カテゴリー「書評:歴史/地理」の250件の記事

2019年1月20日 (日)

ジェラード・ラッセル「失われた宗教を生きる人々 中東の秘教を求めて」亜紀書房 臼井美子訳

「マンダ教は世界最古の宗教です」とシャイフ・サッタールは言った。「その起源はアダムの時代にさかのぼります」
  ――第一章 マンダ教徒

「お願いです。イラクに残っているマンダ教徒は二、三百人です。みな、ここから出たがっています。あなたの国に亡命させてください」
  ――第一章 マンダ教徒

「おしまいです。私たちは誇りを失い、家畜を失い、女性を失いました。イラクにはもう、私たちの未来はありません」
  ――第二章 ヤズィード教徒

『アヴェスター』は、犬を殺したものに18項目に及ぶ苦行を求めている。その苦行の一つは一万匹の猫を殺すというものだ。
  ――第三章 ゾロアスター教徒

「伝統を守る人間というのは、みな、珍しい存在なんです」
  ――第五章 サマリア人

アラム語を放す人は、今はバグダードよりもデトロイト大都市圏のほうが多く、この都市と周辺地域には、十万人を超えるイラク人のカルデア教会の信徒が住んでいる。
  ――エピローグ デトロイト

「人間を形成するのは物語です」
  ――エピローグ デトロイト

「私たちは溶けて、消えつつある」」「責めを負うべきはわれわれだ。われらを一つにまとめるものを見つけられなかったのだから」
  ――エピローグ デトロイト

【どんな本?】

 エジプト、レバノン、シリア、イラク、イラン、そしてパキスタン。いずれも住んでいるのはイスラム教徒ばかりのように思われている。だが、最近のニュースではシリアでヤズィード教徒の虐殺が話題になったように、実際はさまざまな宗教を信じる人々が住んでいる。

 イラク南部の湿地帯に住んでいたマンダ教徒、拝火教とも呼ばれるゾロアスター教徒、聖書にも出てくるサマリア人、一時期はエジプトで隆盛を誇ったコプト教徒。いずれも今はマイノリティとなった。

 イギリスの外交官だった著者は、彼らの社会や暮らしを知るため、各地を訪れる。簡単に出会える場合もあれば、ロクな道もない山奥へと出向く時もある。

 あまり知られていない彼らは、どんな所で、どのように暮らしているのか。周囲の人々との関係は、どんなものか。どのような教義を抱き、どうやってそれを維持しているのか。戦争や内戦や革命は、彼らの地位や社会にどんな影響を与えたのか。そして、今後の展望はどんなものか。

 私たちの思い込みとは異なった中東の姿を描く、現代のスケッチ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Heirs to Forgotten Kingdoms : Journeys into the Dissappearing Religions of the Middle East, by Gerard Russell, 2014。日本語版は2017年1月9日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約450頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×18行×450頁=約364,500字、400字詰め原稿用紙で約912枚。文庫本なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容もわかりやすい。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などのアブラハムの宗教に関係する話が多いが、特に知らなくても大きな問題はないだろう。敢えて言えば、旧約聖書に詳しいとより楽しめる。

 ただ、一部の固有名詞を独特に表記しているので、ちと戸惑う。例えばヒズブ・アッラーはヒズボラだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。それぞれの章の冒頭には青木健による2頁ほどの解説があり、短いながらもよくまとまっている。

  • 地図/年表
  • 序文
  • 第一章 マンダ教徒
  • 第二章 ヤズィード教徒
  • 第三章 ゾロアスター教徒
  • 第四章 ドゥルーズ派
  • 第五章 サマリア人
  • 第六章 コプト教徒
  • 第七章 カラーシャ族
  • エピローグ デトロイト
  • 出典および参考文献
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 日本だって様々な宗教がある。が、大半は新興宗教だ。

 対してこの本に出てくる宗教は、それぞれに長い歴史を持つものばかり。そこが日本とは大きく違う。もう一つ、大きく違う点がある。それは、教徒どうしの結びつきが強い点だ。

 イラク南部の湿地帯に住んでいたマンダ教徒や、パキスタンとアフガニスタンの国境近くのヒンドゥークシュ山脈に住むカラーシャ族が代表的な例で、一つの町や村にまとまって住んでいる。いずれも交通の便が悪く、権力の影響が及びにくい場所だ。

 日本なら「平家の隠れ里」なんて伝説がありそうな、大軍を動かすのに向かない地形ですね。

 かと思えば、コプト教徒のように都市の人々に紛れて暮らす人もいる。もっとも、コプト教徒は人数も多く、400万人~1200万人だ。それでも人口約1憶のエジプトでは少数派。そのためか教会を通した信徒同士の結びつきは強く、「信者たちは教会の前庭で何時間もおしゃべりをした」。

 やっぱり宗教ってのは、人と人を結びつける力があるのだ。「私たちは少数派同士」って想いが、彼らの絆を強めるんだろう。これに集団の危機感が加わると、更に絆は強くなる。

「他人に身を脅かされていると感じると、強いアイデンティティを持つようになります」
  ――第六章 コプト教徒 

 この章ではエジプトの政権の変転に伴うコプト教徒の地位の変動も詳しく書いてある。国民をまとめるにあたり、何を中心に据えるか。エジプトという国家か、アラブか、またはイスラムか。ファラオの評価も政権や人によりまちまちで、称える人もいれば憎む人もいる。

 今はムスリム同胞団が猛威を振るっているが、逆にムスリムが人間の鎖を作りキリスト教会を守った、なんて話もある。また悪魔払いの神父がムスリムに人気があるとか、エジプト人の意外な素顔が見られるのも、この章の楽しい所。

 ちょっと神道と似てるかな、と思ったのが、「第四章 ドゥルーズ派」。あなた、神道の教義を知ってますか? 私は知りません。これはドゥルーズ派も似てて、「伝統はありますが規則はありません」。単に知られていないってだけじゃなく、ドゥルーズ派は極端な秘密主義なのだ。

ドゥルーズ派の一般信者は、コミュニティの防衛と維持に努め、信者同士で結婚するという条件のもと、基本的には自由な人生を送る。だが、自分の宗教の教義を知る権利はない。
  ――第四章 ドゥルーズ派

 この秘密主義のルーツが、古代ギリシャのピタゴラス教団にまで遡るというから、ヲタク心が騒ぐ。輪廻転生もあるんだが、仏教とはだいぶ違う。「ムハンマドはキリストの再来」なんて理屈で、キリスト教・イスラム教の両方に折り合いをつけてるのも巧いw その理屈ならどんな宗教もOKじゃないかw

 やはり神道に似てると思うのが、「第七章 カラーシャ族」。

「彼らの慣習にとまどった外部の人間が説明を求めても、その答えはいつも同じだった。『それが習わしだからだ』と言うのである」
  ――第七章 カラーシャ族

 形はあっても理屈はないのだ。案外と、信仰の原点って、こういうモンじゃないかと思う。拝みたいから拝むのだ。理屈じゃない。本能みたいなもんである。穢れの発想や山岳信仰っぽいのもあって、ちょっと親しみを感じてしまう。ここでは、住みついちゃった日本人女性も出てくる。

 逆に異国情緒たっぷりなのが「第三章 ゾロアスター教徒」。中身はともかく、言葉がヲタク心をくすぐりまくり。「アフラ・マズダー」「アンラ・マンユ」「アヴェスター」「サオシュヤント」とか、意味が分かんなくても、音の感じで妙にワクワクする。この章では、イランの意外な素顔が見れるのも楽しい。

 元外交官が書いた宗教の本だけに、教義や儀式だけでなく、国の中での立場や生活様式、そしてコミュニティの存続にまで目を配っているのが特徴だろう。加えて、イギリスのツーリストの伝統か、敢えて空路を避け厳しい陸路を選んだりと、旅行記としての面白さもある。一見、お堅く見える本だし、そういう部分も充分にあるが、同時に秘境好きの旅行記としても楽しめる、ちょっとおトクな本だった。

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2019年1月10日 (木)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 3

生活はよくなったよ。
しかし、数千倍もよくなった連中がいるんだ。
  ――街の喧騒と台所の会話から(2002-2012)

モスクワでテロ事件が起きたのは、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2010年、2011年である。
  ――あいつらを皆殺しにしてやりたい、そう望んだあとの恐怖

「ほんものの愛国者が望んでいるのは、ロシアが占領されることだけだ。ロシアをだれかが占領してくれることだ」
  ――大鎌を持った老婆とうつくしい娘

「女の部分をそっくり切り取ってください。手術してください。女でいたくないんです! 愛人でいるのもいや! 妻でいるのも、母親でいるのもいや!」
  ――クソのような人生と白い小さな壺のなかの百グラムの軽い砂

「ママだって知っているでしょ。わたしたちの国ではいつも、表向きは志願だけど実際には強制なんだから」
  ――死者たちの無関心と塵の沈黙

「あの人の目がすごく冷たく、すごくうつろになった。いつかわたしは殺されるわ。わかるの、あの人がどんな目をしてわたしを殺すか」
  ――狡猾な闇と「そこから作りうる別の人生」

町に繰りだしていたのは若者たちで、これは「お子さま革命」だった。
  ――勇気とそのあとのこと

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 2 から続く。

【どんな本?】

 ウクライナに生まれベラルーシで育ち、2015年度にはジャーナリストとしては初のノーベル文学賞に輝いたノンフクション作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが、旧ソ連に住む人々から、今までの暮らしと今の想いを聞き取り、その肉声を集めたインタビュウ集。

 1989年の東欧崩壊に続き、1991年にはソ連が崩壊する。これによりバルト三国をはじめ多くの国がソ連から独立し、旧ソ連国内に居た人々の暮らしは一変した。時流に乗り大金を稼いだ者もいれば、つつましく年金で暮らす者もいる。

 この記事では、「第二部 空の魅力」を中心に紹介する。

【内戦】

 東欧崩壊後、ユーゴスラヴィアは内戦になった。ではロシア崩壊後は?

 やはり、幾つもの地域で殺し合いが起きたのだ。私はほとんど知らなかったけど。この本には、有名なチェチェンのほか、ジョージアのアブハジア(→Wikipedia)・アルメニア・アゼルバイジャンなどが出てくる。

 その典型が「ロミオとジュリエット……ただし彼らの名前はアブリファーズとマルガリータ」だ。

 語り手はマルガリータ・K、アゼルバイジャンのバクーに住んでいたアルメニア人。アゼルバイジャンはムスリムが多い。アルメニア人はキリスト教の正教。これはムスリムのロミオとクリスチャンのジュリエットの物語となる。

 ロシア崩壊前のバクーは国際都市で、ムスリム・アルメニア人に加え、ロシア人・ウクライナ人・タタール人などが混じって住んでいた。語り手もアブリファーズと結婚する。そこにロシア崩壊だ。少し離れた町に住む同僚から、語り手に連絡がくる。

「母は中庭に引きずりだされ全裸にされて、たき火のなかへ! 身重の姉はたき火のまわりでむりやり踊らされた……殺されたあと、鉄の棒であかちゃんがおなかからかきだされた」「父はめった切りにされた……オノで。親戚は靴を見てやっと父だとわかった」

 アルメニア人の虐殺が始まったのだ。アゼルバイジャン人の友人が語り手を匿う。屋根裏で暮らす場面は、まるきしアンネ・フランクだ。

 先の引用だとアゼルバイジャン人が悪役のようだが、事態は単純じゃない。語り手はホジャリに住む友人から話を聞く。互いの役割を交代しただけで、事態は似たように進む(→Wikipedia)。ロシア軍の介入で落ち着くが…

【新兵】

 「大鎌を持った老婆とうつくしい娘」は、新兵としてチェチェンに派遣された男。実に典型的な新兵イビリの様子を語ってくれる。「きつい長靴はない、なちがっているのは足の方だ」なんてのは可愛い方で、食料のピンハネやら強姦やら。

【遺族】

 「死者たちの無関心と塵の沈黙」の語り手は、チェチェンで亡くなった娘の母。

 娘は警察伍長。警官も戦地に行くんだなあ。当局の報告では自殺となっている。遺体はびしょ濡れの棺に入ってきた。「開けないでください。なかはゼリー状だ」と言い張り、面会させようとしない。スキを見て棺を開けると、きれいな顔のままで、頭の左側に小さな穴。

 他にも奇妙な点が多い。本来の年齢は28歳だが、書類は21歳。書類は「右側頭部に発砲」だが、穴は左側。娘の同僚たちは云う。「これは自殺じゃない、2~3mの距離から撃たれたんだ」。死亡日時は、書類だと11/13、実際は11/11。血液型も書類はO型、実際はB型。

 母は探り始める。一緒に出征した同僚たち。娘の隊長。だが、誰も語らない。やがて警察は母に告げる。「ここで質問するのはわれわれのほうだ」。それでも、母は真実を探り続ける。

 この物語のエンディングは、まるで池上永一の「ヒストリア」そのままだ。ソ連がロシアに変わっても、権力側の体質は何も変わっちゃいない。そういえば「レーニンの墓」に「メモリアル」なんて運動があったなあ、と思って検索したら、なんとまあ(→ハフポスト)。

【難民】

 先の「ロミオとジュリエット……ただし彼らの名前はアブリファーズとマルガリータ」は、モスクワで難民として暮らしている。難民といえば聞こえはいいが、不法入国者であり出稼ぎ労働者でもある。正規の身分証がない者の暮らしを鮮烈に描くのが、「神様があなたの家の敷居に置いた他人の悲しみ」だ。

 なにせ、そこに居ることすら違法な身だ。スキンヘッドのチンピラはウサ晴らしに殴る蹴る。雇う側はやりたいほうだい。賃金の踏み倒しは当たり前で、文句を言えばギャングが家族ごと始末しに来る。17人の労働者をコンテナに閉じ込めて火を放つ、なんて奴もいる。

 警察にも頼れない、どころか敵にすらなる。なんと警官が難民の娘を車に押し込んで人気のない所へ連れて行こうとする。目的は、まあそういう事だ。にも関わらず、警察の将官は語る。

「あなたがたのためなんですよ。あなたがたは一刻も早でていくようにね。モスクワには外国人労働者が200万人いて…」

 地下アパートに大勢で暮らすタジク人・ウズベク人たちの姿は、日本の違法労働者とソックリだ。年長の者はロシア語を話すが、若い者は話せない、なんてのも、日本と隣国の関係に似ている。そんなモスクワでも、内戦が無くて仕事があるだけ、故郷よりマシなのだ。

 違法労働者が増えれば、職を奪われる者も出てくる。血の気の多い若者の中には、ガイジンをボコってウサ晴らしする輩も増える。

 なぜチェチェン・マフィアが勢力を伸ばしたか、これで見当がつく。警察も頼れない難民は、自分で自分を守るしかない。だから武装して地下組織を作る。最初から違法な武装組織だ。国家の法なんざ知ったことか。どうせまっとうに働いたって食い物にされるだけだ。それなら…

 こういった過程は、シシリアン・フマフィアをモデルに「ゴッドファーザー」が巧みに描いていた。あの作品、やたらめったら面白いだけじゃなく、こういう背景事情もキチンと書き込んでたんだなあ。

 無計画に外国人労働者を受け入れるってのは、そういう事だ。ちゃんと彼らの人権を保障するならともかく、使い捨ての奴隷にするつもりなら、必ず後でツケが回ってくる。

【女】

 とか、わかったような理屈を並べたが、そういった賢しらな私を蹴っ飛ばすのが「狡猾な闇と『そこから作りうる別の人生』」。

 ここの主人公、レーナことエレーナの生きざまは、何とも言い難い。よき夫と幸福な家庭を築きながらも、離婚して会った事すらない死刑囚と結婚した女。と書くと、ただの頭のイカれた女にしか思えないが、彼女を「天使だよ」と語る人もいる。元夫も、彼女を温かく見守っている模様。

 まったく意味が分からないと思うが、私にもわからない。

【おわりに】

 やはり酒は業病のようで、酒癖の悪い男に苦しむ女の話は繰り返し出てくる。辛気臭い話が多い中で、広告マネージャーのアリサの話は、とてもバブリー。要はチャッカリと荒稼ぎしてる女なんだが、ぜいたくこそ人生と割り切る姿は、いっそ清々しくすらある。

 かと思えば「愛よね、愛」なんて、お前はクラシカロイドのリストかい!ってな人もいて、悲劇の隣にある色とりどりの人生模様って点では、「アンダーグラウンド」と似ている。決して難しい本じゃない。飲み屋でたまたま隣に座った人から、今までの半生を聞いた、そんな面白さがギッシリ詰まっている。

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2019年1月 9日 (水)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 2

いま会社を持っているのはどんな人ですか。キプロス島やマイアミに別荘を持っているのは? 共産党のお偉方だった人たちです。
  ――街の喧騒と台所の会話から(1991-2001)

彼ら全員が共産主義者というわけではなかったが、全員が偉大な国家を支持していた。変化をおそれていたんですよ。というのも、変化があるたびにいつも貧乏くじを引いてきたのは農民だったから。
  ――孤独な赤い元帥と忘れられた三日間の革命

いまなら発言ではなく、なにか行動しなくちゃならない。なんでもかんでもいうことができるけど、ことばにはもうどんな力もないのです。
  ――思い出の施し、意味の渇望

あの人は、パンを見るとすぐに、もくもくと食べはじめるのです。どんな量であっても。パンは残しておいちゃいけないものなんです。それは収容所の割当食。
  ――苦悩することの甘美さとロシア的精神の焦点

ひと月前はみんながソヴィエト人だったのに、いまではグルジア人とアブハジア人……
  ――殺人者のだれもが、自分は神に仕えていると思っている時代

「恐怖がなければわが国ではすべてが一瞬でばらばらになってしまうんだ」
  ――赤い小旗と斧の微笑

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 1 から続く。

 この記事では、「第一部 黙示録による慰め」を中心に紹介する。

【どんな本?】

 千万単位の犠牲者を出しつつも独ソ戦にかろうじて勝利し、以後は冷戦の一極として東側に君臨し、ゴルバチョフの登場で淡い期待を抱きつつ、1991年のクーデター&エリツィン登場で新時代の到来を夢み、だが訪れたのは国の崩壊とならず者の跳梁跋扈だった、旧ソ連。

 そんなソ連に産まれ生きた人びとは、どんな人生を歩み、何を考え、今は何をしているのか。どんな家族に囲まれ、新しい時代をどう思tっているのか。

 ウクライナ産まれベラルーシ育ちで、2015年度にノーベル文を学賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる、旧ソ連で生きた人びとの声を届ける、膨大なインタビュウ集。

【第二次世界大戦】

 最初から貴重な証言が出る。なんと対フィンランド戦、冬戦争(→Wikipedia)だ。

 従軍したのは証言者の父。いきなり「この戦争のことは伏せられていて、戦争ではなく、フィンランド出兵と呼ばれていたんです」。そりゃ、あれだけ被害を出せば、なあ。

 フィンランドの戦い方は噂の通り。「スキーをはき、白い迷彩マントを着て、どこにでもひょいとあらわれる」「ひと晩のうちに前哨部隊や一個中隊が全滅させられる」。しかもスナイパーを恐れていたというから、シモ・ヘイヘみたいな人は多かったんだろう。

 幸か不幸か捕虜となって生還。しかし「わが国の捕虜は(略)敵として迎えられた」。てんで、永久凍土を相手に鉄道建設。

 日本も捕虜になった兵には冷たかった。そういう体質は、ソ連やロシアと似てるんだよなあ。

 ただ、出征した人からもその家族からも、戦争中にアメリカから莫大な支援を受けていた事は、全く出てこない。きっと、知らないんだろう。

【ユダヤ】

 ソ連時代、同級生がイスラエルに移り住んだ時の思い出話。

 学校全体で同級生を説得する。「わが国にはりっぱな孤児院がある、ソ連に残りなさい」と。「ぼくらにとってその子は裏切り者だったんです」。

 だが出国が決まり、校長先生は朝礼でわざわざ話題にあげる。「あの子と文通をはじめる生徒は卒業がむずかしくなりますよ」。さて、子どもたちはどうしたか。「その子が出国したあと、ぼくらはみんなでいっせいに彼に手紙を書き始めたんです」。

 大人のタテマエより友情を取ったいい話なのか、子供でも西側とのコネの価値がわかっていたって事なのか。私は後者だと思うんだが、どうだろうね。

【孤児院】

 その「立派な孤児院」とやらの実情が分かるのが、第一部の最後「赤い小旗と斧の微笑」。

 語り手は59歳の建築家、女。なんと、生まれはカザフスタンの収容所だ。まず父が逮捕され、その無実を証明しようとした母も収容所送りとなる。なんの科かは不明だが、他の記事で「スターリンに似ていたから」なんて理由もあった。なんじゃい、そりゃ。

 それがともかく、収容所に送られた時、母は胎内に語り手を宿していた。語り手曰く。

ソルジェニーツィンの『イワン・デニースヴィチの一日』が(略)掲載されたときのことが。(略)みんなが衝撃をうけていた。(略)でも、わたしには理解できなかった、なぜそんなに関心がもたれるのか(略)。わたしにとっては知っていることばかり、ごくあたりまえのことでしたから。
  ――赤い小旗と斧の微笑

 母と共に暮らしたのは三~五歳まで。ちなみに収容所の区域は「ゾーン」と呼ぶそうな。ストルガツキー「ストーカー」の「ゾーン」は、ここから来たんだろうか?まあいい。収容所の暮らしは、ご想像のとおり。

わたしたちは、ひろえるものならなんでもひろって口にしていた。なにか見つけて食べようと、いつも足元を見ていた。草も食べ根っこも食べ、石ころをぺろぺろなめていた。

 そんな彼女も五歳になり、孤児院に送られる。「保母さんや先生というのはいなかった。(略)いたのは指揮官たち」。その指揮官は、子供たちに対し…

「あんたたちはぶってもいいし、殺したっていいくらいだ。あんたたちの母親は敵なんだからね」

 ってなわけで、実際、言葉通り「ふとしたことでぶったり、ただなんとなく……ぶったりした」。当然、子供たちの健康状態も悲惨で、「みんな疥癬もちで、おなかに赤くてぶあついおできができていた」。家畜だって、もう少しはマシな扱いを受けるもんだが。

 教育も恐ろしい。なんたって「密告する子はいい子」だ。実際、「子どもたちはおたがいに密告しあっていました」。ただ、誰がチクったのかは子どもたちも気づいた様子。

 当然、スターリン崇拝も仕込まれる。「わたしたちが文字を覚えると、(略)口述されるままに、(略)わたしたちの統率者に手紙を書いたのです」。権力ってのは、まず最も弱い者にヤラセを強いるんです。

 そんな語り手も、母親が刑期を終え、迎えに来る。とっはいっても、完全に自由になったわけじゃない。内務人民委員部からお触れが出る。「国境地帯に住んではならない、軍需企業や大都市の近くに住んではならない」。どないせいちゅうねん。

 やがて家庭を持った語り手は、かつて住んだ収容所の跡地を訪れる。が、既に畑になっていた。地元の農民曰く…

「ジャガイモ畑じゃ、毎年春の雪どけや雨のあとで骨がでてきよる」「ここらの土地はそこらじゅう骨がごろごろ、石ころみたいなもんじゃ」

 語り手と同じ目的で訪れた人は語る。

「わたしはここの老人たちと話をしたんです。彼ら全員が収容所で勤務、あるいは仕事(略)していた。料理人、看守、特務部員」。

 仕事のない土地じゃ、収容所は稼ぎの安定した職場だったのだ。やはり別の男は語る。彼の父も「仕事」をしていた。

「父親は、フルシチョフ時代にこの地を離れたかったのだが、許可が下りなかった。国家の秘密を口外しないという念書を全員が書かされていた。だれも外に出すわけにはいかなかったのです」

 この後、語り手の息子のインタビュウが続く。これがまた強烈だ。密告した者とされた者、拷問した者とされた者が、隣り合って生きているロシアの現状を、まざまざと見せつけてくれる。

【おわりに】

 第一部では、他にも「粗連人(ソヴォーク)」なんて自嘲の言葉が印象に残る。1991年に抱いたエリツィンヘの期待と、その後の失望を語る人が多い。モスクワは相当にヤバかったようで、アパートの中庭にはしょっちゅう死体が転がっていたそうだ。

 なんか、この本の凄さを全く伝えられてない気がするけど、次の記事でなんとか…

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2019年1月 8日 (火)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 1

ビール売り場のそばで男たちが汚いことばで党をののしることがあっても、KGBをののしることは絶対になかった。
  ――独裁政治の美とセメントの中の蝶々の秘密

【どんな本?】

 ウクライナに生まれベラルーシで育ち、2015年度にはジャーナリストとしては初のノーベル文学賞に輝いたノンフクション作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる、膨大なインタビュウ集。

 1989年の東欧崩壊に続き、1991年にはソ連が崩壊する。これによりバルト三国をはじめ多くの国がソ連から独立し、旧ソ連国内に居た人々の暮らしは一変した。時流に乗り大金を稼いだ者もいれば、つつましく年金で暮らす者もいる。

 いずれにせよ、検閲が緩んだことで、人々は本音を語れるようになった。

 大祖国戦争(第二次世界大戦の対独戦)で戦った兵士、自らや家族や知人が収容所に連行された人、砂糖を買うため何時間も行列に並んだ女、エリツィンに歓声をあげた若者、かつての大国の誇りを懐かしむ声、陰謀論者、元クレムリンの高官、年金生活者、教師。そして、そんな人たちの伴侶や子供。

 かつてのソ連の暮らしはどうだったのか。共産主義を信じていたのか。スターリンやゴルバチョフなどソ連の指導者をどう思うか。エリツィンに何を期待したのか。ソ連崩壊をどう感じたのか。そして、現在のロシアを、自分の暮らしを、人々の生き方を、どう感じているのか。

 激動の時代を生き抜いた旧ソ連人々の肉声を生々しく伝える、現代のスナップショット。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Время секонд хэнд, Святла́на Алякса́ндраўна Алексіе́віч, 2013。綴りは自信ない。日本語版は2016年9月29日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約600頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント48字×20行×600頁=約576,000字、400字詰め原稿用紙で約1,440枚。文庫本なら上中下の三巻でもいい大容量。

 文章はこなれていて読みやすい。もとがインタビュウ集で、「普通の人々」の声を集めたものだからか、あまり難しい言葉も持って回った言い回しもなく、親しみやすい言葉で訥々と語りかけてくる雰囲気だ。内容も特に難しくないが、ソ連~ロシアの現代史を知っていると、更に迫力が増す。

【構成は?】

 人びとの雑多な声を集めた形なので、気になった所をつまみ食いしてもいい。

  • 共犯者の覚え書き
  • 第一部 黙示録による慰め
  • 街の喧騒と台所の会話から(1991-2001)
  • 赤いインテリアの十の物語
    • 独裁政治の美とセメントの中の蝶々の秘密
    • 兄弟姉妹たち、迫害者と犠牲者……そして、選挙民
    • ささやき声とさけび声……そして感嘆
    • 孤独な赤い元帥と忘れられた三日間の革命
    • 思い出の施し、意味の渇望
    • べつの聖書とべつの信者たち
    • 炎の冷酷さと高みによる救済
    • 苦悩することの甘美さとロシア的精神の焦点
    • 殺人者のだれもが、自分は神に仕えていると思っている時代
    • 赤い小旗と斧の微笑
  • 第二部 空の魅力
  • 街の喧騒と台所の会話から(2002-2012)
  • インテリアのない十の物語
    • ロミオとジュリエット……ただし彼らの名前はアブリファーズとマルガリータ
    • 共産主義のあと人びとはすぐに変わってしまった
    • 孤独、それは幸福にとても似ている
    • あいつらを皆殺しにしてやりたい、そう望んだあとの恐怖
    • 大鎌を持った老婆とうつくしい娘
    • 神様があなたの家の敷居に置いた他人の悲しみ
    • クソのような人生と白い小さな壺のなかの百グラムの軽い砂
    • 死者たちの無関心と塵の沈黙
    • 狡猾な闇と「そこから作りうる別の人生」
    • 勇気とそのあとのこと
  • 庶民のコメント
  • 訳者あとがき/関連地図/関連年表/人名注

【感想は?】

 書名の「セカンドハンドの時代」が、この本を巧みに表している。

 セカンドハンド、中古品、お古。少し前まで、ロシア人とパキスタン人が組んで日本の中古車をロシアにせっせと運んでいた。そういう、モノの中古品って話かと思ったが、全然違った。

 解説に曰く、「思想もことばもすべて他人のおさがり」。

 実はこれで少しカチンときた。なぜなら、日本はずっと他の国から学んできた国だからだ。奈良・平安時代は中国に学んで国を作り、明治維新・文明開化では西洋文明を学んでのし上がり、戦後は民主主義や品質管理を導き入れて這いあがった。漢字だって中国のおさがりだ。それで何が悪い。喧嘩売ってんのか。

 たぶん、これは日本とソ連の歴史の違いだろう。

 日本は独立しちゃいるが周辺国だ。周囲の国々を従える帝国じゃない。

 黎明期は中国の周辺国で、だから遣隋使や遣唐使で留学生を送り込み隋や唐に学ぶ。中世と近世は独自の国として過すが、黒船で危機に気づく。以後、欧米に学び産業革命を成し遂げたが、太平洋戦争でオジャンとなり、鼻っ柱をへし折られ、アメリカに次ぐナンバー2で満足するようになる。

 あくまでも日本の望みは独立の維持であって、他国を従えて世界のリーダーになる事じゃない。

 ソ連は違う。

 世界に先駆けて共産主義革命を成し遂げた。第二次世界大戦では最も多くの犠牲者を出しながらも、ナチスと大日本帝国にとどめをさした。戦後の冷戦でもアメリカと張り合い、二大国の一局を占めた。バルト三国・ベラルーシ・ウクライナ・グルジアなどに君臨し、東欧諸国も支配した。

 ソ連は世界のリーダーだったのだ。少なくとも国民の認識では。ニュースでも、初期の宇宙開発ではソ連がリードしていた。そして、国家もまた、国民にそう教えていた。

――ばんざーい! 無学の労働者がソ連のステンレス技術を開発――勝利だ! その技術がとっくの昔に世界の常識だったことを、わたしたちが知ったのはあとになってから。
  ――ささやき声とさけび声……そして感嘆

 そういう「偉大だった時代」を懐かしむ声も、けっこうある。豊かな暮らしより、偉大な国の一部であることを望む人もいる。たとえシベリア送りに怯える日々が続いても。

われわれは、あのように強くて大きな国にもう二度と住むことはないだろう。
  ――べつの聖書とべつの信者たち

 こういった気持ちを支える最も大きな記憶は、大祖国戦争の勝利だろう。

 戦争関係のエピソードも豊富だ。似たような記憶をイランも持っている。イラン・イラク戦争の勝利だ。おまけにイランはかつてのペルシャ帝国でもある。そんな「昔は凄かった」的な帝国意識というか屈折した優越感というか、そんなモノを抱えている人が多い。

 屈折した、というのは単純で、つまり現代の旧ソ連は二流国だからだ。

たいしたもんだ。敗戦国のやつらのほうが戦勝国のわしらより100倍もいいくらしをしている。
  ――炎の冷酷さと高みによる救済

 しかも、ソルジェニーツィンがバラしたりグラスノスチで明らかになったように、制度的にも暗黒面が明るみに出た。そのためか、年配者の中には経済以外の面に慰めを見出そうとする人もいる。

人は、偉大な思想をもたずに、ただ生きたがっている。これはロシアの生き方には今までなかったことで、ロシア文学もこのような例を知らない。
  ――共犯者の覚え書き

 素直に読めば「思想や文学や芸術が廃れ、モノとカネが取って代わった」とも取れる。でも、これ、どの国でも年寄りは似たような事を言うだよね。「俺たちの世代は高尚だった、でも近ごろの若いモンは軽薄で…」と。

 そもそも、いつでもどこでも、年寄りが好むモノは高尚とされ、若者の好みは軽薄とされる。これは別に旧ソ連に限ったことじゃない。

 とまれ、共産主義を信じていた人からは、「建設していた」って言葉がよく出てくる。今は貧しく苦しくても、前に向かって進んでいる、そういう希望があったのだ。それがみんなウソだったとは、なかなか受け入れられない。

 そういった、落ちぶれた国に住む者の屈折した想いや、国家が隠していた暗黒面から目を背けたい気持ち、現在の旧ソ連国の暮らしのシンドさ、いきなり変わった社会や価値観に抱く違和感、成金への怒り、知られざる内戦の数々など、様々な人々の雑多な言葉が、ほとんど生のまま本に詰まっている。

 そのいずれもが強烈なインパクトを持っていて、「こういう本だ」などとわかりやすく正確に説明するのは、私には無理だ。次の記事から幾つかエピソードを紹介する。少しでも雰囲気が伝われば幸いだ。

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2018年12月12日 (水)

ジョン・パーリン「森と文明」晶文社 安田喜憲・鶴見精二訳

文明の発展を可能にした要因を木に求めるのは大胆な発想に思われるかもしれない。しかしまず、これまでずっと火を提供してきたのは木であるという点を考えてもらいたい。
  ――はじめに

青銅器時代のキプロス島が精錬していた銅鉱石には、銅が4%しか含有されていなかったが、鉄は40%も含まれていた。燃料の消費量が同じならは銅よりも鉄のほうを多く得ることができたのである。
  ――4 鉄の時代へ キプロス島

道を歩く荷馬車から線路を走る馬車に代えたことで、一日に運ぶ石炭は19トンから34トンへと増大した。
  ――9 産業革命はなぜ起きたか イギリス

じつはインディアンの多くを死に至らしめたのが、こうした(毛皮と交換で手に入れた)ラム酒であった。
  ――11 帆柱と独立戦争 アメリカ

国家が所有する資源のなかで鉄鉱石と木がもっとも本質な資源である
  ――11 帆柱と独立戦争 アメリカ

「アメリカにおける製造業は、滝の近くで操業されている。水車を回すことができるからだ」
  ――11 帆柱と独立戦争 アメリカ

架台と枕木は当然、木でできていた。では、レールはどうしていたかというと、これもやはり木で作られていたのである。
  ――11 帆柱と独立戦争 アメリカ

開拓者がどこに入植するかを決めるさい、決め手となったのは入植地の土壌の質ではなく、そこに木があるかどうかということだった。
  ――11 帆柱と独立戦争 アメリカ

【どんな本?】

 人類の文明の発祥の地となったメソポタミア。地中海を支配したギリシア。ヨーロッパの土台を築き上げたローマ。通商国家として栄えたヴェネツィア。

 これら大国の繁栄を支えたのは森だった。そして、森が失われると共に、大国の威光も衰えた。

 七つの海に覇を唱えた大英帝国も、フロンティアとして頭角を現したアメリカ合衆国も、その足掛かりとなったのは、豊かな森林資源だった。

 文明になぜ森が必要なのか。森はどんな役割を担ったのか。人は森をどう扱ったのか。なぜ森が失われたのか。そして、森の喪失は文明の衰えと何の関係があるのか。

 大量の資料を元に、文明の興亡を左右する森の機能を描き出す、一般受けの歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Forest Journey : The Role of Wood in the Development of CIvilizaation, by John Perlin, 1988。日本語版は1994年9月25日初版。私が読んだのは1999年7月10日の五刷。単行本ハードカバー縦二段組みで本文約456頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント24字×20行×2段×456頁=約437,760字、400字詰め原稿用紙で約1,095枚。文庫本なら上下巻ぐらいの文字量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、世界史、それも地中海周辺の歴史に詳しいと、更に楽しめる。また、地図が多く、何度も参照するので、栞をたくさん用意しておこう。

【構成は?】

 多少の重なりはあるが、ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

  • 森から歴史を見つめ直す 序によせて レスター・R・ブラウン
  • はじめに
  • 旧世界の森の旅
  • 1 『ギルガメシュ』叙事詩の声 メソポタミア
  • 2 森が青銅器を生んだ クレタ島とクノッソス
  • 3 繁栄のはてに ギリシア 1
  • 4 鉄の時代へ キプロス島
  • 5 森をめぐる戦い ギリシア 2
  • 6 闘技場と浴場の都 ローマ
  • 7 海を越えて イスラムの地中海
  • 8 ある通商国家の衰亡 ヴェネツィア
  • 9 産業革命はなぜ起きたか イギリス
  • 新世界の森の旅
  • 10 砂糖の島・奴隷の島 マデイラ島、西インド諸島、ブラジル
  • 11 帆柱と独立戦争 アメリカ
  • 訳者あとがき/索引

【感想は?】

 「もののけ姫」の見方が変わる一冊。

 学校で学ぶ世界史は、人物を中心とした、ドラマ仕立てのものだった。これに対し、ウィリアム・H・マクニールの「世界史」は、モノや地形や産業にスポットをあてた。この本の視点も、マクニールに近い。

 ただし、マクニールと違うのは、資源を木に絞っていること。最初は意外に思ったが、ギリシアやローマの章を読むと、「さもありなん」と納得してしまう。

 なぜって、当時の木は、現在の石油と同じか、それ以上の価値を持つ資源だからだ。現代でも、油田は大きな火種になる。ヒトラーはカフカスの油田に目がくらんだし、太平洋戦争も石油が引き金になった。今も中東は火花が散っているし、ロシアを支えているのも石油だ。

 かつての森は、帝国を支える最も重要な資源だったのだ。

ローマ帝国の興亡は、ローマの燃料資源の増減と軌を一にするようにして起きているのである。
  ――6 闘技場と浴場の都 ローマ

 前半では、メソポタミアから始まって、ギリシア・ローマ・トルコと、ほぼ同じメロディを繰り返し奏でる。いずれもイントロは、意表をつく風景だ。鬱蒼とした森である。「メソポタミア南部は(略)かつてはそこに広大な森林地帯が広がっていた」。

 メソポタミア南部、今のイラク南部には、レバノンスギの森が茂っていた。ギリシアも、ローマもそうだった。イングランドも、ニューイングランドも大木に覆われていた。ニューイングランドは今でも面影が残っているけど、イラクやギリシアやローマは、ちと信じられない。

ローマやその近郊はかつては森におおわれていた。ローマのさまざまな行政管区の名前は、その行政管区に、もともとどのような木が育っていたかによってつけられていた。
  ――6 闘技場と浴場の都 ローマ

 都市が栄えるには木が要る。まずは、薪だ。冬を越すには暖房が要る。煮炊きにも薪を使う。青銅や鉄の精錬、煉瓦や陶器を焼くにも、塩やガラスを作るにも、薪や木炭が要る。もちろん、家や工場や宮殿を建てるにも木材を使う。

 それ以上に、国家として栄えるためには海軍が必要で、そのためにも船の材料となる、大きな木材が必要だ。

 最初は都市周辺の森を使うが、すぐに使いつぶす。そこで、他の所から運んでくる。とまれ、木は重いし、嵩張る。運ぶのは大変だ。こういうモノは、水運の方が都合がいい。ってんで、上流の川の近くの木を切り倒して持ってくる。山は裾野から頂上に向かって裸になってゆく。

 裸の山は怖い。木が遮っていた太陽が土にじかに当たり、土地が荒れる。今までは木陰でゆっくり溶けていた雪が、日光で急にとけ、鉄砲水となって土を押し流し、川に注ぎ込む。これが下流の都市に洪水となって襲い掛かる。

 洪水は山から塩分を運び、耕作地をオシャカにする。豊かな農地は痩せ、牧草地にでもするしかなくなる。土砂は港も埋め、良港を遠浅の湿地帯に変える。そこには蚊がはびこり、マラリアが猛威をふるう。結果は、帝国の崩壊だ。

シュメールの沖積平野の塩分がますます高くなっていった時期は、メソポタミアによる北部森林地帯の破壊がはじまった時期にぴったりと重なっている。
  ――1 『ギルガメシュ』叙事詩の声 メソポタミア

 丘に牛や羊が遊ぶ光景はのどかだが、元は森だった。耕作すらできなくなり、牧草地にするしかなくなったのだ。

 もちろん、帝国は黙って滅びたりはしない。版図を広げて近隣の森から木を伐り出し、または他の国を侵略して森を奪う。「5 森をめぐる戦い ギリシア 2」などは、アネテとスパルタの睨み合いを描く章だが、まるきし今日の油田をめぐる争いを見るようだ。

 「テルマエ・ロマエ」で有名なローマの風呂も、こうして調達した薪に頼っていたわけで、そりゃ贅沢な話だよなあ。江戸時代の風呂屋は、どうやって薪を調達してたんだろ?

 まあいい。大英帝国が七つの海を支配できたのも、イングランド南部に豊かな森林資源があったため。ところがご多分に漏れず資源を使いつぶし…

「もしいま以上に木を大切にしないと、イギリスはこれからずっと石炭にたよらなければならなくなるかもしれない」
  ――9 産業革命はなぜ起きたか イギリス

 なんて台詞も出てくる。産業革命といえば石炭&蒸気機関だが、好きで石炭に切り替えたわけじゃないらしい。だって不快な煤が出るし。

 特に製鉄には苦労したようで、石炭が含む不純物に苦しんでる。これを解決したのが、コーク(というか日本ではコークスの方がなじみが深い)。このアイデア、モルト(・ウィスキー)の蒸留から得たってあたりが、いかにもイギリスらしい。

 なんにせよ、ブリテン島の森を使いつぶした大英帝国は、アイルランドも裸にし、やがて新大陸にも頼るようになる。当時のニューイングランドは鬱蒼とした森にインディアンが住み…

 「もののけ姫」には様々な解釈がある。かつて森は豚の放牧地でもあった事を考えると、「もののけ姫」での乙事主の怒りにも、歴史的な意味がついてくる。また欧米人が日本の家屋を評して「木と紙の家」とと言ったが、その意味も少し違って聞こえてくる。彼らは木の家に住みたくても住めなかったのだから。

 世界と歴史の見方が少し変わってくる、意外な拾い物だった。やっぱりモノや技術を通した歴史って面白いなあ。

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2018年11月12日 (月)

エリザベス・ウィルソン「ラブ・ゲーム テニスの歴史」白水社 野中邦子訳

かつて「スポーツ」という言葉はエロティックな戯れを指すのに用いられ、17世紀には悪徳とさえ考えられていた。「(略)なぜなら、スポーツは暇つぶしであり、なんの利益もなく、基本的に不真面目な行為だから」である。
  ――4 スポーツ文化の成長

「世紀の」試合、記憶に残る敗北、驚くべき逆転勝利など、過去のスポーツ界の傑出した試合は、映画フィルムやビデオでは真の姿が捉えきれないという点でダンスや舞台のパフォーマンスに似ている。
  ――8 孤独なアメリカ人

…彼らのような貴族階級に属する(ドイツの)地主たちの生活は、どちらかといえば戦争(第一次世界大戦)の影響をあまり受けなかった。ユンカーと呼ばれる地主階級も、ハイパーインフレによる損害も中産階級ほど甚大ではなかった。むしろ土地の価格はさらに上昇していた。
  ――11 ワイマール時代のテニス そして、その後

1967年12月14日、英国ローンテニス協会(LTA)は投票の結果、アマチュア選手とプロ選手の区別を廃止すると決めた。
  ――16 オープン化

露呈された真理はつねに美しいとはかぎらない。
  ――19 悪童たち

スポーツは「暇つぶしから始まった活動の典型」だったにもかかわらず、勤勉さを称揚する態度、すなわち効率と普段の進歩という理念が横行することになったのだ。
  ――20 企業とテニス

見方によれば、(ランキング制によって)むらのないテニスが有利になったともいえる。いっときの爆発力よりも一貫性のあるテニスのほうがポイントを稼げたのである。
  ――20 企業とテニス

現代では、有名スポーツ選手のキャリアの終わりは精神的な傷になりがちである。(略)いつ引退するかを決めるのは、テニス選手の場合、とくにむずかしい。いまが引き時だと教えてくれるチームやマネージャーはいない。
  ――23 セレブの仲間入り

イギリスのテニス人口の大半は私立校の生徒に限られていたが、イギリスの現役選手の数は21世紀の最初の十年間で半減した。(略)一方、スペイン、フランス、ドイツ、東欧ではテニス人口が増え、広く定着しつつある。
  ――26 バック・トゥ・ザ・フューチャー

【どんな本?】

 テニスは独特のスポーツだ。基本的に個人のスポーツである、にも関わらず、試合時間は異様に長く、時として5~6時間にも及ぶ。得点の数え方も奇妙かつ不規則で、なぜかゼロをラブと呼ぶ。そして何より、オシャレでセクシーだ。

 そんなテニスは、いつ・どこで始まったのか。どんなプレーヤーが、どんなスタイルで闘ったのか。現在の隆盛に至るまで、どんな道を辿ったのか。社会や風俗そして技術の変転は、テニスにどんな影響を与えたのか。

 テニスの熱心なファンであり、ロンドン・メトロポリタン大学の名誉教授である著者が綴る、テニスへのラブレター。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は LOVE GAME : A History of Tennis, from Victorian pastime to globaal phenomenon, by Elizabeth Wilson, 2014。日本語版は2016年11月5日発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約373頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント47字×19行×373頁=約333,089字、400字詰め原稿用紙で約833枚。文庫本なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。当然ながらテニスの本なので、テニスに詳しい人ほど楽しめる。

【構成は?】

 歴史の本なので、ほぼ時系列で話は進む。が、過去のプレーヤーでご贔屓の選手がいる人は、気になった所を拾い読みしてもいいだろう。

  •  1 愛のゲーム
  • 第一部 有閑階級
    • 2 健全な興奮をもたらす科学的な競技
    • 3 リアルテニスとスコア方式
    • 4 スポーツ文化の成長
    • 5 リヴィエラで
    • 6 女たちの何が悪いのか?
    • 7 ヘンリー・ジェイムズのテニス
    • 8 孤独なアメリカ人
    • 9 四銃士
    • 10 労働者階級の英雄
    • 11 ワイマール時代のテニス そして、その後
    • 12 英雄の末路
    • 13 三人の女
  • 第二部 スポーツと人生
    • 14 戦場からの帰還
    • 15 ゴージャス・ガールズ
    • 16 オープン化
    • 17 彼らもまた除け者だった
    • 18 テニスとフェミニズムの出会い
  • 第三部 ザッツ・エンターテインメント
    • 19 悪童たち
    • 20 企業とテニス
    • 21 ウーマン・パワー
    • 22 技術による先進
    • 23 セレブの仲間入り
    • 24 新世紀のテニス
    • 25 スポーツとメディア
    • 26 バック・トゥ・ザ・フューチャー
  • 訳者あとがき
  • 図版クレジット/謝辞/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 著者のご贔屓はロジャー・フェデラーらしい。ジョン・マッケンローの出番も多い。

 意外な組み合わせ…と思ったが、これは私がテニスに疎いからだ。少し前は錦織圭が、最近では大坂なおみが話題になった。両者の名を知る人は多いが、そのプレースタイルの特徴を知っている人は、どれぐらいいるだろう? 実は私も知らない。

スポーツとしてのテニスにそれほど人気がないのに、テニス選手の名前は世界中で知られている
  ――23 セレブの仲間入り

 そう、優れた選手はスターなのだ。もっとも、これは今に始まったことじゃない。

「…シャマチュアの時代、われわれは運動能力にすぐれたジゴロでしかなかった――これは(ビル・)チルデン(→Wikipedia)の言葉だ」
  ――14 戦場からの帰還

 しかも、錦織圭と大坂なおみが話題になったのは、日本と関係が深いからだ。

スポーツの普及活動は愛国心のプロパガンダである。
  ――25 スポーツとメディア

 もっとも、この手の「仲間意識」は、国ばかりとは限らない。

傑出した黒人はひとりの個人というより、黒人全体の代表とみなされ、彼らの声を代表しているように受け取られる。
  ――17 彼らもまた除け者だった

 こういう、スポーツの持つ様々な面に目を向けているのが、この本の特徴の一つだろう。そのためか、テニスウェアについても、詳しく論じている。

服飾史家のジェイムズ・レーバーによれば、少なくとも18世紀以降、ファッショナブルな衣装、とくに紳士者の流行はすべてスポーツウェアから生まれたという。
  ――4 スポーツ文化の成長

 などと書いてる私も、今はスェット姿だ。エア・ジョーダンに代表されるバスケットシューズは、男の子の憧れでもある。歳を取ったらゴルフウェアでもいい。とか考えると、現代にも充分通じる真理だなあ。もっとも、テニスウェアの変化が大きいのは、女子選手の方だろう。

 これは表紙を見ただけでスグわかる。表紙は1926年のミックスダブルスで、ルネ・ラコステとジュザンヌ・ランラン。ラコステの格好は今でも年配のアマチュアならアリだろう。でもランランの膝下まであるスカートは…。そうは言っても、両者ともに当時のトップ選手なのだ。

 加えて、テニスウェアの特徴と言えば、白である。貴族的で上品な色だ。それはつまり、テニスが「そういうもの」として始まったからだ。ウェアの歴史は、テニスの歴史も反映しているのが納得できる。これも最近はカラフルになった。

テニス界を揺るがした変化のごく初期のシンボルといえば、白を捨てたことだった。
  ――19 悪童たち

 これはテニスがビジネスになったためだ。何せテニス、いやスポーツには金がかかる。当初はアマチュアのスポーツとして始まった。でもそれでやっていけるのは、他に収入の道がある者だけ。そこでスポンサーがつき、アマかプロかわからない「シャマチュア」なる言葉が生まれる。これまた最近は…

皮肉なことに、この(ウェアのスポンサー契約)せいで、ウェアは白のみというルールを廃止に追い込んだときと同じ状況がもたらされた。つまり、対戦する二人の選手の見分けがつかないのだ。
  ――24 新世紀のテニス

 スポンサーが同じだと、ウェアも同じだったりするんですね。こういった企業の関与はプレースタイルにも影響してくる。特に大きいのがラケットとガット。

1990年代後半、(略)「高弾性率」カーボンファイバー(略)のおかげでさらに軽量でありながら、より硬く、より強いラケットが作れるようになった。新しい人工ストリングはより高度なスピンがかけられる(略)。これら(略)によって現在のテニスがもたらされたのである。
  ――22 技術による先進

 というのも…

ラケットヘッドが大きくなるとトップスピンがかけやすくなり、その結果、「[これまで]ボレーが得意だった選手たちは……いまや猛スピードで飛んできて急に落ちるボールに直面させられた」。
  ――24 新世紀のテニス

 トップであれバックであれ、スピンは強力になる。おまけにコートも変わった。金と手間がかかり弾まない芝が減り、全天候対応でよく弾むハードコートが増えた。スピンを武器にする選手が有利になったのですね。私はこの辺が読んでて最も面白かった。このプレースタイルの変化、皮肉な事に…

1950年代まではおそらく、グラウンドストローク主体のプレーから脱却しようとしたのはとくに抜きん出た選手だけであり、たいていの女子選手は従来のやり方で満足していた。
  ――13 三人の女

 と、昔の女子選手のプレースタイルと似ていたり。オーバーハンドサーブとスマッシュが1880年ごろに「発明」された技だった、というのも、時代性を感じさせる。というか、今どきアンダーハンドのサーブを打つプロなんかいるのかな?

 ということで、ロジャー・フェデラーとジョン・マッケンローの共通点だ。二人とも、コートを縦に使うのである。著者はそういう変化に富んだプレーが好きらしい。

 個人スポーツである事が生み出すテニスの特殊性、ウェアに象徴される風俗の変化、オープン化が示す企業の進出など、様々な視点でテニスを語りつつも…

「テニスにかんする過ちのひとつは、実際にプレーしない人たちの事情にあわせてあまりに多くの人がテニスを変えようとしてきたことではないだろうか」
  ――26 バック・トゥ・ザ・フューチャー

 なんて所は、テニスを他のスポーツに差し替えても成立しちゃうあたり、現代のスポーツ全般に共通する問題点も指摘する本なあたりが面白い。

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【つぶやき】

 ところでキズナアイのNHK出演に憤ってる人たちは、女子テニス選手やチアリーダーの衣装をどう思っているんだろう?

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2018年11月 5日 (月)

「KGBの世界都市ガイド」晶文社 小川政邦訳

商店はスパイのエイジェントの仕事にとってバスや地下鉄に劣らず重要である。巨大なハロッズは出入り口が多く、いつも人がいっぱいで、尾行がついても簡単に群衆にまぎれこめる。
  ――ロンドン

「新ロシア人」は書店を一生懸命避けて通ります。博物館、図書館その他あらゆる文化センターがこのカテゴリに入ります。
  ――ベルリン

わたしは、ワシントンでは執行権力の正面入口がのんきにスラム街と隣り合わせになっていることにいつも驚いていました。(略)モスクワではニクソン大統領の最初の訪問までに数区画が撤去され、建物の正面は飾り立てられました。
  ――ワシントン

「ロシアでは全員が子どものときから軍事訓練を受けさせられ、娘たちは十五歳までに自動小銃を発射し、戦車を操縦し、爆薬を仕掛けられるようになるとか」
  ――バンコク

KGBの経理が(博物館や観光名所の)入場券の代金を払ってくれたことは一度もない
  ――パリ

「副領事に伝えてください。彼が明晩カジノ『オマル・ハイヤーム』で会うことになっている人物はCIAのエイジェントです」
  ――カイロ

われわれの部(英文露訳)にはロシアからの移民が大勢いた。彼らはわれわれソビエト人を猛烈に憎み、あらゆる機会に「噛みつく」構えだった。
  ――ニューヨーク

【どんな本?】

 1991年のソビエト崩壊に伴い、ロシアの出版界では一風変わったブームが巻き起こる。元KGBによる海外勤務生活の体験集である。これはそんな本の一つで、世界の有名都市ガイドの体裁を取っているのが特徴だ。

 彼らは数年にわたり各都市に住む。そのため、行きずりの観光客ではなく、そこに暮らす住民としての視点が新鮮だ。不慣れな海外生活でのカルチャー・ギャップも描かれており、それが逆にソ連/ロシア社会の特徴を浮き上がらせる。そしてもちろん、皆さん興味津々なスパイの仕事内容も。

 東西対立の厳しかった冷戦期に、KGBのスパイは何を目論み、どこでどんな事をやっていたのか。いかにして地元の者に取り入り、どんな者をエイジェントに仕立てるのか。そして、それぞれの都市と住民の印象は。

 ちょっと変わった世界の都市ガイド。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Путеводитель кГБ по городам мира, 1996。日本語版は2001年7月10日初版。私が読んだのは2001年7月15日の二刷。売れたんだなあ。単行本ソフトカバー縦二段組みで本文約360頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント25字×22行×2段×360頁=約396,000字、400字詰め原稿用紙で約990枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 執筆者が複数のため、文章の質はいろいろ。全般に、文学かぶれの素人っぽく、気取った比喩や詩の引用を多用した、無理にカッコつけた文章が多い。いかにもロシア人らしいが、KGBの印象とは違う。

 際立った例外がニューヨークのオレーグ・ドミートリエヴィッチ・ブルイキン。彼の文章は落ち着いて礼儀正しいながら、キビキビして歯切れがよく、無駄がなく明確だ。なにより読みやすく分かりやすい。これフレデリック・フォーサイスなどのスリラー作家やジャーナリストの文体だよな…と思って経歴を見たら、専門がジャーナリストだった。

【構成は?】

 それぞれの記事は完全に独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

  • 序文
  • ロンドン
    スパイ、古巣に戻る/恥ずべき情熱/浣腸器、モロトフ、左側通行/ハイド・パークでレディに言い寄るには/王室のたくらみ/スパイの本場、イギリス/フィッシュ&チップス万歳!/カール・マルクスの墓/衣類の買い方/娼婦たちの魅力について/イギリス人を怒らせるな/テムズ川とロシアの潜水艦/パブで酔ってはいけないか/文化と下劣さ/貧乏は恥ではない
  • ベルリン
    ミュンヘンから首都へ/バイエルン・アルプスの「感化エイジェント」/シュロット博士式治療/アウトバーンを行く/ボンのクラブ「マテルヌス」/ベルリンの「秘密チャンネル」/新ロシア人にアドバイス/ユリアン・セミョーノフのベルリン/国防軍最高司令部外国諜報局商工との出会い
  • ワシントン
    諜報機関チーフの妻の目で/アンドローポフとの会話/体制の都市/ホワイトハウスの周辺/十六番街の邸宅/ごみコンテナの中のFBI用情報/ダレス空港からスーパーマーケット「ミコヤン」へ/特務機関員の侵入/アーリントン墓地と議事堂/『ワシントン・ポスト』の記事/性的スキャンダルの都市/ナショナル・ギャラリーからFBI博物館へ/帰国
  • バンコク
    神の都/場末のレストラン/何でもない/アメリカ軍人への関心/スクンビット通りのバー/イギリス人ごっこ/グルメの天国/チャオプラヤー河岸のスパイの巣/人民解放軍の機密/インド首相の最良の友/あんたのロシアってどこにあるの
  • パリ
    「屋根」としての妻/パリのふしだらな空気/不貞もどきのスパイ活動/アンジュー河岸通りの謎の女エイジェント/シャブリと鳩/ヘルニアとサン・ルイ島/精神異常になるには/女エイジェント、オルセー美術館に登場/サン・ジェルマン・デ・プレで/便所のドラマ/モンマルトルの酔いどれ天才たち/「アジール・ラパン」でのランデヴー/ネー元帥との会話
  • カイロ
    ピラミッドに登る/四千年のほこり/エジプト料理/通信回線としてのオペル車/パレスチナ人の切手収集家/ルクソールを見ずしてエジプトを語るなかれ/スエズ運河の岸辺の秘密/「ヒルトン」会談/町ごとに友を持て/運命よ!わたしをカイロに戻してくれ
  • ニューヨーク
    国連本部で/フルシチョフとキャデラック/八十六回までの階段を駆け上がる/レストラン八十軒のコレクション/ブロンクス動物園の秘密/祖国の裏切り者芸能人/ボリショイから来たバレリーナたち/マディソン・アベニューの四つの角/シカゴで「挟み撃ち」/ホワイトカラーの町での恋
  • 東京
    日出る国への長い道程/60年代の東京/日本人との最初の会話/スパイ妻への指令/寿司屋の大物/わが友アリタさん/途中に交番
  • リオ・デ・ジャネイロ
    旅行中も働く諜報員/「一月の川」/隠れ蓑の職業/カリオカとは/ブラジル式コーヒー/異国情緒を味わいながら/シュラスカリアの二十四種類の肉/軍艦の女性は災いを招く/リオのビーチ/キリストのモニュメント/睦むことはブラジル人の生業/マラカナン・スタジアム/カーニバル/オデオン座近くでの密会/サンボドロモ
  • ローマ
    コロセウム、こんにちは!/クリトゥンノ通り四十六番地/スパゲティ・アッラ・キタッラ/KGBとはデリケートな仕事/ナヴォナ広場での会食/世紀の取引/クラウディア・カルディナーレと再会/スタルエノ墓地のフョードル/真実の口/仕掛けられた時限爆弾/教皇に会見
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 そう、ご期待のスパイ活動についても、もちろん書いてある。が、それとは別に。

 彼らは数年に渡り、それぞれの都市に住む。そのため、行きずりの旅行者ではなく、生活の場として都市を見る。これに加え、スパイには土地勘も必要だ。

 幾つかの記事に共通して書いていることがある。彼らは、赴任してしばらくの間、その都市に馴染むため、アチコチをウロつきまわるのである。そうやって土地と人を知り、鉄道や地下鉄やバスなどに慣れ、エイジェントとのランデブーに相応しい場所を調べる。

 同じ土地でも、旅行者の目と生活者の目は違う。旅行者にはホワイトハウスなどの観光スポットが詰まったワシントンも、暮らす人にはちと不便。なぜって、「ワシントンの大きな店は全部郊外にあるのです。(略)華やかなアーケード街は、都心から車で20分から30分」。さすが車社会アメリカ。

 ちなみに、冒頭の引用にあるように近くにスラム街もある。となれば安い生活用品もソコで仕入れられそうなモンだが、そういう所にロシア人がウロついたら目立つんだろうなあ。

 もちろん観光地もバッチり調べてある。ピラミッドだって頂上まで登っちゃう。本当は立ち入り禁止だけど、エジプトの警官は鼻薬が大好きなのだ。他にもカイロの記事は地元色・スパイ風味いずれも色々と濃い話が盛りだくさんで、なかなか刺激的。

 観光地の話の戻ろう。観光名所を見る時も、スパイの視点はちょっと違う。便利な点は、もちろんある。色とりどりの多くの人がいるので、紛れ込みやすい。また美術館は回廊や行き止まりが多いので、尾行者を巻くのに便利だとか。また書店や動物園もスパイには何かと便利で…

 もっとも、ワザと尾行させる場合もあるけど。だって巻こうとしたら、尾行者が「奴は何か大事な仕事の最中だな」と思うでしょ。ああ、狐と狸の化かし合い。この点、東京は…

交通状況は変わっていたが、悪名高い交番は残っていた。これは諜報員にとって最も不愉快な施設だった。
  ――東京

 と、実に評判が悪い。だって、尾行を巻いても、交番の警官に見つかっちゃうから。あれ、治安以外の役にも立ってたのね。東京の項では、他にも「あの頃」を思い出させる記述がチラホラ。そういえば横断歩道の黄色い旗、最近はあまり見かけなくなったなあ。

 冷戦期の話だけに、時代を感じさせるエピソードも多い。

 カイロに店を出すパレスチナ人の切手収集家もそうだが、ローマの記事も印象的だ。筆者レオニード・セルゲーエヴィチ・コロソフは、第二次世界大戦で戦死したレジスタンスの英雄の墓を訪れる。その英雄は、当時ソ連の兵士で…

 二次大戦がらみでやはり強い印象を残すのが、ベルリンで出会った年配の紳士のエピソード。ポツダム広場の近くに居を構える紳士の正体が、あけてびっくり玉手箱。

 それとは別に、各国のお国柄も楽しい。ドイツでは博士の肩書がモノを言う。タイ人は日本人と同じく、断る時にも相手の面子を潰さないように配慮する。中でも傑作なのが、1964年のリオ・デ・ジャネイロ。軍事クーデターで緊迫した空気の中、ソ連大使館が群衆に包囲される。そこに現れた救世主は…

 などと良いことばかりのようだが、困った点もある。スパイだけに、エイジェントを釣る際には相応の饗応をせにゃならん。ってなわけで、各地の名物料理が次から次へと出てくる。なにせ自分の舌で確かめただけあって、どれも真に迫った描写。空腹時に読むには向かない本だ。ああ牡蠣が食べたい。

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2018年10月18日 (木)

ロレッタ・ナポリオーニ「人質の経済学」文藝春秋 村井章子訳

2004年イラクで誘拐された欧米人は200万ドルの身代金で解放された。しかし今日ではシリアの誘拐で1000万ドル以上を払うこともある。本書は、誘拐によりいかにジハーディスト組織が成立し、伸長していったかを描く
  ――はじめに 誘拐がジハーディスト組織を育てた

「2011年9月に(イタリア)外務省から連絡があり、いましばらく待ってほしい、なにしろ19件の誘拐事件を抱えているので、と言われたそうです」
  ――第1章 すべての始まり9.11愛国者法

「虎に餌をやってしまったら、虎は餌欲しさにひんぱんにキャンプに来るようになる」
  ――第2章 誘拐は金になる

船の乗っ取りと乗組員の拿捕にコストがかかるのは、海賊の側も同じである。だから、交渉が長引くほど利益は減る。
  ――第4章 海賊に投資する人々

マネーロンダリングが手軽にできる最高の場所は、ペルシャ湾岸である。たとえばベルギー船ポンペイ号が2012年4月18日に乗っ取られると、ベルギー当局は、海賊の交渉人からドバイの銀行の口座と暗証番号を指定された。
  ――第5章 密入国斡旋へ

誘拐が頻発する地域は主に二つに分けられる。一つは国家が破綻している地域、もうひとつは並外れた高度成長を遂げている地域、たとえば中国だ。
  ――第7章 ある誘拐交渉人の独白

身代金を払う国の中で、自分で交渉して自分で払うと言い張ることで悪名高いのは、イタリア、ドイツ、フランス、スペインなどだ。(略)これまでのところ最も多額の身代金を払っているのは、イタリアである。
  ――第8章 身代金の決定メカニズム

【どんな本?】

 2004年、イラクで三人の日本人が誘拐され、大騒ぎとなった。2014年にも、シリアでイスラム国を名乗る組織に二人の日本人が誘拐され、殺された。

 かつてのソマリアのように、シリアやアフリカ北部では、誘拐が人質ビジネスとして産業化している。その背景には、どんな事情があるのか。どんな者たちが誘拐ビジネスに携わり、どんな手口を使うのか。彼らを抑え込む方法はあるのか。そして、人質になるのはどんな人たちで、何が彼らの生死を分けるのか。

 テロ組織を研究する気鋭のジャーナリストが、人質となった人々や解放の交渉に当たった専門家に取材し、またアフリカのAQIM・ソマリアの海賊・シリアの反政府組織などの人質ビジネスで稼ぐ組織の内情を暴いた、衝撃のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Merchants of Men : How Jihadists and ISIS Turned Kidnapping and Refugee Trafficking into a Multi-Billion Dollar Business, by Loretta Napoleoni, 2016。日本語版は2016年12月30日第一刷。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約261頁に加え、池上彰の解説「トランプ後の世界に必読の一冊」5頁。9ポイント42字×20行×261頁=約219,240字、400字詰め原稿用紙で約549枚。文庫本なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。ただしアメリカ人向けに書いているためか、出てくる人質の多くはアメリカで話題になった人が多い。一応、日本の今井紀明・高遠菜穂子・郡山総一郎・安田純平・後藤健二・湯川遥菜も少し出てくる。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているが、かなり工夫した構成になっているので、素直に頭から読むといい。

  • はじめに 誘拐がジハーディスト組織を育てた
  • 序章 スウェーデンの偽イラク人
  • 第1章 すべての始まり9.11愛国者法
  • 第2章 誘拐は金になる
  • 第3章 人間密輸へ
  • 第4章 海賊に投資する人々
  • 第5章 密入国斡旋へ
  • 第6章 反政府組織という幻想
  • 第7章 ある誘拐交渉人の独白
  • 第8章 身代金の決定メカニズム
  • 第9章 助けたければ早く交渉しろ
  • 第10章 イスラム国での危険な自分探し
  • 第11章 人質は本当にヒーローなのか?
  • 第12章 メディアを黙らせろ
  • 第13章 助かる人質、助からない人質
  • 第14章 あるシリア難民の告白
  • 第15章 難民というビジネスチャンス
  • 終章 欧州崩壊のパラドクス
  • 謝辞/用語集/ソースノート
  • 解説 トランプ後の世界に必読の一冊 池上彰

【感想は?】

 「はじめに」で一気に引き込まれた。読ませる工夫が巧い。お話はこうだ。

 きっかけは2001年のアメリカの愛国者法。米政府は金融機関に命じる。「すべてのドル取引は政府に届けろ」。違法な取引を規制するのが目的だ。

 困ったのはコロンビアの麻薬組織。そこでイタリアのマフィアと手を結び、コカインの欧州市場を開拓し、ユーロ決済の道を作る。この辺は「コカイン ゼロゼロゼロ」にも出てきた。

 ブツは南米ベネズエラを介し、いったん西アフリカのギニアビサウに運ぶ。ここからサハラを超え地中海へ向かうルートは、昔からタバコなどの密輸業者が使っていた。

 このルートを仕切るのが、反政府組織のAQIM(→Wikipedia)。「ボコ・ハラム イスラーム国を超えた[史上最悪]のテロ組織」にも名前が出てきた組織だ。同じルートで欧米の観光客を攫い、政府から金を脅し取れば、いい稼ぎになる。

 「2011年までの間に、AQIMは身代金だけで1憶6500ドルをかせいだという」というから、美味しい商売だ。ドライバーやガイドも抱き込み、ちゃんと地元の者にも利益を還元する。おお、巧い商売…と思ったが、落とし穴もあった。

誘拐の多発で、歴史遺産を誇る砂漠の都市ティンブクトゥの観光産業は息の根を止められた。(略)誘拐による資金調達には、このビジネスがさかんになると人質の供給が突然止まってしまうという致命的な欠点がある。
  ――第3章 人間密輸へ

 そこで新たな商売として始めたのが、アフリカからEUへの難民輸送。

「ヨーロッパに流入した難民の90%は、犯罪組織に頼ってやって来る」
  ――第15章 難民というビジネスチャンス

 これまた輸送先のEU内にも手先が潜り込んでいる上に、受け入れる側でも「難民ビジネス」が成立しちゃってるから手に負えない。

難民に家と食事を提供すれば、一晩当たり31~75ドルがノルウェー政府から支払われるのである。
  ――第15章 難民というビジネスチャンス

 日本の貧困ビジネスみたいなモンだ。

 そんなAQIMに学んだのがイラクやシリアの反政府組織。もともとアサド政権も、国民相手に人質商売をしてた。

いまではアサド体制の主要な資金源の一つが身代金であったことがわかっている。
  ――第6章 反政府組織という幻想

 小金持ちに因縁をつけてブタ箱にブチ込み、金を巻き上げていた。これに倣ってか、反政府側は外国人を攫い一攫千金を狙う。カモはジャーナリストや人道活動家だ。トルコの難民キャンプにも、手先が潜り込んでいる。そこで「特ダネがある」などとジャーナリストに持ち掛け、組織に引き渡すのだ。

 そこで引っかかるのは、特ダネで一発当てて名を挙げようとするジャーナリストの卵。ネットの普及でメディア商売は競争が激しくなり、大手の懐は寂しくなる。おまけに記者の保険料と警備費用は上がる一方。そこで安上がりなフリーランサーに頼るんだが…

フリーランサーがとるリスクは、彼らが得る報酬と比べると、ばかばかしく大きすぎるように見える。大手メディアでさえ、記事一本に200ドル程度しか払わない。
  ――第12章 メディアを黙らせろ

 と、安く買いたたかれる。切ないなあ。

 誘拐する側も楽じゃない。人質だってメシを喰う。取引が長引けば、食わす費用も半端じゃない。

「誰も、女の人質は欲しがらない。(略)施設や待遇の面でも、男の人質のほうがよほど扱いやすい。とりわけ、男と女を両方拘束するのは実に厄介だ」
  ――第9章 助けたければ早く交渉しろ

 不慣れなチンピラがガイジンを攫っても、費用が嵩むだけで、交渉相手を見つける事すら難しい。でも世の中、捨てる神あれば拾う神あり。シリアじゃちゃんと人質市場が成立しているのだ。小組織は大組織に人質を売り飛ばし、小遣いを稼ぐ。相手国との交渉は大組織が受け持ち、ゴッソリ稼ぐ。

 人質の消息が掴めない理由の一つは、これか。じゃ、ビジネスに長けた大組織なら、大切な商品である人質の身は安全か、というと、そうでもなくて…

彼ら(イスラム国)は一度に一つの国と交渉する方式をとっており、最初に解放交渉が行われたのはスペイン人の人質だった。そしてスペインを、というよりもすべての国を震え上がらせるために、いちばん価値の低い人質を処刑した。
  ――第13章 助かる人質、助からない人質

 みせしめや、政治的な目的のために、ワザと人質を始末する場合もあるから、油断はできない。著者によれば、後藤氏は最初は金目的だったのが、安倍首相の中東訪問を機に殺すことに決まったとか。肝心の後藤氏は、戦場に慣れたプロとして注意深く行動していたそうだ。

 人質を取られた各国市民の反応も様々で、日本の反応の特異さもキッチリ書いてある。イタリアみたく人質を英雄視するのはなんか違うと思うが、日本のようにヒステリックに叩くのも、なんだかなあ。

 という板挟みは著者も同じで、結論としては「妙案は何もない」。

 とまれ、地元の人々を抱き込み地場産業に仕立て上げてしまう犯罪組織の内幕や、政府がつける人質の値段、ジャーナリストの現状など、ホットな話題にはこと欠かず、読み始めたら止まらない、エキサイティングな一冊だった。

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2018年10月15日 (月)

イアン・ホワイトロー「単位の歴史 測る・計る・量る」大月書店 冨永星訳

これは、ごく古い文明の時代から今日に至るまでに、人間が世界を秩序立てて理解するために用いてきた手段についての本だ。
  ――はじめに

A0の紙は、縦横比が1.4142であるだけではなく、じつは面積がちょうど1平方メートルなのだ。
  ――第3章 面積の単位

いったいどうやって陽子や中性子の質量を求めたのだろう。
  ――第5章 質量の単位

1キロカロリーとは、標準大気圧の中で1キログラムの水の温度を1℃上げるのに必要な熱量…
  ――第10章 エネルギーと仕事率の単位

【どんな本?】

 単位にはいろいろある。メートル/キログラム/秒などは、SI基本単位として国際的に使っている。また、マイクロ・ミリ・センチ・キロなど、いろいろな接頭語がつく場合もある。

 加えて、国や分野や業界に特有の単位もある。アメリカは今でもガロンやマイルで、ボクサーの体重はポンドだ。文字サイズはポイントで、ダイヤモンドはカラット、原油はバレル。SF者ならAU・光年・パーセクなどがお馴染みだ。

 メートル法だと、ミリやキロは、たいてい10のn乗を示すので、なんとなくわかる。が、ヤード・ポンド法などでは、同じ長さでも、1マイルは1760ヤードと、妙に半端な数字になる。

 なぜこんな半端な数字になるのか。それぞれの単位は、いつ、何を、どう測るために決まったのか。そして、科学者たちは、どのようにモノゴトを測ってきたのか。

 単位をめぐる歴史と、様々なものを測ろうとした科学者の試みを、軽快なコラムで語る、一般向けの科学・歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Measure of All Things : The Story of Man and Measurement, by Ian Whitelaw, 2007。日本語版は2009年5月20日第1刷発行。単行本ハードカバー横一段組みで本文約240頁。8.5ポイント36字×34行×240頁=約293,760字、400字詰め原稿用紙で約735枚。文庫本なら厚い一冊分ぐらいだが、イラストや写真が多いので、実際の文字数は7~8割ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。が、ヤード・ポンド法が盛んなアメリカ人・イギリス人向けに書いてあるため、日本人には慣れないグレインやパイントなどの単位が出てくるのは、少し辛かった。また、読み終えてから気がついたんだが、フィートをフートと書いてある。

【構成は?】

 それぞれ1~5頁ぐらいの独立した短いコラムが並ぶ構成だ。だから、気になった所だけをつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 第1章 度量衡
    ごく初期の計測/古代地中海文明での計測/世界各地の度量衡/英語を話す世界では/帝制度量衡と慣用度量衡/メートル法の起源/国際単位系/米国でのメートル法
  • 第2章 長さの単位
    フート、ハロン、ロッド/マイルとヤード/海に関する長さの単位/メートルという基本単位/宇宙を測る/馬に関する単位/計測の限界/ゲージ
  • 第3章 面積の単位
    中世の土地の単位/面積の単位/メートル法の面積の単位/紙の大きさを定義する
  • 第4章 体積や容量の単位
    メートル法の体積の単位/ワインボトルのボトルサイズとその呼び名/帝制度量衡の体積の単位/液体を入れる樽の容積/料理に登場する単位
  • 第5章 質量の単位
    質量と重さ/帝制度量衡と慣用度量衡の質量の単位/少量の物や貴重な物の質量/メートル法の質量/きわめて小さなものの質量/物質の密度
  • 第6章 温度の単位
    熱さと冷たさ/度の問題/絶対温度
  • 第7章 時を計る
    年と月/時間と国際単位系/1秒をさらに分割する/地質年代を測定する
  • 第8章 速さの単位
    速さの国際単位/平均の速さ/帝制度量衡と慣用度量衡の速さの単位/光と音の速さ/Cを求めて/加速度
  • 第9章 力や圧力の単位
    力とは何か/国際単位系と慣用度量衡の力の単位/重力と重さ/トルクとてこ/圧力/大気圧
  • 第10章 エネルギーと仕事率の単位
    力が働く/国際単位系以外のエネルギーと仕事率の単位/国際単位系の仕事とエネルギーと仕事率の単位/放射能/電気の単位/放射エネルギー/レーザーで測る/爆発のエネルギー/風力
  • 第11章 さまざまな物を計る
    デジタル情報の単位/薪の量/唐辛子はどれくらい辛いか/指輪のサイズ/濃度の単位/硬さ/活字/国際単位系の図
  • エピローグ
  • 解説 日本の単位 高田誠二
  • 索引

【感想は?】

 世の中には暗記が得意な人と苦手な人がいる。私はとても苦手だ。

 お陰で海外の小説を読む時は、けっこう苦労したり。最近になって、やっと1マイル≒1.6kmと覚えたが、ガロンは今でもピンとこない。

 こないのも当たり前で、アメリカのガロンとイギリスのガロンは違うのだった。アメリカは1ガロン≒3.8リットル、イギリスは1ガロン≒4.5リットル。あー面倒くさい。これは計量スプーンにも影響してるとか。料理本を翻訳する人は大変だ。

 ある意味、メートル法は不自然な単位で、だから直感的にピンとこないのだ、みたいな話を聞いた事がある。というのも、昔の単位は、「何を測るか」に基づいて決まったからだ。例えば、船や航空機の距離や速度を表す、海里やノット。

船が経線に沿って航行し、緯度にして30分移動すると、その船は30海里進んだことになる。
  ――第2章 長さの単位

1時間に1海里進む速さのことを1ノット〔knot〕と呼ぶ。
  ――第8章 速さの単位

 確かにこれだと、色々と便利そうだ。天測で位置を調べるにせよ、海図で距離を調べるにせよ、地球上の角度を単位の基本とすれば、いろいろと便利だろう。なお、ここでの1分は1度の1/60で、1海里≒1.85キロメートル。

 便利そうな単位として面白いのが、「ジレット」。レーザー研究の初期に、レーザーの強さを表すため、研究者のセオドア・レイマンが考え出し、ソレナリに使われたとか。これは、「レーザーで一度に穴をあけられるジレットのカミソリの刃の枚数」を表し、初期のレーザーは2~4ジレットぐらい。

 なんかいい加減なようだけど、「ジレット社製安全カミソリの刃は厚みがかなり一様なので」けっこう信頼できた、というから、工業製品の精度は恐るべし。

 やはり昔の単位は人の身体を基準として決まってるから便利、みたいは話もある。けど、1フート(フィート)は足の大きさで、約30.5センチメートルと聞くと、「ホンマかいな?」と思ったり。いやそれ、やたら足デカくね?見栄はってるだろ、絶対。もしくは足じゃなくてサンダルの大きさなのかな?

 などと、前半では「どうやって決まったか」の話が多い。これが後半になると、「どうやって測ったか」が増えて、科学の色が濃くなる。

 最初に凄いと思ったのが、光速の測り方。ガリレオは巧くいかなかったようだが、1675年にオーレ・レーマー(→Wikipedia)が巧みに計算している。木星の月イオの(食の)周期は、季節により違う。これは季節により地球とイオの距離が違うからだと考えたのだ。

 実際、最も近い時と、最も遠い時では、約2AU(30億km)違う。この距離を光が進む時間だけズレると考えた。今 Google に尋ねたら約16分38秒です。発想も鮮やかだが、当時の観測装置でやった執念も凄い。ちなみにレーマンの誤差は25%だとか。

 光はもっと身近な所でも使われてて、例えばレーザーで距離や大きさを測るなんて技術もある。とはいえ、花火との距離は音と光のズレで分かるけど、光はやたらと速い。んなモン、どうやって調べるのかと思ったら…

レーザービームを分割し、ビームを半分づつ異なる経路を通してから組み合わせ、2つのビームの干渉の具合を見れば、これらの経路に違いがあるかどうかが、ビームの波長の何分の1といったわずかなレベルでわかるのである。
  ――第10章 エネルギーと仕事率の単位

 そうか、位相の違いを見るのか。それなら、波長を変えれば短い距離もわかるね。もっとも、どうやって位相の違いを調べるのかはわからないけど←をい。

 どの章も、ほぼ独立した数頁のコラムを束ねた形なので、気になった所だけをつまみ食いできるのも嬉しい。また、テラ・ギガ・メガ・キロ・ミリ・マイクロ・ナノ・ピコ・フェムトなど、国際単位系の接頭語が整理してあるのも有り難い。ちょっと独自の単位を作ってみたくなったなあ。食品の腐りやすさとか。

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2018年10月12日 (金)

藤代泰三「キリスト教史」講談社学術文庫 2

古代教会におけるローマ・カトリック教会は司教らの教会であったが、中世においてそれは教皇の教会となる…
  ――22 教皇制度の興隆

グレゴリウス九世(在位1227-1241)は1231年に異端審問所を創設した。異端審問所においては告発者と裁判官とは同一人である。
  ――29 分派運動と異端審問所

プロテスタント教会は宗教改革ののちも分裂に分裂を重ねていくが、ローマ・カトリック教会は一つとなって宣教に当たっていった。
  ――39 対抗改革

アフリカのキリスト教徒の数は、北部(主にイスラム教徒や原始宗教信仰者が多い)を除いて、プロテスタント教徒が約千二百万人、そしてローマ・カトリック教徒が約千八百万人であると推定される。
  ――79 アフリカと東南アジアと東アジアとオセアニアとの教会

 藤代泰三「キリスト教史」講談社学術文庫 1 から続く。

【系統樹】

 ある意味、この本を要約してるのが416頁の図、教会系譜。生物の本の系統樹のような、有名な教会の系譜の図だ。400年頃、既に五つに分かれている。エジプトのコプト教会、ペルシアのネストリオス教会、シリアのヤコバイト教会、ローマ教会(後のバチカン&正教会)、そしてアルメニア教会。

 アルメニア教会って正教の一派かと思ってたけど、実はすごく歴史のある宗派だったんだね。

【聖餐】

 キリスト教史全体を通しても、組織体質が最も大きく変わったと感じるのが、ローマに受け入れられていく過程。例えば聖餐。今は教会によって色々な解釈がされてるようだけど…

 まず原始教団では聖餐は共同の食事であり、弟子がユダヤ教の習慣に従ってこの食事に集まり、一人がパンを祝福する時、彼らはかつて主が祝福してパンをさいたあの楽しかった日々を想起した。
  ――9 礼拝と礼典

 と、最初は「みんなで晩メシ食っておしゃべりしよう」的なモノだった。こういう発想を受け継いでるのって、現代日本の「こども食堂」なんでない?

 また、「上流階級に浸透するにつれ、奴隷を兄弟と考える」って発想が薄れてくあたりは、時代と共に人が入れ替わるにつれ、中の人に相応しい形に変わったんだろう。で、特にローマ・カトリックは、当時に得た上流階級用の性質を、現在まで受け継いできたんじゃないか、と。

【世界史】

 キリスト教史を語るにあたって、その時その土地の情勢や背景から説き起こしているのが、この本の凄い所。お陰で、歴史学の底なし沼に読者を誘い込むトラップがアチコチに仕掛けてある。例えば…

(ゲルマンの)神々は人生における助力者であり彼らの敵に対して戦う。神々は氏族の幸福である平和を保障し共同体の守護神となる。神々は祭儀に関して命令するが、その命令はまだ倫理的領域との連関をもっていなかった。
  ――19 ゲルマン民族への宣教

 って、これ、日本の神道とソックリだ。特に祭儀には拘るけど倫理は別って所とか。というか、アブラハムの宗教以外の宗教って、たいていはそんな性格なんじゃなかろか。いや調べてないけど。

 やはりドイツだと、こんな記述もあって。

30年戦争の結果、ドイツの国土は荒廃し道徳は低下し産業も衰え、その人口は三千万人から千二百万人に激減した。
  ――51 敬虔主義

 なにそれ凄い。ニワカとはいえ軍ヲタを自任してるくせに、30年戦争は全く知らなかった。日本だと徳川秀忠~家光あたりか。ヨーロッパは地獄だぜ。

 やはり興味をそそられるのが…

カルヴァンの宗教改革当時ジュネーヴの人口は一万九千人であったが、その約1/3すなわち、六千人の亡命者が住んでいた。
  ――37 カルヴァンの宗教改革

 と、かなり昔からジュヴェーヴは国際都市だった模様。いったい、どんな事情でそうなったのか。いつかジュネーヴの歴史も調べてみたい。とか言ってると、野次馬根性は際限なく広がっていく。果たして死ぬまでに、どれだけの本が読めるんだろう?

【植民地政策】

 とかの歴史ばかりでなく、現代の世界情勢にも目を配ってるから憎い。例えば…

19世紀後期に契約に基づき農園労働者としてこの国(フィジー)に移民したインド人の数は、この国で誕生したインド人を含めて同年に十七万人になったので、すでに1956年にフィジー族の人口は十四万八千人となり、この国のなかで少数民族となってしまった。
  ――79 アフリカと東南アジアと東アジアとオセアニアとの教会

 って、フィジーも大変だ。Wikipedia を見ると、やはり睨み合いはある様子。スリランカといい、イギリスも無茶やってるよなあ。

【新大陸】

 合衆国はプロテスタントの国って印象がある。そうなったのは、どうやら宗派ごとの布教の方法の違いもあるらしい。カトリックはフランシスコ・ザビエルみたく役割を担った伝道者が布教に赴くのに対し、幾つかのプロテスタントは信徒が自ら布教する。これが西部開拓のスタイルに合っていた、と。

 しかも、これが戦争の趨勢にも影響を与える。

それでは教職者はこの戦争(独立戦争)に対してどのような役割を果たしたのであろうか。ニューイングランドほど読み書きが普及しておらず、また新聞報道に接する機会も少なかったところでは、植民地人は時代の諸問題がどのようなものであるかを知ることができず、これらについて知るためには、説教者による以外には手立てはなかった。
  ――52 北米における教会の移植と発展

 要はクチコミ。で、各地を旅する説教者は、同時にニュースを伝える役割も担っていたわけ。今でも「旅人を丁寧にもてなす」習慣が残ってる地域があるのは、こういう事情なのかな? 当時の旅人は、こういう役目があると同時に、山賊に襲われる危険も大きかったんだし。

【儀式】

 プロテスタントは幾つもの宗派に分かれてるが、状況によっては一緒にやっていこうとする場合もある。特にキリスト教徒が少ない土地では、助け合うケースもみられる。この障害の一つが儀式の形で、宗派によっては形も大切なのだ。

定式化した祈祷はいわば魔力的効力を持つものと考えられたから、これを多少でも変更することはこの効力の喪失になると考えられた。
  ――62 東方とロシアの正教会

 特に文字も読めない人が多い所では、こういう形って大事なんだろう。

【正教】

 日本のプロテスタントの記述が多い半面、正教の扱いは少ない。が、少ないなりに、正教は苦闘の歴史を歩んできたのがわかる。正教が盛んな土地は、主にオスマン帝国の支配下にあったため、どうしても少数派として迫害されがちなのだ。

 唯一の楽園はロシアだったんだが、それも革命で…

1933年の初めに、1937年までにはソヴィエト連邦には、ひとつの教会も残らないように目標が設定された。
  ――73 ボリシェヴィキとロシア正教会

 と、スターリンにいぢめられる。確かスターリンは神学校に通ってたはずだが、その時の恨みもあるんだろうか?

【ライバル】

 宗教と科学の対立なんて構図があるけど、最近になって私はこう思うようになった。「宗教の商売敵って、科学より娯楽なんじゃね?」と。この疑念を裏付けてくれる記述もある。

…文明の娯楽――例えばラジオ、新聞の日曜娯楽版、最初は自転車、のちに自動車――が日曜日の習慣を変えてしまった。1850年には恐らく人口の少なくとも半数が教会に規則的に出席していたが、1950年までにその9/10がそのこのような習慣をもたなくなった。
  ――76 英国と英連邦との教会

 昔から漫画やアニメやゲームを敵視する人はいた。世の中には、見慣れないってだけで新しいモノを嫌う人もいる。が、中には異様に攻撃的な人もいる。最近ではキズナアイが騒ぎになった。その背景には、こういう事情もあるんじゃないかと私は疑っている。

 つまり、誰でもスグ手軽に楽しめる娯楽は、新興宗教の市場を食い荒らすのだ。特に最近はネットで同好の志を募るのも楽になった。これは、新興宗教のもう一つのアピール・ポイント、「仲間が見つかる」とも競合する。

 市場拡大を目論む新興宗教にとっては、手軽に楽しめて仲間も見つかるヲタ趣味は、実に目障りな存在だろう。逆に考えると、ヲタ趣味はカルトの力を削ぐのだ。ゲームは世界を平和にするのだ。ホンマかいなw

【おわりに】

 などとケッタイな結論になったが、もちろん本書はそんなふざけた本じゃない。その時々や地域の政治情勢など広く深い歴史の知見を基礎に、教会の組織はもちろん重要人物の思想にまで踏み込みつつも、二千年の歴史を一冊の文庫本にギュッと押し込めた、極めて重い本だ。相応の覚悟をして挑もう。

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