カテゴリー「書評:ノンフィクション」の173件の記事

2023年6月 9日 (金)

ジャン・ジーグレル「スイス銀行の秘密 マネー・ロンダリング」河出書房新社 荻野弘巳訳

スイスは今日、「死の金」のマネー・ロンダリングとリサイクルの、世界でもっとも重要な中心である。
  ――緒言 スイス“首長国”

【どんな本?】

 漫画「ゴルゴ13」などで有名なスイス銀行。その特徴は極めて厳密に顧客の秘密を守ること。というと顧客を大事にする信用第一の組織のように思える。ただし、問題もある。どんな顧客の秘密も守るのだ。例えば「ゴルゴ13」では、殺し屋の口座を守っている。

 現在は様々な形で国際化が進んでいる。これは犯罪組織も例外ではない。例えばコカインなどの麻薬取引は、南米の生産・加工者から中米やアフリカの仲介者、そして密輸と販売に携わるイタリアのマフィアなど、幾つもの組織が関わっており、その摘発にも国際的な協力が欠かせない。

 こういった国際犯罪組織の捜査では、取引される麻薬だけでなく、資金の流れも重要な証拠だ。特に、犯罪組織のトップに迫るには、カネが集まるポイントを抑えなければならない。だが、カネの流れを追う捜査官に、鋼鉄の扉が立ちはだかっている。

 顧客の情報を守る、スイス銀行だ。スイス銀行に入ったカネは、足取りを追えない。

 ジュネーヴ大学の社会学科教授とスイス連邦下院議員そして弁護士を兼ねる著者が、金融機関ばかりでなく国家ぐるみで闇資金の洗浄に携わるスイスの現状を明かす、迫真の告発の書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は La Suisse lave blanc, Jean Ziegler, 1990。日本語版は1990年12月20日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約196頁に加え、訳者による解説が豪華25頁。9ポイント44字×17行×196頁=約146,608字、400字詰め原稿用紙で約367枚。文庫ならやや薄め。

 文章は読みやすいが、ややクセがある。根拠のない想像だが、たぶん訳者の工夫だろう。恐らく原文は一つの文が長い。学者にありがちな文体だ。それを訳者が複数の短い文に分け、親しみやすくしたんだと思う。他にも、日本人が知らないスイスの事情などは注釈を入れるなど、訳者が気を配っている。注も巻末ではなく文中にあるのが嬉しい。

 内容も分かりやすい。ただ、一つの事件に多くの人物が関わっているケースが多い。それも政治・経済犯罪によくあるパターンだ。加えて資金洗浄である。犯人たちもアシがつかぬよう、資金は複雑なルートを辿る。そういう所は、注意深く読んでいこう。

 最大の問題は、肝心の「スイス銀行とは何か」について、本文には詳しい説明がない点だ。そもそも「スイス銀行」とは、一つの銀行を示す言葉ではない。日本銀行のような国家の中央銀行でもないし、みずほ銀行のような一つの企業や組織を示す言葉でもない。Wikipedia を見てもいいが、訳者が解説でわかりやすく丁寧に説明しているので、できれば解説を先に読もう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • 緒言 スイス“首長国”
  • 第1部 麻薬は現代のペスト
    • 1 ミッテラン大統領の警告
    • 2 コップ家の崩壊
    • 3 謎の人物、ムッシュー・アルベール
    • 4 空翔ける司祭
    • 5 メデジン・カルテルの友
    • 6 社会の癌
    • 7 正義の不履行
  • 第2部 血にまみれた庭
    • 1 独裁者たちの宝島
    • 2 人を喰う魔神モレク
  • 第3部 国家の腐敗
    • 1 スフィンクス
    • 2 スイス知識人の批判は国民の敵
    • 3 病める国
  • エピローグ 反乱
  • 解説

【感想は?】

 マネー・ロンダリング。資金洗浄。犯罪など後ろ暗い手口で稼いだカネを、綺麗なカネに変えること。

 その主な道具としてスイスの銀行が使われ、そればかりでなくスイスの政府が国を挙げて協力している事を白日の下に晒した、いわば内部告発の本だ。何せ著者は弁護士であると同時に当時は現役の国会議員である。当時は大きな話題を呼んだだろう…少なくとも、スイスでは。

 さすがに原書は1990年の出版といささか古く、その分だけ衝撃も薄れてしまった。だが、パナマ文書(→Wikipedia)などで、資金隠しや資金洗浄といった言葉が一般にも浸透した分、私たちにとっても身近な問題ともなっている。

 全体の半分を占める第1部では、国際的な麻薬・コカイン取引の資金を取り上げる。悪名高いコロンビアのメデジン・カルテル(→Wikipedia)や、当時の流通を担ったトルコ=レバノン・コネクションなどの資金洗浄を、スイスの銀行ばかりでなく政府までもが協力し、また合衆国やイタリアの司法組織の捜査を冷酷に断った様子を、実名を挙げて告発してゆく。

 ちなみにコカインの流通については「コカイン ゼロゼロゼロ」が詳しい。合衆国ばかりでなくイタリアの司法も協力している理由は、こちらの本が参考になる。

 民間の営利企業である銀行が犯罪組織に協力するのは、、稼ぎ目当てだろうと見当がつく。だが、なぜ政府も協力する?

 理由の一つは、スイスの法体系がある。最初から、そういう風に設計しているのだ。

銀行や金融会社やその他の機関が死の儲けのロンダリングをしていたときには、罰則規定がなかった
  ――コップ家の崩壊

 ばかりでなく、この件では現役の法務相エリザベート・コップが関わっていた。加えて夫のハンス・W・コップは、資金洗浄の一端を担うシャカルキ・トレーディング社の副社長でもあった。この辺のカラクリは、後に詳しく説明がある。スイスは、国家をあげて資金洗浄を産業として育て守っているのだ。これは司法も同じで…

彼ら(メデジン・カルテル)の口座の大部分はチューリヒの大銀行に開かれているので、アメリカ司法当局はこれを差し押さえるように要請してきている。(略)彼ら(チューリヒやジュネーヴやルガノの首長たち)の弁護士は異議を申し立て、メデジン・カルテルのボスたちの言い分を通すために、才能を発揮した。そして勝った。
  ――メデジン・カルテルの友<

 ちなみに圧力をかけたのは、コワモテの合衆国大統領レーガンだ。この本が出版された遠因の一つも、合衆国による外圧だろう。この外圧によって流出した情報が、本書の元ネタとなっている。実際、合衆国の圧力にスイス政府が対応を苦慮する場面も出てくる。その合衆国が目をつけた麻薬組織の規模は相当なもので…

この年(1988年)、イタリアでの消費と中間卸で麻薬業者が手にした金は、600億スイスフラン以上に達したと見積もられているが、その大半はスイスで洗濯された。
  ――社会の癌

 ちなみに1990年ごろの相場だと、1スイスフランは80円~110円。

 こういった犯罪組織ばかりでなく、世界中の独裁者たちの資産もスイスは守っている。これを明らかにしているのが「第2部 血にまみれた庭」だ。

(フィリピンの第10代大統領フェルディナンド・)マルコスの資産の合計は(略)クレディ・スイスやその他のスイスの40数行に預けた戦利品は、10億ないし15億ドルに上るものと見られている。
  ――独裁者たちの宝島

(ザイールの元大統領)ジョゼフ・デジレ・)モブツはネッロ・チェリオという人物の有益なアドヴァイスを受けている。チェリオはルガノの事業弁護士で、クレディ・スイスの重役、そして連邦蔵相、そしてついにスイス大統領にもなった。
  ――独裁者たちの宝島

 また、「ショック・ドクトリン」が触れていた、独裁/軍事政権の権力者が、国の利権を外国に売りさばいて自分の懐に入れ、ヤバくなったらズラかる手口も、スイスが手伝っている。ああ、もちろん、これらのパクったカネは、スイスが政府をあげてお守りします。

1987年6月、アルゼンチン大統領ラウル・フランセスコ・アフロンシン(略)「外国の個人口座に預けられたアルゼンチンの個人預金は200億ドルに達するが、これはわが国の対外債務の1/3にあたる」
  ――人を喰う魔神モレク

 これがカネだけではなく身柄も守っているのが、スイスの怖い所。そういえば北朝鮮の金正恩もスイスに留学していたっけ。もっとも独裁者だけでなく、例えばレーニンとかの亡命者も匿うあたりは懐が深いというべきなんだろうか。

 ちなみに資金の隠し方については、「最後のダ・ヴィンチの真実」にも、ちょっとだけ出ていた。

 スイスがこういう体質なのは、国家の体制や性質も大きい。州の権限が強い連邦国家だし。その辺も本書は触れているが、印象的なエピソードはこれ。

スイスはこの地球上で、イスラエルに次いでもっとも軍国化している国家である。生粋のスイス生まれの住民580万について、65万の兵士と士官がいる。(略)
すべての地位ある首長は(政治家もそうだが)、この国民軍の少なくとも大佐である(非常に幸いなことに、将軍も職業軍隊もスイスにはない)。
  ――スイス知識人の批判は国民の敵

 小国で軍事的には中立ってのもあって、どうしても防衛コストは高くなるんだろう、軍事的にも経済的にも政治的にも。

 現在でも、EUにもNATOにも参加せず、中立を守り続けているスイス。だからこそジュネーヴには国連関連機関が多いなど、国際的にも重要な役割を果たしているが、同時に世界中の闇が集まってもいる。30年前の刊行といささか古くはあるが、スイスという国の裏面がのぞける、なかなか貴重な本だった。

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2023年5月29日 (月)

イアン・アービナ「アウトロー・オーシャン 海の『無法地帯』をゆく 上・下」白水社 黒木章人訳

わたしが努めて本書の中にとらえようとしてきた、きわめて重要なものが二つある。それは、痛々しいほど無防備な海の実態と、そうした海での労働に従事する人びとが頻繁に味わわされる、暴力行為と惨状だ。
  ――プロローグ

世界中で大小取り混ぜて毎年何万隻もの船が盗まれている。
  ――7 乗っ取り屋たち

【どんな本?】

 陸に国境はあるが、海に国境はない。陸では警察が法を守る。だが海、特に公海上では守るべき法もなければ守らせる警察もいない。だから、海は陸と異なるルールが支配する。

 漁船の違法操業,人身売買まがいの船員集め,自警団気取りの自然保護活動家,海の傭兵基地,密航者,違法廃棄,自称独立国家,堕胎船,そして捕鯨船団。

 これらの裏には、海がもたらす富と、あやふやな国境、そして多くの国が関わる海ならではの事情がある。

 ニューヨーク・タイムズの記者である著者が、世界中の海を巡って様々な船に乗り込み、波にもまれながら海の男たちに体当たり取材を続けて仕上げた、壮絶な海のドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Outlaw Ocean : Journeys Across the Last Untamed Frontier, by Ian Urbina, 2019。日本語版は2021年7月10日発行。単行本ソフトカバー上下巻で縦一段組み本文約287頁+293頁=約580頁。9ポイント46字×20行×(287頁+293頁)=約533,600字、400字詰め原稿用紙で約1,334枚。文庫なら上下巻または上中下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。巻頭に世界地図があり、舞台となった海や港が判るのも親切だ。量こそ多いが、エキサイティングでスリルあふれる場面が多いので、全編を通して楽しく読めるだろう。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、気になった章だけを拾い読みしてもいい。

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  •  上巻
  • プロローグ
  • 1 嵐を呼ぶ追跡
  • 2 孤独な戦い
  • 3 錆びついた王国
  • 4 違反常習者の船団
  • 5 <アデレイド>の航海
  • 6 鉄格子のない監獄
  • 7 乗っ取り屋たち
  • 8 斡旋業者
  •  写真・図版クレジット/原注
  •  下巻
  • 9 新たなるフロンティア
  • 10 海の奴隷たち
  • 11 ごみ箱と化す海
  • 12 動く国境線
  • 13 荒くれ者たちの海
  • 14 ソマリ・セブン
  • 15 狩るものと狩られるもの
  • エピローグ 虚無
  • 巻末に寄せて 「無法の太洋」の手綱を締める
  • 謝辞/訳者あとがき/写真・図版クレジット/原注

【感想は?】

 日本語版の上巻の表紙が挑発的だ。第二勇新丸、捕鯨船団のキャッチャーボート。意外と商売っ気あるじゃん、白水社。

 その捕鯨船団とシーシェパードのチェイスを描くのは最後に近い「15 狩るものと狩られるもの」。著者はシーシェパードの船<アークティック・サンライズ>に乗り、追う側で取材する。1992年の捕鯨船団に乗り込んだ川端裕人「クジラを捕って、考えた」と一緒に読むと、より楽しめる。

 なお著者の姿勢は双方から一歩引いていて、延縄漁のアガリをカスメ取る鯨の食害を語りつつ、日本の官僚組織の事なかれ主義もチクリ。

 開幕の「1 嵐を呼ぶ追跡」は南氷洋でマゼランアイナメ(メロ/銀ムツ,→Wikipedia)の密漁船と、それを追うシーシェパードの追跡劇だ。ここではグローバル化が進む漁業の世界が垣間見える。密漁船の乗務員の多くはインドネシア人、幹部はスペインとチリとポルトガル、船籍はモンゴルだったりナイジェリアだったり。

 こういう多国間にまたがる法的状況は、違法操業の摘発や調査を難しくする。その具体例として、この章は幕開けに相応しい。なおマゼランアイナメについては「銀むつクライシス」をどうぞ。

 続く「2 孤独な戦い」は、経済的排他水域=EEZを荒らす中国や台湾やヴェトナムの密漁船を追うパラオ共和国の奮闘を描く。密漁船の狙いはフカヒレ。日本人もヒトゴトじゃない。連中はパラオが設置した人工浮漁礁で、獲物を横取りしている。だが、小国パラオが広いEEZを守り切るのは難しい。ちなみに世界の密猟の規模は…

食卓にのぼる魚の五匹に一匹は密漁で得られたもので、世界中の水産物ブラックマーケットの経済規模が2000憶ドル以上にもなっている
  ――2 孤独な戦い

 このフカヒレの密漁、密漁船はヒレだけ切り取って他は捨てていた。船は狭く船倉も限られてるんで、高く売れるヒレだけ運べば稼ぎが増える。これは極端な例だが、漁業技術が進歩するにつれ目的外の魚も多く獲れるようになった。それらは…

漁網のサイズが大きくなり強度も増すにつれて、漁の対象以外の魚(釣りで言うところの「外道」、商業漁業では「混獲」)の水揚げも多くなっていった。現在、世界中の海の漁獲量の半分以上が、網から外されたら何の気なしに海に投棄されるか、すり潰されてペレット状にされて家畜の餌にされている。
  ――2 孤独な戦い

 狙った魚ばかり獲れるわけじゃないだろと思ってたが、やっぱり、そうなのか。

 「4 違反常習者の船団」「8 斡旋業者」「10 海の奴隷たち」では、漁船員の仕事っぷりと生活環境を描く。その様子は「スペイン無敵艦隊の悲劇」「トラファルガル海戦物語」の水兵の暮らしと大差ない。得体のしれない食事、長時間の厳しい労働、悪臭にまみれた船内、ハンモックでギュウギュウ詰めの寝床、我が物顔で暴れまくるネズミ。昔も今も、海の暮らしは厳しいのだ。

 なぜ漁船員の暮らしは厳しいのか。そもそも元から漁業は厳しいってのがある。漁船の空間は限られてるし、海は荒れる。でも、それだけじゃない。

わたしは過去何年にもわたって、石炭産業や長距離トラック業界や性産業、そして縫製工場やにかわ工場といった各種産業の凄惨な現場をごまんと取材してきた。そんなわたしでも、漁船で起こっていることには唖然とさせられた。この惨状の原因は一目瞭然だった――組合がないこと。漁業が本質的に有する閉鎖性と流動性、そして陸の政府の監視から隔てる、気の遠くなるような距離だ。
  ――4 違反常習者の船団

 そんな厳しい漁船に、なぜ彼らは乗るのか。漁船員たちは、インドネシアやカンボジアの貧しい村の男たちだ。そんな彼らを、人買いのように「仕事をあっせん」する業者がいる。

雇われたリナブアン・サー村出身の数人の男たちは、三年の拘束規定が盛り込まれた新しい契約書へのサインを求められたという。その契約書には残業手当も病気休暇もないことも、そして週休一日で労働時間は一日18時間から24時間だということも明記されていた。さらには食費として毎月50ドルを差っ引くことも、船長の権限で別の漁船に配置換えできる(略)。給料は月ごとではなく、三年の契約満了時にまとめて家族に送金されることになっていた。
  ――8 斡旋業者

 日本の外国人技能実習制度もあっせん業者について黒い話が多いが、たぶん元から斡旋業者はいたんだろう。日本は新たな売り込み先として便利に使われてるんじゃなかろか。

 なお、買い手として本書が挙げているのは、台湾と韓国に加え、タイだ。原因はタイ経済が活況を呈したための人手不足ってのが皮肉。

2014年の国連報告によれば、タイの水産業界は年間で五万人の漁船乗組員が不足しているという。そしてこの慢性的な人手不足を、カンボジアとミャンマーからの何万人もの出稼ぎ労働者で補っているのが現状だ。その結果、彼らをまるで家畜のように売買する質の悪い漁船の船長が出てくる。
  ――10 海の奴隷たち

 暗い話が多い中で、海の無法状況を逆手に取っているのが、「5 <アデレイド>の航海」のオーストリア船<アデレイド>。アイルランドやポーランドやメキシコなどローマ・カトリックが強い国では、堕胎を禁じている。それでも堕胎を望む女たちの希望が<アデレイド>だ。船が領海を出れば、適用されるのは船籍のある国の法だ。そこでオーストリア船籍の<アデレイド>に妊婦を乗せ、領海外で傾向妊娠中絶役を処方すれば、合法的に堕胎できる。

「彼女たちをオーストリアまで連れていく余裕は、わたしたちにはないけど」
「でも、オーストリアを少しだけ持ってくることはできる」
  ――5 <アデレイド>の航海

 続く「6 鉄格子のない監獄」では、密航を企てる者たちに加え、奇妙な状況に置かれてしまった船員たちを描く。

破産宣告された船主が損切りに走って所有権を放棄した。そのせいで燃料や物資が底をついてしまった。もっぱらそんな理由で、乗組員たちは船に乗ったまま、はるか沖合や外国の港に置き去りにされる。
  ――6 鉄格子のない監獄

 船主が船を捨てたため、船員たちは沖合に置き去りにされ、宙ぶらりんになってしまう。様々な国の法が絡み合う海で、法の隙間に落ち放置される者たち。いつだって、ツケを押し付けられるのは現場の人間なんだよなあ。

 シーシェパードの船に乗っている事でもわかるように、著者は環境問題にも関心が深い。「9 新たなるフロンティア」では、海底油田開発にまつわる問題を掘り下げる。例えばタンカーの原油流出事故。あれ薬剤で処理すりゃいいのか、と思ってたが…

ほんの数カ月前までは万華鏡のような光景が展開されていた海底が、アスファルト敷きの駐車場に変わり果てていたのだ。化学分散材は原油を消散させたのではなく、実際には海の底に沈めて付着させていたのだ。
  ――9 新たなるフロンティア

 言われてみりゃ原油はガソリンなどの軽い油からアスファルトなど重い油も含む。海上に浮かび外から見える軽い油は処理できても、海底に沈む重い油は海底に沈んだまま。だもんで、生態系は崩壊するのだ。そういう問題もあるのか。

 「11 ごみ箱と化す海」では、海上石油プラットフォームの廃棄/再利用問題と共に、豪華客船による廃液の違法投棄を取り上げる。ここで出てくるプリンセス・クルーズ社(→Wikipedia)、もしやと思って調べたら、やっぱり。コロナ禍初期の2020年に横浜港で検疫対象となったダイヤモンド・プリンセス(→Wikipedia)の運航会社だった。

 なお合衆国では、この手の違法行為の内部告発者には、徴収した罰金の一部を支払う制度があるとか。この件だと告発者クリス・キースが100万ドルを受け取っている。日本でも、組織に対する内部告発者には、それぐらいの報いがあってもいいのに。

 「12 動く国境線」では、中国・ヴェトンナム・インドネシア・フィリピンが角突き合わす南シナ海を舞台に、力づくで国境が変わる様子を描く。日本の海上保安庁も、こんな緊張感を感じてるんだろうなあ。

地図に引かれている国境線は動かしようがないが、海の国境線と主権が及ぶ範囲は、ほぼ例外なく軍事力でいかようにも変わる。
  ――12 動く国境線

 ここから終盤にかけ、剥き出しの武力がモノを言う緊迫した雰囲気が立ち込める。「13 荒くれ者たちの海」では、武器保管船に突撃取材だ。かつて海賊が跋扈したソマリア沖などのヤバい海域に、予め船を浮かべ「警備員」を置いておき、コトが起きたら武装した警備員を派遣する。要は海の傭兵基地だ。ところが…

武装警備員たちが持ち込んだ銃器は武器庫にしまい込まれるので、武器保管船は武器が欲しい海賊たちの格好の的になっている。
  ――13 荒くれ者たちの海

 と、海賊の獲物になったりするから世の中はわからんw

 こんな物騒な雰囲気がピークに達するのが、終盤に近い「14 ソマリ・セブン」。海賊騒ぎが落ち着いてきたソマリアやブントランドの政府の奮闘ぶりを取材しようと現地を訪れた著者。しかし政府側は疑い深く、著者も「そっちがその気なら」と…

七隻のタイ漁船については取材予定にない。それまで事あるごとに言い続けてきたとおりのことを、わたしは連邦政府側の人間にもブントランド側の人間にも言った。しかしその一方で、七隻を取材すべきなのかもしれないと考えるようにもなっていた。
  ――14 ソマリ・セブン

 緊張感漂う描写が続く章なのだが、私は妙に笑えてしかたなかった。ホラー映画で笑っちゃう感じ。

 奴隷労働と剥き出しの暴力が跋扈する遠洋漁船、そこに「人材」を供給する斡旋業者、違法操業を続ける漁船とそれを追う者たち、多国家間の法の抜け道を突く狡猾な船主や取り立て屋、そして利権を吸おうとする者たち。一筋縄ではいかない海のダークサイドを様々な切り口で見せる、迫力満点のドキュメンタリーだ。

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2022年5月27日 (金)

レイ・フィスマン+ミリアム・A・ゴールデン「コラプション なぜ汚職は起こるのか」慶應義塾大学出版会 山形浩生+守岡桜訳

本書の目的は、汚職から抜け出せない人たち、そして汚職を許せないと思う人たちに、汚職がもたらすジレンマを理解してもらうことだ。
  ――第1章 はじめに

【どんな本?】

 汚職まみれの国もあれば、滅多にない国もある。賄賂で交通違反をもみ消す警官など身近で末端の公務員による汚職もあれば、閣僚や国会議員が絡む事件もある。シンガポールは専制的だが汚職は極めて少ない。対してインドは民主主義だが賄賂社会だ。チリは貧しいが汚職は少なく、イタリアは豊かだが汚職が横行している。

 なぜ汚職が起きるのか。その原因は何か。政治体制か、豊かさか、文化か。なぜ汚職スキャンダルにまみれた政治家が再び議席を得るのか。規制だらけの社会で迅速に起業するには鼻薬が効くから賄賂は必要悪なのか。そして、どうすれば汚職は減るのか。

 ボストン大学の行動経済学者とカリフォルニア大学LA校の政治学教授という、異分野の二人がタッグを組んで送る、一般向けの政治/経済の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CORRUPTION : What Everyone Needs to Know, by Ray Fisman and Miriam A. Golden, 2017。日本語版は2019年10月30日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約300頁に加え、溝口哲郎の解説「反汚職のための冴えたやり方」11頁+山形浩生の訳者あとがき8頁。9ポイント45字×18行×300頁=約243,000字、400字詰め原稿用紙で約608枚。文庫ならちょう厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もかなり分かりやすい。敢えて言えば、世界中の国や都市が出てくるので、Google Map か世界地図があると、迫真性が増すだろう。

【構成は?】

 基本的に前の章を受けて次の章が展開する形なので、なるべく頭から読もう。各章の末尾に1~2頁で「第〇章で学んだこと」があるのも嬉しい。

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  • 序文/謝辞
  • 第1章 はじめに
    • 1.1 この本の狙いは?
    • 1.2 なぜ汚職は大きな意味を持つの?
    • 1.3 汚職を理解するための本書の枠組みとは
    • 1.4 腐敗した国が低汚職均衡に移るには?
    • 1.5 汚職について考えるその他の枠組みはあるの?
    • 1.6 この章の先には何が書いてあるの?
    • 第1章で学んだこと
  • 第2章 汚職とは何だろう?
    • 2.1 汚職をどう定義しようか?
    • 2.2 汚職はかならずしも違法だろうか?
    • 2.3 汚職はどうやって計測するの?
    • 2.4 政治汚職は官僚の汚職とどう違うのか?
    • 2.5 汚職は企業の不正とどうちがうのか
    • 2.6 利益誘導は一種の汚職か
    • 2.7 恩顧主義と引き立ては汚職を伴うか
    • 2.8 選挙の不正は汚職を伴うか
    • 第2章で学んだこと
  • 第3章 汚職が一番ひどいのはどこだろう?
    • 3.1 なぜ汚職は貧困国に多いのだろう?
    • 3.2 どうして低汚職国の国でも貧しいままなのだろう?
    • 3.3 国が豊かになるとどのようにして汚職が減るのか
    • 3.4 どうして一部の富裕国は汚職の根絶に失敗しているのだろう?
    • 3.5 20年前より汚職は減ったの――それとも増えたの?
    • 3.6 政府の不祥事は、汚職が悪化しつつあることを示しているのだろうか
    • 3.7 反汚職運動は政治的意趣返しの隠れ蓑でしかないのだろうか?
    • 3.8 先進国は政治と金で汚職を合法化しただけだろうか?
    • 3.9 どうして世界の汚職の水準は高低の二つだけではないのか
    • 第3章で学んだこと
  • 第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?
    • 4.1 汚職は経済成長を抑制するだろうか?
    • 4.2 汚職は事業への規制にどう影響するだろうか(またその逆はどうか)?
    • 4.3 汚職はどのように労働者の厚生に影響するだろうか?
    • 4.4 公共建設事業における汚職は何を招くか
    • 4.5 汚職は経済格差を拡大するか
    • 4.6 汚職は政府への信頼をそこなうか
    • 4.7 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その1:集権型汚職対分権型汚職
    • 4.8 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その2:不確実性
    • 4.9 ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか その3:汚職によって事業を止めてしまう
    • 4.10 天然資源は汚職にどう影響を与えるか また汚職は環境にどう影響を与えるか
    • 4.11 汚職に利点はあるだろうか?
    • 第4章で学んだこと
  • 第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?
    • 5.1 なぜ公務員は賄賂を受け取るのか?
    • 5.2 なぜ政治家は賄賂を要求するのだろうか?
    • 5.3 贈収賄のモデルに道徳性を組み込むにはどうすればいい?
    • 5.4 政治家たちが官僚の間に汚職を広める方法
    • 5.5 どうして個別企業は賄賂を払うの?
    • 5.6 どうして企業は結託して賄賂支払いを拒否しないの?
    • 5.7 普通の人は汚職についてどう思っているの?
    • 5.8 汚職が嫌いなら、個々の市民はなぜ賄賂を支払ったりするの?
    • 第5章で学んだこと
  • 第6章 汚職の文化的基盤とは?
    • 6.1 汚職の文化ってどういう意味?
    • 6.2 汚職に対する個人の態度は変えられる?
    • 6.3 汚職の文化はどのように拡散するのか?
    • 6.4 汚職は「贈答」文化に多いのだろうか?
    • 6.5 汚職は宗教集団ごとにちがいがあるのだろうか?
    • 6.6 汚職に走りがちな民族集団はあるのだろうか?
    • 第6章で学んだこと
  • 第7章 政治制度が汚職に与える影響は?
    • 7.1 民主主義レジームは専制政治よりも汚職が少ないか?
    • 7.2 専制主義はすべて同じくらい腐敗しているのだろうか?
    • 7.3 選挙は汚職を減らすか?
    • 7.4 党派的な競争は汚職を減らすか?
    • 7.5 一党政治は汚職を永続化させるだろうか?
    • 7.6 汚職を減らすのに適した民主主義システムがあるだろうか?
    • 7.7 政治が分権化すると汚職は減るだろうか?
    • 7.8 任期制限があると汚職は制限されるのか それとも悪化するのか?
    • 7.9 選挙資金規制は汚職を減らすか? それとも増やすか
    • 第7章で学んだこと
  • 第8章 国はどうやって高汚職から低汚職に移行するのだろうか?
    • 8.1 どうして有権者は汚職政治家を再選するのだろうか?
    • 8.2 有権者が汚職政治家を再選させるのは情報不足のせい?
    • 8.3 どうして有権者は調整しないと汚職政治家を始末できないのだろうか?
    • 8.4 外的な力はどのように汚職との戦いを引き起こすのだろう?
    • 8.5 政治的なリーダーシップが汚職を減らすには?
    • 第8章で学んだこと
  • 第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?
    • 9.1 汚職を減らす政策はどんなものだろうか?
    • 9.2 段階的な改革は「ビッグバン」改革と同じくらい効果的だろうか?
    • 9.3 汚職対策に最も効果的なツールは何だろうか? 汚職問題をハイテクで解決できるだろうか?
    • 9.4 規範の変化はどのように起こるのだろうか?
    • 9.5 いつの日か政治汚職が根絶されることはあるだろうか?
    • 第9章で学んだこと
  • 解説 反汚職のための冴えたやり方 溝口哲郎
  • 訳者あとがき/注/索引

【感想は?】

 難しいテーマに正面から挑んだ意欲作。

 難しいと言っても、理解しにくいとか難解とか、そういう意味じゃない。実態を掴みにくいって意味だ。

 何せ汚職だ。やってる連中は隠したがる。本当に汚職が酷い国じゃ、まず汚職はニュースにならない。実際、ロシアじゃジャーナリストが次々と亡くなってる。逆にシンガポールなら、連日大騒ぎだろう。汚職が話題になってるから酷いってワケじゃない。腐りきってるなら報道すらされない。だもんで、まっとうな手段じゃ現状の把握すら難しい。

 確かにトランスペアレンシー・インターナショナルは腐敗認識指数(→Wikipedia)を公開してる。でも、「盲信しちゃダメよ」と本書は釘をさしてる。第2章なんて早い段階で「結局、あまし信用できるデータはないんだよね」と音を上げてるあたり、逆に信用できる本だと思う。

 そんなワケで、本来のテーマも面白いが、ソレをどうやって調べたのかってあたりも、本書の魅力なのだ。

 例えば、第4章では、社会学者が世界の各国で新事業を立ち上げ、それに要した工程と日数を調べてる。カナダは2工程で2日、モザンビークは17工程で174日。中国では、政府高官にコネがある企業とない企業の労災死亡率を調べてる。結果、コネがあると2倍死ぬ。ひええ。

 中でも感動したのが、コネの価値を測る第5章。ここでは、インドネシアに君臨したスハルト元大統領のコネの価値を測る。方法が巧い。1969年、スハルトはドイツで健康診断を受けた。この時、息子が所有するビマンタラ・シトラ社の株価の動きを調べたのだ。

 インドネシアの株価全体は2.3%下げた。対してシトラ社は2日間で10%近く下げてる。両者の差がスハルトのコネの価値ってわけ。政治家が入院した時は、株価に注目しよう。

 などと、「どうやって調べたのか、その数字はどう計算したのか」って楽しみもあるが、本来のテーマももちろん面白い。

 日本はどうなんだろうって関心は、少し安心するけど先行きは不安な気分になる。まずは安心材料。

2011年に科学誌『ネイチャー』で発表されたとある研究によると、過去30年間に地震で倒壊した建物で死亡した人の83%は「異常に」腐敗した(つまり所得のみをもとにした予測より腐敗した)国にいたという。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 地震大国の日本なのに、建物の倒壊で亡くなった人は全体に比べれば少ない。酷い国はコネで査察が入らなかったり、役人に鼻薬が効いたり。日本は違法建築に厳しい、つまり役人はコネで見逃したりしないし、賄賂も効かない。一安心…とはいかない。本当にひどい所は…

通常は賄賂が最も一般的な部門を挙げてくださいというアンケートでは、医療が筆頭にくる。
  ――第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?

 病気や怪我の時でさえ、賄賂を渡さないと治療してもらえない。腐敗ってのは、イザという時の命にかかわる、というか、弱った時にこそタカリにくるのだ、腐敗役人は。

 もっとも、そういう国は、もともと医療リソースが貴重だったりする。つまり…

汚職と国家の繁栄水準には明確な負の相関がある。
  ――第3章 汚職が一番ひどいのはどこだろう?

 貧しい国ほど腐ってるのだ。とまれ、これは相関関係であって因果関係じゃない。貧しいから腐るのか、腐ってるからまずしいのか、その辺は難しい。警官や兵士でよく言われるのが、給料じゃ食ってけないからって理屈。これには一理あって…

公務員給与と汚職との直接の相関はマイナスだ。言い換えると、データのある世界の多くの国では、公務員給与が高ければ汚職水準も低い。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 じゃ給料を払えば…と思うが、そうはいかない。同時にすべきこともある。ちゃんと見張り、汚職役人は処分しないと。

高賃金が汚職低下に役立つ見込みが高いのは、もっと監視と執行を強化した場合だという見方を支持している。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 つまりアメとムチを同時に使えってことです。

 日本は比較的に豊かだし、医師や看護師に袖の下を求められることも、まずない。とはいえ、年に一度ぐらいは贈収賄がニュースになるし、ここ暫くは経済も停滞してる。にも関わらず、自民と公明は与党に居座ってる。野党は醜聞を盛んに追及するけど、最近の野党はジリ貧気味だ。これは、だいぶ前から現象が現れてる。

政治家が腐敗しているとわかった有権者は、結集して不誠実な役人に対抗しようとはしない。研究によると、むしろ政治に関わること自体を思いとどまるらしい。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 投票率の低下だ。どうも「だれに投票したって同じ」って気分になっちゃうんですね。こうなると、固定票を持つ候補者は強い。その結果…

悪行に関わった政治家は、データのある世界中のあらゆる国で再選される可能性のほうが高いのだ。
  ――第8章 国はどうやって高汚職から低汚職に移行するのだろうか?

 なんて奇妙な現象が起きる。テレビは選挙の特番を流してるけど、投票率はなかなか上がらない。みなさん、無力感に囚われてるんだろうか。

 他にも、ヤバいな、と思う兆候はあって。

役人の汚職というしつこい仕組みは、このように政治家が役人の任命、昇格、配置、給料について不当な影響力を行使する状況で生じやすい。
  ――第2章 汚職とは何だろう?

 内閣人事局ができて、内閣の役人への権限が強くなった。これが「不当な影響力」か否かは議論が別れる所だけど、長期政権じゃ癒着が強まるだろうってのは、常識で予想できる。つまり…

公職に指名されたのが政治的なボスのおかげであるような人物は、すぐに圧力に屈して、手持ちのリソースを使って、そのボスが再選を確保できるように手伝う
  ――第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?

 政治家と役人が一体となって、今の体制を守ろうとするんですね。他にも最近の傾向として、税負担の問題がある。

腐敗した国は富裕層に課税しない傾向があり、また社会福祉に出資しない傾向がある。
  ――第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?

 貧乏人に厳しい消費税は増やそうとするけど、所得税の累進率は下げようとしてる。なんだかなあ。

 日本に限らず、誰だって汚職は嫌いだ…少なくとも、賄賂を受け取る側でなければ。にも関わらず、なかなか汚職は減らない。この膠着状態を、著者たちは「均衡」で説明する。

本書では汚職を、社会科学用語でいう均衡として考える。つまり、汚職は個人の相互作用の結果として生じるもので、その状況で他人がとる選択肢を考えれば、ある個人が別の行動を選択しても状態を改善できない状況で発生する。
  ――第1章 はじめに

 他のみんなと同じようにしてるのが最も得な状態、それが均衡だ。著者は道路の右側通行/左側通行で説明してる。みんなが右側通行してるなら、あなたもそうした方がいい。汚職も同じ。誰もしないなら、しない方がいいし、みんなしてるならやった方がいい。じゃ、どうすりゃいいのかっつーと…

汚職の文化を改革するには、どのように行動すべきかというみんなの信念を、どうにかして一気に変えなくてはならない。
  ――第9章 汚職を減らすには何はできるだろうか?

 一人で変えるのは難しい、みんなが一斉に変えるっきゃない、ってのが本書の結論。今更だけど、政治ってのは、大勢を動かすのがキモなのだ。

 とかの総論的な部分も興味深いが、個々のエピソードも楽しい話が満載だ。特に第9章に出てくるコロンビアのボゴタでパントマイムを使って汚職を減らしたアンタナス・モックスの方法は、ユーモラスかつ巧妙で舌を巻く。なんと数年で殺人が70%も減ったとか。

 政治学って、なんか胡散臭いと思ってたけど、本書で印象が大きく変わった。汚職という実態の掴みにくい問題に果敢に挑み、知恵と工夫でデータを集めるあたりは、ボケた写真から天体の実像に迫ろうとする天文学者に似た、迸る学者魂を感じる。「政治学なんか興味ない」って人こそ楽しめる本だろう。

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2021年12月21日 (火)

リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」早川書房 濱野大道訳

行方不明者の家族は、ふたつの十字架を背負うことになる。
ひとつ目は、辛い体験の苦しみ。
もうひとつは、周囲の視線。ときに、彼らには普段よりも高い行動基準が求められる。
  ――第11章 人間の形の穴

「普段、在日コリアンの多くは差別を意識していません」
「ガラスの天井にぶつかるのは、野心がある人たち――社会の階段を駆け上がろうと望む人たちのほうです」
  ――第14章 弱者と強者

犯罪者は狡猾で、頑固で、嘘つきであり、警察はまさにそういう人間に対処するために存在する、という考えは刑事の多くにはなかった。
  ――第18章 洞窟のなか

日本の警察がよく無能に映るのは、真の犯罪と戦った経験がほとんどないからなのだ。
  ――第12章 日本ならではの犯罪

【どんな本?】

 2000年7月1日土曜日、六本木のクラブホステスが姿を消す。ルーシー・ブラックマン、21歳、英国人。友人で同僚のルイーズ・フィリップスは7月3日月曜日に麻布警察署および英国大使館を訪れ報告するものの、対応は冷ややかだった。

 だが一週間後、イギリスの新聞の報道を皮切りに、日本とイギリスのマスコミは事件の取り扱いを大きくする。ルーシーの父ティムの型破りな言動もあり、事件の報道はさらに過熱するのだが、肝心のルーシーの行方は杳として知れなかった。

 当時は<インディペンデント>紙の特派員として東京に住み、2002年からも<ザ・タイムズ>紙の東京支局長として日本の社会と風俗をよく知る著者が、事件のあらましだけでなく被害者の家族の状況と心の動き、日本と英国の社会や常識の違い、犯人とその背景など、旺盛な取材が可能とした多様な視点で事件と背景を描く、特異なルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up, by Richard Lloyd Parry, 2012。日本語版は2015年4月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え、日本語版へのあとがき4頁+訳者あとがき5頁。9.5ポイント45字×20行×471頁=約423,900字、400字詰め原稿用紙で約1,060枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。今はハヤカワ文庫NFから上下巻で文庫版が出ている。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、肝心の事件について、勘ちがいしがちなので要注意。本書が扱うのはルーシー・ブラックマンさん事件(ネタバレ注意、→Wikipedia)で、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件(→Wikipedia)」ではない。いや実は私も勘違いしてたんだが。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。ミステリとしても面白いので、好きな人は頭から読もう。

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  • プロローグ
  • 死ぬまえの人生
    謎の電話/失踪/大都市に棲む異様な何か
  • 第1部 ルーシー
  • 第1章 正しい向きの世界
    父と母/少女時代
  • 第2章 ルールズ
    離婚/ボーイフレンドたち
  • 第3章 長距離路線
    東京行きの計画/日本へ
  • 第2部 東京
  • 第4章 HIGH TOUCH TOWN
    異質で好奇心をそそる国
  • 第5章 ゲイシャ・ガールになるかも(笑)!
    ホステスという仕事/“水商売”/ノルマ
  • 第6章 東京は極端な場所
    TOKYO ROCKS/<クラブ・カドー>/オーナーのお証言/海兵隊員スコット/「まだ生きてるよ!」
  • 第3部 捜索
  • 第7章 大変なことが起きた
    消えたルーシー/冷静な父親/警察とマスコミ
  • 第8章 理解不能な会話
    ブレア首相登場/ルーシー・ホットライン開設/霊媒師たち
  • 第9章 小さな希望の光
    マイク・ヒルズという男
  • 第10章 S&M
    蔓延するドラッグ/あるSM愛好家の証言/「地下牢」へ
  • 第11章 人間の形の穴
    22歳の誕生日/ジェーンとスーパー探偵/ふたつの十字架/ある男
  • 第12章 警察の威信
    クリスタの証言/「過去稀に見る不名誉な状態」/ドラッグ
  • 第13章 海辺のヤシの木
    ケイティの証言/<逗子マリーナ>の男/不審な物音/Xデー
  • 第4部 織原
  • 第14章 弱者と強者
    薄暗い闇/アイデンティティ/弟の苦悩/友人たちの証言
  • 第15章 ジョージ・オハラ
    「歌わない」容疑者/父の怪死/謎の隣人/典型的な二世タイプ/声明
  • 第16章 征服プレイ
    アワビの肝/「プレイ」の実態/ルーシーはどこに?
  • 第17章 カリタ
    娘のいないクリスマス/消えたオーストラリア人ホステス/急変/ニシダアキラ/あの男
  • 第18章 洞窟のなか
    ダイヤモンド/発見/遺された者たち
  • 第5部 裁判
  • 第19章 儀式
    葬儀の光景/開廷/法廷の人々
  • 第20章 なんでも屋
    最後の証人/「気の毒に思っていますよ」
  • 第21章 SMYK
    検察側の尋問/遺族たちの声明
  • 第22章 お悔やみ金
    バラバラになる家族/魂を奪い合う戦場
  • 第23章 判決
    熱い抱擁/最終陳述/『ルーシー事件の真実』/ふたつの準備稿
  • 第6部 死んだあとの人生
  • 第24章 日本ならではの犯罪
    負の力/大阪にて/市橋達也とリンゼイ・アン・ホーカー/奇妙な手紙/黒い街宣車
  • 第25章 本当の自分
    暗闇に吹く突風/命の“値段”/道徳という名の松明/控訴審/最高裁/クロウタドリ
  • 日本語版へのあとがき/謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 目次を見れば分かるように、紙面の多くは被害者とその家族および友人たちの描写が占めている。

 彼らの状況は実に過酷だ。ただでさえ家族の行方が知れず恐怖と不安に襲われているのに、あーだこーだと煩く詮索される。靴下をはいてようがいまいがどうでもいいだろうに、なんで詮索されにゃならんのか。

 それでも、しおらしい顔を期待される。だが父のティムは役割を拒む。これが更に騒ぎを大きくした。もっとも、大騒ぎになったのも善し悪しで、親しい人たちへの注目が強くなった反面、警察もメンツかかかったために本腰を入れ始めたって側面もある。なんといっても、当時のイギリス首相トニー・ブレアまで引っ張り出した功績は大きい。

 が、なかなかルーシーの行方は知れない。おまけに、苦しむ彼らを食い物にしようと目論む輩まで出てくる始末。

 家族や親友の友人知人も、彼らをどう扱えばいいのか途方にくれる。まあ、わかるのだ。下手な真似して更に傷つけるのも嫌だし。ほんと、どうすりゃいいんだろうねえ。

 この本を読むまで、事件の被害者やその家族にマスコミが取材するのを苦々しく思ってた。今でも、行き過ぎた取材はマズいと思う。盗み撮りとかね。でも、本書のティムのように、敢えて注目を集めるのが有効な場合もあるのだ。事件を風化させないために。

 とかの真面目な感想の他に、日本とイギリスの常識の違いも面白い。例えばルーシーの経歴だ。英国航空しかも国際路線の客室乗務員が、六本木のクラブホステスに転職する。当時の日本人なら、「何を考えてるんだ?」と不審に思うだろう。

 なんたって、航空会社の客室乗務員は、日本の娘さんたちの憧れの職業だ。今はともかく、当時はそうだった。1970年の「アテンションプリーズ」(2006年にリメイク)、1983年の「スチュワーデス物語」など、TVドラマでも取り上げている。

 しかも、そこらの格安会社じゃない。天下の英国航空の国際線である。世間じゃ国内線より国際線の方が格が高いって事になっている。また同じイギリスの航空会社でもヴァージン・アトランティックと違い、英国航空は格安チケットがまず出回らない。日本航空と並び「バックパッカーはまず乗れない航空会社」として有名な、世界でも高級かつ一流の航空会社なのだ。

 これには「客室乗務員」に対する日本とイギリスの印象の違いがある。まあ、この辺は、アメリカ資本の航空会社を使った事があれば、なんとなく見当がつくんじゃないかな。関係ないけど当時はシンガポール航空が「値段のわりにサービスは極上」と評判が良かった。

 まあいい。日本人がソコを疑問に思うのに対し、イギリス人は「クラブホステスって何?」から始まる。該当する商売が、アメリカやイギリスにはないのだ。「だったらアメリカでギャバクラ開けば」と一瞬考えたけど、すぐに死人が出そう。

 ここで展開する「水商売」を巡る考察も、日本人としては「言われてみれば…」な話で、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーだったり。

 そんな「六本木の外人クラブホステス」の生態も、住居の<代々木ハウス>から始まり意外な事ばかり。というか、当時の六本木の様子が、明らかに異郷なのだ。イスラエル人とイラン人が売人として競ってたり。だから両国は仲が悪いのか←違う 麻布警察署が、当初は事件を重く見なかったのも、なんとなくわかる。クラブ経営者の話も、下世話な面白さに満ちていて楽しい。

 ミステリのもう一つの重要な役どころ、警察について、著者は手厳しい。各員は誠実で優秀だが組織の体質がダメ、と。特に物証より自白を重んじる体質を厳しく批判している。残念ながら、こういう体質は今でも変わってないのがなんとも。IT系にも弱いしなあ。

 そして事件の核心を握る犯人なんだが、これが実に不気味だ。なかなか正体は掴めないが、決してあきらめず、カネとコネを駆使して被害者や関係者に脅しをかける。暴力団はもちろん、どうやら極右団体まで動かしている様子。まあ、極右の中には、政治団体のフリした暴力団もあるんだろう。

 下世話な野次馬根性で読んでも楽しめるし、ガイジン視点の日本論としても面白い…いささか極端な側面に焦点を当てているけど。また犯罪被害者と家族が置かれる過酷な状況のルポルタージュとしても、読んでいて苦しくなるほどの迫力がある。「事件そのもの」より「事件を通して見えてきた事柄」のレポートとして、優れたノンフィクションだ。

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2021年9月19日 (日)

市川哲史「いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番」シンコーミュージックエンタテイメント

本書『いとしの21馬鹿たち どうしてプログレを好きになってしまったんだろう第二番』は、2016年12月に上梓した拙著『どうしてプログレを好きになってしまったんだろう』の続編になる。
まず最初に断っておくが、本書は明らかに前作ほどは面白くない。
  ――Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事

メル・コリンズ「そもそも即興プレイヤーの俺に再現プレイなんて無理だから」
  ――§13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.

【どんな本?】

 雑誌「ロッキング・オン」などで活躍した音楽評論家の市川哲史による、プログレ憑き物落とし第二弾。

 プログレッシヴ=進歩的というレッテルとは裏腹に、ポップ・ミュージックの世界にありながら半世紀以上も前の方法論で今なお矍鑠として音楽を続ける有象無象の老人たちの、群雄割拠と集合離散そして栄枯盛衰の裏側を赤裸々に描くプログレ・ゴシップ・エンタテインメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年6月17日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約468頁。9ポイント38字×18行×468頁=約320,112字、400字詰め原稿用紙で約801枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 クセの強い文章なので、好き嫌いがハッキリ別れるだろう…というか、好きな人しか読まないと思う。内容もお察しのとおり、わかる人にはわかるけど分からない人にはハナモゲラな文が延々と続く。ったって、どうせ分かる人しか読まないから問題ないよね。つまり、そういう趣味の本です。

【構成は?】

 各記事は独立しているので気になった所だけを読めばいい。

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  • Walk On : 偉大なる詐欺師と詭弁家の、隠し事
  • 第1章 Not So Young Person's Gude to 21st Century King Crimson(21世紀のキング・クリムゾンに馴染めない)旧世代への啓示
  • §1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008
  • §2 どうして手キング・クリムゾンは大楽団になってしまったんだろう
  • 第2章 All in All We're Just Another Brick in the Wall ぼくらはみんな生きていた
  • §3 どうしてゴードン・ハスケルは迷惑がられたのだろう
  • §4 荒野の三詩人 だれかリチャード・パーマー=ジェイムズを知らないか
  • §5 「鍵盤は気楽な稼業ときたもんだ」(或るTK談)
  • §6 どうしてピーター・バンクスは再評価されないのだろう
  • §7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年
  • §8 <マイク・ラザフォード>という名の勝ち馬
  • 第3章 From the Endless River 彼岸でプログレ
  • §9 ジョン・ウェットンがもったいない
  • §10 我が心のキース・エマーソン 1990年の追憶
  • §11 ビリー・シャーウッドの「どうしてプログレを好きになってしまったんだろう」
  • 第4章 Parallels of Wonderous Stories 遥かなる悟りの境地
  • §12 ウォーターズ&ギルモアの「俺だけのピンク・フロイド」
  • §13 壊れかけの RADIO K.A.O.S.
  • 第5章 One of Release Days それゆけプログレタリアート
  • §14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records
  • §15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)
  • ボーナス・トラック
  • §16 ロキシー・ミュージックはプログレだった(かもしれない)
  • 初出一覧

【感想は?】

 いきなりの二番煎じ宣言w 書き出しがソレってどうよw いや正直でいいけど。

 それに続けて「もう、みんなこんな齢なんだぜ」と数字つきで見せつけるのは勘弁してほしい。当然、読んでる私たちも似たような齢ななわけで。しかもチラホラと見える「故人」の文字が切ない。こうやって見ると、1940年代後半生まれが主役だったんだなあ、70年代のプログレって。にしても50歳代で若手ってどうよ。衆議院議員かい。

 前回に続き表紙はピンク・フロイドだけど、紙面の半分以上がキング・クリムゾンなのは、著者の趣味なのか日本のプログレ者の好みなのか。やっぱりプログレのアイコンは宮殿のジャケットになっちゃうしなあ。フリップ翁は相変わらずの屁理屈&偏屈&我儘っぷりで、これはもはや至芸だろう。

 続いて多いのはピンク・フロイド。まあセールスと知名度じゃ順当なところか。後はイエス、ジェネシス、EL&P。そしてなぜかロキシー・ミュージック。まあブライアン・イーノやエディ・ジョブソンを表舞台に引っ張り上げた人だし、ブライアン・フェリーは。とか言ってるけど、どう考えても著者の趣味を無理やり押し込んだんだよね。

 レコードからCDそしてインターネットというメディアの変化・多様化は商売としてのプログレ(というよりポップ・ミュージック)にも多大な影響を与えているようで、ロバート・フリップがビジネスを語る「§1 ロバート・フリップが<中途半端>だった時代 キング・クリムゾン1997-2008」やレコード会社の日本語版担当者の声が聴ける「§14 吹けよDGM、呼べよPink Froyd Records」は、仙人ぶってるプログレ者にも現実を見せつける生々しい商売の話。

 なんなんだろうね、いわゆる「箱」が次々と出てくるプログレ界って。まあガキの頃から乏しい小遣いを西新宿の中古盤屋に貢いでた輩が、齢を重ねて相応の収入と資産を得たら、お布施も弾むってもんか。そんな老人の年金にたかるような商売がいつまでも続くわけが…と思ったが、「父親の影響で」みたいな若者もソレナリに居るからわからない。二世信者かよ。

 などのフロント陣ばかりでなく、エンジニアとしてのスティーヴン・ウィルソンなどにも焦点を当ててるのが、今回の特徴の一つ。いや焦点を当てるならポーキュパイン・ツリーでの活躍だろと思うんだが、これは読者の年齢層に合わせたんでしょう。

 にしても、90年代以降のイエスって、音創りが手慣れているというか「イエスの音ってこんな感じだよね」的な、バンドとしての方向性が完全に固まっちゃって金太郎飴みたいな印象があるんだけど、それはきっとビリー・シャーウッドのせいだろうなあ。

 などのビッグ・ネームが並ぶ中、「§7 恩讐の彼方のヴァイオリン弾き プログレで人生を踏み誤った美少年」はいささか切ない。タイトルでだいたい見当がつくように、あのエディ・ジョブソン様だ。とか書いてる今、MOROWで「デンジャー・マネー」がかかってる。日本の鍵盤雑誌編集部を襲撃した際の話は、いかにも彼らしい。

 やっぱり面倒くさい奴だった…と思ったが、プログレって演る側だけでなく聴く側も面倒くさい奴が多いよね。あ、はい、もちろん、私も含めて。

 とはいえ、同じ鍵盤弾きでもTKのお気楽さはどうよ。そんなにモテたのか。イーノといい、鍵盤弾きはモテるんだろうか。しかしなぜハウだけ「ハウ爺」w

 終盤の「§15 地場産業としてのプログレッシヴ・ロック(埼玉県大里郡寄居町の巻)」は思いっきり異色。なんとプログレ者の隠れた聖地にして著者曰く<プログレ道の駅>カケハシ・レコードの取材記。企業としてはなかなかにバランスのとれた組織で、充分な起業家精神(というか山っ気)を持ちつつ理性的に市場動向の計算もできる社長の田中大介氏と、溢れんばかりのプログレ愛を滾らせる若き社員たちの組み合わせ。長く続いて欲しいなあ。

 などの内容もいいが、やはり古舘伊知郎のプロレス中継ばりな文章スタイルがやたら楽しい。

 「デシプリン最終決戦」「悪のアーカイヴ・コンテンツ帝国」「周回遅れの青年実業家」「驚異の袋小路ロック」「狂気のひとり三人太鼓」とか、いったいどっから思いつくんだか。一晩じゅう寝ないで考えたんだろうか。

 いろいろあるが、屁理屈屋の多いプログレ界隈を書くには、こういうスタイルで毒消ししないと商売にならないのかも。いずれにせよ、「そういう人」のための本であって、万民に薦められる本ではないです。まあ普通の人は手に取ろうとも思わないだろうけど、それで正解です、はい。

 ちなみに冒頭でメル・コリンズを引用したのは私の趣味。だって元キャメルだし。石川さゆりさん、Never Let Go 歌ってほしいなあ。

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【今日の一曲】

Sandra - Maria Magdalena 1985 (HD version)

 ということで、RPJことリチャード・パーマー=ジェイムズの職人芸が堪能?できる Sandra の Maria Magdalena をどうぞ。ノってるシンガーとソレナリのベースに対し、お仕事感バリバリのドラマーと虚無感漂う鍵盤の対比が楽しいです。

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2021年8月18日 (水)

ベン・ルイス「最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の『傑作』に群がった欲望」上杉隼人訳 集英社インターナショナル

現代の美術界が抱える問題は、美術界が変わったということではなく、変わっていないということなのだ。
  ――おわりに

【どんな本?】

 2017年11月、クリスティーズの競売で絵画の落札価格の最高額が更新される。その額4憶5千万ドル。対象はレオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」(→Wikipedia)。

 この作品は幾つかの点で型破りだった。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは名高いわりに作品は少ない。高名なオールドマスターの作品が今世紀になって発掘される事は滅多にないし、出てきても専門家が真作と鑑定することも滅多にない。

 誰が、どうやって、どこから作品を発掘したのか。姿を現すまで、どんな運命を辿ったのか。発掘されてからオークションにかけられるまで、どんな者がどのように関わったのか。そして、なぜこんな高値が付いたのか。

 描いたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの活動、発掘した美術商、真贋判定に関わった専門家たち、そして売買に関わった人々やその動機などを通し、知られざる現代の美術界を描き出す、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Last Leonardo : The Secret Lives of the World's Most Expensive Painting, by Gen Lewis, 2019。日本語版は2020年10月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約431頁に加え訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×431頁=約349,110字、400字詰め原稿用紙で約873枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 文書はこなれている。内容も分かりやすいし、歴史や美術に馴染みのない人のために充分な説明もされている。レオナルド・ダ・ヴィンチとモナリザを知っていれば大丈夫。

【構成は?】

 内容的に各種はほぼ独立しているが、なるべく頭から読む方がいい。というのも、人物や固有名詞などは前の章を受けた形で出てくるため。

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  • 本書の構成について
  • 本書に登場する主な人物
  • 『サルバトール・ムンディ』の歴史
  • プロローグ レオナルドの伝説
  • 第1部
  • 1 ロンドンへのフライト
    勝負に出るひとりの男/レオナルド・ダ・ヴィンチによるものと思われるある絵
  • Secret Episode 1 クルミの木の節
  • 2 埋もれた宝
    ニューオーリンズの競売会社で売り出された一枚の絵/美術界の最下層にいた男、アレックス・パリッシュ
  • Secret Episode 2 紙、チョーク、ラピス
  • 3 感じる!
    レオナルド劇場の興行主マーティン・ケンプ/『美しき姫君』
  • Secret Episode 3 レオナルドの特徴的な描き方
  • 4 青の手がかり
    レオナルドの魔法/最大の疑問
  • 5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント
    Provenance 起源、出所、来歴、真贋、品質/作り上げられた「傑出した来歴」
  • Secret Episode 4 王の絵画
  • 第2部
  • 6 サルバトールのすり替え
    所蔵品目録で確認できる三枚の『サルバトール』/ジョン・ストーンが買い上げた『サルバトール』/エドワード・バスの第二の『サルバトール』/ジェームズ・ハミルトン卿の第三の『サルバトール』/「ヴェンツェスラウス・ホラーが原画をもとに制作」/『サルバトール・ムンディ』の公式来歴/ガナイの『サルバトール』/絵の裏に隠されたCとRの焼き印
  • 7 復活
    歴史上のどの作品よりも破損が激しい/ニューヨークで評判の修復家モデスティーニ夫妻/「自分はレオナルドの作品を相手にしている」/ダ・ヴィンチの手の痕跡 モデスティーニの修復作業/闇の世界に生きる修復家たち/鑑識眼の能力が限界まで求められる
  • Secret Episode 5 レオナルドの弟子たち リトル・レオナルド
  • 8 数多くの『サルバトール・ムンディ』
    イギリス王家の『サルバトール・ムンディ』/膨れ上がるロンドンの美術市場/『サルバトール』がいくつも……/プーシキン美術館の『サルバトール・ムンディ』/誰が責任を負うべきか?
  • 9 天上会議
    『サルバトール』完成/いざ、ナショナル・ギャラリーへ/「顔は損壊が激しく、誰が書いたのかもはや判断がつかない」/胃売り込みは密かに、だが積極的に行われてていた/レオナルドの絵とはっきり明記されない/「絵がどのように作り出されたか、遺憾ながら事情は知れない」
  • Secret Episode 6 エンターテイナーでエンジニア
  • 10 地上最大のショー
    2011年ナショナル・ギャラリー「ダ。ヴィンチ展」/『サルバトール』に対するさまざまな反応/二度目の大きな修復作業が開始される/「レオナルデスティーニ」新たなハイブリッド作品?
  • 11 おい、クックは手放したぞ
    1913年のクック家の目録/ジョン・チャールズ・ロビンソンの鑑識眼/新たな技術で『サルバトール』を探す/フランシス・クックとクック・コレクション/「レオナルドを思わせる、だが明らかに質の低い作品」/レオナルド作品の重要な鑑定家だったハーバート・クック/「レオナルド風のものを探り出すには緻密な観察が必要」/「考えられないような素人が絵を塗り直した」/買い上げたのはニューオーリンズの収集家?
  • 第3部
  • 12 オフショアの偶像
    幾らで売れる?/21世紀の美術市場/誰に売る? 誰に買ってもらえる?/ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフ/仲介者、イヴ・ブーヴィエの存在/リボロフレフとブーヴィエ/第四のプレイヤー、サザビーズ/ついに『サルバトール』と対面/信頼関係は崩れた/美術をめぐる史上最大の詐欺事件/サザビーズをめぐるもう一つの訴訟/勝者は誰?/リボの誤算/ブーヴィエ事件の余波/新たな競売へ
  • Secret Episode 7 レオナルド、安らかに
  • 13 19分間
    「競売番号9bレオナルド」/歴史的瞬間/落札者は?/ルーヴル・アブダブで公開される?
  • 14 ニューオーリンズに一軒の家がある
    いつどこで手に入れたのか、よく覚えていない/最低見積価格より25ドル低い1175ドルで落札/セントチャールズ・ギャラリーに売ったのは誰?/2005年当時の匿名所有者「トゥーキー」との会話/きわめてアメリカ的な収集家
  • 15 砂漠に立ちのぼる蜃気楼
    世界で最も豪華な美術館ルーヴル・アブダビ/ビン・サルマーン皇太子の暗い噂/政治的駆け引きに使われた?
  • 16 こわれやすい状態
    ポスト・トゥルースのレオナルド/芸術における悲劇の象徴『サルバトール・ムンディ』
  • おわりに
    絵の周辺を飛び交う詐欺や欺瞞を告発しようとした/美術品の値段はますます高騰する/世界は変化しているが、美術品は変わらない/『サルバトール・ムンディ』は誰もが見られるものでなければならない
  • 日本の読者の皆さんへ 『サルバトール・ムンディ』は今どこに?
  • 謝辞/訳者あとがき/図版クレジット

【感想は?】

 書名や副題からは、ゴシップ系の印象を受ける。なんたって、最高額を記録した絵画の取引きがテーマだし。

 確かにそれは間違いじゃない。実際、著者は『サルバトール・ムンディ』がどんな運命を辿ったのか、歴史家や探偵のごとく丹念に調べてゆく。その取材と調査の範囲はすさまじい。

 かつての所有者と目される王家の遺産目録や有名な美術商のカタログそして掘り出した美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュはもちろん、田舎の骨董市のような競売の伝票やインターネット上にある個人住宅の写真まで、世界中を飛び回り唖然とするほどの執念で情報を集めて検証をしてゆく。

 だが、ゴシップはあくまで客寄せパンダまたは狂言回しだ。著者の目論見は違う。『サルバトール・ムンディ』の取引きをサンプルとして、現代の美術界の姿を描き出すことだ。

 当然ながら、そこには美術品が異様な高額になっている事への危機感がある。大金には様々な利害やシガラミが絡む。その影響は、例えば学会にも及んでいる。

マーティン・ケンプ「未知の、あるいは比較的知られていない作品を巨匠たちの作品と特定するのは、歴史家としての評価を葬り去ることだ」
  ――3 感じる!

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見つけた」と専門家が言い出せば、世界中で大騒ぎになる。そして「間違いでした」となれば、盛大に叩かれる。だから、下手なことは言えないのだ。しかも、専門家同士の確執もある。

「偉い学者たちほど早く見せないとへそを曲げますからね」
  ――9 天上会議

 なんてメンツにこだわる人もいれば、「奴の説には反射的にケチをつける」みたいな学者同志の対立もあったり。だから、デカいヤマほどデビューは慎重にやらないといけない。

 そんな風に古色蒼然としているような美術界だが、最新技術もちゃんと取り入れている。『サルバトール・ムンディ』をデビューさせたのは、二人の美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュ。彼らの仕事は、要はせどり(→Wikipedia)だ。各地の競売やネットを漁り、掘り出し物を探して転売する。

写真の技術が現代の美術史を作り上げたと言っても過言ではない。
  ――5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント

 サイモンとパリッシュの目がどれほど優れていたかは、『サルバトール・ムンディ』の経歴を辿る過程で明らかとなる。なにせ…

19世紀から20世紀に時代が変わる中で、その時代を代表する著名な美術史家や美術商、収集家のほとんどが一堂に会し、全員が『サルバトール・ムンディ』を目にしていたのだ。だが誰もそれを買い入れることはなかった。
  ――11 おい、クックは手放したぞ

 と、現物を見た当時の一流の専門家が気づかなかった傑作を、二人の若い小物美術商が掘り出したのだから。そんな彼らを支えたモノの一つがインターネット。

世界最高額の絵はインターネットと電話で取引されたのだ。
  ――14 ニューオーリンズに一軒の家がある

 専門家が現物を見ても気づかなかったお宝を、彼らは写真で見出した。たいした眼力である。もちろん、写真やインターネットだけでなく、現物を手に入れてからは、赤外線リフレクトグラフィーや顕微鏡カメラなども駆使し、絵画のはらわたや骨格にあたる部分まで徹底的に暴き出してゆく。

 これら科学を手掛かりとしつつ、磨き上げた技術を振るう職人も欠かせない。本書では修復家ダイアン・モデスティーニが、小説のような物語を繰り広げる。

修復家にとって自分たちが加えた仕事を最高の形で示せるのは、それに気づかれないことだ。
  ――7 復活

 この言葉、「修復家」を様々な職業に置き換えても通用するんだよなあ。ネットワーク管理者とか鉛管工とか。あなた、幾つ挙げられます?

 さて、そんな美術品のスカウトとマネージャーに当たるのが美術商だとすれば、テレビや映画のプロデューサーに当たるのが美術館のキュレーター(学芸員)だろう。その職業名から受ける学者然とした印象とは異なり、ちょっとした興行手みたいな手腕も求められるのが意外。

今日のキュレーターにとって展覧会成功の鍵を握るのは物語だ。
  ――10 地上最大のショー

 結局、「いかに人を集めるか」なんだよね。とまれ、話題になるモノに集うのは、観客だけじゃない。人が集まれば、カネもあつまる。そこで美術品は投資の対象にもなる。

今日、美術は高級資産だ。現在、多くの投資ポートフォリオ(投資家の資産構成)において、資産の10%はアートに投資されていると言われている。
  ――12 オフショアの偶像

 こういった美術品売買の実態を描く第3部は、やたらと金額を示す数字が出てきて生々しいと同時に、そのとんでもない額にファンタジイっぽい非現実感が漂ったり。「オフ・ザ・マップ」にも出てきたジュネーヴィ・フリーポートとかは、格差社会を恨めしく思ったり。お金持ちってのは、お金を隠す手腕にも長けてるんです。

 そしてもちろん、隠れるのはお金だけじゃなく、美術品も姿を消してしまうのが切ないところ。

最後にその存在を確認された2018年の秋を最後に、『サルバトール・ムンディ』はどこにあるかわからなくなってしまっている。
  ――16 こわれやすい状態

 などと悲しい話になりそうな所を、修復家ダイアン・モデスティーニが『サルバトール・ムンディ』を気遣う言葉が一層ドラマを盛り上げてくれる。

 衝撃のデビューを果たしつつも姿を消した『サルバトール・ムンディ』を軸に、有象無象が徘徊する美術界の実態を、鬼気迫る執念の取材と調査で暴き出し、そこで生きる美術商・修復家・歴史家・美術館そして様々な代理人などを生々しく描いた重量級のドキュメンタリー。

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2021年7月11日 (日)

サミュエル・ウーリー「操作される現実 VR・合成音声・ディープフェイクが生む虚構のプロパガンダ」白揚社 小林啓倫訳

本書で私は(略)デジタルツールを使った最近の政治的な世論操作の例を紹介し、(略)これから何が起きるかを推測してみたい。また、どうすれば私たちが現状に対処し、デジタル空間を再生できるかについても概観する。
  ――1 曖昧な真実

「ディープフェイク動画に登場する人物のまばたきの頻度は、実際の人間に比べてかなり低いことがわかりました」
  ――5 フェイクビデオ まだディープではない

私たちはマシンを操作できるようになるかもしれないし、マシンが人間を操作するようになるかもしれない。
  ――7 テクノロジーの人間らしさを保つ

【どんな本?】

 2016年の米大統領選では、それまでと違う新しい戦術が大きく使われた。フェイスブックなどのSNSによる選挙活動だ。各陣営が自分たちの候補者を売り込むだけならともかく、これにロシアが組織的に乱入している事が明らかになった。俗にロシアゲートとも呼ばれる事件である(→Wikipedia)。

 フェイスブックだけではない。ツイッターでは、2018年7月に当時現職のドナルド・トランプ大統領のフォロワーが20万人、バラク・オバマ元大統領のフォロワー240万人が一気に消えた(→朝日新聞)。いずれも俗に偽アカウントと呼ばれるもので、フォロワー数を水増ししていた事になる。

 かつてとは異なり、今やインターネットは私たちの暮らしに染み込んでいる。そして、それを悪用し、デマを振りまく者もいる。

 誰が悪用しているのか。その目的は何か。どんな手口を使うのか。どうすれば見破れるのか。フェイスブックやツイッターなどのプラットフォーム側は、どんな対策をしているのか。なぜ防げなかったのか。今後、手口はより狡猾になるのか。そして、防ぐためにはどうすればいいのか。

 ソーシャルメディアを研究する著者が、ソーシャルメディアの悪用の事例を紹介・分析し、その手口・影響・原因を探り、防ぐ手立てを提案する、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Reality Game : How the Next Wave of Technology Will Break the Truth, by Samuel Woolley, 2020。日本語版は2020年11月12日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約354頁に加え、訳者あとがき5頁。9.5ポイント36字×17行×354頁=約216,648字、400字詰め原稿用紙で約542枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容も特に難しくない。ツイッターやフェイスブックとは何か、ぐらいは知っていた方がいい。

【構成は?】

 いちおう頭から読む構成になっているが、気になった所だけを拾い読みしても充分に楽しめる。

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  • 謝辞
  • はじめに
  • 1 曖昧な真実
    あなたの現実、私にはフェイク/テクノロジーと虚偽の新しい波/現実と真実への「攻撃」/テクノロジーの変化、社会の変化/プロパガンダからコンピューター・プロパガンダへ/未来のテクノロジーの役割
  • 2 真実の破壊 過去・現在・未来
    事の起こり/デジタル偽情報はどこから来るのか?/コンピューター・プロパガンダの登場/人間の要素/アクセスの問題/過去 何が起きたのか/現在 何が変化しているのか/未来 何が起きるのか/メディアの崩壊
  • 3 批判的思考から陰謀論へ
    バイラルな記事のつくり方/シリコンバレーから愛をこめて/オンライン・ユートピアからデジタル・ディストピアへ/あなたが読んだものがあなたをつくる/批判的思考から陰謀論へ/ソーシャルメディアはメッセージ/政策はどうなっているのか/メディア指向の解決策
  • 4 人工知能 救いか破滅か?
    ザッカーバーグのマクガフィン/ボットからスマートマシンへ/ユーザーの問題?/単純なボット/AIボットの時代/AIを実現する技術/無視されるエシカルデザイン/AIプロパガンダの始まり/毒を以て毒を制す/ファクトチェックを越えて/頭の悪いAI/AIからフェイクビデオへ
  • 5 フェイクビデオ まだディープではない
    加工動画対ディープフェイク/ディープフェイク/まだ注目するには早い?/普通の動画も強力なプロパガンダ・ツールに/ユーチューブ問題/フェイクビデオの拡散を止める/ライブストリーミングの問題/動画からバーチャルリアリティーへ
  • 6 XRメディア
    バーチャル・ウォー/XRメディアの世界/バーチャルの定義/ ARかVRか?/XRメディアと世論操作/社会的利益につながるVRの活用/スローXR/人間と人間に似たもの
  • 7 テクノロジーの人間らしさを保つ
    @FuturePolitical/マシンか人間か/マシンとの関係構築/人間らしい音声を越えて/人間の声が持つ説得力/人間の顔をデジタルで生成する/マシンが親切に振る舞うようにする
  • 8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計
    既存ソーシャルメディアの窮地/テクノロジーについての社会調査の価値/拡大する世界規模の問題/コインテルプロ/若者と未来のテクノロジー/倫理的なオペレーティングシステム/崩壊した現実を立て直す/民主主義を再構築する
  • 訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 この本を読んだ目的は、野次馬根性だ。

 誰が、何のために、どんな手口で、どんな事をやっているのか。それが知りたかった。あと、藤井太洋の元ネタが知りたかった、というのもある。

 残念ながら、「アンダーグラウンド・マーケット」に出てくるような、近未来を感じさせるハイテク手口は、あまし出てこない。手口はけっこう単純なのだ。

実際には、人工知能のような複雑なメカニズムは、これまでのところコンピューター・プロパガンダには大した役割を果たしていない。
  ――4 人工知能 救いか破滅か?

 ではどんな手口か、というと、力押しというか飽和攻撃というか。先のニュースにあるように、幽霊アカウントを山ほど作ってフォロワー数やリツイート数を水増したり、自動的に似たようなつぶやきを何度も投稿したり。そんなんでも、リツイート回数が多ければ、ツイッターは「トレンド」として目立つ所に表示するので、広告としての効果はある。

オンライン上では、人気のあるものは急速に拡散するのだ――それがたとえ、ボットを使ってつくられた幻想だったとしても。
  ――2 真実の破壊

 ここでは、暴き方の方が面白い。幽霊アカウントの特徴を見破ったのだ。プロフィールに写真がないか買ってきた写真だ。自己紹介もなく、フォロワーがほとんどいないか、幽霊アカウント同士でフォローし合ってる。そして投稿はタイマーで計ったように定期的。

 どうも会話が絡むテキスト・ベースだと、人間っぽく振る舞うのは難しいみたいだ、少なくとも今のところは。この辺は「機械より人間らしくなれるか?」が詳しい。今は人海戦術が中心だ。五毛党とかトロール工場(「140字の戦争」)とか。

プラガーフォースのメンバーには報酬は支払われないが、300万人に近い購読者を持つプラガー・ユニバーシティのフェイスブック・アカウント上でシェアされるという見返りが与えられる。
  ――3 批判的思考から陰謀論へ

 300万人の読者かあ。零細ブロガーとしちゃ、そりゃ心が動くなあ←をい 「ネット炎上の研究」にもあったけど、そういう手口を使い多人数に見せるのも、連中の常套手段。

 その「連中」とは誰か、ってのも、この本を読んだ目的。期待したとおり、やっぱり出てきましたロシア。出番は2016年の大統領選だ。

フェイスブック(略)におけるロシアの世論操作(略)の目的は人々を騙すこと、そして分裂を促し、人々を支配することだった。
  ――8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計

 これについては、具体例として1番打者にフィリピンのロドリゴ・ドゥルテ大統領のソーシャルメディア軍、2番に在トルコのサウジアラビア大使館で起きたジャマル・カショギ記者暗殺事件(→Wikipedia)を置くなど、インパクトはなかなか。

 「ヒトラー演説」や「ベルリン・オリンピック1936」にもあったけど、目端が利く政治家は広報に力を入れ、新しいメディアの使い方も巧みなんだな、困ったことに。

 そう、SNSは新しいメディアなのだ。ところが、肝心のメディア提供者であるフェイスブックやツイッターには、そういう認識がない。自分たちはサービスを提供しているだけだと思っていて、マスメディアだという自覚が欠けているのが、次第に伝わってくる。

 これはSNSだけではなく、政治家も同じ。だもんで、テレビ局や新聞社に対しては法で様々な規制をかけているのに対し、SNSは野放しだったりする。この問題への著者の提案の一つは、日本でも是非やってほしい。

広告枠の購入者は、特定の広告に誰が料金を支払ったかを明確に通知するなど、一定の基準を守らなければならない
  ――>8 結論 人権に基づいたテクノロジーの設計

 要は「誰が出した広告かハッキリさせろ」ですね。これでステルス・マーケティングが減れば嬉しいんだが。

 そんな「なんとかせいや」とする声に対し、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグがAI技術に希望を託すあたりを、著者は激しく批判してる。

将来起こる問題のほとんどは、現在は解決策のように見える技術によって引き起こされる
  ――4 人工知能 救いか破滅か?

 …ああ、はい、そうですね。いやそうなんだけど、ザッカーバーグの気持ちも分かるんだよなあ。怪しげなアカウント凍結も、一応の成果を挙げてるし(→J-WAVE)。エンジニアってのは、つい技術での解決を考えちゃう生き物なんです。このあたりは、著者と技術者の溝の深さが実感できて、お互いの話し合いがもっと必要だなあ、と感じたところ。

 全般的に、具体例はそこそこ豊富にでているし、刺激的なエピソードも多い。とまれ、著者の姿勢は研究者やジャーナリストというより思想家・政治運動家に近く、リベラルな著者の考え方や提言が強く出ている。その辺は、好みが別れるかも。

 かつてインターネットが「便所の落書き」とか言われた頃を憶えているネット老人会の一人としては、インターネットの信頼性が上がったような気がして嬉しいような、そういう風潮に鍛えられて良かったかも、とか思ったりした本だった。

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【今日の一曲】

行け!行け!川口浩 - 嘉門達夫

 フェイクで思い出すのは、やっぱりコレ。思えば大らかな時代だったなあ。

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2021年4月23日 (金)

ジェイムズ・クラブツリー「ビリオネア・インド 大富豪が支配する社会の光と闇」白水社 笠井亮平訳

超富裕層の台頭、格差がもたらす複合的問題、企業が持つ強固な権力――本書はインドの現代史のなかで決定的な意味を持つ、これら三つの要素を描き出してゆく。
  ――序章

メディアをめぐるインドの状況はとにかく大規模かつ複雑で、新聞は8万2千紙、テレビは900局近くにのぼり、大半が英語以外の言語だ。
  ――第11章 国民の知る権利

【どんな本?】

 2016年11月8日、インド首相のナレンドラ・モディ(→Wikipedia)は、何の前触れもなく衝撃的な政策を発表する。

「腐敗の蔓延を断ち切るべく、現在流通している500ルピー紙幣(約7ドル)と1000ルピー紙幣(約14ドル)は今晩零時をもって法的紙幣としての効力を失うとの決定を下しました」
  ――第5章 汚職の季節

 いきなり高額紙幣を紙切れに変えてしまったのだ。無茶苦茶なようだが、これには現代インドの政界・財界の深刻な現状に対するモディなりの真摯な対策でもあった。

 幾つかの点で、インドは中国に似ている。人類文明の黎明期にまで遡る悠久の歴史。第二次世界大戦後の建国。広大でバラエティに富む国土と民族。13億5千万もの膨大な人口。そして政府による統制経済から自由主義経済の導入に伴う、目覚ましい経済成長。

 と同時に、大きく異なる点もある。最大の違いは、インドが民主主義である事だろう。強固な共産党一党支配が続く中国に対し、インドは独立当時から普通選挙による民主主義を貫いてきた。

 今世紀の前半において最も高い経済成長が期待されるインドだが、ロシア同様に巨大な経済格差が広がりつつもあり、社会的にも経済的にも懸念は尽きない。政治的にも、初代首相のジャワハルラール・ネルー率いる国民会議が支配的な地位を占めていたが、2014年からインド人民党のナレンドラ・モディが首相となり、新たな潮流を成しつつある。

 インドの政界と財界は、どんな関係なのか。なぜ現在のような関係が生まれたのか。インドの社会主義はどのようなもので、自由主義経済の導入はどのように行われたのか。その過程で、どんな問題が起きているのか。そして、今後もインドは成長を続けられるのか。

 ファイナンシャル・タイムズ紙ムンバイ支局長を務めたジャーナリストの著者が、成長するインド経済を率いる大富豪たちやモディ首相を筆頭とする政界の大物たちを追い、インド経済の現状とその歴史を語り、未来のインドを描こうとする、政治・経済ルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Billionaire Raj : A Journey Through India's New Gilded Age, by James Crabtree, 2018。日本語版は2020年9月10日発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約420頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×20行×420頁=約386,400字、400字詰め原稿用紙で約966枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も、各章の扉に地図があるなど、親切でわかりやすい。日本人には馴染みのないインドの政界・財界の話だが、いずれも丁寧な紹介があるので、素人でも大丈夫。ただし、地名や人名などの固有名詞が、慣れないヒンディー語だったりするので、覚えるのにちと苦労した。冒頭の「主要登場人物」は何度も見返すので、栞を挟んでおこう。また、「第10章 スポーツ以上のもの」はクリケットのネタなので、クリケットに詳しい人は楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章の繋がりは穏やかだ。なので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいいが、できれば頭から読んだ方がいい。

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  • 主要登場人物
  • プロローグ
  • 序章
  • 第1部 泥棒貴族
  • 第1章 アンバニランド
  • 第2章 栄光の時代の幕あけ
  • 第3章 ボリガルヒの台頭
  • 第2部 政治マシーン
  • 第4章 「モディファイ」するインド
  • 第5章 汚職の季節
  • 第6章 金権政治
  • 第7章 南インド式縁故主義
  • 第3部 新・金ぴか時代
  • 第8章 債務の館
  • 第9章 苦悩する豪商
  • 第10章 スポーツ以上のもの
  • 第11章 国民の知る権利
  • 第12章 モディの悲劇
  • 終章 革新主義時代は到来するか?
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 政治と経済の本だ。もっと言うと、経済に重点を置きつつ、政治、というか政界との関わりも見る、そんな本だ。

 この手の本は大雑把に二種類ある。「ショック・ドクトリン」のように現状を描く新聞や週刊誌的な本と、「国家はなぜ衰退するのか」のように原理・原則を探る教科書的なものと。

 本書は前者、つまり現状報告に近いが、教科書的に原理原則を語る部分もある。分量にすると8割が現状報告、2割ぐらいが教科書かな。

 右派・左派だと、穏やかな右派だろう。あくまでも主題は国家の経済成長だ。貧富の差も懸念しているが、それは貧富の差が経済成長を妨げるからだ。目的は国家の経済成長であって、貧富の差を減らすのは手段に過ぎない。終盤では腐敗を扱っているが、「ある程度は仕方ない」という姿勢だ。「発展途上の国家に腐敗は付き物で、少しなら有益ですらある。酷すぎると害だけど」、そういう姿勢だ。ちなみにニューディール政策には好意的。

 さて。冒頭では軽くインドの歴史に触れる。ここでいきなり驚いた。

17世紀後半、イギリスがインド沿岸部でわずかに数カ所の都市を支配しているにすぎなかったころ、ムガル帝国は世界全体のGDPの1/4近くを手にしていた。それが1947年の独立から間もなく、イギリス軍が完全撤退したころには、その割合は4%になっていた。
  ――序章

 もともとインド(というかムガル帝国)は強国だったのだ。にしても、分母すなわち世界全体の経済が成長したのもあるだろうが、1/4から1/25とは。

 それでも、成長できる底力はあるのだ。「ルワンダ中央銀行総裁日記」などから見えるアフリカ諸国とは、社会構成が違う。アフリカでは商業が未発達だが、インド商人は南アジアからアフリカまで、世界中で活躍している。

 また、人口構成でも、少子高齢化が進む中国と違い…

インド総人口の半分以上が25歳以下である。
  ――第2章 栄光の時代の幕あけ

 と、今後の市場の拡大も期待できる。もっとも、同時に、そういった若い世代に、いかに職を与えるかって課題もあるんだけど。加えて、富の極端な偏在も深刻だ。

GDPに超富裕層の資産が占める割合を計算したところ、インドはロシアに次いで二位だった
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 ロシアの酷さは別格で、「ショック・ドクトリン」や「強奪されたロシア経済」に詳しい。要はソ連崩壊のドサクサにまぎれた火事場強盗ね。インドも経済の自由化に伴う現象って点は似ている。

「土地、天然資源、政府との契約もしくはライセンスという三つのファクターが、インドの億案長者が持つ富の圧倒的に大きな源泉なのです」
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

「すべての主要インフラ企業には、二つの興味深い共通点ある。一つは政治家かその近親者によって経営されているという点。もう一つは公共セクターの金融機関から莫大な額の借り入れをしているという点だ」
  ――第7章 南インド式縁故主義

投資銀行のクレディ・スイスは、インドの大規模上場企業のうち2/3が同族経営だと算出し、規模の大きい世界各国の市場のなかで最大の比率になっていると算出した。
  ――第9章 苦悩する豪商

 要は政治家と経営者の癒着ですね。これには大きく二つの理由があって、一つは民主主義だって点。選挙で勝つにはカネがかかる。だから政治家はカネが必要。そこで企業経営者と取引するワケです。これはアメリカなど、どの国でも見られる現象。

 もう一つは元社会主義的な国だったって点。起業しようにも規制がガチガチで、大量の許可を得なきゃいけない。インドのお役所の動きの鈍さは、バックパッカーなら「ノープロブレム」の連続で身に染みてる。というか貧乏旅行者が感じる役人のやる気のなさは、かつての中国の「没有」も有名で、これは共産主義・社会主義国に共通してるんだろう。

2016年に当時の最高裁長官が涙ながらに訴えたように、審理中の案件が3300万件にものぼっている。別の判事の指摘によると、現在のペースで進められた場合、すべての案件の審理を終えるのに300年かかるという。
  ――第12章 モディの悲劇

 もっとも、インドの場合、役人に鼻薬を利かせりゃ上手くいくあたりは融通が利くというかなんというか。更に早く動かしたければ、トップの政治家にドカンと払い、政治力で突破すりゃいい。そんなんだから、インド人は政治家を実行力で評価する。

2014年に当選した下院議員のうちざっと1/5が誘拐や恐喝、殺人といった「重大な」犯罪歴を持つ者で、この割合は10年前と比べてほぼ倍増している。(略)
犯罪容疑をかけられている候補者が当選する確率は犯罪歴のない候補者よりも三倍高くなっている。
  ――第6章 金権政治

 強引であろうとも、モノゴトを動かせる者は頼もしい、そういう価値観だ。昔の自民党もそうだったね。「仁義なき戦い」を読むと、ヤクザと癒着どころかヤクザが政治家やってたりするし。

 これに加え、グローバル経済の影響もある。

国際貿易のなかで扱われるすべての物品とサービスの半分以上が比較的少数の巨大多国籍企業で行き来している
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 例えばハイデラバードは英語力を活かしたコールセンターなどで成長してるけど、取引してるのはマイクロソフトなどの巨大多国籍企業だ(→Wikipedia)。貿易が増えれば経済も成長するけど、成長の半分以上は巨大資本が吸い取っていく。つまり金持ちの所に金が集まるわけ。これを是正しようにも、役所はガバガバで…

額の多寡に関係なく所得税を納めているインド人はわずか1%しかおらず、収入1000万ルピー(15万5千ドル)以上の者の中ではわずか5000人…
  ――終章 革新主義時代は到来するか?

 ガチガチに規制をかあけてるクセに金の流れはガバガバってのは旧ソ連も同じだったなあ。なんなんだろうね、こういうバランスの悪さ。本書じゃ「無理に規制すると裏技が発達する」みたく説明してる。アメリカの禁酒法でマフィアが稼いだようなモンかな?まあいい。これは金融業界も同じで…

「債務の館」企業10社の借入金は、まったくもって次元の違うスケールだった。債務額を合計すると840億ドルにもなり、これは銀行業界全体の総貸出額の1/8以上にもなったのである。
  ――第8章 債務の館

 発電所を作るにせよ、道路を通すにせよ、元手が要る。インドの起業家たちはコネを使って公営銀行からカネを借りた。銀行は借り手の懐具合をロクに調べもせず貸した。結果、不良債権が膨れ上がった。これを当時のインド準備銀行総裁ラグラム・ラジャンは苦労して調べ上げたんだが…

「わたしたちが次に直面したのは、問題が存在することを彼ら[銀行]に認めさせることでした」
  ――第8章 債務の館

 独ソ戦末期のヒトラーとか、太平洋戦争末期の大日本帝国上層部とか、権力者なんていつもそんなモンだ。我が国の現内閣も新型コロナに関してはコレだよなあ。この辺は「愚行の世界史」が楽しいです。まあ、どんな組織でも、上昇期に出世する人ってのは、楽観的な見積もりで攻撃的な手を好むんだよね。お陰で情報ネットワークのインフラ担当者とかはセキュリティ対策の予算獲得に苦労するんだけど。

 これを本書は「計画錯誤」(→NIKKEI STYLE)としている。「鉄鋼需要は永遠に増え続けるから製鉄所をガンガン作れ、石炭はずっと安いから発電所は作るだけ儲かる」みたいな見通し。景気がいい時はそれで巧く行くけど、ブレーキがかかったらボロボロになる。今のモディ政権は、そういう苦境に立ってる。

 加えて、モディ政権の支持層も、問題を抱えてる。ドナルド・トランプが狂信的な福音派を支持母体にしたように、モディも原理主義的なヒンディーの支持を頼りにしてて、著者はそこを危ぶみつつも…

インドが豊かになるにつれて、総じて暴力を伴う事件は減少していった。過去数十年間で宗教対立による暴動発生率は着実に減少しているのである。たとえそうであっても、ヒンドゥー狂信者ら――ほぼ全員がモディ支持者――による憂慮すべき事件が2014年以降増加しているのも確かだ。
  ――第12章 モディの悲劇

 と、「もう少し見守ろう」みたいな態度だ。そういったお堅い内容だけでなく、「第10章 スポーツ以上のもの」では、イギリスの遺したもう一つの遺産クリケットを巡る国際的な醜聞も扱ってる。

 日本人には馴染みがないクリケットだけど、インド・パキスタン・オーストラリアなど旧イギリス植民地じゃ国際的な人気スポーツなのだ。中でもインドは野球におけるアメリカのように強くて市場もデカく、よって国際クリケット界でも図抜けた発言力を持つ。そういう「私たちの知らない世界」が見えるのも楽しいところ。いや知ったからどうなるって事もないんだけど。

 なお、その市場のデカさは社会主義から自由主義への移行に伴うインドのクリケット界の市場開拓努力が功を奏した結果。目ざとくチャンスを見つけテレビ局と契約を結びイベントを催して盛り上げたのだ。このあたりは国家の体制とスポーツ・ビジネスの関係が見えて、なかなか楽しかった。似たような問題は中国の卓球でもあるんだろうか。

 また、本好きとしては、インドの出版状況のネタも。

ベストセラー作家アミーシュ・トリパティ「10年くらい前までは、インドの出版業界と言っても『インド』というのは名ばかりだったんです」
「イギリスの出版業界がたまたまインドに拠点を置いている、というのが実情でした」
  ――第11章 国民の知る権利

 このトリパティさんのベストセラーは「ヒンドゥー教のシヴァ神を題材にとった神話サスペンス小説三部作」って、中国の封神演義や吉川英治の三国志みたいなのかな? なんにせよ、インドじゃ娯楽小説の市場が広がりつつあるそうで、ならいずれ「三体」並みの傑作SFも…と期待しつつ、今日はここまで。

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【今日の一曲】

Tu Meri Full Video | BANG BANG! | Hrithik Roshan & Katrina Kaif | Vishal Shekhar | Dance Party Song

 インドで思い浮かぶのは、やっぱり To Me Ri でしょう。火柱がドッカンドカンと燃え上がるなか、ノリのいいリズムと覚えやすいメロディをバックに、イケメンと美女を中心に大人数が、やたらキレのいい、でも微妙にブロードウェイとは違うダンスを踊りまくる、踊るドラッグみたいな動画です。歌はヒンディー語らしく、何言ってんだかサッパリわかんないんだけどw

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2021年2月 8日 (月)

高田博行「ヒトラー演説 熱狂の真実」中公新書

本書は、一方で言語面に、他方で演説の置かれた政治的・歴史的文脈にスポットライトを当てて、ヒトラー演説に迫ろうとするものである。
  ――プロローグ

ヨーゼフ・ゲッベルス「総統はまだ一度も、空爆を受けた都市を訪問していない」
  ――第六章 聴衆を失った演説 1939-45

(マイク&スピーカーやラジオや映画などの)新しいメディアを駆使したヒトラー演説は、政権獲得の一年半後にはすでに、国民に飽きられはじめていたのである。
  ――エピローグ

【どんな本?】

 ヒトラーは演説が上手く、聴衆を巧みに煽り、それがナチスの台頭につながった、と言われる。それは果たして事実なのか。彼の演説には、どの様な特徴があるのか。演説に際し、彼は何をどう工夫したのか。有名なミュンヘンのビアホールでの演説から、敗色濃い末期まで、彼の演説はどう変化したのか。それに対する聴衆の反応は、どう変わっていったのか。

 著者は、四半世紀にわたるヒトラーの演説から558回150万語をデータ化し、それを統計的に分析した。また、弁論術やレトリックからの考察や、発声法とゼスチャーの習得、そしてレコードやスピーカーなどテクノロジーの使い方など、アナログ的な方法論も取り入れている。そういった多方面からの視野により、主に演説に焦点をあてて、ヒトラーのメディア戦略を明らかにする、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2014年6月25日発行。新書版縦一段組み本文約256頁に加え、あとがき3頁。9ポイント42字×17行×256頁=約182,784字、400字詰め原稿用紙で約457枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章は比較的にこなれている。内容もわかりやすい。本書を読みこなすには、幾つか前提知識が要る。演説当時の社会情勢や弁論術の基本などだ。幸い、これらの基礎知識は、必要になった所でちゃんと説明があるため、素人でも充分についていける。というか、私は本書で弁論術の基本がわかった、というか、わかったつもりになった。

【構成は?】

 話は時系列順で進む。各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。また、各賞の頭に1頁で章の概要をまとめてあるので、読み飛ばすか否かは章の頭の1頁で判断できる。

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  • プロローグ
  • 序章 遅れた国家統一
  • 第一章 ビアホールに響く演説 1919-24
  • 1 見出された弁舌の才
  • 2 「指導者」としいての語り
  • 3 「一揆」の清算演説
  • 第二章 待機する演説 1925-28
  • 1 禁止された演説
  • 2 演説の理論
  • 3 演説文の「完成」
  • 第三章 集票する演説 1928-32
  • 1 拡声される声
  • 2 空を飛ぶヒトラー
  • 第四章 国民を管理する演説 1928-32
  • 1 ラジオと銀幕に乗る演説
  • 2 総統演説の舞台
  • 第五章 外交する演説 1935-39
  • 1 領土拡大の演説
  • 2 戦時体制に備える演説
  • 第六章 聴衆を失った演説 1939-45
  • 1 同意されない演説
  • 2 機能停止した演説
  • エピローグ
  • あとがき/文献一覧/ヒトラー演説のドイツ語原文

【感想は?】

 舞台役者ヒトラーの栄光と挫折。

 なにせヒトラーの演説に賭ける情熱はすさまじい。まあ演説というよりプロパガンダ、もっと平たく言えば宣伝なんだけど。例えば政権奪取に挑んだ1932年の選挙だ。

ヒトラーは(1932年)7月15日から30日まで、三回目となる飛行機遊説で53か所を回り、200回近くの演説をこなした。
  ――第三章 集票する演説 1928-32

 スターを目指すロック・バンドでも、当時のヒトラーほど激しいライブ・ツアーをくぐり抜けるバンドは、まずいないだろう。確かビーチボーイズが「年300回のライブをこなした」と威張ってたが、たった2週間で200回となると、密度は桁違いだ。

 しかも、単純に同じことを繰り返してるんじゃない。かなりアドリブを利かしてる。

ヒトラーは、きちんとした読み上げ演説原稿を用意することはなかった。その代わりに、演説で扱うテーマについて、扱う順にキーワードもしくはキーセンテンスを書き留めたメモを作成した。
  ――第一章 ビアホールに響く演説 1919-24

 予め決めているのは、大雑把な話の流れと、盛り上げるポイントとなるキーワードだけ。後はその場の雰囲気を読みながら、アドリブで細かい所を詰めてったのだ。相当に頭の回転が速くないとできない芸当だ。

 逆に聴衆がいないスタジオじゃ意気が上がらなかったようで、1933年の最初のラジオ演説は「原稿を読み上げただけ」で、以降はライブの中継や収録を流すようになる。スタジオ盤はショボいけどライブは抜群って、ブレイク前の REO Speed Wagon かい。いやマジ Golden Country とか、スタジオ盤(→Youtube)はイマイチだけどライブ(→Youtube)は盛り上がるのよ。

 すまん、話がヨレた。こういった彼の芸当を、本書は様々な角度から分析していく。その一つは、今世紀ならではの手法、つまりコンピュータを使い単語の出現頻度を調べるのである。

筆者は、(略)ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計558回の演説文を機械可読化して、総語数約150万語のデータを作成した。
  ――第二章 待機する演説 1925-28

 これで何がわかるか、というと、例えば…

ヒトラーはナチ運動期には「ひと」(man)、「あなた、君」(du, dir, dich)、「われわれ」(wir, uns)を特徴的に多く使用したこと、それに代わってナチ政権期にヒトラーは私(ich, mir, mich)を特徴的に多く使用したことがわかる。
  ――第五章 外交する演説 1935-39

 これから支持者を得てのし上がる時期には、「俺たち仲間だよな」と訴える「あなた」や「われわれ」が多い。対して政権を取ってからは、自分の指導力を示すために「私」が多くなる。

 また政権を取った1933年以降では名詞的文体が増えるのも特徴。これは動詞が名詞になった語を使う文で、「『作る』の代わりに『作成を行う』」とかの、書き言葉っぽい言い方だ。この効果は「荘厳な印象を与える」、要はそれまでの馬鹿っぽい言い方から頭よさげな言い方に変えたんですね。親しみやすさから威厳を持つ感じにした、みたいな。

 と、こういう、立場が変わったら話し方も変わったとか、言われてみりゃ当たり前だが、そこを数字で裏を取るのが学問なんだろう。

 もちろん、著者は統計的な手法だけでなく、内容や話の流れなどに踏み込んだ分析もしている。例えば初期の演説の特徴として…

ヒトラーは失望感の強い帰還兵たちに、誰が敵であるのかをうまく印象づけたのである。
  ――第一章 ビアホールに響く演説 1919-24

 なんて指摘もしてる。こういう手法は、ドナルド・トランプが巧みに使ってたし、日本でも差別主義者がよく使う。

 本書は論の組み立て方も見ていて、例えば「先取り方」だ。これは予想される異論を演説に取込み、それに反論する手口だ。そうすると、話の中身が論理的だと感じる。うん、今度やってみよう。やはりアレな人がよく使うのが対比法。「ガイジンはココがダメだけど日本人はココがいい」とかね。二つを比べ、コントラストを高める手口で、差別主義者はコレを効果的に使う。

 加えて声の使い方も本書は分析してる。先に挙げたように、政権を取る前のヒトラーは熱心にライブをこなした。これは喉に大きな負担がかかる。そこでヒトラーはオペラ歌手デヴリエントの指導を仰ぐ。これは秘密裏に行われ、表ざたになったのは1975年ってのも驚きだが、指導の内容も興味深い。

 喉に負担をかけない発声法はもちろん、声の高さも「出だしはできるだけ低い声で、そうすりゃクライマックスの高い声が際立つ」とか「感情を動かす語にはふさわしい響きを」など、声の使い方も教えている。また、身振りについても「目線は身内がいる前列じゃなく聴衆がいる後列に」や「姿勢はまっすぐ」など、演技の本を持ち出して指導してたり。つくづく「役者やのう」と感心してしまう。

 これらを当時の動画や録音で検証する第四章も、本書のクライマックスのひとつ。

 とまれ。実績はなくて当たり前で、国民を巧いことノせればよかった政権奪取前はともかく、実績が問われる政権奪取後となると…

公共の場で演説を行うことが少なくなっていったことで、ヒトラーと国民とのつながりが減り、溝が広がっていった。大きな演説は、1940年には9回、41年には7回、42年には5回しかなくなった。
  ――第六章 聴衆を失った演説 1939-45

 と、次第に国民の前に姿を現さなくなっていく。特に敗色濃い44年~45年になると壊滅で、まるきし「問題が起きると姿を消す」と言われた某首相だね。

 あくまでヒトラーの演説に焦点を絞った本書だが、同時にあらゆる政治家の演出の手口や、日頃の会話で使われるレトリックも学べるお得な本でもある。もっとも、レトリックについてはサワリだけで、詳しくは修辞学を学んでねって姿勢だが、そこは巻末の文献一覧が参考になる。焦点を絞ったからこそ、具体的な例が多くてイメージが伝わりやすく、素人にもとっつきやすい初心者に親切な本だ。

【我が闘争】

 「第二章 待機する演説 1925-28」では、「我が闘争」の引用を中心として、ヒトラーの宣伝戦略を語っている。これが一世紀前とは思えないほど生々しく、現代の日本でも選挙や政治宣伝では全く同じ手口が使われているので、ここに紹介する。

 まずは宣伝の基本、「誰を対象とするか」。

理念は「大衆の力なくして」実現することはできないと考え、大衆の支持を獲得する手段としてプロパガンダ活動を最重要視する。プロパガンダは「永久に大衆に対してのみ向けられるべき」であって、インテリはその対象とならない。
  ――第二章 待機する演説 1925-28

 賢い人は相手にするな、無学な者だけを対象としろ、というわけ。ドナルド・トランプがモロにこの戦略で大旋風を巻き起こしたんだよなあ。

「その作用は常に感情のほうに向けられるべきで、いわゆる分別に向けられることは大いに制限しておかねばならない。(略)その知的水準は、プロパガンダが向かう対象とする人々のなかでも最も頭の悪い者の知的水準に合わせるべきである」

 論理はどうでもいい、感情を動かせ、と。これまたドナルド・トランプの戦略そのもの。

「人を味方につけるには、書かれたことばよりも語られたことばのほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」

 たいていの人は文章を読むより、話を聞くほうを好むし、影響も聞いた時のほうが大きい、と。先の「論理より感情」の理屈で考えれば、確かに音声のほうが感情を動かしやすいし。音声に映像が加われば、更に影響力は増すんだろうなあ。かつてインターネットは文章だけだったけど、最近は音声や動画が増えてきたんで、更に感情の力が増してるはず。

「本能的な嫌悪、感情な憎悪、先入観にとらわれた拒絶という障壁を克服することは、学術的な意見の誤りを正すことよりも1000倍も困難である」

 差別や因習が、なかなか消えないのも、理屈じゃなくて感情に根ざしてるから、と考えると、スンナリ納得できちゃうのが怖い。

「朝、そしてまた日中には、人間の意志力は自分と異なった意思と見解を強制しようとする試みに対しこの上ないエネルギーで抵抗するように見える。他方、晩には、人間の意志力はより強い意志に支配されやすくなるのである」

 人間ってのは、朝や昼間より、夜のほうが流されやすく盛り上がりやすい。ブラック企業やカルトの合宿研修は、こういう人間の性質を利用してるんだろう。

生活上の重要問題を国民に忘れさせる目的で、政権が意義深く見えるような国家的行事を作り上げて、新聞で大々的に扱わせる。すると、「一か月前には全く誰も聞いたこともなかったような名前」が「何もないところから魔法のように作り出され」、知れ渡り、大衆はそれに大きな希望を寄せるようになるのである。

 「サッカーと独裁者」にもあった。アレな国じゃ、ヤバめで重要な法案は、スポーツ・イベントの開催中に通しちゃうとか。国民がサッカーに熱中し、政治から目を離したスキに、既成事実を作ってしまうのだ。それを考えると、東京オリンピックって…

 地元ドイツじゃ禁書扱いだったりとヤバい本の代表みたいな「我が闘争」だけど、実は民衆をナメきった自分の手口を赤裸々にぶっちゃけてもいて、ちょっとした大衆扇動の教科書というかペテン師の手口紹介というか。いやもちろん、思想的にヤバい部分もあるんだけど。

 当時のドイツじゃ爆発的に売れたけど、果たして買った人のうち何割がちゃんと読んだんだろうか。ちゃんと読んでいたら、「俺たちを馬鹿扱いしやがって」と怒ったり、演説も「どんなペテンの手を使うんだろう」と冷めた姿勢で聞いたはず。ホント、世のベストセラーも、そのうちどれだけがちゃんと読まれていることやら。

 ってな愚痴は置いといて。いずれにせよ、政治の話をする際は、演出や群集心理や感情操作の知識も必要だよね、と思うわけです、はい。

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2021年1月 3日 (日)

ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター「反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」NTT出版 栗原百代訳

本書では、カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革しえなかったと主張する。(略)
妨害すべき「単一文化」や「単一システム」なんてものは存在しない。
  ――序章

カウンターカルチャーの思想は多くの点でフロイトの心理学理論から直接導かれている。
  ――第2章 フロイト、カリフォルニアへ行く

最も信頼のおける研究は、売上げは広告についていかない、むしろ逆に広告が売上げについていくことを示している。
  ――第7章 地位の追求からクールの探求へ

貧困と画一化のどちらかを減らすことを選ぶかといわれたら、たいていの人は貧困を減らすほうを選ぶ
  ――第8章 コカ・コーラ化

二つのシンプルな質問がある。
その一、「自分の個性はほかの人たちの仕事をふやしているか?」
その二、「全員がそんなふうに振る舞ったらどうなるか?」
  ――第8章 コカ・コーラ化

過去20年間に増大した外国貿易のほぼすべては、貿易の激化より多様化に伴うものだった。
  ――第8章 コカ・コーラ化

外国を旅する人たちの主な動機は、表のシミュラークルから裏の現実に侵入することだ。
  ――第9章 ありがとう、インド

【どんな本?】

 1960年代、ヒッピーたちは体制への反逆を訴えて暴れまわった。彼らのコミューンは大半が潰れたが、反逆の思想は21世紀の現代にも生き残り、スローフードやヒップホップとして受け継がれている。

 そしてナイキやSUV,Apple の Macintosh は…って、アレ? 彼らは大量消費社会に反発していたのではないのか? でも、どう考えたってナイキは消費社会そのものじゃないか。なんでナイキなんだ。コンバースにしろよ。

 なぜカウンターカルチャーは世界を変えられなかったのか。何を間違っていたのか。そもそもカウンターカルチャーの源流は何か。そして、これからどうすべきなのか。

 カナダの哲学者二人が、アメリカのカウンターカルチャーの失敗を指摘し、より適切な方向性を指し示す、左派向けの思想書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は THE REBEL SELL : Why The Culture Can't Be Jammed, by Joseph Heath & Andrew Potter, 2006。日本語版は2014年9月26日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約395頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×19行×395頁=約345,230字、400字詰め原稿用紙で約864枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの文字数。

 文章は比較的にこなれているし、内容も特に難しくない。途中でルソーやホップスなど哲学者の名が出てくるが、同時にその思想や主張のあらましを短くまとめているので、知らない人でも大丈夫。それより『アドバスターズ』やアラニス・モリセットなど、アメリカのポップ・カルチャーの固有名詞が辛かった。さすがにカート・コバーンは知ってたけど。

【構成は?】

 単なる野次馬根性で読むのか、真面目な思想書として読むのかで、相応しい読み方は違う。各章は比較的に独立している。と同時に、全般的に前の章を受けて後の章が展開する形にもなっている。野次馬根性で読むなら、美味しそうな所を拾い読みすればいい。だが真面目に思想書として読むなら、素直に頭から読もう。でないと、特に批判する際に、的外れな批判をする羽目になる。

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  • 謝辞
  • 序章 
    反逆者が履くナイキ/「マトリックス」を読み解く/カウンターカルチャーの快楽主義
  • 第1部
  • 第1章 カウンターカルチャーの誕生
    誰がカート・コバーンを殺したのか/反逆思想の系譜/カール・マルクスの診断/ファシズムと大衆社会/ミルグラムの「アイヒマン実験」/「システムからの開放」という目的/「体制」はなぜ崩壊しないのか
  • 第2章 フロイト、カリフォルニアへ行く
    フロイトの登場/イド・自我・超自我/心の「圧力鍋」モデル/現代社会は「抑圧」する/マナーの起源/アメリカはファシズム社会か/「アメリカン・ビューティー」と「カラー・オブ・ハート」/ドラッグによる革命/パーティーのために闘え
  • 第3章 ノーマルであること
    フェミニズムがもたらしたもの/アナーキズムの罠/集団行為問題の解決法/異議申し立てと逸脱の区別/フロイトvsホッブズ/フロイトvsホッブズ(その2)/日常の中の「ルール」/わがパンク体験
  • 第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい
    反消費主義=大衆社会批判?/降伏のパラ度ドックス/消費主義の本質/ボードリヤール「消費社会と神話の構造」/マルクスの恐慌論/ヴェブレンの洞察/消費主義の勝利は消費者のせい/都会の家はなぜ高い/「差異」としての消費/バーバリーがダサくなった理由/ナオミ・クラインのロフト
  • 第5章 極端な反逆
    ユナボマーのメッセージ/反体制暴動は正当化されるか/マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』/精神病と社会/「破壊」のブランド化/オルタナティブはつらいよ/消費社会を活性化するダウンシフト/お金のかかる「シンプルな生活」
  • 第2部
  • 第6章 制服と画一性
    ブランドなしの「スタトレ」/制服は個性の放棄か/制服の機能/「全体的制服」をドレスダウン/軍隊の伊達男/反逆のファッション/イリイチ『脱学校の社会』/学校制服の復活/女子高で現地調査/なぜ消費社会が勝利したか
  • 第7章 地位の追求からクールの探求へ
    「クール」体験/クールとは何か/『ヒップとスクエア』/アメリカの階級制/ブルジョワでボヘミアン/クリエイティブ・クラスの台頭/クールこそ資本主義の活力源/侯国は意外に効果なし?/どうすれば効くのか/ブランドの役割/選好とアイデンティティ/流行の構造/広告競争のなくし方
  • 第8章 コカ・コーラ化
    レヴィトタウン/現代の建売住宅事情/画一化の良し悪し/みんなが好きな物はあまり変わらない/少数者の好みが高くつく理由/「マクドナルド化」批判の落とし穴/グローバル化と多様性/反グローバル化運動の誤謬
  • 第9章 ありがとう、インド
    自己発見としてのエキゾチシズム//エキゾチシズムの系譜/ボランタリー・シンプリシティ/東洋と西洋/香港体験記/カウンターカルチャーは「禅」がお好き/先住民は「自然」か?/「本物らしさ」の追求/胡同を歩く/旅行者の自己満足/ツーリズムと出張/代替医療の歴史/代替医療はなぜ効かない
  • 第10章 宇宙船地球号
    サイクリストの反乱/テクノロジー批判/「スモール・イズ・ビューティフル」/適正技術とは何か/サイバースペースの自由/スローフード運動/ディープエコロジー/環境問題の正しい解決法
  • 結論
    ファシズムのトラウマ/反逆商売/多元的な価値の問題/市場による解決と問題点/反グローバル運動の陥没 ナオミ・クラインを批判する/そして何が必要なのか
  • 後記
    倫理的消費について/簡単な「解決策」などない/左派は文化的政治をやめよ/カウンターカルチャーの重罪/資本主義の評価/僕らはマイクロソフトの回し者?
  • 原注/訳者あとがき/読者のための読書案内/索引

【感想は?】

 団塊ジュニア世代の左派による、団塊世代左派の批判。

 団塊世代の左派と一言で言っても、中はいろいろだ。例えば60年代の人権運動だと、穏健派のキング牧師 vs 過激派のマルコムXがわかりやすい。本書はキング牧師の肩を持ち、マルコムXを批判している。

 もちろん、団塊世代の左派は今だって生き延びているし、世代を超えて受け継がれている思想もある。その一つが、ルソー的な「高貴な野蛮人」(→Wikipedia)の幻想だ。彼らは大量生産による消費社会を嫌い、有機農法やスローフードを持ち上げる。だが、それがもたらすものは…

カウンターカルチャーの反逆は、(略)進歩的な政治や経済への影響などいっさいもたらさず、もっと公正な社会を建設するという喫緊の課題を損なう、芝居がかった意思表示に過ぎない。
  ――第3章 ノーマルであること

 うーん。これを書いてて気が付いたんだが、マルコムXと有機農法はだいぶ違うような気がする。が、著者のなかでは同じくくりになっている。共通するのは、ソレが「クール」な点だ。ある種の人にとって、そういうのがカッコいいのだ。

 なぜカッコいいのか。それは、他の人より一歩先んじているからだ。これには困った点がある。みんなが同じことをやったら、ソレはダサくなってしまう。人込みで同じ柄のシャツを着た人とすれ違うと、なんか気まずいよね。そんなワケで、クールへの道は険しく果てしない。常に人の一歩先を行かなきゃいけないんだから。

たいていの人間は周囲になじむためのものより大勢のなかで目立つためのものに大金を費やす。
  ――第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい

 シャツぐらいならともかく、自動車や家にまで、この行動原理はまかり通っている。これに対し、著者はやたら手厳しい。

クールがカウンターカルチャーの中核をなす地位制度を築き上げていることは、社会全体に高校生のロジックがまかり通っていることの表れにほかならない。
  ――第7章 地位の追求からクールの探求へ

 最近の日本語には「高校生のロジック」よりもっと便利な言葉がある。厨二病だ。ああ、胸が痛い。こんな風に、みもふたもない実情バラシが本書のアチコチにある。例えば男の服装については…

50年代の男性の服装は味気なく、画一的だった。しかし主な理由は、男性が多くの服を持たなかったことだ。
  ――第6章 制服と画一性

 なぜアンダーシャツが必要なのか。シャツを直接着たら、シャツが汗で汚れてしまう。アンダーシャツに汗を吸わせれば、シャツが汚れないから、洗濯しないで済む。昔の映画で男優が着替えないのは、そういう事だ。「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーンは次々と華やかな衣装を披露するが、ジョージ・ペパードは着たきりで押し通す。それは当時の風俗を反映し…ってのは無理があるなw だって、あの映画の主題はオードリーを魅力的に見せることだし。

 そして何より、カウンターカルチャーの困った点は、体制の破壊を目論むことだ。彼らは「体制」や「ルール」を敵視し、慈愛や思いやりによるやすらかな社会を求める。が、そんなのは夢だ。往々にしてルールは、それに従う者すべてに利益をもたらす。

これら(行列に割り込まないなど)のルールで大切なポイントは、ルールが設ける制約から誰もが利益を得ているということだ。
  ――第3章 ノーマルであること

 行列の割り込みぐらいで済めばいいが、無政府状態はもっと怖い。あなた、ソマリア南部やシリア北部に行きたいですか? とはいえ、内戦前のシリアも理想郷じゃなかった。北朝鮮も秩序だっちゃいるが、住みやすくはないだろう。問題はルールや体制がある事じゃない。それが適切じゃないことだ。

左派批評家が資本主義の重大な欠陥としていることのほとんどは、実際には市場の失敗の問題であって、市場がしかるべく機能していた場合の結果ではない。
  ――結論

 そんなワケで、闇雲に反逆するんじゃなく、今のルールの欠陥をキッチリ調べ、真面目に政治運動をして、法や制度を変えるよう議会に促そうよ、と著者は主張する。

個人のライフスタイルの選択は大切だ。だが誰が国を支配するのかというような伝統的な政治問題のほうが、もっとずっと大切なのだ。
  ――後記

 言いたいことはわかるし、正論でもあると思う。何より、アチコチに胸をえぐられるような指摘があって、これが実に効いている。

 とまれ、難しいかな、とも思う。だって政治や経済に口出ししようとしたら、真面目にオベンキョしなきゃいけない。それよか有機農法の野菜を買う方が楽だし。確かに思考停止だけど、「何かをしている」って満足感は得られる。イチイチ調べるのって、面倒くさいよね。

 著者が指摘するカウンターカルチャーの問題点は、カウンターカルチャーが人々の道徳性に頼っている点だ。みんなが譲り合い分け合えば、パラダイスになる。そんな発想で、制度を変えるのではなく、人々の考え方を変えようとした。これ、今思えば、一種の宗教だよなあ。

 そういう点では、著者も同じ過ちを犯している。つまり、カウンターカルチャーがラブ&ピースに頼ったように、著者も人々の勉強熱心に頼っている。「左派は有機野菜を買ってお手軽に満足するんじゃなく、真面目に政治や制度や経済を学べ」と言ってるんだから。そういうのは賢い人に任せて、後をついていく方が楽なんだよね。でもって、自分で考え出すと、人それぞれで解が違っちゃうんで、一つの政治運動としてはまとまりにくい。

 とかの文句はあるにせよ、エスニック趣味批判など私自身の好みにケチつけられてムカついたんだろ、と言われたら、確かにそれもある。他にも、フロイトの思想的な影響や、広告と売り上げの関係など、興味深い指摘も多い。広告に税金をかけろとか、面白い提言もしている。きっとマスコミがこぞって反対するだろうけど。迷惑メールをなくす方法は…これもキチンと考えると、プロバイダのビジネスモデルを理解する必要があるんで、やっぱりおベンキョしなきゃいけないんだよなあ。

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