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2022年2月16日 (水)

アフマド・サアダーウィー「バグダードのフランケンシュタイン」集英社 柳谷あゆみ訳

「あれは、……名前の無い者でございます」
  ――第8章 秘密

「完全な形で、純粋に罪なき者はいない。そして完全なる罪人もいない」
  ――第14章 追跡と探求

「顔は変わっていく。俺には確定した顔がない」
  ――第17章 爆発

【どんな本?】

 サダム・フセイン政権が倒れ、暫定政府はあるものの、テロが吹き荒れ騒乱状態にある、2005年のイラクはバグダードを舞台とした、現代の怪談。

 ハーディーはシケた古物屋だ。街を出て行く人から、家具や電化製品を買い集めては直して売っている。そのかたわら、テロなどの犠牲者の遺体の欠片をかき集めて繋ぎ、一つの遺体に組み上げた。ただの死体だったはずのソレは、混乱しながらも自らの意志を持って動きだし、元の肉体の持ち主たちの恨みを晴らそうと、夜な夜な人を襲い始める。

 バグダードに生きる様々な人々の暮らしと風俗をじっくりと書き込み、私たちの知らないバグダード市民の文化を伝えるとともに、テロと暴力が渦巻き復讐の連鎖が続く現代イラクの現状を描く、ホラー長編小説。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は فرانكشتاين في بغداد, سعداوي, أحمد , 2013。アラビア語なので綴りは自信がない。英米では Frānkshtāyin fī Baghdād, Saʻdāwī, Aḥmad, 2014。日本語版は2020年10月30日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約383頁に加え、訳者あとがき6頁。9.5ポイント44字×19行×383頁=320,188字、400字詰め原稿用紙で約801枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。SFというより怪談なので、理科が苦手でも大丈夫。イラク情勢に疎くても、お話に必要な事柄は作中にあるので心配いらない。またイラクの風俗なども、訳者が文中で丁寧に捕捉しているのでご安心を。

 なお、イリーシュワー婆さんが大事にしている聖ゴルギースはたぶん聖ゲオルギウス(→Wikipedia)。竜退治の絵はいろいろある(→Google画像検索)。私はラファエロ作(→Wikipedia)がしっくりくるなあ。

【感想は?】

 SFと紹介されることが多い。書名にフランケンシュタインがあるからだろう。でも、怪談と呼ぶ方が相応しいと思う。

 怪談に出てくる人は、たいてい特別な人じゃない。どこにでもいる、普通の人だ。この作品に出てくる人も、多くはバグダードに住む普通の人々だ…少なくとも、序盤は。

 ここでじっくりと書き込んだバグダードの風景と人々は、ちょっとした驚きに満ちている。

 例えば最初に焦点が当たるウンム・ダーニヤール・イリーシュワー。20年前に徴兵された息子の帰りを今も待つ婆さん。岸壁の母ですね。彼女、なんとアッシリア東方教会の信徒だ。

 イラクといえばスンニ派vsシーア派vsクルドみたいな構図で報じられるけど、実際のバグダードはもっと多様性に満ちた街なのだ。

 宗教的に多様なのは「失われた宗教を生きる人々」でわかってるつもりだったが、ご近所同士でも仲良くやってるとは。イリーシュワー婆さんも、ご近所からは「神の祝福」を受けている、と評判だし。なお、「失われた宗教を生きる人々」に出てきたマンダ教(→Wikipedia)も少し出てきます。

 自動車も国際的だ。韓国KIAのバス,マレーシアのプロトン,トヨタのコースター,ドイツのメルセデス,ロシアのヴォルガ,そして米軍のハマー。人間もいろいろ。エジプト人,スーダン人,アルメニア人,ベネズエラ人傭兵、もちろん米軍兵も。

 などのヒトとモノの多国籍ぶりは、さすが千一夜物語の舞台となった都市、と感心したり。そう、昔からバグダードは国際的な都市だったのだ。こういう多国籍な風景は、「旋舞の千年都市」のイスタンブール以来だ。そういえばイスタンブールも歴史ある街だね。

 他にも「チャイ」「ネスカフェ・コーヒー(インスタント・コーヒーを示す)」「バクシーシ」とか、アジアや中東を旅行した経験のある人には懐かしい言葉も出てきて、「アレはユーラシア全般の文化なのか」と思ったり。あと、ビールをはじめ酒を飲む場面も意外と多い。ナツメヤシの酒なんてあるのか。

 もちろん、怪談だから、怪異も出てくる。怪異にもお国柄があって、それもこの作品の楽しみの一つ。

 肝心の怪物が意志を持つ経緯もそうだし、というか冒頭から政府機関が何やっとんじゃw やはり千一夜物語の国だった。政府はともかく、普通の人々は亡霊と共に生きている。結局、国や文化により形は違っても、怪異はあるのだ。味付けはイラク味だけど。イラク戦争も、そういう視点で見ると、全く違った形に見えてくるのも面白い。

 こういう土俗的な文化や風俗を味わえるのも、海外の文学を読む楽しみの一つ。特に怪談は普通の人々の暮らしにベッタリと張り付いて語られるだけに、そういった楽しみが詰まってる。

 とまれ、物語の舞台はそんなノンビリした雰囲気じゃない。毎日のように爆弾騒ぎが起き、ほんの偶然で人々が死んでゆく。

 怪物こと「名無しさん」がフランケンシュタイン役のハーディーと最初に対峙する場面でも、そんなテロに巻き込まれた人々が抱く、やり場のない怒りが炸裂する。

「自爆したスーダン人こそ殺した張本人じゃないか」(略)
「それはそうだ……だがあれは死んでいる。死んだ奴をどうやって殺せる」
  ――第9章 録音

俺はこの犠牲者の復讐を誰に果たしたらいいのだろうか。
  ――第10章 名無しさん

 仇が誰だかわかり、生きていれば、ソイツを恨める。だが、自爆テロだったら、誰を恨めばいいのか。既に犯人は死んでるんだし。そういった、犠牲者たちのやり場のない怒りを受け継ぎ、「名無しさん」は夜のバグダードを駆け抜ける。

 そして、生きている者たちは、バグダードから逃げ出してゆく。

今は誰も彼も亡くなったか、移住してしまった。
  ――第5章 遺体

 もっとも、この情勢を利用して荒稼ぎを目論む逞しい連中もいるんだが。ハーディーもそうだし、不動産屋のファラジュも図太い。太平洋戦争後の日本にも、こういう連中がいたんだろうなあ。

 テロの嵐が吹き荒れる中で、身を寄せ合い助け合って生き延びようとする者、機会に乗じて荒稼ぎを目論む者、事態の収拾を図る当局、ネタの臭いを嗅ぎつけたマスコミ、混乱にもめげず文化の保全に勤しむ者、旧体制でブイブイいわしてた奴…。混乱するバグダードに住む様々な人びとの暮らしを背景に、そこに蘇った「名無しさん」の暴れっぷりを描く、現代バグダードの怪談だ。ホラーファンだけでなく、異国の暮らしに興味がある人にお薦め。

 ところで、イリーシュワー婆さんは毎週教会に通ってるけど、他の人物がモスクに行く場面はないんだよね。なんでだろ?

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