2025年12月10日 (水)

ユリア・エブナー「ゴーイング・メインストリーム 過激主義が主流になる日」左右社 西川美樹訳

(2021年)1月6日に米国の国会議事堂を襲った)暴徒の中心は事業家や医師、法律家、エンジニアやCEOといったホワイトカラーの専門家の人間だった。
  ――はじめに

わたしはユリア・エブナー。(略)ロンドンを拠点とする戦略対話研究所ならびにオックスフォード大学社会的結束研究センターに所属するオーストリア人の研究者です。研究の一環として、自分の正体を明かして参加できない各種のムーヴメントに潜入する目的で、複数の偽名を使っています。
  ――第1章 過激主義の主流化

すでに彼ら(ロシア軍)はマリウポリで化学兵器を使っている。
  ――第7章 代理戦争の遂行

【どんな本?】

 反フェミニスト,気候変動否定論者,白人ナショナリスト,反LBGTQ,ワクチン反対派,反リベラリズム。そんな「過激主義者」たちは、かつて水面下でうごめいていた。しかし最近は極右政党などの形で、政治の表舞台に飛び出してきた。

 彼らは、どのような手段で人々を集め扇動しているのか。彼らの根城はどこなのか。なぜ過激主義が彼らを魅了するのか。左派は四分五裂するのに、なぜ彼らは連帯を保てるのか。そして、彼らを操る「影の黒幕」は存在するのか。

 研究者でありッジャーナリストでもある著者は、偽名を使って彼らに潜入し、その実態を暴こうと試みるが…

 体当たりの取材によって、台頭する過激主義の実態に迫る、現代のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Going Mainstream: How extremists are taking over, Julia Ebner, 2023。日本語版は2024年6月15日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約344頁。10ポイント41字×16行×344頁=約225,664字、400字詰め原稿用紙で約565枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章は比較的にこなれている。ただ、いささか「カタカナ言葉」が多い。例えば以下だ。

  • ラビットホール:沼にハマる、→ピクシブ百科事典
  • グルーミング:てなづけ
  • レジリエンス:回復力,復元力

 内容は難しくない。とまれ、主な舞台はイギリス・フランス・ドイツなどの西欧なので、その辺の政治情勢に詳しいと、更に迫力が増すだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所を拾い読みしてもいい。

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  • まえがき/はじめに
  • 第1章 過激主義の主流化
    ゴーイング・ダークネスからゴーイング・メインストリームへ
  • 第2章 サブカルチャーの創生
    インセルの潜入調査
  • 第3章 ネットワークの構築
    気候変動否定論者の世界
  • 第4章 オルトメディアの興亡
    ホワイト・ライブズ・マター
  • 第5章 バックラッシュの誘発
    トランスフォビアの究明
  • 第6章 大衆の説得
    反ワクチンネットワークの世界
  • 第7章 代理戦争の遂行
    ロシアによる反リベラリズムの戦い
  • 第8章 わたしたちにできること
    5人の専門家による15の提案
  • 謝辞/解説 清水和子/原註

【感想は?】

 正直、ちょっと期待外れ。

 体当たりの潜入取材が中心の本だと思っていた。いや確かに彼らの会合や集会に潜り込んでもいるのだ。が、それは全体の半分未満。むしろ、彼らに攻撃される側の人々、例えばトランスジェンダーなどへの取材の方が多い。

 最初の「インセルの潜入調査」からして、拍子抜けだ。だって彼らのサイトを覗いてるだけだし。まあ著者は女だから、潜入できないのはわかるけどさ。ちなみにインセルとは喪男をこじらせて女を逆恨みし暴力的になった野郎どもね(→Wikipedia)。

 私も喪男で2ちゃんの喪男板も出入りしてた。いやあ、あそこジメジメしてて、居心地がよかったんだよなあ。

彼らのミソジニーや暴力的なファンタジーがおそらく自己嫌悪や自己憐憫から生まれていることだ。
  ――第2章 サブカルチャーの創生

 喪男板も自己嫌悪や自己憐憫に満ちてたけど、暴力的ではなかった。欧州じゃ暴力的になるのは、なんでだろ?

 さて、お次の「気候変動否定論者の世界」は、生身で会議に潜り込んでる。ただし偽名で。参加者の多くは意外なことに…

およそ250人の参加者のほとんどはスーツを着た年配の白人男性だ。
  ――第3章 ネットワークの構築

 これが他の過激主義者たちとの大きな違い。珍しく彼らについては、黒幕もハッキリしてる。

戦略対話研究所(ISD)の調査によれば、環境保護運動の信用を落としたり、これを嘲笑したりする試みは、ハートランド研究所や「建設的な明日のための委員会」(CFACT)と関係していることがわかっている。これらの組織は(略)化石燃料業界と古くからのつながりがある。
  ――第3章 ネットワークの構築

 そりゃ炭鉱の所有者にとっちゃ、二酸化炭素排出規制は面白くないよね。ただ、ペルシャ湾岸のアラブ人がいないのは意外だった。とまれ、現実的な利害関係があるのが、他の過激主義者と異なる点だろう。

 次の「ホワイト・ライブズ・マター」は、ブラック・ライブズ・マター(→Wikipedia)に対抗する、白人至上主義者たち。なんか彼ら、被害者意識をこじらせてるんだよなあ。

「大いなる交代」と称するもの――グローバルなエリートの秘密結社が世界を支配するために、白人が非白人に抹殺されているとの考え…
  ――第4章 オルトメディアの興亡

 まあ世界の人口を考えれば、アフリカとインドの人口が急成長しているワケで、白人が少数派なのは事実ではある。が、そこに秘密結社や陰謀を見出すあたりが、なんとも。幼いうちに仮面ライダーやサイボーグ009などで「世界征服を狙う悪の秘密結社」に触れて免疫をつけていないと、大人になってこういうのにカブれるんだろうか。

 続く「トランスフォビアの究明」でも、奇妙な陰謀論が飛び出す。

ジェニファー・ビレクは、LGBTQの権利とは「テックと医療業界の複合体にとっての最前線」だとの発想を広める活動家だ。「『トランスジェンダー』とは企業による作り話で、現実には存在しないと考えています」
  ――第5章 バックラッシュの誘発

 などと書いちゃいるが、実は私もトランスジェンダーについて全く分かっていないと、本章で思い知った。それについては追って。ただ、これについてはフェミニストの間でも対立があり、事態をややこしくしてる。

トランスの権利を擁護する活動家と急進的なフェミニストの衝突は、1970年代にまでさかのぼる。(略)
急進的なフェミニストはふたつの集団に分かれることになる。
かたやトランス女性を支持し、平等を求めるもっと広い闘いの一翼を担うものとして受容する者たち、
かたやトランス女性の葛藤を非難し、女性の権利についての議論を乗っとったと責める者たちだ。
  ――第5章 バックラッシュの誘発

 最近じゃハリー・ポッターの著者J.K.ローリングが炎上したし。ところで、ここ、原文も「急進的なフェミニスト」なんだろうか?「熱心なフェミニスト」か「活動的なフェミニスト」のような気がするんだが。

 次の「反ワクチンネットワークの世界」でも、なかなかに香ばしい発言が飛び出す。

1 この世界を制するエリートたち(イルミナティ一族の爬虫類)は
2 意のままにできる人間たち(テレパシーによって操る奴隷)を
3 普通の人間と結婚させて我々を絶滅させようしている
  ――第6章 大衆の説得

 マグマ大使に「人間もどき」ってのが出てきたなあ。いや齢がバレるね。それはともかく、「何者かの悪意・敵意が状況を悪化させてる」って考えは、別に目新しいモンでもない。

歴史を見れば、偽情報が危機の時代に勢いづくのはいつものことだ。14世紀のペストはユダヤ人が井戸に毒を入れたせいだと非難された。19世紀のコレラ禍では、医師が死体を入手するためにわざと病気をつくったとのデマが広まった。
  ――第6章 大衆の説得

 関東大震災でも似たようなデマが広まり、無実の人々が犠牲になった。大昔からある手口だが、それだけに効果も実証されている。また、この手の扇動を巧くやるには、タイミングや状況も重要だ。

急進化はたいてい不安や不満が重なったときに始まるものだ。
  ――第8章 わたしたちにできること

 本書では、コロナ禍がこれに当たる。そして、この状況を計画的・組織的に利用している者もいる。外でもない、ロシアのプーチン政権だ。「140字の戦争」が詳しいが、ロシアは国家あげてトロール(荒らし)を運営し、デマをバラ撒き、親ロシア勢力を育てようとしている。

ロシアの偽情報はしばしばクレムリンからQアノンに直接流れ、その最終的な目的地、すなわち西側の右派メディアに届くのだ。
  ――第7章 代理戦争の遂行

 大量の戦場的なデマで不信感を煽り、政府やまっとうな報道機関の信頼性を揺るがすのがロシアの手口だ。彼らの手口は狡猾で…

ロシアのプロパガンダは聴衆に応じて慎重に行われる。RT(ロシア・トゥデイ、→Wikipedia)やスプートニクはロシア語版でワクチン接種を奨励する一方、英語版やドイツ語版ではワクチンにまつわる不安や懸念を拡散する。
  ――第7章 代理戦争の遂行

 スプートニクやRTなんていかにも怪しげじゃん、とネット老人は思うんだが、それは冷戦を経験しているからなんだろうか。あとイランの Pars Today も要注意ね。実際、どんな世代が惑わされているか、というと。

2022年にドイツで実施された調査では、30歳から49歳までのテレグラムユーザーが新ロシアのプロバガンダや陰謀論に最も影響を受けやすいとわかった。
  ――第8章 わたしたちにできること

 まったく、近ごろの若い奴は、なって思ってたら、すぐに逆襲を食らった。

また別の調査からは、総じて65歳以上のフェイスブックユーザーは、若いユーザーよりもフェイクニュースのサイトへのリンクを7倍もシェアしていることがわかった。
  ――第8章 わたしたちにできること

 はい、いずれにせよ、油断しちゃイカンって事です。

 ただ、西側の者も単にやられるだけじゃない。ロシアや中国はインターネットを検閲してるけど、それを出し抜く人たちもいる。

グーグルマップ上のレストランのレビューは、活動家が誤情報と闘う新たな手段になっている。ロシアの反体制派や国際的な活動家は、クレムリンが牛耳るソーシャルメディアを出し抜き、自分たちのメッセージをロシアに届けるクリエイティブな手法を編み出している。
  ――第8章 わたしたちにできること

 いつの時代も、検閲に抗う人たちはいるのだ。ジミー・カーターが大統領時代に東側にバラ撒いたFAXが後にベルリンの壁を崩す勢力を育てたように、こういう地道な活動が、プーチンの権力基盤を揺るがすんだろう。少しづつ、ではあるけれど。

 本書はあくまでも現状報告だ。より深い原因や構造の究明、例えば人々が陰謀論にハマる理由やその過程を求めると、少々ガッカリする。とはいえ、頷ける主張もある。例えば、反ワクチンや人種差別や荒唐無稽な陰謀論は、混然一体となって繋がり連帯を保っているのに対し、リベラルや中道はタコツボ化して四分五裂しているのはマズいよね、なんて指摘だ。

 過激主義より、それにより被害を受ける人々こそ、著者が描きたかった主題なんだろう、と私は思う。

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2025年12月 8日 (月)

高野秀行「イラク水滸伝」文藝春秋

湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらえばいいんだ!
  ――はじめに

【どんな本?】

 「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も書かない本を書く」をポリシーとする旅行記作家の高野秀行が本書で出向くのは、イラク南部の湿地帯。

 イラクは砂漠の国の印象が強い。しかし南部は全く様相が異なる。ティイグリス川とユーフラテス川が合流し、イランとの国境やペルシャ湾も近いあたりだ。8メートルもの背丈の葦が生い茂り、道路の代わりに水路が縦横に走る。もちろん重い戦闘車両は近寄れない。シュメールの時代から、都市を追われた者たちが隠れ潜む、いわば梁山泊のような土地だという。

 現代でもマンダ教徒(→Wikipedia)が多く住んでいる。もっとも、多くのマンダ教徒は他国へ移住してしまった。サダム・フセインの圧政やイランイラク戦争・湾岸戦争・イラク戦争と相次ぐ戦乱と、その後の混乱が原因だ。

 湿地帯を行き交い、水牛を飼い、葦の家に住み、独自の舟で水路を行き来する。そんな幻の民族を尋ねてイラクの「辺境」へ向かった著者は、誰と出会い、何を食い、どんな風景を見るのか。

 スリルと意外性とトラブルに満ちた、捧腹絶倒の紀行ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2023年7月30日第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約462頁。9.5ポイント43字×19行×462頁=約377,454字、400字詰め原稿用紙で約944枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて親しみやすく読みやすい。内容もわかりやすい。歴史的・地理的そして最近のイラク情勢など、多くの背景事情が関わっている。が、その都度わかりやすく多分に雑な説明があるので、素人でも充分に理解できる。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。もっとも、中身は右往左往してるんだが、それも、というより、それこそがこの著者の作品の魅力なのだ。

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  • はじめに
  • 第1章 バグダード、カオスの洗礼
    • 1 有田焼のお土産が困惑を呼んだ理由
    • 2 イラク料理、こわい
    • 3 バグダード民泊は「鶴の恩返し」
    • 4 鶴の見た古都バグダード
    • 5 謎の古代宗教マンダ教
    • 6 「すべての人類はマンダ教から生まれた」
    • 7 ヨハネの愛弟子たちの洗礼
  • 第2章 イラン国境の水滸伝
    • 1 ディープサウスへ
    • 2 湿地帯が生んだイラクの国民的朝食
    • 3 マンダ教徒の舟大工
    • 4 湿地帯の王
    • 5 混沌と文明の間にあるもの
    • 6 奇人サーレ先生と天国の湖
  • 第3章 新世紀梁山泊チバーイシュ
    • 1 シュメール文明を受け継ぐ「葦の館」
    • 2 驚異の新世紀梁山泊
    • 3 伝統的水滸伝と古代粘土板せんべい
    • 4 プチ梁山泊の最強コンビ
    • 5 原初的水滸伝の謎
    • 6 湿地帯に自由はあるのか
    • 7 シュメールのウル遺跡で逆タイムトラベル
  • 第4章 イラク水滸伝六千年 脳内タイムマシンの旅
    • 1 シュメール時代の水滸伝
    • 2 異端グノーシス時代の水滸伝
    • 3 二十世紀水滸伝の主役はコミュニスト
  • 第5章 「エデンの園」の舟造り
    • 1 「エデンの園」は実在した!
    • 2 氏族長のリムジン「タラーデ」
    • 3 神をも恐れぬ舟造り
    • 4 水滸伝にはブリコラージュがよく似合う
    • 5 抵抗者たちの系譜
    • 6 湿地帯の核心「マアダン」とは何者か
    • 7 衝撃の「ゲッサ・ブ・ゲッサ」
    • 8 アメリカvsイラン戦争危機とタラーデ完成
  • 第6章 呪われた水滸伝の旅
    • 1 「エデンの園」から追放されて
    • 2 主なき梁山泊
    • 3 天地明け初めぬ島
    • 4 ゲーマルの謎
    • 5 移動経路を調査する
    • 6 われら聚義庁を乗っ取る!
  • 第7章 謎のマーシュアラブ布を追え!
    • 1 頭領ジャーシム宋江の帰還
    • 2 世界最古の都市国家ウルク
    • 3 謎の刺繍布の作り手と会う
    • 4 アザールを作っていたのは“禁じられた民”!?
    • 5 湿地帯に存在した「禁じられた民族」
    • 6 刺繍布によって浮かび上がるアフワールの真の姿
  • 第8章 古代より蘇りし舟は行く
    • 1 湿地帯の罠、再び
    • 2 過激なる水滸伝右派
    • 3 マイ・スウィート梁山泊
    • 4 浮島、最後の晩
    • 5 好漢たちが集結、タラーデに乗る
  • あとがき
  • 謝辞/参考文献一覧

【感想は?】

 相変わらずの無謀っぷりが楽しい一冊。

 何かと物騒なイラク、それも辺境に行くとなれば、普通は武装したボディガードをつけるだろう。が、著者が引き連れるのは探検家で川の達人・山田高司氏(→Wikipedia)のみ。あとは日本で知り合った何人かのイラク人のツテで、芋づる式にガイドを増やしてゆく。

 今回の旅は2回。最初はアタリを付け、二回目で本格的な調査に入る予定。

 ってんで、最初の旅でバグダードに着いたとたん、著者はご馳走攻めにあう。「イラクの料理はすっごく美味しい」そうで、中でも有名なのが恋の円盤焼きこと「サマッチ・マスグーフ」。

イラクでは五千年前から鯉が食されているのだ。
  ――第1章 バグダード、カオスの洗礼

 そしてマンダ教徒が多く住む南部アフワールに向かう。湿地と呼ばれるが…

湿地帯と聞いていたから全体的にじめじめとした場所をイメージしていたが、それも全然ちがった。雨がいくらも降らないため、水があるところ以外はひどく乾燥しており、風が吹くごとに土埃が舞う西部劇の舞台みたいな土地である。
  ――第2章 イラン国境の水滸伝

 やはり砂漠の国なのだ。大河の水で潤っているが、天水はない。だから大河の水量で湿地も広がったり狭まったりする。そして湿地に住む人も、水が減れば地上に移り住むのだ。

 彼らにとって欠かせないのが水牛とカサブ(葦)。葦ったって、高さ8メートルにも及ぶのがビッシリ生えてて、煮炊きの燃料から家にもなる。

ここでは何でもカサブ(葦)で物が造られ、ムディーフ(ゲストハウス)も例外ではない。
  ――第3章 新世紀梁山泊チバーイシュ

 ゲストハウスのみならず、住む家だってカサブだ。本書では浮島と呼んでいる。これが実に簡単に作れてしまう。実際、著者の目の前で、アッサリ実演してくれたり。

全工程で20分ぐらい。これが原初チバーシェ(浮島)なのである。
  ――第6章 呪われた水滸伝の旅

 そんな風に、家が簡単に作れるのと、水の多寡で湿地の環境が年々変わるためか、彼らは不規則に住処を変える。お陰で…

「アフワールには私有地なんてない」
彼らが所有するのは水牛のみで、あとは公共のもの。
  ――第3章 新世紀梁山泊チバーイシュ

 つまりは遊牧民なのだ。一応の縄張りはあるようだが。だから、「どこに住むか」より「どの氏族か」が大事だったりする。後に公安らしき者が著者らに事情聴取するのだが、そこで公安がこだわったのは…

私たちの目的や身分はどうでもよく、「誰の客なのか=保護者が誰か」を知りたがっているのだ。
  ――第8章 古代より蘇りし舟は行く

 公安が動くのも当然で、シュメールの昔から湿地帯は都市を追われた者が隠れ潜む地だった。なにせカサブが生い茂る地だ。葦の中に隠れれば、まず見つからない。大軍も動かしにくい。その歴史を背負い、最近では…

20世紀、イラク水滸伝の主人公は意外なグループだった。
イラク共産党である。
  ――第4章 イラク水滸伝六千年 脳内タイムマシンの旅

 なのだが、彼らが言う共産党は、私たちが考える共産党とは全く異なる。なにせ…

三島(由紀夫)や武士は「大義のために自分の命をかけた人」というくくりで、共産主義者の仲間になってしまっているようだった。
  ――第6章 呪われた水滸伝の旅

 だから、おそらくマルクス主義とは関係ない。反政府組織とか革命勢力とか、そういう意味だろう。1960年代にCIAが主導した途上国内の共産主義勢力の弾圧を「ジャカルタ・メソッド」が書いていた。が、本当に彼らは共産主義者だったんだろうか。もっとも、政府から見れば、いずれにせよ「俺たちに逆らう輩」なんだが。

 さて、冒頭から、湿原に住むマンダ教徒を、どう呼ぶかが、著者らの一つの悩みとなる。通称は「マアダン」なのだが、イラク人らの解釈だと、「マアダン」は蔑称の印象が強い。が、当人らはそう思っていない。また、「俺はマアダンじゃなくなった」と言う人もいたり。最終的に、著者の解釈は…

マアダンは水牛中心の生活を送っている人たちなのだ。
  ――第5章 「エデンの園」の舟造り

 って所に落ち着く。

 争いは好まない…ことになっているが、

抗争はよく起きた。抗争の原因は大きく四つある。
1 婚外の性交渉(親の承認を得ない結婚や不倫、婚前交渉など)
2 テリトリーの侵害
3 水牛が耕作地の米や小麦を食べてしまう
4 盗み
  ――第5章 「エデンの園」の舟造り

 女と縄張りは、ありがちだね。水牛の食害も、遊牧民と定住民の衝突で、納得できる。困るのは盗みだ。マアダンにとって、盗みは…

「遠くの氏族のものを盗むことは讃えられた。『夜のライオン』と呼ばれて英雄になった」
  ――第5章 「エデンの園」の舟造り

 たぶん、トンズラかませばまず捕まらない遊牧民の暮らしが、そういう文化を育んだんだろう。異文化共生ってのは、そういう人たちと共に生きるって事です。シンドそうだなあ。

 そんな彼らのマンダ教は、なかなかに気位が高い。シュメール人すら「道を踏み外した」と断じる。一種のグノーシス主義(→Wikipedia)だ。

グノーシスは「この世は間違っている」というのが思想の出発点
  ――第4章 イラク水滸伝六千年 脳内タイムマシンの旅

 そう言われると、近ごろ流行ってる陰謀論も、グノーシスの一種かもしれない。いや知らんけど。

 いったん帰国した著者は、衝撃的なモノに出会う。アザール刺繍布(→Google画像検索)だ。カラフルで自由奔放なアザール刺繍布は、マアダンが作っていた。マアダン曰く…

「ここは昔、マンダ教徒とユダヤ教徒が住んでいた。彼らが昔から(アザール刺繍布を)作っていて、ムスリムはあとから習ったんだ」
  ――第7章 謎のマーシュアラブ布を追え!

 やはり気位が高い。

 前回の旅では、そんな彼らに舟を造ってもらった著者。が、再入国するまでの間に、だいぶ傷んでしまった。そこで職人を呼んで修理してもらう。その祭、職人も彼ら(のガイド)も喋りっぱなし。

この地では、クライアントは職人や業者にお茶を出したり弁当を用意したりする以上に、話し相手になることが「接待」になるようだ。
  ――第8章 古代より蘇りし舟は行く

 日本でも、中東系の人はスマートフォンで喋りっぱなし、なんてネタになってる。きっと、そういう文化なんだろう。お喋りが好きなのだ、彼らは。

 高野秀行流の無謀にしてユーモラスなイラク南部の旅行記。彼のファンにはお馴染みの、現地の人々との体当たりのコミュニケーションと、それが祟ってのご馳走攻めなどのトラブルもあれば、グノーシスや共産主義などの考察も興味深い。フセイン時代から今日までのイラク情勢も、イラク南部ならではの独特の視点が貴重だ。何はともあれ、高野秀行ファンにお薦め。

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2025年11月27日 (木)

ロマ・アグラワル「ナットとボルト 世界を変えた7つの小さな発明」草思社 牧尾晴喜訳

宇宙であれ、生物であれ、人間による発明品であれ、それを形作る複雑な仕組みは、より小さくて単純な「なにか」からできている。(略)本書はそのような身の回りの物の根本的で魅力的な仕組みについて、明らかにするものである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 私たちの身の回りには、さまざまなモノがある。家・時計・電話・スピーカー・洗濯ばさみ・自転車・水道etc。これらのコノは、幾つかの小さな部品や機構からできている。モノを固定する釘やネジ。くるくる回る車輪。伸び縮みするバネ。鉄を引き付ける磁石。視力を補うレンズ。モノを繋ぐひも。そして水や空気を動かすポンプ。

 これらの部品や機構は、いつ・どこで生まれたのか。それはどのように進歩し、どんな所でどのように使われたのか。そして現代ではどのように進歩し使われているのか。

 エンジニアとして橋や建築物の構造設計に携わってきた著者が、例えばひもならつり橋のような大きなものから防弾チョッキのケプラー繊維そして楽器タンブーラの弦まで、大小さまざまな機構や部品のルーツと歴史をたどり、また現代の最新技術での応用を取材した、一般向けの科学と技術と歴史の楽しい読み物。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Nuts & Bolts: Seven Small Inventions That Changed the World, Roma Agrawal, 2023。日本語版は2024年7月4日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約281頁。9.5ポイント40字×18行×281頁=約202,320字、400字詰め原稿用紙で約506枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて親しみやすい。内容も分かりやすく、数式も出てこない。日本の例も少し出てくるのは、インド系である著者の出自ゆえの視野の広さだろうか。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • はじめに
  • 1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり
  • 2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと
  • 3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり
  • 4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく
  • 5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし
  • 6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで
  • 7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで
  • おわりに
  • 謝辞/協力者一覧/参考文献

【感想は?】

 著者はハッカー、それもハードウェア・ハッカーだ。ただしハックの相手はコンピュータじゃない。建築物、特に橋である。

 冒頭の幼少期にクレヨンを分解するあたりから、ハッカー魂が炸裂してる。ハッカーの卵は、なんでもかんでも分解して中身を調べて学ぶのだ。代表的な被害者は時計ね。まあ、その後、元に戻せない事も多いんだがw

 そんな著者が最初に紹介するのが、釘。今でこそありふれたモノで…

現在の釘製造機は、1分間に800本以上の金属釘を製造することができる。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 と、大量生産している。が、著者は敢えて昔ながらの鍛冶による手作りに挑む。この場面で、かつての釘の貴重さが伝わってくる。そう、真っ赤に熱した鉄をトンカン叩いて釘の形に成型するのだ。そんな釘の歴史は古く…

最古の青銅の釘は紀元前3400年頃のもので、エジプトで発見された。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 と、歴史は古い。もっとも、現在の鋼鉄製の釘に比べると頑丈さは劣るが。頑丈さを求めると、リベットを介してナットとボルトに行きつく。そしてもう一つ、ワッシャーも。あれ、私は役割が今一つわかっていなかったが…

ワッシャーは、ナットと接合される鋼製の母材の間に取り付けられ、ナットが締め付ける力を分散させる役割を果たす。ワッシャーを使わないと、ナットを締める際に梁や柱に小さな亀裂が生じ、強度が落ちる可能性がある。
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 あ、そういう事なのね。ここでは軍ヲタに嬉しい雑学も一つ。

(ホーカー・)ハリケーンは二つのフレーム(構造と外皮)が必要だったのに対し、(スーパーマリン・)スピットファイアに必要なフレームは一つだけだった
  ――1 NAIL 釘 ものを固定することは偉大なり

 機体が軽くなって、いわゆる出力重量比が良くなるのか。他にも昔の船に木釘を使った例も出てきて、水中だと木が湿り膨れてより締まるのが嬉しいそうです。

 続くのは車輪。ところが、発端は意外な分野で。

車輪はもともと陶器のための発明だった。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 もしや…と思ったらその通り、ろくろだった。垂直な回転軸を水平にしたのが、馴染みの車輪。最初は丸い木の板だったけど、年輪に沿って割れやすいとか重いとかで、リムとスポークに進歩する。更に製鉄技術の進歩で鋼鉄製になり…

両面が皿形になった(自転車の)テンションワイヤースポークの車輪は、その軽さと優れた強度や柔軟性(ガタついた地面でも簡単には壊れない)により、車輪の進化の中でも極めて重要なポイントとなった。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 と、ちょっとした形の違いが大きな進歩をもたらす事もあるんです。

 現代の車輪は宇宙にも飛び出し…

ISSの構成要素や実験装置の動力源である太陽電池パドルは壊れやすいため、通常、スラスターを起動する場合は収納してロックする必要があり、ISSの運用に非常に致命的となる。そこで小さく、穏やかな動きで構造体を操縦できるように、エンジニアたちはコントロール・モーメント・ジャイロ(CMG)(→JAXA)と呼ばれる四つのジャイロスコープを使用している。
  ――2 WHEEL 車輪 ものを遠くへ運ぶこと

 なんて意外な所で活躍してる。要ははずみ車だね。はずみ車に溜めた角速度を取り出して、機体の姿勢を変えるのだ。スラスターは貴重な推進剤を使うし。

 車輪の次はバネ。これのルーツも意外で。

弓はバネの一種だ。バネとは基本的に、外力によって変形したときにエネルギーをたくわえる。外力が取り除かれるとバネは弾けるようにして元の形に戻り、その時にエネルギーを放出する。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 意外なようだが、曲がったり伸びたりってんなら、今だって板バネがあるよね。その曲がりを極めたのが、ゼンマイだろう。そしてゼンマイ仕掛けの花形が、時計だ。もっとも、初期のゼンマイ時計は…

初期の動力ゼンマイによる時計も正確性では(従来の時計に)むしろ劣っていた。なぜなら、ゼンマイはきつく巻かれた状態で最もエネルギーをたくわえ、ほどけるとエネルギーが減少するからである。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 おまけにゼンマイの品質がバラけてると、場所によって強さが違うんで、クロノメーターのジョン・ハリスン(→Wikipedia)は苦労したのだ。

 これらのバネは力を溜めて解放する、いわばバッテリーだが、もっと大きなバネは力を「伝えない」ために使われている。建物に使われる免振装置(→Wikipedia)だ。

構造物においては、バネの役割は(騒音や振動を)遮断することにあり、特に用のない限りは静止して、ひっそりと隠れているのだ。
  ――3 SPRING バネ 力を溜めたり、解放したり

 日本だと地震対策で有名だが、本書の例は音楽ホールの防音構造だ。確かに一つの建物に大小のホールや練習室があると、防音は大事だよね。

 お次の磁石は指南車や羅針盤が有名だが、本書が主に扱うのは情報の伝達と保存…って偉そうだが要は電信・電話そして電子記録媒体です。

近代的な通信手段はすべて、ある地点から別の離れた場所へほとんど一瞬のうちに信号を送るという技術に基づいている。そしてその中心をなすのが「磁石」である。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 ったって電磁石だけど。とまれ、この章を読むと、機械式に対する電子式の有利さがひしひしと伝わってくる。なにせ速さが桁違いなのだ。また…

初期の電話にはさまざまなデザインがあったが、一つ共通点があった。磁石と電線のコイルを一緒に使って相互作用を生み出していたことである。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 なんてアッサリ触れてるだけだけど、つまりはマイクとスピーカーね。音を電気に変える、または電気を音に変える機構だ。ここはもう少し突っ込んで欲しかったが、そうするとオーディオの歴史になって一冊の本になっちゃうか。

 そんな磁石も今や…

今ではディスク、メモリーチップ、インターネットポート、洗濯機、電話、ラジオ、時計、メーターなど、磁石は私たちの家庭に何百個も存在するようになった。
  ――4 MAGNET 磁石 情報が距離を超えてゆく

 と、すっかり当たり前のモノになったのだ。

 電磁気の次は電磁波、つか光を扱うモノ、レンズだ。私も眼鏡には日頃からお世話になってる。科学と工学の関係にはよくあるように…

磁石や多くの発見と同様に、レンズの振舞いに関する知識や使い方は、その理論的な解明よりもはるかに先をいっていた。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 まあ運動方程式を知らなくてもキャッチボールはできるし。

 現代のレンズの応用で身近なのは写真だろう。昔から写真の持つ「人の心を動かす」力を判っていた人はいたようで…

19世紀に最も写真に収められたアメリカ人は、アブラハム・リンカーンではなく、(フレデリック・)ダグラス(→Wikipedia)である。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 奴隷制度廃止運動家の彼は、写真が人々に与える力を意識して使ったのだ。ここでは、当時のフィルムは白人の肌の色に合わせて調整していたため、黒人はうまく写らなかった、なんて話も。

 さて、当時のカメラのレンズは一つだが、最近のスマートフォンは複数のレンズがついてる。これはハッタリじゃない。

最近では、レンズが二つ、あるいは三つ付いたスマートフォンを見るようになった。一つは遠くのものを撮影するために非常に長い焦点距離を持つレンズであり、一方で、広角撮影が可能な短焦点のレンズ、中間的な撮影ができるレンズもある。
  ――5 LENS レンズ 小さな生命へのまなざし

 スコープドッグのカメラが複数あるのは、そういうことか。いや赤外線や紫外線など広い波長の電磁波を捕える目的かな?

 なんてハイテクなネタに続くのが、ひも。単純だけど、人類の文明に与えた影響は大きいし、今だってあらゆる所に使われている。例の紐とか←をい

今もなお、傷を縫い合わせ、谷に橋をかけ、身体を保護する、そのすべてを静かに支えるのがひもの力なのだ。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 単純ながら、理屈は意外と複雑だ。そこらの蔦の蔓を持って来たんじゃ、弱くて役に立たない。使い物にするには…

ひもは繊維からできているが、単一の繊維だけでは弱いし有用ともいえない。有用なものにするためには、複数の繊維を互いにこすり合わせるようにして一体化する必要がある。これによって生まれる繊維間の摩擦力こそがひもの強さの源だ。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 「撚る」必要があるのだ。つか、強さの秘訣は摩擦力だったのか。知らなかった。しかも、撚り方にもコツがある。

S撚りと呼ばれるやりかたで、ひもの長さ方向に沿って、繊維がSの字の中間部のように左上から右下に巻かれている。さらにその撚糸を3本使って、今度は反対向き、つまり右上から左下(Z撚りと呼ばれる)に巻いて、1本のひもを形成している。
  ――6 STRING ひも 巨大な構造から楽器まで

 右回り・左回りの両方で巻くのだ。でないと、巻きをほどく方向にねじれようとする。これも知らなかったぞ。

 そうやって撚ったひもは、織って布になったり、吊り橋を吊るすケーブルになったり。最近は斜張橋が多いよね。

 最後はポンプ。

ポンプとは液体や気体を移動させる装置だ。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 この章では、誰もが体内に持つポンプ、すなわち心臓の話も出てくるが、まずは水を送るポンプ。

革新的なポンプは、もともと乾燥地帯で生まれた。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 つまりは灌漑用ですね。本章は古代メソポタミアのシャドーフ(→英語版Wikipedia)から始まって、これが実に説得力に富んでる。

 現代じゃポンプも宇宙に進出してて、こんな所でも活躍してたり。

宇宙服には大きく分けて2種類あり、一つは打ち上げと再突入の際に宇宙船内で着用するもので、もう一つは宇宙遊泳(NASAが言うところの「船外活動(EVA)」(略))に使用されるものである。
  ――7 PUMP ポンプ 心臓、渋さを超えて宇宙まで

 2種類あるなんて知らなかったぞ。本書で詳しく語るのは船外活動用で、つまりは空調用です。贅沢だと思うかもしれないが、人類初の船外活動を行ったアレクセイ・レオーノフ(→Wikipedia)の逸話を読むと、命に係わる機能だと納得するはず。

 モノにせよ仕組み・仕掛けにせよ、身の回りに溢れていると、ソレは最初からあったかのように思ってしまう。が、ひもや釘のように単純なモノでも、ソレは人類史上の大きな発明と呼べるものであり、また長い時代を経て改良を重ねてきた歴史を持っている。雑学が好きな人はもちろん、科学史・技術史に興味がある人にお薦め。

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2025年11月24日 (月)

SFマガジン2025年12月号

0.006気圧の大気中では、舞い上がった砂塵は速やかに地面に落下するからだ。
  ――宮西建礼「マールスの子どもたち」

「おまえの母親は英雄だ。くれぐれもそれを忘れるんじゃない」
  ――ウォレ・タラビ「暴噴」鳴庭真人訳

私が親友を壊したのは、17歳の冬のことです。
  ――小野美由紀「春を待つ君を待つ」

 376頁の標準サイズ。

 特集は「火星SF特集」として小説4本に評論やエッセイなど。

 小説は11本+1本。特集で4本、連載が5本、読み切りが2本+冒頭のみが1本。

 火星SF特集。小説は4本。宮西建礼「マールスの子どもたち」,チャズ・ブレンチリー「第十二の駅」桐谷知未訳,ウォレ・タラビ「暴噴」鳴庭真人訳,王侃瑜「火星の祝融」大恵和実訳。

 連載小説5本。山本浩貴(いぬのせなか座)「親さと空」第2回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第62回,吉上亮「ヴェルト」第二部第九章,夢枕獏「小角の城」第84回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第30回。

 読み切り小説2本。カスガ「不滅の遊戯」,小野美由紀「春を待つ君を待つ」。

 冒頭のみは第13回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作の関本聡「摂氏千度、五万気圧」。

 火星SF特集。

 宮西建礼「マールスの子どもたち」。レムとロムはコンテナトラックに潜み“都市”への密航を企てた。“都市”は自己複製機械群マルシスによりクレーター内で建設が進みつつある。ただしそこに人はいない。マルシス制御下の自動機械が動いているだけ。画面でも見れるが、二人は自らの目で見たかったのだ。望みは叶ったものの、マルシスに見つかりお説教を食らう。

 火星に相応しく酸素タンクの容量が気になる定番の冒頭から、今世紀ならではの技術を用いた“都市”の建設風景はSF心をくすぐりワクワクする。トム・ソーヤ―よろしく少年の冒険物語になるかと思いきや、現在ホットな進歩を遂げつつあるアレの行く末を見つめた舞台背景は、希望と絶望が入り混じったモノで…

 チャズ・ブレンチリー「第十二の駅」桐谷知未訳。カッシーニ・クレーターには、まわりを巡るモノレールがある。その駅の一つは“第十二の駅”と呼ばれ、必ず誰かが居る。周辺には何もない。駅にも説明板がなく、駅名の由来は人に訊ねるしかない。かつて“大戦争”で大英帝国とロシアが戦い…

 いかにもイギリス出身の作家らしい作品。というのも、イギリス陸軍は大日本帝国陸軍と同じく、部隊は出身地ごとに編成するからだ。スコットランド高地の舞台はタータンチェックのスカートをはいてバグパイプを吹いてたりする(→Wikipedia)。米国の作家だと、こういう発想は出ないだろう。いや本作の雰囲気はイングランドっぽいけど。

 ウォレ・タラビ「暴噴」鳴庭真人訳。フォラケが軌道のネリオ・ステーションで火星の地表の掘削現場を監視していた時、通信回線から轟音が鳴り響く。現場で爆発が起きたようだ。キック(→JOGMEC石油・天然ガス資源情報キック)と判断したフォラケは情報を整理する。想定した数字より2桁も大きい。現場には弟のフェミもいる。

 暴噴って言葉は知らなかったが、なんとなく見当がつくのが漢字の嬉しい所。ナイジェリア出身の著者らしくアフリカ宇宙機関が火星開発に携わっているのが独特。アフリカは鉱物資源が豊富なので、掘削技術が発達するのは理にかなってる。遠隔操作型のロボット,イベジの活躍が楽しい作品。

 王侃瑜「火星の祝融」大恵和実訳。祝融は火星の大都市天荒を管理するAIだ。その能力を認めた人類はより多くの任務を祝融に任せ、権限も拡大した。ナノマシン生産に秀でた火星の人々は肉体をナノ化し、祝融に権限を譲って火星から去る。残された祝融は自らを拡張し生命について考え始める。

 もしかして「フロストとベータ」?と思ったら「光の王」が少し混じって「十二月の鍵」に…という、年寄りを泣かせまくる作品。たまたまカブったのかと思ったが、これは完全にロジャー・ゼラズニイへのオマージュだ。神話ベースだし。壮大なストーリーを短編にギュッと詰めこんだせいか、語り口は武骨でぶっきらぼうだが、それだけに濃ゆいSF魂が煮えたぎってる。

 連載小説。

 山本浩貴(いぬのせなか座)「親さと空」第2回。2017年。柚葉は中学受験を経て県内チップの中高一貫校に入学する。だがほとんど学校には通わず、オンラインFSPゲーム Vosok に入り浸っていた。そこで知り合った同年代のマリアと親しくなり、無料インディーズ・ゲームにも手を伸ばす。その一つ Arek-Chain は奇妙なゲームで…

 前作「無断と土」に引き続き、本作でも今回はゲームが重要な役割を果たす。つか光の速度でも距離が問題になるって、どんな運動神経してるんだFPSプレイヤー。続いて出てくる Arek-Chain、不気味さと怪しさは抜群で。カギとなる事件(ネタバレ?→アムネスティインターナショナル)も実に怖い。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第62回。イースターズ・オフィス,クィンテットそしてマルドゥック市警の三者連合によるリバーサイド・ホテル攻略は続く。バジルから三階のセキュリティ・フロアを任されたトーディは、刑務所でギャングから効果的な放火の方法を学んだ。それを今、役立てよう。

 前回に続き次々とホラーな場面が続く回。特におぞましいのがハエ男。某映画の気色悪さが生々しく蘇ってくる。ばかりか、本作のハエ男はおましい方向へ大きな進歩を遂げて…。

 吉上亮「ヴェルト」第二部第九章。大恐怖(→Wikipedia)のさなか、ロベスピエールの指揮による<最高存在の祭典>が始まる。相次ぐ処刑のせいか、革命の熱は冷めてゆく。だが処刑の数は増す一方だ。なまじ効率的な道具ができたため、歯止めがなくなってしまった。この事態を憂いながらも、サンソンは役目をまっとうし続ける。

 なかなかSFな仕掛けが出てこない本作だが、王の目に続く仕掛けがやっと片鱗を見せる。それも意外な所で。科学者らしい遠大な目標のために邁進する某氏(ネタバレ、→Wikipedia)の姿は崇高…には見えず、狂気に囚われているように感じるのは何故だ。でも、その発想は相応しいかも。

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第30回。大館いつきに大小の刃物が迫る。フロックコートの男と印南凍が揉み合っている。女が石室一佐にのしかかり、一佐の身体から銛を抜く。早坂篤子が女に飛びかかる。

 いろいろあるが、最後の一行の衝撃が最も大きい。

 読み切り。

 カスガ「不滅の遊戯」。北条茅子は入学した高校で南七都子と出会う。二人だけの囲碁同好会で、二人は三年間ただ碁を打ち続けた。競技会に参加するでもなく、二人だけで。もっとも、当初の茅子は小学生の頃に三か月ほど囲碁教室に通っただけ。七都子に至っては入門書を読み始めたばかり。それでも七都子はめきめきと腕をあげ…

 何かに特化した集団の中では、往々にして独自の言葉が発達する。家族の中だけ、職場の仲間内だけ、または業界用語とか。あれは単位時間内の情報伝達量を増やすという合理的な目的より、仲間意識を養う役割が大きいんだろう…ってカタいな、俺。シライシユウコのイラストが作品の空気を巧みに伝えている。

 小野美由紀「春を待つ君を待つ」。登志乃世イツキは、小学三年生のときにスイと仲良くなる。スイの父は一代でセクサロイド製造会社を育て上げた。名門の一貫校で成金と蔑まれるスイは、とても可愛く男子からもてた。甘やかされて育ったスイは自由奔放で傲慢だった。イツキはそんなスイが大好きだった。スイは人気アイドルのハルそっくりなセクサロイドを手に入れ…

 文章の大半がベッドシーンという、なかなかに攻めた作品。イツキがカウンセラーに語る一人称で話は進む。これ聴いてるカウンセラーは落ち着かないだろうなあw ある意味ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女」なんだが、もちろん展開はまったく違う。

 第13回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作の関本聡「摂氏千度、五万気圧」の冒頭。温暖化が進む地球。太陽系外から<救済者>が突然現れ、幾つかの密閉都市を造り去ってゆく。やがて地表の気温は昼まで70℃にまで上がり、人が住めるのは密閉都市だけとなる…例外を除いて。だが密閉都市のいくつかと、連絡が取れなくなる。バンクーバーとフェアバンクスのコクーン(密閉都市)は、調査隊を派遣する。

 いかにも映像化したら映えそうな<救済者>到来の出だしは、多少の胡散臭さもあって懐かしの50年代SFっぽい雰囲気が漂う。この胡散臭さは<救済者>の真意と正体にも付きまとっている。いや掲載分じゃ何もわからないけど。地表に残った「例外」のパートでは、スケールの大きい海洋冒険物語の予感がする。

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2025年11月17日 (月)

ロジャー・サロー、スコット・ギルマン「飢える大陸アフリカ 先進国の余剰がうみだす飢餓という名の人災」悠書館 岩永勝監訳

本書は、緑の革命の成果がいかに食いつぶされたか、そして21世紀に飢餓や飢饉を誕生させた怠慢についての物語だ。
  ――序文 うわべだけの後悔 エチオピア ハイランド地方ボリチャ、2003年

「ジャンジャウィード(→Wikipedia)は、作物が十分育つまで待ち、その頃に動物を持ち込んで、実った作物をすべて食べさせるんです」
  ――8章 イモムシを食べる スーダン、スワジランド、ジンバブエ、2003年

【どんな本?】

 昔から「アフリカは飢えている」と言われる。一時期はアジアや中南米も危なかったが、化学肥料やノーマン・ボーローグ(→Wikipedia)による品種改良ど「緑の革命」(→Wikipedis)により状況は良くなった。だが、アフリカは置き去りになっている。

 原因の一つは、政治的・軍事的な不安定さだ。例えば本書の主な舞台であるエチオピア。2025年WFP(世界食糧計画)のエチオピアによると、国内の避難民に加え南スーダン・ソマリア・エリトリア・スーダンからの避難者で「1,020万人が深刻な食料不安に直面して」いる。コンゴ民主共和国の東部は、もはや紛争が固定化してしまった(→「名前を言わない戦争」)。

 だが、先進国の政策の誤りもまた、飢餓を生み出す原因となっている。支援の方法がピント外れな場合もあれば、国内の農業政策の影響もある。いずれにせよ、重要なのは現場の事情をよく知り、それに合わせた支援を行うことだ。

 中南米で成功した緑の革命が、なぜアフリカでは失敗したのか。先進国が時刻の農家を支援する政策が、なぜアフリカの農家を苦しめるのか。なぜアフリカでは繰り返し飢餓が起きるのか。状況を改善するために、先進国には何ができるのか。

 アフリカで飢餓が起きる原因と構造を明らかにし、より効果的な支援の方法を模索する、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Enough: Why the World's Poorest Starve in an Age of Plenty, Roger Thurow and Scott Kilman, 2009。日本語版は2011年10月15日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約9.5ポイント45字×18行×415頁=約336,150字、400字詰め原稿用紙で約841枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。アフリカの国や地名がよく出てくるので、地図があると便利だろう。

【構成は?】

 原則として前の章を踏まえて次の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  • 序文 うわべだけの後悔 エチオピア ハイランド地方ボリチャ、2003年
  • 第1部 革命は終わっていない
  • 1章 変化のきざし メキシコ、1944年
  • 2章 寄せては返す波 ノルウェー オスロ、1970年
  • 3章 アフリカへ エチオピア北部、1984年
  • 4章 不公平な補助金 マリ ファナ、2002年
  • 5章 余剰と罰 エチオピア アダミ・ツル、2003年
  • 6章 誰が誰を援助している? エチオピアナザレス、2003年
  • 7章 水、水、水 エチオピア バハール・ダミ、2003年
  • 8章 イモムシを食べる スーダン、スワジランド、ジンバブエ、2003年
  • 第2部 もう、たくさんだ!
  • 9章 激怒するしかない
  • 10章 「何かできるはずだ」 ダブリンとシアトル
  • 11章 食物とともに服用すること ケニア、モソリオト
  • 12章 二歩進んで、二歩下がる 世界各地
  • 13章 失われた環(ミッシング・リング) ケニアとガーナ
  • 14章 取引開始のベルが鳴る シカゴからアディスアベバ、タァクハスネックへ
  • 15章 現場主義 ダボスからダルフールへ
  • 16章 小さな活動がもたらす大きな成果 ケニア、オハイオ州、マラウイ
  • 17章 「彼らの期待を裏切ってはならない」 ワシントンD.C.
  • エピローグ
  • 謝辞/監訳者あとがき

【感想は?】

 農協の意義がよくわかる本だ。

 冒頭では、「緑の革命」の原動力となったノーマン・ボーローグによる小麦の品種改良の物語を描く。驚くのは、彼の独特な品種改良の手法だ。大雑把に言って、小麦の栽培法は二種類ある。春播きと秋播きだ。

 ボーローグは小麦の品種改良の期間を短縮するため、無謀ともいえる手を使う。メキシコ北西部ヤキ渓谷では秋に蒔いて春に収穫する。そこで春に収穫した種をメキシコシティ周辺で春に蒔けば、倍の速さで研究が進むぞ。

 これには、意外な効果があった。一般に植物の成長や実の結実には、日照の長さの変化がトリガーとなる。日本では小学生の頃に朝顔を育てて学ぶアレだ。が、春と秋と半年のサイクルで世代を重ねることで…

(ノーマン・)ボーローグが何度も南と北を往復させて開発した小麦は、日の長さに影響を受けにくくなり、メキシコ全体だけでなく、世界中で栽培しやすい性質を持つようになった。
  ――1章 変化のきざし メキシコ、1944年

 と、気候の違う世界中に適応できる性質を備えたのだ。

 この小麦はインドが導入し、大きな成果を挙げる。だが、アフリカでは通用しなかった。この原因が、多種多様な上に根深い。

  1. アジアは稲作用の灌漑設備が整っていたがアフリカは雨水頼り、日照りが続けば全滅
  2. アジアは市場に運ぶ道路・鉄道網や川など輸送網が整っていたがアフリカの輸送路は鉱山と港を結ぶだけ
  3. アジアは市場や貿易の流通制度があり余剰作物を吸収できたがアフリカは数百年前と同じ
  4. アジアはコメと麦だけに品種改良の焦点を絞れたがアフリカはミレット(雑穀、キビ・アワ・ヒエ・ソルガムなど)・キャッサバ・トウモロコシなど多種多様
  5. 元手がなく肥料が使えず機械化も進まない
  6. 政府による価格保証や不作の際の保険がない
  7. 戦争や紛争
  8. 政府の腐敗
  9. 政府の農業の軽視

 それぞれに歴史的な経緯や政権の政策に農家の事情も加わっている。

 まず、灌漑設備の未発達だが、エチオピアの場合は隣国エジプトやスーダンとの関係で、青ナイル川水系にダムや貯水池を作れなかったのだ。

2003年、エジプトではナイル川から水を引く何千キロもの用水路によって800万エーカー(約320ヘクタール)の農地が灌漑されていたが、エチオピアの灌漑された農地は5万エーカー(約20万ヘクタール)にも満たなかった。
  ――7章 水、水、水 エチオピア バハール・ダミ、2003年

 アフリアの政府は農業を軽んじて工業化を進めたがるけど、先進国は工業化の資本を農業で溜めてきたのだ、そして農業には水資源の管理が重要で…

「川の水力の利用とその水資源の活用なしで発展した国は、これまでない」

 なんてのもある。そういやイギリスの産業革命も、最初は水力による紡績と力織機だった。

 そのエチオピア、今はルネサンスダム(→Wikipedia)が稼働しているが、相変わらずエジプトやスーダンとは揉めている様子。

 対してアジア。緻密な水路の管理が必要な水稲=米作が盛んな地域は昔から治水を重んじてきた。ニューギニアの山奥でも、高度な水路網が整っているとか。

 次の輸送網は、自国で整えた場合もあればインドのように宗主国が造った所もある(→「綿の帝国」)。基本的にアジアは人口密度が高いので、輸送網の整備は費用対効果が高いんだろう。市場が充実しているのも、同じ理由だと思う。日本じゃ江戸時代から米の先物取引所があったし(→Wikipedia)。

 切実なのが、穀物の種類が多い点。一見、非効率なように思えるが、実は合理的なのだ。というのも…

変わりやすい天候や害虫に立ち向かう大勢の貧しい農民たちにとって唯一の保険となるのが、雑穀、モロコシ、トウモロコシ、キャッサバ、サツマイモなど、できるだけ多様な穀物を育て、何らかの形で収穫が得られる可能性を高める事だった。
  ――13章 失われた環(ミッシング・リング) ケニアとガーナ

 平均的な利益ではなく、飢え死にという最悪の状況を避ける。ゲーム理論で言う一種のミニマックス法(→Wikipedia)ですね。

 豊作の時の蓄えで不作を凌げば…と思うでしょ。実はボーローグの協力でエチオピアじゃ豊作に恵まれた年もあったのだ。だが、流通網がないので、近くの市場でしか売れない。そこに小麦が雪崩れ込み、値崩れを起こしたのだ。いわゆる豊作貧乏ね。道路が整備され軽トラでもあれば値が張る市場まで持って行けた。または空調などが整った倉庫があれば保存もできたんだが。結果…

記録的な大豊作から10年後、フフォのトウモロコシの収穫は、ボーローグが訪れる前の水準に落ち込んでいた。
  ――3章 アフリカへ エチオピア北部、1984年

 先進国からの援助もあるが、来るのは食料。道路をつくる補助金は出ない。そして世界銀行(→Wikipedia)は、アフリカ諸国の農業への支援にいい顔をしなかった。

「アメリカでは農家へ補助金を出しているのに、なぜ我々の国に対して農家へ補助金を出すなと言うのか」
  ――2章 寄せては返す波 ノルウェー オスロ、1970年

 ばかりか、道路や灌漑設備など農業を振興させるインフラへの支援も渋るのである。

「私たちが飢えているときには、専門家やら穀物を送ってきますが、農業をビジネスに発展させる支援となると、姿を見せなくなります」
  ――5章 余剰と罰 エチオピア アダミ・ツル、2003年

医療を対象とした資金が数十億ドル規模であるのに対し、アフリカの農業の向上を目指したノーマン・ボーローグの笹川アフリカ協会の予算は数百万ドル規模と、桁違いの低さだ。
  ――11章 食物とともに服用すること ケニア、モソリオト

 先の引用で少し出てきたように、米国は国内の農業に多額の補助金を出している。お陰で米国は農産物でも大輸出国だ。綿花ではブラジルと首位を争ってる。これが世界市場での綿花の価格を下げ、アフリカの綿花農家が育たない。これは豆や穀物も同じ。米国内で余った小麦は、米国政府が買い上げアフリカ向けの支援物資となる。

アメリカの農家には、飢えたアフリカの人々が必要なのだ。
  ――6章 誰が誰を援助している? エチオピアナザレス、2003年

 しかも米国の農家は資本があり設備も整ってる。

1日に150梱(1梱の重さは約22kg)を刈りとる能力のある綿鏑み機は、1台30万ドルもする。
  ――4章 不公平な補助金 マリ ファナ、2002年

 イマドキの農業にはカネがかかるのだ。米作も資金が必要で、今調べたらコンバインも150万~2000万円とか。刈入れの時しか使わないのに。

 米国の補助金の仕組みも問題で、売れただけカネが貰える仕組み。だから、ちょっとした歪みがでできてる。

2006年には、アメリカ農家のうち、売り上げで上位10%を占める農家が、補助金全体の半分以上を受け取っていた。
  ――12章 二歩進んで、二歩下がる 世界各地

 ただ、この仕組みが好ましい状況もある。そもそも米国の農業補助金は、1930年代のダストボウル(→Wikipedia)による米国農業の壊滅および世界恐慌への対策として発足した。当時は適切な対策だったのだ。

農家の大半が貧しければ、生産量に応じた補助金を払うか、種や肥料の価格を割り引くのが理にかなっている。政府にとって比較的提示しやすい基準であり、需要の高い食料の生産が促される。ただ、農業がすでに近代化した国家の場合、生産量に応じた補助金支払い制度では、支援の必要のない農家の手にも補助金が渡ってしまう。
  ――17章 「彼らの期待を裏切ってはならない」 ワシントンD.C.

 まさしく、この仕組みが向いているのがアフリカの農家だ。

ある推計によれば、エチオピア全体の農業生産高の大部分、実に95%が、数エーカーの畑で農耕する小農によるものだという。
  ――14章 取引開始のベルが鳴る シカゴからアディスアベバ、ファクッハスネックへ

 この仕組みだと、農家は頑張って多くの収穫を得ようとする。反面、現在だと、豊かな農家ほど多くの補助金を得てしまう。米国内でも農家は豊かな人が多く…

連邦準備制度によれば、アメリカの一世帯当たりの純資産の中央値は、2004年で9万3100ドル。それに対し、同年の農家一世帯当たりの純資産の中央値は45万6914ドルにのぼる。この額は2007年のは53万3975ドルにまで伸びた。
  ――12章 二歩進んで、二歩下がる 世界各地

 と、農家をバカにしちゃいけない。もっとも、農家の純資産には土地すなわち農地も含んでるんだけど。そういやニール・ヤングとかがファーム・エイド(→Wikipedia)をやってたな、と思ったが、アレの対象は「小規模農場や個人経営の農家」だった。

 とかの理由で、本書は米国の農業補助金を悪く言ってるけど、農作物輸入国の日本人としては複雑な気分だ。いわゆる食料安保で「自国の農業を守るのは当たり前」ってのもあるし、日本の畜産業は米国の安いトウモロコシ飼料でギリギリ持ってるんだし。

 本書は大きく二部構成だ。前半でこれらのアフリカで飢餓が起きるしくみを明らかにし、後半で解決策を示す。その一つは、食糧援助の形を変えることだ。まずは食料の現物支給ではなく、カネを渡す。そして飢餓が起きた地域の近隣で食料を調達するのである。

その年(2003年)、世界食糧計画が試算した結果によれば、アメリカからエチオピアまでの輸送費と取扱手数料は、穀物1トンにつき200ドルにのぼるという。
  ――12章 二歩進んで、二歩下がる 世界各地

 と、費用対効果が高い。また、迅速な対応も可能となる。

「世界食糧計画の概算によれば、現物による支給には、提供国が支援を確認してから最終的な配給地へ食糧援助が届くまでに、三ヵ月から五ヵ月かかる」
「一方、支援を現金のかたちにして食料を国内で調達すれば、配給にかかる時間は一ヵ月から三ヵ月に短縮できる」
  ――12章 二歩進んで、二歩下がる 世界各地

 確かイラク戦争でも、米軍はなるたけ補給物資を近くの国から調達するようにしてた。そうすりゃ近隣諸国の理解を得やすいし。日本も朝鮮戦争が復興の足掛かりになったんだよなあ。

 とまれ、近くの国や地域から調達しようにも、市場がなきゃどうしようもない。そこで必要なのが商品取引所だ。これも、少しづつではあるが、立ち上がりつつある。

商品取引所の目的とは、まさに小農が余剰作物を市場に売るのを支援することにある。
  ――14章 取引開始のベルが鳴る シカゴからアディスアベバ、タァクハスネックへ

 これは豊作貧乏を避けるためでもある。余った作物は、商品取引所で売ればいいのだ。ウクライナが繊細に見舞われている今なら、エジプトが小麦を買うだろう。確かパンの値上げで国民の不満が溜まってたし。

 さて、アフリカは食料に加え医療の支援も必要としている。中でも…

発展途上国での死者数が多い病気は、エイズ、結核、マラリアの三つだ。
  ――10章 「何かできるはずだ」 ダブリンとシアトル

 そこでエイズのワクチンを送ったのだが、効かない例が多かった。何故か。栄養不足だ。食料がないので、病に対抗する体力がないのだ。飢えってのは、実にタチが悪い。

 送る食料にも工夫が居る。カップ麺はお湯さえあればいいんだが、そのお湯どころか水すら手に入らない状況もある。そこで登場したのがプランピー・ナッツ。

深刻な栄養失調児への標準栄養食だった粉ミルクとは異なり、プランピー・ナッツ(→日本ユニセフ協会)は水不足に襲われた地域では貴重品の真水と混ぜる必要がなく、母親は袋の隅をちぎり、わが子の口にペーストを流し込むだけでいい。
  ――15章 現場主義 ダボスからダルフールへ

 プランピー・ナッツはフランスのNutriset社が開発した。日本でも日清食品がウクライナに人道支援しているように(→日清食品)、民間企業が支援に乗り出すことは多い。ただ、これにはコツもある。

「歴史的に見て、企業の慈善事業は、団体に金銭を拠出するものでした。しかしこのやり方は、継続が難しいのです」
「次期会長の夫人が、別の慈善事業を展開するかもしれない」
「活動を継続させるには、それを企業の事業活動に組み込む必要があります」
  ――15章 現場主義 ダボスからダルフールへ

 カネを出すのもいい。加えて、専門の部署を立ち上げちゃえば、長く続くのだ。

 また、教会などによる支援活動もある。これらは予算が少ないから、どうしたって小規模になる。が、だからこそ上手くいく場合もある。エチオピアのルネサンス・ダムほどではない、小さな貯水池でも、いやだからこそ、地元の農民には嬉しかったり。本書の例では、地元の農家が自分たちでダムと貯水池を造った話だ。

「大規模ダムを建設するとなると、リスクの大きさに躊躇するでしょう。地元地域も『不具合が起こったらどうやって補修すればいいのか?』と頭を悩ませます。このダムは自分たちで造ったものですから、修理も自分たちでできるというわけです」
  ――16章 小さな活動がもたらす大きな成果 ケニア、オハイオ州、マラウイ

2008年末の時点で(オハイオ州アーチボルドの)プロジェクトが集めた13万ドルは、(ケニアの)マチャコス県の合計500ヵ所の小規模ダムと貯水池の建設費用に充てられ、5000世帯を超える家族に水と食料をもたらした。
  ――16章 小さな活動がもたらす大きな成果 ケニア、オハイオ州、マラウイ

 散々に米国の農業政策をDisってる本書では、米国のバイオ・エタノールも散々罵っている。

「トウモロコシを燃料にするなんてどうかしています。大勢の人々を死に追いやることになりますよ」
  ――エピローグ

 需要供給資本主義。穀物の供給量が変わらず、バイオエタノール用の需要が増えれば、食料に回す分が減って価格が上がり、アフリカの飢えた人に回らなくなる、そういう理屈です。でも米国のトウモロコシは飼料用だったような。こういう所が、本書はちと荒っぽいんだよなあ。でも確かに米国産トウモロコシのバイオエタノールは胡散臭いんだよね(→Wikipedia)。

 他にもいすゞの五トントラックが「アルカイダ」と呼ばれる、なんて話もあって、なかなか興味深い本だった。なんでアルカイダかって?「猛々しく走るその威嚇的な姿から」だそうだ。

 さすがに16年前の本で、幾つかの点は再確認が必要だ。ルネサンス・ダムとか。状況が改善している所も、逆に悪化してる所もある。アフリカと言いつつ西サハラやニジェール川沿岸が出てこないのも、少し不満だ。が、食糧支援が一筋縄じゃいかないのは、充分に伝わってきたし、何より農協の重要性が身に染みてわかったのは大きい。人道支援に興味がある人はもちろん、農政の基礎を知りたい人にもお薦め。

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