カテゴリー「書評:フィクション」の154件の記事

2019年6月19日 (水)

高木彬光「成吉思汗の秘密」ハルキ文庫

「…源義経は、衣川で殺されたのではなくて、そこから逃げ出して、蒙古へ渡り、成吉思汗になったという伝説があるじゃありませんか」
  ――p19

「…この説は、徳川時代から始まって、今日までほぼ四回くり返されている」
  ――p200

【どんな本?】

 神津恭介、東大医学部法医学教室助教授、40歳目前ながら独身。その鋭利な頭脳で推理機械の異名を持つ。時は1957年。急性盲腸炎で入院し、暇を持て余す神津に、探偵作家である友人の松下研三が、暇つぶしのネタを持ち込んできた。源義経が大陸に渡り成吉思汗になったという伝説がある。この真偽を追及してはどうか、と。

 数々の難事件を解決してきた神津といえど、さすがに八百年前の事件を追うのは難しい。幸いにして手足となって動く松下研三に加え、歴史学者・井村梅吉の助手であり資料収集で頼れる大麻鎮子の助力を得て、病室にいながらも神津の頭脳は回転をあげはじめ…

 昭和のベストセラー作家・高木彬光が、ジョセフィン・テイの「時の娘」に着想を得て、「源義経=成吉思汗説」に挑む、傑作娯楽小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 解説によると、初出は1958年5月~9月の雑誌「宝石」。1958年10月に光文社から単行本を刊行。以後、何回か文庫が刊行されている。今は光文社文庫版が手に入れやすいと思う。私が読んだのは角川春樹事務所のハルキ文庫。文庫本で縦一段組み本文約319頁に加え、笹川吉晴の解説9頁。9ポイント40字×18行×319頁=約229,680字、400字詰め原稿用紙で約575枚。文庫本としては普通の厚さ。

 文体は、まあ昭和中期の娯楽小説の文体ですね。なんたってベストセラー作家だし。私はとても読みやすかったが、若い人はややイナタく感じるかも。

【感想は?】

 さすがに今となっては、ミステリというより伝奇小説に近いかな。

 お話の枠組みとしては、推理機械の神津恭介が「源義経=成吉思汗」説を支持し、歴史学者の井村梅吉がそれに反論する形だ。神津恭介は著者のお気に入りの探偵役な事でもわかるように、作品全体を通して「源義経=成吉思汗」説を裏付けようとしている。

 判官びいきなんて言葉もあるように、日本人は源義経が大好きだ。苦渋に満ちた幼少期、青年期での鮮烈なデビュー、寡兵で大軍を破る天才的な騎兵戦術、そして骨肉を分けた兄弟の争いの果ての悲劇的な結末。そんな義経が実は大陸に渡り、ユーラシアを席巻する成吉思汗になっていた。思わず信じてしまいたくなる魅力的な伝説だろう。

 とまれ、色々と障害は多い。まずは義経が妻子とともに自害して果てたといわれる衣川の戦いを、どうやって切り抜けたのかから始まり、なぜ・いかにして大陸へ渡り、異民族たちを従えて大軍団へと育て上げたのか。

 とはいえ、付け入るスキは多い。義経と成吉思汗の生年が近いことや、旗揚げするまでの成吉思汗の生い立ちが謎に包まれていること。21世紀の今でさえ、成吉思汗の墓が学術的には同定されていないのも、妄想マシーンの燃料になっている。

 この伝説に裏付けを与えていく過程が、この小説の最も面白い所だろう。

 なにより、出だしが巧い。神津恭介が最初に挑むのが、衣川脱出の謎だ。ここでは手慣れた推理小説の手法に沿って、比較的に飛躍の少ない形で義経一行を危機から救う。なにせ八百年前の話なので、遺留品があるわけじゃなし、攻守ともに決定打には欠ける中、ミステリというには少々荒っぽくはあるが、一応の筋道をつけてみせる。

 序盤で地に足の着いた推理を見せ、読者に「あれ、けっこうマトモじゃん」と思わせてしまえばシメたもの。その上で、話は地理的にも時間的にも、そして視点においても想定外の方向にポンポンと飛び、読者の鼻面を右に左に引きずり回す。当時の国内情勢や人間関係だけならともかく、まさか20世紀の話まで飛び出すとは思わなかったなあ。

 こういう「予想外の方面からの攻撃」を受けるのが、この手の作品の楽しいところ。まあ小説ファンって人種も、騙されて喜んでるんだから業が深いというかなんというかw でも気持ちがいいんだからしょうがないw

 とかの自由奔放な神津らの仮説に対し、正統的な歴史学者として正面から反論してくるのが、歴史学者の井村梅吉。ちゃんとこういう人物を登場させて、正論を述べさせるあたりは、さすがに「五回目のブーム」を仕掛けようとする著者の意気込みを感じさせる。こうやって「単なる蒸し返しじゃないぞ」と宣言しているわけ。

 ちなみにこの作品だけで判断すると、実は井村梅吉の「陰謀」が功を奏し神津に一矢報いているような気がするんだが、まあそれはいいかw

 さすがに昭和の作品だけに、風俗も当時のもので、例えば緊急の連絡もメールじゃなくて電報だったりする。私のようなオッサンには、こういう強烈な昭和臭も魅力なのだ。また野村胡堂や黒岩涙香なんて名前も出てきて、ちょっとニヤリとしたり。

 加えて、ヒロインの大麻鎮子さんがいいのだ。なんたって豊かな知識を持つ眼鏡っ娘だし。彼女と神津の関係や、それぞれの台詞を地の文で補強する文章作法は、当時の娯楽小説の定石なんだろうけど、今のライトノベルにも受け継がれてる…のかな?

 推理小説のような書き出しで読者のガードを緩め、斜め上からの奇襲で混乱させたところにパンチを叩きこむあたりは、伝奇小説のお手本通り。だが、この作品はそれだけじゃ終わらない。発表後に追加した最終章で、物語はガラリと様相を変え、激しく攻撃的ながらも低音部では哀愁を帯びた旋律を奏で始める。ベストセラーにしてロングセラーとなるに相応しい、娯楽ロマン作品だ。

 とか書きつつ、こんなモンを見ると全てがブチ壊しになるので、決してクリックしないように(→Youtube)。いや私は好きなんだけどね、こういうノリw

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2019年5月15日 (水)

ロバート・R・マキャモン「魔女は夜ささやく 上・下」文藝春秋 二宮馨訳

「あの女は縛り首にでもなんでもすりゃあいいが、もう悪魔はファウント・ロイヤルにしっかり居座ってるんだ、救いようはない」
  ――上巻p24

「わたしと書記がここへやってきたのは真実を見つけだすためであって、法という特権を破城槌のように振りまわしに来たのではない」
  ――上巻p137

人は欲するものを捕えて征服できないとなると、それを滅ぼすことにおなじような情熱をそそぐものらしい。
  ――上巻p346

「…姉の最大の罪はなんだったのか、おわかりですね?」(略)
「姉は毛色が変わっていたんです、おわかりでしょ?」
  ――上巻p389

「…いま町に必要なのはほんものの指導者です、威張り屋や泣き虫はいらないんです!」
  ――下巻p209

【どんな本?】

 「スワン・ソング」や「少年時代」などのホラーで人気が高いロバート・R・マキャモンによる、開拓期のアメリカを舞台としたサスペンス小説。

 1699年、新大陸植民地のカロライナ。判事のアイザック・ウッドワードは、開拓中の町ファウント・ロイヤルに呼ばれた。魔女をつかまえた、法に基づいて判決を下して欲しい、と。ウッドワードは書記のマシュー・コーベットを伴い、ファウント・ロイヤルに向かう。

 ファンウント・ロイヤルは、ロバート・ビドウェルが創った。ここを発展させ港町に育て上げようと考えている。しかし町では殺人が相次ぎ、綿もタバコも根付かず、果樹も寄生虫にやられた。天候も不順だ。何かに祟られていると考え、町から逃げ出す者も後を絶たない。このままではファウント・ロイヤルは荒野に戻ってしまう。

 容疑者のレイチェル・ハワースは、意外なことに若い未亡人だった。容疑は夫のダニエルと司祭のダニエル・ハワースの殺害。いずれも無残な形で殺されている。悪魔の儀式を行うレイチェルを見た、と主張する者も一人ではない。

 誰もがレイチェルの処刑を望む中、書記のマシューは幾つかの腑に落ちない事柄に気づく。何か邪悪な意思が働いているのではないか、と疑うウッドワードとマシューは、慎重に調べを進めようとする。しかし、頭に血が上った町の者たちは、早く判決を出せと迫る。

 セイラムの魔女裁判(→Wikipedia)の記憶も新しい新大陸の植民地を背景に、荒っぽく緊迫した空気の中で展開する、長編ミステリ巨編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Speaks The Nightbird, by Robert R. McCammon, 2002。日本語版は2003年8月30日第一刷。単行本ハードカバー縦二段組みで上下巻、本文約418頁+369頁=約787頁に加え、訳者あとがき4頁+編集部によるロバート・R・マキャモン作品案内14頁。8.5ポイント25字×20行×2段×(418頁+369頁)=約787,000字、400字詰め原稿用紙で約1,968枚。文庫本なら四分冊でもおかしくない巨編。

 文章はこなれていいて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、歴史を少し知っていた方がいいかも。当時の北アメリカは植民地で、独立国じゃなかった。植民にはイギリスが熱心だったけど、他の国も隙あらばと狙っていたってことぐらい。

【感想は?】

 ジャンルとしては、ミステリになるだろう。

 殺人事件が起き、濃い疑いをかけられた者、レイチェル・ハワースが捕まる。証拠も幾つかある。だが、理屈に合わない点もある。果たして彼女は真犯人なのか否か。そこに名探偵の登場だ。

 探偵物の定型に沿ってか、探偵側の人物は二人だ。例えばホームズ物なら探偵ホームズと記録係のワトソンのように。この作品では、ベテラン判事のウッドワードと若い書記のマシューが真相究明にあたる。ただし、名探偵役を務めるのは書記のマシューなのが、捻っているところ。

 たいていの名探偵は自信に溢れている、どころか己の賢さを過信し、他の者を少し見下しているかのような印象すらある。ところがマシューは違う。20歳という若さもあるが、それ以上にウッドワードを心から敬っている。加えて過去のいきさつもあり、ウッドワードに親しみは持ちつつも、彼との距離感には微妙に屈折した思いを抱いている。

 鋭い頭脳と、疑問を嗅ぎつけたら徹底的に追う執念は持っているが、ウッドワードに異を唱えるには強い抵抗を感じる、そういう生真面目で謙虚な人物だ。このウッドワードとマシューの関係が、この作品の読みどころの一つ。腐った人には別の意味で美味しいかも。

 などの人間関係は、中盤以降に見えてきて、これが終盤になると本を閉じるのに苦労するほど強烈な引力を持つんだが、それは置いて。

 序盤で私を惹きつけたのは、荒々しい開拓地の暮らしだ。物語はファウント・ロイヤルに向かうウッドワードとマシューが、途中で旅籠に泊まる場面で始まる。ここの主人ウィル・ショーカムもなかなかに強烈な人物ではあるが、マシューが備品の不備を嘆く所もいい。ったって、もちろんミニバーやドライヤーじゃない。室内用便器、つまり「おまる」がない、と文句を言っている。

 ここで私は一気に17世紀末の世界、それも開拓地に突き落とされた。冷暖房はもちろん、電話も自動車も水道もない。コンビニなんてとんでもない。たいていの事は「今、そこにあるもの」でやりくりしなくちゃいけない、そんな世界だ。だから、鍛冶屋や医者は重宝される。そういう背景事情が、「おまる」一つで肌に伝わってくるのである。なんたって、誰でも出すモンは出さなきゃならないんだし。

 そんなんだから、町の行く末は重大事だ。人が増えれば便利な店も増える。またクマやインディアンの襲撃もあり、そのための防衛も必要だ。だから民兵がいて、自分たちで町を守っている。政府は遠い大西洋の彼方だから、いちいち手を借りちゃいられない。大抵の事は自分たちでカタをつける、町にはそういう気風が溢れている。

 それだけに、そこに住む者も強烈な人物が多い。町の設立者にして支配者のロバート・ビドウェルもそうで、現代なら強引な経営をするワンマン社長といったところ。ファウント・ロイヤルに君臨し、不作に苦しんじゃいるが踏ん張る意思は強い。決断は早く自分の意見に強くこだわる。

 この物語でマシューらが突き当たる大きな障壁が、このロバートだ。次々と町に襲い掛かる凶事の根源は魔女レイチェルだと思い込み、出来る限り早く始末したいと思っている。ただし、町の歴史に傷を残さぬよう、あくまでも合法的な形で。「俺が大将」な意地っ張りのゴリ押しを、いかにマシューがかわすか。これは全編を通じた読みどころ。

 ホラー作家としてのマキャモンの腕が冴えるのが、このピドウェルに代表される町の者たちの「思い込み」と「気の逸り」を描くところ。ロバートは町の維持のためだが、ヴォーン夫人ことルクリーシャ・ヴォーンの動機は一味違う。菓子屋を営み掃除も料理も腕は一流で商売も巧みなんだが、なかなか強烈なご婦人だ。彼女も現代なら相当に稼ぐだろうなあ、炎上覚悟の特攻商法でw

 そんな連中の集団ヒステリーじみた場面の怖さは、手練れのホラー作家ならでは。しかも、ただえさえカッカしやすい連中が集まってるのに、更にガソリンをブチまける奴が出てくるから意地が悪い。

 それは流れの説教師エクソダス・エルサレム。もう名前からして、これ以上ないってぐらいに胡散臭いんだが、人を扇動するのだけはやたらと巧いんだから困る。

 これもマキャモンの特徴で、「スワン・ソング」や「少年時代」にも色濃く出てた重要なテーマの一つ、宗教との関わり方だ。この作品でも説教師に悪役を割り振っているし、魔女裁判のお話だから、マキャモンは宗教に否定的だと思うかもしれない。でも、実際はそれほど単純じゃないのだ。

 「スワン・ソング」も「少年時代」も、教会は希望や救いの灯でもあった。危機に際し、人々を集め話し合い結びつける舞台として、教会が役割を果たした。この作品じゃ教会はあまり大きな役割を果たさない。むしろ重要なのは各員の心の中の信仰で、「主の祈り」が重い意味を持つ。例えば、魔女の証拠の一つは、レイチェルが頑として主の祈りを唱えない点だし。

 ミステリとしては綺麗にまとまっている。が、それ以上に、開拓地の荒々しい暮らしと、そこで一旗揚げようと踏ん張る人々の姿が、私には楽しかった。登場人物には強烈なエゴを持つ人が多いが、そうでもないと開拓地じゃやっていけないんだろう、というもの伝わってくる。謎解きより、活力に満ちた人々の生き方や、その中で成長してゆくマシューと、それを見守るウッドワードの眼差しが面白い群像劇だ。

 はいいが、これ以降マキャモンの作品が日本で出ないのは何故だ? マシュー・コーベットのシリーズも既に7部まで出てるのに。あ、ちなみに、この作品「魔女は夜ささやく」だけでも、完結した物語として楽しめます、はい。

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2019年1月27日 (日)

浅田次郎「壬生義士伝 上・下」文春文庫

なしてわしは、こんたなところに来てしまったんだべかな。
  ――上巻p22

それが、武士ってやつさ。本音と建前がいつもちがう、侍って化物だよ。俺たちはみんな、武士道にたたられていたんだ。
  ――上巻p84

偉えひとたぢがみな、足軽に死ね死ねとせっつぐのは、おのれが死にたぐねがらではなのすか。
  ――上巻p226

「お突きは死太刀ですからね」
  ――上巻p306

「生来が鬼の心を持つ人間よりも、いざとなって心を鬼にできる人間のほうがよほど恐ろしい」
  ――上巻p434

軍隊じゃあたしかに、死に方は教えてくれるがね。生き方ってのを教えちゃくれません、
  ――下巻p236

「腹など切るな。拙者とともに死ね」
  ――下巻p334

【どんな本?】

 直木賞も受賞した人気作家・浅田次郎による時代小説。

 慶応四年旧暦一月七日、鳥羽伏見の戦いの直後。大阪の盛岡南部藩の蔵屋敷に、一人の新選組隊士が傷だらけで飛び込んできた。吉村貫一郎、二駄二人扶持の足軽ながら、妻子をおいて南部藩を脱藩した男。

 故郷では文武ともに秀で、周りの者からも慕われる心根の穏やかな男だった。その吉村は、なぜ禁を犯して藩を抜け、壬生狼と恐れられる新選組に身を投じたのか。人斬りに奔走する日々を、どのように送ったのか。

 武士の世が終わりを告げる幕末を舞台に、異色の新選組隊士に焦点を当て、吉村を取り巻く者の証言で乱世を生きた男の生涯を綴る時代小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 初出は週刊文春1998年9月3日号~2000年3月30日号。2000年4月に文藝春秋から単行本を刊行。私が読んだのは2002年9月10日発行の文春文庫版。上下巻で本文約459頁+441頁=900頁に加え、久世光彦の解説「そして、入相の鐘は鳴る」9頁。9.5ポイント37字×17行×(459頁+441頁)=約566,100字、400字詰め原稿用紙で約1,416枚。上中下の三巻でもいい大長編。

 実は少し読みにくい所がある。というのも、主人公である吉村寛一郎の独白の所だ。思いっきりキツい南部訛りで、最初はちと戸惑う。

 ここ、思い切って声に出して読むか、またはお気に入りの役者に脳内で読んでもらおう。声(というより抑揚)がつくと、なんとなく意味が掴めるようになる。おまけに読み進めていくと、南部訛りだからこその味が出てきます。

 幕末が舞台の作品なので、中学で学んだ程度の歴史の知識はあった方がいい。が、重要な事柄は作品中で説明があるので、知らなくても作品を楽しむには問題ない。敢えて言えば近藤勇と土方歳三の名を知っているぐらいで大丈夫。

【感想は?】

 私の脳内で理性と感情が大げんかしている。

 感情は叫ぶ。「泣け、男たちの生きざまに泣け」。理性は告げる。「ヤバいぞ、この本はヤバい。放り出せ、せめて距離を置け」。

 それでも上巻は、また理性が優勢だった。何より語り手は戦友でもある新選組の生き残りが多い。最も苦しい時期を共に過ごした仲とはいえ、吉村の生い立ちは知らない。だからか、剣の使い手としての話が多く、心情に寄り添ってはいない。

 とまれ、上巻の終盤で斎藤一が出てくるあたりは、語り手である斎藤の人物像が実に楽しい。いやどう見てもヒネクレ切った殺人鬼なんだけど、それだけにマッドな理屈がポンポン出てきて、なんか筋が通ってるような気がしてくるのが怖いやら愉快やら。

 悪役としては最高のキャストだよなあ。それも部下を使う幹部じゃなくて、自らが前線に出て戦う戦士。邪魔する奴は味方でも容赦なく踏みつぶし、ひたすら戦いと殺戮を楽しむ、そんなタイプ。

 上巻では他でも新選組の語り手が多いだけあって、他の隊士の人物像も新選組のファンには気になる所だろう。近藤勇と土方歳三は、まあ無難な所。問題は非業の天才剣士と言われる沖田総司。映画やドラマじゃ清潔感の漂う二枚目俳優の役どころで、私は草刈正雄の印象が強いんだが、こうきたかw

 かの龍馬暗殺も独特の説を唱えていて、歴史ミステリ好きに一石を投じている。

 とかは、あくまで副菜。下巻では、いよいよ主菜の味が色濃くなってゆく。とはいえ、これも幾つものテーマが隠し味として効いていて、「主題はコレ」と言いにくいのが、この作品の美味しい所。

 本書では主役の吉村貫一郎を、文武ともに優れ人格も秀で、朴訥ながらも妻子を深く愛し、苦境にも努力を惜しまぬ典型的な南部人としている。ただし身分は足軽で、当時の制度では充分にその力を活かせない。寛一郎と、藩の重鎮である大野次郎右衛門を対比させ、身分制度の融通の利かなさを読者に突きつけてゆく。

 とか書くと大野次郎右衛門が無能な悪役みたいだし、冒頭の展開はモロにそういう雰囲気なんだけど、それほどわかりやすく単純な仕掛けじゃないのが巧い。

 もう一つが、登場人物たちの掲げる哲学というか生き様というか。

 なにせ新選組だ。今でこそヒーロー扱いだけど、壬生狼なんて言葉もある。今でいうアルカイダや自称イスラム国とかに似た印象を持つ人も多かったようだ。隊士も軽い身分の者が多く、それだけに「やっと活躍の場を与えられた」とばかりに突っ走りがちな空気が、この作品からも伝わってくる。

 単に暴れるのが好きってだけのチンピラも紛れ込んでいただろうが、理想を持つ者もいた。ただ、その理想ってのが、美しくはあっても、実はどこにも存在しない幻想だってのが切ない。彼らの語る士道も忠義も、徳川が世を仕切り武士が官僚と化してから生まれた物で、武士が戦士だった戦国時代までの哲学じゃない。

 つまりは幻想に酔って暴れまわってるだけだ。にも関わらず、この作品の中での彼らの生きざまは、私の感情を揺さぶりまくる。終盤では五稜郭での戦いも描かれるんだが、ここに来ると暴れまくる感情が理性の鎖を引きちぎる寸前だ。

 この作品は、あくまでも佐幕派の視点で描いている。圧倒的な兵力を誇る官軍に対し、少数精鋭で抗う佐幕派って構図だ。とまれ、立てこもる側も勝敗は見えている。なら、なぜ戦うのか。理性は愚かな戦いだと告げるんだが、著者の筆力は感情に「これでいいのだ、もっと暴れろ」と大音量のアンセムで煽り続けるのだ。

 そんな理性にも、かすかな応援を送ってくれるのが、この作品の複雑なところ。というのも、周囲の者が語る吉村貫一郎の姿と、本人の独白が、見事に食い違っているのだ。

 加えて、維新政府の視点で語られることの多い幕末、特に戊辰戦争の顛末を、奥羽越列藩同盟の立場で見せてくれるのも楽しい。単に戦争の帰趨だけでなく、そこに至るまでの藩の歴史から語り起こすあたりも、重みを増している。

 「これは小説なのだ、作り話なのだ」と必死に自らに言い聞かせないと、魂までも持っていかれそうになって、小説の持つ力の恐ろしさをつくづく感じさせる、そういう作品だった。若くて血気盛んな人には読ませたくない。

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2018年12月16日 (日)

ディーン・R・クーンツ「ウォッチャーズ 上・下」文春文庫 松本剛史訳

「もうおまえを放したり、どこかの檻まで連れていくわけにはいかないな」
  ――上巻 p45

「アインシュタイン。いまからおまえの名前は、アインシュタインだ」
  ――上巻 p112

「それは<アウトサイダー>と呼ばれていた」
  ――上巻 p373

「もしもわれわれが、神の造りたもうべきものをこの手でつくりだせるまでになったのなら、つぎには神の正義と慈悲を行うことを知らねばならんのです」
  ――下巻 p112

『あんたたちにはまだ望みがある』
  ――下巻 p153

「まさしく、彼はヒーローだ!」
  ――下巻 p269

【どんな本?】

 アメリカのベストセラー作家、ディ-ン・R・クーンツの地位を決定づけた、長編サスペンス小説。

 トラヴィス・コーネルは36歳の孤独な男。ピクニックに行ったトラヴィスは、山で大型犬と出逢う。若い雄のゴールデン・レトリーヴァーだ。毛皮はもつれて泥だらけで、野良らしい。何かを恐れ怯えるかと思えば、やたらトラヴィスに懐いている。根負けしたトラヴィスは犬を連れて帰ることにした。

 ノーラ・デヴォンは30歳の独身女。異様に厳格な伯母のヴァイオレットに育てられ、友人もいない。ヴァイオレットが亡くなってからも滅多に家から出ず、対人恐怖症気味で、ヴァイオレットから相続した家に引きこもって暮らしている。ある日、テレビの修理を頼んだ男がストーカーと化し、つきまとい始めた。

 腕利きの殺し屋、ヴィンスことヴィンセント・ナスコは忙しい。ウェザビー博士を始末し、報告を終えたとたんに、次の仕事が入った。今度は二人、エリザベス・ヤーベック博士とジョナサンの夫婦だ。ソツのない依頼人は好きだ。それ以上に、ヴィンスは殺しが好きだ。というのも、ヴィンスは人を殺す度に…

 奇妙なゴールデン・レトリーヴァーは人々の運命を結びつけ、彼らの人生を大きく変えてゆく。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は WATCHERS, by Dean R. Koontz, 1987。日本語版は1993年6月10日第1刷。私が読んだのは1993年10月1日の第4刷。文庫本で縦一段組み上下巻で本文約398頁+375頁=約773頁に加え、訳者あとがき3頁。8.5ポイント42字×18行×(398頁+375頁)=約584,388字、400字詰め原稿用紙で約1461枚。上中下の三巻でもいい大長編。

 文章はこなれていて読みやすい。いちおうSFだが、ネタは一つだけ。小難しい説明をしちゃいるが、格好をつけるためのハッタリだ。中身はドラえもんやポケモンと同程度のシロモノなので、その辺について行けるなら大丈夫。

 それより、若い人には時代背景や風俗がピンとこないかも。1980年代の作品なので、携帯電話がないし、インターネットも未発達だ。出てくる有名人やブランドも、ジーン・ハックマンとかは馴染みがないだろうけど、わからなければ無視して構わない。

【感想は?】

 発表当時は全米のペットショップからゴールデン・レトリーヴァーを一掃したそうだ。さもありなん。

 なんてったって、アインシュタインと名づけられるゴールデン・レトリーヴァーが、やたらと可愛い。どう可愛いかというと、映画「トランスフォーマー」のバンブルビーの可愛さに少し似ている。

 …って、マニアックすぎて伝わりませんがな。

 犬を飼っている人は、愛犬の可愛さを思い浮かべて欲しい。私は飼ってないけど。幸いバンブルビーと違い、アインシュタインには尻尾がある。上巻を読んでる時は、アインシュタインが尻尾を振る場面じゃ、私もニヤニヤしてしまった。まあ、そういう可愛さです←余計わからん

 そのアインシュタインと出合う、最初の人間が、トラヴィス・コーネル。病や事故で家族や恋人や友人を次々と失い、自分は死神じゃないかと思い込んでいる男。誰とも親しくならず、孤独に暮らそうとしていたが、アインシュタインに懐かれ、連れて帰る羽目に。

 次にアインシュタインと出合うのが、ノーラ・デヴォン。人間嫌い、特に男が大嫌いな伯母に、籠の鳥のごとく育てられ、既に30歳。そでれもせめて大切にされていたならともかく、この伯母さん、ノーラのやる事なす事ケチばかりつけて育ててきた。お陰でノーラは対人恐怖症気味な上に自信のカケラもない。

  お互い30過ぎのクセに、いずれも人と親しくなるのを恐れている。そんな二人を、アインシュタインがキューピットよろしく仲を取り持とうとする場面は、とにかくアインシュタインが愛おしくてたまんないのだ。何せ言葉がしゃべれない。一生懸命に動作で示す、そのけなげさがたまんない。

 特に難しいのがノーラ。そもそも誰かが自分に好意を持つなんて事はあるわけない、そう思い込んでいるだけに、アインシュタインの努力もなかなか伝わらない。あれこれ思い悩む彼女の気持ちは、ちょっとジュブナイルっぽい気恥ずかしさもあるけど、まあ初恋だからしょうがないよね。

 なんて彼らに迫ってくるのが、アインシュタインの出生の秘密。まあ、上巻を読んでいれば、なんとなく見当はとくんだけど。

 これを追いかける者たちの一人が、レミュエル・ジョンソン、NSA(国家安全保障局)の腕利きの捜査官。悪い人じゃないのだ。やたら仕事熱心…を通り越してワーカホリック気味だが、己を厳しく戒め職務に邁進したがために、南カリフォルニア支局長にまで昇進した男。

 決して悪人じゃないんだが、立場上、この物語では悪役を割り振られてしまった人。中盤以降では、彼とトラヴィスらのチェイスが緊張感を作り上げてゆく。読者としては応援してあげたくもあり、空振りして欲しくもありの、ちょっと複雑な立ち位置にいる人。

 そして、レミュエルとトラヴィスらをつなぐ糸の一つが、この物語のもう一つの主役<アウトサイダー>。アインシュタインが○○の陽なら、<アウトサイダー>は陰を象徴する存在だ。

 単に陰であるだけでなく、それをわかってしまっているのが、何よりも悲しい。その行いは忌まわしくもあるが、そこに込められたメッセージは…

 もう一人の重要人物が、ヴィンスことヴィンセント・ナスコ。凄腕の殺し屋だ。クールでスマートに仕事をこなしつつ、ちょっと困った思い込みも持っている。人殺しを仕事にしてるような人だから、善悪の感覚なんか無いのかと思うよね。

 でも意外とそうでもなくて、かなり厳格な倫理感覚を持っているのだ。ただ、モノサシの角度が常識と大きく違っちゃってるだけで。作り話だから誇張されているけど、現実にも似たような倫理観の人がけっこういるから世の中は怖い。

 著者は「ベストセラー小説の書き方」なんて本も出してる人で、これが「面白い本」を探すにはかなり便利なブックガイドにもなってる。そのためか、この作品でも、登場人物本棚を紹介する場面が、ちょっとしたイースター・エッグになっているので、本が好きな人はお楽しみに。

 終盤、ノーラの台詞でタイトルの意味が明らかになる場面は、この物語のクライマックスだろう。過酷な運命に心をへし折られ、人生を投げ出そうとした者たちが、アインシュタインを機に巻き込まれたトラブルの末に見出した、ヒトがヒとであることの意義。

 これを読んでしばらくは、ペットショップに行ってはいけない。特に体力と懐に余裕がある時は。

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2018年11月 8日 (木)

ウィリアム・トレヴァー「聖母の贈り物」国書刊行会 栩木伸明訳

「パパはボタンのビジネスをしているんだ」とトリッジは晴れやかに答えた。「トリッジ商会って知ってるでしょ」
  ――トリッジ

「あの人たちはあなたをこわがっているのよ」と彼女はその晩言った。「全員がね」
  ――ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳

「これでお終い、またしても」
  ――マティルダのイングランド 1.テニスコート

「だって私は現在ってものが嫌いなんです」
  ――マティルダのイングランド 3.客間

「おまえも早く戻りなよ、ポーリー」
  ――丘を耕す独り身の男たち

ミホールに神のお召しが訪れたのは十八歳のときだった。畑を耕し家畜の世話をする暮らしを捨てて修道院へ行け、と夢の中で告げられたのである。
  ――聖母の贈り物

ひとりぼっちの人間にとっては、つらつら考えることが友達みたいなものだ。
  ――雨上がり

【どんな本?】

 ウィリアム・トレヴァーは、アイルランド出身の作家。1928年生まれ、2016年没。彼の作品から12編を選んだ、日本独自の作品集。

 この作品集では、風景はのどかながら、カトリックとプロテスタントが絡み合う複雑なアイルランドの社会を背景に、人の気持ちのスレ違いを描いた作品が多い。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年2月15日位初版第1刷発行。単行本ハードカバーー縦一段組みで本文約388頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント44字×19字×388頁=約324,368字、400字詰め原稿用紙で約811枚。文庫本なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらいの分量。

 幾つかの作品はアイルランドの歴史と社会が背景にある。大ざっぱに言うと、民衆はカトリックで、侵略者であり地主階級のイングランド人はプロテスタント。ただし「アイルランド便り」のフォガーティー姉弟のように、落ちぶれたプロテスタントもいる。

【収録作は?】

 それぞれ 邦題 / 原題 の順。

トリッジ / Torridge
 寄宿舎学校で、トリッジは天然ぼけで明らかに浮いていた。特にトリッジに構うのは三人、ウィルトシャーとメイス=ハミルトンとアロウスミスの三人だ。この学校には秘密の伝統がある。上級生は、特定の下級生の後ろ盾になる。ある日、トリッジに…
 校長の「要領を得ない話」は、前菜ながら、この作家の特色をよく表している。十四年間つとめてきたって、そりゃ自分の無能を告白しているようなモんなんだけど、気づいていないんだろうなあ。この気づいていないってのが、後半になって…
こわれた家庭 / Broken Homes
 ミセス・モールビーは八十七歳。二人の息子を戦争で喪い、夫も五年前に他界した。今はひとりで暮らすのにも慣れたし、近所の人も何かと気を使ってくれる。ただ耄碌したと思われるのは嫌だった。ある日、中等学校の教師と名乗る男がやってきて…
 これまた教師の間抜けっぷりが炸裂する話。なんだけど、こういう自信満々の奴ってのは、まずもって自分じゃツケは払わない。というか、だいぶ前から話題になっている社会問題を私は思い浮かべた。ご近所と付き合いがあっても、これじゃあ…
イエスタデイの恋人たち / Lovers of Their Time
 時は1960年代。ノーマン・ブリットは旅行代理店に勤める40歳の冴えない男。妻のヒルダは同い年。子供はいない。最近、気になる女がいる。マリー、職場近くのグリーンズ薬局にいる娘。マリーから休暇の旅行の相談を受けたノーマンは、昼休みに彼女を誘い…
 1960年代といえば若者が元気にはっちゃけた時代、みたいな印象を持っていた。でも、中年もソレナリにノッていたのかも。
ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳 / The Raising of Elvira Tremlett
 父さんとジャック叔父さんは一緒に自動車修理工場をやってる。ブライアン兄さんとリーアム兄さんは工場を継ぐと期待されてる。エッフィー姉さんは計算が得意で、工場の会計を任せるのにちょうどいい。キティー姉さんは父さんのお気に入りだ。でも僕自身は…
 「トリッジ」同様、浮いちゃってる少年の話。子供が五人、町にパブが29軒って所が、いかにもアイルランドだなあ。1873年没ってのに何か意味があるのかと思って Wikipedia の「アイルランドの歴史」を見たら、土地改革でイングランド人地主の土地を小作人に分け与えていた頃。
アイルランド便り / The News from Ireland
 1839年、アイルランド。先代の地主ヒュー・パルヴァータフトが亡くなり、後継ぎの一族がやってきた。屋敷も敷地もいい具合に崩れかけていたが、後継ぎは職人を集め屋敷を整えている。フォガーティー姉弟は落ちぶれたプロテスタントで、屋敷で働いている。そこに住みこみ家庭教師のアンナ・マリア・ヘッドウがやってきた。
 1845年~1849年は有名なジャガイモ飢饉(→Wikipedia)の時代。ジャガイモの疫病による不作に加え、イングランド地主の無慈悲な政策が飢餓に拍車をかけた。冒頭でざっくりとアイルランドの歴史をまとめてあって、これが最後の文と見事につながっている。
エルサレムに死す / Death in Jerusalem
 兄のポール神父は才気に溢れ、アメリカに渡って成功し、世界中を飛び回っている。無口な弟のフランシスも信心深く、今は母の金物店を引き継ぎ働いている。毎年恒例の里帰りの際に、ポール神父はフランシスを聖地エルサレムへの巡礼に誘う。
 社交性とエネルギーと才気に溢れてはいるが、母との折り合いが悪い兄のポール。無口でお人好しながら、母との暮らしに満足しているフランシス。私はポールに入れ込んじゃったなあ。登場人物の視点の違いによる、気持ちのスレ違いを巧みに描く作品が多い中で、この作品は特に心に刺さった。
マティルダのイングランド / Matilda's England
 1.テニスコート / The Tennis Court
 2.サマーハウス / The Summer-house
 3.客間 / The Drawing-room
 昔のチャラコム屋敷は賑やかで、たくさん人を雇っていた。でもミスター・アッシュバートンが先の戦争で出征し、復員した時は抜け殻になってしまう。以来、家は落ちぶれ負債は嵩み、1929年に亡くなる。返済のためミセス・アッシュバートンは地所を切り売りした。父の農場も、その時に買ったものだ。
 そして1939年、5月。老いたミセス・アッシュバートンンは9歳の私をマイ・マティルダと呼び、可愛がってくれる。15歳の兄ディックと14歳の姉ベティーが一緒のとき、ミセス・アッシュバートンが言う。「チャラコム屋敷にはテニスコートがあるから」「プレーしたくなったらいつでもどうぞ」
 今、調べたら、WIkipedia に「マティルダ・オブ・イングランド」なんて記事がある。何か関係あるのかな?
 イングランドの田舎で生まれ育った娘マティルダの一人称で語られる物語。短編三つと言うべきか、三部構成の中編と言うべきか。
 改めて読み直すと、ミセス・アッシュバートンは、なかなか気のいいご婦人じゃないか。零落しても気品は保ち、かつての名声に拘らず農場の子どもたちにも気さくに声をかける。老いて独り身の寂しさが理由とはいえ、お高くとまってないのがいい。
 マティルダはミセス・アッシュバートンがあまり好きじゃない様子。それでも仲の良い家族に囲まれ、幸せな子供時代を送る。そのハイライトが、最初の「テニスコート」の終盤だろう。だが海の向こうではドイツが暴走を始め…
 戦争の影が濃い作品だ。が、それ以上に、私はマティルダ自身の性格が強いと思う。彼女は決してSFなんか読まないだろう。でもジャック・フィニイの「ゲイルズバーグの春を愛す」は気に入るんじゃなかろか。未来より過去が好きな人なのだ。こういう人は、いつでも、どこにでも居る。
丘を耕す独り身の男たち / The Hill Bachelors
 幾つもの丘を越えて、末っ子のポーリーが帰ってきた。亡くなった父を見送るため、母の住む農場の家に。父はフランセスがお気に入りで、次にメナを可愛がっていた。そつのないケヴィンも、長男のエイダンも。だが末っ子のポーリーとは…
 農家の嫁不足はどこも同じらしい。そして、農家の嫁の待遇も。子供が五人ってのも、いかにもアイルランド。にしてもポーリー、実はけっこうモテてるのに…
聖母の贈り物 / The Virgin's Gift
 18歳の時、ミホールは神のお召しを受けた。修道院へ行け、と。ひとり息子であるにも関わらず、父はミホールを送り出してくれた。幼馴染のフォーラは違ったが。やがて修道院でも…
 ある意味、信仰に身を捧げた者の物語なんだが、決して祭り上げられることはないだろう。タイトル通り、キリスト教信仰の色が濃い…と思ったが、日本でも昔はこんな坊さんがいたんじゃないかな。でも、こういう形で終わるのは、やっぱりキリスト教だなあ。
雨上がり / After Rain
 ハリエットは30歳になったばかり。本当はふたりでエーゲ海のスキロスでバカンスを過ごすはずだった。でも今はペンシオーネ・チェザリーナで一人。恋が終わってしまったのだ。そこで、子どもの頃、家族と一緒によく来たここに再び来たのだ。
 失恋旅行に出かけた女の話…なんだが、日本のような島国に住む者としては、気軽に外国に旅行に行けるヨーロッパがひたすら羨ましかったり。

 ポップ・ミュージックのレコードやCDに倣い、12編を集めた作品集。レコードなら、さしずめ「トリッジ」~「エルサレムに死す」がA面で、「マティルダのイングランド」~「雨上がり」がB面だろうか。微妙に性格の悪さが滲み出ているA面に対し、B面は密かに悲しみと諦観が漂っている。その双方が入り混じった「エルサレムに死す」が私は好きだなあ。

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2018年9月26日 (水)

中島らも「今夜、すべてのバーで」講談社文庫

おれがアル中の資料をむさぼるように読んだのは結局のところ、「まだ飲める」ことを確認するためだった。
  ――p47

アル中の問題は、基本的には「好き嫌い」の問題ではない。(略)アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。
  ――p51

中毒者でないものが薬物に関して発言するとき、それは「モラル」の領域を踏み越えることができない。
  ――p127

アル中の要因は、あり余る「時間」だ。
  ――p131

「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことである。
  ――p132

「今の日本じゃ、酒は水か空気みたいなもんだ。どこへ行っても目の前にあるんだ。そんなところで断酒なんかができるかね」
  ――p200

「痛みや苦しみのない人間がいたら、ここへ連れてこい。脳を手術してやる」
  ――p229

【どんな本?】

 エッセイ・劇作・放送作家など様々な分野で活躍した中島らもが、酒に憑かれたアル中の生態と、その周囲の人々を描く、アル中小説。

 主人公は35歳の小島容。毎日のように朝から晩まで飲み続けた挙句、体を壊して入院する羽目になる。目は黄色く濁り、顔色はドス黒く、食事も受け付けない。35歳にして衰え切った体力は、階段すら這って登らねばならない体たらく。なんとかベッドに横になったが、さっそく禁断症状に襲われ…

 人はなぜアル中になるのか。アル中か否かは、どうやって判断するのか。アル中の身体は、どうなっているのか。酒が抜けるに従い、アル中には何が起きるのか。なぜアル中は飲み続け、なぜ止められないのか。家族など周囲の者に、アル中はどんな影響を及ぼすのか。そして、支援の手はあるのか。

 自らもアル中だった著者が、その体験や心中を吐き出すと共に、自己診断方法・原因を探る学説・症状と治療法などの資料を漁り、多様な視点でアル中を描く、アル中文学の傑作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1991年3月、講談社より単行本を刊行。私が読んだのは講談社文庫版、1994年3月15日発行の第1刷。文庫本で本文約281頁に加え、著者の中島らもと山田風太郎の対談「荒唐無稽に命かけます!」が豪華21頁。8ポイント43字×18行×281頁=約217,494字、400字詰め原稿用紙で約544枚。文庫本では普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。所々に入るコテコテのギャグも、親しみやすさを生み出している。アル中を医学的に語る部分では多少小難しい話も出てくるが、面倒くさかったら読み飛ばしても構わない。それより、生々しいアル中の生態こそ、この作品の最も美味しい所。

【感想は?】

 凄まじい、色々と。だが、これは遠い異国の話じゃない。私たちの隣で起きている事だ。

 最初のジャブからして強烈。軽い問診を受け入院が決まった小島、入院までの余った一時間で、いきなり隣の公園でワンカップを開ける。酒で体を壊したのがわかりきってて、これだ。何を考えている?

 しかも、いきなり飲み干すわけじゃない。「吐いちまわないだろうか」などと、おっかなびっくりである。どうやら体が酒を受け付けない時もあるらしい。だったら飲まなきゃいいのに。なぜ、そんなにしてまで飲む? 意味わからん。

 などと、私たちが勝手に想像するアル中の姿を、これでもかとブチ壊してくれる。酒好きがアル中になるのかと思ったが、そういう事でもないらしい。また、アル中の症状も、私はギャビン・ライアルの名作「深夜プラス1」のガンマン、ハーヴェイ・ロヴェルで刷り込まれたんだが、実際には…

 いやもう、実に情けなくみっともない有様で。それを本人は隠し通せると思って何かと誤魔化すんだが、それが余計にみっともないんだよなあ。

 とかの、アル中真っ盛りの姿も凄まじいが、そんな小島が入院生活で次第に復調してゆく過程も、これまた人の肉体の凄さが伝わってくる。

 中でも私が最も怖かったのは、フケの場面。そんなにしてまで、人体は生きのびようとするものなのか。そんなになってでも、人というのは生きられるものなのか。アルコールとは、そこまで体に負担をかけるものなのか。

 一人称の作品とすることで、アル中が何を考えているかも、自嘲的に書いている。その反面、他の人から見たアル中の醜さは、描くのが難しい。これを担当しているのが、同じ病室の福来だ。小島より少し年上だが、小島同様のアル中だ。彼との霊安室の場面は、舞台のせいもあって、鬼気迫るものがある。

 そんなアル中に巻き込まれる者も、たまったモンじゃない。

 周辺人物として最初に登場するのは、担当医の赤河だ。アル中への恨み憎しみを隠しもせず、口を開けば憎まれ口ばかり。先の福来を見ていると、医師としてアル中の面倒を観にゃならん赤河の気持ちもわかる気がする。掃除する度にゲロを吐かれたら、そりゃやってられないだろう。

 そんな風に、小島には敵意も露わに接する赤河だが、妙に名台詞が多いあたりは、著者も医師に感謝してるんだろうか。「抜糸するまで傷は医者のものだ」とか、なんか良くわかんないけど納得してしまう。

 赤河と同じく、アル中のトバッチリで苦労し通しなのが、天童寺さやか。公的には小島に雇われた事務係だが、どうやら独身らしい小島が入院したとあって、こまごまとした面倒を見ることに。ハッキリとモノゴトを言い切る性格なのが唯一の救いだが…。 彼女こそ、酒の罪深さを体現した人と言えるだろう。

 などと、アル中やそれに関わる者の、行動や心の中を描くと共に、久里浜式アルコール依存症スクリーニンク・テスト(→久里浜医療センター)などの参考資料やアル中の精神病理学など、客観的・学術的な情報も充分に盛り込んである。

 とか書くと、なにやら説教臭い本のように思われかねないが、決してそんなことはない。小島と赤河や、三婆との会話、「打ち止めの一発」なんてネタは、らも風のユーモアが詰まっているし、同室となった吉田老夫婦の姿は、病院文学とでも言うべき味わいがある。

 長さも手ごろだし、文章も親しみやすい。怖いもの見たさの娯楽作品のつもりで、手に取ってみよう。

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2018年6月19日 (火)

司馬遼太郎「功名が辻 1~4」文春文庫

(千代、見ろ。そなたの馬だ)
  ――1巻 p313

山内一豊が、多少とも英雄の名に値いするとすれば、すべて千代の作品であった。
  ――2巻 p49

「われわれは、いつまでたっても内々は火の車だな」
「火の消えたようなことよりましでございましょう」
  ――2巻 p173

「わしはこの一戦で山内家の家運をひらく。そのほうどもも、この戦さで家運をひらけ。わしがもし討死すれば、弟の子忠義(国松)を立てよ。そのほうどもが討死すればかならず子を立ててやる」
  ――3巻 p334

「仕事はわかいころ、物を味わうのは老いてから」
  ――4巻 p143

【どんな本?】

 主人公は、後に土佐藩主となる戦国大名の山内一豊と、その妻で優れた知恵を称えられる千代。

 時は戦国の永禄十(11567)年、戦場での働き次第で出世か死が決まる時代。若き山内伊右衛門は「ぼろぼろ伊右衛門」の異名で呼ばれる。主君は織田信長、美濃を落とし頭角を現しつつある風雲児だ。伊右衛門はその近衛仕官ながらも、石高はたかだか五十石。だが、このたびめでたく縁談が決まった。

 織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と、権力の座が目まぐるしく入れ替わってゆく中を、若い夫婦が二人三脚で道を切り開き、身を立ててゆく姿を描く、娯楽歴史物語。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1963年~1965年に新聞連載。1965年に文藝春秋新社より上下巻で単行本発行。1976年に文春文庫から文庫本が全4巻で刊行。私が読んだのは2005年2月10日第1刷の文春文庫の新装版。文庫本で縦一段組みの四巻、それぞれ本文約307頁+341頁+330頁+290頁=1,268頁に加え、あとがき(というよりエピローグ)15頁+永井路子の解説16頁。9ポイント39字×18行×(307頁+341頁+330頁+290頁)=約890,136字、400字詰め原稿用紙で約2,226枚。文庫本4巻は妥当なところ。

 文章はやたらと読みやすい。ややお堅く古風な香りもあり頭よさげな雰囲気なのに、なんでこんなに読みやすいんだろう。私もこんな文章が書きたい。内容もわかりやすい。舞台は戦国~江戸初期と、今とは技術も社会も違う世界だが、うるさくない程度に説明が入っている。

 敢えて言えば、当時の距離の単位を知っているといい。一間は約1.8m、一丁は約110m、一里は約4km。。それと、浅黄色など色の和名と、小袖などのファッション、そして軍ヲタなら地形が判る日本地図があると更によし。

【感想は?】

 まず司馬遼太郎作品の特徴は、とにかく読みやすいこと。

 なにせ昔の話、字面を見ると漢字は多いし、ルビもアチコチに入っている。それでも、版面を見ただけで、「なんかとっつきやすそう」と感じてしまう。

 そこで改めてよく見ると、改行が多い。文が短いのだ。単に短いだけなら、私でも心がければ真似できそうな気がする。が、少し書いてみれば格の違いを思い知る。独特のリズムがあって、これに乗って読んでいくと、スルスルと物語の中に取り込まれてしまう。

 加えて、この作品、特に序盤は、主な登場人物たちが若いせいもあり、勢いがある上に微笑ましく、笑える場面が多い。

 山内伊右衛門の初登場時は、「ぼろぼろ伊右衛門」なんて呼ばれ少々情けない。この微妙な情けなさは終盤までずっとつきまとう。それが決定的になるのが、婚礼の夜の場面。伊右衛門、綺麗な嫁さんをもらってウキウキしつつも、多少の不安を抱えて迎えた夜の次第は…

 いやあ、酷いw なまじ有名になったばかりに、こんな酷い話まで語られるとはw 化けて出てくるかもしれないw

 他にも夫婦のお色気シーンは幾つかあるんだが、いずれも明るくユーモラスなのがなんとも。私はポルノは明るいのが好きなんだけど、ここまでギャグ・タッチだと、お色気もヘッタクレもないw お互いに歳をとって白髪が云々とかやりあってる所は、いかにも長く連れ添ったおしどり夫婦の風情がたっぷり。

 やはり序盤は他の登場人物も若く、目線は遥か高みを望んでいる。若き主人の伊右衛門を盛り立てようと働く二人の郎党、祖父江新右衛門と五藤吉兵衛も、オッサンながら欲と愛情のまじりあう眼差しが、夫婦とはまた違う野郎どもの気兼ねのない世界が楽しい。

 と同時に、こういった人物を動かす舞台設定の芸の細かさも、司馬遼太郎作品の欠かせない魅力。

 SF者には意外と司馬遼太郎ファンが多い。というのも、「今、こことは違う世界」を見せてくれるからだ。作品名にあるように、この世界では功名こそが大事。この功名を巡り、登場人物たちが命を懸けた駆け引きを繰り広げてゆく。

 序盤こそ天下が定まらず戦が多いため、彼らが名をあげる機会も転がっている。が、次第に世が定まるにつれ、伊右衛門を始め彼らのチャンスは減ってゆく。貴重な機会を活かすべく、同じ陣に属する者たちも、様々な思惑を抱え…

 ニワカとはいえ軍ヲタのはしくれとしては、彼らの目線で戦場を見ることで、封建体制の軍が持つ統率の難しさが伝わってくるのが嬉しい。もっとも、そうやって功を上げ扶持が増えても、暮らしが楽になるわけじゃないって事情も、ちょっと切なかったり。

 かと思えば、「信州武士は小部隊の巧妙さでは天下に名があった」なんて記述も、ニワカ軍ヲタには美味しいネタ。歴史に詳しい人には常識なんだろうなあ。これは信州の地形を思い浮かべればいかにもで、起伏の多い土地だから少人数でのゲリラ戦に長けるんだろうなあ、とか思ったり。

 やはり地形の影響が強そうと感じるのが、終盤で土佐に移ってからの一領具足を巡るゴタゴタ。いずれも独立心旺盛で鼻っ柱の強い連中なんだけど、海沿いと山中の者の性格の違いが、これまた「いかにも」で。

 そもそも土佐を描くのに鬼国とか酷い言われようだが、司馬遼太郎は他にも「竜馬がゆく」「戦雲の夢」「夏草の賦」と土佐ゆかりの作品を書いてるんで、実は土佐が気に入ってるのかも。

 こいう風に人物を巧みに造ってしまう著者だけに、他の有名な武将も彼の著作で一般の印象が決まってしまう。それが最も強く出ているのが、秀吉と家康。

 とにかく司馬遼太郎、秀吉が好きで家康が嫌いなのだ。明るく派手好き新しもの好きで商人肌の秀吉、地味で田舎者で保守的で陰険な家康と、見事に対照をなす形で書いている。今でも秀吉は人気があるけど、その幾分かは著者の影響だろう。

 やはり通説を取り入れているのが、長篠の合戦の描写。かの有名な三弾撃ちですね。この物語の戦の規模としては関ヶ原が最も大きいんだけど、大きいだけに幾つもの戦場があって、個々の戦闘の印象は残りにくい。けど、長篠はほぼ一発で決まる戦いだけあって、心に映像が残りやすい。

 にしても、ここまで武田勝頼を貶さんでもw

 読みやすくリズムのある文体、ユーモラスな人間模様、史実に基づく小ネタで地盤を固めつつ、会話や架空の人物で物語を肉付けしてゆくドラマ作り。サービス満点で、とにかく楽しい読書を味わいたい人のための娯楽大作だ。

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2018年2月22日 (木)

景戒「日本霊異記」平凡社ライブラリー 原田敏明・高橋貢訳

少しばかり聞き伝えたところをしるし、日本国現報善悪霊異記と名づけて、上中下の三巻に分け、後世に伝える。
  ――上巻の序文

吉志火麻呂は武蔵国多磨郡鴨里の人、母は日下部真刀自である。聖武天皇の世に火麻呂は大伴某に指名されて、九州防備の防人にいくことになった。防人の年限は三年である。母は子について行ってともに暮らし、妻は国にとどまって家を守った。
  ――中巻 極悪の子が妻を愛し、母を殺そうと謀って、たちどころに悪い死に方をした話 第三

奈良の都に一人の僧がいた。名前は分からない。僧はいつも方広経を誦して、俗人の生活をして、銭を貸すことによって妻子を養っていた。
  ――下巻 方広経を誦した僧が海に沈んで溺れなかった話 第四

【どんな本?】

 平安時代初期の僧・景戒が、聞き知った話を書き記したとされる、仏教の説話集。主に飛鳥・奈良時代を中心に、因果応報・勧善懲悪のストーリーで、仏教の信心を説く話が多い。が、中には、雷を捕えた・狐の嫁を娶ったなど、ちょっとした怪異譚も採録している。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 解説によると、成立は平安時代初期、嵯峨天皇の治世、810~824年ごろ。著者は「奈良右京の薬師寺の僧、景戒」と序文にある。正式な書名は「日本国現報善悪霊異記」。上巻35話,中巻42話,下巻39話の計3巻116話から成る。

 この版の現代語訳は1967年8月東洋文庫より刊行。これを平凡社ライブラリーに収録、2000年1月24日に初版第1刷発行。文庫本で縦一段組み、本文約296頁に加え、両訳者による解説20頁。9ポイント41字×15行×296頁=約182,040字、400字詰め原稿用紙で約456枚。文庫本では普通の厚さ。

 現代語訳だけを収録している。文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。成立は平安時代だが、飛鳥・奈良時代を舞台とした話が多い。なので中学校で学ぶ程度の日本史の素養はあった方がいい。

【感想は?】

 仏教の説話集だ。ただし庶民向け。なので、これを読んでも当時の仏教の教義はほとんどわからない。

 「信心しなさい」とは言うものの、じゃ信心って何?となると、かなりあやふや。殺生はイカン、ってのはわかるが、それ以外は仏像を拝めとか写経しろとか、とにかく熱心にやれってだけ。

 特にワケがわからんのは中巻「法師を打って現に悪病にかかり、死んだ話 第三十五」。「仏法を守る神はどうしていないいのか」なんて台詞が出てくる。当時は僧侶でも仏様と神様をハッキリ区別してなかったんだろう。

 そんな中でもちと都合よすぎだろ、と思うのは僧の扱い。乞食坊主であろうとも、僧をいじめたりののしったりしたら祟るぞ、だの、僧は魚を食べても構わないんだとかは、当時の仏教僧の特権意識がよく出ている。

 とまれ、そんな説教臭い所は置いて、怪異譚として読むと、それなりに収穫がある。

 なんたって、いきなり「雷を捕えた話」だ。たった三頁だが、話の展開がやたら早く、雷神は二度も捕まってる。残念ながら雷神の姿については何も書いていないので、虎のパンツをはいてたかどうかはわからないw

 次の「狐を妻として子を生ませた話」も、2頁と少しで話が終わる。男が嫁さんをナンパする場面も、実にスピーディ。正体がわかっても最後まで嫁さんラブラブな男が可愛い。昔からケモナーはいたんだなあ。お話の展開から、もしかしたら雪女の原型かも。

 異種婚姻譚だと、他には蛇が娘につきまとう話が幾つか。お話の中だと狐は雌で蛇は雄なのは、何か理由があるんだろうか。

 世界各地の神話・伝説と似てたり、共通点のある話もある。第三の「雷の好意で授けてもらった強力の子の話」では、生まれた子に蛇が巻き付いている。確かヘラクレスも雷神ゼウスの子で、赤ん坊の時に蛇を殺してるから、何か関係があるのかも。

 処女懐胎も幾つかあるけど、イマイチ有難みは少ない。

 比較的にマシなのは下巻「女が石を産み、神としてまつった話」第三十一。処女が孕み、三年ほどして二つの石を産む。実はこの石、神様の子で…とはあるが、特に何か有り難い事も起きず、アッサリ話は終わってしまう。「結石じゃね?」とか突っ込んじゃいけません。

 そんな中でも、やはり大きいと感じるのが中国の影響。死んで閻魔様に会い、話を聞いて蘇るってパターンがアチコチにある。これらは微妙に聊斎志異と雰囲気が似てて、たぶん大陸から流れてきた話なんだろう。

 ここでは「頭は牛、体は人間の形をした」云々ってキャラも出てくる。まるきし鬼だ。が、この話では鬼とは書いていない。他の話で鬼は出てくるんで、当時の鬼は今と違う姿をしていたのかも。

 また、「○○は××の人である」ってな書き出しも、中国の古典の定型を持ってきたんだろうなあ。

 おおらかだよね、と思うのは下巻「愛欲の心が生じ、吉祥天女の像をしたって、不思議なことがあった話」第十三。ある男が吉祥天女の像に惚れ、お勤めの度に「あなたみたいな美女を下さい」と熱心に祈ったところ…。このままエロマンガに使えそうな話だ。つまりアレって美少女フィギュアなのね。

 時代は変わっても人は同じと感じるのは、最後の一つ前、下巻「災いと善との前兆があって、後でそれが現れた話」第三十八。これは他と毛色が違って、著者の景戒自身が登場し、いろいろとボヤいてる。「わたしが身を受けること、ただ五尺あまり」とか嘆いてて、昔から背の高い男がモテたんだなあ。

 ここでは「爪はじき」なんて言葉も出てくるんだが、意味が現代と全く違っちゃってるのも、ちょっと趣があったり。また、景戒も僧ではあるけど嫁さんも子供もいて、戒律は江戸時代とだいぶ違う様子。

 とか、変なネタばかりを拾って紹介したけど、基本的には勧善懲悪な仏教の説話です、はい。

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2018年1月16日 (火)

マリオ・プーヅォ「ラスト・ドン 上・下」ハヤカワ文庫NV 後藤安彦訳

「われわれはいつの日にか聖者になりたいと思う」ドンが答えた。「だが殉教者にはなりたくない」
  ――上巻p16

「映画は頭脳を征服する必要はなく、感情を征服するだけでいいんだ」
  ――上巻p65

「第一に、そしてこれはもっとも危険な点だが、逆境にいる美女には用心しなさい。第二に、きみよりもさらに大きな野心を持っている女には気をつけたほうがいい」
  ――p168

「愚かな連中を相手に理性的な解決に達することは不可能なのだ」
  ――下巻p300

【どんな本?】

 1969年に「ゴッドファーザー」で空前の大ヒットを飛ばし、映画も大当たりとなったマリオ・プーヅォが、アメリカの合法社会への進出を狙うマフィアを描いた長編小説。

 クレリクーツィオ・ファミリーを仕切るドン・ドメニコの計画は、仕上げに入っていた。既に宿敵サンタディオ・ファミリーは戦争で壊滅させた。他のファミリーとは友好的な関係を保っている。息子たちはそれぞれ合法的なビジネスを展開し、また信頼できる甥のピッピもラスベガスに拠点を築いた。

 政府の締め付けは年々厳しくなっている。特に麻薬ビジネスは厳しい。新たに参入したコロンビア人はあまりに無謀で大胆だ。裏稼業は自分たちの代で終わりにしよう。新しい世代は合法的な世界でまっとうなアメリカ人としての生涯を送るのだ。

 孫のダンテと甥ピッピの息子クロスの洗礼式の日、ドンは他のファミリーに取引を持ち掛け、最後の撤退戦に向け陣営を整える。だが、それは新たな流血の幕開けでもあった。

 厳しい掟に従いつつも暴力と策略で社会を蝕むマフィアの世界に加え、ギャンブルの楽園ラスベガスのビジネスや、金と欲が渦を巻くハリウッドの人間関係も暴き、現代アメリカのダークサイドを晒す、娯楽長編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Last Don, by Mario Puzo, 1996。日本語版は1996年12月に早川書房から単行本で出版、後に2000年10月31日にハヤカワ文庫NV発行。文庫本で縦一段組みの上下巻、本文は491頁+415頁=約906頁に加え、関口苑生の解説8頁。8.5ポイント41字×18行×(491頁+415頁)=約668,628字、400字詰め原稿用紙で約1,672枚。3~4巻に分けてもいい巨大容量。

 文章はこなれている。内容もあまり難しい所はない。ややこしいのは、金の流れを説明する部分。つまりはペテンの手口なんだが、面倒くさかったら読み飛ばして、「なんか汚いことやってんだな」ぐらいに思っておこう。

【感想は?】

 これを読んだら、カジノ法案に抱くかもしれないし、逆に賛同したくなるかもしれない。

 なんたって、ドンの目論見が「ギャンブルの合法化」だ。そもそも、マフィアは滅多な事じゃまっとうな商売には手を出さない。「楽してズルしていただき」がモットーの連中である。

 そのマフィアのトップ、ドン・ドメニコ・クレリクーツィオの狙いは、ファミリーを合法化すること。政府の締め付けは次第に厳しくなる。今までのように、法を犯し暴力を厭わないビジネス、例えば麻薬の取引は先行きが暗い。そこで、新たな資金源として狙うのが、ギャンブルだ。

 そのギャンブルの具体例として、詳しく描くのは、ラスベガスのカジノ。それも、そこらのパチンコ屋みたく、セコい金額じゃない。新築の家が買える金額が一晩で吹っ飛ぶような、デッカいギャンブルの世界だ。

 ただし、視点はギャンブラーではなく、オーナー側。彼らがいかにして大口の顧客から金を引き出すか、その手口をわかりやすく描いてゆく。例えばニューヨーク発で飛行機代・ホテル代・食事代タダのツアーとかもあったり。

 そんな一見美味しいツアーが成立しうるのも、ギャンブルが法で守られているラスベガス、そしてネバダ州ならでは。そんなワケで、ここで商売するには、州政府との関係も大事で。

そういえばUFO騒ぎで有名な空軍基地エリア51もネバダ州だっけ。実はここ、合衆国の核開発の拠点でもあった(「エリア51」)。とすると、連邦政府との関係も重要、とか考えると、一味違ってくる。

 などの美味しいビジネスのギャンブルに、更に美味しいトッピングを添えようってのが、ドンの目論見。しかも、その目論見の裏をかくとんでもねえ奴まで出てくるんだから、地下社会の闇は深い。もっとも、このトッピングに似たシロモノは、既に日本で合法化されてたりするから怖い。

 もう一つ、重要な柱になるのが、ハリウッドの内幕。最近は Twitter で #MeToo が流行っているように、ソッチの話題も遠慮なく出てくる。ただし、この作品では、かなり男に都合のいい形になってるけど。

 それより私にはカネの話の方が面白かった。この小説ではアーネスト・ヴェールなんて作家も出てきて、彼はどう見てもマリオ・プーヅォ自身だ。作家としての能力はともかく、人間的にはしょうもない奴に描かれていて、読みながらついニヤニヤしてしまう。

 彼が語る、小説家が映画に抱く屈折した想いなどは、本好きにはかなり突き刺さる台詞。代表作ゴッドファーザーにしても、映画を知っている人は多いが、小説を読んだ人はほとんどいない。やたら面白いのになあブツブツ…

 とかに加え、小説と脚本の違いも、ちょっとした読みどころ。

 それより何より、自作を映画化する際に交わす、権利関係の契約のキモが、生臭く面倒くさいながらも、だからこそ生々しい迫力を放っている。明らかに彼自身の経験から学んだ教訓なんだろうが、原作者の懐が潤わないメカニズムが、実に狡猾で容赦ない。そりゃ素人はコロリと騙されるよなあ。

 そして、裏社会物に欠かせない、ケッタイな連中の生態も、ちゃんと描いている。

 最初に出てくるのが、ボズ・スキャネット。ええトコのボンボンな上にイケメン。しかも頭もよけりゃ腕もたつ。おまけに綺麗で賢い嫁さんを貰ったはいいが…。まあ、えてして男なんてそんなモンです。

 ちょい役だが、ロサンゼルスの形成外科医も印象に残る。これは私がSFファンだからかも。外科医に相応しく(←をい)、ちとマッド・サイエンティストの匂いを漂わせているあたりがたまらない。

 医者と言えば、下巻に出てくるケネス・カルドーンも忘れ難い。彼も歯科医で、物語に出てくる歯科医と言えば変態と相場が決まっている(←酷い決めつけだ)。彼のイカれっぷりは一風変わってて、理解できる人はちと危ないかも。

 と、端役にも個性的な人物を取りそろえ、現代アメリカの病んだ部分を背景に、ドンの計画は静かに進んでゆく。ある点では「仁義なき戦い」にも似て、これは現代に君臨する権力者たちのルーツの物語なのかもしれない。

 ただし。美食の場面も多く、特にイタリアンが好きな人は、深夜に読んではいけない。

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2017年12月12日 (火)

アイラ・レヴィン「ローズマリーの赤ちゃん」ハヤカワ文庫NV 高橋泰邦訳

「ブラムフォードはドアの一つにR=G・ウッドハウスと書かれるとき、禍いの家から幸福の家に変わるでしょう」
  ――p32

彼は役者だ。役者がいつ演技でなく真実なのか、誰に分かるだろうか?
  ――p120

「スーツケースが一つで足りない人はね」「ありゃあ観光客で、旅行家じゃあない」
  たーしp238

【どんな本?】

 ミステリやサスペンスで人気のアメリカの作家アイラ・レヴィンによる、ベストセラー小説。発表後すぐに映画化され、これもまた大ヒットとなった。

 ローズマリーはネブラスカ州オマハ出身の24歳。カトリックの一家で六人兄弟の末っ子。兄や姉はみな若いうちに結婚し、両親の近くに住んでいる。ローズマリーは単身ニューヨークに出てきて、売り出し中の役者で9歳上のガイ・ウッドハウスと結婚した。両親はガイがカトリックでないのを快く思っていない。

 子供は欲しいと思っているが、ガイがその気にならない。新居を探している時、古風な古いブラムフォードの黒いアパートが見つる。親友の作家ハッチはブラムフォードの不吉ないわれを語るが、ぞっこん惚れこんだローズマリーの決心は固い。

 隣のローマン&ミニー・キャスタベットは年配の夫婦だ。ミニーはいささか変わった嗜好の持ち主だが、明るく親し気に接してくれる。老夫妻は、若い娘のテリー・ジオノフリオを養っている。ローズマリーはテリーとも親しくなったが…

 ヒタヒタと恐怖が忍び寄る、都会派ホラーの古典。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Rosemaryy's Baby, by Ira Levin, 1967。日本語版は1972年1月31日発行。私が読んだのは1994年7月31日の19刷。着実に版を重ねてるロングセラーですね。文庫本で縦一段組み、本文約308頁に加え訳者あとがき4頁。8ポイント43字×18行×308頁=約238,392字、400字詰め原稿用紙で約596枚。文庫本としては標準的な厚さ。

 さすがに半世紀も前の作品なので、出てくる言葉は時代を感じさせるものの、文章そのものは意外と読みやすい。ここで感じる「古さ」ってのも変なモンで、ぐっと遡って18世紀あたりを舞台にすると、古さどころか逆に異境的な新鮮さを感じるから、奇妙な話だ。

 内容もわかりやすいが、多少ニュアンスを読み取るべき所がある。

 まず、ローズマリーがネブラスカのカトリック一家出身で六人兄弟という点。ニューヨークから見ればネブラスカは田舎だ。カトリックの六人兄弟って所から、家族は信心深い事がうかがえる。田舎の信心深い子だくさん家庭の出身、という所を押さえておこう。

 ガイは33歳で売り出し中の役者。それなりに仕事は入ってきちゃいるし、評判も上がりつつあるが、ボチボチ一発当てないと、年齢的にヤバい。朗らかに振る舞っちゃいるが、内心はかなり焦っているはず。ローズマリーより九歳も上で、しかも演技のプロである役者なのも、巧みな設定だ。

 加えて、ローマ教皇や「神は死んだ」など、キリスト教関係の要素。これはすぐ気が付くだろう。

【感想は?】

 とっても底意地の悪い、妊娠小説。

 正直、今の感覚だと、本題に入るまでが長い。じっくりと描かれたニューヨークでの新居での暮らしは、狭い日本家屋に住む身としちゃ、かなり羨ましかったり。いいねえ、新婚二人で四部屋なんて。

 アパートのエレベーターにボーイがいるのも、当時のニューヨークならでは。昔はデパートにエレベーター・ガールがいたんだけど、今は手動開閉式なんて滅多にないし。

 とかも、古い映画が好きな人は、良く知っているだろう。夫のガイが役者で、親友のハッチが作家なためか、レトロなエンタテイメントのネタがアチコチに仕込んである。

 冒頭の引用はジーヴス・シリーズで有名なイギリスのユーモア作家P・G・ウッドハウス(→Wikipedia)だし、「ロンドン子の花売り娘を、公爵夫人に」はピグマリオン(→Wikipedia)だろう。いや私は映画マイ・フェア・レディ(→Wikipedia)しか知らないけど。

 と、そんな出だしの明るさは、ローズマリーの妊娠で大きく変わる。

 待ちに待った赤ちゃんとはいえ、はじめての妊娠で不安がいっぱい。頼りになる家族は近くにいないし、そもそも折り合いが悪い。親身になってくれるハッチは男なので、なにかと相談しづらい。

 日頃の暮らしも、気持ちの持ち方がガラリと変わる。ちょっとした家事や街を歩くのも、おなかの赤ちゃんの安全のため、色々と気を遣う。慣れない変わった食べ物も、体にいいからと聞いては色々と試す。そんな食べ物の好みも変わったり戻ったり。当然、体の具合も今までとは違い…

 住みかが変わり、日頃から付き合う人も変わった。新居のご近所は親切にしてくれるものの、付き合いが浅い上に歳も離れており、なによりどこか正体が捉えどころがなく、得体のしれない習慣も多い。

 と、はじめての妊娠で不安いっぱいなローズマリーの気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 夫のガイの挙動も、役者なんて不安定な仕事のせいのようにも思えるし、何か裏があるような気もしてくる。隣のキャスタベット夫妻、特にミニーはやたらと押しつけがましいのかもしれないし、単に親切な世話焼き婆さんなのかもしれない。

 中でも私が最もゾクッときたのは、体調がコロリと変わった時のローズマリーが、最初に何を考えたか。これはもう、「うおおっ!やられた!」と完全に脱帽。

 ほのめかされる予兆、ローズマリーの周囲で起きる様々な出来事、そしてハッチの不吉な予言。誰が信じられて誰が信じられないのか。初めての妊娠で安定になっているローズマリーの思い過ごしなのか、ローズマリーの知らない所で何かが進んでいるのか。

 国際色豊かなニューヨーク、不規則な役者の暮らし、そして若い妊婦の不安な気持ちをブレンドし、アアチコチに巧みな伏線をはりつつ、驚愕の終盤へとなだれ込む、現代ホラーの古典。いやホント、改めて読み直すと、伏線が実に見事なんだ。

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