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2021年8月18日 (水)

ベン・ルイス「最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の『傑作』に群がった欲望」上杉隼人訳 集英社インターナショナル

現代の美術界が抱える問題は、美術界が変わったということではなく、変わっていないということなのだ。
  ――おわりに

【どんな本?】

 2017年11月、クリスティーズの競売で絵画の落札価格の最高額が更新される。その額4憶5千万ドル。対象はレオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」(→Wikipedia)。

 この作品は幾つかの点で型破りだった。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは名高いわりに作品は少ない。高名なオールドマスターの作品が今世紀になって発掘される事は滅多にないし、出てきても専門家が真作と鑑定することも滅多にない。

 誰が、どうやって、どこから作品を発掘したのか。姿を現すまで、どんな運命を辿ったのか。発掘されてからオークションにかけられるまで、どんな者がどのように関わったのか。そして、なぜこんな高値が付いたのか。

 描いたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの活動、発掘した美術商、真贋判定に関わった専門家たち、そして売買に関わった人々やその動機などを通し、知られざる現代の美術界を描き出す、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Last Leonardo : The Secret Lives of the World's Most Expensive Painting, by Gen Lewis, 2019。日本語版は2020年10月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約431頁に加え訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×431頁=約349,110字、400字詰め原稿用紙で約873枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 文書はこなれている。内容も分かりやすいし、歴史や美術に馴染みのない人のために充分な説明もされている。レオナルド・ダ・ヴィンチとモナリザを知っていれば大丈夫。

【構成は?】

 内容的に各種はほぼ独立しているが、なるべく頭から読む方がいい。というのも、人物や固有名詞などは前の章を受けた形で出てくるため。

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  • 本書の構成について
  • 本書に登場する主な人物
  • 『サルバトール・ムンディ』の歴史
  • プロローグ レオナルドの伝説
  • 第1部
  • 1 ロンドンへのフライト
    勝負に出るひとりの男/レオナルド・ダ・ヴィンチによるものと思われるある絵
  • Secret Episode 1 クルミの木の節
  • 2 埋もれた宝
    ニューオーリンズの競売会社で売り出された一枚の絵/美術界の最下層にいた男、アレックス・パリッシュ
  • Secret Episode 2 紙、チョーク、ラピス
  • 3 感じる!
    レオナルド劇場の興行主マーティン・ケンプ/『美しき姫君』
  • Secret Episode 3 レオナルドの特徴的な描き方
  • 4 青の手がかり
    レオナルドの魔法/最大の疑問
  • 5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント
    Provenance 起源、出所、来歴、真贋、品質/作り上げられた「傑出した来歴」
  • Secret Episode 4 王の絵画
  • 第2部
  • 6 サルバトールのすり替え
    所蔵品目録で確認できる三枚の『サルバトール』/ジョン・ストーンが買い上げた『サルバトール』/エドワード・バスの第二の『サルバトール』/ジェームズ・ハミルトン卿の第三の『サルバトール』/「ヴェンツェスラウス・ホラーが原画をもとに制作」/『サルバトール・ムンディ』の公式来歴/ガナイの『サルバトール』/絵の裏に隠されたCとRの焼き印
  • 7 復活
    歴史上のどの作品よりも破損が激しい/ニューヨークで評判の修復家モデスティーニ夫妻/「自分はレオナルドの作品を相手にしている」/ダ・ヴィンチの手の痕跡 モデスティーニの修復作業/闇の世界に生きる修復家たち/鑑識眼の能力が限界まで求められる
  • Secret Episode 5 レオナルドの弟子たち リトル・レオナルド
  • 8 数多くの『サルバトール・ムンディ』
    イギリス王家の『サルバトール・ムンディ』/膨れ上がるロンドンの美術市場/『サルバトール』がいくつも……/プーシキン美術館の『サルバトール・ムンディ』/誰が責任を負うべきか?
  • 9 天上会議
    『サルバトール』完成/いざ、ナショナル・ギャラリーへ/「顔は損壊が激しく、誰が書いたのかもはや判断がつかない」/胃売り込みは密かに、だが積極的に行われてていた/レオナルドの絵とはっきり明記されない/「絵がどのように作り出されたか、遺憾ながら事情は知れない」
  • Secret Episode 6 エンターテイナーでエンジニア
  • 10 地上最大のショー
    2011年ナショナル・ギャラリー「ダ。ヴィンチ展」/『サルバトール』に対するさまざまな反応/二度目の大きな修復作業が開始される/「レオナルデスティーニ」新たなハイブリッド作品?
  • 11 おい、クックは手放したぞ
    1913年のクック家の目録/ジョン・チャールズ・ロビンソンの鑑識眼/新たな技術で『サルバトール』を探す/フランシス・クックとクック・コレクション/「レオナルドを思わせる、だが明らかに質の低い作品」/レオナルド作品の重要な鑑定家だったハーバート・クック/「レオナルド風のものを探り出すには緻密な観察が必要」/「考えられないような素人が絵を塗り直した」/買い上げたのはニューオーリンズの収集家?
  • 第3部
  • 12 オフショアの偶像
    幾らで売れる?/21世紀の美術市場/誰に売る? 誰に買ってもらえる?/ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフ/仲介者、イヴ・ブーヴィエの存在/リボロフレフとブーヴィエ/第四のプレイヤー、サザビーズ/ついに『サルバトール』と対面/信頼関係は崩れた/美術をめぐる史上最大の詐欺事件/サザビーズをめぐるもう一つの訴訟/勝者は誰?/リボの誤算/ブーヴィエ事件の余波/新たな競売へ
  • Secret Episode 7 レオナルド、安らかに
  • 13 19分間
    「競売番号9bレオナルド」/歴史的瞬間/落札者は?/ルーヴル・アブダブで公開される?
  • 14 ニューオーリンズに一軒の家がある
    いつどこで手に入れたのか、よく覚えていない/最低見積価格より25ドル低い1175ドルで落札/セントチャールズ・ギャラリーに売ったのは誰?/2005年当時の匿名所有者「トゥーキー」との会話/きわめてアメリカ的な収集家
  • 15 砂漠に立ちのぼる蜃気楼
    世界で最も豪華な美術館ルーヴル・アブダビ/ビン・サルマーン皇太子の暗い噂/政治的駆け引きに使われた?
  • 16 こわれやすい状態
    ポスト・トゥルースのレオナルド/芸術における悲劇の象徴『サルバトール・ムンディ』
  • おわりに
    絵の周辺を飛び交う詐欺や欺瞞を告発しようとした/美術品の値段はますます高騰する/世界は変化しているが、美術品は変わらない/『サルバトール・ムンディ』は誰もが見られるものでなければならない
  • 日本の読者の皆さんへ 『サルバトール・ムンディ』は今どこに?
  • 謝辞/訳者あとがき/図版クレジット

【感想は?】

 書名や副題からは、ゴシップ系の印象を受ける。なんたって、最高額を記録した絵画の取引きがテーマだし。

 確かにそれは間違いじゃない。実際、著者は『サルバトール・ムンディ』がどんな運命を辿ったのか、歴史家や探偵のごとく丹念に調べてゆく。その取材と調査の範囲はすさまじい。

 かつての所有者と目される王家の遺産目録や有名な美術商のカタログそして掘り出した美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュはもちろん、田舎の骨董市のような競売の伝票やインターネット上にある個人住宅の写真まで、世界中を飛び回り唖然とするほどの執念で情報を集めて検証をしてゆく。

 だが、ゴシップはあくまで客寄せパンダまたは狂言回しだ。著者の目論見は違う。『サルバトール・ムンディ』の取引きをサンプルとして、現代の美術界の姿を描き出すことだ。

 当然ながら、そこには美術品が異様な高額になっている事への危機感がある。大金には様々な利害やシガラミが絡む。その影響は、例えば学会にも及んでいる。

マーティン・ケンプ「未知の、あるいは比較的知られていない作品を巨匠たちの作品と特定するのは、歴史家としての評価を葬り去ることだ」
  ――3 感じる!

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見つけた」と専門家が言い出せば、世界中で大騒ぎになる。そして「間違いでした」となれば、盛大に叩かれる。だから、下手なことは言えないのだ。しかも、専門家同士の確執もある。

「偉い学者たちほど早く見せないとへそを曲げますからね」
  ――9 天上会議

 なんてメンツにこだわる人もいれば、「奴の説には反射的にケチをつける」みたいな学者同志の対立もあったり。だから、デカいヤマほどデビューは慎重にやらないといけない。

 そんな風に古色蒼然としているような美術界だが、最新技術もちゃんと取り入れている。『サルバトール・ムンディ』をデビューさせたのは、二人の美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュ。彼らの仕事は、要はせどり(→Wikipedia)だ。各地の競売やネットを漁り、掘り出し物を探して転売する。

写真の技術が現代の美術史を作り上げたと言っても過言ではない。
  ――5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント

 サイモンとパリッシュの目がどれほど優れていたかは、『サルバトール・ムンディ』の経歴を辿る過程で明らかとなる。なにせ…

19世紀から20世紀に時代が変わる中で、その時代を代表する著名な美術史家や美術商、収集家のほとんどが一堂に会し、全員が『サルバトール・ムンディ』を目にしていたのだ。だが誰もそれを買い入れることはなかった。
  ――11 おい、クックは手放したぞ

 と、現物を見た当時の一流の専門家が気づかなかった傑作を、二人の若い小物美術商が掘り出したのだから。そんな彼らを支えたモノの一つがインターネット。

世界最高額の絵はインターネットと電話で取引されたのだ。
  ――14 ニューオーリンズに一軒の家がある

 専門家が現物を見ても気づかなかったお宝を、彼らは写真で見出した。たいした眼力である。もちろん、写真やインターネットだけでなく、現物を手に入れてからは、赤外線リフレクトグラフィーや顕微鏡カメラなども駆使し、絵画のはらわたや骨格にあたる部分まで徹底的に暴き出してゆく。

 これら科学を手掛かりとしつつ、磨き上げた技術を振るう職人も欠かせない。本書では修復家ダイアン・モデスティーニが、小説のような物語を繰り広げる。

修復家にとって自分たちが加えた仕事を最高の形で示せるのは、それに気づかれないことだ。
  ――7 復活

 この言葉、「修復家」を様々な職業に置き換えても通用するんだよなあ。ネットワーク管理者とか鉛管工とか。あなた、幾つ挙げられます?

 さて、そんな美術品のスカウトとマネージャーに当たるのが美術商だとすれば、テレビや映画のプロデューサーに当たるのが美術館のキュレーター(学芸員)だろう。その職業名から受ける学者然とした印象とは異なり、ちょっとした興行手みたいな手腕も求められるのが意外。

今日のキュレーターにとって展覧会成功の鍵を握るのは物語だ。
  ――10 地上最大のショー

 結局、「いかに人を集めるか」なんだよね。とまれ、話題になるモノに集うのは、観客だけじゃない。人が集まれば、カネもあつまる。そこで美術品は投資の対象にもなる。

今日、美術は高級資産だ。現在、多くの投資ポートフォリオ(投資家の資産構成)において、資産の10%はアートに投資されていると言われている。
  ――12 オフショアの偶像

 こういった美術品売買の実態を描く第3部は、やたらと金額を示す数字が出てきて生々しいと同時に、そのとんでもない額にファンタジイっぽい非現実感が漂ったり。「オフ・ザ・マップ」にも出てきたジュネーヴィ・フリーポートとかは、格差社会を恨めしく思ったり。お金持ちってのは、お金を隠す手腕にも長けてるんです。

 そしてもちろん、隠れるのはお金だけじゃなく、美術品も姿を消してしまうのが切ないところ。

最後にその存在を確認された2018年の秋を最後に、『サルバトール・ムンディ』はどこにあるかわからなくなってしまっている。
  ――16 こわれやすい状態

 などと悲しい話になりそうな所を、修復家ダイアン・モデスティーニが『サルバトール・ムンディ』を気遣う言葉が一層ドラマを盛り上げてくれる。

 衝撃のデビューを果たしつつも姿を消した『サルバトール・ムンディ』を軸に、有象無象が徘徊する美術界の実態を、鬼気迫る執念の取材と調査で暴き出し、そこで生きる美術商・修復家・歴史家・美術館そして様々な代理人などを生々しく描いた重量級のドキュメンタリー。

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