2024年12月 2日 (月)

ダニエル・ヤーギン「新しい世界の資源地図 エネルギー・気候変動・国家の衝突」東洋経済新報社 黒輪篤嗣訳

本書で論じるのは、地政学とエネルギー分野の劇的な変化によってどのような新しい世界地図が形作られようとしているか、またその地図にどのような世界の行方が示されているかだ。
  ――序論

【どんな本?】

 21世紀になってから、世界のエネルギー情勢は大きく変わった。米国ではシェール革命が起き、炭化水素の輸入国から輸出国に代わる。シェールが引き起こした変化はそれだけではない。エネルギー市場の性質も変えた。冷戦時代のもう一方の主役だったソ連/ロシアは、炭化水素をテコに支配力の強化を狙う。大規模な油田が集中する中東は、相変わらず情勢が不安定だ。そして経済の躍進を遂げた中国は、多量のエネルギーを必要としている。

 シェール革命とは何か。ロシアは何を狙っているのか。中東情勢は安定するのか。中国はどんな役割を果たすのか。

 米国のエネルギー専門家が、21世紀のエネルギー情勢の変化を説くと共に、それが国際情勢にどう影響するかを語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The New Map : Energy, Climate, and the Clash of Nations, by Daniel Yergin, 2020。日本語版は2022年2月10日第1刷発行。私が読んだのは2022年4月18日発行の第4刷。売れたんだなあ。単行本ハードカバー縦一段組み本文約532頁。9ポイント45字×19行×532頁=約454,860字、400字詰め原稿用紙で約1138枚。文庫なら上下巻の分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。国際情勢を語る本だが、地形が重要な部分もあるので、世界地図か Google Map などがあると便利。

【構成は?】

 ほぼ部単位に独立しているが、一部は前の章を踏まえて後の章が展開する。急ぎなら興味がある章だけ、深く読みたければ頭から読もう。

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  • 序論
  • 第1部 米国の新しい地図
  • 第1章 天然ガスを信じた男
  • 第2章 シェールオイルの「発見」
  • 第3章 製造業ルネサンス
  • 第4章 天然ガスの新たな輸出国
  • 第5章 閉鎖と解放 メキシコとブラジル
  • 第6章 パイプラインの戦い
  • 第7章 シェール時代
  • 第8章 地政学の再均衡
  • 第2部 ロシアの地図
  • 第9章 プーチンの大計画
  • 第10章 天然ガスをめぐる危機
  • 第11章 エネルギー安全保障をめぐる衝突
  • 第12章 ウクライナと新たな制裁
  • 第13章 経済的苦境と国家の役割
  • 第14章 反発 第2のパイプライン
  • 第15章 東方シフト
  • 第16章 ハートランド 中央アジアへの進出
  • 第3部 中国の地図
  • 第17章 G2
  • 第18章 「危険海域」
  • 第19章 南シナ海をめぐる3つの問い
  • 第20章 「次の世代の知恵に解決を託す」
  • 第21章 歴史の役割
  • 第22章 南シナ海に眠る資源?
  • 第23章 中国の新たな宝船
  • 第24章 米中問題 賢明さが試される
  • 第25章 一帯一路
  • 第4部 中東の地図
  • 第26章 砂上の線
  • 第27章 イラン革命
  • 第28章 湾岸戦争
  • 第29章 地域内の冷戦
  • 第30章 イラクをめぐる戦い
  • 第31章 対決の弧
  • 第32章 「東地中海」の台頭
  • 第33章 「答えはイスラムにある」 ISISの誕生
  • 第34章 オイルショック
  • 第35章 改革への道 悩めるサウジアラビア
  • 第36章 新型ウイルスの出現
  • 第5部 自動車の地図
  • 第37章 電気自動車
  • 第38章 自動運転車
  • 第39章 ライドヘイリング
  • 第40章 新しい移動の形
  • 第6部 気候の地図
  • 第41章 エネルギー転換
  • 第42章 グリーン・ディール
  • 第43章 再生可能エネルギーの風景
  • 第44章 現状を打開する技術
  • 第45章 途上国の「エネルギー転換」
  • 第46章 電源構成の変化
  • 結論 妨げられる未来
  • エピローグ 実質ゼロ
  • 付録 南シナ海に潜む4人の亡霊
  • 謝辞/原注/索引

【感想は?】

 ほぼ部ごとにテーマが変わるので、部単位に書く。

 米国向けに書いているため、同じ事象でも日本の読者とは受け取り方が違う所が多い。特に一部は「それが本当ならどんなにいいか」な話もあり、少し未来に希望が持てたりする。

【第1部 米国の新しい地図】

新しい技術の登場によってテキサスはごく短い間に変貌を遂げ、並外れた成長の軌道に乗ったということだ。2009年1から2014年12月にかけ、テキサス州の原油生産量は3倍以上増えた。この時点で州の産油量は、メキシコの産油量を上回り、さらにはサウジアラビアとイラクを除くOPEC加盟のすべての国の産油量をも上回った。
  ――第2章 シェールオイルの「発見」

シェール革命によって世界の石油市場は一変し、エネルギー安全保障の概念が変わりつつある。これまで何十年にもわたって世界の石油市場を規定してきた「OPEC加盟国vs非加盟国」という捉え方は、「ビッグスリー」(米国、ロシア、サウジアラビア)という新しいパラダイムに取って代わられた。
  ――第8章 地政学の再均衡

 第1部のテーマはシェール(頁岩)革命だ。本書が扱っているのは米国とカナダだけだが、他の国や地域にもシェールの層はたくさんある(→WikipediaWikipediaの地図)。ただ、取り出す技術がないだけ。

 シェールはエネルギー情勢に様々な影響を与える。

 まず、単純に石油と天然ガスの供給量が増え、原油が安くなった。当然ながら産油国は面白くない。特にロシアのプーチン大統領が楽しい。シェールの話題を振ると、環境保護論者になるのだ。

 産出国である米国はエネルギーの輸入国から輸出国になり、大きな油井があるテキサスは好景気に沸く。

 油井と言ったが、従来の油井とは性質が異なる。すぐに産出量が減るのだ。

シェールガスの坑井の生産量は、最初のうちは多いが、在来型の坑井より急速に減り始めて、ほどなく横ばいになる。
  ――第1章 天然ガスを信じた男

 そのため、常に掘り続けなければならない。それを揶揄して業界人曰く「シェールは製造業」だとか。

 安くなった米国のエネルギーは、投資と仕事を招き寄せる。こういう事もあるんだなあ。

これまで米国企業の中国への工場移転が数十年続いてきたが、いまや中国の製造業者が米国に工場を構え始めていた。
  ――第3章 製造業ルネサンス

 本書はハッキリと書いていないが、シェ―ルガスによって、天然ガスの市場の性質も変わった。従来は地産地消の性質が強く、また取引価格も原油と連動していた。だがシェールガスの生産が増え、米国内では消費しきれないため、液化してタンカーで売ろうぜ、となる。増えた取引量は、従来の「原油の添え物」ではなく、独自の商品としての性格を強めてゆくのだ。ただ、遠くの国に売る場合、相応の投資が必要となる。

(天然ガスの)輸出用の液化施設の建設には、輸入用の再ガス化施設の建設の10倍の費用がかかる。
  ――第4章 天然ガスの新たな輸出国

 またはパイプラインが。これは次の部のロシアが活用している。

 他にも、シェールが市場に与えた影響がある。市場を安定させるのだ、シェールは。

シェールの登場以降、石油産業に「ショート・サイクル」と「ロング・サイクル」という新しい語彙が加わった。
ショート・サイクルに当てはまるのは(略)シェールだった。掘削することを決めてから、半年後には生産を開始できた。(略)1つの坑井の費用は1,2年前に1500万ドルだったものが、今では700万ドルだった。ただし、減衰率は高いので、常に新しい坑井を掘り続ける必要はあった。(略)
海洋油田やLNGの事業は生産の開始までに5年や10年かかるが、以後は何年も生産を続けられる。ロング・サイクルの海洋開発のコストは(略)7億ドルとか、70憶ドルとか、あるいはそれ以上の規模だった。
  ――第34章 オイルショック

 先に製造業と言ったように、ある程度の高値でないとシェールは儲けが出ない。反面、価格が上がれば新しい坑井を掘ればいい。特に米国のシェールは大手ではなく独立系の企業が多く、フットワークが軽い。そのため市場価格には迅速に反応し、まさしく「神の見えざる手」として働くのだ。もっとも、それだけに、政府の意向にも従わないんだけど。政府系の資本が多いOPECとは対照的だ。

【第2部 ロシアの地図】

 シェールが面白くないのがロシアだ。ソ連時代から、ロシアはエネルギーが国の柱だった。

(ロシアは)石油と天然ガスの輸出から得られる収入が、国と国力の財政基盤になっている。その収入は歳入の40~50%、輸出収入の55~60%、GDPの推定30%を占める。
  ――第9章 プーチンの大計画

 これに関し、プーチンは極めて優秀なようで。

プーチンはロシアの石油と天然ガスにどういう力があるかを深く理解している。西側の人間がプーチンを話をしていつも驚かされるのは、エネルギー産業やエネルギー市場にとても詳しく、複雑な問題もスラスラと論じられることだ。国のトップというより、企業のCEOのような印象を相手に与えた。
  ――第9章 プーチンの大計画

 著者によると、ドナルド・トランプも経営者っぽく振る舞うそうで、本書では好意的に扱っている。

 さて、第1部で国際市場における天然ガスの地位が変わったと述べた。実際、取り引きに関わる国も増えている。

今やLNGの輸入国は40ヵ国を超える。2000年にはその数はわずか11ヵ国だった。輸出国も12から20ヵ国へ増えた。
  ――第14章 反発 第2のパイプライン

 欧州とはノルドストリームなどで関係を深めようと目論むロシアは、もちろん中国とも仲良くやろうとしてる。それも、従来のような共産主義の兄弟って関係ではない。中国が遂げた飛躍的な経済発展を踏まえた関係だ。

(ロシアと中国の)両国の役割分担は(略)中国が製造、消費財、金融を、ロシアが石油、天然ガス、石炭、その他のコモディティを提供するという関係だ。
  ――第15章 東方シフト

 が、中国にとって、少なくとも経済的にはいささか違って…

(中国にとって)経済的にはロシアより米国のほうがはるかに重要だ。貿易戦争とコロナ禍以前の2018年、対ロ輸出額が350憶ドルだったのに対し、対米輸出額は4100憶ドルにのぼった。
  ――第16章 ハートランド 中央アジアへの進出

 以降、本書でも中国の存在感の大きさは強く意識させられる。

【第3部 中国の地図】

 その中国、経済だけでなく軍事でも大国となりつつある。

過去20年のあいだに中国の軍事費は6倍に増えた。現在の軍事費は、米国の6340億ドルに次ぐ2400億ドルだ。第3位のサウジアラビアと第4位のロシアは、どちらも850億ドル前後で、米中とはだいぶ開きがある。
  ――第17章 G2

 空母も動き始めたしね。その中国が、岩礁を軍事基地に変えたりと、強引に進出しているのが、南シナ海だ。漁場としても魅力的だし、フィリピンやベトナムとひっきりなしに小競り合いを惹き起こしている。

 その南シナ海進出の根拠として中国が示しているのが、「九段線」(→Wikipedia)。これが実にふざけたシロモノで、ベトナム・インドネシア・フィリピン沿岸まで含んでる。

現代の中国による南シナ海の領有権の主張は、いわゆる「九段線」を中心に置いている。
  ――付録 南シナ海に潜む4人の亡霊

 もちろん、魅力は資源だけじゃない。

この海域(南シナ海)を通る世界貿易の額は3.5兆ドルにのぼり、中国の海上貿易の2/3、日本の海上貿易の40%以上、世界貿易の30%を占める。(略)中国が輸入する原油の80%は南シナ海を通過している。
  ――第18章 「危険海域」

中国のエネルギー安全保障にとって真に重要なのは、海上交通路のはるか下の海底深くに眠っているかもしれない資源ではなくて、海上交通路そのものであり、そこを何が通るかなのだ。
  ――第22章 南シナ海に眠る資源?

 そして、こういった国際貿易に備え、インフラにも積極的に資本を投下してきた。

世界の十大コンテナ港のうち、7港が中国にあり(世界最大の上海港を含む)、世界のコンテナ輸送の4割以上を中国が占める。
  ――第23章 中国の新たな宝船

 今は国内だけじゃなく、スリランカやアフリカなどにも投資してるんだよなあ。

一帯一路はエネルギー、インフラ、輸送に重点を置いており、その投資総額はおよそ1.4兆ドルに達すると見込まれる。この金額は、第二次世界大戦後の米国による欧州復興計画マーシャル・プランの7倍以上(現在のドル換算)であり、まさに未曽有の規模だ。
  ――第25章 一帯一路

 そんな中国を意識せざるを得ないのがアジア各国。

元駐米シンガポール大使チャン・ヘンチー「東南アジアは安全保障面では米国と統合されているが、経済面では中国と統合されている」
  ――第24章 米中問題 賢明さが試される

 日本も最近は米国より中国との貿易額が多かったり(→JFTCきっずさいと)。しかもイザとなった時、米国の目は欧州に向きがちだったり、特にトランプ大統領はアメリカ・ファーストだったりで、アジア各国も「アメリカに頼っていいのか」な気分に。

【第4部 中東の地図】

 今のところは小競り合いで済んでいる中国/東南アジアに対し、今も昔も盛んに燃え上がっているのが中東だ。ここではイランの暴れん坊っぷりが目立つ。一応は選挙で大統領が選ばれる形になってはいるが…

「歴代のイランの王には想像もつかなかったほどの絶大な権力がホメイニ師に与えられていた」
  ――第27章 イラン革命

 その隣国イラクで、米国は大きな失敗をしでかした。

米国防長官ジェイムズ・マティス「イラク軍を非政治化すればよかったのに、解体したせいで、我々はイラクで最も頼りになる集団を敵に回した」
  ――第28章 湾岸戦争

 散々荒らした挙句、イランにつけ入る隙を与えてるんだから、馬鹿にもほどがある。

イランは今後さらにイラク内での地位を強化するため、民兵組織をレバノンのヒズボラのように政治・社会組織に変えようと狙っている。
  ――第30章 イラクをめぐる戦い

 イラク情勢が一向に安定しない原因の一つは、主にシーア派地域にイランが介入しているためだ。日本のニュースじゃあまり触れないけど。そのイランの狙いは…

中東の紛争の非常に多くが、(略)イランとサウジアラビアの大きな対立の中に組み込まれている。イランは革命を世界に輸出すると言ってはばからない。
  ――第29章 地域内の冷戦

 70年代の「革命の輸出」は共産主義者の役割だったが、今はイランがその役を引き受けている。当然、絶対王政のサウジアラビアは標的となる。聖地メッカも抱えてるしね。

 そのサウジ、かねてより原油頼りの体制からの脱却を目指しているが、なかなか難しい。

サウジアラビアには約2000万人のサウジアラビア人に対し、約1000万人の外国人がいる。しかし労働力で見ると、その割合は逆転する。サウジアラビア人の就業者数がおよそ450万人で、その7割が政府系部門に勤めているのに対して、外国人の就業者数は約2倍の800万人以上にのぼり、大半が給料の安い民間部門で働いている。
  ――第35章 改革への道 悩めるサウジアラビア

 などと苦しんでいる間に、イランは中東各国に魔の手を伸ばしている。

(ヒズボラは)2018年、レバノンの議会で最大政党に躍り出ると、2020年にはヒズボラ主導の連立内閣を発足させた。レバノンはイラン革命の最初の大きな成功例だった。
  ――第29章 地域内の冷戦

イラン革命防衛隊国外破壊工作担当ゴドス部隊司令官ガセム・ソレイマニ「イラン革命が地域全体に広がっていくのを我々は今、目の当たりにしている。バーレーンとイラクから、シリア、イエメンへ、そして北アフリカへと」
  ――第31章 対決の弧

 現在、イスラエルが戦いを強いられてるのは、ほぼイランのせいと言っていいい。これも日本のニュースがあまり触れない事情なんだよなあ。そのイスラエルがやたらと強気な理由は、この辺にあるのかも。

イスラエルのエネルギー相ユバール・シュタイニッツ「(東地中海のガス田で)すでに国内で消費しきれないほどの量を発見している」
  ――第32章 「東地中海」の台頭

 今まで輸入に頼りきりだったエネルギーが、一部とはいえ自給できるんなら、そりゃ心強いだろう。

 そんな中東だが、新型コロナ禍による世界経済の停滞は痛かった。原油価格は低迷し、一部の先物では負の値にまでなる。日頃は反目しているサウジアラビアとイランも、危機は共有している、が、素直に話に応じられるわけじゃない。またかつて東西で対立していたロシアも、原油価格低迷は嬉しくない。ここでもドナルド・トランプが活躍するのは意外だった。

(2020年のOPEC+非加盟国による石油供給削減)合意は石油をめぐる新国際秩序の到来を告げていた。それはOPECと非加盟国によってではなく、米国とサウジアラビアとロシアによって築かれた秩序だった。
  ――第36章 新型ウイルスの出現

 軍事的には米国&NATOべったりなサウジアラビアだが、エネルギーに関してはロシアと利害が一致してるんだよなあ。今後はどんな関係になるんだか。

【第5部 自動車の地図】

変化は徐々にだが、確実に起こっている。攻勢をかけているのは電気だ。
  ――第40章 新しい移動の形

 と、ここで扱うのは電気自動車と、Uberなどのライドヘイリングだ。中国でライドヘイリング企業ディディを興したジョン・ジマーの、ホテル業界出身の視点が面白い。ホテルじゃ客室稼働率80%~90%が目標だが自家用車の稼働率は5%~10%、とか。確かに無駄といえば無駄だよね。

 もっとも、GMやトヨタ自動車は困るが、エネルギー業界はもちっと複雑な気がする。電気自動車も、直接はガソリンや軽油を使わないけど、火力発電なら相変わらず化石燃料に頼るわけだし。

 その電気自動車でキモとなるのは、やはりバッテリー。

中国のリチウムイオンバッテリーの生産量はすでに世界の3/4近くに達している。
  ――第37章 電気自動車

 と、ここでも中国の存在感が大きい。

 なお、出てくるのは電気自動車ばかりで、ハイブリッドカーは出てこなかった。

【第6部 気候の地図】

 先にも書いたが、化石燃料に代わるエネルギーとして期待されているのは電気だ。何より二酸化炭素を出さないのが嬉しい。少なくとも火力発電でなければ。

(2009~2018年の年間)平均でおよそ210ギガトンの炭素が、植物の腐敗や動物の呼吸などの自然の営みを通じて大気中に排出された。しかし同時に、9.5ギガトンが石油燃料から、1.5ギガトンが土地利用からも出た。それらを合わせると、総排出量は221ギガトンになる。
しかし自然のサイクルでは年間平均215.7ギガトンしか炭素は回収されず、つまり植物や海に吸収されず、4.9ギガトンが大気中に残された
  ――第41章 エネルギー転換

 本書が触れているのは、風力と太陽光だ。いずれも天候頼りで、稼働率も低いし、電力消費が高まるナイターの時間には頼れないと、問題は多い。配電網にかかる負荷も大きく、よって停電が増える可能性も高い。また先進国はともかく発展途上国じゃ、そもそも電気が来てなかったりと、綺麗事は言ってられない状況がある。

 加えて、ここでも中国の影響が…

中国は現在、世界の太陽光パネルのおよそ70%を生産している。(略)太陽電池の基幹部品であるソーラーウエハーにいたっては、約95%が中国製だ。
  ――第43章 再生可能エネルギーの風景

 そんな不穏な話が多い中で、エネルギーがアキレス腱な日本にとってひとつ、喜ばしいネタが飛び出した。

10年ほど前、「ピークオイル」(つまり「石油の終焉」)が近づいており、世界の石油は「枯渇する」という予測が語られた。現在、議論は「石油需要のピーク」に移っている。
  ――第46章 電源構成の変化

 エネルギー・シフトが上手くいけば、原油価格は安値で安定するかもしれない。

【終わりに】

 などと言って安心もしていられないのが国際情勢。

 今まで中国の影響力は散々に思い知らされてきたが、ここで更に駄目押しが入る。

米ソの冷戦時代、ソ連は世界経済の中では脇役だった。今の中国は違う。
  ――結論 妨げられる未来

 ソ連は軍事力で東欧を抑えたが、中国は経済力で世界中に支配力を及ぼしつつある。

 特に怖いのが、アフリカへの投資だ。

鉱物は普通、最初の発見から生産の開始までに16年以上かかる。しかも、石油に比べ、生産がはるかに一部の国に集中している。
  ――エピローグ 実質ゼロ

 太陽光にせよ風力にせよ、レア・アースを大量に使う。これらの多くはアフリカに眠っている。そして中国は、積極的にアフリカに投資しているのだ。欧米が嫌う独裁者や人権蹂躙体制も、中国には関係ない。そしてアフリカ諸国も、内政に干渉しない中国のカネは有り難い。

 正直に言うと、「第6部 気候の地図」あたりは、ちとタテマエっぽい記述が目立ち、お行儀が良すぎる感がある。また、躍進著しいナイジェリアなどアフリカ諸国を無視しているのも辛い。が、各国の事情に踏み込む第4部までは、生々しい話が多くて迫力が凄い。国際ニュースに興味があるなら、是非読んでおこう。

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2024年11月25日 (月)

ジョフリー・ウェスト「スケール 生命、都市、経済をめぐる普遍的法則 上・下」早川書房 山形浩生・森本正史訳

動物、植物、生態系、都市、企業のほぼすべての測定可能な特徴は、大きさや規模と共に定量的にスケーリングする。
  ――第1章 全体像

0.65eVの活性化エネルギーが司る、ATP生産の指数関数的依存は、単純に言いかえれば温度が10℃上がるごとに生産速度が倍になる。
  ――第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死

私たちは言わば加速し続ける社会経済のルームランナーで生きているのだ。
  ――第10章 持続可能性についての大統一理論の展望

【どんな本?】

 ネズミもヒトもゾウも、一定の法則に基づいて生きて死ぬ。生物だけじゃない。似たような法則に、企業も縛られている。都市も似た性質を示すが、滅多に死なない。そんな法則・ルールが、この世界には存在する。

 それはどんな法則なのか。なぜ、そんな法則が成立するのか。そのには、どんなメカニズムが働いているのか。生物・都市・企業は、何が共通していて、何が違うのか。

 元は理論物理学者ながら、学会の垣根を超えた複雑系の研究で知られるサンタフェ研究所の所長を務めた著者が、生命と都市と経済に共通する法則をテーマとして、最近の数学・科学・経済学の成果を紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は SCALE : The Universal Laws of Growth, Innovation, Sustainability, and the Pace of Life in Organisms, Cities, Economies, and Companies, by Geoffrey West, 2017。日本語版は2020年10月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みの上下巻で本文約295頁+247頁=542頁に加え訳者解説12頁。9ポイント45字×18行×(295頁+247頁)=約439,020字、400字詰め原稿用紙で約1,098枚。文庫なら普通の厚さの上下巻ぐらい。今はハヤカワ文庫NFから文庫版が出ている。

 文章はこなれていて読みやすい。内容は少し数学の素養が要る。と言っても、難しい数式は出てこない。必要なのは指数の概念だ。金融関係の人なら、複利計算でお馴染みの概念である。あと、フラクタルについて多少知っていると親しみやすい。

【構成は?】

 科学の本にありがちな構成で、前の章を受けて後の章が展開する。よって、素直に頭から読もう。

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  •  上巻
  • 第1章 全体像
  • 1 序論、概要、まとめ
  • 2 私たちは指数関数的に拡大する、社会経済的な都市化世界に住んでいる
  • 3 生死の問題
  • 4 エネルギー、代謝、エントロピー
  • 5 サイズは本当に重要 スケーリングと非線形的挙動
  • 6 スケーリングと複雑性 発生、自己組織化、そして回復力
  • 7 あなたが自分のネットワーク 細胞からクジラへの成長
  • 8 都市と地球の持続可能性 イノベーションとシンギュラリティ(特異点)のサイクル
  • 9 企業とビジネス
  • 第2章 すべての尺度 スケーリング入門
  • 1 ゴジラからガリレオまで
  • 2 スケールのまちがった結論と誤解 スーパーマン
  • 3 桁数、対数、地震とマグニチュード
  • 4 重量挙げとガリレオの検証
  • 5 個人の成績とスケーリングからの逸脱 世界最強の男
  • 6 スケールについてのありがちな誤解 LSDとゾウから鎮痛剤と乳児まで、薬物用量について
  • 7 BMI、ケトレー、平均人、社会物理学
  • 8 イノベーションと成長限界
  • 9 蒸気船グレート・イースタン号、広軌鉄道、偉人イザムバード・キイングダム・ブルネル
  • 10 ウィリアム・フルードとモデル理論の起源
  • 11 類似性と類似度 無次元数とスケール不変数
  • 第3章 生命の単純性、調和、複雑性
  • 1 クォークとひもから、細胞とクジラまで
  • 2 代謝率と自然選択
  • 3 複雑性の根源にある単純性:クライバーの法則、自己相似、規模の経済
  • 4 普遍性と生命を制御する魔法の数字4
  • 5 エネルギー、創発的法則、そして生命のヒエラルキー
  • 6 ネットワークと1/4乗アロメトリック・スケーリング側の起源
  • 7 物理学と生物学の出会い:理論、モデル、解釈の本質について
  • 8 ネットワークの原則とアロメトリック・スケーリング則の起源
  • 9 哺乳動物、植物、樹木における代謝率と循環系
  • 10 ニコラ・テスラ、インピーダンス整合、直流/交流についての余談
  • 11 代謝率、心拍、循環系に話を戻す
  • 12 自己相似とマジックナンバー4の起源
  • 13 フラクタル:境界伸長の不思議な例
  • 第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死
  • 1 生命の四次元
  • 2 なぜアリ・サイズの小さな哺乳類はいないのか?
  • 3 ではゴジラ・サイズの巨大哺乳類は、なぜ存在しないのか
  • 4 成長
  • 5 地球温暖化、気温の指数関数的スケーリング、そして生態系の代謝理論
  • 6 老化と死
  • 第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星
  • 1 指数関数的に拡大する世界に生きる
  • 2 都市、都市化、そして地球持続可能性
  • 3 寄り道:実のところ、指数関数とは何か? 幾つかの警告的寓話
  • 4 産業都市の隆盛とその批判者たち
  • 5 マルサス、新マルサス主義、そして偉大なるイノベーション楽天主義者
  • 6 何はともあれ、エネルギーが全て
  • 図版リスト/注
  •  下巻
  • 第6章 都市科学への序曲
  • 1 都市や企業は、単なるきわめて大きな生命体?
  • 2 ドラゴンたちを倒す聖ジェイン
  • 3 金融:田園都市とニュータウンでの個人的体験
  • 4 中間的なまとめと結論
  • 第7章 都市の科学に向けて
  • 1 都市のスケーリング
  • 2 都市と社会ネットワーク
  • 3 こうしたネットワークとは一体何か?
  • 4 都市:決勝かフラクタルか?
  • 5 巨大社会的培養装置としての都市
  • 6 本当の親友が何人いる? ダンバー数と彼のはじき出した数字
  • 7 言葉と都市
  • 8 フラクタル都市:物理学で社会統合
  • 第8章 結論と予測:流動性とライフ・ペースから社会接続性、多様性、代謝、成長へ
  • 1 加速するライフ・ペース
  • 2 加速するルームランナーの上で生きる:破格の時間短縮マシーンとしての都市
  • 3 通勤時間と都市サイズ
  • 4 加速する歩行のペース
  • 5 ひとりぼっちじゃない 人間行動検出器としての携帯電話
  • 6 理論の検査と検証:都市の社会接続性
  • 7 都市における移動の極度に規則的な構造
  • 8 優等生と劣等生
  • 9 富、イノベーション、犯罪、回復力の構造:個別性と都市ランキング
  • 10 持続可能性への序曲 水に関する短い余談
  • 11 都市における経済活動の社会経済的多様性
  • 12 都市の成長と代謝
  • 第9章 企業科学を目指して
  • 1 ウォルマートはビッグ・ジョーズ・ランバーの、そしてグーグルはグレート・ビッグ・ベアのスケールアップ版?
  • 2 無限成長神話
  • 3 企業の死は驚くほど単純
  • 4 安らかに眠れ
  • 5 なぜ企業は死んでも、都市は死なないのか
  • 第10章 持続可能性についての大統一理論の展望
  • 加速するルームランナー、イノベーション・サイクル、有限時間シンギュラリティ
  • あとがき
  • 1 21世紀の科学
  • 2 学際性、複雑系、サンタフェ研究所
  • 3 ビッグデータ:パラダイム4.0なのか、ただの3.1なのか?
  • あとがきと謝辞
  • 訳者解説/図版リスト/注

【感想は?】

 何やら壮大な発見のようだが、実は拍子抜けするほど単純な話でもある。

 とはいえ、その単純さこそが凄い所だ。科学や数学や工学は、単純なモノこそ素晴らしい。

 また、その単純さを見つけるまでの過程は、豊かな素養を備えた多くの学者の交流、そして大量のテータを手に入れ解析する手間と費用が必要だったワケだが。それを可能としたサンタフェ研究所(→Wikipedia)は素晴らしいよね、という宣伝本でもある。

 全体を通してのテーマは、書名通りスケール=規模だ。ネズミもヒトもゾウも哺乳類だが、大きさが違う。これは共通点と相違点をもたらす。一般的に大きい生物は長生きで、小さい生物は短命だ。だが、生涯の鼓動の数はほぼ同じだったりする。

「スケーリング」というのは、(略)サイズが変化したときにその系がどう反応するかという話でしかない。
  ――第1章 全体像

 そんな具合に、規模が変わった時に何が起きるかを考え調べると、生命も都市も企業も、性質によっては似た振る舞いを示すのだ。その性質と振る舞いを、例を挙げるだけでなく、大量のデータを集めて調べ、グラフで示したのが本書のウリだろう。いわば生命と都市と企業のフルード数(→Wikipedia)を見つけた、そういう話でもある。

異なる速度で動く異なる大きさの物でも、フルード数(→Wikipedia)が同じなら同じふるまいを示す
  ――第2章 すべての尺度 スケーリング入門

 その一つが、「管の半径」だ。私たちの体には血が流れている。心臓が脈打って動脈に血を送り出し、途中で何回も分岐して毛細血管に達し、細胞に酸素とエネルギーを届ける。この動脈は分岐する際、太さが変わる。その太さの変わり方は、一定の法則に従っている。生存競争が生物に押しつけたルールだ。

ネットワークを下っても、反射によるエネルギーロスがないようにするには、後続の管の半径は常に、2の平方根(√2)を係数にして減少するという規則的な自己相似形でスケールする必要がある。
  ――第3章 生命の単純性、調和、複雑性

 このしくみは、都市の上水道管に似ている。こちらは進化ではなく、水を送り出すエネルギーを節約するために、計算してそういいう設計にしたのだ。

 動脈も上水道も、目的は末端へ液体を届ける事だ。そのために使うエネルギーは、なるたけ少ない方が嬉しい。つまりエネルギー消費を最適化した結果、似たような手口に落ち着いたのだ。

都市を構成する二つの主要な要素、物理インフラと社会経済活動は、どちらもおおむね自己相似的なフラクタル・ネットワーク構造と考えられる。フラクタルはたいてい、ある特性を最適化したがる進化プロセスの結果だ。
  ――第7章 都市の科学に向けて

スケーリング側は自然選択や「適者生存」に固有の持続的なフィードバック機構がもたらした、ネットワーク構造最適化の結果だ。
  ――第9章 企業科学を目指して

 動脈や水道の径は、直感的にわかりやすい。だが、本書には一見直感に反する事柄も出てくる。その一つは、死のパターンだ。文明によって急速に平均寿命を延ばした現代のヒトはともかく、野生僧物の寿命は意外と…

ほとんどの生命体の死亡率は年齢が変わってもほぼ同じ(略)
言い換えれば、どんな期間を取っても、死ぬ個体の比率は、どの年齢でも同じ
  ――第4章 生命の第四次元:成長、老化、そして死

 老いたから死ぬのではない。何才だろうと、一定の率で死ぬのだ。その結果、自然と長生きする個体は減る。そういう事らしい。これが、企業の消滅とも似ているのが不思議だ。

企業が死ぬリスクは、その年齢やサイズとは無関係だ。
  ――第9章 企業科学を目指して

 大きければ潰れにくいってワケでもないらしい。ちなみに本書の「企業の死」とは、倒産や店じまいだけではなく、合併や買収も含んでいる。この章では長寿の企業も出てきて、日本の企業が異様に多い。また、小規模な企業が多い。

日本はともかく、小規模な企業が多いのは、単純な理屈によるものだろう。大企業は数が少なく、零細企業は数が多い。規模の大小が消える率に無関係なら、若い企業も長寿の企業も、零細企業が大半を占めるはずだ。

 企業が死ぬ率は規模の大小と無関係だった。が、規模に連動して変わるモノもある。例えば、エネルギーの消費量。生物でも都市でも、規模が大きくなるに従い、燃費が良くなるのだ。

インフラとエネルギー使用の線形未満の特性は、社会経済活動の超線形性と正確に反比例している。
  ――第7章 都市の科学に向けて

 意外に思えるだろうが、田園より都市の方がエコだったりする。これは簡単な話で、例えば東京なら鉄道と路線バスでたいていの移動は済むが、郊外じゃ自動車がないと暮らせなかったりする。では、一人当たりの石油消費量は、どっちが多いだろうか。

 他にも幾つか都市が有利な点はあるし、東京やムンバイは際限なく拡大しているように見える。が、成長を制限する要素もあるのだ。

アメリカ、イギリス、ドイツと幾つかの発展途上国を含む国々の都市データを使って、(交通技術者ヤコブ・)ザハヴィは平均的個人が毎日移動すに費やす時間は、都市サイズ、あるいは移動手段に関係なくおおむね同じという、驚くべき結果を発見した。
  ――第8章 結論と予測:流動性とライフ・ペースから社会接続性、多様性、代謝、成長へ

 なんか日本はこの例外っぽい気がするが、どうなんだろう? とりあえず満員電車はどうにかして欲しい。

 それはともかく、少なくとも都市は大きいほど有利だ、と本書は論じている。そして、実際に世界規模で都市化が進んでいる。今まで電化が進んでいなかった国や地域の人々も、炭化水素由来のエネルギーの恩恵を受けている。だけでなく、人口そのものが爆発的に増えてきた。これは今までになかったことだ。大丈夫かいな?

経済学者ケネス・ボールディング「限りある世界で、指数関数的成長が永久に続くと信じているのは、狂人か経済学者のどちらかだ」
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 経済成長は%で語る。8%の成長を10年続けたら、10年後には倍になる。そして20年後は4倍になる。増える量そのものが増えるのだ。こんな成長が、いつまで続けられるだろうか? 経済が成長すれば、消費するエネルギーも増える。どれぐらいか、というと…

現代の生活に不可欠なほぼすべての機械、人工物、インフラの燃料として、地球上のすべての平均的人間が使うエネルギーの合計は、私たちの自然な必要エネルギー量の約30倍だ。
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 意外と少ないような気もするが、野生状態より遥かに多いのは確かだ。現代はその大半を、地中から掘り出した炭化水素で賄っている。ちなみに、産業革命より昔は木で賄っていて、森を使い潰すと国までが滅びた(→「森と文明」)。

 ヤベーじゃん、と思うのだが、著者はこんな解決法を提案している。

太陽から地球に供給されているおおおよそ年間100万兆(1018)キロワット時の総エネルギーに対し、私たちが毎年全体として使用するために必要な150兆(1.5×1014)キロワット時は(このスケールでは)「ごくわずか」だ。
  ――第5章 人新世から都市新世へ:都市が支配する惑星

 これは別に太陽光発電だけを示しているんじゃないのに注意。例えば風や川も、元をたどれば太陽光が原因だし。

 生物や都市や企業を語る者や本は多い。その多くは、「こんな性質がある」「こうして成功した」と、定性的な論に終始する。対して著者は、理論物理学の出身のためか、測れる量に拘る。その成果が本書だ。生物はともかく、都市や企業を、どうやって測るのか。それを知るだけでも、充分に本書は面白い。ある意味、科学の神髄を伝える本でもあるのだ。

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2024年11月14日 (木)

リチャード・J・サミュエルズ「特務 日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史」日本経済新聞出版 小谷賢訳

共産党が拉致問題をはじめて国会に持ち出したのだった
  ――第4章 失敗の手直し 1991~2001

「我々が集める情報は、即時に分析できる量をはるかに超えてしまっている」
  ――第6章 インテリジェンス・コミュニティの再構築 2013年以降

【どんな本?】

 米国にはNSAやCIAやFBIが、イギリスにはMI5やMI6が、ロシアにはFSBやGRUがある。たいていの国は独自の情報機関を持つ。

 日本も複数の情報機関がある。最も有名なのは警察の公安だろう。防衛省にも情報本部があり、内閣直属の内閣情報調査室もある。

 日本が近代的な国家の体制を整えたのは明治維新以降だ。以来、日本にはどんな情報機関があり、どう運用してきたのか。太平洋戦争の敗北に伴う軍や特高の解体から、どのように再建してきたのか。現代日本はどんな情報機関を持ち、どの官庁が監督し、どのような役割を担っているのか。日本の情報機関にはどんな特徴があり、どんな関係を政権と築いてきたのか。

 MITで政治学部部長を務め、MIT-日本プログラム署長でもある著者が、実態の捉えにくい日本のインテリジェンスについて、21世紀の情勢も含めて詳しく語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Special Duty : A History of the Japanese Intelligence Community, by Richard J. Samuels, 2019。日本語版は2020年12月18日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約402頁に加え、訳者解題6頁。9.5ポイント45字×18行×402頁=約325,620字、400字詰め原稿用紙で約815枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章はいささか硬い。また語り口も外交官や政治家っぽく、遠回しな言い方が多いため、意味を掴むのに苦労する。学者の文章と役人の文章の悪い所を合わせた感じだ。訳文も学者の文章で、原文に忠実っぽい。つまりは覚悟して挑もう。

【構成は?】

 原則として時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • 第1章 インテリジェンスの推進
    推進力/失敗/6つの要素
  • 第2章 特務の拡張 1895~1945年
    始まり/総力戦への道における軍事インテリジェンス/技術的向上/太平洋を越えたヒュミント/日本の戦時インテリジェンス/スパイ技術を整える/衰退するインテリジェンス/サイロ(縦割り)/最後の要素
  • 第3章 敗北への適応 1945~1991年
    日本の戦後初期のインテリジェンス・コミュニティの弾力性/ご主人様の声?/ウィロビー狂からの回復/非生産的な冷戦期インテリジェンス・コミュニティの設立/冷戦期の軍事インテリジェンス/防諜/ムサシ機関/技術的失敗と成功/制服の仕組み/監視
  • 第4章 失敗の手直し 1991~2001
    政治のリーダーシップ/勝者と敗者/顕著な失敗と顕著な改革/軍事インテリジェンス/さらなる失敗/拉致にまつわる政治
  • 第5章 可能性の再考 2001~2013年
    推進力/一連の提案/ゆっくりと進化する冷戦後のインテリジェンス・コミュニティ/軍事インテリジェンス/「意思の疎通が欠けていたようだ」
  • 第6章 インテリジェンス・コミュニティの再構築 2013年以降
    インテリジェンス改革の核心/王者に安眠なし
  • 第7章 日本のインテリジェンスの過去と未来
    拡張の時期 1895~1945年/適応の時期 1945~1991年/手直しの時期 1991~2001年/再考の時期 2001~2013年/再構築の時期 2013年以降/これまでに得られた教訓/前に進み、将来に備える
  • 謝辞/訳者解題/原註/参考文献

【感想は?】

 本書のウリは、新鮮さだ。

 なんたって、21世紀以降の日本の情勢について、実に詳しく、かつ分かりやすく書いてあるのだ。だから、歴史書というよりニュース解説に近い。実態の掴みにくいインテリジェンス組織について、よくぞここまで調べたものだ、と思う。

 もっとも、その「わかりやすさ」の原因の一つは、背景事情を過不足なく解説しているためでもある。一つは「インテリジェンスとは何か」といった、この世界の基礎的な知識/常識であり、もう一つは明治維新以降の歴史的背景、つまり日本独自の事情だ。

 例えばインテリジェンスの基礎/常識については、こんな感じでサラリと語ってゆく。

本書ではそのような6つの要素を時代と共に確認して考察していく。すなわち、収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視である。
  ――序

 世界の情勢、特に第二次世界大戦以降の米国中心のインテリジェンスの情勢についても、こんな感じだ。

1945年9月にトルーマン大統領によって許可された。これはカナダ、イギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドからなる世界的なシギント網(略)公式には味気なくUKUSA協定として、また非公式には「ファイブ・アイズ」として知られている。この協定は後に政府間の秘密協定として正式なものとなり、共有される暗号コードや分類方法をつくり出した。
  ――第1章 インテリジェンスの推進

 さて、日本独自の話だが、これが実に情けない話が多い。とまれ、これはインテリジェンスの宿命で、巧くいってる時には目立たず、失敗した際にはやたらと目立つモンなのだ。そもそもが密かに仕事するのが役目だし。

 ってのは置いて。特に大日本帝国の時代には、ロクなインテリジェンス機関がなかったのだ。お陰で大陸浪人に鼻面を引き釣り回されたり。ただ、仮に優秀な機関があっても、活かせなかっただろうことは、太平洋戦争を始めたことでもわかる。

1941年にはまさにこの参謀本部が、国策に合わないインテリジェンスの見積りは参謀総長がその分析に反論の余地を見出せない場合ですら燃やすよう指示したのである。
  ――第2章 特務の拡張 1895~1945年

 事実に基づいて政策を立てるんじゃない。まず政策があって、それを正当化するネタを求めたのだ。これじゃ、どんな優秀なインテリジェンス機関があっても無意味だったろう。

 これに続く、戦後のGHQ指導下による復興編も、陸軍中野学校教官の小俣洋三や陸軍情報部長の有末精三らの暗躍など、ドロドロした内情を白日の下に晒していて、戦後のドタバタが好きな人にはたまらん話が多いのだが、本書の中ではあくまで前菜に過ぎない。

 戦後は冷戦に突入したのもあり、米国も日本にインテリジェンスが必要だと考え始める。ここで戦後日本のインテリジェンスの大きな特徴の一つが出てくる。米国べったりな点だ。本書では「服従」なんて刺激的な言葉すら使っている。「CIA秘録」でも、自民党の岸信介などに選挙資金を渡していたとあるし、そういう事なんだろう。

 もう一つの特徴は、国民が軍事にアレルギーを示す点だ。そのため、自民党の政権もインテリジェンスの改革や強化に不熱心で、少なくとも表立って推進しようとはしない。まあ、やろうとしても、三つ目の特徴で暗礁に乗り上げるんだが、その前に。

 「こりゃ国民の支持を得られなくても当然だよね」と思う事件が起きる。ソ連のベレンコ中尉がMiG-25に乗って亡命してきたんだが、自衛隊は海上で機体を発見できなかったのだ。この事件は政府や他の役所の対応も酷いもので…

蔓延した無能ぶりの証拠を隠そうとして、政府は自衛隊にMiG-25事件(→Wikipedia)関係の書類すべてを廃棄するよう命じた。
  ――第3章 敗北への適応 1945~1991年

 そういう事をするから国民も政府を信用しないんだぞ。

 とはいえ、このヘマがルックダウン能力(→Wikipedia)の強化に繋がったりする。やはりヘマが強化に繋がったのが、北朝鮮のテポドン事件。

テポドン事件が日本のインテリジェンス・システムの向上――今回は画像収集能力――への切実な理由をもたらした
  ――第4章 失敗の手直し 1991~2001

 民間企業だとヘマした部署は潰されたりするんだが、インテリジェンスの場合はヘマが予算と人員の強化に繋がったりする、と本書は何回も繰り返す。言われてみれば確かにそうだ。それはそれとして。

 そんな事をしてるためか、米国ベッタリでありながら、決して対等のパートナーじゃないのが悲しいところ。著者が所在した元当事者たちも、憤ってる人が多い。いわゆるファイブ・アイズでも三軍扱いだし。

アメリカは60ヵ国以上と正式なインテリジェンス共有協定を結んでいたのに日本とは2007年になるまで結んでいなかった。
  ――第5章 可能性の再考 2001~2013年

 まあ、これは法的な問題もあって、やはり日本は本当にスパイ天国だったらしい。いわゆる「スパイ防止法」がないため、機密がダダ漏れだった、と。この辺については様々な意見があるだろうが、著者はインテリジェンスの充実を訴える立場だし。

 先のMIG-25事件のヘマの原因の一つが、三つ目の特徴である、各機関どうしの縄張り争い。本書は組織図まで乗っていて、これが実に参考になる。省庁としては、外務省・防衛省・警察庁・公安調査庁がメジャーなところ。米でも911まではFBIとCIAがにらみ合ってたし、この手の組織の宿命ではあるんだが、日本は特に酷いらしい。

 これを解決しようとしたのが、NSC(→Wikipedia)とNSS(国家安全保障局、→内閣官房)。

NSSはかつて各省庁の奥深くに保管されていた秘密情報を、首相報告のために集約するという権限を割り当てられたのである。
  ――第6章 インテリジェンス・コミュニティの再構築 2013年以降

 これで、外務省と防衛省の関係は多少良くなった。が、警察庁が仕切る内閣情報調査室は相変わらず。なお、経産省の縄張りであるジェトロ(日本貿易振興機構、→Wikipedia)を著者は高く評価してるようだが、ジェトロ側はインテリジェンス扱いされるのを迷惑がっている様子。昨今のニンジャ・ブームで変に誤解されて苦労したんだろうか。あと、厚労省の麻薬取締部(→Wikipedia)は出てこなかったなあ。

 意外と歴史的経緯はアッサリで、あくまでも背景説明の感がある。本番は21世紀に入ってからで、情報を掴むのが難しいインテリジェンスの世界で、よくぞここまで調べたと感服するぐらい、生々しく迫力あるネタが続く。歴史というより、日本の現在のインテリジェンスを語る本だと思っていい。ワイドショウ感覚で読んでも楽しめるだろう。

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2024年11月 8日 (金)

SFマガジン2024年12月号

じつは、ペラルゴニアを創ったのはこのわたしたちなんです。
  ――シオドラ・ゴス「ペラルゴニア <空想人類学ジャーナル>への手紙」鈴木潤訳

「正義、それは集団に処方される媚薬だ」
  ――吉上亮「ヴェルト」第二部第三章

「今年こそは、冬が来る前にコミケへ行くよ」
  ――カスガ「コミケへの聖歌」

きょうのあさ、だから今朝、大旦那様が御羊になられた。
  ――犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」

 376頁の標準サイズ。

 特集は「ラテンアメリカSF特集」として短編2本にコラムや作品ガイドなど。小説はシオドラ・ゴス「ペラルゴニア <空想人類学ジャーナル>への手紙」鈴木潤訳,ガブリエラ・ダミアン・ミラベーテ「うつし世を逃れ」井上知訳。

 小説は11本+3本。「ラテンアメリカSF特集」で2本、連載は5本+3本、読切2本に加え、第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作2本の冒頭。

 連載5本+3本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第16回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第56回,飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第25回,吉上亮「ヴェルト」第二部第三章,夢枕獏「小角の城」第78回に加え、田丸雅智「未来図ショートショート」3本「変わらない味」「ノイズの日々」「シルバームーン」。

 読み切り2本。韓松「輪廻の車輪」鯨井久志訳,劉慈欣「時間移民」大森望/光吉さくら/ワン・チャイ訳。

 第12回ハヤカワSFコンテスト大賞はめでたく2作が大賞を受賞した。カスガ「コミケへの聖歌」,犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」の冒頭を掲載。

 まずは「ラテンアメリカSF特集」。

 シオドラ・ゴス「ペラルゴニア <空想人類学ジャーナル>への手紙」鈴木潤訳。フリア,デイヴィッド,マディソンの高校生3人は、遊びで架空の国の歴史を創っていた。フランスとスペインの間にあり、海に臨んでいる。wikipedia に項目を作り、論文誌の<空想人類学ジャーナル>にまで論文を寄せた。遊びのはずが、教授であるフリアの父が行方不明になり…

 ファンタジイ、それもハイ・ファンタジイが好きな人は、架空の国をでっちあげるらしい。最近だと、架空のゲーム世界を創る人もいるんじゃなかろか。この作品のように、得意な領域がズレる仲間と創り上げていくのは、きっと楽しいだろうなあ。とかの他に、3人の忙しい高校生活の描写が、おじさんにはまぶしかった。

 ガブリエラ・ダミアン・ミラベーテ「うつし世を逃れ」井上知訳。18世紀のメキシコ。インディオ女性貴族の修道院で異端審問が始まる。告発したのは修道女マリア、されたのは修道女アガタ。アガタの部屋から、機能不明な装置と粘土製の円盤状のものが見つかった。

 当時のスペインおよびその支配地域における異端審問は、バチカンすら手を焼くほど暴走していた(→トビー・グリーン「異端審問」)。と思ったが、最近は違う見解も出てきた模様(→Wikipedia)。スペイン系のマリアとインディオのアガタの対立という形で、当時のメキシコの人種問題が浮き上がってくる。

 連載小説。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第56回。襲撃されたホワイトコープ病院から逃げ出したキドニーたちは、海岸にたどり着く。そこではハンターたちが待っていた。ホスピタルの助言に従い、キドニーたちはハンターの針を受け入れる。ホスピタルは更に、失われたシンパシーの原因について、意外な仮説を披露する。

 イースターズ・オフィスとクインテットに次ぎ、暗躍する第三の勢力シザース。今回はクインテットがシザースの尻尾を掴みかける回。ただ、いずれも奴が絡んでいるのが気になるんだよなあ。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第五部」第16回。TAISポッドを探してシュガー砂漠上空を飛ぶ零と桂城。雪風も本来の偵察機としての能力を活用し、また挑発とも取れる信号を発してジャムの気配を探っている。

 今までは無口というか積極的にヒトとのコミュニケーションを取ろうとしなかった雪風だ、ここ最近はずいぶんと饒舌になり、ばかりか自分で作戦を立案・進言するようになってきて、「あの無口な子がこんなに慣れて」な気分。

 飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第25回。小野寺早都子は、「クレマンの年代記」の中に入り込み、マダム・シャセリオーに腕を掴まれたように感じて叫ぶ。気が付けば視聴覚棟の玄関ロビーに立っていた。まもなく映画「2001年宇宙の旅」の上映が始まる。ホールへと向かうが…

 そういえば最近は映画もデジタル配信が増えてきて、フィルムによる上映もやがて昔話になるんだろうなあ。雨降りとかも、伝説になるんだろうか。などとぼんやり考えながら読んでいたら、とんでもない展開に。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第三章。届いた招待状は、サド侯爵本人からのものらしい。場所はシャラントン精神病院。確かにサドはそこにいる。処刑員のサンソンはマクシミリアン・ロペスピエールの妹シャルロットと共に招待に応じた。迎えたサドはいたく感激し…

 ついに登場したサド侯爵。本作品中だと、サド侯爵の評判は散々で、巷の噂では興味本位で暴行や殺人をやらかすアブナい人、という話だし、法的にもお尋ね者になっている。実際は諸説あるようで、作品の内容が本人の悪い噂を呼んだとする説も。そこが本作だと、そういうのとは別の方向でヤバい人になってるw

 読み切り。

 韓松「輪廻の車輪」鯨井久志訳。女はチベットで<輪廻の車輪>と呼ばれる摩尼車を見つけた。数珠つなぎになった百八の摩尼車の中で、それだけが新緑に染まっている。そして夜になると奇妙な音がするのだ。過去五百年の間、寺は何度も災害に見舞われ、そのたびに<車輪>も失われたが、その摩尼車だけは残り、不思議な音を響かせてきた。

 6頁の掌編。不思議というより不気味な音を出す摩尼車と、貼り付いたような笑顔の僧たち。まるきしホラーの書き出しなんだが、「火星で孤独に暮らす父」って所で「ほえ?」って気分になる。果たしてそんな時代までチベット仏教は生き残れるんだろうか。などと考えていたら、オチはとんでもなかった。なかなかに豪快な芸風の人だ。

 劉慈欣「時間移民」大森望/光吉さくら/ワン・チャイ訳。人が増えすぎた。政府は時間移民で対処する。第一陣は八千万人。120年間を冷凍睡眠で過ごし、未来の社会が住みやすければ、そこで過ごす。120年後、移民を率いる大使は目覚めたが…

 H・G・ウェルズの「タイムマシン」からのSFの伝統を受け継ぐ、人類の未来を模索する稀有壮大な作品。なにやら物騒な世界だったり、常人には理解不能な世界だったり。こういう伝統的なテーマに、てらいもなく臆しもせず挑む勢いと気概に、中国SFの若さを感じる。

 第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の冒頭。

 カスガ「コミケへの聖歌」。21世紀に文明は滅び、その後の暗黒期に記録の大半が焼き捨てられた。山奥のイリス沢集落地に住む四人の少女は、森の中でマンガを見つける。感銘を受けた四人は、森の朽ちかけた農具倉庫を<部室>として<イリス漫画同好会>を作り、マンガの世界の部活を立ち上げる。やがて土蔵で見つけた紙に、四人は自作のマンガを描きはじめ…

 お気楽なパロディ物を思わせるタイトルとは裏腹に、彼女たちの生きる世界は厳しく治安も悪い。電気や水道などのインフラは崩壊し、流通も途絶え、自給自足の暮らしだ。幸い多少の知識と幾つかの遺物は残ったが。とはいえ、主人公によれば少しづつだが暮らし向きは良くなっているようで…

 犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」。その一族の者は死ぬと羊になる。残された者たちは、羊の肉を食べる。今朝、大旦那様が羊になった。ユウは、一族の者たちに知らせるために走り回る。まずは次の旦那様となる大輝様から。

 いささか言葉が怪しい語り手による、一人称の物語。正直、掲載の冒頭のみだと、物語世界の概要すら掴めない。ヒトが羊になるってのも非常識だし、それが比喩なのか現実なのかも不明だ。それでも、一族それぞれの性格が、かなり強烈なのはわかった。

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2024年11月 3日 (日)

キャス・サンスティーン「恐怖の法則 予防原則を超えて」勁草書房 角松生史・内藤美穂監訳 神戸大学ELSプログラム訳

本書は恐怖、民主政、合理性、そして法について述べるものである。人々は時に恐れるべきでないないときに恐れ、恐れるべき時に恐れを知らない。民主政国家においては、法は人々の恐怖に応答する。その結果、法は不適切なあるいは危険ですらある方向へと導かれてしまう。
  ――はじめに

民主主義政府は、人々の価値観に対してこそ対応すべきであって、彼らの大きな過誤に対してではない。
  ――第5章 予防原則の再構築と恐怖の管理

【どんな本?】

 ヒトの思考にはクセや偏り/バイアスがある。だから時として愚かな判断/選択をする。民意を重んじる民主主義社会で、多くの人が偏りに囚われたら、制度や政策も偏ってしまう。

 本書は、偏りが影響する中でも、特に予防原則を取り上げる。「確たる証拠はないがヤバそうだから手を打っとこう」、そういう理屈で予め危険に対処する政策だ。それが賢明な時もあれば、骨折り損どころか大きな被害をもたらす場合もある。

 ヒトの考えは、なぜ・どんな時に・どのように偏るのか。何が偏りを生み出すのか。そもそも予防原則にはどんな種類と性質があるのか。賢い予防原則と愚かな予防原則は、どうやって見分けるのか。行き過ぎた予防原則を、どう防ぎどう止めればいいのか。

 ハーバード大学ロースクール教授であり行政管理予算局の情報・規制問題室長を務めた著者が、予防原則に基づく政府の規制措置を主題とし、そのカラクリと性質そして賢明な運営について語る、一般向けのノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Laws of Fear : Beyond the Precautionary Principle, by Cass R. Sunstein, 2005。日本語版は2015年2月10日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約318頁に加え、監訳者あとがき8頁。9ポイント43字×18行×318頁=約246,132字、400字詰め原稿用紙で約616枚。文庫ならちょい厚め。

 文章は硬い。二重否定など原書の文章のせいもあるが、翻訳にも原因がある。例えば「塾議」や「衡量」なんて見慣れぬ言葉を、なぜ使う? いや気持ちは分かるんだ、こういう堅苦しい本だと、堅苦しい音読みで短く端的に表す言葉を当てはめたくなるんだ。でも、それって、雰囲気が合うってだけで、意味・意図は通じにくくなっちゃう。まあ訳したのは法学者だから、親しみやすさより正確さを重んじたんだろう。

 巻末に索引があるのは親切だ。ついでに略語索引も欲しかった。WTP:支払意思額とかVSL:統計的生命価値とか。

【構成は?】

 基本的に前の章を受けて後の章が展開する構成なので、素直に頭から読もう。

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  • 謝辞
  • はじめに
    塾議と理論/予防原則と合理性/本書の構成/アプローチと政策
  • 第1部 問題編
  • 第1章 予防とその機能不全
    予防原則/弱いバージョンと強いバージョン/予防の実際:ヨーロッパの状況の瞥見/備えあって憂いあり?/なぜ予防原則は機能不全に陥るのか
  • 第2章 予防原則の背景
    想起可能性ヒューリスティック/確率無視/損失回避性となじみ深さ/慈しみ深き自然(という神話)/システムの無視/ありうべき反論:目標の有益性/予防原則論者の応答:精微化/より広い視野へ
  • 第3章 最悪のシナリオ
    認知/感情/確率無視:基本的現象/安全? 安全でない? 閾値と確実性について/簡単な実証/より複雑な実証/その他のエビデンス/確率無視、「競合的合理性」、二重処理/メディアについて、確率無視の不均一性についてのメモ
  • 第4章 野火のように広がる恐怖
    スナイパー/カスケード/集団極化/メディア、利益集団、そして政治家/事前性向
  • 第2部 解決編
  • 第5章 予防原則の再構築と恐怖の管理
    カタストロフィ/不可避的損害:その曖昧さについてのメモ/安全マージン/予防を分析する/恐怖の管理と公開の必要性/恐怖の増幅?/テクノクラートとポピュリスト
  • 第6章 費用と便益
    費用便益分析の実際:規制機関はどのようなことを行っているのか、それはなぜか/リスクによる相異/人による相異/理論と実践
  • 第7章 民主主義、権利、分配
    単純な設例/反論/人口集団間の際、国際的差異/より難しい設例:分配と厚生/難しい設例を単純な設例と同様に扱う?/地球温暖化
  • 第8章 リバタリアン・パターナリズム(リチャード・セイラーと共著)
    貯蓄と選択/選択の合理性/パターナリズムは不可避的か?/政府/選択に対する影響はなぜ避けられないのか?/パターナリズムの不可避性/不可避的なパターナリズムを超えて(しかし、未だリバタリアン)/具体例と一般化/普遍化/反論/厚生、選択、そして恐怖
  • 第9章 恐怖と自由
    ひどい衡量:単純な説明/さらにひどい衡量:選別的な自由の制限/トレードオフ無視と自由/自由を守る/明確な声明の原則/選別的に自由を否定する場合には特別の審査を/衡量、そしてセカンドオーダーの衡量/恐怖と自由
  • 結論:恐怖と愚行
  • 監訳者あとがき/原注/人名索引/事項索引

【感想は?】

 勿体ない。なんか色々と。

 流行りの行動経済学を基にした本だ。行動経済学は「ヒトの思考にはこんなクセがある」と示すものだ。本書はそこから更に考えを進め、クセに囚われた民衆や政府がヤバそうなモノを規制しようとした場合を論じている。行動経済学の応用編その1、予防原則に基づく規制政策について、だ。

 なかなかエキサイティングでしょ。

 なんだけど、先に挙げたように堅苦しい文体や(翻訳や文章書きの)素人くさい訳文がオジャンにしてる。実に勿体ない。中身は面白いのに。

 まあいい。そんなワケで、予防原則と政策を語る本だ。ところで、予防原則って何だ?

 因果関係は明らかじゃないけど、なんかヤバそうだから対処しとこう、そういう考え方だ。

 これに基づく政策は幾つかある。有名なのは欧州の遺伝子組み換え食品規制や地球温暖化対策と、米国のイラク侵攻だ。日本の選択的夫婦別姓制度の不採用も、これだろう。

 その予防原則、大雑把に二つの極がある。弱い版と強い版だ。
 弱い版:「決定的な証拠がない」を規制を拒む理由にしちゃいけない。
 強い版:無害と証明できなきゃ規制する。

 著者は弱い版は認めるが、強い版はマズいよね、そういう立場だ。

 因果関係がハッキリ証明されていないのに規制しようってんだから、必ずしも合理的ってワケじゃない。そこにはヒトの心のクセが絡んでる。代表的なクセは次の5種類だ。

  1. 想起可能性ヒューリスティック:害を思い浮かべやすいと、よりヤバく感じる。
  2. 確率無視:滅多にない大事故を代表的な事例だと思い込む。自動車事故より飛行機事故を恐れる。
  3. 損失回避性:機会を失うことより損害を被る方を恐れる。
  4. 慈しみ深き自然:自然物は安全で人工物はヤバい、という思い込み。
  5. システムの無視:費用や副作用を無視する。

 どっかで聞いたことがある? そりゃそうだろう。この辺は行動経済学の成果だ。従来の経済学が合理的な人間を仮定して論を築いたのに対し、ヒトの判断や選択は時として非合理的だ、と行動経済学は明らかにした。非合理の原因の一つは、感情だ。

確率はリスクへの反応と大いに関係があるとされる一方で、感情が独立して評価されることはない。それは重要な役割を果たすものとは思われていないのである。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 しかも、興奮すると更に理屈が通じなくなる。

一般的に言って、感情が関係しているときには確率無視が劇的なほどに高められる。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 そんな連中が集まると、更に困った事態に陥る。

個人の判断が確率無視の特徴を持つ場合、(略)政府や法も確率を無視することになろう。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 特に外敵の脅威は、強い反応を引き起こし、冷静な計算が出来なくなってしまう。

テロ事象は、確率無視の深刻なリスクを生む。
  ――第3章 最悪のシナリオ

 テロの他にも、人々を恐怖に陥れる原因は幾つかある。例えば周りの雰囲気だ。

多くの人は、(略)脅威を恐れるべき独自の理由を持っているからではなく、他人が恐怖を表現しているがために、(略)パニックに陥るのである。
  ――第4章 野火のように広がる恐怖

 時として恐怖は伝染するのだ。そして、同じ恐怖を抱える者たちが集まると、更に恐怖が膨れ上がったりする。

同じような意見を持つ人々が互いに熟議し合うと、概して彼らは、議論を始めた時点よりもずっと極端な視点を受け入れてしまう
  ――第4章 野火のように広がる恐怖

似た者同士が集まると更に極端な方向へ行くのは必ずしも悪い事ばかりじゃない。例えば音楽だとヒップホップやグランジが大きなうねりになったし、SFでもニューウェーブやサイバーパンクが盛り上がった。レイ・ブラッドベリも言ってる。「外へ出て、おなじような境遇の人々をさがすこと」。良し悪しはともかく、似た者が集うとより濃くなるのは確からしい。

 話を恐怖に戻そう。そういう恐怖を惹き起こす危険には、幾つかの特徴がある。

とても多くの文献が、非自発的な、恐ろしい、制御できない、そして、潜在的にカタストロフィ的なリスクは、非常に高いレベルの人々の心配を生み出すことを示唆している。
  ――第6章 費用と便益<

 自動車は運転するが飛行機は恐れる人がいる。自動車は自分で運転できる、つまり自発的で制御できるが飛行機はそうじゃない。そんな風に、被害の大きさや確率より、リスクの性質や形の方が、より強く人の感情に訴えるのだ。そして恐怖に囚われた人々は、予防原則を持ち出すのである。

 と言うと悪い点ばかりのようだが、著者も幾つかの予防原則は認めている。代表は地球温暖化対策だ。逆に途上国のDDT規制は批判している。DDTで蚊を減らせばマラリアの被害も減らせただろう。

一時期はマラリアが猖獗を極めた南北アメリカだが、今は相当に落ち着いているのは、DDTで徹底して蚊を減らしたためだ。逆にアフリカのマラウィは今もマラリアが猛威をふるっている(→「蚊が歴史をつくった」)。

 つまるところ、予防や規制には費用が掛かるし副作用もあるのだ。例えば米国は新薬の承認に厳しい試験を課す。お陰で薬害は少ない。でも、新薬が間に合わず亡くなる人もいる。どっちがいいんだろうか?

 そこで参考となるのが、費用便益分析(→Wikipedia)だ。なんか難しそうな言葉だけど、要は損得の見積もりです。対策しなきゃ被害は何ドルになるか、対策するには幾らかかるか。両者を比べて赤字か黒字か。そんな計算ね。

費用便益分析の最も重要な点は、何が実際に問題となっているかについてより具体的な感覚をもたらすことで、過剰な恐怖や不十分な恐怖に対する対応となることである。
  ――第7章 民主主義、権利、分配

 これが嬉しいのは、計算だってこと。そこに感情は絡まないのだ。もっとも、計算する際に、ヒトの命を金に換算したりもするんで、冷酷な話でもあるんだけど。計算した結果として、「あなたには○○ドル負担してもらいます」みたいな形で「タダじゃねえんだぞ」と思い知らせると同時に、落ち着くように促す効果もあるのだ。

 ただし、あくまでも費用便益分析は参考資料で、全てじゃないぞ、とも著者は言ってる。例えば、費用便益分析の計算で使う数字の一つがWTP(支払意思額、→Wikipedia)。リスクを負ってる人が、リスクを避けるために幾ら出すか、みたいな数字。保険料の一種かな。

WTPが提供するのは終着点ではなく出発点である。
  ――第7章 民主主義、権利、分配

 というのも、これ、人によって金額は大きく異なるからだ。分かりやすいのが豊かか貧しいかで、豊かな人は高い金額になる。そんな風に、負担するのは誰か、ってのも、策の性格に大きく影響する。

政府の規制による負担に直面するのが多数派ではなく少数派であある場合、不当な行動がなされるリスクはかなり増大する。
  ――第9章 恐怖と自由

 著者が例に挙げてるのは、第二次世界大戦時の米国政府が行った日系人の強制収容だ。この場合、少数派の日系人が「負担に直面」した。大多数の米国市民には何の影響もなかったので、当時はあまり騒がれなかった。が、911の後は、ムスリムや中東系の人が当局に目をつけられ、飛行機に乗るたびに尋問されたり。

 そんな風に、人々が恐怖に囚われると、政府は暴走しがちになる。行動経済学の成果の中でも予防原則を本書が取り上げたのも、恐怖がもたらす害が大きいからだろう。

恐怖はもっともグロテスクな類の人権侵害をもたらしうるのだ。
  ――結論:恐怖と愚行

 これらに対し、著者が提案する対策は「リバタリアン・パターナリズム」だ。なんだか分かんないよね。それも当然、著者が本書のために作った言葉だからだ。いやたぶんそうじゃないかな、と私は判断したんだが。

 個人の自由を重んじるのがリバタリアンだ。パターナリズム(→Wikipedia)は強者による押し付け、かな。正反対に思える両者の美味しいとこ取りを狙うのが、リバタリアン・パターナリズムだ。

 著者は401k(確定拠出年金制度)を例に出す。従来は労働者が望んだ時だけ年金に加入した。そのため年金加入率は低かった。これを労働者が望まない時だけ年金から退去できる、と変えると、年金加入率が一気に上がった。

 ってな感じに、望ましい選択肢を選ぶように誘導するが、あくまでも選択の余地は残すのが、リバタリアン・パターナリズムだ。デフォルト設定ってのは結構大事で、私もOSやアプリケーションは大半の設定をデフォルトのまま使ってる。本書の例の年金にしても、私は仕組みをよく分かってない。選ぼうにも、その知識がないのだ。だから、雇用側が勝手に決めてくれた方が楽だったりする。

「人々の選好は多くの分野において不安定であり適切に形成されていない、それゆえ、起点とデフォルト・ルールが極めて固着的でありうる」
  ――第8章 リバタリアン・パターナリズム

 本書が扱っているリスクにしたって、いちいち全部を勉強してたらキリないぞ、と思ったり。だから、知らないリスクに関しちゃ無視するのだ。

危険は「著しいもの」のように見えるか、さもなければ、存在すらしないように見えるのである。
  ――第9章 恐怖と自由

 自分でも、「その辺は偉い人/賢い人が巧くっやってくれるでしょ」、みたく考えてるフシがある。だもんで、リバタリアン・パターナリズムは上手くいくと思う。もっとも、悪用される危険も大きいんだが。

 見かけは地味で堅苦しい上に、文章がこなれておらず文体も堅苦しくとっつきにくいので、色々と損してる。が、行動経済学の成果を政治、それも民主的な政府による規制に適用するとどうなるか、特に恐怖がどう影響するか、みたいな内容で、中身は案外とエキサイティングだった。行動経済学に注目している人と、政府による規制に関心がある人にお薦め。

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