カテゴリー「書評:軍事/外交」の225件の記事

2023年4月16日 (日)

イアン・トール「太平洋の試練 レイテから終戦まで 下」文藝春秋 村上和久訳

いちばんむずかしいのは<腹部の患者>だと、医師たちは認めた――胃や腸などの重要な臓器を撃ち抜かれた患者である。
  ――第11章 硫黄島攻略の代償

もし向こう(地上を機銃掃射する戦闘機)が狙っていたらわかります。そのときは火花が散るのが見えますから。
  ――第12章 東京大空襲の必然

第六海兵師団所属のノリス・ブクターは、多くの日本兵が民間人のような恰好をして、一般市民に混じって前線をすり抜けようとしたと回想している。なかには女に見せかけようとする者さえいた。
「その結果、残念ながら、われわれは彼らを撃たねばならなかった。このとき多くの不運な沖縄人も殺された」
  ――第14章 惨禍の沖縄戦

【どんな本?】

 合衆国の海軍史家イアン・トールが太平洋戦争を描く、歴史戦争ノンフクション三部作の最終章。

 米国における第二次世界大戦は、欧州戦線の、それも陸軍を主体として描く作品が多い。対してこの作品は、太平洋戦争を両国の海軍を主体に描くのが特徴である。歴史家の作品だけに、日米両国の資料を丹念に漁りつつも、戦場の描写は日米双方の様子をリアルタイムで見ているような迫力で描き切る。

 最終巻となるこの巻では、戦時中の合衆国市民の暮らしと世論の変化で幕を開け、マッカーサー念願のルソン島侵攻&マニラ奪回、日米双方が多大な犠牲を出した硫黄島と沖縄の上陸戦、そして広島と長崎の悲劇を経て終戦へと向かう。

 レイテ沖の海戦で日本の海軍は壊滅状態となった。ルソン上陸を果たしたマッカーサーは陸戦兵力をマニラへと急がせるが、日本軍は雑多な住民もろとも都市内に立てこもり、徹底抗戦の姿勢を崩さない。マッカーサーが航空戦力の支援を断ったため、マニラ占領は都市戦の混沌へと突き進む。追い詰められた日本軍は…

 徴兵だけでなく戦時特需が生みだす米国の市民生活・文化の変化、 圧倒的な火力と航空戦力にも関わらず多大な犠牲を出す硫黄島と沖縄の陸戦、 敗戦の現実を受け入れられない日本の権力機構の欠陥、 日本本土占領を目指した幻のオリンピック作戦、 そして戦後の人々の暮らしと心境の移り変わりなど、 豊富な取材と資料を元に多様な視点で太平洋戦争を描く、重量級の戦争ノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Twilight of the Gods : War in the Western Pacific 1944-1945, bg Ian W. Toll, 2020。日本語版は2022年3月25日第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで上下巻、本文約353頁+530頁=883頁に加え、訳者解説「壮大な交響曲の締めくくりにふさわしい最終章」10頁。9ポイント45字×20行×(340頁+345頁)=約794,700字、400字詰め原稿用紙で約1987枚。文庫本なら4巻でも言いい大容量。

 文章は比較的にこなれている。内容も軍事物にしてはとっつきやすい方だろう。加えて当時の軍用機に詳しければ、更によし。敢えて言えば、1海里=約1.85km、1ノット=1海里/時間=1.85km/hと覚えておくといい。

 日本側の航空機名・地名・作戦名など、原書では間違っていたり、日米で異なる名で呼んでる名称を、訳者が本文中で補足しているのは嬉しい。ただ索引がないのはつらい。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  •  上巻
  • 序章 政治の季節
  • 第1章 台湾かルソンか
  • 第2章 レイテ攻撃への道
  • 第3章 地獄のペリリュー攻防戦
  • 第4章 大和魂という「戦略」
  • 第5章 レイテの戦いの幕開け
  • 第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗
  • 第7章 海と空から本土に迫る
  • 第8章 死闘のレイテ島
  •  ソースノート
  •  下巻
  • 第9章 銃後のアメリカ
  • 第10章 マニラ奪回の悲劇
  • 第11章 硫黄島攻略の代償
  • 第12章 東京大空襲の必然
  • 第13章 大和の撃沈、FDRの死
  • 第14章 惨禍の沖縄戦
  • 第15章 近づく終わり
  • 第16章 戦局必ずしも好転せず
  • 終章 太平洋の試練
  • 著者の覚書と謝辞/ソースノート/参考文献/訳者解説

【感想は?】

 「太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 下」では、帝国陸海軍のパイロット養成制度のお粗末さに触れていた。少数の精鋭を育てるならともかく、多くの新兵を補充できる制度ではなかった、と。対して合衆国は…

(米国)海軍は<金の翼章>を1941年には新米搭乗員3,112名に、1942年には10,869名に、1943年には20,842名に、1944年には21,067名に授与した。この驚異的な拡大は、訓練水準を落とすことなく達成された。(略)
1944年の新米たちは、平均して600時間の飛行時間を体験して第一線飛行隊に到着した。そのうち200時間は彼らが割り当てられる実用機で飛行したものだった。
  ――第9章 銃後のアメリカ

 そのために必要な航空機や航空燃料そして飛行場の建設といったハードウェアや社会・産業基盤の差は、もちろんあるだろう。また、リチャード・バックの「飛べ、銀色の空へ」や「翼の贈物」に見られる、航空文化みたいなのも、日本にはない。

 が、それ以上に、この国には人を教え育てる能力が欠けている。それこそ旧ソ連の赤軍のように、ヒトは田んぼでとれるとでも思ってるんじゃなかろか。政府も軍も民間も、とにかくヒトの扱いが粗末なんだよなあ。

 もっとも、それ以前の根本的な問題として、組織や制度を作るのが下手だってのもある。これは「終章 太平洋の試練」で指摘しているが、大日本帝国の制度には、根本的な欠陥があったのだ。

 さて、それは置いて。シリーズの終幕を飾るこの巻では、海戦ばかりでなく陸戦も多くなる。それも、広い平野での決戦ではなく、島への上陸・占領作戦だ。まずはマニラ大虐殺(→Wikipedia)で、日本人読者の心に錆びた釘を打ち込んでくる。

マニラの戦いで罪のない人間が何人死んだかは誰にも分らないが、膨大な数であることはまちがいない――だぶん10万人以上だろう。
  ――第10章 マニラ奪回の悲劇

 ここで描かれる帝国陸海軍将兵の狂態は、統率を失った軍がどうなるかを嫌というほど読者に見せつける。東部戦線では独ソ双方が、半ば組織的に蛮行に及んだ。焦土作戦のためだ。だが、ここでの帝国陸海軍の蛮行は、少なくとも戦略・戦術的には何の意味もない。単に自暴自棄になった凶悪犯が暴れている、それだけだ。

 日本では情けないほど知られていない虐殺だが、著者はこう皮肉っている。

 日本の右派の反動的なひと握りの神話作者をのぞけば、世界中の誰からも称賛されていない。

 激戦の悲劇として名高い硫黄島の戦いや、やはり双方が多大な犠牲を払った沖縄戦では、上巻のペリリューの戦いと同様、いかに火力と航空戦力が優れていようとも、地形を活かし丹念に要塞化した陣の攻略が、どれほど難しいかを痛感させられる。

 硫黄島を得た米軍は、B-29による日本本土への空襲に本腰を入れる。原則としてB-29の発着はサイパンとテニアンなんだが、硫黄島には二つの意味があった。一つは緊急時にB-29が着陸できること。もう一つは、護衛のヘルキャットが発着できること。焼夷弾も開発した米軍は、東京や名古屋など都市部への空襲を本格化させてゆく。

もしいちばん多い死亡者数の推定が正しければ、東京空襲は、広島と長崎を合わせたより多くの人々を(当初は)殺していたかもしれない。
  ――第12章 東京大空襲の必然

 ところで「B-29日本爆撃30回の実録」では、東京を襲うB-29の飛行コースを高空から低空に変えた。それって危なくなるだけじゃないの? と思っていたが、ちゃんと理由があったのだ。

 まず、燃料を節約できる。ジェット気流に晒されないし、上昇時の燃料も使わずに済む。また、爆弾からナパーム弾に変えたので、より広い範囲を攻撃でき、精度が悪くても問題なくなる。加えて時刻を夜にしたので、日本軍の迎撃も減るはず。なら迎撃用の50口径機関銃と弾薬も要らないよね。ということで、爆弾や焼夷弾の搭載量が4トン→6~8トンに増やせた。

 ちなみに下町を狙ったのは、よく燃えるから。わかるんだが、どうせなら大本営のある市ヶ谷か、権力者や金持ちが住む山の手の方が戦意をくじくのに効果がああったんじゃなかろか。

 また、ここでは、サイパンやテニアンをあっという間に航空基地に作り変える土木力と、それを維持する兵站力に舌を巻いた。必要なモノを必要な時に必要な所に届けるには、パワーだけじゃ足りない。先を見通す計画性や、時と場合に応じ計画を変える柔軟にも大切だ。モノゴトをシステム化し、かつソレを状況に応じて変える能力が凄いんだ、米国は。

 ってな時に、日本が計画したのが大和特攻である。「海上護衛戦」で大井篤海軍大佐が怒り狂ったアレだ。著者も、これを徹底してコキおろしている。

大和と九隻の護衛艦の士官と乗組員たちは、幻想を抱いていなかった。彼らの任務は海上バンザイ突撃だった。実際の戦術目的には役立たない。無益な自殺行為の突進である。
  ――第13章 大和の撃沈、FDRの死

 戦略上の利害ではなく、エエカッコしいの感情で作戦を決めているのだ。もっとも、戦意を失いつつある国民への政治宣伝って政略はあるのかもしれない。でも、それにしたって、時間稼ぎにはなっても傷を深めるだけなんだよなあ。

 そんな日本に対する諸国の目は、というと。

ポツダム会談は主として、同年のヤルタ会談で未解決だったヨーロッパの問題をあつかうことになっていた。(略)日本にたいする最後の攻勢と、戦後のアジアに広まることになる取り決めは、主要な会議の議題の合間に、おもに主導者たちのあいだの非公式な集まりでのみ、取扱われた。
  ――第15章 近づく終わり

 もう、ほとんどオマケ扱い。当時の世界情勢だと、日本の地位なんてそんなモンだったんだろう。今でも太平洋戦線は軽く見られてる気配があって、だからこそ著者もこの作品を書いたんだろうけど。もっとも、自分の影響力を過大評価する傾向ってのは、どんな人や国にも多かれ少なかれあるんだけど。

 まあいい。残念なことに、当時の日本の権力者たちは、そういう世界情勢を分かってなかった。原爆が炸裂しソ連が満州を蹂躙している時にさえ、こんな事を言ってる。

強硬派(阿南惟幾陸相,梅津美治郎参謀総長,豊田副武軍令部総長)はさらに三つの条件をあくまで要求した。
まず第一に、日本本土は外国に占領されないこと。
第二に、外地の日本軍部隊は自分たちの将校の指揮下で撤退、武装解除すること。
そして第三に、日本は自分たちで戦争犯罪人の訴追手続きを行うこと。
  ――第16章 戦局必ずしも好転せず

 米国は日本を徹底的に改造するつもりだし、その能力もあるんだってのが、全く分かってない。

 往々にして組織のなかで地位を得るには、ある種の楽観性というか、強気でモノゴトを進める性格の方が有利だったりする。とはいえ、それが行き過ぎると、組織そのものの性格がヤバくなってしまう。当時の帝国陸海軍は、その末期症状だったんじゃないか。

 いずれにせよ、著者が下す太平洋戦争への評価は、みもふたもないものだ。

太平洋戦争は東京の政治上の失敗の産物だった――壊滅的規模の失敗、どんな政府、どんな国家の歴史においても屈指のひどい失敗の。
  ――終章 太平洋の試練

 そして、その原因についても、実に手厳しい。これはシリーズ冒頭の「真珠湾からミッドウェイまで 上」でも詳しく書いている。

何十年にもわたって、海軍は計画立案の目的でアメリカを<仮想敵国>と指定してきた――アメリカと実際に戦いたいとか、戦うことを予期していたからではなく、そのシナリオが予算交渉において目的を達成するための手段となったからである。
  ――終章 太平洋の試練

 もっとも、そんな風にコキおろしているのは上層部だけで、例えば硫黄島を要塞化した栗林忠道陸軍中将や、沖縄であくまでも籠城戦を主張した八原博通陸軍大佐には、その戦術眼に好意的な記述が多い。また、米軍についても、マッカーサーやハルゼーなどの自己顕示欲旺盛な将官には厳しく、理知的なスプルーアンスには好意的だったりと、好みが伺えるのもご愛敬。

 六巻もの長大なシリーズは、書籍としても充分すぎるボリュームだろう。にもかかわらず、「私は太平洋戦争について何もわかっていなかったし、今もわかっていない」と思い知らされる、そんなシリーズだった。

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2023年4月 9日 (日)

イアン・トール「太平洋の試練 レイテから終戦まで 上」文藝春秋 村上和久訳

1944年8月、(ジェイムズ・)フォレスタルは(アーネスト・)キングにこういった。「宣伝は兵站や訓練と同じぐらい今日の戦いの一部であり、われわれはそのように理解しなければならない」
  ――序章 政治の季節

1940年以前には、アメリカは日本の屑鉄輸入の74%、銅輸入の93%、そして(もっとも重要なことに)石油輸入の80%を供給していた。
  ――第7章 海と空から本土に迫る

【どんな本?】

 合衆国の海軍史家イアン・トールが太平洋戦争を描く、歴史戦争ノンフクション三部作の最終章。

 米国における第二次世界大戦は、欧州戦線の、それも陸軍を主体として描く作品が多い。対してこの作品は、太平洋戦争を両国の海軍を主体に描くのが特徴である。歴史家の作品だけに、日米両国の資料を丹念に漁りつつも、戦場の描写は日米双方の様子をリアルタイムで見ているような迫力で描き切る。

 最終章の上巻では、大統領選を控えた米国の政治情勢から始まり、ペリリューの戦いや空母信濃の撃沈を経て、レイテ島の戦いがほぼ終わる1944年末までを扱う。

 次の目標は日本本土を睨める台湾か、またはマッカーサーが固執するフィリピンか。結局はフィリピンに決まったものの、その途中にあるペリリューは日本軍が丹念に要塞化しており、上陸・占領部隊は想定外の被害を受けてしまう。

 マッカーサーのレイテ上陸を支援するためレイテへと向かう合衆国の艦隊に対し、満身創痍の日本海軍は死に花を咲かせようと不利を承知で決戦を挑む。

 背景となる合衆国の政治情勢、密かに進められていた特攻作戦、防空から対地攻撃まで万能となったF6Fヘルキャット、潜水艦たちの戦い、悲劇の<捷一号>作戦、そして新兵器B-29の登場など、米国海軍を中心としながらも様々な視点からモザイク状に太平洋戦争の終盤を映し出す、重量級の戦争ノンフィクション。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Twilight of the Gods : War in the Western Pacific 1944-1945, bg Ian W. Toll, 2020。日本語版は2022年3月25日第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで上下巻、本文約353頁+530頁=883頁に加え、訳者解説「壮大な交響曲の締めくくりにふさわしい最終章」10頁。9ポイント45字×20行×(340頁+345頁)=約794,700字、400字詰め原稿用紙で約1987枚。文庫本なら4巻でも言いい大容量。

 文章は比較的にこなれている。内容も軍事物にしてはとっつきやすい方だろう。加えて当時の軍用機に詳しければ、更によし。敢えて言えば、1海里=約1.85km、1ノット=1海里/時間=1.85km/hと覚えておくといい。  日本側の航空機の名前など、原書では間違っている所を、訳者が本文中で直しているのが嬉しい。ただ索引がないのはつらい。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

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  •  上巻
  • 序章 政治の季節
  • 第1章 台湾かルソンか
  • 第2章 レイテ攻撃への道
  • 第3章 地獄のペリリュー攻防戦
  • 第4章 大和魂という「戦略」
  • 第5章 レイテの戦いの幕開け
  • 第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗
  • 第7章 海と空から本土に迫る
  • 第8章 死闘のレイテ島
  •  ソースノート
  •  下巻
  • 第9章 銃後のアメリカ
  • 第10章 マニラ奪回の悲劇
  • 第11章 硫黄島攻略の代償
  • 第12章 東京大空襲の必然
  • 第13章 大和の撃沈、FDRの死
  • 第14章 惨禍の沖縄戦
  • 第15章 近づく終わり
  • 第16章 戦局必ずしも好転せず
  • 終章 太平洋の試練
  • 著者の覚書と謝辞/ソースノート/参考文献/訳者解説

【感想は?】

 緒戦では活躍した零戦だが、この巻が扱う1944年になると、完全にF6Fヘルキャットの優位になってしまう。

第二次世界大戦で屈指の撃墜数を誇るF6Fの撃墜王デイヴィッド・マッキャンベルは、彼らがほぼかならず日本の対戦相手を自分たちの下方で発見して、急降下で襲いかかることができたと指摘している。
  ――第2章 レイテ攻撃への道

 陸でも空でも、とにかく戦いは上にいるほうが有利なのだ。「兵士というもの 」でも、捕虜になったドイツ空軍の将兵は、エンジン性能で航空機を評価したとか。

 上巻冒頭の読みどころは、次の攻略目標が台湾かフィリピンかで揉めるところだろう。海軍は台湾を推すが、マッカーサーはフィリピン奪回に拘る。当時は人気絶頂だったマッカーサーだが、どうも著者はあまり好みでないようだ。もし台湾になっていたら、恐らく米国は大陸に足掛かりを得ていただろうし、戦後の極東情勢は大きく変わっていただろう。

 まあ、それは後知恵だから言えることだ。これは太平洋戦争のどの島でもそうで…

以下の法則は太平洋戦争の全期間を通じて、ほとんどの場合、あてはまった――アメリカ軍の指揮官が島を迂回する選択肢を検討し、議論して、結局、当初の計画どおり島を占領することを決断するたびに、彼らの決断はあとからふりかえると悲劇的に間違っていたように思えることになる。
  ――第2章 レイテ攻撃への道

 この悲劇を象徴するのが、ペリリューの戦い(→Wikipedia)。太平洋戦争の島への上陸作戦がたいていそうであったように、米国海軍の大規模な艦砲射撃や航空攻撃にも関わらず、ここでも日本軍は地形を充分に活用し丹念に準備された陣に籠り、頑強に抵抗を続ける。

実際には、少人数の日本兵は何カ月も戦いつづけ、何十名もの敗残兵が終戦後も洞窟でひきつづき暮らしていた。1947年3月、対日戦勝記念日のゆうに18カ月後、少尉指揮下の33名の日本軍敗残兵の一団が発見され、説得を受けて投降した。
  ――第3章 地獄のペリリュー攻防戦

 航空戦力が発達していても、堅牢な陣を築いての籠城戦は充分に効果があるのだ、少なくとも戦術的には。ウクライナも、クリミアのセヴァストポリを攻略しようとすると、かなり苦戦するんじゃないかな。

ただし、あくまでも戦術面に限った話で、戦略的にはサイパンもペリリューも無意味だったと私は思う。籠城戦に意味があるのは、時間を稼げば事態が良くなる場合だけだ。援軍が来るとか、敵の補給が尽きるとか、他のもっと重要な地点を味方が占領するとか。どれもこの時点じゃ日本には望みがない。

 この章では最初に上陸し戦闘に突入した第一海兵師団の戦いは丁寧に描いてるのだが、後に投入した陸軍第81歩兵師団の戦いはややアッサリ気味なあたり、著者の海軍中心な視点を示してる。

 そして台湾沖航空戦(→Wikipedia)の幻の大戦果に続き、レイテ湾海戦(レイテ沖海戦)へと挑む帝国海軍の目論見を暴いてゆく。

海軍軍令部第一部長・中澤佑少将「帝国連合艦隊に死に場所を与えてもらいたい」
  ――第4章 大和魂という「戦略」

 つまり戦略的にはなんの意味もなく、単にカッコつけたいだけなのだ。もっとも、日本国内での厭戦気分が広がってて、それを追い払おうって政治宣伝の意味もあるんだけど。いずれにせよ、勘定じゃなく感情で決めてるんだよなあ。なお、特攻についても…

特攻隊は戦術的手段であると同時にプロパガンダの手段でもあった。
  ――第8章 死闘のレイテ島

 と、目論見の半分は政治宣伝だ、としている。これは戦後も相変わらずだったり。

 そして大日本帝国海軍の組織的な戦いとしては最後となるレイテ湾海戦に突入。ここでは帝国海軍の戦術が書かれていいるのが嬉しい。例えば雷撃機の迎撃方法。

日本軍は太平洋戦争初期からこの手を使ってきた――低空飛行する雷撃機の進路に砲弾の水しぶきを上げて、撃墜するか、すくなくとも彼らを攻撃射程から逸れさせることを期待するのだ。
  ――第5章 レイテの戦いの幕開け

 また、艦砲射撃で上がる水柱が七色の色付きなのも知らなかった。「どの艦/砲の水柱なのか」を識別するために、色を付けたんだろうか。

 海戦は西村艦隊の壮絶な全滅で幕を開ける。

西村祥治海軍中将「本隊指揮官に報告。我、レイテ湾に向け突撃、玉砕す」
  ――第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗

 日米それぞれに齟齬があった戦いだが、著者の筆はハルゼーに厳しい。はやって囮の小沢艦隊に全力で食い付いてしまった、と指摘する。

小沢治三郎中将「囮、それがわが艦隊の全使命でした」
  ――第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗

 対して、有名な栗田ターン(→ニコニコ大百科)については…

実際には、日本艦隊に乗り組んでいた将兵は、本気で<捷一号>作戦に賛成してはいなかった。現実的な成功の見こみがなかったからである。
  ――第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗

 「もともと、やる気なかったし」みたく推論してる。だったら出撃そのものを拒めよ、と考えてしまう。兵の命を何だと思って…いや、そんな事を考えたら、そもそも戦争なんかできないか。

 いずれにせよ、帝国海軍は、ここで事実上の壊滅状態となる。まさしく「死に場所」となったのだ。そこに政略または戦略的な意味はなかった、と私は思う。

この海戦は太平洋戦争の海戦を事実上、終わらせた。
  ――第6章 ハルゼーの誤算、栗田の失敗

 傷だらけの帝国海軍が無理矢理に進水させた空母信濃の潜水艦アーチャー・フィッシュによる撃沈(→「信濃!」)や、サイパンからのB-29の空襲(→「B-29日本爆撃30回の実録」)などの有名なエピソードを挟みつつ…

B-29パイロット「日本を爆撃するのには、わずかな時間しかかからない。人を参らせるのは、目標へ行って、基地に戻ってくる激務だ」
  ――第7章 海と空から本土に迫る

 海の戦いでは、敵は海軍だけではないことを思い起こさせる、ハルゼー艦隊への台風直撃で上巻は終わる。ここでもハルゼーに著者は厳しい。

台風は790名のアメリカ軍将兵の命を奪った。
  ――第8章 死闘のレイテ島

 フィリピン奪還に執念を燃やすマッカーサー、勝利の目はほぼ消えたにもかかわらず戦争を続ける大日本帝国などを背景に、戦いの記録は下巻へと続く。

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2022年3月30日 (水)

ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 2

「テロリストたちは、罪のない人々を傷つけたくないというこちらの気持ちをうまく利用していた。(略)屋根の上に立つテロリストに向けてミサイルが発射された。すると突然、そいつが子どもを抱きかかえた。もちろんすぐに、ミサイルを空き地に落とすよう命令したよ」
  ――第30章 「ターゲットは抹殺したが、作戦は失敗した」

 ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 1 から続く。

【どんな本?】

 1948年の第一次中東戦争による独立以前から周囲を敵に囲まれつつ生まれ、その後も絶え間ない紛争とテロにまみれて生き延びてきたイスラエル。もちろん、生き延びる手段は戦争に限らず、諜報はもちろん破壊工作や暗殺にも手を染めてきた。

 ただし、その目的や標的、手段や組織そして頻度は、その時々のイスラエルが置かれた立場や国内の政治状況そして敵の性質により異なる。イスラエルの諜報機関が経験を積むと同時に、敵も過去の経験から学び新しい戦術を開拓してゆく。

 敵味方の双方の血にまみれたイスラエルの諜報機関の歴史を記す、衝撃のルポルタージュ。

【バビロン作戦】

 下巻は、かの有名なバビロン作戦(→Wikipedia)で幕を開ける。イラクのフセインが原爆開発のために作ろうとした原子炉を、イスラエル空軍が空襲で潰した事件だ。作戦の詳細は「イラク原子炉攻撃! イスラエル空軍秘密作戦の全貌」が詳しい。書名にあるのはイスラエル空軍だが、モサドの暗躍も詳しく描いているので、スパイ物が好きな人にはお勧め。

 それはともかく、ここの描かれたフセインの性格が、ロシアのプーチンとソックリなんだよね。

「サッダーム(・フセイン)は追い詰められると(中略)これまで以上に攻撃的になり、むきになる」
  ――第20章 ネブカドネザル

 例えばポーカーだと意地で掛け金を釣り上げ絶対に下りない。そして負けがハッキリするとテーブルごとひっくり返す。あなたの周りにもいませんか、そういうタイプ。

 そのプーチン、原註によるとテロリストの暗殺に関してはイスラエルに理解を示してる。まあKGB出身だし、似たような真似をしてるし。それよりイスラエルのシャロン首相と友好的な雰囲気を出してるのに驚いた。ハッキリと敵対はしていなかったのだ、少なくとも当時は。

【影の主役】

 さて、第21章からは、下巻の影の主役が登場する。イランだ。

 本書では同じシーア派のヒズボラや同盟関係にあるシリアはもちろん、PLOやハマスとの関係も暴いている。

いまやイスラエルは、レバノンのヒズボラ、占領地区のPIJ(パレスチナ・イスラミック・ジハード)、北部国境のシリア軍から成る統一的な部隊に取り囲まれていた。そのすべてに資金や武器を提供していたのが、イランである。
  ――第33章 過激派戦線

 一時期、ニュースで話題になったハマスのカッサム・ロケットも、イランの協力で作られた様子。そのイランが最初に取り込んだのは、PLO。まずはPLOがイランに教育を施す。

1973年、(イランのホメイニの最側近アリー・アクバル・)モフタシャミプールは中東におけるイスラム解放運動組織との関係を確認するため、ほかの忠臣数名とともに中東に派遣され、みごとPLOとの同盟締結に成功した。以後PLOは、17部隊の訓練基地に(破壊活動や情報活動やテロ戦術を教えるため)ホメイニの部下を受け入れることになる。
  ――第21章 イランからの嵐

 どうもイランは宗教的な細かい派閥には拘らないらしい。イスラエルの敵は味方、そういう発想なんだろう。

 そんなイランの影響は、派閥を越えてイスラム社会全体へと染み込んでゆく。サウジアラビアなどスンニ派の国がイランを脅威と見るのは、イランがシーア派だからってだけじゃない。問題は、イスラムをテコにすれば体制を転覆できると訴える点にある。

ホメイニは、シーア派の人々だけでなく世界中のイスラム教徒に、イスラム教が持つ力を証明してみせた。イスラム教は、モスクでの説教や通りでの慈善活動をするだけの単なる宗教ではない。政治的・軍事的な力を行使する手段、国を統治するイデオロギーにもなりうる。イスラムはあらゆる問題を解決できる、と。
  ――第24章 「スイッチを入れたり切ったりするだけ」

 「倒壊する巨塔」ではイスラム系テロの理論的な源をエジプトのムスリム同胞団の指導者サイイド・クトゥブ(→Wikipedia)としてるけど、実践し最初に成功のがシーア派のホメイニなわけ。吉田松陰と高杉晋作みたいな関係かな。

 この理屈だと、サウド王家を革命で倒してもいいって事になってしまう。そりゃ困る。だからサウジアラビアはイランを憎むのだ。

 そのホメイニの世界観なんだが、「世界は善と悪が衝突する場」ってあたり、ドナルド・トランプの支持者の世界観も同じなんじゃなかろかと思うんだが、

【核の脅威】

 そんなイランは、大雑把に二種類の者と組んでいる。一つは国家で、北朝鮮とシリア。もう一つはテロ組織で、ヒズボラとハマス。どっちも怖いが、国家はやることがデカい。そう、核開発だ。もっとも、これはイスラエルもムニャムニャだが。つかシリアが核開発しようとしたのは知らなかった。

(ムハンマド・)スレイマーンは2001年から、シリアがイランの資金援助を使って北朝鮮から購入した原子炉の格納施設の建設を監督していた。
  ――第33章 過激派戦線

 イスラエルは暗殺や破壊工作でこれを阻止するんだが、敢えて公開は控えた。追い詰めたら面子が潰れたアサド(現大統領)が暴走しかねない。アサドにも「内緒にした方がお互いのためだぜ」と密書を送る。いかにも外交裏面史だね。

 皆さんご存知のように、イランも核開発を試みていて、イスラエルも必死になって押しとどめようとする。ここではアメリカと協力しようとするのだが、さすがに暗殺までは力を貸してくれない。なおイスラエルが狙ったのは、開発に携わる科学者たち。これはそこそこ効果があったようで…

(CIA長官のマイケル・)ヘイデンは、イランの核開発計画を阻止するためにとられた措置のなかでも最も効果的だったのは、間違いなく「科学者の殺害」だったと述べている。
  ――第35章 みごとな戦術的成功、悲惨な戦略的失敗

 と、CIAが評価を下している。そういうことだから、日本の企業も技術者の待遇を良くすべきなのだあぁぁっ!

【テロ組織】

 イスラエルにとって、国家は手慣れた相手だ。だが、ハマスやヒズボラはいささか勝手が違う。PLOは金や女で取り込めたが、ハマスは違った。

イデオロギー的・宗教的な運動組織のハマスは、賄賂に釣られるメンバーがあまりいなかった
  ――第27章 最悪の時期

 ホメイニ的な思想で動いてるせいか、良くも悪くも純粋なのだ。そしてタテマエじゃパレスチナのボスであるアラファトは全く頼りにならない…というか、やる気がない。ちなみにアラファトの死が暗殺か否かは、本書じゃ「わからん」としている。ライバルであるハマスは、自爆テロで勢いづく。

「自爆テロの成功例が増えれば増えるほど、それに比例してハマスへの支持は高まっていった」
  ――第28章 全面戦争

 これに対し、当初は実行犯を狙ったイスラエル。だが、自爆テロの志願者には「これといった特徴がなかった」。若いのも老人も、賢い者も無学な者も、ビンボな独身も家族持ちもいる。しかも志願者はうじゃうじゃいた。そこでイスラエルは方針を変える。実行犯ではなく、組織の要となる者に狙いを絞るのだ。

彼ら(自爆テロ実行犯)は本質的に消耗品であり、容易にすげ替えられる(略)。しかし、彼らを教育し、組織化して送り出す人間(略)は、自爆テロに志願する人々ほど殉教者になりたいとは思っていない。
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 消耗品ってのも酷いが、テロ組織ってのはそういうモンなんだろう。もっとも、「組織の要」ったって、数は多い。だが、そこは力押し。

誰かが暗殺されれば、すぐ下の地位の人間がその地位を引き継ぐことになるが、それを繰り返していくと、時間がたつにつれて平均年齢は下がり、経験のレベルも落ちていく。
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 無茶苦茶な理屈だが、ソレナリの効果はあった様子。

テロ攻撃が停止したのは、大勢のテロ工作員を殺害し、「アネモネ摘み」作戦でテロ指導者を暗殺したからにほかならない。
  ――第32章 「アネモネ摘み」作戦

 ちなみに「アネモネ摘み」作戦とは。それまでイスラエルは暗殺対象を軍事部門に絞っていたが、政治部門にも広げ組織の幹部を狙う方針のこと。しかも、方針は徹底してる。

「散発的な暗殺に価値はない。永続的かつ継続的な方針として指導者に照準を合わせ、上級指揮官を暗殺していけば、かなりの効果がある」
  ――第33章 過激派戦線

 「次は俺の番だ」と思わせるのがコツってわけ。ほんと容赦ない。

【世論】

 もちろん、こういうイスラエルのやり方に国際世論は非難を浴びせるのだが、ある日を境に豹変する…少なくとも、欧米は。

「この大事件(911)が起きたとたん、われわれに対する苦情が止んだ」
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 これまた「次は俺の番」な気持ちだね。自分に危険が迫るまで、真剣に考えないのだ。当時のアメリカ大統領ブッシュJr.が比較的イスラエルに好意的なためもあり、CIAとイスラエルは親密な関係を築いてゆく。

【対米関係】

 その合衆国との関係なんだが、イスラエルの軍事技術や思想が米国や米軍に大きな影響を与えているのが見て取れる。少なくとも三つの点で。

 まずはドローンだ。イスラエルは1990年代からドローンを使っていた。手順はこう。ドローンが標的を追い、映像を司令部に送る。司令部で標的を確認したら、ドローンが標的にレーザーを当てる。最後にアパッチ攻撃ヘリがレーザー探知機で標的を拾い、ヘルファイアミサイルを撃つ。

 なおイスラエルがドローンを採用する過程は「無人暗殺機 ドローンの誕生」と違い、参謀総長エフード・バラクが積極的に推し進めたとなっている。当然ながら、今でもイスラエルはハマス対策で積極的にドローンを使っている様子。誰だよ偉そうに「今のイスラエルなら、ハマス対策としてプレデターを涎を垂らして欲しがるだろう」と書いた馬鹿は。

 二つ目は暗殺の多用だ。「アメリカの卑劣な戦争」が取り上げたテーマでもある。そこで私は「大統領が議会の承認を待たずコッソリやっちゃうため」と書いたが、イスラエルの実績に学んだ可能性も高い。もっとも、イスラエルにとっても死活の問題、例えばイランの核開発とかだと、合衆国は情報は与えても直接に手は出さない。だって、ほっといてもイスラエルが勝手にやるから。ひでえw

 そして最後に、やはり「アメリカの卑劣な戦争」が取り上げている、統合特殊作戦コマンド(JSOC)である。この思想が、本書が紹介する合同作戦指令室JWRに近い。

 国防軍情報部のアマン、国内担当のシン・ベト、そして空軍の担当者などを一つの部屋に集め、情報を共有する。縦割り組織ではなく、同じ問題に当たる者をまとめよう、そういう発想です。で、実際、特に情報・諜報関係で優れた成果をあげた模様。

 もっとも、効果を上げたのは技術も関係していて、例えば偵察ドローンだと、ドローンが送る映像をみんなが一緒に見られる環境が整ったのも大きい。IT技術でもイスラエルは先端を走っているのだ。でも国際世論の扇動じゃハマスの後手に回ってるけど(→「140字の戦争」)。たぶん、同書に出てくるエリオット・ヒギンズと似た感覚の人が多いんだろうなあ。

【おわりに】

 ダラダラと長く書いちゃったけど、それだけ刺激的なネタが多い本だってことで許してください。あと、やたら人が死にまくる上に、殺しの描写がやたら生々しいので覚悟が必要。

 単に死者の数だけで考えれば、確かに暗殺は戦争よりはるかに犠牲が少ない。でも、手を付け始めると、歯止めが利かなくなるのも、本書を読めばわかる。おまけに諜報機関が関わるんで、情報が公開されずジャーナリストや世論による抑止も効きにくい。暗殺の是非、是だとしてもどこで歯止めをかけるかなど、重たい問いを投げてくる本だ。

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2022年3月27日 (日)

ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 1

本書が主に取り扱うのは、モサドなどイスラエルの政府機関が平時と戦時に行った暗殺と標的殺害である。
  ――プロローグ

【どんな本?】

 イスラエルの情報機関モサドは、優れた能力と手段を択ばない強引さで有名だ。だが、イスラエルの情報機関はモサドだけではない。他に軍の情報機関アマンと、イスラエル国内の治安を担当するシン・ベトがある。

 1948年の誕生の前から、イスラエルは周辺からの絶え間ない軍事圧力を受けてきた。小国でありながら、延々と続く危機に曝されつつも国家を維持できたのは、正面戦力に加え諜報および暗殺を含む秘密工作の成果が大きい。

 当然ながら、諜報や秘密工作の実態を、イスラエル当局は公開したがらない。

 そこで著者はイスラエル政府の正規文書はもちろん、引退した関係者やマスコミへの取材そして外国の資料などを駆使し、知られざるイスラエルの秘密作戦、それも最も昏い部分である暗殺に関わる事実へと迫ってゆく。

 厭われつつも卓越した実績を誇るイスラエルの諜報機関の実態を暴く、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Rise and Kill First : The Secret History of Israel's Targeted Assassinations, by Ronen Bergman, 2018。日本語版は2020年6月15日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約402頁+332頁=約734頁。9ポイント45字×21行×(402頁+332頁)=約693,630字、400字詰め原稿用紙で約1,735枚。文庫なら3~4冊分の大容量。

 意外と文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、スパイ物の常で、登場人物が多く、かつ偽名を使う場面が多いので、ややこしい部分もある。落ち着いて読めばわかるんだけど。

【構成は?】

 ほぼ時系列で進む。とはいえ、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  •   上巻
  • 情報源に関する注記
  • プロローグ
  • 第1章 血と炎のなかで
  • 第2章 秘密組織の誕生
  • 第3章 神の裁き
  • 第4章 最高司令部を一撃で
  • 第5章 「頭に空が落ちてきたかのようだった」
  • 第6章 連続する災難
  • 第7章 「パレスチナ解放の手段は武装闘争のみである」
  • 第8章 メイル・ダガンの腕前
  • 第9章 国際化するPLO
  • 第10章 「殺した相手に悩まされることはない」
  • 第11章 「ターゲットを取り違えたのは失敗ではない。ただの間違いだ」
  • 第12章 過信
  • 第13章 歯磨き粉に仕込まれた毒
  • 第14章 野犬の群れ
  • 第15章 「アブー・ニダルだろうがアブー・シュタルミだろうが」
  • 第16章 海賊旗
  • 第17章 シン・ベトの陰謀
  • 第18章 民衆の蜂起
  • 第19章 インティファーダ
  •  原注/索引
  •   下巻
  • 第20章 ネブカドネザル
  • 第21章 イランからの嵐
  • 第22章 ドローンの時代
  • 第23章 ムグニエの復讐
  • 第24章 「スイッチを入れたり切ったりするだけ」
  • 第25章 「アヤシュの首を持ってこい」
  • 第26章 「ヘビのように狡猾、幼子のように無邪気」
  • 第27章 最悪の時期
  • 第28章 全面戦争
  • 第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」
  • 第30章 「ターゲットは抹殺したが、作戦は失敗した」
  • 第31章 8200部隊の反乱
  • 第32章 「アネモネ摘み」作戦
  • 第33章 過激派戦線
  • 第34章 モーリス暗殺
  • 第35章 みごとな戦術的成功、悲惨な戦略的失敗
  •  謝辞/解説:小谷賢/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 いまのところ読み終えたのは上巻だけなので、そこまでの感想を。

 いきなり暗殺を正当化してるのにビビる。普通は後ろ暗いと思うよね。ところが…

暗殺という手段は全面戦争よりも「はるかに道徳的」だ、というのが彼(元モサド長官メイル・ダガン)の持論だった。少数の主要人物を消しさえすれば、戦争という手段に頼る必要がなくなり、味方側でも敵側でも数えきれないほどの兵士や民間人の命を犠牲にしなくてすむ。
  ――プロローグ

 戦争よかマシって理屈だ。まあ、建国以来、ずっと戦争が続いてるような国だけに、気合いというか心構えが違うんだろう。とまれ、落ち着いて考えると、一理あるかな、とも思う。

 例えば、2022年3月現在、ロシアがウクライナに攻め込んでいる。あれは「ロシアの戦争」ではなく、「プーチンの戦争」だ。侵略してもtロシアに利益はない。経済制裁でロシア連邦の経済はガタガタになる。でも、巧く領土をカスメ取れれば、プーチンの人気はうなぎのぼりだ。つまり、プーチンが権力基盤を固めるための戦争なのだ。

 なら、プーチンを暗殺すれば戦争が終わり万事丸く収まるんじゃね? ロシア・ウクライナ双方の将兵も死なずに済むし。

 ダガンの理屈は、そういう事だろう。プーチンの例が気に入らなければ、第二次世界大戦時のヒトラーでもいいや。

 この理屈は、1967年の第三次中東戦争以降に再確認される。

現在のイスラエルの国防軍や情報機関が掲げる(略)基本理念は、イスラエルは大規模な戦争を避けるべきだ(略)。なぜなら「第三次中東戦争のような圧倒的かつ迅速な勝利は二度と起こらない」からだ。今後イスラエルは(略)敵の指導者や主要な工作員を容赦なく追い詰めて殺害する
  ――第8章 メイル・ダガンの腕前

 実際、第四次中東戦争じゃ痛い目を見たし。人口の少ないイスラエルは、正面戦争が長引くと不利ってのもあるんだろうけど。

 そんなイスラエルの情報機関は、三つの柱で立っている。

モサドの設立によって、イスラエルに現在までほぼ同じ形で続く三本柱のインテリジェンス・コミュニティが確立された。
一つめの柱は国防軍に情報を提供する軍の情報局アマン(イスラエル参謀本部諜報局)、
二つめの柱は国内の情報活動と対テロ・対スパイ活動を管轄するシン・ベト(保安庁/イスラエル公安庁/シャバクとも呼ぶ)、
そして三つめの柱が国境を越えた秘密活動を担当するモサドである。
  ――第2章 秘密組織の誕生

 アメリカに例えると、アマンは国防情報局(DIA,→Wikipedia)、シン・ベトはFBI、モサドがCIAだろう。ただしUSAと違い、イスラエルの諜報三局はかなり綿密に協力しあってる。これは国や組織が比較的に小さいためもあるかな?

 そのアメリカとの関係は相当に気を使っているようで、例えばPLOのアラファートを目の敵にして暗殺の機会をうかがうのだが…

アマンの情報によれば、アラファートはサウジアラビアが提供した専用ジェット機をよく移動に使い、その二人のパイロットはアメリカのパスポートを持っているという。この飛行機を撃墜するのは論外だった。「アメリカ人には誰も手を出せない」とアマンのアモス・ギルアドは言う。
  ――第16章 海賊旗

 もっとも、今でこそCIAとは仲良くやってるようだけど、本書には米軍の中の人を取り込んで情報を吸い取った、なんて話も出てくるから諜報の世界はw そのCIAもアラファートとはつながりを持ってたりw

 こういう国による差別というか区別はやはりあって。

モサドがヨーロッパでPLOの要人を殺害していたころは、罪のない一般市民に危害を加えないという原則が厳密に守られていた。(略)だが、ターゲットが敵国におり、罪のない一般市民がアラブ人であれば、引き金を引く指にもためらいがなくなる。
  ――第14章 野犬の群れ

 これは1970年代で欧州でも極左が暴れてた頃。イタリアの赤い旅団(→Wikipedia)とか。日本の連合赤軍(→Wikipedia)も本書にちょい出てくる。当時の極左はアラブに肩入れしてた。そのアラブの後ろじゃKGBがチラホラするんだけど、イスラエルは正面切ってソ連とやる気はなかった様子。

 話をアラファートに戻す。彼に対するイスラエルの評価は高い。いや政治的な姿勢の評価じゃなく、彼の能力に対して。

「(ヤーセル・)アラファートは(略)天才と言ってもいい。あの男には、代理でテロ工作を実行する人物が二人いた。アブー・ジハードとアブー・イヤドだ。ある一件の例外を除いて、アラファートが直接かかわったテロ攻撃は一つもない」
  ――第13章 歯磨き粉に仕込まれた毒

 この辺では、アラファートが暗殺を避けるために行った工夫が幾つも書かれていて、当時の争いの熾烈さが伝わってくる。しょっちゅう居所を替えるのはもちろん、予定も直前まで決めないし、飛行機に乗る時も複数の便を予約したり。「サッカーと独裁者」で、独裁者のアポを取るのに苦労する話があったけど、その理由も納得できた。刺客をかわすには予定を決めてはいけないのだ。

 そんなアラファトも、1980年代末には肝心のパレスチナの空気がわかっていなかったようで…

アブー・ジハードもアラファートも、(第一次)インティファーダ(→Wikipedia)を始める命令など下してはいない。この二人のイスラエルの情報機関同様、この事態(インティファーダ)には驚いていた。インティファーダは純然たる大衆暴動であり、PLOとは関係のない10代後半や20代前半の若者たちが火をつけたものに過ぎない。
  ――第18章 民衆の蜂起

 そのくせ「俺が指示した」と声明を出すんだけどね。機を見るに敏なんです。これだから政治家の言う事は…。

 などとガードが堅いアラファートなどの懐に、なんとか食い込もうとするイスラエルは、内通者をスカウトする。そのコツは、案外とありきたり。

国防軍情報部隊レハヴィア・ヴァルディ「三つのPのいずれかを与えれば、どんなアラブ人でも雇える。その三つとは、称賛(praise)、報酬(payment)、女(pussy)」
  ――第3章 神の裁き

 「飲ませて抱かせて握らせる」かと思ったら、ムスリムは酒がダメなんですね。そのかわりに名誉をデッチあげるわけ。このスカウトの工夫も狡猾で。

「この段階でいちばん重要なのは、最初に向こうから接触してくるよう仕向けることだ。(略)たとえば自分がバス停に行く場合、自分のあとから来た人には疑念を抱くかもしれないが、すでにバス停にいる人には疑念を抱かない」
  ――第19章 インティファーダ

 相手が興味を持っているネタをさりげなく示し、後はバス停の例みたく動いて向こうから話しかけるのを待つのだ。もちろん、その前に「どのバスに乗るか」を調べておく。狡猾だなあ。

 かと思えば、とんでもない奴をスカウトしてたり。

かつてヒトラーに気に入られ、親衛隊の作戦に参加してユダヤ礼拝堂を焼き払っていた人物、いまや世界中で指名手配されているナチ戦犯(→Wikipedia)が、当時のイスラエル情報機関にとって重要な作戦の鍵を握るスパイとなったのである。
  ――第5章 「頭に空が落ちてきたかのようだった」

 第二次世界大戦でドイツの特殊部隊を率い、1964年当時は最も危険な男と呼ばれたオットー・スコルツェニーと取り引きしてる。確かに取引に値するだけの価値ある成果も引き出してるんだが、やはり「モサド内で激しい議論が起きた」。そりゃそうだよね。

 優れた実績を積み重ねるにつれ、他国からの評価も高くなり、モサドも様々な取引を持ち掛けられる。中には「俺に逆らう奴を消してくれ、かわりに…」なんて殺し屋まがいの話も来るんだが、そこは一線を引く。

モサド長官メイル・アミット「われわれに直接の利益がないのに、他国の厄介な任務に関与してはならない。暗殺の場合は特にそうだ。殺害するのはイスラエルの利益を脅かす者だけでなければならない。そして、青と白(イスラエル人)だけでその裁きを下さなければならない」
  ――第6章 連続する災難

 うーむ、じゃプーチンをってのは…いえ、なんでもないです。でも、情報ぐらいは提供してるんじゃないかなあ。知らんけど。

 暗殺の手口も様々で、本書には銃はもちろん書籍爆弾や毒殺のネタものってる。ジェームズ・ボンドほどじゃないけど、ガジェットの研究も怠りない。だもんで、最近流行りのアレも、実はイスラエルが起源だったり。

自動車爆弾は、イスラエル国防軍の特殊作戦部で開発された。最初期のドローンを利用し、そこから爆弾の起爆装置を作動させる信号を送るタイプの爆弾である。
  ――第14章 野犬の群れ

 後にはその自動車爆弾でイスラエルが痛い目を見るんだけど。

 とかの活躍ばかりでなく、レバノン内戦(→Wikipedia)でのファランヘ党(→Wikipedia)とのつながりを描く14章~16章や、シン・ベトによるPLO狩りの暴走を暴く17章は、事実を明らかにしようとするジャーナリストの矜持を感じさせる。

 今まで読んだスパイ物の中でも、本書はとびっきりの濃さだ。既にお腹いっぱいなんだが、お話は下巻へと続く。

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2022年2月22日 (火)

吉田裕「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」中公新書

本書では(略)次の三つの問題意識を重視しながら、(略)凄惨な戦場の現実を歴史学の手法で描き出してみたい。
一つ目から(略)歴史学の立場から「戦史」を主題化してみたい。
二つ目は、「兵士の目線」を重視し、「兵士の立ち位置」から、(略)「死の現場」を再構成してみることである。
三つ目の問題意識は、「帝国陸海軍」の軍事的特性が「現場」で戦う兵士たちにどのような負荷をかけたのかを具体的に明らかにすることである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 1941年12月8日に始まり1945年8月15日に終わった太平洋戦争。日本人の死者は310万人に達するが、その9割以上が1944年以降と推定される。

 なぜ、このような膨大な被害を出したのか。彼らは、どのように亡くなったのか。亡くなった方々は、どんな状況に置かれたのか。

 防衛省の戦史研究センター所蔵の公式史料や当時の雑誌はもちろん、光人社NF文庫などの商業出版物や自衛隊発行の非売品そして戦友会の刊行物まで多量の資料を漁り、亡くなったがゆえに何も語れぬ兵士の立場で見たアジア・太平洋戦争の実態を再現する歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年12月25日初版。私が読んだのは2019年2月10日の15版。売れてます。新書版で縦一段組み本文約215頁に加えあとがき4頁。9.5ポイント39字×15行×215頁=約125,775字、400字詰め原稿用紙で約315枚。文庫なら薄い一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすいし、特に専門知識はいらない。当時の歴史背景として、大日本帝国は対中戦争が思うように進まず、状況の打開を求め太平洋に打って出て対米英豪蘭にメンチを切り、最初は勢いがよかったけど次第に戦況が悪化して最後はボロボロになった、ぐらいに知っていれば充分。

 ただし、下手なホラーは目じゃないほどグロい描写が多いので、そこは覚悟しよう。

【構成は?】

 各章は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに
  • 序章 アジア・太平洋戦争の長期化
    行き詰る日中戦争/長期戦への対応の不備 歯科治療の場合/開戦/第1・2期 戦略的攻勢と対峙の時期/第3期 戦略的守勢期/第4期 絶望的抗戦期/2000万人を超えた犠牲者たち/1944年以降の犠牲者が9割
  • 第1章 死にゆく兵士たち 絶望的抗戦期の実態 Ⅰ
    • 膨大な戦病死と餓死
      戦病死者の増大/餓死者 類を見ない異常な高率/マラリアと栄養失調/戦争栄養失調症 「生ける屍」の如く/精神神経症との強い関連
    • 戦局悪化のなかの海没死と特攻
      35万人を超える海没死者/「8ノット船団」拍車をかけた貨物船の劣化/圧抵傷と水中爆傷/「とつぜん発狂者が続出」/特攻死 過大な期待と現実/特攻の破壊力
    • 自殺と戦場での「処置」
      自殺 世界で一番の高率/インパール作戦と硫黄島防衛戦/「処置」という名の殺害/ガダルカナル島の戦い/抵抗する兵士たち/軍医の複雑な思い 自傷者の摘発/強奪、襲撃……
  • 第2章 身体からみた戦争 絶望的抗戦期の実態 Ⅱ
    • 兵士の体格・体力の低下
      徴兵のシステム/現役徴集率の増大/「昔日の皇軍の面影はさらにない」/知的障害者の苦悩/結核の拡大 一個師団の兵力に相当/虫歯の蔓延、“荒療治”の対応
    • 遅れる軍の対応 栄養不良と排除
      給養の悪化と略奪の「手引き」/結核の温床 私的制裁と古参兵/レントゲン検査の「諸刃の剣」/1944年に始まった「集団智能検査」/水準、機器、人数とも劣った歯科医療
    • 病む兵士の心 恐怖・疲労・罪悪感
      入隊前の環境/教育としての「刺突」/「戦争神経症」/精神医学者による調査/覚醒剤ヒロポンの多用/「いつまで生きとるつもりか」/陸軍が使った「戦力増強剤」/休暇なき日本軍
    • 被服・装備の劣悪化
      「これが皇軍かと思わせるような恰好」/鮫皮の軍靴の履き心地/無鉄軍靴の登場/孟宗竹による代用飯盒・代用水筒/背嚢から背負袋へ
  • 第3章 無残な死、その歴史的背景
    • 異質な軍事思想
      短期決戦、作戦至上主義/極端な精神主義/米英軍の過小評価/1943年中頃からの対米戦重視/戦車の脅威/体当たり戦法の採用/見直される検閲方針
    • 日本軍の根本的欠陥
      統帥権の独立と両総長の権限/多元的・分権的な政治システム/国務と統帥の統合の試み/軍内改革の挫折/罪とされない私的制裁/軍紀の弛緩と退廃/「皇軍たるの実を失いたるもの」
    • 後発の近代国家 資本主義の後進性
      兵力と労働の競合/未亡人の処遇と女性兵/少年兵への依存/遅れた機械化/体重の五割を超える装備/飛行場設営能力の格差/10年近く遅れた通信機器/軍需工業製品としての軍靴
  • 終章 深く刻まれた「戦争の傷跡」
    再発マラリア 30年以上続いた元兵士/半世紀にわたった水虫との闘い/夜間視力増強食と昼夜逆転訓練/覚醒剤の副作用と中毒/近年の「礼賛」と実際の「死の現場」
  • あとがき/参考文献/アジア・太平洋戦争 略年表

【感想は?】

 東部戦線の地獄っぷりは知ってるつもりだったが、太平洋戦線もそれに匹敵する地獄だったとは。

ある推定によれば、中国軍と中国民衆の死者が1000万人以上、朝鮮の死者が約20万人、その他、ベトナム、インドネシアなどをあわせて総計で1900万人以上になる。
  ――序章 アジア・太平洋戦争の長期化

 「モスクワ攻防1941」によると、東部戦線の死者はソ連関と近隣諸国だけで3千万近い。太平洋も似たような地獄だったのだ。ちなみに本書によると日本の戦没者は軍と民間を合わせ310万人。おまけにベトナムなどインドシナは日本が米から商用作物へ転作を強要したため戦後も飢餓に苦しんだとか(→「戦争と飢餓」)。

 当時の大日本帝国陸海軍の補給音痴は「海上護衛戦」などで散々言われている。それが兵に与えた影響を、嫌というほど何度も繰り返し書いているのが本書だ。38頁のイラスト「生ける屍」の衝撃はすさまじい。

 そもそも根本的な方針からして、略奪を前提にしてるんだから酷い。まるきし傭兵を中心とした中世の軍である。

野戦経理長官部(長官は陸軍省経理局長の兼任)は、1939年3月に、『支那事変の経験に基づく経理勤務の参考(第二輯)』を発行しているが、その第四項、「住民の物資隠匿法とこれが利用法」は、事実上、略奪の「手引き」となっている。
  ――第2章 身体からみた戦争 絶望的抗戦期の実態 Ⅱ

 これが本土も物資が不足する末期になると、軍から兵への支給品も質が下がる。孟宗竹の代用水筒とか江戸時代かよ。靴も鮫皮だ。ゲバラは靴の大切さを強調してた(→「ゲリラ戦争」)けど、それすら兵に配れないとは。ゲリラ以下じゃん。

 ちなみに飯盒は実に便利なモノらしく、これさえあれば野草すら調理できたとか。パンで生きる欧米にはできない芸当だね。

「銃も装備も何もなくなった兵隊が最後まで離さなかった物は飯盒である」
  ――第2章 身体からみた戦争 絶望的抗戦期の実態 Ⅱ

 まあいい。そのくせ荷物は重く、インパール作戦の個人装備は「少なくとも十貫(40キロ)を超えていたと思う」から凄まじい。そんなんでロクな道もないジャングルを歩いて行ったのだ。

 このインパール作戦の非道っぷりはアチコチで語られている。指揮する側もついていけない兵が出るのは分かっていたのか…

(インパール)作戦に従軍した独立輜重兵第二連隊の一兵士、黒岩正幸によれば、中隊に部隊の最後尾を歩き落伍者を収容する「後尾収容班」がつくられた
  ――第1章 死にゆく兵士たち 絶望的抗戦期の実態 Ⅰ

 はいいが、その任務は…

その実態は「落伍兵に肩を貸すどころか、自殺を勧告し、強要する恐ろしい班」だった。
  ――第1章 死にゆく兵士たち 絶望的抗戦期の実態 Ⅰ

 督戦隊ですらない。捕虜になれば敵の補給線に負荷をかけられるのに、敢えて殺して何の意味があるんだか。他にも古参兵による初年兵いじめとかの愚かさが続々と出てくる。なんなんだろうね、この出鱈目さは。当時の軍は兵を憎んでたんじゃないか、とすら思えてくる。

 こういう不合理さの解釈は、終盤になって出てくる。まずは、よく言われる統帥権だ。

国力を超えた戦線の拡大や、戦争終結という国家意思の決定が遅れた背景には、明治憲法体制そのものの根本的欠陥がある。
一つには言うまでもなく、「統帥権の独立」である。(略)軍部は「統帥権の独立」を楯にとって、政府によるコントロールを排除していった。
もう一つの欠陥は、国家諸機関の分立制である。(略)明治憲法の起草者たちが政治勢力の一元化を回避し、(略)伸長しつつあった政党勢力が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して天皇の地位が空位化することを恐れていたのである。
  ――第3章 無残な死、その歴史的背景

 国家としての一貫した軍事方針がなかったのは、「太平洋の試練」でも指摘している。ただ、本書はこの辺が駆け足になっちゃってるのが少し残念。もっとも、そこを突っ込んだら、それだけで一冊になりそうな気配が。

 あと、国全体としての誤りは書いてあるけど、自決の強要や特攻など、無駄に兵を殺す体質の原因は、この本じゃわからない。これを精神論で片付けられるほど単純な問題じゃないと思う。なんというか、病んでるんだよね、組織として。こういう病んだ気質が、今もブラック企業などに受け継がれてる気がする。

 いや、他のところ、例えば戦場の兵が置かれた状況や統計数字などは、とてもしっかり調べているのだ。例えば25pの年ごとの戦没者数。「日本政府は年次別の戦没者数を公表していない」が、「岩手県は年次別の陸海軍の戦史者数を公表している唯一の剣である」とある。全都道府県を調べたんだろう。たった数行のために。

 こういう所に、学者の執念というか矜持みたいなのを感じるのだ。

 他にも潜水艦ではドイツのUボートが有名だけど、キルレシオじゃ米海軍が最も優秀だったりと、軍ヲタへの御褒美もちゃんとあって、なかなかのご馳走だった。太平洋戦争に興味があるなら、ぜひ読んでおこう。

 以下、各国潜水艦の戦績。

喪失 撃沈(隻) 撃沈(トン) キルレシオ
52 1314 500万2千 1:25
781 2828 1400万5千 1:3.6
127 127 90万 1:1.4

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2021年12月 8日 (水)

ロドリク・ブレースウェート「モスクワ攻防1941 戦時下の都市と住民」白水社 川上洸訳

参加兵員数から見れば、モスクワ攻防戦は第二次世界大戦でも最大の、したがってまた史上最大の会戦で、双方合わせて700万を超える将兵がこれに加わった。(略)
モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、41年9月末から42年4月初旬まで6カ月にわたってつづいた。
  ――序章 1941年を迎えて

1943年、作家ミハイール・プリーシヴィン「住民は戦争を望まず、体制に不満をいだいている。それなのに、そういう人間がいったん前線に出ると、わが身を惜しまず勇敢に戦う。[……]この現象を私はまったく理解できない」
  ――第17章 勝利のあと

【どんな本?】

 1941年6月22日、突如ドイツ軍が東へ向け進軍を始めた。バルバロッサ作戦(→Wikipedia)の発動である。粛清などで崩壊寸前の赤軍に対し、ドイツ軍は当初こそ快進撃を続けたが、やがて補給が滞ると共に秋の泥濘に足を取られ、次第に進撃速度を落としつつも、同年7月22日の空襲をはじめとしてモスクワへと迫る。

 スターリングラード・レニングラードと並ぶ死闘であり、また第二次世界大戦の転機ともなったモスクワ攻防戦を、スターリンから村娘に至るソ連側の人々の視点で描く、戦時ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は MOSCOW 1941 : A City and Its People at War, by Rodric Braithwaite, 2006。日本語版は2008年8月155日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約531頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント44字×20行×531頁=約467,280字、400字詰め原稿用紙で約1,169枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。ただ、一部に微妙な訳がある。例えばPPsh-41(→Wikipedia)を機関短銃または自動短銃としている。今は短機関銃という呼び方が主だ。Wikipedia に100式機関短銃なんて項目があるんで、帝国陸軍は機関短銃と呼んだんだろう。別名サブマシンガン、拳銃弾をバラまく近距離用の機関銃です。

 内容もわかりやすい。あくまでもソ連側、それも市民の視点が中心なので、東部戦線物にしてはエグい場面は少ない。とはいえあくまでも「東部戦線物にしては」なので、多少は覚悟しよう。あと、半ばイチャモンなんだが、人名や地名がロシア語なので覚えにくいのが難点。特に地名は当時のレニングラードが今はサンクトペテルブルクになってたりする。これはソ連/ロシア物の宿命ですね。

【構成は?】

 基本的に時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

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  • 凡例/地図
  • 序章 1941年を迎えて
  • 第1部 おもむろに迫る嵐
  • 第1章 都市の形成
  • 第2章 ユートピアをめざして
  • 第3章 戦争と戦争のうわさ
  • 第2部 嵐の到来
  • 第4章 1941年6月22日
  • 第5章 ロシア軍の抗戦
  • 第6章 民兵たち
  • 第7章 大衆動員
  • 第8章 手綱を締めるスターリン
  • 第9章 嵐の目
  • 第10章 空襲下のモスクワ
  • 第3部 タイフーン
  • 第11章 ドイツ軍の突破前進
  • 第12章 パニック
  • 第13章 疎開
  • 第14章 バネの圧縮
  • 第15章 バネの反発
  • 第16章 敗北から勝利へ
  • 第17章 勝利のあと
  • 謝辞/訳者あとがき/写真提供者リスト/資料の出所/主要人名索引

【感想は?】

 第二次世界大戦を描く日本の戦争映画・ドラマは太平洋戦争が多いし、ハリウッド映画やアメリカのドラマは西部戦線が主だ。だから、太平洋や西欧が主戦場であるかのような印象が強い。でも、数字で見る限り、第二次世界大戦の主な舞台は東部戦線である。

ある大ざっぱな推計によると、900万に近いソ連軍人と1,700万のソ連民間人――ロシアとベロルシア、ウクライナとカザフスタン、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン(略)の男女が、戦争の過程で死んだとされる。
  ――第16章 敗北から勝利へ

ドイツ側の最近の研究の一つは、この戦争で死んだドイツ兵の数を500万以上と推定している。そのうち400万人近くがロシア軍との戦闘で、もしくはソ連の捕虜収容所で死んだ。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 本書は、この東部戦線の模様を、1941年~1942年のモスクワ攻防戦を中心に描く。登場人物はスターリンやジューコフなど政治・軍事の養殖にある者はもちろん、工場労働者や民兵やバレリーナや作家などバラエティに富んでいる。

 分厚い本だが、実は前の半分ほどを、モスクワ攻防戦前の状況の説明にあてている。

 何せ当時のソ連の内情はヒドい。ほとんどスターリンが自ら災厄を招いたようなモンなんだが、粛清の嵐で赤軍は悲惨な事になっている。例えば赤軍だ。

(1937年~38年の)粛清期にソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%、高級政治将校の大部分も同じ運命(逮捕/処刑)をたどった。
  ――第3章 戦争と戦争のうわさ

開戦時点で着任後1年未満の将校が全体の3/4を占めていた。
  ――第3章 戦争と戦争のうわさ

 と、開戦時からして既にガタガタだったのだ。こういった将兵の質の低さは追撃に移ってからも変わらず…

最初のころ分宿した民家の一軒では、主婦が経験の浅い(小隊長の)チェルチャーエフに歩哨を配置するよう教えてくれた。そうしないと略奪団と化したドイツ兵に窓から手榴弾を投げ込まれるというのだ。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 と、ドイツ軍の占領を経験している分、民家のオバチャンの方が将校より詳しかったり。これは軍ばかりでなく…

数百人の航空機設計家、技術者、専門家が34年から41年までのあいだ収監された。
  ――第8章 手綱を締めるスターリン

 「開発が計画通りに進まないのは技術者たちが怠けているから」ってな理屈で専門家たちを処刑しまくったワケです。そういやロケット開発を主導した主任技師ことセルゲイ・コロリョフ(→Wikipedia,「セルゲイ・コロリョフ ロシア宇宙開発の巨星の生涯」)もシベリア送りになってるなあ。

 しかもスターリンは油断しきってて、ドイツが攻めてくるとは毛ほども思っていない。だもんで準備万端なドイツ軍の進撃ぶりはすさまじく。

6月22日、日曜日の午前3時15分、ドイツ軍爆撃機が西部国境地域のソ連空軍基地群を襲撃した。赤色空軍は戦争の最初の朝に1200機以上を、その大部分は地上で失った。
  ――第4章 1941年6月22日

戦争の第一週が終わるころには、赤軍最新鋭の機械化軍団はその戦力の9割を失っていた。
  ――第4章 1941年6月22日

 「これで勝った」と思うよね、普通。ところが、秋に入ると進撃は止まる。補給路は伸びるのに、路は泥で埋まるのだ。

ナポレオンとヒトラーの軍勢をおしとどめたのは冬将軍ではなくて、泥濘だった。
  ――第1章 都市の形成

 しかも、意外なことに、ドイツ軍はナポレオンより手間取ってたり。

ドイツ軍はナポレオンより3カ月近くも長い時日をかけてモスクワ近傍まで進撃した。というのも、(略)ドイツ軍はナポレオン軍とほとんど変わらぬくらい馬に依存し、進撃する兵士のスタミナに頼っていたからだ。(略)
6月21日の真夜中にソ連国境に投入された兵力は、グラン・ダルメ(ナポレオンの遠征軍)の6倍。300万以上の兵員、2000機近い航空機、3000両以上の戦車、75万頭の馬が、3個の軍集団の戦闘序列下にあった。
  ――第4章 1941年6月22日

 機械化されているのはごく一部で、実際は馬に頼ってた。戦車が快進撃しても、歩兵はついてこれないのだ。この反省から歩兵戦闘車(→Wikipedia)が登場するんだが、それは置いて。その戦車も赤軍のKV-1(→Wikipedia)やT-34(→Wikipedia)の方が強かったり。

 それでも、ドイツ軍はヒタヒタとモスクワへと迫ってくる。モスクワの価値は単に政治的なだけじゃない。戦争を続ける能力そのものも、モスクワが握っていたのだ。

1940年のモスクワは全国で製造される自動車の半分、工作機と工具の半分、電気機器の40%以上を生産していた。
  ――第2章 ユートピアをめざして

 工業力もモスクワに偏っていたんですね。そんなワケで、スターリンは工業の疎開も急がせる。色々と手違いはあったようだけど、ちゃんと功を奏したらしく。

大工場はあらかた疎開してしまったので、ますます多くの中小工場が兵器生産に切り替えられた。モスクワでの兵器生産のなかでの中小工場のシェアは、かつては25%を超えなかったが、11月末現在94%にたっした。
  ――第12章 パニック

 このモスクワ攻防戦をめぐっては二つの説がある。一つは「モスクワが落ちてもスターリンはウラル山脈の東へ逃げて戦争を続けた」って説、もう一つは「モスクワが落ちたらおしまい」って説。本書によるとモスクワの東800kmほどのクーイビシェフ(現サマーラ)へ政府を移す計画を進めてるんで、徹底抗戦したっぽい。

 もっとも、連合軍からの補給物資はアルハーンゲルス港・ムールマンスク港経由なんで、こっちの経路が潰れたらどうなんでしょうね。

 まあ、ソ連は引っ越しは得意なのだ。なんたって…

ソヴィエト政府は全国いたるところへ人びとの大集団を動かす経験をじゅうぶんに積んでいた。
  ――第7章 大衆動員

 なぜって…

1920年代にはモスクワとレニングラードから数千数万の階級敵を強制移送し、30年代には数百万のクラーク(富農)をシベリアと中央アジアに強制移住させた。(略)
列車に乗せられた人たちの旅行中の食糧や、目的地での宿泊施設については、あまり配慮を払わなかったので、病気、栄養不良、疲労、ときには護送兵の暴行の結果、多数の死者が出た。
  ――第7章 大衆動員

 そっちかよ! と突っ込みたくなるが、まあソ連だし。

 そんな経験豊富なソ連だけに、西から東へヒトとモノを動かすのは巧みで…

6月10日から11月20日までの期間にウクライナ、ベロルシア、バルト諸国から貨車100万両分の工業設備が搬出され、戦争の全期間をつうじてはほぼ1000万人が鉄道で、ほぼ200万人が水路で疎開した。
  ――第13章 疎開

 やはり鉄道の輸送能力は図抜けてる。前世紀の海外旅行ガイドブックだと、国によっては「鉄道車両の写真を撮るとスパイと疑われる」なんて記述もあったぐらい、鉄道ってのは国家の戦略的な能力を示すんですね。

 そうやってソ連がスタコラと逃げてるうちに、冬将軍がやってくる。補給線が伸び切ったドイツ軍は、冬の装備がなかなか前線に届かない。

グデーリアンは敵との戦闘行為による損失の2倍もの数の兵員を、寒さのために失った。
  ――第14章 バネの圧縮

 これに追い打ちをかけたのが、ソ連の焦土作戦。撤退する際、近隣の町や村を焼き払うのだ。ドイツに食料も寝床もあたえぬように。

ドイツ軍がモスクワに接近したとき、スターリンは敵に雨露をしのぐ場所をあたえぬよう、被占領地域の村落を徹底的に破壊せよと命じた。ジューコフは戦線の背後の幅5キロ、のちには25キロの地帯から住民を退去させるよう命令した。
  ――第15章 バネの反発

 戦術としちゃ理に適ってるんだろうが、巻き込まれる住民はたまらんよなあ。もっとも、この後、ドイツ軍も撤退する際に同じことをするんだけど。

 そんな冬将軍が猛威を振るいエンジンも凍って動かぬ中、活躍できたのは…

独ソ双方の軍勢のなかで、泥濘の中でも、雪中でさえも、ある程度の機動力を保持できたのは騎兵だけだった。
  ――第14章 バネの圧縮

 元来が寒冷地仕様の生き物(→「人類と家畜の世界史」)な上に、地元育ちだから寒さにも強いんだろうか。

 最初は慌てたスターリンも、「引きこもりの一週間」を過ぎて活発に動き始め、大規模な動員も始まる。なおスターリンの引き籠りの原因には幾つかの説があるが、本書では「自分の地位を狙う裏切り者をあぶりだすため」って説を紹介している。

 それはともかく、人を集めたはいいが、それを巧く鍛え使う体制はできてない。「銃は二人に一丁」なんて話が何度も出てくる。そんなワケで、動員した人たちの使い道は…

民兵らの多忙な一日の大半は戦闘教練ではなく、塹壕と対戦車壕の掘削に費やされた。
  ――第6章 民兵たち

 これはこれで適切なんじゃないか、と私は思う。もっとも、ドイツ軍の進撃が速すぎて、作った陣地の多くが未完成のまま突破されちゃうんだけど。

 先にも書いたように裏切り者を恐れるソ連だけに、検閲も厳しい。

新しい検閲規則がすでに導入されていた。軍事、経済、政治にかんするあらゆる情報の伝達、風景その他の写真付きのハガキの発送、点字による文通、クロスワードやチェスの詰め手の問題の発送が禁止された。
  ――第9章 嵐の目

 風景写真はわかるけど点字や詰め手は…うーん、暗号を警戒したんだろうか。

 ちなみにNKVDが張り切って「裏切り者」を逮捕しまくった結果、市民も前線の兵も「本当に裏切り者だらけなんじゃないか」と疑心暗鬼になった、なんて話もある。ばかりか、東方の疎開先じゃ意外と党の統制は甘くて、反乱の気配もあったとか。とはいえ、既にドイツ軍に蹂躙された西方じゃ、恨みに燃えるバルチザンが活発に動いたんだけど。

 もちろん、疎開せずにモスクワに残る人も多い。面白いのが、空襲下のモスクワで生き残る方法。

いちばん大事なのは、高射砲弾の上昇音と爆弾の落下音を識別する能力を身につけることで、落下音のピッチが(ドップラー効果で)上がるのにたいし、砲弾の上昇音は逆に下がる。
  ――第10章 空襲下のモスクワ

 言われてみると、そうだよなあ。

 そういう物騒な話ばかりでなく、日々の暮らしも苦しくなる。

戦争の最初の1年で物価は8倍にはねあがった。
  ――第12章 パニック

 米5kgが¥12,000、吉野家の牛丼が¥3,400の暮らしを想像してみよう。なお電気代は計算不要。だって電気は止まってるから。つか電気が止まったら米炊けないや俺。

 もちろん、足りないのはメシだけじゃない。

棺桶が足りないので、5~7日も待たないと葬儀もできない。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 と、何もかもが足りない。原因の一つは鉄道で、モスクワ行きの列車は前線へ送る兵員でいっぱいだったから。そんな具合だから、近くの農村へ買い出しに行ったり、逆に農村からミルクを売りに来てたり。こういう風景は終戦後の日本と同じだなあ。

 とはいえ、泥縄式ながらも赤軍の抵抗は意外と早く功を奏し…

ドイツ軍はこれ(1941年12月8日)以後二度と首都を射程内に入れる地点まで接近できなかった。
  ――第15章 バネの反発

 これはバトル・オブ・ブリテンとの比較がわかりやすい。イギリス攻撃は設備の整ったフランスの飛行場から出撃できた。でもモスクワ近郊の飛行場は荒れてるし補給もままならないんで、ルフトバッフェも苦労した模様。

 そんな情勢の変化にスターリンも気をよくして…

12月14日、スターリンはモスクワの工場、橋梁、公共建築に仕掛けた爆薬の撤去を命令した。その二週間ほど後には、都心周辺の新たな防御陣地の構築をやめさせた。
  ――第15章 バネの反発

 逆に言えば、仮にモスクワを引き払う羽目になったら、モスクワを廃墟に変えるつもりだったのだ、スターリンは。こういう態度は「パリは燃えているか?」のヒトラーと同じだね。

 最終章の「第17章 勝利のあと」は、戦後のソ連の人々と政府の動きを描く。この本もソ連時代には手に入らなかった資料に多くを負っている事でもわかるように、戦後もソ連は相変わらず秘密主義だった。歴史家アレクサーンドル・ネークリチが充分な資料に基づき、開戦前後の高官たちの怠慢を指摘した著作「1941年6月22日」に対し当局曰く。

「政治の都合と史実と、どちらがより重要だと思っているのか?」
  ――第17章 勝利のあと

 政治家と学者じゃ正解が違うのが、よくわかる話だ。

 軍ヲタとしては、スキー部隊が活躍したり、意外と短機関銃が役に立ったり、この後にドイツ軍が南に重点を移すのをソ連諜報機関が掴んでたりと、細かい拾い物も多かった。が、それ以上に、気温が零下を下回る地での物資欠乏がどんなものか、身に染みて感じるのが辛かった。寒い季節に読むと迫力が増す本だ。

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2021年6月29日 (火)

スチュアート・D・ゴールドマン「ノモンハン1939 第二次世界大戦の知られざる始点」みすず書房 山岡由美訳 麻田雅文解説

本書は(略)第二次世界大戦の起源の解明という(略)試みにおいて、(略)ノモンハン事件というピースが見落とされている、あるいは誤った場所にはめこまれているという事実に光を当てるものである。
  ――序

(1937年に始まった日中戦争で)日本が中国の深みにはまり込んだことはソ連が極東にかかえる脅威を大幅に減じ、果たしてソ連の対日政策を転換させた。モスクワは、日本に対する宥和の必要がなくなったのである。
  ――第2章 世界の状況

【どんな本?】

 1939年5月から9月にかけて、当時の満州国とモンゴル共和国の国境をめぐり、大日本帝国(満州国)とソ連・モンゴル連合軍が衝突する。日本の歴史教科書ではノモンハン事件と名づけられ、第二次世界大戦の戦史でも軽く扱われがちな戦いだが、実際には両陣営を合わせ10万人以上の兵力が戦いに加わっており、モンゴルでは「ハルハ河の会戦」と呼ばれている。

 このノモンハンの軍事衝突こそが第二次世界大戦の機転となった、そう著者は主張する。

 大日本帝国はもちろん1991年のソ連崩壊に伴い公開されたソ連および赤軍関係の情報も含めた大量の資料を漁り、当時の世界情勢および各国政府の重要人物の目論見を分析した上で、第二次世界大戦の起源へと迫る、外交・軍事研究書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は NOMONHAN, 1939 : The Red Army's Victory That Shaped World Wide War Ⅱ, by Stuart D. Goldman, 2012。日本語版は2013年12月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約272頁に加え、麻田雅文の解題13頁+訳者あとがき3頁。9ポイント46字×19行×272頁=約237,728字、400字詰め原稿用紙で約595枚。文庫なら少し厚めの文字数。

 軍事系の本のわりに文章はこなれている。あくまでも軍事系の本にしてはなので、慣れない人は堅苦しく感じるかも。おまけに外交文書からの引用もあって、まわりくどい言い回しも多い。脳内でド・モルガンの法則を使い二重否定を肯定に変換するなどの工夫をしよう。

 ノモンハンの戦いが当時の国際情勢にどう影響したか、を語る本だ。日本とソ連はもちろん、ドイツ・イギリス・フランスそして中国が主なプレイヤーとして登場する。なので、1930年代後半~1940年代前半の主な出来事について、ある程度は知っておいた方がいい。

【構成は?】

 原則として時系列順に進む。初心者は素直に頭から読もう。ただし「もし日本が南進ではなく北進していたら…」と考える人は、いきなり第7章を読んでもいい。

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  • 謝辞
  • 第1章 過去の遺産
    戦争と革命/スターリンの産業革命/日本における恐慌、超国家主義、軍国主義/日ソ関係の悪化
  • 第2章 世界の状況
    ファシズムの脅威の出現と人民戦線・統一戦線/乾岔子島事件/日中戦争/ドイツと日本/西側民主主義諸国と日本・ドイツ・ソ連の関係/マドリードとミュンヘン 西欧における統一戦線の失敗/スターリン、徒手空拳の六カ月/分岐点/日独軍事同盟の行方
  • 第3章 張鼓峰
    幕開け/戦闘/張鼓峰の意味
  • 第4章 ノモンハン 序曲
    背景/関東軍の姿勢/紛争の発生/5月28日の戦闘
  • 第5章 ノモンハン 限定戦争における戦訓
    関東軍の七月攻勢/ジューコフの八月攻勢/脱出行動後の動き
  • 第6章 ノモンハン、不可侵条約、第二次世界大戦の勃発
    ノモンハンと不可侵条約/ソ連と日本の緊張緩和
  • 第7章 揺曳するノモンハンの影
    戦訓の選択/ノモンハン、そして真珠湾への道/歴史の岐路に立って考える/ノモンハンと限定戦争
  • 結語
  • 原注/解題 麻田雅文/訳者あとがき/写真一覧/参考文献/索引

【感想は?】

 軍ヲタが太平洋戦争を語る際に、よく出る話題がある。北進と南進の話だ。筋書きはこんな感じ。

  • 当時の日本は北進=対ソ連と南進=対英米欄仏の二方針で議論があった。
  • ところがノモンハンの戦いで日本は赤軍にボロ負けする。
  • そのため日本はソ連にビビり、北進を諦め南進に転じた。
  • それを日本にいたソ連のスパイのゾルゲが嗅ぎつけ、スターリンにチクる。
  • スターリンはドイツと日本の挟み撃ちを恐れていた。
  • 日本の脅威がないと安心したスターリンは極東の赤軍を対ドイツに振り向け、独ソ戦の逆転につなげる。
  • では、もし日本が北進=対ソ連に舵を切っていたら?

 極論すると、この本はそういう内容だ。特に第7章が詳しいので、お急ぎの方は第7章からお読みください。例えば、ノモンハン戦で日本が赤軍の評価を変えたことを、こう書いている。

ノモンハン事件を契機に、日本が赤軍についての評価に抜本的な修正を加えたのは確かである。またソ連の力をむやみにあなどることもなくなった。
  ――第7章 揺曳するノモンハンの影

 これにより北進から南進に変わった事についても、こんな感じ。

ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換の主な原因となった。
  ――第7章 揺曳するノモンハンの影

 そしてゾルゲが掴んだネタが独ソ戦に与えた影響については…

1941年秋、歩兵15個師団、騎兵3個師団、戦車1700両、軍用機1500機――言い換えるならソ連極東軍の戦力の半分以上――が東部からヨーロッパ・ロシアに移された。大半はモスクワ戦線に送られている。モスクワ攻防戦は、これによって流れが変わった。
  ――第7章 揺曳するノモンハンの影

 となって、大胆な結論へと至る。

日本の軍首脳部が1941年の段階で、ノモンハン事件以前と変わらず赤軍を過小評価していたとすると、事態はまったく違う方向へ進んでいたことだろう。もし1941年7月または8月に北進が決定されていたなら、おそらくソ連は崩れ去っていたと思われる。
  ――第7章 揺曳するノモンハンの影

 つまりは、そういう結論に向かって、証拠を積み重ねていく本である。多くの軍ヲタ・歴史ヲタは、この時点で評価を決めるだろう。申し訳ないが、私は評価を下せるほど知識がないので、今は保留したい。

 ノモンハンの戦いは、日本でもあまり知られていない。ソ連とモンゴルじゃ有名だが、西欧とアメリカでは日本以上に知られていない。そういった状況への苛立ちというか、学者としては美味しいテーマを見つけたぞ、みたいな興奮が滲み出ている気がする。

 とはいえ、著者の筆は慎重だ。第1章では黒船来航から日露の歴史を辿り、第2章以降ではソ連を中心に独仏英との外交交渉をじっくり描く。ノモンハンの戦いについても、日ソそして中国の関係を、第3章からきめ細かく辿ってゆく。

 戦闘を描くのは第5章で、ここでは大日本帝国の困った点が嫌と言うほど書いてあるので覚悟しよう。ここを読むと、負けるべくして負けたのがよく分かる。

 敗因は、まず政治にある。そもそも大日本帝国は政策が一貫していない。現場の関東軍は対ソ全面戦争上等と前のめりだが、東京の陸軍省と参謀本部は外交的解決に望みをつなぎ及び腰。そのため偵察機を飛ばせないなど、戦術に足かせをかける。対してソ連はスターリン→ジューコフのラインに一本化されつつも指揮はジューコフに一任され、お陰で潤沢な補給が受けられた。

 これが兵站・火力・兵力の差となって現れる。当時の最大の輸送力である鉄道駅からの距離はソ連側に不利なのだが、そこはゴリ押しだ。例えば輸送能力では…

1939年時点で満州国にあった自動車のうち関東軍が使用できるものはわずか800台にすぎず、ソ連が4200台以上の自動車を動員して兵站業務を進めていたことなど、日本側には想像だにできなかった。
  ――第5章 ノモンハン 限定戦争における戦訓

 火力も砲の威力と射程距離など、ソ連が圧倒的に優勢だ。おまけに、最初は有効だったBT-5(→Wikipedia)/BT-7(→Wikipedia)戦車への火炎瓶攻撃も、カバーをかけガソリン・エンジンをディーゼルに変え封じてしまう。トドメは名機T-34(→Wikipedia)まで登場する始末。

 ソ連の総司令官で後のベルリン陥落の立役者ジューコフ(→Wikipedia)も、意外と芸の細かい所を見せている。ピアノ線で戦車を足止めするとか、予め戦車や航空機のエンジン音を音響設備で夜ごと流して油断させた所で総攻撃とか、偽電文を流すとか。でも、基本は味方の損害を顧みない力押し。

 人としては冷酷だが、当時のソ連の軍人、それも野戦指揮官としては理想的だ。そもそも地形は平坦で見晴らしが効き、火力・兵力・機動力で優っているんだから、当然だよね。

 このノモンハンの戦いでジューコフは砲と戦車の集中運用を実戦で磨き、後の独ソ戦で腕を振るうことになる。

 そんなワケで、北進派は是非とも読んでおこう。

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2021年5月31日 (月)

スティーブ・コール「シークレット・ウォーズ アメリカ、アフガニスタン、パキスタン三つ巴の諜報戦争 上・下」白水社 笠井亮平訳 2

パキスタン陸軍参謀長アシュファク・キヤニ「アフガニスタンをコントロールしようなどと考えを望んではいけません。アフガニスタンをコントロールしようとする者は、歴史を知らないのです。それができた者は誰もいないのですから」
  ――第20章 新たなボス

 スティーブ・コール「シークレット・ウォーズ アメリカ、アフガニスタン、パキスタン三つ巴の諜報戦争 上・下」白水社 笠井亮平訳 1 から続く。

【どんな本?】

 ブッシュ政権から受け継いだオバマ政権は、アフガニスタンへの深入りを避け兵数の削減を求めるが、パキスタンのワジリスタンを根城とするタリバーンの掃討は遅々として進まない。パキスタンでは反米の気運が盛り上がりTTP(パキスタン・タリバーン運動)など過激派が勢いを増し、実質的に権力を握る軍への不信感が高まってゆく。そしてアフガニスタンのハーミド・カルザイ大統領は、アメリカへの信頼を次第に失いつつあった。

 混迷を続けるアフガニスタンの状況を緻密に伝える、迫真の政治・軍事ドキュメンタリー。

【感想は?】

 ブッシュJr政権時代を描いた上巻に続き、下巻ではオバマ政権が登場する。なんとか米軍を撤退させたいオバマ政権だが…

パキスタン陸軍参謀長アシュファク・キヤニ「いまのやり方では、(アフガニスタン)南部は回転ドアのようになってしまう事でしょう――NATOが入っては出て行き、タリバーンが入っては出て行く、という具合に」
  ――第20章 新たなボス

 と、パキスタンの事実上の最高権力者はなんとも不吉な予言をしていて、実際その通りになってるんだよなあ。しかも、派兵の負荷はどんどん膨れ上がってゆく。

「われわれ(アメリカ)の活動には年間600億ドルがかかっているが」「連中(タリバーン)は年間6千万ドルでやっているではないか」
  ――第22章 国民にチャンスを与える戦争

 そもそも、トップの姿勢が、どうにも煮え切らない。

オバマはアル・カーイダの解体をなんとしてでもやり遂げる考えであり、アフガン政府と同国治安部隊に権限を委譲する取り組みについても支持していた。しかしオバマは、タリバーンの打倒を目的とする軍事ミッションを推進するつもりはまったくなかった。
  ――第22章 国民にチャンスを与える戦争

 オバマの目的はアル・カーイダであって、タリバーンはどうでもよかった。そもそもブッシュJrが戦争を始めた理由もアル・カーイダだったがら、まあ理屈は合ってるんだが。とはいえ、人様の国を勝手に荒らしまくって後は知らん、ってのも酷い話だ。熱心に会合を続けるが…

ヒラリー・クリントン国務長官「われわれにはパキスタン戦略もなければ和解に向けた戦略もありません。ただ議論とプロセスを続けているだけなのです」
  ――第25章 キヤニ2.0

 はいはい、よくあるね。続いているから続けてる、そんなお仕事。あなたの職場にもありませんか? それに対し、現場の意見は…

米マレン海軍大将「カンダハールにはびこる腐敗の大半を一掃し、正当性を備えた政府機構をつくり上げることをしなければ、現地のガバナンスを改善することはできないでしょう」
  ――第26章 人命と負傷者

 実際問題として、欧米軍はタリバーン相手に戦ってる。そしてタリバーンがはびこるのは、現地の統治機構がグダグダだからだ。まるきしベトナム戦争そのもの。戦場となった国の経済を大きく変えちゃってるのも、ベトナムと似てる。

アフガニスタンで「アメリカが腐敗の最大の供給源になっているのです」(ロバート・)ゲイツ(国防長官)が続けた。アフガニスタンでの業務委託契約額はアヘンやヘロインの取引額よりも大きくなっているのですから
  ――第27章 キヤニ3.0

 そしてもちろん、軍事的にも似てるからタチが悪い。対タリバーン戦は実質的にゲリラ戦だ。欧米の正規軍に対し、敵は正面切った戦闘は仕掛けない。即席爆弾などのテロで、ジワジワと体力を奪う作戦に出てる。そして…

これまで記録に残っている限りにおいて、ゲリラが国境を越えたずっと先に聖域を持っている場合に反乱鎮圧作戦が成功したためしはない
  ――第26章 人命と負傷者

 いくら敵の正面戦力を叩こうと、ヤバくなったら敵は逃げて聖域にズラかってしまう。ベトナム戦争の場合、聖域は北ベトナムだった。アフガニスタンだと、パキスタン領内のワジリスタンが聖域。そういえばイラクのスンニ派はイランが聖域だなあ。話を戻すと、タリバーンを叩くにはパキスタンの協力が必要なんだが…

アフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ「アメリカにはあと100年はいてもらいたいが、このやり方[反乱鎮圧作戦]では成功するわけがない。戦争の本当の相手はパキスタンなのだから」
  ――第26章 人命と負傷者

 パキスタンも連邦直轄部族地域には手をこまねいているし、カシミール紛争などの関係で、ナアナアの関係をズルズルと続けている。カルザイもそれが判ってて、パキスタンに対し毅然と対応しないアメリカに苛立ちを募らせてゆく。そりゃそうだよね。

 この辺を読んでて驚くのが、パキスタンのISI(三軍統合情報局)のトップとアフガニスタン大統領が堂々と直接話し合ってて、それがオープンになってること。日本の首相とCIAのトップの話し合いがバレたら、どんな騒ぎになることやら。でも外交の世界って、そんなモンなのかな。そのISIは…

「われわれに知られずにタリバーンと対話を継続できるなどと考えるのは身のほど知らずですよ」(ISI長官のアフマド・)パシャは(CIAイスラマバード長官のジョナサン・)バンクに言った。
  ――第27章 キヤニ3.0

 と、堂々と開き直る始末。これはカルザイも認めてて…

アフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ「パキスタンとの協力なしに、アフガニスタンに安定をもたらす方法を見つけ出すことができますかな?」
  ――第29章 ドラゴンブレス弾

 前の記事にも書いたが、パキスタンの基本姿勢はインド憎し。特ににらみ合いが続くカシミールじゃ過激派組織LeTにISIが下請け仕事をやらせたり。アメリカとしてはソコをなんとか躱しつつ、アフガニスタン問題には協力させ、まっとうな中央政府を樹立したいところだが…

アフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ「いま(アフガニスタンに)あるのは、下請けの政府です」
  ――第29章 ドラゴンブレス弾

 このあたりだと、カルザイは神経衰弱っぽい状態のように書かれているけど、こういう言葉を拾っていくと、かなり冷静かつ正確にアフガニスタンおよび自分の立場を把握しているように思う。もっとも、それをハッキリ言っちゃうのは、政治家としてどうかな、とも感じる。根拠はなくても自信ありげに振る舞った方が、人気は出るんだよな。

 そうこうしている間に、アメリカがアフガニスタンに派兵した本来の目的、ビン・ラディンの殺害に成功する。マスコミはパキスタンに無断で襲ったように報じてるし、本書もそれを裏付けている。その理由はお察しの通り、ISI経由で情報が漏れるのを恐れたため。結果としてパキスタンのメンツっは丸つぶれになり、パキスタン世論も沸騰する。その理由は…

パキスタン世論のかなりの部分、いやほとんどすべては、ISIがビン・ラディンをかくまっていた可能性よりも、ネイビーシールズが当局に気づかれずに国境を越え、パキスタンに侵入することができたという事実に憤慨していたのである。
  ――第30章 殉教者記念日

 ISIの役立たず、防空体制はどうなってる、そういう怒りだ。日本でもベレンコ中尉亡命事件(→Wikipedia)ってのがあって、大騒ぎになった。

 などの混迷を深めつつ、物語は終盤へと向かう。アフガニスタンは相変わらず不安定で、アメリカのトランプは増派を断念し、パキスタンは中国への接近を図る。最近のニュースを見ると、アメリカはインドとの関係を深めているから、アフガニスタン問題は更に厄介な事になりそう。もっとも、悪い事ばかりじゃない。

経済規模については、2001年に約25億ドルだった推定GDPは2014年に約200億ドルとなり、10倍近い成長を遂げた。小学校の入学者数は5倍になった。(略)人口は約50%増加して3000万人に達したが、その一因は成長する経済や平和の可能性に魅力を感じた難民が数百万人規模で帰還したことだった。
  ――第35章 クーデター

 タリバーンも自称イスラム国に兵を奪われたりと、一時期に比べれば勢いに陰りが出ているものの、アフガニスタン全体で見ると、やっぱり政府が弱体なのにかわりはない。バイデン大統領になってどうなるのか、というと、やっぱりあまし期待できないんだよなあ。

 全体としては、登場人物が異様に多く、それだけ問題の複雑さが良く現れている。中でもアメリカ人が異様に多いのは、それだけアメリカの姿勢が一貫してないってことでもあるし、アメリカ政府・軍・CIAの人事異動の激しさも感じさせる。それが選挙で定期的に人が入れ替わる民主主義の定めでもあるんだが、相手国にとっては人と方針がコロコロと変わるわけで、何かとやりにくいんじゃなかろうか。

 他にもCIAが無人機を操縦してたりと、拾い物のネタは多かった。あくまで事実のルポルタージュなだけに、中身は複雑だし煮え切らない話も多い。なにより現在も進行中の話なだけに、結末も尻切れトンボだが、それだけにリアリティもある。質量ともに、重量級のドキュメンタリーだ。

 以降、気になったエピソードをつらつらと。

【ミステリ】

 「第32章 アフガン・ハンド」と「第33章 殺人捜査課」は、ミステリとしても面白い。

 きっかけは、アフガニスタンの警官や兵士による欧米将兵殺しが増えたこと。欧米の将兵にすれば、仲間から撃たれるわけで、たまったモンじゃない。その原因を巡って、この2章は展開する。

2010年までに、(ジェフリー・T・)ボーデン(少佐)は憂慮すべきある傾向を非常に詳しく把握するようになっていた。米軍や欧州の兵士が、友軍でああるはずのアフガン国軍兵士に殺害される事案が急増していたのだ。
  ――第32章 アフガン・ハンド

…米欧の兵士に対する部隊内での殺害事案の発生頻度は、アフガニスタン戦争の最初の10年と比べて10倍にもなった…
  ――第33章 殺人捜査課

 これを調べ始めるジェフリー・T・ボーデン少佐は心理学者で、原因は文化の違いだとする報告を出す。いささか米軍には都合の悪い報告だ。ってんで報告書は非公開扱いになり、ボーデンは軍からもお祓い箱になってしまう。「俺の学説を認めさせてやる」と意地になった彼の行動は、学者の執念が滲み出ていて、思わず笑ってしまった。

 実際、ここで露わになった米欧将兵の振る舞いは、「アメリカン・スナイパー」が描くイラクでの米兵の振る舞いと同じで、そりゃアフガニスタン人の神経を逆なでするよ、と納得してしまう。こういう現地の人をナメた姿勢は「レッド・プラトーン」や「アフガン、たった一人の生還」にも漂ってた。

 なんでナメるかね。アフガニスタン人はロシア人を叩きだしたんだぞ。米軍は、むしろ教えを乞うべきだろうに。

 …と、読者がボーデンの説に入れ込んだところで、新しい探偵として司法精神医学者のマーク・セージマンが登場し、別の角度で分析を進めていくあたりは、ミステリとしてなかなか楽しい。また、アフガニスタン人がタリバーンに入る動機も幾つか出ていて、中には絶望的な気分になるケースも。

 それはともかく、セージマンのこの説は、おお!と思ったり。

…ソ連の影響を受けた共産主義であれ、タリバーンであれ、あるいはイスラーム国であれ、敵側に寝返るという個人の行為は往々にして帰属意識によるものであり、イデオロギーではないというのが(司法精神医学者のマーク・)セージマンの結論だった。
  ――第33章 殺人捜査課

 これ、寝返りだけじゃなく、カルト宗教や過激派に入る動機としても、大きいんじゃないかなあ。何回かカルトから勧誘された事があるけど、連中、やたら馴れ馴れしいんだよね。あれ、「キミはボクたちの仲間だ」と帰属意識を与えるためなんだろう。

【ジョー・バイデン】

 意外な人物の意外な顔が見れるのも、この本の魅力の一つ。中でも驚いたのが、現合衆国大統領のジョー・バイデン。日本のニュースじゃ穏やかな印象の人だが、本書じゃ全く違う。キレ者なのだ、能力的にも性格的にも。極めて賢く、かつそれを自分でも分かっていて、しかも自分の意見をハッキリ口に出す。

 本書じゃオバマ新政権の副大統領に着任してすぐ、アフガニスタンを訪れて大統領のハーミド・カルザイに向かい、こうブチあげている。

「大統領閣下、アメリカにとってパキスタンはアフガニスタンの50倍重要な国なのですよ」
  ――第20章 新たなボス

 上院議員の経歴が長いとはいえ、新任の、しかも副大統領が、一国の最高権力者に向かって、そこまで言うか。しかも当時のカルザイはタリバーンを始め我の強い軍閥みたいな連中をまとめるのに苦労してるってのに。だもんで、バイデンの言葉をカルザイはこう解釈した。

「タリバーンは貴国の問題です。アメリカにとって問題なのはアル・カーイダなのです」
  ――第20章 新たなボス

 カルザイは見捨てられた、と思ったんだろうなあ。

 あ、それと。政治家には内政が得意な人と外交が得意な人がいる。バイデンは上院議員時代から世界各国を飛び回ってた人なんで、今後の日米関係はタフな交渉になりそう。

【飛行船】

 私は飛行船が好きだ。だってカッコいいし。でも見てくれだけで、あまし使い道がないから未来は暗い…と思っていたが、意外と活躍していた。アフガニスタンじゃ「およそ175隻の固定型あるいは機動型」の小型飛行船を使ってる。装甲車につなげて偵察とか。アドバルーンみたいな感じかな? たぶん軟式飛行船だろう。

 もちろん目立つから撃たれるんだが、数発の銃弾が当たった程度なら大丈夫、というから思ったより頑丈。きっと船の隔壁みたく空気袋は複数の区画に分かれてるんだろう。でもさすがにグレネードランチャーには弱い。そりゃそうだ。

【声明文】

 ときどき、武装組織が意味不明な声明を出すことがある。あれはデューク東郷への依頼メッセージみたいなモンかもしれない。

 本書ではタリバーン幹部を名乗るタイェブ・アーガーが米国と交渉する場面がある。タイェブが本物だと確かめるため、米国は彼に案を示す。タリバーンとは関係ないソマリア内戦について、タリバーンのボスであるムッラー・ムハンマド・オマルが声明を出してくれ、と。

 意味不明な声明は、秘密裏に交渉が進みつつあるきざしなのかも。

【整備】

 前から気になっていた事がある。

 航空自衛隊の機体は米国製が多い。次の戦闘機の選定ではユーロファーターなど欧州製も候補に挙がるが、たいてい米国製に決まる。その理由の一つとして、工具などの規格を統一した方がいい、みたいな話がある。メートル法とヤード・ポンド法とかの違い? いずれにせよ航空自衛隊の整備能力は極めて優れていて、F-15の稼働率は9割を超えで米空軍以上だと聞いた。いや真偽は不明だが。

 だが途上国の空軍は往々にして様々な国の機体が混在している。例えばイラク空軍はロシアのSu-25と米のF-16、サウジアラビア空軍は米のF-15と欧州のタイフーンを使っている。それでちゃんと整備できるのか? その謎が解けた。

 パキスタン空軍でF-16の整備をしているのは、「契約職員」なのだ。派遣元は米空軍かロッキード・マーチン社か、はたまた民間軍事会社かは不明だが、いずれにせよ外注なのだった。マッコイ爺さんかよ。そういやスホイ社は運用も含めたパッケージ・サービスを提供しているとか。

【コーラン焼却事件】

 気になっていった事件の真相がわかるのも、こういう本の楽しみの一つ。

 2012年2月、ISAFのバグラム空軍基地でコーランが燃やされる事件があった(→AFP)。

 これ実際の場所は空軍基地じゃなく、その向かいにあるバルワーン拘留施設。入ってたのはタリバーンの捕虜。「ブラック・フラッグス」や「テロリストの誕生」の刑務所同様、彼らは拘留施設を「臨時司令部」にした。連絡手段は施設内の図書館の蔵書。そこで米軍はヤバい本を焼き捨てることにした。

 ところが米軍にアラビア語やパシュトー語が分かる者がおらず、コーランが紛れ込んでしまった。火を点けてから現地人の職員がコーランに気づき騒ぎだし…って顛末。

 改めて考えれば、現地の言葉も分からん者に治安を維持させようってのが無茶だと思うんだが。

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2021年5月28日 (金)

スティーブ・コール「シークレット・ウォーズ アメリカ、アフガニスタン、パキスタン三つ巴の諜報戦争 上・下」白水社 笠井亮平訳 1

本書は『アフガン諜報戦争』においてジャーナリスティックな手法で語られた通史の続巻であり、前著が終わったところ、すなわち2001年9月10日から物語が始まる。
  ――はじめに

【どんな本?】

 パンジシールの獅子と呼ばれ、アフガニスタンの希望となったアフメド・シャー・マスードは2001年9月9日に暗殺された。その2日後、アメリカ同時多発テロ事件で世界は激震する。首謀者ビン・ラディン&アル・カーイダはアフガニスタンに潜伏しており、タリバーンの庇護下にあると目される。

 復讐を望む合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタンへの派兵を決めるが、タリバーンはパキスタン軍およびISI(パキスタン三軍統合情報局)の強い影響下にあった。

 軍事的な解決へと突き進むアメリカ、タリバーン及びその根城である連邦直轄部族地域の対応に苦慮するパキスタン、弱い権力地盤に悩みつつも独立したアフガニスタンを目指すアフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ。

 今なお混迷を続けるアフガニスタンの現状は、いかにしてもたらされたのか。ワシントン・ポスト編集局長などを務めた著者による、重量級のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は DIRECTORATE S, by Steve Coll, 2018。日本語版は2019年12月10日発行。単行本ハードカバー上下巻で縦一段組み本文約455頁+451頁=約906頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント46字×20行×(455頁+451頁)=833,520字、400字詰め原稿用紙で約2,084枚。文庫ならたっぷり四巻分の巨大容量。

 文章はこなれているし、専門用語はその場で説明がある。とはいえ、モノを見りゃわかるが、重量級の本だ。相応の覚悟をしよう。内容もキチンと読めば頭に入ってくるが、なにせ登場人物、それもアメリカ人が異様に多い。幸い冒頭に主要登場人物があるので、栞を挟んでおこう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

クリックで詳細表示
  •  上巻
  • 地図一覧/主要登場人物/主要略語一覧
  • はじめに
  • 第1部 手探りの開戦 2001年9月-12月
    • 第1章 「ハーリドに事情ができた」
    • 第2章 審判の日
    • 第3章 かくのごとき友人たち
    • 第4章 リスクマネジメント
    • 第5章 破滅的な成功
  • 第2部 遠のく平和 2002-2006年
    • 第6章 ささやかな変化
    • 第7章 タリバーンのカルザイ支持
    • 第8章 謎
    • 第9章 「あの人のやり方は自分たちとは違っていた」
    • 第10章 ミスター・ビッグ
    • 第11章 大使対決
    • 第12章 海の中に穴を掘る
    • 第13章 過激派
  • 第3部 誠意 2006-2009年
    • 第14章 自爆の謎を解明せよ
    • 第15章 プラン・アフガニスタン
    • 第16章 暗殺と闇の国家
    • 第17章 ハードデータ
    • 第18章 愛の鞭
    • 第19章 テロと闇の国家
  • 原注
  •  下巻
  • 地図一覧/主要登場人物/主要略語一覧
  • 第3部 誠意 2006-2009年
    • 第20章 新たなボス
    • 第21章 カルザイの離反
    • 第22章 国民にチャンスを与える戦争
  • 第4部 幻想の消滅 2010-2014年
    • 第23章 ひとりCIA
    • 第24章 紛争解決班
    • 第25章 キヤニ2.0
    • 第26章 人命と負傷者
    • 第27章 キヤニ3.0
    • 第28章 人質
    • 第29章 ドラゴンブレス弾
    • 第30章 殉教者記念日
    • 第31章 戦闘と交渉
    • 第32章 アフガン・ハンド
    • 第33章 殺人捜査課
    • 第34章 自傷
    • 第35章 クーデター
  • エピローグ 被害者影響報告書
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 1939年の平沼騏一郎首相曰く「欧州情勢は複雑怪奇」。欧州どころか、そもそも軍事・外交というのは、どこであろうとも複雑怪奇なものらしい。

 本書の冒頭は2001年晩夏。登場するのはアムルッラー・サーレハ、アフガニスタンでタリバーンに対抗するパンジシールの獅子ことアフマド・シャー・マスードの下で、CIAとの連絡役を務める人物だ。マスードがCIAを窓口として米国とツルんでいたのは前著にも書いてある。

 と同時に、イランやロシアとも繋がっていたのには驚いた。

米国から確固とした支援が得られないなかで、マスードは武器や資金、医療物資の供給をイランやインド、ロシアに頼っていた。なかでもイラン(略)の革命防衛隊と情報工作員がアフガニスタン北部でマスードのゲリラ軍と行動をともにしていた。
  ――第1章 「ハーリドに事情ができた」

 物資を得るどころか、革命防衛隊まで出張っているとは。金欠のマスードには、米とイランの関係なんかどうでもいいんだろう。そんな風に、一見は複雑怪奇なようでも、各人物の立場で見ていくと、奇妙に見える判断や行動が、相応の一貫性や合理性に基づいているのが見えてくるのも、この手の本の面白いところ。

 そういう点では、当時のパキスタン大統領パルヴェームズ・ムシャッラフの姿勢も、実は一貫している。ズルズルとタリバーンと付き合いつつ米国から支援を引き出そうとするセコい奴のように思えるが、彼の最も大きな関心は、全く違う所にある。

ジョージ・W・ブッシュ「わたしと交わした会話のほとんどで、ムシャッラフはインドの悪行を非難していたよ」
  ――第3章 かくのごとき友人たち

 インドとの確執だ。日本の極右が中国や韓国への敵視で世界情勢を判断するように、ムシャッラフの外交はインドとの関係が座標軸である。インドの敵は友、インドの味方は敵。パキスタンの政治家すべてではないにせよ、そういう勢力が大きい。そのパキスタンで大きな影響力を持つ軍は、タリバーンをこう見ている。

「われわれの意図を代行してくれる主体が必要であり、テロ支援国家と糾弾されることを避けつつ、彼らを良好な状態になるよう管理していく」
  ――第12章 海の中に穴を掘る

 「われわれの意図」とは、アフガニスタンでのインドの影響力を削ぐこと。イスラム原理主義のタリバーンは、ヒンディーのインドと相性が悪い。つまりインドの敵=パキスタンの友だ。なにせトップが…

タリバーン創設者ムッラー・ムハンマド・オマル「自ら犠牲となる準備はできており、非ムスリムの友人になろうとは思わない。非ムスリムはわが信仰と教えのすべてに敵対しているからである」
  ――第4章 リスクマネジメント

 と、徹底したイスラム原理主義者だし。いやイスラムったってパシュトゥーン風味にアレンジしたシロモノなんだけど。

 それまでアメリカは直接手を下さず、マスードなどへの支援に留めていた。陸軍特殊部隊が活躍する「ホース・ソルジャー」は面白いぞ。またパキスタン、特にISI(パキスタン三軍統合情報局)との関係は前著が詳しい。

戦闘は現地の人びとにやらせて、CIAはそのために必要な資金と技術で支援するという手法を好んだ。
  ――第2章 審判の日

 そんな状況で9.11が起きる。当時はビン・ラディン&アル・カーイダはタリバーンに匿われ、パキスタンとの国境に近いアフガニスタン東部の山岳地帯に隠れ潜んでいると見られていた。そこでアメリカは渓谷地帯への攻撃、アナコンダ作戦(→英語版Wikipedia)を敢行する。ところが…

パキスタン大統領パルヴェームズ・ムシャッラフ「(トミー・)フランクス(米陸軍)大将、アメリカは何をしているかおわかりですか? あの連中(アル・カーイダ)を追い出そうとしているようだが、彼らが通っていける渓谷は150もあるのですぞ。それがわが国に押し寄せてきている」
  ――第5章 破滅的な成功

 肝心のビン・ラディンばかりでなく、アル・カーイダの主力もパキスタンへと逃げ出してしまう。これに懲りるどころか、ブッシュJr政権はアフガニスタンへの更なる深入りを決める。そうやって荒らしまわるのはいいが、その後の国家再建は、というと…

2002年2月、ホワイトハウスの行政管理予算局(OMB)がその年の10月から始まる会計年度のアフガン支援関連予算として計上したのは、わずか1憶5100万ドルでしかなかった。(略)2001年にブッシュ政権はアフガニスタン戦争のために45億ドルを投じた
  ――第6章 ささやかな変化

 当時のブッシュ政権はイラクに集中していて、アフガニスタンは片手間だったのだ。だもんで、再建は「国際協力」の美名のもと、他の国にお任せ。いい気なモンだ。日本は、そういう戦争に巻き込まれたのだ。

 先のムシャッラフの言葉も、CIAが確認している。ところが現場の将兵は、タリバーンとの戦闘にはまり込んでゆく。

アフガニスタンには多くのアル・カーイダ兵は残っていない――2002年以降、CIAと特殊部隊はそういう考えに至った。アル・カーイダはパキスタンに移動していたのだった。そこでアメリカの部隊は、「そこにいたから」というだけの理由でタリバーンにたいする攻撃を開始した
  ――第7章 タリバーンのカルザイ支持

 いや将兵も、最初は節度を保って接するのだ。でも…

「(米兵はアフガニスタン住民に)最初は友好的な姿勢で接触を試みていくのですよ。でも自分たちに犠牲者が何人か出るや否や、態度を豹変させるのです」
  ――第11章 大使対決

 戦友がやられると、頭に血が上る。まあ人としちゃ当たり前の反応だよね。しかも、現地の感情は最初から歓迎ムードとはほど遠い。CIAも現地で協力者を得ようとするのだが…

(ワジリスタンでは)数週間に一度は「アメリカのスパイ」と胸に書かれた紙が貼られた死体が発見された。犠牲者の大半はCIAと何のかかわりもない者だったが、ケース・オフィサーがエージェントを失っていったのは確かだった。現地では、よそ者に対してきわめて敵対的な雰囲気が漂っていた。
  ――第12章 海の中に穴を掘る

 なお、ワジリスタン(→Wikipedia)はパキスタン北西部の連邦直轄部族地域(FATA,→Wikipedia)の一部でアフガニスタンと接している。パキスタン政府の統治が及ばずタリバーンと同じパシュトゥーン人が多いFATAの中でも特に厄介な所で、アル・カーイダやタリバーンが隠れ潜むには格好の地域。で、よそ者は出て行け、そういう雰囲気なのだ。不正確な情報しか手に入らないため、巻き添えも多く…

2008年全体では、CIAが行ったすべての無人機攻撃の1/3で少なくとも子どもが一人殺害されたという。
  ――第19章 テロと闇の国家

 なんとか捕まえた容疑者への尋問も、素人が担当する場合が多く、拷問でむりやり吐かせる、どころかやりすぎて殺しちゃったり。

2001年以降に尋問業務を担当したCIA職員のおよそ85%が契約職員で占められていた。「ザ・ファーム」の通称で知られるCIAの研修アカデミーでは、尋問のスキルについて教えられることはなかった。
  ――第9章 「あの人のやり方は自分たちとは違っていた」

 なお「陸軍尋問官」によると、アル・カーイダは捕まった際に吐くべきシナリオを用意していたそうな。帝国陸軍より、よっぽど賢い。つか、そのシナリオと照らし合わせれば、本物かどうか判断できたんじゃね?

 そんな泥沼の戦いに巻き込まれたNATOなんだが…

国際治安支援部隊(ISAF)はNATOが展開するものであり、アフガニスタンでテロリスト掃討作戦を行うアメリカのタスクフォースとはまったく別組織だった。ISAFの展開地域は主にカブールとアフガニスタン北部の都市部に限られていた。
  ――第12章 海の中に穴を掘る

2007年にISAF司令部配属となったある陸軍少将は、「NATO部隊の宿舎生活の典型例」を目の当たりにし、「多くの点で驚かされた」という。士官の就業時間は午前9時から午後2時までだった。夜には司令部の半数が酔っぱらっていた。
  ――第17章 ハードデータ

 指揮系統も米軍とは違っていて、バラバラに動いていたのだ。ちなみにアフガニスタンの地理をおさらいしておくと、パキスタン国境に近いカンダハールなどの南部はパシュトゥーン人が多く、タリバーンの根城になっている。首都カブールから北は北部同盟などカルザイ政権に好意的…とはいえ、いつ仲たがいしてもおかしくない状況。

 そんな綱渡りを続けるアフガニスタン大統領ハーミド・カルザイは、汚職が蔓延した地域の勢力を、なんとか味方につけようとするのだが、スポンサーのアメリカはいい顔をしない。

アフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ「聞きたいのは、悪者を自分たちの側につけておきたいか、それともタリバーンの側に追いやりたいか、ということです」
  ――第15章 プラン・アフガニスタン

 イラクでバース党を一掃したように、アフガニスタンでも強引かつ性急な民主化を進めようとする。急ぐんならヒト・カネ・モノを出せと言いたいんだが、先に引用したようにブッシュ政権は戦争には熱心でも復興には不熱心で、「そりゃ国際協力で」とか調子のいいことを言ってる。そうこうしてるうちに、事態を余計にこじらせる事件が起きる。2008年7月7日のカブールのインド大使館への自爆テロ(→AFP)だ。

このテロは、いわばパキスタン軍がインド軍に対して起こしたゲリラ攻撃とでもいうべきものだった
  ――第18章 愛の鞭

 犯人はカシミールの過激派組織LeT(→Wikipedia)。そう、インドとパキスタンで領有権争いが続くカシミールだ。そしてISIはLeTを制御している…つもりだった。

 なお、同年11月26日からのムンバイ同時多発テロ(→Wikipedia)も、LeTのしわざ。日本の報道じゃテロって扱いだったが、実質的にはパキスタン軍によるインドへの攻撃、つまりほとんど戦争だったのだ。マジかい。つかインドとパキスタンの仲って、それほどまでにこじれてるんだなあ。

 このあたりから増えた自爆テロを調べる「第14章 自爆の謎を解明せよ」は、情報の分析が好きな人には興味深いところ。対ソ連戦じゃ自爆テロはなかった。また同じ自爆テロでも、イラクは市場など人が集まる所を狙った無差別テロだ。対してアフガニスタンは米軍やNATOの車列など軍を狙い、成功率が低い。そこを掘り見えてきた実態は…

アフガニスタンでリクルートされた自爆犯のうち、多くが参加を強要され、状況を把握できておらず、文字の読み書きもできず、年若く、あるいは障害を負った者だと推定された
  ――第14章 自爆の謎を解明せよ

 タリバーンが自爆犯を洗脳する手口は、伝説のアサシン教団(→Wikipedia)そのもので、実に腹立たしい。しかも自爆犯は華族や親戚から見捨てられ、いわばタリバーンに売られた子どもたちで、ほんとやるせない。

 ここにきて、やっとアフガニスタンの真の敵が見えてくる。

アフガニスタン大統領ハーミド・カルザイ「問題はISI(パキスタン三軍統合情報局)です」「国を動かしているのは彼らですから」
  ――第18章 愛の鞭

「ある意味、われわれ(米国)が戦っていた相手は、実はISIだったということだと思います」
  ――第19章 テロと闇の国家

 これ書いてて気が付くのは、アメリカとアフガニスタンは大統領の存在感が強いが、パキスタン首相アースィフ・アリー・ザルダーリーはめっきり影が薄いこと。いや前首相のムシャッラフは濃いキャラだったが、彼は陸軍参謀長も兼任してた。つまり、パキスタンの実質的トップは陸軍参謀長なのだ。

 そのアメリカのトップは、退任間近の今さらになって、根本的な問題点を指摘する。

(ジョージ・W・)ブッシュは根本的な問題をいま一度提起してきた。戦略レビューではアフガニスタン安定のためにアメリカがヒトとカネをさらに投じるべきとしているが、アル・カーイダがいるのはパキスタンだし、タリバーンの指導部だってそうではないか、と。
  ――第19章 テロと闇の国家

 …んな事もわからずにドンパチ始めたんかい!と突っ込みたくなるが、これが現実なんだからやるせない。「CIA秘録」に曰く、CIAを設立した「ハリー・トルーマンが欲しがったのは、実は新聞だった」そうで、つまりCIAはもともと情報収集・分析のための組織だったんだが、次第に重点は工作に傾いていく。日本や中南米での成功で味を占めたんだろうか。

 などととりとめのないまま、次の記事へ続く。

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2021年4月30日 (金)

アントニー・ビーヴァー&リューバ・ヴィノグラードヴァ編「赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45」白水社 川上洸訳

本書はグロースマンの戦時中の取材ノートと執筆記事にもとづいて編集されたが、(略)ほかに令嬢と義理の子息の所蔵する書簡の一部もくわえた。
  ――編者まえがき

【どんな本?】

 ヴァシーリイ・グロースマン(→Wikipedia)は1905年にウクライナで生まれたユダヤ系の作家、1964年没。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に伴い、赤軍の公式機関紙「クラースナヤ・ズヴェズダー」の記者として前線を取材し、序盤の赤軍壊滅からスターリングラートの激戦・クールスクの大戦車戦・「死の収容所」解放そしてベルリン攻略まで、戦う将兵とそこに住む人々を記録に残す。

 スターリングラート戦を中心とした代表作「人生と運命」は当局から発禁を食らう。戦時中の記事はスターリン礼賛に不熱心であり、またユダヤ系のグロースマンが他国のユダヤ人と連携を図った点が、当局のお気に召さなかったようだ。しかし友人に預けた原稿のコピーがスイスに流出し、世界各国で出版される。なお祖国での出版は共産主義崩壊後となる。

 人類史上最大の戦争となった独ソ戦において、熱心に前線での取材を続け、戦う将兵たちから絶大な人気を得たグロースマンが遺した記事とメモを中心に、編者が背景事情の説明を加え、赤軍の壊滅的な敗走からスターリングラートの死闘そしてベルリン陥落まで、戦場の生々しい様子をソ連側の視点から伝える、貴重な資料である。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Writer at War : with the Red Army 1941-1945, by Antony Beevor and Luba Vimogradova, 2005。日本語版は2007年6月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約500頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント45字×20行×500頁=約450,000字、400字詰め原稿用紙で約1,125枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 グロースマンの文章は拍子抜けするほど読みやすい。ロシア文学は文がやたら長くて哲学的という印象があるが、グロースマンの記事は正反対だ。文は短くて無駄がなく、描写は具体的。ハードボイルド小説でも、これほどキレのいい文章は滅多にない。理想的な記者の文章だ。ただし取材メモの場合は、背景事情をそぎ落としており、また行数あたりの情報量は濃いので、解説を読まないと真意を見逃しかねない。

 内容もわかりやすい。当然ながら地獄の独ソ戦の現場報告なので、相応のグロ耐性が必要。特に強制収容所を描く「第24章 トレブリーンカ」には覚悟しよう。

【構成は?】

 基本的に時系列順に進む。各章はほぼ独立しているので、気になった所から拾い読みしてもいい。

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  • 凡例/訳語・用語解説
  • 編者まえがき
  • 第1部 ドイツ軍侵攻の衝撃 1941年
  • 第1章 砲火の洗礼 8月
  • 第2章 悲惨な退却 8~9月
  • 第3章 ブリャーンスク方面軍で 9月
  • 第4章 第50軍とともに 9月
  • 第5章 ふたたびウクライナへ 9月
  • 第6章 オリョール失陥 10月
  • 第7章 モスクワ前面へ撤退 10月
  • 第2部 スターリングラートの年 1942年
  • 第8章 南西方面軍で 1月
  • 第9章 南方での航空戦 1月
  • 第10章 黒師団とともにドネーツ河岸で 1~2月
  • 第11章 ハーシン戦車旅団とともに 2月
  • 第12章 「戦争の非情な真実」 3~7月
  • 第13章 スターリングラートへの道 8月
  • 第14章 9月の戦闘
  • 第15章 スターリングラート・アカデミー 秋
  • 第16章 10月の戦闘
  • 第17章 形勢逆転 11月
  • 第3部 失地回復 1943年
  • 第18章 攻防戦の後 1月
  • 第19章 祖国の領土を奪回 早春
  • 第20章 クールスク会戦 7月
  • 第4部 ドニェープルからヴィースワへ 1944年
  • 第21章 修羅の港ベルジーチェフ 1月
  • 第22章 ウクライナ横断オデッサへ 3~4月
  • 第23章 バグラチオーン作戦 6~7月
  • 第24章 トレブリーンカ 7月
  • 第5部 ナチの廃墟のさなかで 1945年
  • 第25章 ワルシャワとウッチ 1月
  • 第26章 ファシスト野獣の巣窟へ 1月
  • 第17章 ベルリン攻略戦 4~5月
  • 編者あとがき 勝利の虚偽
  • 謝辞
  • 訳者あとがき
  • 主要地名表記一覧/引用出典一覧/参照文献

【感想は?】

 先にも書いたが、地獄の独ソ戦の現場報告だ。充分に覚悟しよう。

 グロースマンの文章は、抜群にキレがいい。これはスターリングラート奪取後、ドイツ占領下にあった村を取材した記事だ。

村にオンドリは一羽もいない。農婦らが殺してしまった。ルーマニア兵がオンドリの鳴き声で隠しておいたメンドリを見つけ出すから。
  ――第18章 攻防戦の後

 文が短いため、文章のキレが良くなる。内容も濃い。「農婦ら」で、村に男がいない由も伝える。男は兵役に出たのだ。「ル―マニア兵が…見つけだす」で、占領軍の容赦ない略奪もわかる。

 もっとも、略奪はお互いさまで。これはポーランドに入ってからの赤軍兵の様子を描いたもの。

兵士らは官給品など食べていない。ポーク、シチメンチョウ、チキン。歩兵部隊には、これまでついぞ見受けられなかったような血色のいい肥った顔が見られるようになった。
  ――第25章 ワルシャワとウッチ

 どうやって肉を手に入れたのか。もちろん、略奪だ。では、余った官給品はどこに消えたのか。それを考えると、赤軍の上級将校が兵の略奪を熱心に諫めない理由も見えてくる。そういう軍の暗部も、グロースマンは否応なく目にする羽目になった。

ペペジェとは(略)若い看護婦や司令部勤務の女性兵士、たとえば通信兵や事務員などで、(略)高級将校のメカケとなることを強制された女性たちである。
  ――第13章 スターリングラートへの道

 「戦争は女の顔をしていない」が描いたように、当時の赤軍は多くの女を用いた。そして、当然ながら、そういう問題も起きたのだ。

 その多くは狙撃兵だった、とあるが、どうも当時の赤軍の「狙撃兵」は歩兵を表していたらしい。もちろん、私たちが考える狙撃兵もいたが、こちらは「狙撃手」と呼ばれる。その狙撃手曰く…

装薬の品質がまったく不安定で、(狙撃手が)同じ目標をねらって二発発射しても、同じ場所に着弾したためしがない
  ――第15章 スターリングラート・アカデミー

 既に戦争は工業力の時代。特に精密を求められる狙撃では、品質管理も重要なのだ。装薬の量と質が変われば弾丸の飛び方も変わるし。ちなみに当時のソ連じゃ狙撃手は英雄で、戦果は水増しして報道された様子。

 なお、このメモはスターリングラートでの取材。激戦のスターリングラートの様子を物語る一節が、これ。

師団司令部は敵から250メートルの距離にある。
  ――第16章 10月の戦闘

 だもんで、指揮下の部隊に連絡するには無線は要らず怒鳴ればよかった、なって話も。砲声・銃声渦巻く中だし敵に聴こえたらマズいから、まあ法螺だろうけど。

 そんな激戦を戦う将兵も、最初から気合が入ってたワケじゃない。

あごヒゲをのばしほうだいの赤軍兵士に将校がたずねる。「なぜ剃らない?」
兵士「かみそりがありません」
将校「よろしい、そのまま百姓に変装して敵の背後の偵察に行け」
兵士「今日剃ります。隊長、まちがいなく剃ります!」
  ――第2章 悲惨な退却

 もっとも、兵も常に上官に従順とはいかない。

兵カザコーフは分隊長に言った。「おれの銃にはあんたのための弾がとっくに装填ずみだぞ」
  ――第8章 南西方面軍で

 やっぱり居るんだね、後ろから気に入らない上官を撃つ兵って。などと軋轢はあるものの、砲火と血肉にまみれて、将兵は少しづつ戦場に馴染んでゆく。

やがてドイツ軍縦隊の攻撃で戦果をあげた飛行隊が高度を下げて着陸。先頭機のラジエータにこびりつく人肉。
  ――第1章 砲火の洗礼

 当時の赤軍の空軍は評判が悪い。対して陸軍は戦車を中心として今でも恐れられている。そんな戦車も、もちろん無敵とはいかず…

戦闘中、重戦車の操縦手が砲弾で頭を吹き飛ばされた。死んだ操縦手がアクセルを踏み続けていたので、戦車はそのまま森に突っ込み、木々をなぎたおしながらわれわれの村までやってきて停止した。内部には首のない操縦手がすわっていた。
  ――第5章 ふたたびウクライナへ

 第四次中東戦争でのシナイ半島のイスラエル・エジプト戦を描いた「砂漠の戦車戦」でも見た気がする。こっちは小隊指揮車がやられたので、後ろに指揮下の戦車がゾロゾロとついてきた、とか。そのイスラエル軍戦車部隊を苦しめたのはエジプト軍の歩兵が持つ対戦車ミサイル。そのルーツは独ソ戦にあった。

人家の多い地域での追撃戦でいちばん危険なのは、パンツァーファウスト(対戦車ロケット弾、→Wikipedia)を持った歩兵だった。
  ――第25章 ワルシャワとウッチ

 パンツァーファウストの有効性は独軍も学んだようで、「ベルリン陥落」では自転車にパンツァーファウストをくくりつけた少年兵がT34に立ち向かっている。

 なお、独ソ戦とイスラエル軍の共通点は他にも多い。例えばイスラエル空軍は第三次中東戦争(→「第三次中東戦争全史」)やバビロン作戦(→「イラク原子炉攻撃」)でもメシ時を狙って空襲をかけてるんだが、どうもメシ時が狙い目なのは戦場の常らしい。

歩兵部隊からドイツ兵はラッパの合図で食事に行くとの報告があった。彼(砲兵タラーソフ)は煙で炊事場の位置を確認したうえで、射撃諸元を設定し、砲に装填し、準備が終わったら報告せよと命じた。〔ラッパが聞こえたのち〕集中射を浴びせ、ドイツ兵は悲鳴をあげた。
  ――第11章 ハーシン戦車旅団とともに

 もちろん、指揮官が戦場で学ぶように、歩兵も戦場に適応してゆく。

「靴にもえらく苦労したね。歩くと血まめができちまう。戦死者からまともなやつを頂戴したが、サイズが小さすぎた」
  ――第14章 9月の戦闘

 「戦死者から頂戴」って…まあ、そういうコトだろう。なお靴の大切さはチェ・ゲバラが「ゲリラ戦争」でしつこく強調してます。そりゃ歩兵は足が命だし。

 靴ばかりでなく、何もかも足りない戦場では、将兵も現地で手に入るモノを工夫する知恵を身に着ける。

鉄帽でつくったストーブ。煙突は銅製の薬筒。燃料はブリャーン〔ステップに生える丈の高い草の総称〕。行軍中は一人がブリャーンの束を、二人目が木くずを、三人目が薬筒を、四人目がストーブを運ぶ。
  ――第17章 形勢逆転

 もちろん、変化は赤軍の組織までにも及び…

攻撃戦がはじまったいまでは、中堅将校の大多数は兵や下士官から抜擢された連中だ。
  ――第19章 祖国の領土を奪回

 もっとも、緒戦の壊滅状態から考えるに、事態はもっと悲惨なのかも。例えば、前線で指揮する少尉や中尉が戦死したんで、その後を軍曹や曹長が引き継いだ。で、次の指揮官が来るのを待つ余裕はないんで、今の指揮官つまり軍曹や曹長を昇進させ、引き続き部隊の指揮を任せた、みたいな。

 とまれ、戦場のドサクサとはいえ、兵や下士官を将校に任命する柔軟性は赤軍にもあったんだね。同様に壊滅状態を経験した帝国陸軍はどうなんだろ? あましそういう話は聞かないけど。知ってたら教えてください。

 それはさておき、情報統制の厳しいソ連じゃ、グロースマンの記事もすべて活字になるとは限らないし、編集者がアチコチに手を入れたりもするし、グロースマンがそれを愚痴る場面もチラホラある。また、最初から方針が決まってる場合もある。

編集長「なぜオリョールの英雄的防衛の記事を書かなかった?」
グロースマン「オリョールは防衛戦などやらなかったので」
  ――第7章 モスクワ前面へ撤退

 こういった所は、現代日本のマスコミも同じだね。自由主義社会の民間企業が、共産主義社会の御用新聞と同じ体質ってのは、どういうことだ? 

 そんなグロースマンは、進撃する赤軍を追い西へと進むうちに、ユダヤ人虐殺の影に出会う。

キーエフからやってきた人びとの話では、ドイツ当局は1941年秋にキーエフで殺害したユダヤ人5万人を埋めた広大な集団墓のまわりに軍隊を配置し、大あわてで遺体を掘り出し、トラックに積み込んで西方へ運んでいる。遺体の一部は現地で焼却しようとしている。
  ――第21章 修羅の港ベルジーチェフ

 特にポーランドで絶滅収容所を取材した「第24章 トレブリーンカ」は、心臓の弱い人・想像力の豊かな人にはお勧めしかねる。人間がどこまで卑劣かつ冷酷になれるかの、おぞましい実例だ。

 ばかりでなく、バレそうになると隠そうとするナチスの卑劣さも腹立たしい。つまり、自分は非難される事をやってると、わかってたんだから。「それが正義だ」と命を懸けて主張する度胸はなかったのだ、この連中。対して、前線の将兵は命を懸けて戦っているのに。

 もっとも、そんな将兵も、戦う機械じゃない。人間らしい気晴らしだって、時には必要だ。

みんなドイツ製のアコーディオンをもっている。これは兵隊の楽器。がたがた揺れる荷車や車両に乗っていても演奏できるし、むしろそのほうが演奏しやすいから。
  ――第23章 バグラチオーン作戦

 やっぱり物語と音楽は必要なのだ、人間らしい心を保つためには。とまれ、誰もが戦場に順応できるとは限らず…

わが方の兵士の60%は戦争中にそもそも一発も射撃しなかった。
  ――第11章 ハーシン戦車旅団とともに

 この記述は「戦争における[人殺し]の心理学」とも近い。数字の多寡はあるが、自らの命が危険にさらされる前線の兵でも、意外と多くの者が人を殺せないらしい。例え憎い敵でも。なお、先の本だと、二次大戦の米兵の発砲率が15~20%とあるが、これは数字の取り方の違いなのかお国柄なのか。

 そのお国柄だと、こんな話も。

解放された[ロシア人]娘ガーリャが、さまざまな国籍の捕虜男性の女性にたいするお愛想の特徴を語り、こう言う。「フランス人はいろんな言い方を知っているのよ」
  ――第26章 ファシスト野獣の巣窟へ

 なんか、わかる気がするw イタリア人じゃないのは、枢軸側だからかな?

 他にも、ワルシャワ郊外に赤軍が達した1944年7月末に、ソ連のラジオ放送がポーランド人に蜂起を呼びかけた、なんて衝撃的な記述がサラリとあって、細かい所まで油断ができない恐ろしい本だった。ようこそ地獄の東部戦線へ。

【なぜ蜂起の呼びかけが衝撃的なのか】

 ドイツに占領されながらも、ポーランド国内軍と市民は密かにドイツへの抵抗を続け、また一斉蜂起の時をまっていた。そして1944年8月1日、地下に潜っていたポーランド国内軍は一斉に叛旗を翻す。自ら放棄した実績があれば、戦後も独立を勝ち取れるだろう、との望みを賭けて。占領下でもありロクな装備もないポーランド国内軍だが、拳銃と火炎瓶でドイツの戦車に立ち向かう。

 だが赤軍はワルシャワを目前にして立ち止まるばかりか、支援物資を空輸しようとする英米軍航空機の燃料補給まで拒んだ。戦後のポーランド占領政策の邪魔になりそうな骨のある者たちを、ナチスに始末させようとした。そういう思惑を、ラジオ放送が裏付ける。なお、最終的に蜂起は失敗し、ワルシャワは廃墟と化す。

 詳しくは「ワルシャワ蜂起1944」をどうぞ。つか今 Wikipedia を見たら、ラジオ放送の件もちゃんと書いてあった。ダメだね、ちゃんと複数の資料を照らし合わせないと。

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【今日の一曲】

Roads To Moscow Al Stewart

 世の中には独ソ戦の歌もあります。歌っているのはイギリスというかスコットランドのシンガー・ソングライター Al Stewart、Year of the Cat(→Youtube)で有名な人。この曲を収録したアルバム Past, Present And Future はファンの間でさえ評判はイマイチなんだけど、私は初めて聞いた時に一曲目の Old Admirals から一気に引き込まれました。重苦しくも哀愁を帯びた生ギターで始まりつつも、盛り上がる所じゃ大げさなコーラスが入るあたり、「ロシアってそういう印象なんだなあ」と思ったり。

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