マシュー・ウィリアムズ「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき」河出書房新社 中里京子訳
本書の読者は、偏見がヘイトクライムに変わるティッピングポイント(転換点)を探ってゆく過程で、有史以前の祖先から21世紀の人工知能までを含めた、全世界にまたがる旅をしてゆくことになる。
――第1章 憎むとはどういうことか人には自分と同じような人を好む傾向があるという強力な証拠がある。
――第4章 私の脳と憎悪「支配集団のメンバーは、下位集団からの脅威を感じたときに、偏見や憎悪を表す傾向が強い」
――第5章 集団脅威と脳イスラム過激派のテロ攻撃は、他の動機に基づくテロ攻撃に比べて約375%も多く報道されるため、一般の人々はこの種の事件から受ける脅威の印象を膨らませてしまう。
――第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減過激主義者の脳は、仲間の影響を受けるという点では、我々のものと同じなのだ。自爆テロをやろうとしている者に、その行動を考え直させるには、仲間の力を借りるのが一番だ。
――第8章 憎悪を生み出す過激派のカルチャー政治家やメディアから、「自分たちとは違う人たちのせいで人生が損なわれている」と告げられたときには、彼らの動機を常に疑い、誤情報や偽情報を見つけたら、自分の脳内で発令された非常警報を解除することが必要だ。
――第11章 偏見が憎悪に変わるティッピングポイント
【どんな本?】
本書が扱う憎悪は、憎悪犯罪=ヘイトクライムのヘイトだ。外国人・〇〇教徒・同性愛者・障碍者など、ある特徴・属性の者全体への敵意や憎しみである。恥をかかされた・迷惑をかけられた・恋人を奪われた等の理由で抱く、特定個人への恨み・妬み・復讐の念は含まない。
同性愛者の著者は、若い頃に同性愛者狩りの被害を受ける。以来、著者は犯罪学を学び、憎悪犯罪の被害者・加害者双方について調査・研究を始めた。その成果の一つが本書である。
憎悪犯罪の根本には何があるのか。犯罪者に共通した特徴はあるのか。それは生来のものか、環境によるものか。どんな環境が犯罪を増やすのか。大きな事件の報道は憎悪犯罪に影響を与えるのか。インターネットの荒らしやボットは加害者・被害者にの変化を促すのか。そもそも憎悪犯罪は、どう定義すべきか。そして憎悪犯罪を防ぐため、私たちには何ができるのか。
英国の犯罪学教授による、一般向けの憎悪犯罪の解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Science of Hate : How Prejudice Becomes Hate and What We Can Do to Stop It, by Matthew Williams, 2021。単行本ハードカバー縦一段組み本文約371頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント46字×21行×371頁=約358,386字、400字詰め原稿用紙で約896枚。文庫なら薄めの上下巻ぐらいの分量。
文章はやや硬い、というか学者の文章だ。まず、言葉が堅苦しい。これは賢い人にありがちなパターン。また、結論を断言せず、「と思われる」「可能性がある」みたく、煮え切らない文章が多い。これも、学者らしく正確を期する姿勢の表れだろう。
内容は特に難しくない。いや難しい部分はあるんだ、脳の部位の偏桃体とか。でも、「そういう部位があるのね」ぐらいに考えて読み飛ばしても、まったく問題ない。つまりは最近の学者らしく「様々な視点や方向性から仮説を試してます」と言いたいだけだから。こういう所はまだるっこしくはあるんだが、同時に根拠や検証方法を明らかにして信憑性を高めてもいる。
結論として、この手の本を読み慣れていないと取っつきづらく感じるかも。全部を正確に理解しようとするとシンドイけど、面倒な所を読み飛ばすコツを心得ていれば楽しく読める。
あ、それと、政治的にリベラルで、右派、特に極右には批判的な姿勢なので、そこは覚悟しよう。
【構成は?】
頭から読む構成だが、気になる所だけを拾い読みしても充分に楽しめる。
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- プロローグ 憎悪とともに生きる
- はじめに
- 第1部 憎悪の基盤
- 第1章 憎むとはどういうことか
“憎む”とはどういうことか
ヘイターのプロファイル - 第2章 ヘイトクライムの発生件数
いつ、どのように数えているか
ヘイトクライムの件数は増えているか - 第3章 脳と憎悪
柔らかい灰色の鎧の下で
脳内の憎悪領域を同定する
私たちを憎悪に押しやる領域
憎悪をいだいているとき、脳の他の部分は何をしているのか - 第4章 私の脳と憎悪
脳のスキャンを行ってくれる神経科学者を探す
憎悪を調べる神経科学のつまずき
脳を超えて - 第5章 集団脅威と脳
集団脅威の検知における進化
人間の生物学的特徴と脅威
社会、競争、脅威
カルチャーマシン、集団脅威、ステレオタイプ
驚異の“認識”を中和する
脅威を超えて
- 第2部 憎悪の促進剤
- 第6章 トラウマ、コンテインメント、憎悪
“平均的な”ヘイトクライム犯
“例外的な”ヘイトクライム犯 - 第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減
憎悪の引き金を明らかにする
私たちの心理とトリガーイベント - 第8章 憎悪を生み出す過激派のカルチャー
意義の探求と極端な憎悪
神が私にそうさせた
戦士の心理 - 第9章 ボットと荒らしの台頭
入れたものが返ってくる
ヘイトスピーチはどれぐらいネットで蔓延しているか
棒きれと石
法律はそれを阻止できるか
ソーシャルメディア企業はそれを阻止できるか
私たちはそれを阻止できるか - 第10章 言葉と行動による憎悪行為
極右勢力にとってのゲームチェンジャー
「現実世界における取り組みの投稿」 - 第11章 偏見が憎悪に変わるティッピングポイント いかにしてそれを防ぐか
次に起こるヘイトクライムの予測
憎悪をなくすための七つのステップ
20年間の研究でわかった攻撃者(と私)の特徴 - 謝辞/訳者あとがき/原注/索引
【感想は?】
書名に「科学」とある。が、残念ながら、現状は科学と言えるレベルにない。
いや著者は科学であろうとしているのだ。できる限り統計を取り分析し、また様々な脳スキャンを試したり。ただ、なにせ相手は人間でだ。わかっていないことが多すぎる。脳スキャンにしても、「偏桃体が活性化したのは分かるが、憎悪をいだいてるとは断言できない」と、慎重な姿勢を保つ。
こういう所がまだるっこしくもあるが、同時に誠実でもある。例えばデータだ。本書は米国と英国の統計や事例を主に扱っている。これはヘイト・クライムの扱いが両国は比較的に厳しく、データを集めやすいからだ。たぶん、言語の問題もあるんだろうけど。
これについて、「そもそも法的な根拠があいまいなんだ」と愚痴こぼしてたり。例の一つが相模原障害者施設殺傷事件(→Wikipedia)だ。犯行理由の一つが障害者差別なのは明らかだが、日本の法じゃ障害者差別はヘイトクライムと定義していない。だから正式な統計じゃヘイトクライムとされないのだ。
また、「ゴス(→Wikipedia)だから」なんて理由で襲われた例も出てくる。これも法のためヘイトクライムにはならない。
サブカルチャーを対象としたヘイトクライムには、それを罰する特定の法律がないため、二人の事件はヘイトクライム統計には含まれなかった。
――第2章 ヘイトクライムの発生件数
だとすると、法はどこまでカバーすべきなんだろうか? すべてのヘイトクライムを列挙すべきか、もっとザックリ「差別感情の有無」を要件とすべきだろうか。
まあいい。そんな風に、本書の初めの方で著者はデータの不備を告白している。これも著者の誠実さの表れだろう。
この差別感情は、どうもヒトの本能に組み込まれているらしい。私たちは、差別する生き物なのだ。ただ、誰を差別するかは、環境や育ちによって変わる。
私たちは、「我ら」と「彼ら」を識別する傾向のある脳を備えて生まれてくるように見受けられるが、「我ら」と「彼ら」が誰であるかは、固定されたものではなく、学習された結果である。
――第3章 脳と憎悪
本能的に差別するのだ、少なくとも第一印象では。それを理性で抑えているだけで。もっとも、付き合いが深まれば差別感情は減っていくんだけど。
とはいえ、困った点もある。往々にして差別する側は、差別感情を自覚していない。
ほとんどの加害者は、自分が被害者を狙った理由に人種差別や同性愛嫌悪などの偏見は関与していないと言う。調査に協力してくれるのは、組織化された憎悪集団の一員である男性が多い。
――第6章 トラウマ、コンテインメント、憎悪
「組織化された憎悪集団」は、KKKやネオナチなど、大っぴらに差別を掲げている組織・集団を示す。そうでない場合、「私は差別していない」って言葉は信用できないのだ。もっとも、英国だと、ヘイトクライムは量刑が重くなるので、それを避けるためとも思えるんだが。
さて、差別は感情だ。だから、その時の状況で強くなったり弱くなったりする。状況の一つはテロなどの事件のニュースだ。テロすなわち恐怖を煽る犯罪である。本書では911を例に挙げ、その影響を分析している。落ち着いて考えれば、ブッシュJrはテロを許す大失敗を犯したハズなんだが、現実には支持率が急騰した。なぜかというと…
死について考えることは、特定の資質を持った指導者への支持を高めるだけのようだ。すなわち、悪の外部集団に勝利するヒーローとしての内集団の描写を大衆迎合的に行う指導者の支持を高めるのである。
――第7章 トリガーイベントと憎悪行為の増減
最近の日本だと、Jアラートとかは、こういう効果を期待してるんじゃないかと私は疑っている。とまれ、ネットで疑問を呈しても、あまし効果はないらしい。
私たちは、ネットで反対意見に触れると、自分たちがすでに信じていることの補強に利用する傾向がある。
――第9章 ボットと荒らしの台頭
これは私も自覚はある。反論されてもムカつくだけで、まずもって意見は変えない。よけい意固地になるだけだ。でも本だと素直に受け入れちゃったりする。不思議だ。やはり本って媒体に権威を感じるからだろうか。
そのネットに溢れる陰謀論だが、やはりソースを見て検証する人は滅多にいないようだ。
2020年1月から4月までの間に、フェイスブックからのクリックを介して、極右の陰謀論や憎悪行為を広めていることで知られる34のウェブサイトに飛んだ回数は約8千万件にのぼっている。これに比較して、フェイスブックを介して米国疾病対策センター(CDC)のウェブサイトに飛んだ回数は640万件、世界保健機関(WHO)のウェブサイトに対しては620万件にすぎなかった。
――第10章 言葉と行動による憎悪行為
はい、私も政府機関や学術機関のサイトは滅多に見ないしなあ。このブログで記事を書くときぐらいだ←をい
など、全般的に「そうなんだろうな」とボンヤリ考えていた事柄や、よく言われている注意事項を裏付ける話が多い。とはいえ、ソレを研究者として地道にデータを集めて分析すると共に、そのデータの不備を正直に明かしている点は好感が持てる。さすがに「科学」は言いすぎだが、研究の現状報告としては誠実だろう。
ヘイトクライムに興味がある人だけでなく、「そもそも犯罪学者は何をやってるのか」を知りたい人にもお薦め。
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