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2022年3月の4件の記事

2022年3月30日 (水)

ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 2

「テロリストたちは、罪のない人々を傷つけたくないというこちらの気持ちをうまく利用していた。(略)屋根の上に立つテロリストに向けてミサイルが発射された。すると突然、そいつが子どもを抱きかかえた。もちろんすぐに、ミサイルを空き地に落とすよう命令したよ」
  ――第30章 「ターゲットは抹殺したが、作戦は失敗した」

 ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 1 から続く。

【どんな本?】

 1948年の第一次中東戦争による独立以前から周囲を敵に囲まれつつ生まれ、その後も絶え間ない紛争とテロにまみれて生き延びてきたイスラエル。もちろん、生き延びる手段は戦争に限らず、諜報はもちろん破壊工作や暗殺にも手を染めてきた。

 ただし、その目的や標的、手段や組織そして頻度は、その時々のイスラエルが置かれた立場や国内の政治状況そして敵の性質により異なる。イスラエルの諜報機関が経験を積むと同時に、敵も過去の経験から学び新しい戦術を開拓してゆく。

 敵味方の双方の血にまみれたイスラエルの諜報機関の歴史を記す、衝撃のルポルタージュ。

【バビロン作戦】

 下巻は、かの有名なバビロン作戦(→Wikipedia)で幕を開ける。イラクのフセインが原爆開発のために作ろうとした原子炉を、イスラエル空軍が空襲で潰した事件だ。作戦の詳細は「イラク原子炉攻撃! イスラエル空軍秘密作戦の全貌」が詳しい。書名にあるのはイスラエル空軍だが、モサドの暗躍も詳しく描いているので、スパイ物が好きな人にはお勧め。

 それはともかく、ここの描かれたフセインの性格が、ロシアのプーチンとソックリなんだよね。

「サッダーム(・フセイン)は追い詰められると(中略)これまで以上に攻撃的になり、むきになる」
  ――第20章 ネブカドネザル

 例えばポーカーだと意地で掛け金を釣り上げ絶対に下りない。そして負けがハッキリするとテーブルごとひっくり返す。あなたの周りにもいませんか、そういうタイプ。

 そのプーチン、原註によるとテロリストの暗殺に関してはイスラエルに理解を示してる。まあKGB出身だし、似たような真似をしてるし。それよりイスラエルのシャロン首相と友好的な雰囲気を出してるのに驚いた。ハッキリと敵対はしていなかったのだ、少なくとも当時は。

【影の主役】

 さて、第21章からは、下巻の影の主役が登場する。イランだ。

 本書では同じシーア派のヒズボラや同盟関係にあるシリアはもちろん、PLOやハマスとの関係も暴いている。

いまやイスラエルは、レバノンのヒズボラ、占領地区のPIJ(パレスチナ・イスラミック・ジハード)、北部国境のシリア軍から成る統一的な部隊に取り囲まれていた。そのすべてに資金や武器を提供していたのが、イランである。
  ――第33章 過激派戦線

 一時期、ニュースで話題になったハマスのカッサム・ロケットも、イランの協力で作られた様子。そのイランが最初に取り込んだのは、PLO。まずはPLOがイランに教育を施す。

1973年、(イランのホメイニの最側近アリー・アクバル・)モフタシャミプールは中東におけるイスラム解放運動組織との関係を確認するため、ほかの忠臣数名とともに中東に派遣され、みごとPLOとの同盟締結に成功した。以後PLOは、17部隊の訓練基地に(破壊活動や情報活動やテロ戦術を教えるため)ホメイニの部下を受け入れることになる。
  ――第21章 イランからの嵐

 どうもイランは宗教的な細かい派閥には拘らないらしい。イスラエルの敵は味方、そういう発想なんだろう。

 そんなイランの影響は、派閥を越えてイスラム社会全体へと染み込んでゆく。サウジアラビアなどスンニ派の国がイランを脅威と見るのは、イランがシーア派だからってだけじゃない。問題は、イスラムをテコにすれば体制を転覆できると訴える点にある。

ホメイニは、シーア派の人々だけでなく世界中のイスラム教徒に、イスラム教が持つ力を証明してみせた。イスラム教は、モスクでの説教や通りでの慈善活動をするだけの単なる宗教ではない。政治的・軍事的な力を行使する手段、国を統治するイデオロギーにもなりうる。イスラムはあらゆる問題を解決できる、と。
  ――第24章 「スイッチを入れたり切ったりするだけ」

 「倒壊する巨塔」ではイスラム系テロの理論的な源をエジプトのムスリム同胞団の指導者サイイド・クトゥブ(→Wikipedia)としてるけど、実践し最初に成功のがシーア派のホメイニなわけ。吉田松陰と高杉晋作みたいな関係かな。

 この理屈だと、サウド王家を革命で倒してもいいって事になってしまう。そりゃ困る。だからサウジアラビアはイランを憎むのだ。

 そのホメイニの世界観なんだが、「世界は善と悪が衝突する場」ってあたり、ドナルド・トランプの支持者の世界観も同じなんじゃなかろかと思うんだが、

【核の脅威】

 そんなイランは、大雑把に二種類の者と組んでいる。一つは国家で、北朝鮮とシリア。もう一つはテロ組織で、ヒズボラとハマス。どっちも怖いが、国家はやることがデカい。そう、核開発だ。もっとも、これはイスラエルもムニャムニャだが。つかシリアが核開発しようとしたのは知らなかった。

(ムハンマド・)スレイマーンは2001年から、シリアがイランの資金援助を使って北朝鮮から購入した原子炉の格納施設の建設を監督していた。
  ――第33章 過激派戦線

 イスラエルは暗殺や破壊工作でこれを阻止するんだが、敢えて公開は控えた。追い詰めたら面子が潰れたアサド(現大統領)が暴走しかねない。アサドにも「内緒にした方がお互いのためだぜ」と密書を送る。いかにも外交裏面史だね。

 皆さんご存知のように、イランも核開発を試みていて、イスラエルも必死になって押しとどめようとする。ここではアメリカと協力しようとするのだが、さすがに暗殺までは力を貸してくれない。なおイスラエルが狙ったのは、開発に携わる科学者たち。これはそこそこ効果があったようで…

(CIA長官のマイケル・)ヘイデンは、イランの核開発計画を阻止するためにとられた措置のなかでも最も効果的だったのは、間違いなく「科学者の殺害」だったと述べている。
  ――第35章 みごとな戦術的成功、悲惨な戦略的失敗

 と、CIAが評価を下している。そういうことだから、日本の企業も技術者の待遇を良くすべきなのだあぁぁっ!

【テロ組織】

 イスラエルにとって、国家は手慣れた相手だ。だが、ハマスやヒズボラはいささか勝手が違う。PLOは金や女で取り込めたが、ハマスは違った。

イデオロギー的・宗教的な運動組織のハマスは、賄賂に釣られるメンバーがあまりいなかった
  ――第27章 最悪の時期

 ホメイニ的な思想で動いてるせいか、良くも悪くも純粋なのだ。そしてタテマエじゃパレスチナのボスであるアラファトは全く頼りにならない…というか、やる気がない。ちなみにアラファトの死が暗殺か否かは、本書じゃ「わからん」としている。ライバルであるハマスは、自爆テロで勢いづく。

「自爆テロの成功例が増えれば増えるほど、それに比例してハマスへの支持は高まっていった」
  ――第28章 全面戦争

 これに対し、当初は実行犯を狙ったイスラエル。だが、自爆テロの志願者には「これといった特徴がなかった」。若いのも老人も、賢い者も無学な者も、ビンボな独身も家族持ちもいる。しかも志願者はうじゃうじゃいた。そこでイスラエルは方針を変える。実行犯ではなく、組織の要となる者に狙いを絞るのだ。

彼ら(自爆テロ実行犯)は本質的に消耗品であり、容易にすげ替えられる(略)。しかし、彼らを教育し、組織化して送り出す人間(略)は、自爆テロに志願する人々ほど殉教者になりたいとは思っていない。
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 消耗品ってのも酷いが、テロ組織ってのはそういうモンなんだろう。もっとも、「組織の要」ったって、数は多い。だが、そこは力押し。

誰かが暗殺されれば、すぐ下の地位の人間がその地位を引き継ぐことになるが、それを繰り返していくと、時間がたつにつれて平均年齢は下がり、経験のレベルも落ちていく。
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 無茶苦茶な理屈だが、ソレナリの効果はあった様子。

テロ攻撃が停止したのは、大勢のテロ工作員を殺害し、「アネモネ摘み」作戦でテロ指導者を暗殺したからにほかならない。
  ――第32章 「アネモネ摘み」作戦

 ちなみに「アネモネ摘み」作戦とは。それまでイスラエルは暗殺対象を軍事部門に絞っていたが、政治部門にも広げ組織の幹部を狙う方針のこと。しかも、方針は徹底してる。

「散発的な暗殺に価値はない。永続的かつ継続的な方針として指導者に照準を合わせ、上級指揮官を暗殺していけば、かなりの効果がある」
  ――第33章 過激派戦線

 「次は俺の番だ」と思わせるのがコツってわけ。ほんと容赦ない。

【世論】

 もちろん、こういうイスラエルのやり方に国際世論は非難を浴びせるのだが、ある日を境に豹変する…少なくとも、欧米は。

「この大事件(911)が起きたとたん、われわれに対する苦情が止んだ」
  ――第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」

 これまた「次は俺の番」な気持ちだね。自分に危険が迫るまで、真剣に考えないのだ。当時のアメリカ大統領ブッシュJr.が比較的イスラエルに好意的なためもあり、CIAとイスラエルは親密な関係を築いてゆく。

【対米関係】

 その合衆国との関係なんだが、イスラエルの軍事技術や思想が米国や米軍に大きな影響を与えているのが見て取れる。少なくとも三つの点で。

 まずはドローンだ。イスラエルは1990年代からドローンを使っていた。手順はこう。ドローンが標的を追い、映像を司令部に送る。司令部で標的を確認したら、ドローンが標的にレーザーを当てる。最後にアパッチ攻撃ヘリがレーザー探知機で標的を拾い、ヘルファイアミサイルを撃つ。

 なおイスラエルがドローンを採用する過程は「無人暗殺機 ドローンの誕生」と違い、参謀総長エフード・バラクが積極的に推し進めたとなっている。当然ながら、今でもイスラエルはハマス対策で積極的にドローンを使っている様子。誰だよ偉そうに「今のイスラエルなら、ハマス対策としてプレデターを涎を垂らして欲しがるだろう」と書いた馬鹿は。

 二つ目は暗殺の多用だ。「アメリカの卑劣な戦争」が取り上げたテーマでもある。そこで私は「大統領が議会の承認を待たずコッソリやっちゃうため」と書いたが、イスラエルの実績に学んだ可能性も高い。もっとも、イスラエルにとっても死活の問題、例えばイランの核開発とかだと、合衆国は情報は与えても直接に手は出さない。だって、ほっといてもイスラエルが勝手にやるから。ひでえw

 そして最後に、やはり「アメリカの卑劣な戦争」が取り上げている、統合特殊作戦コマンド(JSOC)である。この思想が、本書が紹介する合同作戦指令室JWRに近い。

 国防軍情報部のアマン、国内担当のシン・ベト、そして空軍の担当者などを一つの部屋に集め、情報を共有する。縦割り組織ではなく、同じ問題に当たる者をまとめよう、そういう発想です。で、実際、特に情報・諜報関係で優れた成果をあげた模様。

 もっとも、効果を上げたのは技術も関係していて、例えば偵察ドローンだと、ドローンが送る映像をみんなが一緒に見られる環境が整ったのも大きい。IT技術でもイスラエルは先端を走っているのだ。でも国際世論の扇動じゃハマスの後手に回ってるけど(→「140字の戦争」)。たぶん、同書に出てくるエリオット・ヒギンズと似た感覚の人が多いんだろうなあ。

【おわりに】

 ダラダラと長く書いちゃったけど、それだけ刺激的なネタが多い本だってことで許してください。あと、やたら人が死にまくる上に、殺しの描写がやたら生々しいので覚悟が必要。

 単に死者の数だけで考えれば、確かに暗殺は戦争よりはるかに犠牲が少ない。でも、手を付け始めると、歯止めが利かなくなるのも、本書を読めばわかる。おまけに諜報機関が関わるんで、情報が公開されずジャーナリストや世論による抑止も効きにくい。暗殺の是非、是だとしてもどこで歯止めをかけるかなど、重たい問いを投げてくる本だ。

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2022年3月27日 (日)

ロネン・バーグマン「イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下」早川書房 小谷賢監訳 山田美明・長尾莉紗・飯塚久道訳 1

本書が主に取り扱うのは、モサドなどイスラエルの政府機関が平時と戦時に行った暗殺と標的殺害である。
  ――プロローグ

【どんな本?】

 イスラエルの情報機関モサドは、優れた能力と手段を択ばない強引さで有名だ。だが、イスラエルの情報機関はモサドだけではない。他に軍の情報機関アマンと、イスラエル国内の治安を担当するシン・ベトがある。

 1948年の誕生の前から、イスラエルは周辺からの絶え間ない軍事圧力を受けてきた。小国でありながら、延々と続く危機に曝されつつも国家を維持できたのは、正面戦力に加え諜報および暗殺を含む秘密工作の成果が大きい。

 当然ながら、諜報や秘密工作の実態を、イスラエル当局は公開したがらない。

 そこで著者はイスラエル政府の正規文書はもちろん、引退した関係者やマスコミへの取材そして外国の資料などを駆使し、知られざるイスラエルの秘密作戦、それも最も昏い部分である暗殺に関わる事実へと迫ってゆく。

 厭われつつも卓越した実績を誇るイスラエルの諜報機関の実態を暴く、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Rise and Kill First : The Secret History of Israel's Targeted Assassinations, by Ronen Bergman, 2018。日本語版は2020年6月15日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み上下巻で本文約402頁+332頁=約734頁。9ポイント45字×21行×(402頁+332頁)=約693,630字、400字詰め原稿用紙で約1,735枚。文庫なら3~4冊分の大容量。

 意外と文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、スパイ物の常で、登場人物が多く、かつ偽名を使う場面が多いので、ややこしい部分もある。落ち着いて読めばわかるんだけど。

【構成は?】

 ほぼ時系列で進む。とはいえ、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

クリックで詳細表示
  •   上巻
  • 情報源に関する注記
  • プロローグ
  • 第1章 血と炎のなかで
  • 第2章 秘密組織の誕生
  • 第3章 神の裁き
  • 第4章 最高司令部を一撃で
  • 第5章 「頭に空が落ちてきたかのようだった」
  • 第6章 連続する災難
  • 第7章 「パレスチナ解放の手段は武装闘争のみである」
  • 第8章 メイル・ダガンの腕前
  • 第9章 国際化するPLO
  • 第10章 「殺した相手に悩まされることはない」
  • 第11章 「ターゲットを取り違えたのは失敗ではない。ただの間違いだ」
  • 第12章 過信
  • 第13章 歯磨き粉に仕込まれた毒
  • 第14章 野犬の群れ
  • 第15章 「アブー・ニダルだろうがアブー・シュタルミだろうが」
  • 第16章 海賊旗
  • 第17章 シン・ベトの陰謀
  • 第18章 民衆の蜂起
  • 第19章 インティファーダ
  •  原注/索引
  •   下巻
  • 第20章 ネブカドネザル
  • 第21章 イランからの嵐
  • 第22章 ドローンの時代
  • 第23章 ムグニエの復讐
  • 第24章 「スイッチを入れたり切ったりするだけ」
  • 第25章 「アヤシュの首を持ってこい」
  • 第26章 「ヘビのように狡猾、幼子のように無邪気」
  • 第27章 最悪の時期
  • 第28章 全面戦争
  • 第29章 「自爆ベストより自爆テロ志願者の方が多い」
  • 第30章 「ターゲットは抹殺したが、作戦は失敗した」
  • 第31章 8200部隊の反乱
  • 第32章 「アネモネ摘み」作戦
  • 第33章 過激派戦線
  • 第34章 モーリス暗殺
  • 第35章 みごとな戦術的成功、悲惨な戦略的失敗
  •  謝辞/解説:小谷賢/原注/参考文献/索引

【感想は?】

 いまのところ読み終えたのは上巻だけなので、そこまでの感想を。

 いきなり暗殺を正当化してるのにビビる。普通は後ろ暗いと思うよね。ところが…

暗殺という手段は全面戦争よりも「はるかに道徳的」だ、というのが彼(元モサド長官メイル・ダガン)の持論だった。少数の主要人物を消しさえすれば、戦争という手段に頼る必要がなくなり、味方側でも敵側でも数えきれないほどの兵士や民間人の命を犠牲にしなくてすむ。
  ――プロローグ

 戦争よかマシって理屈だ。まあ、建国以来、ずっと戦争が続いてるような国だけに、気合いというか心構えが違うんだろう。とまれ、落ち着いて考えると、一理あるかな、とも思う。

 例えば、2022年3月現在、ロシアがウクライナに攻め込んでいる。あれは「ロシアの戦争」ではなく、「プーチンの戦争」だ。侵略してもtロシアに利益はない。経済制裁でロシア連邦の経済はガタガタになる。でも、巧く領土をカスメ取れれば、プーチンの人気はうなぎのぼりだ。つまり、プーチンが権力基盤を固めるための戦争なのだ。

 なら、プーチンを暗殺すれば戦争が終わり万事丸く収まるんじゃね? ロシア・ウクライナ双方の将兵も死なずに済むし。

 ダガンの理屈は、そういう事だろう。プーチンの例が気に入らなければ、第二次世界大戦時のヒトラーでもいいや。

 この理屈は、1967年の第三次中東戦争以降に再確認される。

現在のイスラエルの国防軍や情報機関が掲げる(略)基本理念は、イスラエルは大規模な戦争を避けるべきだ(略)。なぜなら「第三次中東戦争のような圧倒的かつ迅速な勝利は二度と起こらない」からだ。今後イスラエルは(略)敵の指導者や主要な工作員を容赦なく追い詰めて殺害する
  ――第8章 メイル・ダガンの腕前

 実際、第四次中東戦争じゃ痛い目を見たし。人口の少ないイスラエルは、正面戦争が長引くと不利ってのもあるんだろうけど。

 そんなイスラエルの情報機関は、三つの柱で立っている。

モサドの設立によって、イスラエルに現在までほぼ同じ形で続く三本柱のインテリジェンス・コミュニティが確立された。
一つめの柱は国防軍に情報を提供する軍の情報局アマン(イスラエル参謀本部諜報局)、
二つめの柱は国内の情報活動と対テロ・対スパイ活動を管轄するシン・ベト(保安庁/イスラエル公安庁/シャバクとも呼ぶ)、
そして三つめの柱が国境を越えた秘密活動を担当するモサドである。
  ――第2章 秘密組織の誕生

 アメリカに例えると、アマンは国防情報局(DIA,→Wikipedia)、シン・ベトはFBI、モサドがCIAだろう。ただしUSAと違い、イスラエルの諜報三局はかなり綿密に協力しあってる。これは国や組織が比較的に小さいためもあるかな?

 そのアメリカとの関係は相当に気を使っているようで、例えばPLOのアラファートを目の敵にして暗殺の機会をうかがうのだが…

アマンの情報によれば、アラファートはサウジアラビアが提供した専用ジェット機をよく移動に使い、その二人のパイロットはアメリカのパスポートを持っているという。この飛行機を撃墜するのは論外だった。「アメリカ人には誰も手を出せない」とアマンのアモス・ギルアドは言う。
  ――第16章 海賊旗

 もっとも、今でこそCIAとは仲良くやってるようだけど、本書には米軍の中の人を取り込んで情報を吸い取った、なんて話も出てくるから諜報の世界はw そのCIAもアラファートとはつながりを持ってたりw

 こういう国による差別というか区別はやはりあって。

モサドがヨーロッパでPLOの要人を殺害していたころは、罪のない一般市民に危害を加えないという原則が厳密に守られていた。(略)だが、ターゲットが敵国におり、罪のない一般市民がアラブ人であれば、引き金を引く指にもためらいがなくなる。
  ――第14章 野犬の群れ

 これは1970年代で欧州でも極左が暴れてた頃。イタリアの赤い旅団(→Wikipedia)とか。日本の連合赤軍(→Wikipedia)も本書にちょい出てくる。当時の極左はアラブに肩入れしてた。そのアラブの後ろじゃKGBがチラホラするんだけど、イスラエルは正面切ってソ連とやる気はなかった様子。

 話をアラファートに戻す。彼に対するイスラエルの評価は高い。いや政治的な姿勢の評価じゃなく、彼の能力に対して。

「(ヤーセル・)アラファートは(略)天才と言ってもいい。あの男には、代理でテロ工作を実行する人物が二人いた。アブー・ジハードとアブー・イヤドだ。ある一件の例外を除いて、アラファートが直接かかわったテロ攻撃は一つもない」
  ――第13章 歯磨き粉に仕込まれた毒

 この辺では、アラファートが暗殺を避けるために行った工夫が幾つも書かれていて、当時の争いの熾烈さが伝わってくる。しょっちゅう居所を替えるのはもちろん、予定も直前まで決めないし、飛行機に乗る時も複数の便を予約したり。「サッカーと独裁者」で、独裁者のアポを取るのに苦労する話があったけど、その理由も納得できた。刺客をかわすには予定を決めてはいけないのだ。

 そんなアラファトも、1980年代末には肝心のパレスチナの空気がわかっていなかったようで…

アブー・ジハードもアラファートも、(第一次)インティファーダ(→Wikipedia)を始める命令など下してはいない。この二人のイスラエルの情報機関同様、この事態(インティファーダ)には驚いていた。インティファーダは純然たる大衆暴動であり、PLOとは関係のない10代後半や20代前半の若者たちが火をつけたものに過ぎない。
  ――第18章 民衆の蜂起

 そのくせ「俺が指示した」と声明を出すんだけどね。機を見るに敏なんです。これだから政治家の言う事は…。

 などとガードが堅いアラファートなどの懐に、なんとか食い込もうとするイスラエルは、内通者をスカウトする。そのコツは、案外とありきたり。

国防軍情報部隊レハヴィア・ヴァルディ「三つのPのいずれかを与えれば、どんなアラブ人でも雇える。その三つとは、称賛(praise)、報酬(payment)、女(pussy)」
  ――第3章 神の裁き

 「飲ませて抱かせて握らせる」かと思ったら、ムスリムは酒がダメなんですね。そのかわりに名誉をデッチあげるわけ。このスカウトの工夫も狡猾で。

「この段階でいちばん重要なのは、最初に向こうから接触してくるよう仕向けることだ。(略)たとえば自分がバス停に行く場合、自分のあとから来た人には疑念を抱くかもしれないが、すでにバス停にいる人には疑念を抱かない」
  ――第19章 インティファーダ

 相手が興味を持っているネタをさりげなく示し、後はバス停の例みたく動いて向こうから話しかけるのを待つのだ。もちろん、その前に「どのバスに乗るか」を調べておく。狡猾だなあ。

 かと思えば、とんでもない奴をスカウトしてたり。

かつてヒトラーに気に入られ、親衛隊の作戦に参加してユダヤ礼拝堂を焼き払っていた人物、いまや世界中で指名手配されているナチ戦犯(→Wikipedia)が、当時のイスラエル情報機関にとって重要な作戦の鍵を握るスパイとなったのである。
  ――第5章 「頭に空が落ちてきたかのようだった」

 第二次世界大戦でドイツの特殊部隊を率い、1964年当時は最も危険な男と呼ばれたオットー・スコルツェニーと取り引きしてる。確かに取引に値するだけの価値ある成果も引き出してるんだが、やはり「モサド内で激しい議論が起きた」。そりゃそうだよね。

 優れた実績を積み重ねるにつれ、他国からの評価も高くなり、モサドも様々な取引を持ち掛けられる。中には「俺に逆らう奴を消してくれ、かわりに…」なんて殺し屋まがいの話も来るんだが、そこは一線を引く。

モサド長官メイル・アミット「われわれに直接の利益がないのに、他国の厄介な任務に関与してはならない。暗殺の場合は特にそうだ。殺害するのはイスラエルの利益を脅かす者だけでなければならない。そして、青と白(イスラエル人)だけでその裁きを下さなければならない」
  ――第6章 連続する災難

 うーむ、じゃプーチンをってのは…いえ、なんでもないです。でも、情報ぐらいは提供してるんじゃないかなあ。知らんけど。

 暗殺の手口も様々で、本書には銃はもちろん書籍爆弾や毒殺のネタものってる。ジェームズ・ボンドほどじゃないけど、ガジェットの研究も怠りない。だもんで、最近流行りのアレも、実はイスラエルが起源だったり。

自動車爆弾は、イスラエル国防軍の特殊作戦部で開発された。最初期のドローンを利用し、そこから爆弾の起爆装置を作動させる信号を送るタイプの爆弾である。
  ――第14章 野犬の群れ

 後にはその自動車爆弾でイスラエルが痛い目を見るんだけど。

 とかの活躍ばかりでなく、レバノン内戦(→Wikipedia)でのファランヘ党(→Wikipedia)とのつながりを描く14章~16章や、シン・ベトによるPLO狩りの暴走を暴く17章は、事実を明らかにしようとするジャーナリストの矜持を感じさせる。

 今まで読んだスパイ物の中でも、本書はとびっきりの濃さだ。既にお腹いっぱいなんだが、お話は下巻へと続く。

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2022年3月17日 (木)

SFマガジン2022年4月号

 「男は男しか好きにならないようにしようと思う」
  ――一穂ミチ「BL」

1960年、北インドの難民キャンプで一人の男性が女児を出産し、その後死亡した。
  ――琴柱遥「風が吹く日を待っている」

ヘシャーのすぐ北にあるバクストンで、紛争地へ向かう救護隊の番犬をしていると、ジョンが目にとまった。彼女の顎ひげが目についたのだ。
  ――オン・オウォモイエラ「男性指数」赤尾秀子訳

 376頁の標準サイズ。

 特集は「BLとSF」。読み切りの小説が7本、エッセイ・評論が7本、コミックが1本。

 小説は11本。

 特集「BLとSF」で7本。一穂ミチ「BL」,小川一水「二人しかいない!」,琴柱遥「風が吹く日を待っている」,水原音瀬「断」,サム・J・ミラー「分離」中村融訳,ヴィナ・ジエミン・プラサド「ロボット・ファンダム」佐田千織訳,オン・オウォモイエラ「男性指数」赤尾秀子訳。加えてコミックは吟鳥子「HabitableにしてCognizableな領域で」。

 連載は3本。冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第41回,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第13回、新連載の村山早紀「さやかに星はきらめき」第2回。

 読み切りが1本。上遠野浩平「凡庸人間は安心しない」。

 まずは特集「BLとSF」から。

 一穂ミチ「BL」。シサクとミンは、政府が運営する天才児の育成組織で育つ。シサクは優れた頭脳を持つが自分の非凡さをよく分かっていない。対してミチは卓越した洞察力で自分の立場を理解し、敢えてニンの補佐役を演じる。オンラインの授業でシサクは講師のリピカに出会い、恋に落ちる。彼女は24歳の大学院生。リピカがBL好きと知ったシサクは…

 いきなり最初の行からブッたまげた台詞で驚いたが、その動機も酷いw 懐かしのアメリカSFによくある、優れた発明家だけど常識が欠けてる科学者ですね。昔は自分がどんな仕事をしてるか家族に話せたけど、最近は職業が細分化・専門化しちゃってるから、自分の仕事を巧く人に説明できない職業がけっこうあって、シサクのもどかしさが伝わりやすいんじゃないかな。

 小川一水「二人しかいない!」。大学で異星文明学を学ぶジゼは、ゼミの仲間と卒業旅行に出かける。星間貨客船「戦うセイウチ号」に乗って四日目、それまで動かなかったハトラックどもが動き始め、ジゼとクラッドを攫う。ハトラックは身長2.5メートルの木造家具みたいな異星人。クラッドはビジネススーツの若い男。

 「天冥の標Ⅳ 機械じかけの子息たち」でポルノに挑戦した著者、今度はBLですか。タイトルは萩尾望都の「11人いる!」のもじりだろうか。それにふさわしく、昔のラブコメ少女漫画っぽい味付けに仕上がってるけど、素材はまごうことなき本格派のファースト・コンタクトSF。

 琴柱遥「風が吹く日を待っている」。インド・パキスタン北部国境のカシミール、その更に北部の山岳地帯。そこに住む民族トゥニは、峻険な地形もあり王朝の支配を受けつけず、独特の社会を築いている。インドの病院で男が女児を生んだという知らせを受け、米軍のロビン・タイドがトゥニを訪れる。赤子を連れ帰った少年を探しに来たのだ。

 オメガバース作品。Wikipediaにもあるが、私はピクシブ百科事典の方がわかりやすかった。百合にもBLにも使える便利設定だなあ。あとキン肉マンのジェロニモみたいなのもアリか。確かにスポーツ界は混乱しそう…って、今でもトランスジェンダーで面倒くさいことになってるね。お話は切ないラブ・ストーリー。

 水原音瀬「断」。不景気な不動産屋に勤める新庄裕太は寝不足だ。夜中に物音で目が覚める。緩衝材を潰すプチプチみたいな音。だが、家の構造を調べても、それらしい原因は見つからない。その朝、臭いに釣られて入ったコーヒーショップの若い店員は、やたら馴れ馴れしい。強引にラインの交換をする羽目になり…

 プチプチ音が怖い。こりゃ男ならどうしてもオカシクなるわ。なんて恐ろしい事を考えるんだ著者は。世の中の男すべてを憎んでいるのか。そう思えるぐらい怖い。丸井さんが唯一の救い。

 サム・J・ミラー「分離」中村融訳。おれは海面上昇で水没したニューヨークから、洋上のグリッド・シティに逃れてきた。公立学校でラジュラと出会い恋に落ち、息子のセデも生まれた。だが、しがない氷労働者のおれと彼女じゃうまくいくはずもない。セデはラジュラと暮らし、おれは氷船で氷河のかたまりを切りとる仕事に出かける。セデと会うのが唯一の楽しみだが…

 幼い頃はなついていた息子だが、成長するにつれよそよそしくなっていく。昔気質で荒っぽい出稼ぎ労働者の暮らししかできない父親と、何か深い悩みを抱えた息子。舞台は未来の洋上都市だが、1950年代のアメリカや1970年代の日本または今世紀の中国でもイケる、というか、父と息子の関係って点ではソッチの方がより切実になりそうな気がする。

 ヴィナ・ジエミン・プラサド「ロボット・ファンダム」佐田千織訳。コンピュートロンは、シマック・ロボット工学博物館のコレクションの一つだ。見学者の質問に出てきた日本のアニメ『超次元ワープゲート』について知識をつけようと調べるうちに、ファンによる二次創作活動を発見する。自らもアカウントを作り議論に参加し始めたコンピュートロンは…

 『超次元ワープゲート』はシリアスなスペース☆ダンディというかアウトロー版キャプテンウルトラというかレディがブリキロボットなコブラというか。で、お話はジャック・ヴァンスの魔王子シリーズ…って、全然わかんねえよw 好きなネタだと饒舌になるとか、「つべこべいわずに自分で書け」とか、ヲタクの生態が身に染みますw

 オン・オウォモイエラ「男性指数」赤尾秀子訳。紛争地。女子義勇団の救護隊を目的地まで送り届けるのがぼくの任務だ。救護隊の一人、ジョンに顎にひげを見つけたぼくは、奴の性別評価を確める。公認は女。だがしぐさは女らしくない。目的地のヘシャーは残骸だらけで誰もいない。そこに男がやってきて、爆弾を爆発させる。

 救護隊になりたい男と、女の身体に生まれながらも兵士になりたい女。男性指数と女性指数の両方があって、それぞれ独立しているらしい。現実にアフガニスタンで最も厳しい任務に志願した女たちのドキュメンタリー「アシュリーの戦争」を読むと、荒っぽい人ばかりでなく、色とりどりな性格の人が集まってたりする。合衆国海軍SEALsのバディ制度は…いや、色々と面倒くさそうだなあ。

 BL×SF作品ガイド。「星を継ぐもの」がアリなら、グラント・キャリンの「サターン・デッドヒート」とジョン・ヴァーリイの八世界シリーズも。上田早夕里「深紅の碑文」あたりもほのかな匂いが。

 百合と違いBLは階層社会を表に出した作品が多い気がする。特にオメガバースは、階層性を前面に押し出してるし。ということで、特集はここまで。

 村山早紀「さやかに星はきらめき」第2回。キャサリン・タマ・サイトウは、『言葉の翼』社の編集長だ。今日は外部の校正者アネモネとの仕事を終え、ゲラをはさんで会話を楽しんでいる。アネモネは数少ないトリビトの一人で、校正者として卓越した能力を持ち、キャサリンのお気に入りだ。

 ネコビトとイヌビトの起源を語る前回に続き、今回はトリビトのお話。この人、カート・ヴォネガットと芸風が似てる。いや冷笑的なんじゃなくて、長編の中に魅力的な短編を挿話としてたくさん散りばめるところが。

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第13回。嵐に包まれた青野の町を、八岐大蛇が襲う。何本もの巨大な竜巻が横倒しになって、青野の町を飲みこんでゆき、その中心である啄星高校へと次第に迫ってくる。儀間圏輔は八岐大蛇に飲みこまれ転写され、統一性は揮発した。印南棗と山下祐は、児玉佐知をを仕留めようとするが…

 青野の町の意味や、微在や<面影>の正体が語られる回。嵐のなか、激しいバトルはまだ続く。前回までアチコチにあった、昭和の懐かしい匂いがする風景は嵐に飲みこまれ、今回は八岐大蛇と園丁たちの想像を絶する戦いが続く。

 上遠野浩平「凡庸人間は安心しない」。囚われているコノハ・ヒノオはいきなり言いだす。「ぼくは外に出る。手伝ってほしい」。あせるリセットとリミットをよそに、ヒノオは扉に体当たりをくり返す。ウトセラ・ムビョウ逃亡の責を問われ監禁されたアララギ・レイカに、ミナト・ローバイがモニターごしに話しかける。

 今まで流されるままだったコノハ・ヒノオが、珍しく自らの意志で動き出し、おお!と思ったらスグに出番は終わり。気を持たせるなあ。久しぶりに出てきたミナト・ローバイ、何やら意味深なことを言ってるようだけど、なかなかウザくてキャラ立ってます。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第41回。市議会議員に立候補したハンター。その前に、シザースとの決戦が待っている。場所はマルセル島、相手はマクスウェル。<ハウス>に集うハンター,バジル,ラスティ,シルヴィア,オーキッド,エリクソン、そしてシルフィードとナイトメア。

 今回は決戦前のブリーフィングから開戦まで。すべて<クィンテット>の視点で、イーズターズ・オフィスの出番はなし。相変わらず様々なエンハンサーが出てくるけど、最も印象に残るのは、リック・トゥームの鬱陶しさ。いや能力じゃなくて性格がw

【今日の一曲】

Free - Be My Friend

 今日は私の大好きなバンド Free の Be My Friend を。作詞作曲はシンガーのポール・ロジャースとベースのアンディ・フレイザーの共作。そのアンディ・フレイザー、けっこうな齢になってから自分は男が(も?)好きだと気が付いたとか。そういうアンディの悩みを知ってか知らずか、ソロになってからもポール・ロジャースはこの曲を熱唱してます(→Youtube)。

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2022年3月13日 (日)

ウィリアム・バーンスタイン「交易の世界史 シュメールから現代まで 上・下」ちくま学芸文庫 鬼澤忍訳

世界の宗教のなかで唯一、イスラム教は商人によって創始された
  ――第3章 ラクダ、香料、預言者

ペストは貿易の病である。
  ――第6章 貿易の病

コーヒーは茶よりも一世紀早く広まっていた。
  ――第10章 移植

ペニー郵便法がついに上院を通過したとき、彼(リチャード・ゴブデン)は「これで穀物法もおしまいだ!」と快哉を叫んだという。安い郵便は、穀物法廃止勢力の兵器庫も最も強力な武器、まさにプロパガンダの榴弾砲となった。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

ナポレオン三世「われわれフランス人は改革をしない。革命を起こすだけだ」
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

ほかの条件がすべて同じであれば、豊かな社会では貿易量が増える。
  ――第13章 崩壊

【どんな本?】

 文明の曙の頃から、ヒトは遠いところと交易してきた。交易は、帝国の勃興と共に盛んになることもあれば衰えることもある。家畜の飼いならしや航海技術の進歩が交易を進めることもある。海峡などの要所を巡り激しく非情な争いもあった。また、往々にして、金融や関税などの制度が交易の興亡を左右した。

 アメリカの歴史研究家が、先史時代から現在のグローバル経済まで、人々の交易とそれが変えた社会について綴る、一般向けの歴史解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A Splendid Exchange : How Trade Shaped the World, by William J. Bernstein, 2008。日本語版は2010年4月に「華麗なる交易 貿易は世界をどう変えたか」として日本経済新聞社より刊行。2019年8月10日に筑摩書房より文庫版の上下巻で刊行。

 文庫で縦一段組み本文約341頁+328頁=約669頁。8.5ポイント40字×17行×(341頁+328頁)=約454,920字、400字詰め原稿用紙で約1,138枚。ちょい厚めかな?

 文章は比較的にこなれている。内容も親しみやすい。ただし世界各地の地名がしょっちゅう出てくるので、世界地図などを用意しておこう。また文中にも地図があるので、栞も幾つか用意しておこう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

クリックで詳細表示
  •   上巻
  • はじめに
  • 第1章 シュメール
  • 第2章 貿易の海峡
  • 第3章 ラクダ、香料、預言者
  • 第4章 バグダッド-広東急行 1日5ディルハムで暮らすアジア
  • 第5章 貿易の味と貿易の虜
  • 第6章 貿易の病
  • 第7章 ヴァスコ・ダ・ガマの衝動
  •  原注
  •   下巻
  • 第8章 包囲された世界
  • 第9章 会社の誕生
  • 第10章 移植
  • 第11章 自由貿易の勝利と悲劇
  • 第12章 ヘンリー・ベッセマーが精練したもの
  • 第13章 崩壊
  • 第14章 シアトルの戦い
  •  謝辞/訳者あとがき/原注/出典リスト

【感想は?】

 今まで、モノや技術の由来やを綴る本を幾つか読んできた。

  「砂糖の歴史」, 「バナナの世界史」, 「コーヒーの真実」, 「胡椒 暴虐の世界史」, 「マネーの進化史」, 「紙の世界史」, 「木材と文明」, 「完璧な赤」…

 この本は、それらの集大成といった感がある。

 改めてモノや技術の歴史を俯瞰して見渡すと、幾つか共通するパターンが見えてくる。上に挙げた本が扱うテーマは、砂糖・バナナ・ッコーヒー・胡椒・金融・紙・木材・染料だ。共通点は、身近であること。地球のどこかで生まれたモノや技術が世界中に広がり、私たちの手元に届いたのである。

 どうやって広がったのか。当然、交易によってだ。だから、集大成なのも当然なのだ。

 表紙には港に集う帆船を描いている。交易は、遠いところからモノを運ぶ。その際は、水路に頼ることが多い。遠い所に運ぶ場合、陸路より水路の方が有利なのだ。

水上輸送は陸上輸送よりもはるかに安上がりで効率もいい。ウマは約90kgの荷を背に乗せて運ぶことができる。荷馬車を使って平坦な道を行けば、約1.8トンを引っぱれる。だが、運河側道から船を曳かせれば約27トン――古代の小型帆船の積載量――を運べる。
  ――第1章 シュメール

 そんなわけで、交易は水路の確保が大事だ。水路ったって、海は広い。海賊も沖に逃げれば捕まえようがない。だが、逃げようのない所もある。

ギリシアが西洋文明の発祥地だったとすれば、その独特な地形が西洋の海軍戦略の基礎を築いたといって間違いないだろう。
海軍戦略で重視されるのは海上航路の安全だ。(略)
自らの繁栄と存続をはるか遠くの海上交通の海上交通路や戦略上の要所(略)に依存していたのだ。
  ――第2章 貿易の海峡

 この要所とは、海峡だ。多くの船が通るので、一網打尽にできる。海賊だろうが、密輸船だろうが、敵国の船だろうが。いかに海峡を抑えるか、が西洋の海軍戦略のキモになったのだ。

 逆に海軍を疎かにすると…

海軍がいない海では、海賊がはびこる。16世紀の半ば、日本の「倭寇」が中国沿岸を恐怖に陥れた。
  ――第4章 バグダッド-広東急行

 これは現代でも言えることで、紅海の入り口マンデブ海峡はソマリアの海賊が荒らしたし、マラッカ海峡も海賊が出没するとか(→「貧困と憎悪の海のギャングたち 現代海賊事情」)。しかもマラッカ海峡付近は役人とグルになってるからタチが悪い。

 それでも商人が海に出るのは、儲かるから。意外だったのは、船員の待遇。彼らは単なる雇われ人員じゃない。

インド洋における商人と船員の区別はとても微妙なもので、給料をもらっている乗組員はほとんどいなかった。大半の乗組員は自分の裁量で貿易品を船に持ち込み、それで商売をして生計を立てていたのである。
  ――第4章 バグダッド-広東急行

 元船乗りが書いたSF小説「大航宙時代」で、若い宇宙船乗りが手荷物で稼ぐ場面があるけど、あれは昔からの船乗りの伝統だったのか。ジャック・ヴァンスも商売ネタが多いのは、船員時代の小遣い稼ぎの経験が活きてるんだろうなあ。

 なんてSFネタはさておき。彼らが運ぶ商品は色々あるが、ヴェネツウィアやジェノヴァの商人たちが運んだのは、意外な商品だ。

だいたい1200年から1500年にかけて、イタリア人は世界で最も成功した奴隷商人となり、黒海の沿岸で奴隷を仕入れるとエジプトやレヴァントで売った。
  ――第5章 貿易の味と貿易の虜

 クリミアあたりで仕入れた奴隷を、マルムーク朝のエジプトに売るんですね…って、「ヴェニスの商人」(→Wikipedia)のアントーニオは奴隷商人かよ。今の感覚だと、アントーニオこそ悪役だよなあ。

 もっとも、そんな貿易も当たればデカいがハズれると…

オランダの波止場から東洋に向かって船出した100万人前後の男性のうち、半数以上は帰らなかった。
  ――第9章 会社の誕生

 それでも、一攫千金の夢を見て彼らは海に乗り出してゆく。目的地はインド。ちなみに地中海からインドへの航路は、かなり昔から知られてはいたらしい。

大西洋を横断してインドに行くルートの起源は、紀元前一世紀のローマ時代の地理学者ストラボンにさかのぼる。ひょっとしたらアリストテレスにまで行きつくかもしれない。
  ――第7章 ヴァスコ・ダ・ガマの衝動

 ちなみに紅海経由のルートでネックとなるのがスエズの地峡。これを水路で繋ぐスエズ運河、レセップス以前に2回ほど作られている。まあいい。ここをイスラム勢力に抑えられた欧州は、羅針盤や貿易風の利用などで喜望峰周りの航路を見いだし、南アジアへと進出してゆく。ここで牽引役となるのは国家ではなく…

航海術の発達のおかげで、(イギリス・オランダ)両国の戦いは世界各地のヨーロッパの交易拠点とプランテーションをめぐってくり広げられてゆく。そのほとんどが、国の陸軍や海軍同士の衝突ではなく企業同士の衝突だった。
  ――第8章 包囲された世界

 現代でもグローバル企業は問題にされるけど、実際にヤバい実績があるのだ。いやホント、「胡椒 暴虐の世界史」や「バナナの世界史」を読むと怖くなるよ。

 とまれ、そんな国際企業をテコに発展する都市もある。本書ではマラッカや広東が例だ。現代だとシンガポールだろう。そういう交易都市が栄えるのにはコツがあって…

こんにちに至るまで、世界市場での成功と失敗を分ける要因は、規模ではなく、発達した政治、法律、そして金融機関である。
  ――第9章 会社の誕生

 そういえばシンガポール、「明るい北朝鮮」なんて揶揄される事もあるけど、司法や役人の腐敗の少なさもピカ一って言われてるなあ。さすが華僑の国だ。

 さて、第10章以降は、自由貿易 vs 保護主義の議論が表に出てくる。著者は自由貿易を推す立場だ。例えばアメリカ人が誇りとするボストン茶事件も…

(ボストン茶事件の原因となった)この(タウンゼンド諸)法は新たな課税ではなく、アジアからアメリカへの紅茶の直接輸入をイギリス東インド会社にはじめて許可するものだった。この法のおかげで紅茶の価格は半分に下がり、植民地の消費者はむしろ恩恵を受けた。
  ――第10章 移植

 と、私が教科書で学んだストーリーとだいぶ違う。やはりインド独立の父ガンジーのシンボル糸紡ぎ車に対しても…

(イギリスの機械織り綿布による)インド経済全体の損失は比較的軽微ですんだ。インドの生産高の大半は農業が生みだしていたからだ。失業者は200万から300万――労働力全体のせいぜい3%――程度で、マルクスやネルーの黙示録的散文が記したように何千万というわけではなかった(略)。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 なんて Dis ってる。まあ、ガンジーは「技術者を農場に送れ」とか、産業振興じゃアレな所もあるんだよね。もっとも、アジアを軽んじてるワケでもなく…

南京条約(→Wikipedia)の屈辱感はこんにちに至るまで中国の国家意識のなかでくすぶっている。この条約を知るアメリカ人が100人に1人もいないという事実は、21世紀の米中関係にとってよい兆しではない。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 と、アジア側から見た歴史も、一応は抑えている。この辺を読むと、現在の中国が香港に拘る理由が少しわかるかも。いや、だからって中国共産党のやり口が適切だとは思わないけどさ。

 いずれにせよ、香港の問題の原因は貿易にある。この貿易、かつては移動の難しさに阻まれていた。いくらいいモノでも、遠くにあるモノを運ぶには高い費用がかかる。これを変えたのが羅針盤や航海術であり、近年では…

ベッセマー法(→Wikipedia)がチャールズ・ウィリアム・シーメンズとピエール・マルタンによって完成されると、鋼鉄の価格は1トン当たりわずか英貨数ポンドに下がり、それ以前のほぼ1/10になった。
  ――第12章 ヘンリー・ベッセマーが精練したもの

 鋼鉄を作る技術だ。これにより蒸気エンジンの出力が上がり、船体が丈夫になり、更には肉の冷凍輸送も可能になった。こういった技術革新は輸送の費用を減らし…

輸送費の低下は価格の収束につながる。
  ――第13章 崩壊

 国や地域ごとの価格や賃金の違いを減らしてゆく。この現象は勝者と敗者を生む。誰が勝ち、誰が負けるのか。

彼ら(ウォルフガング・ストルーパー&ポール・サミュエルソン)のモデルでは、保護貿易は(土地・労働・資本のうち)相対的に乏しい要素を多くもつ者に恩恵をもたらし、相対的に豊富な要素を多くもつ者に害を与えると予想された。自由貿易では逆のことが起きる(略)。
  ――第13章 崩壊

 日本じゃ土地が乏しい。そして農業は多くの土地が要る。農産物・畜産物の保護は、日本じゃ乏しい土地を多く持つ農家が得をする。逆に自由化したら、農家や牧場は潰れるが、消費者は肉が安くなってラッキー、そういうことです。当然、農家は納得いかないわけで…

自由貿易は全体としては人類を豊かにするが、唯々諾々と新たな秩序を受け入れるわけにはいかない敗北者もつくりだす
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 そんなワケで、今でもTPPとかが熱い話題になってるんだけど、こういう議論は昔からあったようで…

グローバリゼーションをめぐるこんにちの議論は、場合によってはほぼ一言一句違わず、かつての議論をくり返している。
  ――第14章 シアトルの戦い

 いや私もTPPが何かはよく知らないんだけど←をい

 などと、全般的に自由貿易を推す著者なんだけど、今まさに起きているロシアのウクライナ侵略に伴う原油価格の暴騰とかは、グローバル経済ならではの現象だよなあ、などとも思ったり。まあ石油だから、かもしれないが。

数量、金額、戦略上の重要性のうちどの尺度をとっても、輸送商品のなかで石油は最も重要であり、つねに地球全体の交易量の半分近くを占めている。
  ――第14章 シアトルの戦い

 世界はそんな痛みを引き受けてでも、ロシアへの経済制裁を続けるつもりだけど、それで最も大きなダメージを受けるのは…

貿易保護法は普通、弱く無力な者に最も打撃を与える。
  ――第11章 自由貿易の勝利と悲劇

 少なくとも、プーチンではないんだよね。最も苦しむのは、ロシアの貧しい人たち。それでも、戦争よりはマシだと思うけど。

 私も今回のロシアの暴挙には驚いてて、それはこんな考えを持ってたから。

経済学者フレデリック・バスティア「財が国境を越えることを許されないとき、兵隊が越えるようになる」
  ――第14章 シアトルの戦い

 「マクドナルドのある国同士は戦争しない」なんて俗説もあったけど、それが今回の戦争で覆されてしまった。

 なんかまとまりのない記事になっちゃったけど、そもそもこれだけ膨大な内容の歴史書を私ごときのオツムでまとめようってのが無茶なのだ。それでも、本書の持つ強烈なインパクトだけは伝わったと思う。歴史、それも国や政治家や軍人ではなく、モノや技術の歴史が好きな人にお薦め。

【おまけ】

 「第6章 貿易の病」は、ペストを扱う。本書によると発生は中国で1331年で、1347年にジェノヴァに至る。日本史だと鎌倉末期~南北朝~室町時代初期だが、流行ったとは習っていない。不思議だったんだが、実際に流行ってないようだ。どうも当時の日本は大陸との交流が途絶えていたらしい。元寇の影響で半島や大陸との交流が途絶えていたとか。ソースはNHKの感染症の日本史 ②/元寇ロックダウン!? ~ペスト~

 なお、同時期は倭寇も暴れていたはず。とすると、倭寇の基地は別の所にあったのか、有名なわりに規模が小さかったのか。やはり謎は残るなあ。

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