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2021年12月21日 (火)

リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」早川書房 濱野大道訳

行方不明者の家族は、ふたつの十字架を背負うことになる。
ひとつ目は、辛い体験の苦しみ。
もうひとつは、周囲の視線。ときに、彼らには普段よりも高い行動基準が求められる。
  ――第11章 人間の形の穴

「普段、在日コリアンの多くは差別を意識していません」
「ガラスの天井にぶつかるのは、野心がある人たち――社会の階段を駆け上がろうと望む人たちのほうです」
  ――第14章 弱者と強者

犯罪者は狡猾で、頑固で、嘘つきであり、警察はまさにそういう人間に対処するために存在する、という考えは刑事の多くにはなかった。
  ――第18章 洞窟のなか

日本の警察がよく無能に映るのは、真の犯罪と戦った経験がほとんどないからなのだ。
  ――第12章 日本ならではの犯罪

【どんな本?】

 2000年7月1日土曜日、六本木のクラブホステスが姿を消す。ルーシー・ブラックマン、21歳、英国人。友人で同僚のルイーズ・フィリップスは7月3日月曜日に麻布警察署および英国大使館を訪れ報告するものの、対応は冷ややかだった。

 だが一週間後、イギリスの新聞の報道を皮切りに、日本とイギリスのマスコミは事件の取り扱いを大きくする。ルーシーの父ティムの型破りな言動もあり、事件の報道はさらに過熱するのだが、肝心のルーシーの行方は杳として知れなかった。

 当時は<インディペンデント>紙の特派員として東京に住み、2002年からも<ザ・タイムズ>紙の東京支局長として日本の社会と風俗をよく知る著者が、事件のあらましだけでなく被害者の家族の状況と心の動き、日本と英国の社会や常識の違い、犯人とその背景など、旺盛な取材が可能とした多様な視点で事件と背景を描く、特異なルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up, by Richard Lloyd Parry, 2012。日本語版は2015年4月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え、日本語版へのあとがき4頁+訳者あとがき5頁。9.5ポイント45字×20行×471頁=約423,900字、400字詰め原稿用紙で約1,060枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。今はハヤカワ文庫NFから上下巻で文庫版が出ている。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、肝心の事件について、勘ちがいしがちなので要注意。本書が扱うのはルーシー・ブラックマンさん事件(ネタバレ注意、→Wikipedia)で、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件(→Wikipedia)」ではない。いや実は私も勘違いしてたんだが。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。ミステリとしても面白いので、好きな人は頭から読もう。

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  • プロローグ
  • 死ぬまえの人生
    謎の電話/失踪/大都市に棲む異様な何か
  • 第1部 ルーシー
  • 第1章 正しい向きの世界
    父と母/少女時代
  • 第2章 ルールズ
    離婚/ボーイフレンドたち
  • 第3章 長距離路線
    東京行きの計画/日本へ
  • 第2部 東京
  • 第4章 HIGH TOUCH TOWN
    異質で好奇心をそそる国
  • 第5章 ゲイシャ・ガールになるかも(笑)!
    ホステスという仕事/“水商売”/ノルマ
  • 第6章 東京は極端な場所
    TOKYO ROCKS/<クラブ・カドー>/オーナーのお証言/海兵隊員スコット/「まだ生きてるよ!」
  • 第3部 捜索
  • 第7章 大変なことが起きた
    消えたルーシー/冷静な父親/警察とマスコミ
  • 第8章 理解不能な会話
    ブレア首相登場/ルーシー・ホットライン開設/霊媒師たち
  • 第9章 小さな希望の光
    マイク・ヒルズという男
  • 第10章 S&M
    蔓延するドラッグ/あるSM愛好家の証言/「地下牢」へ
  • 第11章 人間の形の穴
    22歳の誕生日/ジェーンとスーパー探偵/ふたつの十字架/ある男
  • 第12章 警察の威信
    クリスタの証言/「過去稀に見る不名誉な状態」/ドラッグ
  • 第13章 海辺のヤシの木
    ケイティの証言/<逗子マリーナ>の男/不審な物音/Xデー
  • 第4部 織原
  • 第14章 弱者と強者
    薄暗い闇/アイデンティティ/弟の苦悩/友人たちの証言
  • 第15章 ジョージ・オハラ
    「歌わない」容疑者/父の怪死/謎の隣人/典型的な二世タイプ/声明
  • 第16章 征服プレイ
    アワビの肝/「プレイ」の実態/ルーシーはどこに?
  • 第17章 カリタ
    娘のいないクリスマス/消えたオーストラリア人ホステス/急変/ニシダアキラ/あの男
  • 第18章 洞窟のなか
    ダイヤモンド/発見/遺された者たち
  • 第5部 裁判
  • 第19章 儀式
    葬儀の光景/開廷/法廷の人々
  • 第20章 なんでも屋
    最後の証人/「気の毒に思っていますよ」
  • 第21章 SMYK
    検察側の尋問/遺族たちの声明
  • 第22章 お悔やみ金
    バラバラになる家族/魂を奪い合う戦場
  • 第23章 判決
    熱い抱擁/最終陳述/『ルーシー事件の真実』/ふたつの準備稿
  • 第6部 死んだあとの人生
  • 第24章 日本ならではの犯罪
    負の力/大阪にて/市橋達也とリンゼイ・アン・ホーカー/奇妙な手紙/黒い街宣車
  • 第25章 本当の自分
    暗闇に吹く突風/命の“値段”/道徳という名の松明/控訴審/最高裁/クロウタドリ
  • 日本語版へのあとがき/謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 目次を見れば分かるように、紙面の多くは被害者とその家族および友人たちの描写が占めている。

 彼らの状況は実に過酷だ。ただでさえ家族の行方が知れず恐怖と不安に襲われているのに、あーだこーだと煩く詮索される。靴下をはいてようがいまいがどうでもいいだろうに、なんで詮索されにゃならんのか。

 それでも、しおらしい顔を期待される。だが父のティムは役割を拒む。これが更に騒ぎを大きくした。もっとも、大騒ぎになったのも善し悪しで、親しい人たちへの注目が強くなった反面、警察もメンツかかかったために本腰を入れ始めたって側面もある。なんといっても、当時のイギリス首相トニー・ブレアまで引っ張り出した功績は大きい。

 が、なかなかルーシーの行方は知れない。おまけに、苦しむ彼らを食い物にしようと目論む輩まで出てくる始末。

 家族や親友の友人知人も、彼らをどう扱えばいいのか途方にくれる。まあ、わかるのだ。下手な真似して更に傷つけるのも嫌だし。ほんと、どうすりゃいいんだろうねえ。

 この本を読むまで、事件の被害者やその家族にマスコミが取材するのを苦々しく思ってた。今でも、行き過ぎた取材はマズいと思う。盗み撮りとかね。でも、本書のティムのように、敢えて注目を集めるのが有効な場合もあるのだ。事件を風化させないために。

 とかの真面目な感想の他に、日本とイギリスの常識の違いも面白い。例えばルーシーの経歴だ。英国航空しかも国際路線の客室乗務員が、六本木のクラブホステスに転職する。当時の日本人なら、「何を考えてるんだ?」と不審に思うだろう。

 なんたって、航空会社の客室乗務員は、日本の娘さんたちの憧れの職業だ。今はともかく、当時はそうだった。1970年の「アテンションプリーズ」(2006年にリメイク)、1983年の「スチュワーデス物語」など、TVドラマでも取り上げている。

 しかも、そこらの格安会社じゃない。天下の英国航空の国際線である。世間じゃ国内線より国際線の方が格が高いって事になっている。また同じイギリスの航空会社でもヴァージン・アトランティックと違い、英国航空は格安チケットがまず出回らない。日本航空と並び「バックパッカーはまず乗れない航空会社」として有名な、世界でも高級かつ一流の航空会社なのだ。

 これには「客室乗務員」に対する日本とイギリスの印象の違いがある。まあ、この辺は、アメリカ資本の航空会社を使った事があれば、なんとなく見当がつくんじゃないかな。関係ないけど当時はシンガポール航空が「値段のわりにサービスは極上」と評判が良かった。

 まあいい。日本人がソコを疑問に思うのに対し、イギリス人は「クラブホステスって何?」から始まる。該当する商売が、アメリカやイギリスにはないのだ。「だったらアメリカでギャバクラ開けば」と一瞬考えたけど、すぐに死人が出そう。

 ここで展開する「水商売」を巡る考察も、日本人としては「言われてみれば…」な話で、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーだったり。

 そんな「六本木の外人クラブホステス」の生態も、住居の<代々木ハウス>から始まり意外な事ばかり。というか、当時の六本木の様子が、明らかに異郷なのだ。イスラエル人とイラン人が売人として競ってたり。だから両国は仲が悪いのか←違う 麻布警察署が、当初は事件を重く見なかったのも、なんとなくわかる。クラブ経営者の話も、下世話な面白さに満ちていて楽しい。

 ミステリのもう一つの重要な役どころ、警察について、著者は手厳しい。各員は誠実で優秀だが組織の体質がダメ、と。特に物証より自白を重んじる体質を厳しく批判している。残念ながら、こういう体質は今でも変わってないのがなんとも。IT系にも弱いしなあ。

 そして事件の核心を握る犯人なんだが、これが実に不気味だ。なかなか正体は掴めないが、決してあきらめず、カネとコネを駆使して被害者や関係者に脅しをかける。暴力団はもちろん、どうやら極右団体まで動かしている様子。まあ、極右の中には、政治団体のフリした暴力団もあるんだろう。

 下世話な野次馬根性で読んでも楽しめるし、ガイジン視点の日本論としても面白い…いささか極端な側面に焦点を当てているけど。また犯罪被害者と家族が置かれる過酷な状況のルポルタージュとしても、読んでいて苦しくなるほどの迫力がある。「事件そのもの」より「事件を通して見えてきた事柄」のレポートとして、優れたノンフィクションだ。

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