カテゴリー「書評:科学/技術」の327件の記事

2024年9月 8日 (日)

ライアン・ノース「科学でかなえる世界征服」早川書房 吉田三知代訳

これは、科学の限界と、科学の未解決問題についての本だ。(略)
別の言い方をすると、本書は本物のスーパーヴィランになり世界を征服することを指南するノンフィクションである。
  ――おことわり

不可能に違いないと思えるのに、どういうわけか不可能ではない領域こそ、スーパーヴィランの活躍の場なのだ。
  ――第1章 スーパーヴィランには秘密基地が必要だ

どんな犯罪にも3つの段階がある。計画、実行、そして逃走だ。
  ――第4章 完全犯罪のために気候をコントロールする

地磁気は、方位磁石が使えるようにしてくれているだけでなく、太陽風の大半が地球に届かないように遮ってくれる。地球上に生物が存在できるのも、地磁気がこうして守ってくれているからだ。
  ――第5章 地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法

地球に存在した事のある種の中で、化石記録に一つでも載っているのは、1万種に1種でしかない
  ――第9章 あなたが決して忘れられないようにするために

この世界は大きく複雑で困難で不公平かもしれないが、それは知ることができる。
  ――結び:今やあなたはスーパーヴィラン、宇宙にあるすべての世界の救世主

【どんな本?】

 ヴィラン、悪役。漫画やコミックの世界では、悪役こそが物語を牽引する。悪役が卓越した技術と能力で世界を危機に陥れるから、ヒーローに活躍の場が与えられる。悪役は自らの主義と美学に従い、充分な時間と資金を用意し、周到に計画を練り、必要な技術を開発して計画を実施する。それでも、大抵の場合は幸運に恵まれただけのヒーローに計画を覆されてしまう。

 それでも、本物の悪役はくじけない。潤沢な資金と先端の科学技術そして強い意志と充分な時間を掛けたなら、果たして悪役はどこまでできるのか。

 まずは秘密基地を構築し、自らの国を興し、世界を混乱に叩き込み、己の名を永遠に残すには、どうすればいいのか。

 コミックの原作者でもある著者が、「ゼロからつくる科学文明」に続いて送る、科学をオモチャにして「もしも」を妄想する、ユーモラスな科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How to Take Over the world : Practical Schemes and Scientific Solutions for the Aspiring Supervillain, by Ryan North, 2022。日本語版は2023年7月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約417頁に加え、訳者あとがき3頁。9.5ポイント33字×29行×417頁=約399,069字、400字詰め原稿用紙で約998枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はくだけていて親しみやすい。ただ、クセが強いので、好みは別れるかも。一応カテゴリは科学/技術としたが、実は歴史上のトリビアも豊かに載っている。そういう点では、アイザック・アシモフの科学解説書の伝統を受け継ぎつつ、独自の芸風を発展させた本でもある。

【構成は?】

 一応タテマエとして、最初の「おことわり」は読んでください。以降は美味しそうな所を拾い読みしてもいい。

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  • おことわり
  • はじめに:こんにちは、そして、世界征服について私が書いた本をお読みくださり、ありがとうございます
  • 第1部:スーパーヴィランの超基本
  • 第1章 スーパーヴィランには秘密基地が必要だ
  • 第2章 自分自身の国を始めるには
  • 第2部:世界征服について語るときに我々の語ること
  • 第3章 恐竜のクローン作製と、それに反対するすべての人々への恐ろしいニュース
  • 第4章 完全犯罪のために気候をコントロールする
  • 第5章 地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法
  • 第6章 タイムトラベル
  • 第7章 私たち全員を救うためにインターネットを破壊する
  • 第3部:犯罪が罰せられなければ、犯人はそれを犯したことを決して悔いない
  • 第8章 不死身となり、文字通り永遠に生きるには
  • 第9章 あなたが決して忘れられないようにするために
  • 結び:今やあなたはスーパーヴィラン、宇宙にあるすべての世界の救世主
  • 謝辞/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 そう、この本の面白さは、科学・雑学エッセイ本の面白さなのだ。

 独特の味付けはある。文体は今風にくだけているし、そもそも企画からしてアメリカン・コミックの悪役が主役だ。が、それも本書なりの狙いによるものだ。

 何せ世界を征服しようと目論む悪の超人である。充分な資金があり、長期にわたる計画を強い意志で押し通し、そして倫理に縛られない。大抵の科学者・工学者が「出来るわけねえだろ」をオブラートに包んで言いかえる「理論的には出来ます」を、本当にやっちゃえる奴らなのだ。制限としては「科学的に可能か否か」だけ。妄想のネタとしては実に便利である。

 そんな悪役が挑む課題は、秘密基地建設・独立国家建国・恐竜の復活・気候制御・不老不死などと、かつては男の子だった者たちの心が躍りまくるもの。しかも、それぞれに初期投資・期待収益・完了までの予測期間を示した事業計画概要つき。おお、本格的じゃないか。

 その秘密基地なんだが、邪魔してくるのが既存の国家なのがいじましく切ない。本書は完全な自給自足を求めているのも、計画の達成を難しくしている。とまれ、考えてみたら、近くの町に買い出しに行く悪役ってのもシマらないかw

 ここで披露する、長時間の閉鎖環境バイオスフィア2(→Wikipedia)の顛末や最長連続飛行記録そしてブルジュ・ハリファのラマダンの断食明けの時刻の話など、細かいトリビアも楽しい。

 第3章では、恐竜を蘇らせる計画に挑む。だってカッコいいし。ただ、その手段はさすがに意表をついてきた。ついでに収益化の手段も。なんだよKFDってw

 などの、いわば物理的な創造/破壊を目指す計画に対し、第7章はいささか毛色が違う。何せインターネットの破壊だ。歴史は浅く、最近になって人類が生み出した技術のクセに、やたらしぶとい。この章デハ、ケン・トンプソンの登場が嬉しかった。

 そして、第3部では永遠に挑むのである。まずは己の生命を、次に己の記録を。

 不老不死に挑む第8章では、不老不死を求めた歴史上の人物たちのエピソードが、なかなかクる。なんといっても、結局はみんな失敗してるワケだし。にも関わらず、皆さん自信満々な言葉を残すのは、なぜなんだろうね。

 最後の第9章では、記録永遠に残す事業への挑戦だ。ここでも、今まで人類が試みた手段が紹介されるんだが、やはりコンピュータ関係はネタが豊富だなあw 電子化ってのは、意外と長くモタないんです。その次に突き当たる、別の「ソフトウェア」の寿命も、「その問題があったか!」と意表を突く問題。確かに数百年前の事を考えれば、そうなるよなあ。

 しかもこれ、既に対策せにゃならん問題があり、今もなお増えつつあるのが怖い。本書が紹介するのは合衆国の話だけど、日本もヒトゴトっじゃないのだ。どうするんだろうね、マジで。

 その記録を残す媒体も問題だが、場所も難しい。ここでは、墓場軌道(→Wikipedia)が面白かった。これを扱ったSF小説って、あるんだろうか? ちょっと読んでみたい。

 などと気軽に読みつつ、最後の最後で、「もしかしてアメリカン・コミックの悪役より日本の変身ヒーローの悪の組織のがイケてね?」と感じさせるのも趣深い。いやきっと著者は気が付いてないけど。

 コミックの悪役に夢を託し、技術的にも経済的にもそして倫理的にも困難な計画に挑み、そこに立ちふさがる科学的・社会的な壁とその越え方を妄想するだけでなく、かつて実際に試みた人々のトリビアを取り混ぜて語る、科学と歴史と雑学の楽しいエッセイ本。この著者の味付けだと、特に雑学が好きな人にお薦めだ。

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2024年9月 3日 (火)

ニック・エンフィールド「会話の科学 あなたはなぜ『え?』と言ってしまうのか」文芸春秋 夏目大訳

私は本書で、これまでの主流となってきた言語研究で何が見過ごされ、除外されてきたかを話したい。そして、会話というものの内部構造を詳しく解説し、それこそが言語研究の主たる対象であるべき理由をわかってもらいたい。
  ――第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか

人間の会話の場合は、お互いに相手の行動を最大限、「関連性のあるもの」として扱って解釈するよう努力する。
  ――第6章 質問と答えの関連性

人間は「会話機械」を持つ(略)。この機械は、言語の基本的な特性、人間の社会的認知能力、そして相互交流の文脈などに依存して機能する。
  ――第9章 結論 会話の科学が起こす革命

【どんな本?】

 フェルディナン・ド・ソシュール(→Wikipedia)もノーム・チョムスキー(→Wikipedia)も、従来の言語学は「書き言葉」を中心に研究してきた。

 研究対象の文章は文法的に正しく、完結している。そして会話によく現れる「あー」「え?」「うんうん」などの無駄に思える言葉はない。また、声の高低や強弱・間の長短などの情報も含まない。

 だが、言語はもともと話し言葉から始まった。言語の歴史から見れば、書き言葉は遥か後になって現れた新参者だ。では、話し言葉=会話を研究・分析をすると、何が分かるだろう?

 英語・日本語・中国語など、世界には様々な言語がある。だが、会話の研究では、多くの言語に共通したルール/お約束が見えてくる。もちろん、言語による違いもある。

 従来の言語学とは全く異なった、会話を対象とした研究で見えてきた言語/会話の性質、そしてそこに現れる、人類の意外な能力と性向を描き出す、一風変わった言語学の一般向け解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How We Talk : The Inner Workings of Conversation, by Nick J. Enfield, 2017。日本語版は2023年3月30日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約224頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント42字×19行×224頁=約178,752字、400字詰め原稿用紙で約447枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。先にソシュールやチョムスキーの名を出したが、言語学を知らなくても問題ない。できれば「今のところ、著者は言語学の王道ではなく特異な分野を担っている」ぐらいに思ってほしい。日本語以外の言語も、あまり知らなくていい。英語のグラマーが苦手でも問題ない。映画やドラマで会話の場面を見たことがあればいい。

 要は「おしゃべり」の研究なのだ。必要なのは、友達や家族と、どうでもいいおしゃべりをした経験である。

【構成は?】

 第1章は本書の全体を案内する部分なので、最初に読もう。以降は美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

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  • 第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか
  • 第2章 会話にはルールがある
  • 第3章 話者交代のタイミング
  • 第4章 その1秒間が重要
  • 第5章 信号を発する言葉
  • 第6章 質問と答えの関連性
  • 第7章 会話の流れを修復する
  • 第8章 修復キーワードは万国共通
  • 第9章 結論 会話の科学が起こす革命
  • 謝辞/注釈/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 真面目な解説書である。そのくせ、やたらと「ツカミ」が巧い。

 なにせ「第1章 はじめに そもそも言語とはどういうものか」で、多くの言語(によるおしゃべり)に共通するこんな性質を、冒頭で惜しげもなくバラしてしまう。

  1. 質問されて答えるまでの時間は、平均で約200ミリ秒。
  2. どの言語でも、「はい」と返すより「いいえ」と答えるほうが時間がかかる。
  3. 約1秒で返答があれば普通と判断し、それより速ければ「早い」、遅ければ「遅い」または「返事がない」と判断する。
  4. 会話中、84秒に1度、「え?」「誰が?」など、必ず誰かが確認する。
  5. 約60語に1語は「えーと」「あー」など、無意味っぽい言葉が出る。

 この辺で「ほう?」と思った人は、本書を楽しめるだろう。

 なんとなく原因や理由の見当がつく性質もある。例えば 2. だ。この理由は、人間の意外?な性質を反映している。おしゃべりとは、参加者がルールを守って協力し合う作業であり、人間はおしゃべりを成立させるため律義にルールを守って協力し合う、そんな性質である。繰り返す。おしゃべりとは、共同作業なのだ。

 では、おしゃべりに必要な性質・能力とは、どんなものか。本書では、様々な言語を研究・分析するだけでなく、ボノボやチンパンジーなど他の動物も調べてゆく。そこから現れる人類の能力・性質は、実に心温まる姿をしている。

社会文化的な認知能力――他者の心を読む能力、関連性を推測する能力、社会関係に道徳的な義務を感じる能力――が人間の会話機械の核にあると思われる。
  ――第6章 質問と答えの関連性

 これらの機能を担っているのが、従来の言語学で無視されてきた「はい」「え?」「あー」などの、無意味に思える言葉…どころか、うなり声に近いシロモノだったりする。

 中でも最も印象に残ったのは、「ええ」「はいはい」「うんうん」に当たる言葉、つまりは「相槌」「うなずき」だ。従来の言語学では、ほぼ意味のない単語だろう。

 だが、会話では重要な役割を担う。「私はあなたの話を聞き取れた、そして理解した」「私は話し始める気はない」「話を続けろ」などのメッセージを相手に伝えているのだ。短い声にもかかわらず、なんと豊かな意味を含んでいることか。

 この章で紹介する、相槌を省いた実験の結果は、衝撃的なまでに切ない。相槌が得られないと、語り手はボロボロになってしまうのだ。

 とまれ、情報理論によると、頻繁に使う符号を短くすれば伝送効率が良くなるので、短い声なのは理に適っているのか…などと考えてしまうのは計算屋の悪い癖か。

 更に計算機屋の悪い癖を続けると、本書の研究対象はデジタル通信で言うOSI参照モデル(またはOSIの7層モデル、→Wikipedia)のセッション層あたりだろう。対してチョムスキーなどは、HTML や Python などの言語の文法を対象としている。つまり、両者は対立しているのではなく、異なる領域を調べているのだ。

 そこで先の相槌だ。これはデジタル通信だと ack(肯定応答、→Wikipedia)に当たる。だとすれば、会話で極めて重要な役割を担っているのも頷ける。

 対する nck(否定応答、→Wikipedia)に当たる言葉(というか声)の話題もあり、これまた会話の参加者が「できるだけ効率的に会話を進めよう」と努めている姿が見えてきて、「人間って、おしゃべりするために、ここまで真面目に頑張るんだ」と驚いてしまったり。

 これらを知ると、人間がおしゃべり好きなのも、当たり前だなあと思えてくる。おしゃべりとは、共同作業であり、お互いに協力し合って成り立つコトなのだ。つまり、おしゃべりする間柄とは、協力し合える間柄でもあるのだから。

 従来の言語学から見れば、いささか変わった分野・アプローチではある。が、真面目な学問・研究でもある。にも関わらず、本書の内容は分かりやすく親しみやすい。なにより、私たちが日頃から体験し行っていることでもあり、身近で興味深い。なんたって、本書が扱っているのは、私自身そしてあなた自身の事なんだから。

 言語学の難しい理屈は知らなくてもいい。先にバラした会話の5個の性質に興味を惹かれたら、きっと楽しんで読めるだろう。

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2024年8月 6日 (火)

アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳

これはひとつのウイルス、あるいはひとつの感染爆発についての物語ではなく、僕たちの生活のあらゆる面に影響を与える感染という現象についての物語であり、それに対して僕たちに何ができるかについての物語である。
  ――序章

マサチューセッツ工科大学の研究者が、正確なニュースよりも誤ったニュースの方が、より速く、より遠くまで広がりやすい事を発見している。(略)人は新しい情報を広めえるのが好きだが、誤ったニュースは正確なニュースよりも一般に目新しい。
  ――第5章 オンラインでの感染

【どんな本?】

 新型コロナやエボラなどの感染症は、あるパターンにしたがって感染者が増減する。このパターンは、感染症ばかりでなく、意外なモノゴトの流行りすたりにも適用できる。コンピュータウイルスは、比較的に連想しやすい。デマやフェイクニュース、インターネット上の「バズる」なども、想像はつく。だが、金融危機や暴力犯罪はどうだろうか?

 数学を専攻した後、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院で数理モデリングを教えている著者が、感染症対策で成立した数理モデルが様々なテーマに応用されている事例を紹介しつつ、連鎖的な金融危機の内幕やデマの広がり方を語る、ちょっと変わった一般向けの数学・社会学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rules of Contagion : Why Things Spread and Why They Stop, by Adam Kucharski, 2020,2021.日本語版は2021年3月5日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約379頁。9.5ポイント42字×17行×379頁=約270,606字、400字詰め原稿用紙で約676枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も比較的にわかりやすい。著者は疫病対策に携わる数学者だが、数式はほぼ出てこないので、数学が苦手でも大丈夫。

【構成は?】

 序章と第1章は基礎を固める所なので、なるべくじっくり読む方がいい。第2章以降はそれぞれ独立した内容なので、気になった所を拾い読みしても大丈夫。

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  • 序章
    新型コロナウイルス重症化の解明/2つの対策シナリオ/あらゆる「感染爆発」が存在する/流行曲線でみる感染爆発/感染を比較し、解明する
  • 第1章 感染の理論
    ギランバレー症候群とジカ熱/数理モデルの夜明け前/マラリアの原因は「悪い空気」?/いかにしてマラリアを止めるか/マラリア伝染モデルの構築/「記述的手法」と「機構的手法」/実験できない問題に答えを出す/ロスの遺志を継ぐ者たち/「集団免疫」の概念の登場/ヤップ島の感染爆発を追う/ジカ熱を運んでいるのは何者か?/将来予測にも利用できる数理モデル/数理モデルを感染症以外に適用する/新製品の普及に必要な4タイプの人間
  • 第2章 金融危機と感染症
    間近で見た金融危機前夜/とりわけ目立った「住宅ローン」/群集の不安と強欲モデル化/バブルの主要な4段階/金融危機を疫学の知見で解明する/再生産数「R」/Rの4要因/スーパースプレッディングかどうか/ネットワークの構造を分析する/「エイズのコロンブス」の真偽/困難なスーパースプレッダーの特定/感染症による分断を避けるために/感染症と金融危機の類似/金融危機を引き起こしたネットワークとは?/金融危機の伝播を防ぐために何ができるか
  • 第3章 アイデアの感染
    概念は感染するのか?/ネットワーク調査の壁/接触行動から流行を予測する/人間で社会的実験は可能か?/既存のネットワークを利用する/複数の暴露による「複合伝染」/人は新しい情報を示されれば考えを改めるか?/バックファイア効果が実際に起こるのはまれ
  • 第4章 暴力の感染
    コレラの奇妙なパターン/暴力連鎖を分析する手立てはあるのか?/自殺の伝染/暴力連鎖を防ぐ3段構成/天然痘から学んだこと/データ調査もしていたナイチンゲール/調査vs安全/一回きりの暴徒化/テロと集団行動/モデルをどう利用するか/予測との付き合い方/オピオイドと現在予測/実態把握と制御/割れた窓を直せば犯罪は減るか?/オンライン交流の影響
  • 第5章 オンラインでの感染
    インフルエンサー登場/影響力があり影響されやすくもある人はいるか?/反ワクチンとエコーチェンバー現象/ソーシャルメディアがエコーチェンバー現象を加速する/コンテクストの崩壊/インターネットは格好の実験場/コンテンツも進化しなければ生き残れない/ヒッグス粒子の噂の拡散過程/威力の低い感染を正しく評価する/オンラインで流行を生む方法はあるか?/「のぞき見法」/指名式ゲームは感染爆発を産むか?/動画の人気3タイプ/測定値を評価することの罠/行動の追跡とその価値/人々を常にオンラインにさせるには/出会い系アプリと政治/高度化するターゲティングによる拡散/ミームの適者生存/東日本大震災でのデマ拡散はどうすれば減らせたのか/間違った情報に対抗していくために
  • 第6章 コンピュータウイルスの感染
    最初のコンピュータウイルス/マルウェアの諸症状/ワームの需要/生き残り続ける/コードシェアの問題/ウイルスのようにコードも進化する
  • 第7章 感染を追跡する
    進化の道筋をたどる/遺伝学的データからウイルスの時間と場所を特定する/遺伝子データ公開の障壁/言語・文化への応用/「垂直伝播」と「水兵伝播」/遺伝子データとプライバシー/GPSデータのブローカー/禁断の実験
  • 第8章 感染の法則を生かすために
    データがあっても常に問題を解決できるわけではない/困難な状況で最大限にデータを生かすために/大規模なデータ収集とその分析をどう進めるか/新たな感染に対応するために
  • 謝辞/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 根本にある理屈は、「バースト!」や「複雑な世界、単純な法則」や「スモールワールド・ネットワーク」と同じだ。何かが伝播し蔓延する、そのパターンに関する本である。

 ただ、本書のアプローチは、数学が苦手な人にも親しみやすい。先の三冊が理論を詳しく説明しようとしているのに対し、本書は「現実にどんな事柄に使っているか、巧くいった点と巧く行かなかった点は何か」といった、生々しいトピックが中心だからだ。いわば数学の授業とニュース番組の違い、とでも言うか。

 さて、基礎となっている理屈は変数Rで説明が終わる。疫病で言えば、一人の感染者が平均何人にうつすか、を表す数字だ。これが1を超えれば、感染は広がる。1より小さければ、感染は収束する。

 これを理論化したのが、19世紀~20世紀初頭の医学者のロナルド・ロス(→Wikipedia)。マラリアの研究で1902年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。そこで満足せず、更にマラリアの撲滅をめざして研究を続け、なんとあらゆる伝染症が感染を広げる過程の数理モデル化を目指すのである。

 そこで異端者であり先駆者でもある立場を覚悟した、彼の言葉がとても凛々しい。

「我々は最終的には新しい科学を打ち立てるだろう。しかしまず君と僕とでドアを開けよう。そうすれば、入りたいものは誰でも入ってこられる」
  ――第1章 感染の理論

 ここで私が驚いたのが、マラリア撲滅の試算。てっきり蚊を絶滅させにゃならんのかと思い込んでいたが、実はそこまでする必要はない。一定数まで減らせば充分なのだ。実際、「蚊が歴史をつくった」によると、一時期は猖獗を極めた南北アメリカもほぼ抑え込みに成功している。

 さて、先の再生産数Rなんだが、もう少し詳しく書くと、以下四つの変数が関係している。頭文字をとってDOTSと呼ばれる変数の内訳は…

  • Duration=持続時間。感染源となってから治るか隔離されるか死ぬかまで、何日かかるかを示す。当然、長いほどヤバい。新型コロナなら、罹患した人が引きこもっていればDが減る。
  • Opportunities=機会。新型コロナ患者が駅などの人の集まる所に行けば、Oは増える。自宅勤務が勧められる所以だね。
  • Transmission Probability=伝播に至る確率は、マスクなどで飛沫感染を防ぐのがこれだ。
  • Susceptibility=感受性は、ワクチンによる予防が該当する。

 さて、かようにマラリアの予防・撲滅を目的として研究が始まった数理モデルは、マラリアのみならず、あらゆる伝染病へと適用範囲が広がった。ばかりでなく、意外な分野にも進出してゆくのだ。

数理経済学者エマニュエル・ダーマン(→Wikipedia)「人間は限りある先見性と大きな想像力を持ち合わせている」「そこで、モデルは必然的に、創り手が夢にも思わなかったようなやり方で使われるようになる」
  ――第2章 金融危機と感染症

 このあたりは、数学が科学の女王にして奴隷たる所以がひしひしと感じられる所。その「創り手が夢にも思わなかったようなやり方」を紹介するのが第2章以降で、数学や理科が苦手な人でも楽しめるのはここから。

 アイデアやコンピュータウイルスは直感的にわかるが、金融危機や暴力の感染は、ちとわかりにくい。でも、ちゃんと数理モデルが応用できたりするから面白い。

 とはいえ、中には数理モデルに頼りすぎた弊害の話も出てきて、著者の姿勢は学者としての慎重さも保っている。やはり社会問題に使おうとすると、それぞれの人の立場や思想が出る上に、多くの要因が絡み合っているため、一筋縄ではいかないようだ。

 とまれ、マラリアの研究という、切実な問題から始まった研究が、異なる分野の数理モデルの助けを借りて、伝染病全般へと適用範囲を広げ、更に金融や防犯や広告などの全く異なる分野にまで進出した話として、なかなかに起伏に富んだ物語が展開し、野次馬根性で読んでも楽しかった。数学は苦手だが興味はある、そんな人にお薦め。

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2024年6月 6日 (木)

ランドール・マンロー「もっとホワット・イフ? 地球の1日が1秒になったらどうなるか」早川書房 吉田三知代訳

どれも絶対にご家庭では試さないでください。
  ――おことわり

マリオは1日何カロリーを消費しますか?
  ――さくっと答えます#1

【どんな本?】

 NASA のロボット工学者だった著者が、自分のサイトに集まった珍問・奇問に対し、時には真面目に計算し、または専門家に相談し、それなりに妥当な解を漫画を交えユーモラスに示した、一般向けの楽しい科学解説書その2。

 先の「ホワット・イフ?」が大ヒットしたためか、読者から寄せられる質問は量ばかりかバラエティも狂気もヤバさもグレード・アップし、著者は政府の監視リストにまで乗る羽目に。

 ということで、覚悟して読みましょう。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は What IF? 2 : Additional Serious Scientific Answers to Absurd Hypothetical Questions, by Randall Munroe, 2022。日本語版は2023年2月25日初版発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約381頁に加え、訳者あとがき2頁。9ポイント33字×29行×381頁=約364,617字、400字詰め原稿用紙で約912枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらい…だが、紙面の半分ぐらいはイラストというか漫画なので、実際の文字数は半分ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。たまに数式が出てくるが、読み飛ばしても問題ない。もっとも、ネタを含んだ式が稀にあるので油断はできないんだけど。

【構成は?】

 質問と回答は、一つの質問に5~10頁程度の解答が続く形。加えて前著の影響か多くの質問が集まったらしく、複数の質問にまとめて簡潔に答える「さくっと答えます」「ちょっとヤバそうな質問集」が間に挟まる。それぞれ完全に独立した記事なので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

 はじめに

読者からの質問と著者の解答

 謝辞/参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 馬鹿々々しい質問を真面目に計算して答えを出したうえで、想定外の結論に達するユーモア科学解説本の第2弾。

 しょっぱなから質問が狂ってる。「太陽系を木星のところまでスープでいっぱいにしたら、どうなりますか?」 えっと、5歳のアメリアちゃん、何故にスープw

 多少なりとも物理学を知っていれば、質量だけでもヤバい事になりそうなのは思いつく。が、真面目に計算する奴は滅多にいない。と共に、この回答でアメリアちゃんは納得するんだろうか、なんて疑問も浮かぶ。まあ、返答が返ってくる頃にはアメリアちゃんも質問を忘れているだろうなあw

 次に漫画でよくある、沢山の鳥に持ち上げてもらうって発想、やっぱりあったw 結論としては、色々と難しそう。

 科学的に「そうだったのか!」と感心するのも沢山ある。木星の一部分を家一軒分だけ地上に持ってきたら、は思いつかなかった。木星と言えば傑作冒険SF「サターン・デッドヒート」が思い浮かぶ…って、土星じゃん。まあ似たようなモンでしょ、巨大ガス惑星だし←をい この項では、私がスッカリ忘れていた巨大ガス惑星の特性を思い出させてくれた。確かに木星や土星に潜るのは難しそうだ←当たり前だろ

 やはり意外だったのがブランコ。子供の頃、欲しかったなあ、とっても長いブランコ。すんげえスピードが出そうで。ところが力学的に考えてみると、ブランコってのは不思議で。つまり外から運動エネルギーを与えてなくても、なぜか揺れが大きくなる。いや後ろから押すってのはナシで。これをキチンと考えてて、「おお!」と感心してしまった。とすると、支柱の材質によっては…

 など、マンロー君は真面目に計算しているかと思えば、鮮やかにハズす芸も楽しい。例えば「靴箱をいっぱいにして最も高額にする方法」。金やプラチナなど貴金属に続き、お高い物質としてプルトニウムを挙げ…おい、マズいだろw とソッチに思考を誘導しといて、ソレかいw

 やはり実際に計算してみるってのは面白いモンで、日頃から「そうだろうなあ」と思ってる事柄も、計算して結果が出ると、どひゃあ、となる時もある。「スマートフォンを真空管で作ったら?」も、その一つ。皆さんコンピュータの進歩はご存知だけど、計算結果を現実のモノで例えると、これがなかなか。まあ答えはいつも通り、コッチの思考の穴を突いてくるんだけどw

 まあ計算とは書いたけど、質問によっては実に大雑把な推計(フェルミ推定、→Wikipedia)で、中にはこんなのも。

誤差はゼロを2,3個付けたり取ったりする範囲だ

 いい加減な気もするけど、天文学者あたりは、この手の「1~2桁は誤差」な計算をよくやるらしい。こういうテキトーなネタがあることで、私は「とりあえずやってみよう」と気楽にいい加減な計算を試みることが増えた。いやソレで何かの役に立つワケじゃないけどw

 先の「ホワット・イフ?」が売れまくったためか、アレな人も惹きつけてしまい、著者にはこんな質問も寄せられる羽目になったのはご愁傷様と言うべきか。

エアフォースワンをドローンでやっつけるにはどうすればいいですか?
  ――ちょっとヤバそうな質問集#1

 えっと、それを尋ねて、どうするつもりなんだい?

 など、素っ頓狂な問いに笑いながら「アホな事を考えるのは俺だけじゃないんだ」と謎の安心感を抱き、真面目に調査・計算・シミュレーションする過程で「そんな方法もあるんだ」と感心し、アサッテの方向の結論に「ソッチかい!」と呆れる、楽しい科学と工学の本。肩の凝らない雑学が好きな人にお薦め。

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2024年2月22日 (木)

楢崎修一郎「骨が語る兵士の最後 太平洋戦争 戦没者遺骨収集の真実」筑摩書房

本書は、2011年から2018年まで、私が17回にわたって太平洋地域を中心に派遣された遺骨収集とその鑑定の物語である。
  ――おわりに

いまだに最後の様子もわからない兵士の骨が、戦後70年以上が過ぎた現在も、太平洋地域を中心とした激戦の地、玉砕の島々には数多く眠ったままだ。
  ――はじめに

現時点で大掛かりに遺骨収取に取り組んでいる国は、日本とアメリカの二ヵ国しかない。
  ――第1章 幻のペリリュー島調査

【どんな本?】

 太平洋戦争では、多くの将兵や民間人が亡くなった。海外での戦没者は(硫黄島と沖縄を含め)約240万人とされている。その多くは現地に葬られ、または海に流された。著者は主に厚生労働省の遺骨収集事業に同伴し、人類学者として遺骨の判定を行ってきた。

 というのも。骨が出てきても、必ずしも日本人の骨とは限らない。米軍将兵や現地人、果ては獣骨の場合もあるからだ。

 人類学者は、いかにして骨を見分けるのか。その際に、どんな事柄に配慮するのか。などの学術的な話題に加え、戦没者の遺骨収集の現場の様子を現地で遭遇するトラブルも含めて語る、ちょっと変わったルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年7月15日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組本文約215頁。9.5ポイント41字×16行×215頁=約141,040字、400字詰め原稿用紙で約353枚。文庫ならやや薄め。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、ときどき人類学の専門用語が説明なしに出てくる。日本語の嬉しい性質で、「伸展葬」とかは文字を見ればだいたい意味が分かるのはいいが、寛骨(→Wikipedia、俗にいう骨盤の一部)など、主に骨の名前が多い。

 また、アチコチに地図があるので、栞を多く用意しよう。

【構成は?】

 はじめに~第2章までは基礎知識を語る所なので、最初に読もう。第3章~第6章はそれぞれ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1章 幻のペリリュー島調査
    • 1 遺骨収集へのきっかけ
    • 2 各国の遺骨収集の比較
  • 第2章 骨を読む
    • 1 遺骨は誰が鑑定するのか
    • 2 骨の読み方
  • 第3章 撃墜された攻撃機 ツバル共和国ヌイ環礁
    • 1 現地調査までの困難
    • 2 現地到着から調査開始まで
    • 3 発見
  • 第4章 玉砕の島々
    • 1 銃殺された兵士 マーシャル諸島クェゼリン環礁
    • 2 集団埋葬の島 サイパン島
    • 3 不沈空母の島 テニアン島
    • 4 天皇の島 パラオ共和国ペリリュー島
  • 第5章 飢餓に苦しんだ島々
    • 1 処刑も行われた島 マーシャル諸島ミリ島
    • 2 日本のパールハーバー トラック諸島
    • 3 水葬の島 メレヨン環礁
  • 第6章 終戦後も戦闘が行われた島 樺太
  • おわりに
  • 参考文献/太平洋戦争関連年表

【感想は?】

 著者は人類学者、それも文化ではなく自然人類学者だ。その本領が出ているのが、第2章「骨を読む」。ここでは、人体の骨の構成から性別や年齢や民族ごとの違いなどを、駆け足で語ってゆく。

 骨盤で男女が判るのは有名だが、歯だけでも専門家が見れば多くの情報が得られるのが分かる。

我々アジア人の前歯と呼ばれる上顎切歯の裏は、凹んでいる。
  ――第2章 骨を読む

 とかね。ココを読んだとき、思わず自分の歯を指でまさぐってしまった。この歯による鑑定は、後の章でも日本人と現地人の判別で頻繁に登場するので覚えておこう。

 と書くと、著者は骨の形を見るだけのように思われるが、とんでもない。例えば「第3章 撃墜された攻撃機」では、探すべき陸攻の記録を調べ、一式陸攻ではなく96式陸攻じゃないか、などと当たりをつけている。当時の戦況や部隊の構成など、できる限りの情報を集めた上で現地に赴いているのだ。もはや探偵である。

 もちろん、集めるのは帝国陸海軍の情報だけではない。現地の分野や風習なども、遺骨の判定の重要な手がかりとなる。

全員、頭を北に向け、足を南に向けた伸展葬である。現地の人々は逆で、頭は南で足は北だという。
  ――第5章 飢餓に苦しんだ島々

 このあたりは、文化人類学の領域だろう。南洋の島々が多いだけに、ピンロウジュ(→Wikipedia)に染まった歯が決め手になったり。

 かと思えば、分かりやすい証拠として帝国陸軍の手榴弾が出てきたり。かなり危ない作業でもあるのだ。特に切なかったのが、ペリリューの話。

ペリリュー州の法律で、地表から15cmまでしか掘ってはならないという。この15cmの根拠はよくわからないが、地雷や爆弾が埋まっている可能性があるためという説明を後で受けた。
  ――第4章 玉砕の島々

 勝手にやってきた連中が勝手に争ったため、現地の人々が今でも不便な思いをしているのだ。彼らの気持ちは複雑だろう。そのためか、「そこは俺の土地だから金を払え」とゴネられたり。そういった、現地の人々への心遣いも遺骨収集を巧く進める大事なコツ。

現地の人々の共同墓地で発掘調査をする際は、衆人環視の中で説明しながら行うことが重要である。
  ――第3章 撃墜された攻撃機 ツバル共和国ヌイ環礁

 ヨソ者がやってきて俺たちの墓を掘り返すとなれば、そりゃ心穏やかではいられない。たいてい、専門家がやる作業なんて素人には意味不明である。そこで、あらぬ誤解を避けるために、「今は何をしてるか、この作業にはどんな意味があるのか、それで何が分かったのか」を野次馬たちに説明し、理解してもらえるように努めるのだ。こういう細かいことが大事なんだろうなあ。

 それと、もう一つ意外だったのが、遺骨収集団のスケジュールが極めて厳しい点。なにせ南洋の島々だけに、現地にたどり着くまで3日ぐらいかかる。しかも船のエンジンが止まるなど、トラブルに見舞われることもしばしば。にもかかわらず、許された日程が8日ぐらいだったりで、実際の作業に充てられるのが2~3日しかない。せめて一カ月ぐらいかけてもいいんじゃないかと思う。

 かつての戦場を訪れ亡くなった方々の最後を再現する作業だけに、どうしても悲惨な場面を思い起こさなきゃならん場合もある…というか、特にテニアン島やサイパン島は民間人の犠牲者も多いため、なかなか読んでいて辛かった。

サイパン島やテニアン島の洞窟を調査していると、時々、部分的に焼けた焼骨が出土することがある。これらは恐らく、米軍による火炎放射器による犠牲者であると推定される。
  ――第4章 玉砕の島々

 この辺、著者はあくまで学者として冷静な姿勢を保っているが、故人の想いが起こしたかのような奇妙な出来事もあって、オカルトと片づけたくもあるが、そういった所に著者の故人に寄せる追悼の気持ちが表れているようにも感じるのだ。

 終盤、ペレストロイカの影響で入国が許された樺太での活動に続き、最後の「おわりに」で語る著者の、「いつの日か、ビルマに収骨する日が来ることを望んでいる」との想いが切ない。

 人類学者としての遺骨の判別という、いわば単なる事実確認を求められる立場で体験した事柄を書いた本だけに、乾いた筆致を心がけた文章が続く。が、行間には故人を悼む気持ちが滲み出ている。

 遺骨収集とは、過去にケリをつける儀式ではない。まさしく過去を掘り返し、私たちの眼の前に突きつける、厳しい歴史の授業なのだ。

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2024年2月 8日 (木)

ダニエル・オーフリ「患者の話は医師にどう聞こえるのか 診察室のすれちがいを科学する」みすず書房 原井宏明・勝田さよ訳

本書では、何名かの医師と患者が歩んだ道筋をたどり、一つのストーリーが人から人にどのように伝わるかを考察する。
  ――第1章 コミュニケーションはとれていたか

…患者がその数字をもとに医師を選択するとはかぎらない。患者は、信頼できる医師を選ぶ傾向がある。
  ――第2章 それぞれの言い分

「医学部の授業では、患者に悪いニュースを伝えなければならないときは、その後に大事なことは一切言うなと教わります。悪い知らせを聞かされた患者は聞く耳を一切持たないからです」
  ――第3章 相手がいてこそ

ストーリーを語るという行為は語り手にとってとても治療的であり、そしてそれを聞くことも聞き手にとって治療的である。
  ――第5章 よかれと思って

敬意のこもったふるまいには伝染性がある。
  ――第13章 その判断、本当に妥当ですか?

【どんな本?】

 問診。医師が「どうしましたか?」と問い、患者が「腹が痛くて…」などと答える。それこそ医療が呪術師の領分だった大昔からの、医療の基本だ。

 顕微鏡以来、医学や薬学は長足の進歩を遂げた。レントゲン,CTスキャン,MRIなど、最新技術を駆使した医療機器も充実してきた。だが、基本となる問診は、どうだろう?

 内科医の著者が、自らの経験や先輩友人知人に加え患者への取材、そして師からの教えを元に、問診の重要性とその技術を磨くことの大切さを訴える、医師向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は What Patients Say, What Doctors Hear, by Danielle Ofri, 2017。日本語版は2020年11月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約275頁に加え、原井宏明による訳者あとがき2頁。9ポイント48字×19行×275頁=約250,800字、400字詰め原稿用紙で約627枚。文庫なら厚めの一冊分。

 意外と文章はこなれていて読みやすい。医学の本だけに専門用語はビジバシ出てくるが、「何か専門的な事を言ってるんだな」ぐらいに思っていれば充分だ。内容も特に難しくない。中学生でも読みこなせるだろう。敢えて言えば、病院に行って「なんかぶっきらぼうだよな」「先生、怖い」などの不満を抱えた経験があると、より切実に感じるだろう。

【構成は?】

 各章は緩やかに結び付いているが、それぞれ独立したエピソードを中心としているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 第1章 コミュニケーションはとれていたか
  • 第2章 それぞれの言い分
  • 第3章 相手がいてこそ
  • 第4章 聞いてほしい
  • 第5章 よかれと思って
  • 第6章 なにが効くのか
  • 第7章 チーフ・リスニング・オフィサー
  • 第8章 きちんと伝わらない
  • 第9章 単なる事実と言うなかれ
  • 第10章 害をなすなかれ それでもミスをしたときは
  • 第11章 本当に言いたいこと
  • 第12章 専門用語を使うということ
  • 第13章 その判断、本当に妥当ですか?
  • 第14章 きちんと学ぶ
  • 第15章 ふたりの物語が終わる
  • 第16章 「ほんとうの」会話を
  •  謝辞/訳者あとがき/出典と註/索引

【感想は?】

 「患者は医師にどう語るべきか」な本だと思ったが、まったく違った。医師向けの本で、「医師は患者の話をどう聞くか」みたいな内容だ。

 じゃ医療と関係ない人には役立たないかというと、そうでもない。

 というのも。医師と患者の関係は、平等じゃない。たいていの場合、医師が圧倒的に強い。なんたって、患者は命を握られているのだ。専門知識だって、ない。血液検査の結果を見たって、チンプンカンプンだ。というか、様々な検査をするが、その意味や役割すら分からない。

 おまけに、医師は忙しい。一日に何十人もの患者を診る。患者からすればたった一人の医師だが、医師にとっては沢山の患者のうちの一人でしかない。

 そんな、いわば権力の勾配がある両者で、キチンと会話が成り立つのか?

 そう、往々にして、成り立っていない。いや強い側つまり医師は成り立っていると思っているが、患者はそうじゃない。医師の言葉が理解できなかったり、「ちゃんと話を聞いてくれない」と不満を抱いたりする。

イギリスの二人の心臓専門医が、自分たちの病院の患者にアンケートをとったところ、その多くが、心不全、ステント、心臓弁からの漏れ、エコー、不整脈といった、循環器病棟で常用される用語を正しく定義できていないことがわかった。
  ――第12章 専門用語を使うということ

 本書では医師と患者の関係だが、似たような関係は世間でよくある。上司と部下・教師と生徒・役人と民間人など、「強く忙しく大勢を相手にする側」と「弱く頼るしかない側」での会話だ。

 この勾配が、事態をややこしくする。医療で必要な事柄が、必ずしもちゃんと聞き出せるとは限らない。

診察でいえば、一人の医師の平均的な診察日に、診察の主目的まで容易に到達できない患者が数名いるということだ。
  ――第11章 本当に言いたいこと

 まあ、こういうのは、計算機屋も往々にして経験している。「それ、先に言ってよ~」って奴だ。もっとも、大抵の場合、権力勾配は計算機屋が圧倒的に弱いんだがw そういう経験をした計算屋は、次の言葉に深く頷くだろう。

患者は最良の教師だ。
  ――第14章 きちんと学ぶ

 計算機屋との共通点は、他にもある。最近になって、便利なツールが爆発的に増えた。楽になったようだが、そうでもない。というのも、それぞれの案件について、選択肢が増えすぎて最適なツールを選ぶのが却って難しくなってきたからだ。結局、使い慣れた道具に頼ったり。

過去半世紀の間に医学の知識と治療の選択肢は爆発的に増えたが、すべてをやりとげるのに使える時間は昔と変わらず15分程度である。
  ――第16章 「ほんとうの」会話を

 そんなワケで、計算機屋でも聞く技術の重要性は増してるんだが、それを体系立てて教える教程って…あるのかなあ。まあいい。少なくとも医学界では、幾つかの抵抗にあいながらも、ジワジワと広がっているらしい。

 その抵抗する気持ちも、ちょっとだけわかる気がする。

何世紀も前からシャーマンが使用している技術が、100万ドルをかけた大規模臨床試験の裏づけがある医薬品と同じくらい効果的であるという話には、(医師は)なにか漠然と不愉快さを感じる。
  ――第6章 なにが効くのか

 計算機屋なら、「そんな暇があったら新しい言語を学ぶ」みたいな感じ? とまれ、医師がじっくり話を聞くことの重要性を、認めた政府もあるのだ。

最近、オランダ政府は、傾聴の医療保険コードを承認した。つまり医師は、処置や検査と同じように、診察の一部として堂々と患者の話を聞けるということだ。
  ――第7章 チーフ・リスニング・オフィサー

 他にも、医療以外で役立つ話は結構ある。やはり計算機屋が苦しむのが、トラブル対応だ。計算機屋が集まってガヤガヤやっているが、肝心の顧客は置いてけぼり、なんてケースも昔は珍しくなかった。

ベンソン夫人は、文字通りの意味でも比喩的にも、廊下に取り残された。
  ――第10章 害をなすなかれ それでもミスをしたときは

 まあ、往々にしてしょうがないんだけどね。少なくとも原因が判明するまでは。でもって、イライラしてつっけんどんな対応しちゃったり。

医学は、私たちが期待するよりずっと不明瞭だ。だから、質問の紙が広げられたときから、自分があいまいな表現に終始することが――そして相手を失望させてしまうことが――予想できてしまう。私もそうだが、患者もいらいらするだろう。
  ――第4章 聞いてほしい

 また、要求仕様の確認とかだと、最近はキチンと文書でやりとりするんだろうけど、急ぎの仕事だと口頭でやりとりしたり。

事実を手短かに言いかえたいときは、最初に「きちんと理解できているかどうか確認させてください」と言えば簡単だ。このフレーズは、事実をはっきりさせるのに適した方法であるのみならず、本当に話を聞いているという、患者への確かな合図にもなる。
  ――第9章 単なる事実と言うなかれ

 もっとも、異様に気が短い相手だと、こっちが復唱してる時に口をはさんできたりするんだよなあ。なんなんだろうね、あれ。まあいい。

 他にも、人を説得する際の技術がちょっとだけ書いてあったり。

事実を繰り返し叩き込む戦略によって望ましい結果が得られることはほとんどない。
  ――第5章 よかれと思って

 どないせいちゅうねん、と思った方は、本書を読んでください。

 そんなワケで、「患者が気を付けるべきこと」ではなく、「医師が心がけること」の本であり、医師向けの本である。ではあるが、医療に素人の私でも楽しく読めた。エピソードは医療に限っているが、これはヒトとヒトとの会話の本なのだ。コミュニケーションに興味がある人や、オリヴァー・サックスのファンにお薦め。

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2024年1月24日 (水)

トーマス・J・ケリー「月着陸船開発物語」プレアデス出版 高田剛訳

この本はアポロ計画の月着陸船を設計した主任設計者が、研究、提案段階から、設計、製作、実際の月着陸の支援活動について、自分が経験した内容を詳しく述べたものです。
  ――訳者あとがき

グラマン社はM-1号機のモックアップ審査で、宇宙飛行士は特別な存在として対応する必要があることを学んだ。彼らは同じ職業の操縦士を通じて調整しないといけない。飛行機の操縦をしない技術者や管理者は、いかに有能であろうと、彼らから全面的に尊敬され評価される事はない。
  ――第6章 モックアップ

多くの飛行機や宇宙線に関して蓄積された実績データによれば、最初の大まかな設計と、基本構想段階の搭載システムによる初期の重量は、最終的な製品の重量より20%から25%少ないのが普通だ。
  ――第8章 重量軽減の戦い

搭乗員用の船室の円筒形部分のアルミ外板は、厚さが0.3ミリ、つまり家庭用アルミフォイルの三枚分の厚さだった。
  ――第8章 重量軽減の戦い

【どんな本?】

 人類を月へと送り出すアポロ計画に、グラマン社は参加を望む。幸い月着陸船の受注に成功したものの、不慣れな宇宙用機材の設計・開発・製造は苦難の道だった。

 海軍用の航空機では、その頑健さで鉄工所の二つ名を勝ちえたグラマン社。だが月着陸船では勝手が違った。増殖する不具合・相次ぐ仕様変更・複雑きわまりない設計・特殊な素材と部品そして失敗が許されない厳しいNASAの要求。当然、スケジュールは遅れ作業の手間は増え必要な書類も積みあがってゆく。

 合衆国の宇宙開発機器開発の現場を赤裸々かつ生々しく描くと共に、まったく新しい分野に挑戦したエンジニアたちの奮闘を記録した、技術屋魂が炸裂する挫折と冷や汗と歓喜のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Moon Lander : How We Developed the Apollo Lunar Module, by Thomas J. Kelly, 2001。日本語版は2019年3月1日第1版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約358頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント52字×20行×358頁=約372,320字、400字詰め原稿用紙で約931枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はやや硬い。だってバリバリの航空エンジニアが書きバリバリの航空エンジニアが訳した文章だし。その分、技術的な詳細と正確さは信用できる。内容は、工学と宇宙開発に多少の知識があるといい。少なくともアポロ計画(→Wikipedia)とアポロ宇宙船(→Wikipedia)は知っておいて欲しい。

 それだけに、マニアには美味しいネタがギッシリ詰まってる。特に設計・開発が始まる第7章以降は読みどころが満載。

【構成は?】

 基本的に時系列順に進むので、できれば頭から読もう。

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  • 第1章 納入までの苦闘
  • 第1部 勝利
  • 第2章 月へ行けるかもしれない
  • 第3章 月着陸船の提案
  • 第4章 最終決定
  • 第2部 設計、製作、試験
  • 第5章 難しい設計に挑む
  • 第6章 モックアップ
  • 第7章 図面発行に苦戦する
  • 第8章 重量軽減の戦い
  • 第9章 問題に次ぐ問題の発生
  • 第10章 日程、コストとの戦い
  • 第11章 悲劇がアポロを襲う
  • 第12章 自分が設計した宇宙船を作る
  • 第3部 宇宙飛行
  • 第13章 宇宙飛行を行った最初の月着陸船、アポロ5号
  • 第14章 最終的な予行練習、アポロ9号と10号
  • 第15章 人類にとっての大きな飛躍 アポロ11号
  • 第16章 巨大な火の玉! アポロ12号
  • 第17章 宇宙からの救出 アポロ13号
  • 第18章 不屈の宇宙飛行士の勝利 アポロ14号
  • 第19章 大いなる探索 アポロ15号、16号、17号
  • 第20章 スペースシャトルの失注
  • 結び アポロ計画が残したもの
  •  注/訳者あとがき/索引

【感想は?】

 マニアにはたまらなく美味しい本だ。特に挑戦的で新しいモノの開発に従事した経験のある人は、何度も「そうだ、そうなんだよっ」と拳を振り上げるだろう。

 今からアポロ計画を調べると、月への往復方法も各宇宙船の形も、アレが最善だと思うだろう。だが、構想段階では様々な案があった。本書の主役である月着陸船も、結局は四本足の蜘蛛みたいな形になったが、構想段階ではもっとスマートだった。

「実際に作られるアポロ宇宙船は、僕らが研究したどれにも似てないと思う」
  ――第2章 月へ行けるかもしれない

 そう、細かい所は実装を煮詰めるに従ってドンドン変わっていくし、最初は気づかなかった問題も見えてくる。問題の解決案は時として常識破りな発想が画期的な手段となり、それが全体の形も変えてゆくのだ。

「座席をやめたらどうだろう?」
  ――第5章 難しい設計に挑む

 とかね。まっとうな航空機のエンジニアには、まず出てこない発想なんだが、この案が幾つもの問題を解決したり。

 多少なりとも大掛かりなシステムを設計・開発した人なら、次の文に激しく頷くはずだ。

目の前の課題を詳しく見れば見るほど、もっと細かな課題が見えてくるのだ。
  ――第7章 図面発行に苦戦する

 その「細かな課題」が、分かりやすく具体的に書いてあるのが、本書の最も大きな魅力だ。少なくとも私は、そういう所が最も美味しかった。

 結果としてアポロ計画は成功裏に終わる。だが、それは大量の失敗の積み重ねによるものだ。何度もの厳しい試験で一つづつ課題を潰し、問題のないモノを創り上げたのである。この辺、デバッグに苦しむ計算機屋は、我が事のように感じるだろう。そんな課題の一つがポゴ。

ポゴは、ロケットの縦方向の振動で、ロケット・エンジンの推力が変動すると、その影響で燃料ポンプの入口圧力が変化し、それによって推力がもっと大きく変化することで生じる振動である。
  ――第7章 図面発行に苦戦する

 言われてみれば確かに起きそうな問題だが、素人が予め予測するのは難しい。そんなネタが続々と出てくるのが、私にはとても嬉しかった。そして、そんな課題を前もって危惧する著者たちの能力にも恐れ入る。例えば月着陸船の離陸時の懸念だ。

緊急上昇時には、上昇段のロケット排気が当たる影響で、姿勢制御能力を持たない降下段がひっくり返ることが懸念された。降下段がひっくり返ると、分離した上昇段にぶつかる可能性がある。
  ――第13章 宇宙飛行を行った最初の月着陸船、アポロ5号

 「そこまで考えるのか」と感心するが、月から離陸する際の発進方法も、なかなか背筋が凍る。

月面からの離陸では、(略)(上昇段の)ロケット・エンジンの推進剤の弁を開いて点火が起きた瞬間に、爆薬が上昇段と降下段を繋ぎとめているボルトとナットを断ち切る。段と段の間の直径10cmの電線と配管の束をギロチンカッターが切断し、無抵抗分離型のコネクターがその電線への電力を止める。
  ――第15章 人類にとっての大きな飛躍 アポロ11号

 ホンの少しでも電線や配管の切り残しがあったり、爆薬が暴発したり、動作のタイミングがズレたら、取り返しのつかない羽目になる。これを前人未到で真空かつ高温にさらされる月面(→JAXAの「もっと知りたい! 「月」ってナンだ!?」)で行うのだ。なんちゅう無茶な注文だろう。

 やはり予測した問題の一つが、かの有名なアポロ13号(→Wikipedia)の事故だ。これはグラマン社のお手柄で、月着陸船が宇宙飛行士たちの命綱になった。が、電源を節約したため船内の温度が下がり、こんな懸念が持ち上がる。

司令船を再稼働すると、搭乗員の呼吸により、冷えている場所に結露が予想される。電線やコネクターが濡れるが、ショートを起こさないだろうか?
  ――第17章 宇宙からの救出 アポロ13号

 こういう所まで気が回るあたりは、つくづく尊敬してしまう。

 などの課題の中には、こんな嫌らしいシロモノもあって、著者らは暗闇の中に叩きこまれたような絶望も味わうのだ。

一般には燃料不安定は、ロケット・エンジンを作動させた時に毎回起きるものではなく、平均して何回に一回生じるかと言う、確率的な現象である。
  ――第9章 問題に次ぐ問題の発生

 うわ、嫌らしい。何が嫌といって、再現性がないのがタチが悪い。試せば必ず問題が起きるのなら、現象が消えれば安心できる。でも、起きたり起きなかったりするんじゃ、巧くいっても運が良かったのか問題が解決したのか、わからない。内輪の試験で巧く行っても、本番でコケたら目も当てられない。

 グラマン社の担当部分ではないが、アポロ1号の悲劇(→Wikipedia)も影響が大きかった。

火は飛行士がチェックリスト、飛行計画などを入れる網ケースなどの、燃えやすいナイロン製品に燃え移り、それから船室全体に急激に広がった。環境制御装置の、可燃性のグリコール(→Wikipedia)水溶液の冷却液が流れるアルミニウム製の配管が熱で溶け、可燃性の液体を火災の中にまき散らした。
  ――第11章 悲劇がアポロを襲う

 これにより、月着陸船にも大幅な仕様変更が入る。あらゆる配管の漏れが厳しく検査されると共に、燃えやすい素材が全て使用不許可となるのだ。全ての部品と素材を洗い出し、ヤバいのは耐熱性のあるモノに変える。言うのは簡単だが、実際にやるのはとんでもなく手間と忍耐力が要求される。頭抱えたくなっただろうなあ。

 その配管の漏れも、グラマン社は散々苦労したようで、長々と書いている。地上ならゴムのパッキンとかでどうにか出来そうだが、なにせ月面で動かすシロモノだ。おまけに燃料は四酸化二窒素とエアロジン、毒物ってだけじゃなく、混ぜるな危険の代表みたいなモン。そう、混ぜるだけで爆発するのだ。だからロケット・エンジンに使えるんだけど。

 つか、ロケットの液体燃料って、みんな液体酸素と液体水素だとばかり思い込んでた。ちゃんと調べないと駄目だね。

 など苦労の甲斐あって、どうにか打ち上げに漕ぎつけるのだが、その本番でも順調に見える飛行の裏側で、数多くのトラブルに見舞われ、即興で解決していた事がわかるのが、本書の終盤。中でも印象的なのが、打ち上げ直後に災難に遭ったアポロ12号。

打ち上げから36秒後と52秒後に、アポロ12号は二回被雷した事が分かった。一度目の落雷の影響で司令船の各系統の電源が切れ、二度目の落雷で誘導装置のジャイロのプラットフォームが機能を停止した。サターン・ロケットのイオン化した排気の長い流れが巨大な避雷針の役割をして、上空の黒い雲から地上への電気が通りやすい通路ができたのだ。
  ――第16章 巨大な火の玉! アポロ12号

 なんとまあ、ロケットには落雷の危険もあるのだ。よくそれで無事だったなあと思う。

 一つのちゃんと動くモノを創り上げるために、どれほどの問題が起こり、それを確かめ、解決しなければならないか。そして問題を防ぐため、いかにしち面倒くさい手順が求められるのか。それだけ注意を払っても、見落としやスレ違いは起きてしまう現実。ロケット・マニアはもちろん、すべてのエンジニアが「よくぞ書いてくれた!」と随喜の涙を流す傑作だ。

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2023年12月18日 (月)

サイモン・ウィンチェスター「精密への果てなき道 シリンダーからナノメートルEUVチップへ」早川書房 梶山あゆみ訳

精密さとは、意図的につくり出された概念だ。そこにはよく知られた歴史上の必要性があった。
  ――はじめに

ついに機械をつくるための機械が生み出され、しかもそれは、正確かつ精密につくる能力をもっている。
  ――第1章 星々、秒、円筒、そして蒸気

ジェームズ・スミス著『科学技術大観』
「一つの面を完璧に平坦にするためには、一度に三つの面を削ることが……必要である」
  ――第2章 並外れて平たく、信じがたいほど間隔が狭い

空気がなければ歪みもない
  ――第7章 レンズを通してくっきりと

GPS衛星群に数々の有用性があるとはいえ、それを煎じ詰めれば時刻の問題になるのだ。
  ――第8章 私はどこ? 今は何時?

1947年、トランジスタは幼い子供の手いっぱいに載るほどの大きさがあった。24年後の1971年、マイクロプロセッサ内のトランジスタは幅わずか10マイクロメートル。人間の髪の毛の太さの1/10しかない。
  ――第9章 限界をすり抜けて

(2011年3月11日の東日本大震災と津波で)杉や松は完膚なきまでに破壊されたのに、竹はまだそこにある。
  ――第10章 絶妙なバランスの必要性について

こうして時間がすべての基本単位を支えるものとなった
  ――おわりに 万物の尺度

【どんな本?】

 カメラ、スマートフォン、自転車、自動車、ボールペン。私たちの身の回りには、精密に作られたモノが溢れている。これらが誇る精密さは、自然と出来上がったのではない。精密さを必要とする需要や、精密さが優位となるビジネス上の条件があり、ヒトが創り上げた概念だ。

 ヒトはいかにして精密さの概念を見つけたのか。そこにはどんな需要があり、どのような人物が、どのように実現したのか。そして精密さは、どのように世界を変えてきたのか。

 「博士と狂人」で歴史に埋もれた二人の人物のドラマを魅力的に描いたサイモン・ウィンチェスターが、今度は多彩な登場人物を擁して描く、歴史と工学のノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Perfectionists : How Precision Engineers Created the Modern World, by Simon Winchester, 2018。日本語版は2019年8月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約425頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×19行×425頁=約363,375字、400字詰め原稿用紙で約909枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、本棚やプラモデルなどを自分で部品から何かを組み立てて、「あれ? この部品、なんかうまくはまらないな」と戸惑った経験があると、身に染みるエピソードが多い。

【構成は?】

 原則的に時系列順に進むが、各章はほぼ独立しているので、気になった所を拾い読みしてもいい。

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  • 図版一覧
  • はじめに
  • 第1章 星々、秒、円筒、そして蒸気
  • 第2章 並外れて平たく、信じがたいほど間隔が狭い
  • 第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を
  • 第4章 さらに完璧な世界がそこに
  • 第5章 幹線道路の抗しがたい魅力
  • 第6章 高度一万メートルの精密さと危険
  • 第7章 レンズを通してくっきりと
  • 第8章 私はどこ? 今は何時?
  • 第9章 限界をすり抜けて
  • 第10章 絶妙なバランスの必要性について
  • おわりに 万物の尺度
  • 謝辞/用語集/訳者あとがき/本書の活字書体について/参考文献

【感想は?】

 歴史の授業で工場制手工業って言葉を学んだ。ソレで何が嬉しいのかは分からなかったが。この本で、少しわかった気がする。

 これが分かったのが、「第5章 幹線道路の抗しがたい魅力」。ここでは、最高級の自動車を生み出すロールス-ロイス社と、T型フォードの量産に挑んだフォード社の誕生を描く。

 その工程は対照的だ。ロールス-ロイス社は熟練の職人による手仕事で、一台づつ丁寧に作ってゆく。対してフォード社は、ベルトコンベアによる流れ作業だ。そこで部品に精密さを求めるのは、どちらだろうか?

 意外なことに、フォード社なのだ。

 ロールス-ロイス社は、職人が丁寧に組み立てる。そこで部品のサイズが合わなければ、ヤスリで削って調整する。それぞれピッタリ合わせるので、ガタつくことはない。ぶっちゃけ古いやり方だが、だからこそ品質を保証できる。

 だが、フォード社は流れ作業だ。合わない部品があると、そこで作業が止まってしまう。だから、予め部品の規格や誤差範囲を厳しく決め、守らせる。部品の精密さでは、フォード社の方が要求は厳しいのだ。

低コストでたいした複雑さもなく、記憶にもさして残らないフォード車のほうが、(ロールス・ロイス車より)精密さがより重要な生命線となっていた。
  ――第5章 幹線道路の抗しがたい魅力

 「ニコイチ」や「共食い整備」なんて言葉もある。壊れた二台の自動車から使える部品を取り出して組み合わせ、一台の動く自動車を組み立てる、そんな手口だ。これは意外と現代的な概念だとわかるのが、「第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を」だ。

 この章は1914年の米英戦争さなかの合衆国で幕を開ける。当時、マスケット銃の部品が壊れたら、どう直すか? 現代なら、他の部品に交換するだろう。だが、当時はできなかった。当時の銃は、ロールス-ロイス社風の方法で作っていたからだ。部品を交換するには、職人の所へ持っていき、調整してもらう必要があった。そうしないと、「合わない」のだ。当時の製品は、みんなその程度の精度だったのだ。

 これを変えたのが、フランスのオノレ・ブラン(→Wikipedia)。彼の造った銃は…

どの部品も完全に互換性をもっていた。
  ――第3章 一家に一挺の銃を、どんな小屋にも時計を

 逆に言えば、同じ工業製品の同じ部品でも、互換性がないのが普通だったのだ、当時は。軍事ヲタク界隈じゃ共食い整備は末期症状と言われるが、そんな事が出来るのも精密さのお陰だったりする。

 こういった互換性の基礎をもたらしたのが、私たちの身の回りに溢れているシロモノなのも意外。

(ジョゼフ・)ホイットワース(→Wikipedia)は、あらゆるネジの規格を統一するという発想を推し進めた
  ――第4章 さらに完璧な世界がそこに

 そう、ネジなのだ。実際、よく見ると、ネジって長さや太さやネジ山の高さや距離など、予め規格がキッチリ決まってないと困るシロモノなんだよね。本書の前半では、他にもネジが重要な役割を果たす場面が多くて、実はネジが工学上の偉大な発明である事がよくわかる。

 後半では、こういった精密さが更に桁を上げた現代の物語へと移ってゆく。

 特に「第6章 高度一万メートルの精密さと危険」がエキサイティングだった。ここでは航空機用ジェット・エンジンの誕生と現状を語る。そのジェット・エンジン、理屈は単純なのだ。原則として動くのは「回転するタービンと圧縮機だけ」。可動部が少なければ、それだけ機械としては頑丈で安全となる…はず。理屈では。

フランク・ホイットル(→Wikipedia)
「未来のエンジンは、可動部が一つだけで2000馬力を生み出せるようでなければならない」
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 ホイットルを支援する投資会社のランスロット・ロー・ホワイトの言葉も、エンジニアの魂を強く揺さぶる。

「大きな飛躍がなされるときは、かならず旧来の複雑さが新しい単純さに取って代わられるものだ」
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 そうなんだよなあ。私は初めて正規表現に触れた時、その理屈の単純さと応用範囲の広さに感動したのを憶えてる。新しい技術は、たいてい洗練された単純な形で出てきて、次第に毛深くなっちゃうんだよなあ。

 まあいい。ここでは、蒸気からレシプロそしてタービンまで、モノを燃やして力を得るエンジンの神髄を説く言葉も味わい深い。

(エンジンは)熱ければ熱いほど速くなる
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 モノを燃やすエンジンは、すべてボイル=シャルルの法則(→Wikipedia)に基づく。曰く、気体の体積または圧力は、温度に比例する。モノを燃やすエンジンは、高温で体積が増える気体の圧力がパワーの源だ。よってパワーを上げるには、エンジンの温度を高く(熱く)すればいい。

 だが、エンジンは金属だ。金属は熱くなると柔らかくなり、ついには溶ける。この相反する要求を叶えるには、なるたけ高温に耐える素材を使うこと。冶金技術が国力の源である理由が、コレだね。もう一つ、高熱にさらされるエンジン内でタービン・ブレードの温度を下げる手もある。これを叶えるロールス-ロイス社の工夫が凄い。

 実はこの辺、「ジェット・エンジンの仕組み」にも書いてあったんだが、すっかり忘れてた。わはは。

 この章では、他にも「ホイットルの時代の初歩的なジェットエンジンであっても、(吸い込む空気の量は)ピストンタイプのざっと70倍」とか、ジェットエンジンつかガスタービンの布教としか思えぬ記述が溢れてる。

 それはともかく、そんなロールス-ロイス社のトレント900エンジンを積んだエアバスA380機が、2010年に事故を起こす。カンタス航空32便エンジン爆発事故(→Wikipedia)だ。原因はエンジン部品の不良。この事故を調べたオーストラリア政府による事故調査報告書は、教訓に富んでいる。

複雑な社会技術システムは、元々内在する性質により、絶えず監視されていなければ自然と後退するという傾向を持つ。
  ――第6章 高度一万メートルの精密さと危険

 複雑で精密なシロモノは、放っとくと劣化するのだ。これはモノだけでなく、製造・流通・運用など全ての過程で関わるヒトや組織にも当てはまる。特に、コスト削減とかの圧力が加わった時は。なら、原子力発電も…などと考えてしまう。

 以降、本書は騒ぎとなったハップル天文台や現代では必需品となったGPSそして集積回路を経て、第10章ではなぜか日本が舞台となる。ここの記述は日本人としてはいささか気恥ずかしさすら覚えるほどの日本賛歌なので、お楽しみに。

 今や当たり前となったネジや部品交換そして互換性の概念は、意外と近年に生まれた考え方だった。私たちの暮らしを楽しく便利にしてくれる様々な工業製品も、巷で話題のグローバル経済も、先人が創り上げた精密さの上に成り立っている。そんな感慨に浸れると共に、歴史の教科書ではあまり触れられない職人たちの人物像にも光を当てた、一風変わった歴史と工学の本だ。

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2023年11月12日 (日)

ニコラス・マネー「酵母 文明を発酵させる菌の話」草思社 田沢恭子訳

太古の時代、人類は酵母とどんなふうに依存しあっていたか、歴史の中で微生物と人間が互いをどう導いてきたか、そして21世紀に入り、両者の関係がいかに発展しているか。本書はこれらのテーマについて語る。
  ――第1章 はじめに 酵母入門

ヒトゲノムは酵母ゲノムよりも大きいが、そのうちタンパク質に翻訳されるのは2%にすぎないのだ。
ヒトはおよそ1万9千個の遺伝子をもつが、ジャンクDNAが圧倒的に多い。
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

タマネギはヒトの5倍のDNAをもつ
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

カリフォルニア州にあるボルト・スレッズという会社は、クモの遺伝子を導入した酵母を発酵槽内で育ててクモの糸を作らせ、衣料品製造用の合成シルク繊維を取り出している。
  ――第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー

【どんな本?】

 酵母は働き者だ。穀物や果実のデンプンや糖分からアルコールを生み出し、小麦粉を膨らませて柔らかいパンにする。ヒトが狩猟採集生活から農耕中心の定住生活に移った原因は酒だと主張する説もあり、だとすれば文明の発達の足掛かりを作ったのは酵母ということになる。

 その酵母とは、どんなシロモノなのか。どんな所に棲んでいて、どう増え、どんな性質があるのか。パンが膨らむ時、パン生地の中では何が起きているのか。酒とパンの他には、どう利用されているのか。最近の遺伝子科学/工学の進歩は、酵母の研究/利用に、どんな変化をもたらしているのか。

 イギリス生まれでマイアミ大学の生物学教授を務める著者が、持ち前の菌類への愛を炸裂させた、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rise of Yeast: How the Sugar Fungus Shaped Civilization, by Nicholas P. Money, 2018。日本語版は2022年3月1日第1刷発酵もとい発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約233頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント41字×17行×233頁=約162,401字、400字詰め原稿用紙で約407枚。文庫ならやや薄めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。生物学、それも真菌をテーマとした本だが、中学卒業程度の理科の素養があれば充分に読みこなせるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけをつまみ食いしてもいい。ただし、でっきれば「第1章 はじめに 酵母入門」だけは最初に読んでおこう。酵母の基本的な知識が書いてあるので、他の章の基礎となる部分だ。

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  • 第1章 はじめに 酵母入門
    酵母の発見/化学的に見た定義/酵母遺伝子の革命/発酵という魔術/最先端研究のモデル/バイオエネルギーへの貢献/人体にもたくさん存在する
  • 第2章 エデンの酵母 飲み物
    野生の酒宴/酔っぱらったサル/最初のアルコール依存症/最古の醸造/酵母と人類の遺伝子/移動する酵母/ハエも酔っぱらう
  • 第3章 生地はまた膨らむ 食べ物
    パンができるプロセス/酵母製法の発展/酵母の産業化/チョコとコーヒー/酵母そのものを食べる/食用酵母の驚くべき展開/マーマイトと宗教
  • 第4章 フランケン酵母 細胞
    酵母と発酵の構造を理解する/遺伝子レベルで調べる/不要なDNAがたくさん?/酵母の結晶/酵母を改造する
  • 第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー
    バイオ燃料の生産風景/コスト評価/サトウキビを使う/バイオ燃料用に改良される酵母/廃棄物を食べる酵母がいれば/マラリア、糖尿病との意外な関係/ドラッグへの悪用
  • 第6章 荒野の酵母 酵母の多様性
    ミラー酵母/残忍な仲間たち/粘液の痕跡に潜む酵母/水中や高温下にもいる/ノーベル賞と酵母/ワインに欠かせない分裂酵母
  • 第7章 怒りの酵母 健康と病気
    サッカロミセス感染症/文豪も入れ込んだ発酵乳/人体内でアルコールが生成される!?/炎症性腸疾患との関係/喘息と酵母/膣内酵母/重篤な症状を引き起こす酵母/頭皮のフケにも酵母あり
  • 訳者あとがき/図版一覧/原注/用語集

【感想は?】

 著者は生物学それも菌の学者ながら、一般向けの解説書の著作が多い。そのためか、素人向けの説明はなかなか巧みだ。

 先に書いたように、各章はほぼ独立している。とはいえ、「第1章 はじめに 酵母入門」だけは、最初に読むのを勧める。タイトル通り、以降の章の基礎知識を語る部分だからだ。

 酒飲みはみんな知っているだろう。酒の醸造は微妙な手際が要求される。これがよく分かるのが19頁の図3。醸造中に、酵母が何をするかを描いた図だ。発酵は2段階で進む。最初の段階では糖をピルビン酸に分解し、副産物として二酸化炭素CO2を出す。ビールの泡や、パンが膨らむ理由はコレか。

 それはともかく、二段階目が難しい。酸素があれば更に分解を進め、ピルビン酸を水と二酸化炭素にしてしまう。だが酸欠になると、ピルビン酸をアセトアルデヒドを経由してエタノールつまりアルコールに変える。適度に酸素つか空気を遮るのが大事なんだな。しかもアルコールは他の菌を殺すので、生き残るのは酵母だけ。賢い。

 もっとも、アルコール濃度が10%~15%を超えると、酵母も死んじゃうんだけど。酒造りにとっては、実に都合がいい生態だ。

 そのためか、ヒトと酒の付き合いも長い歴史がある。アフリカの十万五千年前の石器からヤシ酒の痕跡が見つかってる。また8600~8200年前の中国の陶器片からも、米か蜂蜜か果実から発酵飲料をつくってた証拠がある。文明は酒と共にあったらしい。とすると…

文明はアルコールへの愛に駆り立てられたと言われるが、これは醸造家に原料を与えることが穀物農業とそれに伴う定住の目的だったとする説にもとづいている。
  ――第2章 エデンの酵母 飲み物

 なんて説にも説得力がありそうな。だって酒を造るには、しばらく一カ所に留まる必要があるし。

 それはともかく、酒とパンに関わるだけあって、酵母は産業界からも熱い注目を浴びているらしく、学者にも潤沢に資金が流れているようだ。その証拠に…

真核生物で全ゲノムが明らかになったのは酵母が初めてだった。(略)
ヘモフィルスのゲノムを構成するA,T,C,Gは180万個だが、酵母のゲノムを記す文字は1200万個を上回る。
  ――第4章 フランケン酵母 細胞

 章のタイトルで分かるように、ここでは酵母の遺伝子分析や改変の話が中心だ。ネタは最新科学だが、やってる事は意外と地味な単純作業の繰り返しが多い。例えば「6000個の遺伝子のうち1個を欠いた数千株をすべて作成する」とか。各遺伝子が何をしているのか、しらみつぶしに調べたんですね。

 にも拘わらず、「じつは遺伝子の10個につき1個は依然として機能が判明していない」から、生命ってのはわからない。つか、IT系技術者でファイルフォーマット解析とかやった経験がある人は、遺伝子を一つづつ無効化する手法を「あるあるw」とか思うんじゃなかろか。最先端の研究も、現場は地味な作業の積み重ねだったりする。だからこそ、量を確保する予算が大事なんだな。

 もちろん酵母の産業利用もやってて、その一つがバイオ燃料。だってアルコールを作るんだし。ただ困った邪魔者がいて、それが乳酸菌ってのは意外だった。納豆菌も嫌われるんだろうなあ。

 その乳酸菌が名を挙げた挿話も楽しい。主人公はロシアの生物学者イリヤ・メチニコフ(→Wikipedia)。19世紀末、ロシアじゃ発酵したウマの乳で作る飲み物クミスが流行り、彼はこれに興味を持つ。パリのパスツール研究所に移った彼は、同僚からブルガリアのヨーグルトが長生きの秘訣と聞いて売り込みを始める。ブルガリア・ヨーグルトの仕掛け人はロシア人だったのか。

 酒を醸し、パンを膨らませ、私たちの暮らしを豊かにしてくれた酵母。世界各地で酒が造られていることでも分かるように、酵母自体は別に珍しいものではなく、実はどこにでもいる。だが、その正体が真菌類のサッカロミセス・セレビシエであり、豆が連なったような形だと知る人は少ないだろう。

 身近な酵母を通し、菌の知識を広めようとする著者の熱意と愛情が滲み出た、親しみやすい科学解説書だ。科学に興味がある人に加え、呑兵衛にもお薦めの一冊。ただし出来ればシラフで読んでほしい。

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2023年9月19日 (火)

宮原ひろ子「地球の変動はどこまで宇宙で解明できるか 太陽活動から読み解く地球の過去・現在・未来」化学同人DOJIN文庫

惑星がほどよい気温を保てるかどうかは、太陽が放出する光の量と太陽からの距離で決まります。けれども、その心地よさがわずかに変わるということが、太陽の状態が刻々と変化することによっておこってくるわけです。それを研究対象にしているのが宇宙気候学です。
  ――第1章 変化する太陽

電離圏には、雷雲によって上層に運ばれた正の電荷が溜まっていて、地表と電離圏のあいだには、数百キロボルトもの電位差が生じています。
  ――第4章 宇宙はどのようにして地球に影響するのか

現在の地球では、炭素13が炭素12の1/100程度しか含まれていませんが、超新星残骸にある炭素には、炭素12と炭素13がほぼ同じ割合で含まれているのです
  ――第5章 変わるハビタブルゾーン

【どんな本?】

 太陽の活動が地球の気候に影響を与える。日中は温かいし、夜は冷える。「太陽の光が地球を暖めているんだから、当たり前じゃないか」と思うだろう。だが、冒頭で意外な事実が明らかになる。太陽の光の量はほとんど変わらないのだ。

 では、何が問題なのか。これも冒頭で想定外の仮説を著者は示す。宇宙から地球に降り注ぐ宇宙線が地球の天気を支配している、と。

 地球の気候と宇宙線に、何の関係があるのか。太陽の活動は?

 そもそも太陽とは何か、なぜ太陽活動が活発だと黒点が増えるのかなどの基礎的な事柄から、過去の太陽活動や地球の気候をどうやって調べるか、なぜ宇宙線が地球の気候を変えるのかなどの科学トピック、そして恐竜絶滅の謎に迫る壮大な仮説まで、極小の原子の世界から銀河系の運動へと様々な時間と空間のスケールで語る、エキサイティングな科学解説書。

 第31回講談社科学出版賞受賞作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は2014年8月に化学同人DOJIN選書より刊行の同名の単行本。文庫版は2022年12月5日第1刷発行。文庫版は加筆・訂正していて、特に第6章などで最新の情報が加わっている。9ポイント38字×17行×205頁=約132,430字、400字詰め原稿用紙で約332枚。文庫でも薄め。いや中身は濃いけど。

 文章は意外とこなれている。中身も素人に親切でわかりやすい。とうか、涙を呑んで専門的な言葉や説明をバッサリ切った感がある。例えば宇宙線(→名古屋大学宇宙線物理学研究室)について、その詳しい実態は説明していない。数式も出てこないので、理科が得意なら中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 前の章を踏まえて後の章が続く構成なので、素直に頭から読もう。

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  • まえがき
  • 序論
  • 第1章 変化する太陽
  • 1 太陽とはどのような星か
    恒星の進化/太陽がつくり出すエネルギー/惑星を温める太陽のエネルギー/磁場を持つ太陽
  • 2 黒点とは
    太陽の自転と黒点の生成/太陽活動の長期的な変化の謎
  • 3 マウンダ―極小期の謎
    マウンダ―極小期の発見/小氷期の謎/太陽の光量の変動/月に残された太陽光の変化
  • 4 ダイナミックに変化する太陽と宇宙天気
    宇宙の天気とは/オーロラはなぜ発生するのか/宇宙天気災害/太陽フレアと放射線被ばく/磁場が引き起こすトラブル/通信機器への影響/宇宙天気災害と地磁気のかたち/太陽フレアの規模と宇宙天気災害の規模の関係性
  • 第2章 太陽の真の姿を追う
  • 1 太陽活動史を復元する方法
    樹木に記録される太陽の活動/太陽活動の指標となる炭素14/屋久島に残された太陽活動の記録/太陽の記録を残す南極の氷 ベリリウム10
  • 2 宇宙線の変動は何を映し出すか
    地球を包み込む太陽のシールド/太陽圏磁場のスパイラル構造/太陽圏はどのように宇宙線を遮るか/宇宙線量の11年周期変動/太陽磁場の反転の影響による宇宙線の22年周期変動/太陽圏の構造と宇宙線量
  • 3 復元された太陽活動
    過去に何度も起こっていた無黒点期/樹木に残された太陽の“心音”/正確な太陽活動の復元をめざして
  • 4 太陽活動を駆動するのは
  • 第3章 太陽活動と気候変動の関係性
  • 1 過去の気候を調べる方法
    年輪から探る過去の気候/樹木の年輪以外を使って気候を調べる方法/試料の年代決定
  • 2 ミランコビッチ・サイクル
    天文学的な要素による太陽の地球への影響/氷期と間氷期の10万年周期
  • 3 ボンド・イベント
    1000年スケールの気候変動と太陽活動/氷期における太陽活動と気候変動
  • 4 小氷期が社会に与えるインパクト
    小氷期の発生と太陽活動/社会に与えた影響
  • 第4章 宇宙はどのようにして地球に影響するのか
  • 1 宇宙線の影響を見分けるには
    太陽活動が気候に影響するいくつかの経路/地磁気の変動を利用して宇宙線影響を探る/宇宙線だけに特徴的な22年周期変動を手がかりにする/太陽圏環境に左右される気候
  • 2 宇宙線と雲
    宇宙線が影響するプロセス/宇宙線の影響を受容しやすいホットスポットはどこか/宇宙線のもうひとつの効果
  • 第5章 変わるハビタブルゾーン
  • 1 地球の謎は解けるか?
    宇宙線の密集域への接近/地球史上の大イベント/地磁気変動との相乗効果/恐竜が滅んだのは?/数億年スケールの地球史を記録する地層/生命誕生と宇宙線
  • 2 暗い太陽のパラドックス
    暗い太陽のもとで生命は誕生した/パラドックスは解けるか/変わるハビタブルゾーン
  • 3 地球型惑星を探せ!
    地球型惑星の探査方法/住み心地のよい環境かどうかの観測
  • 第6章 未来の太陽と地球
  • 1 太陽はマウンダ―極小期を迎えるのか
    突然訪れた太陽活動の異常/マウンダ―極小期が再来するかどうかのカギ/地球への影響
  • 2 天気予報は変わるか
    宇宙天気と天気/太陽フレアと宇宙線のフォーブッシュ減少/天気予報につながるか?/得られ始めた太陽フレア予測への手がかり
  • 参考文献/あろがき/文庫版あとがき

【感想は?】

 宇宙気候学なんて名詞だけでもゾクゾクしてくる本だが、内容は思った以上に意外性に富んでいる。

 太陽の活動が地球の気候を変える。そんなの当たり前、と思うだろう。特に日差しが強くクソ暑い夏には。でも、太陽の光量は意外と変わらないのだ。変わるのは、宇宙線の量。

恒星の残骸から飛んでくる宇宙線は、太陽フレアが発生した際に太陽から飛んでくる放射線よりエネルギーが何桁も高く…
  ――第2章 太陽の真の姿を追う

 だが、宇宙線と気候の関係は冒頭で軽く仄めかされるだけ。冒頭で疑問を抱かせておいて、話は太陽の活動へと移る。イケズだが、必要なのだ。なに、親しみやすい言葉で書かれた文字数の少ない本でもあるし、スグに解が出てくる。ミステリだと思って、素直に読もう。

 その地球に降り注ぐ宇宙線の量を変えているのが、太陽の磁場。地球の磁場が数十万年に一度ぐらい反転するのに対し、太陽の磁場は忙しい。

太陽は頻繁に磁場の向きを変えているのです。(略)太陽活動が活発になって黒点数がピークを迎えたときに反転していますので、11年に1回反転していることになります。
  ――第2章 太陽の真の姿を追う

 太陽の磁場は、銀河の宇宙線から地球を守っている。太陽の磁場が弱まると、地球に降り注ぐ宇宙線が増える。実際はもっと複雑なんだが、その結果として…

太陽活動が11年周期で変動するのにともなう銀河宇宙線量の変動は、20~30%にもなります。
  ――第4章 宇宙はどのようにして地球に影響するのか

 と、宇宙線の量が変わるのだ。その宇宙線が、気候にどう影響するのか、というと。

1997年にデンマークのフリス・クリステンセンとヘンリク・スペンスマルクは、銀河宇宙線の変動と地球をおおう雲の量がよく一致しているという驚くべき論文を発表しました。
  ――第4章 宇宙はどのようにして地球に影響するのか

 宇宙線が増える→雲が増える→太陽光を雲が遮り地球が冷える、そんな感じ。でも、過去の宇宙線の量なんて、どうやって調べるのかっつーと、ハイ出ました、過去の気候調査の王道、木の年輪。

木の成長速度が気温に大きく依存する地域では、年輪幅の増減から気温の変動を知ることができますし、成長速度が降水に大きく依存している地域では、降水量の増減を知る手がかりが得られます。
  ――第3章 太陽活動と気候変動の関係

 これ、生きてる木だけでなく、いつ倒れたかわからん倒木でも調べる方法があるんだけど、その方法ってのが…

伐採年が分からない場合は、炭素14の濃度を測定し、1964年の年輪に特徴的な濃度の増加を検出します。これは、1963年に施行された部分的核実験禁止条約を前に相次いで行われた大気中での核実験によって、大量の中性子が大気中に放出され、それによって大量の炭素14がつくられ、濃度が急上昇したことによるものです。
  ――第3章 太陽活動と気候変動の関係

 世界的な地震計の設置も、冷戦時代に敵国の核実験を調べるために進んだなんて話もあって、なんだかなあ、と思ったり。さて、炭素14とかの同位元素、これが宇宙線の増減を知る手がかりになるってのも面白い。要は高エネルギーの荷電粒子(たいていは陽子)が他の元素にぶつかると、原子核が陽子を吸収した後に陽子が電子を放出し中性子に変わり同位体になるんだな。原発でトリチウム(三重水素)ができるのも、確か同じ理屈だったはず。

 これが終盤になると、話がドカンとデカくなる。なんと、天の川銀河系の中の太陽系の位置が謎のカギになってきたり。

超新星残骸の衝撃波が、荷電粒子を高エネルギーに加速するのです。ですから、太陽圏に飛んでくる宇宙線の量は、太陽系の近傍にどれくらい超新星残骸があるかということに依存して、変化することになります。
  ――第4章 宇宙はどのようにして地球に影響するのか

 この辺のゾクゾク感は、ブルーバックスの「恐竜はなぜ絶滅したか」以来だなあ。これには状況証拠もあって。

全球凍結が発生していた24憶~21憶年ほど前と8憶~6憶年前は、天の川銀河がスターバースト(→Wikipedia)を起こしていた時期で、太陽系が暗黒星雲をかすめてもおかしくない状況にあったことがわかります。
そのほか、1.4憶年ごとに繰り返す寒冷化のタイミングは、太陽系が銀河の腕を通過するタイミングと一致していますし、生物種の数に見られる6000万年~7000万年周期という変動は、銀河の中での太陽系のアップダウン運動と関連する可能性が指摘されています。
  ――第5章 変わるハビタブルゾーン

 他にも、天の川銀河内の太陽系の軌道も、私の思い込みと全く違ってて、小さい規模から大きい規模まで、「そうだったのか!」の連続で思い込みを覆されるネタが続々と出てきて楽しい本だった。

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