日初版。単行本ハードカバー縦一段組み本文約350頁に加え訳者まえがき5頁+「参考にした資料について」3頁。9ポイント44字×19行×350頁=約292,600字、400字詰め原稿用紙で約732枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ただ、単位がマイルやポンドなのが、ちとキツいかも。

【構成は?】

 物語風に進むので、素直に頭から読もう。

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  • 訳者まえがき
  • 第1部 黄金への渇望
  • 1 プリンセス
  • 2 黄金の剣士
  • 3 地峡
  • 4 ゴールデン・キャップ
  • 5 決死隊
  • 6 西半球で二番目に大きい都市
  • 7 根っからの海賊
  • 8 気楽なカヌーの旅
  • 9 漂流者たち
  • 10 奇襲
  • 11 ドラゴン
  • 12 運任せの勝負
  • 13 甲板を流れる奔流のような血潮
  • 14 叛乱
  • 第2部 南海
  • 15 我らが銃の銃口
  • 16 海に呑み込まれる
  • 17 高潔であっぱれな勇者
  • 18 ヘビの髪を持つ姉妹
  • 19 浮かれ野郎ども
  • 20 水、水
  • 21 代償金
  • 22 85人の屈強な仲間たち
  • 23 ロビンソン・クルーソー
  • 24 非常に美しく堂々とした町、セント・マーク・オブ・アリカ
  • 25 うずき
  • 第3部 苦境
  • 26 射殺を覚悟する
  • 27 積み薪
  • 28 瀉血
  • 29 温められた甲板
  • 30 ホーン岬
  • 31 陸地初認
  • 32 銀のオール
  • 33 続編
  •  謝辞/参考にした資料について/図版クレジット/参考文献

【感想は?】

 とりあえず、本書の海賊は麦わらの一党のように綺麗な連中ではない。日本のヤクザの方がよほどマシだ。強盗はもちろん、強姦・殺人なんでもアリの無法者である。そこは覚悟しよう。もっとも、対するスペインも似たようなモンだが。

 それでも一応の大義名分は欲しかったらしい。彼らはバッカニア(→Wikipedia)を名乗っている。海賊にもイロイロあるのだ。

バッカニアたちは、(略)大義名分が欲しかった。でないと、いざ裁判になったとき、(略)古代ギリシャ時代から海でのさばり続ける Peirates(ラテン語で pirata)と同じだと見なされる。
  ――1 プリンセス

 連中の立場はスペインとイングランドの外交関係で変わる。この頃は緊張緩和に傾いており、イングランドじゃバッカニアの立場は弱かった。海賊王ヘンリー・モーガン(→Wikipedia)も、容赦なくバッカニアを取り締まってたし。なので、ソレナリの立場が必要だったのだ。

 こんな風に、無法者のわりに法的立場を考える記述は幾つかある。まあ現代のヤクザも法の抜け道に詳しいしね。

ふたつの船が出会って最初に手を出したのはどちらであるか、この言葉は海賊行為を働いたとして裁判にかけられたときに運命を決することになる。
  ――29 温められた甲板

 とまれ、この裁判もけっこういい加減で。

貿易船を予定どおり運行させるため、海事裁判所では驚くほどスピーディに事が進められる。(略)審理は、はじめから終わりまで一時間以内に終わることもざらだった、
  ――32 銀のオール

 まあ、そういう時代だったんです。

 とかもあって、本書のネタ元の手記も、自分に都合が悪い事柄は省いたり誤魔化したり。強姦を「奉仕に励んだ」とするとか。

 その航海日誌なんだが、実は数人が残している。だもんで、著者のキース・トムスンは、それらを突き合わせて整合性を取ったり、省かれた都合の悪い事柄を補ったりしてる。書き手の一人ウィリアム・ダンビア(→Wikipedia)は後に博物学者として名を上げる。

進化論の父は、(ウィリアム・ダンビアが著した)「最新世界周航機」を携えてビーグル号に乗ったのだ。
  ――33 続編

 なんでそんなインテリが海賊になったのか不思議だが、性分なんだろうなあ。

 さて奉仕活動(というか強姦)、これもバレたら大変で、先住民の掟じゃ…

「相手が処女だった場合、ペニスの導管にイバラのようなものを突っ込まれ、十回から十二回ほど回転させられる」
  ――4 ゴールデン・キャップ

 素蔵したら縮み上がってきた。

 そんなバッカニアたちがタムロしていたのがジャマイカのポート・ロイヤル。荒くれどもの巣窟に相応しく、なかなかの魔窟だ。

ポート・ロイヤルの建物の四軒に一軒が、酒を飲ませる店か娼館なのだ。
  ――7 根っからの海賊

 そのくせ、バッカニア同士の社会は意外と民主的なのが可笑しい。例えば、ボスは投票で決める。解任も……

バッカニアにとって叛乱は、(略)不信任案を投票で決するのである。
  ――14 叛乱

 と、血は流れない。解任されたホスも、次のボスが決まるまでは拘束されるが、決まれば元の仕事に戻るのだ。

(1681年)1月6日、投票によりシャープは(司令官を)退任となり、後継者の投票が終わるまで手かせをはめられて監禁された。
  ――23 ロビンソン・クルーソー

 また、船内の生活も意外と平等で。

スペイン船では通常、将校の船室に、マットレス、ベッドリネン、尿瓶が備わっている。(略)バッカニアたちは、みんないっしょにハンモックをつかって雑魚寝するのである。
  ――14 叛乱

 この辺のヤクザやマフィアとの違いは、バッカニアは組織が流動的でメンバーの離合集散が激しい点だろうか。ついでに、契約書があるのも違いだろう。さすが年季の入った契約社会。

お宝を頂戴したあと、まずは船医や大工といった技術職にその職能に見合った報酬を渡し、(略)労働災害への補償も定められていて、左腕を失った者は五百ピース・オブ・エイトか奴隷五人を…
  ――6 西半球で二番目に大きい都市

 と、労災への補償もちゃんとあるのだ。実は人材不足だったのか? それと技術職を大事にしてたのは、上層部が現場をよく知ってるから、なのかな。その上層部も投票で入れ変わったりするし。

 特に医師は貴重だったようで、敵に捕らえられても…

(捕虜になった)三人の外科医は間違いなく処罰されていない。スペイン人が彼らの医療技術を無駄にするわけはなく…
  ――25 うずき

 医師が貴重なのは時代も洋の東西も問わない、人類普遍の性質なのかも。つか医師の技術があるのに海賊船に乗るって人も、かなり珍しいんだろう。

 もっとも、当時の医療技術なんて推して知るべしで…

(外科医のいない)船では医者の仕事を船大工が肩代わりする(略)。医者の技術と道具は、大工のそれと重なる部分がある。少なくとも料理人より大工のほうが医者に近い。四肢の切断手術には、船体からフナクイムシにやられた部分を切り取るのにつかったのこぎりをそのまま流用する。
  ――27 積み薪

 その外科医の能力も、四肢の切断をいかに手早く済ませるか、で測られてた時代だし。本書にも脚を切断する場面があるんだが、ホラーが苦手な人には厳しい描写だろう。

 そんな医師でも貴重なのは、本書に出てくる契約書の条項に戦闘に関する事柄が多い点でもうかがえる。

バッカニアの船員雇用契約書は(略)補償を定めている。たとえばヘンリー・モーガンのそれでは、「いかなる戦闘でも、敵の要塞に真っ先に飛び込んでいくといった目覚ましい活躍を見せた人間には……50ピース・オブ・エイトを与える」と約束している。
  ――5 決死隊

 危険で、かつ重要な役割には、相応の見返りもあるし、ハッキリと明文化している。現代の軍でも勲章やポイント制の昇進とかがあるけど、ここまで即物的じゃないだろう。これも離合集散の激しく、短期契約が基本の社会だから、だろうか。

 そして事前準備に関する条項もある。

毎回の遠征でバッカニアたちが同意する船員雇用契約書(略)にはよく、このマスケット銃の扱いに関する規定が記されている。武器をつねにきれいに保ち、いつでも戦闘に臨む用意をととのえていないものは、捕獲物の取り分を失うとともに、船長や仲間が決める懲罰を受けることになる。
  ――3 地峡

 本書にはスペイン兵 vs バッカニアの銃撃戦の場面が多くあるが、銃の扱いはバッカニアの方が巧みだった模様。やはり実践で鍛えているからだろうか。ちなみに当時の銃は先込め式です。

 なお本書じゃ海上に加え陸上の戦いも多い。だってそもそもの目的がスペイン人の町を襲ってお宝を奪う事だし。ってんで、戦術的なネタも出てくる。

スペインの都市では、教会は基地にするのに最適だった。町の中心地にあって大量の捕虜を収容できるうえに、信心深いスペイン人は神の家を攻撃するのは抵抗があるからだ。
  ――22 85人の屈強な仲間たち

 今も昔も宗教施設は戦術的に大きな意味があるんですね。

 また、手榴弾もあった模様。とはいえ、爆薬の周囲に金属片などを固めた程度の手製のシロモノだったようだが。

手榴弾を投げる人間は、このうえない危険に身をさらすことになるため、モーガンがパナマを襲撃する際に作成した契約事項には、敵に手榴弾を一個投げた者には五ピース・オブ・エイトが支払われると定めてあった
  ――24 非常に美しく堂々とした町、セント・マーク・オブ・アリカ

 つまり手榴弾を使う状況とは、遮蔽物の陰から盛んに銃撃してくる敵に肉薄して投げる、そんな場面なんですね。もっとも、本書内の手榴弾は、みんな不発だったりするんだが。所詮は素人の手製だし。

 などと戦闘は危険な状況なワケで、中にはビビる奴もいる。その対策もあって…

海賊船のなかには、弾が飛び交いはじめたところで、乗員が持ち場を捨てて甲板下で怠けるのを防ぐため、かんぬきをかけるか、紐で縛るなどして、あらゆるハッチを大工が閉鎖するものもある。
  ――19 浮かれ野郎ども

 もちろん、海賊船と軍艦の戦いもある。この場合、最初は砲撃戦で始まる。当時の艦載砲は左右の両舷に沿って配置する。だから戦い方も、敵に対し、いかに側面を向けるかがキモだったりする。

巨大な大砲が設置されているのは各船舶の側面だけであり、船首にも船尾にもない。当時の海戦では、側面を航行する敵を片舷斉射で討ち取るというのが慣例で、あらゆる大砲は船の側面から一斉に発射されるのである。
  ――11 ドラゴン

 もっとも、効果があるのは砲弾そのものより…

当時の海戦では、発射体そのものより榴散弾の破片によって死傷することが多かった
  ――12 運任せの勝負

 「榴散弾の破片」とあるが、Wikipediaによると榴散弾の開発は1784年とあるんで、ぶどう弾か、または砲弾の着弾の衝撃で飛び散った木片などの事を言ってる気がする。

 困ったことに、当時の銃や砲の火薬は黒色火薬で、これは火がつくと爆発する。だもんで、火薬庫に火がつくと大変で。

海戦において、火薬の爆発事故による死傷者数は全死傷者数の1/4を占める。
  ――13 甲板を流れる奔流のような血潮

 なお現代の無煙火薬も燃えるけど爆発はしないそうです。この火がつくってのは戦闘に限らないのが怖い。例えば雷。

電流が船のマスト群へ引きよせられ――そこが海で、一番高い場所となる――貯蔵している火薬を爆発させるのである。
  ――17 高潔であっぱれな勇者

 おまけに当時はGPSはもちろん経度を知る手段もなきゃロクな海図もないし、緯度だって天測で調べるんで晴れてないとわかんない。そんな環境で一攫千金を狙う連中なんで、皆さん人生アドリブでやってる感が強い。そういう奴だからこそ海賊になるんだろうけど。

 そんな連中だからか、衛生概念もお察しで。

海の男たちが身体を洗うのは数か月に一度がいいところ(略)船内には、腐った木材や帆布、乾いた小便やカビの生えた嘔吐物、ニワトリやブタやそのほかの家畜(ペット、あるいは将来の食材となる)、船底でポチャポチャと音を立てる汚水の中で腐敗している有機堆積物など、悪臭の源はいくらでもあった。
  ――16 海に呑み込まれる

 現代の軍でも潜水艦はキツいようだが、これほどじゃないと思う。よく病気にならなかったな? いや、ちゃんと?病人も出ました。

壊血病に侵された乗員たちは甲板下の睡眠室で回復を待つしかなかった。そこはゴキブリが這いまわる不潔極まりない場所であるうえに、木造船の宿命といえる水もれもある。(略)何日ものあいだ衣類は濡れたままで、寒くなっても暖を取る手段はなく、下甲板の悪臭を放つ闇のなかにぶら下がる濡れたハンモックに、溺死した――あるいはまだ生きている――ネズミといっしょに寝ているしかないのである。
  ――22 85人の屈強な仲間たち

 もちろん、壊血病の原因や治療法は知られていない時代です、はい。医師も役に立ってないじゃん。そんな船上生活の描写も、本書の嬉しいところ。例えば…

海賊船はとりわけ転覆しやすい。船荷は空っぽで、高いマストで何トンという重量の帆布がはためいているというのは、極度な頭でっかちと同じだからだ。
  ――16 海に呑み込まれる

 これは海賊船に限らず、船倉が空の帆船の全般に言える事なんだろう。そんな船は保守・管理も大事で。

船体に付着した海草はまさにジャングルといってよく、(略)3ノットほども減速する。
  ――18 ヘビの髪を持つ姉妹

 これは現代の船乗りたちも相変わらず悩んでる問題だよね。あとフジツボとか。それに帆船ならではの苦労もあって。

帆布は雨のなかでおろすことはできない。濡れたまま保管すると腐りやすいからだ。
  ――18 ヘビの髪を持つ姉妹

 帆布の素材は麻かと思ったけど、Wikipediaを見ると綿みたいだ。

 本書には長い航海で飢えや渇きに苦しむ場面が幾つかある。飢えたなら魚を釣ればいいいじゃん、と思ったら、やっぱり釣ってた。

1日で30リーグという快速で海を進み、120ポンドのビンナガマグロが獲れるなど釣果も上々で…
  ――31 陸地初認

 西洋人も魚を食べるのだ。薪は貴重だから、マリネかな? 水の補給も…

雨が降った(略)「パンプキン(船体から張り出した棒に張った帆)に飲料水が集まった」
  ――31 陸地初認

 と、雨水で補給する工夫があるのだ。そりゃそうだよね。

 モノに加え情報の補給も海賊の命綱。だから…

海賊は、捕虜にした人間すべてにかたっぱしから質問をぶつけるのが習いだった。生まれ故郷のこと、都心のこと、地方のこと。その結果、各地の製造業、資産、防衛施設、軍事力、弱点といった情報が、いかなる諜報組織がまとめる調書にもひけを取らないほど充実する。
  ――8 気楽なカヌーの旅

 そんな話をしてるうちに仲良くなる捕虜もいたり。

 捕虜ばかりでなく、奴隷にする場合もある。たいていは先住民なんだけど。これも油断大敵で…

夜のあいだは「つねに見張りをふたりたてることにした。でないと奴隷にいつ寝首を掻かれるかわからないからだ」
  ――26 射殺を覚悟する

 まあ当然だよね。この奴隷が後の裁判で重要な証言をする場合もあったり。

 かと思えば、商人とは異なった関係を築いてたりする。例えばスペインの要塞を襲いお宝を奪った後、スペイン商人が訪ねてくる場面がある。

彼ら(スペイン人商人)の目的は、(略)バッカニアがペリコ島から略奪してきた品を買い取ることだった。
  ――15 我らが銃の銃口

 海賊がうじゃうじゃいる海域に出張る商人だけあって、根性が座っているというか商魂たくましいというか。

 そんな海賊の目印といえば旗なんだが、当然ながら偽装もする。

身元を隠すために、バッカニアはしばしば自分たちの船にブルゴーニュの十字架を染めた旗を掲げて、敵の目を欺くことがあった。
  ――20 水、水

 なお「ブルゴーニュの十字架」はスペインの印です。旗に関しては他にも…

リングローズが休戦の白旗を持って…
  ――21 代償金

 と、「戦意の無い印」と認識されていた模様。Wikipediaを見ると「西暦25-205年の中国」「西暦69年の第二次クレモナの戦い」なんて例もあって、これまた人類共通の感覚なのかも。

 逆に海賊同士の戦い…というか喧嘩の描写も少しだけある。つまりは決闘だ。これもマナーが決まってて。

おそらく「剣かピストル」を持って決闘者ふたりは背中合わせに立ち、立会人の声でふりかえって攻撃する。それでもまだふたりとも立っていたなら、次はカトラスをつかって引き続き戦い、最初に相手に血を流させた方が勝者となる。
  ――30 ホーン岬

 ちなみに本書じゃ戦った両者ともに次の日にはアッサリと生きてるんで、別に必ずしも命がけってワケじゃないようだ。

 と、そんな無法者たちが、一攫千金を狙いながらもいきあたりばったり出たとこ勝負の破天荒な生き方を、冒険物語風に生々しく描いたのが本書だ。カリブの海賊に興味がある人はもちろん、当時の船上生活が知りたい人にもお薦め。

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2026年5月25日 (月)

岩宮眞一郎「音と音楽の科学」技術評論社

本書は音と音楽を科学的に考察するための入門書です。音および音楽を人間が理解する過程について体系的に解説し、音と音楽に関するテクノロジーや文化について論じています。
  ――はじめに

【どんな本?】

 音とは何か。ヒトがどうやって音を聴き、そこから情報を得るのか。私たちが親しんでいる音楽には、どんな構造があるのか。コンサート・ホールには、どんな性質が求められるのか。オーディオ機器が音を再現する原理は? 世の中にはどんな楽器があるのか。 映画やドラマで音楽や効果音が果たす役割は?

 音と音楽にまつわる話題を、物理学的な基礎から音楽そしてJIS規格に至るまで、あらゆる側面から総合的に説明する、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年3月17日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約340頁。9ポイント32字×29行×340頁=約315,520字、400字詰め原稿用紙で約789枚…なのだが、グラフやイラストを多く収録し、またレイアウト上の工夫のあるので、実際の文字数は7割ほどだろう。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。ただし、冒頭から数式も容赦なく出てくる。それも微分や指数を含む高度なもの。いや私は数式を読み飛ばしたけど。それを除けば、内容は特に難しくない。完全な理解を求めるならともかく、「だいたいのところがわかればいいや」な態度なら、高校生でも楽しく読めるだろう。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているが、第1章と第2章は基礎となる部分なので、最初に読もう。もっとも、その第1章が数式まみれなのが辛い所だけど。繰り返すが私は数式を読み飛ばした。てへ。

クリックで詳細表示
  • はじめに
  • 第1章 音と聴覚のしくみ
  • 1.1 音を聴いて音楽を味わうまで
  • 1.2 物理的には音は空気の疎密波である
  • 1.3 音を運ぶ媒質
  • 1.4 純音(正弦波)は楽器の音や人間の声の最小要素
  • 1.5 純音は三角関数を使って表現できる
  • 1.6 波長は一つの波が伝わる距離
  • 1.7 周期的複合音は倍音が組み合わさってできる音
  • 1.8 弦楽器の弦の振動から倍音が出るしくみ
  • 1.9 管楽器の管の共鳴で倍音が出るしくみ
  • 1.10 スペクトルは各周波数成分のパワーを表す
  • 1.11 ノイズは連続スペクトルで表現される
  • 1.12 広帯域ノイズと狭帯域ノイズ
  • 1.13 うなり;周波数がわずかにずれた2つの純音はうなる
  • 1.14 聴覚のしくみ:空気の振動を電気信号に変えて脳に伝える
  • 1.15 音はまず耳に入ってくる
  • 1.16 音を効率よく伝える鼓膜と耳小骨のコンビネーション
  • 1.17 基底膜の進行波が周波数の情報を伝える
  • 1.18 蝸牛の有毛細胞が神経インパルスを脳に伝える
  • 1.19 神経インパルスが発火する様子
  • 1.20 聴覚フィルタが周波数分析をしてくれる
  • 1.21 難聴は音楽を聴きすぎても生じる
  • 1.22 高齢社会で注目される老化に伴う聴力低下
  • 1.23 補聴器と人口内耳が聴覚の衰えを補ってくれる
  • 第2章 音の物理と心理
  • 2.1 音の大きさとデシベル
  • 2.2 デシベルのメリット
  • 2.3 等ラウドネス曲線は聴覚の感度の周波数依存性を表す
  • 2.4 騒音レベルは聴覚補正特性で補正した音圧レベル
  • 2.5 男と女のラウドネス(ラブソングではなく?)
  • 2.6 ラウドネスは音の大きさの比率関係を示す
  • 2.7 マスキングとは妨害して聞こえなくすること
  • 2.8 音の高さ(ピッチ)の2面性:トーン・ハイトとトーン・クロマ
  • 2.9 周期的複合音のピッチは、基本音がなくても基本音のピッチ
  • 2.10 絶対音感者は、周りの音をドレミで認識する
  • 2.11 ピッチが上昇(下降)し続ける無限音階
  • 2.12 音色は複雑な性質
  • 2.13 音色の印象的側面は3次元
  • 2.14 音色の識別的側面は聞き分ける力
  • 2.15 ものまね名人は「らしさ」解析の達人
  • 2.16 音色とスペクトルの対応関係
  • 2.17 パワー・スペクトルの重心が音の鋭さ(明るさ、固さ)に影響する
  • 2.18 ホルマントが母音の識別の手がかりになる
  • 2.19 音の立ち上がり、減衰部が音色の違いに及ぼす影響
  • 2.20 位相スペクトル(倍音間の位相差)が音色に及ぼす影響
  • 2.21 ビブラートは音色を豊かにする
  • 2.22 楽器音の偶発的なノイズや変動が楽器音の「らしさ」を作る
  • 2.23 擬音語は都の感性を伝える言葉
  • 第3章 音楽のしくみ
  • 3.1 メロディはピッチの変化の理解に基づく
  • 3.2 音階のしくみ;音の連なりが調性感をつくる
  • 3.3 音名は階名の周波数を決める
  • 3.4 ペンタトニック・スケール:世界に広がる5音音階
  • 3.5 12音技法:調性感を否定した音階
  • 3.6 音律は、音階の構成音の周波数を定める
  • 3.7 完全5度の美しい響きを基本にしたピタゴラス音律
  • 3.8 単純な整数比にこだわり、3度の音程も美しく響かせるようにした純正律
  • 3.9 平方根の導入で転調に耐えうるようにしたミーン・トーン、ウェル・テンペラメント
  • 3.10 単純な整数比の理想は捨てたが自由な転調を可能にした平均律
  • 3.11 メロディのゲシュタルト:メロディを感じる枠組み
  • 3.12 まとまり(ゲシュタルト)を形成するピッチのパターン
  • 3.13 音脈分凝:メロディが分離して聞こえるしくみ
  • 3.14 存在しない音が聞こえる
  • 3.15 ハーモニーの科学:協和を感じるしくみ
  • 3.16 協和感を決めるのは音と音の干渉
  • 3.17 倍音の干渉が協和音と不協和音を決める
  • 3.18 手陰部では完全5度でも協和しない
  • 3.19 協和と不協和の絶妙なバランスが名曲をつくる
  • 3.20 リズムは音列のまとまり、テンポは音列の速さ
  • 3.21 リズムとテンポのしくみと表現
  • 3.22 リズムの心理学:時間間隔がリズムになる
  • 3.23 ちょうといい加減のテンポ
  • 3.24 リズムのゲシュタルト:リズムを感じるしくみ
  • 3.25 リズムのゆらぎ:グルーブ感を出すために
  • 第4章 音の空間性
  • 4.1 耳が二つある生態学的理由:眼鏡をかけるためではない
  • 4.2 水平面の音の定位:音の方向は両耳間の差から聞き分ける
  • 4.3 時間差の影響:左右の耳への到達時間差が音像定位に影響する
  • 4.4 位相差の影響:波の進みあるいは遅れが音像定位に影響する
  • 4.5 強度差の影響:音の大きい側に引きつけられる
  • 4.6 正中面の音の定位
  • 4.7 方向感覚の弁別限は音源の方向に依存する
  • 4.8 音の定位に及ぼす視覚の影響
  • 4.9 腹話術効果
  • 4.10 音の距離感:大きな音は近くに聞こえるけれど
  • 4.11 両耳聴取が音の空間性を感じさせる
  • 4.12 コンサート・ホールに求められるもの
  • 4.13 直接音,反射音,残響:適度なバランスが演奏音を豊かにする
  • 4.14 音楽の邪魔をする反射音
  • 4.15 残響時間:コンサート・ホールの特徴を表すモノサシ
  • 4.16 ホールに広がり感をもたらす横からの反射音
  • 4.17 遮音と吸音:音を遮断することと音を吸い込むこと
  • 4.18 コンサート・ホールの誕生と発展
  • 4.19 コンサート・ホールの形状
  • 第5章 オーディオ機器の歴史と原理
  • 5.1 レコード:音を記録・再生する初のメディア
  • 5.2 録音テープ:磁石の性質を使って音を録音・再生する
  • 5.3 放送メディアは世界的ヒット曲を生み出した
  • 5.4 オーディオ機器:さまざまな音楽メディアを再生する装置
  • 5.5 アンプ:スピーカを鳴らすパワーを供給する
  • 5.6 スピーカ:電気信号を音に変換する
  • 5.7 ヘッドホンとイヤホン:自分だけで音楽を楽しむ機器
  • 5.8 オーディオ機器の音響特性
  • 5.9 音楽メディアに革命をもたらしたデジタル技術
  • 5.10 CDによってデジタル・オーディオの時代が訪れた
  • 5.11 デジタル化することの利点
  • 5.12 1ビット量子化方式(デジタルシグマ変調方式)
  • 5.13 圧縮技術と音楽メディア:音楽を持ち歩く生活
  • 5.14 携帯型プレーヤはさらに進化を遂げた
  • 5.15 高臨場感を実現する音楽メディア
  • 5.16 忠実な3次元再生を目指すバイノーラル方式,トランスオーラル方式
  • 第6章 楽器の分類とそのしくみ
  • 6.1 各種の楽器と音が出るしくみ:楽器の分類とその系統
  • 6.2 楽器がカバーする音域と音量
  • 6.3 打楽器:叩いて音を出す楽器
  • 6.4 木管楽器のなかま:吹いて音を出す楽器のいろいろ
  • 6.5 管の共鳴でメロディを奏でるエア・リード楽器
  • 6.6 リードの振動で音を発生させるリード楽器
  • 6.7 金管楽器のなかま:きらびやかなファンファーレの秘密
  • 6.8 弦楽器のなかま:弦の振動がメロディを奏でる
  • 6.9 撥弦楽器では弦を弾いて音を出す
  • 6.10 摩弦楽器では弦を擦って音を出す
  • 6.11 弦を叩いて演奏する打弦楽器
  • 6.12 鍵盤楽器のなかま:高度な音楽を奏でる工夫
  • 6.13 多彩な表現力を備えた鍵盤楽器の王者ピアノ
  • 6.14 オーケストラに匹敵する多彩な音色を備えたパイプ・オルガン
  • 6.15 歌:人の声も楽器である
  • 6.16 オーケストラに打ち勝つベルカント唱法の秘密
  • 第7章 電子楽器からDTMへ
  • 7.1 電気楽器の原理
  • 7.2 電子楽器:電気のチカラで音を作る
  • 7.3 ユニークな電子楽器
  • 7.4 デジタル技術が電子楽器にも恩恵をもたらした
  • 7.5 エフェクタ:音楽表現に彩りを添えるツール
  • 7.6 空間系エフェクタ:響きを人工的に作る
  • 7.7 モジュレーション系エフェクタ:ここちよい「ゆらぎ」を作る
  • 7.8 ひずみ系エフェクタ:わざとひずませてカッコいいサウンドを作る
  • 7.9 ひずみに美的価値を与えたエレキギターは反骨の楽器だった
  • 7.10 インサート系エフェクタ:過大入力を防ぐ
  • 7.11 イコライザ:スペクトルを変化させる
  • 7.12 MIDI:コンピュータとつながるインターフェース
  • 7.13 デスクトップ・ミュージック:コンピュータ1台で音楽制作
  • 7.14 ボーカロイド:ついに歌声もコンピュータで合成
  • 7.15 DAW(Digital Audio Workstation):一人でレコーディング
  • 7.16 音楽制作の質向上にはオーディオ・インターフェースは必須
  • 7.17 マイクロホン:ダイナミック型とコンデンサ型
  • 7.18 テクノロジイーの発展は音楽も変えた:現代音楽からメディア・アートへ
  • 第8章 映像メディアにおける音の役割
  • 8.1 映像エディアに活かす音のチカラ
  • 8.2 映像作品に世界では音も演出されている
  • 8.3 演出効果のある環境音
  • 8.4 しずけさの音:無音のテクニック
  • 8.5 リアリティを演出する効果音
  • 8.6 チャンネルはそのまま:テレビで多用される効果音
  • 8.7 ナマオトの効果:本物の音よりも本物らしい音
  • 8.8 笑いの神を降臨させる音:音で笑わされている
  • 8.9 音と映像の同期の効果:シンクロのチカラ
  • 8.10 音楽のムードの利用:寄り添う、ずらす
  • 8.11 音と映像の対位法
  • 8.12 定番曲で状況を伝える
  • 8.13 テーマ曲の利用
  • 8.14 ヴァルキューレのライトモチーフ
  • 8.15 映像の世界で鳴っている音楽
  • 8.16 音楽をテーマにしたドラマ
  • 第9章 サウンドスケープ
  • 9.1 サウンドスケープの意味するところ
  • 9.2 サウンドスケープは環境、社会、文化と関わる
  • 9.3 サウンドスケープは人間が意味づけ、構成した音環境
  • 9.4 音響生態学はサウンドスケープの学問分野
  • 9.5 マリー・シェーファーの提唱する音の分類法
  • 9.6 歳時記に詠まれた四季折々の日本の音風景
  • 9.7 おもてなし精神が生んだ日本の音分化
  • 9.8 紀行文に残された明治の音風景
  • 9.9 音の環境教育
  • 9.10 シェーファーのめざすサウンドスケープ・デザイン
  • 9.11 音名所、残したい音風景:地域の音文化の掘り起こし
  • 9.12 音楽と環境:「楽音」対「騒音」の二項対立の解消
  • 第10章 音のデザイン
  • 10.1 音のデザインは芸術と工学のあいだにある
  • 10.2 デザインのいろいろ:音のデザインのいろいろ
  • 10.3 製品に快音化の時代が到来した
  • 10.4 音が魅力のモノづくり
  • 10.5 サイン音のあり方を探る
  • 10.6 音楽的表現を用いたサイン音
  • 10.7 音のユニバーサル・デザイン
  • 10.8 音環境デザイン
  • 10.9 音楽における音のデザイン的側面
  • 10.10 失われたリアリティを再現する音のデザイン
  • 参考文献/索引

【感想は?】

 音と音楽を総合的に語る本だ。それだけに、話題は多方面に渡る。特に後半では、章ごとに内容が全く違う。という事で、ここでは章ごとに記事を書いていこう。

●第1章 音と聴覚のしくみ

老化による聴力低下の特徴は、高い周波数の音が著しく聞こえにくくなっている
  ――第1章 音と聴覚のしくみ

 「音」を物理学的に解説し楽器が音を出す原理を説明すると共に、ヒトが耳で音を聴き脳で解釈するまでの医学的な仕組みを解説する章。倍音構成や閉管と開管の違いなど、かなり突っ込んだ話も出てくる。

●第2章 音の物理と心理

母音「i」が用いられる「キー」などの擬音語表現で表される音は、一般に「明るい」「鋭い」といった印象が持たれます。「i」の音は、日本語の5母音の中でスペクトルの重心(あるいはシャープネス)が最も高い音で…(略)
逆に、「鈍い」「暗い」といった印象を喚起し、低い周波数帯域に主要なエネルギーを有する音には、(略)スペクトル重心が最も低い母音「o」が擬音語に用いられます。
  ――第2章 音の物理と心理

 ヒトが音をどう感じるか、どんな音がどんな印象を与えるかなどを、音の大きさ・周波数分布・音量の変化具合などを用い、物理的・数学的に説明してゆく。数式に加え、デシベル・スペクトル・ホルマントなどの専門用語も容赦なく出てくる。数式はともかく、専門用語は後の章のために理解しておいた方がいい。

●第3章 音楽のしくみ

演奏者は、楽譜そのものではなく、楽譜から解釈された音楽イメージを演奏するのです。
  ――第3章 音楽のしくみ

 音階・和音・メロディからリズムそしてグルーブ感まで、音楽の理論を駆け足で語ってゆく。話題としては西洋音楽が中心ながら、世界中の民謡で床われるペンタトニック・スケールも少し触れている。ビートルズのエリナー・リグビーから感じる不思議さの秘密が分かったのが私には嬉しかった。

●第4章 音の空間性

(左右に)少しでも時間差があると音像は早く提示された側に定位します。
  ――第4章 音の空間性

 ひとつの音から、ヒトは多くの情報を得る。音源の方向、音源までの距離、周辺の環境など。なぜ・どうやって・それらを聞き分けるのか、といったヒトの聴覚の仕組みから、それを応用したコンサート・ホールや映画館の音響設計までを、総合的に解説してゆく。左右の定位は音の大きさだけで決まると思っていたが、時間差も関係あるとは知らなかった。

●第5章 オーディオ機器の歴史と原理

1ビット量子化方式では、(略)信号が0か1のみで量子化します。ただし、非常に高速なサンプリング周波数で(略)標準的なスーパー・オーディオCDという方式では、サンプリング周波数は2.8224MHz(2,822,400Hz)となっています。
  ――第5章 オーディオ機器の歴史と原理

 エジソンの蓄音機からオーディオ機器を経て最近のバイノーラル録音まで、録音・再生技術の歴史と原理を駆け足で解説する。「デジタルになればオーディオ機器の優劣が関係するのはスピーカーぐらいだろう」と思っていたが、実はデジタルをアナログに変換する所でも工夫が必要なのだった。

●第6章 楽器の分類とそのしくみ

ザックス=ホルンボルテス分類法(略)によると、楽器は、体鳴楽器,膜鳴楽器,弦鳴楽器,気鳴楽器,電鳴楽器に分類されます。
  ――第6章 楽器の分類とそのしくみ

 この引用で分かるように、「音を出す仕組み」に注目すると、鍵盤楽器は存在しない。また、多くの楽器では、「いかに音を反響させて大きくするか」がキモなのだ、とわかる。私はギターが好きなのだが、バイオリンと異なり交響楽の主役になれないのは、やはり音の大きさ故なんだろう。にしてもパイプオルガンの音程の広さと音量の大きさは、つくづくチートだ。まあ、あれは楽器というより建物だし。

●第7章 電子楽器からDTMへ

シアトルで開催された国際音響学会(1998年)では、ジミ・ヘンドリクスを偲んで「ひずみ」特別セッションが行われました。
  ――第7章 電子楽器からDTMへ

 エレキギター,シンセサイザ,エフェクタ,MIDI,DTMからマイクロホンまで、電気楽器・電子楽器そのものはもちろん、電気楽器だから・電子楽器だからこそ可能な表現や、それが切り拓いた音楽の可能性を語る。最近のロックのギターはメタルじゃなくてもひずみ系エフェクタ大流行りだよなあ。

●第8章 映像メディアにおける音の役割

骨を折る音も、(略)べニア板,割り箸などを薄めの布で巻いて折った音が使われています。セロリをねじるという技もあります。
  ――第8章 映像メディアにおける音の役割

 映画やドラマの音楽から効果音まで、映像メディアで音をどう使い、どんな効果を狙っているかを、豊富なサンプルを挙げながら基本的な技術から常識を逆手に取った手法まで紹介してゆく。視聴者の慣れを利用し、敢えて無音にするなどの演出も興味深いが、私は効果音の作り方が楽しかった。

●第9章 サウンドスケープ

(ジョン・ケージの)『4分33秒』では、すべての環境音が聴取の対象となります。
  ――第9章 サウンドスケープ<

 マリー・シェーファー(→Wikipedia)が提唱したサウンドスケープの概念を中心に、私たちが日頃から聴いている(がたいていは意識していない)身の回りの音を紹介する。そういえば、私の住む地域を象徴する音って、何だろう?

●第10章 音のデザイン

家電製品のサイン音に対しては、日本工業規格「高齢者・障碍者配慮設計指針 消費生活製品の報知音」(JIS S 0013)として(略)設計指針では、サイン音を操作確認音,終了音,注意音に分類し、それぞれにふさわしい音が定められています。この規格では、高齢者の聴覚特性にも配慮して「報知音の周波数は2.5kHzを超えないことが望ましい」との条項を盛り込んでいます。
  ――第10章 音のデザイン<

 ポスターや工業製品にデザインがなるなら、音だってデザインがある筈だ、そういう主張の章。スマートフォンやデジタルカメラは、ワザとシャッター音を出している。最近の自動車はカーナビが喋る。そういやパソコンも起動時にピコッと鳴るなあ。これらの音も、実はデザインされているのだ。ジミ・ヘンドリクスやエディ・ヴァンヘイレンが代表すように、エレキギターを弾く人は、自分の音をデザインしてきたんだよね。

 一冊の本で音と音楽のすべてを説明しよう、などどいう欲張ったテーマの本だ。それだけに話題の幅は広い反面、全体的に駆け足の感が強く、中身も異様に濃い。入門書というより、音の世界を紹介する本が近いと思う。それに相応しく、巻末の参考文献も充実しているし。ということで、音と音楽に興味がある人にお薦め。

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2026年5月18日 (月)

SFマガジン2026年6月号

 ――新時代の黎明を見て、幾度でも問い直されるべきは平凡な市民が幸福になれない未来の、何が素晴らしいのかということだ。
  ――長谷敏司「市民の歴史」

「軍人が文官に殺される国家は、軍人が文官を殺す国家より良いからだ」
  ――柴田勝家「朱子天外伝」

 376頁の標準サイズ。

 特集は吟鳥子監修で「SF少女マンガ特集2」でマンガが3本+1本に加え、清水玲子のインタビューや「1980~2020年代のSF少女マンガ家ガイド」など。表紙からして「輝夜姫」の晶の麗しくも凛々しく仁義きってる姿だし。

 小説は6本。特集で1本、連載が4本、読み切りが2本。加えてマンガ4本、、連載の横山えいじ「おまかせレスキュー」。

 SF少女マンガ特集2のマンガ3本+1本は坂井恵理「#私が産みました」,Ququ「如意」,河野スイ「ホルプ家のとある日常」に加え、吟鳥子による特集解説コミック「少女漫画はずっとSFしている」。

 連載小説は4本。冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第65回に加え新連載3本は長谷敏司「市民の歴史」,藤井太洋「宇宙島年代記」,柴田勝家「朱子天外伝」。

 読み切りは2本。暴力と破滅の運び手「まるはだかの地球誌」,阿缺「雲鯨記」阿井幸作訳。

 SF少女マンガ特集2。

 吟鳥子「少女漫画はずっとSFしている」は、本特集が採用されるまでの経緯を描いた作品。いわゆる「花の24年組」の後も優れたSF少女マンガが続々と出ているんだぞ、という熱意がひしひしと伝わってくる11頁。

 坂井恵理「#私が産みました」。赤ん坊の育児でボロボロになった母親に薦められたネックレス状のアイテム、ネコタグ。その機能は…

 生まれたばかりの赤ん坊は、食事や睡眠のサイクルも短くかつ不安定で、一人で育児を賄うのは相当に厳しい。そういや「もうダメかも 死ぬ確率の統計学」でも、幼児期の異常なまでの死亡率の赤さが数字で出ていた。オチも素晴らしい。私も欲しい。

 Ququ「如意」。人気アイドルのMIAと、かつて少しだけ付き合っていた青年は、街角でテック企業に勤めているという技術者に声をかけられる。その話というのは…

 出だしから、背景に独特の味がある。輪郭はシャープながらも柔らかみのある線で描かれる、近未来の渋谷を感じさせる街の風景が、明るく華やかながらもよそよそしい都会の夜の空気を巧く醸し出している。

 河野スイ「ホルプ家のとある日常」。荒れ果て草木が生い茂る庭に置かれた棺桶。そこから出てきた娘は、短剣を持っている。石造りの城のような建物に入り、螺旋階段を昇ると…

 他の三作は、少女マンガというより青年誌やレディース・コミックが似合いそうな絵柄なのに対し、本作は私が想像する少女マンガの絵柄に近い繊細な感じ。大胆なコマ割りも、少女マンガの特徴だと思う。

 宇垣美里インタビュー「サバイブするための少女マンガとSF」。「最近は少女マンガと少年マンガという分類自体があいまいになってきていますよね」。それ言ったら三日三晩の討論が始まってしまうぞw 「きらら」系は少女マンガなのか、とかw 「瑠璃の宝石」なんてセンス・オブ・ワンダーてんこ盛りだし。SFじゃないけど。あと竹本泉や須藤真澄も分類は難しい。

 連載小説。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第65回。ノーマ・オクトーバーは、弱毒化したウイルスを授けようとハンターに提案する。ハンターはしばらく意識を失い、<クインテット>の仲間からも切り離されるだろう。ノーマの目論見を見抜けぬまま、ハンターは処置を受ける。イースターズ・オフィスに身柄を拘束されたホスピタルは、尋問に素直に応じるが…

 戦闘の終盤でシザースの恐るべき能力と、カギを握る人物であるホスピタルの暗躍と目的が明らかになった前回に続き、今回もクインテット・オフィス共に大変な危機へと投げ込まれる。シザースの複雑怪奇な内情と、それに抗うハンターとバロットそしてバジルの奮闘も読みどころ。

 長谷敏司「市民の歴史」。2029年。AI研究者の竜宮千里は壮大な意図を持って米国から日本に戻る。テーマの一つは脳の構造をAIで推測する研究で、脳神経学者の小鍛治陽子との共同研究だ。研究にはカネが要る。特にAI研究は、いかに多くのGPUを確保するかが鍵だ。そのためには実績が必要で…

 2026年現在、既にGPUとメモリがAIの研究/開発で爆買いされ品不足になっていて、カネのある者の勝ち、みたいな感があって、それを巧く描いていると思う。歴史的に、これに似た状況は、鉄鋼と鉄道だろうか。AIが最も進出しにくい分野は政治だと思っていたが、そこも政局の変動を折り込むことで「そうきったか~」と唸ってしまった。

 藤井太洋「宇宙島年代記」。2326年。16歳の宇登神瑞乃は<コクナン島>に転校する。先行ラグランジュ点にある円筒形をしたオニール型のコロニーだ。島民の多くはMODと呼ばれる人体改造措置を受けている。慣れない人口重力などに戸惑いながら転校の挨拶を済ます。思ったよりクラスメイトは親切に受け入れてくれたが…

 遠心力による疑似重力のクセや宇宙空間における距離感・速度感などの科学的な背景から、コロニーがいかにして稼ぐかといった経済的な問題まで、藤井太洋らしい説得力に満ちた考証にはにたすた唸らされるばかり。クセは強いがシッカリした同級生たちにも好感が持てる。しかも、連載初回からさっそく騒動と冒険の予感が。

 柴田勝家「朱子天外伝」。金の侵略により宋は臨安府に都を移す。役人である父の朱松に連れられ、朱熹も臨安府へ移り住む。11歳の時、朱熹は町の商人の子らに袋叩きにされる。都は元から住む者と、遷都により移り住んできた者とがいがみあっていたのだ。運河では金との戦いに赴こうとする岳飛将軍とその息子の岳雲が、船で民衆の歓声を浴びている。

 舞台は南宋の曙時代。主人公の朱熹は朱子(→Wikipedia)、岳飛(→Wikipedia)も中国では人気の武将らしい。後に学者として名を成す朱熹が、幼いながらも理屈っぽいのが、いかにもな感じ。そして、彼の前に現れた量憶と名のる少年は、本作のカギを握っているようで…

 読み切り小説。

 暴力と破滅の運び手「まるはだかの地球誌」。劇場で働いていたおれは、異様な空間にいた。どこからか声が聞こえる。「あなたがたの宇宙は、評価が終われば恒久的なエネルギー源として利用されるでしょう」。何を言ってるのかわからんが、宇宙が滅びるっぽい。

 2024年10月号掲載の「あなたの部分の物語」路線のお話。調べたらディミトリス・パパイオアヌーは実在の振付家らしい。確かに何を考えてそんな振付にしたのかわからんw

 阿缺「雲鯨記」阿井幸作訳。恋人だった阿葉の遺骨を地球に持ち帰るため、僕は惑星ビーモンを訪れた。ここには雲鯨が住む。別の惑星カーの海に生まれ、星々を旅してビーモンの金色海に泳ぎ着く。金色海は重力を打ち消す物質F937を微量に含んでいる。雲鯨はF937を体内で濃縮し、空を飛ぶ。そして雲鯨の血を狙う密猟者もビーモンに集まり…

 2月号の「架空生物特集」の続き?に相応しい、奇妙でダイナミックな生物の雲鯨が魅力的な作品。いや捕鯨保護派の私としては、いささか複雑な気分なんだが。密漁の方法も、日本の捕鯨の特徴である母船を中心として複数種の船による船団方式だし。それはともかく、雲鯨に空を飛ばせる仕掛けは見事。

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2026年5月 7日 (木)

ノーマン・オーラー「ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存」白水社 須藤正美訳

ナチ党員は(略)厳格なドラッグ撲滅政策を展開した。だが、それにもかかわらず総統ヒトラーのもとで、抜群の効果をもち、きわめて依存性が強く、ことのほか人心を惑わすドラッグが大流行することになった。
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

ヒトラーは1941年秋からホルモンとステロイドの注射を受け、遅くとも1944年下半期以降はコカイン、さらにオイコダールが大量に使用された。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

オピオイド中毒は、もともと彼に備わっていた硬直した思考や決して自らの手を汚さない暴力行使の傾向を、セメントでさらに固めたに過ぎない。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

【どんな本?】

 晩年のヒトラーの記録を見ると、「頭おかしいんじゃね?」と感じる人は多い。この疑問に対し、「そうだよ、彼はヤクでラリってたんだ」と答えるのが本書である。

 どんなヤクか? 初期はビタミン剤やホルモン剤だったが、やがてペルビチン(メタンフェタミン,日本の俗称はヒロポン/シャブ)、コカイン、オイコダール(アヘン系鎮痛剤)などを連日注射していた。

 ヒトラーの主治医として彼に付き添った医師テオドール・モレル(→Wikipedia)の膨大かつ散逸したメモや処方箋を、著者は世界中を巡って調べ上げ、ヒトラーがヤクにハマってゆく様子を再現してゆく。

 と同時に、ドイツ陸海軍や親衛隊も熱心に向精神薬を研究・開発・利用していた由を暴き、当時の第三帝国が薬物まみれであった実態を描き出してゆく。

 小説家かつジャーナリストの著者が、丹念な調査と取材によって、第二次世界大戦に新しい角度から光を当てる、衝撃の歴史ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Der totale Rausch: Drogen im Dritten Reich, Norman Ohler, 2015。日本語版は2018年10月5日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約292頁に加え歴史家ハンス・モムゼンによる解説「ナチズムと政治的リアリティの喪失」2頁+訳者あとがき6頁。9.5ポイント45字×20行×292頁=約262,800字、400字詰め原稿用紙で約657枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。が、小説家らしくやや文学的な表現も多い。内容も特に難しくない。電撃戦やクスルク戦車戦などの重要な背景は、本書内で説明がある。とはいえ、大雑把な流れは掴んでいた方がいい。また、メタンフェタミンを初めとして聞きなれない薬物の名前が頻繁に出てくるのは覚悟しよう。

 メタンフェタミンは覚醒剤でペルビチン=ヒロポン/シャブ、オイコダールはアヘン系でモルヒネやヘロインの仲間、コカインはコカノキから作るアッパー系の向精神薬。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、品雄に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • 使用説明書 序文に代えて
  • 第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年
    ブレイキング・バッド 帝国首都のドラッグ工房/19世紀の序曲 原薬物/ドイツ、薬物の国/化学の20年代/権力交代とは薬物交代なり/反ユダヤ政策としての反ドラッグ政策/クアフュルステンダムの有名医師/患者Aのための多剤カクテル注射/国民ドラッグを恃みとする民族体
  • 第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年
    証拠探し 連邦公文書館軍事記録局(フライブルク)/ドイツの軍隊はドイツの薬物を発見する/グラウブロートからブレインフードへ/ロボット/バーンアウト/モダン・タイムス/時は戦なり/「ちまちませずに派手にやれ」/時はメスなり/クリスタル・フォックス/だがヒトラーは電撃戦を理解せず/ダンケルクの停止命令 薬理学的解釈/国防軍の薬物ディーラー/戦争とビタミン/フライング・ハイ/外国への喜ばしいプレゼント
  • 第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年
    現地訪問 アメリカ国立公文書記録管理局(ワシントンDC)/ブンカー メンタリティ/東部の陶酔/元衛生将校が語る事実/プラネット・ヴェアヴォルフ/屠畜場ウクライナ/「x」と完全なる現実喪失/オイコダールの服用/薬物集積場としての諜報機関/患者D/患者B/暗殺未遂とその薬理学的な帰結/ついにコカイン!/スピードボール/医師たちの戦争/自己の抹消/スーパー・ブンカー/線路マーク/責任問題
  • 第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年
    現地訪問 連邦軍医科大学校(ミュンヘン)/ザクセンハウゼンへの業務旅行/錠剤パトロール/正真正銘の没落/洗脳/薬物の黄昏/最終出口 総統地下壕/解雇/最後の毒物/モレルの内面崩壊
  • 千年の愉楽
  • 謝辞/ナチズムと政治的リアリティの喪失 ハンス・モムゼン/訳者あとがき
  • 図版の出典/文献リスト/註/人名・事項索引

【感想は?】

 ある程度は時代背景もあり、割り引いて考える必要もある。例えばペルビチン=メタンフェタミン=ヒロポンが日本で禁じられたのは1949年だ(→Wikipedia)。それでも、特に戦況が悪化した終盤の容赦は背筋が凍る。ヒトラーは完全なジャンキーだったのだ。

 1938年、テムラー社はペルビチンを鳴り物入りで売り出した。同社はベルリンのすべての医師に無料サンプルを配る。返信ハガキと共に、以下の文言をつけて。

「初回分に限り無料!」
  ――第1部 国民ドラッグ「メタンフェタミン」 1933年~1938年

 まるきしヤクのバイニンじゃねえかw

 このペルビチン、気分は良くなり眠気も飛び自信満々になる。のはいいが…

大脳に大きな抽象能力が要求されるプロセスの処理に関しては、ペルビチンを服用しても成績の向上はみられなかったのだ。計算は確かに速くなったものの、計算ミスも増えた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 別に頭が良くなるんじゃなくて、単に自信過剰になるだけらしい。おまけに乱用すると妄想や依存性などのツケが回ってくるんだが、それもしこたま利息をつけて。

 さすがにこの時点じゃ注射じゃなくて錠剤なんで多少はマシかもしれないが、一般市民向けのチョコレート菓子にまで入ってるとか、ヤバいだろ。

 この効果には軍も注目する。1939年のポーランド侵攻でも、第九軍の軍医が報告している。

「兵士たちが持てる力をすべて出し切らねばならぬような難局で、ペルビチンを支給された部隊は、支給されなかった部隊をはるかに上回る戦果を挙げたのだ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 将兵にペルビチンを配り、ハイな状態で戦場に送り込んだのだ。その優れた実績に基づき、すぐにテムラー社へ増産体制に入るよう要請する。

「特別な状況下で、睡眠によって軍事的な成果が脅かされる場合には、眠気を克服することの方が、例えばそれとの関連で生じうる後遺障害へのいかなる配慮よりも重要となる。そして眠気の打破には(…)覚醒剤が利用できる」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 かの有名な電撃戦も、覚醒剤ありきの計画だった。

ハインツ・グデーリアン「諸君に要求する。必要とあらば、少なくとも三日間、昼夜一睡もせずに奮闘せよ」
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 兵をドラッグで強化なんて作り話かと思ったが、歴史的な事実だし、実際に効果があったのだ。1973年の第四次中東戦争を描く「砂漠の戦車戦」でも師団長が寝不足でボケる描写があったし、戦場での睡眠は死活問題らしい。2001年からの米国主導のアフガニスタン戦争でも、軍から向精神薬を求められたとの話が本書に載っている。

 ともあれ第三帝国に戻ろう。薬物に頼ったのは国防軍だけでなく、海軍もだ。ナチス版回天のゼーフント(→Wikipedia)開発に当たり、乗務員の負担が大きな問題となる。狭い艦内で数日間、眠らずに航行しなければならない。そこで…

海軍軍医将校ハンス=ヨアヒム・リヒェルト博士「丸四日間の投入が可能な潜水艇ゼーフントの使用条件は過酷であるので、新しい薬剤の開発と治験を要請している」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

「四昼夜、人間をまったく(もしくはほとんど)眠らせずに高いパフォーマンスを維持させるという目標は、薬物A~Dを使用したときに実現可能となる」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 と、より強力な覚醒剤の開発に乗り出している。

 また、親衛隊も強制収容所の囚人を使って自白剤の研究・開発・実験を行った。

親衛隊大尉クルト・プレートナー博士「メスカリン(→Wikipedia)が効果を発揮すると、(略)いつでもその囚人の最も個人的な秘密さえ聞き出すことができた。(略)言質を取って相手に罪を着せることは実に容易である」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 なお、この成果は戦後に米国が美味しくいただきました。ペーパークリップ作戦(→Wikipedia)の一部かな?

 とか書いてるが、これらはいわば副菜。主菜はヒトラーとその主治医テオドール・モレルだ。モレルは家畜の内臓などから精製したホルモンやビタミンを混ぜ、ビタムルチンと名付けた栄養剤をヒトラーに与え、巧みに取り入る。とまれ、医師が総統に意見できるはずもなく。

「私はいつも短い診療時間で許容限度ギリギリの大量の薬剤を処方しなくてはなりませんでした」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 ちなみに患者Aとはヒトラーを示す。その薬剤も決まった定食メニューではなく、多様な薬物を日々様々な割合で混合したシロモノ。例えば1945年4月8日のメモでは…

「強心薬のカプセルにレバー製剤を合わせた。それによって強い刺激作用を狙ったのだ」
  ――第4部 その後の濫用 血とドラッグ 1944年~1945年

 アドリブでテキトーに処方していたのだ。その頻度は、ほぼ毎日である。

1941年8月から1945年4月にかけて、この主治医は連日、患者の診察に当たった、(略)ほぼ1日に1回、注射していた計算になる。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 開戦後は、ヒトラーと最も長い時間、接触していた人物だろう。

 その関係は、戦況が悪化すると共に深まってゆき、また投与方法も経口から注射へ、中身も激しいモノへと変わってゆく。

1943年7月18日は(略)これまで以上に戦況が悪化したのだ。赤軍がクルスクで軍事史上最大の戦車戦に勝利し、(略)連合軍がシチリア島に上陸し…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

「患者A」の1943年第2四半期のカルテが残されている。その右下の個所に、ある薬品名が記され何本もの下線が引かれている。オイコダール。(略)有効成分は(略)アヘンに含まれる物質から合成された半合成麻薬である。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 なお、ラリっていたのはヒトラーだけではない。

1923年にミュンヘンのフェルトヘルンハレを襲撃した際に腹部に重曹を負っていた国家ナンバー2のゲーリングは、数年前から重度のモルヒネ中毒に患っていた。
  ――第2部 ジーク・ハイ 電撃戦はメタンフェタミン戦なり 1939年~1941年

 まあ、この文でゲーリングにモルヒネを処方したのはモレルではない。が、モレルがヒトラーの主治医となって以降、モレルのお世話になった人物の一覧はなかなか壮観だ。

ムッソリーニ,実業家アルフリート・クルップ,実業家アウグスト・ティッセン,レニ・リーフェンシュタール,ヒムラー,外相フォン・リッペントロープ,軍需大臣シュペーア,日本大使大島浩将軍,ゲーリング夫人…
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 さすがに何を処方したのかまでは書いていないけど。

 それはともかく、ヒトラーとモレルの関係は、次の文が見事に表している。

1944年2月24日には患者Aから騎士十字戦功十字章まで受けている。(略)受勲したばかりの主治医はこのすぐ後に感謝の意味を込めて、「初めての強力ビタムルチン注射(疲労回復と気力体力の充実のため)を打った」
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 感謝の注射って、なんだよ。まるきしバイニンがジャンキーに与える御褒美じゃねえか。

 実際、晩年のヒトラーは、ストレスとヤクでイカれた心身を、ヤクで無理矢理支える末期状態へと転げ落ちてゆく。

1944年11月には(略)毎回針を刺すと新たな傷ができて古い傷と繋がり、生長を続ける長いかさぶたとなった。これはジャンキーたちがよく言う「線路マーク」、つまり注射疵が繋がって醜い線路のような形になったものだ。
  ――第3部 ハイ・ヒトラー、患者Aと彼の主治医 1941年~1944年

 第三帝国の末期を描いた作品で描かれるヒトラーは、現実から目を背けて根拠のない楽観論にしがみつき、撤退を進言する軍人を裏切り者と決めつける狂人のように描かれる。あれは正確だったのだ。だってヒトラーはシャブとアヘンとコカインでハイになってたんだから。

 クスルクの敗北などの都合の悪い現実に向き合おうとせずに薬物に逃げるヒトラーと、彼の狂った命令に諾々と従う取り巻きたち。そんな第三帝国末期の首脳陣を見ると、権力って何だろうな、などと考え込みたくなる。

 電撃戦におけるダンケルクの停滞の原因を「ヒトラーは誰がボスかを陸軍に思い知らせたかった」とするなど、「電撃戦という幻」に準じていたりと、軍ヲタにも楽しめる部分が多い。とはいえ、やはり本書の圧巻は晩年のヒトラーの様子だろう。第三帝国に興味がある人にお薦め。

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