デビッド・クアメン「スピルオーバー ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか」明石書店 甘糟智子訳
ある生物種を宿主としていたウイルスが別の種に感染し、その新たな宿主の間で繁栄し広がったときに、異種間伝播による新興感染症が出現する。
――1 青白い馬 ヘンドラ人類学者リサ・ジョーンズ=エンゲル&医師グレゴリー・エンゲル
「私たちが探しているのは『次なる大惨事』だからです」
――6 拡散するウイルス ヘルペスB「なぜコウモリなのか?」
――7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ
【どんな本?】
人類は天然痘を撲滅した。ポリオも克服しつつある。だが黄熱やエイズは今も猛威を振るい、インフルエンザは毎年のように新型が登場する。そしてもちろん、新型コロナも。
その違いは何か。
天然痘とポリオに感染するのはヒトだけだ。だからすべての人にワクチンが行き渡れば撲滅できる。だが黄熱やインフルエンザは違う。これらは野生動物や家畜からヒトに飛び移り、続いてヒトからヒトへと感染する。いわゆる人獣感染症だ。
人獣感染症は、インフルエンザなど有名で馴染みのものばかりではない。ヘンドラやニパなど、馴染みのないものや、最近になって発見されたものもある。また、新型コロナのように、既存種の変種も。
人獣感染症には、どんな種類があるのか。それぞれ、どんな状況で感染し、どんな症状になるのか。感染のメカニズムは。その発見には、どんな人たちが関わり、どのような作業や研究がなされ、どのように対策が進むのか。
幾つもの人獣感染症を追い、著者はアフリカの森の奥から中国の猥雑な市場、オーストラリアの獣医師や合衆国の研究室など、世界中の様々な土地を巡り、多くの人びとを訪ね回る。
米国のジャーナリストが世界中を駆け巡って体当たり取材を続け、人獣感染症の謎とそれに挑む人々の研究生活を描く、迫真の科学ドキュメンタリー。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Spillover : Animal Infections and the Next Human Pandemic, by David Quammen, 2012。日本語版は2021年3月31日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え訳者あとがき6頁。9.5ポイント47字×22行×471頁=約487,014字、400字詰め原稿用紙で約1,218枚。文庫なら2~3冊の大容量。
文章はこなれていて読みやすい。内容も分かりやすい。分子生物学の話も出てくるが、細菌とウイルスの違いなど基礎的な事から説明しているので、じっくり読めば中学生でも理解威できるだろう。世界中を飛び回る本でもあり、ウガンダなど馴染みのない地名が出てくるので、地図帳などがあると便利。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。ただし、科学的な説明は順を追って展開するため、理科が苦手な人は素直に頭から読もう。
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- 1 青白い馬 ヘンドラ
- 2 13頭のゴリラ エボラ
- 3 あらゆるものはどこからかやって来る マラリア
- 4 ネズミ農場での夕食 SARS
- 5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病
- 6 拡散するウイルス ヘルペスB
- 7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ
- 8 チンパンジーと川 HIV
- 9 運命は定まっていない
- 補章 私たちがその流行をもたらした 新型コロナ
- 訳者あとがき/参考文献/註/人名索引/事項索引
【感想は?】
この本は様々な側面を持っている。
第一に、人獣感染症の知識を伝える科学ドキュメンタリーの側面だ。ここでは主にウイルス、それもRNAウイルスが対象となる。
次に、その根源を探り証拠を集め理論を固める科学者のドキュメンタリーでもある。
科学者、それもウイルス学者というと、白衣を着て清潔で厳密な隔離施設に勤めるインドアな人を思い浮かべるかもしれない。実際、そういう人も出てくる。特に「2 13頭のゴリラ エボラ」で職務中の事故で閉鎖環境、俗称「刑務所」に閉じ込められた研究員ケリー・L・ウォーフィールドの話は、逆に運用ルールを厳密に守っている由が伝わってくる。いやケリーにとっちゃはなはだ不幸なんだけど。
が、それ以上に楽しいのが、病気の発生源を追う科学者たちを描く場面。バングラデシュの田舎や中国の洞窟でコウモリを追ったり、アフリカの中央部で野生のチンパンジーの尿を集めたりと、インディ・ジョーンズそこのけの冒険が展開する。
そして最後に、良質の科学読み物に欠かせない、謎解きの面白さだ。多様ながら生活感をプンプン匂わせる登場人物、知られざる特殊な人びとの社会、想定外の所から出てくる証拠物件、そして意外な真相。
そんな面白さをギュッと凝縮しているのが、エイズの起源をたぐる「8 チンパンジーと川 HIV」。頁数も100頁超と多いし、ここだけ抜き出して文庫にしたら売れるんじゃなかろうか。とりあえず、私たちが思うよりエイズは古く、米国発祥でもない、とだけ明かしておく。しかも…
HIVが人類へ異種間伝播したのは一回きりではない。私たちが知ることのできる範囲だけでも、少なくとも12回は起きているということだ。
――8 チンパンジーと川 HIV
さて、本書のテーマは人獣感染症だ。動物、それも主に野生動物からヒトに感染する病気である。その多くはRNAウイルスだ。中にはマラリアみたく原虫(→Wikipedia)が原因なのもあるけど。
だもんで、病気の発生原因は、たいてい野生動物にある。
森で死んでいる動物には決して触らないこと。
――2 13頭のゴリラ エボラ<
とか、幼い頃に教わった人も多いだろう。理由の一つは、病気を貰いかねないからだ。本書を読むと、それが身に染みる。もっとも、感染症を追う科学者たちは、なんか割り切ってる人も多いんだけど。
現在、猛威を振るっている新型コロナウイルスでは、感染の広がり方について、様々な予測がされている。幾つか脚光を浴びた説がある中で、ちょっと見は意外な人たちが注目されている。数学者だ。実際、感染の広がり方は、数式で予測できるのだ。七面倒くさい微分方程式なんだけど。
感染症を理解する上で数字は重要な側面だ。
(略)病原体が感染を絶やさないためには、宿主集団に最低限の規模が必要で、(略)臨界集団サイズ(CCS)として知られる。
人獣共通のウイルスは、人間集団の周辺の動物でも伝播するので、人間のCCSを考慮しても意味がない。
――3 あらゆるものはどこからかやって来る マラリア
今、ちょっと調べたら、新型コロナもヒトから犬や猫に感染するらしい(→農林水産省/新型コロナウイルス感染症について)。逆、つまり犬猫からヒトへの感染は確認されていないので、一安心だけど。
その新型コロナ、今は様々な株が確認されている。だが話題になった2019年12月時点では、様々な情報が錯綜した。それもそのはず、「新しいウイルス」は、遺伝子工学が発達した現代でも、見つけるのが難しいのだ。
DNAやRNAの断片を探すPCR法や、抗体や抗原を探す分子分析といった検査方法が有効なのは、すでに身近な病原体、あるいは少なくとも身近なものによく似た病原体を探している場合のみだ。
――4 ネズミ農場での夕食 SARS
これが、人獣感染症の本来の宿主を探すとなると、更に難しい。というのも、相手はヒトじゃない。「ヒトと関わりの深い動物」だからだ。もっと広いい視野が必要になる。細菌学者も役に立つんだが…
ほとんどの細菌学者は細菌学研究に入る以前に医師としての訓練を受けている
――5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病
彼らの世界観の基盤は、あくまでも医師であって、対象はヒトなのだ。必要なのはヒトと動物とのかかわり、つまり…
生態学者リチャード・S・オストフェルド
「どんな感染症も本質的には生態系の問題だ」
――5 シカ、オウム、隣の少年 Q熱、オウム病、ライム病
ヒトと動物を含めた、生態系全体を見る視野が求められる。ここでは、意外な分野の学問が役立ったりする。
調査のために最初に現地入りしたのは社会人類学者だった。
――7 天上の宿主 ニパ、マールブルグ
地域によって、ヒトの暮らし方は違うし、動物との関わり方も違う。この章では、バングラデシュ独特の文化が決定的な証拠となった、幸か不幸か、この文化は他地域へ輸出できそうにないが、よく見つけたものだと感心する。
こういった人獣感染症の多くは、RNAウイルスだ。普通、遺伝子は二重らせんのDNAである。遺伝情報はDNAからRNAに転写され、RNAからタンパク質に変換される(→Wikipedia/セントラルドグマ)。ところがレトロウイルスは、この掟を破り…
通常、生物はDNAの情報をRNAに写し取り(転写)、それをタンパク質に翻訳する。だが、レトロウィルスはこれとは逆に、宿主細胞の中で自らのRNAをDNAに変換し(逆転写)、そのDNAを細胞核に侵入させ、宿主細胞のゲノムに組み込ませる。
――8 チンパンジーと川 HIV
とんでもねえ奴らだ。ばかりでない。DNAは二重らせんなので、コピーの際、ちょっとしたエラーチェックが働く。そのため、滅多に転写ミスは起きない。だがRNAは一重なので、転写ミスすなわち突然変異が起きやすい。大半の突然変異はロクでもない結果、つまり生き残れないが、ごく稀に生き延びて子孫を増やす奴がいる。RANウイルスは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で、頻繁に変異を繰り返す戦略をとった。
エドワード・C・ホームズ
「彼ら(RNAウィルス)はどんどん種を飛び移っていく」
――6 拡散するウイルス ヘルペスB
とまれ、他の宿主に感染するまでは、今の宿主に生きていてくれないと、寄生する側も行き詰る。まあ、あくまでも「他の宿主に感染するまで」なんだが。そんなわけで…
(スーティーマンガベイがSIVに)感染していても健康だということは、スーティマンガベイにおけるこのウィルスの歴史が長いことを示唆している。
――8 チンパンジーと川 HIV
無害化とまではいかないまでも、潜伏期間が長い方がウイルスにとっちゃ有利だったりする。繰り返すが、変異の結果、無害化するワケじゃないことに注意。
終盤では、人獣感染症のこれからについて、いささか不吉な予言がなされたりする。
「(鳥インフルエンザは)おそらく野鳥によってインド、アフリカ、ヨーロッパと西へ運ばれたのだ」
――9 運命は定まっていない
航空機が発達した現在、ヒト→ヒトの感染でさえ抑え込むのが難しい。まして世界中を飛び回る野鳥なんか、どうしようもない。今後も、人類は否応なく感染症と戦い続けなければならないようだ。
とかの暗い話もあるが、中国の野趣あふれる市場の様子や、国境なにそれ美味しいの?なアフリカ中央部の風景などは、冒険物語の一場面のようで、結構ワクワクしたり。分量は多いが、世界中を飛び回って書き上げた作品だけあって、舞台は次々と移り変わるので、意外と飽きずに楽しめた。科学読み物としてももちろん面白いが、世界中を駆け巡る旅行記としても楽しい本だ。
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