カテゴリー「書評:フィクション」の139件の記事

2017年2月 2日 (木)

「エジプト神話集成」ちくま学芸文庫 杉勇・屋形禎亮訳

私の遺骸が私の生まれた地に合一することより大事なことがあるだろうか。
  ――シヌヘの物語

【どんな本?】

 ナイルを中心として紀元前四千年より前から文明を築いてきた古代エジプト(→Wikipedia)は、ピラミッドや遺跡に刻んだ碑文や、パピルスに書かれた文書など、多くの文字の記録を残した。

 幸い現在まで残っている記録から、比較的に文学的であり、また解読が進んでいるものを集め、一般読者に紹介するのがこの本である。

 英雄漂流譚や冒険物語、辛い暮らしと暗い世相を嘆く詩、リズミカルな語りで描く喜劇、王名を帯びたレバノンへの旅の記録、神々や王に捧げた賛歌、若い学生へのお説教、熱い恋心を綴った唄、そして神々の争いを描く神話など、バリエーション豊かなテキストが楽しめる。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1978年4月30日刊行の筑摩書房刊「筑摩世界文学大系Ⅰ 古代オリエント集」より、『エジプト』の章を文庫化したもの。文庫版は2016年9月10日第一刷発行。縦一段組みで本文約505頁に加え、解説が豪華123頁。8.5ポイント40字×18行×505頁=約363,600字、400字詰め原稿用紙で約909枚。訳注や解説も含めれば上下巻でもいい分量。

 ちなみに元の物語や文書は紀元前25世紀から紀元前10世紀頃までと幅広い。

 喜べ。かなり読みにくいぞ←誤字ではない。

 元々が既に滅びた言語で書かれている上に、残った碑文やパピルスもカスれたり破れたり散逸してたりと、一部しか残っていない。そのため文章の一部が抜けてたり、段落がゴッソリ飛んでたりする。訳者の仕事も、翻訳というより解読と呼ぶのが相応しい。

 そんな不完全な記録から、できる限り原本の意味を忠実に日本語に移し替えたのが本書だ。だから文の途中で単語や句が抜けてるし、物語も途中で途切れたりする。

 それだけ、原文に近い作品なわけで、オタクとしてはその濃さが嬉しいのだ。

 なお、成立した頃の世相を反映した作品も多いため、Wikipedia などで古代エジプトについて調べておくといいだろう。また地名も出てくるので、Google Map や地図帳があると便利。だいたい西はリビア、南はスーダン、東はイラク、北はレバノンとシリアあたりが出てくる。

【構成は?】

 それぞれの物語は独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。なお、素人は解説を読みながらでないと意味が分からない作品が多いので、複数の栞を用意しておこう。

  • シヌヘの物語
  • ウェストカー・パピルスの物語
  • 難破した水夫の物語
  • 生活に疲れた者の魂との対話
  • 雄弁な農夫の物語
  • イプエルの訓戒
  • ネフェルティの予言
  • ホルスとセトの争い
  • メンフィスの神学
  • 二人兄弟の物語
  • ウェンアメン旅行記
  • 宰相プタハヘテプの教訓
  • メリカラー王への教訓
  • アメンエムハト一世の教訓
  • ドゥアケティの教訓
  • アニの教訓
  • アメンエムオペトの教訓
  • オンク・シェションクイの教訓
  • ピラミッド・テキスト
  • アメン・ラー賛歌(1)
  • アメン・ラー賛歌(2)
  • ラー・ホルアクティ賛歌
  • アテン賛歌
  • ナイル賛歌
  • オシリス賛歌
  • 単一神への賛歌
  • センウセルト三世賛歌
  • トトメス三世賛歌
  • セド祭の碑文
  • ミンの大祭の碑文
  • 「後期エジプト選文集」より
  •  訳注/解説/索引

【感想は?】

 「エジオプト神話集成」というより、「古代エジプト文書集」が適切だろう。

 「神話」とあるが、ギリシャ神話や日本神話のように、創世記から始まり人の世が始まるとかの系統だった話を期待すると、肩透かしを食らう。というか、食らった。

 そもそも、全体として一貫したストーリーを持つ本ではない。今まで残っているテキストの中から、比較的に解読が進んでおり、かつ文学的な香りのするものを選んで集めた、そんな雰囲気の本だ。もっとも、Wikipedia によると、エジプト神話は時代によって大きく変わっているので、そもそも一貫した物語を期待するのが間違いなんだろう。

 神様が活躍する物語も少ない。「難破した水夫の物語」と「ホルスとセトの争い」ぐらいか。超自然な事柄が出てくる話も少なくて、人間が主人公の世情を映す話が多い。それより多いのが、若者への戒めや、神々や王への賛歌だ。中には「税を免じてくれ」とか「支払いはまだか」みたいな事務的な手紙も入ってる。

 だもんで、これで古代エジプト神話を知るのは、まず無理。そこは覚悟しよう。それより「数千年前の人がどんな記録を残したか」が、この本の大事な所。

 私が一番気に入ったのは、「雄弁な農夫の物語」。泣いて笑えるコメディだ。

 農夫クーエンアンプーは、家に妻と子を残し、収穫物を街へ売りに出かけたが、途中で小役人トゥトナクトにイチャモンをつけられ、売り物を巻き上げられてしまい、領主レンシに訴え出る。

 このクーエンアンプー、農夫とは思えぬ豊かな教養と見事な詩情で流れるように言葉を紡ぎ出すのはいいが、レンシは彼の雄弁が気に入って一計を案じ…

 クーエンアンプーの台詞、たぶん原文は韻を踏んだリズミカルな文章で、今でいうラップに近い感じなんだろう。当時のエジプトに演劇があったどうかは知らないが、巧みな役者が舞台で演じたら、きっとウケたに違いない。主役のクーエンアンプーは相当に難しいけど。今ならミュージカルにすると楽しいだろうなあ。

 最も神話らしい話は、「ホルスとセトの争い」。跡目争いの話だ。

 オシリスが没し、その子ホルスが後を継ごうとするが、オシリスの弟(ホルスの叔父)セトが割り込んでくる。ホルス側はイシス(オシリスの妻でホルスの母)・九柱の神々など、セト側は万物の主。セトは何度もホルスにイチャモンをつけては挑み…

 幾つもの難問を突き付けられてはクリアしていくホルスの姿は、後の英雄物語の元型だろう。にしても女神ハトホルが万物の主に向かう場面や、セトがホルスを家に招くあたりは、この時代ならではのおおらかさ。

 などの明るい作品ばかりでなく、メタルかブルースかって感じの暗い嘆きや不吉な予言の作品があるのも意外。

 「生活に疲れた者の魂との対話」は、まんまブルースの詞になりそうな作品。「仲間たちは邪悪だ/心は貪欲だ/暴虐さが万人に近づいて」なんてフレーズと、「今は誰に語りかけられよう」みたいなリフレインが交互に続いていく。

 対してデスメタルっぽいのが、「イプエルの訓戒」。これも「ほんとうに」のリフレインの後に、「弓手は準備ができている/悪疫は国中にあり/都市は破壊され」など、この世の終わりを感じさせる不吉な言葉が次々と続く。

 確か古代エジプトは絶対王政で、じゃきっと刑罰は厳しいんだろうなあ、なんて思い込みを覆してくれるのが「メリカラー王への教訓」。

 なんと「(たぶん罪人を)殺してはならぬ。(略)鞭打と拘禁とで罰せよ」ときた。ただし「謀反人は別」だけど。また「貴族の子弟と素性卑しきものとをわけ隔てするな。能力によって人をとりたててやれ」とかもあって、人道主義・能力主義は昔からあったんだなあ、と驚いた。リベラルな思想は昔からあって、別に近代の発明じゃないのね。

 教訓物じゃ「ドゥアケティの教訓」が資料的な価値が高い。これは若者に書記を目指せと説く文書で、他の職業の嫌な所を次々と挙げていく。出てくるのは彫刻師・木樵・床屋・葦細工師・陶工・左官・大工・庭師・農夫・隊商・漁師など。

 書記の待遇のよさを語る文書だが、加えて当時の職業がバラエティに富んでいて、分業が進んでいる事がうかがえると共に、ソレナリに職業選択の自由があった事もわかる。

 解説もオタクには嬉しいネタが載ってて、旧約聖書や千一夜物語との関連を示したり、セド祭の死と復活の儀式を解き明かしたりと、その手の話が好きな人にはご馳走の連発。

 元が元だけにスラスラと読める本ではないが、そこはオタクの執念と妄想力が試されるところ。伝説や民話の類が好きな人、ファンタジイのネタを探す人、怪しげな話が好きな人なら、是非読んでおきたい。なんたって、こういう実生活には役に立たない無駄知識こそがオタクの本領なんだから。

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2017年1月 4日 (水)

W.P.キンセラ「シューレス・ジョー」文春文庫 永井淳訳

「きみがそれを作れば、彼はやってくる」

【どんな本?】

 カナダ生まれの野球狂作家 W. P. キンセラによる、野球狂に捧げる長編ファンタジイ小説で、映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作。

 レイ・キンセラは小さな農場を営む青年。愛する妻アニーと可愛い娘カリンに囲まれたアイオワでの暮らしは気に入っているが、農場の経営は苦しく借金はかさむ一方。ある日、不思議なメッセージに導かれたレイは、トウモロコシ畑の一角を潰して野球場を作り始める。レフトの芝が整い始めた頃、なんとジョゼフ・ジェファスン・ジャクスンが球場にやってきた。そう、あのシューレス・ジョーだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は SHOELESS JOE, by W. P. Kinsella, 1982。日本語版は1985年発行。のち文春文庫版より1989年11月10日に第1刷発行。文庫版で縦一段組み、本文約367頁に加え、訳者あとがき6頁。8.5ポイント42字×18行×367頁=約277,452字、400字詰め原稿用紙で約694枚、文庫本としては少し厚め。

 文章はこなれている。内容も特に難しくないが、プロ野球や高校野球を楽しめる程度には野球のルールを知っている方がいい。特にメジャーリーグを頂点とするアメリカのプロ野球に詳しいと、更に楽しめる。

 重要なネタは、あと二つ。いずれも作品中で充分に説明があるので特に前提知識を仕込む必要もないが、気になる人のために余計なおせっかいをやいておく。

 まずは作品名にもなっているシューレス・ジョー(→Wikipedia)は、シカゴ・ホワイトソックスの選手。1919年に八百長疑惑で球界追放となる。もうひとつは作家のJ. D. サリンジャー(→Wikipedia)。「ライ麦畑でつかまえて」が有名だが、晩年は作品も発表せずマスコミから隠れて暮らしてた。

 でも最も大事なのは知識じゃなくて経験。野球場でドリンク片手に応援した事があれば文句なし。

【感想は?】

 熱烈な野球ファンの妄想話。

 正直、私は特に野球が好きなわけじゃない。昨年の日本シリーズ勝者も覚えてないし。でも、70年代ごろのロックならわかる。そこのロックおやぢやヘビメタ青年、こんな妄想した事はないか?

 ジミ・ヘンドリクス、あっちで何やってんだろ。やっぱバンド組んでんのかなあ。キース・ムーンやフェリックス・パパラルディとつるんだら、とんでもねえ変態な音になるだろうなあ。ロニー・ジェイムズ・ディオも、ランディ・ローズと組んでフィル・リノットとコージー・パウエルを捕まえ…

 うひゃあ、涎が止まらん。

 そういう妄想の野球版を小説にした、そんな作品だ。「ボクの考えた最高の野球チーム」を作る話と言ってもいい。

 主人公はドン詰まりの農家。妻アニーと娘カリンとの暮らしは満ち足りているし、アイオワの土地も気に入っている。ただこのご時世、小さな農場の経営は苦しく、借金で首が回らないってのに、畑の一角を潰して野球場を作るなんてイカれた真似を始める。

 それというのも、天啓を受けたから。「きみがそれを作れば、彼はやってくる」。どう考えてもアレな人だが、奥さんのアニーは温かく見守ってくれる。よくできた奥さんだ。

 やがてシューレス・ジョーが姿を現すが、当然、野球は一人じゃできない。そこで再び声が聞こえる。「彼の苦痛をやわらげてやれ」。声に導かれ、レイは旅立つ。

 こうやってお話の筋書きを取り出すと、主人公のレイは頭のおかしい人みたいだし、本人もそれはわかってる。確かにバカバカしい話ではあるのだ。

 それでも、細かい場面の描写が読者を引きこんでいく。冒頭の野球場を作る所でも、寒い冬の間に芝生を労わる方法なんてマニアックなのもあるが、やはり真に迫っているのは野球観戦のシーン。

 サッカーと違い、野球はインターバルが多い。だもんで、プレイを観ながらおしゃべりしたり飲み食いしたりして、それが野球観戦の欠かせない味でもある。球場で売ってる食べ物なんて、決して高級なモノじゃないんだけど、やっぱりホット・ドッグは欠かせない。そういう決まりなのだ。

 「ボクの考えた最高の野球チーム」を作る話だけに、レイの道中はスカウト道中でもあって、これがちょっとしたロード・ノベルの楽しみを添えている。サリンジャーを連行するために訪れるヴァーモント州ウィンザーの静かな様子もいいが、次の鉱山町チザムは、まさにアメリカならでは。

 日本と違い、アメリカの歴史は浅い。だけでなく、国の成り立ちが全く違う。

 アメリカはボトムアップでできた国だ。植民者たちが住み着き、地域を収める自治政府を住民たちが自ら作り、それが集まって州になり、州が集まって連邦政府になった。そのためか、住民の町に対する関心も深いし、新聞も地域の小さい新聞が多く、地元の人の結婚や訃報がニュースになる。

 ここでレイとジェリーがドックを蘇らせてゆくあたりも、名前だけだった人物が次第に血肉を備え、細かい出来事や困ったクセを伴った人間となってゆくあたりは、人探しの話としてありがちといえばありがちだが、読んでいくと次第にドックとチザムが好きになってくる。

 それとは別にアメリカだよなあ、と思うのが、夜のスタジアムに忍び込むシーン。なんと「たぶん西海岸ではまだ試合中ですよ」ときた。アメリカは東西に広いから、時間帯が四つもあるんだよなあ。深夜のプロ野球ニュースとか、どうしてるんだろ?

 まあいい。野球ってスポーツの独特な所は、プレーの記録が細かく残っていること。ピッチャーが投げる一球ごとに球種とコースを残す事も出来る。おかげで、この作品じゃベースボール・エンサイクロピーディアが大活躍したり。これに疑問を呈した「マネー・ボール」なんてのもあるけど。

 かと思えば、記録に残らないプレイもある。エディが語る、石ころを12個ポケットに入れるショートの話とかは、もう爆笑もの。ったく、何がフェアプレーだw

 古き良きアメリカと、それを象徴する野球を、現代に無理やり蘇らせ、「ボクの考えた最高の野球チーム」を創り上げる、ホンワカしたファンタジイ。読むなら野球シーズンの方がいいかも。東京ドームみたいな大きい球場もいいけど、神宮みたいな球場も選手が間近に見えるので違った楽しみがあります。

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2016年11月14日 (月)

デイヴィッド・ピース「TOKYO YEAR ZERO」文芸春秋 酒井武志訳

 見かけ通りの人間は誰もいない……

【どんな本?】

 東京在住のイギリス人作家デイヴィッド・ピースによる、敗戦後の占領期の日本を舞台としたシリーズ<東京三部作>の開幕編。

 昭和20年8月15日、東京、玉音放送の日。品川にある海軍第一衣糧廠の女子寮で変死体が見つかった。警視庁捜査第一課にお呼びがかかり、第二班の担当となる。現場に向かった刑事の三波と藤田は、汚水が溜まった地下室から、半ば腐った若い女の全裸死体を引きずり出す。

 これが、連続強姦殺人事件の幕開けだった。

 有名な小平事件(→Wikipedia)を題材に、捜査に走り回る刑事の視点から、闇市を仕切るヤクザ・体を売って稼ぐ女たち・戦争で家や家族を失った者・食料の買い出しに出かける者・窃盗で生き延びる戦災孤児など、価値観が逆転した戦後の混乱期のなかであがく者たちの姿を、独特の文体で描く暗黒小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は TOKYO YEAR ZERO, by David Peace, 2007。日本語版は2007年10月10日第一刷発行。今は文春文庫から文庫版が出ている。単行本ハードカバー縦二段組、本文約350頁。8.5ポイント25字×20行×2段×350頁=約360,000字、400字詰め原稿用紙で約900枚。文庫本なら上下巻でもいい分量。

 ハッキリ言って、文章はかなり読みにくい。地の文の中に、意味ありげながら雑音のような太字の文が何度も繰り返し出てくる、独特の文体がずっと続く。内容は特に難しくないが、舞台が敗戦直後の時期なので、その頃の風俗がわかると更にわかりやすい。

 なお、小説としては一種のミステリでもあり、細かい所にヒントが隠されている。謎を気にしながら注意深く読んでもいいし、気にせず作者に弄ばれても楽しめる。

 それと、ネタバレが嫌な人は、巻末の解説はもちろん、ネット上の書評も読まない方がいい。どうやら読者層はいわゆるミステリ・ファンばかりでなく、純文学系の人が多いらしい。ミステリ・ファンは作者の仕掛けをバラさぬよう心掛けるが、純文学系の人は違うマナーに従ってて、けっこう容赦なくバラしてたりする。

 ちなみに巻末の解説はネタバレも含むが、ネタバレの前にちゃんと「以後ネタバレあり」と警告を出している。

【感想は?】

 敗戦直後の東京の闇を、容赦なく描き出した問題作。

 そう、終戦ではない。敗戦だ。ここ大事。私たちは負けたのだ。が、日本人の作品で、ここまで容赦なく「日本は負けた、日本人は敗者だ」としつこく繰り返す作品は、まずないだろう。

 「それでも私たちは頑張って生きてきた」みたく、なんとか前向きにお話を仕立てようとする本能が、どこかで働く。なんたって私たちの父母・祖父祖母の話なんだし。その点、この著者は全く容赦ない。繰り返し繰り返し、敗戦で心が折れた当時の人々の鬱屈した想いを抉り出してゆく。

 出てくる人も、あさましく屈折した連中ばかりだ。

 主人公を務める三波刑事からして、プロローグじゃいきなりヤクザにタカって煙草をせしめている。おまけに時流に関しても刑事の三波よりヤクザの松田の方がよっぽど詳しかったり。

 冒頭は昭和20年8月15日、敗戦の日だ。玉音放送の直前まで「露営の歌」(→Youtube)なんて勇ましい曲を流す傍ら、役所からはヤバい証拠書類を焼き捨てる煙が立ち上る。連中は予め知ってて、身を護る手立てを講じたってわけだ。まあ民間人も松田みたく敏い者は気づいてるんだが。

 その次の、被害者の遺体が見つかる現場の場面でも、戦時中の無茶苦茶さが良く出ている。ややこしいようだが、登場人物たちはまだ玉音放送を聞いていないので、気分は戦中だ。ここでは憲兵の出鱈目っぷりを充分に見せつけられる。

 タテマエとしちゃ、そういう連中は公職追放で消えた事になってるんだが…。実際、今でも公安調査庁(→Wikipedia、警察の公安とは別)なんてのが生き延びてて、しょっちゅう人員整理の対象となるけどいつもなぜか復活してる、なんて不気味な噂も。

 主題となる小平事件の被害者たちも、実に哀しい。犯人の小平義雄は、若い娘たちを食べ物で釣って連れ出し、犯して殺した。食べ物が貴重だったのだ、あの頃は。

 食べ物に必死なのは若い娘だけじゃない。田舎の農家まで買い出しに行く場面も、あさましいやら悲しいやら。そもそも一介の民間人が農家まで食料を買いに行かにゃならんのも、流通網が完全に潰れてるからで、当時の大日本帝国政府の無能っぷりを否応なしに示してるんだが。

 流通網が潰れてるわけで、列車も満員なんてもんじゃない。おまけに乗客はみんな膨れ上がった荷物を持ち込んでる。今でこそ通勤の満員電車はお行儀よく並んで乗り降りしてるが、命がかかってるとなれば…

 関係者に聞き込みに行く場面でも、なかなか当人が見つからない。みんな家を焼かれ家族を失い、親戚などの家に移り住んでたり。当時の東京じゃ、それが当たり前だったんだろう。

 そんな中、ヤクザは闇市を仕切ってのし上がってゆく。なんたって警官の多くが公職追放でいなくなっている上に、路上には飢えた者があふれている。そこでヤクザが闇市を仕切るわけだが、美味しいシノギにゃタカりたがる者も多い。軍需品の横流しもあったようで、市中には武器も溢れ…

 ってな人々のあがきも辛いが、主人公の三波がシラミに悩まされガリガリと体を搔きまくる描写も、なかなか気分的に堪えた。ついつられてこっちも掻きたくなるんだよなあ。

 戦後の混乱期。誰もが負け犬の立場に叩き落された頃。食うため、生きるため、他人を情け容赦なく押しのける者たち。そんな日本の昏い時代の、更に暗黒の部分を、8月の太陽さながらに明るみに引きずり出し、私たちに見せつける、あまりに残酷で厳しい物語だ。

 文章の読みにくさも加え、気力・体力を充実させて充分に覚悟して読もう。でないと、読者の心まで闇に引きずり込まれてしまう。

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2016年7月17日 (日)

R.D.レイン「結ぼれ」みすず書房 村上光彦訳

わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。
手に入ったのは、いつだって、欲しくないものだった。
欲しいものは
        わたしの手には入らないだろう。

【どんな本?】

 反精神医学(→Wikipedia)を掲げた20世紀の精神医学者 R.D.レイン(→Wikipedia)が著した、詩集。

 ここに描かれるのは、人の心の情景だ。絡み合いもつれあい、身動きが取れなくなった、または更にもつれてゆく、人と人との関係である。お互いがお互いの気持ちや思惑を探り合い、投影しあい、反射しあう形で、わだかまりが膨れ上がってゆく様を、詩にすることで戯画化し、わかりやすく読者に示す。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は KNOTS, by R. D. Laing, 1970。日本語版は1973年11月25日第1刷発行。私が読んだのは1985年8月5日発行の第10刷。だいたい年に一回の増刷だから、着実に売れている。

 単行本ハードカバー縦一段組みで本文約147頁。なにせ詩なので、行は長短いろいろだし空行も多い。単純に文字数を見積もると、400字詰め原稿用紙で100枚を切るぐらいで、小説なら短編の分量だろう。

 文章はこなれていて読みやすい。が、内容はややこしい。というか、じっくり味わって読む本だ。とまれ、文学としての詩とはいっさか異なり、語られるのは風景ではない。まっさらな背景の中で展開する、人と人の心がスレ違いほつれてゆく過程だ。そんなわけで、「私はブンガクは苦手で」という人でも、親しい人と仲たがいした経験のある人なら、楽しめるだろう。

【感想は?】

 ややこしい。

 なにせ、描かれる情景がしち面倒臭いシロモノばかりだから。たいていループしてたりマトリョーシカみたく再帰してたり合わせ鏡みたく反射に反射を重ねてたり。

 しかも、辛気くさい。

 「これは凄い、感動した」というタイプの詩ではなく、二人の人間の関係が、ちょっとしたスレ違いからもつれ、互いに自分の気持ちや勘ぐりで深みにハマり、身動きが取れなくなってゆく過程を描くものばかりだから。

 詩とはいっても、風や林や海は出てこず、歴史的な人物や事件も出てこない。どこにでもいるような人たちが、家族や恋人どうしなどの親しい関係の中で、いつでも演じているような場面を、お互いの心の声を拾い上げて言葉にしたような、そんな物語が続いてゆく。

 そして、人それぞれ好き勝手に解釈できる。具体的な事柄は出てこないので、読者が都合のいいように、最近の経験に当てはめて考える事ができる。たとえば、こんな部分は…

それゆえ
 私たちは彼を手助けして悟らせなくてはならない――
 彼にはなにか問題があるなどとは
 彼が考えもしないという、その事実こそ
 彼にいろいろ問題があるなかの
 ひとつなのだ、と

 考えようによっては、自称霊能者や健康食品のセールスマンが、カモを脅す文句とも取れる。また精神医学者という著者の立場を考えると、「俺は狂ってない」「狂ってる人はみんなそう言うんです」的な場面も思い浮かぶ。逆に人を狂人扱いする者こそ狂っている、みたいな場面でもいい。そして、結局、回答編はない。

 詩だけでなく、図を使った作品もある。これなんかは、ありがちな風景かもしれない。

ジャックは思う(ジャックが思うから)ジルは
  ↑             ↓
 なぜなら     けちだと 欲張りだと
  ↑             ↓
 けちだと 欲張りだと   なぜなら
  ↑             ↓
ジルは思うから(ジルは思う)ジャックは

 ケチな奴ほど相手を欲張りだと思う。ありがちな構図かも。これがけちと欲張りの関係なら、単に仲が悪くなるだけだが、もっと物騒な関係もある。

ジャックがジルを恐れていると
    ジルが思っていると
    ジャックが思うならば
ジャックはジルをますます恐れる

 そして互いに「お前なんか怖くないぞ」ってフリをして、それが更に互いの恐怖を煽ってゆく。この本ではジャックとジルだからただの痴話げんかみたいに思えるけど、同じ構図がイスラエルととパレスチナや、キリスト教徒とイスラム原理主義者に置き換えても成り立っちゃうから、わたしはますます恐れる。

 などの、相手があって成り立つ風景もあるが、一人でも成り立っちゃう詩もあったり。

わたしはそれをする、なぜなら、それが正しいから。
それは正しい、なぜなら、わたしがそれをするから。

 ヒトゴトだと思うと気楽に読めるし、嫌いな奴を思い浮かべれば「うんうん、アイツはそういう奴だよ」と思えるんだが、自分を振り返ると、そういう部分もあるんんだよなあ、困ったことに。

 そう考えると、別に病的な風景を描いた作品集ってわけでもなく、「ヒトってそういうモンだよね」みたく気楽に構えて読むのも、いかもしれない←と、自分の欠点を人類全部の欠点にスリ変えて誤魔化してます

 難しくはないけれど、ややこしいし、しち面倒くさい内容が多い。とはいえ、人と人が親しく付き合っていると、よく嵌り込みやすいドツボな構図を、余分な背景や風景を排し、敢えて顔なしの人形に演じさせたような形にすることで、多くの人が「ああ、こういう事ってあるよね」と思い当ってしまう作品にした、そんな情景を集めた本。

 メタな記述にアレルギーがないなら、またはメタな構成が好きなら、とりあえず読んでみよう。

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2016年7月 3日 (日)

ジョーゼフ・ヘラー「キャッチ=22 上・下」ハヤカワepi文庫 飛田茂男訳

彼は文学についてあらゆることを知っていた――文学をいかに楽しむかということ以外ならば。

「ドイツ軍はいま追い立てられておる。そしてわしらは相変わらずここにおる。二、三年もたてばあんたがたもいってしまうじゃどうが、わしらはやはりここにおるじゃろうて」

「本官らは本官らのいまだ知らぬ犯罪や過失をおかしたかどによっておまえを告発する」

「おれとあらゆる理想とのあいだに、いつも幾人ものシャイスコプフども、ペケムども、コーンども、キャスカートどもが立ちふさがっているのをおおれは感じるんだ。そして、言ってみればそれが理想を変えてしまうんだな」

【どんな本?】

 アメリカの作家ジョーゼフ・ヘラーによる、第二次世界大戦中の米軍を舞台とした、不条理とブラック・ユーモアあふれる戦争小説。

 第二次世界大戦のイタリア戦線。米軍は地中海に浮かぶピアノーサ島(架空)に航空基地を置き、激しい対空砲火にもめげず連日の出撃を続けているが、隊員はみなイカれていた。

 連隊長のキャスカート大佐は昇進のために責任出撃回数を増やして隊員の帰国を認めず、冗談で少佐にされたメイジャーは人を避け、CID(特捜部)が捜すワシントン・アーウィングは何処かに潜伏し、ペケム将軍は正装での爆撃出撃を画策、マイローはマルタで7セントで買った卵を5セントで隊に売っている。

 帰国を望むヨッサリアン大尉は狂気を装い、さまざまな奇行に走るが、謎の規則キャッチ=22に阻まれ…

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CATCH-22, by Joseph Heller, 1961。日本語版は1977年3月にハヤカワ文庫NVより刊行。私が読んだのは2016年3月15日発行のハヤカワepi文庫版。文庫本の上下巻で縦一段組み、本文約(436頁+415頁)=851頁に加え、訳者あとがき6頁+訳者による「『キャッチ=22』の時間構成について」9頁+松田青子の解説7頁。9ポイント41字×18行×(436頁+415頁)=約628,038字、400字詰め原稿用紙で約1,571枚。文庫本なら上中下の三巻でもいい大容量。

 文章はやや読みにくい。おそらく原文は地口や韻などの仕掛けがタップリ仕込んであって、かなりクセの強い文体なんだろう。お話も時系列をシャッフルした形で進むので、ドコで何が起きているのか、なかなか読者には見えてこない。登場人物は強烈なキャラクターが多いのだが、次から次へと多数の人物が出てくるので、なかなか覚えきれない。できれば登場人物一覧が欲しかった。

 作品中で主人公の所属は空軍となっているが、当時の米軍に空軍はない。陸軍航空隊だ。カバーの著者紹介には「陸軍航空隊に所属」とあるので、著者・訳者ともにわかった上で、作り話である由を強調するためワザと架空の歴史・組織をわかりやすくデッチ上げたのかも。

 舞台は第二次世界大戦の終盤、連合軍がイタリアに上陸し北上をはじめ、イタリアは降伏するがドイツ軍が頑強に抵抗を続けている頃。連合軍はノルマンディー上陸に備え戦力を出し惜しみし、結果としてイタリア戦線は苦戦に陥っている。詳しくは以下の Wikipedia を参照しよう。知らなくても作品を楽しむには大きな問題はないけど。

 イタリア戦線イタリア侵攻

 なお、主人公の乗機B-25(→Wikipedia)は双発の爆撃機で、乗員6名(正副操縦士,航法士兼爆撃手,回転銃座兼機関手1名,無線手兼側面銃座1名、尾部銃座手1名)。

【感想は?】

 出世欲旺盛でわからずやの上司の下で働いた経験のある人には、とても身に染みる作品。

 始まってしばらくは、趣味の悪いドタバタ・ギャグに思える。例えば最初の病院の場面で出てくるギブスとガーゼに包まれた動かない病人。動かないばかりでなく、声すらださない。生きている証拠は、彼につながった2本のチューブだけ。そう、入力と出力だ。ところが…

 と、いきなり凄まじく悪趣味なギャグをかましてくる。

 もっとも、この環境じゃ狂うのも仕方ないなあ、と思ったり。舞台がイタリア戦線だけに、彼らが置かれているのは戦場だ。そりゃ歩兵と比べりゃ敵の姿は見えないが、それだけに恐怖の得体の知れなさは大きい。現実には対空砲も人が撃ってるんだが、爆撃機に乗ってる乗務員には単に「弾が飛んでくる」としか思えない。

 こういった出撃の恐怖は、下巻での出撃場面が巧く描けている。「B-29日本爆撃30回の実録」でも、無敵に見えたB=29の乗員が、ほとんど制空権を失っていた帝国陸海軍の戦闘機に怯える場面が描かれていた。まして優れた対空砲アハト・アハト(→Wikipedia)を擁するドイツ軍が相手なら…

 そんなわけで、主人公のヨッサリアン大尉は、できる限り早く帰国したい。そこで狂気を装おうと軍医に相談するが。

  • 出撃は怖い。よって出撃を望む者は狂っている。
  • 狂った者は飛行任務を免除される。
  • 飛行任務を解くには、軍医に免除願を出す必要がある。
  • だが、軍医に免除願を出す者は正常と看做される。

 どないせえちゅうねん。このルールのイカれ具合が、キャッチ=22だ。

 戦場における狂った論理にも見えるが、現在日本の組織でも、こういった変な規則は珍しくない。例えば生活保護を受けるには住所が必要だが、最も保護を必要とするホームレスには住所がない。虐待する親から逃げた子供が警察に「保護」されると、確実に親元に戻される。

 なんて硬い例を持ち出すまでもなく、似たような身動き取れない状況は多い。私が思わず同情しちゃうのがメイジャー少佐。悪ふざけで変な名前をつけられ、その名前が原因で幼いころからからかわれ続ける。「彼はあまりにも絶望的に友だちを必要とするために、かえってひとりも見つけることができなかった」。切ないねえ。

 あまりに真面目で従順なため、誰からも嫌われる羽目になるメイジャー少佐。軍に入り着任して書類仕事を始めるが、彼が書類を書くたびに仕事の量は膨れ上がってゆく。そこで彼が編み出した書類の処分法は…。

 こういう官僚主義っぽい組織体質をあげつらうエピソードにはこと欠かないし、風通しの悪い組織で働いた経験があれば、「うん、ありがち」と感じるネタも沢山ある。だいたい書類ってのは論理的な構造こそが大事で、見た目なんざどうでもいいだろうに、なんで罫線の位置でゴタゴタ言われにゃならんのだブツブツ…と感じる人も多いだろう。

 これの最たるのがシャイスコプフ中尉。分列行進に入れ込み、分列行進を完璧にするため労を惜しまず、あらゆる改善案を検討する。仕事人間としちゃ立派なもんだが、現代の空軍に分列行進が何の意味があるんだろう。これも今の日本での組体操への拘りとかを考えると、別に軍に限った事じゃないと思えてくる。

ただし、自動小銃が発達する前の昔の陸軍じゃ行進の訓練には確かに意味があったのだ。この辺はマクニールの「戦争の世界史」や「戦闘技術の歴史」シリーズに詳しい。

 こんな組織の中で出世する人ってのは、やはりどこかイカれた人が多いようで、連隊を率いるキャスカート大佐の権威主義・出世主義もなかなか相当なもの。コテコテの軍人である彼と、従軍牧師の会話は、思わず笑っちゃうものの、技術を全く知らない管理職の無茶振りに苦しめられるエンジニア諸氏には、他人事とは思えぬ切実さを感じるだろう。

 そんなキャスカート大佐と陰険にやりあうのが、ペケム将軍。彼も組織の論理を知り尽くした男で。

わしらのこの大部隊においては、実のところ果たすべき非常に重要なことはないし、急を要することもなにひとつ存在しない。その反面、人々にわしらが非常に多くのことをしていると知らせるのは重要なことなのだ。

 あなたの職場にもいませんか、無駄に忙しそうな人。こうなると笑っていいんだか泣いていいんだか。

 そんな軍務に惜しい潰されまいと、ヨッサリアンはじめ隊員たちは度を越した悪ふざけで気を紛らわすしかない。だが、ただ一人、権力の亡者キャスカート大佐を巧くあしらう人物が出てくる。隊員に充分な食事を提供するためあらゆる手を尽くす善意の男、マイローだ。最初は冴えない厨房担当に見えた彼だが…

 お話も終盤に行くに従い、更にブラックさが増してゆき、登場人物の多くも悲惨な運命をたどる。これが単に悲惨なだけでなく、その多くが無駄で無意味で間抜けな死なのがやりきれない。

 くだらない地口や繰り返しのギャグ、ガキに凶器を持たせたが故の危ない悪ふざけも多いが、若者が狂ってゆく戦場と組織の不条理も、いささかワンパターンのドタバタ風味ながら巧く描けている。ただ、アメリカの圧倒的な物量に負けた日本人としては、著者が無意識に当然として描いた米軍の豊かさに複雑な気持ちを抱いてしまう。

 などとは別に、官僚的な組織の不合理さは、アメリカ人より日本人のほうが、よりリアルに感じるんじゃないだろうか。ただ長丁場な上に複雑な構成なので、時間をとって一気に読むのがいいだろう。 

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2016年5月31日 (火)

蘇部健一「六枚のとんかつ」講談社文庫

オナニーさん求む!
 毎週土曜、日曜の午前十時から午後五時までの簡単な仕事で、日当三万円を支給される権利を持つ連盟のメンバーに空席がひとつできた。仕事はあくまで名目上のものである。われこそはと思うオナニーさんは、今週の土曜日の午後三時から五時までのあいだに、○○ホテル072号号室まで直接こられたし。
  ――FILE No 7 オナニー連盟

【どんな本?】

 あまりに大胆な作風で賛否両論を巻き起こした、1997年の第三回メフィスト賞受賞作。

 小野由一は、保険会社のエース調査員だ。職業柄から多くの不可解な事件を担当したが、友人で推理作家の古藤や前途有望な後輩の早乙女とチームを組み、鮮やかに謎を解き真相を明らかにしてきた。

 これは、彼が手掛けた数々の事件の記録である。

 …という体裁の、おバカなミステリ・ギャグ連作短編集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1997年9月に講談社ノベルズで出版。1998年2月、同じく講談社ノベルズより「六枚のとんかつ 改定新版」を出版。これを加筆・訂正したのが講談社文庫版で、2002年1月15日第1刷発行。

 文庫本で縦一段組、本文約419頁に加え、文庫版あとがき2頁+葉山響&海路友の解説11頁。8.5ポイント41字×17行×419頁=約292,043字、400字詰め原稿用紙で約731枚。文庫本としては厚め。

 文章はこなれている。内容も難しくない…というか、FILE No 7 で想像がつくように、お下劣な芸風なので、覚悟しよう。また名作ミステリへのオマージュが多いが、知らなくても全く問題ない。もしかしたら元ネタが好きな人は怒り出すかも。

【収録作】

 各作品は独立しているが、モノによっては順番が大事なので、できれば頭から読んだ方がいい。

  • はじめに
  • FILE No 1 音の気がかり
  • FILE No 2 桂男爵の舞踏会
  • FILE No 3 黄金
  • FILE No 4 エースの誇り
  • FILE No 5 見えない証拠
  • FILE No 6 しおかぜ17号49分の壁
  • FILE No 7 オナニー連盟
  • FILE No 8 丸ノ内線70秒の壁
  • FILE No 9 欠けているもの
  • FILE No 10 鏡の向こう側
  • FILE No 11 消えた黒いドレスの女
  • FILE No 12 五枚のとんかつ
  • FILE No 13 六枚のとんかつ
  • FILE No 14 「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」を読んだ男
  • 最後のエピローグ
  • ボーナス・トラック 保険調査員の長い一日
  • 文庫版あとがき
  • 解説 葉山響 with 海路友

【感想は?】

 発表当時は賛否両論があったそうだが、評価はいずれも同じだ。

否:くだらない!
賛:くだらねーw

 芸風は、しょうもないギャグ。どれぐらい酷いかは、最初の「FILE No 1 音の気がかり」で充分に伝わるので、味見にはちょうどいいだろう。ギャグの好き嫌いは、リズムや好みで分かれるので、言葉で説明するのは難しいのだが、この作品集ではお下劣かつしょうもない芸風で突っ走ってゆく。

 最初の「音の気がかり」からして、肝心のトリックもしくはネタが実に酷いというかおバカというか、中学生の思いつきを小説に仕立てたようなシロモノで、これでよくメフィスト賞を取れたなあ、と選んだ編集部の大胆さに呆れてしまう。

 私はミステリに疎いのでよく分からなかったが、作品の多くが有名な作品を引き合いに出しているのも特徴だろう。ただし、元作品のファンが出されて嬉しいかどうかは難しいところ。例えばシャーロッキアンの皆さん、「赤毛連盟」が「オナニー連盟」って、納得できますか?

 困ったことにこの作品、単にネタを戴くだけでなく、お話の構成までなぞっている(っぽい)のが嬉しいような困るような。つまりは単にトリックを味わうミステリとしてだけでなく、パロディ小説としての仕掛けまであるから始末が悪い。こういう頭よさげなネタをコッソリと隠しておきながら、タイトルが「オナニー連盟」なんだもんなあ。

 ホームズ物で欠かせないのっがワトソン君で、昔からミステリじゃ探偵には相棒がいると相場が決まっている。この作品集、前半では保険調査員の小野がワトソン役で、探偵は古藤のように見えるが、読み終えて振り返ると、「どこが名探偵じゃい!」と突っ込みたくなったり。

 「FILE No 6 しおかぜ17号49分の壁」あたりは、素人の私でも「西村京太郎のパロディかな」ぐらいの見当をつけながら読んでいたんだが、まさかこれほどヒドいネタとはw

 などと徹底して読者のガードを下げさせておいて、「FILE No 8 丸ノ内線70秒の壁」だ。まるで本格ミステリのように≪読者への挑戦状≫なんてモノを差し挟んでくる。「どうせくだらない下ネタだろう」とタカをくくっていたら、実はまっとうなトリックなので驚いた。ただ、このネタは、首都圏に住んでいる人じゃないとわかりにくいかも。

 そして、終盤になって、やっと出ました、タイトルにもなっている「五枚のとんかつ」「六枚のとんかつ」。タイトルでわかるように姉妹作で、肝心のトリックも似たアイデアを使っている。ばかりか、小説としての構成もソックリ同じで、これは手抜きなのかギャグなのかw しかも元ネタが畏れ多くも島田荘司の「占星術殺人事件」。いや私は読んでないけど。

 と、芸風はアレなんだが、肝心のネタを「とんかつ」で解説するあたりが、なかなか見事な工夫で感服してしまった。いやマジで。どうもミステリってのは込み入った話が多いんで、こういう風にわかりやすく説明する工夫には、私のように粗雑なオツムの者にはとてもありがたい。

 などと感心していたら、「最後のエピローグ」「ボーナス・トラック 保険調査員の長い一日」で再び「こんなんありかよw」と噴き出す羽目に。

 肌が合えばミステリに詳しい人ほど笑えて、合わなければミステリに詳しい人ほど怒りが募る、困った作品集。ミステリに疎い私は、もちろん気軽に楽しめた。

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2016年4月17日 (日)

パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 4

この国の土は新しい。人間の骨が十分に埋まっていない。
  ――第三部 第三部 分裂せる家

「…君だの、わしだのは、土地を見ると、種子をまくとか収穫することばかり考えるが、建築家は同じ土地を見ても、そこに建築する家ばかり考えるし、画家なら色彩ばかり見るだろう」
  ―――第三部 第三部 分裂せる家

 パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 3 から続く。

【テーマ】

 前の記事ではゴチャゴチャと小難しい事を書いたけど、この作品の最大の魅力は、もっとわかりやすい。

 カッコよく言えば断絶と継承、カッコつけなければ、変わってゆくものと受け継がれてゆくもの、だろう。同じテーマが、父と子の関係や、欧米文明に触れて激動する中国の精度・文化・風俗の形をとって、何度も繰り返される。

【父と子】

 王龍は、貧しい農民から身を興す。

 彼は昔からのしきたりに従って生き、新しい時代を垣間見ながらも、身に染み付いたしきたりに従って死んでゆく。第一部の前半は、彼が成り上がる過程を描く。そこで彼はひたすらに種を撒き、耕し、獲り入れ、儲けで新しい土地を買い入れる。この段階だと、なぜ彼が畑に出るのか、その理由は幾つも考えられる。

 食うためでは、もちろん、ある。そして、出来るかぎり儲けたいという欲もある。儲けて金を稼ぎ、地位を手に入れて、地主の黄家を見返したいって気持ちもあるだろう。それ以前に、彼が育った世界では、子が家業を継ぐのは当たり前で、幼い頃から農民となる事しか考えていなかったんだろう。

 ところが、それだけじゃない事が、晩年を描く場面で明らかになる。息子が立派に育ち、自らはボケて体の自由も効かなくなった王龍が、どこに赴き、どう暮らすのか。この場面で涙する、仕事一途に生きてきたオジサンも多いんじゃなかろか。これはこれで、それなりに幸せな晩年なのかも。

 と、「子は親の決めた道へ進むもの」と決めてかかっていた王龍だが、その子供たちは…

 作品内で親と子のスレ違いを描いた場面は沢山ある中で、私が最も好きなのは、陳(岩波文庫版では青)を葬る場面。王龍にとって陳は長く苦楽を共にした信頼できる相棒だが、子にとっては違うのだ。流れてしまった時と、それと共に変わってしまった世間を、見事に象徴する名場面。

 そして、第二部・第三部でも、同じテーマが繰り返される。

 農作業を嫌い、勇ましさに憧れ、軍人となった王虎。仕事一本やりで家庭を顧みないのも、王龍と同じ。幸い天分はあったようで、見事に一軍の将となる。ただし生真面目さは受け継いでいても、土への愛は継がなかった模様。

 ところが、男の子が生まれると、コロリと参ってしまう。参ったのはいいが、人の殺し方は知っていても、愛し方は知らない。というわけで、彼の息子の王淵への接し方ときたら…。 王龍も王虎に同じように接していたんだが、王虎がそれに全く気づかないあたり、親子関係ってのは、そういうモンなのかも。

 と思ったら、そうでもない親子が、第三部になって出てくる。これは知見の広さの差なのか、育ちの違いなのか、性格によるものなのか。

【立場】

 子がやがて親になる、そういった繰り返される変化と共に、貧しい農民が地主になれば、立場も大きく変わってくる。

 貧しい農民として育った王龍と、地主のお坊ちゃまとして育った王大・王二・王虎。先の陳の葬儀の場面が示すように、「自分は何者か」って所からして、親と子は全く違う。初孫が生まれた時に王龍が感じる悲しさは、かのヒロインの面影と共に、切なく読者の心に忍び寄ってくる。

 このテーマも第二部以降で、何度か繰り返す。

 軍人になろうと出奔した王虎は軍に入る。将の目に止まり戦功を立て、昇進を果たす。民を苦しめる支配者に対し、革命を唱え立ち上がった将に忠実に従ってきた王虎だが…。 革命なんてそんなもん、と言っちゃえばそれまでなんだけど、当時は欧米から銃火器などの新しい武器に加え軍の編成など概念的にも軍事に革命が起きた時期でもあって。

 などと理想に燃えた王虎だが、彼が目指す先にあるものと言えば、これもやっぱり旧世代の発想から一歩も出ていないあたりが、やはり切ない。とまれ、これは王虎に限らず今でも…いや、やめとこう。

 これと同じ構図が、第三部の終盤でも再び繰り返される。

 第三部では、こういった事柄に加え、「中国人から見た米国」を描いているのも、ちょっとした読みどころ。日本と中国の区別がつかない欧米人が多いように、日本人だってアメリカ人とイギリス人の違いはわからない。これを「白人の女はどうして自分の亭主を見分けるのだろう」と皮肉るあたりは、思わずニンマリしてしまった。

【社会】

 世代が変わり、それぞれの立場も変わるばかりでなく、当時の中国は社会制度や文化・風俗も大きく変わる時期だ。都会に住む豊かな階層の若い世代は新しいモノに順応するが、田舎に住む者・貧しい者そして老いた者は、古い型から抜け出せない。

 第三部では、こういった中国社会の変化を、孫の王淵を中心に描いてゆく。

 都会と農村、豊かさと貧しさ、新しいモノと古いモノ、そして中国文化と西欧文化。こういった相反するモノゴトを一手に引き受けさせられるのが王淵で、そのためか頁が変わる度に彼の姿勢はアチコチへと揺れ動く。

 自由を求めて親元を去った王淵だが、さて親から離れてみると、何を求めているのかトンとわからないあたりが、頼りなくはあるが少し可愛くもあったり。当時の中国は何かと変化の大きい社会で、それまでの中国で通用していた職業や概念が通用しないってのはあるにせよ、自由ってのも手にしてみるとなかなか重たいもので。

ここにいる老人たちは、若いとき、みんなはっきりした単純な生活を送ってきている――金、戦争、快楽――それらは、彼らが生命をかけて求めるだけの価値のある、立派なことだったのだ。

 と、なまじ自由を手にしたがために悩んでしまう。同じ年頃に祖父の王龍は妻を買いに行った事を思えば、どっちが幸福だったのやら。

 新しい時代に対し、流れに乗って泳ぐ道を選ぶ愛蘭と生。更に新しい流れを自ら生み出そうとする猛。彼らの視野が狭いと決め付けることもできるけど、狭いからこそ勢いに乗って前に進めるってのもある。ウダウダと考えてたら革命なんて起こせないし。

 弁髪を切り、洋装に着替え、伴侶を自ら選ぶ。そういった新しい生き方を当然と考えながらも、王淵の身に流れている血は…。

【最後に】

 実はこの作品を読むのは三度目で、読むたびに新しい発見がある。歴史に興味がなかった昔はこれをハッピーエンドだと思っていた。発表年を考えると著者もそのつもりだったのかもしれないが、その後の中国の現代史を考えると、更にもう四巻ぐらいの激動巨編がかけそうな気もする。

 色々と悪し様に言われる中国共産党だが、20世紀からこっち、ここ40年ほどが最も平穏な時代に思えるから大変な国だ。

 などと難しい事は一切考えず、単に「面白い大河小説」だと思って手にとって欲しい。翻訳物とは思えぬほど文章は親しみやすいし、ストーリーは次々と事件が起きて飽きない上に、異国情緒たっぷりながら、身につまされるエピソードも満載で、読み終えたら「何かとんでもないモノを読んでしまった」と感じる、誰にもお勧めできる傑作なのだから。

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2016年4月15日 (金)

パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 3

「これは女だから、男よりもねじくれてるんだ。それに狐だから、女よりもねじくれてるんだ」
  ――第二部 息子たち

 パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 2 から続く。

【悪役たち】

 面白い物語には、憎たらしい悪役が必要だ。

 この作品だと、第一部ではかなりハッキリ明暗が分かれているが、第二部にはボンヤリとしてきて、第三部では切り分けできないほどに交じり合っていくる。

 第一部だと、王龍の叔父一家がわかりやすい。ロクに働きもせず、王龍に金をせびり、デマで村人を扇動して王龍一家を襲い…と、やりたい放題だ。それでも中国には長幼の序ってモンがあり、むげにはできない。シガラミの嫌らしさを体現したようなファミリーなんだが…

 次いで憎たらしいのが、王龍の第二夫人となる蓮華と、蓮華とツルんで王家に入り込む杜鵑。悪さったって、ツルんで浪費する蓮華と、その上前をハネる杜鵑って構図で、積極的に悪さをするわけじゃないんだが、こういう連中がどういう手を使うか、それを実に分かりやすく描いてゆく。

 つまりは「可哀相なアテクシ」を気取るんだけど、こういうのが上手い人って、いるんだよなあ。で、彼女らに対する阿蘭のアテツケが、なかなかに気が利いていると同時に、滅多に感情を見せない阿蘭が珍しく気持ちを露わにする場面なだけに、いっそう印象に残る。

 第二部以降になると、わかりやすい悪役がいなくなる。または、名前を持たぬモブが小さな悪役となる。

 その中で大きな役割りを果たすのは、「豹将軍の女」だろう。彼女が、まんまファンタジイに出てくるような人物で。

 構図としては。王龍の三男・王虎は軍人になる。彼の敵である匪賊が豹将軍で、その女が「彼女」。名前すら出てこないんだよなあ。美しいだけでなく、知恵も度胸もある上に、多少の事じゃ根を上げない芯の強さもある。お話の構図では悪役になるんだろうけど、映像化するなら若い頃の梶芽衣子あたりが演じるとピッタリなキャラクター。

 王龍の長男・次男もなかなかに困った人物なんだが、これはまた別のテーマを背負っていて。

【文化と風俗】

 発表当時の状況を考えると、この作品は中国の文化や風俗を伝える役割りも担ったと考えていいだろう。

 男女平等だの人権だのといったタテマエが通用しないのは、冒頭で嫁を買う所で衝撃を与えつつ、「ここはアメリカとは全く違う国なんですよ」とハッキリと示すので、読者も納得するしかない。

 著者は宣教師の両親に連れられて中国に渡り、米国への帰国後も敬虔なクリスチャンだった。が、この作品では、中国人目線での宗教観やキリスト教観が、皮肉交じりにチョロチョロと出てくる。こういった場面は、この作品の中ではいささか浮いている感もあるので、人により好き嫌いが分かれるかも。

 南方に出稼ぎに出た王龍が、外国人から手渡されたキリスト教の布教パンフレットを見て、何を感じたか。それを阿蘭がどう始末したか。王龍と阿蘭の立場で見ると実に当然の結果なんだが、当時の読者はどう感じただろう?

 村の祠や正月の行事などで異国情緒たっぷりに紹介される中国の宗教観が、最も良く出ているのは、葬式の場面だろう。

 死にどう立ち向かうかは、ある意味、その人の人生観を見事に映し出す。阿蘭が長男の結婚を急ぐ場面で、私は「歓喜の街カルカッタ」でのハザリを思い浮かべた。両者とも無学だし迷信まみれだが、こうまで潔く死を迎える姿は、どうも何か感じ入ってしまう。

第一部の終盤では、次々と葬式の場面が続く。これが物語の哀愁を盛り上げてゆく。が、最後の葬式の準備では、「同じ東洋でもやっぱり違う」と感じてしまう。日本でも、自分の墓を生前に自ら用意する人は多いが、さすがにココまで用意する人は滅多にいまい。

【軍事】

 第一部での軍は、水害や日照りみたいな扱いだった。「またどこかで戦争があるんだろう。何のために方々で戦争があるのか、誰も知らんがね」と、完全にヒトゴトだ。ところが第二部では、王龍の三男・王虎が軍人として登場し、軍閥としてのしあがってゆく。

 軍ヲタとして読むと、これが「混乱時の軍事動向」を、実にわかりやすく解説してくれている事に気がつく。たぶん、似たような事がアフガニスタンやシリアでも起きているんじゃなかろか。

 成長した王虎、最初は軍閥中の有力指揮官として登場する。日本史だと黒田官兵衛みたいな位置かも。当時の軍事勢力は大きく分けて二種類あって、一つは政府が指名する正規軍、もう一つは土地のワルがツルんだ匪賊。ところが当時の政府は弱体化し、正規軍でも地方の軍は政府を無視しつつあって。

 なんでそんな風になるのか。どうやって地域の隊が軍閥化するのか。軍閥は何を考えているのか。こういった事が、王虎を通し、素人でもよくわかるように描かれていて、ちょっとビックリ。にしても、読んでて「こりゃ軍閥化するのも仕方がないなあ」と思う箇所もあったり。いやね、金の流れがマトモな軍と逆で、ヤクザそのままなんだな。

 と同時に、人を指揮する者の心得も分かるのが楽しい所。王虎がスパイを放ち、その話を聞く場面は、上に立つ者が部下の報告をどう聞くべきか、実に参考になります、はい。

 加えて、軍事的な混乱が民衆にどういう変化をもたらすのかも、悲しいぐらいによく見えてくるのが第二部。

 どうせロクなもんじゃないのは予想がつくだが、ほんとたまったモンじゃない。匪賊が跳梁跋扈して有り金さらっていくのを皮切りに、税金も軍事費の負担で重くなり、おまけに軍の通り道になっただけでも様々な災難が降りかかる。これは中国だからってわけでもなく、第二次世界大戦の西部戦線でも大きく変わっちゃいなかったようだ。

 今も昔も、軍は食糧や武器弾薬など多くのモノと共に移動する。今のイラクあたりじゃアカデミ(→Wikipedia)とかの民間軍事会社が兵站を担っているが、昔はもっとシンプルな解決法をとった。第一部でも軍の横暴が少し描かれていたが、「台湾海峡1949」でも似たような場面が出てきたんで、今でも貧しい軍は似た手口を使ってるんだろう。

【国】

 国家とは何か、などと大きく構えた所は微塵もない作品だが、人がどうやって国民になるか、その過程も描いている。

 これも始点は王龍だ。田舎の農民だった王龍は、食いつなぐため南の都会へと向かう。ところが、最初は「中国人と言われても、それは自分のことのようには思えなかった」。

 そりゃまあ、朝から晩まで作物の面倒を見るだけの毎日で、テレビはもちろんラジオもなく、読み書きもできないから新聞や雑誌も読めないんじゃ、世界情勢なんか知りようもない。周囲にいるのは村の者と町の者だけじゃ、それが世界の全てと思っても仕方がない。

 ところが、否応なしに民族を意識させられる事件が起き…

 このテーマは、第三部になり、今度は主題の一つとして浮かび上がってくる。孫の王淵は、なんと米国にまで渡航するのだ。

 解説によると、第一部には在米の中国人から散々な非難を受けたらしい、それに対する返答も含んでいるのか、王淵の気持ちの揺らぎを通し、国というシロモノの捕らえ難さと、それが巻き起こす感情の嵐が、しつこいぐらいに繰り返される。ここで王淵が米国に抱く嫌悪感は、案外とサイイド・クトゥブ(→Wikipedia)のソレと同じじゃないか、と思ったり。

 サイイド・クトゥブ、エジプト人。地主の倅で知識人であり、米国に留学する。ところが留学中に反米および過激なイスラム思想に目覚め、帰国後はムスリム同胞団と合流するが、政府より弾圧され処刑される。彼の過激な思想は、アイマン・ムハンメド・ラビ・アル・ザワヒリ(→Wikipedia)などに受け継がれ、やがてアルカイダを生み出してゆく。

 911の主犯モハメド・アタも、エジプトの中産階級出身で、母国にいた頃はノンポリだった。ハンブルグ留学中にテロ組織にスカウトされ、過激思想に染まった(「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」)。その過程は今でも謎だ。ただ、王淵が感じた怒りは、多くの留学生が体験する事だろうと思う。

【続く】

 なんぞと大きく振りかぶった事を中心にかいたが、この作品の最大の魅力は、もっと身近で誰でもわかるテーマにこそある。次の記事で、なんとか決着をつけるつもりです、はい。どうも好きな作品だと熱が入ってダラダラと書きすぎてしまうが、許してください。

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2016年4月14日 (木)

パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 2

「これでいい。陳はいつもおれの災難を防いでくれた番人なんだから、こうするのが一番いい」

 パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 1 から続く。

【どんな本?】

 中国で育ったアメリカ人のパール・バックが、1931年~1935年にかけて発表した三部作。清朝末期から戦乱の世へと向かう中国で、貧しい農民から身を興し付近一帯の大地主に成り上がる王龍から始まる一族の三代記を、親しみやすいながらも緻密な筆致で描く怒涛の大河小説。

【謎の魅力】

 ノーベル文学賞に輝いたり名作全集に入ったりとナニやら難しそうだが、新潮文庫版は2年に3刷ぐらいのペースで版を重ね、2013年には95刷になっている。派手な話題にこそならないものの、今でも着実に売れ続けているロングセラーだ。しかし、シェイクスピアやトルストイのように、いわゆる「教養溢れる」類の文脈で語られることはない。

 それは、この作品が、そういう高尚なシロモノではないからだ。単純に、お話として面白いから売れている。

 この面白さを味わうのに、多くの前提知識や教養は要らない。必要なのは、本をじっくり読む時間だけ。中学一年生でも、「お話」が好きなら、充分に楽しめる。逆に、技巧を尽くしたトリッキーな作品を読みなれた人だと、あまりに朴訥な語りにシラけてしまうかもしれない。

 ただ、何がどう面白いのかと言われると、巧く説明するのは難しい。でも好きなモノは布教したい。ってんで、頑張ってやってみよう。

【舞台】

 いきなり読者は清朝末期の中国の田舎に放り込まれる。清朝末期とは言ったが、作品中に「清朝」なんて言葉は出てこないし、登場人物たちもそんな言葉は知らない。第一部は、あくまでも田舎の貧しい無学な農民、王龍の目線で進む。読者も、「ちょっと昔の中国」ぐらいに思っていればいい。

 冒頭では、貧しい農民の暮らしをじっくり描く。

 窓はあっても、ガラスなんかない。紙を貼ってあるだけだ。家は土で作る。竈も土だ。いずれも自分たちの手で作ったものだ。水道なんかない。水は外から汲んできて、瓶に溜めておく。湯を沸かすにしても、ガスなんかない。枯葉に火打石で火をつける。お茶は贅沢品で、普段はお湯だ。おまけに「おれ、正月から全然、体洗ってねえんだ」とくる。

 現代日本の生活からすれば、こりゃもう完全に異世界で、もはやファンタジイやSFの領域だ。

 なんか遠い世界のような気がするが、私達の祖父母・曽祖父母の時代も似たようなもんだった。今の私たちはこういう描写を「よく作りこまれた世界」に感じるけど、発表当時のアメリカの読者、特に農民は「農民って、どの国も似たようなもんだな」と思ったんじゃなかろか。

 異世界に感じるにせよ、身近に感じるにせよ。こういった生活をじっくりと書き込むことで、舞台がクッキリと姿を現し、読者を物語世界へと一気に引きずりこんでいく。

 著者はアメリカ人宣教師の娘で、幼い頃から中国で暮らし、英語より先に中国語を覚えたそうだ。にしても、貧しい農民の暮らしをここまで詳しく描けるとは、当時のアメリカ人、それも女性としては凄まじく珍しい。よほど現地の人に溶け込んで暮らしていたんだろうなあ。

 改めて読み返すと、冒頭は夜明けだ。少しづつ明るくなってくる頃合で、読者の目にも描写にあわせ次第に舞台背景が見えてくる仕掛けになっている。粗野な台詞に釣られて語り口も粗暴のように思えるけど、実は読者にとても親切かつ細やかな気配りをしていて、とにかく分かりやすくて読みやすい文章なのだ。

 たぶん、これは著者がアメリカ人の読者を意識したからだろう。

 今と違い、当時はテレビが普及していないし、中国人の生活も知られていない。そこで、中国をよく知らないアメリカ人向けに、しつこいぐらいに細かく中国人の生活を綴ったんだろう。おかげで、当時の中国を良く知らない私たちにも、世界設定がわかりやすく伝わってくる。

【社会】

 そんな世界に住む人々が作る社会は、というと。

 話は王龍の結婚の日から始まる。結婚ったって、当時の事だ。王龍は、どんな嫁さんが来るのか知らない。全て父ちゃんが決めたのだ。しかも。

 嫁さんは、近くの地主の奴隷を、金で買ってくるのだ。その嫁さんも、元は食うに困った親が、幼い彼女を地主に売ったのだ。持たないものは弱く卑しく、持つ者は強く偉い。人権なにそれ美味しいの、そういう社会である。

 どんな社会にも、そういう部分はある。今の日本だって、持つ者と持たない者の格差は、れっきとしてある。だが、ビョードーだのジンケンだのといったタテマエに隠されているだけだ。この物語は、そういったタテマエが発明される前の社会を舞台にした事で、人のホンネを実に分かりやすく示してくれる。

 そんな弱肉強食の世界なだけに、そこに生きる人々も厳しいルールに従っている。

 わかりやすいのが、地主の門番だ。所詮は雇われ人だが、何せ旦那様との面会の権利を握っている。ただそれだけなのに、王龍に対してはやたら横柄に振舞う。相手が弱いと見ると、とりあえずタカピーに出て噛み付く。そういう困った人の性質が、悲しいぐらいによく出ている。

 その門番が、多少豊かになって立派な服を着た王龍が再度訪れる場面では…。まあ、人って、そういう所もあるよね。

 長幼の序や男女の差別も激しい。嫁さんが身ごもった時は、男の子か女の子かで大騒ぎしたり。男の子だと大喜びなのに、女の子だと「今度は、奴隷です」とくる。そもそも王龍の嫁さんに対する仕打ちも、現代日本の感覚からすると、かなり無茶苦茶だったり。

【王龍】

 第一部で主人公を務める王龍、貧しい農民から地主へと成り上がるんだが、いわゆる成功譚のヒーローといったタイプじゃない。

 彼は当時の農民の典型だろう。無学で字も読めず、劣等感の塊なのに見栄っ張り。そんな王龍の最大の特徴は、何度も繰り返し出てくる、土地へのこだわりだ。少しでも金が溜まれば、土地を買い漁る。手に入れた土地は、意地でも手放さない。日照りで家を捨てなければならない時も、家財道具は売っても鍬と鋤は手放さない。

 と書くとまるで王龍の特徴のようだが、農民ってのはみんな似たような性分なんじゃないかと思う。

 「無学で字も読めず」などと書いたが、別に愚かなわけじゃない。農民にとっては土地が資本だと、世の本質を見抜く目は持っている。

 おまけに、農業に関しては文句なしのプロだ。今の日本人で、土地を見ただけで肥えてるか痩せてるか、どんな作物が相応しいか、いつ種を撒きいつ獲りいれるか、水や肥料は適切か、こういった事を判断できる人が、どれぐらいいるだろう? 相場を見て、作物の売り時を適切に決められる人は? 牛の良し悪しがわかる人は?

 農業に関しちゃプロだが、残念ながら当時の中国じゃ農民は地位が低く、馬鹿にされている。そんなわけで、王龍も町の者や商人には卑屈になってしまうあたりが、なんとも。

 そんな農民が暮らす村の社会も、なかなかに面倒くさい。

 豊作が続き余裕ができても、派手な暮らしはできない。なんたって、「あまり親しくなると、借金を申し込まれる」なんて心配しなきゃいけない。こういうせせこましい人の心情が、これでもかと繰り返し出てくる。飢饉の年に、一族の厄介者である叔父が実に困った嫌がらせをしてくれるんだが、この場面には思わず「小学生のイジメかよ」と思ったり。

 今から思えば、小学校ってのは、ソレナリにヒトの本性を教えてくれる場所でもあったんだなあ。

 やがて成り上がる王龍だが、財産を築いた後の王龍の姿が、これまた典型的な成金なのが切ない。

 なにせ貧しい農民の出で、学もなく字も読めない。それだけならともかく、遊び方も知らない。彼が茶店に赴く場面で、見につまされる男は、意外と多いんじゃなかろか。相応の金は持っている。社会的な地位もある。でも、遊興地での遊び方は知らない。こういう時の、心細い気持ちを、なんで女性である著者が、こんなに巧く書けるんだか。

 成り上がり大きなお屋敷に住む事になる王龍。身分は上がったものの、元々が農民の王龍、作物のことはわかっても、上流階級の付き合い方は知らない。ってんで、色々と苦労する羽目になるんだが。長男の結婚のゴタゴタから彼が逃げ出す場面では、思わず王龍に同情するお父様が沢山いるだろう。ほんと、男ってのはw

 などと、決してカッコいいヒーローじゃないんだが、何かと「うんうん、あるある」と、男なら身につまされる部分の多いキャラクターなのだ、王龍は。なんで女性の著者が、これほど男の本性を掴んだ人物を創造できたんだろう?

【阿蘭】

 やっと出ました、文句なしに三部作中で最高のヒロイン。

 冒頭で王龍に買われる、奴隷の娘。嫁さんを買うって時点で、凄まじい話ではあるが。

 決して美人ではない。これは結構、大事な点だ。美しくないからこそ、彼女はヒロインとして輝く。

 10歳の時、親に売られ地主の家で働き始める。育ちが貧しいせいか、暮らしの知恵には長けている。薪を節約するために、枯れ木や落ち葉をかき集め、また大通りでは獣の糞を拾って肥料にする。骨惜しみせず働き、家事ばかりか畑仕事もこなす。おまけに無口で、特に自分の事は滅多に話さない。

 当時の感覚だと、理想の嫁さんなんだろう。他にも何かと王龍を助けるわけで、ぶっちゃけ王龍の出世は八割がた彼女の功績と言っていい。

 にも関わらず、作品中の彼女の運命は…。 だからこそ、彼女は燦然と輝くヒロインなんだけど。

 まるで従順な獣のように黙々と働く彼女が漏らす台詞は、口数が少ないだけに、朴訥ながらどれもこれも読者の心に突き刺さってくる。無口で無表情、口を動かさずひたすら手を動かす彼女が、ごくまれに漏らす心の内。途切れ途切れに語られる、彼女が胸の奥に秘めた想い、幼い頃からの彼女の人生。

 決して綺麗ごとだけで生きている人ではない。特に、かつて勤めていた黄家への思いは、滅多に感情を表に出さない彼女が、その心の奥に何を潜めているかが、少しだけ覗き見れる貴重な場面だ。

 常に王龍の陰に隠れ、機転が利くわりに功は王龍に譲り、黙ってひたすら働き続けるだけなのに、この作品を語る人は口を揃えて彼女を絶賛する。登場場面はそれほど多くないし、台詞も少なく、けっして美しくもないのに、この作品で最も鮮烈な印象を残す、物語の登場人物としては空前絶後のヒロインだろう。

【続く】

 と、また熱中してダラダラと書いてしまった。次の記事に続きます。

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2016年4月12日 (火)

パール・バック「大地 1~4」新潮文庫 新居格訳 中野好夫補訳 1

それは土から来たのだ――銀貨は、彼が耕し、掘り返し、体をすりへらした土から来たのだ。彼は自分の生命を土から得たのだ。一滴また一滴と額に汗して、彼は土から作物を、作物から銀貨を、しぼり出したのだ。
  ――第一部 大地

【どんな本?】

 中国で育ったアメリカ人の作家パール・バックが、1931年に発表した雄大な三部作。清朝末期から革命へと向かう中国で、貧しい農民から成り上がる王龍・その子で軍人となる王虎・王虎の子で将来に悩む王淵と、制度も価値観も激動する社会の中で、命を繋いでゆく一族の三代を描く。

 1932年ピューリッツアー賞のほか、1938年には他の作品もあわせノーベル文学賞を受賞している。

【いつ出たの?分量は?】

 三部作の大作で、全体としては The House of Earth, by Pearl S. Buck となっている。それぞれは、以下。

  • 第一部 大地 The House of Earth 1931
  • 第二部 息子たち Sons 1932
  • 第三部 分裂せる家 A House Divided 1935

 Wikipedia によると、最初の日本語訳は第一書房から1935年~1949年の新居格訳。これが後に中野好夫の補訳により新潮文庫に入る。新潮文庫版は四巻からなる。それぞれの収録作と初版は以下。

  • 一巻 1953年12月28日発行 「第一部 大地」
  • 二巻 1954年3月8日発行 「第二部 息子たち」
  • 三巻 1954年3月15日発行 「第二部 息子たち」、「第三部 分裂せる家」
  • 四巻 1954年3月25日発行 「第三部 分裂せる家」

 私が読んだ第一巻は2013年6月15日発行の95刷改版。大雑把に2年に3刷ぐらいのペースで増刷してるんだから、今でも安定した人気があるんだなあ。

 文庫本で四巻、縦一段組みで本文約(483頁+457頁+463頁+372頁)=約1,775頁に加え、四巻には補訳の中野好夫による解説11頁。9ポイント38字×16行×(483頁+457頁+463頁+372頁)=約1,079,200字、400字詰め原稿用紙で約2,698枚。文庫本なら5冊でもおかしくない分量。

 というか、第二部と第三部をそれぞれ上下にして、全五分冊にした方が収まりがいいんじゃないだろうか。

【訳の読みやすさを比べる】

 今だと、新潮文庫の新居格訳と、岩波文庫の小野寺健訳が手に入れやすい。通して読んだのは新潮文庫の新居格訳で、岩波文庫の小野寺健訳は冒頭を少し読んだだけだが、印象はだいぶ違う。違いは台詞に大きく出ている。主人公の王龍の台詞を少し引用しよう。

新潮文庫の新居格訳 岩波文庫の小野寺健訳
「春だから、こんなものいらねえや」 「もう春だ、こんなものはいらない」
いいぞ。こう太陽ががんがん照り続いたんじゃ、小麦は実を結べねえな。 よかった。(略)こんなにぎらぎらと焼けつくような日差しがつづいたら麦の穂が実らないだろう
「んならほんとに左まえなんだな。土地って、血か肉みてえなもんだからな」 「それじゃ、ほんとうに困ってるんだな。土地というのはわれわれの血や肉とおなじなんだから」

 王龍は貧しく粗野で無学な百姓だ。新潮文庫版の新居格訳の方が、田舎者で品のない王龍のキャラクターが良く出ていると思う。これは他の所も同じで、新潮文庫版の新居格訳はくだけた講談調なのに対し、岩波文庫の小野寺健訳は上品でかしこまっている。そんなわけで、私は新潮文庫の新居格訳の方が好きだ。

 なお、人物の名前も訳によって違う。主人公の王龍、新潮版はワンロンで、岩波版はワンルン。どころか名前の文字まで違う人もいる。孫は新潮版だと王淵で、岩波版は王元、隣人も新潮版は陳で岩波版は青。

 内容的は特に難しくない。時代的には清朝末期~辛亥革命あたりなんだろうが、歴史なんか知らなくても大丈夫。そもそも登場人物たちからして、周りで何が起きているのか、よくわかってないしw 本が好きなら、中学一年生でも充分に楽しんで読める。

【感想は?】

 95刷は伊達じゃない。なぜ刷るか。理由は簡単。売れるから。なぜ売れるかというと、面白いから。

 ピューリッツアー賞だのノーベル文学賞だのと、ご大層な勲章がついているし、名作全集の類にもよく選ばれる。と書くとナニやら小難しくて高尚なブンガクみたく思われがちだが、決してそんな難しいモンじゃない。日本の文学賞で言えば直木賞や本屋大賞が似合う、「誰でも楽しめる面白いお話」だ。

 とはいえ、どこがどう面白いのかを説明しようとすると、けっこう難しい。

 第一部のストーリーを簡単に言うと、貧しい農民の王龍が嫁を貰ったのをきっかけに、成りあがって金持ちになるお話だ。というと男一代の成功物語のようだが、だいぶ感触は違う。

 読後の感触は心地の良い爽快感・達成感ではなく、「ああ、なんて遠いところまで来てしまったんだ」みたいな寂しさと切なさがこみ上げてくる。

 では人物はどうかというと、肝心の主人公である王龍が、実にありがちな頑固で古臭い農民で、成功物語のヒーロー像にはほど遠い。王龍に限らず、彼の父も王龍に負けず劣らずの頑固爺ぃだし、叔父さんはトラブルメーカーだし、地主の黄家の使用人は金をクスねる事しか考えてない俗物ばかりだし…

 と、しょうもない連中ばかりが出てくる。確かに魅力的な人物は出てくるんだが、この人が実に恵まれない。いやもう、読んでて「なんとかしろよ王龍、酷いじゃないか王龍!」と怒りたくなってくる。

 物語は清朝末期に始まる。王朝が倒れ、王龍の住む村にも戦乱が迫ってくる頃だ。が、肝心の王龍が読み書きもできない農民な上に、当時はインターネットはもちろんマスコミもない。そもそも電気きてないし。ってなわけで、背景となる社会情勢も、薄ぼんやりとしかわからない。

 にも関わらず、読み始めたら止まらない物語なのだ、不思議な事に。じゃあ、どこが面白いのか。その辺は、次の記事でおいおいと書くつもりです、はい。

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