ニコラス・マネー「酵母 文明を発酵させる菌の話」草思社 田沢恭子訳
太古の時代、人類は酵母とどんなふうに依存しあっていたか、歴史の中で微生物と人間が互いをどう導いてきたか、そして21世紀に入り、両者の関係がいかに発展しているか。本書はこれらのテーマについて語る。
――第1章 はじめに 酵母入門ヒトゲノムは酵母ゲノムよりも大きいが、そのうちタンパク質に翻訳されるのは2%にすぎないのだ。
ヒトはおよそ1万9千個の遺伝子をもつが、ジャンクDNAが圧倒的に多い。
――第4章 フランケン酵母 細胞タマネギはヒトの5倍のDNAをもつ
――第4章 フランケン酵母 細胞カリフォルニア州にあるボルト・スレッズという会社は、クモの遺伝子を導入した酵母を発酵槽内で育ててクモの糸を作らせ、衣料品製造用の合成シルク繊維を取り出している。
――第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー
【どんな本?】
酵母は働き者だ。穀物や果実のデンプンや糖分からアルコールを生み出し、小麦粉を膨らませて柔らかいパンにする。ヒトが狩猟採集生活から農耕中心の定住生活に移った原因は酒だと主張する説もあり、だとすれば文明の発達の足掛かりを作ったのは酵母ということになる。
その酵母とは、どんなシロモノなのか。どんな所に棲んでいて、どう増え、どんな性質があるのか。パンが膨らむ時、パン生地の中では何が起きているのか。酒とパンの他には、どう利用されているのか。最近の遺伝子科学/工学の進歩は、酵母の研究/利用に、どんな変化をもたらしているのか。
イギリス生まれでマイアミ大学の生物学教授を務める著者が、持ち前の菌類への愛を炸裂させた、一般向けの科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Rise of Yeast: How the Sugar Fungus Shaped Civilization, by Nicholas P. Money, 2018。日本語版は2022年3月1日第1刷発酵もとい発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約233頁に加え訳者あとがき2頁。9.5ポイント41字×17行×233頁=約162,401字、400字詰め原稿用紙で約407枚。文庫ならやや薄めの一冊分。
文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。生物学、それも真菌をテーマとした本だが、中学卒業程度の理科の素養があれば充分に読みこなせるだろう。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、気になった所だけをつまみ食いしてもいい。ただし、でっきれば「第1章 はじめに 酵母入門」だけは最初に読んでおこう。酵母の基本的な知識が書いてあるので、他の章の基礎となる部分だ。
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- 第1章 はじめに 酵母入門
酵母の発見/化学的に見た定義/酵母遺伝子の革命/発酵という魔術/最先端研究のモデル/バイオエネルギーへの貢献/人体にもたくさん存在する
- 第2章 エデンの酵母 飲み物
野生の酒宴/酔っぱらったサル/最初のアルコール依存症/最古の醸造/酵母と人類の遺伝子/移動する酵母/ハエも酔っぱらう
- 第3章 生地はまた膨らむ 食べ物
パンができるプロセス/酵母製法の発展/酵母の産業化/チョコとコーヒー/酵母そのものを食べる/食用酵母の驚くべき展開/マーマイトと宗教
- 第4章 フランケン酵母 細胞
酵母と発酵の構造を理解する/遺伝子レベルで調べる/不要なDNAがたくさん?/酵母の結晶/酵母を改造する
- 第5章 大草原の小さな酵母 バイオテクノロジー
バイオ燃料の生産風景/コスト評価/サトウキビを使う/バイオ燃料用に改良される酵母/廃棄物を食べる酵母がいれば/マラリア、糖尿病との意外な関係/ドラッグへの悪用
- 第6章 荒野の酵母 酵母の多様性
ミラー酵母/残忍な仲間たち/粘液の痕跡に潜む酵母/水中や高温下にもいる/ノーベル賞と酵母/ワインに欠かせない分裂酵母
- 第7章 怒りの酵母 健康と病気
サッカロミセス感染症/文豪も入れ込んだ発酵乳/人体内でアルコールが生成される!?/炎症性腸疾患との関係/喘息と酵母/膣内酵母/重篤な症状を引き起こす酵母/頭皮のフケにも酵母あり - 訳者あとがき/図版一覧/原注/用語集
【感想は?】
著者は生物学それも菌の学者ながら、一般向けの解説書の著作が多い。そのためか、素人向けの説明はなかなか巧みだ。
先に書いたように、各章はほぼ独立している。とはいえ、「第1章 はじめに 酵母入門」だけは、最初に読むのを勧める。タイトル通り、以降の章の基礎知識を語る部分だからだ。
酒飲みはみんな知っているだろう。酒の醸造は微妙な手際が要求される。これがよく分かるのが19頁の図3。醸造中に、酵母が何をするかを描いた図だ。発酵は2段階で進む。最初の段階では糖をピルビン酸に分解し、副産物として二酸化炭素CO2を出す。ビールの泡や、パンが膨らむ理由はコレか。
それはともかく、二段階目が難しい。酸素があれば更に分解を進め、ピルビン酸を水と二酸化炭素にしてしまう。だが酸欠になると、ピルビン酸をアセトアルデヒドを経由してエタノールつまりアルコールに変える。適度に酸素つか空気を遮るのが大事なんだな。しかもアルコールは他の菌を殺すので、生き残るのは酵母だけ。賢い。
もっとも、アルコール濃度が10%~15%を超えると、酵母も死んじゃうんだけど。酒造りにとっては、実に都合がいい生態だ。
そのためか、ヒトと酒の付き合いも長い歴史がある。アフリカの十万五千年前の石器からヤシ酒の痕跡が見つかってる。また8600~8200年前の中国の陶器片からも、米か蜂蜜か果実から発酵飲料をつくってた証拠がある。文明は酒と共にあったらしい。とすると…
文明はアルコールへの愛に駆り立てられたと言われるが、これは醸造家に原料を与えることが穀物農業とそれに伴う定住の目的だったとする説にもとづいている。
――第2章 エデンの酵母 飲み物
なんて説にも説得力がありそうな。だって酒を造るには、しばらく一カ所に留まる必要があるし。
それはともかく、酒とパンに関わるだけあって、酵母は産業界からも熱い注目を浴びているらしく、学者にも潤沢に資金が流れているようだ。その証拠に…
真核生物で全ゲノムが明らかになったのは酵母が初めてだった。(略)
ヘモフィルスのゲノムを構成するA,T,C,Gは180万個だが、酵母のゲノムを記す文字は1200万個を上回る。
――第4章 フランケン酵母 細胞
章のタイトルで分かるように、ここでは酵母の遺伝子分析や改変の話が中心だ。ネタは最新科学だが、やってる事は意外と地味な単純作業の繰り返しが多い。例えば「6000個の遺伝子のうち1個を欠いた数千株をすべて作成する」とか。各遺伝子が何をしているのか、しらみつぶしに調べたんですね。
にも拘わらず、「じつは遺伝子の10個につき1個は依然として機能が判明していない」から、生命ってのはわからない。つか、IT系技術者でファイルフォーマット解析とかやった経験がある人は、遺伝子を一つづつ無効化する手法を「あるあるw」とか思うんじゃなかろか。最先端の研究も、現場は地味な作業の積み重ねだったりする。だからこそ、量を確保する予算が大事なんだな。
もちろん酵母の産業利用もやってて、その一つがバイオ燃料。だってアルコールを作るんだし。ただ困った邪魔者がいて、それが乳酸菌ってのは意外だった。納豆菌も嫌われるんだろうなあ。
その乳酸菌が名を挙げた挿話も楽しい。主人公はロシアの生物学者イリヤ・メチニコフ(→Wikipedia)。19世紀末、ロシアじゃ発酵したウマの乳で作る飲み物クミスが流行り、彼はこれに興味を持つ。パリのパスツール研究所に移った彼は、同僚からブルガリアのヨーグルトが長生きの秘訣と聞いて売り込みを始める。ブルガリア・ヨーグルトの仕掛け人はロシア人だったのか。
酒を醸し、パンを膨らませ、私たちの暮らしを豊かにしてくれた酵母。世界各地で酒が造られていることでも分かるように、酵母自体は別に珍しいものではなく、実はどこにでもいる。だが、その正体が真菌類のサッカロミセス・セレビシエであり、豆が連なったような形だと知る人は少ないだろう。
身近な酵母を通し、菌の知識を広めようとする著者の熱意と愛情が滲み出た、親しみやすい科学解説書だ。科学に興味がある人に加え、呑兵衛にもお薦めの一冊。ただし出来ればシラフで読んでほしい。
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