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2024年6月10日 (月)

荻野富士夫「特高警察」岩波新書

特高警察とは何だったのか、その実態と全体像の解明が本書の課題である。
  ――はじめに

毛利基(→Wikippedia)が「特高警察の至宝」と飛ばれたのは、スパイの巧妙な操縦術にあった。
  ――3 その生態に迫る

【どんな本?】

 憲兵と並び、戦前・戦中の高圧的・暴力的な国民監視や言論弾圧の象徴となっている特高。その特高は、いつ・どんな目的で設立され、どんな者たちを監視・弾圧し、どのような手口を用い、どんな経緯を辿ったのか。いわゆる刑事警察との違いは何か。どのような警官が属していたか。組織はどんな特徴があるのか。ゲシュタポとはどう違うのか。

 当時の公開文書や警察の資料を漁り、悪名高い特高の実態を伝える、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2012年5月22日第1刷発行。新書版縦一段組み本文約233頁に加え、あとがき4頁。9.5ポイント40字×15行×233頁=約139,800字、400字詰め原稿用紙で約350枚。文庫なら薄め。

 地の文はこなれている。ただ戦前・戦中の文書の引用が多く、それらは旧仮名遣いだし言葉遣いも古くさい。そこは覚悟しよう。内容は明治維新以降の日本の歴史と深く関わっているので、その辺の大雑把な知識は必要。特に小林多喜二をはじめ労働運動や左翼運動の人名がよく出てくる。また、以下の事件への言及も多い。リンク先は全て Wikipedia。

【構成は?】

 原則として時系列順に進むので、なるべく頭から読もう。

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  • はじめに
  • 1 特高警察の創設
  • 1 特高警察の歴史
  • 2 大逆事件・「冬の時代」へ
  • 3 特高警察体制の確立
  • 2 いかなる組織か
  • 1 「特別」な高等警察
  • 2 特高の二層構造
  • 3 一般警察官の「特高」化
  • 4 思想検事・思想憲兵との競合
  • 3 その生態に迫る
  • 1 国家国体の衛護
  • 2 特高の職務の流れ
  • 3 治安法令の駆使
  • 4 「拷問」の黙認
  • 5 弾圧のための技術
  • 6 特高の職務に駆り立てるもの
  • 4 総力戦体制の遂行のために
  • 1 非常時化の特高警察
  • 2 「共産主義運動」のえぐり出し
  • 3 「民心」の監視と抑圧
  • 4 敗戦に向けての治安維持
  • 5 植民地・「満州国」における特高警察
  • 1 朝鮮の「高等警察」
  • 2 台湾の「高等警察」
  • 3 「満州国」の「高等警察」
  • 4 外務省警察
  • 5 「東亜警察」の志向
  • 6 特高警察は日本に特殊か
  • 1 ゲシュタポの概観
  • 2 ゲシュタポとの比較
  • 7 特高警察の「解体」から「継承」へ
  • 1 敗戦後の治安維持
  • 2 GHQの「人権指令」 しぶしぶの履行
  • 3 「公安警察」としての復活
  • 結びに代えて
  • 主要参考文献/あとがき

【感想は?】

 実物を見ればわかるが、量的には手軽に読める新書だ。

 だがその中身は、多くの手間暇を費やして大量かつ広範囲の文献を漁って書き上げた労作である。

 にも拘わらず、著者の筆致は冷静かつ事務的で、その意図を読み取るには相応の注意力が必要だ。

 例えば「戦前を通じて日本国内では拷問による虐殺80人、拷問による獄中死114名、病気による獄中死1503名」とある。拷問で亡くなったのが計194名に対し、病死が1503名。やたら病死が多くね?

 これ、「はじめに」の3頁。著者は病死の多さを指摘も解釈も突っ込みもしない。ソコは読者が読み取れ、そういう姿勢だ。たぶん、著者は本書の冒頭で、読み方をそれとなく示しているんだが、私は思わず読み飛ばすところだった。危ない危ない。

 そんなワケで、恐らく他にも私は多くの重要な点を読み飛ばしている。

 資料の漁り方も徹底している。日本の警察全体の傾向を表す「警視庁統計報告」や各県の県警史やに日本警察新聞などの(たぶん)公開資料はもちろん、「説諭の栞」(警察教材研究会編)など民間の資料、雑誌「警察研究」、そして「中国、四国ブロック特高実務研究会」の議事録など、「どうやって存在を知りどうやって手に入れたのか」と呆れるほどマニアックな資料にまで当たっている。

 それほどの労力を費やした割に、見かけは薄いし地の文は読みやすく、サラサラ読めてしまうのはどうしたものか。しかも文章は事務的かつ冷静で、著者の感情はあまり出てこない。困ったモンだ。読者の感情を刺激するのは、次の特高の台詞のように、ごく一部だけ。

「言え、貴様は殺してしまうんだ、神奈川県特高警察は警視庁とは違うんだ。貴様のような痩せこけたインテリは何人も殺しているのだ」
  ――3 その生態に迫る

 さて。そんな特高が取り締まったのは、タテマエとしては以下の通り。

1937(昭和12)年3月の保安課の事務組織をみると、庶務・文書、左翼、右翼、労働・農民、宗教、内鮮、外事、調査の八係からなり…
  ――2 いかなる組織か

 左翼はわかる。というか、本書を読む限り、最も力を入れていたのは共産党対策らしい。1936年の226事件(→Wikipedia)の影響か、一応は右翼も監視していたが、手ぬるかった様子。労働・農民は左翼と別扱いだ。宗教もそうだが、彼らは多数の庶民が組織化するのを恐れるのだ。外事は他国のスパイだろう。内鮮って所で、大東亜共栄圏と言いつつ実は朝鮮人への差別感情があったのを思い知らされる。

 この辺は「5 植民地・「満州国」における特高警察」で、更に詳しく語っている。国内では外務省警察や軍の管轄下の憲兵と競合した特高だが、本土外では憲兵の指揮下で一本化し、独立運動・民族運動も含め、国内以上に過酷な弾圧をしている。

 質に次いで量的な面では、警察全体の一割ほど。KGBより少ないがMI5よりは多い。

…日米開戦直前の広義の特高警察の人員はおそらく一万人を超えると推測される(略)。戦時期の国内警察全体の人員は9万5千人前後であり、一割強が広義の特高警察であったことになる。
  ――2 いかなる組織か

 治安維持法があるとはいえ、タテマエ上は司法の軛のもとで活動している特高だが、総力戦体制ともなると、イチャモンにも磨きがかかってくる。

「日本無産党(→Wikipedia)は日本共産党と一字違いであり、……意識的な命名である」(警保局保安課「思想問題について」1939年6月)
  ――4 総力戦体制の遂行のために

 さて、「6 特高警察は日本に特殊か」では他国との比較としてゲシュタポと比べている。ゲシュタポが司法権まで握っていたのに対し、特高はそうじゃなかった。一応、タテマエとしては。そこを特高は羨んでいる。また、強制収容所もなかった。これを著者は…

思想的矯正は可能とする日本と異なり、ドイツの場合にはそうした発想がない。
  ――6 特高警察は日本に特殊か

 と、している。まあ、思想的矯正ってあたりで、既にアレだと私は思うんだが。いや自分は正義だと固く信じてるワケで、狂信者の一種だよね。

 まあいい。そんな風に日本人に対しては甘かったが…

朝鮮人・中国人に対する残虐性の発揮は、ドイツにおける他民族に対する残虐性に通じるものがある。
  ――6 特高警察は日本に特殊か

 と、外地ではタガが外れてしまう。

 そんな風に狂ったように見える特高だが、敗戦後は計算高く生き残りを図る。こういう所は、正義感と言うより単に権力の亡者じゃないかと思うんだが、どうなんだろうね。

戦前において特高警察はゲシュタポに親近感や羨望感を抱いていたにもかかわらず、敗戦後は特高警察の存命のために一転してゲシュタポとの異質性を強調し、特高=「秘密警察」論を否定する。
  ――6 特高警察は日本に特殊か

 自分たちの目指すところは外聞が悪いとわかっている。ちゃんと自分たちの姿を客観的に見る能力はあるのだ。ただ、力の無い者には一切耳を傾けないってだけで。

 そのためか、国内の政治では強気な態度を崩さない。

おそらく(1945年)9月下旬までに、警保局は昭和21(1946)年度予算要求として特高警察の倍増案を立てている。
  ――7 特高警察の「解体」から「継承」へ

 敗戦の混乱を抑えるには力が必要だって理屈。そのくせ闇市の仕切りはヤクザに任せてたりするんだが(「敗北を抱きしめて」)。

 これは政治家も同じで、相変わらずの思想統制を続けるとハッキリ言ってたり。なんだろうね、この楽観性は。

1945年10月3日山崎巌内相(→Wikipedia)「思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。また政府転覆を企む者の逮捕も続ける」
  ――7 特高警察の「解体」から「継承」へ

 で、体裁だけ整えて実態は残します、とも言ってたり。

1945年10月15日内閣書記官長次田大三郎(→Wikipedia)「特高の組織は全面的に廃止せざるを得ない。しかしこの際の取り扱いとしては一応全面的に特高の組織は廃止するが、これに代わるべき組織は急に作り上げなければならないと思っている」
  ――7 特高警察の「解体」から「継承」へ

 現在の日本で特高の後継に当たるのは公安調査庁と警察の公安。刑事警察は各県警が仕切っているのに対し、公安は中央つまり警視庁が仕切る中央集権型だ(「公安は誰をマークしているか」)。国内の暴力組織も外国の諜報組織も、道路網の充実などで長距離移動が容易になった上に、インターネットなどで距離を無視した情報伝達も簡単なワケで、下手な分権化がマズいのは分かる。

 とはいえ、戦後の人事を見る限り、特高の文化は受け継いでおり、また Wikipedia の内務省を見る限り、復活を望む勢力は生き残っている。

 恐ろしくはあるが、同時に特高が「労働・農民」を対象としたことで分かるように、人々が集まるのを権力者は恐れるのだ、というのは希望でもある。いずれにせよ、物理的には薄いが中身は濃い。覚悟して注意深く読むべき本だ。

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2024年5月27日 (月)

マイケル・スピッツァー「音楽の人類史 発展と伝播の8憶年の物語」原書房 竹田円訳

本書は段階的に時間をさかのぼってゆく。21世紀初頭の音楽的人間からスタートして、記録に残された数千年間の人類の歴史を通過し、そして人間以前の動物の音楽まで、推理力を頼りに範囲を拡大して、音楽を逆行分析する。
  ――第1章 ボイジャー

音楽に耳を傾けているとき、私たちは音楽を模倣している。
  ――第4章 想像の風景、見えない都市

対位法は、西洋のクラシック音楽全般が勝利をおさめる前に、先鋒として世界を征服する。
  ――第8章 終盤

リズムは模倣、すなわち真似する能力と深く関わっている。
  ――第10章 人類

主題を最後までお預けにするのは、じつは音楽の常套手段である。
  ――第12章 音楽の本質に関する11の教訓

【どんな本?】

 認知心理学者スティーブン・ピンカー曰く「音楽は聴覚のチーズケーキ」(→Wikipedia)。進化の過程で、たまたま必要な材料=能力が揃ったため生まれた副産物であり、嬉しくはあってもたいして役に立つシロモノではない、みたいな意味だろう。

 これに反論するのが本書だ。

 世界にはどんな音楽があり、それぞれどんな特徴があるのか。コオロギも鳥も鳴くが、それはヒトの歌とどう違うのか。音楽を生み出し、味わうには、どんな能力が必要で、ヒトはいつどうやってその能力を手に入れたのか。人類の歴史の中で、音楽はどのように生まれ、石器時代から現代までの社会の変化に応じ、どう変わり関わってきたのか。そして、なぜ西洋の音楽が世界を制覇したのか。

 クラシックからポップ・ミュージック、西洋・アラブ・インド・中国など世界各地の音楽はもちろん、古生物学・考古学・史学・認知心理学など多岐にわたる学問の知識を漁り、ヒトと音楽の関わりを俯瞰する、一般向けの歴史と音楽の啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Musical Human : A History of Life on Earth, by Michael Spitzer, 2020。日本語版は2023年10月6日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約510頁に加え訳者あとがき3頁。9.5ポイント50字×19行×510頁=約484,500字、400字詰め原稿用紙で約1,212枚。文庫なら厚めの上下巻か薄めの上中下巻の大容量。

 文章はかなり古風。いや文体は現代風なんだが、いささか詩的と言うか哲学的と言うか。内容はあまり難しくないが、平均律や五度などの基礎的な音楽用語が説明なしに出てくるので、多少の音楽の知識はあった方がいい。出てくる音楽はクラシックが多いが、KPOP の PSY など流行歌やバリ島のガムランなど民族音楽も多い。お陰で Youtube で曲を漁っているとなかなか読み進められない。

 あと、できれば索引が欲しかった。

【構成は?】

 原則的に順に読み進める構成なので、じっくり読みたいなら素直に頭から読もう。だが、面白そうな所を拾い読みしてもソレナリに楽しめる。というか、ぶっちゃけ著者の筆はアチコチ寄り道しちゃ道草食い放題なので、テキトーにつまみ食いした方が美味しいかも。

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  • 第1部 人生
  • 第1章 ボイジャー
  • 第2章 ゆりかごから墓場まで
  • 第3章 私たちの生活のサウンドトラック
  • 第4章 想像の風景、見えない都市
  • 第2部 歴史
  • 第5章 氷、砂、サバンナ、森
  • 第6章 西洋の調律
  • 第7章 超大国
  • 第8章 終盤
  • 第3部 進化
  • 第9章 動物
  • 第10章 人類
  • 第11章 機械
  • 第12章 音楽の本質に関する11の教訓
  •  謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 「8億年とは大きく出たな」と思うが、一応は間違っちゃいない。かなりハッタリ混じりだが。

 テーマは、ヒトと音楽の関わりだ。このヒトってのが曲者で、著者の視野は時間的にも空間的にも広い。時間的には人類以前の話も出てくる。それは現代の昆虫や鳥、そしてクジラから類推するのである。

サピエンスは統合した。リズム、メロディ、文化の能力は、単独でなら、昆虫、鳴禽、クジラのさまざまな種に認められるが、すべてを兼ね備えた種はひとつとしてない。
  ――第9章 動物

 コオロギは鳴き、鳥はさえずり、クジラは歌う。だが、いずれもヒトが考える音楽とは異なる。それは何が欠けているのか、なぜ欠けているのか。これらを追求する事で、音楽には何が必要なのかを浮き上がらせてゆくのだ。

 また、空間的にはユーラシア全般に及ぶ。代表は西洋、イスラム、インド、中国だ。

四つの音楽大国にはそれぞれ特別な力があった。西洋にはポリフォニー(加えて音符と記譜法)。イスラムには装飾。インドは味を追求した。中国の強みは色、すなわち音色だった。
  ――第7章 超大国

 実はこのランキングには大きな欠落がある。アフリカだ。それは著者もわきまえていて、ちゃんと言い訳を用意している。

アフリカが、(略)音楽の大国集団に入っていないことははっきりしている。それはアフリカに音楽の歴史がないからではなく、植民地化以前の音楽の歴史の記録がないからだ。
  ――第8章 終盤

 記録の有無は重要な問題で、本書中でも随所で泣き言が入る。なんたって、譜面が残っているのは西洋音楽だけだし。音階は笛の穴の位置で類推できるが、それ以外の楽器は難しい。リズムや音色や奏法は、もうお手上げだ。

 とはいえ、楽譜がなくても音楽があったのは記録に残っている。例えば古代ギリシア。

古代ギリシア演劇は、劇とは名ばかりでじつはすべてオペラだった
  ――第6章 西洋の調律

 オペラというと「フィガロの結婚」や「カルメン」を思い浮かべるが、演劇に歌や演奏や踊りを加えたモノなら、世界各地にある。というか、著者の見解だと、世界的には音楽は演劇や踊りと混然一体となっている場合が多く、音楽だけを抜き出して楽しむ形の方が珍しいようだ。とすると、様式に拘った KISS やストーリーに殉じた The WHO の TOMMY は、先祖返りというか、本来の音楽のあり方・楽しみ方に立ち戻ったものなのかも。

 先の例で西洋音楽ばかりを取り上げたが、実際問題として現代は西洋音楽が世界を席巻している。その理由は、軍事力と経済力ばかりでなない。西洋音楽は、強力な武器を備えていたのだ。

西洋音楽の三つの「必殺アプリ」は、音符、記譜法、ポリフォニーだ。
  ――第7章 超大国

 絵画や彫刻と違い、音楽はモノが残らない。だから、後継者がいなければ途絶えてしまう。だが西洋は楽譜を発明し、発達させてきた。そのため故人の未発表曲でさえ蘇らせることができる。これは強い。また、譜面で視覚化することで、論理的な分析・設計も可能になった。バッハのファンならお分かりだろう。

 とまれ、それは同時に、ある種の自由を奪いタガをハメる結果にもなった。その一つが調律だ。

12の半音がすべて均等になるように調律されたピアノの鍵盤のように、シンセサイザーのキーボードは、その「平均律」を「非標準的な」調律を持つほかの人々に押しつけている。
  ――第11章 機械

 とかの本書のテーマに沿った話も面白いが、著者の音楽家としてのネタも楽しい。例えば曲の構成だ。著者はこれを英雄物語の旅に例える。英雄は家を出て冒険へと旅立ち、試練や戦いを乗り越え、やがて家に帰る。これが音楽だと…

一般に、提示部と呼ばれる曲の冒頭部分では、この調性(主調)が使われる。
家を離れることは「転調」と言い、通常「属」調に移行する(属調は、主調と五度の関係にある調性)。
提示部の後半部分は属調で進行する場合が多い。
冒険と戦いが繰り広げられる展開部では、さらに主調から遠い調性が使われる。
そして主人公は再現部で家に帰る。(略)
ほとんどの音楽家は、この物語を土台とし、そのうえでそれぞれ趣向を凝らしている。
  ――第4章 想像の風景、見えない都市

 そんな具合に、音楽にはちゃんと様式があるのだ。優れた音楽家は、たいてい卓越した音楽の知識を持っている。逆は必ずしも真ではないが。

多くの人が、音楽的創造は無から生じると考えている。しかし、すべての作曲はパターンからはじまっている。
  ――第2章 ゆりかごから墓場まで

 どれだけパターンを知り活用するかが成功の鍵の一つらしい。成功者の一例がビートルズだ。彼らはスキッフルから始めた。

(人類学者のトマス・)トゥリノは、世界の音楽を四つの芸術的実践、すなわち四つのスタイルに分類し、それらを参加型、発表型、ハイファイ型、スタジオ音響芸術型と呼んでいる。
  ――第3章 私たちの生活のサウンドトラック

 上の分類だと、スキッフルは典型的な参加型の音楽で、つまり客をノせれば勝ちという音楽である。盆踊りの太鼓も参加型だろう。こういうタイプには、嬉しい特典がある。

世界各地の参加型音楽には多くの共通点がある。演奏能力の上手下手は問われない。参加型音楽の成功は、芸術的な質の高さではなく、参加者がどれだけ音楽に没頭できるかによって判断される。
  ――第3章 私たちの生活のサウンドトラック

 「音楽に没頭」と書いちゃいるが、別に傾聴させる必要はない。踊り狂うとか、楽しんでもらえればいいのだ。ビートルズも初期は上手くなかったが、客をノセるコツは心得ていた。だからデビューできたのだ。

 他にも、曲作りのコツがある。

世界中の大半の音楽は、進行するにつれて速くなり、盛り上がる。西洋のポップスはほぼすべてそうなっている。
  ――第5章 氷、砂、サバンナ、森

 速くなれば盛り上がる。言われてみりゃ当たり前だと思うが、こういう基礎をキチンと抑えるのも大事なんだろう。

 また、サウンド・エンジニアには気になる記述が。

多くのスタイルの音楽について、音響学的レベルでは、音声信号のパワースペクトル密度は、1/f分布に従って周波数に反比例する。
  ――第11章 機械

 これは「そうしろ」ってワケじゃなく、1/f分布だとヒトは安らぎや落ち着きを感じるからだ。まあ、音楽はヒトの気分を操るモノなんで、敢えて不安を感じさせた後で安らぎに落とし込む、なんてのも手口としちゃアリだし、ホラーの伴奏ならこの傾向を逆手に取るケースも多い。

 などと音楽そのもののネタの紹介が多くなったが、本書のテーマはヒトの持つ独特の能力や、音楽と社会のかかわりなど、もっと広い視野の話が多い。その分、抽象的だったり観念的だったりで、文章として難しい部分も多くを占める。分厚く圧迫感もあるが、音楽が好きで、かつ特定の音楽に拘らない人にお薦め。

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2024年5月 7日 (火)

トーマス・レイネルセン・ベルグ「地図の世界史 人類はいかにして世界を描いてきたか?」青土社 中村冬美訳

地図は必ず何かの必要性に基づいている。
  ――プロローグ 世界は舞台

「地図や計画性なくして社会を構築することはできない。地図には全てが正確な形や寸法で再現されているため、健全かつ合理的な社会発展の設計図だ」
  ――空からの眺め

検索エンジンであるグーグルが地図に興味を持つのは、理にかなっていた。検索の約30%は、どこに何があるかといった内容だったからだ。
  ――デジタルな世界

【どんな本?】

 地図は便利だ。買い物に、旅行の予定を組むのに、ニュースの現場を調べるのに、私はしょっちゅう Google Map に頼っている。昭和の時代には考えられなかった事だ。いや、昭和の頃だって、地図もなしに初めての土地を旅するなんて考えられなかった。私たちの暮らしは、地図に頼り切っている。

 当たり前だが、人類は最初から地図という概念を持っていたワケではない。長い歴史の中で、少しづつ地図は浸透し、発展し、正確さを増してきたのだ。

 ノルウェーのノンフクション作家が、有史以前の洞窟壁画から古代ギリシャのプトレマイオス,中世欧州のマッパ・ムンディと商人たちが使った海図,地質学に革命をもたらした世界の海底のパノラマ地図,そして現代のデジタル地図まで、地図とそれを作った者たちのエピソードを語り、豊かなカラーの図版と共に地図の歴史を描く、一般向けの少し変わった歴史ノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Verdensteater, by Thomas Reinertsen Berg, 2017。日本語版は2022年3月31日第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約320頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント34字×36行×320頁=約391,680字、400字詰め原稿用紙で約980枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。でも、歴史的な地図をカラーで大量に収録していて、それが本書の大きな魅力なので、たぶん文庫は出ないだろうなあ。

 文章はやや硬い。まあ青土社だし。内容は特に難しくないが、主な舞台は西洋の地中海から北極海そしてカナダあたりで、中東や東アジアは出てこない。著者がノルウェー人のためか、スカンジナビア特にノルウェーの話が多いのはご愛敬。いやフィヨルドの名前を出されても分からんしw 特に「北方の空白地帯」あたりをじっくり読むには、Google Map なり北極海近辺の地図なりが必要。私はテキトーに流し読みしました、はい。

【構成は?】

 原則として年代順に話が進む。各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ 世界は舞台
  • 最初の世界観
  • 池の周りのかえるのように
  • 聖なる地理学
  • 最初の地図帳
  • 外の世界へ
  • 大規模な国土調査
  • 北方の空白地帯
  • 空からの眺め
  • 青い惑星
  • デジタルな世界
  •  引用と参考文献、地図、挿絵リスト、人名索引
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 本書の歴史観は、西欧の標準的な歴史観に近い。

 なんたって、主な舞台はヨーロッパだ。中東はもちろん中国も出てこない。歴史の流れも黄金の古代ギリシャ文明→閉塞の中世→覚醒のルネッサンス、といった感じだ。

 敢えて独特な点を挙げるなら、北欧や北極周辺の話が多いことだろう。なんたって著者はノルウェー人だし。また、海図や船乗など、海に関する話題が多いのも意外だった。

 そんなワケで、最初のヒーローは古代ギリシャのプトレマイオス・クラウディオス(→Wikipedia)である。

プトレマイオスはほぼ1500年間、皆の導き手であり続けた。
  ――最初の地図帳

 図書館で旅行記などの資料を読み漁り、地球が球であると考え、その大きさも計算した。だが、やがてその知識は中世の闇に沈む。

この地図(マッパ・ムンディ,mappa mun-di,→Wikipedia)は13世紀ヨーロッパのクリスチャンが持っていた世界観を示し、(略)目的は、世界の構造をできるだけ正確に描写することではなく、むしろどれほど地図に神の魂が宿っているかを示すことだった。
  ――聖なる地理学

 「こうである」という事実より、「こうであるはずだ」という思い込みで世界が認識される社会。ここで披露される世界観は、今でも西欧人の心に生きている気がする。

 彼らは世界を三分した。西のヨーロッパ・南のアフリカ・東のアジア。彼らにとっては、アラビアもインドも中国も、まとめて「アジア」なのだ。北米人の感覚も似たようなモンなんだろう。CNN や BBC の報道で出てくる「アジア人」に、日本人が違和感を抱くのも致し方あるまい。

 もっとも、彼らも日本の報道に出てくる「ヨーロッパ」に違和感を抱くかもしれない。日本の感覚だと、バルカン半島もヨーロッパだし。

 それはさておき、正確な地図も実は生きのびていた。海図だ。

…一方で、まったく別の種類の地図も中世ヨーロッパで発達した。地中海、黒海、ジブラルタルの南北の大西洋の沿岸を、驚くほどの精密さで示した海図だ。
  ――聖なる地理学

 なぜか。ジェノバなどの商人や船乗りが、正確な海図を必要としたからだ。現実を直視させるカネの力は凄い。これ以降も、本書における地図製作は船乗りが大きな役割を果たす。特に、北極海周りの航路を見つけようとする船乗りたちの冒険は、強く印象に残る。これは、やはりノルウェー人ならではの視点だろう。

 更に航空機の発明以降は、航空写真による更なる正確さを地図は獲得し、軍にも影響を与える。

ヴェルナー・フォン・フリッチュ(→Wikipedia)「最高の航空偵察を行う軍事組織が次の戦争に勝つ」
  ――空からの眺め

 これまで足を使っての三角測量で作っていた地図を、航空機で写真を撮ればいいんだから、大きな進歩だ。まあ、実際は写真ならではの歪みなどがあるんで、それほど単純じゃないんだが。

 そういった技術の進歩は海図にも及び、やがて大西洋中央海嶺(→Wikipedia)の発見から地質学の大転換プレートテクトニクスへと向かうあたりは、ちょっとした興奮を覚えた。

1925年から1927年の間に、ドイツの観測船メテオール号は、大西洋でソナーを使用して67,388か所の水深を測定した。手動で同じ回数分、錘で調査する場合、乗組員が毎日24時間作業したとしても7年かかることになる。
  ――青い惑星

 こういった地図製作技術の進歩は、それまで貴重品で10年単位に更新されるモノだった地図を、数時間どころか数分単位で現実を反映し、瞬間で消費される渋滞マップなどのデジタル地図へと進歩させてゆく。

「地図作成に必要な情報のなかでも単純なものは、やがて自動的に地図上に掲載されるようになる。さらに同時期に作成される地図の量が増加し、その費用は軽減される」
  ――デジタルな世界

 世界の姿を、私たちに見せてくれる地図。それは同時に、私たちの世界観も変えてゆき、また私たちの世界観も地図に反映されてゆく。などの大きな話もあるが、私には北極周辺に挑んだ船乗りたちの話が面白かった。

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2024年3月18日 (月)

ティモシー・ワインガード「蚊が歴史をつくった 世界史で暗躍する人類最大の敵」青土社 大津祥子訳

比較的短い人類の20万年の歴史を通して、この世に生存した累計1080億人のうち、蚊によって520憶人が殺害されたと推定される。
  ――はじめに

マラリアが慢性化して雪だるま式に増加したことが、ローマ帝国の衰退と滅亡への直接的な原因であった。
  ――第4章 蚊軍団 ローマ帝国の興亡

病気の兵士は(略)死亡した兵士の倍の重荷となる(略)。病気の兵士は(略)人的資源や物資を消費し続ける。(略)蚊媒介感染症の場合、病人は仲間の兵士たちに感染を広げる仲介者にもなり、感染が継続する。
  ――第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争

【どんな本?】

 蚊。夏になると出てくるウザい奴。現代の日本ではその程度だが、戦後しばらくはマラリアで苦しむ復員兵も多かった。

 蚊は病気を媒介する。マラリア・黄熱病・デング熱などだ。今でこそマラリアの治療法や黄熱病の予防法がある。しかし、現代的な医療が確立する前は、多くの人々が蚊によって苦しみ、往々にして命すら奪われた。それは個々の人に限らず、時として歴史の流れすら左右したのである。

 古代ギリシャからローマ帝国、そしてコロンブス以降は南北アメリカ大陸やカリブ海の島々まで、人類の歴史に暗い影を落とし続けている蚊とそれが媒介する感染症について、歴史上のトピックを漁り蚊の影響力を力説する、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Mosquito : A Human History of Our Deadliest Predator, by Timothy C. Winegard, 2019。日本語版は2023年6月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約543頁。9ポイント46字×19行×543頁=約474,582字、400字詰め原稿用紙で約1,187枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、第8章以降は南北アメリカ史を細かく探ってゆくため、その辺に詳しいとより楽しめるだろう。なお、本書はあくまで歴史書であり、例えばマラリア原虫の生態など科学的な面にはほとんど立ち入らないので、そのつもりで。

【構成は?】

 全体として時代順に話が進むが、各章はほぼ独立しているので、興味がある所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1章 蚊がもたらす有毒な双生児 マラリアと黄熱
  • 第2章 適者生存 熱の悪霊、フットボール、鎌状赤血球のセーフティ
  • 第3章 ハマダラカ将軍 アテネからアレクサンドロスまで
  • 第4章 蚊軍団 ローマ帝国の興亡
  • 第5章 悔い改めない強情な蚊たち 宗教危機と十字軍
  • 第6章 蚊軍団 チンギス・ハーンとモンゴル帝国
  • 第7章 コロンブス交換 蚊とグローバル・ヴィレッジ
  • 第8章 偶然の征服者 アフリカ人奴隷制度と蚊が米大陸に加わる
  • 第9章 順化 蚊の環境、神話、アメリカの種
  • 第10章 国家におけるならず者たち 蚊と英国の拡大
  • 第11章 疾病と言う試練 植民地戦争と新たな世界秩序
  • 第12章 不可譲の刺咬 アメリカ独立戦争
  • 第13章 蚊の傭兵たち 解放戦争と南北アメリカの発展
  • 第14章 「明白な天命」と蚊 綿花、奴隷制度、メキシコ、米国南部
  • 第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争
  • 第16章 蚊の正体を暴く 疾病と帝国主義
  • 第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT
  • 第18章 沈黙の春とスーパーバグ 蚊の復活
  • 第19章 今日の蚊と蚊媒介感染症 絶滅の入り口?
  • 終わりに
  • 謝辞/註/参考文献/索引

【感想は?】

 夏に読んではいけない。蚊が怖くて蚊取り線香が手放せなくなる。

 本書のテーマは蚊が媒介する感染症だ。主役はマラリアで、その存在感は大きい。相方が黄熱だろう。

 歴史学者が書いた本だからか、歴史上のトピックは数多く出てくる。その反面、科学・医学的な記述は少ない。せいぜい、この程度だ。

唾液腺の中で、このマラリア原虫は蚊を巧みに操り、蚊に血液凝固抑制物質を作らせないようにし、一回の吸血中で最小限の血の量しか取り込めないようにする。これによって蚊は、必要な量の血を得るため吸血回数を増やさなくてはならなくなる。
  ――第1章 蚊がもたらす有毒な双生児 マラリアと黄熱

 この程度といいつつ、マラリア原虫の悪辣さがよく出ている挿話だろう。こんなマラリアの悪辣さは、地域の文化にも影響を与えてきた。

過去に蚊媒介感染症が多かった国々では、キクは死や悲しみを連想させるか、あるいは葬儀や墓標への献花としてのみ差し出される。逆に蚊媒介感染症がほとんどない地域では、愛や喜び、生命力を象徴する。
  ――第2章 適者生存 熱の悪霊、フットボール、鎌状赤血球のセーフティ

 これは除虫菊が蚊を遠ざけるため。どうも蚊と疫病の関係は昔からウッスラと知られていたらしい。日本じゃキクは仏様の墓前に供える花なわけで、ならかつてはマラリアや黄熱が流行ったのかと思ったら、真相は全然違った(→山と渓谷オンライン日本で「仏花といえば、キク」になった意外な理由)。

 ローマ帝国も蚊に苦しめられ、また時として蚊に助けられた。特にローマはポンティノ湿地が近く、ハンニバルも蚊に苦しんだ模様。つか、なんだってそんな所に永遠の都を築いたんだろ?

 以降もローマは蚊による感染症に苦しめられるのだが、キリスト教の流行にも蚊が一役買っていたとは。

カリフォルニア大学生物学&感染症教授アーウィン・W・シャーマン
「(ローマ帝国で)キリスト教はほかの宗教とは異なり、宗教上の義務として病人の看護を説いた。看病を受けて健康状態を回復した人々は感謝の念を抱いてキリスト教信仰に傾倒した」
  ――第5章 悔い改めない強情な蚊たち 宗教危機と十字軍

 やがてコロンブスがアメリカに到達し、欧州列強が南北アメリカに進出する。この際、困ったシロモノまで南北アメリカ多陸に持ち込んでしまったせいで、人類の歴史は大きく変化してゆく。

コロンブス交換が始まると、(略)アメリカ大陸原産のハマダラカは元々無害だったが、すぐさまマラリア媒介蚊となったのだ。
  ――第7章 コロンブス交換 蚊とグローバル・ヴィレッジ

 困ったことに当時の北米は現代とまったく風土が違い、蚊にとっては天国だった。これが合衆国の歴史にも大きく関わってくる。

当時(1600年代)の北米東北部には今日の40倍の個体数のビーバーがいたため、広範囲にわたって泥の深い湿地が拡がり、その面積は現在の2倍だった。蚊にとってこうした湿地帯は、理想的な活動の場だったにちがいない。
  ――第9章 順化 蚊の環境、神話、アメリカの種

 それでも移民の波は続く。中にはどうにか生きのびて子を残す者もいる。その子の多くが命を落とすが、生き延びた者は耐性を持っている。親の世代にとって欧州が故郷だろうが、子の世代にとっては生まれ育った土地が故郷だ。

米大陸で生まれて代々続いてきた世代が(蚊が媒介する感染症に)順化済みだったのは、北米だけでなくキューバやハイチ、その他多くの植民地でも同様だった。こうした住民たちにとって、頼みの綱はもはや母国へと伸びてはいなかった。
  ――第11章 疾病と言う試練 植民地戦争と新たな世界秩序

 そんな子たちを、「母国」は縛り付けようとする。だが、子たちは自分たちの優位を充分に知っていた。地の利を生かし、子たちは自由を勝ち取ってゆく。

ハイチ独立運動の指導者トゥサン・ルヴェルチュール(→Wikipedia)
「フランスから来た白人たちは、(略)最初は善戦するが、すぐに病に倒れてハエのようにばたばたと死んでいく。フランス軍の人数がいよいよ減ってきてから、執拗に攻撃して打ち負かす」
  ――第13章 蚊の傭兵たち 解放戦争と南北アメリカの発展

 このあたり、米国の血にまみれた歴史が延々と続く。にしても、当時の戦争の様子は私たちが考える戦争とは大きく様相が違う。

米英戦争での合計死者数は先住民連合と民間人を含めて35,000人に達し、その80%が病死で、大多数はマラリア、腸チフス、赤痢によるものだった。
  ――第14章 「明白な天命」と蚊 綿花、奴隷制度、メキシコ、米国南部

機関銃の発明者ガトリング(→Wikipedia)の、「これで戦死者が大幅に減るだろう」との言葉に対し、彼の愚かさをあげつらう向きもある。だが、先の数字を見る限り、彼の思考は当時としちゃ自然な発想だったのだ。残念ながら塹壕と鉄条網が彼の想いを裏切るのだが。

 などと猛威を振るったマラリアに、天敵が現れる。キニーネだ。何故か見つかったのは元来マラリアがないアンデス。不思議な話だ。とまれ、キニーネがマラリアに効くと判明した経緯は、残念ながら本書じゃ軽く触れられるだけ。

 とまれ、キニーネの発見は、特にアフリカの歴史に大きく関わってくる。

インドネシアでオランダがキナノキのプランテーションを強化したことで1880年代に「アフリカ分割」が可能になったが、それ以前は蚊媒介感染症がヨーロッパによる干渉侵略からアフリカを守っていた。
  ――第8章 偶然の征服者 アフリカ人奴隷制度と蚊が米大陸に加わる

 それまでアフリカを守っていた蚊=マラリアの盾が、キニーネによって破られてしまう。と同時に、今までやられ放題だった人類が、やっと蚊に一矢報いた話でもあるんだが。

 そんな便利な盾を、人類は当然ながら戦争にも使う。南北戦争で、北軍は南部へのキニーネの搬入を止めるのである。

(南北)戦争が始まった年に、1オンス(約28.35グラム)のキニーネの平均価格は4ドルだったが、1863年には23ドルに高騰していた。1864年の終わりには、封鎖破りの船から供給を受けての闇市場では、1オンス当たりの価格が400~600ドルだった。
  ――第15章 自然界からの不吉な使い 南北戦争

 こういう米国の成功体験が、現代でも「まず経済封鎖」となる米国の外交方針に残っているってのは、考えすぎだろうか。

 まあいい。キニーネに続き、マラリアや黄熱の感染経路が分かるにつれ、人類は反撃に出る。

ハバナで(米軍)衛生将校の長を務めたウィリアム・ゴーガス医師(略)の断固たる決意のおかげで、1902年には黄熱がハバナから完全に根絶された。1648年以来初めてのことである。
  ――第16章 蚊の正体を暴く 疾病と帝国主義

 更に、大量殺戮兵器であるDDTが登場し、蚊との戦いは一気に人類優位に傾く。特に米軍の徹底ぶりは凄い。

米国では戦争遂行を目的として途方もなく大がかりなマラリア・プロジェクトと連携させ、1942年には既に(DDTの)大量生産を開始していた。同プロジェクトは、核兵器のマンハッタン計画と同水準の機密、警備体制、規模となっていた。
  ――第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT

 このDDT信仰は戦後も続き、占領地域でも大規模に散布した。

イタリアでは、DDTと新たな抗マラリア薬のクロロキンの力を借りて、1948年にはマラリアによる死亡者がゼロとなった。
  ――第17章 こちらがアンだ、君にとても会いたがっている 第二次世界大戦、ドクター・スース、DDT

 日本でも、進駐軍にDDTを体に振りかけられた、なんて体験談がよくあった。今でこそ毒性を云々されるDDTだが、当時は毒性が分かっていなかった。とはいえ、利害を計算すると、当時の日本の状況じゃ利の方が大きいんじゃないかと思う。

 などと万能に思われたDDTだが、生命はしぶとい。

蚊の種によって異なるが、DDT耐性の獲得には大体2年から20年かかった。
  ――第18章 沈黙の春とスーパーバグ 蚊の復活

 蚊は、たかだか2年で耐性を得てしまう。この進化の早さには恐れ入る。個体数が多いのに加え、大量に卵を産んで多くの子をなす、蚊の生態が有利に働いているのかも。

 それはともかく。幸い日本で発生するマラリアは、海外旅行の帰国者ぐらいだ。行政も充実していて、例えば2014年にデング熱が発生した際は、東京都が徹底した対策を取った(→国立感染症研究所代々木公園を中心とした都内のデング熱国内感染事例発生について)。一応は先進国で組織も充実しており、発生場所も一か所だけだから充分に対応できたが、貧しく政情が不安定な国で、アチコチで発生してたら、そうはいかない。

今日では、マラリア患者の85%はアフリカのサハラ砂漠以南で発生し、同地では人口の55%が1ドル未満で生活している。マラリア症例数に占める地域別割合は、東南アジアが8%、東地中海地域が5%、西太平洋地域が1%、南北アメリカがおよそ0.5%である。
  ――第19章 今日の蚊と蚊媒介感染症 絶滅の入り口?

 アフリカにおけるマラリアの猖獗ぶりを訴える文章なんだが、南北アメリカの少なさにも驚く。巧く対策を施せば、ある程度までは抑え込めるんだろうか。

 全編を通し、人が死にまくる本なので、かなり気力を要する本だ。また、米国の読者を想定しているためか、米国史、それも黎明期の、現住民虐殺など暗黒面を容赦なく暴く挿話が多く、歴史の暗黒面が好きな人には嬉しい本かもしれない。とまれ、暖かくなる前に読み終えたのは良かった。蚊が沸きだす季節には、下手な怪談よりよほど恐ろしい本である。

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2024年2月16日 (金)

デニス・ダンカン「索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明」光文社 小野木明恵訳

本書は索引について、つまりは一冊の本を構成要素、登場人物、主題、さらには個々の単語へと細分化したものをアルファベット順に並べた一覧表についての本である。
  ――序文

索引を作ること、しかも小説の索引を作ることは、解釈をすることでもある。将来の読者が何を調べたいと思うか、どういう語を使って調べたいと思うかを予測しようとする作業でもある。
  ――第6章 フィクションに索引をつける ネーミングはいつだって難しかった

【どんな本?】

 索引。主にノンフィクションの巻末にある、キーワードとページ番号の対応表。調べたいテーマ=何について知りたいかが分かっている時に、手っ取り早くソレが載っている所を見つけるための道具。いわば本の裏道案内図。

 私たちが「索引」という言葉で思い浮かべる印象は、散文的なものだ。それは機械的に決まった手続きに従って生成される表であり、コンピュータが進歩した現代なら自動的に作れるはず。例えば、Adobe InDesign には索引自動生成機能がある。

 と、思うでしょ。ところがどっこい。いや、実際、地味で機械的な作業もあるんだけど。

 書物が生まれてから現在の形になるまで、索引はどのような経緯を辿ったのか。それを世の人びとは、どのように受け取ったのか。本が巻物だった時代から写本の時代・グーテンベルクの印刷を経て現代の電子出版まで、索引はどんな役割を期待され果たしたのか。

 書物と共に発達し進歩してきた索引とそれに関わる人々の足跡を辿り、索引の持つ意外な性質と能力を描く、書物マニアのための少し変わった歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Index, A History of the, by Dennis Duncan, 2021。日本語版は2023年8月30日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約290頁+訳者あとがき6頁に加え、索引がなんと3種類で88頁。10ポイント48字×18行×290頁=約250,560字、400字詰め原稿用紙で約627枚。文庫ならちょい厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。当然、本の歴史と密接に関わっているが、必要な事柄は本書内で説明しているので、前提知識がない人でも読みこなせるだろう。自分で蔵書やCDの目録を作った経験があると、更に楽しめる。

【構成は?】

 原則として時系列順に話が進むが、各章はほぼ独立しているので、気になった所を拾い読みしてもいい。もちろん、巻末の索引を頼りにしてもいい。

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  • 序文
  • 第1章 順序について アルファベット順の配列
  • 第2章 索引の誕生 説教と教育
  • 第3章 もしそれがなければ、どうなるのだろうか? ページ番号の奇跡
  • 第4章 地図もしくは領土 試される索引
  • 第5章 いまいましいトーリー党員にわたしの『歴史』の索引を作らせるな! 巻末での小競り合い
  • 第6章 フィクションに索引をつける ネーミングはいつだって難しかった
  • 第7章 「すべての知識に通ずる鍵」 普遍的な索引
  • 第8章 ルドミッラとロターリア 検索時代における本の索引
  • 結び 読書のアーカイヴ 
  • 原注/謝辞/訳者あとがき
  • 図表一覧
  • 索引家による索引
  • コンピュータによる自動生成索引
  • 日本語版索引

【感想は?】

 マニアックなテーマを扱うマニアックな本だ。書名でピンとくる人には間違いなく面白いが、興味のない人は「なぜこんな本が?」と思う。それでいいのだ。

 まず驚いたのは、索引家なる人たちが居ること。現代では索引作成を職業とする人だが、趣味というか凝り性で索引を作る人もいる。有名なヴァージニア・ウルフもその一人だ。中には自著の索引に凝って新作を書く暇がなくなったサミュエル・リチャードソン(→Wikipedia)なんて作家もいる。意外と索引作成は創造的な仕事なのだ。

 その創造性が身に染みてわかるのが第5章なんだが、ここではイギリス人らしい意地悪さを索引で発揮してる。

 散文的な話では、やはり書物の形や出版方法、そしてモノの考え方が、索引の誕生に関わっているのが面白い。

 たいてい、索引はアルファベット順(日本語ならあいうえお順)だ。ここでは、言葉から意味をはぎ取り、記号の列として機械的・数学的に順序付ける発想が必要になる。言葉からいったん意味を奪うことで、その言葉に関係深い文章へと読者を誘う。面白い皮肉である。

索引は、作者ではなく読者のためのものであり、アルファベットの任意の順序と深く結びついているからだ。
  ――第1章 順序について アルファベット順の配列

 現代の索引は、キーワードとページ番号の表だ。キーワードはともかく、ページ番号は書物が現代の形だからこそ意味がある。パピルスの巻物や、冊子本=コーデックス(→Wikipedia)じゃページ番号そのものがない。それでも、当時の人びとは、目的とする部分を書物の中から見つけやすいように、ソレナリに工夫してきたらしい。

索引は、単独で登場したのではなく、13世紀初頭を挟んで前後20~30年のあいだに現れた読者のためのさまざまなツールという一家のなかの末っ子なのだ。
そして、それらのツールにのすべてにはひとつの共通点がある。
読書のプロセスを合理化し、本の使いかたに新たな効率性をもたらすために作られたという点である。
  ――第2章 索引の誕生 説教と教育

 そのページ番号も、グーテンベルクの活版印刷が普及して暫くは、あまり普通じゃなかった。当時の印刷屋は本文を組むのが精いっぱいで、本文の外にページ番号や柱(→武蔵野美術大学 造形ファイル)をつける発想や余裕がなかったんだろう。

15世紀の終わりの時点でもまだ、印刷された本のおよそ10%にしかページ番号は存在しなかった。
  ――第3章 もしそれがなければ、どうなるのだろうか? ページ番号の奇跡

 さて、そんな索引は、目的の知識への近道でもある。こういう、知識を得る新しい技術が出てくると、それを歓迎する人と否定する人が出てくるのも世の常だ。現代のインターネットをめぐる議論と似たような議論を、ソクラテスが文字や書物をめぐって展開してたり。

印刷技術が誕生してから200年のあいだに作られた本の索引にたいする評価は、今もって、ソクラテスのように、急激に拡大していくテクノロジーにやるせない憤りをおぼえる者たちと、パイドロスのように、喜んでテクノロジーを活用する者たちのあいだで分かれている。
  ――第4章 地図もしくは領土 試される索引

アレグザンダー・ポープ「索引を使った学問では学徒は青ざめず/ウナギのような学問の尾をつかむ」
  ――第5章 いまいましいトーリー党員にわたしの『歴史』の索引を作らせるな! 巻末での小競り合い

 などと索引をめぐる歴史的な話が中心の中で、終盤の第8章は少し毛色が違う。索引が当たり前となった20世紀からコンピュータの助けが得られる現代の物語である。何より嬉しいのは、実際に索引を作る手順を詳しく説明していること。「コンピュータならCTRL+Fでたいがいイケるんじゃね?」とか「出てくる全部の単語にページ番号つけりゃいいじゃん」とかの甘い目論見を、木っ端みじんに粉砕してくれる。

機械でスピードアップできることは、ソートやレイアウト、エラーチェックなどスピードアップが可能な作業だけだ。今もなお主題索引を編集する作業はおおむね、人間が行う主観的な仕事である。
  ――第8章 ルドミッラとロターリア 検索時代における本の索引

 でも、最近流行りのLLM=大規模言語モデル(→Wikipedia)なら…いや、ちと工夫が必要だなあ。

 もちろん、細かいエピソードは盛りだくさんだ。私はウィリアム・F・バックリー・ジュニアがノーマン・メイラーに仕掛けたイタズラが好きだ。あと、ペーター・シェイファーの賢い販売戦略も。

 マニアックなテーマだけに、万民向けじゃない。でも、書名に惹かれた人なら、読む価値は充分にある。本、それもノンフィクションが好きで、書棚の空きがないと悩む人には、悩みを更に深める困った本だ。

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2024年1月 9日 (火)

ヴィンセント・ベヴィンス「ジャカルタ・メソッド 反共産主義十字軍と世界をつくりかえた虐殺作戦」河出書房新社 竹田円訳

この世界全体――とりわけ(略)アジア、アフリカ、そしてラテンアメリカの国々は――1964年と1965年にブラジルとインドネシアで発生した波によって姿を作り替えられた。
  ――序章

「第三世界」という概念は、1955年4月にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(→Wikipedia)のなかで本格的に固まった。
  ――第2章 独立インドネシア

(イラクでは)アメリカ政府が支援するバース党という反共産主義の政党が、(1968年7月に)クーデター(→Wikipedia)を起こして成功させた。
  ――第4章 進歩のための同盟

最大で100万人(ひょっとするとそれ以上かもしれない)のインドネシア人が、アメリカ政府が展開した世界的反共産十字軍の一環として殺された。
  ――第7章 大虐殺

【どんな本?】

 1955年4月、インドネシア大統領スカルノの主導により、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催される。ここに第三世界の概念が生まれた。資本主義の第一世界と共産主義の第二世界に対し、元植民地の諸国を第三世界と位置づけ、その独立と発展を望む運動が始まった。

 だが、インドネシアにおける動きは1965年、唐突に断ち切られる。スハルトによるクーデターと政権奪取によって。

 以後、特に中南米諸国において奇妙なキーワードが囁かれる。「ジャカルタが来る」と。

 ソ連の大飢饉(→「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」)や強制収容所(→「グラーグ」)、中国の大躍進(→「毛沢東の大飢饉」)、カンボジアのキリングフィールド(→「ポル・ポト」)などは有名だが、インドネシアやグアテマラやチリの悲劇はあまり語られない。

 一体、何があったのか。誰が、何のために悲劇を生み出したのか。なぜ語られないのか。そして、これらの悲劇は、世界をどう変えたのか。

 米国のジャーナリストが、20世紀の歴史の影に光を当てる、衝撃のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は THe Jakarta Method : Washington's Anticommunist Crusade and the Mass Murder Program that Shaped Our World, by Vincent Bevins, 2020。日本語版は2022年4月30日初版発行。単行本ハードカバーー縦一段組み本文約343頁に加え、訳者あとがき7頁。9.5ポイント44字×21行×343頁=約316,932字、400字詰め原稿用紙で約793枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。中学卒業程度の国語と社会科の知識があれば読みこなせるが、主に1960~70年代の話なので、若い人には時代感覚がピンとこないかも。インドネシアの島々や中南米の国が舞台となるので、地図があると便利。

【構成は?】

 前の章を受けて後の章が展開する更生なので、なるべく頭から読もう。

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  • 序章
  • 第1章 あらたなアメリカの時代
  • 第2章 独立インドネシア
  • 第3章 目に物見せる アンボン空爆
  • 第4章 進歩のための同盟
  • 第5章 ブラジルとその過去
  • 第6章 9.30事件
  • 第7章 大虐殺
  • 第8章 世界のあらゆる場所で
  • 第9章 ジャカルタが来る
  • 第10章 北へ、北へ
  • 第11章 俺たちはチャンピオン
  • 第12章 彼らは今どこに? そして私たちは?
  • 謝辞/訳者あとがき/補遺/原註

【感想は?】

 失敗は怖ろしい。成功はもっと恐ろしい。

 本書は成功の物語だ。少なくとも、アメリカ合衆国、特にCIAにとっては。

 SF作家ルーシャス・シェパードの作品、「タボリンの鱗」収録の中編「スカル」は、グアテマラを舞台として米国人の旅行者の視点で描かれる。旅人の見るグアテマラの社会は、貧しくいささか物騒だ。なぜそうなったのか、本書を読んでよく分かった。

 合衆国には、力がある。経済力も軍事力も。だが、外国の情報収集・分析は、いささか弱い。特に発展途上国においては。それを補うのがCIAの設立当初の役目だったが(→「CIA秘録」)、思い込みと決めつけで暴力的な解決に突っ走る傾向があって、911以降の中東政策によく現れている。

米外交官フランク・ウィズナー・ジュニア
「過去の歴史に注意を向けていたら、アメリカ政府が中東でいまのような状況にはまり込むこともなかったでしょうね」
  ――第12章 彼らは今どこに? そして私たちは?

 これは最近の話かと思ったが、そうではなかった。昔からそうだったのだ。ただ、昔はうまくやっていたし、今でもその影響が強く残っている。特にインドネシアと中南米で。バナナやコーヒーや砂糖の歴史を調べ、うっすらと感じてはいたが、ここまでハッキリと示した本はなかった。

 何をやったのか。一言で言えば、赤狩りだ。ただし、国内じゃない。他国、特に第三世界で、だ。

 当時は冷戦のさなか。世界各地で植民地が独立し、それぞれに独自の道を模索していた。米ソ両国はソコで縄張り争いを始めた。少なくとも、CIAはそう考えていた。元植民地諸国も、両大国間のバランスの狭間で、独自の道を模索していた。多党制の議会も要しており、インドネシアでは…

米第37代大統領リチャード・ニクソン
「インドネシアにとって、民主的な政府は(おそらく)最善ではない。組織力にすぐれる共産党を選挙で負かすのは不可能だから」
  ――第3章 目に物見せる アンボン空爆

 これをCIAは恐れた。なんたって、共産党である。ソ連の手先に決まっている。そう決めつけた。

米外交官ハワード・ポールフリー・ジョーンズ
「ワシントンの政策立案者は、あらゆる事実関係を把握しておらず、この国(インドネシア)の事情もしっかり理解していなかった。ところが、共産主義こそが大問題だという前提でことを進めてしまった」
  ――第3章 目に物見せる アンボン空爆

 米国内でもマッカーシズム(→Wikipedia)が吹き荒れたが、そこは先進国である。さすがに直接の暴力は控えた。だが、外国なら話は別だ。

 やった事は、イランやベトナムと同じ。クーデターを起こし傀儡政権を立てる。それも極右の。

1965年10月1日(→Wikipedia)の時点で、スハルト少将(→Wikipedia)とは何者か、ほとんどのインドネシア人が知らなかった。しかしCIAは知っていた。
  ――第6章 9.30事件

 そして、罪は共産主義者にかぶせる。

ブラジル独自の反共産主義の神話の中には、ひどく歪んだ共産主義者のイメージができあがっていたようだ。多くのエリートが、共産主義者は、日頃から「悪魔的喜び」を感じながら暴力を繰り返し、敬虔なキリスト教徒を皆殺しにして、「赤い地獄」に送り込もうとしていると信じていた。
  ――第5章 ブラジルとその過去

 こういう、敵対する相手を悪役に仕立てる手口は、右も左も同じだなあ、と思ったり。かつての中国でも資本主義者は散々に罵られたし、ソ連も富農を目の敵にした。

1966年1月14日にワシントンが受け取った在インドネシア大使マーシャル・グリーンの報告
当面、PKI(インドネシア共産党)が政治に影響をおよぼすことはないだろう。インドネシア陸軍と、彼らに協力したムスリム団体のめざましい働きによって、共産党組織は壊滅した。政治局と中央委員会のメンバーは、ほぼ全員殺害されるか逮捕された。これまでに殺害された共産党員の数は、数十万にのぼると言われる。
  ――第7章 大虐殺

 一般に宗教勢力、特にアブラハムの宗教は共産主義を毛嫌いし、極右に手を貸す場合が多いんだよなあ。気質が似てるんだろうか。

 もちろん、濡れ衣を着せられた者も多い。というか、ドサクサまぎれで気に食わない奴にレッテルを張ち、ついでに片付けたっぽい。

1978年から83年にかけて、グアテマラ軍は20万以上の国民を殺害した。そのうち1/4弱が、都市部で連れ去られたまま「失踪」した人々だった。残りの大部分は先住民のマヤ人たちで、かれらは先祖代々住んできた平原や山々の、広い空の下で虐殺された。
  ――第10章 北へ、北へ

 そして、これらの事実がおおっぴらに語られることはない。こういった歴史の闇は、人々に疑惑の種をまく。

なにか重要なことが自分たちから隠されていたことを知ると、人は疑うべきでないことを疑ったり、途方もない陰謀論に耳を傾けたりするようになる。
  ――第11章 俺たちはチャンピオン

 そして、この本も、デッチアゲや陰謀だと言われるのだ。だが、現在の米国が中東でやっていることは、本書に書かれている内容と大きな違いはない。よりガサツで稚拙で大掛かりなだけで。

 米国は、ベトナムでは大っぴらに失敗した。だから、「 ベスト&ブライテスト」など、「なぜ失敗したか」と顧みる風潮がある。だが、インドネシアや中南米で密かには成功した。だから、顧みられることは少ない。だからこそ、本書は貴重で大きな価値がある。現代の世界がいかにして形作られたか、それを明らかにする衝撃の本だ。

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2023年12月18日 (月)

サイモン・ウィンチェスター「精密への果てなき道 シリンダーからナノメートルEUVチップへ」早川書房 梶山あゆみ訳

精密さとは、意図的につくり出された概念だ。そこにはよく知られた歴史上の必要性があった。
  ――はじめに

ついに機械をつくるための機械が生み出され、しかもそれは、正確かつ精密につくる能力をもっている。
  ――第1章 星々、秒、円筒、そして蒸気

ジェームズ・スミス著『科学技術大観』
「一つの面を完璧に平坦にするためには、一度に三つの面を削ることが……必要である」
  ――第2章 並外れて平たく、信じがたいほど間隔が狭い

空気がなければ歪みもない
  ――第7章 レンズを通してくっきりと

GPS衛星群に数々の有用性があるとはいえ、それを煎じ詰めれば時刻の問題になるのだ。
  ――第8章 私はどこ? 今は何時?

1947年、トランジスタは幼い子供の手いっぱいに載るほどの大きさがあった。24年後の1971年、マイクロプロセッサ内のトランジスタは幅わずか10マイクロメートル。人間の髪の毛の太さの1/10しかない。
  ――第9章 限界をすり抜けて

(2011年3月11日の東日本大震災と津波で)杉や松は完膚なきまでに破壊されたのに、竹はまだそこにある。
  ――第10章 絶妙なバランスの必要性について

こうして時間がすべての基本単位を支えるものとなった
  ――おわりに 万物の尺度

【どんな本?】

 カメラ、スマートフォン、自転車、自動車、ボールペン。私たちの身の回りには、精密に作られたモノが溢れている。これらが誇る精密さは、自然と出来上がったのではない。精密さを必要とする需要や、精密さが優位となるビジネス上の条件があり、ヒトが創り上げた概念だ。

 ヒトはいかにして精密さの概念を見つけたのか。そこにはどんな需要があり、どのような人物が、どのように実現したのか。そして精密さは、どのように世界を変えてきたのか。

 「博士と狂人」で歴史に埋もれた二人の人物のドラマを魅力的に描いたサイモン・ウィンチェスターが、今度は多彩な登場人物を擁して描く、歴史と工学のノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Perfectionists : How Precision Engineers Created the Modern World, by Simon Winchester, 2018。日本語版は2019年8月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約425頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×19行×425頁=約363,375字、400字詰め原稿用紙で約909枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、本棚やプラモデルなどを自分で部品から何かを組み立てて、「あれ? この部品、なんかうまくはまらないな」と戸惑った経験があると、身に染みるエピソードが多い。

【構成は?】

 原則的に時系列順に進むが、各章はほぼ独立しているので、気になった所を拾い読みしてもいい。

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  • 図版一覧
  • はじめに
  • 第1章 星々、秒、円筒、そして蒸気
  • 第2章 並外れて平たく、信じがたいほど間隔が狭い
  • 第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を
  • 第4章 さらに完璧な世界がそこに
  • 第5章 幹線道路の抗しがたい魅力
  • 第6章 高度一万メートルの精密さと危険
  • 第7章 レンズを通してくっきりと
  • 第8章 私はどこ? 今は何時?
  • 第9章 限界をすり抜けて
  • 第10章 絶妙なバランスの必要性について
  • おわりに 万物の尺度
  • 謝辞/用語集/訳者あとがき/本書の活字書体について/参考文献

【感想は?】

 歴史の授業で工場制手工業って言葉を学んだ。ソレで何が嬉しいのかは分からなかったが。この本で、少しわかった気がする。

 これが分かったのが、「第5章 幹線道路の抗しがたい魅力」。ここでは、最高級の自動車を生み出すロールス-ロイス社と、T型フォードの量産に挑んだフォード社の誕生を描く。

 その工程は対照的だ。ロールス-ロイス社は熟練の職人による手仕事で、一台づつ丁寧に作ってゆく。対してフォード社は、ベルトコンベアによる流れ作業だ。そこで部品に精密さを求めるのは、どちらだろうか?

 意外なことに、フォード社なのだ。

 ロールス-ロイス社は、職人が丁寧に組み立てる。そこで部品のサイズが合わなければ、ヤスリで削って調整する。それぞれピッタリ合わせるので、ガタつくことはない。ぶっちゃけ古いやり方だが、だからこそ品質を保証できる。

 だが、フォード社は流れ作業だ。合わない部品があると、そこで作業が止まってしまう。だから、予め部品の規格や誤差範囲を厳しく決め、守らせる。部品の精密さでは、フォード社の方が要求は厳しいのだ。

低コストでたいした複雑さもなく、記憶にもさして残らないフォード車のほうが、(ロールス・ロイス車より)精密さがより重要な生命線となっていた。
  ――第5章 幹線道路の抗しがたい魅力

 「ニコイチ」や「共食い整備」なんて言葉もある。壊れた二台の自動車から使える部品を取り出して組み合わせ、一台の動く自動車を組み立てる、そんな手口だ。これは意外と現代的な概念だとわかるのが、「第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を」だ。

 この章は1914年の米英戦争さなかの合衆国で幕を開ける。当時、マスケット銃の部品が壊れたら、どう直すか? 現代なら、他の部品に交換するだろう。だが、当時はできなかった。当時の銃は、ロールス-ロイス社風の方法で作っていたからだ。部品を交換するには、職人の所へ持っていき、調整してもらう必要があった。そうしないと、「合わない」のだ。当時の製品は、みんなその程度の精度だったのだ。

 これを変えたのが、フランスのオノレ・ブラン(→Wikipedia)。彼の造った銃は…

どの部品も完全に互換性をもっていた。
  ――第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を

 逆に言えば、同じ工業製品の同じ部品でも、互換性がないのが普通だったのだ、当時は。軍事ヲタク界隈じゃ共食い整備は末期症状と言われるが、そんな事が出来るのも精密さのお陰だったりする。

 こういった互換性の基礎をもたらしたのが、私たちの身の回りに溢れているシロモノなのも意外。

(ジョゼフ・)ホイットワース(→Wikipedia)は、あらゆるネジの規格を統一するという発想を推し進めた
  ――第4章 さらに完璧な世界がそこに

 そう、ネジなのだ。実際、よく見ると、ネジって長さや太さやネジ山の高さや距離など、予め規格がキッチリ決まってないと困るシロモノなんだよね。本書の前半では、他にもネジが重要な役割を果たす場面が多くて、実はネジが工学上の偉大な発明である事がよくわかる。

 後半では、こういった精密さが更に桁を上げた現代の物語へと移ってゆく。

 特に「第6章 高度一万メートルの精密さと危険」がエキサイティングだった。ここでは航空機用ジェット・エンジンの誕生と現状を語る。そのジェット・エンジン、理屈は単純なのだ。原則として動くのは「回転するタービンと圧縮機だけ」。可動部が少なければ、それだけ機械としては頑丈で安全となる…はず。理屈では。

フランク・ホイットル(→Wikipedia)
「未来のエンジンは、可動部が一つだけで2000馬力を生み出せるようでなければならない」
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 ホイットルを支援する投資会社のランスロット・ロー・ホワイトの言葉も、エンジニアの魂を強く揺さぶる。

「大きな飛躍がなされるときは、かならず旧来の複雑さが新しい単純さに取って代わられるものだ」
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 そうなんだよなあ。私は初めて正規表現に触れた時、その理屈の単純さと応用範囲の広さに感動したのを憶えてる。新しい技術は、たいてい洗練された単純な形で出てきて、次第に毛深くなっちゃうんだよなあ。

 まあいい。ここでは、蒸気からレシプロそしてタービンまで、モノを燃やして力を得るエンジンの神髄を説く言葉も味わい深い。

(エンジンは)熱ければ熱いほど速くなる
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 モノを燃やすエンジンは、すべてボイル=シャルルの法則(→Wikipedia)に基づく。曰く、気体の体積または圧力は、温度に比例する。モノを燃やすエンジンは、高温で体積が増える気体の圧力がパワーの源だ。よってパワーを上げるには、エンジンの温度を高く(熱く)すればいい。

 だが、エンジンは金属だ。金属は熱くなると柔らかくなり、ついには溶ける。この相反する要求を叶えるには、なるたけ高温に耐える素材を使うこと。冶金技術が国力の源である理由が、コレだね。もう一つ、高熱にさらされるエンジン内でタービン・ブレードの温度を下げる手もある。これを叶えるロールス-ロイス社の工夫が凄い。

 実はこの辺、「ジェット・エンジンの仕組み」にも書いてあったんだが、すっかり忘れてた。わはは。

 この章では、他にも「ホイットルの時代の初歩的なジェットエンジンであっても、(吸い込む空気の量は)ピストンタイプのざっと70倍」とか、ジェットエンジンつかガスタービンの布教としか思えぬ記述が溢れてる。

 それはともかく、そんなロールス-ロイス社のトレント900エンジンを積んだエアバスA380機が、2010年に事故を起こす。カンタス航空32便エンジン爆発事故(→Wikipedia)だ。原因はエンジン部品の不良。この事故を調べたオーストラリア政府による事故調査報告書は、教訓に富んでいる。

複雑な社会技術システムは、元々内在する性質により、絶えず監視されていなければ自然と後退するという傾向を持つ。
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 複雑で精密なシロモノは、放っとくと劣化するのだ。これはモノだけでなく、製造・流通・運用など全ての過程で関わるヒトや組織にも当てはまる。特に、コスト削減とかの圧力が加わった時は。なら、原子力発電も…などと考えてしまう。

 以降、本書は騒ぎとなったハップル天文台や現代では必需品となったGPSそして集積回路を経て、第10章ではなぜか日本が舞台となる。ここの記述は日本人としてはいささか気恥ずかしさすら覚えるほどの日本賛歌なので、お楽しみに。

 今や当たり前となったネジや部品交換そして互換性の概念は、意外と近年に生まれた考え方だった。私たちの暮らしを楽しく便利にしてくれる様々な工業製品も、巷で話題のグローバル経済も、先人が創り上げた精密さの上に成り立っている。そんな感慨に浸れると共に、歴史の教科書ではあまり触れられない職人たちの人物像にも光を当てた、一風変わった歴史と工学の本だ。

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2023年10月29日 (日)

ローレンス・C・スミス「川と人類の文明史」草思社 藤崎百合訳

川から人間が得られる基本的な利益には5種類ある。アクセス、自然資本、テリトリー、健康な暮らし、力を及ぼす手段である。
  ――プロローグ

国際移住機関(IOM)は、「Missing Migrations Project(死亡もしくは行方不明の移民に関するプロジェクト)」という移民の死者数などの世界的データベースを作る政府間組織だが、このIOMによると、移民の死因でもっとも多いのが溺死である。
  ――第2章 国境の川

黄河は、毎年10憶トン以上の堆積物を海まで運ぶ、まさしく自然の脅威である。これは世界最大のアマゾン川が運ぶ土砂の量にほぼ匹敵する。年間流量は、アマゾン川のたった1%にも満たないというのに。
  ――第4章 破壊と復興

新しい発見が促されるのは、多くの場合、モデルと現実の観測値との間に食い違いがあるときだ。
  ――第8章 川とビッグデータ

現在、世界に何百万とある淡水湖のうち、水位をモニターされているのは1%にも満たない。
  ――第8章 川とビッグデータ

【どんな本?】

 古代の四大文明は、みな大河のほとりにある。今でも、ロンドンはテムズ川,パリはセーヌ川,カイロはナイル川,ニューヨークはハドソン川など、名だたる大都市は川と共に語られる。河川の恵みは人類社会の発展に欠かせない。

 と同時に、ハリケーン・カトリーナが示すように川は巨大な災害の原因にもなった。また、エチオピアがナイル川に築いた巨大ダムは、下流のスーダンとエジプトに大論争を巻き起こした。これはメコン川も同じで、ベトナムやカンボジアは中国と慎重な協議を重ねている。巨大技術を手に入れた人類は、河川との関係を変えつつある。

 都市の発展の基盤であり、それだけに争いの原因ともなった河川。人類は河川とどのように付き合い、お互いにどんな影響を及ぼし合ってきたのか。両者の関係は、環境をどう変えてきたのか。そして今世紀に入って、両者の関係はどう変わりつつあるのか。

 地球・環境・惑星科学教授である著者が、河川にまつわる近現代史を辿り、またダムや水質そしてウォーターフロントの開発など現代のトピックを取り上げ、河川と人類の歴史を手繰り現在を俯瞰し未来の展望を語る、一般向けのノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Rivers of Power : How a Natural Force Raised Kingdoms, Destroyed Civilizations, and Shapes Our World, by Laurence C. Smith, 2020。日本語版は2023年2月27日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約405頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント43字×18行×405頁=約313,470字、400字詰め原稿用紙で約784枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、ご想像の通り私たちに馴染みのない河川の名前が続々と出てくる。メコン川ぐらいは分かるが、トゥオルミ川とか知らないって。地図帳に出てないし。もいうことで、読みこなそうと思うなら GoogleMap などが欠かせない。いや私は読み飛ばしたけど。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ
  • 第1章 川と文明
    ナイル川の氾濫を予測/為政者たちの権力の源泉/「川の間の土地」に生まれた最古の都市/チグリス・ユーフラテスの方舟/サラスヴァティ―川の消滅/大禹の帰還/「水利社会」がもたらしたもの/知識、それはハビ神の乳房から始まった/「水の管理」を定めたハンムラビ法典/川の所有権をめぐる歴史/水車の力/新世界の発展と川の役割/ジョージ・ワシントンの着眼点/アメリカの運命を決めた土地取引
  • 第2章 国境の川
    移民の死因でもっとも多い「溺死」/青い境界線/川を国境にするメリット/国の大きさと形/「水戦争」の21世紀/マンデラはなぜ隣国を襲撃したのか/「ウォータータワー」がもたらす支配力/アメリカ司法長官ハーモンの過ち/越境河川を共同管理するためのルール/メコン川をめぐる緊張
  • 第3章 戦争の話
    イスラム国の支配流域/あの川を越えて/分断の大きな代償/「南軍のジブラルタル」攻防戦/中国の「屈辱の世紀」/金属の川/イギリス空軍のダム爆破計画/独ソ戦の趨勢を決めた川/闘牛士のマント/ベトナムでの「牛乳配達」/メコンデルタの戦略的価値
  • 第4章 破壊と復興
    ハリケーンの爪痕/大洪水の後に起こること/アメリカの政治地図を変えた洪水/抗日に利用された「中国の悲しみ」/黄河決壊から生まれた共産中国/アメリカ社会を変えた大洪水
  • 第5章 巨大プロジェクト
    「大エチオピア・ルネサンスダム(GERD)」計画の衝撃/大規模ダム建設の20世紀/橋が紡いできた歴史/人口の川/ロサンゼルスに水を引いたアイルランド人技師/水不足に苦しむ40億人/インドが挑む河川連結プロジェクト/大いなる取引
  • 第6章 豚骨スープ
    問題のある水/アメリカの環境保護、半世紀の曲折/中国の河長制/拡大するデッドゾーン/河川に流れ込むさまざまな医薬品/グリーンランドのリビエラ/ピーク・ウォーター
  • 第7章 新たな挑戦
    絶滅危惧種の回帰/ダム撤去のメリット/土砂への渇望/ダムの被害を軽減する方策/未来の水車/おおくなちゅうごくの小さな水力発電/繊細な味わいの雷魚の煮込み/最先端のサケ/侵入種対策としての養殖業/河川利用におけるイノベーションの萌芽/危険な大都市の新たな洪水対策/暗い砂漠のハイウェイと、その先にあるホテル・カリフォルニア
  • 第8章 川とビッグデータ
    河川データの爆発的増加/川の目的と存在理由/「たゆまぬ努力」と「炎と氷」の対決/地球の記録者たち/3Dメガネをかけよう/ビッグデータと世界の水系の出会い/モデルの力
  • 第9章 再発見される川
    地球上で最高の釣りの穴場/加速する人類の「自然離れ」/自然と脳の関係/都市部の河川に関するトレンド/激変するニューヨークの河川沿岸/川を起点とする世界的な都市再生/多数派となった都市居住者/川が人類にもたらしたもの
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献・インタビュー

【感想は?】

 書名には「文明史」とある。確かに歴史のエピソードも出てくるが、現代のトピックの方が印象に残る。

 とまれ、現代の世界はいきなりできたワケじゃない。歴史の積み重ねがあって、現代のような形になったのだ。それを象徴するのが、現在の都市と河川の関係だ。例えば…

今日のほとんどの大都市は、中心部を貫いて流れる川によって二分されている。
  ――第5章 巨大プロジェクト

 ロンドンにはテムズ川が、パリにはセーヌ川が、バグダッドにはティグリス川が流れている。歴史ある大都市は、たいてい河川のほとりで発展したのだ。自動車と自動車道が発達した現代ではピンとこないだろうが、かつては河川がヒトとモノの重要な幹線だったのだ。

ごく最近まで、人々が内陸部を移動し探索するための主な方法は、川を辿ることだった。
  ――第1章 川と文明

(南北戦争の)1861年当時、アメリカの幹線路は河川と鉄道であって、中でもミシシッピ川とその支流はスーパーハイウェイとして北米の内陸部を自国にも他国にもつないでいた。
  ――第3章 戦争の話

 この章ではアメリが合衆国の発展にミシシッピ川とその流域が果たした役割を描いているが、それはさておき。かような歴史を辿り、かつ現代の都市化傾向の結果として…

世界人口のほぼ2/3(63%)が、大河川から20km以内に住んでいる。また、世界の大都市(人口100万人以上1000万人未満)の約84%が大河川沿いにある。世界のメガシティ(人口1000万人以上)だと、その割合は93%にのぼる。
  ――第9章 再発見される川

 ある意味、歴史上かつてないほど、人類と河川の関係は深くなっている。これは為政者も解っているらしく、様々な形で政策あるいは戦略として表れてくる。物騒な話では、自称イスラム国だ。

ISISにとって、川という形のこれらの回廊を支配することは、明らかに当初からの重要な目的だった。地理的に見ると、地域でも特に人口が集中している地区と豊かな灌漑農地は、川の周辺に広がっている。
  ――第3章 戦争の話

 確かに、あの辺じゃ川の水は貴重だろうしなあ。

 など、既にある河川をそのまま使うだけでなく、人工的に水路を作り、または既存の水路の流れを変えることで、社会を発展させられるのは、歴史が証明している。

運河とは、輸送の価値観を大きく覆す技術的進歩であり、運河によってヨーロッパの工業化とアメリカの西部への拡大が推し勧められたのだ。
  ――第5章 巨大プロジェクト

 ここではインドの水路整備プロジェクトも稀有壮大で驚くが、中国がメコン川上流にダムを造る計画は少々キナ臭かったり。大河はたいてい複数の国を通るので、どうしても争いのタネになりがちなのだ。

 もっとも、そのダムも、最近は色々と様子が違う。中国が力を入れているのは巨大ダムばかりでなく、小さな発電所も沢山造っているらしい。

典型的な(マイクロ水力発電の)設備の場合、渓流からトンネルやパイプなどの導水路へと分水し、下方に設置した小さなタービンに水を流し込んで、家一軒から数軒で使うのに十分な量を発電する。
  ――第7章 新たな挑戦

 少し前に話題になった水質汚染の対策に、河を仕切る河長制の採用など、政府が強権を持つ共産制らしい思い切った政策だろう。ハマれば迅速で強いんだよね、一党独裁は。ハズれた時の悲劇も大きいけど。

 その悲劇の代表が、洪水。最近は日本でも温暖化の影響か、台風による洪水が増えてたり。

現在生存している人類の2/3近くが大きな川の近くに住んでいるので、洪水は慢性的な危機であり、気が滅入るほど頻繁に人命や資産が奪われている。
  ――第4章 破壊と復興

 ダムを造る目的は幾つかあるが、その一つは洪水を防ぐこと。ダムは川を流れる水の量を調整するだけでなく、川の性質も変えてゆく。

河川の水が動きのない貯水池に入ると、含まれていた土砂の大部分が沈殿して貯水池の底に溜まる。その結果、ダム下流に放出されるのは、土砂がきれいに取り除かれた水となる。川は自分の河道の堆積物を自分で食らう状態になり、河道は削られて、深く、広くなる。河道が浸食されて拡大すると、氾濫の時期でも水が堤防を越えないようになる。
  ――第7章 新たな挑戦

 と引用すると、ダムを賛美しているようだが、本書の文脈はいささか違う。確かに住宅地の氾濫は困るが、氾濫が必要な場所もあるのだ。その一つが湿原。多様な生物の生存環境である湿原が、ダムによって失われるのは嬉しくない。近年の環境への関心の高まりか、アメリカではこんな動きも出てきている。

2019年現在までに、アメリカだけでも1600基近くのダムが取り壊された。
  ――第7章 新たな挑戦

 古いダムはダム湖の底に土砂が溜まって、貯水池としての役割が果たせなくなった、みたいな経営上の事情もあるんだけど。その土砂がいきなり下流に流れたら大惨事になりそうなモンだが、そこは少しづつ流すとか別の水路に流すとか、幾つかの対策法があるらしい。日本は、どうなんだろうねえ。流れのきつい川が多いから、事情は違うのかも。

 いずれにせよ、ダムがなくなる事で下流の環境も変わり、川魚も戻ってくる。このあたりの描写は、川を生き物のように捉える著者の視点が温かい。

 そんな著者の、科学者としての本性は、終盤で露わになる。近年の人工衛星やロボット/ドローンを用いた観測で、世界中の淡水のデータが大量に集まりつつある状況を伝え、読者をグリーンランドなどへと連れてゆく。

 中でも私の印象に残ったのが、川の源流を探るうちに見えてきた、奇妙な一致だ。

場所や地形、気候、植生とは関係なく、水源から最初に現れる水流の幅が平均で32cm(±8cm)だったのだ。
  ――第8章 川とビッグデータ

 正直、本書の記述は途中の説明をスッ飛ばし過ぎでよく分からないんだが、これが地球温暖化の原因、つまり温暖化ガスの増加に深く関係しているらしい。

 全体を通し川というネタは一貫しているが、その調理法は章により色とりどり。歴史から社会・国際問題、軍略的な意味や戦場としての川、都市住民の憩いの場であるリバ―フロント、そして農業用水&漁場として巧みにメコン川を使うカンボジアなど、バラエティ豊かな川の表情を伝える、川のファンブックだ。

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2023年10月 8日 (日)

ニーアル・ファーガソン「スクエア・アンド・タワー 上・下」東洋経済新聞社 柴田裕之訳

本書は、これまでネットワークの役割を控えめに述べる傾向にあった歴史記述の主流派と、その役割を常習的に誇張する陰謀論者の間の、中道を行くことを目指す。
  ――第1章 イルミナティの謎

 本書の中心的テーマは、分散型のネットワークと階層制の秩序との間の緊張関係は人類そのものと同じぐらい古いということだ。
  ――あとがき

1851年から1864年にかけて清帝国を呑み込んだこの内戦(太平天国の乱、→Wikipedia)は19世紀最大の戦いであり、直接あるいは間接に、2000万~7000万人の命を奪い、中国の人口をおよそ1割減少させた。
  ――第30章 太平天国の乱

金融危機は、個人によって引き起こされはしない。集団によって引き起こされるのだ。
  ――第49章 ジョージ・ソロス対イングランド銀行

ネットワークを信頼して世の中を任せておけば無秩序を招くだけであるというのが歴史の教訓だ。
  ――第60章 広場と塔の再来

【どんな本?】

 組織には、大雑把に分けて二つの種類がある。一つは軍隊のように、隊長を頂点とした上意下達式の階層型。もう一つは、連盟や学界そして友達付き合いのように、ハッキリした階層のないネットワーク型、または結社。

 陰謀論では、イルミナティやディープステートなど、世界を陰から支配する秘密結社が取りざたされる。また、一時期のソフトウェア開発では、「伽藍とバザール」のように、ネットワーク型の組織(というか集団)での開発がもてはやされた。

 対して歴史家たちは、国王などを頂点とした階層型の組織を中心として研究・記述してきた。

 実際には、どちらが歴史を動かしてきたのか。そして、インターネットが発達した今後は、どちらが歴史の主役となるのか。

 スコットランド出身の歴史家・ジャーナリストが、階層型 vs ネットワークという新たな切り口で、近世以降の歴史と今後の見通しを語る、一般向けの風変わりな歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Square and Tower : Networks, Hierarchies and the Struggle for Global Power, by Niall Ferguson, 2017。日本語版は2019年12月19日発行。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約324頁+380頁=約704頁に加え、付録「ニクソン=フォード時代の社会的ネットワークのグラフ化」10頁+訳者あとがき6頁。9.5ポイント40字×17行×(324頁+380頁)=約478,720字、400字詰め原稿用紙で約1197枚。文庫なら少し厚い上下巻ぐらい。

 ジャーナリストの経歴もあるためか、比較的に文章はこなれている。ただ、内容は少し不親切。イギリス人やアメリカ人。それも1960年以前の生まれの人向けの本らしく、特に説明もなく人名がズラズラ出てきたりする。例えば「第39章 ケンブリッジのスパイたち」では、キム・フィルビー(→Wikipedia)ぐらいしか知らなかった。

 また、アチコチにレジリエンス(→Wikipedia)なんて言葉が出てくる。たぶん、「しぶとさ」みたいな意味だろう。一部に被害を受けた時、性能は落ちても機能は残る性質、とか。

【構成は?】

 お話はほぼ時系列で進むが、各章の結びつきは弱いので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 上巻 ネットワークが創り変えた世界
  • はしがき ネットワークにつながった歴史家
  • 第1部 序 ネットワークと階層性
  • 第1章 イルミナティの謎
  • 第2章 ネットワーク化された私たちの時代
  • 第3章 偏在するネットワーク
  • 第4章 国家や企業はなぜ階層性なのか?
  • 第5章 7つの橋から6次の隔たりまで
  • 第6章 弱い紐帯と急速に広まるアイデア
  • 第7章 さまざまなネットワーク
  • 第8章 異なるネットワークが出合うとき
  • 第9章 ネットワーク理論の7つの見識
  • 第10章 解明されたイルミナティ
  • 第2部 大航海時代の皇帝と探検家
  • 第11章 古代と中世の階層性
  • 第12章 ネットワーク化された最初の時代
  • 第13章 ルネサンス期の取引の技法
  • 第14章 新たな交易ルートの発見者たち
  • 第15章 ピサロとインカ皇帝
  • 第16章 印刷術と宗教改革
  • 第3部 科学革命と啓蒙運動
  • 第17章 宗教改革の経済的結果
  • 第18章 アイデアを交換する
  • 第19章 啓蒙運動のネットワーク
  • 第20章 アメリカ独立革命のネットワーク
  • 第4部 王家による階層性の復興
  • 第21章 フランス王政復古の失敗
  • 第22章 フランス革命からナポレオンによる専制政治へ
  • 第23章 列強による秩序の回復
  • 第24章 ザクセン=コーブルク=ゴータ家
  • 第25章 ロスチャイルド家
  • 第26章 産業革命のネットワーク
  • 第27章 5大国体制からイギリスの覇権主義へ
  • 第5部 大英帝国の秘密結社
  • 第28章 「ラウンド・テーブル」あるいはミルナーの「幼稚園」
  • 第29章 間接支配と中央集権
  • 第30章 太平天国の乱
  • 第31章 アメリカにおける中国人排斥運動
  • 第32章 南アフリカ連邦という大英帝国の幻想
  • 第33章 ケンブリッジ「使徒会」のネットワーク
  • 第34章 第1次世界大戦の勃発
  •  原注/参考文献/図版出典/口絵出典
  • 下巻 権力と革命 500年の興亡史
  • 第6部 革命と独裁者
  • 第35章 三国協商に対するジハード
  • 第36章 ボリシェヴィキ革命と強制労働収容所
  • 第37章 ヒトラーの躍進
  • 第38章 ナチスと反ユダヤ主義
  • 第39章 ケンブリッジのスパイたち
  • 第40章 スターリンの全体主義国家
  • 第41章 マフィアのネットワーク
  • 第7部 冷戦とゲリラ戦
  • 第42章 冷戦下の「長い平和」
  • 第43章 ネットワーク化された戦闘
  • 第44章 複雑化する消費社会
  • 第45章 ヘンリー・キッシンジャーの権力ネットワーク
  • 第46章 インターネットの誕生
  • 第47章 ソヴィエト帝国の崩壊
  • 第48章 ダヴォス会議のネルソン・マンデラ
  • 第49章 ジョージ・ソロス対イングランド銀行
  • 第8部 21世紀のネットワーク
  • 第50章 アメリカ同時多発テロ
  • 第51章 リーマン・ショック
  • 第52章 肥大した行政国家
  • 第53章 Web2.0とフェイスブック
  • 第54章 グローバル化と不平等
  • 第55章 革命をツイートする
  • 第56章 ドナルド・トランプの選挙戦
  • 第9部 結論 サイバースペースの攻防戦
  • 第57章 階層制対ネットワーク
  • 第58章 ネットワークの機能停止
  • 第59章 FANGとBATとEU
  • 第60章 広場と塔の再来
  •  あとがき 広場と塔の起源 14世紀シエナにおけるネットワークと階層制
  •  付録 ニクソン=フォード時代の社会的ネットワークのグラフ化
  •  訳者あとがき
  •  原注/参考文献/図版出典/口絵出典/索引

【感想は?】

 たぶん、図書分類としては、歴史になるんだろう。だが、語っているのは、歴史の流れじゃない。

 本書の主題は、権力・影響力や組織の形と、その性質だ。組織の形を二つの極、塔=階層型と広場=ネットワーク型として、それぞれの得手・不得手を、史実を例に挙げて語る、そんな感じの本だ。

 そのためか、ハードカバーの上下巻なんて迫力ある見かけのわりに、意外と親しみやすい。塔vs広場の視点で歴史トピックを語るエッセイ集みたいな雰囲気も漂う。その分、著者の主張はアチコチにとっちらかって見えにくくなっている感もある。

 著者の主張の一つは、イルミナティやDSなど陰謀論への反論だろう。そもそも計画的に事を運ぶのには向かないのだ、ネットワーク型の組織は。

歴史を振り返ると、イノベーションはこれまで、階層制よりもネットワークから多く生じる傾向にあった。(略)
ネットワークは自然と創造的になりうるが、戦略的ではない。第二次世界大戦は、ネットワークによっては勝てなかったはずだ。
  ――第8章 異なるネットワークが出合うとき

 第二次世界大戦というより軍隊は、たいてい階層型だ。そして総力戦など軍事優先の社会も、階層型の統制社会/経済でないと巧くいかない。スペイン内戦じゃ国際旅団の一部が合議制で作戦を決めたらしいが、今じゃ嘲笑の的だ。でも戦争が終わり復興が進むと、チャーチルやドゴールなど戦争指導者たちは退場を余儀なくされる。

計画策定者にとっての問題は、総力戦という活動には非常に適していた階層構造の制度が、消費社会にはまったく不向きだという点にあった。
  ――第44章 複雑化する消費社会

 この辺、日本はどうなんだろうね。護送船団方式の半ば計画経済で戦後の復興を乗り切り、オイルショックまではいい感じだったけど、その頃に出来上がった政府主導の政治/経済構造と感覚を今でも引きずってる気がする。

 それはともかく、逆にネットワークがイノベーションには向くのは、技術史や産業史を調べるとよくわかる。先に読んだ「織物」の終盤は、イランから日本までの織機の技術の伝達を追ってたし。

 蒸気機関についても、こう主張している。

ジェイムズ・ワットは、グラスゴー大学のジョゼフ・ブラック教授や、バーミンガムのルナー・ソサエティの会員たちも含むネットワークに所属していなければ、蒸気機関の改良は達成できなかっただろう。
  ――第26章 産業革命のネットワーク

 だが、教科書や歴史書は、階層型の組織に多くの頁を割く。仕方がねーのだ、だって階層型組織は多くの文書を残すけど、ネットワーク型はあまし残さないし、残ってもアチコチにとっちらかってる。その結果、奇妙な状況になる。

歴史の大半では、成功は誇張される。勝者が敗者よりも多くの記録を残すからだ。ところが、ネットワークの歴史では、その逆があてはまることが多い。成功しているネットワークは世間の注意を巧みに逸らし、失敗しているネットワークは注意を集める。
  ――第32章 南アフリカ連邦という大英帝国の幻想

 ネットワークの成功例として本書が挙げているのが、ロシアの革命だ。著者曰く、主なスポンサーの一つはドイツだ、と。第一次世界大戦で行き詰っていたドイツにとって、ロシアがコケるのは実に嬉しい話だし。

ボリシェヴィキ革命はある程度までは、ドイツが出資した作戦だった。
  ――第36章 ボリシェヴィキ革命と強制労働収容所

 と、時としてネットワークは階層型の社会を壊す。だもんで、階層型のボスはネットワークを厭う。主な対抗策としては…

全体主義の成功の秘密は、(ナチス)党と国家の階層制の組織の外にある、ほぼすべての社会的ネットワーク、それもとりわけ、自立的な政治活動を取りたいと願うネットワークを、非合法化したり、麻痺させたり、公然と抹殺したりすることだった。
  ――第38章 ナチスと反ユダヤ主義

 ロシア革命を後押ししたドイツが、後に対抗策を徹底するのも皮肉な話。身近な所で「三校禁」なんてのを思い出すのは年寄りだけかな。

 もっとも、ネットワークを恐れたのはスターリンも同じ。そこでスターリンが取ったのは、情報の統制だ。

スターリンの権力は、3つの別個の要素から成り立っていた。
すなわち、党官僚制の完全な統制、
クレムリンの電話ネットワークを中心的ハブとするコミュニケ―ション手段の完全な統制、
自らも恐れの中で生きている人員から成る秘密警察の完全な統制だ。
  ――第36章 ボリシェヴィキ革命と強制労働収容所

 この辺だと、ナチス・ドイツの暴走の原因が、「暴走する日本軍兵士」が描く帝国陸軍の暴走の原因と似ているのが気になる。

(多頭制の)混沌のせいで、ライバル関係にある個人や機関が、それぞれ総統の要望と解釈したことを実行しようと競い合い、多義的な命令と重複する権限が「累積的な過激化」を招いた。
  ――第37章 ヒトラーの躍進

 帝国陸軍は、政府の意図の外で桜会などの壮士ネットワークが暴走を煽ったんだが、ヒトラーは意図してやったんだろうか。

 そんな風に、権力者はネット―ワークを恐れるものだ。中でも誇張されがちなのが、外国人だろう。よく右派は外国人の集団を槍玉にあげる。著者はアメリカの例を挙げてるけど、日本でも似たような言説がネットを賑わせてるなあ。

移民反対者は、新来者の貧しさをけなすと同時に、彼らの指導者と思われている人々の力を誇張した。
  ――第31章 アメリカにおける中国人排斥運動

 これ民間人がデマを振りまくのも困るが、政治家が票を集めるため流れに乗っかるからタチが悪い。

18世紀米国の政治家アレクサンダー・ハミルトン(→Wikipedia)
「彼らは扇動政治家として出発し、ついには専制的支配者となるのだ」
  ――第20章 アメリカ独立革命のネットワーク

 ヒトラーはモロにコレだね。ドナルド・トランプも似た傾向がある。こういう民主主義のバグを、18世紀に見つけてたってのも驚きだ。いまだにデバッグできてないのも悲しい。巧いパッチはないものか。なお、本書は直接トランプを罵っていないが、明らかに扱いは悪い。例えば…

トランプに投票した郡は、アメリカ全土の面積の85%を占めている。(略)EU離脱キャンペーンに勝利をもたらしたのは、大都市ではなくイングランドとウェールズの「州」に主に居住する、中高年の有権者だった。
  ――第56章 ドナルド・トランプの選挙戦

 と、ブレグジット同様、それは問題であるかのように扱っている。というか、そういう場所の票を丹念に拾っていったんだな、トランプは。そのトランプが活用したのがフェイスブック。世界中の人々を繋げるかのように宣伝しちゃいるが…

フェイスブックのネットワークは地理に基づくクラスター化を示している。
  ――第53章 Web2.0とフェイスブック

 意外とインターネット上の繋がりは、直接に顔を合わせての繋がりを反映してたりする。実際、ブログでも Twitter でも、顔も名前も知らない人に話しかけるのは、ちょっと構えちゃうし。

 そんなワケで、一時期の「インターネットでユートピアが来る」って幻想は、見事に打ち砕かれた。

世界中の人をインターネットに接続させれば、サイバースペースでは誰もが平等となるネット市民のユートピアを創り出せるという考えは、常に幻想だった。
  ――第58章 ネットワークの機能停

 うん、ブログでも人気ブログと零細ブログの格差は大きいし。二度ほど試算したんだが、ブログの人気の分布は収入の分布と似て、スケールフリー的な性質があるようだ(→記事1記事2)。

 そんなインターネットを巧みに使ったのが、イスラム原理主義のテロリストたち。アルカイダが有名だが…

はるかに大きなジハーディストのネットワークが存在し、その中でアルカイダはとてもつながりが弱い構成要素だった。
  ――第50章 アメリカ同時多発テロ

 実際、ビン・ラディンを殺しても、パキスタン・アフガニスタン・イラク・シリアじゃ暴力の応酬は収まってない。ただ、最近は欧米でのテロのニュースがないけど、これはテロがなくなったのかメディアが興味を失ったのか、どっちなんだろ? 今はウクライナ情勢ばかりを取り上げるけど。

 それはともかく、どんな奴がテロリストになるのかは、「テロリストの誕生」にあるのと一致する。

ジハードは常に(略)軽犯罪者を狂信者に変える、暴力は伴わないものの心を蝕む過激化の過程から始まる。
  ――第55章 革命をツイートする

 真面目な青少年じゃない。素行の悪いチンピラがムショで勧誘されるのだ。とはいえ、彼らの育成・生活環境である、欧米に住むイスラム教徒たちの世界観も結構アレで…

(2016年に)イギリスのイスラム教徒を対象とした意識調査の結果は、(略)9.11テロを「ユダヤ人」のせいだと非難する人(7%)が、アルカイダの仕業だという人(4%)より多かった。
  ――第55章 革命をツイートする

 このユダヤ人憎悪ってのは、なんなんだろうね。かくいう私はユダヤ人の定義すらわかってないんだが。日本人の朝鮮人/韓国人憎悪みたいなもん?

 とかの社会学的な視点に加え、数学的な視点を加えているのも本書の特徴だろう。いきなり初めの方で、こんな事を言って読者にヒザカックンかましてたり。

階層性はネットワークの対極には程遠く、特別な種類のネットワークにすぎない
  ――第7章 さまざまなネットワーク

 うん、確かにネットワーク理論(→Wikipedia)じゃそうなるけどさあw

 とはいえ、あまし数学の突っ込んだ話はなくて、こんなネタとかは親しみやすい。

コンピュータ科学者メルヴィン・コンウェイ(→Wikipedia)
「システムを設計する組織は、必然的にその組織のコミュニケーション構造によく似た設計しか生みだせない」
  ――第46章 インターネットの誕生

 また、IT系の技術者は、こんな言葉に思わずうなずくと思う。

「システムは迅速か、開放的か、安全になりうるが、これら3つのうちの2つだけしか同時に成り立たない」
  ――第58章 ネットワークの機能停

 これはITシステムに限らず、人間同士の集団/組織でも成り立ちそうだ。迅速かつ開放的なら、スパイや扇動者が潜り込みやすい。少人数の閉鎖的な組織は迅速に動けて秘密を保てるが、誰にでも開かれてはいない。判断を慎重に下すなら開放性と安全性を確保できるだろうけど、臨機応変な対応は無理だ。

 と、そんな風に、組織や集団の性質を、塔=階層型 vs 広場=ネットワーク型という2極の座標系で見て、それぞれの性質や向き不向きを考え、数学のネットワーク理論も活用し、また歴史上の様々な組織/集団を当てはめて検証した本だ。数学を史学や社会学に応用する手法も感心したし、大作で圧迫感がある割には意外と読みやすかった。

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2023年9月29日 (金)

植村和代「ものと人間の文化史169 織物」法政大学出版局

織物技術は、今から一万年以上前に発明された人類初の機械生産技術であった。
  ――はじめに

10~5万年前、ホモサピエンスの出現によって、人類は石器において石刃を開発するとともに、編みや組みの技術を生み出した。籠や袋や網などが作られるようになったのである。
  ――第1章 人間特有の織物文化

人類初の機械化を成し遂げた織物文化の核心は、逆転の発想による、綜絖(そうこう)という一括操作の仕掛けである。
  ――第1章 人間特有の織物文化

この書では、(織機の)三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を「錘機」、地面を利用して張る織機を「地機」、人体の腰で張る織機を「腰機」と表記する…
  ――第2章 古代の織物と織機

腰機は生産性を求めない。
  ――第2章 古代の織物と織機

織物技術の衰退は、概して、まず染色が安易になり、糸を作らなくなり、織る時の手間をいやがる、という順序で起こるように私は思う。
  ――第4章 花織の源流

弥生時代から古墳時代初期までの日本の織物は、絹を含めてすべて平織であった
  ――第5章 大和機の系譜

【どんな本?】

 今ではふんだんに手に入る布/織物だが、かつては手作りだった。とはいえ、それなりに機械化・効率化はしていた。織機である。

 人力ではあるが、織機の機構は複雑かつ精巧で、また地域・文化ごとのバラエティにも富む。もちろん、それを使う織り手の技術や、出来上がる織物も。

 著者は古文書を漁り、日本各地はもちろんタイ・カンボジア・イランなどアジア各地にも出かけ現地の織機を取材し、また古墳から出土した布を再現するために自ら糸を紡ぎ機を織り、果ては多くの人の協力を得て織機まで創り上げ、その使い勝手や織り方のコツを探り、それぞれの織物と織機そして織り手の技術へと迫ってゆく。

 主に東南アジアから日本を舞台とし、力織機より前の織機および織物の技術と歴史、そしてその伝播を探る、専門家向けの文化史。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2014年12月15日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約333頁。9ポイント47字×19行×333頁=約297,369字、400字詰め原稿用紙で約744枚。文庫なら厚い一冊分ぐらい。

 文章はそこそこ読みやすい。ただし内容はかなり高度で、繊維や衣料そして織物に詳しい人向けだ。自ら機を織る人向けと言っていい。また縞や絣など専門用語の説明が後から出てきたりする。たぶん、元は六つの論文で、それをまとめ加筆訂正して一冊の本に仕上げたんだろう。

【構成は?】

 古代から近世まで、時代ごとに進む。ただし各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • まえがき
  • 第1章 人間特有の織物文化
  • 1 人間と衣文化
    人間独自の文化/最初の衣料 毛皮/衣文化の象徴 紐衣
  • 2 編みと組み 織物はその簡易版
    編組の技術/繊維の発見
  • 3 組みから織りへ
    スプラングと織物/織物とは/方形の平面
  • 4 機械文明の曙
    機械文明と現代日本/織物の美は品格の美
  • 第2章 古代の織物と織機
  • 1 古代の織物
    織物の発明/聖なる布/緯糸と経糸の張り方
  • 2 地機と錘機
    三種類の基本形と地機/錘機の歴史/錘機と自在性
  • 3 腰機 東アジア
    腰機の背景/腰機の歴史/腰機と精神性/西と東の織物文化
  • 第3章 幻の織物 倭文
  • 1 縄文の布
    アイヌの花ゴザ/アンギン編みと錘機/俵・薦作りの技術
  • 2 弥生時代の絹織物
    東アジア海域世界/弥生時代の絹織物
  • 3 古墳時代初期の縞織物
    下池山古墳出土絹織物/下池山古墳出土裂と古墳時代の絹織物/再現の問題点 六機か腰機か/再現の問題点 絹と麻の併用
  • 4 倭文と卑弥呼の「斑布」
    文献に見る倭文/(平安時代まで)/(中世以降)/倭文部について/古代の絹織物/「斑布」をめぐって
  • 第4章 花織の源流
  • 1 沖縄の花織
    花の意味/沖縄の花織/東南アジアの紋機と腰機
  • 2 花織の技法
    インドネシアとブータンの技法/花織の基本技法
  • 3 タイ族、ラオ族の紋機
    雲南タイ族の紋機 退化形を考える/タイラオを訪れる/タイラオの織物文化/タイラオの機械
  • 4 ラオ族から沖縄へ
    タイラオの紋仕掛け/沖縄花織との類似/アユタヤ貿易と花織の伝来
  • 第5章 大和機の系譜
  • 1 近世上方の平織物
    麻と木綿/奈良晒/河内木綿/大和絣/木綿の普及と商品織物
  • 2 大和機の特性
    大和機導入の謎/製織性の実験/風合いとは何か
  • 3 傾斜織機の系譜
    傾斜織機の構造と機能/腰織の変遷/径糸傾斜の普遍性
  • 第6章 近世日本の織機
  • 1 『機織彙編』の織機
    『天工開物』と『機織彙編』/花機と木綿機/二つの絹機
  • 2 ペルシアの織機と大和機
    大和機/イランのチャドルシャブ織機/東南アジア大交易時代と大和機の成立
  • 3 カンボジアの織機と絹機
    カンボジアの織機/米沢の長機と関東の厩機/東日本の絹機/混合する形式
  • あとがき

【感想は?】

 技術史だ。歴史の一分野である。だが、著者の姿勢は、私たちが考える歴史家とは全く異なる。

 もちろん、文献は漁るし、その視野も広い。例えば「第5章 大和機の系譜」と「第6章 近世日本の織機」では、奈良晒とその製造機械である大和機を巡り、各地の古文書を漁っている。

 が、それ以上に、自ら糸を依り機を織る、ばかりでなく織機まで創り上げ、当時の工程を再現するのには驚いた。意外と肉体派・実践派なのだ。

 この姿勢のクライマックは、4世紀前半ごろとされる下池山古墳(→Wikipedia)から出土した縞織物を再現しようとする「第3章 幻の織物 倭文(しず、→コトバンク)」だろう。

 この織物、密度が凄い。1cmに経糸65本×緯糸17本/50本×22本/48本×29本/56本×17本/53本×17本とか、とんでもねえ緻密さである。飛び杼もない古墳時代に、そこまで緻密な布を織るには、どんだけ手間をかけたんだか。

 そもそも、絹ってのが凄いよね。桑を育て蚕に食べさせ蛹を茹でて糸を巻き取りと、糸にするまでの手間だけでも頭が言いたくなる。古墳みたくデカいモノは、それだけの労力を使役する権力の強さがひと目でわかるけど、布みたく細やかなモノにも、見る人が見れば、そこにも権力の強さが現れるのだ。

 また、同じ絹でも、中国と日本の違いも興味深い。中国の絹は依らないが、日本では依るとか。

 加えてこの織物、「経糸に絹と麻を同時に使っている」。素人の私は「だから何?」としか思わなかったのだが、著者が自ら織ると、大きな問題が浮き上がってくるのである。「緯打ちをするたびに麻糸はパラパラと切れた」。絹と麻の性質の違いが、トラブルを引き起こすらしい。

下池山古墳出土縞織物の最大の謎は、経糸に絹と麻を同時に使っている点である。絹と麻はそれぞれ繊維の特徴が違い、絹は柔軟で切れることも少ないので、適切に扱えばそれほど難しいものではない。むしろ一見素朴に見える麻の方が硬く、伸びにくく、切れやすく、扱いは難しい。
  ――第3章 幻の織物 倭文

 これに対し、著者は麻を水で濡らしたりと様々な対策を講じるが、結局あまりうまい手は見つからなかったとか。こういう、実際に作ってみたら問題が見つかりました、なんてあたりは、身につまされるエンジニアも多いんじゃなかろか。現実というのは、ヒトの想像を超えて複雑なのだ。

 ただ、ここで重要な概念となる「縞」の説明が、ずっと後の第5章に出てくるのは、ちと不親切。たぶん、原因はこの本の成立過程だろう。元は複数の論文だったのをまとめて加筆訂正し、一冊にしたため、こうなったんだと思う。

縞(嶋)というのは、予め色違いの糸を用意しておいて、整経の時にあるいは織る時に、色を変えて直線模様を表す織物の技法(略)またこの技法で織った織物を指す(略)
絣というのは、糸を括って染め、括った部分が染まらないことを利用して、色違いで文様を表す織物の技法(略)またこの技法で織った織物のこともいう。
  ――第5章 大和機の系譜

 この第4章と第5章では、ラオスやカンボジアそしてイランを巡り、各地の織機や織物を調べる過程で、ユーラシア東部と海をめぐる壮大な仮説が浮き上がってくるのも面白い。その証拠が、個々の織機の構造や仕組みといった、実に細かい話なのも、ミステリっぽい味がある。

イランの織機を慶長の頃(1600年頃)奈良晒生産に導入し、日本近世の高機として確立したのが、大和機である可能性は高い。
  ――第6章 近世日本の織機

 かなり専門的な本でもあり、素人の私は正直言って1割程度しか理解できてないと思う。それでも、実際に自らの手で過去の技術を再現しようとする著者たちの熱意は、否応なく伝わってきた。意外と汗臭い学問の現場の匂いが漂う、泥臭い本だ。こういう本が気軽に読める、現代という時代の有難みをつくづく感じる。

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