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2021年12月の3件の記事

2021年12月21日 (火)

リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」早川書房 濱野大道訳

行方不明者の家族は、ふたつの十字架を背負うことになる。
ひとつ目は、辛い体験の苦しみ。
もうひとつは、周囲の視線。ときに、彼らには普段よりも高い行動基準が求められる。
  ――第11章 人間の形の穴

「普段、在日コリアンの多くは差別を意識していません」
「ガラスの天井にぶつかるのは、野心がある人たち――社会の階段を駆け上がろうと望む人たちのほうです」
  ――第14章 弱者と強者

犯罪者は狡猾で、頑固で、嘘つきであり、警察はまさにそういう人間に対処するために存在する、という考えは刑事の多くにはなかった。
  ――第18章 洞窟のなか

日本の警察がよく無能に映るのは、真の犯罪と戦った経験がほとんどないからなのだ。
  ――第12章 日本ならではの犯罪

【どんな本?】

 2000年7月1日土曜日、六本木のクラブホステスが姿を消す。ルーシー・ブラックマン、21歳、英国人。友人で同僚のルイーズ・フィリップスは7月3日月曜日に麻布警察署および英国大使館を訪れ報告するものの、対応は冷ややかだった。

 だが一週間後、イギリスの新聞の報道を皮切りに、日本とイギリスのマスコミは事件の取り扱いを大きくする。ルーシーの父ティムの型破りな言動もあり、事件の報道はさらに過熱するのだが、肝心のルーシーの行方は杳として知れなかった。

 当時は<インディペンデント>紙の特派員として東京に住み、2002年からも<ザ・タイムズ>紙の東京支局長として日本の社会と風俗をよく知る著者が、事件のあらましだけでなく被害者の家族の状況と心の動き、日本と英国の社会や常識の違い、犯人とその背景など、旺盛な取材が可能とした多様な視点で事件と背景を描く、特異なルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up, by Richard Lloyd Parry, 2012。日本語版は2015年4月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約471頁に加え、日本語版へのあとがき4頁+訳者あとがき5頁。9.5ポイント45字×20行×471頁=約423,900字、400字詰め原稿用紙で約1,060枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。今はハヤカワ文庫NFから上下巻で文庫版が出ている。

 文章は比較的にこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただし、肝心の事件について、勘ちがいしがちなので要注意。本書が扱うのはルーシー・ブラックマンさん事件(ネタバレ注意、→Wikipedia)で、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件(→Wikipedia)」ではない。いや実は私も勘違いしてたんだが。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。ミステリとしても面白いので、好きな人は頭から読もう。

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  • プロローグ
  • 死ぬまえの人生
    謎の電話/失踪/大都市に棲む異様な何か
  • 第1部 ルーシー
  • 第1章 正しい向きの世界
    父と母/少女時代
  • 第2章 ルールズ
    離婚/ボーイフレンドたち
  • 第3章 長距離路線
    東京行きの計画/日本へ
  • 第2部 東京
  • 第4章 HIGH TOUCH TOWN
    異質で好奇心をそそる国
  • 第5章 ゲイシャ・ガールになるかも(笑)!
    ホステスという仕事/“水商売”/ノルマ
  • 第6章 東京は極端な場所
    TOKYO ROCKS/<クラブ・カドー>/オーナーのお証言/海兵隊員スコット/「まだ生きてるよ!」
  • 第3部 捜索
  • 第7章 大変なことが起きた
    消えたルーシー/冷静な父親/警察とマスコミ
  • 第8章 理解不能な会話
    ブレア首相登場/ルーシー・ホットライン開設/霊媒師たち
  • 第9章 小さな希望の光
    マイク・ヒルズという男
  • 第10章 S&M
    蔓延するドラッグ/あるSM愛好家の証言/「地下牢」へ
  • 第11章 人間の形の穴
    22歳の誕生日/ジェーンとスーパー探偵/ふたつの十字架/ある男
  • 第12章 警察の威信
    クリスタの証言/「過去稀に見る不名誉な状態」/ドラッグ
  • 第13章 海辺のヤシの木
    ケイティの証言/<逗子マリーナ>の男/不審な物音/Xデー
  • 第4部 織原
  • 第14章 弱者と強者
    薄暗い闇/アイデンティティ/弟の苦悩/友人たちの証言
  • 第15章 ジョージ・オハラ
    「歌わない」容疑者/父の怪死/謎の隣人/典型的な二世タイプ/声明
  • 第16章 征服プレイ
    アワビの肝/「プレイ」の実態/ルーシーはどこに?
  • 第17章 カリタ
    娘のいないクリスマス/消えたオーストラリア人ホステス/急変/ニシダアキラ/あの男
  • 第18章 洞窟のなか
    ダイヤモンド/発見/遺された者たち
  • 第5部 裁判
  • 第19章 儀式
    葬儀の光景/開廷/法廷の人々
  • 第20章 なんでも屋
    最後の証人/「気の毒に思っていますよ」
  • 第21章 SMYK
    検察側の尋問/遺族たちの声明
  • 第22章 お悔やみ金
    バラバラになる家族/魂を奪い合う戦場
  • 第23章 判決
    熱い抱擁/最終陳述/『ルーシー事件の真実』/ふたつの準備稿
  • 第6部 死んだあとの人生
  • 第24章 日本ならではの犯罪
    負の力/大阪にて/市橋達也とリンゼイ・アン・ホーカー/奇妙な手紙/黒い街宣車
  • 第25章 本当の自分
    暗闇に吹く突風/命の“値段”/道徳という名の松明/控訴審/最高裁/クロウタドリ
  • 日本語版へのあとがき/謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 目次を見れば分かるように、紙面の多くは被害者とその家族および友人たちの描写が占めている。

 彼らの状況は実に過酷だ。ただでさえ家族の行方が知れず恐怖と不安に襲われているのに、あーだこーだと煩く詮索される。靴下をはいてようがいまいがどうでもいいだろうに、なんで詮索されにゃならんのか。

 それでも、しおらしい顔を期待される。だが父のティムは役割を拒む。これが更に騒ぎを大きくした。もっとも、大騒ぎになったのも善し悪しで、親しい人たちへの注目が強くなった反面、警察もメンツかかかったために本腰を入れ始めたって側面もある。なんといっても、当時のイギリス首相トニー・ブレアまで引っ張り出した功績は大きい。

 が、なかなかルーシーの行方は知れない。おまけに、苦しむ彼らを食い物にしようと目論む輩まで出てくる始末。

 家族や親友の友人知人も、彼らをどう扱えばいいのか途方にくれる。まあ、わかるのだ。下手な真似して更に傷つけるのも嫌だし。ほんと、どうすりゃいいんだろうねえ。

 この本を読むまで、事件の被害者やその家族にマスコミが取材するのを苦々しく思ってた。今でも、行き過ぎた取材はマズいと思う。盗み撮りとかね。でも、本書のティムのように、敢えて注目を集めるのが有効な場合もあるのだ。事件を風化させないために。

 とかの真面目な感想の他に、日本とイギリスの常識の違いも面白い。例えばルーシーの経歴だ。英国航空しかも国際路線の客室乗務員が、六本木のクラブホステスに転職する。当時の日本人なら、「何を考えてるんだ?」と不審に思うだろう。

 なんたって、航空会社の客室乗務員は、日本の娘さんたちの憧れの職業だ。今はともかく、当時はそうだった。1970年の「アテンションプリーズ」(2006年にリメイク)、1983年の「スチュワーデス物語」など、TVドラマでも取り上げている。

 しかも、そこらの格安会社じゃない。天下の英国航空の国際線である。世間じゃ国内線より国際線の方が格が高いって事になっている。また同じイギリスの航空会社でもヴァージン・アトランティックと違い、英国航空は格安チケットがまず出回らない。日本航空と並び「バックパッカーはまず乗れない航空会社」として有名な、世界でも高級かつ一流の航空会社なのだ。

 これには「客室乗務員」に対する日本とイギリスの印象の違いがある。まあ、この辺は、アメリカ資本の航空会社を使った事があれば、なんとなく見当がつくんじゃないかな。関係ないけど当時はシンガポール航空が「値段のわりにサービスは極上」と評判が良かった。

 まあいい。日本人がソコを疑問に思うのに対し、イギリス人は「クラブホステスって何?」から始まる。該当する商売が、アメリカやイギリスにはないのだ。「だったらアメリカでギャバクラ開けば」と一瞬考えたけど、すぐに死人が出そう。

 ここで展開する「水商売」を巡る考察も、日本人としては「言われてみれば…」な話で、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーだったり。

 そんな「六本木の外人クラブホステス」の生態も、住居の<代々木ハウス>から始まり意外な事ばかり。というか、当時の六本木の様子が、明らかに異郷なのだ。イスラエル人とイラン人が売人として競ってたり。だから両国は仲が悪いのか←違う 麻布警察署が、当初は事件を重く見なかったのも、なんとなくわかる。クラブ経営者の話も、下世話な面白さに満ちていて楽しい。

 ミステリのもう一つの重要な役どころ、警察について、著者は手厳しい。各員は誠実で優秀だが組織の体質がダメ、と。特に物証より自白を重んじる体質を厳しく批判している。残念ながら、こういう体質は今でも変わってないのがなんとも。IT系にも弱いしなあ。

 そして事件の核心を握る犯人なんだが、これが実に不気味だ。なかなか正体は掴めないが、決してあきらめず、カネとコネを駆使して被害者や関係者に脅しをかける。暴力団はもちろん、どうやら極右団体まで動かしている様子。まあ、極右の中には、政治団体のフリした暴力団もあるんだろう。

 下世話な野次馬根性で読んでも楽しめるし、ガイジン視点の日本論としても面白い…いささか極端な側面に焦点を当てているけど。また犯罪被害者と家族が置かれる過酷な状況のルポルタージュとしても、読んでいて苦しくなるほどの迫力がある。「事件そのもの」より「事件を通して見えてきた事柄」のレポートとして、優れたノンフィクションだ。

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2021年12月 8日 (水)

ロドリク・ブレースウェート「モスクワ攻防1941 戦時下の都市と住民」白水社 川上洸訳

参加兵員数から見れば、モスクワ攻防戦は第二次世界大戦でも最大の、したがってまた史上最大の会戦で、双方合わせて700万を超える将兵がこれに加わった。(略)
モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、41年9月末から42年4月初旬まで6カ月にわたってつづいた。
  ――序章 1941年を迎えて

1943年、作家ミハイール・プリーシヴィン「住民は戦争を望まず、体制に不満をいだいている。それなのに、そういう人間がいったん前線に出ると、わが身を惜しまず勇敢に戦う。[……]この現象を私はまったく理解できない」
  ――第17章 勝利のあと

【どんな本?】

 1941年6月22日、突如ドイツ軍が東へ向け進軍を始めた。バルバロッサ作戦(→Wikipedia)の発動である。粛清などで崩壊寸前の赤軍に対し、ドイツ軍は当初こそ快進撃を続けたが、やがて補給が滞ると共に秋の泥濘に足を取られ、次第に進撃速度を落としつつも、同年7月22日の空襲をはじめとしてモスクワへと迫る。

 スターリングラード・レニングラードと並ぶ死闘であり、また第二次世界大戦の転機ともなったモスクワ攻防戦を、スターリンから村娘に至るソ連側の人々の視点で描く、戦時ドキュメンタリー。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は MOSCOW 1941 : A City and Its People at War, by Rodric Braithwaite, 2006。日本語版は2008年8月155日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約531頁に加え、訳者あとがき4頁。9.5ポイント44字×20行×531頁=約467,280字、400字詰め原稿用紙で約1,169枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれている。ただ、一部に微妙な訳がある。例えばPPsh-41(→Wikipedia)を機関短銃または自動短銃としている。今は短機関銃という呼び方が主だ。Wikipedia に100式機関短銃なんて項目があるんで、帝国陸軍は機関短銃と呼んだんだろう。別名サブマシンガン、拳銃弾をバラまく近距離用の機関銃です。

 内容もわかりやすい。あくまでもソ連側、それも市民の視点が中心なので、東部戦線物にしてはエグい場面は少ない。とはいえあくまでも「東部戦線物にしては」なので、多少は覚悟しよう。あと、半ばイチャモンなんだが、人名や地名がロシア語なので覚えにくいのが難点。特に地名は当時のレニングラードが今はサンクトペテルブルクになってたりする。これはソ連/ロシア物の宿命ですね。

【構成は?】

 基本的に時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

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  • 凡例/地図
  • 序章 1941年を迎えて
  • 第1部 おもむろに迫る嵐
  • 第1章 都市の形成
  • 第2章 ユートピアをめざして
  • 第3章 戦争と戦争のうわさ
  • 第2部 嵐の到来
  • 第4章 1941年6月22日
  • 第5章 ロシア軍の抗戦
  • 第6章 民兵たち
  • 第7章 大衆動員
  • 第8章 手綱を締めるスターリン
  • 第9章 嵐の目
  • 第10章 空襲下のモスクワ
  • 第3部 タイフーン
  • 第11章 ドイツ軍の突破前進
  • 第12章 パニック
  • 第13章 疎開
  • 第14章 バネの圧縮
  • 第15章 バネの反発
  • 第16章 敗北から勝利へ
  • 第17章 勝利のあと
  • 謝辞/訳者あとがき/写真提供者リスト/資料の出所/主要人名索引

【感想は?】

 第二次世界大戦を描く日本の戦争映画・ドラマは太平洋戦争が多いし、ハリウッド映画やアメリカのドラマは西部戦線が主だ。だから、太平洋や西欧が主戦場であるかのような印象が強い。でも、数字で見る限り、第二次世界大戦の主な舞台は東部戦線である。

ある大ざっぱな推計によると、900万に近いソ連軍人と1,700万のソ連民間人――ロシアとベロルシア、ウクライナとカザフスタン、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン(略)の男女が、戦争の過程で死んだとされる。
  ――第16章 敗北から勝利へ

ドイツ側の最近の研究の一つは、この戦争で死んだドイツ兵の数を500万以上と推定している。そのうち400万人近くがロシア軍との戦闘で、もしくはソ連の捕虜収容所で死んだ。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 本書は、この東部戦線の模様を、1941年~1942年のモスクワ攻防戦を中心に描く。登場人物はスターリンやジューコフなど政治・軍事の養殖にある者はもちろん、工場労働者や民兵やバレリーナや作家などバラエティに富んでいる。

 分厚い本だが、実は前の半分ほどを、モスクワ攻防戦前の状況の説明にあてている。

 何せ当時のソ連の内情はヒドい。ほとんどスターリンが自ら災厄を招いたようなモンなんだが、粛清の嵐で赤軍は悲惨な事になっている。例えば赤軍だ。

(1937年~38年の)粛清期にソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%、高級政治将校の大部分も同じ運命(逮捕/処刑)をたどった。
  ――第3章 戦争と戦争のうわさ

開戦時点で着任後1年未満の将校が全体の3/4を占めていた。
  ――第3章 戦争と戦争のうわさ

 と、開戦時からして既にガタガタだったのだ。こういった将兵の質の低さは追撃に移ってからも変わらず…

最初のころ分宿した民家の一軒では、主婦が経験の浅い(小隊長の)チェルチャーエフに歩哨を配置するよう教えてくれた。そうしないと略奪団と化したドイツ兵に窓から手榴弾を投げ込まれるというのだ。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 と、ドイツ軍の占領を経験している分、民家のオバチャンの方が将校より詳しかったり。これは軍ばかりでなく…

数百人の航空機設計家、技術者、専門家が34年から41年までのあいだ収監された。
  ――第8章 手綱を締めるスターリン

 「開発が計画通りに進まないのは技術者たちが怠けているから」ってな理屈で専門家たちを処刑しまくったワケです。そういやロケット開発を主導した主任技師ことセルゲイ・コロリョフ(→Wikipedia,「セルゲイ・コロリョフ ロシア宇宙開発の巨星の生涯」)もシベリア送りになってるなあ。

 しかもスターリンは油断しきってて、ドイツが攻めてくるとは毛ほども思っていない。だもんで準備万端なドイツ軍の進撃ぶりはすさまじく。

6月22日、日曜日の午前3時15分、ドイツ軍爆撃機が西部国境地域のソ連空軍基地群を襲撃した。赤色空軍は戦争の最初の朝に1200機以上を、その大部分は地上で失った。
  ――第4章 1941年6月22日

戦争の第一週が終わるころには、赤軍最新鋭の機械化軍団はその戦力の9割を失っていた。
  ――第4章 1941年6月22日

 「これで勝った」と思うよね、普通。ところが、秋に入ると進撃は止まる。補給路は伸びるのに、路は泥で埋まるのだ。

ナポレオンとヒトラーの軍勢をおしとどめたのは冬将軍ではなくて、泥濘だった。
  ――第1章 都市の形成

 しかも、意外なことに、ドイツ軍はナポレオンより手間取ってたり。

ドイツ軍はナポレオンより3カ月近くも長い時日をかけてモスクワ近傍まで進撃した。というのも、(略)ドイツ軍はナポレオン軍とほとんど変わらぬくらい馬に依存し、進撃する兵士のスタミナに頼っていたからだ。(略)
6月21日の真夜中にソ連国境に投入された兵力は、グラン・ダルメ(ナポレオンの遠征軍)の6倍。300万以上の兵員、2000機近い航空機、3000両以上の戦車、75万頭の馬が、3個の軍集団の戦闘序列下にあった。
  ――第4章 1941年6月22日

 機械化されているのはごく一部で、実際は馬に頼ってた。戦車が快進撃しても、歩兵はついてこれないのだ。この反省から歩兵戦闘車(→Wikipedia)が登場するんだが、それは置いて。その戦車も赤軍のKV-1(→Wikipedia)やT-34(→Wikipedia)の方が強かったり。

 それでも、ドイツ軍はヒタヒタとモスクワへと迫ってくる。モスクワの価値は単に政治的なだけじゃない。戦争を続ける能力そのものも、モスクワが握っていたのだ。

1940年のモスクワは全国で製造される自動車の半分、工作機と工具の半分、電気機器の40%以上を生産していた。
  ――第2章 ユートピアをめざして

 工業力もモスクワに偏っていたんですね。そんなワケで、スターリンは工業の疎開も急がせる。色々と手違いはあったようだけど、ちゃんと功を奏したらしく。

大工場はあらかた疎開してしまったので、ますます多くの中小工場が兵器生産に切り替えられた。モスクワでの兵器生産のなかでの中小工場のシェアは、かつては25%を超えなかったが、11月末現在94%にたっした。
  ――第12章 パニック

 このモスクワ攻防戦をめぐっては二つの説がある。一つは「モスクワが落ちてもスターリンはウラル山脈の東へ逃げて戦争を続けた」って説、もう一つは「モスクワが落ちたらおしまい」って説。本書によるとモスクワの東800kmほどのクーイビシェフ(現サマーラ)へ政府を移す計画を進めてるんで、徹底抗戦したっぽい。

 もっとも、連合軍からの補給物資はアルハーンゲルス港・ムールマンスク港経由なんで、こっちの経路が潰れたらどうなんでしょうね。

 まあ、ソ連は引っ越しは得意なのだ。なんたって…

ソヴィエト政府は全国いたるところへ人びとの大集団を動かす経験をじゅうぶんに積んでいた。
  ――第7章 大衆動員

 なぜって…

1920年代にはモスクワとレニングラードから数千数万の階級敵を強制移送し、30年代には数百万のクラーク(富農)をシベリアと中央アジアに強制移住させた。(略)
列車に乗せられた人たちの旅行中の食糧や、目的地での宿泊施設については、あまり配慮を払わなかったので、病気、栄養不良、疲労、ときには護送兵の暴行の結果、多数の死者が出た。
  ――第7章 大衆動員

 そっちかよ! と突っ込みたくなるが、まあソ連だし。

 そんな経験豊富なソ連だけに、西から東へヒトとモノを動かすのは巧みで…

6月10日から11月20日までの期間にウクライナ、ベロルシア、バルト諸国から貨車100万両分の工業設備が搬出され、戦争の全期間をつうじてはほぼ1000万人が鉄道で、ほぼ200万人が水路で疎開した。
  ――第13章 疎開

 やはり鉄道の輸送能力は図抜けてる。前世紀の海外旅行ガイドブックだと、国によっては「鉄道車両の写真を撮るとスパイと疑われる」なんて記述もあったぐらい、鉄道ってのは国家の戦略的な能力を示すんですね。

 そうやってソ連がスタコラと逃げてるうちに、冬将軍がやってくる。補給線が伸び切ったドイツ軍は、冬の装備がなかなか前線に届かない。

グデーリアンは敵との戦闘行為による損失の2倍もの数の兵員を、寒さのために失った。
  ――第14章 バネの圧縮

 これに追い打ちをかけたのが、ソ連の焦土作戦。撤退する際、近隣の町や村を焼き払うのだ。ドイツに食料も寝床もあたえぬように。

ドイツ軍がモスクワに接近したとき、スターリンは敵に雨露をしのぐ場所をあたえぬよう、被占領地域の村落を徹底的に破壊せよと命じた。ジューコフは戦線の背後の幅5キロ、のちには25キロの地帯から住民を退去させるよう命令した。
  ――第15章 バネの反発

 戦術としちゃ理に適ってるんだろうが、巻き込まれる住民はたまらんよなあ。もっとも、この後、ドイツ軍も撤退する際に同じことをするんだけど。

 そんな冬将軍が猛威を振るいエンジンも凍って動かぬ中、活躍できたのは…

独ソ双方の軍勢のなかで、泥濘の中でも、雪中でさえも、ある程度の機動力を保持できたのは騎兵だけだった。
  ――第14章 バネの圧縮

 元来が寒冷地仕様の生き物(→「人類と家畜の世界史」)な上に、地元育ちだから寒さにも強いんだろうか。

 最初は慌てたスターリンも、「引きこもりの一週間」を過ぎて活発に動き始め、大規模な動員も始まる。なおスターリンの引き籠りの原因には幾つかの説があるが、本書では「自分の地位を狙う裏切り者をあぶりだすため」って説を紹介している。

 それはともかく、人を集めたはいいが、それを巧く鍛え使う体制はできてない。「銃は二人に一丁」なんて話が何度も出てくる。そんなワケで、動員した人たちの使い道は…

民兵らの多忙な一日の大半は戦闘教練ではなく、塹壕と対戦車壕の掘削に費やされた。
  ――第6章 民兵たち

 これはこれで適切なんじゃないか、と私は思う。もっとも、ドイツ軍の進撃が速すぎて、作った陣地の多くが未完成のまま突破されちゃうんだけど。

 先にも書いたように裏切り者を恐れるソ連だけに、検閲も厳しい。

新しい検閲規則がすでに導入されていた。軍事、経済、政治にかんするあらゆる情報の伝達、風景その他の写真付きのハガキの発送、点字による文通、クロスワードやチェスの詰め手の問題の発送が禁止された。
  ――第9章 嵐の目

 風景写真はわかるけど点字や詰め手は…うーん、暗号を警戒したんだろうか。

 ちなみにNKVDが張り切って「裏切り者」を逮捕しまくった結果、市民も前線の兵も「本当に裏切り者だらけなんじゃないか」と疑心暗鬼になった、なんて話もある。ばかりか、東方の疎開先じゃ意外と党の統制は甘くて、反乱の気配もあったとか。とはいえ、既にドイツ軍に蹂躙された西方じゃ、恨みに燃えるバルチザンが活発に動いたんだけど。

 もちろんん、疎開せずにモスクワに残る人も多い。面白いのが、空襲下のモスクワで生き残る方法。

いちばん大事なのは、高射砲弾の上昇音と爆弾の落下音を識別する能力を身につけることで、落下音のピッチが(ドップラー効果で)上がるのにたいし、砲弾の上昇音は逆に下がる。
  ――第10章 空襲下のモスクワ

 言われてみると、そうだよなあ。

 そういう物騒な話ばかりでなく、日々の暮らしも苦しくなる。

戦争の最初の1年で物価は8倍にはねあがった。
  ――第12章 パニック

 米5kgが¥12,000、吉野家の牛丼が¥3,400の暮らしを想像してみよう。なお電気代は計算不要。だって電気は止まってるから。つか電気が止まったら米炊けないや俺。

 もちろん、足りないのはメシだけじゃない。

棺桶が足りないので、5~7日も待たないと葬儀もできない。
  ――第16章 敗北から勝利へ

 と、何もかもが足りない。原因の一つは鉄道で、モスクワ行きの列車は前線へ送る兵員でいっぱいだったから。そんな具合だから、近くの農村へ買い出しに行ったり、逆に農村からミルクを売りに来てたり。こういう風景は終戦後の日本と同じだなあ。

 とはいえ、泥縄式ながらも赤軍の抵抗は意外と早く功を奏し…

ドイツ軍はこれ(1941年12月8日)以後二度と首都を射程内に入れる地点まで接近できなかった。
  ――第15章 バネの反発

 これはバトル・オブ・ブリテンとの比較がわかりやすい。イギリス攻撃は設備の整ったフランスの飛行場から出撃できた。でもモスクワ近郊の飛行場は荒れてるし補給もままならないんで、ルフトバッフェも苦労した模様。

 そんな情勢の変化にスターリンも気をよくして…

12月14日、スターリンはモスクワの工場、橋梁、公共建築に仕掛けた爆薬の撤去を命令した。その二週間ほど後には、都心周辺の新たな防御陣地の構築をやめさせた。
  ――第15章 バネの反発

 逆に言えば、仮にモスクワを引き払う羽目になったら、モスクワを廃墟に変えるつもりだったのだ、スターリンは。こういう態度は「パリは燃えているか?」のヒトラーと同じだね。

 最終章の「第17章 勝利のあと」は、戦後のソ連の人々と政府の動きを描く。この本もソ連時代には手に入らなかった資料に多くを負っている事でもわかるように、戦後もソ連は相変わらず秘密主義だった。歴史家アレクサーンドル・ネークリチが充分な資料に基づき、開戦前後の高官たちの怠慢を指摘した著作「1941年6月22日」に対し当局曰く。

「政治の都合と史実と、どちらがより重要だと思っているのか?」
  ――第17章 勝利のあと

 政治家と学者じゃ正解が違うのが、よくわかる話だ。

 軍ヲタとしては、スキー部隊が活躍したり、意外と短機関銃が役に立ったり、この後にドイツ軍が南に重点を移すのをソ連諜報機関が掴んでたりと、細かい拾い物も多かった。が、それ以上に、気温が零下を下回る地での物資欠乏がどんなものか、身に染みて感じるのが辛かった。寒い季節に読むと迫力が増す本だ。

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2021年12月 2日 (木)

SFマガジン2021年12月号

この目的のために働く者はだれであれ、社会とのあらゆる接点を失う。
  ――スタニスワフ・レム「原子の町」芝田文乃訳

「<ファイブ・ファシリティ>の究極の目的は何か? この都市に住まうすべての人々から、恐怖を取り除くことだ」
  ――冲方丁「マルドゥック・アノニマス」

「絲路は、水不足で消える、現代世界で最初の都市になる」
  ――劉慈欣「円円のシャボン玉」大森望&齊藤正高訳

うちはふとっちょ一家だった。(略)
わたしはまだ太っている。ほかのみんなは過去形だ。
それはなぜか? あのいまいましい薬のせいだ。
  ――メグ・エリスン「薬」原島文世訳

 376頁の普通サイズ。

 特集は二つ。「1500番到達記念特集 ハヤカワ文庫JA総解説 PART3 1001~1500」と「スタニスワフ・レム生誕100周年」。

 小説は6本。

 うち連載は3本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ」第7話,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第39回,飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第11回。

 読み切りは3本。まず「スタニスワフ・レム生誕100周年」として「原子の町」芝田文乃訳,劉慈欣「円円のシャボン玉」大森望&齊藤正高訳,メグ・エリスン「薬」原島文世訳。

 スタニスワフ・レム「原子の町」芝田文乃訳。第二次世界大戦中。私はロンドンから合衆国に派遣される。秘密裏に開発中であるはずの核兵器に関する情報が洩れているようだ、と。大西洋を越えフロリダへと向かった私がたどり着いたのは、隔絶された町だった。

 SFではない。情報部員がスパイをあぶりだすミステリ。1947年にポーランド人のレムが書いたとは思えぬほど、原爆製造のプロセスが生々しい。また放射線障害についても詳しいのが凄い。同じころのアメリカ人よりよほど良く分かっている。さすがマリー・キュリーの国だ。

 「スタニスワフ・レムからレム作品のアメリカ版の翻訳者、マイクル・カンデル宛の書簡 久山宏一訳」より。

良いかどうか調べるのには、私は実際的な方法を知っています。すでに書かれたものから削って、削って、消去して、そのときテキストが改良されたか、改悪されたかを見るのです。

 き、厳しい。なんか星新一も同じようなことを言ってたような。他にもアメリカSFへの評は火が出そうな毒舌ばかりで楽しい。でもお気に入りの作家はちゃんといて、かのP.K.ディック。

 「1500番到達記念特集 ハヤカワ文庫JA総解説 PART3 1001~1500」は籘真千歳≪スワロウテイル≫シリーズから。瀬尾つかさ、「キャッチワールド」とは渋い。ヤクザ・ボンズだっけ? 佐藤大輔を「未完の帝王」ってw 「小説家になろう」などWEB発の作品もボチボチ出てるんだなあ。つか「はやせこう」ってモロじゃんw

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ」第7話。アグレッサー部隊と日本海軍&空軍の模擬戦に、ジャムが乱入してきた。野生の勘でジャムを見破り警戒する日本空軍の田村大尉&飛燕は、雪風と共にジャムとの戦いを始める。

 出合って五分でガン飛ばす田村大尉もたいがいだけど、それに合わせる雪風も凄いw マシンも戦いの中で育つと、獣みたいな性格になるのかw そして最後までガン飛ばして帰投する田村大尉w そりゃジャムも警戒するよw

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第39回。多くの者が見守る葬儀の場で、自分たちの目的を明らかにしつつ、人々を巧みに煽るハンター。ノーマ・オクトーバーとの話し合いのあと、彼女の弟であるルシウスから話を持ち掛けられる。だがバジルは慎重で…

 頑張って法学生のコスプレに励むバジルが楽しい。手段を択ばず目的へと突き進む不気味で非人間的なハンターに比べ、あくまで人間的な賢さや悩みを感じさせるんだよね、バジルは。彼とバロットの絡みを増やしてほしい。

 飛博隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第11回。青野の空には大きな黒い渦が浮かぶ。大館いつきは來間先生の家を訪れ、児玉佐知と対面する。プレハブの部室で、児玉佐知は遠野暁により覚醒を促された。もう天使化は止められない。

 連載の初めの頃は懐かし昭和の学園ドラマっぽかったが、回を追うごとに化けの皮がどんどん剥がれていく。にしても、つくづく、各登場人?物が自分の正体や舞台である数値海岸に気づいているああたりが斬新でもありグロテスクでもあり。

 劉慈欣「円円のシャボン玉」大森望&齊藤正高訳。中国西北部の乾燥地帯にある都市、絲路。水を引こうとする父と、植樹による緑化を目指す母の間に生まれた円円は、幼い頃からシャボン玉が大好きだった。大学では優秀な成績を修め、ハイテク技術でビジネスでも成功する。そして気まぐれで巨大なシャボン玉を作りだし…

 サイエンスというよりエンジニアらしい地に足の着いた解説で読者を煙に巻きつつ、そこから発展して突拍子もない結末へと向かう、劉慈欣の持ち味が存分に生きた作品。いかにも白髪三千丈を感じさせる馬鹿でかいスケール感が気持ちいい。中国SFは最近の流行りだけど、この芸風は旧き良きサイエンス・フィクションの香りが強く漂い、むしろ齢経たSFファンにこそウケる作品だ。

 メグ・エリスン「薬」原島文世訳。父・母・兄そしてわたし。我が家はみんな太ってる。幾つものダイエットを試した母がたどり着いたのは、その薬。これは本物だった。酷い苦しみを味わうが、ちゃんと痩せる。ただし、生き延びるのは10人中9人だけ。

 肥満が問題になっている現代アメリカらしい作品。肥満ったってアメリカは桁が違うしねえ。作品中の食事の描写を読むと、そりゃ太って当たり前だよ、とつくづく感じる。暮らしの中で感じる肥満ゆえの不具合も凄まじい。とはいえ、社会全体が肥満を奨励してるとしか思えないんだよな、あの国は。

 大野万紀によるスタニスワフ・レム「インヴィンシブル」関口時正訳の紹介。どっかで聞いたようなお話だと思ったら、「砂漠の惑星」かあ。レムじゃ一番好きな作品だ。でもネタ明かしちゃうのはアリなの?

 塩沢編集長、長い間、充分に楽しませていただきました。ありがとうございます。

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