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2021年9月19日 (日)

市川哲史「いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番」シンコーミュージックエンタテイメント

本書『いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番』は、2016年12月に上梓した拙著『どうしてプログレを好きになってしまったんだろう』の続編になる。
まず最初に断っておくが、本書は明らかに前作ほどは面白くない。
  ――Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事

メル・コリンズ「そもそも即興プレイヤーの俺に再現プレイなんて無理だから」
  ――§13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.

【どんな本?】

 雑誌「ロッキング・オン」などで活躍した音楽評論家の市川哲史による、プログレ憑き物落とし第二弾。

 プログレッシヴ=進歩的というレッテルとは裏腹に、ポップ・ミュージックの世界にありながら半世紀以上も前の方法論で今なお矍鑠として音楽を続ける有象無象の老人たちの、群雄割拠と集合離散そして栄枯盛衰の裏側を赤裸々に描くプログレ・ゴシップ・エンタテインメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年6月17日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約468頁。9ポイント38字×18行×468頁=約320,112字、400字詰め原稿用紙で約801枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 クセの強い文章なので、好き嫌いがハッキリ別れるだろう…というか、好きな人しか読まないと思う。内容もお察しのとおり、わかる人にはわかるけど分からない人にはハナモゲラな文が延々と続く。ったって、どうせ分かる人しか読まないから問題ないよね。つまり、そういう趣味の本です。

【構成は?】

 各記事は独立しているので気になった所だけを読めばいい。

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  • Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事
  • 第1章 Not So Young Person's Gude to 21st Century King Crimson(21世紀のキング・クリムゾンに馴染めない)旧世代への啓示
  • §1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008
  • §2 どうして手キング・クリムゾンは大楽団になってしまったんだろう
  • 第2章 All in All We're Just Another Brick in the Wall ぼくらはみんな生きていた
  • §3 どうしてゴードン・ハスケルは迷惑がられたのだろう
  • §4 荒野の三詩人 だれかリチャード・パーマー=ジェイムズを知らないか
  • §5 「鍵盤は気楽な稼業ときたもんだ」(或るTK談)
  • §6 どうしてピーター・バンクスは再評価されないのだろう
  • §7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年
  • §8 <マイク・ラザフォード>という名の勝ち馬
  • 第3章 From the Endless River 彼岸でプログレ
  • §9 ジョン・ウェットンがもったいない
  • §10 我が心のキース・エマーソン 1990年の追憶
  • §11 ビリー・シャーウッドの「どうしてプログレを好きになってしまったんだろう」
  • 第4章 Parallels of Wonderous Stories 遥かなる悟りの境地
  • §12 ウォーターズ&ギルモアの「俺だけのピンク・フロイド」
  • §13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.
  • 第5章 One of Release Days それゆけプログレタリアート
  • §14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records
  • §15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)
  • ボーナス・トラック
  • §16 ロキシー・ミュージックはプログレだった(かもしれない)
  • 初出一覧

【感想は?】

 いきなりの二番煎じ宣言w 書き出しがソレってどうよw いや正直でいいけど。

 それに続けて「もう、みんなこんな齢なんだぜ」と数字つきで見せつけるのは勘弁してほしい。当然、読んでる私たちも似たような齢ななわけで。しかもチラホラと見える「故人」の文字が切ない。こうやって見ると、1940年代後半生まれが主役だったんだなあ、70年代のプログレって。にしても50歳代で若手ってどうよ。衆議院議員かい。

 前回に続き表紙はピンク・フロイドだけど、紙面の半分以上がキング・クリムゾンなのは、著者の趣味なのか日本のプログレ者の好みなのか。やっぱりプログレのアイコンは宮殿のジャケットになっちゃうしなあ。フリップ翁は相変わらずの屁理屈&偏屈&我儘っぷりで、これはもはや至芸だろう。

 続いて多いのはピンク・フロイド。まあセールスと知名度じゃ順当なところか。後はイエス、ジェネシス、EL&P。そしてなぜかロキシー・ミュージック。まあブライアン・イーノやエディ・ジョブソンを表舞台に引っ張り上げた人だし、ブライアン・フェリーは。とか言ってるけど、どう考えても著者の趣味を無理やり押し込んだんだよね。

 レコードからCDそしてインターネットというメディアの変化・多様化は商売としてのプログレ(というよりポップ・ミュージック)にも多大な影響を与えているようで、ロバート・フリップがビジネスを語る「§1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008」やレコード会社の日本語版担当者の声が聴ける「§14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records」は、仙人ぶってるプログレ者にも現実を見せつける生々しい商売の話。

 なんなんだろうね、いわゆる「箱」が次々と出てくるプログレ界って。まあガキの頃から乏しい小遣いを西新宿の中古盤屋に貢いでた輩が、齢を重ねて相応の収入と資産を得たら、お布施も弾むってもんか。そんな老人の年金にたかるような商売がいつまでも続くわけが…と思ったが、「父親の影響で」みたいな若者もソレナリに居るからわからない。二世信者かよ。

 などのフロント陣ばかりでなく、エンジニアとしてのスティーヴン・ウィルソンなどにも焦点を当ててるのが、今回の特徴の一つ。いや焦点を当てるならポーキュパイン・ツリーでの活躍だろと思うんだが、これは読者の年齢層に合わせたんでしょう。

 にしても、90年代以降のイエスって、音創りが手慣れているというか「イエスの音ってこんな感じだよね」的な、バンドとしての方向性が完全に固まっちゃって金太郎飴みたいな印象があるんだけど、それはきっとビリー・シャーウッドのせいだろうなあ。

 などのビッグ・ネームが並ぶ中、「§7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年」はいささか切ない。タイトルでだいたい見当がつくように、あのエディ・ジョブソン様だ。とか書いてる今、MOROWで「デンジャー・マネー」がかかってる。日本の鍵盤雑誌編集部を襲撃した際の話は、いかにも彼らしい。

 やっぱり面倒くさい奴だった…と思ったが、プログレって演る側だけでなく聴く側も面倒くさい奴が多いよね。あ、はい、もちろん、私も含めて。

 とはいえ、同じ鍵盤弾きでもTKのお気楽さはどうよ。そんなにモテたのか。イーノといい、鍵盤弾きはモテるんだろうか。しかしなぜハウだけ「ハウ爺」w

 終盤の「§15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)」は思いっきり異色。なんとプログレ者の隠れた聖地にして著者曰く<プログレ道の駅>カケハシ・レコードの取材記。企業としてはなかなかにバランスのとれた組織で、充分な起業家精神(というか山っ気)を持ちつつ理性的に市場動向の計算もできる社長の田中大介氏と、溢れんばかりのプログレ愛を滾らせる若き社員たちの組み合わせ。長く続いて欲しいなあ。

 などの内容もいいが、やはり古舘伊知郎のプロレス中継ばりな文章スタイルがやたら楽しい。

 「デシプリン最終決戦」「悪のアーカイヴ・コンテンツ帝国」「周回遅れの青年実業家」「驚異の袋小路ロック」「狂気のひとり三人太鼓」とか、いったいどっから思いつくんだか。一晩じゅう寝ないで考えたんだろうか。

 いろいろあるが、屁理屈屋の多いプログレ界隈を書くには、こういうスタイルで毒消ししないと商売にならないのかも。いずれにせよ、「そういう人」のための本であって、万民に薦められる本ではないです。まあ普通の人は手に取ろうとも思わないだろうけど、それで正解です、はい。

 ちなみに冒頭でメル・コリンズを引用したのは私の趣味。だって元キャメルだし。石川さゆりさん、Never Let Go 歌ってほしいなあ。

【関連記事】

【今日の一曲】

Sandra - Maria Magdalena 1985 (HD version)

 ということで、RPJことリチャード・パーマー=ジェイムズの職人芸が堪能?できる Sandra の Maria Magdalena をどうぞ。ノってるシンガーとソレナリのベースに対し、お仕事感バリバリのドラマーと虚無感漂う鍵盤の対比が楽しいです。

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2021年8月18日 (水)

ベン・ルイス「最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の『傑作』に群がった欲望」上杉隼人訳 集英社インターナショナル

現代の美術界が抱える問題は、美術界が変わったということではなく、変わっていないということなのだ。
  ――おわりに

【どんな本?】

 2017年11月、クリスティーズの競売で絵画の落札価格の最高額が更新される。その額4憶5千万ドル。対象はレオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」(→Wikipedia)。

 この作品は幾つかの点で型破りだった。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは名高いわりに作品は少ない。高名なオールドマスターの作品が今世紀になって発掘される事は滅多にないし、出てきても専門家が真作と鑑定することも滅多にない。

 誰が、どうやって、どこから作品を発掘したのか。姿を現すまで、どんな運命を辿ったのか。発掘されてからオークションにかけられるまで、どんな者がどのように関わったのか。そして、なぜこんな高値が付いたのか。

 描いたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの活動、発掘した美術商、真贋判定に関わった専門家たち、そして売買に関わった人々やその動機などを通し、知られざる現代の美術界を描き出す、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Last Leonardo : The Secret Lives of the World's Most Expensive Painting, by Gen Lewis, 2019。日本語版は2020年10月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約431頁に加え訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×431頁=約349,110字、400字詰め原稿用紙で約873枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 文書はこなれている。内容も分かりやすいし、歴史や美術に馴染みのない人のために充分な説明もされている。レオナルド・ダ・ヴィンチとモナリザを知っていれば大丈夫。

【構成は?】

 内容的に各種はほぼ独立しているが、なるべく頭から読む方がいい。というのも、人物や固有名詞などは前の章を受けた形で出てくるため。

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  • 本書の構成について
  • 本書に登場する主な人物
  • 『サルバトール・ムンディ』の歴史
  • プロローグ レオナルドの伝説
  • 第1部
  • 1 ロンドンへのフライト
    勝負に出るひとりの男/レオナルド・ダ・ヴィンチによるものと思われるある絵
  • Secret Episode 1 クルミの木の節
  • 2 埋もれた宝
    ニューオーリンズの競売会社で売り出された一枚の絵/美術界の最下層にいた男、アレックス・パリッシュ
  • Secret Episode 2 紙、チョーク、ラピス
  • 3 感じる!
    レオナルド劇場の興行主マーティン・ケンプ/『美しき姫君』
  • Secret Episode 3 レオナルドの特徴的な描き方
  • 4 青の手がかり
    レオナルドの魔法/最大の疑問
  • 5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント
    Provenance 起源、出所、来歴、真贋、品質/作り上げられた「傑出した来歴」
  • Secret Episode 4 王の絵画
  • 第2部
  • 6 サルバトールのすり替え
    所蔵品目録で確認できる三枚の『サルバトール』/ジョン・ストーンが買い上げた『サルバトール』/エドワード・バスの第二の『サルバトール』/ジェームズ・ハミルトン卿の第三の『サルバトール』/「ヴェンツェスラウス・ホラーが原画をもとに制作」/『サルバトール・ムンディ』の公式来歴/ガナイの『サルバトール』/絵の裏に隠されたCとRの焼き印
  • 7 復活
    歴史上のどの作品よりも破損が激しい/ニューヨークで評判の修復家モデスティーニ夫妻/「自分はレオナルドの作品を相手にしている」/ダ・ヴィンチの手の痕跡 モデスティーニの修復作業/闇の世界に生きる修復家たち/鑑識眼の能力が限界まで求められる
  • Secret Episode 5 レオナルドの弟子たち リトル・レオナルド
  • 8 数多くの『サルバトール・ムンディ』
    イギリス王家の『サルバトール・ムンディ』/膨れ上がるロンドンの美術市場/『サルバトール』がいくつも……/プーシキン美術館の『サルバトール・ムンディ』/誰が責任を負うべきか?
  • 9 天上会議
    『サルバトール』完成/いざ、ナショナル・ギャラリーへ/「顔は損壊が激しく、誰が書いたのかもはや判断がつかない」/胃売り込みは密かに、だが積極的に行われてていた/レオナルドの絵とはっきり明記されない/「絵がどのように作り出されたか、遺憾ながら事情は知れない」
  • Secret Episode 6 エンターテイナーでエンジニア
  • 10 地上最大のショー
    2011年ナショナル・ギャラリー「ダ。ヴィンチ展」/『サルバトール』に対するさまざまな反応/二度目の大きな修復作業が開始される/「レオナルデスティーニ」新たなハイブリッド作品?
  • 11 おい、クックは手放したぞ
    1913年のクック家の目録/ジョン・チャールズ・ロビンソンの鑑識眼/新たな技術で『サルバトール』を探す/フランシス・クックとクック・コレクション/「レオナルドを思わせる、だが明らかに質の低い作品」/レオナルド作品の重要な鑑定家だったハーバート・クック/「レオナルド風のものを探り出すには緻密な観察が必要」/「考えられないような素人が絵を塗り直した」/買い上げたのはニューオーリンズの収集家?
  • 第3部
  • 12 オフショアの偶像
    幾らで売れる?/21世紀の美術市場/誰に売る? 誰に買ってもらえる?/ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフ/仲介者、イヴ・ブーヴィエの存在/リボロフレフとブーヴィエ/第四のプレイヤー、サザビーズ/ついに『サルバトール』と対面/信頼関係は崩れた/美術をめぐる史上最大の詐欺事件/サザビーズをめぐるもう一つの訴訟/勝者は誰?/リボの誤算/ブーヴィエ事件の余波/新たな競売へ
  • Secret Episode 7 レオナルド、安らかに
  • 13 19分間
    「競売番号9bレオナルド」/歴史的瞬間/落札者は?/ルーヴル・アブダブで公開される?
  • 14 ニューオーリンズに一軒の家がある
    いつどこで手に入れたのか、よく覚えていない/最低見積価格より25ドル低い1175ドルで落札/セントチャールズ・ギャラリーに売ったのは誰?/2005年当時の匿名所有者「トゥーキー」との会話/きわめてアメリカ的な収集家
  • 15 砂漠に立ちのぼる蜃気楼
    世界で最も豪華な美術館ルーヴル・アブダビ/ビン・サルマーン皇太子の暗い噂/政治的駆け引きに使われた?
  • 16 こわれやすい状態
    ポスト・トゥルースのレオナルド/芸術における悲劇の象徴『サルバトール・ムンディ』
  • おわりに
    絵の周辺を飛び交う詐欺や欺瞞を告発しようとした/美術品の値段はますます高騰する/世界は変化しているが、美術品は変わらない/『サルバトール・ムンディ』は誰もが見られるものでなければならない
  • 日本の読者の皆さんへ 『サルバトール・ムンディ』は今どこに?
  • 謝辞/訳者あとがき/図版クレジット

【感想は?】

 書名や副題からは、ゴシップ系の印象を受ける。なんたって、最高額を記録した絵画の取引きがテーマだし。

 確かにそれは間違いじゃない。実際、著者は『サルバトール・ムンディ』がどんな運命を辿ったのか、歴史家や探偵のごとく丹念に調べてゆく。その取材と調査の範囲はすさまじい。

 かつての所有者と目される王家の遺産目録や有名な美術商のカタログそして掘り出した美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュはもちろん、田舎の骨董市のような競売の伝票やインターネット上にある個人住宅の写真まで、世界中を飛び回り唖然とするほどの執念で情報を集めて検証をしてゆく。

 だが、ゴシップはあくまで客寄せパンダまたは狂言回しだ。著者の目論見は違う。『サルバトール・ムンディ』の取引きをサンプルとして、現代の美術界の姿を描き出すことだ。

 当然ながら、そこには美術品が異様な高額になっている事への危機感がある。大金には様々な利害やシガラミが絡む。その影響は、例えば学会にも及んでいる。

マーティン・ケンプ「未知の、あるいは比較的知られていない作品を巨匠たちの作品と特定するのは、歴史家としての評価を葬り去ることだ」
  ――3 感じる!

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見つけた」と専門家が言い出せば、世界中で大騒ぎになる。そして「間違いでした」となれば、盛大に叩かれる。だから、下手なことは言えないのだ。しかも、専門家同士の確執もある。

「偉い学者たちほど早く見せないとへそを曲げますからね」
  ――9 天上会議

 なんてメンツにこだわる人もいれば、「奴の説には反射的にケチをつける」みたいな学者同志の対立もあったり。だから、デカいヤマほどデビューは慎重にやらないといけない。

 そんな風に古色蒼然としているような美術界だが、最新技術もちゃんと取り入れている。『サルバトール・ムンディ』をデビューさせたのは、二人の美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュ。彼らの仕事は、要はせどり(→Wikipedia)だ。各地の競売やネットを漁り、掘り出し物を探して転売する。

写真の技術が現代の美術史を作り上げたと言っても過言ではない。
  ――5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント

 サイモンとパリッシュの目がどれほど優れていたかは、『サルバトール・ムンディ』の経歴を辿る過程で明らかとなる。なにせ…

19世紀から20世紀に時代が変わる中で、その時代を代表する著名な美術史家や美術商、収集家のほとんどが一堂に会し、全員が『サルバトール・ムンディ』を目にしていたのだ。だが誰もそれを買い入れることはなかった。
  ――11 おい、クックは手放したぞ

 と、現物を見た当時の一流の専門家が気づかなかった傑作を、二人の若い小物美術商が掘り出したのだから。そんな彼らを支えたモノの一つがインターネット。

世界最高額の絵はインターネットと電話で取引されたのだ。
  ――14 ニューオーリンズに一軒の家がある

 専門家が現物を見ても気づかなかったお宝を、彼らは写真で見出した。たいした眼力である。もちろん、写真やインターネットだけでなく、現物を手に入れてからは、赤外線リフレクトグラフィーや顕微鏡カメラなども駆使し、絵画のはらわたや骨格にあたる部分まで徹底的に暴き出してゆく。

 これら科学を手掛かりとしつつ、磨き上げた技術を振るう職人も欠かせない。本書では修復家ダイアン・モデスティーニが、小説のような物語を繰り広げる。

修復家にとって自分たちが加えた仕事を最高の形で示せるのは、それに気づかれないことだ。
  ――7 復活

 この言葉、「修復家」を様々な職業に置き換えても通用するんだよなあ。ネットワーク管理者とか鉛管工とか。あなた、幾つ挙げられます?

 さて、そんな美術品のスカウトとマネージャーに当たるのが美術商だとすれば、テレビや映画のプロデューサーに当たるのが美術館のキュレーター(学芸員)だろう。その職業名から受ける学者然とした印象とは異なり、ちょっとした興行手みたいな手腕も求められるのが意外。

今日のキュレーターにとって展覧会成功の鍵を握るのは物語だ。
  ――10 地上最大のショー

 結局、「いかに人を集めるか」なんだよね。とまれ、話題になるモノに集うのは、観客だけじゃない。人が集まれば、カネもあつまる。そこで美術品は投資の対象にもなる。

今日、美術は高級資産だ。現在、多くの投資ポートフォリオ(投資家の資産構成)において、資産の10%はアートに投資されていると言われている。
  ――12 オフショアの偶像

 こういった美術品売買の実態を描く第3部は、やたらと金額を示す数字が出てきて生々しいと同時に、そのとんでもない額にファンタジイっぽい非現実感が漂ったり。「オフ・ザ・マップ」にも出てきたジュネーヴィ・フリーポートとかは、格差社会を恨めしく思ったり。お金持ちってのは、お金を隠す手腕にも長けてるんです。

 そしてもちろん、隠れるのはお金だけじゃなく、美術品も姿を消してしまうのが切ないところ。

最後にその存在を確認された2018年の秋を最後に、『サルバトール・ムンディ』はどこにあるかわからなくなってしまっている。
  ――16 こわれやすい状態

 などと悲しい話になりそうな所を、修復家ダイアン・モデスティーニが『サルバトール・ムンディ』を気遣う言葉が一層ドラマを盛り上げてくれる。

 衝撃のデビューを果たしつつも姿を消した『サルバトール・ムンディ』を軸に、有象無象が徘徊する美術界の実態を、鬼気迫る執念の取材と調査で暴き出し、そこで生きる美術商・修復家・歴史家・美術館そして様々な代理人などを生々しく描いた重量級のドキュメンタリー。

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2021年7月11日 (日)

サミュエル・ウーリー「操作される現実 VR・合成音声・ディープフェイクが生む虚構のプロパガンダ」白揚社 小林啓倫訳

本書で私は(略)デジタルツールを使った最近の政治的な世論操作の例を紹介し、(略)これから何が起きるかを推測してみたい。また、どうすれば私たちが現状に対処し、デジタル空間を再生できるかについても概観する。
  ――1 曖昧な真実

「ディープフェイク動画に登場する人物のまばたきの頻度は、実際の人間に比べてかなり低いことがわかりました」
  ――5 フェイクビデオ まだディープではない

私たちはマシンを操作できるようになるかもしれないし、マシンが人間を操作するようになるかもしれない。
  ――7 テクノロジーの人間らしさを保つ

【どんな本?】

 2016年の米大統領選では、それまでと違う新しい戦術が大きく使われた。フェイスブックなどのSNSによる選挙活動だ。各陣営が自分たちの候補者を売り込むだけならともかく、これにロシアが組織的に乱入している事が明らかになった。俗にロシアゲートとも呼ばれる事件である(→Wikipedia)。

 フェイスブックだけではない。ツイッターでは、2018年7月に当時現職のドナルド・トランプ大統領のフォロワーが20万人、バラク・オバマ元大統領のフォロワー240万人が一気に消えた(→朝日新聞)。いずれも俗に偽アカウントと呼ばれるもので、フォロワー数を水増ししていた事になる。

 かつてとは異なり、今やインターネットは私たちの暮らしに染み込んでいる。そして、それを悪用し、デマを振りまく者もいる。

 誰が悪用しているのか。その目的は何か。どんな手口を使うのか。どうすれば見破れるのか。フェイスブックやツイッターなどのプラットフォーム側は、どんな対策をしているのか。なぜ防げなかったのか。今後、手口はより狡猾になるのか。そして、防ぐためにはどうすればいいのか。

 ソーシャルメディアを研究する著者が、ソーシャルメディアの悪用の事例を紹介・分析し、その手口・影響・原因を探り、防ぐ手立てを提案する、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Reality Game : How the Next Wave of Technology Will Break the Truth, by Samuel Woolley, 2020。日本語版は2020年11月12日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約354頁に加え、訳者あとがき5頁。9.5ポイント36字×17行×354頁=約216,648字、400字詰め原稿用紙で約542枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。ツイッターやフェイスブックとは何か、ぐらいは知っていた方がいい。

【構成は?】

 いちおう頭から読む構成になっているが、気になった所だけを拾い読みしても充分に楽しめる。

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  • 謝辞
  • はじめに
  • 1 曖昧な真実
    あなたの現実、私にはフェイク/テクノロジーと虚偽の新しい波/現実と真実への「攻撃」/テクノロジーの変化、社会の変化/プロパガンダからコンピューター・プロパガンダへ/未来のテクノロジーの役割
  • 2 真実の破壊 過去・現在・未来
    事の起こり/デジタル偽情報はどこから来るのか?/コンピューター・プロパガンダの登場/人間の要素/アクセスの問題/過去 何が起きたのか/現在 何が変化しているのか/未来 何が起きるのか/メディアの崩壊
  • 3 批判的思考から陰謀論へ
    バイラルな記事のつくり方/シリコンバレーから愛をこめて/オンライン・ユートピアからデジタル・ディストピアへ/あなたが読んだものがあなたをつくる/批判的思考から陰謀論へ/ソーシャルメディアはメッセージ/政策はどうなっているのか/メディア指向の解決策
  • 4 人工知能 救いか破滅か?
    ザッカーバーグのマクガフィン/ボットからスマートマシンへ/ユーザーの問題?/単純なボット/AIボットの時代/AIを実現する技術/無視されるエシカルデザイン/AIプロパガンダの始まり/毒を以て毒を制す/ファクトチェックを越えて/頭の悪いAI/AIからフェイクビデオへ
  • 5 フェイクビデオ まだディープではない
    加工動画対ディープフェイク/ディープフェイク/まだ注目するには早い?/普通の動画も強力なプロパガンダ・ツールに/ユーチューブ問題/フェイクビデオの拡散を止める/ライブストリーミングの問題/動画からバーチャルリアリティーへ
  • 6 XRメディア
    バーチャル・ウォー/XRメディアの世界/バーチャルの定義/ ARかVRか?/XRメディアと世論操作/社会的利益につながるVRの活用/スローXR/人間と人間に似たもの
  • 7 テクノロジーの人間らしさを保つ
    @FuturePolitical/マシンか人間か/マシンとの関係構築/人間らしい音声を越えて/人間の声が持つ説得力/人間の顔をデジタルで生成する/マシンが親切に振る舞うようにする
  • 8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計
    既存ソーシャルメディアの窮地/テクノロジーについての社会調査の価値/拡大する世界規模の問題/コインテルプロ/若者と未来のテクノロジー/倫理的なオペレーティングシステム/崩壊した現実を立て直す/民主主義を再構築する
  • 訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 この本を読んだ目的は、野次馬根性だ。

 誰が、何のために、どんな手口で、どんな事をやっているのか。それが知りたかった。あと、藤井太洋の元ネタが知りたかった、というのもある。

 残念ながら、「アンダーグラウンド・マーケット」に出てくるような、近未来を感じさせるハイテク手口は、あまし出てこない。手口はけっこう単純なのだ。

実際には、人工知能のような複雑なメカニズムは、これまでのところコンピューター・プロパガンダには大した役割を果たしていない。
  ――4 人工知能 救いか破滅か?

 ではどんな手口か、というと、力押しというか飽和攻撃というか。先のニュースにあるように、幽霊アカウントを山ほど作ってフォロワー数やリツイート数を水増したり、自動的に似たようなつぶやきを何度も投稿したり。そんなんでも、リツイート回数が多ければ、ツイッターは「トレンド」として目立つ所に表示するので、広告としての効果はある。

オンライン上では、人気のあるものは急速に拡散するのだ――それがたとえ、ボットを使ってつくられた幻想だったとしても。
  ――2 真実の破壊

 ここでは、暴き方の方が面白い。幽霊アカウントの特徴を見破ったのだ。プロフィールに写真がないか買ってきた写真だ。自己紹介もなく、フォロワーがほとんどいないか、幽霊アカウント同士でフォローし合ってる。そして投稿はタイマーで計ったように定期的。

 どうも会話が絡むテキスト・ベースだと、人間っぽく振る舞うのは難しいみたいだ、少なくとも今のところは。この辺は「機械より人間らしくなれるか?」が詳しい。今は人海戦術が中心だ。五毛党とかトロール工場(「140字の戦争」)とか。

プラガーフォースのメンバーには報酬は支払われないが、300万人に近い購読者を持つプラガー・ユニバーシティのフェイスブック・アカウント上でシェアされるという見返りが与えられる。
  ――3 批判的思考から陰謀論へ

 300万人の読者かあ。零細ブロガーとしちゃ、そりゃ心が動くなあ←をい 「ネット炎上の研究」にもあったけど、そういう手口を使い多人数に見せるのも、連中の常套手段。

 その「連中」とは誰か、ってのも、この本を読んだ目的。期待したとおり、やっぱり出てきましたロシア。出番は2016年の大統領選だ。

フェイスブック(略)におけるロシアの世論操作(略)の目的は人々を騙すこと、そして分裂を促し、人々を支配することだった。
  ――8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計

 これについては、具体例として1番打者にフィリピンのロドリゴ・ドゥルテ大統領のソーシャルメディア軍、2番に在トルコのサウジアラビア大使館で起きたジャマル・カショギ記者暗殺事件(→Wikipedia)を置くなど、インパクトはなかなか。

 「ヒトラー演説」や「ベルリン・オリンピック1936」にもあったけど、目端が利く政治家は広報に力を入れ、新しいメディアの使い方も巧みなんだな、困ったことに。

 そう、SNSは新しいメディアなのだ。ところが、肝心のメディア提供者であるフェイスブックやツイッターには、そういう認識がない。自分たちはサービスを提供しているだけだと思っていて、マスメディアだという自覚が欠けているのが、次第に伝わってくる。

 これはSNSだけではなく、政治家も同じ。だもんで、テレビ局や新聞社に対しては法で様々な規制をかけているのに対し、SNSは野放しだったりする。この問題への著者の提案の一つは、日本でも是非やってほしい。

広告枠の購入者は、特定の広告に誰が料金を支払ったかを明確に通知するなど、一定の基準を守らなければならない
  ――>8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計

 要は「誰が出した広告かハッキリさせろ」ですね。これでステルス・マーケティングが減れば嬉しいんだが。

 そんな「なんとかせいや」とする声に対し、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグがAI技術に希望を託すあたりを、著者は激しく批判してる。

将来起こる問題のほとんどは、現在は解決策のように見える技術によって引き起こされる
  ――4 人工知能 救いか破滅か?

 …ああ、はい、そうですね。いやそうなんだけど、ザッカーバーグの気持ちも分かるんだよなあ。怪しげなアカウント凍結も、一応の成果を挙げてるし(→J-WAVE)。エンジニアってのは、つい技術での解決を考えちゃう生き物なんです。このあたりは、著者と技術者の溝の深さが実感できて、お互いの話し合いがもっと必要だなあ、と感じたところ。

 全般的に、具体例はそこそこ豊富にでているし、刺激的なエピソードも多い。とまれ、著者の姿勢は研究者やジャーナリストというより思想家・政治運動家に近く、リベラルな著者の考え方や提言が強く出ている。その辺は、好みが別れるかも。

 かつてインターネットが「便所の落書き」とか言われた頃を憶えているネット老人会の一人としては、インターネットの信頼性が上がったような気がして嬉しいような、そういう風潮に鍛えられて良かったかも、とか思ったりした本だった。

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【今日の一曲】

行け!行け!川口浩 - 嘉門達夫

 フェイクで思い出すのは、やっぱりコレ。思えば大らかな時代だったなあ。

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2021年4月23日 (金)

ジェイムズ・クラブツリー「ビリオネア・インド 大富豪が支配する社会の光と闇」白水社 笠井亮平訳

超富裕層の台頭、格差がもたらす複合的問題、企業が持つ強固な権力――本書はインドの現代史のなかで決定的な意味を持つ、これら三つの要素を描き出してゆく。
  ――序章

メディアをめぐるインドの状況はとにかく大規模かつ複雑で、新聞は8万2千紙、テレビは900局近くにのぼり、大半が英語以外の言語だ。
  ――第11章 国民の知る権利

【どんな本?】

 2016年11月8日、インド首相のナレンドラ・モディ(→Wikipedia)は、何の前触れもなく衝撃的な政策を発表する。

「腐敗の蔓延を断ち切るべく、現在流通している500ルピー紙幣(約7ドル)と1000ルピー紙幣(約14ドル)は今晩零時をもって法的紙幣としての効力を失うとの決定を下しました」
  ――第5章 汚職の季節

 いきなり高額紙幣を紙切れに変えてしまったのだ。無茶苦茶なようだが、これには現代インドの政界・財界の深刻な現状に対するモディなりの真摯な対策でもあった。

 幾つかの点で、インドは中国に似ている。人類文明の黎明期にまで遡る悠久の歴史。第二次世界大戦後の建国。広大でバラエティに富む国土と民族。13億5千万もの膨大な人口。そして政府による統制経済から自由主義経済の導入に伴う、目覚ましい経済成長。

 と同時に、大きく異なる点もある。最大の違いは、インドが民主主義である事だろう。強固な共産党一党支配が続く中国に対し、インドは独立当時から普通選挙による民主主義を貫いてきた。

 今世紀の前半において最も高い経済成長が期待されるインドだが、ロシア同様に巨大な経済格差が広がりつつもあり、社会的にも経済的にも懸念は尽きない。政治的にも、初代首相のジャワハルラール・ネルー率いる国民会議が支配的な地位を占めていたが、2014年からインド人民党のナレンドラ・モディが首相となり、新たな潮流を成しつつある。

 インドの政界と財界は、どんな関係なのか。なぜ現在のような関係が生まれたのか。インドの社会主義はどのようなもので、自由主義経済の導入はどのように行われたのか。その過程で、どんな問題が起きているのか。そして、今後もインドは成長を続けられるのか。

 ファイナンシャル・タイムズ紙ムンバイ支局長を務めたジャーナリストの著者が、成長するインド経済を率いる大富豪たちやモディ首相を筆頭とする政界の大物たちを追い、インド経済の現状とその歴史を語り、未来のインドを描こうとする、政治・経済ルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Billionaire Raj : A Journey Through India's New Gilded Age, by James Crabtree, 2018。日本語版は2020年9月10日発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約420頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×20行×420頁=約386,400字、400字詰め原稿用紙で約966枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も、各章の扉に地図があるなど、親切でわかりやすい。日本人には馴染みのないインドの政界・財界の話だが、いずれも丁寧な紹介があるので、素人でも大丈夫。ただし、地名や人名などの固有名詞が、慣れないヒンディー語だったりするので、覚えるのにちと苦労した。冒頭の「主要登場人物」は何度も見返すので、栞を挟んでおこう。また、「第10章 スポーツ以上のもの」はクリケットのネタなので、クリケットに詳しい人は楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章の繋がりは穏やかだ。なので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいいが、できれば頭から読んだ方がいい。

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  • 主要登場人物
  • プロローグ
  • 序章
  • 第1部 泥棒貴族
  • 第1章 アンバニランド
  • 第2章 栄光の時代の幕あけ
  • 第3章 ボリガルヒの台頭
  • 第2部 政治マシーン
  • 第4章 「モディファイ」するインド
  • 第5章 汚職の季節
  • 第6章 金権政治
  • 第7章 南インド式縁故主義
  • 第3部 新・金ぴか時代
  • 第8章 債務の館
  • 第9章 苦悩する豪商
  • 第10章 スポーツ以上のもの
  • 第11章 国民の知る権利
  • 第12章 モディの悲劇
  • 終章 革新主義時代は到来するか?
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 政治と経済の本だ。もっと言うと、経済に重点を置きつつ、政治、というか政界との関わりも見る、そんな本だ。

 この手の本は大雑把に二種類ある。「ショック・ドクトリン」のように現状を描く新聞や週刊誌的な本と、「国家はなぜ衰退するのか」のように原理・原則を探る教科書的なものと。

 本書は前者、つまり現状報告に近いが、教科書的に原理原則を語る部分もある。分量にすると8割が現状報告、2割ぐらいが教科書かな。

 右派・左派だと、穏やかな右派だろう。あくまでも主題は国家の経済成長だ。貧富の差も懸念しているが、それは貧富の差が経済成長を妨げるからだ。目的は国家の経済成長であって、貧富の差を減らすのは手段に過ぎない。終盤では腐敗を扱っているが、「ある程度は仕方ない」という姿勢だ。「発展途上の国家に腐敗は付き物で、少しなら有益ですらある。酷すぎると害だけど」、そういう姿勢だ。ちなみにニューディール政策には好意的。

 さて。冒頭では軽くインドの歴史に触れる。ここでいきなり驚いた。

17世紀後半、イギリスがインド沿岸部でわずかに数カ所の都市を支配しているにすぎなかったころ、ムガル帝国は世界全体のGDPの1/4近くを手にしていた。それが1947年の独立から間もなく、イギリス軍が完全撤退したころには、その割合は4%になっていた。
  ――序章

 もともとインド(というかムガル帝国)は強国だったのだ。にしても、分母すなわち世界全体の経済が成長したのもあるだろうが、1/4から1/25とは。

 それでも、成長できる底力はあるのだ。「ルワンダ中央銀行総裁日記」などから見えるアフリカ諸国とは、社会構成が違う。アフリカでは商業が未発達だが、インド商人は南アジアからアフリカまで、世界中で活躍している。

 また、人口構成でも、少子高齢化が進む中国と違い…

インド総人口の半分以上が25歳以下である。
  ――第2章 栄光の時代の幕あけ

 と、今後の市場の拡大も期待できる。もっとも、同時に、そういった若い世代に、いかに職を与えるかって課題もあるんだけど。加えて、富の極端な偏在も深刻だ。

GDPに超富裕層の資産が占める割合を計算したところ、インドはロシアに次いで二位だった
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 ロシアの酷さは別格で、「ショック・ドクトリン」や「強奪されたロシア経済」に詳しい。要はソ連崩壊のドサクサにまぎれた火事場強盗ね。インドも経済の自由化に伴う現象って点は似ている。

「土地、天然資源、政府との契約もしくはライセンスという三つのファクターが、インドの億案長者が持つ富の圧倒的に大きな源泉なのです」
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

「すべての主要インフラ企業には、二つの興味深い共通点ある。一つは政治家かその近親者によって経営されているという点。もう一つは公共セクターの金融機関から莫大な額の借り入れをしているという点だ」
  ――第7章 南インド式縁故主義

投資銀行のクレディ・スイスは、インドの大規模上場企業のうち2/3が同族経営だと算出し、規模の大きい世界各国の市場のなかで最大の比率になっていると算出した。
  ――第9章 苦悩する豪商

 要は政治家と経営者の癒着ですね。これには大きく二つの理由があって、一つは民主主義だって点。選挙で勝つにはカネがかかる。だから政治家はカネが必要。そこで企業経営者と取引するワケです。これはアメリカなど、どの国でも見られる現象。

 もう一つは元社会主義的な国だったって点。起業しようにも規制がガチガチで、大量の許可を得なきゃいけない。インドのお役所の動きの鈍さは、バックパッカーなら「ノープロブレム」の連続で身に染みてる。というか貧乏旅行者が感じる役人のやる気のなさは、かつての中国の「没有」も有名で、これは共産主義・社会主義国に共通してるんだろう。

2016年に当時の最高裁長官が涙ながらに訴えたように、審理中の案件が3300万件にものぼっている。別の判事の指摘によると、現在のペースで進められた場合、すべての案件の審理を終えるのに300年かかるという。
  ――第12章 モディの悲劇

 もっとも、インドの場合、役人に鼻薬を利かせりゃ上手くいくあたりは融通が利くというかなんというか。更に早く動かしたければ、トップの政治家にドカンと払い、政治力で突破すりゃいい。そんなんだから、インド人は政治家を実行力で評価する。

2014年に当選した下院議員のうちざっと1/5が誘拐や恐喝、殺人といった「重大な」犯罪歴を持つ者で、この割合は10年前と比べてほぼ倍増している。(略)
犯罪容疑をかけられている候補者が当選する確率は犯罪歴のない候補者よりも三倍高くなっている。
  ――第6章 金権政治

 強引であろうとも、モノゴトを動かせる者は頼もしい、そういう価値観だ。昔の自民党もそうだったね。「仁義なき戦い」を読むと、ヤクザと癒着どころかヤクザが政治家やってたりするし。

 これに加え、グローバル経済の影響もある。

国際貿易のなかで扱われるすべての物品とサービスの半分以上が比較的少数の巨大多国籍企業で行き来している
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 例えばハイデラバードは英語力を活かしたコールセンターなどで成長してるけど、取引してるのはマイクロソフトなどの巨大多国籍企業だ(→Wikipedia)。貿易が増えれば経済も成長するけど、成長の半分以上は巨大資本が吸い取っていく。つまり金持ちの所に金が集まるわけ。これを是正しようにも、役所はガバガバで…

額の多寡に関係なく所得税を納めているインド人はわずか1%しかおらず、収入1000万ルピー(15万5千ドル)以上の者の中ではわずか5000人…
  ――終章 革新主義時代は到来するか?

 ガチガチに規制をかあけてるクセに金の流れはガバガバってのは旧ソ連も同じだったなあ。なんなんだろうね、こういうバランスの悪さ。本書じゃ「無理に規制すると裏技が発達する」みたく説明してる。アメリカの禁酒法でマフィアが稼いだようなモンかな?まあいい。これは金融業界も同じで…

「債務の館」企業10社の借入金は、まったくもって次元の違うスケールだった。債務額を合計すると840億ドルにもなり、これは銀行業界全体の総貸出額の1/8以上にもなったのである。
  ――第8章 債務の館

 発電所を作るにせよ、道路を通すにせよ、元手が要る。インドの起業家たちはコネを使って公営銀行からカネを借りた。銀行は借り手の懐具合をロクに調べもせず貸した。結果、不良債権が膨れ上がった。これを当時のインド準備銀行総裁ラグラム・ラジャンは苦労して調べ上げたんだが…

「わたしたちが次に直面したのは、問題が存在することを彼ら[銀行]に認めさせることでした」
  ――第8章 債務の館

 独ソ戦末期のヒトラーとか、太平洋戦争末期の大日本帝国上層部とか、権力者なんていつもそんなモンだ。我が国の現内閣も新型コロナに関してはコレだよなあ。この辺は「愚行の世界史」が楽しいです。まあ、どんな組織でも、上昇期に出世する人ってのは、楽観的な見積もりで攻撃的な手を好むんだよね。お陰で情報ネットワークのインフラ担当者とかはセキュリティ対策の予算獲得に苦労するんだけど。

 これを本書は「計画錯誤」(→NIKKEI STYLE)としている。「鉄鋼需要は永遠に増え続けるから製鉄所をガンガン作れ、石炭はずっと安いから発電所は作るだけ儲かる」みたいな見通し。景気がいい時はそれで巧く行くけど、ブレーキがかかったらボロボロになる。今のモディ政権は、そういう苦境に立ってる。

 加えて、モディ政権の支持層も、問題を抱えてる。ドナルド・トランプが狂信的な福音派を支持母体にしたように、モディも原理主義的なヒンディーの支持を頼りにしてて、著者はそこを危ぶみつつも…

インドが豊かになるにつれて、総じて暴力を伴う事件は減少していった。過去数十年間で宗教対立による暴動発生率は着実に減少しているのである。たとえそうであっても、ヒンドゥー狂信者ら――ほぼ全員がモディ支持者――による憂慮すべき事件が2014年以降増加しているのも確かだ。
  ――第12章 モディの悲劇

 と、「もう少し見守ろう」みたいな態度だ。そういったお堅い内容だけでなく、「第10章 スポーツ以上のもの」では、イギリスの遺したもう一つの遺産クリケットを巡る国際的な醜聞も扱ってる。

 日本人には馴染みがないクリケットだけど、インド・パキスタン・オーストラリアなど旧イギリス植民地じゃ国際的な人気スポーツなのだ。中でもインドは野球におけるアメリカのように強くて市場もデカく、よって国際クリケット界でも図抜けた発言力を持つ。そういう「私たちの知らない世界」が見えるのも楽しいところ。いや知ったからどうなるって事もないんだけど。

 なお、その市場のデカさは社会主義から自由主義への移行に伴うインドのクリケット界の市場開拓努力が功を奏した結果。目ざとくチャンスを見つけテレビ局と契約を結びイベントを催して盛り上げたのだ。このあたりは国家の体制とスポーツ・ビジネスの関係が見えて、なかなか楽しかった。似たような問題は中国の卓球でもあるんだろうか。

 また、本好きとしては、インドの出版状況のネタも。

ベストセラー作家アミーシュ・トリパティ「10年くらい前までは、インドの出版業界と言っても『インド』というのは名ばかりだったんです」
「イギリスの出版業界がたまたまインドに拠点を置いている、というのが実情でした」
  ――第11章 国民の知る権利

 このトリパティさんのベストセラーは「ヒンドゥー教のシヴァ神を題材にとった神話サスペンス小説三部作」って、中国の封神演義や吉川英治の三国志みたいなのかな? なんにせよ、インドじゃ娯楽小説の市場が広がりつつあるそうで、ならいずれ「三体」並みの傑作SFも…と期待しつつ、今日はここまで。

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【今日の一曲】

Tu Meri Full Video | BANG BANG! | Hrithik Roshan & Katrina Kaif | Vishal Shekhar | Dance Party Song

 インドで思い浮かぶのは、やっぱり To Me Ri でしょう。火柱がドッカンドカンと燃え上がるなか、ノリのいいリズムと覚えやすいメロディをバックに、イケメンと美女を中心に大人数が、やたらキレのいい、でも微妙にブロードウェイとは違うダンスを踊りまくる、踊るドラッグみたいな動画です。歌はヒンディー語らしく、何言ってんだかサッパリわかんないんだけどw

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2021年2月 8日 (月)

高田博行「ヒトラー演説 熱狂の真実」中公新書

本書は、一方で言語面に、他方で演説の置かれた政治的・歴史的文脈にスポットライトを当てて、ヒトラー演説に迫ろうとするものである。
  ――プロローグ

ヨーゼフ・ゲッベルス「総統はまだ一度も、空爆を受けた都市を訪問していない」
  ――第六章 聴衆を失った演説 1939-45

(マイク&スピーカーやラジオや映画などの)新しいメディアを駆使したヒトラー演説は、政権獲得の一年半後にはすでに、国民に飽きられはじめていたのである。
  ――エピローグ

【どんな本?】

 ヒトラーは演説が上手く、聴衆を巧みに煽り、それがナチスの台頭につながった、と言われる。それは果たして事実なのか。彼の演説には、どの様な特徴があるのか。演説に際し、彼は何をどう工夫したのか。有名なミュンヘンのビアホールでの演説から、敗色濃い末期まで、彼の演説はどう変化したのか。それに対する聴衆の反応は、どう変わっていったのか。

 著者は、四半世紀にわたるヒトラーの演説から558回150万語をデータ化し、それを統計的に分析した。また、弁論術やレトリックからの考察や、発声法とゼスチャーの習得、そしてレコードやスピーカーなどテクノロジーの使い方など、アナログ的な方法論も取り入れている。そういった多方面からの視野により、主に演説に焦点をあてて、ヒトラーのメディア戦略を明らかにする、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2014年6月25日発行。新書版縦一段組み本文約256頁に加え、あとがき3頁。9ポイント42字×17行×256頁=約182,784字、400字詰め原稿用紙で約457枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。本書を読みこなすには、幾つか前提知識が要る。演説当時の社会情勢や弁論術の基本などだ。幸い、これらの基礎知識は、必要になった所でちゃんと説明があるため、素人でも充分についていける。というか、私は本書で弁論術の基本がわかった、というか、わかったつもりになった。

【構成は?】

 話は時系列順で進む。各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。また、各賞の頭に1頁で章の概要をまとめてあるので、読み飛ばすか否かは章の頭の1頁で判断できる。

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  • プロローグ
  • 序章 遅れた国家統一
  • 第一章 ビアホールに響く演説 1919-24
  • 1 見出された弁舌の才
  • 2 「指導者」としいての語り
  • 3 「一揆」の清算演説
  • 第二章 待機する演説 1925-28
  • 1 禁止された演説
  • 2 演説の理論
  • 3 演説文の「完成」
  • 第三章 集票する演説 1928-32
  • 1 拡声される声
  • 2 空を飛ぶヒトラー
  • 第四章 国民を管理する演説 1928-32
  • 1 ラジオと銀幕に乗る演説
  • 2 総統演説の舞台
  • 第五章 外交する演説 1935-39
  • 1 領土拡大の演説
  • 2 戦時体制に備える演説
  • 第六章 聴衆を失った演説 1939-45
  • 1 同意されない演説
  • 2 機能停止した演説
  • エピローグ
  • あとがき/文献一覧/ヒトラー演説のドイツ語原文

【感想は?】

 舞台役者ヒトラーの栄光と挫折。

 なにせヒトラーの演説に賭ける情熱はすさまじい。まあ演説というよりプロパガンダ、もっと平たく言えば宣伝なんだけど。例えば政権奪取に挑んだ1932年の選挙だ。

ヒトラーは(1932年)7月15日から30日まで、三回目となる飛行機遊説で53か所を回り、200回近くの演説をこなした。
  ――第三章 集票する演説 1928-32

 スターを目指すロック・バンドでも、当時のヒトラーほど激しいライブ・ツアーをくぐり抜けるバンドは、まずいないだろう。確かビーチボーイズが「年300回のライブをこなした」と威張ってたが、たった2週間で200回となると、密度は桁違いだ。

 しかも、単純に同じことを繰り返してるんじゃない。かなりアドリブを利かしてる。

ヒトラーは、きちんとした読み上げ演説原稿を用意することはなかった。その代わりに、演説で扱うテーマについて、扱う順にキーワードもしくはキーセンテンスを書き留めたメモを作成した。
  ――第一章 ビアホールに響く演説 1919-24

 予め決めているのは、大雑把な話の流れと、盛り上げるポイントとなるキーワードだけ。後はその場の雰囲気を読みながら、アドリブで細かい所を詰めてったのだ。相当に頭の回転が速くないとできない芸当だ。

 逆に聴衆がいないスタジオじゃ意気が上がらなかったようで、1933年の最初のラジオ演説は「原稿を読み上げただけ」で、以降はライブの中継や収録を流すようになる。スタジオ盤はショボいけどライブは抜群って、ブレイク前の REO Speed Wagon かい。いやマジ Golden Country とか、スタジオ盤(→Youtube)はイマイチだけどライブ(→Youtube)は盛り上がるのよ。

 すまん、話がヨレた。こういった彼の芸当を、本書は様々な角度から分析していく。その一つは、今世紀ならではの手法、つまりコンピュータを使い単語の出現頻度を調べるのである。

筆者は、(略)ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計558回の演説文を機械可読化して、総語数約150万語のデータを作成した。
  ――第二章 待機する演説 1925-28

 これで何がわかるか、というと、例えば…

ヒトラーはナチ運動期には「ひと」(man)、「あなた、君」(du, dir, dich)、「われわれ」(wir, uns)を特徴的に多く使用したこと、それに代わってナチ政権期にヒトラーは私(ich, mir, mich)を特徴的に多く使用したことがわかる。
  ――第五章 外交する演説 1935-39

 これから支持者を得てのし上がる時期には、「俺たち仲間だよな」と訴える「あなた」や「われわれ」が多い。対して政権を取ってからは、自分の指導力を示すために「私」が多くなる。

 また政権を取った1933年以降では名詞的文体が増えるのも特徴。これは動詞が名詞になった語を使う文で、「『作る』の代わりに『作成を行う』」とかの、書き言葉っぽい言い方だ。この効果は「荘厳な印象を与える」、要はそれまでの馬鹿っぽい言い方から頭よさげな言い方に変えたんですね。親しみやすさから威厳を持つ感じにした、みたいな。

 と、こういう、立場が変わったら話し方も変わったとか、言われてみりゃ当たり前だが、そこを数字で裏を取るのが学問なんだろう。

 もちろん、著者は統計的な手法だけでなく、内容や話の流れなどに踏み込んだ分析もしている。例えば初期の演説の特徴として…

ヒトラーは失望感の強い帰還兵たちに、誰が敵であるのかをうまく印象づけたのである。
  ――第一章 ビアホールに響く演説 1919-24

 なんて指摘もしてる。こういう手法は、ドナルド・トランプが巧みに使ってたし、日本でも差別主義者がよく使う。

 本書は論の組み立て方も見ていて、例えば「先取り方」だ。これは予想される異論を演説に取込み、それに反論する手口だ。そうすると、話の中身が論理的だと感じる。うん、今度やってみよう。やはりアレな人がよく使うのが対比法。「ガイジンはココがダメだけど日本人はココがいい」とかね。二つを比べ、コントラストを高める手口で、差別主義者はコレを効果的に使う。

 加えて声の使い方も本書は分析してる。先に挙げたように、政権を取る前のヒトラーは熱心にライブをこなした。これは喉に大きな負担がかかる。そこでヒトラーはオペラ歌手デヴリエントの指導を仰ぐ。これは秘密裏に行われ、表ざたになったのは1975年ってのも驚きだが、指導の内容も興味深い。

 喉に負担をかけない発声法はもちろん、声の高さも「出だしはできるだけ低い声で、そうすりゃクライマックスの高い声が際立つ」とか「感情を動かす語にはふさわしい響きを」など、声の使い方も教えている。また、身振りについても「目線は身内がいる前列じゃなく聴衆がいる後列に」や「姿勢はまっすぐ」など、演技の本を持ち出して指導してたり。つくづく「役者やのう」と感心してしまう。

 これらを当時の動画や録音で検証する第四章も、本書のクライマックスのひとつ。

 とまれ。実績はなくて当たり前で、国民を巧いことノせればよかった政権奪取前はともかく、実績が問われる政権奪取後となると…

公共の場で演説を行うことが少なくなっていったことで、ヒトラーと国民とのつながりが減り、溝が広がっていった。大きな演説は、1940年には9回、41年には7回、42年には5回しかなくなった。
  ――第六章 聴衆を失った演説 1939-45

 と、次第に国民の前に姿を現さなくなっていく。特に敗色濃い44年~45年になると壊滅で、まるきし「問題が起きると姿を消す」と言われた某首相だね。

 あくまでヒトラーの演説に焦点を絞った本書だが、同時にあらゆる政治家の演出の手口や、日頃の会話で使われるレトリックも学べるお得な本でもある。もっとも、レトリックについてはサワリだけで、詳しくは修辞学を学んでねって姿勢だが、そこは巻末の文献一覧が参考になる。焦点を絞ったからこそ、具体的な例が多くてイメージが伝わりやすく、素人にもとっつきやすい初心者に親切な本だ。

【我が闘争】

 「第二章 待機する演説 1925-28」では、「我が闘争」の引用を中心として、ヒトラーの宣伝戦略を語っている。これが一世紀前とは思えないほど生々しく、現代の日本でも選挙や政治宣伝では全く同じ手口が使われているので、ここに紹介する。

 まずは宣伝の基本、「誰を対象とするか」。

理念は「大衆の力なくして」実現することはできないと考え、大衆の支持を獲得する手段としてプロパガンダ活動を最重要視する。プロパガンダは「永久に大衆に対してのみ向けられるべき」であって、インテリはその対象とならない。
  ――第二章 待機する演説 1925-28

 賢い人は相手にするな、無学な者だけを対象としろ、というわけ。ドナルド・トランプがモロにこの戦略で大旋風を巻き起こしたんだよなあ。

「その作用は常に感情のほうに向けられるべきで、いわゆる分別に向けられることは大いに制限しておかねばならない。(略)その知的水準は、プロパガンダが向かう対象とする人々のなかでも最も頭の悪い者の知的水準に合わせるべきである」

 論理はどうでもいい、感情を動かせ、と。これまたドナルド・トランプの戦略そのもの。

「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」

 たいていの人は文章を読むより、話を聞くほうを好むし、影響も聞いた時のほうが大きい、と。先の「論理より感情」の理屈で考えれば、確かに音声のほうが感情を動かしやすいし。音声に映像が加われば、更に影響力は増すんだろうなあ。かつてインターネットは文章だけだったけど、最近は音声や動画が増えてきたんで、更に感情の力が増してるはず。

「本能的な嫌悪、感情な憎悪、先入観にとらわれた拒絶という障壁を克服することは、学術的な意見の誤りを正すことよりも1000倍も困難である」

 差別や因習が、なかなか消えないのも、理屈じゃなくて感情に根ざしてるから、と考えると、スンナリ納得できちゃうのが怖い。

「朝、そしてまた日中には、人間の意志力は自分と異なった意思と見解を強制しようとする試みに対しこの上ないエネルギーで抵抗するように見える。他方、晩には、人間の意志力はより強い意志に支配されやすくなるのである」

 人間ってのは、朝や昼間より、夜のほうが流されやすく盛り上がりやすい。ブラック企業やカルトの合宿研修は、こういう人間の性質を利用してるんだろう。

生活上の重要問題を国民に忘れさせる目的で、政権が意義深く見えるような国家的行事を作り上げて、新聞で大々的に扱わせる。すると、「一か月前には全く誰も聞いたこともなかったような名前」が「何もないところから魔法のように作り出され」、知れ渡り、大衆はそれに大きな希望を寄せるようになるのである。

 「サッカーと独裁者」にもあった。アレな国じゃ、ヤバめで重要な法案は、スポーツ・イベントの開催中に通しちゃうとか。国民がサッカーに熱中し、政治から目を離したスキに、既成事実を作ってしまうのだ。それを考えると、東京オリンピックって…

 地元ドイツじゃ禁書扱いだったりとヤバい本の代表みたいな「我が闘争」だけど、実は民衆をナメきった自分の手口を赤裸々にぶっちゃけてもいて、ちょっとした大衆扇動の教科書というかペテン師の手口紹介というか。いやもちろん、思想的にヤバい部分もあるんだけど。

 当時のドイツじゃ爆発的に売れたけど、果たして買った人のうち何割がちゃんと読んだんだろうか。ちゃんと読んでいたら、「俺たちを馬鹿扱いしやがって」と怒ったり、演説も「どんなペテンの手を使うんだろう」と冷めた姿勢で聞いたはず。ホント、世のベストセラーも、そのうちどれだけがちゃんと読まれていることやら。

 ってな愚痴は置いといて。いずれにせよ、政治の話をする際は、演出や群集心理や感情操作の知識も必要だよね、と思うわけです、はい。

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2021年1月 3日 (日)

ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター「反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」NTT出版 栗原百代訳

本書では、カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革しえなかったと主張する。(略)
妨害すべき「単一文化」や「単一システム」なんてものは存在しない。
  ――序章

カウンターカルチャーの思想は多くの点でフロイトの心理学理論から直接導かれている。
  ――第2章 フロイト、カリフォルニアへ行く

最も信頼のおける研究は、売上げは広告についていかない、むしろ逆に広告が売上げについていくことを示している。
  ――第7章 地位の追求からクールの探求へ

貧困と画一化のどちらかを減らすことを選ぶかといわれたら、たいていの人は貧困を減らすほうを選ぶ
  ――第8章 コカ・コーラ化

二つのシンプルな質問がある。
その一、「自分の個性はほかの人たちの仕事をふやしているか?」
その二、「全員がそんなふうに振る舞ったらどうなるか?」
  ――第8章 コカ・コーラ化

過去20年間に増大した外国貿易のほぼすべては、貿易の激化より多様化に伴うものだった。
  ――第8章 コカ・コーラ化

外国を旅する人たちの主な動機は、表のシミュラークルから裏の現実に侵入することだ。
  ――第9章 ありがとう、インド

【どんな本?】

 1960年代、ヒッピーたちは体制への反逆を訴えて暴れまわった。彼らのコミューンは大半が潰れたが、反逆の思想は21世紀の現代にも生き残り、スローフードやヒップホップとして受け継がれている。

 そしてナイキやSUV,Apple の Macintosh は…って、アレ? 彼らは大量消費社会に反発していたのではないのか? でも、どう考えたってナイキ消費社会そのものじゃないか。なんでナイキなんだ。コンバースにしろよ。

 なぜカウンターカルチャーは世界を変えられなかったのか。何を間違っていたのか。そもそもカウンターカルチャーの源流は何か。そして、これからどうすべきなのか。

 カナダの哲学者二人が、アメリカのカウンターカルチャーの失敗を指摘し、より適切な方向性を指し示す、左派向けの思想書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は THE REBEL SELL : Why The Culture Can't Be Jammed, by Joseph Heath & Andrew Potter, 2006。日本語版は2014年9月26日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約395頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×19行×395頁=約345,230字、400字詰め原稿用紙で約864枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの文字数。

 文章は比較的にこなれているし、内容も特に難しくない。途中でルソーやホップスなど哲学者の名が出てくるが、同時にその思想や主張のあらましを短くまとめているので、知らない人でも大丈夫。それより『アドバスターズ』やアラニス・モリセットなど、アメリカのポップ・カルチャーの固有名詞が辛かった。さすがにカート・コバーンは知ってたけど。

【構成は?】

 単なる野次馬根性で読むのか、真面目な思想書として読むのかで、相応しい読み方は違う。各章は比較的に独立している。と同時に、全般的に前の章を受けて後の章が展開する形にもなっている。野次馬根性で読むなら、美味しそうな所を拾い読みすればいい。だが真面目に思想書として読むなら、素直に頭から読もう。でないと、特に批判する際に、的外れな批判をする羽目になる。

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  • 謝辞
  • 序章 
    反逆者が履くナイキ/「マトリックス」を読み解く/カウンターカルチャーの快楽主義
  • 第1部
  • 第1章 カウンターカルチャーの誕生
    誰がカート・コバーンを殺したのか/反逆思想の系譜/カール・マルクスの診断/ファシズムと大衆社会/ミルグラムの「アイヒマン実験」/「システムからの開放」という目的/「体制」はなぜ崩壊しないのか
  • 第2章 フロイト、カリフォルニアへ行く
    フロイトの登場/イド・自我・超自我/心の「圧力鍋」モデル/現代社会は「抑圧」する/マナーの起源/アメリカはファシズム社会か/「アメリカン・ビューティー」と「カラー・オブ・ハート」/ドラッグによる革命/パーティーのために闘え
  • 第3章 ノーマルであること
    フェミニズムがもたらしたもの/アナーキズムの罠/集団行為問題の解決法/異議申し立てと逸脱の区別/フロイトvsホッブズ/フロイトvsホッブズ(その2)/日常の中の「ルール」/わがパンク体験
  • 第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい
    反消費主義=大衆社会批判?/降伏のパラ度ドックス/消費主義の本質/ボードリヤール「消費社会と神話の構造」/マルクスの恐慌論/ヴェブレンの洞察/消費主義の勝利は消費者のせい/都会の家はなぜ高い/「差異」としての消費/バーバリーがダサくなった理由/ナオミ・クラインのロフト
  • 第5章 極端な反逆
    ユナボマーのメッセージ/反体制暴動は正当化されるか/マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』/精神病と社会/「破壊」のブランド化/オルタナティブはつらいよ/消費社会を活性化するダウンシフト/お金のかかる「シンプルな生活」
  • 第2部
  • 第6章 制服と画一性
    ブランドなしの「スタトレ」/制服は個性の放棄か/制服の機能/「全体的制服」をドレスダウン/軍隊の伊達男/反逆のファッション/イリイチ『脱学校の社会』/学校制服の復活/女子高で現地調査/なぜ消費社会が勝利したか
  • 第7章 地位の追求からクールの探求へ
    「クール」体験/クールとは何か/『ヒップとスクエア』/アメリカの階級制/ブルジョワでボヘミアン/クリエイティブ・クラスの台頭/クールこそ資本主義の活力源/侯国は意外に効果なし?/どうすれば効くのか/ブランドの役割/選好とアイデンティティ/流行の構造/広告競争のなくし方
  • 第8章 コカ・コーラ化
    レヴィトタウン/現代の建売住宅事情/画一化の良し悪し/みんなが好きな物はあまり変わらない/少数者の好みが高くつく理由/「マクドナルド化」批判の落とし穴/グローバル化と多様性/反グローバル化運動の誤謬
  • 第9章 ありがとう、インド
    自己発見としてのエキゾチシズム//エキゾチシズムの系譜/ボランタリー・シンプリシティ/東洋と西洋/香港体験記/カウンターカルチャーは「禅」がお好き/先住民は「自然」か?/「本物らしさ」の追求/胡同を歩く/旅行者の自己満足/ツーリズムと出張/代替医療の歴史/代替医療はなぜ効かない
  • 第10章 宇宙船地球号
    サイクリストの反乱/テクノロジー批判/「スモール・イズ・ビューティフル」/適正技術とは何か/サイバースペースの自由/スローフード運動/ディープエコロジー/環境問題の正しい解決法
  • 結論
    ファシズムのトラウマ/反逆商売/多元的な価値の問題/市場による解決と問題点/反グローバル運動の陥没 ナオミ・クラインを批判する/そして何が必要なのか
  • 後記
    倫理的消費について/簡単な「解決策」などない/左派は文化的政治をやめよ/カウンターカルチャーの重罪/資本主義の評価/僕らはマイクロソフトの回し者?
  • 原注/訳者あとがき/読者のための読書案内/索引

【感想は?】

 団塊ジュニア世代の左派による、団塊世代左派の批判。

 団塊世代の左派と一言で言っても、中はいろいろだ。例えば60年代の人権運動だと、穏健派のキング牧師 vs 過激派のマルコムXがわかりやすい。本書はキング牧師の肩を持ち、マルコムXを批判している。

 もちろん、団塊世代の左派は今だって生き延びているし、世代を超えて受け継がれている思想もある。その一つが、ルソー的な「高貴な野蛮人」(→Wikipedia)の幻想だ。彼らは大量生産による消費社会を嫌い、有機農法やスローフードを持ち上げる。だが、それがもたらすものは…

カウンターカルチャーの反逆は、(略)進歩的な政治や経済への影響などいっさいもたらさず、もっと公正な社会を建設するという喫緊の課題を損なう、芝居がかった意思表示に過ぎない。
  ――第3章 ノーマルであること

 うーん。これを書いてて気が付いたんだが、マルコムXと有機農法はだいぶ違うような気がする。が、著者のなかでは同じくくりになっている。共通するのは、ソレが「クール」な点だ。ある種の人にとって、そういうのがカッコいいのだ。

 なぜカッコいいのか。それは、他の人より一歩先んじているからだ。これには困った点がある。みんなが同じことをやったら、ソレはダサくなってしまう。人込みで同じ柄のシャツを着た人とすれ違うと、なんか気まずいよね。そんなワケで、クールへの道は険しく果てしない。常に人の一歩先を行かなきゃいけないんだから。

たいていの人間は周囲になじむためのものより大勢のなかで目立つためのものに大金を費やす。
  ――第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい

 シャツぐらいならともかく、自動車や家にまで、この行動原理はまかり通っている。これに対し、著者はやたら手厳しい。

クールがカウンターカルチャーの中核をなす地位精度を築き上げていることは、社会全体に高校生のロジックがまかり通っていることの表れにほかならない。
  ――第7章 地位の追求からクールの探求へ

 最近の日本語には「高校生のロジック」よりもっと便利な言葉がある。厨二病だ。ああ、胸が痛い。こんな風に、みもふたもない実情バラシが本書のアチコチにある。例えば男の服装については…

50年代の男性の服装は味気なく、画一的だった。しかし主な理由は、男性が多くの服を持たなかったことだ。
  ――第6章 制服と画一性

 なぜアンダーシャツが必要なのか。シャツを直接着たら、シャツが汗で汚れてしまう。アンダーシャツに汗を吸わせれば、シャツが汚れないから、洗濯しないで済む。昔の映画で男優が着替えないのは、そういう事だ。「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーンは次々と華やかな衣装を披露するが、ジョージ・ペパードは着たきりで押し通す。それは当時の風俗を反映し…ってのは無理があるなw だって、あの映画の主題はオードリーを魅力的に見せることだし。

 そして何より、カウンターカルチャーの困った点は、体制の破壊を目論むことだ。彼らは「体制」や「ルール」を敵視し、慈愛や思いやりによるやすらかな社会を求める。が、そんなのは夢だ。往々にしてルールは、それに従う者すべてに利益をもたらす。

これら(行列に割り込まないなど)のルールで大切なポイントは、ルールが設ける制約から誰もが利益を得ているということだ。
  ――第3章 ノーマルであること

 行列の割り込みぐらいで済めばいいが、無政府状態はもっと怖い。あなた、ソマリア南部やシリア北部に行きたいですか? とはいえ、内戦前のシリアも理想郷じゃなかった。北朝鮮も秩序だっちゃいるが、住みやすくはないだろう。問題はルールや体制がある事じゃない。それが適切じゃないことだ。

左派批評家が資本主義の重大な欠陥としていることのほとんどは、実際には市場の失敗の問題であって、市場がしかるべく機能していた場合の結果ではない。
  ――結論

 そんなワケで、闇雲に反逆するんじゃなく、今のルールの欠陥をキッチリ調べ、真面目に政治運動をして、法や制度を変えるよう議会に促そうよ、と著者は主張する。

個人のライフスタイルの選択は大切だ。だが誰が国を支配するのかというような伝統的な政治問題のほうが、もっとずっと大切なのだ。
  ――後記

 言いたいことはわかるし、正論でもあると思う。何より、アチコチに胸をえぐられるような指摘があって、これが実に効いている。

 とまれ、難しいかな、とも思う。だって政治や経済に口出ししようとしたら、真面目にオベンキョしなきゃいけない。それよか有機農法の野菜を買う方が楽だし。確かに思考停止だけど、「何かをしている」って満足感は得られる。イチイチ調べるのって、面倒くさいよね。

 著者が指摘するカウンターカルチャーの問題点は、カウンターカルチャーが人々の道徳性に頼っている点だ。みんなが譲り合い分け合えば、パラダイスになる。そんな発想で、制度を変えるのではなく、人々の考え方を変えようとした。これ、今思えば、一種の宗教だよなあ。

 そういう点では、著者も同じ過ちを犯している。つまり、カウンターカルチャーがラブ&ピースに頼ったように、著者も人々の勉強熱心に頼っている。「左派は有機野菜を買ってお手軽に満足するんじゃなく、真面目に政治や制度や経済を学べ」と言ってるんだから。そういうのは賢い人に任せて、後をついていく方が楽なんだよね。でもって、自分で考え出すと、人それぞれで解が違っちゃうんで、一つの政治運動としてはまとまりにくい。

 とかの文句はあるにせよ、エスニック趣味批判など私自身の好みにケチつけられてムカついたんだろ、と言われたら、確かにそれもある。他にも、フロイトの思想的な影響や、広告と売り上げの関係など、興味深い指摘も多い。広告に税金をかけろとか、面白い提言もしている。きっとマスコミがこぞって反対するだろうけど。迷惑メールをなくす方法は…これもキチンと考えると、プロバイダのビジネスモデルを理解する必要があるんで、やっぱりおベンキョしなきゃいけないんだよなあ。

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2020年12月 9日 (水)

ダニエル・C・デネット「心の進化を解明する バクテリアからバッハへ」青土社 木島泰三訳

本書の内容は、私たちの心がいかに存在するに至ったか、私たちの脳がその驚異のわざを生み出すのはいかにしてか、それにとりわけ、心と脳について、暗に潜む哲学的罠の数々に引っかからずに考えるにはどうすべきか、といった問題に関する、今のところ最善の科学的説明の素描であり、またその根幹となるものである
  ――はじめに

私たちの中には「正当化しやすい決断を好むが、必ずしも優れた決断を好むわけではない」ような才能が根を下ろしているのである。
  ――第10章 ミームの目からの視点

…発見は勝ち誇って説明するが、コストの大きな誤りや見当ちがいの探索は見過ごしてしまうものなのだ。
  ――第13章 文化進化の進化

【どんな本?】

 ヒトには心がある。その心は、どのように生まれたのか。心を持つには、どんな条件が必要だったのか。なぜヒト以外の種は心を得なかったのか。精巧な巣をつくるシロアリは、どうヒトと違うのか。そして、現在、凄まじい勢いで発達しつつあるAIは、心を持ちうるのだろうか。

 ダーウィン的な進化論および人間機械論の立場に立ち、神秘的な魂などの仮定を用いずに、ヒトが心を獲得した過程を明らかにし、またAIと共生する将来を想い描く、一般向けの哲学書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は From Bacteria to Bach and Back : The Evolution of Minds, by Daniel C. Dennett, 2017。日本語版は2018年7月18日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約600頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント47字×19行×600頁=約535,800字、400字詰め原稿用紙で約1,340枚。文庫なら上下巻~上中下巻ぐらいの大容量。

 文章はやや硬い。何せ青土社の本だし、読む人は覚悟してるだろうなあ。でも、もう少し親しみやすさにも配慮してほしい。「ないわけじゃない」等の二重否定を減らすとか、長い文は幾つかに分けるとか。

 内容は、やはり面倒くさい理屈が多い。言ってる中身そのものが難しいのもある。それに加え、著者の癖が少なくとも二つある。一つはクドいこと、もう一つは例えとしてコンピュータをやたら引き合いに出すこと。詳しくは後で述べる。

【構成は?】

 原則として前の章を踏まえて次の章が展開するので、素直に頭から読もう。ただ、後で述べる理由で、11章は飛ばしてもいい。また、気が短い人は、「第15章 ポスト知的デザインの時代」の「旅を終え、帰還へ」だけ読もう。たったの6頁で済みます。

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  • はじめに
  • 第1部 私たちの世界をさかさまにする
  • 第1章 序論
    • ジャングルへようこそ
    • この旅の鳥観図
    • デカルトの傷
    • デカルトの重力
  • 第2章 バクテリアとバッハの前に
    • なぜバッハか?
    • 前生物的世界の探求とチェスの類似点
  • 第3章 理由の起源
    • 目的論は死んだのか、復活したのか?
    • 「なぜ」の様々な意味
    • 「なぜ?」の進化 「いかに生じるか?」から「何のために?」へ
    • 前進し数を増やせ
  • 第4章 二つの奇妙な推理の逆転
    • ダーウィンとチューリングはいかに呪縛を解いたか
    • 存在論と外見的イメージ
    • エレベーターを自動化する
    • オークリッジとGOFAIの知的デザイナーたち
  • 第5章 理解の進化
    • アフォーダンスに向けてデザインされたものとしての動物
    • 志向システムとしての高等動物 理解力の創発
    • 理解力は斬新的に発展する
  • 第2部 進化から知的デザインへ
  • 第6章 情報とは何か?
    • 情報時代へようこそ
    • 私たちは意味論的情報をどのように特徴づけられるだろうか?
    • 企業秘密、特許、著作権、そしてバードのビバップへの影響
  • 第7章 ダーウィン空間 幕間として
    • 進化について考える新しい道具
    • 文化進化 ダーウィン空間を逆転させる
  • 第8章 多くの脳から作られている脳
    • トップダウン式のコンピューターとボトムアップ式の脳
    • 脳の中の競争と同盟
    • ニューロン・ラバ・シロアリ
    • 脳はいかにしてアフォーダンスを選び出すか?
    • 野生化したニューロン?
  • 第9章 文化進化における語の役割
    • 語の進化
    • 語に関するさらに詳しい考察
    • 語はいかにして自己複製〔増殖〕するか?
  • 第10章 ミームの目からの視点
    • 語とその他のミーム
    • ミーム概念の利点
  • 第11章 ミーム概念の難点 反論と答弁
    • ミームなど存在しない!
    • ミームは「離散的」かつ「信頼性のある仕方で伝達される」ものだと述べられているが、文化的変化の多くはそのいずれにも当てはまらない
    • ミームは遺伝子とは違い、遺伝子座をめぐって競合する対立遺伝子をもたない
    • ミームは、私たちが文化についてすでに知っていることに何も付け足さない
    • ミーム科学と称する者が予測力をもつことはない
    • ミームが文化の様々な特徴を説明することはできないが、伝統的社会科学にはそれができる
    • 文化進化はラマルク主義的進化である
  • 第12章 言語の諸起源
    • 「ニワトリが先か、卵が先か」問題
    • 人間の言語へ至る、複数の曲がりくねった道
  • 第13章 文化進化の進化
    • ダーウィン流の出発点
    • 人間のコミュニケーションにおける浮遊理由
    • 思考のための道具を用いる
    • 知的デザインの時代
    • ピンカー、ワイルド、エジソン、フランケンシュタイン
    • 知的デザインのランドマークとしてのバッハ
    • 人間文化に対して〔自然〕選択を及ぼす環境の進化
  • 第3部 私たちの精神を裏返す
  • 第14章 進化したユーザーイリュージョン
    • 開かれた心で心に向き合う
    • 人間の脳が「局所的」有用性を用いて「大局的な」理解を達成するのはいかにしてか?
    • 私たちの外見的イメージはいかにして私たちにとっての外見となるのか?
    • 私たちはなぜ物事をこのように経験しているのか?
    • ヒュームの奇妙な推理の逆転
    • 志向的対象としての赤い縞
    • <デカルトの重力>の正体と、それが根強い理由
  • 第15章 ポスト知的デザインの時代
    • 私たちの理解力の限界はいかなるものか?
    • 「ママ見て、ひとりでできたよ!」
    • 知的行為者の構造
    • この先私たちに何が生じるか
    • 旅を終え、帰還へ
  • 付録 本書の背景/訳者あとがき/文献表/索引

【感想は?】

 結局、私もよくわかってない。ただ、著者の意気込みはわかる。

 テーマはルネ・デカルト(→Wikipedia)の二元論への挑戦だ。

 デカルトはヒトを身体と心に分けた。じゃ心はどこから来たのか、というと、そこはムニャムニャ。対して著者は、身体で全てを説明しようとする。まあ、身体というより、脳なんだけど。

 ただ、あまり脳の医学的な部分には立ち入らない。それより、機能に注目する。いかにして様々な機能を獲得したのか。その機能とは、どんなモノか。

 ここで議論の中心軸をなすのは、ダーウィンの進化論だ。それも適者生存と突然変異の、素朴な理解で充分。まあATCGとか出てくるけど、あんまし気にしなくていいです。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式に、遺伝と突然変異が組み合わさり、当たった弾の末裔が私たちヒトであり他の生物である、そんな感じ。

 ここは、けっこうエキサイティング。私は機能としたが、著者は有能性と言っている。つまりは生き残り子孫を残すのに役立つ能力だ。

ダーウィンとチューリングは共に、人間の心について真に心休まらぬものを発見したのである――すなわち理解力なき有能性という発見を。
  ――第4章 二つの奇妙な推理の逆転

 例えばシロアリは見事なコロニーを作るが、考えて設計してるワケじゃない。Google翻訳はそこそこ使えるが、単語や文の意味はわかってない。そんな具合に、ヒトの脳も、わかっちゃいないが役に立つ、一見したら知的に見える有能性を幾つか獲得してきた。この獲得の過程も、「脳細胞同士の競争の結果だろう」ってのは、なかなかに面白い仮説だ。

脳は、知的にデザインされた共同組合や軍隊よりも、シロアリのコロニーによく似ているのである。
  ――第8章 多くの脳から作られている脳

 実際、それを支持する現象もある。ヒトは、意外な事柄に驚き、強く記憶する。例えばジェット機がビルに突っ込むとかだ。ジェット機を見たら、上空を飛び去るだろうと予想する。その予想が外れると驚く。ヒトの脳は常に予測していて、当たれば何もしないが、外れると思考回路を調整するのだ。

脳は絶え間なく「先取りモデル」ないし確率論的な予測を創り出し、得られた情報を――必要に応じて――正確さを高めるための情報の刈り込みに利用する
  ――第8章 多くの脳から作られている脳

 そうやって、生存競争の過程で幾つもの有能性をヒトは獲得した。その一つが「語」だ。

私たち人間は他の動物と同じく、必要な研究開発の見返りとして得られる目的を達成すべく、秀逸きわまる仕方でデザインされたさまざまなシステムの、無自覚な受益者なのであり、これは理解力をほとんど、あるいはまったく要せずに進化した有能性のまた別の事例である。
  ――第12章 言語の諸起源

 正直、このあたり、つまり「どのように語を獲得したか」は、よく分からなかった。が、語が便利極まりないことは、よくわかる。

語というものが、単なる状況に結びつけられた音声ではなく、私たちのおなじみの道具になってしまうと、私たちは語を用いて、自分たちが遭遇するあらゆるものについての新たな視座を創り出すようになるのだ。
  ――第15章 ポスト知的デザインの時代

 集団で狩りをするにしても、一部の者を伏兵として潜ませるとか、勢子が獲物を追い詰めるとかの手口は、相当なコミュニケーション能力が必要だろう。

 ただ、そうやって獲得した「心」を、いざ分析しようとすると、案外と私たちの「心」は役に立たない。ここでも、内省を重んじたパスカルに異議を申し立てている。

私たちの思考に対する私たちのアクセス、またとりわけ、思考のサブパーソナルな部分での因果作用や動態に対する私たちのアクセスは、実のところ消化作用に対する私たちのアクセスと大差ないものである。
  ――第14章 進化したユーザーイリュージョン

 「ヒトは内省だけじゃ自分の消化器官の事がわからないように、思考の事もわかんないんだよ」というわけ。まあ、わからないからこそ、心理学や行動経済学があるわけだし。

 とはいえ、わからんからといって、機械に任せすぎると、ソレはソレでヤバかったりする。今だって Twitter じゃBOT が暴れまわってるし。ソコには何らかの規制が必要だよねってのは、多くの人が同意すると思う。

私たちは気づいてみるといつのまにか、自分たちが間接的に作り出した存在物を自分たちが部分的にしか理解しておらず、しかもそれらの存在物が、今度は自分たちにはまったく理解できない存在を創り出すことがありうる、という状態に至っていた。
  ――第15章 ポスト知的デザインの時代

 以上、よくわからないなりに、本書を紹介してみた。

 なお、本論とは関係ないいが、逸話で「なるほど」と思ったのが、麺。極東から東南アジアまで、麺の文化は豊かに実っている。けどインドでプッツリ途絶えペルシャ・アラブ・バルカンの不毛地帯を経て、なぜかイタリアでひょこり顔を出すのだ。不思議に思っていたが、マルコ・ポーロが持ち帰ったって説があるとか。今調べたら、Wikipedia のマルコ・ポーロの項にも書いてあった。でもパスタの項を見ると紀元前四世紀の道具がローマで出土してる。うーん、結局わからん。

【著者の癖】

 さて、先に述べたように、著者には悪い癖が少なくとも二つあって、これが取っつきやすさを損ねている。クドさとコンピュータへの偏愛だ。

 クドさの原因は、予想される異論に対し丁寧に反論していること。これは「解明される宗教」でもそうだったんで、著者はそういう人なんだろう。

 本書だと11章が目立つ例だ。章一つを丸ごと使って、「ミーム」への異論を取り上げ、それにいちいち答えている。確かに姿勢としては立派だ。また、「現代の哲学じゃそういうのが流行ってるのか」と哲学全体を見渡せるのはいい。が、正直まだるっこしくて、「さっさと論を先に進めろ」と言いたくなる。

 もう一つは、やたらコンピュータの例えを使いたがること。これ、きっと著者の好みのせいだ。世間じゃコンピュータやスマートフォンの動作原理を分かってる人なんか滅多にいない。そもそもプログラミングで飯食ってる者でも、機械語を使える者は1%未満だろう。だもんで、ソースプログラムとコメントと実行コードの例は、ごく一部の者にしか通じない例えになっちゃってる。

 一般向けとしては、自動車の運転席の方が伝わりやすい。例えば電気式燃料計。

 あれ、燃料の容量そのものを表してるんじゃない。ガソリンタンク内に「浮き」があり、浮きは可変抵抗に連動してる。で、可変抵抗の電気抵抗を測り、その値を換算して燃料計に示している。にも関わらず、ドライバーは燃料計から残りの燃料を読み取るし、たいていはソレでうまくいく。もちろん、燃料計の針をイジっても、燃料は増えない。

 長々と書いたが、要は「ナニかを示す表象であって、ナニかそのものではない」、そんな例です。

 そういう点では、機動戦士ガンダムの「たかがメインカメラをやられただけだ!」は、見事な演出だったなあ。見てる人が「頭」だと思い込んでたのを、「たかがメインカメラ」と冷水を浴びせた。いやどうでもいい話だけど。

 また、プラットフォーム(OS)を選ばない例として、JAVA アプレットを出してたけど、それよか Microsoft Excel のマクロか JavaScript の方が伝わりやすいよね。もっとも、最近のスマートフォン・ユーザだと、JavaScript すら意識してないもかもしれない。

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2020年11月 4日 (水)

ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」みすず書房 夏目大訳

感覚、知性、意識というものが、果たして物質からどのようにして生じたのか。大きすぎるテーマかもしれないが、本書ではそれを考えていく。(略)
注目するのは頭足類だ。
  ――1 違う道筋で進化した「心」との出会い

頭足類のほとんどの種は色の識別ができないらしいのだ。
  ――5 色をつくる

【どんな本?】

 「心」とは、どのように生まれたのか。この疑問に対し、著者は幾つかの道筋で挑んでゆく。

 一つは、科学的・生物学的な手法だ。どんな器官が必要か。それはどんな役割を果たすのか。生き延び、子孫を残すのに、そんな役割が有利となる環境と生態は、どのようなものなのか。

 もう一つは、哲学的な手法である。ヒトの心には、どんな働きがあるのか。哲学者は、心をどう捉えてきたのか。それを「心」と呼ぶためには、どんな能力を持たねばならないのか。

 哲学者でありダイバーでもある著者は、オーストラリア東海岸の海で、多くのタコが集まる「オクトポリス」を見つける。そこで観察したタコやコウイカたちの生態と、科学・哲学にまたがる大量の文献から、一つの大胆な仮説を思い付く。

「頭足類にも心があるのではないか? もっとも、それはヒトの心とは全く違うものだろう」

 頭足類を深く愛する著者が、科学・哲学双方の知識を駆使して、「心」の問題に挑む、ちょっと変わった一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Other Minds : The Octopus, the Sea, and the Deep Origins of Consciousness, by Peter Godfrey-Smith, 2016。日本語版は2018年11月16日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約246頁に加え訳者あとがき4頁。9ポイント47字×19行×246頁=約219,678字、400字詰め原稿用紙で約550枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 この手の本にしては、文章はこなれている部類。面倒くさい問題を扱っているわりに、内容もわかりやすい。科学や哲学の概念や理屈も出てくるが、たいていはその場で基本的な事柄を説明しているので、じっくり読めばだいたい理解できる。

【構成は?】

 だいたい前の章を受けて後の章が展開する形なので、素直に頭から読もう。

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  • 1 違う道筋で進化した「心」との出会い
    • 二度の出会い、そして別れ
    • 本書の概要
  • 2 動物の歴史
    • 始まり
    • ともに生きる
    • ニューロンと神経系
    • エディアカラの園
    • 感覚器
    • 分岐
  • 3 いたずらと創意工夫
    • カイメンの庭で
    • 頭足類の進化
    • タコの知性の謎
    • オクトポリスを訪ねる
    • 神経革命
    • 身体と制御
    • 収斂と放散
  • 4 ホワイトノイズから意識へ
    • タコになったらどんな気分か
    • 経験の進化
    • 「新参者」説vs「変容」説
    • タコの場合
  • 5 色をつくる
    • ジャイアント・カトルフィッシュ
    • 色をつくる
    • 色を見る
    • 色を見せる
    • ヒヒとイカ
    • シンフォニー
  • 6 ヒトの心と他の動物の心
    • ヒュームからヴィゴツキーへ
    • 言葉が人となる
    • 言語と意識的経験
    • 閉じたループへ
  • 7 圧縮された経験
    • 衰退
    • 生死を分かつ問題
    • 老化の進化理論
    • 長い一生、短い一生
    • 幽霊
  • 8 オクトポリス
    • タコが集住する場所
    • オクトポリスの起源
    • 平行する進化
  • 謝辞/訳者あとがき/原注/索引

【感想は?】

 旧いSFファンなら、デビッド・ブリンの傑作「スタータイド・ライジング」をご存知だろう。

 あの作品だと、人類はイルカとチンパンジーに手を加えて知性を与えていた。ヒト以外に知性を持ちうる生物がいるとしたら、それは鯨類か猿類だろう、当時はそう考えていた。現代では、それにコンピュータが加わっている。いわゆる「シンギュラリティ」だ。

 いずれにせよ、肝心の問いをおいてけぼりにしている。そもそも「知性」や「心」とは、何なんだろう? たしか人工知能の学会でも、「とりあえずその問いは棚上げにしよう、今は結論が出せないし」みたいな合意に至った…と思う。

 そこにタコとイカだ。「は?」と思う人が大半だろう。そんな人に対し、著者はタコが持つ不思議な能力のエピソードを紹介していく。曰く「ヒトの好き嫌いがある」「電灯に水を吹きかけて水族館を停電に陥れた」「ヒトの目を盗んで逃げる」「タコは遊ぶ」。

 それだけなら、犬や猫などの特定の生物に入れ込んだ人には、よくあるケースだ。特に猫に関するエピソードは多い。

 本書の特徴は、それらに加えて、頭足類の神経系など、科学的な知見を多く盛り込んである点だ。神経の研究では実験動物としてイカがよく使われるように、頭足類は妙に神経系が発達している。

ごく普通のタコ(マダコ)の身体には、合計で約5億個のニューロンがある。(略)
人間のニューロン数は(略)約1000億個だ(略)
タコのニューロン数は、犬にかなり近い。
  ――3 いたずらと創意工夫

 ただ、その設計はヒトなど哺乳類と大きく違う。

タコの場合、(略)腕にあるニューロンの数は、合計すると脳にある数の二倍近くになる。
  ――3 いたずらと創意工夫

 ヒトの神経系が強力な中央集権型、つまり巨大コンピュータと多くの端末のような形なのに対し、頭足類の神経系は分散型である。ハードウェアが違うんだから、そこで走るソフトウェアもまったく違うだろう。

 とはいえ、生物の進化は、まずもって要らない器官を発達させない。そこで著者は、「そもそもなぜ神経系が必要なのか」「神経系は何をやっているのか」から迫ってゆく。ここでは、単細胞生物から多細胞生物への進化から始まる議論が、なかなかに面白い。つまりは刺激を受けて行動するまでの間、生物の神経系は何をしているのか、みたいな話である。

 ここでは環境も大きな役割を果たす。食うか食われるかの関係は、神経系の発達を促す。食う側は獲物の動きを予測できれば有利だし、食われる側も脅威の行動が判れば逃げやすい。カンブリア紀以降に、この淘汰圧が強くなったと著者は語る。

この時点(カンブリア紀)以降、「心」は他の動物の心との関わり合いの中で進化したのだ。
  ――2 動物の歴史

 もちろん、神経系には別の働きもある。私たちの目は、動くモノを捉えるのが巧みだ。ただし、視神経が捉えた変化を、「動いた」と解釈してはマズい。そうした場合、単に首を傾げただけでも「世界が動いた」と解釈してしまう。自分の動きも、計算に入れなければならないのだ。別の言い方をすると、計算に入れられれば、動きを捉えられる。

 ヒトの場合、このシステムは意外と柔軟性が高い。本書では、視覚障碍者向けの視覚代行器を紹介している。

視覚代行器のシステムは、その映像情報を、圧力や振動などのパターンに変換して、使用者の背中へと伝える。訓練を積んだ使用者は、単に背中に圧力や振動を感じたという風には経験しない。目の前を何かの物体が通り過ぎたと感じるのだ。ただし、そういう現象が起きるのは、使用者がカメラの操作をできる場合に限られる。
  ――4 ホワイトノイズから意識へ

 ソレを思い通りに制御できれば、自分の体の一部だと認識できるのだ。ベテランのタクシー運転手が自動車を自分の体のように扱えるのも、この働きによるものだろう。逆に下手なドライバーは、自分が運転している自動車の位置や形がよくわからない。だから縦列駐車は難しい。

 つまり、神経系の発達には、体の形が重要な意味を持つ。ところがタコは…

タコには、体が決まった形を持たないという稀有な特徴がある。
  ――4 ホワイトノイズから意識へ

 うーむ、これは困った。しかも、著者には更なる追い打ちが待っている。

ジャイアント・カトルフィッシュのように大きく複雑な構造を持った動物でも、寿命は非常に短いのだ。わずか1,2年しか生きない。
  ――7 圧縮された経験

 ここでは動物を分類する際の基準として、一生のうちの生殖の回数、つまり一生に一回だけ生殖するホタルと、何度も生殖する哺乳類の違いなどの話も興味深かった。そういう分け方もあるのね。

 などと絶望に叩き落した末に、「8 オクトポリス」では鮮やかな逆転の目を見せてくれるから嬉しい。

オクトポリスを観察していると、タコがこれから先、今とは違った生物に進化し得る道筋の一つが垣間見えるのは事実である。
  ――8 オクトポリス

 そう、私はこの章で、デビッド・ブリンともシンギュラリティとも違う、もう一つの「知性化」の方法を思い浮かべたのだ。デビッド・ブリンの手段が改造、シンギュラリティが創造なら、本書の手段は「養殖」とでも名付けるべきか。

 「心」とは何か。それはどのように生まれたのか。何が必要で、それを育てる環境と生態はどんな状況か。そしてヒト以外に「心」を持つ生物は存在しえるのか。哲学的に大きな問いであると同時に、ファースト・コンタクトSFが好きなSFファンにはたまらなく楽しい問題でもある。ケッタイな異星人が好きな人には、とても美味しい本だ。だからと言って異星人がタコ型であるとは限らないけどw

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【今日の一曲】

The Beatles - Octopus's Garden

 タコといえば、もちろんこの曲。読んでいる最中、この曲が頭の中で流れっぱなしで、なかなか読み進められなかったw

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2020年10月 1日 (木)

カール・シファキス「詐欺とペテンの大百科」青土社 鶴田文訳

詐欺という太陽の下には、実は目新しいものはなく、すべての手口は、古くからある詐欺の新しい形にすぎない
  ――序

物理学者がほとんど霊能者のインチキを見抜くことができないのは、注目すべきである。こういうことは、騙すことが仕事の手品師や奇術師に任せた方がいい。
  ――スレ―ド、ヘンリー 偽霊能者

ファーガスンの一番の大成功は、自由の女神をたった十万ドルの前金でお人好しのオーストラリア人に売りつけたことだった。
  ――ファーガスン、ア-サー 詐欺師に転身した俳優

ミケランジェロ(1475~1564)の伝記作家の多くが言及していることだが、巨匠自身贋作者として画家生活を始めたのである。
  ――ミケランジェロ 美術品贋作者

【どんな本?】

 つり銭詐欺、デンスケ賭博、投資詐欺。世の中には昔から様々なペテンや詐欺がある。本書は、缶詰作戦(→Wikipedia)のように国家ぐるみで世界史に影響を与えたものから、今でも絶えない投資詐欺やインチ療法など悪質な詐欺やペテンに加え、「氷ミミズのカクテル」など人をかつぐのだけが目的のイタズラ、ワシントンと桜の木など流布してしまったデッチアゲ、世間を騒がせたデマ、有名な詐欺師など、多くの実例を集めたものだ。

 本書の大きな特徴は、それらのペテンを敢えて分類はせず、事典風に語順で並べた点にある。読者は続々と続く奇妙な記事に呆れ怒り悲しみ笑い、歴史を通して変わらぬ人の悪知恵と愚かさを思い知った挙句、多くの事件に共通するパターンが次第に見えてくるだろう。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Hoaxes and Scams : A Compendium of Deception, Ruses and Swindles, by Carl Sifakis, 1993。日本語版は1996年に青土社より初版、私が読んだのは新装版で2001年10月25日第1刷発行。単行本ハードカバー縦二段組み本文約543頁に加え序6頁+訳者あとがき2頁+新装版のためのあとがき2頁。8ポイント28字×23行×2段×543頁=約699,384字、400字詰め原稿用紙で約1,749枚。文庫なら3~4冊ぐらいの巨大容量。

 文章は皮肉なユーモアに満ちていて親しみやすい。内容も特に難しくない。

 著者がアメリカ人のため、アメリカや西欧の例が多い。だが、殻ゲームはデンスケ賭博とソックリだったりと、騙しの手口は似通っているので、あまり気にならない。敢えて言えば、日本人にはあまり馴染みのない小切手(→Wikipedia)を使うセコい詐欺が多いぐらいか。また、郵便を使う手口は、そっくりそのまま媒体を電子メールに替えて今も盛んに使われている。

【構成は?】

 本文の「詐欺とペテンの大百科」は、詐欺の実例を50音順の事典風に並べたもの。なので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。


謝辞
詐欺とペテンの大百科
訳者あとがき
参考文献

【感想は?】

 ミステリ・ファンには薦めていいのか悪いのか。

 冒頭の引用にあるように、詐欺の手口の多くは、昔も今もまったく変わらない。その代表は投資詐欺だろう。手口はみな同じだ。

  1. 「金鉱が見つかった」「高配当の株がある」などと触れ回り、投資を集める。
  2. 集めたカネから、気前よく配当を払う。
  3. 配当を受け取ったカモたちは、知人友人に触れ回る。
  4. 噂に釣られたカモたちもペテン師に投資する。
  5. 上の 2.~3. を繰り返し事業を大きくする。
  6. やがて会計監査が入りウソがバレて破綻する。

 この手のペテンは被害金額が大きく、往々にして米ドルで億を超える。また政治家や財界の大物が絡む事件が多く、大きなスクープにもなるが、たいてい真相は藪の中だったりする。なんか納得いかん。

 やはり似ているのは沼地詐欺師だろう。手口は原野商法(→Wikipedia)と全く同じで、ロクでもない土地を「将来有望な土地」と称して高値で売り飛ばす。これの教訓は単純で、現物を自分の目で確かめろ、だ。

 やはり今も相変わらず栄えているのがニセ薬だ。男ってのは馬鹿な生き物で、下半身が絡むと理性が9割ほど蒸発する。だもんで回春剤は定番商品。いや今はバイアグラが出てきたんで状況が違うのかもしれないが。中には賢い奴もいて…

回春剤詐欺師は当局の取締を恐れているので、この頃は製品を『驚異のプラセボ薬』と広告している者もいる…
  ――回春剤 不朽のインチキ療法詐欺

 …ああ、うん、確かに嘘はついちゃいないw

 そんな風に、被害者が訴えにくい手口も多い。わかりやすいのが偽札製造機。いろいろと口上を述べた上に、ちゃんと実演もするのだ。もっとも、その際には予め本物のお札をセットしておくんだけど。引っかかった被害者も、通貨偽造を企てた弱みがあるから、訴えられない。続く項目には偽札の通信販売なんてのも。

 この手のペテンの狙いは、「楽してズルしていただきかしら!」な奴をカモにすること。やはり訴えようがないって点が似てるのは、酒場の酔っ払いを騙す手や、イカサマ博打だろう。イカサマでも賢いと思うのは、ティー倒し。リチャード・ファインマン原作で福本伸行作画なんて異色コンビの漫画になりそうな手口だ。

 ビリヤードの台の上に、ゴルフ用のティーを立てる。それを囲んで三つのビリヤードの玉を置く。もう一つ玉を取り出し、それをキューでついて、先の三つの玉に当てる。ティーが倒れればあなたの勝ち、倒れなければ私の勝ち。

 これ、玉の置き方がキモなのだ。三つをピッタリくっつけて置くと、倒れない。隙間が空いてると倒れる。後は話の持ち掛け方でカモを翻弄すればよろしい。まあ、博打なんてイカサマもバレなきゃ勝ちって世界だしなあ。

 とかの殺伐とした話も多いが、喝采したくなる話もある。

 その一つがデボラ・サンプソン。アメリカ独立戦争に従軍する。勇敢な兵士として戦友からは尊敬され、清潔なイケメンなので女にもモテモテ。何人かの女にしつこく言い寄られた彼は、上官ジョン・パターソン少将に打ち明ける。彼は女だったのだ。

 こういう、男のフリして職に就き、優れた実績で尊敬を集めた女の話も幾つかあって、時代を感じてしまう。

 かと思えば、いかにもアメリカらしいユーモラスなネタもある。中でも傑作なのが、「シカゴ以西で最も物騒な町」。1870年代、ネヴァダ州パリセードは物騒な町として有名だった。列車が止まると、乗客は真実を目の当たりにする。保安官と助手は銀行強盗一味と銃撃戦を繰り広げ、目抜き通りではインディアンが馬で駆けながらライフルを乱射して女子供も構わず虐殺に興じていた。

 …というのは、人口290人の町ぐるみのヤラセ。地元の軍までグルだったというから酷いw それもこれも町おこしのため。しょうもないw 実際は物騒どころかノリがよくて楽しい人たちだったんだろうなあw

 似たようなのでデッチアゲやデマの類も幾つかある。有名なのはポール・マッカートニー死亡のデマ。アルバム「アビーロード」のジャケットじゃポールだけ裸足だし。噂を聞いたマッカートニー曰く…

「僕が死んでいるなんて、自分でも知らなかった」
  ――ポールが死んだ! ビートルズの死のデマ

 だろうなあw 関係ないけど、同じデマでも日本やイギリスは「○○が死んだ」って形のが多く、アメリカじゃ「○○は生きている」って形が多いって聞いたような気が。「エルヴィス・プレスリーは生きている」とか。それをネタにした「ババ・ホ・テップ」は…えっと、エルヴィスのファンは読まない方が幸福です。

 中には私が騙されてたのも幾つかあって、例えばジョージ・ワシントンと桜の木。あれ作り話かい。許すまじマロン・L・ウィームス牧師。やっぱり有名なヴォルテールの「あなたが言う事には一切同意できないが、あなたがそれを言う権利は死んでも守ってみせる」も…

1935年に、(E.ビーアトリス.)ホールがその引用句をでっち上げたことをクリストファー・モーリーと『土曜書評』に告白した…
  ――ヴォルテールの有名な引用句 作り話

 酷いw 信じてたのにぃ…と思ったら、Wikipedia にはちゃんと「ヴォルテールの名言とされてきた文言」と記されてた。

 もっとも、ホンモノになっちゃった作り話もある。オランダの「堤防の孔を指で塞いだ少年」だ。元はアメリカ生まれのメアリー・メイプス・ドッジによる1986年の児童文学「ハンス・ブリンカーまたは銀のスケート」に出てきたエピソード。これを信じ込んだ米国人観光客が後を絶たないので、オランダも音を上げ1950年に少年の像を立てた。お陰で観光客も増えましたとさ。

 そんな罪のないネタもあれば、行き詰まった人からなけなしの財産を巻き上げる酷い話も多い。50音順と愛想のない構成ながら、つらつらと読んでいくと、幾つかのパターンが次第に見えてくるのも面白かった。漫画や小説など物語に使えそうな話も多く、ネタに詰まった時に開くのも一興かも、ただし、熱中して締め切りを過ぎても私は一切責任を取らないので、そのつもりで。

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2020年8月 6日 (木)

ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上・下」岩波書店 幾島幸子・村上由見子訳 4 イラク編

「(イラク経済の)民営化のことなんか誰一人気にしちゃいませんよ。彼らは生き延びるだけで精一杯なんです」
  ――第16章 イラク抹消

「まだ流血が続いているときこそが投資に最適の時期です」
  ――第16章 イラク抹消

 ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上・下」岩波書店 幾島幸子・村上由見子訳 3 から続く。

【どんな本?】

 民営化・規制緩和・社会支出の大幅削減を目指す経済学者集団シカゴ・ボーイズは、その政策を進める方法ショック・ドクトリンを見いだす。災害に見舞われ人々が呆然としているスキに、手早く政策をまとめ実施してしまえ。

 やがて彼らは気づく。手をこまねいて災害を待つ必要はない。人為的に災害を起こせばいい。

 彼らの目論見はネオコンが率いるブッシュJr.政権で日の目を見る。標的はサダム・フセインが支配するイラク。ここを政治的に更地にして過去のしがらみを断ち切り、シカゴ・ボーイズが理想とする政体を作り上げよう。

 経済学者のミルトン・フリードマン率いる新自由主義者シカゴ・ボーイズとIMF(国際通貨基金)および世界銀行の蛮行を暴く、驚愕のドキュメンタリー。

【はじめに】

 この記事ではイラク戦争(→Wikipedia)と占領政策を描く第16章~第18章を紹介する。私はここが最も面白かった。ニワカとはいえ軍ヲタで、「戦争請負会社」「戦場の掟」「ブラックウォーター」などでソレナリに知ったつもりになっていたのもある。

 現場で何が起きているのかは、多くの本で描かれている。「兵士は戦場で何を見たのか」などは、とても生々しい。だが、そもそもなぜブッシュJr.政権がイラク侵攻に拘ったのかは、見えてこなかった。タテマエ上は大量破壊兵器が云々だったが、それは良くて被害妄想、下手すりゃデッチアゲだとバレている。改めて思えば、当時のブッシュJr.政権は異様に執着していた。

【動機】

 これに対しミルトン・フリードマンはこう語る。

「われわれがイラクで行おうとしているのは国家の建設ではない。新たな国家の創設である」

 つまりシカゴ学派の理想郷を建設しようというワケだ。理想の社会を築くため、今ある国家の破壊も辞さない。もはや経済学者というより狂信者であり、手段は自由主義というよりクメール・ルージュにソックリだ。

【占領】

 もっとも、CPA(連合国暫定当局)にはクメール・ルージュほどの兵員はいない。そもそも治安維持への熱意が欠けていた。代表のポール・ブレマーが最初に打った手は経済政策で貿易の自由化だ。経済封鎖を受けていたイラクにとってはありがたい…

 ワケじゃない。なにせチグリスとユーフラテスの地だ。人類史上の貴重な資料が山ほどあり、市場じゃ高値がつく。そして多国籍軍は兵力が足りず、博物館の警備に余計な人員を割けない。だもんで、イラクの博物館や図書館は大規模な略奪の被害に遭う。そこで貿易を自由化だ。賊どもは戦利品をやすやすと国外に持ち出せる。

 だけでなく、国家所有の車やトラックなども続々とパクられた。なにせフセイン政権下のイラクは社会主義で、事業資産の多くは国家所有だ。となれば損害は膨大なものになる。だが、合衆国企業は大喜びだった。

「プログター&ギャンブルの製品をイラクで流通させる権利が得られれば、金鉱を当てたようなものだ」
  ――第16章 イラク抹消

 モノがなければ有望な市場ってわけだ。にしても、せめてウォルマートやフェデックスが全国展開できるぐらいに治安が良ければ、イラクの人にも恩恵があったんだけどねえ。

【占領】

 そんな新自由主義者が手本としたのは、東欧崩壊後のポーランドとソ連崩壊後のロシアである。特にロシアでは大きなミスを犯してしまう。国営企業を買い漁る際、ロシア人に仲介させたため、転売ヤーであるオリガルヒの台頭を許してしまったのだ。そこで合衆国政府はキッチリとタマを握る。

 代理人であるポール・ブレマーに仕切らせ、IMFも世界銀行もカヤの外に置いたのだ。イラク暫定政府は単なる飾り物にすぎない。そしてブレマーは徹底した新自由主義社会を築こうとする。

ある法律は、それまで約45%だった法人税を一律15%へと引き下げ(略)、別の法律は、外国企業がイラクの資産を100%保有することを認めた。(略)投資家はイラクで上げた利益を100%無税で国外に持ち出せるうえ、再投資の義務もなかった。
  ――第17章 因果応報

 海外の投資家の皆さん、存分にイラクを食い物にしてください、そういう法律である。これをドナルド・ラムズフェルド国防長官は絶賛する。

ラムズフェルド国防長官は上院の委員会で、(アメリカ代表特使ポール・)ブレマーの「抜本的な改革」によって「自由世界でも有数の賢明かつ魅力ある税法および投資法」が誕生したと証言した。
  ――第17章 因果応報

 そりゃ確かに投資は活発になるだろう。企業が盛んに進出すれば仕事も増える。折しもバース党員の追放で街には失業者でいっぱいだ。彼らだって仕事を得られれば嬉しい。となるはずが…

 「戦場の掟」で、ひっかかる所があった。民間軍事企業が雇うトラック・ドライバーは、なぜかパキスタン人ばかりなのだ。地元に失業者がたくさんいるんだから、地元の者を雇えばいいのに。なぜワザワザ外国から人を連れてくる?

 「アメリカン・スナイパー」では、基地で働くイラク人を SEAL の著者がからかう場面がある。多少は地元の人を雇っていたらしい。が、やはり抵抗組織のスパイが紛れ込むのは怖かった。逆らわないパキスタン人の方が都合がよかったのだ。パキスタン人は現地のアラビア語もわからないから、地元の抵抗組織に寝返ったりしないだろうし。ま、少々費用がかさんでも、原価加算方式だしね。

 「ブラックウォーター」ではブッシュJr.政権とキリスト教カトリックの関係を暴いていたが、本書も右派キリスト教の選挙協力やモルモン教との関係にも触れている。「カルトの子」でも統一協会の自民党への選挙協力が書いてあったけど、どの国でも宗教組織と保守系政党の癒着があるんだなあ。

【叛乱】

 当然、イラク人の中には不満が渦巻き、グリーンゾーンの外では職を求めるデモが続く。対する合衆国の対応は、力づくで抑え込むこと。その象徴がアブグレイブ刑務所での捕虜虐待(→Wikipedia)である。

「アブグレイブは反米抵抗勢力の温床となった。(中略)辱めや拷問を受けた連中は今すぐにでも報復してやろうという気になった」
  ――第18章 吹き飛んだ楽観論

 これ「倒壊する巨塔」でエジプトの刑務所でサイイド・クトゥブが過激化し、「ブラック・フラッグス」でザルカウィが覚醒したのと同じ構図じゃないか。米軍は、わざわざ敵を筋金入りに鍛えていたのだ。

【決算】

 そうやって海外からの投資を促した結果、果たして効率はよくなったのか、というと…

イラク復興事業の監査にあたったスチュアート・ボーウェン特別監査官の報告によれば、イラク企業が直接契約した数少ない事業のほうが「効率的かつ安価であり、イラク国民に職を与えたことで経済も活性化させた」という。
  ――第18章 吹き飛んだ楽観論

 金を無駄遣いして無意味に血を流したあげく、経済も悪化させた、と。いいことなしじゃん。でも、ブラックウォーターにとっては、そっちの方がいいのだ。だって治安が悪くなれば護衛の仕事が増えるし。

【おわりに】

 やたら興奮して書いたため、支離滅裂な記事になってしまったが、それぐらいこの本はエキサイティングで面白かったのだ。とりあえず鼻息の荒さだけでも伝われば幸いです。

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