カテゴリー「書評:科学/技術」の270件の記事

2019年9月15日 (日)

ジョージ・ジョンソン「もうひとつの世界でもっとも美しい10の科学実験」日経BP社 吉田三知世訳

…重要なのは、その実験の計画と実施が美しいこと、思考の流れが、無駄のない美しいものであることだ。
  ――まえがき

色とは屈折率にほかならないのだ。
  ――第3章 アイザック・ニュ-トン 色とは何か

電池はある形のエネルギー――化学的エネルギー――を別の形のエネルギー――電気的エネルギー――に変換する「るつぼ」だったのだ。
  ――第6章 マイケル・ファラデー 奥深く隠されしもの

ウィリアム・トムソン「ジュールが多くの点で間違っていることは確かだと思いますが、彼はどうやら極めて重要な事実を発見したようです」
  ――第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか

【どんな本?】

  2002年、≪フィジックス・ワールド≫誌は「一番美しいと思う物理学の実験」のアンケートを取る。その結果は書籍「世界でもっとも美しい10の科学実験」としてまとまった。ただ、≪フィジックス・ワールド≫誌は物理学雑誌のため、選ばれた実験は物理学だけだ。

 これを科学全体に広げたら、どうなるだろう? そう考えた著者は、自分なりの基準で10の実験を選ぶ。先の著作と重なる実験もあれば、新しく登場した実験もある。

 これらの実験を通し、科学の楽しさ・美しさを伝えようとする、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ten Most Beautiful Experiments, by George Johnson, 2008。日本語版は2009年9月29日1版1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約210頁に加え、訳者あとがき7頁。9.5ポイント44字×17行×210頁=約157,080字、400字詰め原稿用紙で約393枚。文庫本ならやや薄め。

 文章はのなれていて親しみやすく読みやすい。内容も特に難しくない。中学卒業程度の理科の素養があれば、充分に読みこなせる。というか、初歩的な内容が多いので、むしろあまり科学に詳しくない人の方が楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章は独立しているので、気になった所から拾い読みしてもいい。

  • まえがき
  • 第1章 ガリレオ・ガリレイ 物体はほんとうはどのように動くのか
  • 第2章 ウィリアム・ハーヴィ 心臓の謎
  • 第3章 アイザック・ニュ-トン 色とは何か
  • 第4章 アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ 徴税請負人の娘婿
  • 第5章 ルイージ・ガルヴァーニ 動物電気
  • 第6章 マイケル・ファラデー 奥深く隠されしもの
  • 第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか
  • 第8章 A・A・マイケルソン 宇宙で迷う
  • 第9章 イワン・パブロフ 測定不可能なものを測定する
  • 第10章 ロバート・ミリカン ボーダーランドで
  • あとがき 11番目のもっとも美しい実験
  • 謝辞/訳者あとがき/図のクレジット/原注と参考文献/索引

【感想は?】

 けっこう本を読む方だし、そこそこ科学にも詳しいと自分じゃ思っていた。が、実はそうでもなかったようだ。

 特に強く感じたのが、「第9章 イワン・パブロフ 測定不可能なものを測定する」。かの有名な「パブロフの犬」のパブロフ先生だ。読む前は、こう思っていた。「あの条件反射ね。その何が凄いの?」

 まず、パブロフが調べたのは、「犬が唾液を出す」という現象だけじゃない。他にも様々な事を調べている。

 例えば唾液の成分だ。本書では二種類を紹介している。一つは美味しい食べ物に反応する唾液で、これはムチン(→Wikipedia)を含む。しかも、同時に胃や十二指腸は消化の準備を始めている。私たちの体は、ベルトコンベア式の優れた消化工場なのだ。

 もう一つは、嫌な味のもの、からし油や塩を与えた場合。この時の唾液は「ほとんど水」で、つまりは洗浄水だ。たかが唾液だけど、目的によって成分を調整しているのだ。体って凄い。

 俗説じゃパブロフはベルの音と餌を関連付けたことになっている。だが、実際は様々な刺激で反応を導きだした。閃光・物体の回転の方向・物体の形・メトロノームのテンポの違い・音の高さ…

 ここまで読んで、やっと私は気づいた。つまり、パブロフは、現在の動物実験の基礎を築いたのだ。マウスに迷路を走らせたり、餌の数を識別させたり、ミラーニューロンに気づいたり。こういった実験は、みなパブロフが見つけた条件反射が基礎にある。

 ちなみにパブロフ先生、実はかなり犬好きで、実験動物の犬も名前をつけて可愛がっていたとか。

 それとは違う意味で、科学者の本性を感じるのが、「第5章 ルイージ・ガルヴァーニ 動物電気」。ガルヴァーニはカエルの肢に電気を流して痙攣させ、アレッサンドロ・ボルタと対立しながら、電池の理論の基礎を固めてゆく。このどこに科学者の本性があるのか、というと。

 ガルヴァーニの没年は1798年。今ざっと Wikipedia で調べた限りじゃ、電気が役に立ちそうな気配が漂うのは1753年の静電気電信機で、実際に電信が使い物になるのは19世紀に入ってから。とすると、ガルヴァーニがカエルを相手に格闘していた頃は、電気が何の役に立つのか、ほとんど何もわかっていない。

 つまりガルヴァーニは、単に電気の正体が知りたかっただけなのだ。科学者ってのは、そういう生き物なのである。「知りたい」、ただそれだけのために、何年も頭を抱えて考え込み、しち面倒くさい実験を繰り返す、そういう生物らしい。だから「それが何の役に立つ?」なんて尋ねても無駄なのだ。わははw

 もっとも、先の Wikipedia の記事を見る限り、ファラデーが1831年に電磁誘導を理論化する前に、色々な形で電信を実用化する試みがなされている。案外と世の中は理論→応用ではなく、応用→理論の順で事が運ぶケースも多いみたいだ。

 それを実感するのが、「第7章 ジェームズ・ジュール 世界はどのように仕事をするのか」。ラヴォアジェの質量保存則と並ぶ科学の基本、エネルギー保存則を見つけた人である。もともと彼が考えていたのは、いわば電気力発電みたいなモノだった。

 モーターを作る際、電磁石の強さは電流の二乗に比例する事に彼は気づく。「なら電流を二倍流せばモーターは四倍強力になるよね、おお、無限エネルギーだヤッホー」。

 ところが、やってみるとうまくいかない。電流を増やしても、コイルが熱くなるだけ。その代わり、奇妙なことにジュールは気づく。電池を倍にすると、コイルの熱は四倍になる。「もしかして、電気のエネルギーは熱に変わったんじゃね?」熱力学の受胎である。

 これらの理論化は1840年代だ。だが、ジェームズ・ワットの蒸気機関改良はは1769年。こちらも、理論より先に応用そして産業利用が始まっている。案外と理論は応用の後を追うらしい。改めて考えると、弓矢もニュートンが運動エネルギーを考える遥か以前にできているし、弦楽器も音楽理論より前に出現してるんだよなあ。

 最後の「第10章 ロバート・ミリカン ボーダーランドで」は、電子の重さを測る実験だ。単に測るだけじゃなく、それがとびとびの値であることを確認している。今でこそ電子は常識だが、当時としては画期的な発見だったろう。

 …は、いいけど、改めて考えると、電子1個と陽子1個の電荷は、符号が逆で絶対値は同じって、なんか不思議だよなあ。いや量子力学をちゃんと学べばわかるんだろうけど。

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2019年8月19日 (月)

ロバート・A・アスキンズ「落葉樹林の進化史 恐竜時代から続く生態系の物語」築地書館 黒沢玲子訳

本書の最終目標は、生態系の普遍的なパターンや、保全問題に幅広く用いることができる解決策を探ることである。
  ――前書き

…この160万年の間に氷期と間氷期は四回ではなく、18~20回も交互に訪れていたことがわかった。
  ――第2章 白亜紀の森

更新世代以前の化石記録を分析した結果では、くり返し訪れた氷河期を生き延びた樹木の属は東アジアでは96%、北米東部では82%あるのに対して、ヨーロッパは29%に過ぎない。
  ――第2章 白亜紀の森

…人類は火を手にしたことで、熱帯アフリカのサバンナの外へ生活圏を拡大することができただけでなく、出ていった先でサバンナを作りだすこともできたのだ。
  ――第3章 人類出現後の落葉樹林

日本の伝統的な建造物にみられる瓦屋根や(檜皮や藁など)樹皮で葺いた屋根、イグサの畳、唐紙の襖といった繊細で優雅な構造は、こうした木材不足の時代に発達したのである。
  ――第3章 人類出現後の落葉樹林

日本の森林は第二次世界大戦中に乱伐されて深刻な被害を受けた。1941年から1945年の間に森林の15%が伐採されただけでなく、化学肥料が手に入らないので、その代わりに落ち葉や下層植生が利用されたため、残った森林の質も著しく低下した。
  ――第4章 自然林の減少と持続可能な森林の創出

動植物の種数は、農地開発や木材用に伐採されてから回復しつつある二次林よりも、原生林の方で生息数がはるかに多い。
  ――第5章 巨木と林内の空き地

日本の京都ではヤマザクラの開花時期について、驚くほど長期間にわたる記録が取られている。このサクラの開花は1000年以上続く恒例の桜祭りの開催を告げる合図になっている。(略)桜祭りの時期は朝廷の記録や日記類に記されているので、サクラの開花時期は9世紀以降の1200年間の60%の時期について推定できる。
  ――第8章 世界的気候変動の脅威

原生自然を重視するアメリカの自然保護運動はおおむねアメリカ独自の運動だった。(略)
ヨーロッパでは、銛でもほとんどが管理された人為的な環境である。(略)
…日本に大規模な自然林がほとんど残されていない最大の原因が国の政策であることは明らかだが、ミニチュアの自然を大事にする伝統も一因になっているのかもしれない。
  ――第10章 三大陸の保全戦略を融合する

【どんな本?】

 北米、ヨーロッパ、そして日本。それぞれ遠く離れた地域でありながら、遠くからみた森の風景は、なんとなく似ている。気候が似ているためだろう。いずれも温帯にあり、降水量も多い。

 と同時に、微妙な違いもある。

 何度も訪れた氷期・間氷期など気候の変化と、海や山脈などの地形。そこに住む動植物などの生態系。そしてヒトの暮らし方と森との付き合い方。

 これらの自然環境や歴史の違いは、現代に生きる人々の自然観や自然環境保護にも影響を与えている。

 それぞれの地域は、どんな歴史を辿って現代に至ったのか。気候の変化や地形、そして動植物などの生態系は、森をどう変えるのか。人の手が入らない原生林は、どのような姿なのか。そして人はどのように森と付き合い、森をどう変えてきたのか。

 鳥類額と生態学を専門とする著者が、北米・ヨーロッパ・日本の三者の自然環境および歴史を考慮しながら、森が現在の姿に至った経緯を語り、これからの森林保護のあり方を探る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Swing the World's Deciduous Forests : Ecological Perspectives from East Asia, North America, and Europe, by Robert A. Askins, 2014。日本語版は2016年11月20日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約300頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント49字×19行×300頁=約279,300字、400字詰め原稿用紙で約699枚。文庫本ならやや厚い一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくないが、樹や鳥の名前が次々と出てくるので、図巻かGoogleを見られると便利だろう。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 前書き
  • 第1章 よく似た風景 ニューイングランドと京都の春の森
    日本と北米の森林が似ているのはなぜか?/森林生態系の一般法則を求めて
  • 第2章 白亜紀の森 落葉樹林の起源
    北極地方の落葉樹林/落葉樹林の恐竜/白亜紀の森林生態系の終焉/新しい森の出現/気候変動と落葉樹林の衰退/落葉樹林の再編成/保全上の意義
  • 第3章 人類出現後の落葉樹林
    落葉樹林に生息する大型哺乳類の絶滅/火災と落葉樹林/農業の発達と森林の縮小/落葉樹林から農地へ/保全上の意義
  • 第4章 自然林の減少と持続可能な森林の創出
    森林保護の起源/ヨーロッパの持続可能な森林管理/日本の木材資源と水源の保護/北米の落葉樹林の衰退と回復/保全上の意義
  • 第5章 巨木と林内の空き地
    ポーランドに残る壮大な原生林/古い森に見られる若木/樹幹のギャップに特殊化した鳥類種/森林の壊滅的被害と新しい森の成長/火災とナラの木/原生林の生態的重要性/若い森の種と、体内の大きな空き地を必要とする種/保全上の意義
  • 第6章 孤立林と森林性鳥類の減少
    北米東部の鳥類が減少した原因/北米東部の鳥類にとって大森林が重要な理由/日本の森林性鳥類/森林の分断化に対する鳥類の一般的な反応パターン/森林の分断化とヨーロッパの森林性鳥類/ヨーロッパの鳥が森林の分断化に強い理由/世界のミソサザイ/ヨーロッパの森林性鳥類の減少/保全上の意義
  • 第7章 オオカミが消えた森の衰退
    失われたオオカミ/日本のオオカミ/オジロジカが変える北米の森/姿を消した下層植生の鳥/オジロジカの最適密度はどのくらいか?/シカの個体数を狩猟で減らす/自然の捕食者によってシカの個体数は減るか?/ヨーロッパの森のシカ問題/保全上の意義
  • 第8章 世界的気候変動の脅威
    急激な気候変動の証拠/生物個体は気候変動にすばやく適応して、その生息地で生き延びられるか?/生物の進化は気候変動についていけるか?/生物は気候変動を生き延びるために、分布域を変えられるか?/樹木の分布に対する気候の温暖化の影響/種の「分散援助」が必要になるか?/気候変動に対する柔軟性の限界/保全上の意義
  • 第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種
    重要樹木を脅かす病原体と昆虫/森林に被害をもたらす病原体や昆虫の蔓延を食い止める戦略/持ち込まれた森林の害虫や病原体を駆除する方法/生物的防衛の危険性と将来性/耐性を備えた樹種の品種改良/樹種が失われると起こる長期的変化/他の侵略的外来種/保全上の意義
  • 第10章 三大陸の保全戦略を融合する
    北米の原生自然を保全する/現代の生態学的研究の観点からみた原生自然の保全/人手のはいったヨーロッパの自然環境を保護する/現代の生態学的研究の観点からみた人為的自然環境の保全/ミニチュア的自然 日本の自然保護/日本の自然保護に対する政治的制約/現代の生態学的研究の観点からみた「ミニチュア的自然」の保護/三地域の保全方法を融合させる
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/注/生物名索引/事項索引

【感想は?】

 京都の紅葉の風景は、人為的に作り出されたものだったのか。

 当たり前だが、紅く染まるのは落葉樹だけだ。特に鮮やかなのはカエデだろう。ところが、「畿内に元々あった森林の優占樹種は落葉樹ではなく、常緑広葉樹や針葉樹だった」。

 ご存知のように、京都は歴史の古い土地だ。そして少し前まで、ヒトの最大のエネルギー源は薪だった。寺や仏像を建てるにも木材が要る。東大寺を建てるには900ヘクタールの原生林が必要だったとの推定もある。3km×3kmの森を潰した勘定だ。伐採で常緑樹や針葉樹が消えたスキに、カエデが侵入したのである。という事は、長く放置したら元の常緑樹+針葉樹に戻ってしまうのか。

 実際、全く人の手が入らない原生林というのは、なかなか手こずるシロモノらしい。本書が最初の例に挙げているのは、ポーランドのビャウォヴィエジャ森林特別保護区。ポーランド王室の種猟場として保護されたのが幸いし、第一次世界大戦後に国立公園として保護されるようになる。

 ここでは、林床の12~15%が倒木や落枝で覆われている。こりゃ移動するのも一苦労だ。それは辛いが、学者には格好の観察フィールドになる。面白いことに、一つの種が一帯を征服するのではなく、幾つもの種が雑然と混在しているのだ。というのも、原生林の中にいろいろな環境があるからだ。

 うっそうと繁っているように見えて、所々に空が見える所がある。本書では「樹冠ギャップ」と呼ぶ。寿命や嵐で巨木が近くの木を巻き添えにして倒れたり、火事で一帯が焼けたりしてできる。こういう所を好む生物もいるのだ。そこを、最初は草や低木が占領する。やがて日向を好み成長の早いサクラやハコヤナギが進出する。

 一般に植林によってできた人工林や皆伐の後にできる二次林は、すべての樹の年齢が同じだ。だから中の環境も似たようなものになる。対して原生林は老いも若きも混在しているので、鬱蒼としたところもあればギャップもある。そしてギャップを好む生物もいる。この本はクロズキンアメリカムシクイやコウモリを例に挙げている。

 テキトーに開けてりゃいいのかというと、そうでもない。ある程度の規模の森が必要な種もいる。実は鳥にも社会があって、一定規模の群れが維持できないと棲みつかない鳥もいるのだ。

親のなわばりを離れて数週間しか経っていない(ノドグロルリアメリカムシクイの)幼鳥は、さえずりや鳴き声を(CDプレーヤーで)流さなかった対照区よりも、流した場所の方を頻繁に訪れた。この実験結果は、幼鳥はさえずりや鳴き声に惹きつけられたことを示唆している。
  ――第6章 孤立林と森林性鳥類の減少

 若い鳥は、仲間がたくさんいる所に集うらしい。敵に襲われた時に、その方が被害が少ないからなんだろうか。そういえばハトも群れで飛ぶなあ。

 とはいえ、保護にも問題があって。この本では金華山(→Wikipedia)のシカが例として出てくる。聖域としてシカを保護したのはいいが、増えすぎて樹皮まで食べ、また若木も食い尽くし、森が草原に変わってしまった。草原に生えるシバもシカは大好きなので、更に個体数が増える。

 こういう問題はアメリカでもあって、対策の一つは狩猟、もう一つはシカを狩るオオカミの導入だ。ここで昔からの疑問の一つが解消した。ヨーロッパの童話じゃオオカミは恐ろしい悪役だが、私はオオカミにあまり悪い印象を持っていない。むしろ精悍で仲間を大事にする獣、みたいなイメージだ。これは私だけじゃなく東アジア全体の傾向らしい。というのも…

ヨーロッパの伝統文化ではオオカミは否定的に捉えられているが、日本の伝統的な見方や描写は曖昧で複雑であある。(略)
ヨーロッパでは(略)畜産と作物の混合農業が主要だった。(略)草地に放牧されていたウシやヒツジの大きな群れはオオカミのような大型の捕食者に狙われやすかった。
日本でもウマやウシ、スイギュウは重要な家畜だったが、主に交通や耕作の手段として利用されていたので、大きな群れで飼うことはあまりなく、オオカミから守るのも楽だった。
  ――第7章 オオカミが消えた森の衰退

 向こうじゃ、肉を取るためにウシやヒツジを群れで飼う。それを襲うオオカミは害獣だったのだ。でも日本じゃあまし肉を食わないんで、オオカミの害も少ない。だからあまし悪い印象もなかったのだ。ところが…

1730年に日本に狂犬病が持ち込まれた後、日本人のオオカミに対する態度が一変した。
  ――第7章 オオカミが消えた森の衰退

 今、ちょっと Wikipedia で調べたら、やっぱり長崎発祥だった。交易は経済的な恩恵がある反面、こういう危険もあるんだよなあ。ちなみにイギリスじゃ東アジアから持ち込まれたキバノロとニホンジカとキョンが増えて困ってるとか。そういえば千葉でもキョンが騒ぎになったなあ(→千葉日報)。

 外来種にしてもシカみたく大きな生き物はまだマシで、怖いのは虫や病気だ。

気候変動は長期的には大きな脅威かもしれないが、北半球の落葉樹林が直面している最大の脅威は、特定の樹種にとりつく病原体や昆虫の蔓延であり、数年で絶滅や地域絶滅の淵に追い込まれる樹種が生じることがある。
  ――第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種

 これもオオカミ同様に捕食者の導入って手もあるが、マングースの例もあるように、適切な役者を選ぶのが難しい。が、ツガカサアブラムシ対策は笑ってしまった。1995年、マイケル・モンゴメリーは天敵を求め中国に赴き、そこで50種のテントウムシを見つけたのはいいが…

そのうちの21種が未記載の新種だった
  ――第9章 もう一つの脅威 海を越える外来種

 中国、おそるべし。恐竜の化石といい、今世紀の生物学者は中国に熱い目線を送ってるんだろうなあ。

 などの自然の話もいいが、北米・ヨーロッパ・日本を対比させているのも楽しいところ。気候や地形の違いもあれば、それぞれの土地での自然との付き合い方の違いもある。また、自然保護の理想についても、それぞれで考え方が違う。野生の北米、田園のヨーロッパ、鎮守の森の日本とでもいうか。

 にしても、つくづく林学の本は地質学から古人の日記までと視野がやたら広くて面白い。これからも、のんびりこっちの方面も読んでいこうと思う。

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2019年8月 1日 (木)

「モノができる仕組み事典 日用品から旅客機まで50種の完成するまでの工程を現場写真で構成」成美堂出版

化粧箱入りや付録付きなどの特殊包装は、1つ1つ人の手で包装する。
  ――光ディスク(CD)

缶の中に蒸気を当てて空気を追い出し、同時にフタを閉めて密閉する。すると中の蒸気が冷えて水になり、体積が減った分が真空になる
  ――ツナ缶

【どんな本?】

 私たちの身の回りにあるパソコン・携帯電話・カップめん・鉛筆などは、どんな材料からどんな工程で作っているんだろう? どの工程が手作りで、どの工程を自動化しているんだろう? 原材料はどこから来て、製品ができるまで何日ぐらいかかるんだろう?

 巨大な船や繊細なグランドピアノ、美味しいマヨネーズから量産品のペットボトルまで、製造している工場に直接出向いて取材し、豊富なカラー写真とわかりやすいイラストで、現代の工業製品の製造過程を伝える、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年11月20日発行。単行本ソフトカバーで約220頁、横組みで本文は全頁フルカラー。紙面の半分以上はイラストや写真が占めているので、文字数は見た目の半分未満。

 狭い紙面にむりやり解説文を押し込めた感がある。そのため文章はかなり説明不足だったり、専門用語が連発したり。文字サイズも小さくて、年寄りにはキツい。写真も迫力ありそうなものが多いのだが、やはり小さすぎる。内容の濃さに比べ、とにかく紙数が足りないのだ。丹念に取材しているのは伝わってくるので、頁数を倍にするなり複数冊にするなりして、余裕のある構成にして欲しかった。

 また、「6 資材」は、他の記事の原材料が主なので、最初のほうに持ってきてほしかったなあ。

【構成は?】

 2~7頁の記事を並べた構成だ。それぞれの記事は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 1 オプト・メカトロニクス
  • デスクトップパソコン(液晶一体型)
  • プラズマテレビ
  • 光ディスク(CD)
  • 光ファイバケーブル
  • 時計
  • 自動販売機
  • パチンコ機
  • 2 乗り物
  • 自動車
  • タイヤ
  • バイク
  • 油圧ショベル
  • 飛行機
  • 新幹線
  • 3 音楽・スポーツ
  • グランドピアノ
  • トランペット
  • フォークギター
  • ピンポン球
  • 野球グラブ
  • 野球バット
  • 野球ボール
  • ゴルフボール
  • 4 食品
  • マヨネーズ
  • インスタントコーヒー
  • ツナ缶
  • レトルトカレー
  • ティーバッグ
  • ビール
  • チョコレート
  • カップめん
  • 5 生活用品
  • スニーカー
  • 洋服
  • タオル
  • ペットボトル
  • アルミホイル
  • トイレットペーパー
  • 鉛筆
  • 使い捨てカイロ
  • ガラス魔法瓶
  • 口紅
  • 薬(錠剤)
  • コンタクトレンズ
  • 工業化住宅
  • 6 資材
  • 板ガラス
  • 屋根瓦
  • 鉄鋼
  • セメント
  • 潤滑油
  • 早わかり講座
  • 液晶テレビ
  • 携帯電話
  • エアコン
  • カメラ
  • 国民食から世界食、宇宙食へ その心は「食足世平」
  • 乾電池
  • 電球
  • 「やってやろう」の精神が開発を成功させる
  • 紙幣
  • 製鉄所でのエネルギーと資源の循環
  • 石油精製

【感想は?】

 駆け足の工場見学50連発。

 考えてみれば、私の身の回りにある物は、みんな誰かが作った物ばかりだ。でも、それをどうやって作るのかは、滅多に考えない。物によっては作り方の都合で「そういう形」になっているのもある。でも、私たちは「アレはそういう形」と思い込んでたりする。

 例えばアルミホイル。片面はピカピカで、もう片面はザラザラしか感じになっている。そういうものだと思い込んでたが、作り方の問題だった。アルミホイルは薄い。なんと厚さ0.012mmである。これローラーで薄く延ばすのだ。元は厚さ0.4mmのアルミ板を、何回もローラーで延ばし0.024mmまで薄くする。仕上げにアルミ板2枚を重ねてローラーを通し、0.012mmになる。

 この時、ローラーに接する側には油を塗る。油を塗った側はピカピカになるのだ。

 にしても、こんな薄さを保つ精度も驚きだし、穴が開いたり破れたりしないのも凄い。ちなみに延ばしたアルミ箔を巻き取る速度は最大で分速1250mって、時速75kmかい。すんげえスピードだなあ。下手に触ったら体を真っ二つに切り裂かれそうだ。

 こういう身近なものは興味を惹かれる分、やっぱり楽しく読めるのだ。レトルトカレーも参考になった。ルー・トマト&リンゴ・野菜類、それぞれ別々に炒めたり焙煎した後で、まとめて煮込んでる。最初から全部を混ぜて煮込むんじゃないんだなあ。ちなみに、この手の食品の開発じゃ米軍が暗躍してます(→「戦争がつくった現代の食卓」)。

 麺類を音立ててすする事の是非が話題になったりしたけど、お茶をすするのはやはり行儀悪いって風潮が強いのかな。でも、ある意味、音を立ててすするのは、お茶への敬意でもあるのだ。というのも、紅茶のテイスティングでは…

すすりあげるように口に含むのは、香りを際立たせるため。
  ――ティーバッグ

 とある。とすると、お茶を音を立ててすするってのは、「このお茶は香りがとてもよい」ってメッセージに…ならんか、やっぱし。

 全般的に機械化された工程が多いんだが、意外と手作業もある。洋服は、型紙こそCADで作るものの、縫製はミシンかけとアイロンかけの繰り返し。ほとんど手作業だったり。

 やはり意外なのが、船。この本に出てくる船はボートじゃなくて、大型の貨物船だ。で、記事に出てくる工程の大半が、溶接なのだ。小さい部品を溶接して小組立品を、小組立品を溶接して大組立品を、大組立品を溶接してブロックを…ってな感じ。溶接は万能なのか。もう一つ意外なのが「進水式」。てっきり完成してからやるのかと思ったが、そうじゃない。配線・配管・内装とかの前に進水式をやっちゃう。

 やっぱり溶接って凄いと思うのが、トランペット。元はプラナリアみたいな形の平らな真鍮板だ。これをロウ付けで管にしてる。トランペットもギターも、楽器は精度が要求されるわりに手作業が多いのも意外だった。もっとも、手間じゃグランドピアノの凄まじさがブッチギリだけど。そりゃお値段も納得だよなあ。にしても7オクターブ以上の音域を、たった20種類の太さの弦で出してるってのも意外。

 思い込みを覆されたのも多くて、その筆頭がタイヤ。はい、自動車のタイヤです。あれホイールキャップは様々な形や色があるけど、タイヤそのものは黒一色だよね。他の色にできないのかと思ったら、やっぱ難しいみたい。というのも、「カーボンブラック(墨)はゴムを丈夫にするため」と、そういう色である必要性があるのだ。

 また加硫(→Wikipedia)も勘違いしてた。予めゴムに硫黄を混ぜて型に流し込むと思ってたが、微妙に違う。形を作った段階じゃ、ゴムはプニプニまたはフニャフニャなのだ。これを熱すると、形が崩れにくくなる。この加硫工程は後のスニーカーでも出てくるんだが、つまりは地面に接する部分はゴムが大活躍してるんだなあ。

 などと面白いネタは次々と出てくるんだが、なにせ一品目あたりの頁数が少ない。「そこんとこ、もちっと詳しく」とお願いしたくなる所がたくさんあって、例えば油圧ショベルじゃ履帯とか油圧シリンダとか油圧ポンプとか掘り下げてみたくなるんだが、そこは専門の本を読めってことなんだろう。

 文句ばかり言っちゃってるようだが、それだけ興味をそそられるネタが満載だったからで、決してつまらない本じゃない。大当たりしそうな映画の予告編をギッシリ詰めこんだ、そんな感じの本なのだ。

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2019年7月16日 (火)

ヘレン・スケールズ「貝と文明 螺旋の科学、新薬開発から足糸で織った絹の話まで」築地書館 林裕美子訳

貝殻をつくるというのは面倒な作業で、素材を集めて、それを貝殻につくり変えるという手間がかかる。このような理由から、軟体動物は常に殻をつくり続けているのではなく、殻をつくる余裕があるときに一気に大きくつくり足す。
  ――Chapter2 貝殻を読み解く

軟体動物はいつの時代にも人間の大切な食糧だった。理由は単純で、ほかの動物のように猛スピードで逃げ回らず、浅い海域や、満潮線と低潮線のあいだの浜に生息しているため、狩りがへたな人でも簡単に採集できるからだ。
  ――Chapter4 貝を食べる

人間によって絶滅の危機に追い込まれた最初の野生動物と考えられているのはシャコガイで、それは12万5000年ほど前にさかのぼる。シャコガイは地球上に現存する貝類でもっとも大きく成長し、長さは1メートルをゆうに超え、寿命は100年を超える。
  ――Chapter4 貝を食べる

アンモナイトを見ていくうえでややこしいのは、専門的に見たときにアンモナイトの多くがほんとうはアンモナイトと呼ばれるべきではないということにある。
  ――Chapter7 アオイガイの飛翔

海洋生物の多様性の豊かさでは(フィリピン諸島は)世界に冠たる海域で、世界の魚類の40%がここに生息し、サンゴは全体の3/4にあたる種類がここで見られる。
  ――Chapter8 新種の貝を求めて

「(ヒュー・)カミングのコレクションからは今でも新種が見つかる」
  ――Chapter8 新種の貝を求めて

貝殻はほとんどのものがチョークと同じ成分でできているので、ほんとうならばすぐに砕けてしまうはずである。(略)ところが貝殻は、(略)なかなか割れない。(略)貝殻はなぜ割れにくいのか。
  ――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発

分布域が狭い種類ほど絶滅しやすい。
  ――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発

寿命が短い生物のゲノムは複製がつくられる頻度が高いために、DNAの写し間違いが蓄積しやすく、自然選択がはたらく遺伝子はバラエティに富むことになる
  ――Chapter10 海の蝶がたてる波紋

【どんな本?】

 軟体動物。美味しいカキやサザエ、タコやイカやウミウシなど、海にいるものが思い浮かぶが、オカヤドカリ・カタツムリ・ナメクジなど、陸に住むものもいる。古生物ではアンモナイトが有名だ。ヒトは貝塚でわかるように大昔から食用にしてきたほか、タカラガイを貨幣として使い、戦や宗教など重要なイベントではホラガイを吹いた。

 彼らは、どこで何を食べて生きているのか。規則的でありながらも複雑な貝殻の模様は、なぜできるのか。「海の絹」の伝説は本当なのか。マテガイはどうやって砂に潜るのか。カキの養殖のコツは?

 節足動物に次いで多様性に富む軟体動物について、イギリスの海洋生物学者が彼らの不思議な性質や生態を紹介するとともに、食用・装飾・加工品の原料そして最新素材開発に至るまでのヒトとの関わりをユーモラスに描く、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Spirals in Time : The Secret Life and Curious Afterlife of Seachells, by Helen Scales, 2015。日本語版は2016年11月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約331頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×331頁=289,294字、400字詰め原稿用紙で約724枚。文庫本なら厚い一冊分ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ご想像のとおり色々な貝やタコやカニの名前が出てくるので、ついその姿形を調べたくなる。Google で探すなり図鑑で調べるなりしよう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみぐいしてもいい。ただし「Chapter 1 誰が貝殻をつくるのか?」は、この本のテーマである軟体動物全体を定義するところなので、ザッと目を通しておこう。

  • 日本の読者のみなさんへ
  • プロローグ
  • Chapter1 誰が貝殻をつくるのか?
    軟体動物は何種類いるのか/熱水噴出孔にいる軟体動物/軟体動物とはどんな生きものか/ことの始まり バージェス頁岩/軟体動物の祖先? ウィワクシア/軟体動物が先か、貝殻が先か/防弾チョッキに穴をあける歯 削り取り、噛み砕き、つき刺し、銛を打つ/サーフィンを覚えた巻貝/千に一つの殻の使い方 外套膜
  • Chapter2 貝殻を読み解く 形・模様・巻き
    イポーの丘で見つかった巻貝/螺旋の科学/貝殻をつくる四つの原則/貝殻の仮想博物館 考えられる限りの貝殻の形/なぜ形が重要なのか/右巻きと左巻き/自然界のお遊び 模様/マインハルトのシミュレーション・モデル/理論を裏付ける証拠/軟体動物の日記を解読する/コウイカの模様の解明
  • Chapter3 貝殻と交易 性と死と宝石
    貝殻の持つ神秘の力/最古の宝飾品/不平等の兆候/世界中で使われたスポンディルスの貝殻/旅するタカラガイ 貨幣/奴隷とタカラガイ/ヤシ油と貝殻貨幣
  • Chapter4 貝を食べる
    セネガルのマングローブの森で/イギリス人と貝/好ましい海産物?/事件の全容 貝毒による被害の原因/誰がシャコガイを食べたのか/カキの森の守護者 ガンビア/トライ女性カキ漁業者協会/二日にわたるカキ祭り
  • Chapter5 貝の故郷・貝殻の家
    失われたカキ漁/カキと生物群集/カキ漁の復活をめざして/カキの冒険/育成の足場になるカキ殻/共同体をつくる炎貝/ヤドカリ 殻をつくるのをやめたカニ/順番待ちするオカヤドカリ/ヤドカリに居候する生き物たち
  • Chapter6 貝の物語を紡ぐ 貝の足糸で織った布
    海の絹でつくられた伝説の布/ピンナの足糸/シシリアタイラギと海の絹/海の絹の神話と現実/海の絹の産地 ターラントとサルディニア/海の絹を織る姉妹/海の絹の殿堂 足糸博物館/極秘の足糸の採取方法/シシリアタイラギと共生する生き物
  • Chapter7 アオイガイの飛翔
    殻をつくるタコ/オウムガイの殻/アンモナイトが祖先?/蛇石と雷石/肥料になったコプロライト(糞石)/アンモナイトかナンモノイドか/白亜紀末の大量絶滅とアンモナイト/19世紀にアオイガイを調べた女性 お針子から科学者へ/自分で殻をつくるアオイガイ/アオイガイの奇妙な性行動/ジェット噴射
  • Chapter8 新種の貝を求めて 科学的探検の幕あけ
    オウムガイでつくられた器/海外遠征した博物学の先駆者たち/科学的探検の幕あけ/新種の貝を求めて太平洋を横断 ヒュー・カミングスの探検/二度目の探検 中南米の太平洋岸/サンゴ三角海域へ フィリピン諸島/商取引されるオウムガイ/カミングの標本と有閑階級/ロンドン自然博物館に収蔵されたカミングの貝コレクション/貝の図鑑 『アイコニカ』と『シーソーラス』
  • Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発
    イモガイの秘密をあばく/複合毒素の複雑な作用/貝毒から薬をつくる/生物接着剤になったイガイの足糸/二枚貝がつくり出す液状化現象/割れない殻の秘密 真珠層/巻貝の鉄の鱗/危機に瀕するイモガイ
  • Chapter10 海の蝶がたてる波紋 気候変動と海の酸性化
    海の蝶を訪ねて グラン・カナリア島/海の蝶の不思議な生態/酸性度の問題/石灰化生物たちの困惑/軟体動物が受ける酸性化の影響/死滅への道を歩む海の蝶/海の蝶の糞の役割/生態系を調べる手段/酸性化の時間/海の酸性化と科学者/人間の活動と海
  • エピローグ
  • 貝の蒐集について
  • 用語解説/謝辞/訳者あとがき
  • 本文に登場する書籍(原著名)の一覧/参考文献/索引

【感想は?】

 真面目な本なんだが、どうにも腹が減って困る。

 軟体動物って言葉は気色悪そうだけど、つまりは貝・タコ・イカだ。本書で見慣れない名前が出てくると、思わず「どんな味なんだろう」と考えてしまうのは、日本人のサガというか業というか。

 中身は大きく分けて三つ。一つは軟体動物そのものの話、二つ目は軟体動物の研究者の話、そして最後はそれ以外の人間との関わり。

 人間との関わりでは、軟体動物の中でも貝が大きな比重を占める。というか、本書全体でも貝の扱いが大きい。やはり貝殻という形で、死んでからも痕跡が残るのが大きいんだろう。それが綺麗だったり大きかったりすれば、蒐集家も子供も喜んで集める。流通の発達した現代ならともかく、昔はこの傾向がもっと顕著だった。

 日本だと山伏が持ってるホラガイ、ギリシャ神話だとポセイドンの息子トリトンが吹いている。今、調べたらホラガイの生息域は「インド洋、西太平洋」(株式会社科学技術研究所ホラガイ)。なぜ地中海のトリトンが持ってるんだ? またチベットでも祈りの合図で使ってる。インド洋からチベットまで、ヒマラヤを越えはるばる運んでいったのだ。

 こういう国際貿易の話は、「Chapter3 貝殻と交易」が詳しい。昔から、綺麗で貴重なものは貨幣になる。

 西アフリカじゃ14世紀からタカラガイが使われた。原産地はインド洋のモルディブ。インドを経てアラビアの商人がサハラを越え西アフリカまで運んでた。これにポルトガル・オランダ・イギリスが目を付け、大規模な奴隷貿易に使った結果、インフレになる。更に19世紀にアフリカ東海岸のザンジバルでハナビラダカラが見つかった結果、インフレが加速して価値は暴落、市場は崩壊しましたとさ。

 なんか南米から金銀が雪崩れ込んで崩壊したスペイン経済みたいな話だ。ヒトは何度も似たような事を繰り返してきたんだろうなあ。そういえば日本も養殖真珠でペルシャ湾岸の真珠産業を潰してます。

 この章では光ルミネッセンス年代測定法(→Wikipedia)なんてのが出てきて、こでも面白い。石英や長石に光が当たると時計はゼロにリセットされる。暗い所、つまり地中に埋まっていると時計は進む。これで古代の遺物が、どれだけ地中に埋まっていたか=どれだけ古いか、が分かるのだ。モロッコ島北部の洞窟からは、10万~12.5万年前の貝殻の装飾品が見つかっている。人類は昔からお洒落だったのだ。

 交易も現代になると規模が大きくなりすぎて、漁場を枯らすことも増えてきた。今じゃ二枚貝の養殖の7割が中国産だとか。最も有名なのはカキだろう。「Chapter4 貝を食べる」ではセネガルのマングローブでの、ちょっと変わったカキ産業振興の話が出てくる。カキが難しいのは、群れてないと次の世代が育たない点だ。雄は海中に生死を放出するので、近くに雌がいないと受精しないのだ。

 生殖で面白いのが、「Chapter7 アオイガイの飛翔」の主役アオイガイ(→Wikipedia)。これも今調べて気づいたんだけど、小安貝ってこれか。見た目も名前もカイみたいだけど、実はタコ。殻を持つのは雌だけで、雄の体重は雌の1/600。腕の先にペニスがあって、雌にペニスごと植え付け、やがて死ぬ。雌は受け取ったペニスを複数持ち歩き(なんちゅうビッチだw)、好きな時に受精する。カマリキよか酷いw

 ここでは、アイオガイを研究した19世紀のジーン・ヴィレプレの生涯もドラマチックで楽しい。

 過去の話ばかりでなく、未来も垣間見えるのが「Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発」。今まで新薬といえば植物由来の物が多かったが、ここでは魚まで毒殺するイモガイ(→Wikipedia)が大活躍。奴の毒は凶悪で、即効性+とどめを刺す毒の複数の毒を使う。毒が何の役に立つのかというと、痛みをブロックする、すなわち鎮痛剤になるのだ。効果はモルヒネの千倍で中毒になりにくい。

 ただし、これの投与法は、体に埋め込んだ「ポンプで脊髄液の中に薬剤を直接注入」って、まるきしSFだ。きっと某国はコレを使った「痛みを感じない兵士」を研究してるんだろうなあ。

 この章では「レナードの朝」でお馴染みのL-ドーパが意外な形で使えたり、貝殻の真珠層が軽くて丈夫な構造の秘密を隠してたり、マテガイ(→Wikipedia)の砂潜りが土木工法のヒントになったりと、SF者には興奮が尽きない章だ。

 奇妙奇天烈な軟体動物の生態から、それを巡る人間の世界にまたがる通商ネットワーク、彼らに憑かれた研究者たちの個性的な生涯、そして最新科学が解き明かした彼らの秘密とめくるめく応用範囲と、読みどころは満載。ただ、繰り返すが、どうしても読んでいるとお腹がすくのが欠点かも。

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2019年7月14日 (日)

クリスティー・アシュワンデン「Good to Go 最新科学が解き明かす、リカバリーの真実」青土社 児島修訳

「誰もが知っているアスリートが支持しているのなら、誰がその商品の効果の科学的根拠を求める?」
  ――第2章 水分補給

…肝心の質問が残っています。それは“運動後には何を食べればいいの?”です。端的に言えば、その答えは“身体が求めているものを食べればいい”です。
  ――第3章 栄養補給

人は治療が痛みを伴うものだと、“痛いのは効いている証拠だ”と考える傾向があるのです。
  ――第4章 アイシング

言葉巧みな商人が何世紀にもわたって栄えてきたのには理由があります――私たちは、何かを信じたがっているのです。
  ――第8章 サプリメント

「朝の気分や感情は、おそらくリカバリーのもっとも正確な予測因子だ」
  ――第10章 データ

「その手法を使う人が積極的に関わったり、代償を支払ったりしているとき、プラシーボの効果はより大きくなると考えられている」
  ――第11章 プラシーボ効果

【どんな本?】

 スポーツの練習中には、水分を取るべきなんだろうか? 昔は水を飲んではいけないと言われていた。だが最近は水分を補給すべきとする説が多い。実際にはどうなんだろう? 疲れた時にマッサージを受けると心地よい。だが、それは本当に効いているんだろうか? アスリート向けに様々なサプリメントが売られているが、その効果はどれほどなんだろう?

 リカバリー、疲労回復。高みを目指すアスリートは、より迅速なリカバリーを望む。野球などのプロ選手は、短いシーズンに旅をしながらもコンディションを保ち、多くの試合をこなさなければならない。彼らにとって、効果的なリカバリーは必須だ。それだけに、色々なリカバリー製品や方法が世に溢れており、アマチュアのアスリートにも広がっている。

 スポーツドリンク、アイシング、マジックウィンドウ、アイシング、マッサージ、瞑想、サプリメント、スポーツウォッチ。これら「科学的」と銘打たれた製品や理論は、本当に科学的な裏付けがあるのか。プロのアスリートや私たちは、なぜこれらに惹かれるのか。そして、厳しいトレーニングをこなしているにも関わらず、伸び悩む選手がいるのはなぜか。

 より優れた結果を残すために、またはより長くスポーツを楽しむために、重要な要素でありながら往々にして見落とされがちなリカバリーについて、自らもノルディックスキー・ランニング・自転車などを楽しむサイエンスライターが、アスリートや科学者への取材に加え体当たり取材も交えて送る、リカバリーと現代科学のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Good to Go : What The Athlete In All Of Us Can Learn From The Strange Science Of Recovery, by Christie Ashwanden, 2019。日本語版は2019年4月10日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約277頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×18行×277頁=約229,356字、400字詰め原稿用紙で約574枚。文庫本なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。ただし、様々なリカバリーが流行している現代アメリカ向けの作品なので、無駄に厳しいだけの練習がハバを利かしている現代日本の感覚からすると、「へえ、今のアメリカってそうなんだ」的な雰囲気もある。

【構成は?】

 第1章は必ず読もう。「科学的とはどういうことか」を説明しており、以降の章の基礎となる部分だ。第2章~第8章は、個々のリカバリー方法を扱っている部分なので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。第9章~終章は、結論へと向かう「まとめ」のパート。

  • はじめに
  • 第1章 アルコール ビールはリカバリーに役立つ?
  • 第2章 水分補給 “喉が渇いてから飲む”でもパフォーマンスは落ちない?
  • 第3章 栄養補給 “運動直後の栄養補給のゴールデンタイム”など存在しない?
  • 第4章 アイシング 患部を冷やすのはリカバリーには逆効果?
  • 第5章 血流 マッサージにパフォーマンス向上効果はない?
  • 第6章 心理的ストレス 瞑想、フローティングのリカバリー効果は?
  • 第7章 睡眠 最強のリカバリーツール?
  • 第8章 サプリメント 効果を裏付けるエビデンスは少ない?
  • 第9章 オーバートレーニング症候群 真面目な選手ほど危ない?
  • 第10章 データ 数えられるものが重要なわけではなく、重要なものが数えられるとも限らない?
  • 第11章 プラシーボ効果 大半のリカバリー手法の効果はプラシーボにすぎない?
  • 結論 身体の声に耳を澄ます
  • 謝辞/訳者あとがき/注

【感想は?】

 健康に関して、科学が出す結論は往々にしてみもふたもない。本書の結論はこうだ。

「ちゃんと寝ろ。そして朝の気分に従え」

 リカバリー=疲労回復に関する限り、睡眠以外は総崩れだ。中には逆効果だったり、どころか悲惨な副作用を伴うものもある。ただし頭から否定しているわけでもなければ、ハッキリしたガイドラインも示していない。結局、「害がなく効くと思うならやれば?」みたいな結論だ。

 本書の最大の特徴は、著者自身がスポーツ好きであり、取り上げたリカバリー・グッズや方法を自分が実際に試している点だ。これは最初の「第1章 アルコール」からそうで、自らが被験者の一人となって効果を調べている。実験の目的はこうだ。「汗をかいた後のビールは美味しい。これリカバリー効果があるんじゃね?」

 そこで友人やアスリート仲間と組み実験に挑むが、結果は怪しげな数値になる。ここで大事なのは結果よりも、そこに至る過程、すなわち実験の内容だ。著者らが用いたのはRTE法、ドレッドミルで何分まで頑張れるか。これを一日一回、三日行う。被験者は二つの組に分かれる。1組は普通のビール、2組はノンアルコールビール。二重盲検を用い、被験者は自分がどっちの組かは知らない。被験者は10人。

 この実験、製薬会社で開発に携わっている人は、開いた口がふさがらないだろう。ツッコミどころが多すぎる。本当に二重盲検になっているのか? 実はなっていなくて、被験者はみな味で自分が何を飲んだのか知っていた。RTE法も怪しくて、むしろ距離を決めタイムを計る方がいい。実験以外の時間、被験者は何をしてる? 何よりサンプル数が少なすぎる。実験は一回だけで再現性を確かめてない。

概して、実験の規模が小さいとサンプル数も少なくなり、規模が大きな場合に比べて信頼性が低下します。また、実験者にとって好ましい結果が出やすく傾向があることも知られています。
  ――第1章 アルコール

 そんな風に、冒頭で「科学的」なんて言葉に疑問を抱くよう、読者に強く印象付けるのである。その上で、以降もグッズやメソッドを自ら試しつつ、それらの裏付けをメーカーや業者に問い合わせ、その実体を明らかにしてゆく。まあ、結論は「みんな鰯の頭みたいなもん」なんだけど。

 とまれ、体験取材してるのは、読み物として野次馬根性で面白い。睡眠グッズとしてパジャマまで買ってたり。私もフロートタンク(→Wikipedia)は試したくなった。要は濃い塩水に浮かぶってだけなんだけど、気持ちよく寝れそう。

 もっと手軽に試せるのが、スポーツ飲料。「第2章 水分補給」では、ゲータレードの誕生秘話が面白い。ちなみに最近流行りの「電解質」、これ下世話な言い方をすると「塩」です(→Wikipedia)。こういう耳慣れない言葉を使うのも、販売戦略なわけ。ちなみに熱中症の時は水を飲むのも善し悪しで、逆に水の取りすぎ=低ナトリウム血病の場合もあるとか。この辺は専門家、つまり医師に聞くべきだろうなあ。

 こういった「電解質」などの言葉にはじまり、企業はあの手この手で売り込みをかける。スター選手を広告塔にしたり、雑誌に広告を出したり。

 これらの手口を原理から暴いているのも、本書の楽しいところ。特に効きそうなのが、FOMO=fear of missing out、何かを見逃すことへの恐れ。これが最も有効なのが、サプリメント。だってあなた、日頃の自分の食生活で、すべての栄養素が充分に摂れている、と断言できますか? 栄養士じゃあるまいし、たいていの人は、なんとなく食べてるはず。これ突かれると弱いんだよね。

 と、そういうヒトの心の弱みにつけ込む形で商売する企業もあれば、アスリートが自ら罠に飛び込む場合もあって、それをテーマにしているのが「第9章 オーバートレーニング症候群」。理屈は簡単。

もっと練習すればもっと大きな成果が得られるはずだ
  ――第9章 オーバートレーニング症候群

 まあ、普通はそう考えるよね。これはスポーツに限らず、勉強でも同じだろう。ところが、これには落とし穴があって、それをこの本は何度も戒めている。それは何かというと、睡眠。

リカバリーの魔法の秘密が存在するとするならば、それは睡眠です。
  ――第7章 睡眠

 寝不足だと、どんなに練習しても無駄、どころか下手すると長期のスランプに陥るぞ、と繰り返し忠告してる。睡眠の重要性は「[戦争]の心理学」でも、合衆国陸軍の印象的な実験のデータがあるんで、ぜひ参考にしていただきたい。

 ちなみにこの本、注にも強烈なネタが埋まっているので油断できない。「第2章 水分補給」の注5は大笑い。某研究者が電解質も補給できるビールを開発しようと研究を始めたが…。うん、ヒトって、夢中になると、視野が狭くなるんだよねw

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2019年6月27日 (木)

オリヴァー・サックス「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」早川書房 太田直子訳

…私はこの本を、幻覚体験とそれが体験者に及ぼす影響を語る、幻覚の自然経過記録、またはアンソロジーのようなものと考えている。なぜなら、幻覚の力を理解するには、当人による一人称の記録によるほかないからだ。
  ――はじめに

片側の失明や視力障害が負の症状だとすれば、それにとどまらず、正の症状も出ることがある。つまり、見えない領域やかすんでいる領域に幻覚が生じるのだ。突然半盲になった患者の約10%が、そのような幻覚を起こす――そしてすぐに、それが幻覚であると気づく。
  ――第9章 両断 半視野の幻覚

人は自分の夢に加わるか、加わっている人を観察するが、入眠状態では人は単なる傍観者だ。
  ――第11章 眠りと目覚めのはざま

ウェールズの一般開業医のW・D・リースは、配偶者に先立たれたばかりの人たち約300人と面談し、そのほぼ半数に、亡くなった配偶者の片鱗を錯覚でかいま見たり、またはその幻覚に正面から向き合ったりした経験があることを知った。
  ――第13章 取りつかれた心

【どんな本?】

 脳神経科医として勤務するかたわら、その経験を活かして「妻を帽子とまちがえた男」「レナードの朝」「音楽嗜好症」などの楽しいエッセイを書き続けたオリバー・サックスによる、幻覚や幻聴をテーマとした、科学エッセイ集。

 彼の著作の特徴は、単に一見奇妙な症状を紹介するだけではない。もちろん、医師として経過と原因そして治療法も紹介する。が、それに加えて、症状を抱えながらも、その人なりの形で症状と折り合いをつけながら暮らしてゆく人々の姿も詳しく描き、人の持つ知恵と逞しさ、そして心の不思議さを感じさせる点が、彼の作品の醍醐味なのだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Hallucinations, by Oliver Sacks, 2012。日本語版は2014年10月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約343頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×17行×343頁=約262,395字、400字詰め原稿用紙で約656枚。文庫本なら少し厚め。なお、今はハヤカワ文庫NFから「幻覚の脳科学 見てしまう人びと」の題で文庫版が出ている。

 文章はこなれていて読みやすい。ときとき脳の部位の専門用語が混じるけど、「脳みそのどっかなんだろう」ぐらいに思っていれば充分。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 第1章 静かな聴衆 シャルル・ボネ症候群
  • 第2章 囚人の映画 感覚遮断
  • 第3章 数ナノグラムのワイン においの幻覚
  • 第4章 幻を聞く
  • 第5章 パーキンソン症候群の錯覚
  • 第6章 変容状態
  • 第7章 模様 目に見える片頭痛
  • 第8章 「聖なる」病
  • 第9章 両断 半視野の幻覚
  • 第10章 譫妄
  • 第11章 眠りと目覚めのはざま
  • 第12章 居眠り病と鬼婆
  • 第13章 取りつかれた心
  • 第14章 ドッペルゲンガー 自分自身の幻
  • 第15章 幻肢、影、感覚のゴースト
  • 謝辞/訳者あとがき/引用クレジット/参考文献

【感想は?】

 幻覚がテーマの本だ。だから他人事だと思っていたが、そうじゃない。これは私の事でもあるのだ。

 それを強く感じるのが、「第11章 眠りと目覚めのはざま」だ。ここで扱うのは入眠時幻覚。というと何か難しそうだが、誰だって経験があるはず。わかりやすいのが、居眠りの時に見るアレだ。完全に寝入ってる時ではなく、寝ぼけて見るモノ。

 実は私の場合、「見る」のではなく「聴く」のが多い。見知らぬ男たちが、何か仕事しながら喋っている。男たちも仕事も、私とは何も関係がないし、お喋りの中身はよく聞き取れない。最近はだんだんと真に迫ってきたんで、なにかヤバいんじゃないかと思ったが、この本を読んで安心した。寝ぼけての幻聴は「幻視と同じぐらい一般的」らしい。

 やはり「私の事だ」と思うのが、「第10章 譫妄」。この章では薬物による譫妄の例に加え、病気によるものも多い。特に「あるある」と感じたのが、子供の頃に熱を出した時の話。日本人だと、天井の木目が「何か」に見えた経験がある人が多いはず。ここでは、体が伸びたり縮んだりする譫妄が出てくる。ちゃんと名前もついていて、「不思議の国のアリス症候群」(→Wikipedia)と言うのだとか。

 居眠りなら大したことはないが、病気だと困ったことになる。ナルコレプシー、いわゆる居眠り病(→Wikipedia)の場合だ。これ生活習慣とかは関係なくて、肉体的な問題だとは知らなかった。ふつう、視床下部はオレキシン=覚醒ホルモンを分泌する。この部位に不調があると、不意に眠りに落ちたりするのだ。

 この章では金縛りも扱っている。いずれも睡眠の不調だ。金縛りもナルコレプシーも幻覚を伴う時がある。が、特にナルコレプシーの場合…

人はたいてい認めるのをためらい、ナルコレプシー患者でいっぱいの部屋でさえも、そのことがオープンに話しあわれることはほとんどなかった。
  ――第12章 居眠りと鬼婆

 こういう「幻覚や幻聴を隠そうとする」のは、ナルコレプシーに限らず、他の病気でも同じらしい。気持ちは分かる。いわゆる「頭がおかしくなった」と思われるのが嫌なのだ。だが、実はありふれた経験らしい。視覚を失った人は幻覚を見るし、嗅覚を失った人は幻臭をかぎ、四肢を失った人は幻肢に悩む。パーキンソン病や片頭痛も幻覚を伴うし、大切な人やペットを失った時もそうだ。

 つまり、幻覚や幻聴は、ありふれたものなのだ。ただ、私たちが勝手に「それは頭がおかしい」と思い込んでるだけ…と言いたいが、昔はそうでもなかった事を「第2章 幻を聞く」で暴露している。

 1973年、『サイエンス』誌の論文「狂気の場において正気でいることについて」が大騒動を引き起こす。八人の偽患者が「声が聞こえる」と症状を偽り、病院を訪れる。一人は躁鬱病、他の者はみな統合失調症と診断され、二ヶ月も入院する羽目になり、誰も仮病を見破られなかった。当時の精神医学は、その程度だったのだ。これに懲りてできたのがDSM(→Wikipedia)。

 この話にはオチがある。本物の患者の一人は、ちゃんと仮病を見破っていたのだ。ちなみに幻聴に関しては…

(オイゲン・)ブロイラーによると、「入院している統合失調症患者は、ほぼ全員『声』を聞く」。しかし彼は、逆が真ではないことを強調している。つまり、声が聞こえることは必ずしも統合失調症を意味しない。(略)声が聞こえる人の大半は統合失調症ではないので、これは大きな誤解だ。
  ――第4章 幻を聞く

 という事で、やはりありふれた現象らしい。

 他の著作に比べ、著者自身の話が多いのも、この本の特徴の一つ。中でも「第6章 変容状態」では、若い頃にドラッグを試した経験を語っている。特に著者の性格がよく出ていると思ったのが、常用していた薬物を断った時の話。激しい幻覚に襲われながらも、落ち着きを保つために症状を細かく記録し…

混乱、失見当、幻覚、妄想、脱水、発熱、頻脈、疲労、発作、死。もし誰かが私のような状態だったら、すぐに救急処置室に行くようアドバイスしただろうが、自分自身のこととなると、私は耐え抜いてすべてを経験しつくしたかった。
  ――第6章 変容状態

 と、あくなき好奇心に従って行動する。まったく、学者って奴はw

 そんな風に、ヒトの脳や神経系の不思議さ・絶妙さを実感するエピソードがたくさん載っている。と同時に、サックス先生らしいのは、それぞれの症状を抱えた人々の暮らしにまで踏み込んで描いていること。皆さん、いろいろと工夫して症状と折り合いをつけ、人生を楽しもうとしている。科学と人間が交わり、少しだけ心に余裕ができる…ような気がする本だ。

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2019年6月 7日 (金)

Q.Ethan McCallum「バッドデータ ハンドブック データにまつわる問題への19の処方箋」オライリージャパン 磯蘭水監訳 笹井崇司訳

要するに、バッドデータとは邪魔になるデータのことです。
  ――はじめに:バッドデータとは何か?

「バッドデータ」であったからこそ、私たちは新しいことを学べたのです。
  ――7章 バッドデータは起立して

私たちのお粗末な仮説が、データを「バッドデータ」にしているのです。
  ――7章 バッドデータは起立して

早く失敗しよう、たくさん失敗しよう(Fail early, Fail often)
  ――8章 血と汗と尿

経験によれば、分析プロジェクトに費やす時間の80%は、クリーニング、改変、変換などのタスクに費やされるそうです。
  ――15章 データサイエンスのダークサイド

私たちの戦略の中心にあるのが不変性です。私たちの処理のパイプラインがデータを何度も変換しても、私たちはもとのデータを決して変えませんでした(上書きしませんでした)。
  ――17章 データ追跡可能性

【どんな本?】

 必須のはずの項目がない。数字だけのはずなのにテキストが入っている。一部のデータがない。逆に重複している。値が大きすぎる。文字化けする。対応するデータがない。フォーマットが違う。特定範囲の値がない。データが分散している。

 仕事でプログラミングをした事があれば、誰もがこんなデータで困った経験があるだろう。サーバ管理やネットワーク管理などでログを集め分析する際に、ちょっとした道具が欲しくなることもある。ソフトウェアを開発する際には、テストデータも必要だ。最近流行の機械学習も、しつけ方・使い方次第で性能は大きく異なる。

 データの集め方・困ったデータの処理方法・手に入れたデータの検証方法・テストデータの扱い方など、データにまつわる失敗談や成功例を集めた、ソフトウェア・エンジニア向けの濃いエッセイ集。 

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Bad Data Handbook : Mapping the World of Data Problems, by Q. Ethan McCallum, 2013。日本語版は2013年9月25日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組みで本文約280頁。8.5ポイント38字×32行×280頁=340480字、400字詰め原稿用紙で約852枚。文庫本なら厚い一冊分。

 文章はオライリーの標準的な水準。察してください。サンプル・ブログラムも幾つか載っていて、使っているプログラム言語は awk, perl, R, Python, SQL など。でも私は大半のソースをトバして読んだ。それぞれの言語を知らなくても、プログラミング経験者なら、地の文を読めばだいたい分かります。そもそもプログラムに関する本じゃなくて、データに関する本だし。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしていい。

  • 監訳者まえがき/著者について/まえがき
  • 1章 はじめに バッドデータとは何か?
  • 2章 気のせいかな。このデータ、何かおかしくないか?
  • 2.1 データ構造を理解する
  • 2.2 フィールドの検証
  • 2.3 値の検証
  • 2.4 単純な統計による物理的解釈
  • 2.5 可視化
  • 2.6 キーワードPPCの例
  • 2.7 検索参照の例
  • 2.8 推薦分析
  • 2.9 時系列データ
  • 2.10 まとめ
  • 3章 機械ではなく人間が使う事を意図したデータ
  • 3.1 データ
  • 3.2 問題:人間が使うためにフォーマットされたデータ
    • 3.2.1 データの配置
    • 3.2.2 複数ファイルにわたるデータ
  • 3.3 解決策:コードを書く
    • 3.3.1 扱いにくいフォーマットからデータを読み込む
    • 3.3.2 複数のファイルにわたるデータを読み込む
  • 3.4 あとがき
  • 3.5 ほかのフォーマット
  • 3.6 まとめ
  • 4章 プレーンテキストに潜むバッドデータ
  • 4.1 プレーンテキストのエンコーディング
  • 4.2 テキストエンコーディングの推測
  • 4.3 テキストの正規化
  • 4.4 問題:アプリケーション固有文字のプレーンテキストへの漏れ出し
  • 4.5 Python を使ったテキスト処理
  • 4.6 練習問題
  • 5章 Webにあるデータの(再)構成
  • 5.1 データを直接入手できないか?
  • 5.2 一般的なワークフロー
    • 5.2.1 robots.txt
    • 5.2.2 パターンの特定
    • 5.2.3 パースのためにオフライン版を保存する
    • 5.2.4 ページから情報をスクレイプする
  • 5.3 現実の難しさ
    • 5.3.1 できるだけ生のコンテンツをダウンロードする
    • 5.3.2 フォーム、ダイアログボックス、新規ウィンドウ
    • 5.3.3 Flash
  • 5.4 ダークサイド
  • 5.5 まとめ
  • 6章 オンラインレビューから嘘つきと混乱した人を発見する
  • 6.1 Weotta
  • 6.2 レビューの入手
  • 6.3 センチメント分類
  • 6.4 極性のある言葉
  • 6.5 コーパス生成
  • 6.6 分類器のトレーニング
  • 6.7 分類器の検証
  • 6.8 データによる設計
  • 6.9 学んだこと
  • 6.10 まとめ
  • 6.11 リソース
  • 7章 バッドデータは起立して
  • 7.1 例題1:製造時の欠損削減
  • 7.2 例題2:だれが電話をかけたのか?
  • 7.3 例題3:「平均値」が「標準的な値」とみなせないとき
  • 7.4 学んだこと
  • 7.5 これはテストに出ますか?
  • 8章 血と汗と尿
  • 8.1 とってもオタクな入れ替わりコメディ
  • 8.2 化学者による数値の作り方
  • 8.3 All Your Database are Belong to Us
  • 8.4 チェックしよう
  • 8.5 人生は太く短く、見栄えの良いコードを残すべし
  • 8.6 化学者とスプレッドシート乱用者のためのリハビリ
  • 8.7 まとめ
  • 9章 データと現実が一致しないとき
  • 9.1 それは何のティッカー?
  • 9.2 分割、配当、単位変更
  • 9.3 バッドリアリティ
  • 9.4 まとめ
  • 10章 バイアスとエラーの源
  • 10.1 補完バイアス
  • 10.2 報告エラー
  • 10.3 その他のバイアス源
    • 10.3.1 トップコーディング、ボトムコーディング
    • 10.3.2 継ぎ目バイアス
    • 10.3.3 代理報告
    • 10.3.4 サンプル選択
  • 10.4 まとめ
  • 10.5 参考文献
  • 11章 最善は善の敵、バッドデータは本当にバッドなのか?
  • 11.1 大学院時代
  • 11.2 プロフェッショナルな世界へ
  • 11.3 政府の仕事へ
  • 11.4 行政データという現実
  • 11.5 911緊急通報データ
  • 11.6 さらに先へ
  • 11.7 学んだこと、そして今後の展望
  • 12章 ファイルにこだわる
  • 12.1 昔のはなし
    • 12.1.1 ツールセットの構築
    • 12.1.2 データストアという障害
  • 12.2 ファールをデータベースと見なす
    • 12.2.1 ファイルはシンプル
    • 12.2.2 ファイルは何にでも使える
    • 12.2.3 ファイルには何でも入れられる
    • 12.2.4 データ破損が局所的である
    • 12.2.5 すばらしいツールがある
    • 12.2.6 導入コストがかからない
  • 12.3 ファイルの概念
    • 12.3.1 エンコーディング
    • 12.3.2 テキストファイル
    • 12.3.3 バイナリデータ
    • 12.3.4 メモリマップドファイル
    • 12.3.5 ファイルフォーマット
    • 12.3.6 区切り文字
  • 12.4 ファイルに基づいたWebフレームワーク
    • 12.4.1 モチベーション
    • 12.4.2 実装
  • 12.5 考察
  • 13章 Crouching Table, Hidden Network
  • 13.1 リレーショナルなコスト配分モデル
  • 13.2 組み合わせ爆発という繊細な響き
  • 13.3 隠れたネットワークが現れる
  • 13.4 グラフを格納する
  • 13.5 Gremlinを使ったグラフのナビゲート
  • 13.6 ネットワークプロパティに価値を見いだす
  • 13.7 複数のデータモデルから、仕事にふさわしいツールを使う
  • 13.8 謝辞
  • 14章 クラウドコンピューティングの神話
  • 14.1 クラウド入門
  • 14.2 「クラウド」とは何か?
  • 14.3 クラウドとビッグデータ
  • 14.4 フレッドについて
  • 14.5 最初はすべてがうまくいっている
  • 14.6 すべてをクラウドのインフラに任せる
  • 14.7 成長に合わせて、最初は簡単にスケールする
  • 14.8 やがて問題が起こり始める
  • 14.9 パフォーマンスを改善する必要がある
  • 14.10 高速なI/Oが必要になる
  • 14.11 局所的な機能停止が大規模なサービス停止を引き起こす
  • 14.12 高速なI/Oは高くつく
  • 14.13 データサイズが増加する
  • 14.14 地理的冗長性が最優先になる
  • 14.15 水平方向のスケールは思っていたほど簡単ではない
  • 14.16 コストは劇的に増加する
  • 14.17 フレッドの愚かさ
  • 14.18 神話1:クラウドはあらゆるインフラ構成要素にとって、素晴らしい解決策である
    • 14.18.1 この神話はフレッドの話にどう関係するのか
  • 14.19 神話2:クラウドはお金を節約する
    • 14.19.1 この神話はフレッドの話にどう関係するのか
  • 14.20 神話3:クラウドのI/Oパフォーマンスは、ソフトウェアRAIDによって許容できるレベルにまで改善される
    • 14.20.1 この神話はフレッドの話にどう関係するのか
  • 14.21 神話4:クラウドコンピューティングは水平方向のスケールを簡単にする
    • 14.21.1 この神話はフレッドの話にどう関係するのか
  • 14.22 まとめ
  • 15章 データサイエンスのダークサイド
  • 15.1 落とし穴を避ける
  • 15.2 汝、データについて知るべからず
    • 15.2.1 データをきれいにしてまとめる際には一貫性を持つべからず
    • 15.2.2 データは正しく完全だと思え
    • 15.2.3 時間区切りデータのあふれ
  • 15.3 汝、データサイエンティストにあらゆるタスクのための単一ツールを与えよ
    • 15.3.1 アドホックな分析のためにプロダクション環境を使う
    • 15.3.2 理想的なデータサイエンス環境
  • 15.4 汝、分析のために分析せよ
  • 15.5 汝、学びを共有するべからず
  • 15.6 汝、データサイエンティストに全能を期待せよ
    • 15.6.1 データサイエンティストは組織のどこにいるのか?
  • 15.7 最後に
  • 16章 機械学習の専門家の手なづけ方
  • 16.1 問題を定義する
  • 16.2 作る前に、うまくいっているふりをする
  • 16.3 トレーニングセットを作成する
  • 16.4 特徴を選び出す
  • 16.5 データをエンコードする
  • 16.6 トレーニングセット、テキストセット、ソリューションセットに分ける
  • 16.7 問題を説明する
  • 16.8 質問に答える
  • 16.9 解決策を統合する
  • 16.10 まとめ
  • 17章 データ追跡可能性
  • 17.1 なぜ?
  • 17.2 個人的経験
    • 17.2.1 スナップショット
    • 17.2.2 情報源の保存
    • 17.2.3 情報源の重み付け
    • 17.2.4 データを元に戻す
    • 17.2.5 フェーズを分ける(そしてフェーズを純粋に保つ)
    • 17.2.6 根本原因を特定する
    • 17.2.7 改善領域を見つける
  • 17.3 不変性:関数型プログラミングからアイデアを拝借する
  • 17.4 例題
    • 17.4.1 クローラー
    • 17.4.2 変更
    • 17.4.3 クラスタリング
    • 17.4.4 人気
  • 17.5 まとめ
  • 18章 ソーシャルメディア:消去可能インク?
  • 18.1 ソーシャルメディア:これはだれのデータか?
  • 18.2 コントロール
  • 18.3 商用再配信
  • 18.4 コミュニケーションと表現に関する期待
  • 18.5 新しいユーザが抱く期待の技術的影響
  • 18.6 業界は何をするのか?
    • 18.6.1 検証API
    • 18.6.2 更新通知API
  • 18.7 エンドユーザは何をすべきか?
  • 18.8 どのように協業するのか?
  • 19章 データ品質分析の解明:データが十分良いときを知る
  • 19.1 フレームワークの紹介:データ品質分析の四つのC
  • 19.2 完全である
  • 19.3 一貫している
  • 19.4 正しさ
  • 19.5 説明責任
  • 19.6 まとめ
  • 索引

【感想は?】

 ベテラン・プログラマの「あるある」集。

 多少なりとも仕事でプログラムを作った経験があるなら、一度は変なデータに手ひどく痛めつけられた経験があるだろう。特に、人間が入力したデータは危ない。数字のカラムのはずなのに、atoi() で変換できないとか。

 原因は位取りのカンマだったり、全角の数字だったり。酷いのになると、漢数字なんてのもある。そういうので苦労した経験がある人には、特に前半じゃ苦笑いが止まらない。そういえば日本のプログラマなら、みんな苦しむ「住所を都道府県・市町村・所番地に分割する」なんて問題もあるね。

 やはり日本のプログラマが昔から悩んでいた問題を扱ったのが、「4章 プレーンテキストに潜むバッドデータ」。要は文字コードの問題だ。最近は「とりあえず Unicode でいいじゃん」的な風潮になりつつあるが、古いデータだと姓名とかに外字が入ってたりするからタチが悪い。まあ、ここではそこまで突っ込んだ話はなく、HTTP や URL などの独自エンコーディングぐらいに留めてある。

 最近になると Web が流行って、様々なデータを集めやすくはなったけど、それをプログラムに食わせるとなると、これまた一筋縄じゃ行かない。各自治体が発表している統計データも、自治体ごとにサイトの構成もデータ形式も違う。Excel なら可愛い方で、中には PDF や Flash なんて凶悪な奴も。ほんと、皆さん一度はこう叫んだことがある筈だ。

最初から人間ではなくコンピュータが使えるようなフォーマットにしておけばよかったのに。
  ――3章 機械ではなく人間が使う事を意図したデータ

いやホント、政府が主導して XML の標準形式を定めてくれればいいのに。いまだに発想が紙ベースなんだよなあブツブツ。

そんな風に Web 経由でデータを集めようとすると、他にも色々と困ることがある。なにせ相手は「人に見せる」ために作っているので…

以前、何日か実行していたWebスクレイピングのスクリプトが突然エラーを吐き始めたことがありました。問題は、Webサイトがまったく違うデザインになったことでした。
  ――5章 Webにあるデータの(再)構成

 ああ、あるねえ。まあ、人様のデータを勝手に頂いてるんだから、文句も言えないシクシク。酷いのになると、訴訟沙汰になったり(→Wikipedia)。もっとも、中には Facebook や Twitter みたく親切な所もあって…

スクレイピングを最小限にするためによく利用されているのは、スクレイパーが実際に欲しがっているデータのための公式チャンネルを提供することです。
  ――18章 ソーシャルメディア:消去可能インク?

 ほんと、先の事件も全国の図書館が協力して蔵書 XML の標準形式を…って、もうあるみたいだ。おかげでカーリルなんて嬉しいサービスも始まった。ラッキー。

 データが集まったからといって安心しちゃいけない、と教えてくれる「7章 バッドデータは起立して」「9章 データと現実が一致しないとき」「10章 バイアスとエラーの源」「11章 最善は善の敵、バッドデータは本当にバッドなのか?」は、コードが少ない分、コラムとして面白かった。

 また「6章 オンラインレビューから嘘つきと混乱した人を発見する」は、自然言語処理ネタとして楽しめる。うん、確かにお気に入りを自分だけのモノにしたいって気持ちはわかるw 終盤では「14章 クラウドコンピューティングの神話」や「16章 機械学習の専門家の手なづけ方」など、大規模データにまつわる話も出てくる。案外と機械学習って、根気のいる地道な繰り返し作業も多いのね。

 そんな大容量データとくればデータ・マイニング。私も名前は知ってるけど中身はよくわからない。これは私だけじゃなく経営者も同じで、中にはこんな無茶ぶりする人も。

「データのところへ行って、価値を見つけてこい!」
  ――15章 データサイエンスのダークサイド

 わはは。コンピュータ絡みの世界って、昔から変わんないなあ。そこのシステム屋さん、似たような事を言われた経験、ありませんか?

 などと無駄口を叩いてなんとか記事をデッチあげたけど、実は記事を書いてるよりアクセス・ログを眺めている時間の方が多かったりする。そんなヒマがあったら、もっと面白い記事をかけよ、などと思ったりもするけど、この本は心強い言葉で締めくくられている。

データを調べている時間は必ず有意義である。
  ――19章 データ品質分析の解明:データが十分良いときを知る

 うん、そうだよね、きっと私がログを眺めている時間だって無駄じゃないはずだ←をい

【関連記事】

【おまけ:バッドデータの例】

 なんて言うほどでもないけど。このブログ、ときおり「著者別の書評一覧」が欲しくなったりする。「書評一覧」なんて記事があるぐらいだから、簡単そうに思えるけど、実は意外と手ごわい。というのも、他でもない、バッドデータがうじゃうじゃあるからだ。

 基本的に、記事タイトルはこんな形になっている。

著者名「書名」出版社 [ 訳者 ]

 ところが、こうなってない記事が幾つもあるのだ。例えば…

  1. SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2019年版」早川書房
  2. 宮内悠介短編集「超動く家にて」東京創元社
  3. 日下三蔵編「日本SF傑作選4 平井和正 虎は目覚める/サイボーグ・ブルース」ハヤカワ文庫JA
  4. 大森望・日下三蔵編「年刊日本SF傑作選2013 さよならの儀式」創元SF文庫
  5. C.L.アンダースン(サラ・ゼッテル)「エラスムスの迷宮」ハヤカワ文庫SF 小野田和子訳
  6. ギレルモ・デル・トロ&チャック・ホーガン「ストレイン 永遠の夜 上・下」ハヤカワ文庫NV 嶋田洋一訳

 また、表記の「ゆれ」もある。カート・ヴォネガットとカート・ヴォネガット・ジュニア、ベルナール・ウェルベルとベルナール・ウエルベルとベルナール・ヴェルベールとか。

 加えて、「スタートボタンを押してください」みたくアンソロジーになると、多数の著者が寄稿してて、かつ著者名は記事本文の中に埋もれてたり。

 この程度のブログでさえ、書籍データをキチンと定型化できてない。となると、すべての書籍のメタデータを規格化しようとしたら、どれほどの「想定外のパターン」が出てくることか。これをすべて洗い出すってのは、かなりシンドい仕事になるはずだ。モノゴトをコンピュータが扱えるようにデータ化するってのは、そういう事なんです。

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2019年5月24日 (金)

ティム・ハーフォード「50 いまの経済をつくったモノ」日本経済新聞出版社 遠藤真美訳

この本は、紙、バーコード、知的財産、文字など、50の発明をとりあげて、世界経済はどのように動いているのか、その知られざる物語にスポットライトを当てる。
  ――はじめに

1960年代初めには、世界の商品貿易額は世界国内総生産(GDP)の二割に満たなかった。それがいまでは五割前後になっている。
  ――17 輸送用コンテナ

貨幣とは債務なのである。
  ――20 取引できる債務とタリースティック

都市の光景はひっくり返ろうとしていた。そのきっかけをつくったのは、エレベーターを発明した男ではなく、エレベーターのブレーキを発明した男だった。
  ――22 エレベーター

グレース・ホッパー「いままで誰もそんなことを考えなかったのは、みんな私のようにものぐさではなかったからだ」
  ――29 コンパイラ

iPhone の開発の基礎をつくったのはスティーブ・ジョブスではない。アンクル・サムだったのだ。
  ――30 iPhone

世界の財の輸送コストのうち、燃料は約七割を占める。科学者のバーツラフ・シュミルは、グローバリゼーションの原動力がディーゼルではなく蒸気だったら、貿易の発展はずっと遅くなっていただろうと指摘している。
  ――31 ディーゼルエンジン

原油生産量の約8%がプラスチック生産に使われており、うち半分の4%が原材料、残り4%がエネルギーになる。
  ――36 プラスチック

「いま年収七万ドル稼ぐのと、1900年に七万ドル稼ぐのと、どちらがいいですか」
  ――50 電球

【どんな本?】

 エルトン・ジョンとペーパーレス・オフィスの関係は? 40年間、ある発明を禁止することで、日本の社会が被った影響とは? FRB議長と元の皇帝フビライ・カンの共通点は?

 人類の歴史は、様々な発明に彩られている。必要に迫られて生み出されたものもあれば、たまたま巧くいったものもある。車輪のように他の発明の基礎となったものもあれば、他の発明を幾つも組み合わせたものもある。それ自体で便利に使えるものもあれば、しくみ全体の改革を促すものもある。

 発明の経緯が様々なら、それが生み出す結果も多種多様だ。風が吹けば桶屋が儲かる的に、一つの発明が思わぬ所で役に立ったり、または大きな損害をもたらす場合もある。

 発明から始まるバタフライ効果の例50個をジャーナリストがまとめた、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は FIFTY THINGS : That Made the Modern Economy, by Tim Harford, 2017。日本語版は2018年9月21日1版1刷。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約391頁に加え、訳者あとがき3頁。9.5ポイント42字×17行×391頁=約279,174字、400字詰め原稿用紙で約698枚。文庫本なら少し厚い一冊分ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい物が多い。敢えて言えば世界史を少し知っていた方が楽しめるが、知らなくても特に問題はないだろう。

【構成は?】

 それぞれの項目は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 1 ブラウ
  • はじめに
  • Ⅰ 勝者と敗者
  • 2 蓄音機
  • 3 有刺鉄線
  • 4 セラーフィードバック
  • 5 グーグル検索
  • 6 パスポート
  • 7 ロボット
  • 8 福祉国家
  • Ⅱ 暮らし方を一変させる
  • 9 育児用粉ミルク
  • 10 冷凍食品
  • 11 ピル
  • 12 ビデオゲーム
  • 13 マーケットリサーチ
  • 14 空調
  • 15 デパート
  • Ⅲ 新しいシステムを発明する
  • 16 発電機
  • 17 輸送用コンテナ
  • 18 バーコード
  • 19 コールドチェーン
  • 20 取引できる債務とタリースティック
  • 21 ビリーブックケース
  • 22 エレベーター
  • Ⅳ アイデアに関するアイデア
  • 23 楔形文字
  • 24 公開鍵暗号方式
  • 25 複式簿記
  • 26 有限責任株式会社
  • 27 経営コンサルティング
  • 28 知的財産
  • 29 コンパイラ
  • Ⅴ 発明はどこからやってくるのか
  • 30 iPhone
  • 31 ディーゼルエンジン
  • 32 時計
  • 33 ハーバー=ボッシュ法
  • 34 レーダー
  • 35 電池
  • 36 プラスチック
  • Ⅵ 見える手
  • 37 銀行
  • 38 カミソリと替え刃
  • 39 タックスヘイブン
  • 40 有鉛ガソリン
  • 41 農業用抗生物質
  • 42 モバイル送金
  • 43 不動産登記
  • Ⅶ 「車輪」を発明する
  • 44 紙
  • 45 インデックス・ファンド
  • 46 S字トラップ
  • 47 紙幣
  • 48 コンクリート
  • 49 保険
  •  結び 経済の未来
  • 50 電球 
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 「世界を変えた6つの『気晴らし』の物語」や「人類を変えた素晴らしき10の材料」に似た面白さがある。

 つまりはアイデアやテクノロジーが、私たちの暮らしをどう変えたか、という話。で、違うのは、大きく分けて三点。

 ひとつは、著者の立場だ。本書の著者は経済学に詳しい。そのためか、「ソレがGDPを何%押し上げたか、または費用が掛かったか」などの数字が出てくる。数字が好きな人に、こういうのは嬉しい。いや私の事なんだけど。もっとも、その大半は「○○の試算によれば」的な断り書きがつくんだけど、とりあえず数字が出てくれば見当がつけやすいのだ。

 次に、扱うモノの数が多いこと。これは良し悪しで、料理で言えば小皿が次々と出てくる感じだ。バラエティ豊かな味を楽しめるのはいいんだが、それぞれの量が少ないため、ちょっと食い足りない気分も残る。もっとも、その辺は、例えば「3 有刺鉄線」は「鉄条網の歴史」を、「17 輸送用コンテナ」は「コンテナ物語」を、「44 紙」は「紙の世界史」を読めばいいんだけど。

 そして最後に、発明が社会に与えた影響を大きく取り扱っていること。特に利益だけでなく、費用や損害についてもキチンと書いているのが特色だろう。

 パッと見ても分かるのが「40 有鉛ガソリン」で、ガソリン・エンジンの効率を上げる反面、都市に住む人に多大な健康被害をもたらした。ハーバー=ボッシュ法は人類を飢餓から救ったが、困った副産物も創り出してしまった。詳しくは「大気を変える錬金術」をどうぞ。いやマジであの本は傑作です。

 私のようなオッサンは、「流しのギター弾き」なる存在を知っている。だがカラオケにより彼らは駆逐された。昔は多少ギターが弾けて愛想がよければ食っていけたが、今は相応の技術とセンスとルックスとコネと若さがないと無理だ。それもエジソンの蓄音機に始まる録音・再生技術の発展によるもの。ジェフ・ベックの妙技に慣れた者は私のギコギコ音なぞ騒音としか思わない。おのれエジソン。

 だが、お陰で私はいつでもエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード(→Youtube)」を楽しめる。二流三流のミュージシャンは淘汰され、一流ミュージシャンは大金を稼ぐ。「上位1%のアーティストのコンサート収入は、下位95%のアーティストの収入を合計した額の5倍を超える」という、たいへんな格差社会になってしまった。

 今や音楽は聴くものであって自ら演奏するものではない…と思ったが、「隠れた音楽家たち」によると、1980年代まではソレナリに生き残っていた様子。日本でも繁華街には楽器屋もあるし、暫くは大丈夫かな? ちなみにクラシック界にも大変動が起きてて、それについては、「音楽の進化史」が詳しいです。

 著者が気づいているかどうかはわからないが、実は似たような変化が19世紀に起きている。主役はチャールズ・ディケンズ、イギリスのベストセラー作家だ。当時のアメリカは新興国で、ディケンズ作品の違法コピーを新聞が堂々と載せていた。まるでちょっと前の日本のアニメと中国の関係だね。これに怒ったディケンズは、1842年にアメリカに渡り抗議するが、新聞に袋叩きにされてしまう。

 幸い晩年になって、ディケンズは大きな利息を手に入れる。25年後に再びアメリカを訪れたディケンズは、公開朗読会で大儲けするのだ。違法コピーによって彼の名は多くの人に知れ渡り、大人気になっていた、というオチ。

 これを今のポピュラー音楽で言うなら、無料配信で名を売りライブで稼げって形か。ちなみに既に20世紀に成功させた人たちもいて、その名をグレイトフル・デッドと言います。まあ知的財産にはご存知のような利害があって、私は「Free Culture」が唱える形が現実的かな、と思ってます。一定期間は全部を無料で保護するけど、それ越えたら延長料を払ったモノだけ保護するって形。

 ちょっと前に某銀行の情報システム改修が話題になった。これにピッタリ合致する例が、「16 発電機」に出てくる。19世紀末から20世紀初頭のアメリカの製造業で起きた、蒸気機関から電気駆動への置き換えだ。これが、意外にも手間取った。

 蒸気機関はデカく、気難しい。起動にも停止にも時間がかかる。だから工場全体で一個の大型蒸気機関を置き、その動力を工場全体にシャフトなどで配っていた。当時の工場は壮観だろうなあ。

 そんなんだから、当時の工場を設計する際は、蒸気機関を中心に考えていた。工場だけじゃない。人員配置も、製造工程も、蒸気機関が支配していた。いかに巧く蒸気機関を使いこなすかが、工場の経営のカギだったのだ。

 これが電気駆動だと全く違ってくる。巨大な蒸気ボイラーに比べたら電気モーターは豆粒だ。すぐ動くしシャフトで動力を伝える必要もない。電線をひいてもう一つモーターを足せばいい。蒸気機関は工場全体の動力を賄うが、電気モーターは必要なラインだけを動かせばいい。

 つまり、蒸気機関から電気への移行は、工場経営の概念そのものを変える必要があった。これに時間がかかったのだ。

 これが某行とどう関係してるかというと、あそこ既存システムを単に合体させただけなんだよね。業務の基本概念は変えてない。だから無駄に手間が増えてる。これを本書では、コンピュータ導入による効果の大小で論じてる。曰く、コンピュータに合わせて経営を変えれば効果は大きいが、経営に合わせてコンピュータを組み込んでも成果はない、と。日本でホワイトカラーの生産性が上がらないのも、そういう事だろう。

 さて、その某行でかつて活躍していたのが、「29 コンパイラ」に出てくるCOBOL。もっとも主役を務めるのはその母グレース・ホッパーだけど。

 彼女の言葉が、FORTRAN の開発者ジョン・バッカスとソックリなのが笑える(→Wikipedia)。ちなみに PERL の開発者 Larry Wall 曰く、「プログラマの三大美徳は怠惰・短気・傲慢」。加えてCOBOLのライブラリが充実していく過程は、Linux のデバイス・ドライバが充実していく様子とソックリだったりw ったく、この半世紀でコンピュータは進歩してるのに、プログラマはほとんど進歩してないw

 などと、ハードウェア・ソフトウェア・概念などを取りまぜ、面白ネタを次から次へと紹介してくれるのが、本書の楽しいところ。もっとも、私のように妄想逞しい者が読むと、そっちに気を取られてなかなか頁がめくれないのが欠点かも。

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2019年5月12日 (日)

レベッカ・スクルート「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」講談社 中里京子訳

「ヒーラ細胞は、過去百年間に医学界に生じたもっとも重要な出来事のひとつだ」
  ――プロローグ 写真の女性

「あの人たち、あんたをタールみたいに真っ黒に焼いちゃったんだね」
  ――5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年

「なんでもかんでも、あの細胞の話だけなんだ。もんな母さんの名前さえ、どうでもいいと思ってる」
  ――6 初めての電話 1999年

「なんで彼女が死んで、あれがまだ生きとるのか。ここに住んでるみんなには、まったくわからんのだ。謎は、そこなんだよ」
  ――10 霊の仕業 1999年

米国医師会は、1910年に実験動物を保護する規定を公布していたが、人間に関する規定については、(1947年のニュルンベルク綱領まで)なにも手がけていなかった。
  ――17 人の道にもとる研究 1954年~1966年

ことの発端は「細胞のセックス」である。
  ――18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年

「もっともシンプルな説明は――」と(スタンリー・)ガートラーは聴衆に語りかけた。「この18種類の細胞はみな、ヒーラ細胞に汚染されているというものです」
  ――20 ヒーラ爆弾 1966年

「…ぼくは“モー”だったんだ。単なる細胞株で、肉片みたいなものだったのさ」
  ――25 「ぼくの脾臓を売っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年

進化生物学者リー・ヴァン・ヴェイレン「われわれはここに、ヒーラ細胞が新たな生物種として独立したとみなすよう、真摯に提案するものである」
  ――27 不死の秘密 1984年~1995年

「あたしが望んでいるのは、ヒーラって呼ばれてる母さんのほんとうの名前はヘンリエッタ・ラックスだってみんながわかるように、ちゃんと歴史に残すことだけなんだ」
  ――29 デボラとの対面 2000年

「たとえ、あたしたちが傷つくことになっても、ザカリヤには話をさせなきゃって。ザカリヤは怒ってる。だから、それを吐き出させなきゃならない。でなけりゃ、爆発しちまうって」
  ――30 ザカリヤ 2000年

「おじょうちゃん、あんたはたった今、奇跡を目にしたんだよ」
  ――32 「これが全部母さん……」 2001年

「覚悟はしておいた方がいい」(略)「知ることは、知らなかったのと同じくらい辛いことがあるから」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「あたしらはもっといっぱい取材しなくちゃならないんだ」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「いつの日かこの子は、曾祖母のヘンリエッタが世界を助けたことを知るだろう!」
  ――37 「怖がることなんて何もない」 2001年

【どんな本?】

 ヒーラ細胞(→Wikipedia)は、ヒトの細胞株の一種である。癌細胞に由来し、増殖が速い。最大の特徴は、「不死」である点だ。普通の細胞は50回程度の細胞分裂で死ぬが、ヒーラ細胞はずっと細胞分裂を続ける。そのため培養しやすく、医学や生物学の実験に便利だ。

 その成果も絶大で、癌の遺伝子研究をはじめヘルペス・血友病・インフルエンザ・血友病・パーキンソン病などの治療薬の開発や、性感染症・虫垂炎・ヒトの寿命など、多くの利益を人類にもたらしている。

 だが、その細胞を提供した人物、ヘンリエッタ・ラックスについては、ほとんど知られていなかった。ラックスの家族すら、彼女が何をしたのか、彼女の細胞がどう使われ、どんな役に立ったのか、全く知らなかったのだ。

 いかにしてヒーラ細胞は誕生し、普及したのか。それは医学・生物学にどんな影響を及ぼし、どう変えたのか。なぜヘンリエッタの家族は何も知らなかったのか。ヘンリエッタ・ラックスとはどんな人物で、どんな生涯を送ったのか。

 不死細胞の由来を追い、現代の医学・生物学そして医療の進歩と問題点を明らかにするとともに、ヘンリエッタ・ラックスとその家族の人生を描き出す、迫真の科学ドキュメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Immortal Life of Henrietta Lacks, by Rebecca Skloot, 2010。日本語版は2011年6月14日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約451頁。9ポイント45字×20行×451頁=約405,900字、400字詰め原稿用紙で約1,015枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。理科で細胞について学んでいれば、中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 ご覧のように時系列は前後するが、ちゃんと考えた上での構成なので、できれば素直に頭から読んだ方がいい。

  • 本書について/主な登場人物/地図
  • プロローグ 写真の女性
  • 娘・デボラの言葉
  • 第1部 生
  • 1 運命の検査 1951年
  • 2 クローヴァー 1920年~1942年
  • 3 診断と治療 1951年
  • 4 ヒーラ細胞の誕生 1951年
  • 5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年
  • 6 初めての電話 1999年
  • 7 培養細胞の死と生 1951年
  • 8 再入院 1951年
  • 9 ターナーステーション 1999年
  • 10 霊の仕業 1999年
  • 11 痛みの悪魔 1951年
  • 第2部 死
  • 12 嵐 1951年
  • 13 ヒーラ・ファクトリー 1951年~1953年
  • 14 ヘレン・レイン 1953年~1954年
  • 15 虐待 1951年~1965年
  • 16 白人も黒人も 1999年
  • 17 人の道にもとる研究 1954年~1966年
  • 18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年
  • 19 クレイジージョー 1966年~1973年
  • 20 ヒーラ爆弾 1966年
  • 21 夜の医者 2000年
  • 22 明かされた名前 1970年~1973年
  • 第3部 永遠なる命
  • 23 「生きてるんだって!」 1973年~1974年
  • 24 せめてすべきこと 1975年
  • 25 「ぼくの脾臓を撃っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年
  • 26 プライバシーの侵害 1980年~1985年
  • 27 不死の秘密 1984年~1995年
  • 28 ロンドンの後 1996年~1999年
  • 29 デボラとの対面 2000年
  • 30 ザカリヤ 2000年
  • 31 死の女神ヘラ 2000年~2001年
  • 32 「これが全部母さん……」 2001年
  • 33 ニグロ専門精神病院 2001年
  • 34 医療記録 2001年
  • 35 魂の浄化 2001年
  • 36 天に属するもの 2001年
  • 37 「怖がることなんて何もない」 2001年
  • 38 クローヴァーへの遠い道 2009年
  • 登場“人物”のその後
  • あとがき

【感想は?】

 科学ドキュメンタリーかと思って読み始めたら、実は「もう一つの『ルーツ』」だった。

 お話は、大きく分けて三つのテーマから成っている。一つは、ヘンリエッタ・ラックスと家族の生涯。次に、ヒーラ細胞が医学界・生物学会に引き起こした騒動。そして最後に、著者がヘンリエッタ・ラックスへと迫ってゆく過程。

 私は二番目、つまり医学・生物学の話を期待して読み始めた。もちろんソレも面白かったが、最初のヘンリエッタ・ラックス一族の歴史と、最後の取材過程の迫力には、ひたすら圧倒された。特にヘンリエッタの末娘デボラが本格的に登場する第3部後半は、嵐のようなドラマが展開する。

 ヒーラ細胞が普及する過程で印象に残るのは、その培養に成功したジョージ・ガイだ。苦学してピッツバーグ大学で学び、ジョンズ・ホプキンス病院に勤める。モノ作りの才も豊かで、研究室まで妻のマーガレットと共に自作してしまう。ハードウェアも自作した、コンピュータ黎明期のハッカーと同じタイプだ。

 しかも、ヒーラ細胞が普及する過程も、unix黎明期とソックリなのに笑った。ヒーラ細胞の培養に成功し、その便利な性質を知ったガイは、誰彼構わず研究者たちにヒーラ細胞を配りまくるのである。おまいはケン・トンプソンかw 科学の進歩に貢献するのが嬉しくてたまらない、そういう人なんだろう。

 ヒーラ細胞の何が嬉しいかというと。たいていの細胞は、培養が難しい上に、増殖に限界がある。50回ほど分裂したら、死んでしまう。科学の実験は、誰もが同じ条件で追実験できなきゃいけない。でも肝心の実験材料=細胞に限りがあったら、同じ実験を再現できない。でもヒーラ細胞は幾らでも増殖する。だから、誰でも同じ条件で追実験できる…はず。

 しかも、ヒトの細胞だ。例えば新しい薬の効果を調べたい。マウスで効果があった。でもヒトでどうなるかはわからない。そこでヒーラ細胞だ。ヒーラ細胞に薬を与えて、効けばよし。効かない、どころか死んじゃったとしても、ヒーラ細胞なら代わりはいくらでもある。ヒーラ細胞を使ってマズい所を突き止め、再び実験すればいい。

 手軽に使える実験材料があるから気軽に実験できる。お陰でポリオのワクチンを皮切りに、ヒーラ細胞は幾つもの研究に貢献してゆく。中には、化粧品の研究まであるのが感慨深い。

 ただ、培養しやすいのは長所ばかりとは限らず、思わぬ落とし穴があるのも、科学の怖いところ。

 さて、化粧品が感慨深いのには、理由がある。元となったヘンリエッタ・ラックスが、身だしなみに気を遣うおしゃれなご婦人だからだ。亡くなった時も、癌に苦しみながら、ベティキュアは忘れなかった。おまけに明るくて気立てが良く、子どもたちを深く愛していた。この辺は是非とも本書をお読みいただきたい。

 そんなヘンリエッタの人生を掘り起こそうとする著者が、ラックス一族へと迫ってゆく過程が、まさしく『ルーツ』そのものなのだ。

 大学院卒で無神論者に近いユダヤ系の著者と、貧しく無学で信心深い黒人のラックス一族の間には、深い溝がある。特に母ヘンリエッタの事を知りたいと強く願いつつも、それまでの無神経な取材や医学者たちの態度に根深い不信感を持つ末娘のデボラが、著者とチームとなり、ヘンリエッタの生涯を追うストーリーは、ミステリとしても大河ドラマとしても重量級の迫力がある。

 このデボラもまた感情豊かな人で、特に弟のザカリヤを見守る姿は、縁こそ薄かったもののヘンリエッタから愛情の深さをちゃんと受け継いでるんだなあ、なんてしみじみ感じてしまう。…とか書いてるとキリがないんで、今日はこの辺で。

 医学・生物学における一つの技術が普及するまでの科学ノンフィクションであり、遺伝子技術が発達した現代における法と倫理を問う問題作であり、激しい人種差別があった時代のスナップ・ショットであり、また今なお残るその禍根のルポルタージュであり、そして何より厳しい中で生き抜いてきたラックス一族のファミリー・ドラマだ。ただし寝不足になっても私は責任を取らないのでそのつもりで。

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2019年4月28日 (日)

ロバート・P・クリース「世界でもっとも美しい10の科学実験」日経BP社 青木薫訳

本書で取り上げた実験はどれも、科学における大きなパラダイム・シフト――アリストテレスの運動観からガリレオの運動観へ、光の粒子像から波動像へ、古典力学から量子力学へ――を力強く例証しているか、あるいはそれらパラダイム・シフトを起こさせる契機となったかのいずれかである。
  ――序文 移り変わる刹那

斜塔の実験には今日なおわれわれを驚かせる力があるのだ。
  ――第2章 球を落とす

「これを理解したとき、私は前述のガラス磨きの仕事をやめました。というのもこの性質があるせいで、望遠鏡の性能には限度があるとわかったからです」
  ――第4章 決定実験

「地球の自転を見に来られたし」
  ――第7章 地球の自転を見る

「あの実験を見た者は、言葉通りの意味において電子を見たのです」
  ――第8章 電子を見る

私が行った意見調査では、この実験を挙げた人が他を引き離して圧倒的に多かった。
  ――第10章 唯一の謎

【どんな本?】

 2002年、著者は≪フィジックス・ワールド≫誌で読者にアンケートを取る。「一番美しいと思う物理学の実験は何か」。読者が挙げた実験は三百以上にのぼる。その中から、最も人気の高かった10の実験を選び、それぞれの実験は何を調べようとしたのか・どのように実験が行われたのか・その実験はどんな意味があるのかなど、実験の背景・理論・実態そして影響を語り、科学における実験の面白さを伝える、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Prism and the Pendulum : The Ten Most Beautiful Experients in Science, by Robert p. Crease, 2003。日本語版は2006年9月19日1版1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約296頁に加え、訳者あとがき7頁。9ポイント45字×17行×296頁=約226,440字、400字詰め原稿用紙で約567枚。文庫本なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容は後に行くほど高度になり、また実験を素人が再現するのも難しくなる。

【構成は?】

 歴史的に古い実験から新しい実験へと話が進む。これは同時に科学の進歩に合わせた構成にもなっている。各章はほぼ独立しているので、興味のある所だけを拾い読みしてもいい。とはいえ、全他の流れとしては科学の歩みをなぞる形になるので、できれば頭から読んだ方が楽しいだろう。

  • 序文 移り変わる刹那
  • 第1章 世界を測る
    エラトステネスによる地球の外周の長さの測定
    interlude なぜ科学は美しいのか
  • 第2章 球を落とす
    斜塔の伝説
    interlude 実験とデモンストレーション
  • 第3章 アルファ実験
    ガリレオと斜面
    interlude ニュートン=ベートーヴェン比較論
  • 第4章 決定実験
    ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解
    interlude 科学は美を破壊するか
  • 第5章 地球の重さを量る
    キャヴェンディッシュの切り詰めた実験
    interlude 科学と大衆文化の統合
  • 第6章 光という波
    ヤングの明快なアナロジー
    interlude 科学とメタファー
  • 第7章 地球の自転を見る
    フーコーの崇高な振り子
    interlude 科学と崇高
  • 第8章 電子を見る
    ミリカンの油滴実験
    interlude 科学における知覚
  • 第9章 わかりはじめることの美しさ
    ラザフォードによる原子核の発見
    interlude 科学の芸術性
  • 第10章 唯一の謎
    一個の電子の量子干渉
    interlude 次点につけた実験
  • 終章 それでも科学は美しくありうるか?
  • 謝辞/訳者あとがき/図・写真一覧/原注/索引

【感想は?】

 「重大な」では、ない。「美しい」だ。同じようで、微妙に違う。美しさは重大さを含んでいるが、それ以外の何かもあるのだ。

 なんとなく、わかるのもある。第1章から第4章、それと第6章と第7章は、私も美しいと感じる。これをグループAとしよう。第5章は、美しさの理由が少し違う。これはグループB。第8章以降は、量子力学の世界だろう。これはグループCだ。

 グループAは、幾つかの共通点がある。最も大きいのは、私にもわかる点だ。わはは。

 ソレで何が証明できるのか。どんな理屈で証明できるのか。ソレが人々の世界観を、どう変えるのか。そういった事が、私にもわかるのだ。また、簡単に再現できる(気がする)のも大きい。実験が単純なほど美しいと私は感じるのだ。

 第1章のエラトステネスによる地球の外周を測る実験(→Wikipedia)は、単に地球の大きさがわかるだけじゃない。世界観とダイレクトに直結している。世界=地球が球形であることを明らかにしたのだ。それも、夏至の日に影の長さを測るという、極めて簡単な方法で。この、単純さと事の重大さの落差こそ、私が美しいと感じる理由だ。

 第2章と第3章は、ガリレオが主役を務める。科学におけるガリレオの影響の大きさがよくわかる構成だ。いずれも物を落とす実験なのか、彼の性格のため…じゃ、ないよね、たぶん。もしかしたら弾道学と関係あるのかも。

 第2章では、ピサの斜塔から重い玉と軽い玉を落とした事になっている。そしてゆで理論(→ピクシブ百科事典)は敗れるのだ。まあ、ゆで理論と言うと馬鹿な話のようだが、人の直感的としては、重い物の方が早く落ちるような気がするし、当時の人々もそう考えていたのだ。なんたって元祖はアリストテレスだし。

 第3章になると、更に一歩先へと進む。斜面に球を転がして、その速さの変化を求めるのである。実際には、一定時間内に転がった距離の変化なんだけど。ここで問題なのは、「一定時間」をどうやって測ったのか、という点。なんと、「腕のいいリュート奏者だったガリレオは、正確に拍子を取ることができた」。楽器演奏は物理学にも役立つのだ。ホンマかいな。

この本には書いてないけど、この実験は軍事にも大きな影響を与えたはずだ。というもの、昔は大砲の玉は、垂直に落ちると思われていたからだ。アルファ実験によって、放物線を描く事が明るみになる。当時の情勢を考えると、これは実にヤバい知識だよなあ。

 第4章の決定実験と第6章の二重スリット実験は、光の性質に関するもの。第4章でニュートンが「光は粒子だ」とした説を、第6章でヤングが「光は波だ」とひっくり返すのが感慨深い。いずれも、ちょっとした道具があれば自分でも出来そうなのが嬉しい。

 第7章のフーコーの振り子は、第1章の続編といった趣がある。私は上野の科学博物館で見た。何より、仕掛けの単純さが感動させる。要は紐の長い振り子ってだけなんだから。振り子自体は、同じ軌道を描いて揺れ続ける。だが地球は自転している、つまり振り子以外の世界が回っているので、私たちが見ると振り子の軌道が変わっていくように見える。動いているのは私たちであって、振り子じゃないのだ。

 単に振り子ってだけの単純な仕掛けで、地球の自転を感じさせる。実に見事な実験だと感服してしまう。

 とかの中で、美しさの毛色が違うと感じるのが、第5章のキャヴェンディッシュの実験。「地球の重さを量る」とあるが、彼が実際に量ったのは、二つの重い球の間に働く力だ。理屈は単純だが、これを現実に量るとなると、話は全く違ってくる。というのも、あまりに小さな力であるために、ちょっとした事柄が大きな誤差となるからだ。

 装置が重ければ、装置が球に力を及ぼしてしまう。温度が違えば対流で球が揺れる。球が鉄だと地磁気の影響を受ける。などの「雑音」を無くすために、キャヴェンディッシュは実験装置に徹底的に凝るのだ。この実験を最も美しいと感じるのは、オーディオ・マニアじゃないかと思う。また、この実験に票を入れたのは、実験物理学者だろう。彼らが日頃から苦労して心がけている「雑音を取り除く事」の難しさを、キャヴェンディッシュの実験が鮮やかに現わしているのだから。

 第9章は量子力学の実験ながら、自分でもできそうな気になる。これはアルファ線の正体を探る実験だ。まずガラス管の中にラドンを入れる。ラドンはアルファ線を出すことが知られていた。次に、そのガラス管を大きな真空のガラス管の中に入れる。二重のガラス管の中にラドンを閉じ込めるのだ。

 小さなガラス管と大きなガラス管の間は真空の筈だ。だが、時間がたつと、ヘリウムが溜まるのである。ヘリウムの元は、ラドンが出したアルファ線だろう。つまり、アルファ線=ヘリウムということだ。

 なんか簡単そうだし、今でも追実験できそうだが、interlude で望みを叩き潰すからいけず。

 正直、第8章以降は、自分の目で見ないと、ピンとこないと思う。いや実際に見ても、やっぱり「何かトリックがあるんじゃないか?」と勘ぐってしまうだろう。だからこそ、「美しい」のだ。私たちの直感を裏切り、理性が生み出した方程式に従う、そんな性質が、これらの実験の美しさの源なんだと思う。

【あなたなら?】

 著者も語っているように、この本の実験は物理学に偏っている。もともと質問が「一番美しいと思う物理学の実験」だし。科学に目を広げると、私は次の二つを付け加えたい。

  • ヤン・ファン・ヘルモント(→Wikipedia)の柳の木の実験。鉢に柳の木を植え、五年ほど育てる。減った土の重さと柳の重さを比べ、「柳は水で育った」と主張した。
  • グレゴール・ヨハン・メンデルのエンドウマメの交配実験(→Wikipedia)。今から考えれば、彼は遺伝学という新しい学問分野の種を蒔いたのだ。

 あと、思考実験も加えていいなら、メンデレーエフの元素周期表(→Wikipedia)も加えたい。混沌の中に美しい秩序を見いだすってのは、科学の面白さそのものだと思う。

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