カテゴリー「書評:ノンフィクション」の178件の記事

2024年8月25日 (日)

サイモン・マッカシー=ジョーンズ「悪意の科学 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」インターシフト プレシ南日子訳

正義を守るのは気分がいい
  ――第2章 支配に抗する悪意

人々は明らかに報復のために行動している場合でも、それに気づいていない。
  ――第4章 悪意と罰が進化したわけ

不公平な行動をした他者を罰するのは高いコストがかかるため、人間は自分たちの代わりに罰を与えてくれる神を生み出したのだ
  ――第7章 神聖な価値と悪意

神聖な価値は何よりも優先されるものであり、交渉の余地はない。
  ――第7章 神聖な価値と悪意

【どんな本?】

 人間はときおり理屈に合わないことをする。その一つが「意地悪」だ。自分が損をしてでも、他の者に害を及ぼそうとする。、本書はそんな行いを悪意と呼ぶ。

 では、どんな者が悪意を抱き、行動に移すのか。どんな動機・目的があり、どんな効果があるのか。生存競争で悪意は何か機能を果たしているのか。そして現代社会に悪意はどんな影響を与えているのか。

 経済学者は、功利主義者が多い。そのためか、彼らは悪意を見過ごし、または愚かさとして軽んじてきた。だが、時として悪意は社会に大きな影響を与えてしまう。

 臨床心理学と神経心理学の準教授が、悪意に基づく行動にスポットをあて、脳の機構から様々な実験そして社会現象など多様な挿話を取り上げ、生理学・生物学・心理学・経済学・社会学など多くの分野にまたがる視点で調べ分析し、その原因や社会に与える影響を語る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Spite : and the Upside of Your Dark Side, by Simon McCarthy-Jones, 2020。日本語版は2023年1月30日第1刷発行。私が読んだのは2023年4月15日発行の第2刷。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約225頁に加え、本書出版プロデューサー真柴隆弘の解説4頁。9.5ポイント44字×17行×225頁=約168,300字、400字詰め原稿用紙で約421枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章は比較的にこなれていいる。内容も特に難しくない。人と人との関係がテーマの本なので、誰にとっても身近な話でもあり、興味が持てる本だろう。

【構成は?】

 はじめに~第3章までは基礎を固める部分なので、頭から読んだ方がいい。以降はつまみ食いしてもいいだろう。

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  • はじめに 人間は4つの顔をもつ
    なぜ悪意は進化で失われなかったか?/悪の中にある全の起源
  • 第1章 たとえ損しても意地悪をしたくなる
    人間観をくつがえす研究/悪意に満ちた入札/最後通牒ゲームによる発見/配偶者や恋人への悪意/ビジネスでの悪意/選挙における鮎喰/終末論的な人/Dファクター
  • 第2章 支配に抗する悪意
    平等主義はなぜ生まれたか?/ホモ・レシプロカンス/文化が違えば公平さの基準も違う/正義中毒/怒りと脳/共感は人間が本来持っている?/コストのかかる第三者罰/安上がりな悪意/善人ぶる人への蔑視/悪意のソーシャルネットワーク
  • 第3章 他者を支配するための悪意
    ホモ・リヴァリス/限られた場所での競争/セロトニンが減ると悪意が高まる/勝負に役立つ
  • 第4章 悪意と罰が進化したわけ
    悪意をもたらす遺伝子/公平さと罰の起源/オオカミがヒツジのふりをする
  • 第5章 理性に逆らっても自由でありたい
    ブレイブハート効果/ドストエフスキーと実存主義的悪意/不可能を可能にする
  • 第6章 悪意は政治を動かす
    勝たせたくないから投票する/カオスを求める人々/悪意を刺激する/「悪党ヒラりー」/挑発的なメッセージと菜食主義/専門家にはうんざり/エリートが過剰になるとき
  • 第7章 神聖な価値と悪意
    神と罰/自爆テロ犯はなぜ生まれるか?/神聖な価値への冒とく/社会的疎外/宗教が新しいストーリーを提供する/アイデンティティ融合/人々の協力を促し、地球を救う方法
  • おわりに 悪意をコントロールする
    インターネット上の悪意にどう対抗するか?/気難しい性格と創造力/民主主義を弱らせないために/慈悲の怒り
  • 謝辞/原注/解説

【感想は?】

 日本語で「悪意」と書くと、悪いことのように感じる。だって「悪」って文字が入ってるし。

 とはいえ、悪意は必ずしも害ばかりをもたらすわけではない。確かに短期的には害をもたらす。悪意を持つ者・悪意を向けられる者の双方に。だが、長期的には利益をもたらす場合もある。もちろん、害ばかりの場合もあるんだが。

 悪意は誰にどんな利益があるのか。脳のどこが悪意を産むのか。文化や環境や心身の状態による違いはあるのか。ヒト以外の生物は悪意を持つのか。そして悪意は社会をどう変えるのか。そういった事柄を、本書は追及していく。

 その基盤を成すのは、著者が「最終通牒ゲーム」と呼ぶ心理学の実験だ。

 被験者は二人。被験者Aは10ドルを受け取り、被験者Bと分け合う。取り分の割合はAが決める。Bが納得すれば、Aの決めた金額で取引が成立し、双方が金を受け取る。だがBが取引を拒んだら、A・B双方が一銭も受け取れない。

 Bの立場で考えよう。自分の利益だけで動くなら、取り分がどれだけ少なくても納得した方が得だ。だが、取り引きを拒む人もいる。自分の取り分を失ってでも、Aの取り分を潰したいのだ。

 その理由は幾つかあるが、基本的には「ナメんじゃねえ」である。取り分が半々なら、なんの問題もない。だが、自分の取り分が極端に少ない場合は、全てをチャラにしたくなるのだ。

あなたが誰かに腹を立てれば、彼らはあなたにもっと気を使わなければならなくなる
  ――第2章 支配に抗する悪意

悪意は他者を利用するためにも他者から利用されないようにするのにも役立つ。
  ――おわりに 悪意をコントロールする

 と、周囲の者を牽制することもできる。本書が扱うのは個人の行動だが、組織や国家も悪意で動く事はある。大国が核ミサイルを突きつけ合うのが、その典型だ。「俺に撃ったらお前も滅びるぞ」って理屈ね。そう考えると、世界を理解するのに悪意は欠かせない概念でもある。

 ちと先走った。本書は、先の実験の様々なバリエーションも見てゆく。金額を10倍にしたり、酔っぱらいを被験者にしたり、ケニアやモンゴルなど世界各地の人で試したり。

 その結果、被験者の状況や生まれ育った文化・社会によって、悪意の現れ方が大きく違うのも見えてきた。金持ち喧嘩せずは、そこそこ当たってたりする。

 などの、「どんな者が悪意を抱くのか」も興味深いが、それ以上に危機感すら覚えるのが、「誰が悪意を持たれやすいか」だ。これを扱っているのは「第6章 悪意は政治を動かす」で、2016年の合衆国大統領選のドナルド・トランプvsヒラリー・クリントンを掘り下げてゆく。

この選挙は激戦で、両候補の差はわずかだった。それだけに、「悪意が切り札となった」説には説得力がある。が、落ち着いて考えると、ほんのわずかであっても、両候補に差をもたらす原因は何だって切り札となってしまう。つまり悪意じゃなくても、例えばトランプ陣営はSNSの使い方が巧かったとしてもいい。が、この記事でそれを言うのは野暮だろう。

 ここで調べているのは、いわゆるアンチ票である。嫌いな候補者の対立候補に投票した人、だ。両候補ともにアンチはいるが、ヒラリーの方が嫌われやすい。いわゆる「いけすかない」のだ。

 その要因の多くは、日本のリベラルや左派の政治家や支持者にも多く見られる。その理由を知ると、アンチに対し思わず「愚かな真似を」と言いたくなるが、まさしくその言葉こそがアンチを増やしているのだ。誰だって、見下されたり愚か者扱いされたらムカつくし。

 ではなぜリベラルが嫌われるか。その理由の一つは、リベラルは理性で考え決断を下すからだ。なんか理屈に合わないようだが…

理性はリソースを必要とする。
  ――第5章 理性に逆らっても自由でありたい

 理性的に考え判断するには、相応の知識と思考能力が必要だ。だが、日々の暮らしに追いやられている者には、知識を蓄える余裕も、深く考える時間もない。貧しくて進学できなかった者は、高学歴の賢そうな奴のご高説なんざ聴きたくないのだ。貧しい者の味方であるはずのリベラルが、その貧しい者から嫌われる原因が、ここにある。

 また、正論で追い詰めるのもよくない。

人間は正しくあるよりも自由でありたいと願うものだ。
  ――第5章 理性に逆らっても自由でありたい

 これまた「お前は正しいかもしれんが、いけすかない」って気持ちだろう。

 いずれにせよ、これらは理屈や利害ではない。感情の問題である。政治が感情で動くなんて…と嘆きたくもなるが、有権者の感情を逆なでしたら選挙で負ける。勝ちたければ、人の感情についてキチンと学び、落ち着いて考え相手の感情に配慮して行動すべきだろう。

 経済学の基本、「人間は合理的に考え自分の利益を最大化すべく行動する」という前提に異議を唱え、実験やアンケートで仮定を実証し、今まで見過ごされてきた人間のもう一つの行動原理を明らかにした本。

 というと凄い大発見のようだが、私たちの身の回りにも悪意は満ちあふれている。いささか居心地の悪い「あるある」集として読んでもいい。政治的には右派より左派向けで、それも「もちっと選挙を巧く戦いたい」と考える人には得る物が多い。もちろん、政治に興味は薄いが人間には深い興味がある人にもお薦め。

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2024年5月31日 (金)

マシュー・ウィリアムズ「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき」河出書房新社 中里京子訳

本書の読者は、偏見がヘイトクライムに変わるティッピングポイント(転換点)を探ってゆく過程で、有史以前の祖先から21世紀の人工知能までを含めた、全世界にまたがる旅をしてゆくことになる。
  ――第1章 憎むとはどういうことか

人には自分と同じような人を好む傾向があるという強力な証拠がある。
  ――第4章 私の脳と憎悪

「支配集団のメンバーは、下位集団からの脅威を感じたときに、偏見や憎悪を表す傾向が強い」
  ――第5章 集団脅威と脳

イスラム過激派のテロ攻撃は、他の動機に基づくテロ攻撃に比べて約375%も多く報道されるため、一般の人々はこの種の事件から受ける脅威の印象を膨らませてしまう。
  ――第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減

過激主義者の脳は、仲間の影響を受けるという点では、我々のものと同じなのだ。自爆テロをやろうとしている者に、その行動を考え直させるには、仲間の力を借りるのが一番だ。
  ――第8章 憎悪を生み出す過激派のカルチャー

政治家やメディアから、「自分たちとは違う人たちのせいで人生が損なわれている」と告げられたときには、彼らの動機を常に疑い、誤情報や偽情報を見つけたら、自分の脳内で発令された非常警報を解除することが必要だ。
  ――第11章 偏見が憎悪に変わるティッピングポイント

【どんな本?】

 本書が扱う憎悪は、憎悪犯罪=ヘイトクライムのヘイトだ。外国人・〇〇教徒・同性愛者・障碍者など、ある特徴・属性の者全体への敵意や憎しみである。恥をかかされた・迷惑をかけられた・恋人を奪われた等の理由で抱く、特定個人への恨み・妬み・復讐の念は含まない。

 同性愛者の著者は、若い頃に同性愛者狩りの被害を受ける。以来、著者は犯罪学を学び、憎悪犯罪の被害者・加害者双方について調査・研究を始めた。その成果の一つが本書である。

 憎悪犯罪の根本には何があるのか。犯罪者に共通した特徴はあるのか。それは生来のものか、環境によるものか。どんな環境が犯罪を増やすのか。大きな事件の報道は憎悪犯罪に影響を与えるのか。インターネットの荒らしやボットは加害者・被害者にの変化を促すのか。そもそも憎悪犯罪は、どう定義すべきか。そして憎悪犯罪を防ぐため、私たちには何ができるのか。

 英国の犯罪学教授による、一般向けの憎悪犯罪の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Science of Hate : How Prejudice Becomes Hate and What We Can Do to Stop It, by Matthew Williams, 2021。単行本ハードカバー縦一段組み本文約371頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント46字×21行×371頁=約358,386字、400字詰め原稿用紙で約896枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらいの分量。

 文章はやや硬い、というか学者の文章だ。まず、言葉が堅苦しい。これは賢い人にありがちなパターン。また、結論を断言せず、「と思われる」「可能性がある」みたく、煮え切らない文章が多い。これも、学者らしく正確を期する姿勢の表れだろう。

 内容は特に難しくない。いや難しい部分はあるんだ、脳の部位の偏桃体とか。でも、「そういう部位があるのね」ぐらいに考えて読み飛ばしても、まったく問題ない。つまりは最近の学者らしく「様々な視点や方向性から仮説を試してます」と言いたいだけだから。こういう所はまだるっこしくはあるんだが、同時に根拠や検証方法を明らかにして信憑性を高めてもいる。

 結論として、この手の本を読み慣れていないと取っつきづらく感じるかも。全部を正確に理解しようとするとシンドイけど、面倒な所を読み飛ばすコツを心得ていれば楽しく読める。

 あ、それと、政治的にリベラルで、右派、特に極右には批判的な姿勢なので、そこは覚悟しよう。

【構成は?】

 頭から読む構成だが、気になる所だけを拾い読みしても充分に楽しめる。

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  • プロローグ 憎悪とともに生きる
  • はじめに
  • 第1部 憎悪の基盤
  • 第1章 憎むとはどういうことか
    “憎む”とはどういうことか
    ヘイターのプロファイル
  • 第2章 ヘイトクライムの発生件数
    いつ、どのように数えているか
    ヘイトクライムの件数は増えているか
  • 第3章 脳と憎悪
    柔らかい灰色の鎧の下で
    脳内の憎悪領域を同定する
    私たちを憎悪に押しやる領域
    憎悪をいだいているとき、脳の他の部分は何をしているのか
  • 第4章 私の脳と憎悪
    脳のスキャンを行ってくれる神経科学者を探す
    憎悪を調べる神経科学のつまずき
    脳を超えて
  • 第5章 集団脅威と脳
    集団脅威の検知における進化
    人間の生物学的特徴と脅威
    社会、競争、脅威
    カルチャーマシン、集団脅威、ステレオタイプ
    驚異の“認識”を中和する
    脅威を超えて
  • 第2部 憎悪の促進剤
  • 第6章 トラウマ、コンテインメント、憎悪
    “平均的な”ヘイトクライム犯
    “例外的な”ヘイトクライム犯
  • 第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減
    憎悪の引き金を明らかにする
    私たちの心理とトリガーイベント
  • 第8章 憎悪を生み出す過激派のカルチャー
    意義の探求と極端な憎悪
    神が私にそうさせた
    戦士の心理
  • 第9章 ボットと荒らしの台頭
    入れたものが返ってくる
    ヘイトスピーチはどれぐらいネットで蔓延しているか
    棒きれと石
    法律はそれを阻止できるか
    ソーシャルメディア企業はそれを阻止できるか
    私たちはそれを阻止できるか
  • 第10章 言葉と行動による憎悪行為
    極右勢力にとってのゲームチェンジャー
    「現実世界における取り組みの投稿」
  • 第11章 偏見が憎悪に変わるティッピングポイント いかにしてそれを防ぐか
    次に起こるヘイトクライムの予測
    憎悪をなくすための七つのステップ
    20年間の研究でわかった攻撃者(と私)の特徴
  •  謝辞/訳者あとがき/原注/索引

【感想は?】

 書名に「科学」とある。が、残念ながら、現状は科学と言えるレベルにない。

 いや著者は科学であろうとしているのだ。できる限り統計を取り分析し、また様々な脳スキャンを試したり。ただ、なにせ相手は人間でだ。わかっていないことが多すぎる。脳スキャンにしても、「偏桃体が活性化したのは分かるが、憎悪をいだいてるとは断言できない」と、慎重な姿勢を保つ。

 こういう所がまだるっこしくもあるが、同時に誠実でもある。例えばデータだ。本書は米国と英国の統計や事例を主に扱っている。これはヘイト・クライムの扱いが両国は比較的に厳しく、データを集めやすいからだ。たぶん、言語の問題もあるんだろうけど。

 これについて、「そもそも法的な根拠があいまいなんだ」と愚痴こぼしてたり。例の一つが相模原障害者施設殺傷事件(→Wikipedia)だ。犯行理由の一つが障害者差別なのは明らかだが、日本の法じゃ障害者差別はヘイトクライムと定義していない。だから正式な統計じゃヘイトクライムとされないのだ。

 また、「ゴス(→Wikipedia)だから」なんて理由で襲われた例も出てくる。これも法のためヘイトクライムにはならない。

サブカルチャーを対象としたヘイトクライムには、それを罰する特定の法律がないため、二人の事件はヘイトクライム統計には含まれなかった。
  ――第2章 ヘイトクライムの発生件数

 だとすると、法はどこまでカバーすべきなんだろうか? すべてのヘイトクライムを列挙すべきか、もっとザックリ「差別感情の有無」を要件とすべきだろうか。

 まあいい。そんな風に、本書の初めの方で著者はデータの不備を告白している。これも著者の誠実さの表れだろう。

 この差別感情は、どうもヒトの本能に組み込まれているらしい。私たちは、差別する生き物なのだ。ただ、誰を差別するかは、環境や育ちによって変わる。

私たちは、「我ら」と「彼ら」を識別する傾向のある脳を備えて生まれてくるように見受けられるが、「我ら」と「彼ら」が誰であるかは、固定されたものではなく、学習された結果である。
  ――第3章 脳と憎悪

 本能的に差別するのだ、少なくとも第一印象では。それを理性で抑えているだけで。もっとも、付き合いが深まれば差別感情は減っていくんだけど。

 とはいえ、困った点もある。往々にして差別する側は、差別感情を自覚していない。

ほとんどの加害者は、自分が被害者を狙った理由に人種差別や同性愛嫌悪などの偏見は関与していないと言う。調査に協力してくれるのは、組織化された憎悪集団の一員である男性が多い。
  ――第6章 トラウマ、コンテインメント、憎悪

 「組織化された憎悪集団」は、KKKやネオナチなど、大っぴらに差別を掲げている組織・集団を示す。そうでない場合、「私は差別していない」って言葉は信用できないのだ。もっとも、英国だと、ヘイトクライムは量刑が重くなるので、それを避けるためとも思えるんだが。

 さて、差別は感情だ。だから、その時の状況で強くなったり弱くなったりする。状況の一つはテロなどの事件のニュースだ。テロすなわち恐怖を煽る犯罪である。本書では911を例に挙げ、その影響を分析している。落ち着いて考えれば、ブッシュJrはテロを許す大失敗を犯したハズなんだが、現実には支持率が急騰した。なぜかというと…

死について考えることは、特定の資質を持った指導者への支持を高めるだけのようだ。すなわち、悪の外部集団に勝利するヒーローとしての内集団の描写を大衆迎合的に行う指導者の支持を高めるのである。
  ――第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減

 最近の日本だと、Jアラートとかは、こういう効果を期待してるんじゃないかと私は疑っている。とまれ、ネットで疑問を呈しても、あまし効果はないらしい。

私たちは、ネットで反対意見に触れると、自分たちがすでに信じていることの補強に利用する傾向がある。
  ――第9章 ボットと荒らしの台頭

 これは私も自覚はある。反論されてもムカつくだけで、まずもって意見は変えない。よけい意固地になるだけだ。でも本だと素直に受け入れちゃったりする。不思議だ。やはり本って媒体に権威を感じるからだろうか。

 そのネットに溢れる陰謀論だが、やはりソースを見て検証する人は滅多にいないようだ。

2020年1月から4月までの間に、フェイスブックからのクリックを介して、極右の陰謀論や憎悪行為を広めていることで知られる34のウェブサイトに飛んだ回数は約8千万件にのぼっている。これに比較して、フェイスブックを介して米国疾病対策センター(CDC)のウェブサイトに飛んだ回数は640万件、世界保健機関(WHO)のウェブサイトに対しては620万件にすぎなかった。
  ――第10章 言葉と行動による憎悪行為

 はい、私も政府機関や学術機関のサイトは滅多に見ないしなあ。このブログで記事を書くときぐらいだ←をい

 など、全般的に「そうなんだろうな」とボンヤリ考えていた事柄や、よく言われている注意事項を裏付ける話が多い。とはいえ、ソレを研究者として地道にデータを集めて分析すると共に、そのデータの不備を正直に明かしている点は好感が持てる。さすがに「科学」は言いすぎだが、研究の現状報告としては誠実だろう。

 ヘイトクライムに興味がある人だけでなく、「そもそも犯罪学者は何をやってるのか」を知りたい人にもお薦め。

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2024年4月22日 (月)

クリフ・クアン/ロバート・ファブリカント「『ユーザーフレンドリー』全史 世界と人間を変えてきた『使いやすいモノ』の法則」双葉社 尼丁千津子訳

本書は「ユーザーフレンドリー」という概念がいかにして誕生し、それがどんな仕組みを持っているのかについて書かれた本だ。
  ――はじめに 社会に浸透する「ユーザーフレンドリー」

どんなメンタルモデルも、あなたの目の前のモノにユーザーインターフェイスを実現したデザイナーによって意図的につくられたものだ。
  ――第1章 混乱させられるデザイン

フィードバックは「ユーザーフレンドリーな世界」の要である。
  ――第1章 混乱させられるデザイン

ヘンリー・ドレイファス(工業デザイナー、→Wikipedia)
「デザインとは、ただ見た目をどうこうするだけではない。モノがどのようにつくられ、それで何ができるかを知ったうえで湧き出てくるものだ」
  ――第2章 インダストリアルデザインの起源

原子炉であろうとスマートフォンのアプリであろうとトースターのレバーであろうと、未来永劫最も大事な点は、何をするかをユーザーに決めさせ、何が起きていいるかをユーザーに知らせることだ。
  ――第4章 信頼されるモノとは

「興味深い問題を見つけることは、興味深い解決策を見つけるよりもはるかに重要だ」
  ――第6章 共感のツール化

解決しなければならない最も重要な問題は、まだ声が発せられていないものだ。
  ――第6章 共感のツール化

(米国の大手銀行キャピタル・ワンのチャットボット)エノがユーモアを発揮するのは、相手への共感を示すときだけだ。
  ――第7章 人間性をデザインする

組織理論家によると、変化を提唱したり、その内容が理にかなっていたりするだけでは変化は起こせない。変化を求める気持ちが組織になければならないのだ。
  ――第8章 「あなたへのおすすめ」

【どんな本?】

 ユーザー・フレンドリー。コンピューターが身近になり、特にアップル社の Macintosh が売上げを伸ばした頃から、よく使われるようになった言葉だ。

 単なる「使いやすさ」とは、少し異なる。「何ができるか」「どうすればいいか」「今、どうなっているか」がすぐわかるのはもちろん、「使う楽しさ」も必要だ。今後もずっと使い続けたいと思わせれば、更にいい。当初は文書作成など実用的なアプリケーションで使われた言葉だが、現代のSNSやゲームなどの娯楽システムでは利益に直結する概念だ。

 そのユーザー・フレンドリーなる言葉や概念は、どのように生まれたのか。その欠落は、どんな悲劇を招くのか。どうすればユーザーフレンドリーなデザインを創れるのか。

 デザイン、それも工業デザインの業界で長い経歴を積んだ著者たちが、ユーザーフレンドリーの歴史から優れたデザインが起こした功績、そしてデザインの暗黒面までを語る、一般向けのドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は User Friendly : How the Hidden Rules of Design Are Changing the Way We Live, Work, and Play, by Cliff Kuang+Robert Fabricant, 2019。日本語版は2020年10月3日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約445頁+解説8頁。9ポイント48字×18行×445頁=約384,480字、400字詰め原稿用紙で約962枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。機械であれアプリケーションであれ、「これ、もちっとどうにかならんのか」と感じたことがあれば、更に楽しめる。

【構成は?】

 原則として時代順に話が進むが、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • はじめに 社会に浸透する「ユーザーフレンドリー」
  • 第1部 使いやすいモノとは何か
  • 第1章 混乱させられるデザイン
  • 第2章 インダストリアルデザインの起源
  • 第3章 それは誰のエラーか
  • 第4章 信頼されるモノとは
  • 第5章 メタファーのはしご
  • 第2部 欲しくなるモノとは何か
  • 第6章 共感のツール化
  • 第7章 人間性をデザインする
  • 第8章 「あなたへのおすすめ」
  • 第9章 便利さの落とし穴
  • 第10章 デザインと人間のゆくえ
  • あとがき 「ユーザーフレンドリー」の目を通して世界を見る
  • 謝辞
  • 解説 手がかりに気づく、手がかりを作る 菅俊一
  • 補遺 「ユーザーフレンドリー」の歴史を早足で辿る
  • 参考文献

【感想は?】

 デザインの本だ。といっても、衣服やポスターじゃない。工業製品、ヒトが使うモノのデザインの話である。

 もっとも、デザインの教科書でもない。書名通り、「使いやすい」モノの形の歴史を辿り、現在の風潮を語り、未来を展望する、そんな本である。そのためか、あまり美術系の過程で学ぶデザインの原則などは出てこない。とはいえ、心がけのような言葉は多い。わかりやすいところでは…

「映画には、自分が言いたいことを弱めてしまうものを持ち込んではいけないんです」
  ――第7章 人間性をデザインする

 プレゼンテーションを作る際の基本である「主題は一つに絞れ」などと同じだね。ついつい、やっちゃうんだよな。「アレも言いたい、コレも言いたい」と欲を出して、結局は何が言いたいのか分かんなくなっちゃうとか。

 また、ブログをやってる者としては、こんなのも気になる。

「彼ら(ユーザー)はあなたのウェブサイトの仕組みがほかの既知のウェブサイトのものと同じであることを好む」
  ――あとがき 「ユーザーフレンドリー」の目を通して世界を見る

 作り手としてはオリジナリティーを出したいけど、あまし独創的すぎるのも考え物なのだ。だって、ドコに何があるかわからんサイトとか、ムカつくし。

 さて、ユーザーフレンドリーの重要さは、それが欠けた際にどうなるかが、最も伝わりやすいだろう。そういう点では、スリーマイル島の原子力発電所事故(→Wikipedia)を語る「第1章 混乱させられるデザイン」の説得力は高い。つまり、制御室のデザインが凶悪で、職員たちは何が起きているのかが皆目見当がつかなかったのだ。ここから、「関係の深いパネルは一カ所にまとめる」などの教訓がもたらされる。

 ここから学んだのかどうかは不明だが、徹底してユーザーフレンドリーを心がけて成功したのがアップル社だろう。そのためか、Macintosh や iPhone など、アップル社の話は頻繁に出てくる。その一つが、「フォルダ」だろう。

 当時の unix や MS-DOS にも、ファイル・システムの階層構造はあった。だが、unix や MS-DOS はディレクトリと呼んだ。紙の文書を挟む文房具のフォルダーに例えた、アップル社のセンスは素晴らしい。そう、新しいモノや機能は、既にある何物かに例えると伝わりやすい。

メタファーは私たちにただ新しいモノをつくるよう促すだけではなく、やがてそのモノが完成して使われるときにどんな挙動をするのかまで思い浮かべさせてくれるのだ。
  ――第5章 メタファーのはしご

 もっとも、昔は伝わったフロッピ・ディスクのアイコンも、最近の若い人には伝わらないんだがw

 などと「使いやすさ」「伝わりやすさ」を考えると、機械より人間についてよく知ることがキモだったりする。これは名著「誰のためのデザイン?」で知られるドナルド・ノーマンの発想の素が意外だった。

ドン・ノーマン(→Wikipedia)の初期の論文には、行動経済学の基礎を築いたエイモス・トベルスキーやダニエル・カーネマンの革新的な研究について、多くの言及がなされている。
  ――第3章 それは誰のエラーか

 行動経済学はヒト一般の行動を観察する。本書の前半にも、工業デザイナーのヘンリー・ドレイファスが、平均的な人間のモデルを作った話が出てくる。これはこれで役立ったのだが、後半になると「極端な人こそ役に立つ」なんて話も。

たいていの場合、モノを使いやすくする仕事は一種の仲介業だ。ほかと極端に異なるユーザーたちを探し、その人が抱える問題を解決することで残りの人にも恩恵をもたらそうとする。
  ――第7章 人間性をデザインする

 この章では、中国人のスマートフォンの使い方が面白い。コンピュータに慣れていないからこそ、彼らは新しい使い方を開拓したのだ。Macintosh も、初期の利用者は医師やデザイナーなどコンピューターに詳しくない人たちだった。

 もっとも、そんなユーザーフレンドリーにも、落とし穴はある。最も分かりやすい例が、Facebook(現Meta)やTwitter(現X)の「いいね」ボタンだろう。最近はインプレゾンビなんてのも沸いてるし。じゃなくて、私も「いいねが欲しい」な気持ちはよくわかる。アレは確かに気持ちがいいのだ。その理屈が、本書でわかった。とまれ、そのせいでスマートフォンが手放せなくなるのは困る。これは、ユーザーフレンドリーの暗黒面だ。

「ユーザーフレンドリーな世界」の罠は、私たちは中毒にさせられるということだけではなく、「麻薬」を買う必要すらないということだ。
  ――第9章 便利さの落とし穴

 この辺の理屈は、スロットマシンなどと少し似てる。あれも、いかに客をマシンの前に座られ続けるかに工夫を凝らしているし(→「デザインされたギャンブル依存症」)。

 良きにせよ悪しきにせよ、Macintosh や iPhone は、私たちの暮らしを変えた。1960年代のように、コンピューターが賢い人たちだけのモノだったら、LINE もYoutube もこのブログもなかっただろう。

モノは私たちの生活を楽にするだけではなく、生活の中で私たちを変える可能性を秘めている
  ――第10章 デザインと人間のゆくえ

 それは、アップル社が徹底してユーザーフレンドリーに拘ったためだ。

 「デザイン」とは、単にカッコよさだけではない。デザイン次第で、モノは性格を変え、使い手との関係を変え、更には世界までも変えてゆく。そういったデザインの可能性を語ると共に、心あるデザイナーたちを励ます本だ。デザインに興味がなくても、何かを作る人なら、楽しく読めるだろう。

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2023年12月 1日 (金)

デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」岩波書店 酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳

本書を書くことは、ある政治的な目的に奉仕することでもある。
  ――序章 ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)現象について

ブルシット・ジョブのばあい、三つの問いを立てることができる。

  1. 個人的な次元。なぜ人びとはブルシット・ジョブをやることに同意し、それに耐えているのか?
  2. 社会的・経済的次元。ブルシット・ジョブの増殖をもたらしている大きな諸力とはどのようなものか?
  3. 文化的・政治的次元。なぜ経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか。なぜだれもそれに対応しようとしていないのか。
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

真の完全雇用は強力な「賃金上昇圧力」をもたらすために、ほとんどの政策立案者が実質的にはこの理想の完全なる達成を望まない。
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの1861年の一般教書演説
「資本は、労働の果実に過ぎず、そもそも労働が存在しなければ、その存在もあり得ない。労働は資本に優っているのであって、はるかに敬意を払うべきなのである」
  ――第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

【どんな本?】

 ブルシット・ジョブ。クソどうでもいい仕事。著者はこう定義する。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完全に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている。
  ――第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?

 「シンドいけど稼げない仕事」では、ない。例えばビル清掃は低賃金だが、建物を美しく清潔に保ち、ビル利用者の体と心の健康に役立つ。よってブルシット・ジョブではない。そうではなく、明らかに何の役にも立たない、資源と時間の無駄遣いでしかない、それどころか自分の本業や他人の邪魔にしかならない。でも、世の役に立つフリをしなきゃいけない、そんな仕事だ。往々にしてホワイトカラーに多い。

 IT革命でホワイトカラーの仕事は減っているハズだ。算盤は電卓からExcelになったし。でも、世間じゃ過労死が話題になっている。なぜ労働時間は減らない? おかしくないか? 技術革新で、私たちの仕事は楽になるハズなのに。

 というか、どうもこの世界には妙な法則があるようだ。

他者のためになる労働であればあるほど、受け取る報酬がより少なくなるという一般的原則
  ――第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

 著者はブルシット・ジョブを主題とした小論文を発表し、その意外な反響に驚いた。著者が思ったよりはるかに多くの人が、自分の仕事はブルシットだと感想を寄せたのだ。そして、もちろん、強烈な反論もあった。

 ブルシット・ジョブに就いていた人の体験談や、反論への著者の応答もまとめ、そもそも働くとは何か、私たちは仕事をどう思っているか、何を仕事に期待しているのか、そんな発想をいつどこで吹き込まれたのかなど、私たちが抱えている常識を根底から掘り起こしつつ、ブルシット・ジョブに現れる私たちの思想と社会の構造の根幹を明らかにし、よりよい社会を夢想する一般向けの啓蒙書。

 あ、当然、岩波書店なんで、そういう思想の偏りはあります。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Bullshit Jobs : A Theory, by David Graeber, 2020。日本語版は2020年7月29日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約364頁に加え、酒井隆史による訳者あとがき22頁。9.5ポイント48字×21行×364頁=約366,912字、400字詰め原稿用紙で約918枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 書名の親し気な印象に反し、意外と文章は硬い。それもそのはず、学者(文化人類学者)の書いた本で、訳者も学者だ。よって訳文も、著者の意図を正確に伝えようと工夫しているが、親しみやすさは犠牲になった。ただ、内容は難しくない。アルバイトであっても働いた経験があれば、「あるある」と身につまされる話も多い。

 マックス・ウェーバーやカール・マルクスなど歴史上の学者や有名人の名前や言葉も出てくるが、知らなくても大丈夫。ちゃんと本文中に説明がある。また、「バイス・プレジデント・フォー・クリエイティヴ・ディベロプメント」みたくカタカナの偉そうな単語もあるけど、「なんか小難しくてご大層だよな」程度に思っていれば充分。だってぶっちゃけハッタリだし。

【構成は?】

 学者の書いた本だけあって、前の章を受けて後の章が展開する形だ。だから、できれば頭から順に読む方がいい。

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  • 序章 ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)現象について
  • 第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?
  • 第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?
  • 第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部
  • 第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部
  • 第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
  • 第6章 なぜ、一つの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?
  • 第7章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?
  • 謝辞/原注/訳者あとがき/参考文献

【感想は?】

 そう、文章はお堅い。だが、笑える所も多い。そういう点で、通勤列車では読めない本だ。物理的にも重いし。

 なんといっても、主題の「ブルシット・ジョブ」を定義する「第1章 ブルシット・ジョブとはなにか?」が長すぎる。学者らしく、定義の厳密さにこだわっているのだ。ここで私は、「著者は真剣に読むよう求めてるんだな」と覚悟を決めた。

 続く第2章でも、とりあえずブルシット・ジョブの分類を試みる。

ブルシット・ジョブを五つに分類する(略)
取り巻き(flunkies)、脅し屋(goons)、尻ぬぐい(duct tapers)、書類穴埋め人(box tickers)、タスクマスター(taskmasters)と呼ぶつもりだ。
  ――第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

 …のだが、実はこの分類、あまし後の章では意味をなさない。せいぜい「取り巻き」や「脅し屋」なんて言葉の説明になっているって程度。まあ、「とりあえず分類する」のが文化人類学のオーソドックスな手法なんだろう。

 なんてお堅い学問の手法に沿って書かれた本だが、文中で大量に紹介している、「ブルシット・ジョブの経験者」たちの話が楽しすぎる。いや本人にとっては笑い事じゃないんだが、たぶん多くの人が経験している(けど大っぴらには話せない)エピソードの連続で、やっぱり笑っちゃうのだ。そうだよね、lynx(→Wikipedia) は暇なホワイトカラーの心強い友だよねw

 加えて、日頃から「そうじゃないかな」と思ってたのが、「やっぱりそうだった」と納得できる挿話も楽しい。例えばWebのバナー広告。あれウザいだけで見る奴なんかいるのか、と思ってたが…

バナー広告の制作販売をしている企業(活動)は、すべて基本的に詐欺だということだ。広告を販売する代理店の保持する調査からは、ウェブ閲覧者は〔広告を〕ほとんど気にも留めず、それらをクリックすることなどほぼ皆無だということがはっきりしているそうだ。(略)
問題はただ顧客の〔自己〕満足のみだった。
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 わはは。やっぱりいなかった。しかも、広告代理店も知ってるのがタチが悪い。結局、広告は広告主の自己満足でしかないらしい。

 もっとも、笑っていられるのは他人事だからで、自分が無意味な書類を作ったり無意味な会議に出る立場となると、なんともムカつくものだ。せめて「頭数を揃えるため、要は群集のエキストラ」とハッキリ言われれば納得しようもあるんだが、無駄な広告のために真面目に考えるフリして企画会議で発言せにゃならんとなると…。

 そんな気持ち、ちょっと前なら「もにょる」とか表してたが、その原理や原則を明らかにしてくれるのは嬉しい。

他人のつくった、ごっこ遊びゲームに参加しなければならないということは、やる気を挫くものなのだ。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

 そう、誰かが「真面目な会議のフリ」を求めてて、それに付き合わされているからムカつくのだ。せめて広告が実際に売り上げを増やしてるならともかく、ペテンだし。

 それでも、高い給料を貰ってるなら嬉しいよね、と私たちは考える。

ひとというものは働かず大金をもらえるのなら無条件に嬉しいものである、ともわたしたちは慣習的に考えているのだ。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

 が、意外とそうでもない。実際、追い出し部屋(→Wikipedia)なんてのが話題になった。

自由な意思にゆだねられた状況において、有益なことがなにもできないとなると、ひとはそれ以上に憤りをおぼえるものなのです。
  ――第3章 なぜ、ブルシット・ジョブをしていいる人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか? 精神的暴力について 第1部

無意味さはストレスを悪化させる
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 まあ、追い出し部屋は「クビを切りたいけど切れない」という、企業の利益に基づいた側面もある。だが、どう考えても誰の利益にもならない、企業の利益にすらならない仕事も多い。それも、著者の予想を超えて多かった。そこで…

わたしの第一の目標は、社会的効用や社会的価値の理論を展開することではなく、私たちの多くが自分の仕事に社会的効用や社会的価値が欠けていると内心考えながら労働している事実のもたらす、心理的、社会的、そして政治的な諸効果を理解することにある。
  ――第2章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

 ブルシット・ジョブが、その従事者や社会にどんな影響を及ぼすのか。著者はそれを考え、追及する。

 どうも雇用側は、少なくとも日本の企業は、ブルシット・ジョブが従事者に与える影響を判っていたんだろうなあ。だから追い出し部屋なんて手を使った。その効果とは…

ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである。
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 加えて、職場全体の雰囲気も悪くする。

職場の人びとに見られる攻撃性とストレスの度合いは、かれらが取り組んでいる仕事の重要性に反比例する
  ――第4章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか? 精神的暴力について 第2部

 ブルシットな職場は、そこで働く者も嫌な奴にしてしまうのだ。案外と、学校でのいじめも、こういう原因、つまり学校で学ぶ事柄に意味を見いだせないから…と思ったが、いじめっ子って、妙に学校が好きなんだよなあ。あれ、なんでなんだろうね。

 まあいい。いずれにせよ、ブルシット・ジョブが増えるのは、ロクなもんじゃない。例えば、最近の映画は委員会方式で資金を調達してる。で、パトロンは映画に何かと口出しする。その結果…

映画愛好家はもちろん、映画を観る人間によってすら映画がつくられることがなくなった
  ――第5章 なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?

 なんて映画ファンには悲しい状況になってしまった。アニメ好きなら、某け〇フレ騒動が記憶に新しい。音楽もそうで、だいぶ昔から日本の音楽番組は…いや、やめとこう。

 なんでこんな世の中になったのか。著者は善行信号(Virtue Signaling)(→Wikipedia)とかを持ち出すが、正直言って私はあまり納得できなかった。たぶん、あまし他人の善行信号が気にならない性格だからかも。いや善行信号を出せる資産と知名度は妬ましいんだが。

 最終章で一応の対応策の叩き台を示すんだが、著者は自信なさげだし、言い訳もしてる。

本書は、特定の解決策を提示するものではない。問題――ほとんどの人びとがその存在に気づきさえしなかった――についての本なのだ。
  ――第7章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?

 主題は「問題がある」と指摘することで、解決策はみんなで考えようよ、そういう姿勢だ。もっとも、著者が示す叩き台の根底にある思想が、私が大好きなSF作家ジェイムズ・P・ホーガンの傑作「断絶への航海」と通じるものがあって、密かにニヤニヤしてしまった。SNSで「いいね」を求める気持ちとか、確かにそうだよなあ

 …って、話がズレた。

 最後にもう一つケチをつけよう。巻末の原注が面白すぎる。「パレスチナ問題が解決したら多くのNGOや国連職員が存在価値を失う」とか、「ベルギーは長い政治空白(→Wikipedia)があったが流行りの緊縮財政の悪影響を受けずに済んだ」とか。こういう楽しい挿話は、本文中に書いてくれ。読み逃しちゃうじゃないか。

 岩波書店にふさわしい思想の偏りはあるが、私たちが自分でも気づかなかった思い込みに気づかされるのは、脳みその溝に溜まった澱を洗い流されるようで、なかなか気持ちよかった。無駄な書類仕事などのブルシット・ジョブを多少なりとも抱えている人なら、同士に出会えて「お前とはいい酒が飲めそうだ」な気分になるだろう。

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2023年10月23日 (月)

「アメリカ政治学教程」農文協

この本は(略)新しく政治学を学ぼうとする学徒に政治学の全貌を示そうとしている
  ――序文

有権者は候補者をそれぞれの政策のためにではなく個性や演説に基づいて選ぶらしい。
  ――第5章 実際問題としての民主政治

合法性の手っ取り早いテストは、それゆえにいかに多くの警察が必要であるかを見ることである。
  ――第7章 政治文化

20世紀においてはこの(裁判所の)政治的権力は増え続けている。
  ――第17章 司法制度と裁判所

病院や医師は、いったん支払いが保証されれば節約する誘因をもたない。
  ――第18章 公共政策

【どんな本?】

 アメリカ合州国の大学の政治学の教科書:基礎編。

 政治学は広く、多くの分野がある。また学派ごとに主張が異なる。本書は広く政治学の全般を見渡し、また様々な学派の主張を併記して、政治学の全貌を読者に示す。

 ただし、あくまでもアメリカ合州国における教科書であり、制度や政治状況などの例も合州国のものが中心だ。紹介する学派もアメリカ合州国の学派であり、例えば共産主義・共産国の評価はお察し。

 それと原書の出版は1997年であり、四半世紀ほど古い。よってバラク・オバマもドナルド・トランプもウラジミール・プーチンも出てこない。合州国以外では西欧の例が多く、日本の記述はオマケ程度。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Sixth Edition Political Science : An Introduction, by Michael G. Roskin, Robert L. Cord, James A. Medeiros, Walter S. Jones, 1997。監修は小倉武一、訳は大戸元長・林利宗・有松晃・山下貢・井上嘉丸。日本語版は1999年3月5日第1刷発行。単行本ハードカバー横一段組み本文約604頁。9ポイント35字×29行×604頁=約613,060字、400字詰め原稿用紙で約1,533枚。文庫なら上中下3巻ぐらいの大容量。

 意外と文章はこなれていて読みやすい。内容のややこしさも中学の社会科の教科書程度だ。政治制度も意外と基本的な事から説明しているので、外国人の私もあまり戸惑わずに済んだ。例えば合州国の選挙では事前に登録が必要とか。ただし出てくる人名や例は合州国のものばかりだし、出版年の関係で古いネタが多いので、そこは覚悟しよう。

【構成は?】

 各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 訳者序文/序文
  • 第1部 政治の基礎
  • 第1章 政治学とは?
    • 正当性(legitimacy)の三つの面
      正当性/主権/権威
    • 政治権力
      生物学的/心理学的/文化的/合理的/非合理的/合成物としての権力
    • 政治は科学か?
      明確に見るための努力/政治学の効用は何か?
    • 変化する政治学
      行動主義後の合成
    • 理論の重要性
    • 現実の単純化
      政治システム/システムの難点
    • 推奨文献/注記
  • 第2章 国民、国家、および政府
    • 国家(Nation)の観念
      独立国家としての地位の構成分子/国家建設上の難関/戦争の役割
    • 政府:政府とは何か、そして何をなすのか
      政府の共通の目標/近代化の主体としての国家/政府の分類
    • 近代政府:公共政策の作成
      公共政策:実質的と象徴的
    • 推奨文献/注記
  • 第3章 個人と憲法
    • 近代世界における憲法
      それぞれの土地での最高の法/憲法の目的
    • 憲法の適応性
      合州国憲法/憲法の適応性:それは権利を保障できるか?
    • 合州国における表現の自由
      表現の自由の歴史
    • 憲法による政府:それは何かを保証できるのか
    • 推奨文献/注記
  • 第4章 民主主義、全体主義、権威主義
    • 近代民主主義
      代表制民主主義
    • 全体主義政府
      全体主義とは何か?/全面支配のイメージと現実
    • 権威主義
      権威主義と開発途上国/権威主義体制の民主化
    • 推奨文献/注記
  • 第5章 実際問題としての民主政治:多元主義者とエリート主義者の見解
    • 二つの理論:エリート主義と多元主義
      エリート主義/多元主義
    • 誰がアメリカを支配するか?
      エリートの見解/多元主義者の見解
    • 複合エリート:総合
    • 推奨文献/注記
  • 第2部 政治的態度
  • 第6章 政治的イデオロギー
    • イデオロギーとは何か
    • 主要なイデオロギー
      古典的自由主義/古典的保守主義/近代的自由主義/近代的保守主義/マルキスト社会主義/社会民主性/共産主義/民族主義/ファシズム
    • われわれの時代におけるイデオロギー
      共産主義の崩壊/新保守主義/地域共同体主義/男女同権主義/環境保全主義
    • イデオロギーは終わったか?
    • 推奨文献/注記
  • 第7章 政治文化
    • 政治の環境:政治文化
      政治文化とは何か?/市民文化/アメリカにおける参加
    • 政治文化の衰微
      エリートと大衆文化/政治的下位文化
    • 政治的社会化
      政治的社会化の役割/社会科の担い手
    • 推奨文献/注記
  • 第8章 世論
    • 世論の役割
      世論の構造/世論の様式
    • 世論調査
      世論調査の歴史/調査の技法/世論調査はどれだけ信頼できるか?
    • アメリカの世論
      大統領の人気/自由主義者と保守主義者/誰が注意するか?/世論調査は公平か?/アメリカは世論調査によって統治されるべきか?
    • 推奨文献/注記
  • 第3部 政治的相互作用
  • 第9章 政治的情報の伝達とメディア
    • 政治におけるコミュニケーション
      コミュニケーションのレベル/現代マスメディア
    • ジャイアント:テレビジョン
      TVニュース/テレビジョンと政治/テレビジョン:所有と統制/欧州の経験
    • 私たちが受けているサービスは貧しいのか?
      敵対者:メディアと政府
    • 推奨文献/注記
  • 第10章 利益集団
    • 利益集団とは何か?
      利益集団と政党との違い/利益集団:誰が所属するのか?/利益集団と政府/利益集団としての官僚
    • 効率的な利益集団
      政治文化/金銭:政治活動委員会(PACs)の興隆/争点:単一争点集団の興隆/規模とメンバ―シップ/アクセス
    • 利益集団の戦略
      立法府への接近/行政府への接近/司法府への接近/その他の方策
    • 利益団体:ある評価
      利益団体は主張をどこまで明確に表明しているか?/利益団体:教育者か宣伝者か?/政治的権力の手詰まり化
    • 推奨文献/注記
  • 第11章 政党と政党制
    • 政党の機能
      民主主義における政党/共産主義諸国における政党
    • 政党の種類
      「全包含」(CATCHALL)政党の出現/政党分類の基準
    • 人員補充と資金の調達
      人員補充/政党の資金調達
    • 政党制
      政党制の類別/競争の程度/政党制および選挙制/合州国の政党制:変化の可能性は?
    • 推奨文献/注記
  • 第12章 投票
    • 人々はなぜ投票するのか?
      誰が投票するのか?
    • 人々はどのように投票するのか?
      政党への帰属性/誰がどのように投票するのか?
    • 選挙民の再編成
      選挙民の分解(Electoral Dealignment)
    • 誰が選挙を勝ち取るか?
      候補者の戦術と有権者のグループ
    • 推奨文献/注記
  • 第4部 政治制度
  • 第13章 政治の基本構造
    • 政治機関(Political institution)とは何か?
    • 君主国か共和国か
    • 一元国家か連邦制か
      一元的制度/連邦制度/合州国政府のバルカン化/一元的国家と連邦国家の混在
    • 選挙制度
      1人区選挙制(小選挙区制)/比例代表制/制度の選択
    • 推奨文献/注記
  • 第14章 立法府
    • 大統領府と議院内閣制
      議院内閣制の長所/議院内閣制の問題点
    • 立法府の役割
      法律の制定
    • 議会の構造
      2院制と1院制/委員会制度
    • 立法府の衰退
    • 議会制度のジレンマ
    • 推奨文献/注記
  • 第15章 執行部
    • 大統領と総理大臣(首相)
    • 任期の問題
    • 執行部の役割
      尊大な大統領職?
    • 大統領の人柄
      執行部の指導者像 干渉型か傍観型か
    • 不具の大統領
    • 内閣
    • 過大な期待は危険
    • 推奨文献/注記
  • 第16章 政府と官僚制度
    • 官僚制度とは何か
      合州国の連邦官僚組織/外国における官僚制度/官僚制度の特徴
    • 現代の政府における官僚制度の役割
      一般的役割
    • 官僚制度の問題点
      官僚組織:行政官か政策担当者か/官僚制度対策/官僚制度と社会
    • 推奨文献/注記
  • 第17章 司法制度と裁判所
    • 法の本質/法とは何か/法の種類
    • 法的制度(法制)
      英国の慣習法/ローマ法典/両制度に共通する特徴
    • 裁判所、裁判官、法曹界
      合州国の裁判所組織/裁判官/裁判所組織の比較/英国の裁判所制度/ヨーロッパの裁判所組織/旧ソビエト連邦における法
    • 裁判所の役割
      合州国最高裁判所/最高裁判所の政治的役割/裁判官の見解/裁判所の政治的影響力/裁判所の限界
    • 推奨文献/注記
  • 第5部 政治システムの営み
  • 第18章 公共政策
    • 政策とは何か?
    • 経済政策
      政府と経済
    • 誰に何の受給権があるか
      貧困とは何か?/福祉の費用/受給権のとりこ/福祉とイデオロギー
    • 結語:政府の大きさはどのくらいであるべきか?
    • 推奨文献/注記
  • 第19章 暴力と革命
    • 体制崩壊
      徴候としての暴力/暴力のタイプ/暴力の原因としての変化
    • 革命
      革命的政治戦争/革命の諸段階/事例研究としてのイラン
    • 革命の後
      革命の衰退/反共主義革命
    • 推奨文献/注記
  • 第20章 国際関係
    • 主権なき政治
      勢力と国益
    • なぜ戦争か?
      ミクロ理論/マクロ理論/誤認/平和の維持
    • 冷戦
      戦争抑止/「手を広げすぎた」ソ連
    • 国際体制
    • 外交政策:関与かそれとも孤立か?
    • 主権を越えて
    • 推奨文献/注記
  • 人名索引

【感想は?】

 モロに社会科の教科書・政治編だ。

 実は政治学を胡散臭く思っていたんだが、どうも政治哲学と混同していたらしい。

政治哲学者は、得てして、人々がそれらの決定に従うべきかまたは従うべきでないかを問うものであり、
政治学者は、人々が何故に従うのか、または従わないのかを問うものである
  ――第1章 政治学とは

 そして本書は政治学の本であり、「こうすべき」的な記述は少ない。とはいえ、やはり学派ごとに主張の違いはあり、ややこしい問題は複数の論とその反論を挙げ、「困ったもんだ」と投げ出す所も多い。それもまた基礎編の教科書としちゃ誠実だし、公平でもある…少なくとも、合州国の基準では。

 いや別に合州国が最高!な論調じゃない。ただ旧ソ連やクメール・ルージュは失敗と断じていて、そこに納得できない人もいるだろうし。そう考えると、政治学が許されるのは自由主義国だけだね。

 その自由主義の嬉しい点の一つは、言論の自由があることだ。様々な論が出てくるが、その原因の一つは人によりイデオロギーが違うからだ。このイデオロギーについて、本書はかなり皮肉な姿勢を示す。まずイデオロギーの定義だが。

イデオロギーは、物事が現在あるよりも、一層良くなる可能性があるという信念から始まる。
  ――第6章 政治的イデオロギー

 脳内には理想の社会があるが、現実は違う。現実を理想に近づけようとするのがイデオロギーの原動力ってわけ。なんか解る気がする。いずれにせよ結論は「俺が正しい」なんだけど。

 これが分かりやすい形で出てくるのが、福祉政策。合州国は福祉を削りたがる共和党と増やしたがる民主党って状態なので、教科書の例として実に都合がいい。

福祉あるいは受給権についての討論は強烈なイデオロギーに基づいている。
  ――第18章 公共政策

 これに対する本書の姿勢をハッキリ示すのが、次の一文。

イデオロギーが支配するところでは理性は聞き入れられるのが難しい。
  ――第18章 公共政策

 と、決着をつけず放り投げてたり。冷たいようだが、現実を直視した姿勢でもある。この辺は「社会はなぜ左と右にわかれるのか」が参考になります。

 また、各党内のイデオロギーのバラつきについても、意外な指摘があったり。

政治的指導者は実際上、追随者よりも強力なイデオロギー上の見解をもち、また、これに対して平の党員の弱体で一貫性のないイデオロギーが、指導者が争点に対して確固とした立場を取ろうとする足を引っ張っている
  ――第11章 政党と政党制

 政治家は誰でも多かれ少なかれ「俺が正しい」って信念を持ってるだろうけど、彼らを率いる者は信念がより強いんだな。まあ、支持者も、自信にあふれた候補者の方が頼もしく感じるしね。とすっと某首相の「聞く力」は…ゲフンゲフン。

 その某首相、最近は支持率が落ちてるけど、これは普遍的な現象でもあるのだ。

大統領は高い人気で出発し、やがて低迷する。
  ――第8章 世論

 昔は「ご祝儀相場」なんてのもあって、首相が変わると株価も上がったんだよね。つまり世間も新しい指導者に期待したんだ。合州国だと、「大統領は2期まで」って不文律があり、これが大統領の姿勢に影響する。

合州国の場合、(略)大統領は最初の任期の間は、再選の問題で頭がいっぱいだから、よいイメージづくりにかまけて、大胆な政策を実行する余裕がない。(略)第2期になってやっと自分の本領を発揮できる
  ――第15章 執行部

 最初から暴れまくったトランプは例外…というか、元々が政治家じゃないのも大きいんだろう。その大統領制、日本や英国のような議院内閣制との違いは、閣僚の面子だ。

合州国やブラジルのような大統領制の下では、長官や大臣は現職の政治家ではなくて、実業家とか弁護士とか学者が多い。
  ――第15章 執行部

 いわゆる民間からの登用が増える。コリン・パウエルみたく軍人もあるし。また内閣が行政に強い影響力がある。逆に議院内閣制だと、政治家が多い。これも善し悪しで。

合州国政府における腐敗汚職事件は、ほとんどすべてこれら政治的任命による政府職員のなす業であって職業的官僚のなすところではない。
  ――第16章 政府と官僚制度

 意外と生粋の官僚は汚職に手を染めないらしい。もっとも、これは状況によりけりで。

一つの政党が権力を独占する場合、そのイデオロギーの論理のいかんにかかわらず、必然的に腐敗に至る。
  ――第11章 政党と政党制

 合州国みたく10年以内に政権政党が変わるなら内閣が行政の人事に介入しても腐りにくいけど、長期政権が続くとどうしても腐るのだ。その典型が共産党一党独裁体制で。

旧ソ連は、近代世界におけるもっとも官僚的国家であったし、それこそがその崩壊の一因でもあった。
  ――第16章 政府と官僚制度

 と、官僚は実に評判が悪い。小役人なんて言葉もある。これは古今東西で共通らしい。

官僚制度を好む国は世界中どこにもない。
  ――第16章 政府と官僚制度

 にも拘わらず、やっぱり官僚は必要だし、どうしてものさばっちまうもんらしい。

古今東西の政府(民主政権、独裁政権、軍事政権のいずれを問わず)が、この官僚組織を完全に抑えきれなかった
  ――第16章 政府と官僚制度

 一定のルールや手続きに従ってモノゴトを進めるのは、融通が利かないように思えるけど、同時に世の中の急激な変化を抑える安全装置でもあるのかも。

 そういった、世の中の変化を先導するのが「世論」なんだが、本書の評価は辛らつだ。

「世」(public)論などというものはほとんどないことが多いのであって、問題に注意を払い、強烈にそれらに関心を持ちつつ散らばっている少数グループの意見があるだけである。
  ――第8章 世論

 何であれ、一部のうるさい輩が騒いでるだけ、みたいな姿勢である。まあ、実際、たいていの問題は、その問題のスタアと結びついてたたりする…少なくとも、私たちの記憶のなかでは。これらの世論を郵送するのがマスコミだが、彼ら、特にテレビの焦点の当て方は…

TVによる候補者の放映はその人の主張ではなくて人柄に焦点を当てる。
  ――第9章 政治的情報の伝達とメディア

 某元首相のパンケーキとかは、モロにコレだね。タレントとして消費しちまうのだ。それより、某教団との関係とか、政治的に重大なネタは幾らでもあるだろうに。もっとも、視聴者にしたって、モノゴトの深い事情をじっくり聴きたいワケじゃなかったりする。この辺の事情は、「ドキュメント 戦争広告代理店」にも書いてあった。今、盛んに報道してるガザの紛争にしても、第一次中東戦争あたりからの歴史やイスラエル・パレスチナ双方の社会構造を知っている人は少ないと思う。いや私もよくわかってないけど。

 さて、その世論が候補者を選ぶのが民主主義社会なんだが、最近の日本は投票率がドンドン落ちてる。投票率によって、各政党の有利不利も変わる。投票率には様々な要因があるんだが、その一つが…

大きな危機が起こった年には、有権者の出足は高くなるが、物事が割合スムースにいった年には、有権者は比較的無関心になるようである。
  ――第12章 投票

 無関心というと悪口のようだが、大抵の選挙は新人や前職より現役が有利だ。それを考えると、不熱心な信認とも言えるんだろう。スムースにいってるんなら、今のままでいいじゃんって理屈だ。これはソレナリに民主主義の理念に沿っているのかも。

 投票率の低下には、他の原因もある。

1人区選挙制は(略)2大政党は(略)似通った政策を打ち出さざるを得ない。その結果、(略)有権者の無関心と低い投票率に終わることになる。
  ――第13章 政治の基本構造

 これは「二大政党制で両党の政策が似てくるわけ」なんて記事を書いたんで、覗いてみてください。とはいえ、最近の合州国大統領選挙は、ドナルド・トランプなんて強烈なキャラクターが出てきたため、あまり現状に合ってない気もするけど、あなたが住む土地の知事選挙や市町村長選挙を思い浮かべて欲しい。「誰に投票しろってんだ」的な愚痴はよく聞くし。

 さて、都道府県や市町村の議会は一院制だけど、日本の国会は二院制だ。参議院の存在意義を問う論説は昔からあった。これは本書も辛辣で…

一般に上院は、その名にもかかわらずその力は下院よりも下である。(略)
一元的国家における上院の有用性は、しかし明らかでない。
  ――第14章 立法府

 一元的国家ってなんじゃい、と言われそうだが、合州国やドイツみたいな連邦国家じゃない国の事です、はい。合州国だと、州ごとに2名づつの上院と、人口比で人数が違う下院って構成。日本だと参議院は良識の府とか言われてたけど、首相は衆議院議員ばっかりだよね。

 こういった平時の話だけでなく、終盤ではクーデターや革命や戦争など物騒な話も出てくる。革命について本書は極めて否定的で、ロクなモンじゃないとバッサリ。実際、強硬な独裁政権になりがちだし。フランス革命も、フランスじゃ賛否両論だとか。合州国独立も、革命か戦争かで論が分かれてる。明治維新は成功した例だと思うんだが、どうなんだろ。

 幸か不幸か、現代社会では…

重大な国内不安に対する最も普通の対応は、まったく革命ではなくて軍部の乗っ取りである。
  ――第19章 暴力と革命

 一時期のタイじゃしょっちゅう軍がクーデターやってた。まあ、アレは前陛下(→Wikipedia)への信頼あっての事らしく、代替わりしてからはムニャムニャ。シリアやミャンマーも軍が政権を握ったなあ。

 さて、たいてい革命政権ってのは、成立直後は不安定なモンで、反動も出る。ロシア革命も赤と白で争ってたり、合州国の裏庭である中南米も不安定な政権が多いが…

ラテンアメリカでは一部のクーデターに続く反革命テロは、革命家が果たしたどんな仕業よりもずっと血まみれである。
  ――第19章 暴力と革命

 チリのピノチェト政権(→Wikipedia)とかね。ぶっちゃけ中南米の軍事政権は合州国/CIAが関わってるのが多くて、「バナナの世界史」にも挿話が幾つか。まあ、冷戦時だし。

 そんな革命やクーデターの原因は、往々にして経済だ。貧しくなったんで不満が爆発ってのは分かりやすいが、豊かになるのも善し悪し。

経済的変化は最も(社会を)不安定にしうる。経済的変化についての奇妙なことは、改善が貧窮と同じくらい危険でありうることである。
  ――第19章 暴力と革命

 誰もが貧しければ、みんな諦める。一部の者だけが豊かになると、ヤバい。また、暮らしに余裕ができると、教師などのインテリが騒ぎ出すわけ。ポルポトもフランスに留学するような富裕層だったし。

 など内戦に加え、他国との戦争の話もある。本書は悲観的というか現実的で。

国家は可能なところではどこでも拡張する。(略)拮抗力だけがたぶん拡張衝動を止められるだろう。
  ――第20章 国際関係

 拮抗力というか、軍事力のつり合いだね。これが崩れる、または崩れたと認識すると、ロシアや大日本帝国みたく増長する。どんな国でも、国土を失えば国民は文句を言うし、国土を得れば政権の支持は上がる。だから潜在的とはいえ戦争の欲求はある。だが戦争はカネがかかる。その費用をどうやって賄うか。

戦争を始めなければならないならば、必ず同時に増税すべきだ(略)。もし増税しなければインフレで厄介なことになるだろう。
  ――第18章 公共政策

 はい、税金です。もしくは借金、国債だね。だが実質的な経済が成長していないのにカネだけ増やしたら、その分カネの価値が薄まる、つまり物価が上がってインフレになるのだ。いや最近はMMT(現代貨幣理論)とかあるらしいけど、私は名前しか知らない。

 さて、そな戦争を抑えるために国連があるじゃないかって声もあるだろうけど、おいそれと(でもないか)国連の平和維持軍は出動できない。

国連のブルー・ベレー帽を着用した(略)軍隊は、まだ進行中の紛争を停止させることによって「平和を強制」することはできない。
  ――第20章 国際関係

 戦いを止めることはできないのだ。できるのは、落ち着いた時点で、落ち着きを保つことだけ。だから、イスラエルのガザ侵攻が始まったら、国連軍が介入して止めるって手は使えない。

 などと、アチコチに悲観的というか現実的な記述が見えるあたりは、役に立たないとか歯切れが悪いとも言えるが、同時に事実に即しているとも取れる。なんたって、政治哲学ではなく政治学の教科書/入門書だし。分量は多く合州国視点で、しかも1997年と古いのは辛いが、派閥により意見が割れそうな政治を扱うわりに、最大限にバランスを配慮した結果だと思う。文章も比較的にこなれているし、入門書としては優れている本だ。

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【蛇足:合州国か合衆国か】

 この記事では「合衆国」ではなく「合州国」を使った。これは本書の表記に従ったためだ。原則として、このブログじゃ取り上げた本の表記に従っている。某作家の名前がベルナール・ヴェルベールだったりベルナール・ウエルベルだったりするのは、そういう理由です。

 「訳者序文」によると「小倉博士の強い意向を受けて」とある。意向の詳細は書いていない。根拠のない勝手な想像だが、こんな考えではないか。

United States を素直に訳すと、「州の連邦」が近い。だが「アメリカ州連邦」や「アメリカ連邦」は斬新すぎて、読者は戸惑うだろう。「アメリカ合州国」なら読みは同じで字面も近い。読者の慣れと意味の妥当さのつり合いで、ちょうどいい具合じゃね? 実態も政治学的に正しい(*)し。

 *野暮を承知で解説すると、この「正しい」は「倫理的に善/正義」の意味ではない。「事実に即ている」とか「実態に近い」みたいな意味だ(→「正しい」の四品種)。

 なお、意向の理由を書いてないのも、監修者/訳者の考えによるものだろう。これも根拠のない妄想だが、「訳者は黒子に徹し正確な訳を心がけ、自分の個性や主張は控えるべき」みたいな考えだと思う。

 こういう訳者の姿勢は、小説とノンフィクションじゃ異なるし、同じノンフィクションでもジャーナリストの本と学者の本でも違う。こういう違いも、本の面白さの一つだよね。

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2023年6月 9日 (金)

ジャン・ジーグレル「スイス銀行の秘密 マネー・ロンダリング」河出書房新社 荻野弘巳訳

スイスは今日、「死の金」のマネー・ロンダリングとリサイクルの、世界でもっとも重要な中心である。
  ――緒言 スイス“首長国”

【どんな本?】

 漫画「ゴルゴ13」などで有名なスイス銀行。その特徴は極めて厳密に顧客の秘密を守ること。というと顧客を大事にする信用第一の組織のように思える。ただし、問題もある。どんな顧客の秘密も守るのだ。例えば「ゴルゴ13」では、殺し屋の口座を守っている。

 現在は様々な形で国際化が進んでいる。これは犯罪組織も例外ではない。例えばコカインなどの麻薬取引は、南米の生産・加工者から中米やアフリカの仲介者、そして密輸と販売に携わるイタリアのマフィアなど、幾つもの組織が関わっており、その摘発にも国際的な協力が欠かせない。

 こういった国際犯罪組織の捜査では、取引される麻薬だけでなく、資金の流れも重要な証拠だ。特に、犯罪組織のトップに迫るには、カネが集まるポイントを抑えなければならない。だが、カネの流れを追う捜査官に、鋼鉄の扉が立ちはだかっている。

 顧客の情報を守る、スイス銀行だ。スイス銀行に入ったカネは、足取りを追えない。

 ジュネーヴ大学の社会学科教授とスイス連邦下院議員そして弁護士を兼ねる著者が、金融機関ばかりでなく国家ぐるみで闇資金の洗浄に携わるスイスの現状を明かす、迫真の告発の書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は La Suisse lave blanc, Jean Ziegler, 1990。日本語版は1990年12月20日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約196頁に加え、訳者による解説が豪華25頁。9ポイント44字×17行×196頁=約146,608字、400字詰め原稿用紙で約367枚。文庫ならやや薄め。

 文章は読みやすいが、ややクセがある。根拠のない想像だが、たぶん訳者の工夫だろう。恐らく原文は一つの文が長い。学者にありがちな文体だ。それを訳者が複数の短い文に分け、親しみやすくしたんだと思う。他にも、日本人が知らないスイスの事情などは注釈を入れるなど、訳者が気を配っている。注も巻末ではなく文中にあるのが嬉しい。

 内容も分かりやすい。ただ、一つの事件に多くの人物が関わっているケースが多い。それも政治・経済犯罪によくあるパターンだ。加えて資金洗浄である。犯人たちもアシがつかぬよう、資金は複雑なルートを辿る。そういう所は、注意深く読んでいこう。

 最大の問題は、肝心の「スイス銀行とは何か」について、本文には詳しい説明がない点だ。そもそも「スイス銀行」とは、一つの銀行を示す言葉ではない。日本銀行のような国家の中央銀行でもないし、みずほ銀行のような一つの企業や組織を示す言葉でもない。Wikipedia を見てもいいが、訳者が解説でわかりやすく丁寧に説明しているので、できれば解説を先に読もう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 緒言 スイス“首長国”
  • 第1部 麻薬は現代のペスト
    • 1 ミッテラン大統領の警告
    • 2 コップ家の崩壊
    • 3 謎の人物、ムッシュー・アルベール
    • 4 空翔ける司祭
    • 5 メデジン・カルテルの友
    • 6 社会の癌
    • 7 正義の不履行
  • 第2部 血にまみれた庭
    • 1 独裁者たちの宝島
    • 2 人を喰う魔神モレク
  • 第3部 国家の腐敗
    • 1 スフィンクス
    • 2 スイス知識人の批判は国民の敵
    • 3 病める国
  • エピローグ 反乱
  • 解説

【感想は?】

 マネー・ロンダリング。資金洗浄。犯罪など後ろ暗い手口で稼いだカネを、綺麗なカネに変えること。

 その主な道具としてスイスの銀行が使われ、そればかりでなくスイスの政府が国を挙げて協力している事を白日の下に晒した、いわば内部告発の本だ。何せ著者は弁護士であると同時に当時は現役の国会議員である。当時は大きな話題を呼んだだろう…少なくとも、スイスでは。

 さすがに原書は1990年の出版といささか古く、その分だけ衝撃も薄れてしまった。だが、パナマ文書(→Wikipedia)などで、資金隠しや資金洗浄といった言葉が一般にも浸透した分、私たちにとっても身近な問題ともなっている。

 全体の半分を占める第1部では、国際的な麻薬・コカイン取引の資金を取り上げる。悪名高いコロンビアのメデジン・カルテル(→Wikipedia)や、当時の流通を担ったトルコ=レバノン・コネクションなどの資金洗浄を、スイスの銀行ばかりでなく政府までもが協力し、また合衆国やイタリアの司法組織の捜査を冷酷に断った様子を、実名を挙げて告発してゆく。

 ちなみにコカインの流通については「コカイン ゼロゼロゼロ」が詳しい。合衆国ばかりでなくイタリアの司法も協力している理由は、こちらの本が参考になる。

 民間の営利企業である銀行が犯罪組織に協力するのは、、稼ぎ目当てだろうと見当がつく。だが、なぜ政府も協力する?

 理由の一つは、スイスの法体系がある。最初から、そういう風に設計しているのだ。

銀行や金融会社やその他の機関が死の儲けのロンダリングをしていたときには、罰則規定がなかった
  ――コップ家の崩壊

 ばかりでなく、この件では現役の法務相エリザベート・コップが関わっていた。加えて夫のハンス・W・コップは、資金洗浄の一端を担うシャカルキ・トレーディング社の副社長でもあった。この辺のカラクリは、後に詳しく説明がある。スイスは、国家をあげて資金洗浄を産業として育て守っているのだ。これは司法も同じで…

彼ら(メデジン・カルテル)の口座の大部分はチューリヒの大銀行に開かれているので、アメリカ司法当局はこれを差し押さえるように要請してきている。(略)彼ら(チューリヒやジュネーヴやルガノの首長たち)の弁護士は異議を申し立て、メデジン・カルテルのボスたちの言い分を通すために、才能を発揮した。そして勝った。
  ――メデジン・カルテルの友<

 ちなみに圧力をかけたのは、コワモテの合衆国大統領レーガンだ。この本が出版された遠因の一つも、合衆国による外圧だろう。この外圧によって流出した情報が、本書の元ネタとなっている。実際、合衆国の圧力にスイス政府が対応を苦慮する場面も出てくる。その合衆国が目をつけた麻薬組織の規模は相当なもので…

この年(1988年)、イタリアでの消費と中間卸で麻薬業者が手にした金は、600億スイスフラン以上に達したと見積もられているが、その大半はスイスで洗濯された。
  ――社会の癌

 ちなみに1990年ごろの相場だと、1スイスフランは80円~110円。

 こういった犯罪組織ばかりでなく、世界中の独裁者たちの資産もスイスは守っている。これを明らかにしているのが「第2部 血にまみれた庭」だ。

(フィリピンの第10代大統領フェルディナンド・)マルコスの資産の合計は(略)クレディ・スイスやその他のスイスの40数行に預けた戦利品は、10億ないし15億ドルに上るものと見られている。
  ――独裁者たちの宝島

(ザイールの元大統領)ジョゼフ・デジレ・)モブツはネッロ・チェリオという人物の有益なアドヴァイスを受けている。チェリオはルガノの事業弁護士で、クレディ・スイスの重役、そして連邦蔵相、そしてついにスイス大統領にもなった。
  ――独裁者たちの宝島

 また、「ショック・ドクトリン」が触れていた、独裁/軍事政権の権力者が、国の利権を外国に売りさばいて自分の懐に入れ、ヤバくなったらズラかる手口も、スイスが手伝っている。ああ、もちろん、これらのパクったカネは、スイスが政府をあげてお守りします。

1987年6月、アルゼンチン大統領ラウル・フランセスコ・アフロンシン(略)「外国の個人口座に預けられたアルゼンチンの個人預金は200億ドルに達するが、これはわが国の対外債務の1/3にあたる」
  ――人を喰う魔神モレク

 これがカネだけではなく身柄も守っているのが、スイスの怖い所。そういえば北朝鮮の金正恩もスイスに留学していたっけ。もっとも独裁者だけでなく、例えばレーニンとかの亡命者も匿うあたりは懐が深いというべきなんだろうか。

 ちなみに資金の隠し方については、「最後のダ・ヴィンチの真実」にも、ちょっとだけ出ていた。

 スイスがこういう体質なのは、国家の体制や性質も大きい。州の権限が強い連邦国家だし。その辺も本書は触れているが、印象的なエピソードはこれ。

スイスはこの地球上で、イスラエルに次いでもっとも軍国化している国家である。生粋のスイス生まれの住民580万について、65万の兵士と士官がいる。(略)
すべての地位ある首長は(政治家もそうだが)、この国民軍の少なくとも大佐である(非常に幸いなことに、将軍も職業軍隊もスイスにはない)。
  ――スイス知識人の批判は国民の敵

 小国で軍事的には中立ってのもあって、どうしても防衛コストは高くなるんだろう、軍事的にも経済的にも政治的にも。

 現在でも、EUにもNATOにも参加せず、中立を守り続けているスイス。だからこそジュネーヴには国連関連機関が多いなど、国際的にも重要な役割を果たしているが、同時に世界中の闇が集まってもいる。30年前の刊行といささか古くはあるが、スイスという国の裏面がのぞける、なかなか貴重な本だった。

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2023年5月29日 (月)

イアン・アービナ「アウトロー・オーシャン 海の『無法地帯』をゆく 上・下」白水社 黒木章人訳

わたしが努めて本書の中にとらえようとしてきた、きわめて重要なものが二つある。それは、痛々しいほど無防備な海の実態と、そうした海での労働に従事する人びとが頻繁に味わわされる、暴力行為と惨状だ。
  ――プロローグ

世界中で大小取り混ぜて毎年何万隻もの船が盗まれている。
  ――7 乗っ取り屋たち

【どんな本?】

 陸に国境はあるが、海に国境はない。陸では警察が法を守る。だが海、特に公海上では守るべき法もなければ守らせる警察もいない。だから、海は陸と異なるルールが支配する。

 漁船の違法操業,人身売買まがいの船員集め,自警団気取りの自然保護活動家,海の傭兵基地,密航者,違法廃棄,自称独立国家,堕胎船,そして捕鯨船団。

 これらの裏には、海がもたらす富と、あやふやな国境、そして多くの国が関わる海ならではの事情がある。

 ニューヨーク・タイムズの記者である著者が、世界中の海を巡って様々な船に乗り込み、波にもまれながら海の男たちに体当たり取材を続けて仕上げた、壮絶な海のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Outlaw Ocean : Journeys Across the Last Untamed Frontier, by Ian Urbina, 2019。日本語版は2021年7月10日発行。単行本ソフトカバー上下巻で縦一段組み本文約287頁+293頁=約580頁。9ポイント46字×20行×(287頁+293頁)=約533,600字、400字詰め原稿用紙で約1,334枚。文庫なら上下巻または上中下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。巻頭に世界地図があり、舞台となった海や港が判るのも親切だ。量こそ多いが、エキサイティングでスリルあふれる場面が多いので、全編を通して楽しく読めるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった章だけを拾い読みしてもいい。

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  •  上巻
  • プロローグ
  • 1 嵐を呼ぶ追跡
  • 2 孤独な戦い
  • 3 錆びついた王国
  • 4 違反常習者の船団
  • 5 <アデレイド>の航海
  • 6 鉄格子のない監獄
  • 7 乗っ取り屋たち
  • 8 斡旋業者
  •  写真・図版クレジット/原注
  •  下巻
  • 9 新たなるフロンティア
  • 10 海の奴隷たち
  • 11 ごみ箱と化す海
  • 12 動く国境線
  • 13 荒くれ者たちの海
  • 14 ソマリ・セブン
  • 15 狩るものと狩られるもの
  • エピローグ 虚無
  • 巻末に寄せて 「無法の太洋」の手綱を締める
  • 謝辞/訳者あとがき/写真・図版クレジット/原注

【感想は?】

 日本語版の上巻の表紙が挑発的だ。第二勇新丸、捕鯨船団のキャッチャーボート。意外と商売っ気あるじゃん、白水社。

 その捕鯨船団とシーシェパードのチェイスを描くのは最後に近い「15 狩るものと狩られるもの」。著者はシーシェパードの船<アークティック・サンライズ>に乗り、追う側で取材する。1992年の捕鯨船団に乗り込んだ川端裕人「クジラを捕って、考えた」と一緒に読むと、より楽しめる。

 なお著者の姿勢は双方から一歩引いていて、延縄漁のアガリをカスメ取る鯨の食害を語りつつ、日本の官僚組織の事なかれ主義もチクリ。

 開幕の「1 嵐を呼ぶ追跡」は南氷洋でマゼランアイナメ(メロ/銀ムツ,→Wikipedia)の密漁船と、それを追うシーシェパードの追跡劇だ。ここではグローバル化が進む漁業の世界が垣間見える。密漁船の乗務員の多くはインドネシア人、幹部はスペインとチリとポルトガル、船籍はモンゴルだったりナイジェリアだったり。

 こういう多国間にまたがる法的状況は、違法操業の摘発や調査を難しくする。その具体例として、この章は幕開けに相応しい。なおマゼランアイナメについては「銀むつクライシス」をどうぞ。

 続く「2 孤独な戦い」は、経済的排他水域=EEZを荒らす中国や台湾やヴェトナムの密漁船を追うパラオ共和国の奮闘を描く。密漁船の狙いはフカヒレ。日本人もヒトゴトじゃない。連中はパラオが設置した人工浮漁礁で、獲物を横取りしている。だが、小国パラオが広いEEZを守り切るのは難しい。ちなみに世界の密猟の規模は…

食卓にのぼる魚の五匹に一匹は密漁で得られたもので、世界中の水産物ブラックマーケットの経済規模が2000憶ドル以上にもなっている
  ――2 孤独な戦い

 このフカヒレの密漁、密漁船はヒレだけ切り取って他は捨てていた。船は狭く船倉も限られてるんで、高く売れるヒレだけ運べば稼ぎが増える。これは極端な例だが、漁業技術が進歩するにつれ目的外の魚も多く獲れるようになった。それらは…

漁網のサイズが大きくなり強度も増すにつれて、漁の対象以外の魚(釣りで言うところの「外道」、商業漁業では「混獲」)の水揚げも多くなっていった。現在、世界中の海の漁獲量の半分以上が、網から外されたら何の気なしに海に投棄されるか、すり潰されてペレット状にされて家畜の餌にされている。
  ――2 孤独な戦い

 狙った魚ばかり獲れるわけじゃないだろと思ってたが、やっぱり、そうなのか。

 「4 違反常習者の船団」「8 斡旋業者」「10 海の奴隷たち」では、漁船員の仕事っぷりと生活環境を描く。その様子は「スペイン無敵艦隊の悲劇」「トラファルガル海戦物語」の水兵の暮らしと大差ない。得体のしれない食事、長時間の厳しい労働、悪臭にまみれた船内、ハンモックでギュウギュウ詰めの寝床、我が物顔で暴れまくるネズミ。昔も今も、海の暮らしは厳しいのだ。

 なぜ漁船員の暮らしは厳しいのか。そもそも元から漁業は厳しいってのがある。漁船の空間は限られてるし、海は荒れる。でも、それだけじゃない。

わたしは過去何年にもわたって、石炭産業や長距離トラック業界や性産業、そして縫製工場やにかわ工場といった各種産業の凄惨な現場をごまんと取材してきた。そんなわたしでも、漁船で起こっていることには唖然とさせられた。この惨状の原因は一目瞭然だった――組合がないこと。漁業が本質的に有する閉鎖性と流動性、そして陸の政府の監視から隔てる、気の遠くなるような距離だ。
  ――4 違反常習者の船団

 そんな厳しい漁船に、なぜ彼らは乗るのか。漁船員たちは、インドネシアやカンボジアの貧しい村の男たちだ。そんな彼らを、人買いのように「仕事をあっせん」する業者がいる。

雇われたリナブアン・サー村出身の数人の男たちは、三年の拘束規定が盛り込まれた新しい契約書へのサインを求められたという。その契約書には残業手当も病気休暇もないことも、そして週休一日で労働時間は一日18時間から24時間だということも明記されていた。さらには食費として毎月50ドルを差っ引くことも、船長の権限で別の漁船に配置換えできる(略)。給料は月ごとではなく、三年の契約満了時にまとめて家族に送金されることになっていた。
  ――8 斡旋業者

 日本の外国人技能実習制度もあっせん業者について黒い話が多いが、たぶん元から斡旋業者はいたんだろう。日本は新たな売り込み先として便利に使われてるんじゃなかろか。

 なお、買い手として本書が挙げているのは、台湾と韓国に加え、タイだ。原因はタイ経済が活況を呈したための人手不足ってのが皮肉。

2014年の国連報告によれば、タイの水産業界は年間で五万人の漁船乗組員が不足しているという。そしてこの慢性的な人手不足を、カンボジアとミャンマーからの何万人もの出稼ぎ労働者で補っているのが現状だ。その結果、彼らをまるで家畜のように売買する質の悪い漁船の船長が出てくる。
  ――10 海の奴隷たち

 暗い話が多い中で、海の無法状況を逆手に取っているのが、「5 <アデレイド>の航海」のオーストリア船<アデレイド>。アイルランドやポーランドやメキシコなどローマ・カトリックが強い国では、堕胎を禁じている。それでも堕胎を望む女たちの希望が<アデレイド>だ。船が領海を出れば、適用されるのは船籍のある国の法だ。そこでオーストリア船籍の<アデレイド>に妊婦を乗せ、領海外で傾向妊娠中絶役を処方すれば、合法的に堕胎できる。

「彼女たちをオーストリアまで連れていく余裕は、わたしたちにはないけど」
「でも、オーストリアを少しだけ持ってくることはできる」
  ――5 <アデレイド>の航海

 続く「6 鉄格子のない監獄」では、密航を企てる者たちに加え、奇妙な状況に置かれてしまった船員たちを描く。

破産宣告された船主が損切りに走って所有権を放棄した。そのせいで燃料や物資が底をついてしまった。もっぱらそんな理由で、乗組員たちは船に乗ったまま、はるか沖合や外国の港に置き去りにされる。
  ――6 鉄格子のない監獄

 船主が船を捨てたため、船員たちは沖合に置き去りにされ、宙ぶらりんになってしまう。様々な国の法が絡み合う海で、法の隙間に落ち放置される者たち。いつだって、ツケを押し付けられるのは現場の人間なんだよなあ。

 シーシェパードの船に乗っている事でもわかるように、著者は環境問題にも関心が深い。「9 新たなるフロンティア」では、海底油田開発にまつわる問題を掘り下げる。例えばタンカーの原油流出事故。あれ薬剤で処理すりゃいいのか、と思ってたが…

ほんの数カ月前までは万華鏡のような光景が展開されていた海底が、アスファルト敷きの駐車場に変わり果てていたのだ。化学分散材は原油を消散させたのではなく、実際には海の底に沈めて付着させていたのだ。
  ――9 新たなるフロンティア

 言われてみりゃ原油はガソリンなどの軽い油からアスファルトなど重い油も含む。海上に浮かび外から見える軽い油は処理できても、海底に沈む重い油は海底に沈んだまま。だもんで、生態系は崩壊するのだ。そういう問題もあるのか。

 「11 ごみ箱と化す海」では、海上石油プラットフォームの廃棄/再利用問題と共に、豪華客船による廃液の違法投棄を取り上げる。ここで出てくるプリンセス・クルーズ社(→Wikipedia)、もしやと思って調べたら、やっぱり。コロナ禍初期の2020年に横浜港で検疫対象となったダイヤモンド・プリンセス(→Wikipedia)の運航会社だった。

 なお合衆国では、この手の違法行為の内部告発者には、徴収した罰金の一部を支払う制度があるとか。この件だと告発者クリス・キースが100万ドルを受け取っている。日本でも、組織に対する内部告発者には、それぐらいの報いがあってもいいのに。

 「12 動く国境線」では、中国・ヴェトンナム・インドネシア・フィリピンが角突き合わす南シナ海を舞台に、力づくで国境が変わる様子を描く。日本の海上保安庁も、こんな緊張感を感じてるんだろうなあ。

地図に引かれている国境線は動かしようがないが、海の国境線と主権が及ぶ範囲は、ほぼ例外なく軍事力でいかようにも変わる。
  ――12 動く国境線

 ここから終盤にかけ、剥き出しの武力がモノを言う緊迫した雰囲気が立ち込める。「13 荒くれ者たちの海」では、武器保管船に突撃取材だ。かつて海賊が跋扈したソマリア沖などのヤバい海域に、予め船を浮かべ「警備員」を置いておき、コトが起きたら武装した警備員を派遣する。要は海の傭兵基地だ。ところが…

武装警備員たちが持ち込んだ銃器は武器庫にしまい込まれるので、武器保管船は武器が欲しい海賊たちの格好の的になっている。
  ――13 荒くれ者たちの海

 と、海賊の獲物になったりするから世の中はわからんw

 こんな物騒な雰囲気がピークに達するのが、終盤に近い「14 ソマリ・セブン」。海賊騒ぎが落ち着いてきたソマリアやブントランドの政府の奮闘ぶりを取材しようと現地を訪れた著者。しかし政府側は疑い深く、著者も「そっちがその気なら」と…

七隻のタイ漁船については取材予定にない。それまで事あるごとに言い続けてきたとおりのことを、わたしは連邦政府側の人間にもブントランド側の人間にも言った。しかしその一方で、七隻を取材すべきなのかもしれないと考えるようにもなっていた。
  ――14 ソマリ・セブン

 緊張感漂う描写が続く章なのだが、私は妙に笑えてしかたなかった。ホラー映画で笑っちゃう感じ。

 奴隷労働と剥き出しの暴力が跋扈する遠洋漁船、そこに「人材」を供給する斡旋業者、違法操業を続ける漁船とそれを追う者たち、多国家間の法の抜け道を突く狡猾な船主や取り立て屋、そして利権を吸おうとする者たち。一筋縄ではいかない海のダークサイドを様々な切り口で見せる、迫力満点のドキュメンタリーだ。

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2022年5月27日 (金)

レイ・フィスマン+ミリアム・A・ゴールデン「コラプション なぜ汚職は起こるのか」慶應義塾大学出版会 山形浩生+守岡桜訳

本書の目的は、汚職から抜け出せない人たち、そして汚職を許せないと思う人たちに、汚職がもたらすジレンマを理解してもらうことだ。
  ――第1章 はじめに

【どんな本?】

 汚職まみれの国もあれば、滅多にない国もある。賄賂で交通違反をもみ消す警官など身近で末端の公務員による汚職もあれば、閣僚や国会議員が絡む事件もある。シンガポールは専制的だが汚職は極めて少ない。対してインドは民主主義だが賄賂社会だ。チリは貧しいが汚職は少なく、イタリアは豊かだが汚職が横行している。

 なぜ汚職が起きるのか。その原因は何か。政治体制か、豊かさか、文化か。なぜ汚職スキャンダルにまみれた政治家が再び議席を得るのか。規制だらけの社会で迅速に起業するには鼻薬が効くから賄賂は必要悪なのか。そして、どうすれば汚職は減るのか。

 ボストン大学の行動経済学者とカリフォルニア大学LA校の政治学教授という、異分野の二人がタッグを組んで送る、一般向けの政治/経済の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CORRUPTION : What Everyone Needs to Know, by Ray Fisman and Miriam A. Golden, 2017。日本語版は2019年10月30日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約300頁に加え、溝口哲郎の解説「反汚職のための冴えたやり方」11頁+山形浩生の訳者あとがき8頁。9ポイント45字×18行×300頁=約243,000字、400字詰め原稿用紙で約608枚。文庫ならちょう厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もかなり分かりやすい。敢えて言えば、世界中の国や都市が出てくるので、Google Map か世界地図があると、迫真性が増すだろう。

【構成は?】

 基本的に前の章を受けて次の章が展開する形なので、なるべく頭から読もう。各章の末尾に1~2頁で「第〇章で学んだこと」があるのも嬉しい。

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  • 序文/謝辞
  • 第1章 はじめに
    • 1.1 この本の狙いは?
    • 1.2 なぜ汚職は大きな意味を持つの?
    • 1.3 汚職を理解するための本書の枠組みとは
    • 1.4 腐敗した国が低汚職均衡に移るには?
    • 1.5 汚職について考えるその他の枠組みはあるの?
    • 1.6 この章の先には何が書いてあるの?
    • 第1章で学んだこと
  • 第2章 汚職とは何だろう?
    • 2.1 汚職をどう定義しようか?
    • 2.2 汚職はかならずしも違法だろうか?
    • 2.3 汚職はどうやって計測するの?
    • 2.4 政治汚職は官僚の汚職とどう違うのか?
    • 2.5 汚職は企業の不正とどうちがうのか
    • 2.6 利益誘導は一種の汚職か
    • 2.7 恩顧主義と引き立ては汚職を伴うか
    • 2.8 選挙の不正は汚職を伴うか
    • 第2章で学んだこと
  • 第3章 汚職が一番ひどいのはどこだろう?
    • 3.1 なぜ汚職は貧困国に多いのだろう?
    • 3.2 どうして低汚職国の国でも貧しいままなのだろう?
    • 3.3 国が豊かになるとどのようにして汚職が減るのか
    • 3.4 どうして一部の富裕国は汚職の根絶に失敗しているのだろう?
    • 3.5 20年前より汚職は減ったの――それとも増えたの?
    • 3.6 政府の不祥事は、汚職が悪化しつつあることを示しているのだろうか
    • 3.7 反汚職運動は政治的意趣返しの隠れ蓑でしかないのだろうか?
    • 3.8 先進国は政治と金で汚職を合法化しただけだろうか?
    • 3.9 どうして世界の汚職の水準は高低の二つだけではないのか
    • 第3章で学んだこと
  • 第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?
    • 4.1 汚職は経済成長を抑制するだろうか?
    • 4.2 汚職は事業への規制にどう影響するだろうか(またその逆はどうか)?
    • 4.3 汚職はどのように労働者の厚生に影響するだろうか?
    • 4.4 公共建設事業における汚職は何を招くか
    • 4.5 汚職は経済格差を拡大するか
    • 4.6 汚職は政府への信頼をそこなうか
    • 4.7 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その1:集権型汚職対分権型汚職
    • 4.8 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その2:不確実性
    • 4.9 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その3:汚職によって事業を止めてしまう
    • 4.10 天然資源は汚職にどう影響を与えるか また汚職は環境にどう影響を与えるか
    • 4.11 汚職に利点はあるだろうか?
    • 第4章で学んだこと
  • 第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?
    • 5.1 なぜ公務員は賄賂を受け取るのか?
    • 5.2 なぜ政治家は賄賂を要求するのだろうか?
    • 5.3 贈収賄のモデルに道徳性を組み込むにはどうすればいい?
    • 5.4 政治家たちが官僚の間に汚職を広める方法
    • 5.5 どうして個別企業は賄賂を払うの?
    • 5.6 どうして企業は結託して賄賂支払いを拒否しないの?
    • 5.7 普通の人は汚職についてどう思っているの?
    • 5.8 汚職が嫌いなら、個々の市民はなぜ賄賂を支払ったりするの?
    • 第5章で学んだこと
  • 第6章 汚職の文化的基盤とは?
    • 6.1 汚職の文化ってどういう意味?
    • 6.2 汚職に対する個人の態度は変えられる?
    • 6.3 汚職の文化はどのように拡散するのか?
    • 6.4 汚職は「贈答」文化に多いのだろうか?
    • 6.5 汚職は宗教集団ごとにちがいがあるのだろうか?
    • 6.6 汚職に走りがちな民族集団はあるのだろうか?
    • 第6章で学んだこと
  • 第7章 政治制度が汚職に与える影響は?
    • 7.1 民主主義レジームは専制政治よりも汚職が少ないか?
    • 7.2 専制主義はすべて同じくらい腐敗しているのだろうか?
    • 7.3 選挙は汚職を減らすか?
    • 7.4 党派的な競争は汚職を減らすか?
    • 7.5 一党政治は汚職を永続化させるだろうか?
    • 7.6 汚職を減らすのに適した民主主義システムがあるだろうか?
    • 7.7 政治が分権化すると汚職は減るだろうか?
    • 7.8 任期制限があると汚職は制限されるのか それとも悪化するのか?
    • 7.9 選挙資金規制は汚職を減らすか? それとも増やすか
    • 第7章で学んだこと
  • 第8章 国はどうやって高汚職から低汚職に移行するのだろうか?
    • 8.1 どうして有権者は汚職政治家を再選するのだろうか?
    • 8.2 有権者が汚職政治家を再選させるのは情報不足のせい?
    • 8.3 どうして有権者は調整しないと汚職政治家を始末できないのだろうか?
    • 8.4 外的な力はどのように汚職との戦いを引き起こすのだろう?
    • 8.5 政治的なリーダーシップが汚職を減らすには?
    • 第8章で学んだこと
  • 第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?
    • 9.1 汚職を減らす政策はどんなものだろうか?
    • 9.2 段階的な改革は「ビッグバン」改革と同じくらい効果的だろうか?
    • 9.3 汚職対策に最も効果的なツールは何だろうか? 汚職問題をハイテクで解決できるだろうか?
    • 9.4 規範の変化はどのように起こるのだろうか?
    • 9.5 いつの日か政治汚職が根絶されることはあるだろうか?
    • 第9章で学んだこと
  • 解説 反汚職のための冴えたやり方 溝口哲郎
  • 訳者あとがき/注/索引

【感想は?】

 難しいテーマに正面から挑んだ意欲作。

 難しいと言っても、理解しにくいとか難解とか、そういう意味じゃない。実態を掴みにくいって意味だ。

 何せ汚職だ。やってる連中は隠したがる。本当に汚職が酷い国じゃ、まず汚職はニュースにならない。実際、ロシアじゃジャーナリストが次々と亡くなってる。逆にシンガポールなら、連日大騒ぎだろう。汚職が話題になってるから酷いってワケじゃない。腐りきってるなら報道すらされない。だもんで、まっとうな手段じゃ現状の把握すら難しい。

 確かにトランスペアレンシー・インターナショナルは腐敗認識指数(→Wikipedia)を公開してる。でも、「盲信しちゃダメよ」と本書は釘をさしてる。第2章なんて早い段階で「結局、あまし信用できるデータはないんだよね」と音を上げてるあたり、逆に信用できる本だと思う。

 そんなワケで、本来のテーマも面白いが、ソレをどうやって調べたのかってあたりも、本書の魅力なのだ。

 例えば、第4章では、社会学者が世界の各国で新事業を立ち上げ、それに要した工程と日数を調べてる。カナダは2工程で2日、モザンビークは17工程で174日。中国では、政府高官にコネがある企業とない企業の労災死亡率を調べてる。結果、コネがあると2倍死ぬ。ひええ。

 中でも感動したのが、コネの価値を測る第5章。ここでは、インドネシアに君臨したスハルト元大統領のコネの価値を測る。方法が巧い。1969年、スハルトはドイツで健康診断を受けた。この時、息子が所有するビマンタラ・シトラ社の株価の動きを調べたのだ。

 インドネシアの株価全体は2.3%下げた。対してシトラ社は2日間で10%近く下げてる。両者の差がスハルトのコネの価値ってわけ。政治家が入院した時は、株価に注目しよう。

 などと、「どうやって調べたのか、その数字はどう計算したのか」って楽しみもあるが、本来のテーマももちろん面白い。

 日本はどうなんだろうって関心は、少し安心するけど先行きは不安な気分になる。まずは安心材料。

2011年に科学誌『ネイチャー』で発表されたとある研究によると、過去30年間に地震で倒壊した建物で死亡した人の83%は「異常に」腐敗した(つまり所得のみをもとにした予測より腐敗した)国にいたという。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 地震大国の日本なのに、建物の倒壊で亡くなった人は全体に比べれば少ない。酷い国はコネで査察が入らなかったり、役人に鼻薬が効いたり。日本は違法建築に厳しい、つまり役人はコネで見逃したりしないし、賄賂も効かない。一安心…とはいかない。本当にひどい所は…

通常は賄賂が最も一般的な部門を挙げてくださいというアンケートでは、医療が筆頭にくる。
  ――第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?

 病気や怪我の時でさえ、賄賂を渡さないと治療してもらえない。腐敗ってのは、イザという時の命にかかわる、というか、弱った時にこそタカリにくるのだ、腐敗役人は。

 もっとも、そういう国は、もともと医療リソースが貴重だったりする。つまり…

汚職と国家の繁栄水準には明確な負の相関がある。
  ――第3章 汚職が一番ひどいのはどこだろう?

 貧しい国ほど腐ってるのだ。とまれ、これは相関関係であって因果関係じゃない。貧しいから腐るのか、腐ってるからまずしいのか、その辺は難しい。警官や兵士でよく言われるのが、給料じゃ食ってけないからって理屈。これには一理あって…

公務員給与と汚職との直接の相関はマイナスだ。言い換えると、データのある世界の多くの国では、公務員給与が高ければ汚職水準も低い。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 じゃ給料を払えば…と思うが、そうはいかない。同時にすべきこともある。ちゃんと見張り、汚職役人は処分しないと。

高賃金が汚職低下に役立つ見込みが高いのは、もっと監視と執行を強化した場合だという見方を支持している。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 つまりアメとムチを同時に使えってことです。

 日本は比較的に豊かだし、医師や看護師に袖の下を求められることも、まずない。とはいえ、年に一度ぐらいは贈収賄がニュースになるし、ここ暫くは経済も停滞してる。にも関わらず、自民と公明は与党に居座ってる。野党は醜聞を盛んに追及するけど、最近の野党はジリ貧気味だ。これは、だいぶ前から現象が現れてる。

政治家が腐敗しているとわかった有権者は、結集して不誠実な役人に対抗しようとはしない。研究によると、むしろ政治に関わること自体を思いとどまるらしい。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 投票率の低下だ。どうも「だれに投票したって同じ」って気分になっちゃうんですね。こうなると、固定票を持つ候補者は強い。その結果…

悪行に関わった政治家は、データのある世界中のあらゆる国で再選される可能性のほうが高いのだ。
  ――第8章 国はどうやって高汚職から低汚職に移行するのだろうか?

 なんて奇妙な現象が起きる。テレビは選挙の特番を流してるけど、投票率はなかなか上がらない。みなさん、無力感に囚われてるんだろうか。

 他にも、ヤバいな、と思う兆候はあって。

役人の汚職というしつこい仕組みは、このように政治家が役人の任命、昇格、配置、給料について不当な影響力を行使する状況で生じやすい。
  ――第2章 汚職とは何だろう?

 内閣人事局ができて、内閣の役人への権限が強くなった。これが「不当な影響力」か否かは議論が別れる所だけど、長期政権じゃ癒着が強まるだろうってのは、常識で予想できる。つまり…

公職に指名されたのが政治的なボスのおかげであるような人物は、すぐに圧力に屈して、手持ちのリソースを使って、そのボスが再選を確保できるように手伝う
  ――第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?

 政治家と役人が一体となって、今の体制を守ろうとするんですね。他にも最近の傾向として、税負担の問題がある。

腐敗した国は富裕層に課税しない傾向があり、また社会福祉に出資しない傾向がある。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 貧乏人に厳しい消費税は増やそうとするけど、所得税の累進率は下げようとしてる。なんだかなあ。

 日本に限らず、誰だって汚職は嫌いだ…少なくとも、賄賂を受け取る側でなければ。にも関わらず、なかなか汚職は減らない。この膠着状態を、著者たちは「均衡」で説明する。

本書では汚職を、社会科学用語でいう均衡として考える。つまり、汚職は個人の相互作用の結果として生じるもので、その状況で他人がとる選択肢を考えれば、ある個人が別の行動を選択しても状態を改善できない状況で発生する。
  ――第1章 はじめに

 他のみんなと同じようにしてるのが最も得な状態、それが均衡だ。著者は道路の右側通行/左側通行で説明してる。みんなが右側通行してるなら、あなたもそうした方がいい。汚職も同じ。誰もしないなら、しない方がいいし、みんなしてるならやった方がいい。じゃ、どうすりゃいいのかっつーと…

汚職の文化を改革するには、どのように行動すべきかというみんなの信念を、どうにかして一気に変えなくてはならない。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 一人で変えるのは難しい、みんなが一斉に変えるっきゃない、ってのが本書の結論。今更だけど、政治ってのは、大勢を動かすのがキモなのだ。

 とかの総論的な部分も興味深いが、個々のエピソードも楽しい話が満載だ。特に第9章に出てくるコロンビアのボゴタでパントマイムを使って汚職を減らしたアンタナス・モックスの方法は、ユーモラスかつ巧妙で舌を巻く。なんと数年で殺人が70%も減ったとか。

 政治学って、なんか胡散臭いと思ってたけど、本書で印象が大きく変わった。汚職という実態の掴みにくい問題に果敢に挑み、知恵と工夫でデータを集めるあたりは、ボケた写真から天体の実像に迫ろうとする天文学者に似た、迸る学者魂を感じる。「政治学なんか興味ない」って人こそ楽しめる本だろう。

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2021年12月21日 (火)

リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」早川書房 濱野大道訳

行方不明者の家族は、ふたつの十字架を背負うことになる。
ひとつ目は、辛い体験の苦しみ。
もうひとつは、周囲の視線。ときに、彼らには普段よりも高い行動基準が求められる。
  ――第11章 人間の形の穴

「普段、在日コリアンの多くは差別を意識していません」
「ガラスの天井にぶつかるのは、野心がある人たち――社会の階段を駆け上がろうと望む人たちのほうです」
  ――第14章 弱者と強者

犯罪者は狡猾で、頑固で、嘘つきであり、警察はまさにそういう人間に対処するために存在する、という考えは刑事の多くにはなかった。
  ――第18章 洞窟のなか

日本の警察がよく無能に映るのは、真の犯罪と戦った経験がほとんどないからなのだ。
  ――第12章 日本ならではの犯罪

【どんな本?】

 2000年7月1日土曜日、六本木のクラブホステスが姿を消す。ルーシー・ブラックマン、21歳、英国人。友人で同僚のルイーズ・フィリップスは7月3日月曜日に麻布警察署および英国大使館を訪れ報告するものの、対応は冷ややかだった。

 だが一週間後、イギリスの新聞の報道を皮切りに、日本とイギリスのマスコミは事件の取り扱いを大きくする。ルーシーの父ティムの型破りな言動もあり、事件の報道はさらに過熱するのだが、肝心のルーシーの行方は杳として知れなかった。

 当時は<インディペンデント>紙の特派員として東京に住み、2002年からも<ザ・タイムズ>紙の東京支局長として日本の社会と風俗をよく知る著者が、事件のあらましだけでなく被害者の家族の状況と心の動き、日本と英国の社会や常識の違い、犯人とその背景など、旺盛な取材が可能とした多様な視点で事件と背景を描く、特異なルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up, by Richard Lloyd Parry, 2012。日本語版は2015年4月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え、日本語版へのあとがき4頁+訳者あとがき5頁。9.5ポイント45字×20行×471頁=約423,900字、400字詰め原稿用紙で約1,060枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。今はハヤカワ文庫NFから上下巻で文庫版が出ている。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、肝心の事件について、勘ちがいしがちなので要注意。本書が扱うのはルーシー・ブラックマンさん事件(ネタバレ注意、→Wikipedia)で、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件(→Wikipedia)」ではない。いや実は私も勘違いしてたんだが。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。ミステリとしても面白いので、好きな人は頭から読もう。

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  • プロローグ
  • 死ぬまえの人生
    謎の電話/失踪/大都市に棲む異様な何か
  • 第1部 ルーシー
  • 第1章 正しい向きの世界
    父と母/少女時代
  • 第2章 ルールズ
    離婚/ボーイフレンドたち
  • 第3章 長距離路線
    東京行きの計画/日本へ
  • 第2部 東京
  • 第4章 HIGH TOUCH TOWN
    異質で好奇心をそそる国
  • 第5章 ゲイシャ・ガールになるかも(笑)!
    ホステスという仕事/“水商売”/ノルマ
  • 第6章 東京は極端な場所
    TOKYO ROCKS/<クラブ・カドー>/オーナーのお証言/海兵隊員スコット/「まだ生きてるよ!」
  • 第3部 捜索
  • 第7章 大変なことが起きた
    消えたルーシー/冷静な父親/警察とマスコミ
  • 第8章 理解不能な会話
    ブレア首相登場/ルーシー・ホットライン開設/霊媒師たち
  • 第9章 小さな希望の光
    マイク・ヒルズという男
  • 第10章 S&M
    蔓延するドラッグ/あるSM愛好家の証言/「地下牢」へ
  • 第11章 人間の形の穴
    22歳の誕生日/ジェーンとスーパー探偵/ふたつの十字架/ある男
  • 第12章 警察の威信
    クリスタの証言/「過去稀に見る不名誉な状態」/ドラッグ
  • 第13章 海辺のヤシの木
    ケイティの証言/<逗子マリーナ>の男/不審な物音/Xデー
  • 第4部 織原
  • 第14章 弱者と強者
    薄暗い闇/アイデンティティ/弟の苦悩/友人たちの証言
  • 第15章 ジョージ・オハラ
    「歌わない」容疑者/父の怪死/謎の隣人/典型的な二世タイプ/声明
  • 第16章 征服プレイ
    アワビの肝/「プレイ」の実態/ルーシーはどこに?
  • 第17章 カリタ
    娘のいないクリスマス/消えたオーストラリア人ホステス/急変/ニシダアキラ/あの男
  • 第18章 洞窟のなか
    ダイヤモンド/発見/遺された者たち
  • 第5部 裁判
  • 第19章 儀式
    葬儀の光景/開廷/法廷の人々
  • 第20章 なんでも屋
    最後の証人/「気の毒に思っていますよ」
  • 第21章 SMYK
    検察側の尋問/遺族たちの声明
  • 第22章 お悔やみ金
    バラバラになる家族/魂を奪い合う戦場
  • 第23章 判決
    熱い抱擁/最終陳述/『ルーシー事件の真実』/ふたつの準備稿
  • 第6部 死んだあとの人生
  • 第24章 日本ならではの犯罪
    負の力/大阪にて/市橋達也とリンゼイ・アン・ホーカー/奇妙な手紙/黒い街宣車
  • 第25章 本当の自分
    暗闇に吹く突風/命の“値段”/道徳という名の松明/控訴審/最高裁/クロウタドリ
  • 日本語版へのあとがき/謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 目次を見れば分かるように、紙面の多くは被害者とその家族および友人たちの描写が占めている。

 彼らの状況は実に過酷だ。ただでさえ家族の行方が知れず恐怖と不安に襲われているのに、あーだこーだと煩く詮索される。靴下をはいてようがいまいがどうでもいいだろうに、なんで詮索されにゃならんのか。

 それでも、しおらしい顔を期待される。だが父のティムは役割を拒む。これが更に騒ぎを大きくした。もっとも、大騒ぎになったのも善し悪しで、親しい人たちへの注目が強くなった反面、警察もメンツかかかったために本腰を入れ始めたって側面もある。なんといっても、当時のイギリス首相トニー・ブレアまで引っ張り出した功績は大きい。

 が、なかなかルーシーの行方は知れない。おまけに、苦しむ彼らを食い物にしようと目論む輩まで出てくる始末。

 家族や親友の友人知人も、彼らをどう扱えばいいのか途方にくれる。まあ、わかるのだ。下手な真似して更に傷つけるのも嫌だし。ほんと、どうすりゃいいんだろうねえ。

 この本を読むまで、事件の被害者やその家族にマスコミが取材するのを苦々しく思ってた。今でも、行き過ぎた取材はマズいと思う。盗み撮りとかね。でも、本書のティムのように、敢えて注目を集めるのが有効な場合もあるのだ。事件を風化させないために。

 とかの真面目な感想の他に、日本とイギリスの常識の違いも面白い。例えばルーシーの経歴だ。英国航空しかも国際路線の客室乗務員が、六本木のクラブホステスに転職する。当時の日本人なら、「何を考えてるんだ?」と不審に思うだろう。

 なんたって、航空会社の客室乗務員は、日本の娘さんたちの憧れの職業だ。今はともかく、当時はそうだった。1970年の「アテンションプリーズ」(2006年にリメイク)、1983年の「スチュワーデス物語」など、TVドラマでも取り上げている。

 しかも、そこらの格安会社じゃない。天下の英国航空の国際線である。世間じゃ国内線より国際線の方が格が高いって事になっている。また同じイギリスの航空会社でもヴァージン・アトランティックと違い、英国航空は格安チケットがまず出回らない。日本航空と並び「バックパッカーはまず乗れない航空会社」として有名な、世界でも高級かつ一流の航空会社なのだ。

 これには「客室乗務員」に対する日本とイギリスの印象の違いがある。まあ、この辺は、アメリカ資本の航空会社を使った事があれば、なんとなく見当がつくんじゃないかな。関係ないけど当時はシンガポール航空が「値段のわりにサービスは極上」と評判が良かった。

 まあいい。日本人がソコを疑問に思うのに対し、イギリス人は「クラブホステスって何?」から始まる。該当する商売が、アメリカやイギリスにはないのだ。「だったらアメリカでギャバクラ開けば」と一瞬考えたけど、すぐに死人が出そう。

 ここで展開する「水商売」を巡る考察も、日本人としては「言われてみれば…」な話で、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーだったり。

 そんな「六本木の外人クラブホステス」の生態も、住居の<代々木ハウス>から始まり意外な事ばかり。というか、当時の六本木の様子が、明らかに異郷なのだ。イスラエル人とイラン人が売人として競ってたり。だから両国は仲が悪いのか←違う 麻布警察署が、当初は事件を重く見なかったのも、なんとなくわかる。クラブ経営者の話も、下世話な面白さに満ちていて楽しい。

 ミステリのもう一つの重要な役どころ、警察について、著者は手厳しい。各員は誠実で優秀だが組織の体質がダメ、と。特に物証より自白を重んじる体質を厳しく批判している。残念ながら、こういう体質は今でも変わってないのがなんとも。IT系にも弱いしなあ。

 そして事件の核心を握る犯人なんだが、これが実に不気味だ。なかなか正体は掴めないが、決してあきらめず、カネとコネを駆使して被害者や関係者に脅しをかける。暴力団はもちろん、どうやら極右団体まで動かしている様子。まあ、極右の中には、政治団体のフリした暴力団もあるんだろう。

 下世話な野次馬根性で読んでも楽しめるし、ガイジン視点の日本論としても面白い…いささか極端な側面に焦点を当てているけど。また犯罪被害者と家族が置かれる過酷な状況のルポルタージュとしても、読んでいて苦しくなるほどの迫力がある。「事件そのもの」より「事件を通して見えてきた事柄」のレポートとして、優れたノンフィクションだ。

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2021年9月19日 (日)

市川哲史「いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番」シンコーミュージックエンタテイメント

本書『いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番』は、2016年12月に上梓した拙著『どうしてプログレを好きになってしまったんだろう』の続編になる。
まず最初に断っておくが、本書は明らかに前作ほどは面白くない。
  ――Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事

メル・コリンズ「そもそも即興プレイヤーの俺に再現プレイなんて無理だから」
  ――§13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.

【どんな本?】

 雑誌「ロッキング・オン」などで活躍した音楽評論家の市川哲史による、プログレ憑き物落とし第二弾。

 プログレッシヴ=進歩的というレッテルとは裏腹に、ポップ・ミュージックの世界にありながら半世紀以上も前の方法論で今なお矍鑠として音楽を続ける有象無象の老人たちの、群雄割拠と集合離散そして栄枯盛衰の裏側を赤裸々に描くプログレ・ゴシップ・エンタテインメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年6月17日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約468頁。9ポイント38字×18行×468頁=約320,112字、400字詰め原稿用紙で約801枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 クセの強い文章なので、好き嫌いがハッキリ別れるだろう…というか、好きな人しか読まないと思う。内容もお察しのとおり、わかる人にはわかるけど分からない人にはハナモゲラな文が延々と続く。ったって、どうせ分かる人しか読まないから問題ないよね。つまり、そういう趣味の本です。

【構成は?】

 各記事は独立しているので気になった所だけを読めばいい。

クリックで詳細表示
  • Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事
  • 第1章 Not So Young Person's Gude to 21st Century King Crimson(21世紀のキング・クリムゾンに馴染めない)旧世代への啓示
  • §1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008
  • §2 どうして手キング・クリムゾンは大楽団になってしまったんだろう
  • 第2章 All in All We're Just Another Brick in the Wall ぼくらはみんな生きていた
  • §3 どうしてゴードン・ハスケルは迷惑がられたのだろう
  • §4 荒野の三詩人 だれかリチャード・パーマー=ジェイムズを知らないか
  • §5 「鍵盤は気楽な稼業ときたもんだ」(或るTK談)
  • §6 どうしてピーター・バンクスは再評価されないのだろう
  • §7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年
  • §8 <マイク・ラザフォード>という名の勝ち馬
  • 第3章 From the Endless River 彼岸でプログレ
  • §9 ジョン・ウェットンがもったいない
  • §10 我が心のキース・エマーソン 1990年の追憶
  • §11 ビリー・シャーウッドの「どうしてプログレを好きになってしまったんだろう」
  • 第4章 Parallels of Wonderous Stories 遥かなる悟りの境地
  • §12 ウォーターズ&ギルモアの「俺だけのピンク・フロイド」
  • §13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.
  • 第5章 One of Release Days それゆけプログレタリアート
  • §14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records
  • §15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)
  • ボーナス・トラック
  • §16 ロキシー・ミュージックはプログレだった(かもしれない)
  • 初出一覧

【感想は?】

 いきなりの二番煎じ宣言w 書き出しがソレってどうよw いや正直でいいけど。

 それに続けて「もう、みんなこんな齢なんだぜ」と数字つきで見せつけるのは勘弁してほしい。当然、読んでる私たちも似たような齢ななわけで。しかもチラホラと見える「故人」の文字が切ない。こうやって見ると、1940年代後半生まれが主役だったんだなあ、70年代のプログレって。にしても50歳代で若手ってどうよ。衆議院議員かい。

 前回に続き表紙はピンク・フロイドだけど、紙面の半分以上がキング・クリムゾンなのは、著者の趣味なのか日本のプログレ者の好みなのか。やっぱりプログレのアイコンは宮殿のジャケットになっちゃうしなあ。フリップ翁は相変わらずの屁理屈&偏屈&我儘っぷりで、これはもはや至芸だろう。

 続いて多いのはピンク・フロイド。まあセールスと知名度じゃ順当なところか。後はイエス、ジェネシス、EL&P。そしてなぜかロキシー・ミュージック。まあブライアン・イーノやエディ・ジョブソンを表舞台に引っ張り上げた人だし、ブライアン・フェリーは。とか言ってるけど、どう考えても著者の趣味を無理やり押し込んだんだよね。

 レコードからCDそしてインターネットというメディアの変化・多様化は商売としてのプログレ(というよりポップ・ミュージック)にも多大な影響を与えているようで、ロバート・フリップがビジネスを語る「§1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008」やレコード会社の日本語版担当者の声が聴ける「§14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records」は、仙人ぶってるプログレ者にも現実を見せつける生々しい商売の話。

 なんなんだろうね、いわゆる「箱」が次々と出てくるプログレ界って。まあガキの頃から乏しい小遣いを西新宿の中古盤屋に貢いでた輩が、齢を重ねて相応の収入と資産を得たら、お布施も弾むってもんか。そんな老人の年金にたかるような商売がいつまでも続くわけが…と思ったが、「父親の影響で」みたいな若者もソレナリに居るからわからない。二世信者かよ。

 などのフロント陣ばかりでなく、エンジニアとしてのスティーヴン・ウィルソンなどにも焦点を当ててるのが、今回の特徴の一つ。いや焦点を当てるならポーキュパイン・ツリーでの活躍だろと思うんだが、これは読者の年齢層に合わせたんでしょう。

 にしても、90年代以降のイエスって、音創りが手慣れているというか「イエスの音ってこんな感じだよね」的な、バンドとしての方向性が完全に固まっちゃって金太郎飴みたいな印象があるんだけど、それはきっとビリー・シャーウッドのせいだろうなあ。

 などのビッグ・ネームが並ぶ中、「§7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年」はいささか切ない。タイトルでだいたい見当がつくように、あのエディ・ジョブソン様だ。とか書いてる今、MOROWで「デンジャー・マネー」がかかってる。日本の鍵盤雑誌編集部を襲撃した際の話は、いかにも彼らしい。

 やっぱり面倒くさい奴だった…と思ったが、プログレって演る側だけでなく聴く側も面倒くさい奴が多いよね。あ、はい、もちろん、私も含めて。

 とはいえ、同じ鍵盤弾きでもTKのお気楽さはどうよ。そんなにモテたのか。イーノといい、鍵盤弾きはモテるんだろうか。しかしなぜハウだけ「ハウ爺」w

 終盤の「§15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)」は思いっきり異色。なんとプログレ者の隠れた聖地にして著者曰く<プログレ道の駅>カケハシ・レコードの取材記。企業としてはなかなかにバランスのとれた組織で、充分な起業家精神(というか山っ気)を持ちつつ理性的に市場動向の計算もできる社長の田中大介氏と、溢れんばかりのプログレ愛を滾らせる若き社員たちの組み合わせ。長く続いて欲しいなあ。

 などの内容もいいが、やはり古舘伊知郎のプロレス中継ばりな文章スタイルがやたら楽しい。

 「デシプリン最終決戦」「悪のアーカイヴ・コンテンツ帝国」「周回遅れの青年実業家」「驚異の袋小路ロック」「狂気のひとり三人太鼓」とか、いったいどっから思いつくんだか。一晩じゅう寝ないで考えたんだろうか。

 いろいろあるが、屁理屈屋の多いプログレ界隈を書くには、こういうスタイルで毒消ししないと商売にならないのかも。いずれにせよ、「そういう人」のための本であって、万民に薦められる本ではないです。まあ普通の人は手に取ろうとも思わないだろうけど、それで正解です、はい。

 ちなみに冒頭でメル・コリンズを引用したのは私の趣味。だって元キャメルだし。石川さゆりさん、Never Let Go 歌ってほしいなあ。

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【今日の一曲】

Sandra - Maria Magdalena 1985 (HD version)

 ということで、RPJことリチャード・パーマー=ジェイムズの職人芸が堪能?できる Sandra の Maria Magdalena をどうぞ。ノってるシンガーとソレナリのベースに対し、お仕事感バリバリのドラマーと虚無感漂う鍵盤の対比が楽しいです。

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