カテゴリー「書評:歴史/地理」の301件の記事

2022年7月19日 (火)

アイニッサ・ラミレズ「発明は改造する、人類を。」柏書房 安部恵子訳

本書では、材料が発明家によってどのように形作られたかだけでなく、そうした「材料」がどのように「文化を形作った」かを紹介していく。
  ――まえがき

神経科学者の発見によれば、私たちは出来事の最中には時間の流れが遅くなっていくようには知覚しないけれども、出来事の想起は、時間の流れが遅くなったと自分に思い込ませるという。
  ――第1章 交流する

私たちの知っているクリスマスは、企業の重役会議室で生まれ、鋼鉄に保護されたといえる。
  ――第2章 結ぶ

電信の発明者サミュエル・F・B・モールスは、国じゅうに情報を伝えるワイヤーによって、「この国全体が一つの近隣地域」になると予測していた。
  ――第3章 伝える

初期の風景写真が困難な仕事だったのは、重い装置類のためだけではなく、薬剤と技術はほとんどが自家製だったからだ。
  ――第4章 とらえる

ポール・ボガード「昆虫類のほぼ2/3は夜行性だ」
  ――第5章 見る

(初の商用ハードディスク)RAMACは大きさが冷蔵庫二台分、主さは1トンを超え、データを500万バイト、すなわち5メガバイト保存できた(略)。
  ――第6章 共有する

ガラスは「見る」という科学的方法の心臓部に存在する。
  ――第7章 発見する

「テキサスにシリコントランジスタがあるぞ!」
  ――第8章 考える

【どんな本?】

 時計,鋼鉄,電信,写真,電灯,情報記録媒体,ガラス,半導体。これらが普及する前、人々はどのような暮らしだったのか。どんな人が、どんな目的で、どんな経緯で発明したのか。そして普及によって、人々の暮らしはどう変わったのか。

 など、発明とそれに伴う暮らしの変化の物語に加え、本書は少し毛色の変わった趣向も語っている。

 多くの人々に知られている発明者の物語ばかりでなく、その影に隠れあまり語られることのない様々な工夫をなした人々や、ちょっとした偶然で有名になり損ねた人たちも丹念に調べて拾い上げ、その時代を生きた人の物語として語ってゆく。

 材料科学を修めた著者による、一般向けの歴史と科学・技術の楽しい解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Alchemy of Us : How Humans and Matter Transformed One Another, by Ainissa Romirez, 2020。日本語版は2021年8月2日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約325頁に加え、あとがき4頁+訳者あとがき4頁。9ポイント47字×19行×325頁=約290,225字、400字詰め原稿用紙で約726枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。数式や化学式は出てこないので、数学や理科が苦手な人でも大丈夫。むしろ必要なのは世界史の知識だろう。といっても、特に構えなくてもいい。19世紀以降の欧米の歴史を中学卒業程度に知っていれば充分。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

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  • まえがき
  • 第1章 交流する
  • 第2章 結ぶ
  • 第3章 伝える
  • 第4章 とらえる
  • 第5章 見る
  • 第6章 共有する
  • 第7章 発見する
  • 第8章 考える
  • あとがき
  • 謝辞/訳者あとがき/図の出典/引用の許可/参考文献/注/索引

【感想は?】

 逸話を拾う著者の腕の巧みさが光る。

 最初の登場人物ルース・ベルヴィルの物語から、一気に本書に引き込まれた。1908年の彼女の商売は、正確な時刻を売ること。当時は正確な時計が普及していない。でも鉄道や銀行や新聞そして酒場など、正確な時刻を知らなければならない業務は多かった。そこで彼女は…

 「パリ職業づくし」や「アンダーグラウンド」もそうなんだが、世の中にはいろんな商売があるんだなあ、と感心してしまう。

 続く登場人物ベンジャミン・ハンツマンは18世紀半ばの時計職人。彼が求めたのは、均一なばね(ゼンマイ?)。素材にバラツキがあると、速くなったり遅くなったり、酷い時には折れたりする。そこで彼は鉄の製造工程から改善に挑み、るつぼを発明する。

 製鉄技術の進歩を、正確なばねを求めた時計職人がもたらしたのだ。発明ってのは、意外な人の意外な目的から始まってたりする。

 続く「第2章 結ぶ」の主役は、ベッセマー製鋼法のヘンリー・ベッセマー(→Wikipedia)。彼の製鋼法が生みだす鋼鉄が鉄道のレールとなり、アメリカを一つの国に結び付けていく。

 「小説家になろう」の異世界物に凝ってる私は、当時(18世紀末~19世紀初頭)の馬車の旅の逸話も楽しかった。一日の旅程は約29km、朝は3時に起こされ宿につくのは夜の10時。なんちゅう厳しい旅だ。

 これが鉄道により州間の交易が盛んになり、各地の産業は特産物に特化し、単なる年末休暇だったクリスマスも…

 「第3章 伝える」はサミュエル・F・B・モールスにスポットが当たる。そう、あのモールス信号のモールスだ。元は画家ってのが意外。電信の伝達速度は距離より文字数で決まる。そのためか、モールスが the の代わりに t を使うなど、省略表現を産み出していくのに笑ってしまう。

 「第4章 とらえる」のテーマは写真。19世紀末の写真家の手作りぶりに驚く。20世紀後半でも現像は手作業だったが、19世紀は感光用の薬剤まで手作りだったのだ。ここではコダック社がフィルムの感度を白人の肌がきれいに映るよう調整していたが為に起きた社会問題を暴く。今でも色調整は職人芸に近くて、特に人の肌は難しいんだろうなあ。いやヒトって肌の色には敏感だから。

 「第5章 見る」は電気照明。かのエジソンの功績は有名だが、夜が明るくなることで私たちの身体や社会にどんな変化が起きているかは、あまり語られない。光害は有名だが、それだけじゃないのだ。なお日本海は「地球上でも極めて明るい地点になっている」とか。

 「第6章 共有する」でも、再びエジソンが登場する。ここのテーマは録音とハードディスクだ。グレイトフル・デッドのファンなら、カセットテープの偉大さをよく知っている。かと思えば、イスラムの過激派がカルト思想を広めるのに使ったり。IBMのジェイコブ・ハゴビアンが見つけた、ハードディスクに磁性体を均一に塗る方法には、ちょっと笑ってしまう。

 「第7章 発見する」で取り上げるのはガラス。最初のヒーロー、オットー・ショットはガラス開発のために生まれたような人。なにせ実家はガラス工場ながら化学を志したのだ。19世紀当時のガラスは「泡や筋、しわ」が入ってたり「曇っていたり、濁っていたり、渦模様があったり」と、科学で使うにはアレだったのだ。こういう不具合を知ると、逆に身の回りにある技術の凄さを思い知るんだよなあ。

 最後の「第8章 考える」は、電話交換機からトランジスタそして現代のコンピュータへと向かう。ここで最も印象に残るのが癇癪もちの葬儀屋アルモン・ストロウジャー。電話を交換手がつないでいた時代、自分の店に電話で注文が入らないのは交換手の嫌がらせだと思い込んだストロウジャー、意地になって自動交換機を開発するのだ。クレーマーもここまでくれば尊敬に値する。

 終盤ではコンピューターとインターネットが私たちの脳や思考に与える影響を考える。確かに Google や Wikipedia は便利だが、この本を読まなければ私はルース・ベルヴィルやアルモン・ストロウジャーを知らなかっただろうし、ホウ素を調べようとも思わなかっただろう。未知のジャンルやキーワードを知るには、本の方が向いているのだ。とりあえず、今のところは。

 テクノロジーが暮らしや社会をどう変えたか、またはそれ以前の人びとの暮らしがどうだったかを知るという点では、私が好きな技術史の面白さがある。それ以上に、ベンジャミン・ハンツマンなどの、あまり有名でない人物に光を当て、その人生を描く物語としての楽しさにも溢れている。過去の人びとの暮らしに興味がある人なら、きっと楽しめる。

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2022年5月22日 (日)

香川雅信「江戸の妖怪革命」河出書房新社

本書では、次のような問いを発してみることにしたい。
フィクションとしての妖怪、とりわけ娯楽の対象としての妖怪は、いかなる歴史的背景のもとで生まれてきたのか。
  ――序章 妖怪のアルケオロジーの試み

妖怪が存在しないことを認識することによってはじめて、人は妖怪を作り出すことができるのである。
  ――第3章 妖怪図鑑

近世の「妖怪手品」は、催眠術にその座を明け渡すこととなった。(略)催眠術が抱え込んでしまった解析不能の闇は、やがてそのなかに「心霊」という正真正銘の妖怪を胚胎させることになる。
  ――第6章 妖怪娯楽の現代

【どんな本?】

 狐と狸は人を化かす。鬼,天狗,カッパなど、古来から日本にはさまざまな妖怪がいた。それに加え、江戸時代の18世紀後半には豆腐小僧などの新しい妖怪が続々と現れる。現代では水木しげるの漫画やアニメから始まり、妖怪を扱う作品が断続的に人気を得て、妖怪は親しみが持てる存在となった。中には遠野市のように。河童を可愛らしくデフォルメして観光資源にしている町まである。

 このように、妖怪が明確な姿形を持ち、いわばキャラクターとしての地位を獲得したのは、江戸時代の18世紀後半だ。

 この頃、妖怪の概念は大きく変化した。その理由を、本書はミシェル・フーコーの言うアルケオロジー(→コトバンク)の手法で探ってゆく。

 ヒトはモノゴトを認識する際、エピスメーテー=何らかの枠組み(→Wikipedia)に従う。世界観と言ってもいい。この世界観が、18世紀後半に大きく変わった。

 それまでの世界観はどうだったのか。それが、どんな原因で、どのように変わったのか。

 18世紀後半の起きた人びとの世界観の変化を、お馴染みの妖怪を通して描き出そうとする、異色の民俗学の一般向け解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 単行本ハードカバー縦一段組みで本文約280頁に加え、あろがき4頁。9ポイント46字×19行×280頁=約244,720字、400字詰め原稿用紙で約612枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。一部には江戸時代の文献の引用があるが、たいていは著者が現代文で解説しているので、読み飛ばしても大丈夫。前提知識も特に要らない。中学卒業レベルで日本史を憶えていれば充分。

【構成は?】

 ほぼ時系列で進むので、できれば頭から順に読もう。

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  • はじめに
  • 序章 妖怪のアルケオロジーの試み
    かわいい妖怪たち/妖怪研究の二つのレベル/アルケオロジーという方法/妖怪観のアルケオロジー/本書の構成/妖怪という言葉
  • 第1章 安永五年、表象化する妖怪
    『画図百鬼夜行』の登場/平賀源内と『天狗髑髏髏鑒定縁起』/怪談から幻想文学へ/『其返報怪談』と「表象の時代」/化物づくしの黄表紙と表象空間/民間伝承から表象空間へ/鬼娘 見世物にされた妖怪
  • 第2章 妖怪の作り方 妖怪手帳と「種明かしの時代」
    永代橋の亡霊/妖怪手品本『放下筌』/狸七ばけの術/科学応用妖怪手品/『天狗通』の光学的妖怪/ファンタスマゴリアと妖怪手品/化物蝋燭 妖怪手品の商品化/写し絵 江戸のファンタスマゴリア/妖怪狂言 機械仕掛けの幽霊/怪談噺 視覚的落語の誕生/幻術から手品へ/からくりと「種明かしの時代」/「種明かしの時代」の怪談/「化物化」する人間/「人間化」する世界/貨幣に支配される神仏/流行神 心霊との市場交換/妖怪手品と博物学 平瀬輔世をめぐって
  • 第3章 妖怪図鑑 博物学と「意味」の遊戯
    「百鬼夜行」のイメージ/『山海経』と『化物づくし絵巻』/妖怪画と博物学/18世紀における博物学の転換/博物学的思考・嗜好の広がり/「神の言葉」としての怪物/「記号」から「生物」へ/情報化とキャラクター化/パロディ版「妖怪図鑑」/見立て絵本/見立て絵本と博物学的思考・嗜好/宝合 「意味」の遊戯/「類似」から「表象」へ/空を飛ぶ摺子木 表象としての妖怪/「画図百鬼夜行」とパロディ
  • 第4章 妖怪玩具 遊びの対象になった妖怪
    遊びの対象になった妖怪/化物双六 玩具化された妖怪図鑑/妖怪カルタ 博物学の遊戯化/妖怪のおもちゃ絵 江戸のポケットモンスター/亀山の化物 変化する玩具/妖怪花火「眉間尺」/妖怪凧と幽霊凧/妖怪人形 信仰と遊びのあいだ/妖怪玩具の三つの特徴
  • 第5章 からくり的 妖怪を笑いに変える装置
    妖怪シューティング・ゲーム「からくり的」/象徴操作としての遊び/アノマリーとしての妖怪/グロテスクと笑い/からくり的の性と妖怪/妖怪の「過剰な肉体性」/変化から博物学へ/消えゆく「からくり的」の笑い
  • 第6章 妖怪娯楽の現代 「私」に棲みつく妖怪たち
    井上円了の妖怪学/「理学の幽霊」と近代の妖怪/光学玩具と「主観的視覚」/月岡芳年の『新形三十六妖怪撰』/「神経」と妖怪娯楽/妖怪手品から催眠術へ/動物磁気から心霊へ/「千里眼」の商品化/こっくりさんと心霊玩具/ドッペルゲンガー 「私」という不気味なもの/「霊感」考 現代の「霊」をめぐる言説/自分探しとオカルトブーム/妖怪とのつきあい方/妖怪ブームと「私」
  • 註/図版出典一覧/あとがき

【感想は?】

 18世紀後半に起きた、日本人の世界観の変化を、「妖怪」を通じて浮き上がらせること。それが本書のテーマだ。

 それ以前の人々は、妖怪をどう捉えていたのか。それが18世紀後半以降、どう変わったのか。これは第2章までで、アッサリとケリがつく。

 意外なことに、従来の妖怪はハッキリとした姿がなかったのだ。例えば家鳴(→Wikipedia)のように、原因がわからない現象にとりあえずの理由をデッチあげるケース。この場合は、姿がハッキリしなくてもいい。見えなくても構わないのだ、現象が説明できれば。あなたの家にもいませんか、妖怪靴下片方隠し。

民間伝承のなかの妖怪は、ある不可思議な現象、日常的な思考によっては理解できない物事を説明するために持ち出される「概念」にすぎない(略)。
  ――第1章 安永五年、表象化する妖怪

 またはカッパのように、「むやみに水辺に近づくな」と注意するための方便だったり。これまた目的が果たせればいいんで、姿は定まらない方が不気味さが増して良かったり。

 ところが、こういう「ワケわからなさ」が、18世紀後半に追放されてゆく。著者が主張する原因が、みもふたもない。

18世紀後半とは、(略)貨幣によって人間世界の「外部」が消失し、すべてが人の力によって動かせるという信念が広まっていったのである。
  ――第2章 妖怪の作り方

 技術の進歩でも教育の普及でもなく、貨幣経済の浸透だってんだから、まさしく現金なものだ。

 この主張の是非はともかく、本書に収めた資料の数々が、妖怪好きにはとても美味しい。

 何せ妖怪である。現代でもイマイチ学術的とは言い難いテーマだ。それは江戸時代の当時でも同じで、本書に収めた資料の多くは黄表紙や玩具、双六などだ。現代なら週刊少年ジャンプなどの漫画雑誌や、玩具屋で売ってるキャラクター商品に当たるだろう。からくり的なんて、まるきしゲームセンターだ。

 こういう庶民的な娯楽は、往々にして学問の世界から軽く見られがちだろうし、だからこそ、これだけの資料を集めた執念には頭が下がる。

 そう、なんといっても、本書の大きな魅力は豊富に収録した図版なのだ。見越入道などの妖怪の絵や、おばけかるたなどの玩具が、実に楽しい。伏見人形の人魚とか、まるきし最近の新型コロナ流行で話題になったアマビエじゃないか。

 これらの黄表紙や玩具からは、当時の人びとが意外と人生を楽しんでいた様子が伝わってくる。まあ、娯楽なんだから当たり前なんだけど。

 また、今でこそ伝統の芸が重んじられる落語や芝居が、当時はビンビンに外連味を利かせていたのも意外だった。いずれも庶民の娯楽なんだから、そりゃウケるためにはハッタリや演出にも凝るよね。

 これは私が勝手に現代語訳しての引用だけど、今でも小咄として使ってるんじゃないかなあ。

1773年の『再成餅』収録の小話。
頼朝のしゃれこうべが回向院で開帳となった。
参詣「頼朝公にしては小さくないか?」
僧「これは頼朝公、三歳のこうべ」
  ――第3章 妖怪図鑑

 この章で展開する、寺社の開帳がショウ化する過程も、なかなか楽しかったり。「靖国」に「霊場には必付属の遊興場あるへし」なんてのがあるけど、そのルーツはこの時代だったのか。

 いずれにせよ、かつてはモヤモヤとした「概念」だった妖怪は、この時代に姿形を得て、今でいうキャラクター化してゆく。

妖怪たちは視覚的な存在になることによってはじめて、人間の「遊び」の対象となることが可能になったのだ。
  ――第4章 妖怪玩具

 昔から日本人は擬人化するクセがあったんだなあ。艦これの種は江戸時代に既に芽が出ていたのだ。

 妖怪という卑俗な視点だからこそ見えてくる、当時の人びとの世界観はなかなか新鮮だった。が、それ以上に、なんといっても妖怪をテーマとして取り上げているのが嬉しい。妖怪が好きな人にお薦め。

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2022年4月 8日 (金)

スティーヴン・ジョンソン「感染地図 歴史を変えた未知の病原体」河出書房新社 矢野真千子訳

何よりもこの本は、私たちが享受している現代生活の方向性を定めた決定的な瞬間の一つとなった、激動の一週間を検証するためのものである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 1854年の8月末から9月頭にかけて、ロンドンの下町ソーホーのブロード・ストリート周辺でコレラが大流行し、多くの人が命を落とす(ネタバレあり、→Wikipedia)。

 当時の医学会は瘴気(→Wikipedia)説が中心であり、病原菌の概念は知られていなかった。有名なナイチンゲールも瘴気説を支持している。しかしこの原因を熱心に調べた医師ジョン・スノーは、自らの足で集めたデータと、教区の住民に詳しい副牧師のヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、意外な原因を突き止める。

 コレラ菌の存在すら知られていない時代に、スノーとホワイトヘッドはいかにして原因を突き止めたのか。現代では間違っているのが明らかな瘴気説が、なぜ強く支持されたのか。

 舞台となったロンドンとソーホーの悪臭漂う風景を克明に描き、スノーとホワイトヘッドが原因を実証する過程を立体的に再現し、現代的な疫学の誕生を物語風に語るとともに、ジョン・スノーに比べあまり知られていないヘンリー・ホワイトヘッドの貢献を掘り起こす、一般向けの歴史・科学解説書であると同時に、当時の怪物的な大都市であるロンドンおよびブロード・ストリートの風景と、そこに住む人びとの暮らしをスケッチし、現代のニューヨークなどの大都市と比べて語り未来の人類社会の在り方をさぐる都市論でもある。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ghost Map : The Story of London's Most Terrifying Epidemic - and How It Changed Science, Cities, and the Modern World, by Steven Johnson, 2006。日本語版は2007年12月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約250頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×18行×250頁=約207,000字、400字詰め原稿用紙で約518枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。ただし、テーマがコレラだけに、悪臭が漂ってきそうな生々しい描写がアチコチに出てくるので、繊細な人にはキツいかも。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • 8月28日 月曜日 下肥屋
  • 9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に
  • 9月3日 日曜日 探偵、現る
  • 9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市
  • 9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である
  • 9月6日 水曜日 証拠固め
  • 9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ
  • その後~現在 感染地図
  • エピローグ
  • 著者注/謝辞/付録 推薦図書/訳者あとがき/書誌/原注

【感想は?】

 まず、頭の「8月28日 月曜日 下肥屋」で、繊細な人は振り落とされる。

 人は都市に集まる。この傾向は、産業革命などによって更に加速してゆく。それにより、ロンドンは野放図に人が集まってきた。人が集まれば、出すモノも増える。だが、その始末は誰も考えていなかった。その結果を描くのが、この章だ。

 都市計画も区画整理もなく、ひたすらに人が密集するソーホーの風景は、混沌そのもの。住宅と食肉工場と商店が、一つの区画に共存しているのだ。「堆塵館」の舞台のモデルになったのもうなずける。下水道もないから…せいぜい覚悟しよう。

 著者は、ここで本書の一つのテーマを確認する。当時は瘴気説が有力で、病原菌は相手にされなかった。ジョン・スノーとヘンリー・ホワイトヘッドの調査が瘴気説を覆す根拠を示すのだが、なかなか認められなかった。それはなぜか。

多くの聡明な人がこれだけ長いあいだ、なぜそんな馬鹿なことを信じていたのか? 矛盾する証拠は目の前に山のようにあるのに、なぜそれが見えなかったのか? こうした疑問もまた、知識社会学――過誤社会学ともいうべきだろうか――の分野で研究されるべきテーマだろう。
  ――8月28日 月曜日 下肥屋

 だが、この章が描くロンドンの風景を読む限り、瘴気説を信じたくなる気持ちもわかるのだ。悪臭漂う空気のなか、汚物と隣り合わせに暮らしてたら、そりゃ病気になるよ、と。

 ありがたいことに、著者は終盤でこの感覚にちゃんと理屈をつけてくれる。ヒトは悪臭に対し本能で反応するのだ、と。

19世紀に入ってまで瘴気説が根強く残ったのは、(略)本能に根ざしていた(略)。
人間の脳は、ある種の匂いを嗅ぐと無意識に嫌悪感をおぼえる(略)。
この反応は理性(略)を通らずに、そのにおいに関連するものを避けたいという強い欲求を作り出す。
  ――9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である

 だって腐ったモンを食ったら腹を壊すし。今は腹を下しても病院に行けばどうにかなるけど、野生状態じゃ命に係わる。だからヒトは悪臭に敏感で、本能的に「悪しきもの」と決めつけるのだ、と。この本能が、瘴気説に力を与えていたのだ。

 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」で、トイレの近くでインタビュウしたら倫理的に厳しい解が増えたとあったが、それはこういう本能が関係あるのかも。いずれにせよ、理性的な判断が求められる状況に、悪臭はよろしくない。そんなワケで、プログラマの職場環境は←しつこい。

 さて、コレラ菌にもいろいろある。タチの悪いものから、そうでないものまで。生憎と、この事件で猛威を振るったのは、特にタチの悪い株だったらしい。つまり、ガンガン増殖するタイプだ。

新しい宿主への移動が困難な、つまり感染性が低い環境だと、繁殖力が穏やかな株が種の中で個体数を増やす。感染率が高い環境だと、繁殖力が強い、人間にとって悪性度の高い株が穏やかな株を駆逐する。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 景気のいい時はイケイケな企業が業績を伸ばし、悪い時は慎重な企業が生き残る、そんな感じかな。

 そんなコレラの脅威に対し、医学はほぼ無力、どころか瀉血などの逆効果の治療法やアヘンなどの怪しげな薬が新聞の広告欄を賑わす。コレラの主な症状は脱水なので、水を大量に飲ませれば回復する場合もあるのに、全く逆の「治療」が幅を利かせていたのだ。

19世紀半ばのヴィクトリア時代にこうした(怪しげな療法や薬の宣伝が盛んになる)状況が生まれたのは、この時代に、医学は未熟なのにマスコミだけが成熟しているというギャップがあったからだ。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 あー、いや、21世紀の現代でも奇妙な療法や薬がノサバってますが。というか、「医学は未熟でマスコミが成熟」ってとこ、医学を他のもの、例えば経済や教育に替えれば今でも充分に通用するような。「代替医療のトリック」を読むとクラクラきます。なまじ歴史のあるモノほどしつこいんだよね。

 さて、コレラの感染経路は水だ。ここで、イギリスでの感染を防いでいたモノがある。それは…

18世紀後半に爆発的に増えた飲茶習慣は、微生物の立場になればホロコーストに等しかった。この時期、赤痢の発生率と子どもの死亡率が激減したことを医師たちは観察している。
  ――9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市

 だって茶を淹れるには、まず湯を沸かすよね。要は煮沸消毒だ。おまけに茶のタンニンも殺菌効果がある。で、茶のない頃は、ワインやビールでアルコール消毒してた。そうやって、欧州は下戸が淘汰された、と著者は主張している。モンゴロイドに下戸が多いのは、安全な水が手に入りやすかったからかな?

 まあいい。この事態の原因を突き止めようと精力的に動いたのが、有名なジョン・スノー。当時でも女王陛下のお産で麻酔を担当するなど、既に充分な名声を得ていた。が、もともと瘴気説を疑っていたうえに、自分の住まいの近くで起きた惨事でもあり、被害の様子を詳しく調べ始める。ただ、当時の科学はまだ未熟で…

当時の技術で水質を分析しても謎は解けないし、何も見えない。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 こんな状態で、どうやって原因を突き止めたのか。足でデータを拾ったのだ。一軒一軒、訪ね歩いて。もっとも、ソレで明らかになるのは、疫病の発生がブロード・ストリートに集中してるってことだけ。決定的な証拠が必要だった。それは…

証拠は「例外」の中にある
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 例外とは何か。この場合は二つ。1)ブロード・ストリートに住んでいるのに、被害を免れている人。2)ブロード・ストリートから離れたのに、被害に遭った人。

 ここで活躍したのが、ヘンリー・ホワイトヘッド。彼は副牧師として周辺の人たちと親しく付き合い、日頃の暮らしを知っていた。また、避難した人たちやその家族とも親しく、引っ越し先も知っていた。ホワイトヘッドの協力で、スノウは決定的な証拠を手に入れる。

画期的な知識の前進というのはふつう、現場ベースで生まれるものなのだ。
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 かくしてスノウとホワイトヘッドは報告書を提出するのだが…

教区役員会が報告書を出した数週間後に、(公衆衛生局長)ベンジャミン・ホールのこれら調査委員会もセント・ジェームズ教区のコレラ禍にたいする見解を発表した。彼らがスノーの説に下した評価は、完全なる否認だった。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 いったん染み込んじゃった思い込みは、なかなか消えないんです。科学も数学も、こういうのはよくあるんだよなあ。大陸移動説とかペイズ統計とか。SFやファンタジイで不死が出てくるけど、ヒトが死ななくなったら、きっと科学や数学の進歩は止まると思う。その時代の頑固な権威が死ぬことで、やっと日の目を見た説は結構あるのだ。

 終盤では、騒ぎが収まった後を語る。ここで、やっと地図が登場する。面白いのは、地図の書き方。絵で見せるわけで、大事なのは「詳しく書くこと」じゃない。

疫病のほんとうの原因を説明するには、表示する情報量を増やすのではなく減らさねばならなかった。
  ――その後~現在 感染地図

 テーマを絞って、本当に訴えたい点だけを浮き上がらせる事なのだ。え? プレゼンテーションの基本だろ? ええ、はい、わかっちゃいるけど、ついついやっちゃうんだよね、全部を強調するって馬鹿な真似。

【エピローグ】

 ミステリ・ドラマ仕立ての本だが、最後のエピローグだけは毛色が違う。ここでは都市論が主題に挙がってくる。

ヴィクトリア時代に内部崩壊に向かう癌性の怪物と思われていた大都市がこうまで変わった転換点がどこにあったかといえば、それはブロード・ストリートの疫病戦争で都市が病原体に勝利した時点だ。
  ――エピローグ

 都市を保つのには、何が必要か。食料や輸送力やエネルギーも必要だ。それ以上に、ヒトが密集すると、どうしても疫病が流行りやすくなる。ブロード・ストリートの事件が、その代表。いや他にも911とかがあるんだけど。山のなかにジャンボが落ちても、被害にあうのは乗員と乗客だけ。でもビルに突っ込んだから、被害が大きくなった。人から人へうつる疫病の被害は、もっと悲惨になる。

歴史的に見て、爆弾は攻撃対象となる人口が増えるにつれて威力を高めてきたが、その上り坂はあくまで直線だ。疫病の場合、致死率は指数関数的に上昇する。
  ――エピローグ

 しかも細菌は進化が速い。なにせ世代交代の速度が分単位だからヒトとは桁違いだし、脊椎動物には真似のできない必殺技も持っている。

私たちにとって、遺伝子が水平方向にスワップするという概念は少々理解しにくいかもしれないが、細菌やウイルスなど原核生物の世界では日常的に起きていることだ。
  ――エピローグ

 これは既に抗生物質に対する耐性を持つ耐性菌の蔓延で現実になってるのが、なんとも。なお耐性菌を作ってるのはヒトより家畜だそうだ(→「排泄物と文明」)。

 本書ではインフルエンザ・ウイルスを脅威の候補に挙げ、その危険性を警告している。

もしそのようなウイルス株が出現したら、その被害範囲は井戸水ポンプの柄を外して制圧できるほどの規模ではすまないだろう
  ――エピローグ

 はい、そんなもんじゃ済みませんでした。インフルエンザじゃなくてコロナだったけど。ほんと、この辺は読んでて「まるきし予言の書だなあ」と思ったり。ちなみに原書の発行は2006年。見事な予言だ。

 じゃ都市化を危惧してるのかと言えば、そうでもない。一人当たりのエネルギー消費量は、都市の方が遥かに少ないのだ。だって都会は電車で通勤できるけど、田舎は自動車が必需品だし。

ニューヨーク市を仮に<州>とみなしたとき、その人口はアメリカで11番目に当たるだろうが、一人当たりのエネルギー消費は51番目になる
  ――エピローグ

 この辺は「都市は人類最高の発明である」が詳しいです。そんなこんなで、持続可能な社会にするには都市化に順応した方がいいんだけど、人間ってのは厄介なもんで…

迷信は、いまも昔も真実を見えなくさせる脅威であるだけでなく、人びとの安全をおびやかす脅威でもある。
  ――エピローグ

 今もワクチン接種を嫌がるだけでなく、積極的に邪魔したがる人がいるし。医学や疫学は学問としちゃそこそこ成熟してるんだけど、学者や医者じゃない人たちの知識は未熟なのに対し、SNSなどの情報伝達ツールは異様に発達しちゃってるんだよなあ。かと言って、科学や数学をすべての人に充分に理解させるのは、さすがに無理だろうしなあ。少なくとも私は充分に理解するなんて無理です←をい

【おわりに】

 そんなワケで、ちと古い本ではあるけど、新型コロナウイルスが猛威を振るう今は、実にタイムリーで熱く訴えかけてくる本だ。犯人は割れてるけど、ミステリ仕立てのドラマとしても面白いし、従来の仮説を新しい仮説が覆す物語としても楽しめる。特に、都市住む人にはなかなか心地よい作品でもある、と申し添えておこう。

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2022年3月13日 (日)

ウィリアム・バーンスタイン「交易の世界史 シュメールから現代まで 上・下」ちくま学芸文庫 鬼澤忍訳

世界の宗教のなかで唯一、イスラム教は商人によって創始された
  ――第3章 ラクダ、香料、預言者

ペストは貿易の病である。
  ――第6章 貿易の病

コーヒーは茶よりも一世紀早く広まっていた。
  ――第10章 移植

ペニー郵便法がついに上院を通過したとき、彼(リチャード・ゴブデン)は「これで穀物法もおしまいだ!」と快哉を叫んだという。安い郵便は、穀物法廃止勢力の兵器庫も最も強力な武器、まさにプロパガンダの榴弾砲となった。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

ナポレオン三世「われわれフランス人は改革をしない。革命を起こすだけだ」
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

ほかの条件がすべて同じであれば、豊かな社会では貿易量が増える。
  ――第13章 崩壊

【どんな本?】

 文明の曙の頃から、ヒトは遠いところと交易してきた。交易は、帝国の勃興と共に盛んになることもあれば衰えることもある。家畜の飼いならしや航海技術の進歩が交易を進めることもある。海峡などの要所を巡り激しく非情な争いもあった。また、往々にして、金融や関税などの制度が交易の興亡を左右した。

 アメリカの歴史研究家が、先史時代から現在のグローバル経済まで、人々の交易とそれが変えた社会について綴る、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Splendid Exchange : How Trade Shaped the World, by William J. Bernstein, 2008。日本語版は2010年4月に「華麗なる交易 貿易は世界をどう変えたか」として日本経済新聞社より刊行。2019年8月10日に筑摩書房より文庫版の上下巻で刊行。

 文庫で縦一段組み本文約341頁+328頁=約669頁。8.5ポイント40字×17行×(341頁+328頁)=約454,920字、400字詰め原稿用紙で約1,138枚。ちょい厚めかな?

 文章は比較的にこなれている。内容も親しみやすい。ただし世界各地の地名がしょっちゅう出てくるので、世界地図などを用意しておこう。また文中にも地図があるので、栞も幾つか用意しておこう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

クリックで詳細表示
  •   上巻
  • はじめに
  • 第1章 シュメール
  • 第2章 貿易の海峡
  • 第3章 ラクダ、香料、預言者
  • 第4章 バグダッド-広東急行 1日5ディルハムで暮らすアジア
  • 第5章 貿易の味と貿易の虜
  • 第6章 貿易の病
  • 第7章 ヴァスコ・ダ・ガマの衝動
  •  原注
  •   下巻
  • 第8章 包囲された世界
  • 第9章 会社の誕生
  • 第10章 移植
  • 第11章 自由貿易の勝利と悲劇
  • 第12章 ヘンリー・ベッセマーが精練したもの
  • 第13章 崩壊
  • 第14章 シアトルの戦い
  •  謝辞/訳者あとがき/原注/出典リスト

【感想は?】

 今まで、モノや技術の由来やを綴る本を幾つか読んできた。

  「砂糖の歴史」, 「バナナの世界史」, 「コーヒーの真実」, 「胡椒 暴虐の世界史」, 「マネーの進化史」, 「紙の世界史」, 「木材と文明」, 「完璧な赤」…

 この本は、それらの集大成といった感がある。

 改めてモノや技術の歴史を俯瞰して見渡すと、幾つか共通するパターンが見えてくる。上に挙げた本が扱うテーマは、砂糖・バナナ・ッコーヒー・胡椒・金融・紙・木材・染料だ。共通点は、身近であること。地球のどこかで生まれたモノや技術が世界中に広がり、私たちの手元に届いたのである。

 どうやって広がったのか。当然、交易によってだ。だから、集大成なのも当然なのだ。

 表紙には港に集う帆船を描いている。交易は、遠いところからモノを運ぶ。その際は、水路に頼ることが多い。遠い所に運ぶ場合、陸路より水路の方が有利なのだ。

水上輸送は陸上輸送よりもはるかに安上がりで効率もいい。ウマは約90kgの荷を背に乗せて運ぶことができる。荷馬車を使って平坦な道を行けば、約1.8トンを引っぱれる。だが、運河側道から船を曳かせれば約27トン――古代の小型帆船の積載量――を運べる。
  ――第1章 シュメール

 そんなわけで、交易は水路の確保が大事だ。水路ったって、海は広い。海賊も沖に逃げれば捕まえようがない。だが、逃げようのない所もある。

ギリシアが西洋文明の発祥地だったとすれば、その独特な地形が西洋の海軍戦略の基礎を築いたといって間違いないだろう。
海軍戦略で重視されるのは海上航路の安全だ。(略)
自らの繁栄と存続をはるか遠くの海上交通の海上交通路や戦略上の要所(略)に依存していたのだ。
  ――第2章 貿易の海峡

 この要所とは、海峡だ。多くの船が通るので、一網打尽にできる。海賊だろうが、密輸船だろうが、敵国の船だろうが。いかに海峡を抑えるか、が西洋の海軍戦略のキモになったのだ。

 逆に海軍を疎かにすると…

海軍がいない海では、海賊がはびこる。16世紀の半ば、日本の「倭寇」が中国沿岸を恐怖に陥れた。
  ――第4章 バグダッド-広東急行

 これは現代でも言えることで、紅海の入り口マンデブ海峡はソマリアの海賊が荒らしたし、マラッカ海峡も海賊が出没するとか(→「貧困と憎悪の海のギャングたち 現代海賊事情」)。しかもマラッカ海峡付近は役人とグルになってるからタチが悪い。

 それでも商人が海に出るのは、儲かるから。意外だったのは、船員の待遇。彼らは単なる雇われ人員じゃない。

インド洋における商人と船員の区別はとても微妙なもので、給料をもらっている乗組員はほとんどいなかった。大半の乗組員は自分の裁量で貿易品を船に持ち込み、それで商売をして生計を立てていたのである。
  ――第4章 バグダッド-広東急行

 元船乗りが書いたSF小説「大航宙時代」で、若い宇宙船乗りが手荷物で稼ぐ場面があるけど、あれは昔からの船乗りの伝統だったのか。ジャック・ヴァンスも商売ネタが多いのは、船員時代の小遣い稼ぎの経験が活きてるんだろうなあ。

 なんてSFネタはさておき。彼らが運ぶ商品は色々あるが、ヴェネツウィアやジェノヴァの商人たちが運んだのは、意外な商品だ。

だいたい1200年から1500年にかけて、イタリア人は世界で最も成功した奴隷商人となり、黒海の沿岸で奴隷を仕入れるとエジプトやレヴァントで売った。
  ――第5章 貿易の味と貿易の虜

 クリミアあたりで仕入れた奴隷を、マルムーク朝のエジプトに売るんですね…って、「ヴェニスの商人」(→Wikipedia)のアントーニオは奴隷商人かよ。今の感覚だと、アントーニオこそ悪役だよなあ。

 もっとも、そんな貿易も当たればデカいがハズれると…

オランダの波止場から東洋に向かって船出した100万人前後の男性のうち、半数以上は帰らなかった。
  ――第9章 会社の誕生

 それでも、一攫千金の夢を見て彼らは海に乗り出してゆく。目的地はインド。ちなみに地中海からインドへの航路は、かなり昔から知られてはいたらしい。

大西洋を横断してインドに行くルートの起源は、紀元前一世紀のローマ時代の地理学者ストラボンにさかのぼる。ひょっとしたらアリストテレスにまで行きつくかもしれない。
  ――第7章 ヴァスコ・ダ・ガマの衝動

 ちなみに紅海経由のルートでネックとなるのがスエズの地峡。これを水路で繋ぐスエズ運河、レセップス以前に2回ほど作られている。まあいい。ここをイスラム勢力に抑えられた欧州は、羅針盤や貿易風の利用などで喜望峰周りの航路を見いだし、南アジアへと進出してゆく。ここで牽引役となるのは国家ではなく…

航海術の発達のおかげで、(イギリス・オランダ)両国の戦いは世界各地のヨーロッパの交易拠点とプランテーションをめぐってくり広げられてゆく。そのほとんどが、国の陸軍や海軍同士の衝突ではなく企業同士の衝突だった。
  ――第8章 包囲された世界

 現代でもグローバル企業は問題にされるけど、実際にヤバい実績があるのだ。いやホント、「胡椒 暴虐の世界史」や「バナナの世界史」を読むと怖くなるよ。

 とまれ、そんな国際企業をテコに発展する都市もある。本書ではマラッカや広東が例だ。現代だとシンガポールだろう。そういう交易都市が栄えるのにはコツがあって…

こんにちに至るまで、世界市場での成功と失敗を分ける要因は、規模ではなく、発達した政治、法律、そして金融機関である。
  ――第9章 会社の誕生

 そういえばシンガポール、「明るい北朝鮮」なんて揶揄される事もあるけど、司法や役人の腐敗の少なさもピカ一って言われてるなあ。さすが華僑の国だ。

 さて、第10章以降は、自由貿易 vs 保護主義の議論が表に出てくる。著者は自由貿易を推す立場だ。例えばアメリカ人が誇りとするボストン茶事件も…

(ボストン茶事件の原因となった)この(タウンゼンド諸)法は新たな課税ではなく、アジアからアメリカへの紅茶の直接輸入をイギリス東インド会社にはじめて許可するものだった。この法のおかげで紅茶の価格は半分に下がり、植民地の消費者はむしろ恩恵を受けた。
  ――第10章 移植

 と、私が教科書で学んだストーリーとだいぶ違う。やはりインド独立の父ガンジーのシンボル糸紡ぎ車に対しても…

(イギリスの機械織り綿布による)インド経済全体の損失は比較的軽微ですんだ。インドの生産高の大半は農業が生みだしていたからだ。失業者は200万から300万――労働力全体のせいぜい3%――程度で、マルクスやネルーの黙示録的散文が記したように何千万というわけではなかった(略)。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 なんて Dis ってる。まあ、ガンジーは「技術者を農場に送れ」とか、産業振興じゃアレな所もあるんだよね。もっとも、アジアを軽んじてるワケでもなく…

南京条約(→Wikipedia)の屈辱感はこんにちに至るまで中国の国家意識のなかでくすぶっている。この条約を知るアメリカ人が100人に1人もいないという事実は、21世紀の米中関係にとってよい兆しではない。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 と、アジア側から見た歴史も、一応は抑えている。この辺を読むと、現在の中国が香港に拘る理由が少しわかるかも。いや、だからって中国共産党のやり口が適切だとは思わないけどさ。

 いずれにせよ、香港の問題の原因は貿易にある。この貿易、かつては移動の難しさに阻まれていた。いくらいいモノでも、遠くにあるモノを運ぶには高い費用がかかる。これを変えたのが羅針盤や航海術であり、近年では…

ベッセマー法(→Wikipedia)がチャールズ・ウィリアム・シーメンズとピエール・マルタンによって完成されると、鋼鉄の価格は1トン当たりわずか英貨数ポンドに下がり、それ以前のほぼ1/10になった。
  ――第12章 ヘンリー・ベッセマーが精練したもの

 鋼鉄を作る技術だ。これにより蒸気エンジンの出力が上がり、船体が丈夫になり、更には肉の冷凍輸送も可能になった。こういった技術革新は輸送の費用を減らし…

輸送費の低下は価格の収束につながる。
  ――第13章 崩壊

 国や地域ごとの価格や賃金の違いを減らしてゆく。この現象は勝者と敗者を生む。誰が勝ち、誰が負けるのか。

彼ら(ウォルフガング・ストルーパー&ポール・サミュエルソン)のモデルでは、保護貿易は(土地・労働・資本のうち)相対的に乏しい要素を多くもつ者に恩恵をもたらし、相対的に豊富な要素を多くもつ者に害を与えると予想された。自由貿易では逆のことが起きる(略)。
  ――第13章 崩壊

 日本じゃ土地が乏しい。そして農業は多くの土地が要る。農産物・畜産物の保護は、日本じゃ乏しい土地を多く持つ農家が得をする。逆に自由化したら、農家や牧場は潰れるが、消費者は肉が安くなってラッキー、そういうことです。当然、農家は納得いかないわけで…

自由貿易は全体としては人類を豊かにするが、唯々諾々と新たな秩序を受け入れるわけにはいかない敗北者もつくりだす
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 そんなワケで、今でもTPPとかが熱い話題になってるんだけど、こういう議論は昔からあったようで…

グローバリゼーションをめぐるこんにちの議論は、場合によってはほぼ一言一句違わず、かつての議論をくり返している。
  ――第14章 シアトルの戦い

 いや私もTPPが何かはよく知らないんだけど←をい

 などと、全般的に自由貿易を推す著者なんだけど、今まさに起きているロシアのウクライナ侵略に伴う原油価格の暴騰とかは、グローバル経済ならではの現象だよなあ、などとも思ったり。まあ石油だから、かもしれないが。

数量、金額、戦略上の重要性のうちどの尺度をとっても、輸送商品のなかで石油は最も重要であり、つねに地球全体の交易量の半分近くを占めている。
  ――第14章 シアトルの戦い

 世界はそんな痛みを引き受けてでも、ロシアへの経済制裁を続けるつもりだけど、それで最も大きなダメージを受けるのは…

貿易保護法は普通、弱く無力な者に最も打撃を与える。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 少なくとも、プーチンではないんだよね。最も苦しむのは、ロシアの貧しい人たち。それでも、戦争よりはマシだと思うけど。

 私も今回のロシアの暴挙には驚いてて、それはこんな考えを持ってたから。

経済学者フレデリック・バスティア「財が国境を越えることを許されないとき、兵隊が越えるようになる」
  ――第14章 シアトルの戦い

 「マクドナルドのある国同士は戦争しない」なんて俗説もあったけど、それが今回の戦争で覆されてしまった。

 なんかまとまりのない記事になっちゃったけど、そもそもこれだけ膨大な内容の歴史書を私ごときのオツムでまとめようってのが無茶なのだ。それでも、本書の持つ強烈なインパクトだけは伝わったと思う。歴史、それも国や政治家や軍人ではなく、モノや技術の歴史が好きな人にお薦め。

【おまけ】

 「第6章 貿易の病」は、ペストを扱う。本書によると発生は中国で1331年で、1347年にジェノヴァに至る。日本史だと鎌倉末期~南北朝~室町時代初期だが、流行ったとは習っていない。不思議だったんだが、実際に流行ってないようだ。どうも当時の日本は大陸との交流が途絶えていたらしい。元寇の影響で半島や大陸との交流が途絶えていたとか。ソースはNHKの感染症の日本史 ②/元寇ロックダウン!? ~ペスト~

 なお、同時期は倭寇も暴れていたはず。とすると、倭寇の基地は別の所にあったのか、有名なわりに規模が小さかったのか。やはり謎は残るなあ。

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2021年10月17日 (日)

リチャード・ローズ「エネルギー400年史 薪から石炭、石油、原子力、再生可能エネルギーまで」草思社 秋山勝訳

本書が正面から問いただそうとしているのは、エネルギーそのものをめぐる歴史である。
  ――はじめに

ウィリアム・グリルス・アダムズ「重大な発見のほぼすべては無視されるか、あるいは日の目を見ることのない段階を経過する世間の関心がほかに向いているか、あるいはその発見を受け入れる準備が世間にできていない時期に発見されたのか、そのいずれかの理由で黙殺されてしまうものなのである」
  ――第12章 滔々たる水の流れ

【どんな本?】

 熱源として、照明として、そして動力として。人は様々なモノからエネルギーを得て暮らしてきた。それらのエネルギーは暮らしを変えるとともに、人が住む環境も変えてゆく。

 21世紀初頭の今日、エネルギー源は、石油から天然ガスや原子力、または風力や太陽光などの再生可能エネルギーへと移り変わろうとしているが、多くの問題を抱え、決して順調とは言えない。

 だが、これは今日に始まった話ではない。薪から石炭へ、石炭から石油へと移り変わる際にも、幾つもの問題や軋轢があり、多くの人たちの創意工夫と努力が必要だった。

 産業革命の前日から現代まで、人々はどんな世界でどう暮らし、どんなエネルギーを用い、どんな問題を抱え、どう解決してきたのか。

 エネルギー源の開拓と変遷の歴史を辿り、歴史の視点から21世紀のエネルギー問題を問い直す、一般向けの歴史書。

 なお、気になる人のために示しておく。著者は原子力発電を認める立場だ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は ENERGY : A Human History, by Richard Rhodes, 2018。日本語版は2019年7月25日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約535頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント45字×19行×535頁=約457,425字、400字詰め原稿用紙で約1,144枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。最近になって気づいたけど、草思社の翻訳本は読みやすい本が多いなあ。内容も分かりやすい。歴史を辿る本だが、各場面ごとに地理的・歴史的な背景事情を素人向けに説明しているので、私のように歴史が苦手な人でもスルリと頭に入ってくる。距離や重さの単位は原書だとヤード・ポンド法だが、訳者がメートル法で補っているのは嬉しい心遣いだ。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進む。ただし各章は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに エネルギーをめぐる400年の旅
    • この世界を形作ったものたち
    • 「気候変動」という難題
    • 歴史から明日への道を学ぶ
  • 第1部 動力
  • 第1章 森なくして王国なし 材木/薪/石炭
    • シェイクスピアの材木争奪戦
    • 国家の安全保障を支える「木」
    • 新大陸に木材を求める
    • 忌み嫌われた「黒い石」
    • ロンドンの貧しき煙突掃除夫たち
    • 病と死をもたらす煤煙
    • 汚染都市をいかに浄化するか
  • 第2章 火で水を汲み上げる 石炭/真空ポンプ/大気圧蒸気機関
    • 子供も女性も家族総出の炭鉱労働
    • 炭鉱ガスによる大爆発事故
    • 水没して放棄される炭鉱
    • 「真空」を利用して水を汲み上げる
    • 火薬を使った動力の研究
    • 大気圧による蒸気機関の誕生
  • 第3章 意志を持つ巨人 セイヴァリの蒸気機関/ニューコメンの蒸気機関
    • セイヴァリの「火で揚水する機械」
    • ニューコメンの蒸気機関
    • 石炭の運搬をめぐる問題
    • 木製軌道のワゴンウェイ
    • 木炭からコークスへ
  • 第4章 全世界を相手にする ワットの蒸気機関
    • グラスゴー大学の実験工房
    • ニューコメンの機関を改良する
    • 「顕熱」と「潜熱」の発見
    • シリンダーから分離された「復水器」
    • ボールトン・アンド・ワット社
    • 直線運動から回転運動へ
  • 第5章 キャッチ・ミー・フォー・キャン 高圧蒸気機関/蒸気車/蒸気機関車
    • ブリッジウォーターの運河
    • 鉄製の軌条と車輪
    • 大気圧機関から高圧蒸気機関へ
    • トレヴィシックの「馬なし蒸気車」
    • 蒸気機関車と馬との競争
    • 「キャッチ・ミー・フォー・キャン」号
  • 第6章 征服されざる蒸気 スティーブンソンの蒸気機関車
    • 化石燃料の時代へ
    • 鉄製軌条を走るトーマスの鉄道
    • スティーブンソンの蒸気機関車
    • リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道
    • チャット・モスとの過酷な戦い
    • レインヒルの機関車トライアル
    • 「ロケット号」の圧勝
    • 時間・空間の観念と感覚が変わる
  • 第2部 照明
  • 第7章 灯心草からガス灯へ 獣脂/コールタール/医療用ガス/石炭ガス/ガス灯
    • 夜の暗闇の弱々しい明かり
    • 照明燃料としての石炭ガス
    • 華やかなガス灯による実演
    • ガス灯を建物に設置する
    • 「人工空気」による吸入ガス治療法
    • 「笑気ガス」による麻酔効果
    • ガス灯でパリを照らす?
    • 30マイルのガス管施設
  • 第8章 大海獣を追って 捕鯨/鯨油・鯨蝋
    • 北米ナンタケット島への移住
    • 灯油を得るための捕鯨
    • 商業捕鯨の再興を求めて
    • 大西洋から太平洋に鯨を追う
    • 最盛期を迎える商業捕鯨
  • 第9章 燃える水 テレピン油/カンフェン/瀝青/ケロシン/石油
    • ダイオウマツからテレピン油を採る
    • アスファルトからケロシンを作る
    • 新しい原材料「石の油」
    • 石油に秘められた商品価値
    • 照明にふさわしい油の発見
    • 石油を求めて井戸を掘る
    • アンクル・ビリー、石油を掘り当てる
  • 第10章 野生動物のようなもの 石油
    • 人口洪水を起こして石油を運ぶ
    • アルコール税で石油が圧勝する
    • 南部軍に追撃される捕鯨船団
    • 「捕獲の原則」と「共有地の悲劇」
  • 第11章 自然に宿る大いなる力 ライデン瓶/動物電気/電堆/電磁誘導/発電機
    • ライデン瓶とフランクリン
    • ガルヴァーニの奇妙な発見
    • ボルタに否定された「動物電気」
    • 電流が磁場を生み出す
    • ファラデーの発電機
  • 第12章 滔々たる水の流れ 直流・交流/水力発電/長距離送電システム
    • 天然の巨大な動力源
    • 直流電気と交流電気の戦い
    • 長距離送電をいかに実現させるか
    • ウェスティングハウスのもくろみ
    • 変圧器を並列に配置する
    • 中央発電所からの定期送電
    • エジソンとウェスティングハウス
    • エジソンの直流送電案
    • ナイアガラ・フォールズからの送電開始
  • 第13章 巨大なチーズの堆積 馬車/肥料/グアノ/馬車鉄道/路面電車
    • 都市の通りにあふれる馬たち
    • 島を覆う「非常に強力な肥料」
    • 病気を運ぶ目に見えないもの
    • 路面電車がもたらした変化
  • 第14章 黒雲の柱 煤煙/天然ガス/都市ガス
    • 町を覆うすさまじい煙
    • 煤煙が街に不道徳をもたらす
    • 天然ガスと製造ガスの競合
  • 第3部 新しき火
  • 第15章 神より授かりしもの 内燃機関自動車/ガソリン添加剤/テトラエチル鉛
    • 多種多様の「馬なし馬車」
    • 内燃機関が蒸気と電気に勝つ
    • ノッキング問題とオクタン価
    • ガソリンの添加剤を模索する
    • 有鉛ガソリンの登場
    • テトラエチル鉛中毒をめぐる攻防
    • 米国内の石油が枯渇する?
  • 第16章 片腕でもできる溶接 探鉱/原油掘削/アーク溶接/電気溶接/天然ガス/パイプライン
    • サウジアラビアに眠る原油
    • イブン・サウード国王との交渉
    • 繰り返される試掘
    • 3200万バレルの原油産出
    • 溶接技術が可能にしたもの
    • 第一次世界大戦と溶接技術
    • 広がるパイプラインと天然ガス
    • Uボートによる油槽船団襲撃
    • アメリカを横断するパイプライン
    • 天然ガスへの移行と炭鉱ストライキ
  • 第17章 1957年のフルパワー 原子炉/原子爆弾/ウラン235/プルトニウム/天然原子炉
    • フェルミの原子炉
    • 「趣意書」に描かれた未来
    • マンハッタン計画とウラン鉱
    • 原子力潜水艦の建造計画
    • 「アトム・フォー・ピース」
    • 民生用原子炉の開発
    • シッピングポート原子力発電所
    • アフリカの「天然原子炉」
  • 第18章 スモッグがもたらすもの 大気汚染/スモッグ/光化学スモッグ
    • ピッツバーグの犠牲者
    • 隠蔽される大気汚染
    • 排気ガスと光化学スモッグ
    • 自動車の公害防止規制
    • 環境クズネッツ曲線
  • 第19章 迫りくる暗黒時代 環境保護運動/優生学/新マルサス主義/水爆実験/LNTモデル
    • 世界の終わりと悲観主義の広がり
    • 「優生学」と「人口爆発」という悪夢
    • 資源の枯渇と人口過剰という恐怖
    • 「放射線」に対する恐怖と誤解
    • ビキニ環礁の水爆実験
    • 「いかなる線量でも危害をもたらす」
    • 直線閾値なし(LNT)モデル
  • 第20章 未来への出航 風力発電/太陽光発電/原子力発電/福島・スリーマイル・チェルノブイリ/放射性廃棄物/脱炭素化/石炭・石油・天然ガス・原子力
    • 風力発電、太陽光発電
    • 温暖化の抑制と「脱炭素化」
    • チェルノブイリ原発事故
    • 事故件数と就業者の死亡災害数
    • 地中深く埋められた廃棄物
    • マルケッティのグラフ
    • 科学とテクノロジーがもたらすもの
  • 謝辞/訳者あとがき/原註/参考文献/人名索引

【感想は?】

 本書の結論を一言で言うと、こうだ。

どのようなエネルギーシステムであれ、そのシステムには強みと弱みがある。
  ――第20章 未来への出航

 原子力発電は一定の電力を続けて出すのに向いている。逆にいきなり出力を上げるのは苦手だ。ベースロード電源とは、そういう意味である。それだけではない。見積もりでは安くあがるはずだったが、核廃棄物(俗称核のゴミ)の処理などを勘定に入れるとだいぶ違ってしまう。もっとも、これも高速増殖炉の是非などで変わるんだけど。

 現在の主なエネルギー源は、石油だろう。原子力であれ風力や太陽光であれ、石油以外のエネルギー源に代わるまでには、しばらくかかりそうだ。これは別に現代だけの話じゃない。歴史的に見てもそうだったんだよ、本書はそういう内容である。

政治学者ルイス・デ・ソウザ「ひとつのエネルギーが市場の1~10%の占有率を獲得するまでには40~50年かかり、1%の時点から、最終的に市場の半分を占めるまでには、ほぼ1世紀の時間がかかる」
  ――第20章 未来への出航

 最も最初に登場したエネルギー源は、薪すなわち木だ。

エリザベス一世が治めていたのは、木で作られた王国だった。
  ――第1章 森なくして王国なし

 だが当時のイギリスは木材が枯渇しつつあった。薪・造船・製鉄そして耕作地などで、国家は森林資源を食いつぶす。このパターンはイギリスに限らず、メソポタミアやローマなど多くの前例があるんだけど(→「エネルギーの人類史」、「森と文明」)。

 ってんで潤沢に手に入る石炭へと移っていくんだが、当時のイギリスの石炭は不純物の多い瀝青炭(→Wikipedia)。だもんでロンドンをはじめイギリス都市部の空は煤煙で真っ黒になる。

 これを動力に使ったのが有名な産業革命だけど、その際の技術史の挿話の中でも印象的なのが、圧力弁。

(ドニ・)パパンの弁は、現代の圧力調整器の安全弁と非常によく似ており、(略)調理器具の爆発を防ぐことができた。
  ――第2章 火で水を汲み上げる

 圧力鍋を作る際の副産物が圧力弁で、これが蒸気機関の発達で大きな役割を果たす。キッチンにある調理器具の工夫が力強いSLに役立つあたりが、技術の面白いところ。

 あと最近「小説家になろう」の異世界転生物にハマってる身として意外だったのが、当時の旅行事情。意外と馬車は使われていないのだ。

昔のイングランドの道は決して褒められたようなものではなかった。(略)
こうした状態は18世紀中頃まで続き、ほこりまみれの夏、地面がぬかるむ冬には、徒歩もしくは馬に乗って人は旅していた。
  ――第3章 意志を持つ巨人

 領主がメンテをサボるせいで道が悪すぎ、とてもじゃないが馬車は通れなかったんですね。

 とまれ、石炭の需要は増え、地表近くの石炭は掘りつくされる。だが地中深くまで坑道を掘ると、地下水が染み出てくる。その排水ポンプ開発の物語が、蒸気機関の発達の物語でもある。

18世紀初頭、エネルギー源としての石炭はイギリスの半分を担っていたが、19世紀初頭の時点で、その比率は75%に達し、その後もさらに増え続けていった。
  ――第4章 全世界を相手にする

 その蒸気機関も高効率化・小型化され、「これなら馬車馬の代わりになんじゃね?」と蒸気機関車が生まれたのはいいが…

「(リチャード・トレヴィシックの蒸気)機関の働きは見事だったが、しかし、その重量のせいで軌条の鉄板がよく割れていた」
  ――第5章 キャッチ・ミー・フー・キャン

 インフラが追い付かなかったんですね。エネルギーの転換で難しいのがコレで、現在でも電気自動車や水素自動車の普及を阻む原因の一つが充電スタンドや水素スタンドの少なさだったり。ちなみにトレヴィシック、最初に作ったのは蒸気機関車じゃなくて蒸気自動車だったりする。無茶しやがって。でも市場を考えたら、自動車の方が大きそうだよね。

 とまれ、産業革命による経済の爆発的発展は凄まじいもので。

1788年以降、イングランドの鉄の生産量は、8~10年ごとに倍増した。
  ――第6章 征服されざる蒸気

 今は(たぶん資本のグローバル化によって)あましアテにならないけど、数十年前までは鉄鋼生産量は国力の重要な指標だったんです。

 さて、動力源として注目された石炭だけど、第九代ダンドナルド伯爵アーチボルド・コクランは石炭からコークスを作る際の副産物コールタールに目をつける。海軍国イギリスは木造の船体に穴をあけるフナクイムシに悩んでて、これを避けるためコールタールを塗りゃいいと考えたのだ。更にその副産物が石炭ガスで、これはやがてガス灯に使われる。

 もっとも、石炭ガスの最初の使い道は肺病の治療用ってのがおかしい。とまれ、この発明は無駄になったワケでもなく。

(ジェームズ・)ワットの人口空気の発生装置は、原理上はガス灯用のガス発生装置とまったく同じだった。
  ――第7章 灯心草からガス灯へ

 こうう紆余曲折が技術史の面白いところだよね。産業革命にしたって、その基礎となる機械工学は小麦を粉に挽く水車で発達してたり(→「水車・風車・機関車」)。

 こういった石炭の利用は新大陸アメリカにも渡る。と同時に、煤煙による大気汚染も輸出されてしまうのが情けない。1861年にピッツバーグを訪れた作家アントニー・トロロープ曰く。

「町は濃密な煙の底に沈んでいる」
  ――第14章 黒雲の柱

 こういった経済の繁栄とともに煤煙ももたらす石炭をよそに、石油も発見されつつあった。ただ、その組成は複雑で。

試料から留出された油成分は、それぞれ沸点が異なっていた。
  ――第9章 燃える水

 詳しくは「トコトンやさしい石油の本」あたりが参考になります。お陰で蒸留によりガソリンや軽油や重油などに分ける事ができるんだけど。特にガソリンは内燃機関=自動車の普及とともに売れ行きが上がるんだが、一つ問題があった。太平洋戦争時の大日本帝国も悩んだオクタン価、すなわちエンジン出力をいかに高めるかだ。そこでガソリンに何かを加えてオクタン価を上げようと頑張り、悪名高い有鉛ガソリン(→Wikipedia)へとたどり着く。この発明も苦労の連続で…

元素が発する臭気がひどくなるほど、その元素のノッキングの抑制効果は高まった。
  ――第15章 神より授かりしもの

 そりゃ悩むよなあ。そうやって苦労して有鉛ガソリンを発明したはいいが、これが光化学スモッグや酸性雨に代表される大気汚染を引き起こすんだから、なんとも。私が若い頃も街頭スピーカーが「光化学スモッグ警報が発令されました」とガナってた。昭和ってのは、そーゆー時代でもあるんです。

 それはともかく、パワーの問題が解決したアメリカは自動車社会へと突き進む。当然、石油の需要も増える。幸い合衆国内には油田が多く、こっちも盛んに開発される。そのため…

(第二次世界大戦)当時、アメリカは全世界の原油生産量の60%以上を占め、一日あたり100万バレル(1憶6千万リットル)を超える余剰生産力を備えていた。
  ――第16章 片腕でもできる溶接

 つくづく、なんでこんな国と戦争する気になったんだか。

 その石油の副産物というか、たいていの油田じゃ一緒に天然ガスも噴き出す。まあ分子の形は似たようなモンだし。要は炭素を水素が取り囲んでるわけ。で炭素が多けりゃ液体つまりガソリンや灯油になり、もっと多けりゃ個体のワックスになり、炭素が少なきゃメタンとかのガスになる。

 ところが当初はガスの使い方がわからず、無駄に捨てたり燃やしたりしてた。

20世紀の数十年間、アメリカをはじめ世界中でどれほど莫大な量の天然ガスが意味もなく放出され続け、地球温暖化を推し進めたのか、その積算を試みた者はまだ誰もいない。
  ――第16章 片腕でもできる溶接

 いや、ちゃんと理由はあるんだ。石油は液体だからタンクで運べる。でもガスを運ぶ技術がなかった。もちLNGタンカーなんかない。今でも天然ガスは地産地消に近い(→「トコトンやさしい天然ガスの本」)。これを解決したのが、長距離パイプライン。

液体燃料の歴史とは、パイプラインの歴史でもある。(略)長距離輸送のパイプライン建造を可能にした技術こそ、放電現象を利用したアーク溶接にほかならなかった。
  ――第16章 片腕でもできる溶接

 当時のパイプの継ぎ目は重ね合わせたり詰め物をしたりリベット溶接とか。その継ぎ目からガスが漏れるんで、あまし長いパイプラインは作れなかった。この問題を解決したのが溶接技術ってのが、技術史の意外さというか面白さと言うか。まあ、言われてみりゃ納得なんだけど。

 終盤では焦点が電力と原子力に移り、配電網の直流と交流の対立から原子力発電の費用などに話が及ぶ。特に原子力発電の費用の試算じゃ燃料も大きな要素で、1950年代では増殖炉(→Wikipedia)などによる核燃料サイクルが可能として計算してたっぽい。いずれにせよ、ピッツバーグが苦しんだ大気汚染の心配はないわけで…

デュケイン・ライト・カンパニーの会長フィリップ・A・フレイジャーに聞いた話では、同社が原子力発電を手がけた基本的な理由は「公害防止」のためだったという。
  ――第17章 1957年のフルパワー

 と、当時はクリーンなエネルギーとして明るい未来を思い描いてたのだ。

 勝手な想像だが、アメリカは特に核への愛着と幻想が強いんだと思う。なにせ第二次世界大戦を終わらせたんだし。その後、キューバ危機やスリーマイル島事故などを経て印象が変わってきたけど。

 それはともかく、放射線被爆の長期的な影響は、そう簡単には分からない。1952年12月、カナダのチョークリバーで原子炉事故が起き、30年後の追跡調査では「平均寿命より一歳以上」長生きなんて結果も出てる。ただ、これには別の解釈もある。

「健常労働者効果」とは、選択バイアスの一種で、そもそも労働者は働けるだけの健康体を持ち、平均すると一般人よりも健康で、死亡率も低くなるという現象だ。
  ――第19章 迫りくる暗黒時代

 いずれにせよ、原子力だの放射線だのって話は、イマイチよくわからない。だもんで、どうしても印象で決めつけちゃう所がある。私も、こんな性質があるとは知らなかった。

(アーネスト・)カスパリの新発見が衝撃的だったのは、1日2.5レントゲンを21日間にわたって照射、合計52.5レントゲンの線量をキイロショウジョウバエに照射したにもかかわらず、突然変異の増加率はまったく変化していなかった点にあった。
  ――第19章 迫りくる暗黒時代

 ある閾値を超えない限り、ほぼ無害なのだ。ゲームのダメージ計算だとアルテリオス計算式(→ニコニコ大百科)ですね←もっとわかんねえよ

 現実問題として、じゃその閾値は具体的に幾つ?とか 1レントゲンは何ベクレル? とか聞かれると私もわかんないんだけど。どうも1レントゲンは10ミリシーベルトらしいWikipedia。シーベルトは被爆量で、ベクレルは放射量かあ(→Wikipedia)。うーむ、こんな事も知らずに私は原子力発電の是非を語っていたのか。

 風力や太陽光とかもエコっぽいけど、風が止まれば風力は使えないし、太陽光も夜は使えない。2016年アメリカの各発電方式の平均設備利用率は、というと。

  • 原子力発電所:92.1%
  • 水力発電網:38%
  • 風力発電:34.7%
  • 太陽光発電:27.2%
  • 火力発電所:50%

 火力と水力の稼働率がけっこう低いのが意外なんだけど、改めて考えればベースが原子力でピークの予備が水力・火力なら当然か。とすると風力は頑張ってる方なんだけど、風は人間の都合に合わせてくれないしねえ。

 全体としてみると、薪→石炭→石油→原子力とエネルギー源が変わるたびに、似たようなメロディを奏でているのがわかる。

  • エネルギーを見つけた当初は喜んで使い始める。
  • 竈や蒸気機関など、より効率的で使いやすい技術が広がる。
  • やがて身近な資源を使い潰し、より遠くから資源を運んでくる。
  • 費用が高騰するが、いまさら止められない。
  • 木を刈りつくして砂漠化、石炭の煤煙によるスモッグなど、ツケが回ってくる。
  • 新しいエネルギーを見つけ、そっちに移る。

 人類ってのは、いつまでたっても学ばない生き物なんだなあ、などと少し悲しくなるんだけど、生物はみんな似たようなモンなのかもしれない。

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【今日の一曲】

Mountain - Nantucket Sleighride

 微妙にテーマからズレた曲ばかりを紹介してる「今日の一曲」だけど、今回は珍しく(←をい)本書の場面の一つ、ナンタケット島の捕鯨を扱った曲を。ベースのフェリックス・パパラルディとギターのレスリー・ウェストが仕切ってたバンドだけど、この曲は珍しくスティーヴ・ナイトのオルガンがいい味出してます。でもライブだとやっぱりギターのレスリー・ウェストが暴れまくるんだけどw

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2021年10月 5日 (火)

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 上・下」河出書房新社 柴田裕之訳

歴史の道筋は、三つの重要な革命が決めた。
約7万年前に歴史を始動させた認知革命、
約1万2千年前に歴史の流れを加速させた農業革命、
そしてわずか5百年前に始まった科学革命だ。(略)
本書ではこれら三つの革命が、人類をはじめ、この地上の生きとし生けるものにどのような影響を与えてきたのかという物語を綴っていく。
  ――第1章 唯一生き延びた人類種

特定の歴史上の時期について知れば知るほど、物事が別の形でなくある特定の形で起こった理由を説明するのが難しくなるのだ。
  ――第13章 歴史の必然と謎めいた選択

【どんな本?】

 なぜネアンデルタール人は滅び私たホモ・サピエンスだけが生き残ったのか。狩猟採集から農業による定住生活の移行は何をもたらしたのか。科学の発展と産業革命は、私たちの世界観・価値観をどう変えたのか。その前の人たちは、世界や人生をどう捉えていたのか。そして、未来のサピエンスはどう変わっていくのか。

 イスラエルの歴史学者が、ホモ・サピエンスの歴史全体を見渡し、歴史上の曲がり角とその原因を探り、私たちの歴史観・世界観の足元を揺さぶる、衝撃の人類史。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Sapiens : A Brief History of Humankind, by Yuval Noah Harari, 2011。日本語版は2016年9月30日初版発行。私が読んだのは2018 年9月9日発行の58刷。猛烈に売れてます。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約248頁+257頁=約505頁に加え、訳者あとがき7頁。9ポイント47字×19行×(248頁+257頁)=約450,965字、400字詰め原稿用紙で約1,128枚。文庫でもやや厚めの上下巻ぐらい。

 文章はこなれている。内容もわかりやすい。世界史から多くのトピックを取り上げるが、たいていは「いつ・どこで・だれが・なにをして・どうなったか」をその場で説明しているので、歴史に疎い人でも大丈夫。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進む。とはいえ、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

クリックで詳細表示
  •   上巻
  • 歴史年表
  • 第1部 認知革命
  • 第1章 唯一生き延びた人類種
    不面目な秘密/思考力の代償/調理をする動物/兄弟たちはどうなったか?
  • 第2章 虚構が協力を可能にした
    プジョー伝説/ゲノムを迂回する/歴史と生物学
  • 第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
    原初の豊かな社会/口を利く死者の霊/平和か戦争か?/沈黙の帳
  • 第4章 史上最も危険な種
    告発のとおり有罪/オオナマケモノの最後/ノアの方舟
  • 第2部 農業革命
  • 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
    贅沢の罠/聖なる介入/革命の犠牲者たち
  • 第6章 神話による社会の拡大
    未来に関する懸念/想像上の秩序/真の信奉者たち/脱出不能の監獄
  • 第7章 書記体系の発明
    「クシム」という署名/官僚制の驚異/数の言語
  • 第8章 想像上のヒエラルキーと差別
    悪循環/アメリカ大陸における清浄/男女間の格差/生物学的な性別と社会的・文化的性差/男性のどこがそれほど優れているのか?/筋力/攻撃性/家長父制の遺伝子
  • 第3部 人類の統一
  • 第9章 統一へ向かう世界
    歴史は統一に向かって進み続ける/グローバルなビジョン
  • 第10章 最強の征服者 貨幣
    物々交換の限界/貝殻とタバコ/貨幣はどのように機能するのか?/金の福音/貨幣の代償
  • 第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
    帝国とは何か?/悪の帝国?/これはお前たちのためなのだ/「彼ら」が「私たち」になるとき/歴史の中の善人と悪人/新しいグローバル帝国
  • 原注/図版出典
  •   下巻
  • 第12章 宗教という超人的秩序
    神々の台頭と人類の地位/偶像崇拝の恩恵/神は一つ/善と悪の戦い/自然の法則/人間の崇拝
  • 第13章 歴史の必然と謎めいた選択
    後知恵の誤謬/盲目のクレイオ
  • 第4部 科学革命
  • 第14章 無知の発見と近代科学の成立
    無知な人/科学界の教義/知は力/進歩の理想/ギルガメシュ・プロジェクト/科学を気前良く援助する人々
  • 第15章 科学と帝国の融合
    なぜヨーロッパなのか?/征服の精神構造/空白のある地図/宇宙からの侵略/帝国が支配した近代科学
  • 第16章 拡大するパイという資本主義のマジック
    拡大するパイ/コロンブス、投資家を探す/資本の名の下に/自由市場というカルト/資本主義の地獄
  • 第17章 産業の推進力
    熱を運動に変換する/エネルギーの大洋/ベルトコンベヤー上の命/ショッピングの時代
  • 第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和
    近代の時間/家族とコミュニティの崩壊/想像上のコミュニティ/変化し続ける近代社会/現代の平和/帝国の撤退/原子の平和
  • 第19章 文明は人間を幸福にしたのか
    幸福度を測る/化学から見た幸福/人生の意義/汝自身を知れ
  • 第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ
    マウスとヒトの合成/ネアンデルタール人の復活/バイオニック生命体/別の生命/特異点/フランケンシュタインの予告
  • あとがき 神になった動物
  •  謝辞/訳者あとがき/原註/図版出典/索引

【感想は?】

 歴史の本…ではあるんだが、王様や将軍の名前はあまり出てこない。

 本書が描くのは、それぞれの王様や国が何をしたか、ではない。「農業」や「貨幣」や「科学」などの制度や考え方が、私たちの暮らしや考え方をどう変えてきたか、だ。

 そこで描かれる物語は、私たちの思い込みを次々と覆す。これがとっても気持ちいい。この感覚は、「エコープラクシア」や「オーラリメイカー」などの優れたファースト・コンタクト物の本格SFで味わえる感覚と似ている。脳ミソの溝に溜まった垢や澱を洗い流される、そんな感じ。

 まずはネアンデルタール人などのライバルを駆逐し、私たち=ホモ・サピエンスだけが生き延びた理由について。

虚構、すなわち架空の物事について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
  ――第2章 虚構が協力を可能にした

 虚構、ファンタジイときたもんだ。なんじゃそりゃ、と思うだろうが、後に貨幣=お金を語るあたりで、否応なしに納得させられる。

 次に驚くのが、狩猟採集から農耕&定住生活への移行。これは最近よく言われているように、個々のヒトにとっては、あまり愉快なモンじゃなかった。食べ物のバリエーションは減るし伝染病は増えるし農業には手間がかかるし。

農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。(略)
私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。
  ――第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

 なお、本作では狩猟採集生活じゃ常に移動してるように書いてるけど、実は集団ごとに巣とナワバリがあったんじゃないか、と私は思ってる。群れをつくる野生生物だって、たいていはそうだし。

 とまれ、巣は家となり、様々な道具が家に溜まってゆく。最初は「ちょっと便利」なだけの道具も、次第に生活必需品にり、モノが家に溢れ移動生活が難しくなってゆく。これ引っ越しするとよく分かるんだよね。なんでこんなに荷物があるんだ、と驚くから。

歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。
  ――第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

 昭和の頃はインターネットなんかなかったけど、今はスマートフォンが当たり前だしねえ。なお、農耕生活を促した原因は酒だって説もあるんだけど、あなたどう思います?

 まあいい。そんな農作物の人類に対する支配力は相当なもので。

近代後期まで、人類の九割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。
  ――第6章 神話による社会の拡大

 歴史の教科書じゃ王様や軍人ばっかり出てくるけど、そんなのはごく一部で、大半は農民だったんです。平安時代も戦国時代も歴史や物語の登場人物は貴族や武士だけど、人口の大半は農民なんだよなあ。

 とまれ、村が集まって国ができたりすると、官僚や軍人などの専門家も生まれてくる。こういう専門家の考え方ってのは、それぞれが独特で…

整理係や会計士は普通の人間とは違う思考法を採る。彼らは書類整理用のキャビネットのように考えるのだ。
  ――第7章 書記体系の発明

 そしてプログラマはコンピュータのように考える…人もいる。たまにいるんだよね、「コンパイラの気持ちになって考えよう」とか言っちゃう人が。いや言いたくなる気持ちは分かるんだけどさ。でもさすがに最近のCPUの気持ちになるのは無理だわ。パイプラインとか分岐予測とか難しすぎて。

 とかの冗談はおいて。虚構はサピエンスを地上の王者にしたけど、弊害もあった。その一つが、差別だ。

想像上のヒエラルキーはみな虚構を起源とすることを否定し、自然で必然のものであると主張するのが、歴史の鉄則だ。
  ――第8章 想像上のヒエラルキーと差別

たいていの人は、自分の社会的ヒエラルキーは自然で公平だが、他の社会的ヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。
  ――第8章 想像上のヒエラルキーと差別

 あるねえ。というか、某匿名掲示板とかを見ると、サピエンスは常に差別をつくり出そうとする性質があるんじゃないか、とまで思えてくる。この点は著者も悲観的で…

差別ときっぱり訣別できた大型社会を学者は一つとして知らない。
  ――第8章 想像上のヒエラルキーと差別

不正な差別は時が流れるうちに、改善されるどころか悪化することが多い。
  ――第8章 想像上のヒエラルキーと差別

 いわゆる「上級国民」なんて言葉が流行る最近の日本の風潮を見ると、納得したくなるから困る。

 そんな虚構だけど、もちろん役に立つものも多い。その一つが貨幣、お金だ。

これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。
  ――第10章 最強の征服者 貨幣

人々は互いに理解不能の言語を話し、異なる規則に従い、別個の神を崇拝し続けたが、誰もが金と銀、金貨と銀貨を信頼した。
  ――第10章 最強の征服者 貨幣

 今だって合衆国とイランは睨み合ってるけど、どっちもドルは大好きだしね。なお欧米の経済制裁でイラン通貨のリアルが暴落するたびに、イランの政治家と金持ちは金(ゴールド)とドルを買い漁るとか。金こそが世界で最も信仰されているモノなのだ。

 悪く言われてるのはカネばかりじゃない、スターウォーズでも帝国が悪役だったように、帝国って言葉には悪い印象が付きまとう。が、しかし。

帝国は人類の多様性が激減した大きな要因だった。
  ――第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン

帝国は過去2500年間、世界で最も一般的な政治組織だった。この2500年間、人類のほとんどは帝国で暮らしてきた。帝国は非常に安定した統治形態でもある。大半の帝国は叛乱を驚くほど簡単に鎮圧してきた。
  ――第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン

帝国はたいがい、支配している諸民族から多くを吸収した混成文明を生み出した。
  ――第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン

 同時に帝国は多くの文化の交流を促し、グローバル化も推し進めたのだ。中国は秦帝国が母体だし、現代ヨーロッパもローマ帝国の遺体から芽を出したようなもんだ。お陰で学問の世界じゃ今でもラテン語がブイブイいわしてる。「大英帝国は大食らい」では、大英帝国が諸国の文化に与えた影響が味わえます。その(オスマン)帝国が潰れた後の混乱の真っ只中にいるのが中東。

 虚構でもう一つ重要な地位を占めている宗教なんだが、これ前から思ってた事を見事に明文化してくれたのが嬉しい。

じつのところ一神教は、(略)一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。
  ――第12章 宗教という超人的秩序

 例えばキリスト教だと、悪魔がウジャウジャいれば天使も沢山いる。守護聖人とかって、学問の天神様や商売の恵比寿さん、芸事の弁天様と何が違うのよ? アイルランドの聖パトリックとか、モロに土地神様じゃん。結局、サピエンスって、アニミズムから逃れられないんでない?

 などの宗教に代わって台頭したと言われる科学なんだが、逆になぜソレまで科学や産業が表に出なかったのかというと、それは人々の世界観や考え方が昔はまったく違ってたから、と著者は説く。

西暦1500年ごろまでは、世界中の人類は、医学や軍事、経済の分野で新たな力を獲得する能力が自分らにあるとは思えなかったのだ。
  ――第14章 無知の発見と近代科学の成立

 パイの大きさは決まっていて、多くのパイが欲しければ他の者から奪うしかない、そういう考え方ね。あとエデンの園や北欧神話のラグナロクみたく、「昔はよかった、これから先は悪くなる一方」みたいな歴史観。これ今でもそういう世界観の人が多いよね。実際は交通事故も減って治安も良くなってるのに。

 では、何がソレを変えたかというと、「己の無知を認めたから」ってのが著者の主張。

科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々を知らないという、重大な発見だった。
  ――第14章 無知の発見と近代科学の成立

 自分は知ってると思い込んでたら、改めてソレについて調べようとは思わない。ダニング=クルーガー効果(→Wikipedia)の「馬鹿の山」(→Twitter)でふんぞり返ってたわけ。

 もっとも、そういう考え方に落ちいていたのも、ちゃんと理由があって。

歴史の大半を通じて、経済の規模はほぼ同じままだった。たしかに世界全体の生産量は増えたものの、大部分が人口の増加と新たな土地の開拓によるもので、一人当たりの生産量はほとんど変化しなかった。
  ――第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

 実際、人々の暮らしはたいして良くなっちゃいなかったから。「21世紀の資本」でも、歴史を通じて世界の経済成長は年2%ぐらい、とあった。しかも、本書によれば、ソレは規模がデカくなっただけで、効率は変わっちゃいない、と。

 たとえそうであっても、規模をデカくするのはいいんだよ、それで食える人は増えるんだから、と説いたのが経済学の祖アダム・スミス。事業を起こして稼ぎ、稼いだ金で更に事業を拡げろ、そうすりゃ仕事が増えて失業者が減りみんなハッピー、それが資本主義。

資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。
  ――第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

 明治維新以降の大日本帝国も、太平洋戦争後の日本国も、そういう思想で成り上がりました、はい。戦争やオイルショックやバブル崩壊で行き詰ったけど。とまれ、そんな風に成り上がった国は日本ぐらいだったのにも理由があって。

資本は、個人とその財産を守れない専制的な国家からは流出し、法の支配と私有財産を擁護する国家に流れ込む。
  ――第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

 腐った国で事業を起こしても、腐った政治家に喰われるだけ。だから事業主は逃げ出す。本書はオランダがスペインから独立した80年戦争(→Wikipedia)を例に挙げてる。この辺は「国家はなぜ衰退するのか」が詳しいです。今だって香港に資本を投入して事業を起こすのは、ちと度胸がいるよね。中国共産党にコネがあるならともかく。

 とまれ、まっとうな資本主義でも、やっぱり格差は広がるのだ。

自由市場資本主義は、利益が公正な方法で得られることも、公正な方法で分配されることも保証できない。
  ――第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

 公害とかもあるけど、食べ物の歴史を見ると、利益目的で無茶やらかした例にはこと欠かないんだよな。奴隷貿易(「砂糖の歴史」)とか土地の買い占め(「バナナの世界史」)とか。

 とまれ、科学と資本主義の結びつきは、産業革命で大きな果実をもたらす。それはサピエンスが新しいエネルギー、石炭や石油を調達できたからだ。

歴史を通して人々のやったことのほぼすべてが、植物が捉えた後、筋肉の力に変換された太陽エネルギーを燃料としていた。
  ――第17章 産業の推進力

 それまでの単に規模が大きくなるだけの経済成長から、機械化によって効率をハネあげる経済成長が生まれてくる。これによって「人のぬくもりが消えた」なんて言う人もいるけど、血が流れることも減ったのだ。

暴力の現象は主に、国家の台頭のおかげだ。
  ――第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和

 現代じゃ見知らぬ人同士が駅などで平気でスレ違うけど、これはサピエンス史上じゃ画期的な状態なのだ。群れで狩猟採集してた頃は、ヨソ者=ヤバい奴だったんだから(「文明と戦争」「昨日までの世界」)。

 確かに二つの世界大戦とかもあったけど…

1945年以降、国連の承認を受けた独立国家が征服されて地図上から消えたことは一度もない。
  ――第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和

 せいぜいイラクのクウェート侵攻ぐらいだしね。二次大戦前だったら、イギリスやフランスは喜び勇んでシリアに攻め込んでただろう。例えロシアと事を構える羽目になっても。

 戦争ばっかりみたいな印象があるけど、実際はやたら平和なのだ、今の世界は。

 などと歴史を振り返ったそれまでの章とはガラリと変わり、未来を見つめるのが最後の章。ここはまるきしSFだから楽しい。つまり、バイオテクノロジーなどにより、今後はサピエンスそのものが変わる時代が来るぞ、と説く。その何が問題か、というと。

私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、テクノロジーや組織の変化だけでなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。
  ――第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ

 ニュータイプだのコーディネイターだのが生まれるとして、彼らは何を望むんだろう? 昔の人は私たちと全く違う考え方をしていたように、新人類も私たちと全く違う考え方をするはずなのだ。そんな彼らと、私たちは巧く付き合えるんだろうか。ガンダム・シリーズじゃ不幸な結末ばかりが描かれるけど。

 …と、結局はSFな話になっちゃったけど、こういう「認識の変革」を伴う本ってのは、どうしてもSF的な視野になっちゃうんだよね。そんなワケで、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」はいいぞ←結論はそれかい

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2021年9月 3日 (金)

アンドリュー・ナゴルスキ「隠れナチを探し出せ 忘却に抗ったナチ・ハンターたちの戦い」亜紀書房 島村浩子訳

本書では、世界がナチスの犯罪を忘れないように、彼らの当初の成功を覆すことに尽力した比較的少数の人々に焦点を当てる。(略)その過程で悪の本質にまで踏み込み、人間の行動について難題を提起した。
  ――はじめに

【どんな本?】

 ナチ・ハンター。ユダヤ人大虐殺を主導または積極的に協力しながら、それを隠して暮らす者たちの過去を暴き追い詰め、法廷に引き出し罪を明らかにしようとする者たち。ジーモン・ヴィーゼンタールなど有志の個人もいれば、イスラエルのモサドが組織的に狩る場合もある。また政府を動かそうとする合衆国下院議員のエリザベス・ボルツマンのような政治家や、ドイツの判事フリッツ・バウアーやポーランドの判事ヤン・ゼーンなど法律家の努力もあった。

 彼らはどんな人間なのか。なぜナチ・ハンターになったのか。どうやって元ナチを追い詰めたのか。彼らは何を目指し、何を変えたのか。そして元ナチはどんな人間なのか。

 ユダヤ人大虐殺を記録として残し人々の記憶に焼き付けるために闘った人たちの足跡を追い、その実績と人柄を明らかにするとともに、ドイツとイスラエルはもちろんアメリカ・フランス・オーストリア・ブラジル・ボリビア・アルゼンチン・パラグアイなどの諸国と元ナチの関わりを明らかにする、現代のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Nazi Hunters, by Andrew Nagorski, 2016。日本語版は2018年1月17日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約463頁に加え、訳者あとがき6頁。9.5ポイント43字×17行×463頁=約338,453字、400字詰め原稿用紙で約847枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくないが、第二次世界大戦の欧州戦線の概要を知っていた方がいい。とりあえず東欧諸国およびバルカン半島諸国が一時期は枢軸側の支配下にあった、ぐらいで充分。

 冒頭に登場人物一覧があるのはありがたい。ついでにWJC(世界ユダヤ人会議)などの略語が多く出てくるので、略語一覧が欲しかった。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、できれば頭から読んだ方がいい。

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  • 登場人物紹介
  • はじめに
  • 第1章 絞首刑執行人の仕事
  • 第2章 目には目を
  • 第3章 共謀の意図
  • 第4章 ペンギン・ルール
  • 第5章 忘れられたナチ・ハンター、ヤン・ゼーンの物語
  • 第6章 より邪悪でないほう
  • 第7章 不屈のハンターたち ヴィーゼンタールとバウアー
  • 第8章 アイヒマン拉致作戦
  • 第9章 怪物か、悪の凡庸か アイヒマンとハンナ・アーレント
  • 第10章 小市民
  • 第11章 忘れられない平手打ち
  • 第12章 模範的市民という仮面
  • 第13章 ラパスへ
  • 第14章 戦中の嘘
  • 第15章 亡霊を追って
  • 第16章 旅の終わり
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 シャーロック・ホームズみたいな緻密なミステリや007みたいなスパイ活劇を期待すると、肩透かしを食う。

 一応「第8章 アイヒマン拉致作戦」でモサドが(アドルフ・)アイヒマン(→Wikipedia)を捕まえるあたりでスパイ・アクションが生々しく展開するが、それぐらいだ。誘拐の時に目撒くしとかベッドにつなぐとか、ホントなんだね。モサドの活躍が知りたい人は「イラク原子炉攻撃!」「モサド・ファイル」「ミュンヘン」がお薦め。

 実は最も多いのが、判事などの司法関係者。元ナチの裁判に関わった人たちだ。例えば…

  • ニュルンベルク裁判(→Wikipedia)首席検事ベンジャミン・フェレンツ(→ホロコースト百科事典)
  • ポーランド人調査判事ヤン・ゼーン
  • ドイツ人判事フリッツ・バウアー

 もちろん、私たちが思い浮かべるナチ・ハンターも登場する。

  • ジーモン・ヴィーゼンタール(→Wikipedia)
  • トゥヴィア・フリードマン
  • ベアテ・クラルスフェルト(→Wikipedia)&セルジュ・クラルスフェルト(→Wikipedia)

 こういった人々に焦点をあてつつ、その背景にある世界や世論の変化も描いてゆく。全体を通し著者は、ハンターたちの行いを「事実を明るみに引きずり出した」と讃えている。

戦後の裁判は罪人を処罰することだけが目的ではなかった。歴史的記録を残すうえできわめて重要だったのである。
  ――第3章 共謀の意図

 歴史に記した事こそが最大の功績である、と。

モサド長官イサル・ハウエル
「史上初めて、ユダヤ人を惨殺した人間をユダヤ人が裁く機会となる」
「史上初めて全世界に、イスラエルの若い世代に、一つの民族の全滅が命じられた物語が余すところなく語られる」
  ――第8章 アイヒマン拉致作戦

 もちろん、そこには復讐の念もある。

モサド高官「彼ら(元ナチ)がこの世を去る最後の日まで一瞬たりと平穏な時間を過ごせなくしてやるのだ」
  ――第11章 忘れられない平手打ち

 家族や親しい人を殺されて恨みに思うのは当たり前だが、それだけじゃない。彼らの無念を募らせたのは、世間の対応もある。ほじくり返すな、忘れよう、なかったことにしよう、当初はそういう反応が多かったのだ。

ニュルンベルク裁判首席検事ベンジャミン・フェレンツ
「ドイツにいたあいだに、わたしに近寄ってきて後悔の言葉を述べたドイツ人は一人もいなかった」
  ――第4章 ペンギン・ルール

セルジュ・クラルスフェルト「1965年の時点では、西側からアウシュヴィッツへ行こうとする人間なんていなかった」
  ――第11章 忘れられない平手打ち

ドイツ週刊誌「デア・シュピーゲル」記者クラウス・ヴィーグレーフェ
「アウシュヴィッツで行われた犯罪が正しく罰せられなかったのは、数人の政治家や判事の妨害に逢ったからではない」
「犯罪者を断固有罪にし、罰しようとする人々があまりに少なかったからだ。多くのドイツ人はアウシュヴィッツで起きた大量殺人に1945年以降、ずっと無関心のままだった」
  ――第16章 旅の終わり

 とまれ、そこには連合国側の思惑もある。対ドイツ戦が終わると冷戦が始まり、ナチ戦犯より赤狩りが重要になったのだ。日本の逆コース(→Wikipedia)みたいなモンです。その過程で、かのペーパークリップ作戦(→Wikipedia)のように連合軍も元ナチを匿い利用しようとする。

最新の文書の日付は1951年3月27日。(米国)陸軍諜報工作員二名による報告書で、彼らは(クラウス・)バルビー(→Wikipedia)に“アルトマン”名義の偽造証明書をわたしてジェノバまでつき添い、そこから南米へと送り出していた。
  ――第13章 ラパスへ

 そんな中、ナチ・ハンターたちは証拠を集め元ナチを司法の場に引きずり出し、マスコミも動かして世間の空気を変えてゆく。もっとも、なかなか届けるべき人には届かないんだけど。

「(アウシュヴィッツ裁判の新聞記事を)一番読む必要のある人たちが読みたいと思っていないのは確か」
  ――第10章 小市民

 こういうのは、どの国でも同じだよね。私も極右系の本や記事はまず読まないし。それに誰だって元加害者より元被害者の方が居心地いい。

「オーストリア人は、ベートーヴェンがオーストリア人で、ヒトラーがドイツ人だと世界に信じさせたからな」
  ――第14章 戦中の嘘

 それはともかく、やっぱり文字より映像の方が影響力は大きかったようで…

映画『ニュルンベルク裁判 現代への教訓』について米軍政府情報官
「われわれはナチズムについて三年かけてドイツ国民に語ってきたが、この80分間の映画のほうがより多くのことを伝えられる」
  ――第6章 より邪悪でないほう

 とまれ、そういった雰囲気を変える最大のキッカケは、モサドによるドルフ・アイヒマン(→Wikipedia)の誘拐とイスラエルにおける裁判だろう。これは国際的に大きな騒ぎとなり、アイヒマンの動機を巡り大きな論争を巻き起こす。

モサド長官イサル・ハウエル
「いったいどうして、こんなごくふつうにみえる人間が怪物になったのか?」
  ――第8章 アイヒマン拉致作戦

 中でも最も有名な論客はハンナ・アーレント(→Wikipedia)だろう。裁判を取材し著作「エルサレムのアイヒマン」で「悪の凡庸さ」を語り、今なお論戦は続いている。

(アドルフ・)アイヒマンを突き動かしていたのはイデオロギーやユダヤ人に対する憎しみではなく、出世第一主義(略)だった、と(ハンナ・)アーレントは主張した。(略)言い換えるなら、ナチの体制が標的としさえしたら、彼は人種や信仰に関係なくどんなグループであろうと、何百万人もの人々を死に追いやったということだ。
  ――第9章 怪物か、悪の凡庸か アイヒマンとハンナ・アーレント

 もちろん、これに反論する人もいる。

哲学者ベッティーナ・シュタングネト
「人の命を軽んじるイデオロギーは、伝統的な正義の概念や倫理を否定する行動が合法化される場合、自称支配民族の一員にとってきわめて魅力的に映る」
  ――第9章 怪物か、悪の凡庸か アイヒマンとハンナ・アーレント

 ヤバい奴はヤバい空気をチャンスと思う、そういう事です。「国際社会と現代史 ボスニア内戦」とかを読むと、この意見に同意したくなるんだよなあ。

 私の考えは、というと。やはりアイヒマンはヤバい奴だと思う。官僚として有能なのは、みんな認めてる。ただ、有能なだけじゃ熱心に仕事はしない。きっと好きだったんだ、その仕事が。仕事が孤児や捕虜の保護だったら、怠けるか転属を申し出ただろう。やる気にいなれないから。他の商売でも、優れたギタリストはギターが好きだし、優れたプログラマはプログラミングが好きだもん。

 「仕事だから仕方なく」と言うのはアイヒマンに限らず、ほぼ全ての元ナチに共通してる。例えばアウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘース(ナチ党副総統ルドルフ・ヘスとは別人、→Wikipedia)。

「わたしは個人的に誰かを殺したわけじゃない。私はアウシュヴィッツにおける絶滅計画の責任者だっただけだ。命令したのはヒトラーで、それがヒムラーによって伝えられ、移送に関してはアイヒマンから指示があった」
  ――第5章 忘れられたナチ・ハンター、ヤン・ゼーンの物語

 そうは言うものの、仕事の中身はちゃんと判ってた。

「ユダヤ人問題の“最終的解決”とは、ヨーロッパにおけるユダヤ人を一人残らず完全に絶滅させることを意味した」
  ――第5章 忘れられたナチ・ハンター、ヤン・ゼーンの物語

 そして、自分の仕事を誇りに思っていた。

「わたしの心は総統とその理想とともにあった。なぜなら、それは滅びてはならぬものだからだ」
  ――第5章 忘れられたナチ・ハンター、ヤン・ゼーンの物語

 加えて、いささか衝撃的な発言も飛び出る。「普通の人々」も実態に気が付いていた、と。

「絶え間なく死体を焼却しているせいで吐き気をもよおす悪臭があたりにたちこめ、近隣の住民はみな、アウシュヴィッツで大量殺人が行われていることを知っていた」

 これらはアウシュヴィッツ裁判(→Wikipedia)を通し、人々に考え方を変えるようメッセージを発してゆく。

アウシュヴィッツ裁判判事ハンス・ホフマイヤー
「“小市民”は先導したわけではないから無罪だとするのは間違いだ」
「彼らは絶滅計画を机上で作成した者に劣らず、その実施において重大な役割を果たした」
  ――第10章 小市民

 そして、歴史観も変えるべし、と迫る。例えばヒトラー暗殺事件(→Wikipedia)の首謀者たちも、反逆者ではなく愛国者である、と。

ドイツ人判事フリッツ・バウアー
抵抗者らが「ヒトラーを排除し、それによりヒトラーの体制を排除しようとしたのは、祖国への熱き愛と国民に対する自己犠牲も厭わぬ無私の責任感からであった」
  ――第7章 不屈のハンターたち ヴィーゼンタールとバウアー

 終戦についても…

ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(→Wikipedia)「あれ(終戦)は解放の日だった」
  ――第16章 旅の終わり

 これまた被害者ぶってると言えなくもないが、太平洋戦争敗戦後の日本人も、そう感じる人が多かったんじゃなかろうか。「やっと終わった」と。

 そんな風に、世論までも動かすナチ・ハンターたちは、どんな風に思われていたのか、というと。

(アリベルト・)ハイム(→Wikipedia)が――そして十中八九他の逃亡戦犯も(ジーモン・)ウィーゼンタールを恐れ、ほぼ全能の復讐者という世間的なイメージを信じていたのは確かだった。
  ――第15章 亡霊を追って

 KGBの組織力・調査力とシャーロック・ホームズの推理力、そしてインディ・ジョーンズの行動力を兼ね備えたスーパーマンみたいな印象だろうか。でも実際は「探偵1/3、歴史学者1/3、ロビイスト1/3」と地味なモンだったり。探偵にしたって、コナン君みたいなアクション型じゃなく安楽椅子探偵だしなあ。

 その相手の元ナチも豪邸に住み番犬にシェパードを飼う貴族然とした暮らしってワケじゃなく…

「わたしが相手にする元ナチはたいていが、危険な軍閥とはほど遠い70代か80代の白髪頭の凡人で、クリーブランドやデトロイトの郊外でぱっとしない余生を送っている」
  ――第12章 模範的市民という仮面

 はい、たいていの場合、現実は地味なんです。

 もっとも、中には華々しい立場に返り咲く者もいた。終盤では、その象徴でもある国連事務総長でありオーストリア大統領にもなったクルト・ヴァルトハイム(→Wikipedia)をめぐり、ナチ・ハンター同士の内輪もめが描かれる。

 バルカン半島でのヴァルトハイムの階級は中尉。歩兵なら中隊長か小隊長で200人程度の部下がいる立場だが、彼の役割は通訳または情報将校だから部下はいても数人だろう。疑いはマケドニアで三つの村の虐殺に関わったというもの。

 騒ぎになった1986年当時、ヴァルトハイムは大統領選に出馬していた。選挙ともなれば、参加陣営はDisの応酬になる。ここでヴァルトハイムの過去を持ち出せば、選挙に向けた宣伝ととられかねない…というか、ヴァルトハイム側は確実に「それは対抗陣営の選挙宣伝だ」と叫ぶだろう。

 実際、スキャンダルは国際的なニュースとなり、オーストリアは多くの非難を浴びるが、逆にオーストリアではナショナリズムに火を点け、ヴァルトハイムの当選に結びつく。

「当初は“ヴァルトハイムを選べ、世界は彼を愛している”がスローガンだった」
「いまや“ヴァルトハイムを選べ、世界は彼を憎んでいる”だ」
  ――第14章 戦中の嘘

 この件では「どう動くか」を巡り、ナチ・ハンター間での激しい対立が起きる。このあたりでは、理想通りにいかない切なさを感じるものの、同時に彼らも豊かな感情を持ちの血が通った人間なんだなあ、としみじみ感じたり。

ジーモン・ヴィーゼンタール・センターのエルサレム支局長エフライム・ズロフ
「ほかのナチ・ハンターについて、いいことを言うナチ・ハンターには一度も会った事がない」
「嫉妬や競争心、すべてそういうもののせいだ」
  ――第16章 旅の終わり

 どうでもいいがジーモン・ヴィーゼンタール・センターはジーモン・ヴィーゼンタールが作ったんじゃなくて、名前を貸してるだけなのね。ギブソン・レスポールみたいな関係か←一般人に通じない例えはやめろ

 原動力が正義感か私怨か名誉欲かはともかく、彼らの粘り強い働きは単に元ナチを吊るし上げるだけに留まらず、人々が歴史に向かい合う姿勢を大きく変えたのは事実だ。じゃ日本はというと、相変わらず目を背け続けている。それでも、いやそれだからこそ、歴史を掘り返す意味はあるんだと思う。

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2021年8月29日 (日)

Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger/Jeffrey R.Yost「コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか 原著第3版」共立出版 杉本舞監訳 喜多千草・宇田理訳

本書は19世紀から現代に至るコンピューティング史の通史を取り扱ったものである。
  ――解題と読書リスト

【どんな本?】

 本書はコンピュータの歴史を綴った本である。その構想・設計・開発・製造など理論や技術はもちろん、IBMなどIT関連企業の経営・販売も扱う。中でも最大の特徴は、使い道について詳しく述べている点だ。これは19世紀の紙と手計算による事務処理や航海年鑑から国勢調査などの大規模バッチ処理、航空機座席予約システムやATMなどのリアルタイム処理、ニミコンピュータからマイクロコンピュータそしてパーソナルコンピュータ、ARPAネットとパソコン通信からインターネットなどを経て現代のTwitterやFacebookなどのSNSまでを扱う。

 21世紀の今日では、日々の暮らしに欠かせない技術となったコンピュータ。それは何のために生まれ、どう成長し、どう使われ、どうやって私たちの暮らしに入り込んできたのか。

 技術より使い方と暮らしへの浸透を通して描く、少し変わったコンピュータの歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Computer : A History of the Information Machine, by Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger,/Jeffrey R.Yost, 2014。日本語版は2021年4月15日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約356頁に加え、杉本舞「解題と読書リスト」7頁。9ポイント36字×33行×356頁=約422,928字、400字詰め原稿用紙で約1,058枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 共立出版にしては文章はこなれている。ええ、「共立出版にしては」です。内容は初心者向けで、技術的に突っ込んだ話はほとんど出てこない。それだけに説明不足の感はあるが、いちいち説明していたらキリがないのも理解できる。詳しく知りたかったら巻末の「文献リスト」や「解題と読書リスト」から手繰ろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、なるべく頭から読もう。

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  • 謝辞/第3版へのまえがき/序
  • 第1部 コンピュータ前史
  • 1 人間がコンピュータだったころ
  • 2 オフィスに事務機がやってくる
  • 3 バベッジの夢が現実に
  • 第2部 コンピュータの登場
  • 4 コンピュータという発明
  • 5 コンピュータがオフィスの主役に
  • 6 メインフレームの時代 IBMの季節
  • 第3部 日々進化するコンピューティング
  • 7 リアルタイム つむじ風のように速く
  • 8 コンピュータを支配するソフトウェア
  • 9 新しいコンピューティングの登場
  • 第4部 コンピュータの民主化
  • 10 パソコン時代の登場
  • 11 魅力拡がるコンピュータ
  • 12 インターネットの世界
  • 出展に関する注/文献リスト/解題と読書リスト 杉本舞/訳者あとがき/索引

【第1部 コンピュータ前史】

 本書は「コンピュータ史」ではない。「コンピューティング史」である。

 つまり着目点は「何に使うか」だ。これは最初の「1 人間がコンピュータだったころ」で実感できる。ここでは、計算機が登場する前の19世紀に、金融・事務・軍事・科学・技術などの分野で、紙と手計算でどのような処理がなされていたかを描く。

 最初に出てくるのは、ロンドンの銀行の手形交換所だ。A銀行がB銀行に払うカネと、B銀行がA銀行に払うカネは相殺して差額だけを動かせばいい。銀行が2行だけなら経路はA:Bの一本だが、3行だとA:B, A:C, B:C の3つになり、4行だと6つになる。銀行が増えるたび、経路は爆発的に膨れ上がってゆく。これをどう解決するのか、

 ここで登場するコンピュータの父ことチャールズ・バベッジ(→Wikipedia)が、モロにマッド・サイエンティストで面白い。

コンピュータという言葉は、(略)ヴィクトリア期や第二次世界大戦にさかのぼってみれば、(略)ある職業のことを意味していた。
  ――1 人間がコンピュータだったころ

 当時は天文学者用の星表や船乗用の航海年鑑などの数表は、人間が計算していた。バベッジはこれを機械でやろうと考え、かの有名な階差機関(difference engine、→Wikipedia)を思いつく。印刷時のミスを防ぐため活字を組む機構も備えている。原初のコンピュータはプリンタ付きなのだ。

 ところが階差機関の開発は長引き、その途中で汎用の計算機である解析機関(analytical engine、→Wikipedia)の発想に至る。その違いは何か、というと。

解析機関というアイデアは、階差機関で計算の結果をフィードバックさせれば人間の介入をなくせるのではないかとバベッジが考えている時に、着想したものであった。
  ――3 バベッジの夢が現実に

 今ならループとか再起とかの発想だね。それはいいが、肝心の航海年鑑をほったらかしたせいで、スポンサーから資金を打ち切られてしまう。手段のために目的を忘れる、マッド・サイエンティストの鑑ですw そこのプログラマ、ライブラリ作りに熱中してアプリケーションの開発を忘れるとかの経験ありませんか? コンピュータの父はハッカーの祖でもあるのだw

 などと19世紀のイギリスで潰えた事務の機械化の夢は、新大陸アメリカで芽を出す。1890年の国勢調査で使われたハーマン・ホレリス(→Wikipedia)のタービュレイティング・マシン(→Wikipedia)を皮切りに、機械が事務所へと侵入してゆく。その先兵となったのがタイプライター。

タイプライターはオフィス機器産業とそれに続くコンピュータ産業の三つの基本的特徴を拓いた(略)。製品の完成度と低コスト生産、製品を売る販売組織、そしてその技術を使えるように労働者を訓練する組織の三つである。
  ――2 オフィスに事務機がやってくる

 ここでは新し物好きなアメリカに対する保守的なイギリスへの皮肉がチラリ。それはともかく、タイプライターが流行った理由の一つが、手書きより読みやすいってのに冷や汗w 今も Microsoft Word を使う最大の理由は、手書きより綺麗だからだよね。

【第2部 コンピュータの登場】

 などと機械が事務室へ侵入するなか、第二次世界大戦がはじまり、まの有名なENIAC(→Wikipedia)とEDVAC(→Wikipedia)が登場する。今まで両者の違いがよく分かってなかったけど、その一つはプログラム内蔵か否か。ENIACは違うプログラムを走らせるたびに、いちいち配線を変えにゃならなかった。そりゃ面倒くさいよね。ならプログラムも覚えとけよ。ということで…

計算機の記憶装置は、プログラムの命令と、それが処理する数字の両方を保持するのに用いられる
  ――4 コンピュータという発明

 そういやシンセサイザーは音源やエフェクトの設定を記録&呼び出しの機能があるけど、ギターのエフェクターでそういう事ってできるの? いや私はフランジャ―しか持ってないからいいけどw

 まあいい。潤沢な軍の予算で開発した技術が、すぐ民間で活きるのがアメリカの強い点の一つ。そこに喰いつき、うまく活かしたのがビッグ・ブルーことIBM。その成長の原因はサポートにある。日本の自動車産業がアメリカ進出で成功したのも同じ理由だった。トヨタはIBMに学んだんだろうか。

IBMはサービス型企業としての評判が高かった。当初からトレーニングを重視しており、ユーザーのためのプログラミングコースを提供し、また現場に赴くエンジニアによるカスタマーサービスもほかのどの企業より優れていた。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 また、将来を見据えた販売戦略も巧かった。つまりプログラマを育てたのだ。

IBMは、650を6割引きで大学などの教育機関に設置した。そうすればコンピューティングの教育課程ができる(略)。この結果、IBM650に慣れ親しんだプログラマやコンピュータ科学者が輩出され、IBMを使いこなせる人々が産業界に大勢いるという状態ができあがった。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 これも1980年代~1990年代にアップルが真似して成功している。今だって医療とデザイン関係はMacユーザが多い。ほんと、IBMは販売戦略が巧みだ。もちろん、販売だけでなく、技術戦略でも賢い。巨人 System/360 である。

System/360はソフトウェア互換性のあるコンピュータという概念を軸に、この業界を劇的に作り変えてしまった。
  ――6 メインフレームの時代 IBMの季節

 それまでのコンピュータは、同じメーカーでも機種が違えばソフトウェアに互換性がなかった、つまりプログラムを書き直さなきゃならなかった。それじゃ機械を買い替えるたびに移植の手間と費用がかかる。そりゃ困るってんで、全機種でソフトウェアの互換性を保証した。今なら当たり前のようだが、当時としては画期的な事だったのだ。

 加えてこの章ではRPG(Report Program Generator、→Wikipedia)の話が印象に残る。RPGを一言で説明すると、バッチ処理版のExcelみたいなモン。てっきりCOBOLから派生したと思ってたんだが、実は生まれも育ちも全く別でIBMの純血だし、誕生も1959年と早い。そうだったのかあ。

【第3部 日々進化するコンピューティング】

 米国のコンピュータ史がENIACで始まったように、コンピュータ(というか先端技術)と軍の関わりは深い。が、やがて軍を離れ民間の営利企業が育ってゆく。この境目に当たるのが「7 リアルタイム つむじ風のように速く」だろう。

 ここでは航空機の操縦シミュレータ計画 WhirlWind(→Wikipedia)や防空システムSAGE(→Wikipedia)などの野心的な開発計画が軍の潤沢な予算を得て始まり、その過程で「プリント基板、コアメモリ、大容量記憶装置」などコンピュータの基礎技術が発展し、同時にソフトウェア開発者も育ってゆく物語で始まる。

 ここで育った技術と人は、さっそく民間で活きる。航空機座席予約システムSABRE(→Wikipedia)だ。とまれ、「プロジェクトの実現は10年がかり」というから、当時のシステム開発はそういうペースだったんだなあ。

 ここまでは「既存の需要にコンピュータを組み込む」または「コンピュータ屋が需要を掘り起こす」形だった。そこに、全く新しい利用者が現れる。スーパーマーケットだ。

スーパーマーケットの初期の最も重要なイノベーションは、販売員が商品を持ってくるのではなく、顧客が自分で動いて商品を手にすることで(すなわち、セルフサービスで)販売員の手間を削減したことだ。
  ――7 リアルタイム つむじ風のように速く

 安さがウリのスーパーは、なるたけコストを減らしたい。セルフサービスで店員の人件費は減らせたが、レジで長い行列ができてしまう。これを解決するため、小売り・製造・取引組合など関係する全業界を巻き込み開発したのが、バーコード&スキャナー。お陰でレジが速くなるだけでなく、店に置く商品の種類も爆発的に増え利ざやが大きくなる。

 それまでは既にある仕事の流れにコンピュータを組み込む形での利用だったのが、スーパーではコンピュータを使うことを前提として、業界全体の仕事の流れを変えたのだ。こういう革命的な事がやれるのも、アメリカの強みだよねえ。

 さて、先のSystem/360で出てきたように、コンピュータが増えるとソフトウェア開発の負荷・費用が問題として注目され、ソフトウェア危機が叫ばれ始める。EDSACの2進法からパッケージ・ソフトウェアの成立までを描く「8 コンピュータを支配するソフトウェア」は、プログラマにとって「あるある」の連続で実に楽しい。

 例えば悪名高いフローチャート。

フローチャートは産業界で働くエンジニアのあいだで1920年代に始められた。これを1950年代にコンピュータのプログラムに採り入れたのは、(化学エンジニアの経験があった)フォン・ノイマンである。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 コンピュータ以前にフローチャートはあったのか。にしてもフォン・ノイマン、罪なことをしてくれたもんだ。何せ…

実は多くのプログラマは、理解力のない経営陣の気まぐれを満足させるためにしかフローチャートは役に立たないと感じていたのだ。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 まあ、プログラマにとってフローチャートなんてそんなモンです。フローチャート用定規とかもあったなあ。

 ここでは2進数からニーモニックによるアセンブラ、サブルーチン、リンカ、COBOL・FORTRANなどコンパイラ、構造化設計技法、ソフトウェア・ハウスやパッケージ・ソフトウェアなど、現代のIT産業が立ち上がる姿が早送りで映し出され、とっても楽しい。

 ちなみにパッケージ・ソフトウェア、ここもアメリカらしいと思うのが、業務に合わせてパッケージを開発するより、パッケージに合わせて仕事の流れを変える企業が多かったって点。日本と逆だよね。何が違うんだろ?

 これらは大型汎用機のバッチ処理の話だが、現代のパソコン時代へ一歩近づくのがタイムシェアリング・システム。大型機を多人数で同時に使う、そういう考え方。この発想、消えたように思えるけど、実はクラウド・コンピューティングなどで生き延びてたりする。まあいい。ここではMulticsの失敗からUnixの誕生、そして半導体を使ったミニコンピュータへと続く。ケンとデニスの理想は、インターネットによってさらに飛躍したが…

ケン・トンプソン&デニス・リッチー「私たちが残そうとしたのは、プログラミング環境だけではなく、そのまわりに仲間が集えるような環境全体だった」
  ――9 新しいコンピューティングの登場

【第4部 コンピュータの民主化】

 今までのコンピュータは政府機関や大学、そして企業のオフィスにある物だった。これが家庭に入り込む様子を描くのが第4部。

 「10 パソコン時代の登場」は、意外なことにラジオ放送の歴史から始まる。ラジオ放送局が開設する前から、趣味で無線をイジる人はいた。70年代ごろまでの秋葉原にタムロしてたタイプの人たちだ。彼らが最初にラジオのリスナーになったのだ。そんな無線愛好家と層がカブってる、電子工作の愛好家もいた。とまれ…

ホビイスト以外の人にとっては、自分のコンピュータを欲しがる人がいること自体、不可解極まりないことだった。
  ――10 パソコン時代の登場

 はい、世間には理解されませんでしたw 

 そんな中からビル・ゲイツ&ポール・アレンのマイクロソフト、スティーヴン・ウォズニアック&スティーブ・ジョブズのアップルなどが芽をだし、巨像IBMまで参入してきて互換機市場を作り出す。IBMのロゴがついてりゃ法人ユーザで買いやすいなんてのは、ちょっと笑ってしまった。そりゃヒッピー崩れが売ってたんじゃ稟議を通りにくいよねw

 そういや「安いPCが欲しけりゃ自作」って時代もあったなあ。今の自作派はハイエンド志向みたいだけど。にしても、技術の進歩って、こういう「趣味の人」の充実も大事なんだね。これもまた自由主義の強さの一つ。

 「10 パソコン時代の登場」が8bit機の時代だとすれば、続く「11 魅力拡がるコンピュータ」は16bit機の時代だろうか。同時に、それまでのコマンドライン方式からマウスとGUIへの移行に伴い、ヲタクから非ヲタクへと市場が広がってゆく時代でもある。となると、大事なのは広告や流通。

マーケティングコストは、実にソフトウェア本体の開発費の2倍に及んだ。
  ――11 魅力拡がるコンピュータ

 広告費ゼロのガンパレは、やっぱり掟破りだったんだなあ←しつこい ここではOS/2(→Wikipedia),CAPTAIN(→Wikipedia),CompuServe(→Wikipedia)なんて懐かしい名前も。

 CompuServeの当初の目的はTSSが空く夜の時間を埋めるためってのは賢さに舌を巻いた。けどIT業界がCD-ROMの市場として最初に目をつけたのが百科事典ってのは、賢い人の盲点だよね。ええ、もちろん、キラーコンテンツはゲームとエロでした。わはは。

 そして最後の「12 インターネットの世界」では、インターネットからWWWそしてSNSへと話が進む。

 インターネットの前身ARPAネットから現在のTCP/IPベースであるインターネットへの技術的な進歩は詳しい人には興味深いだろう。それ以上に、そこで人気の出た使い方が、技術屋とそれ以外の感覚の違いが見えて楽しい。まず流行ったのが…

ユーザを引き付けたのは、電子メールを通じてコミュニケーションできるということだった。
  ――12 インターネットの世界

 電子メールだ。開発者曰く、「初めは誰もそれがこんなに大当たりすることになるとは思っていなかった」。賢い人ってのは、人が持つコミュニケーションへの欲求を見過ごすんだよね。

 ここでもUsenet,apache,Mosaic,Netscapeなどの懐かしい名前の後、Yahoo!,Google,Amazom,iPhone,Wikipedia,Facebook,Twitterなど現役でお馴染みの名前も。とまれ、NokiaやBlackBerryやPalmOSとかの名前には、この世界の時の流れの速さに唖然としてしまう。

【終わりに】

 共立出版で横組みだから、小難しい印象を抱くだろう。実際、文章もやや堅いし。だが内容は、むしろ「史記列伝」や「三国志演義」のような、乱世を駆ける英雄たちの栄枯盛衰・群雄割拠の物語に近い。

 スマートフォンとインターネットは、世界を制覇した。それが生まれるには、様々な組織や文化が必要だった。

 階差機関やENIACやARPAネットには政府や軍の支援が。
堅牢な大型コンピュータにはIBMやアメリカン航空のような大企業が。
バーコードには小売りから製造までの企業連合が。
ARPAネットから企業を問わぬインターネットへの進化には、それぞれが自治権と独自文化を持つ大学と、逆説的だが互換性のない多くのコンピュータ企業が。
コンピュータの小型化には電子工作に没頭するヲタクが。
そしてパソコンの普及には山師じみた野心を抱える有象無象の小さな起業家たちが。

 確かにIT技術者なら、この本を楽しく読める。だがそれ以上に、日本の科学・技術の凋落がいわれる昨今、技術立国日本の再生に何が必要なのかを考える人にこそ、熱く訴えるものを本書は秘めている。

【関連記事】

【今日の一曲】

Typewriter - La máquina de escribir. L. Anderson. Dir: Miguel Roa. Typewriter: Alfredo Anaya

 コンピューティング前史に出てくるタイプライターだって、楽器になります。ということで、有名なルロイ・アンダーソンの TypeWriter を。タイプライター奏者のアクションに注目。お堅くて高尚な印象の強いオーケストラだけど、音楽って本来はこういう楽しいものだよね。

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2021年8月 2日 (月)

坪内祐三「靖国」新潮文庫

靖国神社の起源は、幕末の尊王攘夷運動の中で斃れた志士たちの霊を弔慰する目的で作られた招魂墳墓、招魂場にある。
  ――第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか

招魂社には当初、神官がいなかったのである。
  ――第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居

【どんな本?】

 靖国神社は、8月15日の政治家の公式参拝をめぐり、政治的な話題となりがちだ。だが、その靖国神社とは、どんな目的で建立され、どのような歴史を辿ってきたのか。なぜ九段坂のあの場所にあるのか。そして、建立以来、日本人は靖国神社をどう見て、どう受け止めてきたのか。

 東京の九段坂という土地に注目し、靖国神社発行の「靖国神社百年史」「事歴年表」はもちろん、大量の書籍・雑誌はては個人所有のスクラップ・ブックまでを漁り、明治維新以降の日本それも東京の文化史・精神史を探る評論。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は1999年1月に新潮社より刊行。2001年8月1日に新潮文庫で文庫化。私が読んだのは2006年7月25日の七刷。じっくりと売れてます。文庫で縦一段組み本文約334頁に加え野坂昭如の解説7頁。9ポイント39字×17行×334頁=約221,442字、400字詰め原稿用紙で約554枚だが、イラストや写真も多く収録しているので、実際の文字数は8~9割ぐらい。文庫では普通の厚さ。

 文章はやや硬い。いや著者の地の文は比較的に読みやすいのだ。だが明治時代の文章の引用が多く、現代文に慣れている私にはソコが少々シンドかった。とはいえ内容は素人にもわかりやすく書いてあるので、特に前提知識はいらない。せいぜい維新→明治→大正→昭和、ぐらいを知っていれば充分。また靖国神社周辺の地理に詳しいと、更に楽しめる。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ 招魂斎庭が駐車場に変わる時
  • 第1章 「英霊」たちを祀る空間
  • 第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか
  • 第3章 嘉仁親王は靖国神社がお好き
  • 第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居
  • 第5章 河竹黙阿弥「島衛月白波」の「招魂社鳥居前の場」
  • 第6章 遊就館と観工場
  • 第7章 日露戦争という巨大な見世物
  • 第8章 九段坂を上る二人の男
  • 第9章 軍人会館と野々宮アパート
  • 第10章 力道山の奉納プロレス
  • 第11章 柳田國男の文化講座と靖国神社アミューズメントパーク化計画
  • エピローグ 「SUKIYAKI」と「YASUKUNI」
  • 文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて
  • 解説 野坂昭如

【感想は?】

 タイトルは「靖国」だし、確かに靖国神社が視点の中心にある。

 が、内容はあまり政治的じゃない。例えば各道府県にある護国神社は出てこない。著者の関心はむしろ文化的な面だ。それも東京を本拠地とする明治以降の文化人にこそ、著者の関心は向いている。

 それを示すのが、本書に出てくる人々だ。明治天皇などの政治家や大村益次郎などの軍人も出てくるが、圧倒的に多くの紙面を占めるのは、次のような文化人である。

 開国以来、日本には欧米の文明・文化が雪崩れ込んできた。庶民の生活や政治も変わってゆくが、美術・文筆・建築・舞台などの文化面での衝撃はそれ以上に大きかった。その結果、大きく分けて二つの流れが生まれてくる。

 ひとつは、積極的に欧米の文化を取り入れようとするもの。もう一つは、対象物・比較物としての欧米文化を得て、日本的な文化の神髄を見つめなおそうとするもの。両者は単純に対立するわけではない。多かれ少なかれ、何らかの形で欧米的な手法を取り入れていく。

 中には、新しく伝統を「創造」するものまで居る。その代表が相撲だ。それまで藩のお抱えだった力士たちは、政治体制の変化でパトロンを失う。そこで国技館をシンボルとして「国技」の伝統を創りだし、近代的な相撲界を生み出す(→「相撲の歴史」)。

 こういった東京を発信地とした維新以降の文化の歴史を、著者は九段から辿ってゆく。なんといっても、九段は維新政府の中枢である薩長の者が住む山の手から、旧幕府の支配下にあった下町を監視するのに格好の地だ。

九段坂は、東京の下町と山の手を分断する、まさにその境となる場所だった。
  ――第8章 九段坂を上る二人の男

 このように、靖国神社の元となる招魂社は、あからさまに政治的・軍事的な性質で建立される。祀られているのは、維新で戦死した薩長の軍人たちだ。幕府側は邪霊として祀られない。以後、西南戦争などの内戦でも、官軍の戦死者だけが祀られる。ここにはハッキリと維新政府の意向が出ている。

 これが変化するのは日清・日露戦争だ。以降は維新政府というより大日本帝国政府軍の戦死者が祀られる。内戦の季節を過ぎて統一国家の体裁が整った、そういうことだろう。

 だが、そんな政府や軍の思惑を置き去りにして、場としての靖国は意外な方向へと変わってゆく。なんと庶民の観光名所やアミューズメント・パークと化すのだ。

 なんたって広い。そこで相撲・競馬・勧工場(百貨店、→コトバンク)・ジオラマ・絵画・花火・プロレスなど、多くの庶民を集める見世物・興業が続々と開催される。伝統文化どころか、旺盛に欧米の文化・技術を取り入れた、最新の娯楽施設なのである。

明治初年代の靖国神社は、(略)モダンでハイカラな場所だった。
  ――第10章 力道山の奉納プロレス

 こう変わった原因を、著者は画家・高橋由一に求める。

高橋由一「霊場には必付属の遊興場あるへし」
  ――第6章 遊就館と観工場

 この辺、日本の特異な宗教観が現れているよね。維新政府も高橋由一も意識してなかっただろうけど。いやシナゴーグや教会やモスクに遊興場は要らないだろ普通。もっとも教会のパイプオルガンは極上の娯楽施設だと私は思うんだが、教会は決して認めないはずだ。

 そんな風に、意図せずに靖国神社は日本の伝統的な精神を体現する場になってしまった。お陰で、上記のリストのような文化人たちの足跡が残る。著者はソレを丹念に辿り、明治期の東京を中心とした日本文化の変転を描き上げ、本書として結実したのである。

 明治の、それも東京のハイソな文化にこだわる著者だからこそ描き得た靖国神社の歴史と実態は、終戦記念日に話題となる姿とは全く違ったものだった。これを踏まえて政治家たちの動きを評する“文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて”は、なかなか痛快である。明治以降の日本の歴史を捉えなおし、「日本の伝統」の正体を見極める一助となる一冊だ。

【関連記事】

【終わりに】

 ところで、「エピローグ」にはボブ・ディランが登場する。ここで、私は考え込んでしまった。

 本書には多くの文化人が出てくる。その文化人たちの活躍の場は、いずれも東京なのだ。いや「靖国」だから当たり前なんだけど。

 対してアメリカはどうだろう? 私が好きなロックだと、例えば ZZ Top はテキサス、Blue Oyster Cult はニューヨーク、Van Halen はロサンゼルス、Grateful Dead はサンフランシスコと、実に地方色豊かだ。他にもシカゴ・ブルースやカントリー&ウェスタンのナッシュビル、ソウル・ミュージックのデトロイト(モータウン)など、ご当地音楽に事欠かない。

 土地の広さや州政府の自治権の強さ、小出力のFMラジオ局の乱立、そして州が集まって連邦国家ができた歴史など原因は様々だが、文化の発祥地の多さという根本的な豊かさは、とてもじゃないが日本が太刀打ちできるものではない。

 本書では明治天皇の行幸など、維新政府が日本を一つの国にまとめ上げようとした歴史も描いている。その過程で、文化的にも東京への一極集中が進み、地域の色は失われてしまった。

 まあジャズやロックも所詮は輸入物だし、そこに地域の色が入り込む余地は最初からなかったのかもしれない。でも、ビートルズ来日から半世紀も経って、いまだに地域のロックがないのは、どういうことなんだろう? 地域色を放っているのは、せいぜい沖縄ぐらいじゃなかろうか。

 などとウダウダ言ってるけど、要は「もっと色々な音楽が聴きたいぞ」と、そういうことです。まとまりがなくてすんません。

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2021年6月18日 (金)

リジー・コリンガム「大英帝国は大食らい」河出書房新社 松本裕訳

本書は、イギリスの食糧探求がいかに大英帝国の誕生につながったかを語る。(略)
各章で語られるのは別々の物語だが、そのすべてが、帝国の推進力の源泉が食にあったことを明らかにするテーマへとつながってゆく。
  ――はじめに

【どんな本?】

 レシピを集めたサイト cookpad には、在日英国大使館も寄稿している。その一つクリスマス・プティングは、英国大使館料理長が「英国の伝統的なクリスマスのデザート」と認めている。その材料の多くは輸入品だ。レーズンはオーストラリア、ナツメグはマレーシア、牛脂(スエット)はニュージーランド、オレンジピールは南アフリカ、砂糖とラム酒は西インド諸島、ブランデーはキプロス、卵はアイルランド。

 イギリスは帝国へと成長する過程で、植民地から様々な食材を調達し、自国の料理に取り入れ、また植民地にも自国の料理を広めてゆく。中にはカレーや紅茶のように、世界中に広がっていったものもある。と同時に、植民地を帝国の部品の一つとするために産業構造・社会構造を大きく変え、また各地の伝統料理も改造し、または滅ぼしていった。

 親しみやすい料理をテーマとして、その材料がどこでどう作られ流通し、その過程で英国や生産地にどんな影響を及ぼしたのかを描き、大英帝国をモデルとして現在の食のグローバル経済の歴史をたどる、美味しくて少し苦い一般向けの歴史書。

 なお「イギリスとその帝国による植民地経営は、いかにして世界各地の食事をつくりあげたか」の副題がついている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Hungry Empire : How Britain’s Quest for Food Shaped the Modern World, by Lizzie Collingham, 2017。日本語版は2019年3月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約336頁に加え、訳者あとがき3頁+藤原辰史の「皿の上の帝国主義 解説にかえて」4頁。9ポイント44字×21行×336頁=約310,464字、400字詰め原稿用紙で約777枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は硬くはないんだが、少々ぎこちない。これは訳者のクセだろう。内容はわかりやすい。ただ、スエット(牛脂)やスグリ(→Google画像検索)など、料理に疎い者にはわからない素材がよく出てくる。というか、私は知らなかった。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。が、各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1部
  • 第1章 ポーツマスの港に居停泊したメアリー・ローズ号では魚の日だった話
    1545年7月18日土曜日/ニューファンドランドの塩ダラはいかにして帝国の基礎を築いたか
  • 第2章 ジョン・ダントンがオートケーキとバターで似たノウサギをコンノートの山小屋で食べた話
    1698年/アイルランドはいかにしてイングランド人に入植され、食料供給基地となって擡頭する帝国の台所となったか
  • 第3章 ホロウェイ一家がトウモロコシ粉のパンと塩漬けの牛肉入りサコタッシュをニューイングランドのサンドイッチで食べた話
    1647年6月/自由農民の夢を追い求めたイギリス人は、いかにして妥協を強いられたか
  • 第4章 ジェームズ・ドラックス大佐がバルバドス島のサトウキビ農園で宴を催した話
    1640年代/西インドのサトウキビの島々はいかにしてイギリス第一帝国の成長を促進したか
  • 第5章 ラ・ベリンゲールがアフリカ西岸でシェール・ミシェル・ジャジョレ・ド・ラ・クールブをアメリカ産のアフリカ料理でもてなした話
    1686年6月/西アフリカはいかにして人間をトウモロコシとキャッサバに換えたか
  • 第6章 サミュエルとエリザベス・ピープスがコヴェント・ガーデンのフレンチレストランでピジョン・ア・レステューヴェとブッフ・ア・ラ・モードを食した話
    1667年5月12日/イギリス人はいかにしてコショウによってインドに導かれ、インド更紗と紅茶に出会ったか
  • 第2部
  • 第7章 レイサム一家がランカシャー州スキャリスブリックで牛肉とジャガイモのシチュー、糖蜜がけプディングを食べた話
    1748年1月22日/イングランドの地方労働者の貧しさはいかにして大規模食糧生産につながったか
  • 第8章 奴隷の一かがサウスカロライナのミドルバーグ農園でトウモロコシ粥とフクロネズミを食べた話
    1730年代/サウスカロライナのアメリカ人入植者はいかにしてアフリカの米によって築かれたか
  • 第9章 レディ・アン・バーナードが喜望峰への船旅で絶品の夕食を楽しんだ話
    1797年2~5月/帝国はいかにして供給産業を奨励したか
  • 第10章 自由の息子たちがボストンのマーチャンツ・ロウにあるゴールデン・ボール亭でラム・パンチを飲んだ話
    1769年1月のある寒い晩/ラム酒はいかにしてアメリカ人入植者を団結させ、イギリス第一帝国を崩壊させたか
  • 第3部
  • 第11章 カマラがビハール州パトナ近郊で家族のために料理をした話
    1811年2月/東インド会社はいかにしてアヘンを茶に変えたか
  • 第12章 サラ・ハーディングと家族がニュージーランドのホークス・ベイ、ワイパワでおいしい食事をたらふく食べて太った話
    1874年7月29日/飢えはいかにして19世紀のヨーロッパ人大移住を加速させたか
  • 第13章 フランク・スワンネルがブリティッシュ・コロンビアで豆のシチュー、種なしパンとプルーンパイを食べた話
    1901年11月15日/加工食品はいかにして家庭を意味する魔法のシンボルとなったか
  • 第14章 ダニエル・タイアーマン牧師とジョージ・ベネット氏がソシエテ諸島のライアテア島でティーパーティーに出席した話
    1822年12月4日/ヨーロッパからの食料品のお普及はいかに味覚を植民地化していったか
  • 第4部
  • 第15章 ダイアモンド鉱山労働者たちが雨季にガイアナの酒場でイグアナカレーをこしらえた話
    1993年/非ヨーロッパ人たちはいかにしてイギリス人のために南国食材を生産する大規模農園で働くべく移住してきたか
  • 第16章 バートン家がマンチェスターのロンドン・ロードにあるスラム地区でウィルソン家をお茶でもてなした話
    1839年5月/労働者階級のパンを焼くための小麦はいかにしてアメリカ人と入植地で作られるようになったか
  • 第17章 プラカーシュ・タンドンがマンチェスターの公営住宅で大家の一家と日曜日のローストを楽しんだ話
    1931年/外国からの食糧輸入はいかにして労働者階級の食生活を改善し、イギリスを帝国に依存させたか
  • 第18章 イリオのレシピが変わった話
    ケニア、1900~2016年/帝国はいかにして東アフリカの自給農家に影響を与え、植民地の栄養不足を招いたか
  • 第19章 歩兵のR・L・クリンプが北アフリカの砂漠にある前線野営地で缶詰牛肉とサツマイモを食べた話
    1941年9月/帝国はいかにして第二次世界大戦中に英国を支えたか
  • 第20章 オールドノウ氏が帝国のプラムプディングを作る夢を見た話、およびブリジット・ジョーンズが新年にウナ・オルコンベリー主催の七面鳥カレービュッフェの昼食会に出席した話
    1850年12月24日/1996年1月1日/クリスマス料理はいかにして帝国をイギリスの家庭へと持ち込んだか
  • 謝辞/訳者あとがき
  • 皿の上の帝国主義 解説にかえて 藤原辰史
  • 註/参考文献/図版クレジット

【感想は?】

 イギリスの食卓が、どうやってできたかの話だ。だが、現在となっては、日本の食卓の話でもある。なにせ食料自給率は40%を切っている(→農林水産省)。飼料自給率に至っては25%だ。日本の食卓も、外国に頼り切っているのだ。

もっとも、日本の食糧自給率が低いのは今さらの話ではなく、戦前から低かったんだけど(→「ラーメンの歴史学」)。

 物語は16世紀から始まる。

大英帝国は、ニューファントランドの岩がゴロゴロする浜辺で生まれた。
  ――第1章

 ニューファンドランド、カナダ東岸の島。この沖グランド・バンクスは今でも豊かな漁場として名高い。ここのタラに目をつけたイギリスの漁師たちが遠征してタラを捕りまくり、英国海軍の胃袋を支えたのだ。漁師たちのバイタリティは凄い。最初に到着した船の船員は森から木を伐りだし、桟橋や小屋そしてボートまで現地で作りあげる。なんという逞しさ。

 だが農民たちは囲い込み(→世界史の窓)で食い詰める。自分の土地を得て腹一杯食うためにニューイングランドに入植した者たちは、原住民の農法やレシピを真似ながらも彼らから土地を奪い、次第に夢を実現してゆく。

アメリカの栄養がすぐれていたことは、独立戦争時のアメリカ兵の身長を見ればわかる。イギリス人兵士と比べると、彼らは平均して約9cmも高かった。
  ――第3章

 昔からアメリカ人はデカかったんだなあ。こういう身長の話はなかなか身に染みて、19世紀になっても…

(イギリスの)工業都市に住む労働階級の思春期の男子は、恵まれた環境の同年代の男子よりも平均してなんと10インチ(約25.5cm)も背が低かった。
  ――第16章

 なんて切ない話も出てくる。本国でさえこうなんだから、植民地の現地人については言うまでもない。

 対して新大陸南部というか西インド諸島に移民した者は、サトウキビで稼ぐ。そこで働くのは、西アフリカから連れてきた奴隷たちだ。その奴隷にしても、ヨーロッパ人が自分で調達するわけじゃない。西アフリカには、既に奴隷市場があったのだ。

(アフリカに)奴隷を探してやってきた彼ら(ヨーロッパ人)は、すでに確立されていた貿易制度に参入することになったのだ。実際、奴隷はアフリカ社会という織物に欠かせない要素であって、単なる動産ではなかった。
  ――第5章

 市場なだけに、ちゃんと需給は調整されている。

意外なことに、人口統計を見ると西アフリカの人口は、奴隷貿易のおこなわれていた300年間で増えなかったものの、安定していたことがわかる。
  ――第5章

 なぜか。新大陸に売られた奴隷のうち「女性は1/4程度しかいなかった」から。嫌な例えだが、一般に牛や羊などの家畜は雄より雌の方が値が張る。子を産むからだ。実際、奴隷たちは消耗品扱いで、「平均余命はたったの七年」。

 その見返りってワケでもないが、アフリカには新大陸からトウモロコシとキャッサバが入ってくる。今、調べたら、キャッサバ生産の世界一はナイジェリア(→Wikipedia)。それは同時に、この地域の伝統的な粟料理を駆逐した事でもある。そういやウガンダじゃバナナが大モテだった(→「バナナの世界史」)。

 そのトウモロコシ、カロリーが高いのはいいが、アルカリで処理しないとナイアシンが不足しペラグラ(→Wikipedia)を引き起こす。新大陸の者は消石灰で煮る調理法で防いでいたが、調理法までは伝わらなかった。「紙と人との歴史」にあるように、モノは伝わっても、技術や製法は伝わりにくいのだ。

 もっとも、アフリカも作物を輸入するだけではなく、輸出もしている。その代表が、意外なもの。

革命(1775年のアメリカ独立戦争)時、米がすべての北米入植地でタバコと小麦粉に次いで三番目に貴重な輸出品だったのも頷ける。
  ――第8章

 そう、米だ。しかも陸稲ではなく水稲。水稲栽培には高い技術とインフラが必要なんだが、奴隷たちが故郷から持ち込んだらしい。現場の者に任せた方が上手くいく場合もあるのだ。

 そうやって力をつけた北米植民地は、ラム酒の勢いもあって独立へと突き進む。

(アメリカの)地元の法廷審問は居酒屋の別室でおこなわれることが多く…
  ――第10章

 自分の土地を持ち豊かになるチャンスがある北米やニュージーランドに、イギリスの農民は移り住み、ヨーロッパ式の農法を広めてゆく。

19世紀を通じて、ヨーロッパからの移民は世界の耕作地や生産性の高い牧草地を拡大し、15~20億エーカー(600万~810万㎢)ほど増やした。これが農業生産に多大な影響を与え、19世紀の最後の四半期に誕生した新たな世界食糧体制の基礎を築いたのだった。
  ――第12章

 それでも故郷の味は懐かしい。とはいえ、気候も植生も違う植民地じゃ、故郷のレシピを再現するのは難しい。大英帝国は国際貿易の中心地で様々なモノが集まるが、辺境の植民地には回ってこない。この問題を解決したのが、食品の保存技術、すなわち缶詰だ。

缶詰食品に対する(イギリス)国内の反応はいまひとつだったかもしれないが、植民地では熱狂的に歓迎された。
  ――第13章

 日本じゃ客をもてなす料理に缶詰を使うのはあまり喜ばれないが、アメリカじゃそうでもないらしいのは、こういう歴史的経緯があるためだろうか。そういや「ナイル自転車大旅行記」では、エジプトの奥様が著者を鰯の缶詰でもてなしていた。

 この傾向を更に助長したのが、冷蔵技術。南米アルゼンチンで育てた牛の肉を、大西洋を越えイギリスまで腐らせずに船で運ぶ技術は、アルゼンチンを「世界で九番目に豊かな国」へと育て上げ、イギリスでも庶民が肉を食べられるようになる。

1890年代までに、イギリスは世界中で取引される食肉の60%を吸収していた。
  ――第17章

 ここでは地元の肉屋が示す冷凍肉への反発と、そのスキにチェーン店を展開するアメリカ等の精肉会社、逆に植民地に農園と工場を作る食料雑貨店の話が面白い。現代の産地から店舗までつながる国際サプライ・チェーンは、19世紀に生まれているのだ。

 もっとも、そういう故郷の味を世界中に持ち込めるのはいいが、現地の味を滅ぼしていくことにもなる。

白人入植者の大流入は、やがて伝統的な暮らしを忘れさせていった。(略)
北米の豆やカボチャ、トウモロコシ、プレーンズ・インディアンの塩漬けバッファロー肉、
マオリ族のシダの根やタロイモ、サツマイモ、
アポリジニのアシの根茎で作ったダンパーやカエルの丸焼き、
こうしたものがすべて、味気なく洗練されてもいない開拓者の食事に淘汰されてしまった。
  ――第14章

 加えて、植民地同士の味の交流も増えるのが面白いところ。産業革命で大英帝国は更に発展するが、そのあおりを食らう者たちもいる。

イギリス国内に独自の大量生産可能な紡績工場ができ、(略)安価なマンチェスターの綿がインドに流れ込み、(インドでは)何百万人もの手工芸職人が職を失った。
  ――第15章

 職を失ったインド人たちは、仕事を求めて他の植民地に稼ぎに行く。大英帝国が奴隷貿易を禁じたため、植民地では働き手を求めていたのだ。故郷の味が恋しいのは白人ばかりじゃない。彼らは移り住むと共に自国の料理も植民地へと広げてゆく。

 そうやって食のグローバル化が進み、農産物は商品化して価格の変動が大きくなる。植民地では換金作物の栽培や一つの産業への集中が進む。巧くいってる時はいいが、ひとたびコケると…

1875年から1914年の間には、1600万人ものインド人が飢餓で命を落としている。(略)
自由市場がなんの制御もなく機能し、商人たちが最も高値をつける外国の入札者に小麦粉を売り続け、インフレによって貧困層が食べ物を買うことができなくなったためなのだ。
  ――第16章

 現在でも、独立した植民地が発展に苦労している原因の一つがこれだ。英帝国は大きな機械みたいなモンで、各植民地はその部品だった。部品に過ぎない植民地は、大戦後に政治的に独立しても、経済的には宗主国に依存したまま。

(第二次世界大戦中の)イギリスはヨーロッパの端にぽつんと浮かぶ小さな島だったのではない。兵士や武器、弾薬、原材料、そしてなんといっても食料を調達する強力なネットワークの中核だったのだ。
  ――第19章

 ドイツ海軍のUボートが脅威だった理由も、ネットワークを切り刻んだためだ。これに対応するためチャーチルはインド洋の船舶を大西洋に回す。当然ながらインド洋の輸送はひっ迫し…

北アフリカ戦線でい命を落とした連合軍の歩兵は3万1千人を少し超えるぐらいだったが、飢餓と栄養失調で死んだベンガル人の数はおよそ300万にのぼった。
  ――第19章

 ベンガルの飢餓は知らなかったなあ。そりゃガンジーも縁を切りたがるよね。

 なお、戦中・戦後に船舶が足りず人々が飢えたのは太平洋も同じ。敗戦後に日本が飢えたのは皆さんご存知だが、インドシナも飢えている。原因の一つは船舶の不足だが、大日本帝国が米どころのビルマやベトナムに換金作物の麻栽培を押しつけたのも大きい。帝国の崩壊は物流ネットワークをズタズタにして、特定の産業に特化した地域も苦境に陥れるのだ。

 食のグローバル化は私たちの食卓を豊かにする面もあるが、同時に地域の独立性を奪い伝統的なレシピをすりつぶしてゆく。大英帝国をモデルとして個々の食卓を描きつつ、その材料の由来やレシピが生まれた背景を掘り下げることで、トラファルガー海戦などの表向きの歴史が大洋の向こうに与える影響も見えてくる。

 各章には主題となる料理のレシピも出ていて、これもなかなか楽しい。中にはウミガメとか無茶な素材もあるけどw どんな味なんだろう?

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