« SFマガジン2024年8月号 | トップページ | イアン・カーショー「ナチ・ドイツの終焉 1944-45」白水社 宮下嶺夫訳,小原淳解説 »

2024年8月 6日 (火)

アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳

これはひとつのウイルス、あるいはひとつの感染爆発についての物語ではなく、僕たちの生活のあらゆる面に影響を与える感染という現象についての物語であり、それに対して僕たちに何ができるかについての物語である。
  ――序章

マサチューセッツ工科大学の研究者が、正確なニュースよりも誤ったニュースの方が、より速く、より遠くまで広がりやすい事を発見している。(略)人は新しい情報を広めえるのが好きだが、誤ったニュースは正確なニュースよりも一般に目新しい。
  ――第5章 オンラインでの感染

【どんな本?】

 新型コロナやエボラなどの感染症は、あるパターンにしたがって感染者が増減する。このパターンは、感染症ばかりでなく、意外なモノゴトの流行りすたりにも適用できる。コンピュータウイルスは、比較的に連想しやすい。デマやフェイクニュース、インターネット上の「バズる」なども、想像はつく。だが、金融危機や暴力犯罪はどうだろうか?

 数学を専攻した後、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院で数理モデリングを教えている著者が、感染症対策で成立した数理モデルが様々なテーマに応用されている事例を紹介しつつ、連鎖的な金融危機の内幕やデマの広がり方を語る、ちょっと変わった一般向けの数学・社会学の解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Rules of Contagion : Why Things Spread and Why They Stop, by Adam Kucharski, 2020,2021.日本語版は2021年3月5日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約379頁。9.5ポイント42字×17行×379頁=約270,606字、400字詰め原稿用紙で約676枚。文庫ならちょい厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も比較的にわかりやすい。著者は疫病対策に携わる数学者だが、数式はほぼ出てこないので、数学が苦手でも大丈夫。

【構成は?】

 序章と第1章は基礎を固める所なので、なるべくじっくり読む方がいい。第2章以降はそれぞれ独立した内容なので、気になった所を拾い読みしても大丈夫。

クリックで詳細表示
  • 序章
    新型コロナウイルス重症化の解明/2つの対策シナリオ/あらゆる「感染爆発」が存在する/流行曲線でみる感染爆発/感染を比較し、解明する
  • 第1章 感染の理論
    ギランバレー症候群とジカ熱/数理モデルの夜明け前/マラリアの原因は「悪い空気」?/いかにしてマラリアを止めるか/マラリア伝染モデルの構築/「記述的手法」と「機構的手法」/実験できない問題に答えを出す/ロスの遺志を継ぐ者たち/「集団免疫」の概念の登場/ヤップ島の感染爆発を追う/ジカ熱を運んでいるのは何者か?/将来予測にも利用できる数理モデル/数理モデルを感染症以外に適用する/新製品の普及に必要な4タイプの人間
  • 第2章 金融危機と感染症
    間近で見た金融危機前夜/とりわけ目立った「住宅ローン」/群集の不安と強欲モデル化/バブルの主要な4段階/金融危機を疫学の知見で解明する/再生産数「R」/Rの4要因/スーパースプレッディングかどうか/ネットワークの構造を分析する/「エイズのコロンブス」の真偽/困難なスーパースプレッダーの特定/感染症による分断を避けるために/感染症と金融危機の類似/金融危機を引き起こしたネットワークとは?/金融危機の伝播を防ぐために何ができるか
  • 第3章 アイデアの感染
    概念は感染するのか?/ネットワーク調査の壁/接触行動から流行を予測する/人間で社会的実験は可能か?/既存のネットワークを利用する/複数の暴露による「複合伝染」/人は新しい情報を示されれば考えを改めるか?/バックファイア効果が実際に起こるのはまれ
  • 第4章 暴力の感染
    コレラの奇妙なパターン/暴力連鎖を分析する手立てはあるのか?/自殺の伝染/暴力連鎖を防ぐ3段構成/天然痘から学んだこと/データ調査もしていたナイチンゲール/調査vs安全/一回きりの暴徒化/テロと集団行動/モデルをどう利用するか/予測との付き合い方/オピオイドと現在予測/実態把握と制御/割れた窓を直せば犯罪は減るか?/オンライン交流の影響
  • 第5章 オンラインでの感染
    インフルエンサー登場/影響力があり影響されやすくもある人はいるか?/反ワクチンとエコーチェンバー現象/ソーシャルメディアがエコーチェンバー現象を加速する/コンテクストの崩壊/インターネットは格好の実験場/コンテンツも進化しなければ生き残れない/ヒッグス粒子の噂の拡散過程/威力の低い感染を正しく評価する/オンラインで流行を生む方法はあるか?/「のぞき見法」/指名式ゲームは感染爆発を産むか?/動画の人気3タイプ/測定値を評価することの罠/行動の追跡とその価値/人々を常にオンラインにさせるには/出会い系アプリと政治/高度化するターゲティングによる拡散/ミームの適者生存/東日本大震災でのデマ拡散はどうすれば減らせたのか/間違った情報に対抗していくために
  • 第6章 コンピュータウイルスの感染
    最初のコンピュータウイルス/マルウェアの諸症状/ワームの需要/生き残り続ける/コードシェアの問題/ウイルスのようにコードも進化する
  • 第7章 感染を追跡する
    進化の道筋をたどる/遺伝学的データからウイルスの時間と場所を特定する/遺伝子データ公開の障壁/言語・文化への応用/「垂直伝播」と「水兵伝播」/遺伝子データとプライバシー/GPSデータのブローカー/禁断の実験
  • 第8章 感染の法則を生かすために
    データがあっても常に問題を解決できるわけではない/困難な状況で最大限にデータを生かすために/大規模なデータ収集とその分析をどう進めるか/新たな感染に対応するために
  • 謝辞/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 根本にある理屈は、「バースト!」や「複雑な世界、単純な法則」や「スモールワールド・ネットワーク」と同じだ。何かが伝播し蔓延する、そのパターンに関する本である。

 ただ、本書のアプローチは、数学が苦手な人にも親しみやすい。先の三冊が理論を詳しく説明しようとしているのに対し、本書は「現実にどんな事柄に使っているか、巧くいった点と巧く行かなかった点は何か」といった、生々しいトピックが中心だからだ。いわば数学の授業とニュース番組の違い、とでも言うか。

 さて、基礎となっている理屈は変数Rで説明が終わる。疫病で言えば、一人の感染者が平均何人にうつすか、を表す数字だ。これが1を超えれば、感染は広がる。1より小さければ、感染は収束する。

 これを理論化したのが、19世紀~20世紀初頭の医学者のロナルド・ロス(→Wikipedia)。マラリアの研究で1902年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。そこで満足せず、更にマラリアの撲滅をめざして研究を続け、なんとあらゆる伝染症が感染を広げる過程の数理モデル化を目指すのである。

 そこで異端者であり先駆者でもある立場を覚悟した、彼の言葉がとても凛々しい。

「我々は最終的には新しい科学を打ち立てるだろう。しかしまず君と僕とでドアを開けよう。そうすれば、入りたいものは誰でも入ってこられる」
  ――第1章 感染の理論

 ここで私が驚いたのが、マラリア撲滅の試算。てっきり蚊を絶滅させにゃならんのかと思い込んでいたが、実はそこまでする必要はない。一定数まで減らせば充分なのだ。実際、「蚊が歴史をつくった」によると、一時期は猖獗を極めた南北アメリカもほぼ抑え込みに成功している。

 さて、先の再生産数Rなんだが、もう少し詳しく書くと、以下四つの変数が関係している。頭文字をとってDOTSと呼ばれる変数の内訳は…

  • Duration=持続時間。感染源となってから治るか隔離されるか死ぬかまで、何日かかるかを示す。当然、長いほどヤバい。新型コロナなら、罹患した人が引きこもっていればDが減る。
  • Opportunities=機会。新型コロナ患者が駅などの人の集まる所に行けば、Oは増える。自宅勤務が勧められる所以だね。
  • Transmission Probability=伝播に至る確率は、マスクなどで飛沫感染を防ぐのがこれだ。
  • Susceptibility=感受性は、ワクチンによる予防が該当する。

 さて、かようにマラリアの予防・撲滅を目的として研究が始まった数理モデルは、マラリアのみならず、あらゆる伝染病へと適用範囲が広がった。ばかりでなく、意外な分野にも進出してゆくのだ。

数理経済学者エマニュエル・ダーマン(→Wikipedia)「人間は限りある先見性と大きな想像力を持ち合わせている」「そこで、モデルは必然的に、創り手が夢にも思わなかったようなやり方で使われるようになる」
  ――第2章 金融危機と感染症

 このあたりは、数学が科学の女王にして奴隷たる所以がひしひしと感じられる所。その「創り手が夢にも思わなかったようなやり方」を紹介するのが第2章以降で、数学や理科が苦手な人でも楽しめるのはここから。

 アイデアやコンピュータウイルスは直感的にわかるが、金融危機や暴力の感染は、ちとわかりにくい。でも、ちゃんと数理モデルが応用できたりするから面白い。

 とはいえ、中には数理モデルに頼りすぎた弊害の話も出てきて、著者の姿勢は学者としての慎重さも保っている。やはり社会問題に使おうとすると、それぞれの人の立場や思想が出る上に、多くの要因が絡み合っているため、一筋縄ではいかないようだ。

 とまれ、マラリアの研究という、切実な問題から始まった研究が、異なる分野の数理モデルの助けを借りて、伝染病全般へと適用範囲を広げ、更に金融や防犯や広告などの全く異なる分野にまで進出した話として、なかなかに起伏に富んだ物語が展開し、野次馬根性で読んでも楽しかった。数学は苦手だが興味はある、そんな人にお薦め。

【関連記事】

|

« SFマガジン2024年8月号 | トップページ | イアン・カーショー「ナチ・ドイツの終焉 1944-45」白水社 宮下嶺夫訳,小原淳解説 »

書評:科学/技術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« SFマガジン2024年8月号 | トップページ | イアン・カーショー「ナチ・ドイツの終焉 1944-45」白水社 宮下嶺夫訳,小原淳解説 »