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2019年10月21日 (月)

コリン・エヴァンス「不完全犯罪ファイル2 最新科学捜査が挑んだ88の殺人・凶悪事件」明石書店 藤田真利子訳

全国火災データセンターが発表した数字によると、アメリカでは毎年ほぼ200万件の火災が起きている。そのうちおよそ1/4が故意の火災である。(略)放火の動機には通常三つの種類がある。保険金詐欺、復讐、窃盗や殺人など他の反抗の隠蔽である。
  ――放火

銃身を作るのに使われる工具は刻々と磨り減るので、どの銃にも同じ線条をつけるのは不可能である。
  ――弾道学

燃えるときに出すエネルギーは物によって違う。(略)その大きさの洗濯物が出すエネルギーを176キロワットと算出した。(略)炎の最大の高さを算出できる。この事例ではちょうど75cm(略)。しかし、衣類の山に(略)ガソリンをかければとたんに1300キロワットのエネルギーが生み出され、空中に4mの炎を吹き上げる。
  ――クレゴリー・ブラウンとダーリーン・バックナー事件

LE(弱火薬)に殺傷力を与えるのは容器なのだ。(略)最大の損傷を与えるのは秒速900mで外側に進行する衝撃波である。
TNT(トリニトロトルエン)、ダイナマイト、PETN(四硝酸ペンタエリトール)のような高性能爆薬は(略)爆発の速さは秒速6000mにものぼり…
  ――爆発物

復顔の技術には9000年以上の歴史があることを示す証拠がある。1953年にジェリコで発見された紀元前7500年の頭蓋骨は、石膏で肉付けされ、眼窩には貝殻がはめ込まれて目の代わりになっていた。
  ――復顔

「ヘレナがお墓の中から犯人を指差している」
  ――デイヴィッド・フレディアーニ事件

織物のいたんだ部分も繊維を落としやすい。たとえば、自動車が歩行者を轢いたとき、車体にはほぼ確実に衣服からの繊維がついている。
  ――毛髪と繊維

ヴァッサー大学文学部教授ドナルド・フォスター「人間はみな自分の言葉の囚人なのだ」
  ――シオドア・カジンスキー事件

指紋は別かもしれないが、拡大レンズは他の法医学の道具のなかで最も大勢の犯罪者を監獄に送り込んでいる。
  ――顕微鏡

シアン化水素の存在を臭いでわかるかどうかは遺伝的な能力で、40%の人だけに限られている。
  ――リチャード・オヴァートン事件

二人の試験者に(嘘発見器の)同一の結果を渡して解釈させると、(略)二人が正反対の結論を出すことがある。
  ――嘘発見器(ポリグラフ)

プロの殺し屋は、弾丸が貫通しないで被害者の体内に留まるように力を弱くした武器(弾丸)を選ぶということもある。
  ――ウドハム・シン事件

死体を探す典型的な方法は、T型の鉄の探り棒を持ち、地面に突き刺し、それを抜いて腐敗する肉の存在を示す匂いを嗅ぎ取る。
  ――クライド・スノウ

(科学者ジェームズ・)シューメーカーは(略)実験をしてみた。プロピオン酸の入っている血液を七つの研究所に送ってみたのである。おそろしいことに、三カ所までがそれをエチレングリコールと誤って判定した。
  ――パトリシア・ストーリングズ事件

歯の髄質は自然によって汚染されることがないため、最も豊かなDNA情報源となる。
  ――ダレン・ヴィカーズ事件

鋭錐石は自然の中に存在するが量は少なく、存在するのはぎざぎざの不規則な結晶の形である。
  ――ヴィンランドの地図事件

【どんな本?】

「不完全犯罪ファイル」の続編。

 銃で撃ち殺す。火で焼き殺す。ナイフで刺し殺す。ひもで絞め殺す。鈍器で殴り殺す。自動車で轢き殺す。毒を盛る。様々な殺し方があるが、犯人は何らかの形で被害者と接触する。そして接触すれば、どこかに痕跡を残す。

 血痕の形が分かれば、との時に被害者がどんな姿勢でどう動いたのかがわかる。銃創があれば、どんな角度でどれぐらいの距離で撃ったのかがわかる。指紋が決定的な証拠なのは、ミステリ・ファンでなくとも知っている。最近はDNA鑑定がこれに加わった。ひもや布も、繊維が残っていれば決定的な証拠となりうる。そればかりか、大量生産される工業製品さえ、根気よく調べれば「個性」が見つかる。

 物的証拠が犯人を突き止める決定的な証拠となった事件を多数紹介し、犯罪捜査における科学が果たす役割を明らかにするとともに、科学捜査の手法とその進歩に功績を残した人々を紹介し、科学捜査の歩みを記すミステリ・ファン必携の書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Murder Two : The Second Casebook of Forensic Detection, by Colin Evans, 2004。日本語版は2006年2月15日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み約519頁。9ポイント46字×18行×519頁=約429,732字、400字詰め原稿用紙で約1,075枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。というか、あまり科学の話は出てこない。内容の多くは事件の概要や捜査や裁判の話で、科学の話は1/4~1/5ぐらいか。やはり凶悪犯罪が中心なので、グロが苦手な人には向かないかも。

【構成は?】

 それぞれ4~6頁の独立した記事からなるので、気になった所から拾い読みしてもいい。〇がついた記事は、科学捜査に功績があった人や、科学捜査で使われる手法の紹介で、ついていない記事は事件の紹介。

  • 謝辞/序文
  • ジョン・アラン事件
  • ロウエル・エイモス事件
  • 〇法人類学
  • トロイ・アームストロング事件
  • 〇放火
  • フランク・アトウッド事件
  • 〇検死
  • 〇マイケル・ベイデン 1939~
  • 〇弾道学
  • ロイ・ベック・ジュニア事件
  • 〇アルフォンス・ベルティヨン 1853~1914
  • 〇血痕分析
  • イボリットとリディ・ド・ボカルメ事件
  • ブース・ディリンジャー事件
  • 〇脳指紋
  • アール・ブラムブレット事件
  • クレゴリー・ブラウンとダーリーン・バックナー事件
  • エドウィン・ブッシュ事件
  • ブライアン・カルザコルト事件
  • スデュアート・キャンベル事件
  • 〇フランシス・カンプス 1905~1972
  • サー・ロジャー・ケイスメント日記事件
  • 〇クロマトグラフィ
  • 〇ロバート・チャーチル 1886~1958
  • ハドン・クラーク事件
  • マーティン・コルウェル事件
  • 〇検視官
  • フレデリック・クロウ事件
  • ジェームズ・ロバート・クルス事件
  • ジョーン・カーリー事件
  • 〇DNA鑑定
  • ハワード・エルキンズ事件
  • フレデリック・エメット=ダン事件
  • 〇法昆虫学
  • 〇爆発物
  • 〇復顔
  • 〇指紋
  • ジェイク・フリーグル事件
  • デイヴィッド・フレディアーニ事件
  • テリー・ギブス事件
  • 〇ジョン・グレイスター 1892~1971
  • ジョージ・グリーン事件
  • 〇ハンス・グロス 1847~1915
  • ジョージ・グァルトニー事件
  • ジョン・ヘイ事件
  • 〇毛髪と繊維
  • ジェームズ・ハンラッティ事件
  • ルイス・ハリー事件
  • エリック・ヘイデン事件
  • スティーヴン・ヘフリン事件
  • 〇エドワード・O・ハインリヒ 1881~1953
  • 〇ミルトン・ヘルバーン 1902~1977
  • 〇サー・エドワード・ヘンリー 1850~1931
  • ウィリアム・A・ハイタワー事件
  • デイヴィッドとジョイ・フッカー事件
  • ウィルバー・ハワード事件
  • アイスマン事件
  • マーク・ジャーマン事件
  • 〇サー・アレック・ジェフリーズ 1950~
  • クレイトン・ジョンソン事件
  • ブライアン・モーリス・ジョーンズ事件
  • シオドア・カジンスキー事件
  • ジーン・カイデル事件
  • ロジャー・キビー事件
  • 〇ナイフの傷
  • 〇アレクサンドル・ラカサーニュ 1843~1924
  • カセム・ラシャール事件
  • マリー・ラファルジュ事件
  • アンジェロ・ジョン・ラマルカ事件
  • 〇ヘンリー・リー 1938~
  • エドワード・レオンスキー事件
  • 〇エドモン・ロカール 1877~1966
  • ジョージ・マッケイ事件
  • エルマー・マカーディ事件
  • デイヴィッド・マイヤーホファー事件
  • 〇顕微鏡
  • デイヴィッド・ミドルトン事件
  • ウォルター・リーロイ・ムーディ・ジュニア事件
  • モルモン遺言書事件
  • アール・モリス事件
  • ケヴィン・モリソン事件
  • 〇中性子放射化分析
  • 〇トーマス・ノグチ 1927~
  • 〇チャールズ・ノリス 1867~1935
  • 〇法歯学
  • リチャード・オヴァートン事件
  • スタンリー・パトレクとジョゼフ・ステブカ事件
  • ライザ・ベン事件
  • サムソン・ペレーラ事件
  • ペルシャ・ミイラ事件
  • チャーリー・フィリップス事件
  • フォーンマスターズ事件
  • 〇アラン・ピンカートン 1819~1884
  • ウィリアム・ポドモア事件
  • 〇嘘発見器(ポリグラフ)
  • エドモン・ド・ラ・ポムレ事件
  • 〇心理プロファイリング
  • 〇不審文書
  • デニス・ラーゾとスティ-ヴン・アッツォリーニ事件
  • ジェームズ・ロバートソン事件
  • キース・ローズ事件
  • ダーリー・ルーティエ事件
  • スティーヴン・シャー事件
  • ジョン・シュニーバーガー事件
  • 〇血清学
  • ロジャー・セヴァーズ事件
  • 〇キース・シンプソン 1907~1985
  • ポーラ・シムズ事件
  • ウドハム・シン事件
  • デヴフック・シヴリ事件
  • デニス・スモーリー事件
  • 〇サー・シドニー・スミス 1883~1969
  • 〇クライド・スノウ 1928~
  • ディモシー・スペンサー事件
  • 〇サー・バーナード・スピルズベリー 1877~1947
  • サー・リー・スタック襲撃事件
  • バーバラ・ステイガー事件
  • パトリシア・ストーリングズ事件
  • 〇ケニス・スターズ 1931~
  • 〇オーギュスト・アンブロワーズ・タルディユー 1818~1879
  • 〇チャールズ・アンソニー・テイラー 1885~1965
  • エリック・テツナー事件
  • シャルル=ルイ・テオバル事件
  • 〇死後経過時間
  • 〇毒物学
  • ジャック・ウンターヴェーガー事件
  • ヴィレム・ファン・リー事件
  • ダレン・ヴィカーズ事件
  • 〇フランソワ=ユ-ジェーヌ・ヴィドック事件 1775~1857
  • ヴィンランドの地図事件
  • 〇声紋
  • アルバート・ウォーカー事件
  • 〇デルバート・ウィード事件
  • 〇シリル・ウェクト 1931~
  • レイモンド・ホワイト事件
  • グスタフ・ウィルソン事件
  • ポール・ウルフ事件
  • ウィリアム・ザフ事件
  • 法医学の歩み/索引

【感想は?】

 事例としては、やはり殺人事件が多い。そのため、全体的に殺伐とした雰囲気が漂っている。

 まあ、仕方がないかな、とも思う。なにせ警察も忙しい。どの事件も、捜査にはやたら手間がかかってる。それは科学的な分析だけじゃない。現場から証拠物件を探したり、物件の製造・流通ルートを探ったり、そういった「足で調べる」類の捜査で、大勢の警官が動いている事例が多いからだ。

 だもんで、本書が扱うのも、いわゆる重大事件が中心となる。例えばハドン・クラーク事件では、ヘアブラシから見つかった、たった一本のかつらの繊維が、犯人を追い詰めてゆく。これを証拠とする科学の手法以上に、たった一本の繊維が重要な証拠となると見抜いた捜査員の手腕も凄い。

 髪といえば、ジョーン・カーリー事件も印象深い。ここでは髪の毛からタリウムを盛られた時期を特定した時期を明らかにする。

人間の髪の毛は毒による悪事の驚くべきバロメーターなのだ。人体内にある毒物は髪の毛の中に移動する。髪はかなり一定の割合で成長するので(およそ2.7日に1mm)、毒物がいつ摂取されたかをおおまかなグラフにすることができる。
  ――ジョーン・カーリー事件

 そんなワケで、髪は大事なのだ。私も残った少ない髪をせいぜい大切にしよう。ああ切ない。

 生物的な証拠としては、指紋とDNAが双璧だろう。他にも「死体につく虫が犯人を告げる」ではウジが活躍した。花粉が現場を示すこともある。死体を水中に捨てても…

顕微鏡検査によって、(被害者の体についていた)藻にははっきりと二つの世代があることがわかった。今年生えてきた新鮮な藻と、去年の死んだ藻である。つまり、死体は少なくとも18カ月は水中にあったということだ。
  ――ウィルバー・ハワード事件

 と、藻が死体の経歴を明らかにしたり。

 私が驚いたのは、大量生産の権化でもあるビニール袋にさえ、その気になれば「個性」を見つけられる、ということ。「ポーラ・シムズ事件」では、ビニールのゴミ袋からアシがついた。ゴミ袋は一日に100万mも作られ、どれもこれも同じように見える。だが、顕微鏡で調べれば、違いが見つかるのだ。コンクリートだって…

コンクリートは砂とセメントと水と骨材をいっしょにして型に入れて作られる。乾くと、その混合比によって独特のパターンができる。
  ――マーク・ジャーマン事件

 と、素材の比率を調べれば、出所は判ったり。

 全般的に殺伐とした事件が多い中で、息抜きになりそう、と思ったのがペルシャ・ミイラ事件。

「わたしはクセルクセス王の娘、ローデュギューネ」
  ――ペルシャ・ミイラ事件

 パキスタンのカラチで、紀元前五世紀のペルシャ帝国の王クセルクセス(→Wikipedia)の娘ローデュギューネのミイラが見つかった、なんて話だ。紀元前五世紀当時、ミイラ技術はエジプトにしかないはず。ミイラが本物なら、ペルシャにも技術が伝わっていたか、王女がエジプトで死んだかだ。いずれにせよ、歴史の通説は大きく揺らぐ。ところが…。

 物騒なネタが多い中で、こういった贋作事件は、やはり気分転換になる。中でも印象深いのが、モルモン遺言書事件だ。前の巻でも出てきた変わり者の大富豪ハワード・ヒューズは、亡き後も世間を騒がせる。遺産を巡り人々が騒ぎ駆けずり回る中、彼の自筆の遺言書がモルモン教の本部に届いたのだ。果たして…って、改めて読むと、かなりお粗末な手口だけどw

 偽造事件としては、ヴィンランドの地図事件の方がよほど洗練されている。時は1965年、1440年ごろに書かれたと思われる地図が見つかる。そこには大西洋西部にヴィニランダ・インスラことヴィンランドが書かれていた。用紙の仔牛皮紙は1434年ごろのもの、付属の文書は中世ラテン語。しかし…

 前巻同様、事件物として面白い記事が盛りだくさんだ。ただ、それぞれの事件のタイトルで、少し損をしているのも、前巻と同じ。例えばブース・ディリンジャー事件は、エイブラハム・リンカーン暗殺事件で使われた銃をめぐる話だし、シオドア・カジンスキー事件は、かの有名なユナボマーの記事だ。

 進歩の速い現代科学の世界で2004年の作品というのはいささか残念だが、それでも科学が犯罪捜査にどれほど役立つかは充分に伝わってくる。また、こういった手法が未発達な昔を想像すると、うすら寒い気分になるし、「検視官」のようにその懸念を裏付ける記事もある。「小さな塵の大きな不思議」とかを読むと、未来の犯罪捜査にまで妄想が広がって、眠れなくなったり。

 そこまで妄想を働かせなくとも、犯罪の事例集として野次馬根性で読んでも充分に楽しめるので、気軽に手に取ってみよう。

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2019年10月17日 (木)

コリン・エヴァンス「不完全犯罪ファイル 科学が暴いた100の難事件」明石書店 藤田真利子訳

本書は、現代の犯罪捜査における科学の役割を確立するのに重要な役割を果たした百件の犯罪を世界中から集め、事件の簡潔で正確な要約を通して科学捜査の進歩の跡をたどろうとするものである。
  ――序文

死体を発見したら、三つの質問に答えなければならない。被害者は誰か? 死後どの程度の時間が経過したか? 何が原因で死んだのか?
  ――2 死因

刑務所は「完全殺人」を犯した人々でいっぱいである。
  ――2 死因

爆弾のかなりの部分は爆発後もそのまま残っている。
  ――5 爆発物と火事

一人一人の指紋が違うということは、古代中国やバビロニア文明の時代から知られていた…
  ――6 指紋

指紋の耐久性についてはよく知られている。エジプトのミイラからも、無傷の指紋が見つかっている。
  ――6 指紋

人体の組織のうちで死後も変質しにくいのが歯だ。
  ――8 法医学

殺人事件の犠牲者の大半は顔見知りによって殺害されている…
  ――10 死体の個人識別

血清学の進歩によって今や三百種類の血液型識別法が可能になっている
  ――11 血清学

人が死んでからどれくらい時間がたっているかを知る伝統的な指標は、死後硬直、死斑(または血液沈滞)、死体の体温の三つである。(略)このうちのどれを根拠にしても、確実な死亡時刻は割り出せない。この三つは、周囲の温度、身体の状態、運動、酒、薬など、様々な要素によって早くなったり遅くなったりする。
  ――12 死亡時刻

17世紀までには、裕福な家ではプロの毒殺者を雇うのが日常茶飯事になっていたし、お家騒動を落着させるためにヨーロッパの王室が毒殺者を使うことも珍しくなかった。
  ――13 毒物学

1989年には、合衆国で18,954件の殺人事件があったが、その中で毒物を用いたケースはわずか28件だった。
  ――13 毒物学

中性子放射化合分析(NAA,→Wikipedia)とは、試料を(略)原子炉に挿入して、中性子で衝撃を与え、放射性にする(略)。放射性原子が崩壊する速度を計ることによって、試料に含まれる微量元素を識別することができる。
  ――14 痕跡証拠

【どんな本?】

 犯罪の捜査で物的証拠を掴むには、その時々の最新の科学が動員される。最も王道とされるのは指紋だろう。70年代のミステリでは血液型が多く登場したが、今はDNA鑑定にその座を譲った。最近では、ごくわずかな繊維でも重要な証拠となる。

 本書は、弾道学・毒物・犯罪心理分析・声紋などの技術ごとに、18世紀半ばから1990年代初頭までの事件を例に、それぞれの技術に何が出来るか・どのように発達したか・どう捜査で使われ法廷で認められるようになったかを示し、科学捜査の進歩と発達の歴史を辿ってゆく。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Casebook of Forensic Detection : How Science Solved 100 of the World's Most Baffling Crimes, by Colin Evans, 1996。日本語版は2000年9月20日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約504頁。9ポイント45字×18行×504頁=約408,240字、400字詰め原稿用紙で約1,021枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容も分かりやすい。というのも、実はあまり科学には踏み込んでいないのだ。むしろ犯罪と捜査の実例集として面白い。

【構成は?】

 それぞれの技術ごとに、古い事件から新しい事件の順に並んでいる。各事例は4~6頁程度で、それぞれ独立した記事なので、気になった事例を拾い読みしてもいい。

  • 序文
  • 1 弾道学
    チャールズ・スティーロウ事件/サッコとヴァンゼッティ事件/ブラウンとケネディ事件/ジョン・ブレイニオン事件/ジョゼフ・クリストファー事件/ジェームズ・ミッチェル事件
  • 2 死因
    ノーマン・ソーン事件/デイヴィッド・マーシャル事件/ジェームズ・キャム事件/ケニス・バーロウ事件/カール・コッポリーノ事件/リチャード・カクリンスキー事件
  • 3 書類鑑定
    ジョン・マグヌソン事件/アアーサー・ペリー事件/ヒトラーの日記事件/グレアム・バックハウス事件
  • 4 DNAタイピング
    ロマノフ家事件/コリン・ピッチフォーク事件/カーク・ブラッズワース事件/ロミー・リー・アンドリュース事件/イアン・シムズ事件
  • 5 爆発物と火事
    フレデリック・スモール事件/チャールズ・シュワーツ事件/シドニー・フォックス事件/ジョン・グラハム事件/スティーブン・ベンソン事件/パンナム103便事件
  • 6 指紋
    フランセスカ・ロハス事件/ストラットン兄弟事件/トーマス・ジェニングス事件/ウィリアム・バーガー事件/ケリー団事件/エドワード・モリー事件/ピーター・グリフィス事件/ジョージ・ロス事件/ヴァレリアン・トリファ事件/リチャード・ラムレス事件/ステラ・ニッケル事件
  • 7 法人類学
    ミシェル・エロー事件/アドルフ・ラトガート事件/ジョージ・ショットン事件/ウィリアム・ベイリー事件/ジョン・ウェイン・ゲイシー事件/ヨーゼフ・メンゲレ事件/ジョン・リスト事件
  • 8 法歯学
    ジョン・ウェブスター事件/ハリー・ドブキン事件/ゴードン・ヘイ事件/セオドア・バンディ事件/カーマイン・カラブロ事件
  • 9 犯罪心理分析
    ジョージ・メテスキー事件/リチャード・チェイス事件/ジョン・ダフィ事件
  • 10 死体の個人識別
    ソーンとナック事件/パトリック・ヒギンズ事件/ハンス・シュミット事件/エドワード・ケラー事件/ベッカーとノーキン事件/パトリック・マホン事件/ヘンリー・コリン・キャンベル事件/パトリック・ブレイディ事件/バック・ラックストン事件/アーサー・エガース事件/リチャード・クラフツ事件
  • 11 血清学
    ピエール・ヴォワルボ事件/ルードヴィッヒ・テスノウ事件/ジェシー・ワトキンズ事件/ジャニー・ドナルド事件/ジョゼフ・ウィリアムズ事件/W・トーマス・ジーグラー・ジュニア事件/アーサー・ハッチスン事件
  • 12 死亡時刻
    ジェームズとシャック事件/アニバル・アルモドバル事件/スティーブン・トラスコット事件/ウィリアム・ジェニングズ事件/デイヴィッド・ヘンドリクス事件
  • 13 毒物学
    メアリー・ブランディ事件/チャールズ・ホール事件/ロバート・ブキャナン事件/エヴァ・ラブレン事件/ジョン・アームストロング事件/ゲオルギ・マルコフ事件
  • 14 痕跡証拠
    ウィリアム・ドー事件/コリン・ロス事件/ドートルマン兄弟事件/ブルーノ・ハウプトマン事件/ジョン・フィオレンツァ事件/サミュエル・モーガン事件/ジョン・ヴォルマン事件/チェスター・ウェーガー事件/スティーブン・ブラッドリー事件/ロジャー・ペイン事件/ジェフリー・マクドナルド事件/ライオネル・ウィリアムズ事件/ウェイン・ウィリアムズ事件/ジョン・ジューバート事件/マルコム・フェアリー事件
  • 15 声紋
    クリフォード・アーヴィング事件/ブライアン・フッソン事件/ジミー・ウェイン・グレン事件
  • 付録 法医学の先駆者たちと代表的事件
  • 索引

【感想は?】

 科学というより、事件物として面白い。

 有名な事件も扱ってるんだが、素人は目次じゃわからなかったりする。例えばセオドア・バンディ事件。世間じゃテッド・バンディ(→Wikipedia)の名で通っている。同様にブルーノ・ハウプトマン事件は、リンドバーグ長男誘拐事件(→Wikipedia)だ。

 このリンドバーグ長男誘拐事件では、犯人が残した手製のはしごが重要な証拠物件の一つとなる。これの材料の木はもちろん、仕上げに使った「ベルト駆動式かんな盤」まで、科学捜査が特定した。だが、科学にできるのはここまで。その後、各地の製材所に問い合わせ、木材のルートを突き止めるのは、しらみつぶしの捜査によるもの。科学は役に立つけど、最終的なケリは従来通りの地道な捜査だったりする。

 心理分析も、ちょっと前に話題になった。最初のジョージ・メテスキー事件では、見事に犯人像を予言してみせる。

「逮捕のときには、(犯人は)ダブルのスーツを、ボタンをかけて着ているだろう」
  ――9 犯罪心理分析

 他にも多くの特徴をあげている。40~50代の男で偏執病、内向的で均整の取れた体、きれい好きで身なりもいい。高学歴だが米国育ちじゃないスラブ系。熟練の機械工で女に関心がなく信心深い…。いずれもちゃんと根拠があったりする。とはいえ、意外とネタは月並みで。

犯罪心理分析の核となるのは、犯罪統計学に対する完璧な知識である。
  ――9 犯罪心理分析

 例えば、暴行殺人は同じ人種間で多い。白人は白人を襲い、黒人は黒人を襲う。また暴行殺人の多くは若い男だ。なんのことはない、ベテラン刑事が経験を積んで身に着けるカンを、統計で裏付けたのが犯罪心理分析なのだ。

 殺伐とした事件が多い中、本好きのニワカ軍ヲタとして目を惹かれたのが、「ヒトラーの日記事件」。1981年2月、ドイツの大手出版社グルーナー・ウント・ヤールに、お宝らしき物が持ち込まれる。

(略)ほとんど読めない字でドイツ語で書かれていたその原稿は、出版界における今世紀最大の掘り出し物だった。ヒトラーの日記である。
  ――3 書類鑑定

 お宝を持ち込んだゲルト・ハイデマンは、約200万ドルを要求する。本物なら、確かにそれぐらいの価値はあるだろう。なんたって20世紀ドイツ最高の有名人だし。とはいえ、いかにも怪しげだ。だから本物かどうか確かめなきゃいけない。そこで、有名な筆跡鑑定の専門家オードウェイ・ヒルトンに真贋判定を頼む。ヒルトンの鑑定結果は…「本物」。

 残念ながら、後の調査で日記は偽物とバレる。紙の漂白剤は1954年以降のもの、紋章の糸はポリエステルで工業化されたのは1953年(→Wikipedia)、インクも戦後のもの。

 実はヒルトンが間違ったのには、ちゃんと理由がある。まず「ヒルトンはドイツ語をまったく理解」しなかった。それより切ないことに、本物のヒトラーの手書きサンプルとして渡されたブツも、「日誌と出所が同じ」だったのだ。そりゃ間違えるよ。

 やはり歴史好きの血を騒がせるのが、「ロマノフ家事件」。そう、スリラーやミステリの定番、ロシア最後の皇帝ニコライ二世とその家族、特に伝説の主役となりがちな皇女アナスタシアの真実を突き止めた話。ここでは現代の犯罪捜査の切り札DNA鑑定が大活躍する。

 時は1991年、場所はエカテリンブルク近くの沼の多い牧草地。見つかったのは骨だけだが、ミトコンドリアDNAの鑑定で本物と結論が出てしまう。いけず。とはいえ、これからも、作家は色々な抜け道を考え出すんだろうなあ。

 などと活躍するDNA鑑定は、真犯人を突き止めるだけでなく…

ブラッズワース釈放の際(1993年6月28日)に、全米刑事弁護人教会DNA作業会会長のピーター・ニューフェルド氏は、これまでに10人前後の在監者がDNA鑑定の結果釈放された、と述べた。
  ――4 DNAタイピング

 と、無実の人の潔白を証明するのにも一役買っているのが嬉しい。日本にもDNA鑑定を望む在監者はいるんだろうなあ。

 この本ではアメリカとイギリスの例が中心だ。向こうは土葬が多いためか、墓を掘り返す話もよく出てくる。こういうのを読むと、日本の火葬も善し悪しに思えてくる。特に犯罪被害者は、犯人が明らかになるまで保存した方がいいかも。

 遺体の調査で凄いのが、「チャールズ・ホール事件」。1871年の事件の真相を、ほぼ一世紀後の1968年に解き明かしたケースだ。

 1871年、合衆国の支援を受け蒸気引船ポラリス号が北極探査に出かけるが、グリーンランドで越冬する羽目になる。船長チャールズ・フランシス・ホールは船医のエミール・ベッセルスと折り合いが悪かった。1871年11月、船長ホールは昏睡状態に陥り亡くなり、凍った岸辺に葬られる。

 当時からベッセルスによる毒殺の疑いはあった。再調査が行われたのは約一世紀後の1968年。調査隊が送られ、彼の遺体が見つかる。「遺体の保存状態は驚くほどよく」「眼孔が空洞になっていたことと鼻の先端が萎んでいたことを除けば顔は無事」というから、さすが永久凍土。さて、彼の遺体から検出されたのは…

 どの事件も科学技術を使っているのは共通しているが、それと共に現場で集めた小さなサンプル、例えば繊維の切れ端や自動車の塗装片などが重要な手掛かりになるケースも多い。科学は発達しても、刑事さんたちの地道な努力が必要な事に変わりはないようだ。何せ大量の事件を収録しているので、ミステリ作家のアンチョコとしてもやたら便利だろう。

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2019年10月 6日 (日)

ペートル・ベックマン「πの歴史」ちくま学芸文庫 田尾陽一・清水韶光訳

ユークリッドは幾何学の父ではなく、数学的厳密性の父なのである。
  ――第4章 ユークリッド

ローマは、組織された強盗集団の最初の国でも最後の国でもない。しかし、後の時代の世界中のほとんどの人々をだまして、称賛するようにしむけた点では、唯一の国である。
  ――第5章 ローマという名のペスト

<背理法>というのは、今日までにひろく知られた証明法であるが欠点がひとつある。それは、否定すべきあやまった結論を知るには、まえもって正しい結果を知っていなければならないということである。
  ――第6章 シラクサのアルキメデス

連分数は、現在“失われた数学”の分野に属する。
  ――第12章 突破への序曲

彼(ニュートン)の方法を使うと関数やその積分、微分も無限級数に展開することができる。
  ――第13章 ニュートン

オイラーが(偶然なのだが)πと結びついた問題を徹底的にとりあつかってしまったので、彼の後に、πの計算をするもっとよい方法を見つけた人は、誰もいなかった。
  ――第14章 オイラー

…超越数が存在するとして、それらはなぜ関心をひくのだろうか。その答えは、超越数が多くの興味ある性質を持っているということであり、またもっというと、πの超越性が、昔からの問題である、円を正方形にすることの可能性について、解答をただちに与えるからである。
  ――第16章 超越数π<

コンパスと定規だけしか使えないときには、直線と円しか描けない(これらの方程式は、たかだか2次の代数方程式である)。
  ――第16章 超越数π<

【どんな本?】

 π。円周率。3.14159…。円周の長さを直径で割った数値。今では無理数、それも超越数(→Wikipedia)だと判っているが、かつては 3+1/7 や 3+17/120 などとしていた。

 人類は、いかにして正確なπの値へと迫っていったのか。様々な文明は、どんな値を当てはめていたのか。その数値は、どんな性質を持っているのか。そして、その性質は、数学にどんな変化をもたらしたのか。

 電気工学者である著者が、独特の歴史観を全面的に押し出し、容赦ない毒舌をまぶしながら語る、個性あふれる一般向けの数学史。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A History of π, by Petr Beckmann, 1971。日本語版は1973年9月29日に蒼樹書房より刊行、2006年4月10日にちくま学芸文庫より文庫版発行。私が読んだのは2006年5月20日発行の第二刷。文庫本で横一段組み本文約305頁に加え、訳者あとがき3頁+文庫版あとがき1頁。8.5ポイント26字×25行×305頁=198,250字、400字詰め原稿用紙で約496枚。文庫本としては普通の厚さ。

 数学の本のわりに文章はこなれている。内容は、読み方によりけり。というのも、やはり数学の本だから、数式はしょっちゅう出てくる。が、これを完全に読み飛ばしても、実は構わない。そういう読み方をすれば、数学が苦手でも、歴史の本として楽しめる。というか、私は読み飛ばした。ただし、超越数については知っていた方がいい。真面目に数式に取り組むなら、三角関数・微分・級数展開ぐらいは使いこなせないと厳しい。

というか、πを求めるのに三角関数を使うのは反則だと思うんだが、どうなのよ←負け惜しみです

【構成は?】

 各章はほぼ独立している。歴史の本として数式を飛ばして読む、または数学が得意なら、気になった所だけを拾い読みしてもい。数式を含めて読むなら、相応の覚悟が必要。悪いことは言わない。数式が出てきて「なんか難しそうだなあ」と思ったら、無理しないで読み飛ばそう。繰り返すが、私は数式を読み飛ばした。

  • まえがき
  • 第二版へのまえがき
  • 第三版へのまえがき
  • 第1章 夜明け
  • 第2章 ベルト地帯
  • 第3章 古代ギリシャ人
  • 第4章 ユークリッド
  • 第5章 ローマという名のペスト
  • 第6章 シラクサのアルキメデス
  • 第7章 たそがれ時代
  • 第8章 暗黒時代
  • 第9章 めざめ
  • 第10章 数の狩人たち
  • 第11章 さいごのアルキメデス学派
  • 第12章 突破への序曲
  • 第13章 ニュートン
  • 第14章 オイラー
  • 第15章 モンテ・カルロ法
  • 第16章 超越数π
  • 第17章 現代の正方形屋たち
  • 第18章 コンピュータ時代
  • 原註/訳註/参考文献/年代表/訳者あとがき/文庫版あとがき

【感想は?】

 歴史観は人それぞれだ。それぞれだが、個性が強いほど、断言する文章が多くなり、本としては爽快で楽しい。

 そして、この本には著者の独特の歴史観が強く出ている。だから、気が合う人には、とっても楽しい本だ。では、どんな歴史感か。

 著者は1924年のプラハ生まれだ。そのためか、西欧中心の歴史観に反感を持っていて、本書にはアステカや日本の話題も出てくる。また、ナチスやソ連に踏みにじられた歴史からか、全体主義に強く反発する。加えて工学者だ。当然、数学の恩恵を大きく受けているから、数学や科学が大好きだ。そして、母国の歴史も相まってか、政治力や軍事力のゴリ押しが大嫌いだ。

 この視点がよくわかるのが、人物や文明への評価だろう。ユークリッドやアルキメデスを高く評価するのは、まあ常識的なところ。ところが、アリストテレスは「2000年近くも科学の進歩を封じてしまった」とこき下ろす。自らの手で実験をせず、脳内で考えをもてあそんだのが気に入らないのだ。

 更に強烈なのが、ローマ帝国への評価で、まるしき強盗団扱いである。まあ、ローマの支配下じゃ理論はほとんど進歩せず、土木などの応用技術だけが進んだから、そういう事だろう。パックス・ロマーナに対しては、「チャーチルが邪魔しなきゃパックス・ジャーマニカが成ったぜ」って、某漫才コンビも真っ青な毒舌ぶりだw

 さて。主題のπだが、これは自然数でもなければ有理数でもない。超越数(→Wikipedia)だ。超越数を私なりに大雑把な説明をすると…

  • 有理数:整数と加減乗除の組み合わせで表せる実数(=虚数部はなし)。
  • 無理数:有理数ではない実数(=虚数部はなし)。
  • 代数的数:整数と加減乗除とn乗根の組み合わせで表せる複素数。
  • 超越数:代数的数ではない数、つまり整数と加減乗除とn乗根の組み合わせでは表せない複素数。

 πがいかにケッタイな数か、お分かりだろうか。計算では実態がつかめないのだ。1/3などの循環小数なら、簡単な筆算ですぐわかる。同じ無理数でも、√2は1×1の正方形の対角線の長さとして、方程式で出てくる。だがπは違う。この性質が、ある種の人を惹きつけるらしく…

数の狩人たちがすべてπの値に注目していることは、興味深い現象である。√2やsin1°やlog2を、数百桁まで求めようとした人は、ひとりもいないのだ。
  ――第10章 数の狩人たち

 本能的にヤバさを感じたんだろうか。そんなわけで、近似値を求めるしかない。その方法として最も分かりやすいのが、アンティフォンとアルキメデスの方法だ。円に内接する多角形と外接する多角形の周の長さを求め、少しづつ範囲を狭めていく。三平方の定理を知っていれば、中学生だって思いつくだろう。おかげで…

アルキメデス以来、πの桁数を上げる計算は、純粋に計算能力と忍耐力の問題になってしまったのだ。
  ――第2章 ベルト地帯

 今ならコンピュータで力任せの演算ができるが、当時はそんなモノはない。手計算ならまだマシで、下手すると暗算だ。これを解決する方法は二つ。腕自慢を集めるか、計算量を減らすか。この二つの方向性は、現代の計算機科学でも競い合い協力し合っているから感慨深い。その代表がGoogleで…ってのは置いて。

 腕自慢の一人が、ヨハン・マルチン・ツァハリアス・ターゼ。1844年に2カ月以内で200桁のπの値を計算した。ただし、ターゼが優れていたのは計算能力だけで…

…驚異的な計算能力をもつ人々の大多数は、ヨハン・ダーゼも含めて、<あほうな奴隷>のような存在であった。彼らは、計算の素早さではすぐれていたが、他のあらゆる点でまったくのろまであった。数学においても、駄目だった。
  ――第10章 数の狩人たち

 計算能力と数学能力は違うんですね。だもんで、計算は速くても、計算すべき式(というかアルゴリズム)がなきゃ手も足も出ない。その式を与えたのが、数学者 L. K. シュルツ・フォン・シュトラスニッキー。で、この時の式は、アルキメデスの式ではない。つまり計算量を減らす方向でも、進歩していたのだ。

 その方法の一つが、級数(→Wikipedia)だ。恥ずかしながら私、今まで級数の何が嬉しいのか全く見当がつかなかったんだが、この本で少しだけわかった。何より計算量で精度が制御できるのが嬉しい。実にコンピュータ向きの手法じゃないか。まあ、コンピュータが出てくるまで数学者が級数の有難みをどれほど分かっていたかは疑問だが、彼らにとっちゃ役に立つか否かはどうでもいいことなんだろう。なんたって…

19世紀に気体運動論があらわれるまで、確率論はギャンブル以外に使い道がなかったのである。
  ――第15章 モンテ・カルロ法

…ラプラスはもっと強力な計算法を発見していた。この方法は電子計算機が発達するまでは役に立たなかった。
  ――第15章 モンテ・カルロ法

 と、役に立とうが立つまいが、面白いと思ったら突き進んじゃう、そういう人たちなのだから。

 そのコンピュータは、最終章でやっと登場だ。1949年9月ENIACが2037桁まで70時間で計算したのに対し、1954年11月にはNORCが3089桁まで13分で計算している。5年ほどで300倍以上の高速化だ。とんでもねえ進歩である。ここでは、2進数から10進数に変換する時間までいちいち書いてあるのが、マニアックで楽しい。いや単純な計算だけど、面倒くさいのよ、ホント。

ちなみに今ざっと調べたところでは、2019年3月現在の記録は Google がクラウドで計算した31.4兆桁(→ITmedia)。31.4ってトコがシャレてるね。

 などと数学関係の話を主に紹介したが、歴史の話もやたらと楽しい。カエサルはもちろん、ナポレオンも辛らつにこき下ろし、終盤では現代の教養人ぶったラダイトを一言で薙ぎ払っている。そういう意味では、SF者の心を震わせる本でもあった。

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2019年9月27日 (金)

ナショナル・ジオグラフィック別冊「科学の迷信 世界をまどわせた思い込みの真相」日経BPムック

春分の日または天文学上、春の最初に当たる日に、卵を垂直に置いたら立つ、というのは本当だ。
また、このワザを試しに秋分の日とか、夏至や冬至の日などにやってみても、確かに立つ。
ついでに言うと、一年中、どの日にやっても立つ。

【どんな本?】

 重い物は軽い物より早く落ちる? 指をポキポキと鳴らすと関節炎になる? レミングは集団自殺する? ダウジングで地下水が見つかる?

 昔から人々の間には様々な事件や怪物やジンクス、おまじないなどの言い伝えがあったし、現代でも新たな都市伝説や陰謀論が流布しては消えてゆくが、占星術のように長い年月を経て生き延びるものもある。

 天動説や瀉血など、当時の一流の知識人までもが信じていた説から、ホメオパシーや永久機関などいかにも怪しげなもの、そしてネス湖の怪獣やミステリーサークルなど遊び心をそそるネタまで、バラエティに富んだ話を100個集め、豊富な写真とイラストで楽しく読めるように工夫した、一般向けのお楽しみムック。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は 100 Hoaxes and Mistakes That Fooled Science, 2018。日本語版は2018年10月14日発行。雑誌より一回り大きいサイズで横三段組み本文約150頁。8.5ポイント15字×42行×3段×150頁=約283,500字、400字詰め原稿用紙で約709枚。文庫なら厚い一冊分なんだが、紙面の2/3ぐらいは写真やイラストなので、実際の文字数は3割ぐらい。小説なら中編の分量。

 文章は読みやすい。内容も初歩的・入門書的なものが多い。

【構成は?】

 1~2頁の独立した記事をカテゴリごとに集めた形なので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

Chapter1 物理と科学の迷信
Chapter2 古代の迷信
Chapter3 人体の迷信
Chapter4 生物の迷信
Chapter5 地球の迷信
Chapter6 宇宙の迷信

【感想は?】

 SFやオカルトのネタ定番帳。

 つまりは古今の迷信を集めた本だ。迷信にも色々あるが、特に科学のフリをしたモノを集めている。

 中には錬金術や火星の運河やなど、ずっと昔に廃れたものもあるし、ホメオパシーや「ワクチンで自閉症になる」なんて現代でも猛威を振るっているものもある。こういう最近になって出てきたモノはすぐに廃れそうな気がするが、歴史の古い占星術は廃れそうにない。そういえば占星術にも西洋式だけでなく中国式とかもあるけど、こっちはあまし流行らないなあ。なんでだろうね。

 全般的に初歩的なモノが多いが、私の勘ちがいを指摘してくれたモノもあった。例えば「指の節を鳴らすと関節炎になる」。これは勘ちがいを教えてくれるだけでなく、ドナルド・L・アンガー(→Wikipedia)の実証実験が凄い。科学者の鑑だw あと、「大人の脳細胞は増えない」もすっかり勘違いしてた。思い込みの元は確かラリイ・ニーヴンの「無常の月」だったかな?

 ちとガックリきたのが、「毛はそると濃くなる」。いや頭頂部が砂漠化している者にとって、「じゃ丸坊主にして剃れば…」と妙な期待を抱いたが、「それで毛包がよみがえったという話は聞かない」。ぐぬぬ。

 やはり勘ちがいを指摘されたのが、「体温は頭から失われてゆく」。このネタ元は「米陸軍サバイバル全書」で、体温の40~45%は頭から失われる、だから帽子をかぶれ、とある。

 実は間違いとも言い切れない。追実験で確かめたところ、「外気にさらされている肌から熱が逃げる」。そして、米陸軍が測った際は、極地仕様のサバイバルスーツを着ていたが帽子はかぶっていなかった。つまり、最も露出面積が広いのが頭部だったのだ。日本じゃあまり帽子が流行らないことを考えると、あながち間違いでもないでしょ、でしょ。

 とはいえ、全般的に初歩的なネタが多いので、科学の本としてはいささか食い足りない感がある。また、個々の記事が短いため、いずれも科学的な説明やエピソードの記述が短すぎて、ちと駆け足だよなあ、と感じる部分は多い。が、逆に、だからこそネットで検索して、より深く突っ込んで調べる楽しみもある。

 特にソッチの楽しみを与えてくれるのが、日本ではあまり知られていないネタ。

 私が最初に「おおっ!」と思ったのが、「レッドマーキュリー」。1991年のソ連崩壊のドサクサに紛れ、国外に持ち出された赤軍の秘密兵器を示すものだ。本書では謎の金属だったりステルス塗料だったり。何せソ連、国土は広いし周辺はアレな国ばかり、サスペンス小説のネタとしては実に美味しい。でも、きっと既に誰かが書いてるね。フォーサイスの「第四の核」は、違ったっけ?

 陰謀論で有名なのは「月着陸捏造説」だが、「ケムトレイル」(→Wikipedia)を知る人は少ないだろう。長く残る飛行機雲だが、これを「有害物質をまき散らしている」と考える人がいるのだ。いやコッソリ何かを蒔くなら、目立たないようにするんじゃね? 航空機産業が盛んなアメリカらしい陰謀論だなあ。

 やはり知らなかったのが、コロイダルシルバー。銀には抗菌特性があるとして、微小な銀の粒子を混ぜた水を特効薬として売っているとか。今、検索したら、日本語でもウジャウジャ出てきた。マジかい。商売人は逞しいねえ。でも摂りすぎると肌に青みがかったり最悪の場合は脳卒中を引き起こすので、ロクなモンじゃない。

 とかの中で、ケリがついていない話もある。特にSF者として気になるのが、「宇宙戦争」だ。1938年10月30日、H・G・ウェルズ原作オーソン・ウェルズ翻案のラジオ・ドラマ「宇宙戦争」がパニックを引き起こした、とする事件だ(→Wikipedia)。ところがこのパニック、「番組放送後に新聞社が創作した話だったという」。信じちゃった人もいるが、大きな騒ぎにはならなかった、と。今の所、実態はよくわからない。

 などの文章以上に、何せ版が大きいだけに、豊富に収録した写真やイラストの魅力も大きい。Chapter4 の扉の恐竜のCGとか、壁紙にするためデジタルで欲しくなったり。またシカみたいな角の生えた野ウサギ「ジャッカロープ」とか、いかにもアメリカの田舎らしい法螺も楽しい。家族で楽しむ本だろう。

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2019年9月15日 (日)

ジョージ・ジョンソン「もうひとつの世界でもっとも美しい10の科学実験」日経BP社 吉田三知世訳

…重要なのは、その実験の計画と実施が美しいこと、思考の流れが、無駄のない美しいものであることだ。
  ――まえがき

色とは屈折率にほかならないのだ。
  ――第3章 アイザック・ニュ-トン 色とは何か

電池はある形のエネルギー――化学的エネルギー――を別の形のエネルギー――電気的エネルギー――に変換する「るつぼ」だったのだ。
  ――第6章 マイケル・ファラデー 奥深く隠されしもの

ウィリアム・トムソン「ジュールが多くの点で間違っていることは確かだと思いますが、彼はどうやら極めて重要な事実を発見したようです」
  ――第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか

【どんな本?】

  2002年、≪フィジックス・ワールド≫誌は「一番美しいと思う物理学の実験」のアンケートを取る。その結果は書籍「世界でもっとも美しい10の科学実験」としてまとまった。ただ、≪フィジックス・ワールド≫誌は物理学雑誌のため、選ばれた実験は物理学だけだ。

 これを科学全体に広げたら、どうなるだろう? そう考えた著者は、自分なりの基準で10の実験を選ぶ。先の著作と重なる実験もあれば、新しく登場した実験もある。

 これらの実験を通し、科学の楽しさ・美しさを伝えようとする、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ten Most Beautiful Experiments, by George Johnson, 2008。日本語版は2009年9月29日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約210頁に加え、訳者あとがき7頁。9.5ポイント44字×17行×210頁=約157,080字、400字詰め原稿用紙で約393枚。文庫本ならやや薄め。

 文章はのなれていて親しみやすく読みやすい。内容も特に難しくない。中学卒業程度の理科の素養があれば、充分に読みこなせる。というか、初歩的な内容が多いので、むしろあまり科学に詳しくない人の方が楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章は独立しているので、気になった所から拾い読みしてもいい。

  • まえがき
  • 第1章 ガリレオ・ガリレイ 物体はほんとうはどのように動くのか
  • 第2章 ウィリアム・ハーヴィ 心臓の謎
  • 第3章 アイザック・ニュ-トン 色とは何か
  • 第4章 アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ 徴税請負人の娘婿
  • 第5章 ルイージ・ガルヴァーニ 動物電気
  • 第6章 マイケル・ファラデー 奥深く隠されしもの
  • 第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか
  • 第8章 A・A・マイケルソン 宇宙で迷う
  • 第9章 イワン・パブロフ 測定不可能なものを測定する
  • 第10章 ロバート・ミリカン ボーダーランドで
  • あとがき 11番目のもっとも美しい実験
  • 謝辞/訳者あとがき/図のクレジット/原注と参考文献/索引

【感想は?】

 けっこう本を読む方だし、そこそこ科学にも詳しいと自分じゃ思っていた。が、実はそうでもなかったようだ。

 特に強く感じたのが、「第9章 イワン・パブロフ 測定不可能なものを測定する」。かの有名な「パブロフの犬」のパブロフ先生だ。読む前は、こう思っていた。「あの条件反射ね。その何が凄いの?」

 まず、パブロフが調べたのは、「犬が唾液を出す」という現象だけじゃない。他にも様々な事を調べている。

 例えば唾液の成分だ。本書では二種類を紹介している。一つは美味しい食べ物に反応する唾液で、これはムチン(→Wikipedia)を含む。しかも、同時に胃や十二指腸は消化の準備を始めている。私たちの体は、ベルトコンベア式の優れた消化工場なのだ。

 もう一つは、嫌な味のもの、からし油や塩を与えた場合。この時の唾液は「ほとんど水」で、つまりは洗浄水だ。たかが唾液だけど、目的によって成分を調整しているのだ。体って凄い。

 俗説じゃパブロフはベルの音と餌を関連付けたことになっている。だが、実際は様々な刺激で反応を導きだした。閃光・物体の回転の方向・物体の形・メトロノームのテンポの違い・音の高さ…

 ここまで読んで、やっと私は気づいた。つまり、パブロフは、現在の動物実験の基礎を築いたのだ。マウスに迷路を走らせたり、餌の数を識別させたり、ミラーニューロンに気づいたり。こういった実験は、みなパブロフが見つけた条件反射が基礎にある。

 ちなみにパブロフ先生、実はかなり犬好きで、実験動物の犬も名前をつけて可愛がっていたとか。

 それとは違う意味で、科学者の本性を感じるのが、「第5章 ルイージ・ガルヴァーニ 動物電気」。ガルヴァーニはカエルの肢に電気を流して痙攣させ、アレッサンドロ・ボルタと対立しながら、電池の理論の基礎を固めてゆく。このどこに科学者の本性があるのか、というと。

 ガルヴァーニの没年は1798年。今ざっと Wikipedia で調べた限りじゃ、電気が役に立ちそうな気配が漂うのは1753年の静電気電信機で、実際に電信が使い物になるのは19世紀に入ってから。とすると、ガルヴァーニがカエルを相手に格闘していた頃は、電気が何の役に立つのか、ほとんど何もわかっていない。

 つまりガルヴァーニは、単に電気の正体が知りたかっただけなのだ。科学者ってのは、そういう生き物なのである。「知りたい」、ただそれだけのために、何年も頭を抱えて考え込み、しち面倒くさい実験を繰り返す、そういう生物らしい。だから「それが何の役に立つ?」なんて尋ねても無駄なのだ。わははw

 もっとも、先の Wikipedia の記事を見る限り、ファラデーが1831年に電磁誘導を理論化する前に、色々な形で電信を実用化する試みがなされている。案外と世の中は理論→応用ではなく、応用→理論の順で事が運ぶケースも多いみたいだ。

 それを実感するのが、「第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか」。ラヴォアジェの質量保存則と並ぶ科学の基本、エネルギー保存則を見つけた人である。もともと彼が考えていたのは、いわば電気力発電みたいなモノだった。

 モーターを作る際、電磁石の強さは電流の二乗に比例する事に彼は気づく。「なら電流を二倍流せばモーターは四倍強力になるよね、おお、無限エネルギーだヤッホー」。

 ところが、やってみるとうまくいかない。電流を増やしても、コイルが熱くなるだけ。その代わり、奇妙なことにジュールは気づく。電池を倍にすると、コイルの熱は四倍になる。「もしかして、電気のエネルギーは熱に変わったんじゃね?」熱力学の受胎である。

 これらの理論化は1840年代だ。だが、ジェームズ・ワットの蒸気機関改良はは1769年。こちらも、理論より先に応用そして産業利用が始まっている。案外と理論は応用の後を追うらしい。改めて考えると、弓矢もニュートンが運動エネルギーを考える遥か以前にできているし、弦楽器も音楽理論より前に出現してるんだよなあ。

 最後の「第10章 ロバート・ミリカン ボーダーランドで」は、電子の重さを測る実験だ。単に測るだけじゃなく、それがとびとびの値であることを確認している。今でこそ電子は常識だが、当時としては画期的な発見だったろう。

 …は、いいけど、改めて考えると、電子1個と陽子1個の電荷は、符号が逆で絶対値は同じって、なんか不思議だよなあ。いや量子力学をちゃんと学べばわかるんだろうけど。

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2019年8月19日 (月)

ロバート・A・アスキンズ「落葉樹林の進化史 恐竜時代から続く生態系の物語」築地書館 黒沢玲子訳

本書の最終目標は、生態系の普遍的なパターンや、保全問題に幅広く用いることができる解決策を探ることである。
  ――前書き

…この160万年の間に氷期と間氷期は四回ではなく、18~20回も交互に訪れていたことがわかった。
  ――第2章 白亜紀の森

更新世代以前の化石記録を分析した結果では、くり返し訪れた氷河期を生き延びた樹木の属は東アジアでは96%、北米東部では82%あるのに対して、ヨーロッパは29%に過ぎない。
  ――第2章 白亜紀の森

…人類は火を手にしたことで、熱帯アフリカのサバンナの外へ生活圏を拡大することができただけでなく、出ていった先でサバンナを作りだすこともできたのだ。
  ――第3章 人類出現後の落葉樹林

日本の伝統的な建造物にみられる瓦屋根や(檜皮や藁など)樹皮で葺いた屋根、イグサの畳、唐紙の襖といった繊細で優雅な構造は、こうした木材不足の時代に発達したのである。
  ――第3章 人類出現後の落葉樹林

日本の森林は第二次世界大戦中に乱伐されて深刻な被害を受けた。1941年から1945年の間に森林の15%が伐採されただけでなく、化学肥料が手に入らないので、その代わりに落ち葉や下層植生が利用されたため、残った森林の質も著しく低下した。
  ――第4章 自然林の減少と持続可能な森林の創出

動植物の種数は、農地開発や木材用に伐採されてから回復しつつある二次林よりも、原生林の方で生息数がはるかに多い。
  ――第5章 巨木と林内の空き地

日本の京都ではヤマザクラの開花時期について、驚くほど長期間にわたる記録が取られている。このサクラの開花は1000年以上続く恒例の桜祭りの開催を告げる合図になっている。(略)桜祭りの時期は朝廷の記録や日記類に記されているので、サクラの開花時期は9世紀以降の1200年間の60%の時期について推定できる。
  ――第8章 世界的気候変動の脅威

原生自然を重視するアメリカの自然保護運動はおおむねアメリカ独自の運動だった。(略)
ヨーロッパでは、森でもほとんどが管理された人為的な環境である。(略)
…日本に大規模な自然林がほとんど残されていない最大の原因が国の政策であることは明らかだが、ミニチュアの自然を大事にする伝統も一因になっているのかもしれない。
  ――第10章 三大陸の保全戦略を融合する

【どんな本?】

 北米、ヨーロッパ、そして日本。それぞれ遠く離れた地域でありながら、遠くからみた森の風景は、なんとなく似ている。気候が似ているためだろう。いずれも温帯にあり、降水量も多い。

 と同時に、微妙な違いもある。

 何度も訪れた氷期・間氷期など気候の変化と、海や山脈などの地形。そこに住む動植物などの生態系。そしてヒトの暮らし方と森との付き合い方。

 これらの自然環境や歴史の違いは、現代に生きる人々の自然観や自然環境保護にも影響を与えている。

 それぞれの地域は、どんな歴史を辿って現代に至ったのか。気候の変化や地形、そして動植物などの生態系は、森をどう変えるのか。人の手が入らない原生林は、どのような姿なのか。そして人はどのように森と付き合い、森をどう変えてきたのか。

 鳥類額と生態学を専門とする著者が、北米・ヨーロッパ・日本の三者の自然環境および歴史を考慮しながら、森が現在の姿に至った経緯を語り、これからの森林保護のあり方を探る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Swing the World's Deciduous Forests : Ecological Perspectives from East Asia, North America, and Europe, by Robert A. Askins, 2014。日本語版は2016年11月20日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約300頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント49字×19行×300頁=約279,300字、400字詰め原稿用紙で約699枚。文庫本ならやや厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、樹や鳥の名前が次々と出てくるので、図巻かGoogleを見られると便利だろう。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 前書き
  • 第1章 よく似た風景 ニューイングランドと京都の春の森
    日本と北米の森林が似ているのはなぜか?/森林生態系の一般法則を求めて
  • 第2章 白亜紀の森 落葉樹林の起源
    北極地方の落葉樹林/落葉樹林の恐竜/白亜紀の森林生態系の終焉/新しい森の出現/気候変動と落葉樹林の衰退/落葉樹林の再編成/保全上の意義
  • 第3章 人類出現後の落葉樹林
    落葉樹林に生息する大型哺乳類の絶滅/火災と落葉樹林/農業の発達と森林の縮小/落葉樹林から農地へ/保全上の意義
  • 第4章 自然林の減少と持続可能な森林の創出
    森林保護の起源/ヨーロッパの持続可能な森林管理/日本の木材資源と水源の保護/北米の落葉樹林の衰退と回復/保全上の意義
  • 第5章 巨木と林内の空き地
    ポーランドに残る壮大な原生林/古い森に見られる若木/樹幹のギャップに特殊化した鳥類種/森林の壊滅的被害と新しい森の成長/火災とナラの木/原生林の生態的重要性/若い森の種と、体内の大きな空き地を必要とする種/保全上の意義
  • 第6章 孤立林と森林性鳥類の減少
    北米東部の鳥類が減少した原因/北米東部の鳥類にとって大森林が重要な理由/日本の森林性鳥類/森林の分断化に対する鳥類の一般的な反応パターン/森林の分断化とヨーロッパの森林性鳥類/ヨーロッパの鳥が森林の分断化に強い理由/世界のミソサザイ/ヨーロッパの森林性鳥類の減少/保全上の意義
  • 第7章 オオカミが消えた森の衰退
    失われたオオカミ/日本のオオカミ/オジロジカが変える北米の森/姿を消した下層植生の鳥/オジロジカの最適密度はどのくらいか?/シカの個体数を狩猟で減らす/自然の捕食者によってシカの個体数は減るか?/ヨーロッパの森のシカ問題/保全上の意義
  • 第8章 世界的気候変動の脅威
    急激な気候変動の証拠/生物個体は気候変動にすばやく適応して、その生息地で生き延びられるか?/生物の進化は気候変動についていけるか?/生物は気候変動を生き延びるために、分布域を変えられるか?/樹木の分布に対する気候の温暖化の影響/種の「分散援助」が必要になるか?/気候変動に対する柔軟性の限界/保全上の意義
  • 第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種
    重要樹木を脅かす病原体と昆虫/森林に被害をもたらす病原体や昆虫の蔓延を食い止める戦略/持ち込まれた森林の害虫や病原体を駆除する方法/生物的防衛の危険性と将来性/耐性を備えた樹種の品種改良/樹種が失われると起こる長期的変化/他の侵略的外来種/保全上の意義
  • 第10章 三大陸の保全戦略を融合する
    北米の原生自然を保全する/現代の生態学的研究の観点からみた原生自然の保全/人手のはいったヨーロッパの自然環境を保護する/現代の生態学的研究の観点からみた人為的自然環境の保全/ミニチュア的自然 日本の自然保護/日本の自然保護に対する政治的制約/現代の生態学的研究の観点からみた「ミニチュア的自然」の保護/三地域の保全方法を融合させる
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/注/生物名索引/事項索引

【感想は?】

 京都の紅葉の風景は、人為的に作り出されたものだったのか。

 当たり前だが、紅く染まるのは落葉樹だけだ。特に鮮やかなのはカエデだろう。ところが、「畿内に元々あった森林の優占樹種は落葉樹ではなく、常緑広葉樹や針葉樹だった」。

 ご存知のように、京都は歴史の古い土地だ。そして少し前まで、ヒトの最大のエネルギー源は薪だった。寺や仏像を建てるにも木材が要る。東大寺を建てるには900ヘクタールの原生林が必要だったとの推定もある。3km×3kmの森を潰した勘定だ。伐採で常緑樹や針葉樹が消えたスキに、カエデが侵入したのである。という事は、長く放置したら元の常緑樹+針葉樹に戻ってしまうのか。

 実際、全く人の手が入らない原生林というのは、なかなか手こずるシロモノらしい。本書が最初の例に挙げているのは、ポーランドのビャウォヴィエジャ森林特別保護区。ポーランド王室の種猟場として保護されたのが幸いし、第一次世界大戦後に国立公園として保護されるようになる。

 ここでは、林床の12~15%が倒木や落枝で覆われている。こりゃ移動するのも一苦労だ。それは辛いが、学者には格好の観察フィールドになる。面白いことに、一つの種が一帯を征服するのではなく、幾つもの種が雑然と混在しているのだ。というのも、原生林の中にいろいろな環境があるからだ。

 うっそうと繁っているように見えて、所々に空が見える所がある。本書では「樹冠ギャップ」と呼ぶ。寿命や嵐で巨木が近くの木を巻き添えにして倒れたり、火事で一帯が焼けたりしてできる。こういう所を好む生物もいるのだ。そこを、最初は草や低木が占領する。やがて日向を好み成長の早いサクラやハコヤナギが進出する。

 一般に植林によってできた人工林や皆伐の後にできる二次林は、すべての樹の年齢が同じだ。だから中の環境も似たようなものになる。対して原生林は老いも若きも混在しているので、鬱蒼としたところもあればギャップもある。そしてギャップを好む生物もいる。この本はクロズキンアメリカムシクイやコウモリを例に挙げている。

 テキトーに開けてりゃいいのかというと、そうでもない。ある程度の規模の森が必要な種もいる。実は鳥にも社会があって、一定規模の群れが維持できないと棲みつかない鳥もいるのだ。

親のなわばりを離れて数週間しか経っていない(ノドグロルリアメリカムシクイの)幼鳥は、さえずりや鳴き声を(CDプレーヤーで)流さなかった対照区よりも、流した場所の方を頻繁に訪れた。この実験結果は、幼鳥はさえずりや鳴き声に惹きつけられたことを示唆している。
  ――第6章 孤立林と森林性鳥類の減少

 若い鳥は、仲間がたくさんいる所に集うらしい。敵に襲われた時に、その方が被害が少ないからなんだろうか。そういえばハトも群れで飛ぶなあ。

 とはいえ、保護にも問題があって。この本では金華山(→Wikipedia)のシカが例として出てくる。聖域としてシカを保護したのはいいが、増えすぎて樹皮まで食べ、また若木も食い尽くし、森が草原に変わってしまった。草原に生えるシバもシカは大好きなので、更に個体数が増える。

 こういう問題はアメリカでもあって、対策の一つは狩猟、もう一つはシカを狩るオオカミの導入だ。ここで昔からの疑問の一つが解消した。ヨーロッパの童話じゃオオカミは恐ろしい悪役だが、私はオオカミにあまり悪い印象を持っていない。むしろ精悍で仲間を大事にする獣、みたいなイメージだ。これは私だけじゃなく東アジア全体の傾向らしい。というのも…

ヨーロッパの伝統文化ではオオカミは否定的に捉えられているが、日本の伝統的な見方や描写は曖昧で複雑であある。(略)
ヨーロッパでは(略)畜産と作物の混合農業が主要だった。(略)草地に放牧されていたウシやヒツジの大きな群れはオオカミのような大型の捕食者に狙われやすかった。
日本でもウマやウシ、スイギュウは重要な家畜だったが、主に交通や耕作の手段として利用されていたので、大きな群れで飼うことはあまりなく、オオカミから守るのも楽だった。
  ――第7章 オオカミが消えた森の衰退

 向こうじゃ、肉を取るためにウシやヒツジを群れで飼う。それを襲うオオカミは害獣だったのだ。でも日本じゃあまし肉を食わないんで、オオカミの害も少ない。だからあまし悪い印象もなかったのだ。ところが…

1730年に日本に狂犬病が持ち込まれた後、日本人のオオカミに対する態度が一変した。
  ――第7章 オオカミが消えた森の衰退

 今、ちょっと Wikipedia で調べたら、やっぱり長崎発祥だった。交易は経済的な恩恵がある反面、こういう危険もあるんだよなあ。ちなみにイギリスじゃ東アジアから持ち込まれたキバノロとニホンジカとキョンが増えて困ってるとか。そういえば千葉でもキョンが騒ぎになったなあ(→千葉日報)。

 外来種にしてもシカみたく大きな生き物はまだマシで、怖いのは虫や病気だ。

気候変動は長期的には大きな脅威かもしれないが、北半球の落葉樹林が直面している最大の脅威は、特定の樹種にとりつく病原体や昆虫の蔓延であり、数年で絶滅や地域絶滅の淵に追い込まれる樹種が生じることがある。
  ――第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種

 これもオオカミ同様に捕食者の導入って手もあるが、マングースの例もあるように、適切な役者を選ぶのが難しい。が、ツガカサアブラムシ対策は笑ってしまった。1995年、マイケル・モンゴメリーは天敵を求め中国に赴き、そこで50種のテントウムシを見つけたのはいいが…

そのうちの21種が未記載の新種だった
  ――第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種

 中国、おそるべし。恐竜の化石といい、今世紀の生物学者は中国に熱い目線を送ってるんだろうなあ。

 などの自然の話もいいが、北米・ヨーロッパ・日本を対比させているのも楽しいところ。気候や地形の違いもあれば、それぞれの土地での自然との付き合い方の違いもある。また、自然保護の理想についても、それぞれで考え方が違う。野生の北米、田園のヨーロッパ、鎮守の森の日本とでもいうか。

 にしても、つくづく林学の本は地質学から古人の日記までと視野がやたら広くて面白い。これからも、のんびりこっちの方面も読んでいこうと思う。

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2019年8月 1日 (木)

「モノができる仕組み事典 日用品から旅客機まで50種の完成するまでの工程を現場写真で構成」成美堂出版

化粧箱入りや付録付きなどの特殊包装は、1つ1つ人の手で包装する。
  ――光ディスク(CD)

缶の中に蒸気を当てて空気を追い出し、同時にフタを閉めて密閉する。すると中の蒸気が冷えて水になり、体積が減った分が真空になる
  ――ツナ缶

【どんな本?】

 私たちの身の回りにあるパソコン・携帯電話・カップめん・鉛筆などは、どんな材料からどんな工程で作っているんだろう? どの工程が手作りで、どの工程を自動化しているんだろう? 原材料はどこから来て、製品ができるまで何日ぐらいかかるんだろう?

 巨大な船や繊細なグランドピアノ、美味しいマヨネーズから量産品のペットボトルまで、製造している工場に直接出向いて取材し、豊富なカラー写真とわかりやすいイラストで、現代の工業製品の製造過程を伝える、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年11月20日発行。単行本ソフトカバーで約220頁、横組みで本文は全頁フルカラー。紙面の半分以上はイラストや写真が占めているので、文字数は見た目の半分未満。

 狭い紙面にむりやり解説文を押し込めた感がある。そのため文章はかなり説明不足だったり、専門用語が連発したり。文字サイズも小さくて、年寄りにはキツい。写真も迫力ありそうなものが多いのだが、やはり小さすぎる。内容の濃さに比べ、とにかく紙数が足りないのだ。丹念に取材しているのは伝わってくるので、頁数を倍にするなり複数冊にするなりして、余裕のある構成にして欲しかった。

 また、「6 資材」は、他の記事の原材料が主なので、最初のほうに持ってきてほしかったなあ。

【構成は?】

 2~7頁の記事を並べた構成だ。それぞれの記事は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 1 オプト・メカトロニクス
  • デスクトップパソコン(液晶一体型)
  • プラズマテレビ
  • 光ディスク(CD)
  • 光ファイバケーブル
  • 時計
  • 自動販売機
  • パチンコ機
  • 2 乗り物
  • 自動車
  • タイヤ
  • バイク
  • 油圧ショベル
  • 飛行機
  • 新幹線
  • 3 音楽・スポーツ
  • グランドピアノ
  • トランペット
  • フォークギター
  • ピンポン球
  • 野球グラブ
  • 野球バット
  • 野球ボール
  • ゴルフボール
  • 4 食品
  • マヨネーズ
  • インスタントコーヒー
  • ツナ缶
  • レトルトカレー
  • ティーバッグ
  • ビール
  • チョコレート
  • カップめん
  • 5 生活用品
  • スニーカー
  • 洋服
  • タオル
  • ペットボトル
  • アルミホイル
  • トイレットペーパー
  • 鉛筆
  • 使い捨てカイロ
  • ガラス魔法瓶
  • 口紅
  • 薬(錠剤)
  • コンタクトレンズ
  • 工業化住宅
  • 6 資材
  • 板ガラス
  • 屋根瓦
  • 鉄鋼
  • セメント
  • 潤滑油
  • 早わかり講座
  • 液晶テレビ
  • 携帯電話
  • エアコン
  • カメラ
  • 国民食から世界食、宇宙食へ その心は「食足世平」
  • 乾電池
  • 電球
  • 「やってやろう」の精神が開発を成功させる
  • 紙幣
  • 製鉄所でのエネルギーと資源の循環
  • 石油精製

【感想は?】

 駆け足の工場見学50連発。

 考えてみれば、私の身の回りにある物は、みんな誰かが作った物ばかりだ。でも、それをどうやって作るのかは、滅多に考えない。物によっては作り方の都合で「そういう形」になっているのもある。でも、私たちは「アレはそういう形」と思い込んでたりする。

 例えばアルミホイル。片面はピカピカで、もう片面はザラザラしか感じになっている。そういうものだと思い込んでたが、作り方の問題だった。アルミホイルは薄い。なんと厚さ0.012mmである。これローラーで薄く延ばすのだ。元は厚さ0.4mmのアルミ板を、何回もローラーで延ばし0.024mmまで薄くする。仕上げにアルミ板2枚を重ねてローラーを通し、0.012mmになる。

 この時、ローラーに接する側には油を塗る。油を塗った側はピカピカになるのだ。

 にしても、こんな薄さを保つ精度も驚きだし、穴が開いたり破れたりしないのも凄い。ちなみに延ばしたアルミ箔を巻き取る速度は最大で分速1250mって、時速75kmかい。すんげえスピードだなあ。下手に触ったら体を真っ二つに切り裂かれそうだ。

 こういう身近なものは興味を惹かれる分、やっぱり楽しく読めるのだ。レトルトカレーも参考になった。ルー・トマト&リンゴ・野菜類、それぞれ別々に炒めたり焙煎した後で、まとめて煮込んでる。最初から全部を混ぜて煮込むんじゃないんだなあ。ちなみに、この手の食品の開発じゃ米軍が暗躍してます(→「戦争がつくった現代の食卓」)。

 麺類を音立ててすする事の是非が話題になったりしたけど、お茶をすするのはやはり行儀悪いって風潮が強いのかな。でも、ある意味、音を立ててすするのは、お茶への敬意でもあるのだ。というのも、紅茶のテイスティングでは…

すすりあげるように口に含むのは、香りを際立たせるため。
  ――ティーバッグ

 とある。とすると、お茶を音を立ててすするってのは、「このお茶は香りがとてもよい」ってメッセージに…ならんか、やっぱし。

 全般的に機械化された工程が多いんだが、意外と手作業もある。洋服は、型紙こそCADで作るものの、縫製はミシンかけとアイロンかけの繰り返し。ほとんど手作業だったり。

 やはり意外なのが、船。この本に出てくる船はボートじゃなくて、大型の貨物船だ。で、記事に出てくる工程の大半が、溶接なのだ。小さい部品を溶接して小組立品を、小組立品を溶接して大組立品を、大組立品を溶接してブロックを…ってな感じ。溶接は万能なのか。もう一つ意外なのが「進水式」。てっきり完成してからやるのかと思ったが、そうじゃない。配線・配管・内装とかの前に進水式をやっちゃう。

 やっぱり溶接って凄いと思うのが、トランペット。元はプラナリアみたいな形の平らな真鍮板だ。これをロウ付けで管にしてる。トランペットもギターも、楽器は精度が要求されるわりに手作業が多いのも意外だった。もっとも、手間じゃグランドピアノの凄まじさがブッチギリだけど。そりゃお値段も納得だよなあ。にしても7オクターブ以上の音域を、たった20種類の太さの弦で出してるってのも意外。

 思い込みを覆されたのも多くて、その筆頭がタイヤ。はい、自動車のタイヤです。あれホイールキャップは様々な形や色があるけど、タイヤそのものは黒一色だよね。他の色にできないのかと思ったら、やっぱ難しいみたい。というのも、「カーボンブラック(墨)はゴムを丈夫にするため」と、そういう色である必要性があるのだ。

 また加硫(→Wikipedia)も勘違いしてた。予めゴムに硫黄を混ぜて型に流し込むと思ってたが、微妙に違う。形を作った段階じゃ、ゴムはプニプニまたはフニャフニャなのだ。これを熱すると、形が崩れにくくなる。この加硫工程は後のスニーカーでも出てくるんだが、つまりは地面に接する部分はゴムが大活躍してるんだなあ。

 などと面白いネタは次々と出てくるんだが、なにせ一品目あたりの頁数が少ない。「そこんとこ、もちっと詳しく」とお願いしたくなる所がたくさんあって、例えば油圧ショベルじゃ履帯とか油圧シリンダとか油圧ポンプとか掘り下げてみたくなるんだが、そこは専門の本を読めってことなんだろう。

 文句ばかり言っちゃってるようだが、それだけ興味をそそられるネタが満載だったからで、決してつまらない本じゃない。大当たりしそうな映画の予告編をギッシリ詰めこんだ、そんな感じの本なのだ。

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2019年7月16日 (火)

ヘレン・スケールズ「貝と文明 螺旋の科学、新薬開発から足糸で織った絹の話まで」築地書館 林裕美子訳

貝殻をつくるというのは面倒な作業で、素材を集めて、それを貝殻につくり変えるという手間がかかる。このような理由から、軟体動物は常に殻をつくり続けているのではなく、殻をつくる余裕があるときに一気に大きくつくり足す。
  ――Chapter2 貝殻を読み解く

軟体動物はいつの時代にも人間の大切な食糧だった。理由は単純で、ほかの動物のように猛スピードで逃げ回らず、浅い海域や、満潮線と低潮線のあいだの浜に生息しているため、狩りがへたな人でも簡単に採集できるからだ。
  ――Chapter4 貝を食べる

人間によって絶滅の危機に追い込まれた最初の野生動物と考えられているのはシャコガイで、それは12万5000年ほど前にさかのぼる。シャコガイは地球上に現存する貝類でもっとも大きく成長し、長さは1メートルをゆうに超え、寿命は100年を超える。
  ――Chapter4 貝を食べる

アンモナイトを見ていくうえでややこしいのは、専門的に見たときにアンモナイトの多くがほんとうはアンモナイトと呼ばれるべきではないということにある。
  ――Chapter7 アオイガイの飛翔

海洋生物の多様性の豊かさでは(フィリピン諸島は)世界に冠たる海域で、世界の魚類の40%がここに生息し、サンゴは全体の3/4にあたる種類がここで見られる。
  ――Chapter8 新種の貝を求めて

「(ヒュー・)カミングのコレクションからは今でも新種が見つかる」
  ――Chapter8 新種の貝を求めて

貝殻はほとんどのものがチョークと同じ成分でできているので、ほんとうならばすぐに砕けてしまうはずである。(略)ところが貝殻は、(略)なかなか割れない。(略)貝殻はなぜ割れにくいのか。
  ――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発

分布域が狭い種類ほど絶滅しやすい。
  ――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発

寿命が短い生物のゲノムは複製がつくられる頻度が高いために、DNAの写し間違いが蓄積しやすく、自然選択がはたらく遺伝子はバラエティに富むことになる
  ――Chapter10 海の蝶がたてる波紋

【どんな本?】

 軟体動物。美味しいカキやサザエ、タコやイカやウミウシなど、海にいるものが思い浮かぶが、オカヤドカリ・カタツムリ・ナメクジなど、陸に住むものもいる。古生物ではアンモナイトが有名だ。ヒトは貝塚でわかるように大昔から食用にしてきたほか、タカラガイを貨幣として使い、戦や宗教など重要なイベントではホラガイを吹いた。

 彼らは、どこで何を食べて生きているのか。規則的でありながらも複雑な貝殻の模様は、なぜできるのか。「海の絹」の伝説は本当なのか。マテガイはどうやって砂に潜るのか。カキの養殖のコツは?

 節足動物に次いで多様性に富む軟体動物について、イギリスの海洋生物学者が彼らの不思議な性質や生態を紹介するとともに、食用・装飾・加工品の原料そして最新素材開発に至るまでのヒトとの関わりをユーモラスに描く、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Spirals in Time : The Secret Life and Curious Afterlife of Seachells, by Helen Scales, 2015。日本語版は2016年11月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約331頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×331頁=289,294字、400字詰め原稿用紙で約724枚。文庫本なら厚い一冊分ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ご想像のとおり色々な貝やタコやカニの名前が出てくるので、ついその姿形を調べたくなる。Google で探すなり図鑑で調べるなりしよう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみぐいしてもいい。ただし「Chapter 1 誰が貝殻をつくるのか?」は、この本のテーマである軟体動物全体を定義するところなので、ザッと目を通しておこう。

  • 日本の読者のみなさんへ
  • プロローグ
  • Chapter1 誰が貝殻をつくるのか?
    軟体動物は何種類いるのか/熱水噴出孔にいる軟体動物/軟体動物とはどんな生きものか/ことの始まり バージェス頁岩/軟体動物の祖先? ウィワクシア/軟体動物が先か、貝殻が先か/防弾チョッキに穴をあける歯 削り取り、噛み砕き、つき刺し、銛を打つ/サーフィンを覚えた巻貝/千に一つの殻の使い方 外套膜
  • Chapter2 貝殻を読み解く 形・模様・巻き
    イポーの丘で見つかった巻貝/螺旋の科学/貝殻をつくる四つの原則/貝殻の仮想博物館 考えられる限りの貝殻の形/なぜ形が重要なのか/右巻きと左巻き/自然界のお遊び 模様/マインハルトのシミュレーション・モデル/理論を裏付ける証拠/軟体動物の日記を解読する/コウイカの模様の解明
  • Chapter3 貝殻と交易 性と死と宝石
    貝殻の持つ神秘の力/最古の宝飾品/不平等の兆候/世界中で使われたスポンディルスの貝殻/旅するタカラガイ 貨幣/奴隷とタカラガイ/ヤシ油と貝殻貨幣
  • Chapter4 貝を食べる
    セネガルのマングローブの森で/イギリス人と貝/好ましい海産物?/事件の全容 貝毒による被害の原因/誰がシャコガイを食べたのか/カキの森の守護者 ガンビア/トライ女性カキ漁業者協会/二日にわたるカキ祭り
  • Chapter5 貝の故郷・貝殻の家
    失われたカキ漁/カキと生物群集/カキ漁の復活をめざして/カキの冒険/育成の足場になるカキ殻/共同体をつくる炎貝/ヤドカリ 殻をつくるのをやめたカニ/順番待ちするオカヤドカリ/ヤドカリに居候する生き物たち
  • Chapter6 貝の物語を紡ぐ 貝の足糸で織った布
    海の絹でつくられた伝説の布/ピンナの足糸/シシリアタイラギと海の絹/海の絹の神話と現実/海の絹の産地 ターラントとサルディニア/海の絹を織る姉妹/海の絹の殿堂 足糸博物館/極秘の足糸の採取方法/シシリアタイラギと共生する生き物
  • Chapter7 アオイガイの飛翔
    殻をつくるタコ/オウムガイの殻/アンモナイトが祖先?/蛇石と雷石/肥料になったコプロライト(糞石)/アンモナイトかナンモノイドか/白亜紀末の大量絶滅とアンモナイト/19世紀にアオイガイを調べた女性 お針子から科学者へ/自分で殻をつくるアオイガイ/アオイガイの奇妙な性行動/ジェット噴射
  • Chapter8 新種の貝を求めて 科学的探検の幕あけ
    オウムガイでつくられた器/海外遠征した博物学の先駆者たち/科学的探検の幕あけ/新種の貝を求めて太平洋を横断 ヒュー・カミングスの探検/二度目の探検 中南米の太平洋岸/サンゴ三角海域へ フィリピン諸島/商取引されるオウムガイ/カミングの標本と有閑階級/ロンドン自然博物館に収蔵されたカミングの貝コレクション/貝の図鑑 『アイコニカ』と『シーソーラス』
  • Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発
    イモガイの秘密をあばく/複合毒素の複雑な作用/貝毒から薬をつくる/生物接着剤になったイガイの足糸/二枚貝がつくり出す液状化現象/割れない殻の秘密 真珠層/巻貝の鉄の鱗/危機に瀕するイモガイ
  • Chapter10 海の蝶がたてる波紋 気候変動と海の酸性化
    海の蝶を訪ねて グラン・カナリア島/海の蝶の不思議な生態/酸性度の問題/石灰化生物たちの困惑/軟体動物が受ける酸性化の影響/死滅への道を歩む海の蝶/海の蝶の糞の役割/生態系を調べる手段/酸性化の時間/海の酸性化と科学者/人間の活動と海
  • エピローグ
  • 貝の蒐集について
  • 用語解説/謝辞/訳者あとがき
  • 本文に登場する書籍(原著名)の一覧/参考文献/索引

【感想は?】

 真面目な本なんだが、どうにも腹が減って困る。

 軟体動物って言葉は気色悪そうだけど、つまりは貝・タコ・イカだ。本書で見慣れない名前が出てくると、思わず「どんな味なんだろう」と考えてしまうのは、日本人のサガというか業というか。

 中身は大きく分けて三つ。一つは軟体動物そのものの話、二つ目は軟体動物の研究者の話、そして最後はそれ以外の人間との関わり。

 人間との関わりでは、軟体動物の中でも貝が大きな比重を占める。というか、本書全体でも貝の扱いが大きい。やはり貝殻という形で、死んでからも痕跡が残るのが大きいんだろう。それが綺麗だったり大きかったりすれば、蒐集家も子供も喜んで集める。流通の発達した現代ならともかく、昔はこの傾向がもっと顕著だった。

 日本だと山伏が持ってるホラガイ、ギリシャ神話だとポセイドンの息子トリトンが吹いている。今、調べたらホラガイの生息域は「インド洋、西太平洋」(株式会社科学技術研究所ホラガイ)。なぜ地中海のトリトンが持ってるんだ? またチベットでも祈りの合図で使ってる。インド洋からチベットまで、ヒマラヤを越えはるばる運んでいったのだ。

 こういう国際貿易の話は、「Chapter3 貝殻と交易」が詳しい。昔から、綺麗で貴重なものは貨幣になる。

 西アフリカじゃ14世紀からタカラガイが使われた。原産地はインド洋のモルディブ。インドを経てアラビアの商人がサハラを越え西アフリカまで運んでた。これにポルトガル・オランダ・イギリスが目を付け、大規模な奴隷貿易に使った結果、インフレになる。更に19世紀にアフリカ東海岸のザンジバルでハナビラダカラが見つかった結果、インフレが加速して価値は暴落、市場は崩壊しましたとさ。

 なんか南米から金銀が雪崩れ込んで崩壊したスペイン経済みたいな話だ。ヒトは何度も似たような事を繰り返してきたんだろうなあ。そういえば日本も養殖真珠でペルシャ湾岸の真珠産業を潰してます。

 この章では光ルミネッセンス年代測定法(→Wikipedia)なんてのが出てきて、こでも面白い。石英や長石に光が当たると時計はゼロにリセットされる。暗い所、つまり地中に埋まっていると時計は進む。これで古代の遺物が、どれだけ地中に埋まっていたか=どれだけ古いか、が分かるのだ。モロッコ島北部の洞窟からは、10万~12.5万年前の貝殻の装飾品が見つかっている。人類は昔からお洒落だったのだ。

 交易も現代になると規模が大きくなりすぎて、漁場を枯らすことも増えてきた。今じゃ二枚貝の養殖の7割が中国産だとか。最も有名なのはカキだろう。「Chapter4 貝を食べる」ではセネガルのマングローブでの、ちょっと変わったカキ産業振興の話が出てくる。カキが難しいのは、群れてないと次の世代が育たない点だ。雄は海中に生死を放出するので、近くに雌がいないと受精しないのだ。

 生殖で面白いのが、「Chapter7 アオイガイの飛翔」の主役アオイガイ(→Wikipedia)。これも今調べて気づいたんだけど、小安貝ってこれか。見た目も名前もカイみたいだけど、実はタコ。殻を持つのは雌だけで、雄の体重は雌の1/600。腕の先にペニスがあって、雌にペニスごと植え付け、やがて死ぬ。雌は受け取ったペニスを複数持ち歩き(なんちゅうビッチだw)、好きな時に受精する。カマリキよか酷いw

 ここでは、アイオガイを研究した19世紀のジーン・ヴィレプレの生涯もドラマチックで楽しい。

 過去の話ばかりでなく、未来も垣間見えるのが「Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発」。今まで新薬といえば植物由来の物が多かったが、ここでは魚まで毒殺するイモガイ(→Wikipedia)が大活躍。奴の毒は凶悪で、即効性+とどめを刺す毒の複数の毒を使う。毒が何の役に立つのかというと、痛みをブロックする、すなわち鎮痛剤になるのだ。効果はモルヒネの千倍で中毒になりにくい。

 ただし、これの投与法は、体に埋め込んだ「ポンプで脊髄液の中に薬剤を直接注入」って、まるきしSFだ。きっと某国はコレを使った「痛みを感じない兵士」を研究してるんだろうなあ。

 この章では「レナードの朝」でお馴染みのL-ドーパが意外な形で使えたり、貝殻の真珠層が軽くて丈夫な構造の秘密を隠してたり、マテガイ(→Wikipedia)の砂潜りが土木工法のヒントになったりと、SF者には興奮が尽きない章だ。

 奇妙奇天烈な軟体動物の生態から、それを巡る人間の世界にまたがる通商ネットワーク、彼らに憑かれた研究者たちの個性的な生涯、そして最新科学が解き明かした彼らの秘密とめくるめく応用範囲と、読みどころは満載。ただ、繰り返すが、どうしても読んでいるとお腹がすくのが欠点かも。

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2019年7月14日 (日)

クリスティー・アシュワンデン「Good to Go 最新科学が解き明かす、リカバリーの真実」青土社 児島修訳

「誰もが知っているアスリートが支持しているのなら、誰がその商品の効果の科学的根拠を求める?」
  ――第2章 水分補給

…肝心の質問が残っています。それは“運動後には何を食べればいいの?”です。端的に言えば、その答えは“身体が求めているものを食べればいい”です。
  ――第3章 栄養補給

人は治療が痛みを伴うものだと、“痛いのは効いている証拠だ”と考える傾向があるのです。
  ――第4章 アイシング

言葉巧みな商人が何世紀にもわたって栄えてきたのには理由があります――私たちは、何かを信じたがっているのです。
  ――第8章 サプリメント

「朝の気分や感情は、おそらくリカバリーのもっとも正確な予測因子だ」
  ――第10章 データ

「その手法を使う人が積極的に関わったり、代償を支払ったりしているとき、プラシーボの効果はより大きくなると考えられている」
  ――第11章 プラシーボ効果

【どんな本?】

 スポーツの練習中には、水分を取るべきなんだろうか? 昔は水を飲んではいけないと言われていた。だが最近は水分を補給すべきとする説が多い。実際にはどうなんだろう? 疲れた時にマッサージを受けると心地よい。だが、それは本当に効いているんだろうか? アスリート向けに様々なサプリメントが売られているが、その効果はどれほどなんだろう?

 リカバリー、疲労回復。高みを目指すアスリートは、より迅速なリカバリーを望む。野球などのプロ選手は、短いシーズンに旅をしながらもコンディションを保ち、多くの試合をこなさなければならない。彼らにとって、効果的なリカバリーは必須だ。それだけに、色々なリカバリー製品や方法が世に溢れており、アマチュアのアスリートにも広がっている。

 スポーツドリンク、アイシング、マジックウィンドウ、アイシング、マッサージ、瞑想、サプリメント、スポーツウォッチ。これら「科学的」と銘打たれた製品や理論は、本当に科学的な裏付けがあるのか。プロのアスリートや私たちは、なぜこれらに惹かれるのか。そして、厳しいトレーニングをこなしているにも関わらず、伸び悩む選手がいるのはなぜか。

 より優れた結果を残すために、またはより長くスポーツを楽しむために、重要な要素でありながら往々にして見落とされがちなリカバリーについて、自らもノルディックスキー・ランニング・自転車などを楽しむサイエンスライターが、アスリートや科学者への取材に加え体当たり取材も交えて送る、リカバリーと現代科学のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Good to Go : What The Athlete In All Of Us Can Learn From The Strange Science Of Recovery, by Christie Ashwanden, 2019。日本語版は2019年4月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約277頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×18行×277頁=約229,356字、400字詰め原稿用紙で約574枚。文庫本なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。ただし、様々なリカバリーが流行している現代アメリカ向けの作品なので、無駄に厳しいだけの練習がハバを利かしている現代日本の感覚からすると、「へえ、今のアメリカってそうなんだ」的な雰囲気もある。

【構成は?】

 第1章は必ず読もう。「科学的とはどういうことか」を説明しており、以降の章の基礎となる部分だ。第2章~第8章は、個々のリカバリー方法を扱っている部分なので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。第9章~終章は、結論へと向かう「まとめ」のパート。

  • はじめに
  • 第1章 アルコール ビールはリカバリーに役立つ?
  • 第2章 水分補給 “喉が渇いてから飲む”でもパフォーマンスは落ちない?
  • 第3章 栄養補給 “運動直後の栄養補給のゴールデンタイム”など存在しない?
  • 第4章 アイシング 患部を冷やすのはリカバリーには逆効果?
  • 第5章 血流 マッサージにパフォーマンス向上効果はない?
  • 第6章 心理的ストレス 瞑想、フローティングのリカバリー効果は?
  • 第7章 睡眠 最強のリカバリーツール?
  • 第8章 サプリメント 効果を裏付けるエビデンスは少ない?
  • 第9章 オーバートレーニング症候群 真面目な選手ほど危ない?
  • 第10章 データ 数えられるものが重要なわけではなく、重要なものが数えられるとも限らない?
  • 第11章 プラシーボ効果 大半のリカバリー手法の効果はプラシーボにすぎない?
  • 結論 身体の声に耳を澄ます
  • 謝辞/訳者あとがき/注

【感想は?】

 健康に関して、科学が出す結論は往々にしてみもふたもない。本書の結論はこうだ。

「ちゃんと寝ろ。そして朝の気分に従え」

 リカバリー=疲労回復に関する限り、睡眠以外は総崩れだ。中には逆効果だったり、どころか悲惨な副作用を伴うものもある。ただし頭から否定しているわけでもなければ、ハッキリしたガイドラインも示していない。結局、「害がなく効くと思うならやれば?」みたいな結論だ。

 本書の最大の特徴は、著者自身がスポーツ好きであり、取り上げたリカバリー・グッズや方法を自分が実際に試している点だ。これは最初の「第1章 アルコール」からそうで、自らが被験者の一人となって効果を調べている。実験の目的はこうだ。「汗をかいた後のビールは美味しい。これリカバリー効果があるんじゃね?」

 そこで友人やアスリート仲間と組み実験に挑むが、結果は怪しげな数値になる。ここで大事なのは結果よりも、そこに至る過程、すなわち実験の内容だ。著者らが用いたのはRTE法、ドレッドミルで何分まで頑張れるか。これを一日一回、三日行う。被験者は二つの組に分かれる。1組は普通のビール、2組はノンアルコールビール。二重盲検を用い、被験者は自分がどっちの組かは知らない。被験者は10人。

 この実験、製薬会社で開発に携わっている人は、開いた口がふさがらないだろう。ツッコミどころが多すぎる。本当に二重盲検になっているのか? 実はなっていなくて、被験者はみな味で自分が何を飲んだのか知っていた。RTE法も怪しくて、むしろ距離を決めタイムを計る方がいい。実験以外の時間、被験者は何をしてる? 何よりサンプル数が少なすぎる。実験は一回だけで再現性を確かめてない。

概して、実験の規模が小さいとサンプル数も少なくなり、規模が大きな場合に比べて信頼性が低下します。また、実験者にとって好ましい結果が出やすく傾向があることも知られています。
  ――第1章 アルコール

 そんな風に、冒頭で「科学的」なんて言葉に疑問を抱くよう、読者に強く印象付けるのである。その上で、以降もグッズやメソッドを自ら試しつつ、それらの裏付けをメーカーや業者に問い合わせ、その実体を明らかにしてゆく。まあ、結論は「みんな鰯の頭みたいなもん」なんだけど。

 とまれ、体験取材してるのは、読み物として野次馬根性で面白い。睡眠グッズとしてパジャマまで買ってたり。私もフロートタンク(→Wikipedia)は試したくなった。要は濃い塩水に浮かぶってだけなんだけど、気持ちよく寝れそう。

 もっと手軽に試せるのが、スポーツ飲料。「第2章 水分補給」では、ゲータレードの誕生秘話が面白い。ちなみに最近流行りの「電解質」、これ下世話な言い方をすると「塩」です(→Wikipedia)。こういう耳慣れない言葉を使うのも、販売戦略なわけ。ちなみに熱中症の時は水を飲むのも善し悪しで、逆に水の取りすぎ=低ナトリウム血病の場合もあるとか。この辺は専門家、つまり医師に聞くべきだろうなあ。

 こういった「電解質」などの言葉にはじまり、企業はあの手この手で売り込みをかける。スター選手を広告塔にしたり、雑誌に広告を出したり。

 これらの手口を原理から暴いているのも、本書の楽しいところ。特に効きそうなのが、FOMO=fear of missing out、何かを見逃すことへの恐れ。これが最も有効なのが、サプリメント。だってあなた、日頃の自分の食生活で、すべての栄養素が充分に摂れている、と断言できますか? 栄養士じゃあるまいし、たいていの人は、なんとなく食べてるはず。これ突かれると弱いんだよね。

 と、そういうヒトの心の弱みにつけ込む形で商売する企業もあれば、アスリートが自ら罠に飛び込む場合もあって、それをテーマにしているのが「第9章 オーバートレーニング症候群」。理屈は簡単。

もっと練習すればもっと大きな成果が得られるはずだ
  ――第9章 オーバートレーニング症候群

 まあ、普通はそう考えるよね。これはスポーツに限らず、勉強でも同じだろう。ところが、これには落とし穴があって、それをこの本は何度も戒めている。それは何かというと、睡眠。

リカバリーの魔法の秘密が存在するとするならば、それは睡眠です。
  ――第7章 睡眠

 寝不足だと、どんなに練習しても無駄、どころか下手すると長期のスランプに陥るぞ、と繰り返し忠告してる。睡眠の重要性は「[戦争]の心理学」でも、合衆国陸軍の印象的な実験のデータがあるんで、ぜひ参考にしていただきたい。

 ちなみにこの本、注にも強烈なネタが埋まっているので油断できない。「第2章 水分補給」の注5は大笑い。某研究者が電解質も補給できるビールを開発しようと研究を始めたが…。うん、ヒトって、夢中になると、視野が狭くなるんだよねw

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2019年6月27日 (木)

オリヴァー・サックス「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」早川書房 太田直子訳

…私はこの本を、幻覚体験とそれが体験者に及ぼす影響を語る、幻覚の自然経過記録、またはアンソロジーのようなものと考えている。なぜなら、幻覚の力を理解するには、当人による一人称の記録によるほかないからだ。
  ――はじめに

片側の失明や視力障害が負の症状だとすれば、それにとどまらず、正の症状も出ることがある。つまり、見えない領域やかすんでいる領域に幻覚が生じるのだ。突然半盲になった患者の約10%が、そのような幻覚を起こす――そしてすぐに、それが幻覚であると気づく。
  ――第9章 両断 半視野の幻覚

人は自分の夢に加わるか、加わっている人を観察するが、入眠状態では人は単なる傍観者だ。
  ――第11章 眠りと目覚めのはざま

ウェールズの一般開業医のW・D・リースは、配偶者に先立たれたばかりの人たち約300人と面談し、そのほぼ半数に、亡くなった配偶者の片鱗を錯覚でかいま見たり、またはその幻覚に正面から向き合ったりした経験があることを知った。
  ――第13章 取りつかれた心

【どんな本?】

 脳神経科医として勤務するかたわら、その経験を活かして「妻を帽子とまちがえた男」「レナードの朝」「音楽嗜好症」などの楽しいエッセイを書き続けたオリバー・サックスによる、幻覚や幻聴をテーマとした、科学エッセイ集。

 彼の著作の特徴は、単に一見奇妙な症状を紹介するだけではない。もちろん、医師として経過と原因そして治療法も紹介する。が、それに加えて、症状を抱えながらも、その人なりの形で症状と折り合いをつけながら暮らしてゆく人々の姿も詳しく描き、人の持つ知恵と逞しさ、そして心の不思議さを感じさせる点が、彼の作品の醍醐味なのだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Hallucinations, by Oliver Sacks, 2012。日本語版は2014年10月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約343頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×17行×343頁=約262,395字、400字詰め原稿用紙で約656枚。文庫本なら少し厚め。なお、今はハヤカワ文庫NFから「幻覚の脳科学 見てしまう人びと」の題で文庫版が出ている。

 文章はこなれていて読みやすい。ときとき脳の部位の専門用語が混じるけど、「脳みそのどっかなんだろう」ぐらいに思っていれば充分。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 第1章 静かな聴衆 シャルル・ボネ症候群
  • 第2章 囚人の映画 感覚遮断
  • 第3章 数ナノグラムのワイン においの幻覚
  • 第4章 幻を聞く
  • 第5章 パーキンソン症候群の錯覚
  • 第6章 変容状態
  • 第7章 模様 目に見える片頭痛
  • 第8章 「聖なる」病
  • 第9章 両断 半視野の幻覚
  • 第10章 譫妄
  • 第11章 眠りと目覚めのはざま
  • 第12章 居眠り病と鬼婆
  • 第13章 取りつかれた心
  • 第14章 ドッペルゲンガー 自分自身の幻
  • 第15章 幻肢、影、感覚のゴースト
  • 謝辞/訳者あとがき/引用クレジット/参考文献

【感想は?】

 幻覚がテーマの本だ。だから他人事だと思っていたが、そうじゃない。これは私の事でもあるのだ。

 それを強く感じるのが、「第11章 眠りと目覚めのはざま」だ。ここで扱うのは入眠時幻覚。というと何か難しそうだが、誰だって経験があるはず。わかりやすいのが、居眠りの時に見るアレだ。完全に寝入ってる時ではなく、寝ぼけて見るモノ。

 実は私の場合、「見る」のではなく「聴く」のが多い。見知らぬ男たちが、何か仕事しながら喋っている。男たちも仕事も、私とは何も関係がないし、お喋りの中身はよく聞き取れない。最近はだんだんと真に迫ってきたんで、なにかヤバいんじゃないかと思ったが、この本を読んで安心した。寝ぼけての幻聴は「幻視と同じぐらい一般的」らしい。

 やはり「私の事だ」と思うのが、「第10章 譫妄」。この章では薬物による譫妄の例に加え、病気によるものも多い。特に「あるある」と感じたのが、子供の頃に熱を出した時の話。日本人だと、天井の木目が「何か」に見えた経験がある人が多いはず。ここでは、体が伸びたり縮んだりする譫妄が出てくる。ちゃんと名前もついていて、「不思議の国のアリス症候群」(→Wikipedia)と言うのだとか。

 居眠りなら大したことはないが、病気だと困ったことになる。ナルコレプシー、いわゆる居眠り病(→Wikipedia)の場合だ。これ生活習慣とかは関係なくて、肉体的な問題だとは知らなかった。ふつう、視床下部はオレキシン=覚醒ホルモンを分泌する。この部位に不調があると、不意に眠りに落ちたりするのだ。

 この章では金縛りも扱っている。いずれも睡眠の不調だ。金縛りもナルコレプシーも幻覚を伴う時がある。が、特にナルコレプシーの場合…

人はたいてい認めるのをためらい、ナルコレプシー患者でいっぱいの部屋でさえも、そのことがオープンに話しあわれることはほとんどなかった。
  ――第12章 居眠りと鬼婆

 こういう「幻覚や幻聴を隠そうとする」のは、ナルコレプシーに限らず、他の病気でも同じらしい。気持ちは分かる。いわゆる「頭がおかしくなった」と思われるのが嫌なのだ。だが、実はありふれた経験らしい。視覚を失った人は幻覚を見るし、嗅覚を失った人は幻臭をかぎ、四肢を失った人は幻肢に悩む。パーキンソン病や片頭痛も幻覚を伴うし、大切な人やペットを失った時もそうだ。

 つまり、幻覚や幻聴は、ありふれたものなのだ。ただ、私たちが勝手に「それは頭がおかしい」と思い込んでるだけ…と言いたいが、昔はそうでもなかった事を「第2章 幻を聞く」で暴露している。

 1973年、『サイエンス』誌の論文「狂気の場において正気でいることについて」が大騒動を引き起こす。八人の偽患者が「声が聞こえる」と症状を偽り、病院を訪れる。一人は躁鬱病、他の者はみな統合失調症と診断され、二ヶ月も入院する羽目になり、誰も仮病を見破られなかった。当時の精神医学は、その程度だったのだ。これに懲りてできたのがDSM(→Wikipedia)。

 この話にはオチがある。本物の患者の一人は、ちゃんと仮病を見破っていたのだ。ちなみに幻聴に関しては…

(オイゲン・)ブロイラーによると、「入院している統合失調症患者は、ほぼ全員『声』を聞く」。しかし彼は、逆が真ではないことを強調している。つまり、声が聞こえることは必ずしも統合失調症を意味しない。(略)声が聞こえる人の大半は統合失調症ではないので、これは大きな誤解だ。
  ――第4章 幻を聞く

 という事で、やはりありふれた現象らしい。

 他の著作に比べ、著者自身の話が多いのも、この本の特徴の一つ。中でも「第6章 変容状態」では、若い頃にドラッグを試した経験を語っている。特に著者の性格がよく出ていると思ったのが、常用していた薬物を断った時の話。激しい幻覚に襲われながらも、落ち着きを保つために症状を細かく記録し…

混乱、失見当、幻覚、妄想、脱水、発熱、頻脈、疲労、発作、死。もし誰かが私のような状態だったら、すぐに救急処置室に行くようアドバイスしただろうが、自分自身のこととなると、私は耐え抜いてすべてを経験しつくしたかった。
  ――第6章 変容状態

 と、あくなき好奇心に従って行動する。まったく、学者って奴はw

 そんな風に、ヒトの脳や神経系の不思議さ・絶妙さを実感するエピソードがたくさん載っている。と同時に、サックス先生らしいのは、それぞれの症状を抱えた人々の暮らしにまで踏み込んで描いていること。皆さん、いろいろと工夫して症状と折り合いをつけ、人生を楽しもうとしている。科学と人間が交わり、少しだけ心に余裕ができる…ような気がする本だ。

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