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2021年11月11日 (木)

笠井献一「おしゃべりな糖 第三の生命暗号、糖鎖のはなし」岩波科学ライブラリー

「おしゃべりな糖」とは、情報をになう糖のことです。
  ――はじめに

【どんな本?】

 生物の体内では、常に様々な情報が行き来している。情報のメディアは主に三つだ。核酸、タンパク質、そして糖。核酸つまりDNAやRNAは、最近の新型コロナ禍でもニュースなどでよく取り上げられ、多くの人が知っている。タンパク質はホルモンやサイトカインなどがあり、これも病気などの記事で見かけることが多い。対して糖はせいぜい糖質制限ダイエットぐらいで、普通の人は「身体を動かすエネルギー源」「肥満の原因」ぐらいにしか考えていない。

 だが、近年の研究で、糖は体内の情報流通で多くの役割を担っていることが分かってきた。その働きやしくみは核酸ともタンパク質とも異なり、極めて多様かつ複雑だ。また筋ジストロフィーなどの病気にも糖が関わっている。

 ABO血液型など多くの場面で活躍・暗躍する糖鎖について研究者が基礎から最新の研究結果までを紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年12月5日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約122頁。9.5ポイント41字×17行×122頁=約85,034字、400字詰め原稿用紙で約213枚。文庫なら薄い一冊分。

 文章はこなれている。著者曰く「高校の生物と化学の予備知識ぐらいで道をたどれるように書きました」。ということなので、普通科高校の生物と化学を修めた程度で読みこなせる…はず。正直言うと、私は少しシンドかった。化学が苦手なせいかも。だってレクチンとか耳慣れない言葉が続々と出てくるし。もっとも、たいていの専門用語にはちゃんと説明があるので、じっくり読めばちゃんと理解できる。

 あと、「はたらく細胞」は偉大。

【構成は?】

 基礎から積み上げていく構成なので、素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • 1 おしゃべりな糖が命を支える
  • 2 糖鎖はどこで何をする?
  • 3 糖コードを読みとる 浮気なレクチンの秘密
  • 4 ミルクのオリゴ糖がきた道
  • 5 糖鎖をつくる、糖鎖をこわす
  • 6 糖コードと健康
  • おわりに

【感想は?】

 本書が扱う糖は、ショ糖(=砂糖)や果糖ではない。いやグルコース(ブドウ糖)はアチコチに出てくるんだけど。セルロース(植物の繊維)やキチン(蟹の甲羅)も含む、もちっと大きな分子だ。つかキチンって糖だったのか。

 ただし本書の主役は、セルロースでもキチンでもない。先の二つは構造材で、形を保つのが仕事だ。本書の主役は、情報を運ぶ糖であり、主にタンパク質と共に…というか、タンパク質の手先となって働く。

核酸とタンパク質、そしておしゃべりな糖の3つの生命暗号は、何が違うのでしょうか。(略)
核酸は遺伝情報の担当ですから、基本的に細胞の中で活動します。
一方、細胞の中・外ではたらくタンパク質や、細胞外ではたらく情報糖鎖は、主に細胞間のコミュニケーションを担っています。
  ――1 おしゃべりな糖が命を支える

 雰囲気、手先というよりタンパク質のアタッチメントというかタンパク質を修飾するというか。「はたらく細胞」で言えば、赤血球ちゃんの制服や白血球くんの帽子レーダーかな? 彼らはかなりの着道楽で…

細胞膜には、外の世界との窓口業務のために、少なくとも1000種類くらいの糖タンパク質が配備されています。(略)
膜の外側に露出した部分だけ糖鎖がつきます。
  ――2 糖鎖はどこで何をする?

 赤血球ちゃんも、実はアクセサリをジャラジャラつけてるのだ。

1個の赤血球に生えている糖鎖は、糖脂質と糖タンパク質を合わせて1憶本くらい。
  ――2 糖鎖はどこで何をする?

 ヤクザが見た目でわかるように、悪い奴も見た目である程度はわかったりする。そして、実際にそれが医術に応用されてたり。

「がん細胞である」ことをあらわす糖コードはあるのでしょうか。実は、少ないながらも、見つかっています。(略)
たとえば、肺がんなどのマーカーとして、「シリアルルイスx(SLX)」があります。
  ――2 糖鎖はどこで何をする?

 もちろん、タンパク質や細胞は、単なるオシャレで糖鎖を身に着けてるんじゃない。糖鎖が他の細胞やタンパク質にメッセージを送り、または受け取っているのだ。例えば…

細胞外に送り出された「隠れレクチン」タンパク質は、どこではたらくべきか教えられていません。一方、そのタンパク質を待ちうける細胞や組織は、看板(糖コード)を掲げます。そこでタンパク質は、血液や体液にのって移動する中で、自分の中のレクチン部分で糖コードを読んで、ここが赴任地だと判断するのです。
  ――3 糖コードを読みとる

 そんな糖鎖をつくるのは、もちろん細胞君だ。

糖鎖はどこでつくられるのでしょうか。(略)細胞質ではなくて、細胞内の隔離された区画(小胞体、ゴルジ体)の中でつくられるのです。
  ――5 糖鎖をつくる、糖鎖をこわす

 細胞を学んだ際にゴルジ体が出てきたけど、デカい割に何やってるのかわかんなかったけど、そんな仕事をしてたのね。このゴルジ体や小胞体も膜で覆われてるのも面白い。もっとも、この仕事はけっこう杜撰で…

細胞がつくるタンパク質のうちの3割くらいがフォールディング(折りたたんで三次元構造にする、→Wikipedia)に失敗するようです。
  ――5 糖鎖をつくる、糖鎖をこわす

 歩留まり7割かよ。ひでえ…と思ったが、失敗した分はちゃんと細胞内で回収し、再利用するのだ。というか、タンパク質の三次元構造って、今でも解析が難しいと言われてるけど、そもそも作るのが難しいのね。

 まあタンパク質までいかなくても、本書に出てくる糖からして構造がやたら複雑で、α結合とβ結合があったりするんで、化学式じゃ表現しきれなかったり。だから化学は難しい。

 そんな糖は、タンパク質とのチームで本領を発揮する。

タンパク質は均一な構造の、いわばクローンとしてつくられます。そして細胞内ではたらくタンパク質ならば、そのまま仕事につきます。
一方、細胞外ではたらくタンパク質は、(略)小胞体とゴルジ体を経由する間に多種多様な糖鎖をつけられるので、構造が完全に同じものなどほぼなくなってしまいます。
  ――5 糖鎖をつくる、糖鎖をこわす

 部屋の中じゃタンパク質は裸族で、お出かけのときだけ服=糖鎖を着るのだ。なんか親しみがわくなあ。そして着る服のコーディネートはバラエティに富んでて、それぞれ独特のファッション・センスで着飾っているのだ。なんちゅう二重人格。いや人間じゃないけど。

 とまれ、これぐらい複雑だと、バックドアから侵入する奴もいる。

病原体の多くが、私たちの細胞表面の糖鎖を狙って感染するのです。
  ――<6 糖コードと健康/p>

 今、流行ってる新型コロナウイルスも、これですね。本書じゃインフルエンザ・ウイルスを例に出してる。なお、このインフルエンザ・ウイルスを説明する部分、短いながらもインフルエンザ・ワクチンを創る難しさが少しだけわかるんで、本書のテーマとは関係ないながらも嬉しい拾い物だった。

 それはともかく、「新しいインフルエンザは中国で生まれる」って説がある。なぜか。中国では、ブタとアヒルを同時に飼っている場合が多いから。この説の理屈がわかった。

ブタの呼吸器の細胞表面には、3-シアル酸(カモの腸管の細胞に多い)と6-シアル酸(ヒトの呼吸器の上部に多い)の両方があります。だから鳥型ウイルス、ヒト型ウイルスのどちらにも感染できます。もし一つの細胞に両方が同時に侵入したら、両方のウイルスの遺伝子に由来する部品が混ざり合った雑種ウイルスができる可能性があります。
  ――6 糖コードと健康

 ブタは鳥のインフルエンザとヒトのインフルエンザの両方に罹る。だもんで、アヒルとブタをいっしょに飼ってると、ブタの中でアヒルの鳥インフルエンザとヒトのインフルエンザが混じり、鳥のインフルエンザがヒトに感染するよう変異しちゃうのだ。本書に出てくるのはメキシコの例だけど。

 糖鎖のバラエティの多さやその原理を説明しているあたりでは、超人物SFのネタがチラついたりして、とても楽しく読めた。新しい分野の本だけあって、「今はよくわかっていない」「これからの研究に期待」とか所もあるが、SF者にはむしろそういう所こそがご馳走だったり。最新科学のエキサイティングな現場を、わかりやすく親しみやすい文章で説明した本だ。SF者にお勧め。

 などと書いてて感じるんだが、つくづく「はたらく細胞」は偉大だ。

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2021年11月10日 (水)

菅沼悠介「地磁気逆転と『チバニアン』 地球の磁場は、なぜ逆転するのか」講談社ブルーバックス

本書では、チバニアンを通して初めて地磁気逆転の存在を知った方にも興味を持ってもらえるよう、地磁気と地磁気逆転の謎を中心に、最近の研究結果も踏まえてお話していきたいと思います。
  ――はじめに

じつは日本で売られている多くの方位磁石は、最初から北半球用に針の重さが調整されています。つまり、北向きに傾く方位磁石を調整するために、方位磁石の南側を少しだけ重くしてあるのです。
  ――第1章 磁石が指す先には

そもそも千葉県の房総半島は日本の火山灰研究の中心地
  ――第6章 地磁気逆転の謎は解けるのか

千葉セクションは気候変動の研究でもとても重要な地層なのです。(略)
千葉セクションは約80万~75万年前の氷期→間氷期→氷期の気候変動を記録した地層です。(略)
このときの間氷期は、ミランコビッチ理論(→Wikipedia)による太陽の放射エネルギー分配の変動パターンが、過去100万年間の中で現在我々が生きる間氷期にもっとも近いことです。
  ――第7章 地磁気逆転とチバニアン

【どんな本?】

 2020年1月17日、国際地質科学連合は「チバニアン(→Wikipedia)」を採用する。これは77万4千年前~12万9千年前を示す時代区分でああり、千葉県市原市養老川沿いにある地層群「千葉セクション(→Wikipedia)」に基づき名づけられた。

 当時はテレビのニュースも盛んに取り上げたので、「チバニアン」の名前を知っている人は多いだろう。だが、ソレが何を示すのか・なぜ話題になるのか・どんな特徴があるのか・なぜ選ばれたのか・何の役に立つのかなどを知る人は、どれだけいるだろうか?

 チバニアン申請の論文執筆責任者を務めた著者が、チバニアンを例にとり、磁気の記録から地球の過去を探る古地磁気学の歴史と研究内容を解説し、チバニアンおよび千葉セクションの意義と特徴を紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年3月20日第1刷発行。新書版で縦一段組み本文約238頁。9ポイント43字×16行×238頁=約163,744字、400字詰め原稿用紙で約410枚。文庫なら薄めの一冊分。

 文章はこなれている。内容も比較的に分かりやすい。終盤になると著者の熱意が暴走して専門用語の連発になりやすい科学解説書だが、本書はゴールが「チバニアン」と決まっているためか、全体を通してペースが安定している。中学卒業程度の理科の素養があれば、充分に読みこなせるだろう。

【構成は?】

 原則として地質学の基礎から積み上げていく形なので、なるべく頭から読もう。

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  • はじめに
  • 第1章 磁石が指す先には 磁石と地磁気の発見
    磁石は真北を指さない?/磁石を発見した「羊飼いの男」/磁石の利用は「風水」から始まった/大航海時代の幕開け/ナビゲーションとして利用する/偏角と伏角/「地球は一つの大きな磁石である」/揺れ動く磁北/伊能忠敬はなぜ完璧な地位図を描けたのか?/オーロラが示した地磁気の変動
  • 第2章 地磁気の起源 なぜ地球には磁場が存在するのか
    地磁気を“視る”生物/ガウスが開発した「地磁気を測る」方法/ファラデーが確認した「見えない力」/きっかけは、東京で起きた地震だった/地震波から地球内部を探る/地磁気を発生させる「何か」/見えてきた地球の中身/地球ダイナモとはなにか/シミュレーションで見えた地磁気の姿/スーパーコンピュータでもわからないこと
  • 第3章 地磁気逆転の発見 世界の常識を覆した学説
    体内に磁石を持つ生物/地磁気研究の功労者、松山基範/溶岩に記録された地磁気を測る/地磁気は何度も逆転していた/地磁気逆転の発見者 ベルナール・ブルン/残留磁化とはなにか/磁気理論の確立 溶岩はなぜ地磁気を記録できるのか/「自己反転磁化」という不可解な現象/地心軸双極子仮説 地磁気極は北極と一致する/北極が移動したのか、大陸が移動したのか/「大陸移動説」の復活/海底に見つかった「縞模様」/すべての仮説を統合するモデルの登場/地磁気逆転の歴史の解明/地磁気逆転の実証からプレートテクトニクスへ
  • Column1 古地磁気からわかった日本列島の成り立ち
  • 第4章 変動する地磁気 逆転の「前兆」はつかめるか
    人工衛星が故障する「あるエリア」/地球の磁場がなくなる日/過去の変動を「観察」する方法/溶岩から地磁気の「強さ」を測る/海底堆積物はどうやって地磁気を記録する?/古地磁気強度の推定に残された課題/どれほどの頻度で逆転していたか/マントル対流が活発になると地磁気が逆転する?/地磁気の強さは、常に変化している/過去一万年間に、どのような変化があったか/地磁気エクスカーション/ネアンデルタール人の絶滅と地磁気の関係
  • Column2 地磁気はいつから存在するのか?
  • 第5章 宇宙からの手紙 それが、謎を解くヒントだった
    超新星爆発の「残骸」が教えてくれること/太陽風と地磁気のバリア/太陽磁場は11年に一度、逆転する/世界を大混乱させた、伝説の大洋イベント/宇宙からきた「手紙」を読み解く/ベリリウム10で地磁気強度を推定する/氷床に詰まっている過去の記録/「古地磁気学の未解決問題」とは/ミランコビッチ理論と氷期-間氷期サイクル/年代決定への利用と、そこで見つかった「問題点」/「堆積残留磁化の獲得深度問題」、解決か?/未解決問題を解くための“強力な武器”/長い間、謎が解かれなかった理由/深度に気づいた「不思議なデータ」が示していたこと
  • Column3 もしも地磁気がなかったら
  • 第6章 地磁気逆転の謎は解けるのか なぜ起きるのか、次はいつか
    極限環境の磁場/地磁気逆転のタイミング/ジルコンのウラン-鉛年代測定/ブレークスルーは千葉の地層から/地質年代の「目盛り」を統一する/地磁気逆転の全容 千葉セクションの研究からわかること/次の逆転はいつなのか?予知はできるのか?/逆転するとどうなるのか/地球の磁場は、なぜ逆転するのか?
  • Column4 考古地磁気学のススメ
  • 第7章 地磁気逆転とチバニアン その地層が、地球史に名を刻むまで
    常識を覆した「チバニアン」誕生/30年にもわたる挑戦だった/申請タスクチームの結成/そもそも、GSSPとは?/海底の地層が地上で見られる場所/奇跡的に条件がそろっていた「千葉セクション」/2度の審査延期と、悩まされた「ある問題」/そして、大一番に挑む/ポイントとなったのは「地磁気逆転記録の信頼性」/最大のピンチを乗り越えて/チバニアンの先には 地磁気逆転研究の未来
  • おわりに
  • 参考図書
  • 付録 古地磁気学・岩石磁気学が研究できる大学・機関
  • さくいん

【感想は?】

 チバニアンはあくまでも客引き文句だ。本書の面白さは、地質学そのものにある。

 著者の専門は古地磁気学で、本書も地磁気学が中心だ。だが、地質学の面白さは地磁気だけでなく、様々な研究が積み重なっていく所にある。この楽しさは、謎解きがテーマのミステリに近い。というか、科学ってミステリなんだな、が私の感想だ。

 改めて考えると、大陸移動説は実にイカれている。科学者が真面目に説かなければ、たいていの人は納得しないだろう。島が動くってだけでも信じられないのに、大陸が動く? アタマおかしいんじゃね? と、20世紀初頭の人々が決めつけるのも当たり前だろう。

 これに地磁気異常など科学上の「謎」が加わり、また磁気測定技術や放射年代測定技術などの新兵器が現れ、意外な所から新しい証拠が見つかり、イカれてると思われた大陸移動説そしてプレートテクトニクスへと結実していくあたりは、地質学の守備範囲の広さと人類の知識の進歩をまざまざと見せつけられ、とってもエキサイティングだ。

 中でも最も興奮したのが、「第5章 宇宙からの手紙」。なにせ、いきなり超新星爆発から話が始まる。超新星爆発で発生した高エネルギー粒子(おもに光速に近い陽子)が大気と衝突して原子核反応を起こし放射性同位体を作り出し云々。これに加え樹木の年輪を目印にすると太陽の活動や地磁気変動の手がかりになる…って、いきなり言われても話が飛び過ぎてわかんないよね。/p>

 やはり宇宙が関わる話としては、人工衛星の故障が頻発する、いわば軌道上のサルガッソが地磁気を探る傍証となったり。つくづく地質学ってのは、何が何に関係してくるか見当もつかない世界だ。

 そういった多くの分野が関わる世界だけに、千葉セクションおよびチバニアンの申請の顛末を語る「第7章 地磁気逆転とチバニアン」も、様々な事情が関わってくる。ただし、某匿名掲示板で話題になった地元の人たちとの軋轢は、かなりボカしてるんで、あまし期待しないように。

 千葉セクションは、GSSP(Global Boundary Stratotype Selection and Point,国際境界模式層断面とポイント)の一つ。GSSPは時代を示すモノサシで、各時代に一カ所だけって事になってる。モノサシだから、正確に時代を測れなきゃいけない。てんで、幾つか基準がある。

  • 海底で堆積した地層である。
  • 今は地上に露出している。
  • 断層による変形や岩石の変質が少ない。
  • 化石や地磁気逆転の痕跡などが残っている。
  • 年代がハッキリわかる。

 まあ、この辺は、納得できるよね。他にも「国籍などを問わず誰でもアクセスできる」「研究の自由と地層の保存が確約されている」なんてのもあって、科学者の矜持みたいのを感じたり。

 加えて、千葉セクションには他にも便利な特徴がある。

 一般に GSSP は地中海沿岸が多い。対して千葉セクションは太平洋に面している。その太平洋の暖流の黒潮と寒流の親潮は、日本の太平洋側の沖でぶつかる。千葉セクションはそういう所で堆積したので、微化石を調べると、太平洋の潮流の変化を辿れるのだ。

 また、日本列島は南北に長く標高差も大きい。そのため植生も変化に富んでいる。だから花粉の化石を調べると、気候の変化が分かるのだ。花粉の化石ってあたりで、いかにも今世紀の科学って空気が漂ってると思うのは私だけだろうか。

 地磁気の発見、そしてその方向の変化が示す北極の移動から始まり、大西洋の縞模様や地震波、果ては超新星爆発から花粉化石まで、場所もスケールも縦横に変化しつつ地磁気の謎を追う壮大なミステリ。一見、地味に思える地質学だが、視野の広さと物語の意外性は興奮に満ちている。科学を、そして謎解きを愛するすべての人にお薦め。

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2021年8月29日 (日)

Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger/Jeffrey R.Yost「コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか 原著第3版」共立出版 杉本舞監訳 喜多千草・宇田理訳

本種は19世紀から現代に至るコンピューティング史の通史を取り扱ったものである。
  ――解題と読書リスト

【どんな本?】

 本書はコンピュータの歴史を綴った本である。その構想・設計・開発・製造など理論や技術はもちろん、IBMなどIT関連企業の経営・販売も扱う。中でも最大の特徴は、使い道について詳しく述べている点だ。これは19世紀の紙と手計算による事務処理や航海年鑑から国勢調査などの大規模バッチ処理、航空機座席予約システムやATMなどのリアルタイム処理、ニミコンピュータからマイクロコンピュータそしてパーソナルコンピュータ、ARPAネットとパソコン通信からインターネットなどを経て現代のTwitterやFacebookなどのSNSまでを扱う。

 21世紀の今日では、日々の暮らしに欠かせない技術となったコンピュータ。それは何のために生まれ、どう成長し、どう使われ、どうやって私たちの暮らしに入り込んできたのか。

 技術より使い方と暮らしへの浸透を通して描く、少し変わったコンピュータの歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Computer : A History of the Information Machine, by Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger,/Jeffrey R.Yost, 2014。日本語版は2021年4月15日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約356頁に加え、杉本舞「解題と読書リスト」7頁。9ポイント36字×33行×356頁=約422,928字、400字詰め原稿用紙で約1,058枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 共立出版にしては文章はこなれている。ええ、「共立出版にしては」です。内容は初心者向けで、技術的に突っ込んだ話はほとんど出てこない。それだけに説明不足の感はあるが、いちいち説明していたらキリがないのも理解できる。詳しく知りたかったら巻末の「文献リスト」や「解題と読書リスト」から手繰ろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、なるべく頭から読もう。

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  • 謝辞/第3版へのまえがき/序
  • 第1部 コンピュータ前史
  • 1 人間がコンピュータだったころ
  • 2 オフィスに事務機がやってくる
  • 3 バベッジの夢が現実に
  • 第2部 コンピュータの登場
  • 4 コンピュータという発明
  • 5 コンピュータがオフィスの主役に
  • 6 メインフレームの時代 IBMの季節
  • 第3部 日々進化するコンピューティング
  • 7 リアルタイム つむじ風のように速く
  • 8 コンピュータを支配するソフトウェア
  • 9 新しいコンピューティングの登場
  • 第4部 コンピュータの民主化
  • 10 パソコン時代の登場
  • 11 魅力拡がるコンピュータ
  • 12 インターネットの世界
  • 出展に関する注/文献リスト/解題と読書リスト 杉本舞/訳者あとがき/索引

【第1部 コンピュータ前史】

 本書は「コンピュータ史」ではない。「コンピューティング史」である。

 つまり着目点は「何に使うか」だ。これは最初の「1 人間がコンピュータだったころ」で実感できる。ここでは、計算機が登場する前の19世紀に、金融・事務・軍事・科学・技術などの分野で、紙と手計算でどのような処理がなされていたかを描く。

 最初に出てくるのは、ロンドンの銀行の手形交換所だ。A銀行がB銀行に払うカネと、B銀行がA銀行に払うカネは相殺して差額だけを動かせばいい。銀行が2行だけなら経路はA:Bの一本だが、3行だとA:B, A:C, B:C の3つになり、4行だと6つになる。銀行が増えるたび、経路は爆発的に膨れ上がってゆく。これをどう解決するのか、

 ここで登場するコンピュータの父ことチャールズ・バベッジ(→Wikipedia)が、モロにマッド・サイエンティストで面白い。

コンピュータという言葉は、(略)ヴィクトリア期や第二次世界大戦にさかのぼってみれば、(略)ある職業のことを意味していた。
  ――1 人間がコンピュータだったころ

 当時は天文学者用の星表や船乗用の航海年鑑などの数表は、人間が計算していた。バベッジはこれを機械でやろうと考え、かの有名な階差機関(difference engine、→Wikipedia)を思いつく。印刷時のミスを防ぐため活字を組む機構も備えている。原初のコンピュータはプリンタ付きなのだ。

 ところが階差機関の開発は長引き、その途中で汎用の計算機である解析機関(analytical engine、→Wikipedia)の発想に至る。その違いは何か、というと。

解析機関というアイデアは、階差機関で計算の結果をフィードバックさせれば人間の介入をなくせるのではないかとバベッジが考えている時に、着想したものであった。
  ――3 バベッジの夢が現実に

 今ならループとか再起とかの発想だね。それはいいが、肝心の航海年鑑をほったらかしたせいで、スポンサーから資金を打ち切られてしまう。手段のために目的を忘れる、マッド・サイエンティストの鑑ですw そこのプログラマ、ライブラリ作りに熱中してアプリケーションの開発を忘れるとかの経験ありませんか? コンピュータの父はハッカーの祖でもあるのだw

 などと19世紀のイギリスで潰えた事務の機械化の夢は、新大陸アメリカで芽を出す。1890年の国勢調査で使われたハーマン・ホレリス(→Wikipedia)のタービュレイティング・マシン(→Wikipedia)を皮切りに、機械が事務所へと侵入してゆく。その先兵となったのがタイプライター。

タイプライターはオフィス機器産業とそれに続くコンピュータ産業の三つの基本的特徴を拓いた(略)。製品の完成度と低コスト生産、製品を売る販売組織、そしてその技術を使えるように労働者を訓練する組織の三つである。
  ――2 オフィスに事務機がやってくる

 ここでは新し物好きなアメリカに対する保守的なイギリスへの皮肉がチラリ。それはともかく、タイプライターが流行った理由の一つが、手書きより読みやすいってのに冷や汗w 今も Microsoft Word を使う最大の理由は、手書きより綺麗だからだよね。

【第2部 コンピュータの登場】

 などと機械が事務室へ侵入するなか、第二次世界大戦がはじまり、まの有名なENIAC(→Wikipedia)とEDVAC(→Wikipedia)が登場する。今まで両者の違いがよく分かってなかったけど、その一つはプログラム内蔵か否か。ENIACは違うプログラムを走らせるたびに、いちいち配線を変えにゃならなかった。そりゃ面倒くさいよね。ならプログラムも覚えとけよ。ということで…

計算機の記憶装置は、プログラムの命令と、それが処理する数字の両方を保持するのに用いられる
  ――4 コンピュータという発明

 そういやシンセサイザーは音源やエフェクトの設定を記録&呼び出しの機能があるけど、ギターのエフェクターでそういう事ってできるの? いや私はフランジャ―しか持ってないからいいけどw

 まあいい。潤沢な軍の予算で開発した技術が、すぐ民間で活きるのがアメリカの強い点の一つ。そこに喰いつき、うまく活かしたのがビッグ・ブルーことIBM。その成長の原因はサポートにある。日本の自動車産業がアメリカ進出で成功したのも同じ理由だった。トヨタはIBMに学んだんだろうか。

IBMはサービス型企業としての評判が高かった。当初からトレーニングを重視しており、ユーザーのためのプログラミングコースを提供し、また現場に赴くエンジニアによるカスタマーサービスもほかのどの企業より優れていた。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 また、将来を見据えた販売戦略も巧かった。つまりプログラマを育てたのだ。

IBMは、650を6割引きで大学などの教育機関に設置した。そうすればコンピューティングの教育課程ができる(略)。この結果、IBM650に慣れ親しんだプログラマやコンピュータ科学者が輩出され、IBMを使いこなせる人々が産業界に大勢いるという状態ができあがった。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 これも1980年代~1990年代にアップルが真似して成功している。今だって医療とデザイン関係はMacユーザが多い。ほんと、IBMは販売戦略が巧みだ。もちろん、販売だけでなく、技術戦略でも賢い。巨人 System/360 である。

System/360はソフトウェア互換性のあるコンピュータという概念を軸に、この業界を劇的に作り変えてしまった。
  ――6 メインフレームの時代 IBMの季節

 それまでのコンピュータは、同じメーカーでも機種が違えばソフトウェアに互換性がなかった、つまりプログラムを書き直さなきゃならなかった。それじゃ機械を買い替えるたびに移植の手間と費用がかかる。そりゃ困るってんで、全機種でソフトウェアの互換性を保証した。今なら当たり前のようだが、当時としては画期的な事だったのだ。

 加えてこの章ではRPG(Report Program Generator、→Wikipedia)の話が印象に残る。RPGを一言で説明すると、バッチ処理版のExcelみたいなモン。てっきりCOBOLから派生したと思ってたんだが、実は生まれも育ちも全く別でIBMの純血だし、誕生も1959年と早い。そうだったのかあ。

【第3部 日々進化するコンピューティング】

 米国のコンピュータ史がENIACで始まったように、コンピュータ(というか先端技術)と軍の関わりは深い。が、やがて軍を離れ民間の営利企業が育ってゆく。この境目に当たるのが「7 リアルタイム つむじ風のように速く」だろう。

 ここでは航空機の操縦シミュレータ計画 WhirlWind(→Wikipedia)や防空システムSAGE(→Wikipedia)などの野心的な開発計画が軍の潤沢な予算を得て始まり、その過程で「プリント基板、コアメモリ、大容量記憶装置」などコンピュータの基礎技術が発展し、同時にソフトウェア開発者も育ってゆく物語で始まる。

 ここで育った技術と人は、さっそく民間で活きる。航空機座席予約システムSABRE(→Wikipedia)だ。とまれ、「プロジェクトの実現は10年がかり」というから、当時のシステム開発はそういうペースだったんだなあ。

 ここまでは「既存の需要にコンピュータを組み込む」または「コンピュータ屋が需要を掘り起こす」形だった。そこに、全く新しい利用者が現れる。スーパーマーケットだ。

スーパーマーケットの初期の最も重要なイノベーションは、販売員が商品を持ってくるのではなく、顧客が自分で動いて商品を手にすることで(すなわち、セルフサービスで)販売員の手間を削減したことだ。
  ――7 リアルタイム つむじ風のように速く

 安さがウリのスーパーは、なるたけコストを減らしたい。セルフサービスで店員の人件費は減らせたが、レジで長い行列ができてしまう。これを解決するため、小売り・製造・取引組合など関係する全業界を巻き込み開発したのが、バーコード&スキャナー。お陰でレジが速くなるだけでなく、店に置く商品の種類も爆発的に増え利ざやが大きくなる。

 それまでは既にある仕事の流れにコンピュータを組み込む形での利用だったのが、スーパーではコンピュータを使うことを前提として、業界全体の仕事の流れを変えたのだ。こういう革命的な事がやれるのも、アメリカの強みだよねえ。

 さて、先のSystem/360で出てきたように、コンピュータが増えるとソフトウェア開発の負荷・費用が問題として注目され、ソフトウェア危機が叫ばれ始める。EDSACの2進法からパッケージ・ソフトウェアの成立までを描く「8 コンピュータを支配するソフトウェア」は、プログラマにとって「あるある」の連続で実に楽しい。

 例えば悪名高いフローチャート。

フローチャートは産業界で働くエンジニアのあいだで1920年代に始められた。これを1950年代にコンピュータのプログラムに採り入れたのは、(化学エンジニアの経験があった)フォン・ノイマンである。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 コンピュータ以前にフローチャートはあったのか。にしてもフォン・ノイマン、罪なことをしてくれたもんだ。何せ…

実は多くのプログラマは、理解力のない経営陣の気まぐれを満足させるためにしかフローチャートは役に立たないと感じていたのだ。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 まあ、プログラマにとってフローチャートなんてそんなモンです。フローチャート用定規とかもあったなあ。

 ここでは2進数からニーモニックによるアセンブラ、サブルーチン、リンカ、COBOL・FORTRANなどコンパイラ、構造化設計技法、ソフトウェア・ハウスやパッケージ・ソフトウェアなど、現代のIT産業が立ち上がる姿が早送りで映し出され、とっても楽しい。

 ちなみにパッケージ・ソフトウェア、ここもアメリカらしいと思うのが、業務に合わせてパッケージを開発するより、パッケージに合わせて仕事の流れを変える企業が多かったって点。日本と逆だよね。何が違うんだろ?

 これらは大型汎用機のバッチ処理の話だが、現代のパソコン時代へ一歩近づくのがタイムシェアリング・システム。大型機を多人数で同時に使う、そういう考え方。この発想、消えたように思えるけど、実はクラウド・コンピューティングなどで生き延びてたりする。まあいい。ここではMulticsの失敗からUnixの誕生、そして半導体を使ったミニコンピュータへと続く。ケンとデニスの理想は、インターネットによってさらに飛躍したが…

ケン・トンプソン&デニス・リッチー「私たちが残そうとしたのは、プログラミング環境だけではなく、そのまわりに仲間が集えるような環境全体だった」
  ――9 新しいコンピューティングの登場

【第4部 コンピュータの民主化】

 今までのコンピュータは政府機関や大学、そして企業のオフィスにある物だった。これが家庭に入り込む様子を描くのが第4部。

 「10 パソコン時代の登場」は、意外なことにラジオ放送の歴史から始まる。ラジオ放送局が開設する前から、趣味で無線をイジる人はいた。70年代ごろまでの秋葉原にタムロしてたタイプの人たちだ。彼らが最初にラジオのリスナーになったのだ。そんな無線愛好家と層がカブってる、電子工作の愛好家もいた。とまれ…

ホビイスト以外の人にとっては、自分のコンピュータを欲しがる人がいること自体、不可解極まりないことだった。
  ――10 パソコン時代の登場

 はい、世間には理解されませんでしたw 

 そんな中からビル・ゲイツ&ポール・アレンのマイクロソフト、スティーヴン・ウォズニアック&スティーブ・ジョブズのアップルなどが芽をだし、巨像IBMまで参入してきて互換機市場を作り出す。IBMのロゴがついてりゃ法人ユーザで買いやすいなんてのは、ちょっと笑ってしまった。そりゃヒッピー崩れが売ってたんじゃ稟議を通りにくいよねw

 そういや「安いPCが欲しけりゃ自作」って時代もあったなあ。今の自作派はハイエンド志向みたいだけど。にしても、技術の進歩って、こういう「趣味の人」の充実も大事なんだね。これもまた自由主義の強さの一つ。

 「10 パソコン時代の登場」が8bit機の時代だとすれば、続く「11 魅力拡がるコンピュータ」は16bit機の時代だろうか。同時に、それまでのコマンドライン方式からマウスとGUIへの移行に伴い、ヲタクから非ヲタクへと市場が広がってゆく時代でもある。となると、大事なのは広告や流通。

マーケティングコストは、実にソフトウェア本体の開発費の2倍に及んだ。
  ――11 魅力拡がるコンピュータ

 広告費ゼロのガンパレは、やっぱり掟破りだったんだなあ←しつこい ここではOS/2(→Wikipedia),CAPTAIN(→Wikipedia),CompuServe(→Wikipedia)なんて懐かしい名前も。

 CompuServeの当初の目的はTSSが空く夜の時間を埋めるためってのは賢さに舌を巻いた。けどIT業界がCD-ROMの市場として最初に目をつけたのが百科事典ってのは、賢い人の盲点だよね。ええ、もちろん、キラーコンテンツはゲームとエロでした。わはは。

 そして最後の「12 インターネットの世界」では、インターネットからWWWそしてSNSへと話が進む。

 インターネットの前身ARPAネットから現在のTCP/IPベースであるインターネットへの技術的な進歩は詳しい人には興味深いだろう。それ以上に、そこで人気の出た使い方が、技術屋とそれ以外の感覚の違いが見えて楽しい。まず流行ったのが…

ユーザを引き付けたのは、電子メールを通じてコミュニケーションできるということだった。
  ――12 インターネットの世界

 電子メールだ。開発者曰く、「初めは誰もそれがこんなに大当たりすることになるとは思っていなかった」。賢い人ってのは、人が持つコミュニケーションへの欲求を見過ごすんだよね。

 ここでもUsenet,apache,Mosaic,Netscapeなどの懐かしい名前の後、Yahoo!,Google,Amazom,iPhone,Wikipedia,Facebook,Twitterなど現役でお馴染みの名前も。とまれ、NokiaやBlackBerryやPalmOSとかの名前には、この世界の時の流れの速さに唖然としてしまう。

【終わりに】

 共立出版で横組みだから、小難しい印象を抱くだろう。実際、文章もやや堅いし。だが内容は、むしろ「史記列伝」や「三国志演義」のような、乱世を駆ける英雄たちの栄枯盛衰・群雄割拠の物語に近い。

 スマートフォンとインターネットは、世界を制覇した。それが生まれるには、様々な組織や文化が必要だった。

 階差機関やENIACやARPAネットには政府や軍の支援が。
堅牢な大型コンピュータにはIBMやアメリカン航空のような大企業が。
バーコードには小売りから製造までの企業連合が。
ARPAネットから企業を問わぬインターネットへの進化には、それぞれが自治権と独自文化を持つ大学と、逆説的だが互換性のない多くのコンピュータ企業が。
コンピュータの小型化には電子工作に没頭するヲタクが。
そしてパソコンの普及には山師じみた野心を抱える有象無象の小さな起業家たちが。

 確かにIT技術者なら、この本を楽しく読める。だがそれ以上に、日本の科学・技術の凋落がいわれる昨今、技術立国日本の再生に何が必要なのかを考える人にこそ、熱く訴えるものを本書は秘めている。

【関連記事】

【今日の一曲】

Typewriter - La máquina de escribir. L. Anderson. Dir: Miguel Roa. Typewriter: Alfredo Anaya

 コンピューティング前史に出てくるタイプライターだって、楽器になります。ということで、有名なルロイ・アンダーソンの TypeWriter を。タイプライター奏者のアクションに注目。お堅くて高尚な印象の強いオーケストラだけど、音楽って本来はこういう楽しいものだよね。

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2021年8月 4日 (水)

新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新報社

私たちの日常で、大変な事が起ころうとしています。
  ――第1章 MARCHに合格 AIはライバル AIが仕事を奪う

論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 意味を理解しないAI

日本の中高生の読解力は危機的と言ってよい状況にあります。その多くは中学校の教科書の記述を正確に読み取ることができません。
  ――第3章 教科書が読めない 全国読解力調査 人間は「AIにできない仕事」ができるか?

【どんな本?】

 2011年より、著者は人工知能の開発に挑む。名づけて「ロボットは東大に入れるか」、俗称「東ロボ」(→プロジェクトホーム)。目的はコンピューター・プログラムで大学入試問題を解くこと、目標は東京大学に合格できる成績をあげること。

 さすがに東大合格ラインには届かなかったが、いわゆるMARCH(明治・青山・立教・中央・法政)の一部の学部には届いた。偏差値は57.1.少なくとも半数以上の受験生より優れた成績を残した。

 東ロボの思考法は人間と全く違う。そもそも東ロボは問題の意味をわかっていない。にもかかわらず、平均以上の成績を取れたのである。

 これに著者は危機感を抱く。問題の意味すら分からぬコンピューターが、並みの受験生より成績が良かった。では、東ロボ未満の成績しか取れぬ受験生は、どうなのか。そもそも、問題文の意味すら分かっていないのではないか。

 この仮説を確かめるため、著者は読解力を調べるRST(リーディングスキルテスト)を作り、中学生と高校生に受けてもらう。結果は仮説の支持するものだった。すなわち、中高生の多くは、文章の意味が分かっていない。

 コンピューター・プログラムとは何か。AIとは何を示し、どんな研究をされてきたのか。何ができて、何ができないのか。東ロボは、どんな手法を使っているのか。それは他のAIとどう違うのか。今後、AIは人間の社会をどう変えるのか。そして、これらの問題と、読解力にどんな関係があるのか。

 AIの基礎から現代日本の教育が抱える根本的な問題点、そして来る社会の大変革を語る、エキサイティングな科学・技術解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年2月15日第1刷発行。私が読んだのは2018年4月27日発行の第8刷。爆発的な売れ行きだなあ。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約275頁。9.5ポイント40字×16行×275頁=約176,000字、400字詰め原稿用紙で約440枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容は…プログラミングの経験者にはやたらわかりやすいんだが、経験のない人には数学とAIの関係が分かりにくいかも。数学→プログラム→AIが、なぜ・どうつながるか、その辺の説明が極めてかいつまんでいるので、人によってはピンとこないかも。特に最近のコンピューターはIMEやGoogleがやたら賢くなってるんで、仕組みが分かりにくいんだよなあ。

【構成は?】

 第1章と第2章はコンピューター&AIや東ロボの歴史と仕組み、第3章は日本人の読解力の現状、第4章は将来の話となる。第2章以降は前の章の知識を基礎としているので、素直に頭から読んだ方がいい。いや自分でディープラーニングのライブラリを使ってAIを作れるぐらい詳しいなら話は別だけど。

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  • はじめに
  • 第1章 MARCHに合格 AIはライバル
  • AIとシンギュラリティ
    AIはまだ存在しない/シンギュラリティとは
  • 偏差値57.1
    東大合格ではありません 「東大ロボくん」/プロジェクトの狙い/東大ロボくんがMARCHに合格したらどうなるか
  • AI進化の歴史
    伝説のワークショップ/エキスパートシステム/機械学習/ディープラーニング/強化学習
  • YOLOの衝撃 画像認識の最先端
    東大ロボくんのTEDデビュー/リアルタイム物体検出システム/物体検出システムの仕組み/AIが目を持った?
  • ワトソンの活躍
    クイズ王を打倒/コールセンターに導入
  • 東大ロボくんの戦略
    延べ100人の研究者が結集/世界史攻略/論理で数学を攻略
  • AIが仕事を奪う
    消える放射線画像診断医/新技術が人々の仕事を奪ってきた歴史/もう「倍返し」はできない/全雇用者の半数が仕事を失う
  • 第2章 桜散る シンギュラリティはSF
  • 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗
    東大不合格/東ロボくんにスパコンは要らない/ビッグデータ幻想/日米の認識の差/英語攻略は茨の道/200点満点で120点を目標に英語チーム結成/常識の壁/150億文を暗記させる
  • 意味を理解しないAI
    コンピューターは計算機/数学の歴史/論理と確率・統計
  • Siri(シリ)は賢者か?
    近くにあるまずいイタリア料理店/論理では攻略できない自然言語処理/統計と確率なら案外当たる
  • 奇妙なピアノ曲
    確率過程/自動作曲/とりあえず、無視する/「意味」は観測不能/やっぱり、私は福島にならない
  • 機械翻訳
    やふーほんやく⇒×/私は先週、山口と広島に行った。/オリンピックまでに多言語音声翻訳は完成するか/画像処理の陥奔
  • シンギュラリティは到来しない
    AIはロマンではない/科学の限界に謙虚であること/論理、確立、統計に還元できない意味
  • 第3章 教科書が読めない 全国読解力調査
  • 人間は「AIにできない仕事」ができるか?
    問われるコミュニケーション能力/日本人だけじゃない
  • 数学ができないのか、問題文を理解していないのか? 大学生数学基礎調査
    会話が成り立たない
  • 全国2万5000人の基礎読解力を調査
    本気で調べる/東ロボくんの勉強をもとに、リーディングスキルを開発/例題紹介
  • 3人に1人が、簡単な文章が読めない
    アレキサンドラの愛称は?/同義文判定ができない/AIと同じ間違いをする人間/ランダム率
  • 偏差値と読解力
    基礎的読解力は人生を左右する/何が理解力を決定するのか/教科書を読めるようにする教育を/AIに代替される能力/求められるのは意味を理解する人材/アクティブ・ラーニングは絵に描いた餅/「悪は熱いうちに打て」/現場の先生たちの危機感/処方箋は簡単ではない/AIに国語の記述式問題の自動採点はできない/いくつになっても、読解力は養える
  • 第4章 最悪のシナリオ
  • AIに分断されるホワイトカラー
    同志て三角関数を勉強しなきゃいけないの?/AIで代替できる人材を養成してきた教育/AI導入家庭で分断されるホワイトカラー
  • 企業が消えていく
    ショールーミング現象/AI導入で淘汰される企業
  • そして、AI世界恐慌がやってくる
    AIにできない仕事ができる人間がいない/私の未来予想図/一筋の光明
  • おわりに

【感想は?】

 これは意外な掘り出し物。

 世間で話題になったのは第3章、中高生の読解力を憂いた所だ。でも、実はAIというかディープ・ラーニングの優れた入門書でもある。ソコを説くのが、第1章と第2章。

 第1章では伝説のダートマス会議(→Wikipedia)とフレーム問題(→Wikipedia)による挫折、エキスパート・システムと知識表現による挫折、現代のディープラーニングによるAI、そして東ロボの概要へと続く。

 こうやって見ると、AIの歴史って挫折ばっかりだなw なお東ロボ、実は中の人が3人いるというか、三重人格だったり。教科ごとにプログラムが違うのだ。世界史はIBMのワトソン型(→Wikipedia)、数学は由緒正しい論理型、英語は強化学習型。なんかズルくね?

 とか言いつつ、私には東ロボ開発秘話の第2章がやたら面白かった。例えば、いきなりコレだ。

「そこそこのサーバーを使って5分で解けない問題は、スパコンを使っても、地球滅亡の日まで解けない」
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 漫画などで、スーパーコンピューターを使えば、どんな難問でも解けるかのように描かれることがある。でも、それは間違いだ。どんな問題でも、それを解くにはソフトウェア=プログラムが要る。そして、プログラムが作れない問題もあるのだ。とりあえず今のところは。

 この手の勘ちがいは漫画家だけでなく、有名なSF作家もしでかしている。かのR・A・ハインラインの傑作で映画にもなった「夏への扉」には、文化女中器が出てくる。家事ロボットだ。当時は弾道計算より家事の方が自動化しやすいと思われたのだ。だが、現実の21世紀、チェスの王者には勝てても炊事・洗濯・掃除は自動化できていない。

私たち人間が「単純だ」と思っている行動は、ロボットにとっては単純どころか、非常に複雑なのです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 何が自動化できて、何ができないか。これはヒトの直感と全く異なるのだ。これを見事に物語る、東ロボの英語対策の失敗は、世のプログラマなら身につまされるだろう。「こんなのフェアじゃありません」には腹を抱えて笑ってしまった。そこのプログラマ、きっとあなたにも身に覚えがあるはず。ここで得た教訓は…

英語チームが経験したような「失敗」は論文に掲載されることはありません。(略)
取り上げられるのは、ディープラーニングがうまくいったときだけです。(略)
どれだけ投資してもディープラーニングはうまくいかない、という情報こそが今まさに喉から手が出るほど必要なのではありませんか。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 だよねー。世界中のバグのデータベースとかあれば、きっと面白いだろうなあ。

 総括として、現在のAIは…

AIには、意味を理解できる仕組みが入っているわけではなくて、あくまでも、「あたかも意味を理解しているようなふり」をしているのです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 意味を理解しないAI

現在の情報検索や自然言語処理は、基本的に論理で処理させることは当面諦めて、統計と確率の手法でAIに言語を学習させようとしています。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF Siri(シリ)は賢者か?

 要は機械に条件反射を仕込んでるんだな。ただし、コンピューターはすさまじく物覚えが悪い。犬やモルモットはせいぜい百~千回ぐらいで覚えるのに対し、コンピューターは百万とか億とかの回数を繰り返さなきゃいけない。そのかわり疲れたり飽きたりしないのがコンピューターのいい所なんだけど。

 だもんで、今のAI(というかディープラーニングや強化学習)は、既にある仕事を自動化・高速化するだけで、何か新しいモノを生み出すワケじゃない。

AIは自ら新しいものは生み出しません。単にコストを減らすのです。
  ――第4章 最悪のシナリオ 企業が消えていく

 もっとも、コストを減らすワケで、そのせいで仕事をAIに奪われる人が沢山でてくるぞ、と著者は警告している。正直、この辺、私は騒ぎ過ぎって気もする。だって Excel で算盤の技能は無用になったけど、事務の仕事は増えてるし。あなた、どう思います?

 もっとも、電子メールのお陰で読み書きの機会は増えた。ここで問題の第3章、読解力だ。問題が解けないんじゃない。そもそも問題の意味が分かってないんじゃないか、そういう危惧である。この本じゃ中高生を槍玉にあげてるけど、元中高生すなわち大人だって同じなのだ。 Twitter では有名人が頻繁にイチャモンをつけられているが、イチャモンの大半は元の文の意味が分かってなかったりする。

 そういう人の多くは、「文章」を読んでない。文の中の目立つキーワードを拾い、連想で意味を創り上げてる。困ったモンだが、じゃどうすりゃ読解力がつくのか、というと。

 「まず読書だろ」と考えがちだが、そうでもないのが意外だった。

読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎尾的読解力には相関はない
  ――第3章 教科書が読めない 全国読解力調査 偏差値と読解力

 本好きか否か、どれだけ本を読んでいるか、どんな本を読んでいるかは、関係ないのだ。少なくとも、自己申告で調べた限りでは。

 じゃお手上げかというと、これまたそうでもない。詳しくは戸田市の教育関係者に聴こう。

 とか書いてきたけど、最近の政治家の言動を見ると、むしろ質問の意図を理解しない能力こそが出世の秘訣と思いたくなるから、なんともはや。

【関連記事】

【今日の一曲】

Suddenly the Rain - Simon Says

 どうにも後味の悪い終わり方なんで、口直しに。スウェーデンの人だそうで、楽器や音創りは今世紀風なんだけど、曲作りは70年代~80年代の YES や Genesis 風という、時代錯誤感がたまらんです。

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2021年7月21日 (水)

ミチオ・カク「人類、宇宙に住む 実現への3つのステップ」NHK出版 斉藤隆央訳

科学は繁栄のためのエンジンなので、科学や技術に背を向ける国家はいずれきりもみ降下に入るのである。
  ――第1章 打ち上げを前にして

【どんな本?】

 地上は不安定だ。大雨が降れば山が崩れ、洪水で押し流される。地震が起きれば建物はもちろん橋や道路も通れなくなる。大きな火山が噴火すれば気候もガラリと変わる。地球は何度も氷河期と間氷期のサイクルを繰り返してきた。このまま地球に住み続ければ、やがて人類は絶滅するだろう。

 これを避けるには、宇宙に飛び出すしかない。だが、どうやって?

 最初は、太陽系内の他の天体に足掛かりを作るだろう。では、どの天体に、どんな方法で、何を求めて進出するのか。その次のステップは、他の恒星系だ。そうなると、必要な技術も資材も時間も桁違いに増えてくる。では、どんな障害があって、どんな解決策があるのか。移住先となる天体はあり得るのか。

 理論物理学者であり、市民向けの著作も多いミチオ・カクが、自らの知見はもちろん広い人脈を駆使し、様々な人類の宇宙進出のアイデアとシナリオ、そして未来像を描き出す、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Future of Humanity : Terraforming Mars, Interstellar Travel, Immortality, and Our Destiny Beyond Earth, by Michio Kaku, 2018。日本語版は2019年4月25日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約405頁に加え、訳者あとがき5頁。9.5ポイント43字×18行×405頁=約311,922字、400字詰め原稿用紙で約780枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。なんたって、科学の本なのに数式も化学式も出てこない。理科が好きなら中学生でも楽しんで読みこなせる。

【構成は?】

 現代から遠未来へと進んでゆく形だが、美味しそうな所をつまみ食いしても構わない。

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  • プロローグ
  • はじめに 多惑星種族へ向けて
    宇宙に新しい惑星を探す/宇宙探査の新たな黄金時代/テクノロジー革新の波
  • 第Ⅰ部 地球を離れる
  • 第1章 打ち上げを前にして
    ツィオルコフスキー 孤独なビジョナリー/ロバート・ゴダード ロケット工学の父/嘲笑われて/戦争のためか平和利用か/V2ロケット、上がる/戦争の恐怖/ロケット工学と超大国の競争/スプートニクの時代/宇宙で取り残されて
  • 第2章 宇宙旅行の新たな黄金時代
    再び月へ/月を目指す/恒久的な月基地/月に住む/月出の娯楽や気晴らし/月は何から生まれたのか?/月面を歩く
  • 第3章 宇宙で採掘する
    小惑星帯の起源/小惑星で採掘する/小惑星の探査
  • 第4章 絶対に火星へ!
    火星を目指す新たな宇宙レース/宇宙旅行は休日のピクニックではない/火星へ行く/初の火星旅行
  • 第5章 火星 エデンの惑星
    火星に住む/火星のスポーツ/火星の観光/火星 エデンの園/火星をテラフォーミングする/火星の温暖化を始動させる/臨界点に達する/テラフォーミングは持続するのか?/火星の海に起きたこと
  • 第6章 巨大ガス惑星、彗星、さらにその先
    巨大ガス惑星/巨大ガス惑星の衛星/エウロパ・クリッパー/土星の環/タイタンに住む?/彗星とオールトの雲
  • 第Ⅱ部 星々への旅
  • 第7章 宇宙のロボット
    AI 未熟な科学/次の段階 真のオートマトン/AIの歴史/DARPAチャレンジ/学習する機械/自己複製するロボット/宇宙で自己複製するロボット/自我をもつロボット/最善のシナリオと最悪のシナリオ/意識の時空理論/自我をもつ機械を作る?/ロボットはなぜ暴走するのか?/量子コンピュータ/量子コンピュータができていないのはなぜか?/遠い未来のロボット
  • 第8章 スターシップを作る
    レーザー帆の問題/ライトセイル/イオンエンジン/100年スターシップ/原子力ロケット/原子力ロケットの欠点/核融合ロケット/反物質スターシップ/核融合ラムジェットスターシップ/スターシップが抱える問題/宇宙へのエレベーター/ワープドライブ/ワームホール/アルクビエレ・ドライブ/カシミール効果と負のエネルギー
  • 第9章 ケプラーと惑星の世界
    われわれの太陽系は平均的なものなのか?/系外惑星を見つける方法/ケプラーの観測結果/地球サイズの惑星/一つの恒星を七つの地球サイズの惑星がめぐる/地球の双子?/浮遊惑星/型破りの惑星/銀河系の統計調査
  • 第Ⅲ部 宇宙の生命
  • 第10章 不死
    世代間宇宙船/現代科学と仮死状態/クローンを送り込む/不死を求めて/老化の遺伝的要因/論議を呼ぶ老化理論/不死に対する異なる見方/人口爆発/デジタルな不死/心をデジタル化するふたつの方法/魂は情報にすぎないのか?
  • 第11章 トランスヒューマニズムとテクノロジー
    怪力/自分を強化する/心の力/飛行の未来/CRISPR革命/トランスヒューマニズムの倫理/ポストヒューマンの未来?/穴居人の原理/決めるのはだれか?
  • 第12章 地球外生命探査
    SETI/ファーストコンタクト/どんな姿をしているか?/地球上の知能の進化/『スターメイカー』のエイリアン/ヒトの知能/異なる惑星での発展/エイリアンのテクノロジーを阻む自然の障害/フェルミのパラドックス みんなどこにいるんだ?/われわれはエイリアンにとって邪魔なのか?
  • 第13章 先進文明
    カルダシェフによる文明の尺度/タイプ0からタイプ1への移行/地球温暖化と生物テロ/タイプ1文明のエネルギー/タイプ2への移行/タイプ2文明を冷やす/人類は枝分かれするのか?/共通の本質的な価値観/タイプ3文明への移行/レーザーポーティングで星々へ/ワームホールとプランクエネルギー/LHCを超える/小惑星帯の加速器/量子のあいまいさ/ひも理論/対称性の力/ひも理論への批判/超空間に住む/ダークマターとひも/ひも理論とワームホール/大移住が終わる?
  • 第14章 宇宙を出る
    ビッグクランチ、ビッグフリーズ、ビッグリップ/火か氷か?/ダークエネルギー/黙示録からの脱出/タイプ4文明になる/インフレーション/涅槃/スターメイカー/最後の質問
  • 謝辞/訳者あとがき/原注/推薦図書/索引

【第1部】

 最新の科学と工学の美味しい所を集めて食べやすく料理した、SFマニアに最高の御馳走。なんたって、全体を貫くテーマはオラフ・ステープルドンの「スターメイカー」だ。

 「第Ⅰ部 地球を離れる」は、現代の天文学で分かっている太陽系の姿と、今のロケット工学の現状だ。ここではSF的な飛躍は少ない代わりに、リアルなSFを書くためのお役立ち知識がギッシリ詰まってる。

 例えば、人類の宇宙進出を阻む障害だ。これは身も蓋もない。カネだ。宇宙に出るには、とんんでもなくカネがかかるのだ。

1ポンド(約450グラム)の物を地球の定位軌道に投入するには、1万ドルかかる。(略)
月に何かを運ぶとしたら、1ポンドあたり優に10万ドルを超える。
さらに、火星へ物を運ぶのに必要なコストは1ポンドあたり100万ドルを超える。
  ――1章 打ち上げを前にして

 近未来の宇宙SFを書くなら、この費用を減らすか、または近隣の天体に行くことで相応の稼ぎが見込めることを示さなきゃいけない。もちろん、本書内でそういう検討もしている。最近の中国が宇宙開発に熱心な理由も、その辺にあるのかな、と思ったり。

 また、ちょっとした太陽系マメ知識も嬉しい。

知られているすべての小惑星の質量を足し合わせても、月の質量の4%にしかならない。
  ――第3章 宇宙で採掘する

 と、小惑星帯たって、意外と質量は小さかったり。第五惑星じゃなかったのか。

 他にも、環の話。土星の環は有名だ。木星に環があるのも知っていたが、天皇制と海王星にも環があるのは知らなかった。つまりは巨大ガス惑星には環があるのだ。

土星だけでなくほかの巨大ガス惑星の環も調べると、どれもほぼ必ずその惑星のロッシュ限界の内側にあることがわかる。
巨大ガス惑星を周回している衛星はすべて、それぞれの惑星のロッシュ限界の外側にある。
この証拠は、衛星が土星に近づきすぎてバラバラになった結果、土星の輪ができたという説を、完全にではないが裏付けている。
  ――第6章 巨大ガス惑星、彗星、さらにその先

 また、キム・スタンリー・ロビンスンの「ブルー・マーズ」では、火星が海の星になっている。私は「そんなに水があるのか?」と疑問を持った。火星にそれだけの水があるとは思えなかったのだ。が、しかし。

火星の氷冠がすべて解けたら、水深4メートル半から9メートルの海が惑星全体を覆うほどの液体の水ができると推定されている。
  ――第5章 火星 エデンの惑星

 おお、ちゃんと水はあるのだ。ならテラフォームする価値は充分にあるね。

 と、思ったら、水の量を過大評価してたのでは、みたいな記事が(→GIGAZINE:火星の地下に存在すると思われた「液体の水」が実は粘土だったことが判明)。

 そして何より嬉しいのは、他恒星系に進出する足掛かりまで太陽系には用意されている事。

天文学者は、オールトの雲がわれわれの太陽系から三光年も広がっているのではないかと考えている。
これは、ケンタウスル座の三重連星系(アルファ星系)という、地球から四光年あまりの最も近い恒星たちまでの距離の半分以上にもなる。
このケンタウルス座連星系にも彗星の球がとりまいているとしたら、その連星系と地球を彗星で次々とつなぐ道ができそうだ。
  ――第6章 巨大ガス惑星、彗星、さらにその先

 かつて人類が太平洋の諸島に進出する際、島伝いに進出したように、太陽系から進出する際にも、足掛かりとなる水の供給源が太陽系を取り巻いているらしい。

【第2部】

 かくして第2部では、恒星系への移住を考え始める。

 ったって、最も近いケンタウルス座アルファ星まで4光年半という遠大な距離だ。この距離を生身で旅するのは無理だし、推進剤も莫大な量が必要になる。そもそも他の恒星系に人類が住める惑星があるかどうかも定かじゃない。

 そんなワケで、ここではスペース・オペラよろしくSFファンが大喜びの楽し気なアイデアが次々と飛び出してくるのだ。

ロボット工学の究極の課題は、自己複製ができて自我をもつ機械を作り出すこととなる。
  ――第7章 宇宙のロボット

 そのためにはハードウェアに加えてソフトウェア、つまりは人工知能の進歩も必要なんだが、ここではマーヴィン・ミンスキー(→Wikipedia)の弱音にクスリと笑ってしまった。曰く「AI研究者はこれまで間違いすぎたから、具体的な時期の予測はもうしたくない」。うん、そりゃねえw 結局はディープ・ラーニングが役に立ってるけど、あれ大雑把に言うと「機会に条件反射を仕込む」だし。

 もちろんハードウェア、それもエンジンも大事だ。ここでは「はやぶさ」で活躍したイオンエンジンの優秀さが光っている。もっとも、「今のところは」って但し書きがつくけど。私はラリイ・ニーヴン愛用の核融合ラムジェットに厳しい判定がされているのが少し切なかった。でもカシミール効果(→Wikipedia)にはワクワク。

 あと、ジョルダーノ・ブルーノ(→Wikipedia)は知らなかったなあ。どうも人間ってのは、自分の世界観を覆されるのをひどく恐れる生き物らしい。

 また、少し前から他恒星系の惑星が次々と見つかっているが、そのカラクリも面白い。当初はホット・ジュピター(→Wikipedia)の報告が多かったが、それは見つけやすかったからなのね。あと浮遊惑星って、フリッツ・ライバーの放浪惑星かあ。

【第3部】

 そんな風に、現代の科学が中心だった第1部から、近未来の科学を夢想する第2部を経て、第3部では更なる遠未来へと想いを馳せてゆく。

 先に書いたように、恒星間航行ではやたら長い時間がかかる。これを克服する手立てとして、寿命を延ばしてしまえ、なんて話も。今までは物理学と天文学が中心だった所に、生物学が乱入してくるのも面白い。ちなみに長生きの秘訣は…

平均して、カロリーの摂取量を30%減らした動物は、30%長生きする。
  ――第10章 不死

 …はい、脂ぎった食事はよくないそうです。切ない。理由も分かりやすい。

細胞の「エンジン」はミトコンドリアであり、そこで糖を酸化してエネルギーを取り出す。ミトコンドリアのDNAを丹念に調べると、エラーが確かにここに集中していることがわかる。
  ――第10章 不死

 エンジンを激しくブン回せばエンジンの消耗も激しい。ゆっくり安全運転を心がけましょう、そういう事です。

 んじゃ可動部の少ない情報生命体になっちゃえば、なんて発想も真面目に検討してたり。今まではハードディスクの寿命は短かったけど、クラウドにすりゃ大丈夫だしね。

 そうやって他の恒星系に飛びだせば、もちろん他の知性体との出会いだってある。スペースオペラじゃガス生命体や珪素生命体が出てくるけど、著者の考えでは…

地球外の生命は、海で生まれ、炭素ベースの分子で構成されている可能性が高い。
  ――第12章 地球外生命探査

 まあ、人類と意思疎通できると条件をつければ、そうなるだろうなあ。これが更に頁をめくっていくと、次々とゾクゾクするアイデアが飛び出してくる。

いずれ、先進文明は小惑星帯サイズの粒子加速器を建造するだろう。
  ――第13章 先進文明

 当然ながら、想像の翼はこれじゃ止まらない。最新物理学の「ひも理論」まで繰り出し、まさしく異世界へと読者を誘ってゆく。

【終わりに】

 なんたって、オラフ・ステープルドンの「スターメイカー」をテーマとした本だ。稀有壮大さは半端ない。加えて著者は物理学者として基礎がシッカリしている上に、科学系のテレビ番組の出演も多いため、人脈も視野も広い。そのためSFファンには最高のご馳走となったが、あまりに刺激が強すぎるのでソコラのSFじゃ満足できなくなる危険もある。

 それでも読みますか?

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2021年6月25日 (金)

リチャード・C・フランシス「家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか」白揚社 西尾香苗訳

家畜化された動物はどれもみなおなじみのものであるため、その性質がどのように変化してきたのか理解しやすい。進化生物学の近年の進展や最新の知見を家畜化というレンズを通して考察したい。それが、本書でわたしが主に目指していることだ。
  ――はじめに

新しく進化した発生過程ほど進化による変更が生じやすい。
  ――第5章 進化について考えてみよう

【どんな本?】

 ロシアの遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフは画期的な実験を成功させた。本来なら人に慣れないギンギツネを巧みに交配し、人懐こい品種を作り出したのだ。交配の基準はただ一つ、人懐こさだけ。

 奇妙なことに、交配を重ねたギンギツネには、人懐こさ以外にも違いが現れる。茶や斑など毛色のバリエーションが増し、顔の幅が短くなり、垂れ耳や巻き毛も現れ、尾まで振る。

 人懐こさだけで選んだのに、なぜこんな変化が現れたのか。このような変化は、イヌ・ネコ・ウシなど他の人に飼われる哺乳類にも起きたのか。人に飼われる事が、動物たちにどんな効果を及ぼすのか。それは、ヒトにも影響を及ぼすのか。

 進化神経生物学の研究者からサイエンス・ライターになった著者が、家畜化をテーマに現代の進化生物学の基礎と楽しいトピックを紹介する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Domesticated : Evolution in a Man-Made World, by Richard C. Francis, 2015。日本語版は2019年9月30日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約437頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント47字×19行×437頁=約390,241字、400字詰め原稿用紙で約976枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はやや硬い。著者は研究者からサイエンス・ライターになった人で、日頃は専門家向けの論文ばかりを読んでるんだろう。内容もけっこう専門的で、高校卒業程度の生物学の素養が必要。

【構成は?】

 教科書として読むなら、「はじめに」から素直に読むのがいい。理論的な基礎を前の方で堅め、具体例を個々の家畜で見ていく構成だ。が、野次馬根性で読むなら、好きな動物から読み始めても充分に楽しめる。ただ、イヌ派とウマ派には、気持ち的に少々厳しい試練があるかも。

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  • はじめに
  • 第1章 キツネ
  • 第2章 イヌ
  • 第3章 ネコ
  • 第4章 その他の捕食者
  • 第5章 進化について考えてみよう
  • 第6章 ブタ
  • 第7章 ウシ
  • 第8章 ヒツジとヤギ
  • 第9章 トナカイ
  • 第10章 ラクダ
  • 第11章 ウマ
  • 第12章 齧歯類
  • 第13章 人間 Ⅰ 進化
  • 第14章 人間 Ⅱ 社会性
  • 第15章 人新世
  • エピローグ
  • 付録1 第5章の補足A 「現代的総合」は「拡張された総合」へ向かうのか?
  • 付録2 第5章の補足B ゲノミクスと系統樹
  • 付録3 第7章の補足 在来種から品種へ
  • 付録4 第10章の補足 ラクダの側対歩
  • 付録5 第11章の補足A ウマの進化
  • 付録6 第11章の補足B ウマ品種の系統
  • 付録7 第12章の補足 エピジェネティクスという次元
  • 付録8 第14章の補足 進化生物学・進化人類学・進化心理学
  • 付録9 第15章の補足 火の使用とその結果
  • 謝辞/訳者あとがき/註と参考文献/索引

【感想は?】

 「まえがき」で、いきなり驚いた。

多くの場合、家畜化過程をスタートさせるのは人間ではなく動物自身である。
  ――はじめに

 副題に「人間はいかに動物を変えたか」とあるから、人間が動物を捕まえて家畜にしたように思える。だが、たいていの場合は違うのだ。まず、動物がヒトの近くで暮らし始め、ヒトがソレを受け入れる…というか、追い払わない。動物が世代を重ねるごとにヒトとの暮らしに適した生態に変わり、ヒトも動物を利用し始める。まず動物から近づいてきたのだ。

 なのに、なぜか最初は例外的なキツネから始まる。かの有名なドミトリ・ベリャーエフ(→Wikipedia)のキツネだ。毛皮用に飼育されているキツネから交配を重ね、人懐こいキツネをつくり出した。動物から近づいたのではなく、ヒトが動物を飼いならしたパターンだ。

 野生のキツネはヒトを恐れ、無理に近づくと唸り、噛みついてくる。ベリャーエフは、その中からあまりヒトを恐れない個体を選んで交配を重ねた。選ぶ基準はあくまで人懐こさだけで、姿形はまったく考えない。

 にも関わらず、見た目や振る舞いも変わった。銀色ばかりだった毛は茶になったり斑になったり。垂れ耳や巻き毛も現れ、顔の幅が短くなり、尾を振りヒトの顔をなめる。まるきしイヌだ。

 これらの性質は、最初からキツネの遺伝子プールの中にあって、それが表に出てきただけだろう、と著者は考えている。

この進化的な変化のすべては、おそらく新たな突然変異なしで起こったのだろう。(略)
従順性を対象とした選択の成功は、むしろ「既存の遺伝的変異」と進化学者が呼ぶもの、つまり実験開始時にすでにキツネ集団の中に存在していた遺伝的変異だけによって達成されたのである。
  ――第1章 キツネ

 いわゆる潜性(かつては劣勢と呼ばれた)遺伝が表に出てきただけ、といわけ。

 この変化なんだが、不思議なことに様々な家畜で似たような変化が起きるのだ。

家畜にみられる類似した形質は(略)、従順性、社会性の向上、多彩な毛色(特に白色)、体のサイズの低下、四肢の短縮、鼻づらの短縮、垂れ耳、脳のサイズの減少、性差の減少などが含まれる。
  ――第5章 進化について考えてみよう

 幾つかは素人でも見当がつく。従順性は、ヒトに従う性質だ。ペットでも食肉用でも使役用でも、逃げたり襲ってきたりする奴は、家畜に向かない。穏やかでヒトに慣れ言うことを聞く奴の方が飼いやすい。逆らう奴は幼いうちに殺され、大人しい奴だけが生き延びる。結果、穏やかで人懐こいのが多くの子を残す。

 もっとも、いうことを聞くってのも、実はけっこう高度というか特殊な能力らしい。

イヌでもフェレットでも、人間の意図を読み取る際に重要なのは、人間の凝視に耐えられることだ。こうした種間コミュニケーションでは、アイコンタクトをとるのが第一段階なのだが、哺乳類の多くにとってアイコンタクトは攻撃的な行動でもある。
  ――第4章 その他の捕食者

 アイコンタクト、別の言い方だと「ガンをつける」となる。ソレを攻撃的な意図だと思わない事が、家畜化の最初の一歩なのだ。だとすると、街のカラスは既に家畜化の第一歩を踏み出してるんだろうか。カラスならいいが、もっと困った奴もいる。アライグマだ。これは日本だけじゃなく…

トロントの市街地には1平方マイル〔約2.6㎢〕あたり最高で400匹ものアライグマが生息している。もっと自然に近い環境下では、個体群密度は1平方マイルあたり1~5匹程度である。
  ――第4章 その他の捕食者

 ラスカルどもにとっては、自然な環境より市街地の方が住みやすいらしい。メシもゴミ箱を漁ればいいしね。

 それだけじゃない。ここまで増えるには、もう一つ大事なことがある。社会性だ。といっても、群れを作って狩りをするワケじゃない。他の個体と争わない、それだけだ。

 一般に野生動物は縄張りを持ち、侵入者と激しく争う。イエネコの祖先リビアヤマネコもそうだった。この性質を克服し、他のネコと争わないネコだけが、ヒトの穀物蔵を荒らすハツカネズミを食えた。一時期、猫鍋なんて動画が流行ったけど、あんな風に団子になるのは、イエネコだけなのだ。

 これらと全く関係なさそうなのが、毛色のバリエーションだ。

白は家畜化に特徴的な毛色である。
  ――第7章 ウシ

 ホルスタインの白黒斑とかは、家畜化に独特の現象らしい。ネコやイヌなど愛玩用なら新規な毛色が好かれるのもわかる。実用でも…

毛色の突然変異の中には、文化によっては野生型の毛色よりも好まれるものがある。たとえば、サーミ族にとって白い毛皮は価値がある。
  ――第9章 トナカイ

 と、毛皮用なら、高く売れる色の個体は多くの子を残すようヒトが働きかけるだろう。そうでなくても、「白馬の王子様」なんて言葉があるように、白はヒトに好かれるし。とはいえ、搾乳用や食肉用なら色は関係ない。では、野生状態と何が違うのか。

人間に支配された新たな生息環境下では、野生型の毛色を選択する圧力が低下したからである。
  ――第8章 ヒツジとヤギ

一般的に、哺乳類の毛色の場合、選択が緩和されているというのは、カムフラージュや隠蔽色を対象とする選択が弱くなることを意味する。家畜トナカイの場合、選択が緩くなったのは捕食されるのが減ったことを反映している可能性がある。
  ――第9章 トナカイ

 野生状態だと、目立つ奴はオオカミなどに狙われ食われる。でも家畜はヒトが守る。だから目立つ奴でも生き延びられる。そういう事だ。加えて、意外な理由も。

ウシバエなど、寄生性の昆虫である。(略)
家畜トナカイには、イベルメクチンなどの広域寄生虫駆除薬が投与される(略)。
ウシバエは明るい毛色のトナカイを好んで襲う。
  ――第9章 トナカイ

 薬は極端にせよ、家畜は大切な財産だ。だから大切に世話をするし、家畜小屋も掃除して清潔に保つ。だから寄生虫にも狙われにくい。獣医だっているしね。そんな風に、人が守ることで、それまで潜性だった遺伝的性質が表に出てきて、さまざまな毛色が生まれたのだ。

 ウシの身体が祖先のオーロックス(→Wikipedia)より小さくなったのは、なんか分かる。オーロックスはデカすぎて暴れたら手に負えないし。もっとも最近は品種改良で逆に大きくなってるみたいだけど。特にブタ。これ、実は性差が減ったのと関係が深いのだ。

体や角のサイズにおける雌雄の収斂が見られるのは、雄だけが変化した結果である。雄の体や角のサイズが小さくなるからだ。若い雄を間引くことにより雄の成獣同士の闘争が減り、その結果、性選択圧が低くなり、さらにその結果として雄の体や角のサイズが小さくなるというわけだ。
  ――第8章 ヒツジとヤギ

 野生状態だと、雌の奪い合いで雄同士が激しく争う。バトルじゃ体重と得物が大事だ。図体がデカく物騒な角を持つ雄がバトルに勝ち雌を得て子を残す。でも家畜だと気の荒い雄は早めに潰され、穏やかな雄だけが子を残す。角の大小は関係ない。それどころか、「種馬」や「凍結精液」なんて言葉があるように、ヒトの都合で交配を決めたりするし。

 野生と家畜では、性淘汰の条件が全く違うのだ。と同時に、性淘汰も進化において大きな役割を果たしている事がよくわかる。

 とかの家畜化に伴う変化も面白いが、身近な動物が家畜化する理由も、現代人の目からするとけっこう意外だったりする。いやいずれも「食用」なんだけど。例えばイヌ。白人が来る前の北米や中米じゃ食用に飼われてたし、今だって有名な中国・韓国の他にフィリピン・ベトナムや西アフリカで食われている。もちろん愛玩用に飼う場合もあって、区別は難しい。

アポリジニ―が食用犬と非食用犬とを区別する一つの方法は、非食用犬に名前を付つけることだ。
  ――第2章 イヌ

 名前の有無ってのは、なんかわかる気がする。こういう食用に飼われてた動物は他にもあって…

ウマはもともとは食肉用に家畜化された。
  ――第11章 ウマ

モルモットはアンデス山脈西部のインカ人の土地からやってきたのである。(略)
ペルーではケイビー(モルモット)はペットではなく、食材だったのである。
  ――第12章 齧歯類

 日本じゃ桜肉とか馬刺しとかでウマを食う文化が残ってるから、意外でもないかな? でもモルモットは知らなかったなあ。そういやローカル・ヒーローって映画があって、ウサギが重要な役割を… いや、話が逸れた。

 もちろん他にも動物関係のトリビアが楽しかったり。著者はヤギがお気に入りらしく、その賢さと逞しさを讃えてる。ただし、賢く逞しいのも時として困りもので…

野生化したヤギは、大きな環境問題を引き起こしている。島に生息する多くの鳥類や哺乳類がヤギのせいで絶滅してしまったのだ。(略)比較的小さな島であっても、ヤギを根絶するにはヘリコプターに射撃手、イヌ、毒物などを総動員しなければならない。
  ――第8章 ヒツジとヤギ

 そういえば除草用の仔ヤギが逃げ出して、なかなか捕まらないってニュースもあった(→スポーツ報知産経新聞)。奴は山間部仕様で崖もヒョイヒョイ登るから、追いかけるのも大変なのだ。

 キリスト教文化圏じゃ悪魔のモチーフにもなって悪役なヤギだが、日本じゃそれほど悪く言われない。日本での悪役はラクダだろう。このラクダ、グローバル経済じゃ大きな役割を果たしている。

シルクロードが利用されていたのは紀元前150年~紀元1450年頃だが、この間ずっと、車輪を使った乗り物には適さない道だった。シルクロードはラクダが通ってできた道のネットワークだったのだ。
  ――第10章 ラクダ

 「情報と通信の文化史」や「紙と人との歴史」だとモンゴル帝国の情報ネットワークでウマが活躍したけど、物流はラクダが支えたのだ。「ラクダの文化誌」とかを読むと、実はラクダってかなりケナゲな動物なのがわかります。ヒトが乗るのには適さないけどね。

 終盤では、ヒトが自分で自分を家畜化したって説を検討してる。その過程で影響が大きいのは生物的なモノか文化的なモノかって議論があって、今のところ決着はついていない。

 両方が関係する例として、乳糖耐性を挙げてる。牛乳を飲んで腹を下すか否かだ。ウシを飼う文化だと、腹を下さない者の方が生き延びやすい。もっともチーズって逃げ道があるんだが(→「チーズと文明」)、それは置いて。

 最も大きいのは、やっぱり火の利用だろう。

ヒトが登場する以前に起きた文化的革新として、特に画期的だったのは料理の開始である。(略)
肉でも植物でも料理したほうがカロリーの摂取効率が高くなる。
料理への適応としては、顎の筋肉の退化や、歯のエナメル質の熱さや臼歯のサイズの減少などが可能性として挙げられている。
  ――第15章 人新世

 料理するには火を使わなきゃいけない。一般に動物は火を怖がる。そして若い個体ほど好奇心が強く恐れ知らずだ。ヒトの中でも精神的に若さを保った個体が火を使い始め、それにより食糧事情が改善し多くの子を成した…のかなあ。

 もっとも、こういう、根拠があやふやな説明に著者は批判的で、最近よく見る進化心理学に対しても、辛辣に切って捨てている。

進化心理学は、主流の進化生物学の枠組みの外で生まれ育ってきたものなのである。進化心理学は、信憑性を失った行動主義の枠組みに取って代わる、統一的で堅固な枠組みを探し求める心理学者たちが発展させてきたのだ。
  ――付録8 第14章の補足 進化生物学・進化人類学・進化心理学

 もちろん、新しいから駄目ってワケじゃなく、生物学の新しい概念であるエピジェネティクスについては、キチンと説明してる。

毛母細胞でも血球でもニューロンでも、あなたの身体を構成するどんな細胞も遺伝的に同一なのに、細胞によって表現型は大きく異なっている。表現型が異なるのは、エピジェネティックな面での差異があるからである。
  ――付録7 第12章の補足 エピジェネティクスという次元

 iPS細胞とかは、エピジェネティクス的に細胞を初期化する技術、なのかな? いや知らんけど。

 あと、この辺は、スティーヴン・ジェイ・グールドが唱えた断続平衡説(→Wikipedia)の論拠になりそうなんだけど、どうなんだろう?

遺伝的浮動(略)の程度は集団のサイズにより異なり、集団が小さいほど起こりやすくなる。母集団が小さいほど、ランダムに起こる現象の影響が大きくなるからだ。
  ――第3章 ネコ

 一つの個体に生じた変異が、集団の中で多数を占めるには、どれぐらいかかるかを考えよう。個体数が4なら、次の世代で多数派になり得る。でも個体数が1万だと、数十世代が必要だろう。そんな感じに私は理解した。

 とかの生物学の話とは別に、飼い猫の話など著者自身のネタもあって、親しみやすさに一役買っている。例えば最近の新型コロナ騒ぎ。宴会とかの親密な人付き合いが制限され、それが苦しい人と苦にならない人がいる。やはり苦しさは人それぞれらしい。

内向的な人に比べ、外交的な人は精神の健康を保つために社会的な相互作用を多く必要とする。実際、内向的な人には人との相互作用から解き放たれて一人になる時間がある程度は必要で、そうしないと心理的に落ちつけないのだ。
  ――第14章 人間 Ⅱ 社会性

 そうなんだよっ! 「戦地の図書館」に、二次大戦で従軍した兵が、常に集団生活の軍の中にあって、本を読んでいる間だけ一人になれた、みたいな話があった。程度の大小はあれど、一人になる時間が必要な人もいるのだ。

 えっと、まあ、そんな風に、基本は真面目な生物学の解説書なんだけど、ナニカと妄想を刺激される本でもあるのだ。今回の記事も無駄に長くなってしまった。

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2021年6月 8日 (火)

DK「イラスト授業シリーズ ひと目でわかるテクノロジーのしくみとはたらき図鑑」創元社 村上雅人/小林忍監修 東辻賢治郎訳

人の手では1時間あたり6頭だが搾乳機では1時間で100頭の搾乳が可能
  ――酪農

水耕栽培では使用される水は従来型の農場のわずか10%である
  ――土を使わない農業

光学式選別機の処理能力は1時間あたり35tに達する
  ――収穫から出荷まで

【どんな本?】

 私たちの身の回りには、さまざまな技術が溢れている。自転車,エレベーター,電子レンジ、スピーカー、テレビ…。それらは、どんな技術を使っていて、どんな原理で動いているんだろう? また、ニュースで話題になる人工知能や遺伝子組み換え技術やペースメーカーとは、何をするものなんだろう?

 現代社会を支える基礎技術から、華やかな最先端技術まで、多くの人が興味をそそられる技術トピックを集め、見て楽しめるフルカラーのイラストで説明する、技術の図鑑。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は How Technology Works: The Facts Visually Explained (How Things Work), by DK, 2019。なお DK はイギリスの出版社(→Wikipedia)。日本語版は2020年9月30日第一版第一刷発行。単行本ハードカバーで本文約220頁。

 図鑑なのでイラストが中心。イラストはフルカラーで、Adobe Illustrator で描いたようなCG。

 シリーズ名に「授業」とあるように、子ども向け、または親子で楽しむための本だろう。出てくる項目は、いずれも真面目に説明したら一冊の本が要るぐらい込み入った技術も多い。それをたっぷりのイラストを交え見開き2頁に収めるのだから、どうしても駆け足になる。

 関係の深いキーワードを散りばめて、「理解する」というより、「カッコよく人に説明できる」ことを目指した本だ。もちろん、数式は出てこない。

 ただ、訳文は子供向けにしてはやや硬い。細かいことだが、「利用する」より「使う」を、「増加する」より「増える」にするなど、より親しみやすい言葉遣いを心がけてほしかった。

【構成は?】

 各項目は見開き=2頁で完結しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。というか、むしろ拾い読みするための本だろう。

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  • 第1章 動力とエネルギーの技術
    動力とエネルギー/上下水道/石油精製/発電機/モーター/発電所/送電/原子力発電/風力発電/水力・地熱発電/太陽エネルギーとバイオマスエネルギー/電池/燃料電池
  • 第2章 移動と輸送の技術
    輸送機械/自転車/内燃機関/自動車のしくみ/電気自動車とハイブリッド車/レーダー/速度違反取り締まり装置/列車/帆船/内燃機船/潜水艦/ジェットエンジンとロケット/飛行機/ヘリコプター/ドローン/無人宇宙探査機
  • 第3章 材料と建設の技術
    金属/金属加工/コンクリート/プラスチック/複合材料/リサイクル/ナノテクノロジー/3Dプリンティング/アーチとドーム/掘削/油圧ショベル/橋/トンネル/高層ビル/エレベーター/クレーン
  • 第4章 家庭の技術
    住宅の設備/暖房/電子レンジ/電気ケトルとトースター/食器洗い機/冷蔵と冷房/真空掃除機/トイレ/錠前/防犯装置/布/衣類/洗濯・乾燥機/スマートホーム
  • 第5章 音と光の技術
    さまざまな波動/マイクロフォンとスピーカ/デジタル音響/望遠鏡と双眼鏡/電灯/レーザー/ホログラム/プロジェクター/デジタルカメラ/プリンターとスキャナー
  • 第6章 コンピューターの技術
    デジタルの世界/デジタル回路/コンピューター/コンピューターのしくみ/キーボードとマウス/ソフトウェア/人工知能/ロボットのしくみ/ロボットのできること/バーチャルリアリティ
  • 第7章 通信と伝達の技術
    電波信号/ラジオ/電話/遠隔通信網/テレビ放送/テレビ/人工衛星/衛星測位システム/インターネット/ワールドワイドウェブ/電子メール/Wi-Fi/モバイル機器/スマートフォン/電子ペーパー
  • 第8章 農業・牧畜と食品の技術
    種まきと灌漑/酪農/ハーベスタ/土を使わない農業/精密農業/収穫から出荷まで/食品の保存/遺伝子組み換え
  • 第9章 医療の技術
    ペースメーカー/X線撮影/MRI/内視鏡手術/義肢/肺インプラント/遺伝子検査/生殖補助医療
  • 索引/謝辞

【感想は?】

 前にも書いたように、かなり駆け足の説明が続く。

 どの項目も、与えられた紙数は見開きの2頁だけ。そこにタップリとフルカラーのイラストを載せて、話を終わらせなきゃいけない。だもんで、どうしても駆け足になる。そこは覚悟しよう。

 とまれ、扱う範囲は社会インフラから微細技術そして生命科学と幅広い。これらすべてに通じている人は、滅多にいないだろう。自分が得意な分野では「全く説明が足りない」と不満を抱く人も、他の分野では「そうだったのか!」と発見があったりする。

 私は、いきなり上下水道でやられた。上水道の水は塩素で消毒している。あくまでも菌を殺しているのであって、消してはいない。だから、水道水には菌の死骸が残っている。完全なH2Oじゃない。考えてみりゃ当たり前なんだが、この本を読んで初めて気が付いた。

 やはり「言われてみれば」なのが、この一節。

多くの輸送機関は、気体は暖めると膨らむという単純な原理を利用している。
  ――輸送機械

 「空気と人間」にある「気体は、お互いに信じられないほど似通っている」とは、この事か。気球もジェット・エンジンも自動車の4サイクルエンジンも、みんな熱い空気が膨らむ際の力を使って動いている。

 多少違うが、銃や砲も、火薬が気体になって膨らむ力で弾丸を撃ちだしてるんだよね。いや、「だから何なの?」と言われたら、答えられないけど。

 思い込みを覆されるのも、本を読む楽しみの一つ。ホラーやサスペンス映画では、エレベータが落ちる場面があるけど、実際は…

エレベーターは最も安全な移動手段であり、階段の50倍の安全性がある。
  ――エレベーター

 と、階段より遥かに安全なのだった。意外と危険は身近な所にあるんです。ところでエレベーター、あれ人が乗る駕籠の反対側に、釣合錘があるのね。人がたくさん乗ると、それだけ多くのエネルギーを使うのかと思ったが、そうでもないのだ。

 そんな乗り物の中でも、子どもに人気が出そうなのが、油圧ショベル(俗称ユンボ)とクレーン。こういう力強さと器用さを兼ね備えたマシンは、男の子も元男の子も大喜びだ。いずれも油圧やてこの原理や滑車を巧みに組み合わせて、大きな力と複雑な動きを実現している。こうう、知恵とパワーを肌で感じさせてくれるメカって、いいよね。巨大ロボットみたいで。

 もちろん、ロボット・ファンばかりでなく、ミステリ・ファンが喜ぶネタだってある。

多くのプリンターはマシン識別コードと呼ばれる微小な点をすべてのページに印刷している。
  ――プリンターとスキャナー

 Wired にニュースが乗ってた。技術的には電子透かし(→Wikipedia)らしい。いや詳しい事は知らんけど。そこらのプリンターで脅迫状を印刷したら、アシがつくワケです。

 また、技術の進歩というか肥大を感じさせるものも。月へ行ったアポロ11号のコンピューターは任天堂のファミリーコンピューターより貧弱って話はよく出る。そして当然、ハードウェアだけでなくソフトウェアも…

NASAのスペースシャトルのコンピューターで使われたコードは現代の携帯電話より少なかった
  ――ソフトウェア

 と、現代のソフトウェアは巨大化・肥大化の一途を辿っているのですね。日本語フォントだけでも馬鹿にならん容量になるしなあ。それだけ、メモリも増えてるんだけど。今や手のひらどころか指先にギガ単位のメモリが乗る時代だし。そのうちテラ単位のメモリを載せた iPhone が出るんだろうなあ。

 後半になると、いかにも21世紀といった時代を感じるネタが増えてくる。こういう新しいネタは、わかってるつもりになってるけど、実はよくわかってなかった、みたいのもあって。例えばGPSは複数の人工衛星との通信の時間差で位置を計算してるってのは有名だが、幾つかの方法で計算を補正してる。その一つは…

大気効果:GPS衛星との通信に使用される電波は、負に帯電した電子が多い電離層と水蒸気を含む対流圏を通過する。これらの環境では電波の錯乱が生じ遅延が生じるが、この遅延は数学的に計算できる。
  ――衛星測位システム

 とすると、磁気嵐とかで計算が狂う可能性もあるのか? なんかサスペンスSFで使えそうな気が。

 などと、この辺は「なるほど」と納得できるんだが、「なぜにそうなる」なネタも。

ヤギのDNAにクモから発見された絹のタンパク質を挿入し、絹を含んだ乳を出すヤギも作り出されている
  ――遺伝子組み換え

 いやクモの糸から絹を作ろうってのは、発想としてわかる。わからんのは、なぜそこにヤギの乳が出てくるのか、だ。ちょっと調べたところ、Wired に記事があった。曰く「クモの糸分泌線と山羊の乳腺が解剖学的に似ている」とか。そうなのか。

 そして最後に、われわれブロガーが Google 様に頭が上がらない理由が、コレだ。

75%の人々は検索結果の最初のページより先を見ない
  ――ワールドワイドウェブ

 はい、Google 様のご機嫌はメッチャ気になります。

 などと文章ばかりを紹介したが、この本の最大の魅力は、フルカラーのイラストだろう。だって図鑑だし。私が最も気に入ったのは、ハーベスタ。やっぱりデカくて器用で力強く自分で動くメカには惹かれるのだ。

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2021年5月19日 (水)

ヴィンス・バイザー「砂と人類 いかにして砂が文明を変容させたか」草思社 藤崎百合訳

砂は、現代の都市を形づくる主原料なのだ。
  ――第1章 世界でもっとも重要な固体

現代の高速道路の功績のうち、十分に評価されていないことの1つが、道路での死亡者数の大幅な現象である。(略)州間高速道路は(略)死亡事故の発生は1億キロあたり0.5件と、全国平均の約半分である。
  ――第3章 善意で舗装された道はどこに続くのか

【どんな本?】

 都市は砂でできている。と言っても、多くの人が「は?」と思うだろう。だが、それは事実だ。

 都市の道路も建物も、コンクリートが欠かせない。アスファルトで舗装された道路も、木造家屋も、基礎はコンクリートだ。そして、コンクリートとは、セメントに砂と砂利を混ぜたものだ。

 その砂が、尽きかけている。

 「砂なんか砂漠にいくらでもある」と言うかもしれない。だが、砂漠の砂は使えないのだ。砂にもいろいろあって、コンクリートに向く砂と向かない砂がある。そして砂漠の砂はコンクリートに向かないのだ。

 砂はどう使われているのか。どんな種類の砂があり、それぞれどんな用途に向くのか。どこで採掘され、どこで使われるのか。砂の差靴は、どんな問題を引き起こしているのか。そして、資源としての砂は、今後どうなるのか。

 身近でありながら、日頃はほとんど意識しない砂について、特に人との関わりを中心にまとめた、衝撃のレポート。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The World in a Grain : The Story of Sand and How it Transformed Civilization, by Vince Beiser, 2018。日本語版は2020年3月4日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約352頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント42字×17行×352頁=約251,328字、400字詰め原稿用紙で約629枚。文庫ならちょう厚めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。世界各地を巡って取材しているので、世界地図か Google Map があると、更に楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 第1章 世界でもっとも重要な固体
    現代都市を形づくる主原料/私たちの生活を支える砂/砂は尽きかけている/砂とはどういう物質なのか?/砂の種類と用途/砂の採掘/砂の採掘によって失われる砂浜/砂の採掘な内陸地に及ぼす影響/砂の違法採取/インドの砂マフィア/砂の採掘と闘う人々
  • 第1部 砂はいかにして20世紀の工業化した世界をつくったのか
  • 第2章 都市の骨格
    サンフランシスコ大地震を生き延びた“砂の建物”/古代のコンクリート/イギリスで復活したコンクリート/建築素材としてのブレークスルー/コンクリートの伝道者/ついに主流となったコンクリート/奇跡の素材、コンクリート/砂のもたらす財産と壮大なプロジェクト
  • 第3章 善意で舗装された道はどこに続くのか
    アメリカ州間高速道路網の計画/互いに成長を促し合う自動車とアスファルト舗装/アメリカ最初期の道路開発者/リンカーン・ハイウェイ計画/砂と砂利から始まったカイザー帝国/アイゼンハワー大統領のプロジェクト/州間高速道路のもたらした変化/郊外の拡大と土地の無個性化/砂の需要を増加させ続ける生活様式の拡大
  • 第4章 なんでも見えるようにしてくれるもの
    驚くべき物質、ガラス/ケイ砂からガラスへ/無色透明なガラスが誕生するまで/レンズの誕生が科学革命を起こす/アメリカでのガラス製造/最初の製瓶機ができるまで/製瓶機の大ヒットが広範囲にもたらした影響/ガラスのさらなる進化/日常をさりげなく支えるガラス
  • 第2部 砂はいかにして21世紀のグローバル化したデジタルの世界をつくったのか
  • 第5章 高度技術と高純度
    デジタル時代を支える砂/スプールスパインの石英/コンピューターチップ産業の誕生/スプールスパイン産の石英とシリコンチップ/秘密主義に包まれた高純度石英の清算
  • 第6章 フラッキングを推し進めるもの
    原油と天然ガスの採掘に使われる砂/砂の需要の急増がもたらしたもの/砂採掘場と処理の過程/砂の採掘が地域にもたらす影響/地域により異なる規制の姿勢/単純な対立図式に当てはまらない砂の採掘問題
  • こぼれ話 驚くべき砂の応用例の一覧(ごく一部)
  • 第7章 消えるマイアミビーチ
    砂浜は世界中で消えつつある/砂泥棒と採掘の制限/砂浜を作るというビジネス/砂浜の文化史/フロリダがビーチと休暇の土地となるまで/防波堤としての砂浜/砂墓を保護するには/養浜が及ぼす環境への影響/それでも人口は沿岸部へと流入している
  • こぼれ話 7,500,000,000,000,000,000
  • 第8章 人がつくりし土地
    ドバイに出現する“ヨーロッパの国々”/史上最大規模の人工島/砂を活用する埋め立てプロジェクト/ドバイの繁栄と砂/伸びるドバイの海岸線/奇抜な人工島プロジェクト、ザ・ワールド/土地造成と生態系の破壊/砂をめぐって高まる国際的緊張
  • こぼれ話 戦う砂愛好家
  • 第9章 砂漠との闘い
    砂が脅威になる時/砂漠化を食い止める防御壁/中国の緑化活動を支えるもの/植林プログラムは効果を上げているのか?
  • 第10章 コンクリートの世界征服
    上海の急成長を支える砂/世界を征服した建材としてのコンクリート/コンクリート支配の代償/コンクリートを劣化させる様々な原因/コンクリートの健康を支える人々/粗悪な状態にあるコンクリートの危険性
  • 第11章 砂を越えて
    砂の引き起こす問題/砂が減ることで起こる問題/バリ島とインドの違法な砂採掘/コンクリートの寿命を延ばす技術/砂のリサイクルと代替物/砂問題の根本的な解決法とは?/必ず訪れる砂不足に備えて/過剰消費社会の問題/砂よりも頑丈な土台を
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原註

【感想は?】

 似たテーマの本に、「砂 文明と自然」がある。「砂 文明と自然」は、砂そのものの性質を扱った本で、より自然科学の色が濃い。対して本書は、砂に関わる産業と社会や自然に与える影響を主に扱っている。

 どこにでも、いくらでもありそうな砂だが、実は様々な種類があって、それぞれ向き不向きがある。推理小説のファンなら、靴や服についた砂から探偵がアリバイを崩す話を幾つか知っているだろう。

 その中でもトップ・エリートなのが、CPUなどの集積回路に使うシリコン・ウェハーだ。これはシリコンの純度が重要で、特定の地域で採掘される。

 それに次ぐのがガラス用。これも集積回路ほどではないにせよ純度が大事で、やはり採掘できる地域は限られる。たかがガラスと馬鹿にしてはいけない。あなたの家にガラス窓がなければ、どれほど住みにくいことか。

砂の応用例のうち現代世界の形成に最も深い影響を及ぼしたものはと言えば、まずはコンクリートだが、次点は間違いなくガラスである。
  ――第4章 なんでも見えるようにしてくれるもの

 加えて、ガラスは科学の発展に大きな役割を果たした。そう、望遠鏡や顕微鏡だ。顕微鏡のお陰で、コレラやペストなどの感染症も抑え込めたのだ。だけではない。多くの人が、眼鏡のお陰で救われている。私もその一人だ。

「眼鏡の発明によって、専門的職業をもつ者の知的生活は15年以上も延びたのだ」。そして、眼鏡ができたからこそ、14世紀以降にヨーロッパでの知識の蓄積量が急増したのだと考えられている。
  ――第4章 なんでも見えるようにしてくれるもの

 確か絵画の遠近法も透明なガラスのお陰で発達したとか。

 だが、本書が最も大きく扱うのは、コンクリートである。コンクリートは、セメントに砂利や砂を混ぜて作る。

コンクリートこそが、砂をめぐる世界的危機の最大要因なのであり、このコンクリートをつくるために他のどんな目的よりもはるかに多くの砂が使われている。
  ――第2章 都市の骨格

 その砂は、どんな砂でもいいってワケじゃない。ガラスや半導体ほどじゃないが、相応に向き不向きがある。

「セメントの次に、砂は、コンクリートの強度を決める最も大切な要素なのだ」
  ――第2章 都市の骨格

 サハラやゴビに砂はいくらでもありそうなもんだが、残念ながら砂漠の砂は使えない。砂漠の砂は角が丸くなっている。砂同士が直接にぶつかり合うので、角がとれてしまう。こういうのはコンクリートに向かない。対して水中の砂は、水がクッションになるので、強くぶつからず、角が尖っている。こういうのがコンクリートに向く。

 だもんで、川や湖、そして海から砂を採っている。ところが…

世界中で、砂浜はなくなりつつある。
  ――第7章 消えるマイアミビーチ

 川や海流で運ばれた砂で砂浜ができる。その砂を採掘してる上に、マイアミなどの観光地は、近くの海岸を突堤や港にしたため、海流が変わって砂が流れてこなくなった。砂は流れ出す一方なのだ。だもんで、砂を継ぎ足して砂浜を保っているのだが…

養浜では、砂浜の浸食を食い止めることはできない。
(略)砂を増量してから次の処置まで5年ももつような砂浜はまずない。
(略)しかも、この費用は必ず上がり続ける。
  ――第7章 消えるマイアミビーチ

 なぜ費用が上がり続けるのか。最初は近場から砂を調達する。でも、やがて採りつくす。そこで少し遠くの砂を採ってくる。これの繰り返しだ。

砂はとにかく重いので、輸送費用がかさむのだ。輸送距離が長くなるほど、砂の価格は跳ね上がる。アメリカにおける建設用の砂の価格は、インフレを考慮しても1978年の5倍以上となっている
  ――第11章 砂を越えて

 小さな島国のシンガポールも、積極的に埋め立てで国土を拡張しているが、当然ながら国内じゃ需要を賄いきれない。そこでマレーシアやインドネシアから砂を輸入しているのだが…。

 そんな埋め立てで派手なのが、ドバイだろう。ヤシの木みたいな形の人工島パーム・ジュメイラ(→Wikipedia)が有名だ。あの形にしたのにもちゃんと目的があって、ビーチを長くするためだとか。そのドバイ、てっきり石油で儲けた金を元手にしたのかと思ったら…

現在、アブダビで産出される石油の量は1日あたり約250万バレルだが、ドバイでは6万バレルがやっとである。実際のところ、ドバイ首長国は石油とガスの輸入国なのだ。
  ――第8章 人がつくりし土地

 じゃ、どうしたのか、というと、税制と金融政策で投資をかき集めたのだ。特に911以後に金が集まったってのが意外。アメリカに締め出しを食らったアラブの資産がドバイに移ってきたそうな。なんというか、狡猾だなあ。この辺は、読んでいて「世の中、金はある所にはあるんだなあ」とシミジミ。

 金はともかく、問題は島の素材。もともとルブアルハリ砂漠なんだから、砂は幾らでもありそうなモンだが、先に書いたように砂漠の砂はコンクリートに向かない。逆のペルシャ湾から持ってきてる。もちろん、海の環境は激変してしまう。

 そんな風に私たちは砂を食いつぶして都市を作ってるんだが…

「現在あるコンクリート構造物で2世紀以上はもちこたえられるものはほぼ存在せず、多くは50年もすれば崩れ始める」
  ――第10章 コンクリートの世界征服

 意外とコンクリートは長持ちしないのだ。染み込んだ水が凍って体積が増えればヒビが入る。芯の鉄筋が錆びれば、やっぱり体積が増えてヒビが入る。特に海から取った砂をちゃんと洗ってないと、塩分が鉄骨を錆びさせる。コンクリートはアルカリ性で、だから鉄骨の錆を防ぐ効果があるんだが、酸性雨は中和してしまう。

 安くて強くて加工が簡単と、とっても便利で、だからこそ引っ張りだこのコンクリートなんだが、現代のように急ピッチで都市化が進み始めると、アチコチで歪みがでてきてしまう。それは砂の奪い合いだけでなく…

セメント産業は、世界でもトップレベルの温室効果ガス排出源である。石灰石をセメントに加工する際に二酸化炭素が発生するのだ。それに加えて、ほとんどのセメント焼成炉では化石燃料が燃やされるため、さらに多くの二酸化炭素が排出される。(略)全世界で排出される二酸化炭素の5%から10%は、セメントの製造過程でつくられたものだ。
  ――第10章 コンクリートの世界征服

 と、エネルギーも馬鹿食いする。そうやって作ったコンクリートの道路を車が走って更に二酸化炭素を出し…と、困った循環ができちゃってる。

 じゃ、どうすりゃいいのか、というと、残念ながら本書に明確な解は出ていない。特に終盤で紹介される中国の経済成長は速度も規模も桁違いで、ちょっと怖くなる。かといって、かつての貧しい暮らしに戻れ、とも言えないし。

 身近で、どこにでもありそうで、だからこそ見過ごされがちな砂。その資源としての性質を追っていくことで、予想もしなかった世界が見えてくる。そういう点では、この手のノンフィクションにはアリガチな本だが、読みやすさ・親しみやすさは抜群だ。いまさら気が付いたんだが、草思社のノンフィクションって、分かりやすくて面白い本が多いんだよなあ。

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2021年4月 1日 (木)

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ「排泄物と文明 フンコロガシから有機農業、香水の発明、パンデミックまで」築地書館 片岡夏実訳

世界保健機構とユニセフ(国連児童基金)の報告によれば、毎年150万人の五歳未満の子供が下痢で死んでいる。これはマラリア、麻疹、エイズの合計よりも多い。下痢は必ずといっていいほど、食品や水が糞便で汚染されることで起きる。
  ――第5章 病へ至る道 糞口経路

【どんな本?】

 私たちはみんなウンコを出す。そして下水道の整備は都市計画の重要な問題だ。にもかかわらず、ウンコについて大っぴらに語られることは少ないし、ウンコの話は往々にして下品でくだらないこととされる。これは現代日本だけに限らず、多くの文化で共通している。

どの文化でも、古代ローマ(そこでは市の主下水道、クロアカ・マキシマを戦争捕虜が掃除していた)から18世紀のイングランド(汚水溜めの清掃人は夜働くことを命じられた)まで、みんなのために糞を扱う人は、もおっとも尊敬されない労働者のカテゴリーに入れられている。
  ――第6章 ヘラクレスとトイレあれこれ

 だが、科学的にも社会的にも、ウンコは充分に研究に値する。健康診断では検便があるし、生態系の維持には動物の糞便が欠かせない。糞便の不適切な処理は伝染病を蔓延させるが、鳥の糞の奪い合いは時として戦争にまで発展する(→Wikipedia)。

 やっかいではあるが、否応なしについてまわり、時として役に立つウンコについて、「国境なき獣医師団」創設者でもある疫学者が、幅広い視点でユーモラスに語る、一般向けの科学・社会解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Origin of Feses : What Excrement Tells Us About Evolution, Ecology, and a Sustainable Society, by David Waltner-Toews, 2013。日本語版は2014年5月20日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約211頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント46字×17行×211頁=約165,002字、400字詰め原稿用紙で約413枚。文庫ならやや薄めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。ただし、当たり前だがウンコの話てんこもりなので、潔癖症や想像力豊かな人には向かない。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 序章 フンコロガシと機上の美女
  • 第1章 舌から落ちるもの
  • 第2章 糞の成分表
  • 第3章 糞の起源
  • 第4章 動物にとって排泄物とは何か
  • 第5章 病へ至る道 糞口経路
  • 第6章 ヘラクレスとトイレあれこれ
  • 第7章 もう一つの暗黒物質
  • 第8章 排泄物のやっかいな複雑性とは何か
  • 第9章 糞を知る その先にあるもの
  •  参考文献/訳者あとがき

【感想は?】

 くり返すが、想像力が豊かな人には向かない。また食事中に読むのも薦めない。わざわざ、そんな事をする人は滅多にいないだろうけど。ご想像の通り、本書は「ウンコ」の連呼だ。訳者あとがきに曰く「訳者がこんなに『ウンコ』を連発したのは小学生のとき以来かもしれない」。

 「解剖男」もそうなんだが、一見キワモノに思われるシロモノを研究してる学者は、敢えてそれを芸にしたがる傾向がある気がする。本書も、著者が夫婦でタンザニアに旅行した際、ガイドを独占して動物の糞を探し、同行者や奥さんに呆れられる場面で本書は始まる。そうか、野生の肉食獣の糞は白いのか。一つ勉強になった。

 もちろん、ふざけているワケじゃない。ただ、著者は仕事柄、ユーモアの大切さが身に染みてるんだろう。なにせ…

ウンコは社会学者と科学者がやっかいな問題と呼ぶものである。
  ――第1章 舌から落ちるもの

 ここで社会学者と科学者の二者が出てくる点に注意しよう。今、まさに問題となっている新型コロナが示すように、疫学とは、科学と社会の双方が密接に絡み合う学問なのだ。それだけに、著者の視野は広い。ミクロな視点では…

成人の便1mm3には、10の11乗(略)前後のバクテリアがいる。(略)このようなバクテリアは500から1000ほどの異なる種からなり、大部分はあまりよくわかっていないものだ。
  ――第2章 糞の成分表

 と、ウンコの中身を分析する。にしても、「大部分はあまりよくわかっていない」とは。もちろん、対象はヒトばかりじゃない。

いくつかの種では、糞食は健康を増殖し病気を防ぐ意味を持つ。ウサギはタンパク質と水溶性ビタミンを摂取する。ハツカネズミはビタミンB12と葉酸を糞を食べて摂取していると言われる。実験用ラットに糞を食べさせないようにすると、うまく成長せず、ビタミンB12とビタミンKの欠乏症を起こす。
  ――第4章 動物にとって排泄物とは何か

 そして、ヒトと動物との関わりにも目を配る。それも世界的な視野で。

牛糞は木とほぼ同じ発熱量を持つ(ただしどちらも灯油が生成する熱の半分に満たない)。リャマの糞もウシのものとほぼ同じ熱量を持つ。全世界で一年間に燃料として利用される牛糞の40から50%はインドで燃やされている。
  ――第9章 糞を知る その先にあるもの

 更に、時間的にも遠くを見通そうとする。

新石器時代の定住地では、排泄物を定住地の中と周囲に、恐らく堆肥として置いていた痕跡がある。
  ――第6章 ヘラクレスとトイレあれこれ

 そうか、ヒトは大昔から排泄物が植物の成長を促すと知っていたのか。まあいい。こんな風に、ウンコについて遠大な時空を見渡すと、どこかの禅僧みたいな悟りの境地にまで至る。

すべてを包みこむ生命系(=生態系)を思い描けるなら、このように想像できるだろう。ウンコは存在しない。
  ――第3章 糞の起源

 まあ、要は、動物の排泄物もバクテリアが分解して植物の養分になる、みたいな話なんだけどね。自然界じゃ、そんな風にすべてがリサイクルされているのだ。もっとも、その循環に、困った奴も乗り合わせてくるんだけど。

寄生虫のライフサイクルは排泄物のライフサイクルなのだ。
  ――第7章 もう一つの暗黒物質

 だた、現在のグローバル社会は、このサイクルが大きく変わりつつある。この変化を描く第7章以降は、なかなかの迫力だ。例えば、動物の肉は多くのリンを含む。そしてアメリカやアルゼンチンは、牛肉を大量に輸出している。肉の元を辿れば、飼料のトウモロコシに行きつく。土中のリンがトウモロコシに移り、それが牛に行き、太平洋を渡って私たち日本人が食べ、ウンコとして出す。

 私たちは意識しないうちに、太平洋の向こうからリンを輸入していたのだ。なんか得した気分だが、それもウンコを再利用すれば、の話だ。特にアメリカ産の牛は難しい。アメリカでは大企業が多くの牛や豚や鶏を狭い所に閉じ込め、大量生産方式で育てている。伝染病の蔓延を防ぐため、多くの抗生物質を与える。これがウンコにも混ざり、抗生物質に耐性を持つ菌が繁殖してしまう。

 本来、牛糞は処理次第で優れた肥料になるし、先に挙げたように燃料にもなる。そういえば「大地」でも、牛糞を拾う場面で、ヒロインの阿蘭の勤勉さを描いてたなあ。ってのは置いて。

 アメリカの牛は抗生物質漬けで育ってるから、その糞にも抗生物質や耐性菌が入っていて、再利用が難しいのだ。まあ、それもやりようなんだけど。

炭素、窒素、酸素(適切なバクテリアの繁殖を促す)がちょうどよく混ざり、うまく作られた堆肥の山では、温度が54~66℃に達することを研究者は示している。これは鳥インフルエンザウイルスを十分殺せる温度だ。
  ――第9章 糞を知る その先にあるもの

 そんな風に、著者は幅広い視野と深い知識を持ちつつも、肝心の解決策については、万能の策はない、と慎重だ。その場に応じ、関係する様々な人々の話を聞いた上で、慎重に考えましょう、と。

我々の技術がどんなに優れていようと、それが効果を発揮し役に立つのは、適切な社会-生態学的背景に合わせて設計され、その中で使われるときだけだ。
  ――第9章 糞を知る その先にあるもの

 こういったあたりは、「世界文明における技術の千年史」とも通じる考え方だなあ。他にも…

現実世界の理解に近づくための唯一の方法は、できるだけ多くの視点を集め、全体像を作ろうと努力することだ。
  ――第8章 排泄物のやっかいな複雑性とは何か

 なんてところは、計算屋には身につまされる話だよね。組織の上長と、実際に操作する人とじゃ、話がまったく違うとか、よくあるケースだし。

 科学と社会学が交わる疫学者として、世界中を飛び回った著者だけに、話題は幅広く、視点もバクテリアから国際貿易に至るまで、バラエティ豊かだ。もっとも、すべてウンコにまつわる話なんだけど。また、現場をよく知っている人らしく、特に終盤では現実社会の面倒くささも滲み出ている。イロモノ的な題材ではあるが、エンジニアを含め問題解決に携わるすべての人にお薦め。

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2021年3月29日 (月)

サム・キーン「空気と人間 いかに<気体>を発見し、手なずけてきたか」白揚社 寒川均訳

私が望んでいるのは、本書によってあなたが抱いていた気体のイメージが修正されることだ。
  ――はじめに 最後の息

隣人と出会うとき、気体分子は互いに衝突し、四方八方に跳ね返る。(略)その速度は、たとえば摂氏22度の空気の分子であれば、平均して時速1600キロにもなる。
  ――第1章 初期地球の大気

それ(約6億年前)以降の数億年の酸素濃度は、15%まで下がったと思ったら35%まで上昇といったように、酔っ払いの千鳥足のようにふらふらと推移した。
  ――第3章 酸素の呪いと祝福

平均的な大人であれば、常に20トンの力が体の内側に向かってかかっている。
  ――第5章 飼いならされた混沌

水の温度を一度上げるのと、100度の水を蒸気に変えるのでは、必要とする熱量に5倍もの差があるのだ。
  ――第5章 飼いならされた混沌

固体や液体の場合、ものが違えば共通点はほぼない(略)。だが気体は、お互いに信じられないほど似通っている。化学的にそうであるとは言えないとしても、少なくとも物理的には、すべての気体は同じようにふるまうのだ。
  ――第6章 空に向かって

近年、ハリケーンで死亡する確率が1900年の1%にまで減ったのは、気象学者のおかげである
  ――第8章 気象戦争

温室効果ガスがなければ、地球の平均気温はマイナス18度、氷点を下回る。
  ――第9章 異星の空気をまとう

【どんな本?】

 空気。約78%の窒素、約21%の酸素、約1%のアルゴン、そして二酸化硫黄・硫化水素・二酸化炭素・アンモニア・メタン・エタノールなどの微量成分を含む。

 日頃から特に意識もせずに吸い込み吐き出している空気は、いつ・どのように出来上がったのか。空気が含む様々な成分は、それぞれどこから生まれ、どんな性質を持ち、どんな働きを担っているのか。いつ・だれが・どうやって、空気の成分を見極めたのか。

 原始地球の大気から化学肥料と毒ガスの発明、人体発火現象からロズウェルのUFO、おなら芸人から最新天文学による異星探索まで、気体にまつわる科学と歴史の面白エピソードを集めた、一般向けの楽しい科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Caesar's Last Breath : Decoding the Secrets of the Air Around Us, by Sam Kean, 2017。日本語版は2020年12月21日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本約446頁。9.5ポイント44字×18行×446頁=約353,232字、400字詰め原稿用紙で約884枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。科学系の本の中でも、かなり親しみやすい部類だ。内容も易しい。出てくる数式も一つだけだし、単純な比例式だ。化学式はたくさん出てくるが、単純なものが大半な上に、わからなければ読み飛ばしても差し支えない。中学生でも理科にアレルギーがなければ楽しんで読めるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しいているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに 最後の息
  • Ⅰ 空気を作る 最初の四つの大気
  • 第1章 初期地球の大気
  •  幕間 爆発する湖
  • 第2章 大気のなかの悪魔
  •  幕間 危険な武器を溶接する
  • 第3章 酸素の呪いと祝福
  •  幕間 ディケンズより熱く
  • Ⅱ 空気を手なずける 人間と空気の関係
  • 第4章 喜びガスの不思議な効能
  •  幕間 フランスの「放屁狂」
  • 第5章 飼いならされた混沌
  •  幕間 悲劇に備える
  • 第6章 空に向かって
  •  幕間 夜の光
  • Ⅲ 未知の領域 新しい至福の地
  • 第7章 放射性降下物の副産物
  •  幕間 アインシュタインと庶民の冷蔵庫
  • 第8章 気象戦争
  •  幕間 ロズウェルからの轟音
  • 第9章 異星の空気をまとう
  •  謝辞/注と雑録/参考文献

【感想は?】

 いくつもの科学系の本から、美味しい所を拾い集めたような本だ。

 例えば「第2章 大気のなかの悪魔」。ここで主役を務めるのはフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュ。そう、化学肥料のハーバー・ボッシュ法を切り拓いた二人だ。彼らは何を成し遂げたのか。

今日でさえ、ハーバー・ボッシュ法に関連して消費されるエネルギーは、世界全体のエネルギー供給の1%を占める。また人類は毎年1憶7500万トンのアンモニア肥料を生産しているが、その肥料で世界の食糧生産の半分をまかなっている。
  ――第2章 大気のなかの悪魔

 現在の人類の半分は、彼らが支えているようなものだ。だが、両名とも無条件に称えられることはない。フリッツ・ハーバーは毒ガスを生み出して第一次世界大戦の戦場を地獄に変え、カール・ボッシュは合成ガソリンを生産してナチス・ドイツの戦線を支えた。それでもハーバーは、職場のユダヤ人を追い出すようナチスから圧力をかけられた際に…

フリッツ・ハーバー「40年余、私は自分の共同研究者を彼らの知性や性格に基づいて選んできました。彼らの祖母が誰だったかで選んだことは断じてありません」
  ――第2章 大気のなかの悪魔

 と断り辞任しているんだが、今でも両名の評価は功罪相半ばといったところだろう。両名のドラマは「大気を変える錬金術」が詳しい。傑作です。なお、ここでは、同じ研究者でも大学のハーバーと企業のボッシュ、その両者の対比も読みどころ。新聞に出る科学・技術ニュースの読み方も少し変わるかも。

 この章で両者を取り持つのが、窒素だ。大気の78%を占め、不活性に思える窒素だが、実はかなりヤバいシロモノでもある。そのヤバさを象徴するのがダイナマイトであり、ダイナマイト誕生の悲話を描くのが「第5章 飼いならされた混沌」。

 この章では「馬力」誕生の意外な真相も楽しいが、私が最も面白かったのは、火薬と爆薬の違い。爆薬の方が圧倒的に反応が速い(約千倍)のは「火薬のはなし」で知っていたが、同時に体積の膨張率も一桁高いのだ。また、現代の兵器に欠かせない雷管の誕生の物語にも驚いた。兵器マニアよ、アルフレッド・ノーベルを崇るべし。

 爆薬より更に物騒なのが、核兵器。原爆の開発プロジェクトであるマンハッタン計画は有名だが、アメリカはその後も熱心に核兵器の開発を続けた。その熱意を示すのが、1946年7月の核実験クロスロード作戦(→Wikipedia)だろう。

それには4万2千人の人員と、データ収集のために2万5千個の放射線検出器および45万7200メートルの長さのビデオテープ(当時における世界の供給量の約半分)が必要だった。
  ――第7章 放射性降下物の副産物

 ビデオテープの消費量の凄まじさが、当時のアメリカの熱意と同時に、科学力・産業力の底力を感じさせる。この物騒なエピソードで始まる「第7章 放射性降下物の副産物」は、核に対する世間の認識が、1940年代から現代まで、どう変わってきたかを物語ってゆく。1940年代だと、核はむしろ歓迎されていたのだ。

 その認識が変わったのは、放射性降下物の恐ろしさが伝わってから。切ないことに、広島と長崎の被害状況からでは、ない。キッカケはフィルム・メーカーのイーストマン・コダック社。インディアナ州産のトウモロコシの皮から作った包装材に、放射性物質がついており、これによりフィルムが台無しになってしまった。この放射性物質は、核実験の産物だ。

人々を核兵器信奉から脱却させたのは、ほかのどんな危険よりも、放射性降下物だったと言ってよい。
  ――第7章 放射性降下物の副産物

 これが切ないのは、世論を変えた原因が、他人である広島・長崎の原爆被害ではなく、「俺にも害があるかもしれない」放射性降下物だって点だ。「他人の痛みなら幾らでも我慢できる」なんて言葉がフト思い浮かんでしまう。

 そんな物騒なネタに対し、妙にユーモラスなのが、麻酔を扱った「第4章 喜びガスの不思議な効能」。ここでは、19世紀末に笑気ガス(N2O)を求めるボヘミアンがブリストルに集う様子が、ヒッピーの根城だった1960年代のサンフランシスコに似ていて、少し笑ってしまう。いつだってドラッグを求める輩はいるんだなあ。

 その元凶となったハンフリー・デービー(→WIkipedia)、間抜けにも笑気ガスの「痛みを感じさせない」効果を見逃し、麻酔の発明者の名誉を逃してしまう。

 その名誉をかっさらったのが、エーテル(C2H5-O-C2H5)をひっさげたウィリアム・モートン。その麻酔効果で特許を申請するも…

歴史を見渡しても、これ(ウィリアム・モートンによるエーテル麻酔)ほど広く侵害されさらにそれが問題視されなかった特許はない。
  ――第4章 喜びガスの不思議な効能

 と、酷い扱いを受ける。あまりの有用さに拒まれたってワケじゃない。彼自身の胡散臭さが原因だ。Wikipediaには「歯科医」とあるが、本書じゃ「ペテン師」と散々な評価。その実体は、まあ実際に読んだうえで判断してください。

 終盤の「第8章 気象戦争」では、SFファンお馴染みカート・ヴォネガットの兄ちゃんバーナード・ヴォネガットもチョいと顔を出し、アーヴィング・ラングミュアとヴィンセント・シェーファーによる降雨実験の顛末を描く。これも「気象を操作したいと願った人間の歴史」に詳しい。更にSFファンなら見逃せないのが、アイス・ナインの話。

 ラングミュアはアイデアをH.G.ウェルズに売り込むがアッサリと捨てられ、同じアイデアをカート・ヴォネガットが拾って結実したのが「猫のゆりかご」。マジかい。ちなみにヴォネガットのファンには猫派と妖女派がいるそうだけど、私は猫派です。

 そんなSFファンが思いっきり楽しめるのが、最後の「第9章 異星の空気をまとう」。今世紀に入ってから太陽系外の惑星を見つけた、しかも大気の組成までわかった、なんてニュースが次々と飛び込んでくるけど、どうやってソレを調べたのかって話がやたら楽しい。テラフォーミングのネタも飛びだして、SFファンとしては思わずアンコールを叫びたくなるところ。

 気体に焦点を絞りつつ、おなら芸人や人体発火現象やロズウェル事件など一見キワモノなネタで野次馬根性を満足させ、また要所では理想気体の状態方程式(→Wikipedia)などカッチリした科学の所見を示す、親しみやすくてわかりやすい理想的な一般向け科学解説書だ。

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