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2022年4月 8日 (金)

スティーヴン・ジョンソン「感染地図 歴史を変えた未知の病原体」河出書房新社 矢野真千子訳

何よりもこの本は、私たちが享受している現代生活の方向性を定めた決定的な瞬間の一つとなった、激動の一週間を検証するためのものである。
  ――はじめに

【どんな本?】

 1854年の8月末から9月頭にかけて、ロンドンの下町ソーホーのブロード・ストリート周辺でコレラが大流行し、多くの人が命を落とす(ネタバレあり、→Wikipedia)。

 当時の医学会は瘴気(→Wikipedia)説が中心であり、病原菌の概念は知られていなかった。有名なナイチンゲールも瘴気説を支持している。しかしこの原因を熱心に調べた医師ジョン・スノーは、自らの足で集めたデータと、教区の住民に詳しい副牧師のヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、意外な原因を突き止める。

 コレラ菌の存在すら知られていない時代に、スノーとホワイトヘッドはいかにして原因を突き止めたのか。現代では間違っているのが明らかな瘴気説が、なぜ強く支持されたのか。

 舞台となったロンドンとソーホーの悪臭漂う風景を克明に描き、スノーとホワイトヘッドが原因を実証する過程を立体的に再現し、現代的な疫学の誕生を物語風に語るとともに、ジョン・スノーに比べあまり知られていないヘンリー・ホワイトヘッドの貢献を掘り起こす、一般向けの歴史・科学解説書であると同時に、当時の怪物的な大都市であるロンドンおよびブロード・ストリートの風景と、そこに住む人びとの暮らしをスケッチし、現代のニューヨークなどの大都市と比べて語り未来の人類社会の在り方をさぐる都市論でもある。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Ghost Map : The Story of London's Most Terrifying Epidemic - and How It Changed Science, Cities, and the Modern World, by Steven Johnson, 2006。日本語版は2007年12月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約250頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×18行×250頁=約207,000字、400字詰め原稿用紙で約518枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。ただし、テーマがコレラだけに、悪臭が漂ってきそうな生々しい描写がアチコチに出てくるので、繊細な人にはキツいかも。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • 8月28日 月曜日 下肥屋
  • 9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に
  • 9月3日 日曜日 探偵、現る
  • 9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市
  • 9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である
  • 9月6日 水曜日 証拠固め
  • 9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ
  • その後~現在 感染地図
  • エピローグ
  • 著者注/謝辞/付録 推薦図書/訳者あとがき/書誌/原注

【感想は?】

 まず、頭の「8月28日 月曜日 下肥屋」で、繊細な人は振り落とされる。

 人は都市に集まる。この傾向は、産業革命などによって更に加速してゆく。それにより、ロンドンは野放図に人が集まってきた。人が集まれば、出すモノも増える。だが、その始末は誰も考えていなかった。その結果を描くのが、この章だ。

 都市計画も区画整理もなく、ひたすらに人が密集するソーホーの風景は、混沌そのもの。住宅と食肉工場と商店が、一つの区画に共存しているのだ。「堆塵館」の舞台のモデルになったのもうなずける。下水道もないから…せいぜい覚悟しよう。

 著者は、ここで本書の一つのテーマを確認する。当時は瘴気説が有力で、病原菌は相手にされなかった。ジョン・スノーとヘンリー・ホワイトヘッドの調査が瘴気説を覆す根拠を示すのだが、なかなか認められなかった。それはなぜか。

多くの聡明な人がこれだけ長いあいだ、なぜそんな馬鹿なことを信じていたのか? 矛盾する証拠は目の前に山のようにあるのに、なぜそれが見えなかったのか? こうした疑問もまた、知識社会学――過誤社会学ともいうべきだろうか――の分野で研究されるべきテーマだろう。
  ――8月28日 月曜日 下肥屋

 だが、この章が描くロンドンの風景を読む限り、瘴気説を信じたくなる気持ちもわかるのだ。悪臭漂う空気のなか、汚物と隣り合わせに暮らしてたら、そりゃ病気になるよ、と。

 ありがたいことに、著者は終盤でこの感覚にちゃんと理屈をつけてくれる。ヒトは悪臭に対し本能で反応するのだ、と。

19世紀に入ってまで瘴気説が根強く残ったのは、(略)本能に根ざしていた(略)。
人間の脳は、ある種の匂いを嗅ぐと無意識に嫌悪感をおぼえる(略)。
この反応は理性(略)を通らずに、そのにおいに関連するものを避けたいという強い欲求を作り出す。
  ――9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である

 だって腐ったモンを食ったら腹を壊すし。今は腹を下しても病院に行けばどうにかなるけど、野生状態じゃ命に係わる。だからヒトは悪臭に敏感で、本能的に「悪しきもの」と決めつけるのだ、と。この本能が、瘴気説に力を与えていたのだ。

 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」で、トイレの近くでインタビュウしたら倫理的に厳しい解が増えたとあったが、それはこういう本能が関係あるのかも。いずれにせよ、理性的な判断が求められる状況に、悪臭はよろしくない。そんなワケで、プログラマの職場環境は←しつこい。

 さて、コレラ菌にもいろいろある。タチの悪いものから、そうでないものまで。生憎と、この事件で猛威を振るったのは、特にタチの悪い株だったらしい。つまり、ガンガン増殖するタイプだ。

新しい宿主への移動が困難な、つまり感染性が低い環境だと、繁殖力が穏やかな株が種の中で個体数を増やす。感染率が高い環境だと、繁殖力が強い、人間にとって悪性度の高い株が穏やかな株を駆逐する。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 景気のいい時はイケイケな企業が業績を伸ばし、悪い時は慎重な企業が生き残る、そんな感じかな。

 そんなコレラの脅威に対し、医学はほぼ無力、どころか瀉血などの逆効果の治療法やアヘンなどの怪しげな薬が新聞の広告欄を賑わす。コレラの主な症状は脱水なので、水を大量に飲ませれば回復する場合もあるのに、全く逆の「治療」が幅を利かせていたのだ。

19世紀半ばのヴィクトリア時代にこうした(怪しげな療法や薬の宣伝が盛んになる)状況が生まれたのは、この時代に、医学は未熟なのにマスコミだけが成熟しているというギャップがあったからだ。
  ――9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に

 あー、いや、21世紀の現代でも奇妙な療法や薬がノサバってますが。というか、「医学は未熟でマスコミが成熟」ってとこ、医学を他のもの、例えば経済や教育に替えれば今でも充分に通用するような。「代替医療のトリック」を読むとクラクラきます。なまじ歴史のあるモノほどしつこいんだよね。

 さて、コレラの感染経路は水だ。ここで、イギリスでの感染を防いでいたモノがある。それは…

18世紀後半に爆発的に増えた飲茶習慣は、微生物の立場になればホロコーストに等しかった。この時期、赤痢の発生率と子どもの死亡率が激減したことを医師たちは観察している。
  ――9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市

 だって茶を淹れるには、まず湯を沸かすよね。要は煮沸消毒だ。おまけに茶のタンニンも殺菌効果がある。で、茶のない頃は、ワインやビールでアルコール消毒してた。そうやって、欧州は下戸が淘汰された、と著者は主張している。モンゴロイドに下戸が多いのは、安全な水が手に入りやすかったからかな?

 まあいい。この事態の原因を突き止めようと精力的に動いたのが、有名なジョン・スノー。当時でも女王陛下のお産で麻酔を担当するなど、既に充分な名声を得ていた。が、もともと瘴気説を疑っていたうえに、自分の住まいの近くで起きた惨事でもあり、被害の様子を詳しく調べ始める。ただ、当時の科学はまだ未熟で…

当時の技術で水質を分析しても謎は解けないし、何も見えない。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 こんな状態で、どうやって原因を突き止めたのか。足でデータを拾ったのだ。一軒一軒、訪ね歩いて。もっとも、ソレで明らかになるのは、疫病の発生がブロード・ストリートに集中してるってことだけ。決定的な証拠が必要だった。それは…

証拠は「例外」の中にある
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 例外とは何か。この場合は二つ。1)ブロード・ストリートに住んでいるのに、被害を免れている人。2)ブロード・ストリートから離れたのに、被害に遭った人。

 ここで活躍したのが、ヘンリー・ホワイトヘッド。彼は副牧師として周辺の人たちと親しく付き合い、日頃の暮らしを知っていた。また、避難した人たちやその家族とも親しく、引っ越し先も知っていた。ホワイトヘッドの協力で、スノウは決定的な証拠を手に入れる。

画期的な知識の前進というのはふつう、現場ベースで生まれるものなのだ。
  ――9月6日 水曜日 証拠固め

 かくしてスノウとホワイトヘッドは報告書を提出するのだが…

教区役員会が報告書を出した数週間後に、(公衆衛生局長)ベンジャミン・ホールのこれら調査委員会もセント・ジェームズ教区のコレラ禍にたいする見解を発表した。彼らがスノーの説に下した評価は、完全なる否認だった。
  ――9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ

 いったん染み込んじゃった思い込みは、なかなか消えないんです。科学も数学も、こういうのはよくあるんだよなあ。大陸移動説とかペイズ統計とか。SFやファンタジイで不死が出てくるけど、ヒトが死ななくなったら、きっと科学や数学の進歩は止まると思う。その時代の頑固な権威が死ぬことで、やっと日の目を見た説は結構あるのだ。

 終盤では、騒ぎが収まった後を語る。ここで、やっと地図が登場する。面白いのは、地図の書き方。絵で見せるわけで、大事なのは「詳しく書くこと」じゃない。

疫病のほんとうの原因を説明するには、表示する情報量を増やすのではなく減らさねばならなかった。
  ――その後~現在 感染地図

 テーマを絞って、本当に訴えたい点だけを浮き上がらせる事なのだ。え? プレゼンテーションの基本だろ? ええ、はい、わかっちゃいるけど、ついついやっちゃうんだよね、全部を強調するって馬鹿な真似。

【エピローグ】

 ミステリ・ドラマ仕立ての本だが、最後のエピローグだけは毛色が違う。ここでは都市論が主題に挙がってくる。

ヴィクトリア時代に内部崩壊に向かう癌性の怪物と思われていた大都市がこうまで変わった転換点がどこにあったかといえば、それはブロード・ストリートの疫病戦争で都市が病原体に勝利した時点だ。
  ――エピローグ

 都市を保つのには、何が必要か。食料や輸送力やエネルギーも必要だ。それ以上に、ヒトが密集すると、どうしても疫病が流行りやすくなる。ブロード・ストリートの事件が、その代表。いや他にも911とかがあるんだけど。山のなかにジャンボが落ちても、被害にあうのは乗員と乗客だけ。でもビルに突っ込んだから、被害が大きくなった。人から人へうつる疫病の被害は、もっと悲惨になる。

歴史的に見て、爆弾は攻撃対象となる人口が増えるにつれて威力を高めてきたが、その上り坂はあくまで直線だ。疫病の場合、致死率は指数関数的に上昇する。
  ――エピローグ

 しかも細菌は進化が速い。なにせ世代交代の速度が分単位だからヒトとは桁違いだし、脊椎動物には真似のできない必殺技も持っている。

私たちにとって、遺伝子が水平方向にスワップするという概念は少々理解しにくいかもしれないが、細菌やウイルスなど原核生物の世界では日常的に起きていることだ。
  ――エピローグ

 これは既に抗生物質に対する耐性を持つ耐性菌の蔓延で現実になってるのが、なんとも。なお耐性菌を作ってるのはヒトより家畜だそうだ(→「排泄物と文明」)。

 本書ではインフルエンザ・ウイルスを脅威の候補に挙げ、その危険性を警告している。

もしそのようなウイルス株が出現したら、その被害範囲は井戸水ポンプの柄を外して制圧できるほどの規模ではすまないだろう
  ――エピローグ

 はい、そんなもんじゃ済みませんでした。インフルエンザじゃなくてコロナだったけど。ほんと、この辺は読んでて「まるきし予言の書だなあ」と思ったり。ちなみに原書の発行は2006年。見事な予言だ。

 じゃ都市化を危惧してるのかと言えば、そうでもない。一人当たりのエネルギー消費量は、都市の方が遥かに少ないのだ。だって都会は電車で通勤できるけど、田舎は自動車が必需品だし。

ニューヨーク市を仮に<州>とみなしたとき、その人口はアメリカで11番目に当たるだろうが、一人当たりのエネルギー消費は51番目になる
  ――エピローグ

 この辺は「都市は人類最高の発明である」が詳しいです。そんなこんなで、持続可能な社会にするには都市化に順応した方がいいんだけど、人間ってのは厄介なもんで…

迷信は、いまも昔も真実を見えなくさせる脅威であるだけでなく、人びとの安全をおびやかす脅威でもある。
  ――エピローグ

 今もワクチン接種を嫌がるだけでなく、積極的に邪魔したがる人がいるし。医学や疫学は学問としちゃそこそこ成熟してるんだけど、学者や医者じゃない人たちの知識は未熟なのに対し、SNSなどの情報伝達ツールは異様に発達しちゃってるんだよなあ。かと言って、科学や数学をすべての人に充分に理解させるのは、さすがに無理だろうしなあ。少なくとも私は充分に理解するなんて無理です←をい

【おわりに】

 そんなワケで、ちと古い本ではあるけど、新型コロナウイルスが猛威を振るう今は、実にタイムリーで熱く訴えかけてくる本だ。犯人は割れてるけど、ミステリ仕立てのドラマとしても面白いし、従来の仮説を新しい仮説が覆す物語としても楽しめる。特に、都市住む人にはなかなか心地よい作品でもある、と申し添えておこう。

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