カテゴリー「書評:科学/技術」の312件の記事

2023年1月 8日 (日)

デビッド・クアメン「スピルオーバー ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか」明石書店 甘糟智子訳

ある生物種を宿主としていたウイルスが別の種に感染し、その新たな宿主の間で繁栄し広がったときに、異種間伝播による新興感染症が出現する。
  ――1 青白い馬 ヘンドラ

人類学者リサ・ジョーンズ=エンゲル&医師グレゴリー・エンゲル
「私たちが探しているのは『次なる大惨事』だからです」
  ――6 拡散するウイルス ヘルペスB

「なぜコウモリなのか?」
  ――7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ

【どんな本?】

 人類は天然痘を撲滅した。ポリオも克服しつつある。だが黄熱やエイズは今も猛威を振るい、インフルエンザは毎年のように新型が登場する。そしてもちろん、新型コロナも。

 その違いは何か。

 天然痘とポリオに感染するのはヒトだけだ。だからすべての人にワクチンが行き渡れば撲滅できる。だが黄熱やインフルエンザは違う。これらは野生動物や家畜からヒトに飛び移り、続いてヒトからヒトへと感染する。いわゆる人獣感染症だ。

 人獣感染症は、インフルエンザなど有名で馴染みのものばかりではない。ヘンドラやニパなど、馴染みのないものや、最近になって発見されたものもある。また、新型コロナのように、既存種の変種も。

 人獣感染症には、どんな種類があるのか。それぞれ、どんな状況で感染し、どんな症状になるのか。感染のメカニズムは。その発見には、どんな人たちが関わり、どのような作業や研究がなされ、どのように対策が進むのか。

 幾つもの人獣感染症を追い、著者はアフリカの森の奥から中国の猥雑な市場、オーストラリアの獣医師や合衆国の研究室など、世界中の様々な土地を巡り、多くの人びとを訪ね回る。

 米国のジャーナリストが世界中を駆け巡って体当たり取材を続け、人獣感染症の謎とそれに挑む人々の研究生活を描く、迫真の科学ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Spillover : Animal Infections and the Next Human Pandemic, by David Quammen, 2012。日本語版は2021年3月31日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え訳者あとがき6頁。9.5ポイント47字×22行×471頁=約487,014字、400字詰め原稿用紙で約1,218枚。文庫なら2~3冊の大容量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。分子生物学の話も出てくるが、細菌とウイルスの違いなど基礎的な事から説明しているので、じっくり読めば中学生でも理解威できるだろう。世界中を飛び回る本でもあり、ウガンダなど馴染みのない地名が出てくるので、地図帳などがあると便利。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。ただし、科学的な説明は順を追って展開するため、理科が苦手な人は素直に頭から読もう。

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  • 1 青白い馬 ヘンドラ
  • 2 13頭のゴリラ エボラ
  • 3 あらゆるものはどこからかやって来る マラリア
  • 4 ネズミ農場での夕食 SARS
  • 5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病
  • 6 拡散するウイルス ヘルペスB
  • 7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ
  • 8 チンパンジーと川 HIV
  • 9 運命は定まっていない
  • 補章 私たちがその流行をもたらした 新型コロナ
  • 訳者あとがき/参考文献/註/人名索引/事項索引

【感想は?】

 この本は様々な側面を持っている。

 第一に、人獣感染症の知識を伝える科学ドキュメンタリーの側面だ。ここでは主にウイルス、それもRNAウイルスが対象となる。

 次に、その根源を探り証拠を集め理論を固める科学者のドキュメンタリーでもある。

 科学者、それもウイルス学者というと、白衣を着て清潔で厳密な隔離施設に勤めるインドアな人を思い浮かべるかもしれない。実際、そういう人も出てくる。特に「2 13頭のゴリラ エボラ」で職務中の事故で閉鎖環境、俗称「刑務所」に閉じ込められた研究員ケリー・L・ウォーフィールドの話は、逆に運用ルールを厳密に守っている由が伝わってくる。いやケリーにとっちゃはなはだ不幸なんだけど。

 が、それ以上に楽しいのが、病気の発生源を追う科学者たちを描く場面。バングラデシュの田舎や中国の洞窟でコウモリを追ったり、アフリカの中央部で野生のチンパンジーの尿を集めたりと、インディ・ジョーンズそこのけの冒険が展開する。

 そして最後に、良質の科学読み物に欠かせない、謎解きの面白さだ。多様ながら生活感をプンプン匂わせる登場人物、知られざる特殊な人びとの社会、想定外の所から出てくる証拠物件、そして意外な真相。

 そんな面白さをギュッと凝縮しているのが、エイズの起源をたぐる「8 チンパンジーと川 HIV」。頁数も100頁超と多いし、ここだけ抜き出して文庫にしたら売れるんじゃなかろうか。とりあえず、私たちが思うよりエイズは古く、米国発祥でもない、とだけ明かしておく。しかも…

HIVが人類へ異種間伝播したのは一回きりではない。私たちが知ることのできる範囲だけでも、少なくとも12回は起きているということだ。
  ――8 チンパンジーと川 HIV

 さて、本書のテーマは人獣感染症だ。動物、それも主に野生動物からヒトに感染する病気である。その多くはRNAウイルスだ。中にはマラリアみたく原虫(→Wikipedia)が原因なのもあるけど。

 だもんで、病気の発生原因は、たいてい野生動物にある。

森で死んでいる動物には決して触らないこと。
  ――2 13頭のゴリラ エボラ<

 とか、幼い頃に教わった人も多いだろう。理由の一つは、病気を貰いかねないからだ。本書を読むと、それが身に染みる。もっとも、感染症を追う科学者たちは、なんか割り切ってる人も多いんだけど。

 現在、猛威を振るっている新型コロナウイルスでは、感染の広がり方について、様々な予測がされている。幾つか脚光を浴びた説がある中で、ちょっと見は意外な人たちが注目されている。数学者だ。実際、感染の広がり方は、数式で予測できるのだ。七面倒くさい微分方程式なんだけど。

感染症を理解する上で数字は重要な側面だ。
(略)病原体が感染を絶やさないためには、宿主集団に最低限の規模が必要で、(略)臨界集団サイズ(CCS)として知られる。
人獣共通のウイルスは、人間集団の周辺の動物でも伝播するので、人間のCCSを考慮しても意味がない。
  ――3 あらゆるものはどこからかやって来る マラリア

 今、ちょっと調べたら、新型コロナもヒトから犬や猫に感染するらしい(→農林水産省/新型コロナウイルス感染症について)。逆、つまり犬猫からヒトへの感染は確認されていないので、一安心だけど。

 その新型コロナ、今は様々な株が確認されている。だが話題になった2019年12月時点では、様々な情報が錯綜した。それもそのはず、「新しいウイルス」は、遺伝子工学が発達した現代でも、見つけるのが難しいのだ。

DNAやRNAの断片を探すPCR法や、抗体や抗原を探す分子分析といった検査方法が有効なのは、すでに身近な病原体、あるいは少なくとも身近なものによく似た病原体を探している場合のみだ。
  ――4 ネズミ農場での夕食 SARS

 これが、人獣感染症の本来の宿主を探すとなると、更に難しい。というのも、相手はヒトじゃない。「ヒトと関わりの深い動物」だからだ。もっと広いい視野が必要になる。細菌学者も役に立つんだが…

ほとんどの細菌学者は細菌学研究に入る以前に医師としての訓練を受けている
  ――5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病

 彼らの世界観の基盤は、あくまでも医師であって、対象はヒトなのだ。必要なのはヒトと動物とのかかわり、つまり…

生態学者リチャード・S・オストフェルド
「どんな感染症も本質的には生態系の問題だ」
  ――5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病

 ヒトと動物を含めた、生態系全体を見る視野が求められる。ここでは、意外な分野の学問が役立ったりする。

調査のために最初に現地入りしたのは社会人類学者だった。
  ――7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ

 地域によって、ヒトの暮らし方は違うし、動物との関わり方も違う。この章では、バングラデシュ独特の文化が決定的な証拠となった、幸か不幸か、この文化は他地域へ輸出できそうにないが、よく見つけたものだと感心する。

 こういった人獣感染症の多くは、RNAウイルスだ。普通、遺伝子は二重らせんのDNAである。遺伝情報はDNAからRNAに転写され、RNAからタンパク質に変換される(→Wikipedia/セントラルドグマ)。ところがレトロウイルスは、この掟を破り…

通常、生物はDNAの情報をRNAに写し取り(転写)、それをタンパク質に翻訳する。だが、レトロウィルスはこれとは逆に、宿主細胞の中で自らのRNAをDNAに変換し(逆転写)、そのDNAを細胞核に侵入させ、宿主細胞のゲノムに組み込ませる。
  ――8 チンパンジーと川 HIV

 とんでもねえ奴らだ。ばかりでない。DNAは二重らせんなので、コピーの際、ちょっとしたエラーチェックが働く。そのため、滅多に転写ミスは起きない。だがRNAは一重なので、転写ミスすなわち突然変異が起きやすい。大半の突然変異はロクでもない結果、つまり生き残れないが、ごく稀に生き延びて子孫を増やす奴がいる。RANウイルスは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で、頻繁に変異を繰り返す戦略をとった。

エドワード・C・ホームズ
「彼ら(RNAウィルス)はどんどん種を飛び移っていく」
  ――6 拡散するウイルス ヘルペスB

 とまれ、他の宿主に感染するまでは、今の宿主に生きていてくれないと、寄生する側も行き詰る。まあ、あくまでも「他の宿主に感染するまで」なんだが。そんなわけで…

(スーティーマンガベイがSIVに)感染していても健康だということは、スーティマンガベイにおけるこのウィルスの歴史が長いことを示唆している。
  ――8 チンパンジーと川 HIV

 無害化とまではいかないまでも、潜伏期間が長い方がウイルスにとっちゃ有利だったりする。繰り返すが、変異の結果、無害化するワケじゃないことに注意。

 終盤では、人獣感染症のこれからについて、いささか不吉な予言がなされたりする。

「(鳥インフルエンザは)おそらく野鳥によってインド、アフリカ、ヨーロッパと西へ運ばれたのだ」
  ――9 運命は定まっていない

 航空機が発達した現在、ヒト→ヒトの感染でさえ抑え込むのが難しい。まして世界中を飛び回る野鳥なんか、どうしようもない。今後も、人類は否応なく感染症と戦い続けなければならないようだ。

 とかの暗い話もあるが、中国の野趣あふれる市場の様子や、国境なにそれ美味しいの?なアフリカ中央部の風景などは、冒険物語の一場面のようで、結構ワクワクしたり。分量は多いが、世界中を飛び回って書き上げた作品だけあって、舞台は次々と移り変わるので、意外と飽きずに楽しめた。科学読み物としてももちろん面白いが、世界中を駆け巡る旅行記としても楽しい本だ。

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2022年12月15日 (木)

ジェイムズ・クリック「インフォメーション 情報技術の人類史」新潮社 楡井浩一訳

新しい媒体は必ず、人間の思考の質を変容させる。長い目で見れば、歴史とは、情報がみずからの本質に目覚めていく物語だと言える。
  ――プロローグ

【どんな本?】

 1948年、数学者・電気工学者のクロード・シャノン(→Wikipedia)が論文「通信の数学的理論」(→Wikipedia)を発表する。

 この論文のテーマは「情報」である。それまであやふやだった「情報」という言葉に明確な定義を与え、かつビット(bit)を単位に「測り計算する」ことを可能にした。その代償として、幾つかのものをそぎ落としたのだが。

 地味なタイトルとは裏腹に、この論文をさきがけとして発達した情報理論は、本来の対象である情報通信分野だけに留まらず、心理学や生物学そして宇宙論にまで、大きな影響を及ぼしてゆく。

 シャノンの提唱した「情報」とは何か。それは何を含み、何を含まないか。シャノン以前に、ヒトは情報をどう扱っていたのか。

 シャノンの情報理論を軸に、トーキング・ドラム,文字,印刷,辞書,階差機関,腕木通信,電信,電話,暗号,遺伝子など「情報」にまつわる歴史と科学のトピックを折り込み、「情報」の性質と人類に与えた影響を俯瞰する、一般向けの歴史・科学ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Infomation : A History, A Theory, A Flood, by James Gleick, 2011。日本語版は2013年1月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約522頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント44字×21行×522頁=約482,328字、400字詰め原稿用紙で約1,206枚。文庫なら上下巻または上中下巻の大容量。

 文章は少し気取っていて、私には詩的すぎる。もっとも、古典文学や学者の著作の引用が多いので、そう感じるのかも。

 肝心のシャノンの情報理論は、プログラマーには馴染み深いが、そうでない人にはちと分かりにくいかも。難しいのは「シャノンが何を言っているか」より、「あなたが何を忘れなければいけないか」だったりする。数学でよくあるパターンだね。ただし、暗号が好きな人はキッチリ読むと楽しめる。

 歴史のエピソードは分かりやすいので、面倒くさかったら数式関係を読み飛ばそう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、できれば頭から読もう。

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  • プロローグ
  • 第1章 太鼓は語る 符号が符号ではない場合
  • 第2章 言葉の永続性 頭の中に辞書はない
  • 第3章 ふたつの単語集 書くことの不確実、文字の不整合
  • 第4章 歯車仕掛けに思考力を投じる 見よ、恍惚たる算術家を
  • 第5章 地球の神経系統 貧弱なる針金数本に何が期待できようか?
  • 第6章 新しい電線、新しい論理 「これほど未知数であるものは、ほかにない」
  • 第7章 情報理論 「わたしが追及しているのは、ただの平凡な脳だ」
  • 第8章 情報的転回 心を築く基礎材料
  • 第9章 エントロピーと悪魔たち 「ものごとをふるい分けることはできません」
  • 第10章 生命を表す暗号 有機体は卵の中に記されている
  • 第11章 ミーム・プールへ あなたはわたしの脳に寄生する
  • 第12章 乱雑性とは何か 罪にまみれて
  • 第13章 情報は物理的である それはビットより生ず
  • 第14章 洪水のあとに バベルの壮大な写真帳
  • 第15章 日々の新しき報せ などなど
  • エピローグ 意味の復帰
  • 謝辞/訳者あとがき/索引/注記(抄)/参考文献

【感想は?】

 言われてみれば…が、正直な感想。

 チャールズ・バベッジ,アラン・チューリング,フォン・ノイマンは、SF小説や漫画によく登場するし、知られてもいる。だが、クロード・シャノンに注目した作品は少ない…というか、私は知らない。

 だが、SF者はシャノンに感謝すべきなのだ。「天冥の標」も「Gene Mapper」も「われらはレギオン」も、シャノンの情報理論から始まった「革命」で生まれた作品なのだから。

 序盤は、情報…というより通信と人類の歴史を紐解いてゆく。はじまりは、アフリカのトーキング・ドラムだ。その通信速度はすさまじい。

(トーキング・ドラムの)メッセージは、村から村へと引き継がれ、1時間もしないうちに百マイル(約160km)以上も遠くへ届いた。
  ――第1章 太鼓は語る

 てっきり信号だと思っていたが、モロに「喋って」いたとは。しかも妙に言葉遣いは古く、詩的な言い回しが多い。伝統に沿っているのもあるが、実はちゃんと理由があって…。ヒントはフォネティック・コードと中国語。中国で発達しなかったのは、人口密度が高く雑音が多いからだろうなあ。この一見無駄に思える詩的な古語が、後にシャノンの情報理論と深く関わってくる。

 第2章では、情報を伝える手段がヒトの認識を変えるさまを語る。文字の発明は、人類の思考能力を大きく変えたのだ。

20世紀米国の司祭・英文学者・歴史家ウォルター・オング(→英語版Wikipedia)
「ギリシャ文化が形式論理を発明したのは、アルファベットで書くというテクノロジーを取り込んだあとであることがわかっている」
  ――第2章 言葉の永続性

 「約三千年前まで人類は意識を持っていなかった」と主張する「神々の沈黙」はトンデモかと思ったが、文字が人間の思考に大きな影響を及ぼすのは確からしい。そういえば、五線譜の発明も西洋音楽の複雑化の足掛かりとなったんだっけ(→「音楽の進化史」)。記し伝える技術は、モノゴトの進歩を促すのだ。

 その文字、例えば漢字は、象形文字から発達した。そのため、個々の文字に意味がある。対して西洋のアルファベットは表音文字であり、単なる記号の性質が強い。意味を失い、より符号に近い文字とも言える。

 第3章のテーマは、言葉を集めた本、つまり辞書だ。同じ「何かを集めた本」でも、草や魚の事典は、生息地や季節など、何らかの「意味」で分類・整列する場合が多い。対して辞書は、アルファベット順という、一種の無機的・機械的な手順で並んでいる。

アルファベット順の一覧表は、機械的で、効率的で、自動的だった。アルファベット順に考えていくと、単語とは、ものと引き換えるための代用通貨でしかない。実質的に、それは数字と同じようなものと言っていいだろう。
  ――第3章 ふたつの単語集

 この「意味の剥奪」も、シャノンの情報理論の重要なヒントであり、哲学者たちが戸惑う原因でもある。

 第4章では、われらSF者のヒーロー、階差機関のチャールズ・バベッジとエイダ・ラブレースが登場する。いずれも名前は知っていたが、特にエイダ・ラブレースのひととなりを全く誤解していたのを思い知った。博打好きの変わり者って印象だったんだが、現代なら聡明な数学者になっていたんだろうなあ。

19世紀英国の数学者チャールズ・バベッジ(→Wikipedia)
「“計算”の科学――それは、われわれの進歩の各段階で、絶えず必要性を増していくもの、また科学の生活術全般への応用を、最終的に統べるに相違なきもの」
  ――第4章 歯車仕掛けに思考力を投じる

 第5章ではキース・ロバーツ「パヴァーヌ」にも登場した腕木通信(→Wikipedia)を紹介し、閃光のようなデビューと没落の物語を綴る。腕木通信が従来の手紙と大きく異なるのは、これが一種のデジタル通信である点だ。

17世紀英国の牧師・数学者ジョン・ウィルキンス(→英語版Wikipedia)
「五感のいずれかで知覚可能な画然たる相違を備えしものは何であれ、思考作用を表現するに足る手段となりうる」
  ――第5章 地球の神経系統

 文字を意味から解き放ち、いったん符号化して伝送路に流し、受け取った者が符号から文字に戻し、意味を読み取る。この手口なら、伝送路に流せる符号つまり何らかの差異さえあれば、何であれ伝達手段にできる。例えば腕木通信なら腕木の形だし、Ethernet なら電圧の高低になる。いずれにせよ、通信を扱う者にとって言葉は…

結局のところ、言語とは器具なのだ。
  ――第5章 地球の神経系統

 なんて、従来の詩人や作家が聞いたら怒り狂いそうな、みもふたもないシロモノに成り下がってしまう。

 もっとも、それは今の私たちの感覚であって、20世紀初頭はそうじゃなかった…数学者や工学者でさえ。アラン・チューリングやフォン・ノイマン、そしてクロード・シャノンなど、コンピューター黎明期の人々は、ソコが大きく違っていた。

回路と論理代数を結びつけるのは、常識を超えた発想だった。
  ――第6章 新しい電線、新しい論理

 ここでは、電信にかわる新しい通信手段である電話をめぐる逸話が楽しい。

電話なら、子どもでも使えた。まさにそれが理由で、電話は玩具のように思われた。
  ――第6章 新しい電線、新しい論理

 簡単に使えるモノは、中身も簡単だし程度も低いと思われがちなんだよね。実際には「使いやすいモノ」を設計し造るのは、とっても難しいのに。いやただの愚痴です。

 第7章では、アラン・チューリングとクロード・シャノンの切ない出会いから始まり、いよいよシャノンの情報理論へと切り込んでゆく。

(ヒルベルトの)“決定問題”には答えがあり、その答えが“否”であることを(アラン・チューリングは)証明した。
  ――第7章 情報理論

 ここでは、情報理論が暗号解読と深い関係があるのを示唆しつつ、情報理論の神髄を説明しようと試みている…が、これで理解できる人は少ないだろうなあ。英語の冗長度とかの面白い逸話もあるんだけど。

 シャノンの情報理論の特異な点の一つは、情報量を数値すなわち bit で表したこと。そのためには、情報から意味を剥奪する必要があったんだが、それに納得できない人もいる。

フォン・フェルスター(→英語版Wikipedia)
「みんなの言う情報理論のことを、わたしは“信号”理論と呼びたかった」
  ――第8章 情報的転回

 もっとも、本当に意味と無縁かというと、そうとも言い切れないのが面倒臭い。

情報とは意外性なのだ。
  ――第8章 情報的転回

 とはいえ、情報理論は他の分野にも大きな波紋を広げてゆく。例えば、バラス・スキナー(→Wikipedia)に代表される行動主義(→Wikipedia)がブイブイいわしてた心理学。一言で言っちゃえば、頭の中で何を考えたかは一切無視して、刺激と行動だけで考えましょう、みたいな主張ね。

 そこにシャノンが情報や情報処理って概念を唱えたもんで、「じゃ(ヒトを含む)生物も情報処理してるよね」みたいな発想が出てくる。例えば…

これ(ジョージ・ミラーの論文「摩訶不思議な数7プラスマイナス2:人の情報処理能力の一定限界」)が心理学における“認知革命”と呼ばれる動きの始まりであり、この動きによって、心理学とコンピューター科学と哲学を合体させた“認知科学”という学問分野の基礎が固められた。
  ――第8章 情報的転回

 この情報理論、どういうワケか数式は熱力学のエントロピーとソックリだったりする。実際、理屈の上じゃ似てるんだ。エントロピーは無秩序さの指標で、シャノンの言う「情報」は得られた情報=消えた無秩序さの指標だし。そんなワケで、情報理論は物理学も巻き込み始める。

エルヴィン・シュレーディンガー(→Wikipedia)
「代謝における本質とは、有機体が生きているあいだにどうしても生み出してしまうエントロピーすべてをうまく放出することにあります」
  ――第9章 エントロピーと悪魔たち

 更に生物学では、DNAの二重らせんが発見され、これも ATCG の四種の塩基(対)からなるのが判ってきた。とすれば、これを「四種類のアルファベットからなる暗号」と見なす人も現れる。

(ジョージ・)ガモフ(→Wikipedia)とその支持者たちは、遺伝暗号を数学のパズルとして、つまり、あるメッセージを別のアルファベットのメッセージに写像することとして理解していた。
  ――第10章 生命を表す暗号

 こんな発想ができたのも、シャノンが情報から意味をはぎ取ったが故の汎用性なんだろうなあ。プログラマなら身に覚えがあるよね。一段メタな視点に立つと、汎用性の高い道具になる、みたいな経験。

 この発想は、やがてリチャード・ドーキンスの著作「利己的な遺伝子」として世に広まってゆく。と同時に…

“ミームというミーム”
  ――第11章 ミーム・プールへ

 なんてのも、私たちの脳内に棲みついてしまう。

 さて、「情報」の面倒くさい点の一つは、その大きさを「本当に」知るのが難しい所だ。例えば円周率π。Unicodeでπと書けば16bitで済む。でも数値で3.1415…と書いたら、何bitあっても足りない。どっちが妥当なんだろう?

ある対象の複雑性とは、対象を発生させるために必要な最小の計算プログラムの大きさだ。
  ――第12章 乱雑性とは何か

 とまれ、これCOBOLで書いたら異様に長くなってしまう。アセンブラじゃ更にしんどい。でもプログラム言語によっては予約語または標準ライブラリでPIを用意してたりする…なんて悩むかもしれんが、そこには賢い先人がいた。チューリング・マシンを使えばいいのだ。すんげえ使いづらいけど。

 話は変わって量子力学。

 ニュートン力学だと、力や質量はアナログすなわち連続した値だった。でも量子力学の世界だと、量子のスピンなどは飛び飛びの値をとる。つまりデジタルなのだ。これって…と思ったら、ちゃんと結びつける人もいた。

物理学者クリストファー・フックス
「量子力学は常に情報についての理論だった。ただ、物理学会がそのことを忘れていただけだ」
  ――第13章 情報は物理的である

 その極論が、これ。

宇宙は、自らの運命を算出している。
  ――第14章 洪水のあとに

 はい、ダグラス・アダムスの有名作のアレですね。ホント、SFはシャノンにお世話になってるなあ。

 今世紀に入り、私たちはインターネット経由で大量の情報を浴びるようになり、それを懸念する人も多い。ただ、こういう現象は今までもあったのだ。

印刷機、電信、タイプライター、電話、ラジオ、コンピューター、インターネットが、それぞれの時代に栄えるたびに、人々はまるで初めてそう口にするかのように、人間の通信に負荷がかかっていると言った。新たな複雑さ、新たな隔絶、恐るべき新たな極端さが生じた、と。
  ――第15章 日々の新しき報せ

 もっとも、私みたく脳みそのメモリが少ない奴は、入ってくる情報を次々と忘れていくんだけど。多くの人が亡くなるニュースがあっても、それが馴染みのない外国だと、何も感じなかったりするし。

情報理論の誕生とともに、情報に価値と目的を与える特質そのものである“意味”が、容赦なく犠牲になった。
  ――エピローグ 意味の復帰

 そこに意味を見いだすには、やっぱりヒトとしての感情が必要なのだ。

信号を情報に転じるには、人間――あるいは“認知主体”とでも言おうか――が介在する必要がある。
  ――エピローグ 意味の復帰

 もっとも、これは数式一般に言えることで。

 いったん物語から意味をはぎ取ってxやyに変換し、ソレを手続きに従い変形し、得た解に再び意味を与える。数学がやってるのって、そういう事だよね。少なくとも科学や工学の数学は。だけじゃなく、プログラムも同じかな?

 なんて偉そうなことを書いちゃったが、他にも電話創世期の米国の農村で流行った鉄条網電話とか、ユーモラスな歴史トピックもも楽しめる、厚いだけあって中身もギッシリな本だった。やっぱり技術史は楽しいなあ。

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2022年11月21日 (月)

ローランド・エノス「『木』から辿る人類史 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る」NHK出版 水谷淳訳

いまや、木の役割を見直すべきときだ。本書は、このもっとも汎用性の高い素材と私たちとの関係性に基づいて、人類の進化、先史時代、歴史を新たに解釈し直したものである。
  ――プロローグ どこにもつながっていない道

【どんな本?】

 人類文明の曙について、私は石器時代→青銅器時代→鉄器時代と習った。だが、この分類には、重要な素材が欠けている。木だ。

 石や金属に比べ、木は遺物として残りにくい。そのため、石や鉄の矢じりや斧頭は残るが、弓と矢や斧の柄は残らない。モノで人類史を辿ると、どうしても残った石や金属部品に目が行く。だが、弓と矢や斧の柄そして槍の柄など木製の部分も、道具の性質や性能に大きな影響を及ぼす。

 2019年4月には、パリのノートルダム大聖堂が火災にあった。石造りだと思われていたが、木材も建物を支える役割を担っていたのだ。私たちの知らない所で、木材は重要な役割を果たしてきたし、今も果たしている。

 木は、石や金属やプラスチックと違い、独特の性質を持っている。例えば、木目(年輪)の向きによって、加工のしやすさや構造材としての強さが大きく異なる。また、乾燥することでも、強度や性質が変わる。もちろん、木の種類によっても違う。

 樹上生活だった類人猿の時代から現代に至るまで、木が人類に与えた影響と人類の木の利用法について、生体力学の研究者が科学と工学および歴史の知識を駆使しながらも親しみやすい語り口で綴る、一般向けの歴史・科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Age of Wood : Our Most Useful Material and the Construction of Civilization, by Roland Ennos, 2020。日本語版は2021年9月25日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約332頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント43字×17行×332頁=約242,692字、400字詰め原稿用紙で約607枚。文庫ならちょい厚めの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容も一般向けで、分かりやすい方だろう。中学卒業程度の理科と歴史の素養があれば、ほぼ読みこなせる。木工の経験があれば、更によし。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

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  • プロローグ どこにもつながっていない道
  • 第1部 木が人類の進化をもたらした 数百年前~1万年前
  • 第1章 樹上生活の遺産
    樹上生活に適した身体とは/食物の変化と脳の発達/類人猿の脳はなぜ大きいのか/木の複雑な構造を理解する/二足歩行はどのように始まったか
  • 第2章 木から下りる
    植物をとるために道具を使う/木の組織構造を利用する/木を燃やす/火を使った調理の始まり
  • 第3章 体毛を失う
    狩猟仮説と体温調節/寄生虫対策/木造の小屋と体温調節
  • 第4章 道具を使う
    石器神話はどこが問題なのか/木製道具による知能の進化/チームワークによる狩り/狩猟用の道具を極める
  • 第2部 木を利用して文明を築く 1万年前~西暦1600年
  • 第5章 森を切り拓く
    木船による交易の始まり/農耕の問題/どのようにして森を切り拓いたか/家や井戸を造る/萌芽から木を育てる
  • 第6章 金属の融解と製錬
    木炭で金属を製錬する/造船技術の進歩/車軸の発明/アメリカ大陸ではなぜ車輪が使われなかったのか
  • 第7章 共同体を築く
    建築技術の発展/ヴァイキング船の黄金時代/鋸の登場/花開いた木工文化
  • 第8章 贅沢品のための木工
    整備な彫刻/楽器の音色を左右する
  • 第9章 まやかしの石造建築
    ストーンヘンジは木造だった?/石造りの屋根が難しいわけ/ゴシック建設をひそかに支える木材/意外に高い断熱性と耐久性
  • 第10章 文明の停滞
    古代以降なぜ進歩は鈍ったのか/森のそばで栄えた製鉄業/伝統的な木工技術の限界
  • 第3部 産業化時代に変化した木材との関わり 西暦1600年~現代
  • 第11章 薪や木炭にかわるもの
    石炭の利用でイギリス経済が発展/新たな動力源/石炭を使った製鉄/蒸気機関 産業革命の推進力
  • 第12章 19世紀における木材
    錬鉄の発明/鉄道・建築・船舶の発展/木製品の大量生産/鉄と木を組み合わせる/紙の発明とメディアの台頭
  • 第13章 現代世界における木材
    鋼鉄とコンクリートの発明/世界を席巻するプラスチック/合板で飛行機を造る/建築界を一変させた新たな素材/増えつづける木材の使用料
  • 第4部 木の重要性と向き合う
  • 第14章 森林破壊の影響
    森林伐採による土壌流出の影響/広葉樹と針葉樹の違い/技術発展により広がる森へのダメージ/森林面積と気候変動の関係/植林がもたらす問題
  • 第15章 木との関係を修復する
    さまざまな緑化運動/再自然化運動の高まり
  • 謝辞/訳者あとがき/原注/参考文献

【感想は?】

 ヒトと木の関わりは、「森と文明」や「木材と文明」を読んできた。

 両者が素材やエネルギー源そして経済活動の場として森林を見ているのに対し、本書の特徴は、木材の構造材としての性質に注目している点だろう。さすが生体工学者。

 しかも、話は文明化以前から始まる。なんたって、樹上生活からだ。スケールがデカい。

 道具を使い始めてからも、ヒトは木の性質を使いこなす。例えば槍を作るにしても…

木の組織には、木自体にとっては役に立たない二つの性質があり、初期のヒト族は思いがけずそのうちの一つにも助けられたようだ。木が折れて乾燥しはじめると、力学的性質が向上するのだ。
  ――第2章 木から下りる

 軟らかい生木のうちに加工しておいて乾かすと、掘り棒にしたってグッと強くなる。当然ながら薪としても乾いてる方がいい。問題は、どうやって木を加工するか、だ。鑿や鋸があるならともかく、先史時代じゃ、そんな便利なものはない。かといって、折るにしても、木ってのは、木目があるから、折り口がギザギザになって綺麗な形にはならない。そこで石器だ。

初期のヒト族が使っていた大型の道具のほとんどは木でできていて、石器は小物の刃物に限られていたものと推測できる。
  ――第4章 道具を使う

 矢じりとか槍の穂先とかですね。または、木を加工するためのナイフとか。この視点が面白くて、本書では石器→青銅器→鉄の変化を、木の加工技術の進歩として描き出してるのが大きな特徴。

金属の登場によって人々はますます木に頼り、さらにずっと多く木を利用するようになったのだ。
  ――第6章 金属の融解と製錬

 石から金属にかわることで、より精密に木を加工できるようになった、と説いてる。その代表が…

銅器や青銅器の出現と時を同じくして、旧世界の輸送手段を一変させて国際貿易の引き金を引いた二つの木製品が登場した。それは板張り船と車輪である。
  ――第6章 金属の融解と製錬

 木で船を作るったって、木の継ぎ目から水が漏れてきたら、たまったモンじゃない。水漏れがないように、高い精度で板を切り出し継ぐ技術が要るわけ。車輪も丸太を輪切りにしたんじゃダメで、木は乾くと直径方向に割れ目が入っちゃう。

 ここでは「車輪の直径が大きいほど、また車軸が細くなめらかですべりやすいほど、車輪は容易に転がる」のが意外だった。他はともかく、車軸は細い方がいいのかあ。また、青銅器時代で、車輪と車軸が独立に回るタイプがあるのも驚き。これだと左右の車輪の回転が違ってもいいので、カーブを曲がりやすいのだ。更に紀元前2550年ごろには、アイルランドで木製のレールまでできてる。

 とまれ、当初の車輪は板を貼り合わせて円形にしたもの。今風のものは…

初のスポーク付き車輪は、紀元前1500年ごろにエジプト人や彼らと対立する中東の人々によって作られたが、車輪の構造がもっとも進歩したのは、ホメロスの叙事詩に描かれたギリシャ時代の二輪戦車においてである。
  ――第7章 共同体を築く

 ちなみに車輪が歪むのは防げなかったようで、使わない時は車輪を外すか戦車を上下さかさまにひっくり返すかそうで。兵器のメンテは大事なのだ。

 古代の加工技術恐るべしと思ったのは…

製陶用のろくろが発明されたのは車輪と同じ紀元前3500年ごろだが、旋盤が登場するのは紀元前1500年ごろになってからで、エジプトの壁画に描かれている。
  ――第7章 共同体を築く

 紀元前に旋盤まで登場しているとは。他にもお馴染みのアレも…

曲げた木の板をつなぎ合わせて作る木製の樽は、おそらく紀元前350年ごろにケルト人によって発明され、アンフォラ(土器)よりもはるかに実用的であることがすぐに明らかとなった。強度が強いうえに、地面を転がして運ぶこともできるし、簡単に積み重ねることもできた。
  ――第7章 共同体を築く

 いや樽って、ちょっと見は単純な構造だけど、水漏れしないように造るのって、すんげえ難しいと思うんだよね。ちなみに本書では樽をコンテナに例えている。

 などの実用品に加え、贅沢品にも木は使われている。その一つが、楽器。

ほとんどの楽器は、特定の振動数の空気振動を増幅させる共鳴室をそなえていて、その壁や仕切り板が共振して音の大きさと質を高めるようにできている。そのため、音を速いスピードで伝えて高い周波数で共振する、軽くて剛性の高い木材で作られている。
  ――第8章 贅沢品のための木工

 ここではバイオリンの名器ストラディヴァリウスの話も出てきて、寒い小氷期に成長したトウヒが関係あるかも、なんて切ない話も。

 最初にパリのノートルダム大聖堂の火災について触れた。欧州の石造りの建築物の多くが、実は中で木をたくさん使っているらしく…

建築の歴史は、うわべだけは石造りの建物を、木材を使って安定させて守るための技術の進化ととらえることができるのだ。
  ――第9章 まやかしの石造建築

 なんて暴露してる。特に屋根が難しいんですね。しかも木ってのはクセがあって…

伝統的な木工品が抱える構造上の最大の欠点は、木材が等方的でない、つまり木目に沿った方向と木目に垂直な方向で性質がまったく異なることに由来し、それが木工において大きな問題となる。
  ――第10章 文明の停滞

 これを解決する手段の一つが、斜めに支えを入れて三角形の組み合わせにすること。いわゆるトラス構造(→Wikipedia)。

 建物の大工はトラスの利点に気づいてたけど、船大工には伝わらなかったらしい。ちなみに船じゃ竜骨(船底中央の太い木材)が巧妙な発明と言われてるが、その理由も少しわかった。

船を浮かばせる浮力のほとんどは船体の中央周辺にかかり、その場所は幅がもっとも広くて船体がもっとも深く沈む。一方、船の残後端はもっと幅が狭く、船尾と船首は海面からかなり突き出している。そのため、前後端の重みで船首と船尾が下に引っ張られて船全体がしなり(これをホギングという)、骨組みに剪断力がかかる。
  ――第10章 文明の停滞

 船底中央には強い力がかかるから、それだけ強い構造材が必要なのだ。

 こういう、工学的な話は実に楽しい。やはり蒸気機関の発達にしても、工学…というより工作技術が大事な役割を果たしている。ジェイムズ・ワットとジョン・ウィルキンソンの蒸気機関の改造では、シリンダーとピストンの精度による蒸気漏れが壁だったんだが…

大砲の砲身をくりぬくための中ぐり盤を使って、中の詰まった鉄の塊に円筒形の穴を精確に穿つことで、ピストンがぴったりはまって上下に自由に動ける、内面のなめらかなシリンダーを作ったのだ。こうして、蒸気機関の製造を阻む最大の技術的問題(=水蒸気漏れ)が克服された。
  ――第11章 薪や木炭にかわるもの

 そうか、中ぐりで作っていたのか。

 その蒸気機関による鉄道、線路を敷こうとすれば、川を越えなきゃいけない。そこで必要になるのが、橋。欧州じゃ錬鉄で橋を架けたが、新大陸では…

アメリカの鉄道が誇りとしていたのは、峡谷を渡る壮観な木製の構脚橋(トレッスル橋)である。これは、ヨーロッパで好んで用いられた鉄製のトラスと土の築堤のかわりに、もっと安価に短期間で作れる木製の桁梁と鉄製の接合具からなる骨組みを用いたものだった。このおかげでアメリカの鉄道の建設費は、1マイルあたり2万~3万ドルと、ヨーロッパの典型的な鉄道の建設費18万ドルの1/6以下だった。
  ――第12章 19世紀における木材

 バック・トゥ・ザ・フューチャーPart3で、マーティが現代に戻る際に吹っ飛ばした橋だね。ここで著者が注目してるのは、素材が木なのに加え、それを組むのに鉄製のボルトを使っている点。新しい素材と組み合わせることで、木の利用範囲は広がっていくのだ。これは素材ばかりでなく、加工技術もそうで…

集成材を開発でするうえで大きなブレークスルーとなったのが、フィンガージョイント(→英語版Wikipedia)の発明である。
  ――第13章 現代世界における木材

 写真を見ればわかるが、フィンガージョイントはやたら面倒くさい加工が必要だ。たぶん、CNC(コンピュータ数値制御)の発達で可能になった仕組みだろう。

 そんな最新技術の進歩により、木材の利用はますます盛んになっていて…

木材の生産量と使用量は年ごとに増えていて、2018年には約14憶立方メートルだったのが、2030年には約17憶立方メートルまで増えると予想されている。
  ――第13章 現代世界における木材

 そういや、東京オリンピックで再建した国立競技場も、木を使ってると盛んに宣伝してたっけ。あれ、単なる懐古趣味じゃなくて、CLT(Cross Laminated Timber,直交集成板、→一般社団法人CLT協会)とかの最新技術を使っているのだ。CLTはビルにも使えて…

集成材やCLT(直行集成材)で建てられた新たな高層ビルやマンションの重量は、従来の鉄筋コンクリートの建物の1/5ほどである。それによって、建築時に消費されるエネルギーも少なくてすむし、基礎も浅くてすむため、内包エネルギーの量を通常の建物の20%に抑えられる。
  ――第15章 木との関係を修復する

 さすがにブルジュ・ハリファは無理だけど、10階程度なら大丈夫らしい。とまれ、地震の多い日本じゃどうかわかんないけど。

 と、木の利用が増えてる分、植林も盛んになってる。が、そこにも問題はある。日本じゃスギ花粉が猛威を振るってるし。どんな木を植えるかってのは難しい。というのも、木が育った未来の需要で考えなきゃいけないからだ。森林を切り拓くのも一筋縄じゃ行かなくて…

時代を問わず、世界中で同じパターンが何度も繰り返されてきた。その中でももっとも顕著なのが、農耕民が新たな地域に入植するときには必ず、広葉樹に覆われている場所に最初に定住するという傾向である。
  ――第14章 森林破壊の影響

 広葉樹が生える所は土壌が豊かで作物がよく育つ。また、多くの広葉樹は切り株から新芽が再生する(萌芽更新、→Wikipedia)んで、薪も調達しやすい。対して針葉樹は痩せた土地で育つうえに落ち葉が土壌を酸性化してしまう。そんな違いがあったのか。

 他にも萌芽更新は植樹より効率がいいとか、木の股は繊維が絡んでいて強いとか、圧縮木材の製造には製紙の技術が応用されてるとか、小ネタは山ほど詰まってる。技術史に興味を持ち始めた私には、とっても美味しい本だった。

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2022年10月31日 (月)

長谷川修司「トポロジカル物質とは何か 最新・物質科学入門」講談社ブルーバックス

本書の主題であるトポロジカル物質は、ここ十数年程度の研究から生まれた新しい概念で、人類の「物質観」を確信するような非常に興味深いテーマなのです…
  ――はじめに

電子は、物質のなかで隣接する原子どうしを結びつける化学結合を作る主役でもあります。
  ――第5章 バンド構造 物性科学の基礎

【どんな本?】

 ガラスは透明だ。アルミニウムは電気を通す。鉄は電気を通すのに加え、磁石にくっつく。これらの物質の性質には、電子の働きが大きく関係している。

 物質の性質を決める電子の働きと、その電子の性質を調べ解き明かしてきた物理学の歴史を語りながら、理解しがたい量子力学の理論を説き、物質科学の基礎から、最近のノーベル物理学賞を賑わせているトポロジカル物質に至るまでを、数式を使わずに解説する、一般向けの科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2021年1月20日第1刷発行。新書版ソフトカバー縦一段組みで本文約289頁。9ポイント43字×16行×289頁=約198,832字、400字詰め原稿用紙で約498枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章は意外とこなれていて読みやすい。ただし、内容はかなり厳しい。基礎から順々に積み上げていく形なので、気を抜くとスグについていけなくなる。量子力学の基礎から最新トピックまでを、本文300頁に満たない新書で語ろうって本なのだから、そこは推して知るべし。数式がないのは素人に有り難い半面、これ一冊で最新物理学を極められる本ではないのも、心得ておこう。

【構成は?】

 先に書いたとおり、基礎から一歩づつ積み上げていく構成だ。なので、最近の物理学に詳しい人でない限り、素直に頭から読もう。

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  • はじめに
  • 序章 バーチャル空間で物質を創る
    科学と数学のつながり/バーチャル空間で物質を創る/トポロジカル物質 上下・左右が入れ替わった物質/トポロジカル物質の性質は頑強/バーチャル空間はリアルな世界につながっている
  • 第1部 ノーベル賞に見る物質科学 トポロジカル物質への前奏曲
  • 第1章 原子から量子物理学へ
    • 1.1 第1回ノーベル物理学賞 X線の発見
      レントゲン写真から立体画像へ
    • 1.2 原子の実在を観る X線回析
      X線 原子や分子を観る光/DNA二重らせん構造の解明/原子仮説がサイエンスになった
    • 1.3 原子の内部構造を観る X線の発生
      X線を測れば原子番号がわかる 周期表の完成/宇宙の物質も分析
    • 1.4 量子物理学の幕開け 電子の波の発見
      原子はなぜ安定に存在できるのか/電子はX線と同じ「波」/原子の中で電子が波立っている
  • 第2章 原子から物質へ
    • 2.1 金属 電子の波が拡がる
      分子 電子波が原子をつなぐ/原子がたくさんつながって結晶に
    • 2.2 絶縁体 電子の波が引きこもる
      共有結合 ダイヤモンド/イオン結合 塩の結晶/「電気陰性度」でまとめると/絶縁体を金属にする
    • 2.3 半導体 電子の波が拡がったり引きこもったり
      半導体温度計 熱エネルギーを利用/光センサー、太陽電池 光エネルギーも利用/発光ダイオード 逆に電子のエネルギーを光に変える
    • 2.4 トランジスター 人類最大の発明
      増幅作用とラジオ/スイッチ作用とコンピュータ/情報化社会の鍵 極微のトランジスターの登場/モバイル時代へ
    • 2.5 超電導 物性物理学の華
      夢の超電導送電/超伝導の発見 オンネスから「BCS」へ/超伝導のメカニズム 電子が加速されずに流れる/2個の電子がペアになる/「高温」超伝導から室温超電導へ/まだまだ未解決の超電導
  • 第3章 物質は量子効果の舞台
    • 3.1 量子物理学の不思議 トンネル効果
      電子の波が「滲み出す」/電子の波の確立解釈/トンネル効果の実証
    • 3.2 走査トンネル顕微鏡
      物質表面から滲み出す電子波を検出する/原子だけでなく電子雲も観える
    • 3.3 量子物理学の不思議 スピン
      スピンはめぐる/シュテルン=ゲルラッハの実験 スピンを検出/強磁性体、常磁性体、反強磁性体 スピンが磁石のもと
    • 3.4 スピンの応用 巨大電気抵抗効果とスピン流
      磁石でのトンネル効果/磁気記録を飛躍させる/スピン流 電流がゼロなので「超」省エネ/反対向きスピンの電子を反対向きに流す
    • 3.5 低次元物質
      1原子層の物質グラフェン/質量“ゼロ”の電子/物質のなかでは電子の質量が変わる/2次元電子系 ノーベル賞の宝庫/なぜ2次元ではスピードが上がるのか/低次元系のメリット・デメリット
    • 3.6 量子ホール効果 トポロジカル物質のさきがけ
      試料の端では電子がスキップして流れる/量子ホール効果からトポロジカル物質へ
    • 3.7 つながるノーベル賞
  • 第2部 バーチャル空間で物質を観る 量子物理学での表現法
  • 第4章 運動量空間とは
    • 4.1 金属のなかの電子の動きを表現する
      膨大な数の電子が動き回る/いろいろな「フェルミ」/フェルミ球に電子を詰める/多数の電子が詰め込まれて満席になる
    • 4.2 電流として流れる電子たち
      電流として流れるのは一番上の電子たちだけ/電流とはバラバラに動く電子の流れ
    • 4.3 電子の速さとエネルギーの関係
      重い電子、軽い電子/質量ゼロの電子/エネルギー分散図 物質の性質を表す地図
    • 4.4 電子の運動量と波長、波数 粒子の性質と波の性質
      運動量と波長は逆数の関係 ド・ブロイの公式/運動量と波数は同じもの
  • 第5章 バンド構造 物性科学の基礎
    • 5.1 科学結合を作る電子たち バンド
      結合と反結合のエネルギーレベル 電子の座席/エネルギーレベルからバンドへ
    • 5.2 電子と正孔
      伝導バンドで電子が、価電子バンドで正孔が動く
    • 5.3 再び 金属、絶縁体、半導体 バンド分散図で見る
      フェルミ準位まで電子が詰まる
  • 第3部 トポロジカル物質とはなにか
  • 第6章 仮想磁場 電場が磁場に見える
    • 6.1 対称性 その1 時間反転対称性
      重力は時間の流れを反転しても同じ/電場の効果も時間反転しても変わらない/磁場の効果は時間反転すると変わってしまう/結晶の中で時間を反転したら/時間反転するとスピンが反転
    • 6.2 対称性 その2 空間反転対称性
      結晶のなかで空間を反転したら/結晶の表面では/磁場は空間反転でどうなるか/時間と空間の両方を反転すると電子のエネルギーはどう変わるか
    • 6.3 見る立場を変えると 仮想磁場
      電子が動くと仮想磁場ができる/物質表面での仮想磁場/とっても不思議な仮想磁場
    • 6.4 スピン軌道相互作用 仮想磁場が生みだすリアルな効果
      磁場中ではスピンの向きでエネルギーが異なる/仮想磁場が実際に電子のエネルギーを変える/スピン軌道相互作用がトポロジカル物質のもと
  • 第7章 トポロジカル絶縁体とは
    • 7.1 バンド反転 伝導バンドと価電子バンドが入れ替わる
      エネルギーレベルの上下が逆転/バンドが「ひねられる」/パリティの反転と混ざり合い
    • 7.2 トポロジカル表面状態 「国境」の状態
      「道路の交差」のような「バンド交差」/反転した伝導バンドと価電子バンドをつなぐ/トポロジカル表面状態は頑強/量子ホール効果と似ている/TKNN数 物質を区別する指数
    • 7.3 ヘリカルディラック電子 スピンが主役
      スピンと運動の向きは常に直角/スピンの向きがそろった電流/スピンの向きが固定されているディラック錐/後方散乱の禁止/純スピン波が物質表面や端を流れる/スピンを注入すると電流が流れる
  • 第8章 電子波の位相
    • 8.1 電子波の位相 その1 力学的位相
      電子波の伝播と位相/電子波の干渉/電子波の局在
    • 8.2 電子波の位相 その2 幾何学的位相
      AB位相 リアルな磁場による位相変化/実はベクトルポテンシャルが主役/ベリー位相 仮想磁場による位相変化/ひねられたバンドでの電子の運動/バーチャル空間でのモノポール
  • 第9章 トポロジカル物質ファミリーと応用
    • 9.1 磁性トポロジカル絶縁体 トポロジカル表面のエッジ状態
      トポロジカル絶縁体で時間反転対称性を破る/純スピン波の代わりに電流がエッジに流れる
    • 9.2 トポロジカル超伝導 マヨナラ粒子を作る
      スピン一重項とスピン三重項のクーパー対/パリティの破れた超伝導/トポロジカル超電導のエッジ状態/マヨナラ粒子 トポロジカル量子コンピュータの主役
  • おわりに/文中で引用した文献/索引

【感想は?】

 正直言って、中盤あたりから、ついていけなかった。

 磁石になる物質と、ならない物質の違いは、説明できる…気がする。電流を通す物質と、通さない物質の違いも、分かったと思う。説明しろと言われたら困るが。透明な物質とそうでない物質の違いは、分からなかった。

 まあ、その程度しか理解できてない者による書評だと思ってください。

 副書名に「最新・物質科学」とある。物質といっても、視点によって様々な層がある。大きなレベルではトラス構造やハニカム構造など。「知られざる鉄の科学」では、結晶の構造に焦点をあてた。本書ではもっとミクロな視点で、原子核と電子…というより、主に電子の性質と働きを掘り下げてゆく。

 そう、電子なのだ。結晶や金属塊のなかで、電子がどこにあり、どんな性質があり、どう動くのか。昔の原子モデルでは「原子核の周囲を電子が回っている」とされてきた。だが、本書では、それに加えて電子にスピンが与えられ、これが物質の様々な性質の元となる。

 このスピン、実は私もよく分かっていないのだが、その存在を証明した本書102頁のシュテルン=ゲルラッハの実験(→Wikipedia)は強く印象に残る。

 とにかくスピンは存在して、それは上向きと下向きの二種類しかない。スピンがあるにせよ、その向きは様々な値を取りそうなもんだが、実験で二種類だけって結果が出たんだから、しょうがないよね。もっとも、このスピン、コマみたく本当の回転ってワケじゃなく、モデルとして回転に似てるからスピンと名づけただけっぽいけど。

 このスピンの向きは本書でも重要な要素で、例えば物質の中でのバラつき具合が、磁石になるか否かを決めたりする。モノにそういう性質があるのは、ちゃんと原因があるのだ。

 とかの「なぜそうなのか」を語りつつ、やっぱり面白いのは、「それで何ができるのか」を説く部分。例えば序盤では、廃熱の小さい電子回路や、送電ロスの少ない送電線を作るヒントが出てくる。

電子をできるだけ速いスピードで流したければ、できるだけ高純度で高品質の物質を作り、電子が流れる部分には不純物や欠陥がなく、なおかつ低次元電子系を作るといいのです。
  ――第3章 物質は量子効果の舞台

 集積回路に高純度のシリコンが必要なのは、そういう事なんだろうか。なお、ここで言う「低次元」は数学的な意味で、例として二次元のグラフェン(→Wikipedia)を挙げている。カーボンナノチューブが注目される理由の一つは、コレなんだろうなあ。

 などと二次元の導電体に期待を持たせ、量子ホール効果(→Wikipedia)なんて面白い現象でワクワクさせたあと、出ましたよ期待の新物質。

トポロジカル絶縁体では、(略)表面では「バンド交差」状態になり、バンドギャップのない状態、つまり金属の状態になっているのです。
  ――第7章 トポロジカル絶縁体とは

 実はこのあたりになると、わたしはほとんど意味が分かってなかったりするんだが、それでも妙に興奮してしまうのだ。表面だけ、すなわち二次元平面だけが金属になり電気を通す。つまり低次元電子系じゃないか。しかも、それだけじゃない。

カイラルエッジ状態ではジュール熱を発生せずにエネルギー無散逸で電流が流れます。また、エッジ状態は1次元の電流通路なので、(略)180度後方錯乱の禁止が効いてきて、全く散乱されずに一方方向にスイスイと流れます。
  ――第9章 トポロジカル物質ファミリーと応用

 無駄な廃熱がないので消費電力は少なくファンも要らない、おまけに電流はスイスイ流れるから高速で動く。集積回路に理想的じゃないか。きっとインテルあたりは、この辺に注目してるんだろうなあ。

 ばかりでなく…

アンドレーエフ束縛状態で動く2個のマヨナラ粒子の位置を入れ替えると違った量子状態になり、第3のマヨナラ粒子と位置を入れ替えるとさらに違った量子状態になり、いわゆる「量子もつれ状態」を作ることができます。
しかも、それはトポロジカルに保護されているので、ノイズによって壊されることがないのです。それを利用して量子状態を「演算」するのがトポロジカル量子コンピュータです。
  ――第9章 トポロジカル物質ファミリーと応用

 はい、出ましたよ量子もつれに量子コンピュータ。いや量子コンピュータが何なのか、全くわかってないけど。今までの頁で、直感的に感じる物質の性質とは全く違う法則が働くのが量子力学の世界なのは充分に思い知ったので、これはもう、そういうモンだと鵜呑みにするしかない。

 原子の発見からその構成、中でも物質の性質に大きな影響を与える電子に着目し、電子の属性や働きから物質の性質へと解き明かし、量子力学の基礎へと読者を案内する、一般向けの量子力学の解説書。SFファンとしては、ソレっぽい用語が次々と出てくるのも嬉しかった。いやハッタリかますのに使えそうだし←をい

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2022年7月19日 (火)

アイニッサ・ラミレズ「発明は改造する、人類を。」柏書房 安部恵子訳

本書では、材料が発明家によってどのように形作られたかだけでなく、そうした「材料」がどのように「文化を形作った」かを紹介していく。
  ――まえがき

神経科学者の発見によれば、私たちは出来事の最中には時間の流れが遅くなっていくようには知覚しないけれども、出来事の想起は、時間の流れが遅くなったと自分に思い込ませるという。
  ――第1章 交流する

私たちの知っているクリスマスは、企業の重役会議室で生まれ、鋼鉄に保護されたといえる。
  ――第2章 結ぶ

電信の発明者サミュエル・F・B・モールスは、国じゅうに情報を伝えるワイヤーによって、「この国全体が一つの近隣地域」になると予測していた。
  ――第3章 伝える

初期の風景写真が困難な仕事だったのは、重い装置類のためだけではなく、薬剤と技術はほとんどが自家製だったからだ。
  ――第4章 とらえる

ポール・ボガード「昆虫類のほぼ2/3は夜行性だ」
  ――第5章 見る

(初の商用ハードディスク)RAMACは大きさが冷蔵庫二台分、主さは1トンを超え、データを500万バイト、すなわち5メガバイト保存できた(略)。
  ――第6章 共有する

ガラスは「見る」という科学的方法の心臓部に存在する。
  ――第7章 発見する

「テキサスにシリコントランジスタがあるぞ!」
  ――第8章 考える

【どんな本?】

 時計,鋼鉄,電信,写真,電灯,情報記録媒体,ガラス,半導体。これらが普及する前、人々はどのような暮らしだったのか。どんな人が、どんな目的で、どんな経緯で発明したのか。そして普及によって、人々の暮らしはどう変わったのか。

 など、発明とそれに伴う暮らしの変化の物語に加え、本書は少し毛色の変わった趣向も語っている。

 多くの人々に知られている発明者の物語ばかりでなく、その影に隠れあまり語られることのない様々な工夫をなした人々や、ちょっとした偶然で有名になり損ねた人たちも丹念に調べて拾い上げ、その時代を生きた人の物語として語ってゆく。

 材料科学を修めた著者による、一般向けの歴史と科学・技術の楽しい解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Alchemy of Us : How Humans and Matter Transformed One Another, by Ainissa Romirez, 2020。日本語版は2021年8月2日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約325頁に加え、あとがき4頁+訳者あとがき4頁。9ポイント47字×19行×325頁=約290,225字、400字詰め原稿用紙で約726枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。数式や化学式は出てこないので、数学や理科が苦手な人でも大丈夫。むしろ必要なのは世界史の知識だろう。といっても、特に構えなくてもいい。19世紀以降の欧米の歴史を中学卒業程度に知っていれば充分。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

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  • まえがき
  • 第1章 交流する
  • 第2章 結ぶ
  • 第3章 伝える
  • 第4章 とらえる
  • 第5章 見る
  • 第6章 共有する
  • 第7章 発見する
  • 第8章 考える
  • あとがき
  • 謝辞/訳者あとがき/図の出典/引用の許可/参考文献/注/索引

【感想は?】

 逸話を拾う著者の腕の巧みさが光る。

 最初の登場人物ルース・ベルヴィルの物語から、一気に本書に引き込まれた。1908年の彼女の商売は、正確な時刻を売ること。当時は正確な時計が普及していない。でも鉄道や銀行や新聞そして酒場など、正確な時刻を知らなければならない業務は多かった。そこで彼女は…

 「パリ職業づくし」や「アンダーグラウンド」もそうなんだが、世の中にはいろんな商売があるんだなあ、と感心してしまう。

 続く登場人物ベンジャミン・ハンツマンは18世紀半ばの時計職人。彼が求めたのは、均一なばね(ゼンマイ?)。素材にバラツキがあると、速くなったり遅くなったり、酷い時には折れたりする。そこで彼は鉄の製造工程から改善に挑み、るつぼを発明する。

 製鉄技術の進歩を、正確なばねを求めた時計職人がもたらしたのだ。発明ってのは、意外な人の意外な目的から始まってたりする。

 続く「第2章 結ぶ」の主役は、ベッセマー製鋼法のヘンリー・ベッセマー(→Wikipedia)。彼の製鋼法が生みだす鋼鉄が鉄道のレールとなり、アメリカを一つの国に結び付けていく。

 「小説家になろう」の異世界物に凝ってる私は、当時(18世紀末~19世紀初頭)の馬車の旅の逸話も楽しかった。一日の旅程は約29km、朝は3時に起こされ宿につくのは夜の10時。なんちゅう厳しい旅だ。

 これが鉄道により州間の交易が盛んになり、各地の産業は特産物に特化し、単なる年末休暇だったクリスマスも…

 「第3章 伝える」はサミュエル・F・B・モールスにスポットが当たる。そう、あのモールス信号のモールスだ。元は画家ってのが意外。電信の伝達速度は距離より文字数で決まる。そのためか、モールスが the の代わりに t を使うなど、省略表現を産み出していくのに笑ってしまう。

 「第4章 とらえる」のテーマは写真。19世紀末の写真家の手作りぶりに驚く。20世紀後半でも現像は手作業だったが、19世紀は感光用の薬剤まで手作りだったのだ。ここではコダック社がフィルムの感度を白人の肌がきれいに映るよう調整していたが為に起きた社会問題を暴く。今でも色調整は職人芸に近くて、特に人の肌は難しいんだろうなあ。いやヒトって肌の色には敏感だから。

 「第5章 見る」は電気照明。かのエジソンの功績は有名だが、夜が明るくなることで私たちの身体や社会にどんな変化が起きているかは、あまり語られない。光害は有名だが、それだけじゃないのだ。なお日本海は「地球上でも極めて明るい地点になっている」とか。

 「第6章 共有する」でも、再びエジソンが登場する。ここのテーマは録音とハードディスクだ。グレイトフル・デッドのファンなら、カセットテープの偉大さをよく知っている。かと思えば、イスラムの過激派がカルト思想を広めるのに使ったり。IBMのジェイコブ・ハゴビアンが見つけた、ハードディスクに磁性体を均一に塗る方法には、ちょっと笑ってしまう。

 「第7章 発見する」で取り上げるのはガラス。最初のヒーロー、オットー・ショットはガラス開発のために生まれたような人。なにせ実家はガラス工場ながら化学を志したのだ。19世紀当時のガラスは「泡や筋、しわ」が入ってたり「曇っていたり、濁っていたり、渦模様があったり」と、科学で使うにはアレだったのだ。こういう不具合を知ると、逆に身の回りにある技術の凄さを思い知るんだよなあ。

 最後の「第8章 考える」は、電話交換機からトランジスタそして現代のコンピュータへと向かう。ここで最も印象に残るのが癇癪もちの葬儀屋アルモン・ストロウジャー。電話を交換手がつないでいた時代、自分の店に電話で注文が入らないのは交換手の嫌がらせだと思い込んだストロウジャー、意地になって自動交換機を開発するのだ。クレーマーもここまでくれば尊敬に値する。

 終盤ではコンピューターとインターネットが私たちの脳や思考に与える影響を考える。確かに Google や Wikipedia は便利だが、この本を読まなければ私はルース・ベルヴィルやアルモン・ストロウジャーを知らなかっただろうし、ホウ素を調べようとも思わなかっただろう。未知のジャンルやキーワードを知るには、本の方が向いているのだ。とりあえず、今のところは。

 テクノロジーが暮らしや社会をどう変えたか、またはそれ以前の人びとの暮らしがどうだったかを知るという点では、私が好きな技術史の面白さがある。それ以上に、ベンジャミン・ハンツマンなどの、あまり有名でない人物に光を当て、その人生を描く物語としての楽しさにも溢れている。過去の人びとの暮らしに興味がある人なら、きっと楽しめる。

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2022年5月 9日 (月)

ドナルド・R・プロセロ「岩石と文明 25の岩石に秘められた地球の歴史 上・下」築地書房 佐野引好訳

どんな岩石にも化石にも物語がある。多くの人びとにとって岩石はただの岩石でしかないが、経験を積んだ地質学者には、方法さえ知っていれば岩石は、そこから明確に読み取ることができる貴重な証拠に満ちた謎解きの手がかりだ。
  ――はじめに

ジェームズ・ハットン「火山とはいわば地下にあるかまどの排煙口なのである」
  ――第5章 火成岩の岩脈

全地球凍結は原生代後期に別々に少なくとも2~3回発生し、ヒューロニアン氷期として知られている原生代前期(約20憶年前)にも一回起きていたことが明らかになった
  ――第16章 ダイアミクタイト

(地球の公転)楕円軌道はほぼ円形からもっと長円形へと、非常にゆっくりと変化する(それにはおよそ10万年かかることが分かっている)。
  ――第25章 氷河の落とし物

【どんな本?】

 なぜかパターンが一致する炭田の石炭の層。どうにも計算が合わない地球の年齢。グリーンランド東岸と北アメリカで見つかる同種の三葉虫。イリジウム濃集層を境に消える恐竜の化石。採集場所によって磁気が示す極の移動経路が違う。細長い形と決まっている海溝。どこまで掘っても見つからない岩盤層。今にも倒れそうな姿勢で平原にポツンと佇む巨岩。

 これらの謎は、多くの科学者たちを悩ませた。と同時に、ダイナミックな地球の歴史を解く重要な鍵でもあった。

 悲劇的な火山の噴火や奇妙な風景、整合性がとれないデータなどに悩み、またはそれらをヒントとして地球の歴史を解き明かしてきた科学者たちの足跡を25章のエッセイで綴る、一般向け地球科学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Story of The Earth in 25 Rocks : Tales of Important Geological Puzzle and the People Who Solved Them, by Donald R. Prothero, 2018。日本語版は2021年5月31日初版発行。単行本ハードカバー上下巻で縦一段組み本文約250頁+221頁=約471頁に加え、訳者あとがき7頁。9ポイント46字×18行×(250頁+221頁)=約389,988字、400字詰め原稿用紙で約975枚。文庫でも上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。冒頭に45憶年前からの地球の歴史を地層で表した図があるのも親切だ。世界中のアチコチの地名が出てくるので、世界地図か Google Map があると便利。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

クリックで詳細表示
  •  上巻
  •  はじめに
  • 第1章 火山灰 火の神ウルカヌスの怒り 古代都市ポンペイの悲劇
    神々の炎/大災害を目撃した歴史家/ベスビオス火山大噴火の後
  • 第2章 自然銅 アイスマンと銅の島 銅をめぐる古代の争奪戦
    アルプスで発見された古代人、アイスマンが語る銅の時代/東地中海に浮かぶ銅の島、キプロス/それは海洋底の断片だった/深海底で オフィオライトが銅などの鉱石に富むわけ
  • 第3章 錫鉱石 ランズ・エンドの錫と青銅器時代
    「地の果て」の錫/ナポレオンが考案した錫の缶詰/錫鉱石の起源は?/錫王国の瓦解
  • 第4章 傾斜不整合 「始まりは痕跡を残さず」 地質年代の途方もなく膨大な長さ
    ものごとの始まり/啓蒙時代 教会・貴族社会vs学者・科学者/地質学の道を歩み始めたジェームズ・ハットン/現在は過去への鍵である 斉一主義
  • 第5章 火成岩の岩脈 地球の巨大な熱機関 マグマの起源
    水成論と火成論 岩石はどのようにできたのか/カコウ岩がマグマ起源である証拠/躍動する地球
  • 第6章 石炭 燃える石と産業革命
    薪のように燃える黒い石 石炭/産業革命を推進する/石炭紀の名前の由来 挟炭層/石炭がもたらす災い
  • 第7章 ジュラシック・ワールド 世界を変えた地質図 ウィリアム・スミスとイギリスの地層
    地球の切り口/地層同定の原理を発見/収監そして名誉の回復
  • 第8章 放射性ウラン 岩石が時を刻む アーサー・ホームズと地球の年齢
    行き詰った地球の年代推定/それは放射能だ!/放射性崩壊で測定する地質時間/年代測定ゲーム/プレートテクトニクスの創始者
  • 第9章 コンドライト隕石 宇宙からのメッセージ 太陽系の起源
    青天の霹靂/初期太陽系の痕跡/隕石中の生命
  • 第10章 鉄隕石 他の惑星の核
    論争のクレーター/天空からの訪問者/核の破片/至るところ鉛、鉛
  • 第11章 月の石 グリーンチーズか斜長岩か? 月の起源
    偉大な飛躍/月はどうやってできたのか 妹説、娘説、それとも捕獲説/衝突で吹き飛ばされた初期地球/月の輝く夜に
  • 第12章 ジルコン 初期海洋と初期生命? ひと粒の砂に秘められた証拠
    ダイヤモンド以上の高級品/地球最古の岩石は?/冷えた地球
  • 第13章 ストロマトライト シアノバクテリアと最古の生命
    ダーウィンのジレンマ/疑似化石、それとも本物の化石?シャーク湾で発見された生きたストロマトライト/ねばねばの膜におおわれた惑星
  • 第14章 縞状鉄鉱層 鉄鉱石でできた山 地球の初期大気
    鉄鉱石の富と花咲く文化/無酸素の地球で形成された縞状鉄鉱層/酸素による大虐殺イベント
  • 第15章 タービダイト ケーブル切断の謎が明らかにした海底地すべり堆積物
    問題その1 ちぎれた海底ケーブルの謎/問題その2 何百回も続く級化構造の不思議/問題その3 混濁流はどのように機能したのか/謎か解けた!
  • 第16章 ダイアミクタイト 熱帯の氷床とスノーボール・アース
    オーストラリアの地層の謎/氷成堆積物と石灰岩の互層/雪だるま、現れる/スノーボール、成長開始/全休凍結か部分凍結か?
  •  図版クレジット/もっと詳しく知るための文献ガイド
  •  下巻
  • 第17章 エキゾチックアメリカ 岩石に秘められたパラドックス 彷徨う化石と移動するテレーン
    三葉虫のパラドックス/失われた大陸、アバロニア/北アメリカを構成するエキゾチックなテレーン
  • 第18章 大地のジグソーパズル アルフレッド・ウェゲナーと大陸移動説
    彼は軽蔑され、受け入れられなかった……/謎その1 岩石のジグソーパズル/謎その2 間違った場所に設けられた気候帯/深海からの謎解き
  • 第19章 望郷の白亜の崖 白亜紀の海と温室気候になった地球
    ドーバーの白亜の崖/チョークとは何だろう?/白亜紀の温室気候下の浅海
  • 第20章 イリジウム濃集層 恐竜、滅びる
    予期せぬ偶然/イタリア中央部、アペニン山地での偶然/小惑星衝突のインパクト/化石は何を語るのか?/終わりなき論争 メタ解析
  • 第21章 天然磁石 プレートテクトニクスの基礎になった古地磁気学
    謎その1 天然磁石と地球の磁性/謎その2 一致しない磁北 極移動曲線/謎その3 地球磁場がひっくり返った!/謎その4 海洋底の縞模様/海底のロゼッタストーン
  • 第22章 青色片岩 沈み込み帯の謎
    謎その1 海底への旅/謎その2 傾いた地震多発帯/謎その3 圧力は高いが温度は低い/謎その4 雑然とまぜこぜになった岩石/答えその1 沈み込みが造山運動につながる/謎その5 アラスカ地震 沈み込みは現在も起きている!/答えその2 沈み込み帯のくさび状の付加コンプレックス
  • 第23章 トランスフォーム断層 地震だ! サンアンドレアス断層
    サンフランシスコ、1906年/近代地震学の誕生/地震神話/巨大地震を引き起こすサンアンドレアス断層/驚異的なすべり/中央海嶺と海溝をつなぐトランスフォーム断層 プレートテクトニクス理論の総仕上げ
  • 第24章 地中海、干上がる 地中海は砂漠だった
    廃墟の灰燼から/成功のバラを育てよう/謎その1 進退窮まれり/謎その2 ナイル川のグランドキャニオン/謎その3 海底に開いた穴/答え 巨大な死海
  • 第25章 氷河の落とし物 詩人、教授、政治家、用務員と氷期の発見
    謎その1 漂流する巨礫/謎その2 岩石の引っかき傷/答えその1 アガシ―と氷河時代/グリーンランドでの恐怖と死/スコットランドの大学用務員とセルビアの数学者/答えその2 プランクトンと氷期の先導役
  •  訳者あとがき/図版クレジット/もっと詳しく知るための文献ガイド/索引

【感想は?】

 本書のテーマを一言で表すのが、この一文だろう。

科学の偉大な発見の多くは、計画によってではなく、予想しなかった結果に遭遇することで実現するものだ。
  ――第20章 イリジウム濃集層

 なにか奇妙なモノや現象、予想とは違う結果が出た実験や計算、奇妙に一致するパターン。往々にして、これらは科学者たちの悩みの種になった。が、多くのデータが集まった後世の者にとっては、重大な発見や既存の説を覆すための決定的な鍵となったのだ。

 例えば、炭田。産業革命により、重要な資源として石炭に注目が集まった。炭田を開発・経営する事業家たちは、炭田を詳しく調べ始める。そこで、奇妙な事実に気がつく。

主要炭田の調査が始まると、研究者たちはイギリスの石炭のほとんどを含む地層群が特定の順序で重なっていることに気づいた。
  ――第6章 石炭

 炭鉱って、そうだったのか。知らなかった。まあいい。カラクリはこうだ。石炭は、その名のとおり石炭紀(約3億6千年前~約3憶年前,→Wikipedia)の地上植物が、泥のなかに埋もれて堆積したものだ。地層は年代ごとに重なるため、石炭の層も年代ごとに同じ順番で出てくるのだ。

 なお、石炭紀より昔は大きな陸上植物がなかったし、後はシロアリなどが樹木を分解しちゃうため、石炭として残っているのは石炭紀だけだとか。うーん、残念。

 やはり科学者たちを悩ませたのが、地球の年齢。最初は聖書にちなみ数千年って説だったが、他の証拠と合わない。ケルビン卿ことウィリアム・トムソン(→Wikipedia)は1862年に熱力学に基づいて計算し、2000万年と出た。が、これでも若すぎる。

 これを覆したのが1904年のアーネスト・ラザフォード(→Wikipedia)。ケルビン卿の計算は、地球に熱源はないって前提だったが、実際には放射性物質が核分裂する際に熱を出すのだ。

初期の地球を高温にして溶融させ、その結果、マントルから核を分離させたのは何だったのか? その答えは? 初期地球が大量に含んでいたアルミニウム26が、崩壊によって何度も地球を溶融させるに十分な熱を何度も発生させていたためだ。
  ――第9章 コンドライト隕石

 これを、権威あるケルビン卿の目の前で発表する羽目になった若きラザフォードの苦境は微笑ましい。

 この地球の年齢を計算するのに、海の塩の濃さを使ったのが、アイルランドの物理学者ジョン・ジョリー(→英語版Wikipedia)。計算じゃ8千万年~1憶年となった。が、実は彼の計算も間違いで、「海水の塩分濃度は(略)長期間に大きく変化していない」。なぜって「海水の塩分の多くは塩類堆積物(略)として堆積物に固定される」。そうだったのか。

 ちなみに今のところ、地球の年齢は46憶年前となっています。

 そんな長い歴史を35億年前からしぶとく生きのびてきたのが、シアノバクテリア。

化石記録は30憶年以上も前、単細胞のシアノバクテリアよりも大きな生物は何も出現しなかったことを意味している。いわば、地球生命史の80%を占める期間、シアノバクテリアの被覆層を削り取ってしまう生物がいなかったのだ。
  ――第13章 ストロマトライト

 そんな生きた化石であるシアノバクテリア、今でも特定の条件が揃うとストロマトライト(→Wikipedia)なんて奇妙な構造物をつくる。ばかりでなく、大量絶滅のたびに「雑草のように増殖」したそうな。強くはないけどしぶといんだね。

 もっとも、そんなシアノバクテリアにも謎は残ってて。

大きな謎は、シアノバクテリアの化石は35憶年前、もしかすると38憶年前に遡って知られているのに対して、大酸化イベントが23憶~19憶年前に始まったという点だ。
  ――第14章 縞状鉄鉱層

 本書には他にも謎を提示してて、皆さん大好きな恐竜絶滅もその一つ。今は小惑星衝突説が有力だが、それ以前から恐竜の衰退は始まっていたし、カエルやサンショウウオはなぜか生きのびている。同時期にデカン噴火(→Wikipedia)と海水面低下が起きていて、今のところ科学者たちも意見が分かれている。

 などの謎の中でも、やっぱりスケールが大きいのが大陸移動説。アルフレッド・ウェゲナー(→Wikipedia)の気づきは有名だけど、実は彼より前に気づいた人はいた。

信頼に足る最初の大西洋の地図が使えるようになるとすぐに、1500年代には早くも人びとはそれ(南アメリカとアフリカの海岸線が驚くほど一致すること)についてコメントしていた。
  ――第18章 大地のジグソーパズル

 でも、みんな「そんなバカな」と思ったか、証拠が見つからなくて黙ってたんだろう。そりゃねえ。大陸が動くなんて、思わないよね普通。これがやがてプレートテクトニクスへと発展し、地震についても色々とわかってくる。が、残念なことに…

地震がまったく予測不可能(略)。二つとして同じ地震はなく、あるタイプの地震を警告する前兆現象は、前兆現象を伴わない別のタイプの地震に対しては役に立たないということを地震学者は学んだ。
  ――第23章 トランスフォーム断層

 火山の噴火はけっこう正確に予報できるらしい。でも地震は難しいのだ。残念。

 どうも私は「○○と文明」って書名に弱くて、てっきり歴史の本だと思って読んだんだが、その予想は全く違った。いや同じ歴史でも千万年とか億年とかの単位だし。まあ予想が外れたとはいえ、スケールが大きい方に外れたのは嬉しい誤算で、海の塩分濃度の謎が解けたのもよかった。分かったことだけでなく、恐竜絶滅の原因が相変わらず謎なのも、それはそれでワクワクする。そんなスケールのデカい地学の本だ。

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2022年4月 8日 (金)

スティーヴン・ジョンソン「感染地図 歴史を変えた未知の病原体」河出書房新社 矢野真千子訳

何よりもこの本は、私たちが享受している現代生活の方向性を定めた決定的な瞬間の一つとなった、激動の一週間を検証するためのものである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 1854年の8月末から9月頭にかけて、ロンドンの下町ソーホーのブロード・ストリート周辺でコレラが大流行し、多くの人が命を落とす(ネタバレあり、→Wikipedia)。

 当時の医学会は瘴気(→Wikipedia)説が中心であり、病原菌の概念は知られていなかった。有名なナイチンゲールも瘴気説を支持している。しかしこの原因を熱心に調べた医師ジョン・スノーは、自らの足で集めたデータと、教区の住民に詳しい副牧師のヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、意外な原因を突き止める。

 コレラ菌の存在すら知られていない時代に、スノーとホワイトヘッドはいかにして原因を突き止めたのか。現代では間違っているのが明らかな瘴気説が、なぜ強く支持されたのか。

 舞台となったロンドンとソーホーの悪臭漂う風景を克明に描き、スノーとホワイトヘッドが原因を実証する過程を立体的に再現し、現代的な疫学の誕生を物語風に語るとともに、ジョン・スノーに比べあまり知られていないヘンリー・ホワイトヘッドの貢献を掘り起こす、一般向けの歴史・科学解説書であると同時に、当時の怪物的な大都市であるロンドンおよびブロード・ストリートの風景と、そこに住む人びとの暮らしをスケッチし、現代のニューヨークなどの大都市と比べて語り未来の人類社会の在り方をさぐる都市論でもある。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ghost Map : The Story of London's Most Terrifying Epidemic - and How It Changed Science, Cities, and the Modern World, by Steven Johnson, 2006。日本語版は2007年12月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約250頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×18行×250頁=約207,000字、400字詰め原稿用紙で約518枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。ただし、テーマがコレラだけに、悪臭が漂ってきそうな生々しい描写がアチコチに出てくるので、繊細な人にはキツいかも。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • 8月28日 月曜日 下肥屋
  • 9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に
  • 9月3日 日曜日 探偵、現る
  • 9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市
  • 9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である
  • 9月6日 水曜日 証拠固め
  • 9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ
  • その後~現在 感染地図
  • エピローグ
  • 著者注/謝辞/付録 推薦図書/訳者あとがき/書誌/原注

【感想は?】

 まず、頭の「8月28日 月曜日 下肥屋」で、繊細な人は振り落とされる。

 人は都市に集まる。この傾向は、産業革命などによって更に加速してゆく。それにより、ロンドンは野放図に人が集まってきた。人が集まれば、出すモノも増える。だが、その始末は誰も考えていなかった。その結果を描くのが、この章だ。

 都市計画も区画整理もなく、ひたすらに人が密集するソーホーの風景は、混沌そのもの。住宅と食肉工場と商店が、一つの区画に共存しているのだ。「堆塵館」の舞台のモデルになったのもうなずける。下水道もないから…せいぜい覚悟しよう。

 著者は、ここで本書の一つのテーマを確認する。当時は瘴気説が有力で、病原菌は相手にされなかった。ジョン・スノーとヘンリー・ホワイトヘッドの調査が瘴気説を覆す根拠を示すのだが、なかなか認められなかった。それはなぜか。

多くの聡明な人がこれだけ長いあいだ、なぜそんな馬鹿なことを信じていたのか? 矛盾する証拠は目の前に山のようにあるのに、なぜそれが見えなかったのか? こうした疑問もまた、知識社会学――過誤社会学ともいうべきだろうか――の分野で研究されるべきテーマだろう。
  ――8月28日 月曜日 下肥屋

 だが、この章が描くロンドンの風景を読む限り、瘴気説を信じたくなる気持ちもわかるのだ。悪臭漂う空気のなか、汚物と隣り合わせに暮らしてたら、そりゃ病気になるよ、と。

 ありがたいことに、著者は終盤でこの感覚にちゃんと理屈をつけてくれる。ヒトは悪臭に対し本能で反応するのだ、と。

19世紀に入ってまで瘴気説が根強く残ったのは、(略)本能に根ざしていた(略)。
人間の脳は、ある種の匂いを嗅ぐと無意識に嫌悪感をおぼえる(略)。
この反応は理性(略)を通らずに、そのにおいに関連するものを避けたいという強い欲求を作り出す。
  ――9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である

 だって腐ったモンを食ったら腹を壊すし。今は腹を下しても病院に行けばどうにかなるけど、野生状態じゃ命に係わる。だからヒトは悪臭に敏感で、本能的に「悪しきもの」と決めつけるのだ、と。この本能が、瘴気説に力を与えていたのだ。

 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」で、トイレの近くでインタビュウしたら倫理的に厳しい解が増えたとあったが、それはこういう本能が関係あるのかも。いずれにせよ、理性的な判断が求められる状況に、悪臭はよろしくない。そんなワケで、プログラマの職場環境は←しつこい。

 さて、コレラ菌にもいろいろある。タチの悪いものから、そうでないものまで。生憎と、この事件で猛威を振るったのは、特にタチの悪い株だったらしい。つまり、ガンガン増殖するタイプだ。

新しい宿主への移動が困難な、つまり感染性が低い環境だと、繁殖力が穏やかな株が種の中で個体数を増やす。感染率が高い環境だと、繁殖力が強い、人間にとって悪性度の高い株が穏やかな株を駆逐する。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 景気のいい時はイケイケな企業が業績を伸ばし、悪い時は慎重な企業が生き残る、そんな感じかな。

 そんなコレラの脅威に対し、医学はほぼ無力、どころか瀉血などの逆効果の治療法やアヘンなどの怪しげな薬が新聞の広告欄を賑わす。コレラの主な症状は脱水なので、水を大量に飲ませれば回復する場合もあるのに、全く逆の「治療」が幅を利かせていたのだ。

19世紀半ばのヴィクトリア時代にこうした(怪しげな療法や薬の宣伝が盛んになる)状況が生まれたのは、この時代に、医学は未熟なのにマスコミだけが成熟しているというギャップがあったからだ。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 あー、いや、21世紀の現代でも奇妙な療法や薬がノサバってますが。というか、「医学は未熟でマスコミが成熟」ってとこ、医学を他のもの、例えば経済や教育に替えれば今でも充分に通用するような。「代替医療のトリック」を読むとクラクラきます。なまじ歴史のあるモノほどしつこいんだよね。

 さて、コレラの感染経路は水だ。ここで、イギリスでの感染を防いでいたモノがある。それは…

18世紀後半に爆発的に増えた飲茶習慣は、微生物の立場になればホロコーストに等しかった。この時期、赤痢の発生率と子どもの死亡率が激減したことを医師たちは観察している。
  ――9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市

 だって茶を淹れるには、まず湯を沸かすよね。要は煮沸消毒だ。おまけに茶のタンニンも殺菌効果がある。で、茶のない頃は、ワインやビールでアルコール消毒してた。そうやって、欧州は下戸が淘汰された、と著者は主張している。モンゴロイドに下戸が多いのは、安全な水が手に入りやすかったからかな?

 まあいい。この事態の原因を突き止めようと精力的に動いたのが、有名なジョン・スノー。当時でも女王陛下のお産で麻酔を担当するなど、既に充分な名声を得ていた。が、もともと瘴気説を疑っていたうえに、自分の住まいの近くで起きた惨事でもあり、被害の様子を詳しく調べ始める。ただ、当時の科学はまだ未熟で…

当時の技術で水質を分析しても謎は解けないし、何も見えない。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 こんな状態で、どうやって原因を突き止めたのか。足でデータを拾ったのだ。一軒一軒、訪ね歩いて。もっとも、ソレで明らかになるのは、疫病の発生がブロード・ストリートに集中してるってことだけ。決定的な証拠が必要だった。それは…

証拠は「例外」の中にある
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 例外とは何か。この場合は二つ。1)ブロード・ストリートに住んでいるのに、被害を免れている人。2)ブロード・ストリートから離れたのに、被害に遭った人。

 ここで活躍したのが、ヘンリー・ホワイトヘッド。彼は副牧師として周辺の人たちと親しく付き合い、日頃の暮らしを知っていた。また、避難した人たちやその家族とも親しく、引っ越し先も知っていた。ホワイトヘッドの協力で、スノウは決定的な証拠を手に入れる。

画期的な知識の前進というのはふつう、現場ベースで生まれるものなのだ。
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 かくしてスノウとホワイトヘッドは報告書を提出するのだが…

教区役員会が報告書を出した数週間後に、(公衆衛生局長)ベンジャミン・ホールのこれら調査委員会もセント・ジェームズ教区のコレラ禍にたいする見解を発表した。彼らがスノーの説に下した評価は、完全なる否認だった。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 いったん染み込んじゃった思い込みは、なかなか消えないんです。科学も数学も、こういうのはよくあるんだよなあ。大陸移動説とかペイズ統計とか。SFやファンタジイで不死が出てくるけど、ヒトが死ななくなったら、きっと科学や数学の進歩は止まると思う。その時代の頑固な権威が死ぬことで、やっと日の目を見た説は結構あるのだ。

 終盤では、騒ぎが収まった後を語る。ここで、やっと地図が登場する。面白いのは、地図の書き方。絵で見せるわけで、大事なのは「詳しく書くこと」じゃない。

疫病のほんとうの原因を説明するには、表示する情報量を増やすのではなく減らさねばならなかった。
  ――その後~現在 感染地図

 テーマを絞って、本当に訴えたい点だけを浮き上がらせる事なのだ。え? プレゼンテーションの基本だろ? ええ、はい、わかっちゃいるけど、ついついやっちゃうんだよね、全部を強調するって馬鹿な真似。

【エピローグ】

 ミステリ・ドラマ仕立ての本だが、最後のエピローグだけは毛色が違う。ここでは都市論が主題に挙がってくる。

ヴィクトリア時代に内部崩壊に向かう癌性の怪物と思われていた大都市がこうまで変わった転換点がどこにあったかといえば、それはブロード・ストリートの疫病戦争で都市が病原体に勝利した時点だ。
  ――エピローグ

 都市を保つのには、何が必要か。食料や輸送力やエネルギーも必要だ。それ以上に、ヒトが密集すると、どうしても疫病が流行りやすくなる。ブロード・ストリートの事件が、その代表。いや他にも911とかがあるんだけど。山のなかにジャンボが落ちても、被害にあうのは乗員と乗客だけ。でもビルに突っ込んだから、被害が大きくなった。人から人へうつる疫病の被害は、もっと悲惨になる。

歴史的に見て、爆弾は攻撃対象となる人口が増えるにつれて威力を高めてきたが、その上り坂はあくまで直線だ。疫病の場合、致死率は指数関数的に上昇する。
  ――エピローグ

 しかも細菌は進化が速い。なにせ世代交代の速度が分単位だからヒトとは桁違いだし、脊椎動物には真似のできない必殺技も持っている。

私たちにとって、遺伝子が水平方向にスワップするという概念は少々理解しにくいかもしれないが、細菌やウイルスなど原核生物の世界では日常的に起きていることだ。
  ――エピローグ

 これは既に抗生物質に対する耐性を持つ耐性菌の蔓延で現実になってるのが、なんとも。なお耐性菌を作ってるのはヒトより家畜だそうだ(→「排泄物と文明」)。

 本書ではインフルエンザ・ウイルスを脅威の候補に挙げ、その危険性を警告している。

もしそのようなウイルス株が出現したら、その被害範囲は井戸水ポンプの柄を外して制圧できるほどの規模ではすまないだろう
  ――エピローグ

 はい、そんなもんじゃ済みませんでした。インフルエンザじゃなくてコロナだったけど。ほんと、この辺は読んでて「まるきし予言の書だなあ」と思ったり。ちなみに原書の発行は2006年。見事な予言だ。

 じゃ都市化を危惧してるのかと言えば、そうでもない。一人当たりのエネルギー消費量は、都市の方が遥かに少ないのだ。だって都会は電車で通勤できるけど、田舎は自動車が必需品だし。

ニューヨーク市を仮に<州>とみなしたとき、その人口はアメリカで11番目に当たるだろうが、一人当たりのエネルギー消費は51番目になる
  ――エピローグ

 この辺は「都市は人類最高の発明である」が詳しいです。そんなこんなで、持続可能な社会にするには都市化に順応した方がいいんだけど、人間ってのは厄介なもんで…

迷信は、いまも昔も真実を見えなくさせる脅威であるだけでなく、人びとの安全をおびやかす脅威でもある。
  ――エピローグ

 今もワクチン接種を嫌がるだけでなく、積極的に邪魔したがる人がいるし。医学や疫学は学問としちゃそこそこ成熟してるんだけど、学者や医者じゃない人たちの知識は未熟なのに対し、SNSなどの情報伝達ツールは異様に発達しちゃってるんだよなあ。かと言って、科学や数学をすべての人に充分に理解させるのは、さすがに無理だろうしなあ。少なくとも私は充分に理解するなんて無理です←をい

【おわりに】

 そんなワケで、ちと古い本ではあるけど、新型コロナウイルスが猛威を振るう今は、実にタイムリーで熱く訴えかけてくる本だ。犯人は割れてるけど、ミステリ仕立てのドラマとしても面白いし、従来の仮説を新しい仮説が覆す物語としても楽しめる。特に、都市住む人にはなかなか心地よい作品でもある、と申し添えておこう。

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2022年4月 4日 (月)

マット・パーカー「屈辱の数学史」山と渓谷社 夏目大訳

どの分野でも、些細に見える数学のミスが、驚くような事態を引き起こす。古いものから新しいものまで、数ある数学のミスの中から、私が特に興味深いと思ったものを集めたのがこの本だ。
  ――第0章 はじめに

2015年、通信インフラ企業のヒベルニアネットワークスは、三億ドルもの巨費を投じ、ニューヨークとロンドンの間に新たに光ファイバー・ケーブルを敷設した。通信に要する時間を6ミリ秒短縮するためだ。
  ――第8章 お金にまつわるミス

計測の精度と正確さは混同されがちだが、両者はまったく別のものだ。精度はどれだけ細かく計測できるかを表し、正確さは計測値がどれだけ真の値に近いかを表している。
  ――第9章 丸めの問題

コンピュータに何かをランダムに行わせるのは「難しい」どころではない。まったくの不可能なのだ。
  ――第12章 ランダムさの問題

再テストを行わずにコードを流用すると、それが問題のタネになることが多い。
  ――第13章 計算をしないという対策

【どんな本?】

 私たちの身の回りには、数字が溢れている。だが、往々にして人は数字が苦手だ。例えば私は風速がピンとこない。天気予報では風速を秒速?mで表す。でも私には時速の方がなじみ深い。なので、頭の中で3または4を掛け単位をkmに替えることにしている。

 日常ではその程度で済むが、橋や建物の建設だと、こんな大雑把な計算じゃ困る。薬の投与量や放射線の照射量などの医療関係では、直接に命にかかわる。また、翻訳本を読んでいると、距離の単位がマイルだったりする。かと思えば、コンピュータ・ゲームのバグなど、微笑ましい数字のミスもある。

 人間が犯したミスのなかでも、数字が関わり、かつ著者が興味深いと感じたものを集め、詳しく解説した、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Humble Pi : A Comedy of Maths Errors, by Matthew Parker, 2019。日本語版は2022年4月5日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約455頁。9.5ポイント42字×16行×455頁=約305,760字、400字詰め原稿用紙で約765枚。文庫なら厚い一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。書名に「数学」が入っているが、実際に使うのは加減乗除なので、むしろ「算数」が相応しい。

 また、コンピュータのプログラムに関する話題も多い。プログラマは大いに楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 第0章 はじめに
  • 第1章 時間を見失う
  • 第2章 工学的なミス
  • 第3章 小さすぎるデータ
  • 第4章 幾何学的な問題
  • 第5章 数を数える
  • 第6章 計算できない
  • 第7章 確率にご用心
  • 第8章 お金にまつわるミス
  • 第9章 丸めの問題
  • 第9.49章 あまりにも小さな差
  • 第10章 単位に慣習……どうしてこうも我々の社会はややこしいのか
  • 第11章 統計は、お気に召すまま?
  • 第12章 ランダムさの問題
  • 第13章 計算をしないという対策
  • エピローグ 過ちから何を学ぶか
  • 謝辞

【感想は?】

 人間は数字が苦手だ。これは直感で分からないからだろう。

元来、人間は数を直線的ではなく、対数的なものととらえる生き物である。
  ――第0章 はじめに

 例えば、そうだな、a)1億円と500憶円の違いと、b)1兆円と2兆円の違い、どっちが大きいと思います? 直感的にはa)と答えたくなるが、金額の差はb)の方が圧倒的に大きい。つい割合で考えてしまうのだ、私たちは。

 とまれ、どうしても私たちの暮らしに数字はついてまわる。それは日々の暮らしだけでなく、社会全体にも大きく影響を与える。例えば暦だ。その元になるのは、日と年なんだが、これがけっこう面倒くさい。

宇宙が私たちに与えてくれる時間の単位は二つだけだ。それは「年」、そして「日」である。
  ――第1章 時間を見失う

 1年はだいたい365日で、これは太陽のまわりを地球が一周する、公転に必要な時間。1日は地球の自転に必要な時間。この二つは、歯車みたく綺麗に揃ってるわけじゃなく、独立した運動だ。だから、どうしたってピッタリな数字にはならない。そこで、うるう年なんて面倒な計算が必要になる。これも4年に一度じゃピッタリこないから、プログラマは面倒な条件判定をしなきゃいけない。

 日と年のように、自然が生みだしたモノはどうしようもない。が、人は自分で橋や建物などを作り出す。が、作ってから、様々な不具合に気がつく。ここでは、かの有名なタコマ橋やロンドンのミレニアム・ブリッジを紹介する。

人間は自分の理解を超えたものを作ることがある。作ってしまってから理解する。(略)応用が先で、基礎となる理論は遅れてできるのだ。
  ――第2章 工学的なミス

 問題が起きると、その原因を突き止めようとする。その過程で、理論が姿を現すのだ。この章では、エアロビクスでビルが揺れた話が面白い。たまたま振動数があったため、信じがたい現象が起きた。振動数にしても、横揺れ・縦揺れ・ねじれ等があり、モノを設計する際の難しさが伝わってくる。

 3章は、IT技術者なら身につまされる逸話がギッシリ詰まってる。Steve Null 氏や Brian Test 氏やAvery Blank 氏の災難、Excel の型自動判別によるバグ。やはりプログラマならピンとくるだろう。

 なお、某社の表計算ファイルの42.2%には一つも数式がなかったとかは、あまり笑えない。神Excelとか話題になってるし。どうでもいいけど、お役所は "Excel" ではなく "表計算" または "スプレッドシート" と呼ぶべきだと思う。政府が特定企業の特定製品を贔屓しちゃマズいよね。

 5章もプログラマには身近な話題。確か Fortran は配列の添え字の最初は1だけど、c は0から。こういう境界値のバグは、よくあります。続く6章もオーバーフローや2進:10進変換の話。あなたのまわりにもいませんか、ピッタリ255とか言っちゃう奴。いや256だろって反論もきそうw

 9章以降は、大きな事故の話が中心になる。そういう点では、「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」とカブる。

事故が起きたときは、それはシステム全体の欠陥のせいである。一人の人間に責任を負わせるのは正しくない。
  ――第9.49章 あまりにも小さな差

 大きな事故は、たった一つのミスで起きるんじゃない。幾つのもミスが積み重なって起きる。機械でもソフトウェアでも組織でも、普通は何重もの安全装置がついている。それらすべてをスリ抜けた時に事故になる。なぜスリ抜けるか? ミスを隠そうとしたり、チェックを甘くしたがる組織の体質が原因だったりする。そもそもヒトってのは見栄っ張りな生き物で…

悪い結果は、良い結果に比べて隠される可能性が圧倒的に高くなるのだ。
  ――第11章 統計は、お気に召すまま?

 手柄話をする酔っ払いは沢山いるが、失敗譚をする奴は滅多にいない。そういう事だ。それだけじゃない。問題が起きると、みんなが寄ってたかって悪役を仕立てて責め立てる。だから、みんな自分のミスを語ろうとしない。

「ミスを認めた人間をすべて排除したとしても、システムはよくならない」
  ――第13章 計算をしないという対策

 この辺、航空機事故の調査などは極めて巧みにやっているみたいだ。逆なのが政治や経済だよね。福島の原発事故も、「電源喪失」だけで話を終わらせちゃマズいと思う。なぜ設計や導入検討の段階で気づかなかったのか。気づいたけどスルーされたのか。ちゃんと調べるべきでない? 誰に責任があるかはさておき。

 とかのウザい調査や監査があると、ヒトは数字をデッチ上げようとする。元数学教師らしく、宿題を誤魔化す生徒を見破るために、デッチあげをあぶりだす方法も出ていて、その一つがベンフォードの法則(→Wikipedia)。

現実の世界に存在する数値データを十分な量集めて平均すると、先頭の桁が1のものがだいたい全体の30%になる
  ――第12章 ランダムさの問題

 なぜそうなるのか、なんとなくわかる気がするんだけど、巧く説明できない。あなた、どうですか?

 書名には数学とあるけど、加減乗除でわかるネタばかりなので、レベル的には算数とすべきかも。最初から最後まで、ヒトがやらかした失敗の話が並んでいる。他人の失敗の話ってのは、やはり楽しいのだ、野次馬根性で。いや真面目に事故を防ぐ教訓を学んでもいいけど。

 ってんで調べたら、失敗知識データベースなんて楽しいサイトを見つけた。面白いバグを集めた本とかも、探せばあるんだろうか? ちなみに私がよくやるのは、文字列の二重引用符 "" の片方を忘れるって奴です。

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2022年2月25日 (金)

鳴沢真也「連星からみた宇宙 超新星からブラックホール、重力波まで」講談社ブルーバックス

宇宙に存在する星々のおよそ半数は、連星であると考えられています。
  ――はじめに

多重連星はかならず「2つの星だけが近くにある」
  ――1章 あれも連星、これも連星

連星の2つの星の質量の合計は、両星間の距離の3乗に比例し、公転周期の2乗に反比例する
  ――4章 連星が教える「星のプロフィール」

現在、新星とは「白色矮星と、もう1つの星とが近接連星をなしているときに起こる現象」だと考えられています。
  ――5章 「新しい星」は連星が生む幻か

ソーン・ジトコフ天体とは、赤色巨星または赤色超巨星(略)の中心に、なんと中性子星が存在しているという、なんとも奇妙な天体です。
  ――11章 連星は元素の合成工場だった

【どんな本?】

 連星。2つ以上の恒星が、互いのまわりを回っている天体。太陽が独裁を敷く太陽系に住んでいる私たちには奇妙に思える。だが、宇宙に連星は珍しくない、どころか、ありふれた形らしい。しかも、2つどころか3つや4つの連星もある。

 劉慈欣の「三体」を読んだ人なら、こんな疑問を抱くだろう。「3つ以上の天体って、ありうるのか? 軌道が不安定なのでは?」

 ところがどっこい、現実にあって、ちゃんと観測されているのだ。いや、ただ観測されているだけじゃない。連星の観測は、ブラックホールをはじめ天文学・物理学の様々な現象や原理の解析に役立っていて、現代の宇宙論に欠かせない重要なデータを提供している。

 「なぜ3体以上の天体で軌道が安定するのか」「生物が住める惑星はあるのか」「どうやって見つけたのか」などの疑問に答えるとともに、「ひょうたん星」や「ソーン・ジトコフ天体」などの奇妙奇天烈な星も紹介する、一般向け科学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年12月20日第1刷発行。新書版で縦一段組み本文約約221頁に加え、あとがき2頁。9ポイント43字×16行×221頁=約152,048字、400字詰め原稿用紙で約381枚。文庫なら薄めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。まれに数式が出てくるけど、わからなければ読み飛ばしていい。本を読み慣れていれば、中学生でも読み通せるだろう。

【構成は?】

 原則として頭から読む構成だが、気になった所だけを拾い読みしても楽しめる。

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  • はじめに
  • 1章 あれも連星、これも連星
    連星とは「重心のまわりを公転しあう星」/連星をなす星は恒星である/全天でもっとも明るい星は連星だった!/連星には「主星」と「伴星」がある/2つの星の組み合わせはさまざま/北極星は3つの星が回り合っている!/3重連星も組み合わせはさまざま/4重連星、5重連星もある!/いったい何重連星まであるのか/多重連星は「階層構造」になっている
  • 2章 連星はどのようにしてできたのか
    一方から飛び出してできた?/分裂してできた?/捕獲されてできた?/星は生まれた時から連星だった/連星のできかた 1)円盤が分裂する/連星のできかた 2)分子雲コアが分裂する/「捕獲」でできることもある/太陽にもかつて「兄弟」はいた?/「蒸発」して逃げ出す星もある/相手をチェンジして「サバイバル」する星も!
  • 3章 なぜ連星だとわかるのか
    「二重星」は「たまたま」か「連星」か/二重星のほとんどは連星だった!/1つの星にしか見えない「食連星」/食連星の発見は「周期的な減光」から/光の波長を調べてわかる「分光連星」/実視連星・食連星・分光連星の関係
  • 4章 連星が教える「星のプロフィール」
    連星の「質量」を教えてくれる方程式/2つの星の「質量比」を知りたい!/質量比は公転速度の比率からわかる!/分光連星では「軌道傾斜角」がわからない/軌道傾斜は食連星からわかる!/アルゴルの2星の質量が求められた!/「質量光度関係」から単独星の質量もわかる/星の質量から「寿命」もわかる/「異常小質量短期連星」の発見
  • 5章 「新しい星」は連星が生む幻か
    突然、空に出現する「新星」/新星の正体は連星だった!/「星の死後の姿」白色矮星とは/白色矮星の表面で起こる新星爆発/「赤い新星」は2つの星の衝突で起こるのか/はぐれた星のミステリー
  • 6章 ブラックホールは連星が「発見」した
    ロケットで観測されたX線/X線源を探せ!/日本人が発見「さそり座X-1は星だった」/さそり座X-1は連星だった!/「超巨星」が「超新星爆発」を起こし「中性子性」ができる/はくちょう座X-1のX線源はブラックホールだった!/なぜブラックホールがX線源になるのか/ブラックホールは単独星では発見できなかった
  • 7章 連星が暗示する「謎のエネルギー」
    太陽の何億倍も明るく輝く超新星爆発/白色矮星が爆散する「Ⅰa型超新星」/なぜ宇宙が膨張しているとわかるのか/Ⅰa型超新星を使えば銀河までの距離がわかる/宇宙の膨張は加速していた!/膨張速度を加速させる「謎のエネルギー」
  • 8章 連星が解いた「天才科学者最後の宿題」
    重力波は「空間の伸び縮み」を光の速さで伝える/間接的な検出をもたらした連星/直接検出の気が遠くなる困難さ/初の重力波はブラックホール連星から届いた/「消えた質量」が重力波になった!/中性子星どうしの衝突では電磁波も出る/21世紀天体物理学の「勝利の日」/36億光年を飛んできた「高速電波バースト」/重力波がダークエネルギーも解明する
  • 9章 連星のユニークな素顔
    2つの星がくっついてしまった連星がある!/「ひょうたん星」がさらに進化すると?/星の中を星が回っている天体がある/ひょうたん星の表面は「ほくろ」だらけ/低温度の近接連星で起こる激しい磁場活動
  • 10章 連星も惑星を持つのか
    続々と見つかっている系外惑星/「連星の惑星」には2つのタイプがある/一人ぼっちで浮遊している惑星もある/「ハビタブル惑星」となるための複雑な要件/太陽系外にも見つかったハビタブル惑星/連星にもハビタブル惑星が見つかった/「プロキシマ・ケンタウリ」の衝撃/4重連星にもハビタブル惑星がありそうだ
  • 11章 連星は元素の合成工場だった
    最初に水素が、次にヘリウムができた/星の内部でつくられるのは鉄まで/超新星爆発でできる鉄より重い元素/超新星爆発は宇宙の物質を循環させている/中性子星どうしの合体でできる元素もある/キノロバが証明したプラチナや金の合成/「X線バースト」による元素合成/「理論上の天体」で予言される元素合成/ソーン・ジトコフ天体は存在するか
  • 12章 連星が終焉を迎えるシナリオ
    連星どうしの衝突・合体もある!/連星がなければ私たちは存在できなかった?/歴史はまったく違っていた/天文学者や物理学者が困る/連星がない宇宙はつまらない!
  • あとがき/さくいん

【感想は?】

 いきなり驚いた。連星は珍しくないのか。

 他星系が舞台のSFは多いが、連星系を描いた作品は少ない。色々と難しいんだろうなあ、と思いながら「10章 連星も惑星を持つのか」を覗く。惑星の公転軌道の中に連星がスッポリ入る場合もある。これなら昼夜や季節は地球と似てるな、と一安心。でも公転軌道の外に恒星があると、「明るい夜」と「暗い夜」があったりする。設定を考えるのが面倒臭そうだけど、面白そうでもある。

 SF者として気になるのが、有名な三体問題だ。三つ以上の天体は軌道が安定しない、というアレだ。でも読んでみて納得。別にラグランジュ・ポイントに落ち着く必要はないのだ。だって太陽系には惑星や衛星がうじゃうじゃあるけど、ほぼ安定してるよね。摂動はあるけど。

 やはりSF者としては、終盤に出てくる「ひょうたん星」や「ソーン・ジトコフ天体」が楽しい。ひょうたん星の惑星版は「ロシュワールド」の舞台になったし、「ソーン・ジトコフ天体」も「竜の卵」に…って、どっちもロバート・L・フォワードやんけ。

 同じくSF者として見逃せないのがガンマ線バースト。これもグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」や三方行成の「トランスヒューマンガンマ線バースト童話集」が扱ってた。おいおい、ヤバくないか? と思ったが…

ガンマ線バーストは、非常に強いエネルギーを持つ電磁波であるガンマ線を放射する、宇宙最大の大爆発です。(略)1日に全天で1回程度の頻度で、突然に、短時間だけガンマ線が検出されるのです。短時間でも放出されるエネルギーは膨大で、観測できる範囲の宇宙の中にあるすべての星が出しているエネルギーの総量に匹敵します。
  ――8章 連星が解いた「天才科学者最後の宿題」

 案外としょっちゅう観測されているっぽい(→Wikipedia)。直撃されたり近くで起きない限り、大丈夫らしい、ひと安心。

 最近はあまり天文関係の本を読まなかったんで全く気がつかなかったが、最近になって話題になったダークエネルギーも、その出典は意外な事実だった。

1998年に2つの研究チームが発表した観測結果は、(略)宇宙は誕生してから約70憶年間は減速膨張をしていましたが、その後、膨張速度が少しづつ速くなる「加速膨張」に転じていたことがわかったのです。
  ――7章 連星が暗示する「謎のエネルギー」

 「宇宙の膨張が速くなってる、従来の理屈じゃ説明がつかない、何かエネルギーをひねり出さないと辻褄が合わない」ってんで引っ張り出されたのがダークエネルギー。辻褄合わせなんで、正体はわからない。いいのかそれで。

 などと、宇宙って遥か彼方の話だと思い込んでる読者の目を、一気に目の前に惹きつけるのが「11章 連星は元素の合成工場だった」。私たちのすぐそばにあるアップルパイや私たちの身体は、みんな元素から構成されている。その元素はどうやって出来たのかを語るのが、この章だ。いや最初はアップルパイなんだが、結局は中性子星だなんだとスケールのデカい話になっちゃうんだけどw いずれにせよ、そこそこ齢を経た宇宙に生まれてよかったなあ、などと思う章だ。

 などと安心ばかりもしてられない。最近の宇宙SFじゃ欠かせないガジェットの一つであるブラックホール、これも連星だから見つかったシロモノ。だって光すら出てこれないし。

もし単独星が、重力崩壊型超新星爆発で、あるいは直接的にブラックホールになっていたら、発見することはほぼ不可能です。
  ――6章 ブラックホールは連星が「発見」した

 そんなワケで、宇宙の隠れた岩礁みたいな場所は、やっぱりあるのだ。他にも黒色矮星なんてのもあって、これも怖い。

 などの怖い話や、奇想天外な星の話、7体もの恒星がある星系など、スペースオペラのネタは満載で、宇宙SFが好きな人には美味しい話が続々と出てくる。また、「なぜソレが分かったか」を明かすところでは、観測技術の進歩が科学に大きな影響を与えたのが見えてくる。これを巧みに描いたのがグレッグ・イーガンの「白熱光」で…って、結局SFかい。

 そういえば、「なろう」などのファンタジイの舞台じゃ月が二つ以上あったりするが、太陽が複数あるのはまず見ない。なんでだろう? と思ったが、太陽が複数あると日々の描写もSFっぽくなっちゃうから、かな?

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2022年1月16日 (日)

ジャンナ・レヴィン「重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち」早川書房 田沢恭子・松井信彦訳

はくちょう座X-1からの光で骨格の(X線)写真を撮れる。
  ――8章 山頂へ

「(2015年)9月14日、二台のLIGO干渉計が二つの30太陽質量前後のブラックホールによるインスパイラルおよび合体と矛盾しない信号を記録しました」
  ――エピローグ

【どんな本?】

 2016年2月11日、物理学上の重大な発表があった。「2015年9月14日にアメリカの重力波観測施設LIGOが重力波を検出した」と。

 アインシュタインの一般相対性理論により、理論上は存在しうるとされていた重力波(→Wikipedia)だが、実際に観測されたのは初めてである。

 その重力波とは何か。どうやって調べるのか。重力波観測施設LIGOとは、どんな施設なのか。重力波の観測にはどんな者が関わり、どんな歴史を辿り、どんな形で運営されているのか。

 重力波およびその観測の歴史からLIGOの計画・建設そして運用に至るまで、関わった者たちのドラマを物理学者を中心に描く、現代のビッグ・サイエンスのドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は BLACK HOLE BLUES : and Other Songs From Outer Space, by Janna Levin, 2016。日本語版は2016年6月15日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約256頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×19行×256頁=約218,880字、400字詰め原稿用紙で約548枚。文庫なら普通の厚さ。今はハヤカワ文庫NFから文庫版が出ている。

 文章はこなれている。内容も特に難しくないが、重力波を「感じる」には、中学校卒業程度の理科の素養と、多少の想像力が要る。とまれ、内容の多くは人間ドラマなので、組織内で働いた経験があれば、理科が苦手でも大丈夫。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  • 1章 ブラックホールの衝突
    天空の“音”を記録する試み
  • 2章 雑音のない音楽
    雑音のない音楽を求めて/ナチスを逃れ、ベルリンからニューヨークへ/シェラック盤の背景雑音はどうしたら消せるのか/時空の「録音装置」をつくる/恋に落ちて始めたピアノが人生を変えた/MIT20号棟の想い出/一般相対性理論を教えながら学ぶ/「物体間で光線を往復させて重力波を測定する」というアイデア/1.5mの「プロトタイプ」干渉計/結果を出さないリスクに耐える/立ち消えるプロジェクト/ドイツチームに水をあけられて
  • 3章 天の恵み
    70年代のボヘミアン/ジョン・ホイーラーとの出会い/ホイーラーと核兵器開発/核兵器の科学から出たブラックホール/相対論的天体物理学の黄金時代/とらえどころのない“重力波”に狙いを定める/重力波とは何か、本当に存在するのか?/ワイスとソーンの邂逅/ソヴィエトから来た男
  • 4章 カルチャーショック
    倹約を旨として/いつでも渦の中心にいる男/ヒューズ=ドレーヴァー実験で名を馳せる/「スズメの涙」ほどの予算で干渉計をつくり上げる/周囲を振り回す「科学のモーツァルト」/鬼のいぬ間の洗濯/好条件か、居心地のよさか/人間心理を読み違える
  • 5章 ジョセフ・ウェーバー
    「ニアミス」に翻弄され続けた先駆者/銀河系の中心に「音源」を発見せり/フリーマン・ダイソンの「重力装置」に勇気づけられる/雨後の筍のようにつくられ始めた「共鳴棒」/否定的な結果の蓄積/「偽りの信号」の烙印
  • 6章 プロトタイプ
    カルテクの<40メートル>に潜入/<40メートル>は誰のものか?/「干渉計」は誰のアイデアだったのか?/L字型をした「光の通路」
  • 7章 トロイカ
    「重力波探し」は終わったテーマではない!/その道は必ずや巨大プロジェクトに通じる/救世主、アイザックソン/「ブルーブック」提出される/7000万ドルのプロジェクト MITとカルテックの合同成る/ドレーヴァーとワイスのあいだの「緊張」/LIGOの誕生 奇妙な「トロイカ」の結成
  • 8章 山頂へ
    パルサーが発見されるまで/ブラックホールが実在することの裏付けとなる/なぜ「暗黒」に注目するのか?/成し遂げられた重力波の「間接的検出」
  • 9章 ウェーバーとトリンブル
    ウェーバー、ソーンに自分語りをする/「身を引け」と勧めたフリーマン・ダイソン/ウェーバーと連れ添った女性/ウェーバーとトリンブルのロマンス
  • 10章 LHO
    黒魔術の心得/世界最大の真空チャンバー/42kgの透明な鏡/虫の問題/ビームパイプを完全踏破する/エゴは棚上げだ/問題はトロイカによる管理体制にあり!?
  • 11章 スカンクワークス
    学務部長を解任された人物/ボイジャー・ミッションのリーダーの座を譲る/問題解決に秀で、問題を起こすことに長けた人物/ヴォートのLOGO計画書、国立科学財団を動かす/議会承認を目指す長い闘い/Observatoryという名称がよくない?/政治的な駆け引き/カルテクの実験家には寝耳に水の「LIGO始動」/権威嫌いの「スカンクワークス方式」/消えないナチスの影
  • 12章 賭け
    物理学者は賭けがお好き/日々高まっていった、「重力波あり」のオッズ/LIGO建設に見合う「確率」はどれくらいか/第一世代のLIGOがカバーする領域では足りない/最終的には「自然の恵み」待ち
  • 13章 藪の中
    LIGOグループに生じた亀裂/相反する証言/常軌を逸した規制を課せられて/ドレーヴァー外し/個人攻撃の犠牲者か、プロジェクトの障害か?/「黙ってろ」 財団の担当者を怒鳴りつける
  • 14章 LLO
    アメリカ南部の観測所/干渉計を口説く手管の持ち主/バス、ワニ、林業会社/撃ち込まれた銃弾/コーナーラボへ「這い出す」/第二世代統括責任者、バリー・バリッシュ/三億ドルの予算を得て、息吹き返したプロジェクト/キリスト教原理主義者との諍い/1000人以上からなる国際コラボレーションへ
  • 15章 フィゲロア通りの小さな洞窟
    <小さな阿洞窟>での一夜/科学者はクライミングウォールの取っ手や丸石のようなもの/現場のポスドクたちによる検出時期予想/基本法則との直接対話はいかにして行われるか/いかにして雑音の中から音を聴き分けるか/休む間もなく回り続けるローテーション
  • 16章 どちらが早いか
    ヴォートのその後/ワイス、修復したドレーヴァーを案じる/最初の科学運用での検出を目指して
  • エピローグ
    2015年9月に飛び込んできた“音”/「これは訓練じゃない」/デイヴィッド・ライツィーからの「極秘情報」/背中から下りたサル/ブラックホールは重力波の歌をうたう
  • 謝辞/LIGO科学コラボレーションおよびVIRGOコラボレーションのメンバー/訳者あとがき/情報源に関する注

【感想は?】

 なんと、重力波が「聞こえる」とは。知らなかったなあ。

 現代は嬉しい時代で、重力波が聞ける(→Youtube)。ピュイッって感じの、意外と澄んだ音だ。

 理屈は意外と簡単。二つのブラックホールが衝突する際、互いがグルグルと回転する。渦に巻き込まれる二つのボールや、二匹の犬が互いの尾に噛みつこうと争う様を思い浮かべよう。いや上の動画を見れば一発なんだけど。回転は次第に速くなり、最後に衝突する。

 ブラックホールなど巨大質量の物体は、空間を歪める。歪みの元凶となるブラックホールが激しく動くと、それにつられて歪みも動く。歪みの動きが円運動だと波=重力波として伝わり(ハモンドオルガンみたいな理屈かな?)、ヒトの鼓膜も重力波に従って動く。

『LIGOはピアノと同じ周波数域をカバーしている』
  ――2章 雑音のない音楽

 とはいえ、それまで重力波を聞いた人はいなかった。なぜって、とっても小さい音だからだ。

(ブラックホールの衝突で生じた)重力波が地球に届くころには、宇宙の響きは地球三個分ほどの長さが原子核一個分だけ変化するのに等しい、微小なものになっているはずだ。
  ――1章 ブラックホールの衝突

 そんな小さな音を調べようってんだから、大変な話だ。しかも、世界は雑音に満ちている。

雑音は予測されるどんな宇宙の音よりも10万倍、ともすると100万倍うるさかった。
  ――7章 トロイカ

 重力干渉計の原理はイラストで説明してて、確かに理屈はわかるのだ。でも、現実にそれがキチンと動くのかっつーと、やたら難しいのはスグに想像がつく。雑音もそうだし、機器の精度も桁違いのシロモノになる。

 だもんで、必要な予算も大変な額で。

2億ドルというのは国立科学財団が天文学に充てる年間予算の二倍に相当する
  ――11章 スカンクワークス

 この予算を取ってくるにも、相応の手腕が求められる。科学者だって、世俗の知恵が要求されるのだ。この予算獲得や組織運営のアレコレは、中盤以降で本書の大きな割合を占めてくる。

 しかも、それだけの予算を投じても、実際に重力波が検出できるか否かは物理学者の中でも意見が分かれている。求められる精度が桁違いな上に、相手が自然現象だ。タイミングよくブラックホール衝突が起きるかどうかも分からない。

検出器に(重力波が)ぶつかるときまで十分な音量を保てるのは、(ブラックホール衝突の)最終段階で放たれる重力波だけである。
  ――12章 賭け

 なにせ数十億年ある星の寿命の、最後の一瞬だけなのだ。なんちゅう無茶な、と思うが、そこは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で。稀な現象もサンプルが充分に多ければ見つかるだろう、そういう理屈だ。

改良型LIGOは10億光年先までカバーして、私たちが数百万個の銀河に手を伸ばせる距離まで到達できるように設計されている。
  ――12章 賭け

 だというのに…

ジョセフ・ウェーバー「人が科学をやるなら、その理由はなんと言っても自分が楽しいからであって、楽しくないならやるべきでなく、私にとって科学は楽しいものです」
  ――9章 ウェーバーとトリンプル

 こういう事を平気で言っちゃうから科学者って奴はw いや科学者に限らず、学者って奴は多かれ少なかれ、そういうモンなんだろうなあ。

 つくづく、こういう前例のない計画にカネを出す合衆国政府の気前の良さが羨ましいと共に、科学における「最初」の価値もしみじみと分かってくる。やっぱり原爆の成功が大きかったのかなあ。

 何かと紛れ込んでくる雑音のネタも面白かったし、終盤で語られるLIGOで働く学者たちの暮らしも楽しい。こういう「科学の最先端で働く人たち」の意外性に満ちたドラマは、「命がけで南極に住んでみた」に似た三面記事的な味わいがある。

 科学というより、科学者やその環境を描く作品として楽しめた。知られざる職業・産業の内幕物が好きな人にお薦め。

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