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2021年8月 2日 (月)

坪内祐三「靖国」新潮文庫

靖国神社の起源は、幕末の尊王攘夷運動の中で斃れた志士たちの霊を弔慰する目的で作られた招魂墳墓、招魂場にある。
  ――第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか

招魂社には当初、神官がいなかったのである。
  ――第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居

【どんな本?】

 靖国神社は、8月15日の政治家の公式参拝をめぐり、政治的な話題となりがちだ。だが、その靖国神社とは、どんな目的で建立され、どのような歴史を辿ってきたのか。なぜ九段坂のあの場所にあるのか。そして、建立以来、日本人は靖国神社をどう見て、どう受け止めてきたのか。

 東京の九段坂という土地に注目し、靖国神社発行の「靖国神社百年史」「事歴年表」はもちろん、大量の書籍・雑誌はては個人所有のスクラップ・ブックまでを漁り、明治維新以降の日本それも東京の文化史・精神史を探る評論。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は1999年1月に新潮社より刊行。2001年8月1日に新潮文庫で文庫化。私が読んだのは2006年7月25日の七刷。じっくりと売れてます。文庫で縦一段組み本文約334頁に加え野坂昭如の解説7頁。9ポイント39字×17行×334頁=約221,442字、400字詰め原稿用紙で約554枚だが、イラストや写真も多く収録しているので、実際の文字数は8~9割ぐらい。文庫では普通の厚さ。

 文章はやや硬い。いや著者の地の文は比較的に読みやすいのだ。だが明治時代の文章の引用が多く、現代文に慣れている私にはソコが少々シンドかった。とはいえ内容は素人にもわかりやすく書いてあるので、特に前提知識はいらない。せいぜい維新→明治→大正→昭和、ぐらいを知っていれば充分。また靖国神社周辺の地理に詳しいと、更に楽しめる。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ 招魂斎庭が駐車場に変わる時
  • 第1章 「英霊」たちを祀る空間
  • 第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか
  • 第3章 嘉仁親王は靖国神社がお好き
  • 第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居
  • 第5章 河竹黙阿弥「島衛月白波」の「招魂社鳥居前の場」
  • 第6章 遊就館と観工場
  • 第7章 日露戦争という巨大な見世物
  • 第8章 九段坂を上る二人の男
  • 第9章 軍人会館と野々宮アパート
  • 第10章 力道山の奉納プロレス
  • 第11章 柳田國男の文化講座と靖国神社アミューズメントパーク化計画
  • エピローグ 「SUKIYAKI」と「YASUKUNI」
  • 文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて
  • 解説 野坂昭如

【感想は?】

 タイトルは「靖国」だし、確かに靖国神社が視点の中心にある。

 が、内容はあまり政治的じゃない。例えば各道府県にある護国神社は出てこない。著者の関心はむしろ文化的な面だ。それも東京を本拠地とする明治以降の文化人にこそ、著者の関心は向いている。

 それを示すのが、本書に出てくる人々だ。明治天皇などの政治家や大村益次郎などの軍人も出てくるが、圧倒的に多くの紙面を占めるのは、次のような文化人である。

 開国以来、日本には欧米の文明・文化が雪崩れ込んできた。庶民の生活や政治も変わってゆくが、美術・文筆・建築・舞台などの文化面での衝撃はそれ以上に大きかった。その結果、大きく分けて二つの流れが生まれてくる。

 ひとつは、積極的に欧米の文化を取り入れようとするもの。もう一つは、対象物・比較物としての欧米文化を得て、日本的な文化の神髄を見つめなおそうとするもの。両者は単純に対立するわけではない。多かれ少なかれ、何らかの形で欧米的な手法を取り入れていく。

 中には、新しく伝統を「創造」するものまで居る。その代表が相撲だ。それまで藩のお抱えだった力士たちは、政治体制の変化でパトロンを失う。そこで国技館をシンボルとして「国技」の伝統を創りだし、近代的な相撲界を生み出す(→「相撲の歴史」)。

 こういった東京を発信地とした維新以降の文化の歴史を、著者は九段から辿ってゆく。なんといっても、九段は維新政府の中枢である薩長の者が住む山の手から、旧幕府の支配下にあった下町を監視するのに格好の地だ。

九段坂は、東京の下町と山の手を分断する、まさにその境となる場所だった。
  ――第8章 九段坂を上る二人の男

 このように、靖国神社の元となる招魂社は、あからさまに政治的・軍事的な性質で建立される。祀られているのは、維新で戦死した薩長の軍人たちだ。幕府側は邪霊として祀られない。以後、西南戦争などの内戦でも、官軍の戦死者だけが祀られる。ここにはハッキリと維新政府の意向が出ている。

 これが変化するのは日清・日露戦争だ。以降は維新政府というより大日本帝国政府軍の戦死者が祀られる。内戦の季節を過ぎて統一国家の体裁が整った、そういうことだろう。

 だが、そんな政府や軍の思惑を置き去りにして、場としての靖国は意外な方向へと変わってゆく。なんと庶民の観光名所やアミューズメント・パークと化すのだ。

 なんたって広い。そこで相撲・競馬・勧工場(百貨店、→コトバンク)・ジオラマ・絵画・花火・プロレスなど、多くの庶民を集める見世物・興業が続々と開催される。伝統文化どころか、旺盛に欧米の文化・技術を取り入れた、最新の娯楽施設なのである。

明治初年代の靖国神社は、(略)モダンでハイカラな場所だった。
  ――第10章 力道山の奉納プロレス

 こう変わった原因を、著者は画家・高橋由一に求める。

高橋由一「霊場には必付属の遊興場あるへし」
  ――第6章 遊就館と観工場

 この辺、日本の特異な宗教観が現れているよね。維新政府も高橋由一も意識してなかっただろうけど。いやシナゴーグや教会やモスクに遊興場は要らないだろ普通。もっとも教会のパイプオルガンは極上の娯楽施設だと私は思うんだが、教会は決して認めないはずだ。

 そんな風に、意図せずに靖国神社は日本の伝統的な精神を体現する場になってしまった。お陰で、上記のリストのような文化人たちの足跡が残る。著者はソレを丹念に辿り、明治期の東京を中心とした日本文化の変転を描き上げ、本書として結実したのである。

 明治の、それも東京のハイソな文化にこだわる著者だからこそ描き得た靖国神社の歴史と実態は、終戦記念日に話題となる姿とは全く違ったものだった。これを踏まえて政治家たちの動きを評する“文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて”は、なかなか痛快である。明治以降の日本の歴史を捉えなおし、「日本の伝統」の正体を見極める一助となる一冊だ。

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【終わりに】

 ところで、「エピローグ」にはボブ・ディランが登場する。ここで、私は考え込んでしまった。

 本書には多くの文化人が出てくる。その文化人たちの活躍の場は、いずれも東京なのだ。いや「靖国」だから当たり前なんだけど。

 対してアメリカはどうだろう? 私が好きなロックだと、例えば ZZ Top はテキサス、Blue Oyster Cult はニューヨーク、Van Halen はロサンゼルス、Grateful Dead はサンフランシスコと、実に地方色豊かだ。他にもシカゴ・ブルースやカントリー&ウェスタンのナッシュビル、ソウル・ミュージックのデトロイト(モータウン)など、ご当地音楽に事欠かない。

 土地の広さや州政府の自治権の強さ、小出力のFMラジオ局の乱立、そして州が集まって連邦国家ができた歴史など原因は様々だが、文化の発祥地の多さという根本的な豊かさは、とてもじゃないが日本が太刀打ちできるものではない。

 本書では明治天皇の行幸など、維新政府が日本を一つの国にまとめ上げようとした歴史も描いている。その過程で、文化的にも東京への一極集中が進み、地域の色は失われてしまった。

 まあジャズやロックも所詮は輸入物だし、そこに地域の色が入り込む余地は最初からなかったのかもしれない。でも、ビートルズ来日から半世紀も経って、いまだに地域のロックがないのは、どういうことなんだろう? 地域色を放っているのは、せいぜい沖縄ぐらいじゃなかろうか。

 などとウダウダ言ってるけど、要は「もっと色々な音楽が聴きたいぞ」と、そういうことです。まとまりがなくてすんません。

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