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2021年8月の6件の記事

2021年8月29日 (日)

Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger/Jeffrey R.Yost「コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか 原著第3版」共立出版 杉本舞監訳 喜多千草・宇田理訳

本種は19世紀から現代に至るコンピューティング史の通史を取り扱ったものである。
  ――解題と読書リスト

【どんな本?】

 本書はコンピュータの歴史を綴った本である。その構想・設計・開発・製造など理論や技術はもちろん、IBMなどIT関連企業の経営・販売も扱う。中でも最大の特徴は、使い道について詳しく述べている点だ。これは19世紀の紙と手計算による事務処理や航海年鑑から国勢調査などの大規模バッチ処理、航空機座席予約システムやATMなどのリアルタイム処理、ニミコンピュータからマイクロコンピュータそしてパーソナルコンピュータ、ARPAネットとパソコン通信からインターネットなどを経て現代のTwitterやFacebookなどのSNSまでを扱う。

 21世紀の今日では、日々の暮らしに欠かせない技術となったコンピュータ。それは何のために生まれ、どう成長し、どう使われ、どうやって私たちの暮らしに入り込んできたのか。

 技術より使い方と暮らしへの浸透を通して描く、少し変わったコンピュータの歴史書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Computer : A History of the Information Machine, by Martin Campbell-Kelly/William Aspray/Nathan Ensmenger,/Jeffrey R.Yost, 2014。日本語版は2021年4月15日初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み本文約356頁に加え、杉本舞「解題と読書リスト」7頁。9ポイント36字×33行×356頁=約422,928字、400字詰め原稿用紙で約1,058枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 共立出版にしては文章はこなれている。ええ、「共立出版にしては」です。内容は初心者向けで、技術的に突っ込んだ話はほとんど出てこない。それだけに説明不足の感はあるが、いちいち説明していたらキリがないのも理解できる。詳しく知りたかったら巻末の「文献リスト」や「解題と読書リスト」から手繰ろう。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むので、なるべく頭から読もう。

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  • 謝辞/第3版へのまえがき/序
  • 第1部 コンピュータ前史
  • 1 人間がコンピュータだったころ
  • 2 オフィスに事務機がやってくる
  • 3 バベッジの夢が現実に
  • 第2部 コンピュータの登場
  • 4 コンピュータという発明
  • 5 コンピュータがオフィスの主役に
  • 6 メインフレームの時代 IBMの季節
  • 第3部 日々進化するコンピューティング
  • 7 リアルタイム つむじ風のように速く
  • 8 コンピュータを支配するソフトウェア
  • 9 新しいコンピューティングの登場
  • 第4部 コンピュータの民主化
  • 10 パソコン時代の登場
  • 11 魅力拡がるコンピュータ
  • 12 インターネットの世界
  • 出展に関する注/文献リスト/解題と読書リスト 杉本舞/訳者あとがき/索引

【第1部 コンピュータ前史】

 本書は「コンピュータ史」ではない。「コンピューティング史」である。

 つまり着目点は「何に使うか」だ。これは最初の「1 人間がコンピュータだったころ」で実感できる。ここでは、計算機が登場する前の19世紀に、金融・事務・軍事・科学・技術などの分野で、紙と手計算でどのような処理がなされていたかを描く。

 最初に出てくるのは、ロンドンの銀行の手形交換所だ。A銀行がB銀行に払うカネと、B銀行がA銀行に払うカネは相殺して差額だけを動かせばいい。銀行が2行だけなら経路はA:Bの一本だが、3行だとA:B, A:C, B:C の3つになり、4行だと6つになる。銀行が増えるたび、経路は爆発的に膨れ上がってゆく。これをどう解決するのか、

 ここで登場するコンピュータの父ことチャールズ・バベッジ(→Wikipedia)が、モロにマッド・サイエンティストで面白い。

コンピュータという言葉は、(略)ヴィクトリア期や第二次世界大戦にさかのぼってみれば、(略)ある職業のことを意味していた。
  ――1 人間がコンピュータだったころ

 当時は天文学者用の星表や船乗用の航海年鑑などの数表は、人間が計算していた。バベッジはこれを機械でやろうと考え、かの有名な階差機関(difference engine、→Wikipedia)を思いつく。印刷時のミスを防ぐため活字を組む機構も備えている。原初のコンピュータはプリンタ付きなのだ。

 ところが階差機関の開発は長引き、その途中で汎用の計算機である解析機関(analytical engine、→Wikipedia)の発想に至る。その違いは何か、というと。

解析機関というアイデアは、階差機関で計算の結果をフィードバックさせれば人間の介入をなくせるのではないかとバベッジが考えている時に、着想したものであった。
  ――3 バベッジの夢が現実に

 今ならループとか再起とかの発想だね。それはいいが、肝心の航海年鑑をほったらかしたせいで、スポンサーから資金を打ち切られてしまう。手段のために目的を忘れる、マッド・サイエンティストの鑑ですw そこのプログラマ、ライブラリ作りに熱中してアプリケーションの開発を忘れるとかの経験ありませんか? コンピュータの父はハッカーの祖でもあるのだw

 などと19世紀のイギリスで潰えた事務の機械化の夢は、新大陸アメリカで芽を出す。1890年の国勢調査で使われたハーマン・ホレリス(→Wikipedia)のタービュレイティング・マシン(→Wikipedia)を皮切りに、機械が事務所へと侵入してゆく。その先兵となったのがタイプライター。

タイプライターはオフィス機器産業とそれに続くコンピュータ産業の三つの基本的特徴を拓いた(略)。製品の完成度と低コスト生産、製品を売る販売組織、そしてその技術を使えるように労働者を訓練する組織の三つである。
  ――2 オフィスに事務機がやってくる

 ここでは新し物好きなアメリカに対する保守的なイギリスへの皮肉がチラリ。それはともかく、タイプライターが流行った理由の一つが、手書きより読みやすいってのに冷や汗w 今も Microsoft Word を使う最大の理由は、手書きより綺麗だからだよね。

【第2部 コンピュータの登場】

 などと機械が事務室へ侵入するなか、第二次世界大戦がはじまり、まの有名なENIAC(→Wikipedia)とEDVAC(→Wikipedia)が登場する。今まで両者の違いがよく分かってなかったけど、その一つはプログラム内蔵か否か。ENIACは違うプログラムを走らせるたびに、いちいち配線を変えにゃならなかった。そりゃ面倒くさいよね。ならプログラムも覚えとけよ。ということで…

計算機の記憶装置は、プログラムの命令と、それが処理する数字の両方を保持するのに用いられる
  ――4 コンピュータという発明

 そういやシンセサイザーは音源やエフェクトの設定を記録&呼び出しの機能があるけど、ギターのエフェクターでそういう事ってできるの? いや私はフランジャ―しか持ってないからいいけどw

 まあいい。潤沢な軍の予算で開発した技術が、すぐ民間で活きるのがアメリカの強い点の一つ。そこに喰いつき、うまく活かしたのがビッグ・ブルーことIBM。その成長の原因はサポートにある。日本の自動車産業がアメリカ進出で成功したのも同じ理由だった。トヨタはIBMに学んだんだろうか。

IBMはサービス型企業としての評判が高かった。当初からトレーニングを重視しており、ユーザーのためのプログラミングコースを提供し、また現場に赴くエンジニアによるカスタマーサービスもほかのどの企業より優れていた。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 また、将来を見据えた販売戦略も巧かった。つまりプログラマを育てたのだ。

IBMは、650を6割引きで大学などの教育機関に設置した。そうすればコンピューティングの教育課程ができる(略)。この結果、IBM650に慣れ親しんだプログラマやコンピュータ科学者が輩出され、IBMを使いこなせる人々が産業界に大勢いるという状態ができあがった。
  ――5 コンピュータがオフィスの主役に

 これも1980年代~1990年代にアップルが真似して成功している。今だって医療とデザイン関係はMacユーザが多い。ほんと、IBMは販売戦略が巧みだ。もちろん、販売だけでなく、技術戦略でも賢い。巨人 System/360 である。

System/360はソフトウェア互換性のあるコンピュータという概念を軸に、この業界を劇的に作り変えてしまった。
  ――6 メインフレームの時代 IBMの季節

 それまでのコンピュータは、同じメーカーでも機種が違えばソフトウェアに互換性がなかった、つまりプログラムを書き直さなきゃならなかった。それじゃ機械を買い替えるたびに移植の手間と費用がかかる。そりゃ困るってんで、全機種でソフトウェアの互換性を保証した。今なら当たり前のようだが、当時としては画期的な事だったのだ。

 加えてこの章ではRPG(Report Program Generator、→Wikipedia)の話が印象に残る。RPGを一言で説明すると、バッチ処理版のExcelみたいなモン。てっきりCOBOLから派生したと思ってたんだが、実は生まれも育ちも全く別でIBMの純血だし、誕生も1959年と早い。そうだったのかあ。

【第3部 日々進化するコンピューティング】

 米国のコンピュータ史がENIACで始まったように、コンピュータ(というか先端技術)と軍の関わりは深い。が、やがて軍を離れ民間の営利企業が育ってゆく。この境目に当たるのが「7 リアルタイム つむじ風のように速く」だろう。

 ここでは航空機の操縦シミュレータ計画 WhirlWind(→Wikipedia)や防空システムSAGE(→Wikipedia)などの野心的な開発計画が軍の潤沢な予算を得て始まり、その過程で「プリント基板、コアメモリ、大容量記憶装置」などコンピュータの基礎技術が発展し、同時にソフトウェア開発者も育ってゆく物語で始まる。

 ここで育った技術と人は、さっそく民間で活きる。航空機座席予約システムSABRE(→Wikipedia)だ。とまれ、「プロジェクトの実現は10年がかり」というから、当時のシステム開発はそういうペースだったんだなあ。

 ここまでは「既存の需要にコンピュータを組み込む」または「コンピュータ屋が需要を掘り起こす」形だった。そこに、全く新しい利用者が現れる。スーパーマーケットだ。

スーパーマーケットの初期の最も重要なイノベーションは、販売員が商品を持ってくるのではなく、顧客が自分で動いて商品を手にすることで(すなわち、セルフサービスで)販売員の手間を削減したことだ。
  ――7 リアルタイム つむじ風のように速く

 安さがウリのスーパーは、なるたけコストを減らしたい。セルフサービスで店員の人件費は減らせたが、レジで長い行列ができてしまう。これを解決するため、小売り・製造・取引組合など関係する全業界を巻き込み開発したのが、バーコード&スキャナー。お陰でレジが速くなるだけでなく、店に置く商品の種類も爆発的に増え利ざやが大きくなる。

 それまでは既にある仕事の流れにコンピュータを組み込む形での利用だったのが、スーパーではコンピュータを使うことを前提として、業界全体の仕事の流れを変えたのだ。こういう革命的な事がやれるのも、アメリカの強みだよねえ。

 さて、先のSystem/360で出てきたように、コンピュータが増えるとソフトウェア開発の負荷・費用が問題として注目され、ソフトウェア危機が叫ばれ始める。EDSACの2進法からパッケージ・ソフトウェアの成立までを描く「8 コンピュータを支配するソフトウェア」は、プログラマにとって「あるある」の連続で実に楽しい。

 例えば悪名高いフローチャート。

フローチャートは産業界で働くエンジニアのあいだで1920年代に始められた。これを1950年代にコンピュータのプログラムに採り入れたのは、(化学エンジニアの経験があった)フォン・ノイマンである。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 コンピュータ以前にフローチャートはあったのか。にしてもフォン・ノイマン、罪なことをしてくれたもんだ。何せ…

実は多くのプログラマは、理解力のない経営陣の気まぐれを満足させるためにしかフローチャートは役に立たないと感じていたのだ。
  ――8 コンピュータを支配するソフトウェア

 まあ、プログラマにとってフローチャートなんてそんなモンです。フローチャート用定規とかもあったなあ。

 ここでは2進数からニーモニックによるアセンブラ、サブルーチン、リンカ、COBOL・FORTRANなどコンパイラ、構造化設計技法、ソフトウェア・ハウスやパッケージ・ソフトウェアなど、現代のIT産業が立ち上がる姿が早送りで映し出され、とっても楽しい。

 ちなみにパッケージ・ソフトウェア、ここもアメリカらしいと思うのが、業務に合わせてパッケージを開発するより、パッケージに合わせて仕事の流れを変える企業が多かったって点。日本と逆だよね。何が違うんだろ?

 これらは大型汎用機のバッチ処理の話だが、現代のパソコン時代へ一歩近づくのがタイムシェアリング・システム。大型機を多人数で同時に使う、そういう考え方。この発想、消えたように思えるけど、実はクラウド・コンピューティングなどで生き延びてたりする。まあいい。ここではMulticsの失敗からUnixの誕生、そして半導体を使ったミニコンピュータへと続く。ケンとデニスの理想は、インターネットによってさらに飛躍したが…

ケン・トンプソン&デニス・リッチー「私たちが残そうとしたのは、プログラミング環境だけではなく、そのまわりに仲間が集えるような環境全体だった」
  ――9 新しいコンピューティングの登場

【第4部 コンピュータの民主化】

 今までのコンピュータは政府機関や大学、そして企業のオフィスにある物だった。これが家庭に入り込む様子を描くのが第4部。

 「10 パソコン時代の登場」は、意外なことにラジオ放送の歴史から始まる。ラジオ放送局が開設する前から、趣味で無線をイジる人はいた。70年代ごろまでの秋葉原にタムロしてたタイプの人たちだ。彼らが最初にラジオのリスナーになったのだ。そんな無線愛好家と層がカブってる、電子工作の愛好家もいた。とまれ…

ホビイスト以外の人にとっては、自分のコンピュータを欲しがる人がいること自体、不可解極まりないことだった。
  ――10 パソコン時代の登場

 はい、世間には理解されませんでしたw 

 そんな中からビル・ゲイツ&ポール・アレンのマイクロソフト、スティーヴン・ウォズニアック&スティーブ・ジョブズのアップルなどが芽をだし、巨像IBMまで参入してきて互換機市場を作り出す。IBMのロゴがついてりゃ法人ユーザで買いやすいなんてのは、ちょっと笑ってしまった。そりゃヒッピー崩れが売ってたんじゃ稟議を通りにくいよねw

 そういや「安いPCが欲しけりゃ自作」って時代もあったなあ。今の自作派はハイエンド志向みたいだけど。にしても、技術の進歩って、こういう「趣味の人」の充実も大事なんだね。これもまた自由主義の強さの一つ。

 「10 パソコン時代の登場」が8bit機の時代だとすれば、続く「11 魅力拡がるコンピュータ」は16bit機の時代だろうか。同時に、それまでのコマンドライン方式からマウスとGUIへの移行に伴い、ヲタクから非ヲタクへと市場が広がってゆく時代でもある。となると、大事なのは広告や流通。

マーケティングコストは、実にソフトウェア本体の開発費の2倍に及んだ。
  ――11 魅力拡がるコンピュータ

 広告費ゼロのガンパレは、やっぱり掟破りだったんだなあ←しつこい ここではOS/2(→Wikipedia),CAPTAIN(→Wikipedia),CompuServe(→Wikipedia)なんて懐かしい名前も。

 CompuServeの当初の目的はTSSが空く夜の時間を埋めるためってのは賢さに舌を巻いた。けどIT業界がCD-ROMの市場として最初に目をつけたのが百科事典ってのは、賢い人の盲点だよね。ええ、もちろん、キラーコンテンツはゲームとエロでした。わはは。

 そして最後の「12 インターネットの世界」では、インターネットからWWWそしてSNSへと話が進む。

 インターネットの前身ARPAネットから現在のTCP/IPベースであるインターネットへの技術的な進歩は詳しい人には興味深いだろう。それ以上に、そこで人気の出た使い方が、技術屋とそれ以外の感覚の違いが見えて楽しい。まず流行ったのが…

ユーザを引き付けたのは、電子メールを通じてコミュニケーションできるということだった。
  ――12 インターネットの世界

 電子メールだ。開発者曰く、「初めは誰もそれがこんなに大当たりすることになるとは思っていなかった」。賢い人ってのは、人が持つコミュニケーションへの欲求を見過ごすんだよね。

 ここでもUsenet,apache,Mosaic,Netscapeなどの懐かしい名前の後、Yahoo!,Google,Amazom,iPhone,Wikipedia,Facebook,Twitterなど現役でお馴染みの名前も。とまれ、NokiaやBlackBerryやPalmOSとかの名前には、この世界の時の流れの速さに唖然としてしまう。

【終わりに】

 共立出版で横組みだから、小難しい印象を抱くだろう。実際、文章もやや堅いし。だが内容は、むしろ「史記列伝」や「三国志演義」のような、乱世を駆ける英雄たちの栄枯盛衰・群雄割拠の物語に近い。

 スマートフォンとインターネットは、世界を制覇した。それが生まれるには、様々な組織や文化が必要だった。

 階差機関やENIACやARPAネットには政府や軍の支援が。
堅牢な大型コンピュータにはIBMやアメリカン航空のような大企業が。
バーコードには小売りから製造までの企業連合が。
ARPAネットから企業を問わぬインターネットへの進化には、それぞれが自治権と独自文化を持つ大学と、逆説的だが互換性のない多くのコンピュータ企業が。
コンピュータの小型化には電子工作に没頭するヲタクが。
そしてパソコンの普及には山師じみた野心を抱える有象無象の小さな起業家たちが。

 確かにIT技術者なら、この本を楽しく読める。だがそれ以上に、日本の科学・技術の凋落がいわれる昨今、技術立国日本の再生に何が必要なのかを考える人にこそ、熱く訴えるものを本書は秘めている。

【関連記事】

【今日の一曲】

Typewriter - La máquina de escribir. L. Anderson. Dir: Miguel Roa. Typewriter: Alfredo Anaya

 コンピューティング前史に出てくるタイプライターだって、楽器になります。ということで、有名なルロイ・アンダーソンの TypeWriter を。タイプライター奏者のアクションに注目。お堅くて高尚な印象の強いオーケストラだけど、音楽って本来はこういう楽しいものだよね。

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2021年8月22日 (日)

菅浩江「博物館惑星Ⅲ 歓喜の歌」早川書房

理解しすぎだ、<ダイク>。
  ――歓喜の歌

【どんな本?】

 <アフロディーテ>は、月と地球のラグランジュ3、地球から見て月の正反対にある小惑星だ。オーストラリア大陸ほどの小惑星にマイクロ・ブラックホールを仕込んで重力を調整し、惑星全土を使い博物館にしている。

 組織は絵画・工芸,音楽・舞台・文芸,動植物の三部門に加え、全体を調整する総合管轄に分かれる。

 兵藤健はVWA、<権限を持った自警団>の新人。芸術オンチの健は、総合管轄所属の学芸員で同期の尚美・シャハムにドツかれつつ、今日も事件現場を駆けずり回るのだった。

 ベテランSF作家の菅浩江が、技術と芸術そして人間とマシンの関係を探る、連作SF作品集。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2020年8月25日発行。単行本縦一段組み本文約256頁。9ポイント43字×18行×256頁=約198,144字、400字詰め原稿用紙で約496枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。なおハヤカワ文庫JA版もある。

 文章はこなれていて読みやすい。SFとしてはかなり凝った仕掛けを使っているが、わからなかったらソコは読み飛ばしてもいい。「どんな原理か」や「なぜできるか」は、どうでもいい。「何ができるか」がわかれば充分。大事なのは、音楽でも絵画でも文学でもいいから、何か「好きな作品」があること。

 なお、お話は前作の「不見の月 博物館惑星Ⅱ」から素直に続いているので、なるべく前作から読もう。特に最後の「歓喜の歌」の盛り上がりが違ってくる。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

一寸の虫にも / SFマガジン2019年6月号

「予想通りだ。面白くない結果だ。これから面白くなる!」

 兵藤健は頭を抱える。ニジタマムシ27匹が逃げ出した。鞘翅の美しさに目をつけた業者イシードロ・ミラージェスが違法に遺伝子操作したものだ。既存の種と交雑したら、どんな影響がでるかわからない。そこで全部を捕まえる必要がある。ところが健は虫が苦手なのだ。しかも肝心の動植物部門の担当者カミロ・クロポトフはのんびりしていて…
 いかにも研究者なカミロがいい味出してる。頭の回転に口が追い付かないと、片言になったり無口になったりするんだよね、専門家ってのは。人工的に遺伝子を弄られているとはいえ、結局は生物。環境が変われば、それに合わせて生殖戦略を変え、とにかく生き延び子孫を残そうとするニジタマムシちゃんの奮闘と、それに振り回される<アフロディーテ>のメンバーが楽しい。
 そういえば日本じゃオオクワガタやヘラクレスオオカブトが男の子に根強い人気を誇ってるんで、将来は遺伝子操作して大型化、なんて事業が出てくるかも。
にせもの / SFマガジン2019年8月号

「見分けがつかないくらいなんだから、もうどっちも本物だったってことにすればいいんじゃないかなあ」

 総合管轄部門のトラブルメーカーであるマシュー・キンバリーが、「贋作鑑賞術」を企画した。贋作と真作を並べて展示するのだ。準備で忙しい中、<アフロディーテ>所有の逸品<都会焼>の「片桐彫松竹梅」そっくりの壺が見つかる。詐欺常習の古物商からでた壺は、来歴も<アフロディーテ>所有の物と同じ。ただ、<アフロディーテ>所有物には<都会焼>創設者の柊野彦一発行の認定シールがある。
 貫入とは釉のひび割れ(→コトバンク)。素人の私は健の言葉に思わずうなずいちゃったりw 贋作ネタはミステリとして美味しくて、「贋作者列伝」や「にせもの美術史」も楽しいです。さすがに現代じゃ陶器は無理だろうけど、「ミロのビーナス」などの彫刻なら3Dスキャナー+3Dプリンタで精巧な複製が作れるんだろうなあ。
 なお、ドリューの大贋作事件は日本経済新聞の記事が参考になる。
笑顔の写真 / SFマガジン2019年12月号

「笑顔のてっぺん、か」

 <アフロディーテ>では、開設50周年企画の準備が進んでいる。その一環として、写真家のジョルジュ・ペタンを招いた。「笑顔の写真家」の別名で知られる彼は、世界各地で生活感あふれるスナップを撮り、特に人々の笑顔が特徴だ。代表作はチリのマプチェの子供たちを撮った作品。銀塩写真にこだわりスクラッチのエフェクトが得意なペタンだが、どうも元気がない。
 イーストマン・コダック社(→Wikipedia)の倒産など、デジタル・カメラやスマートフォンの普及で危機に瀕している銀塩写真が重要な役割を果たす作品。ロッド・スチュアートも名曲マギー・メイ(→Youtube)があまり好きじゃないそうで、世間で高く評価されても作者は納得するとは限らないのが難しい。凡作として忘れられればともかく、事あるごとに引き合いにされると、なおさら棘が心に突き刺さるんだよなあ。
笑顔のゆくえ / SFマガジン2020年2月号

俺は、いま一度ロブレの笑みに向き合いたいんだ。

 ペタンに元気がない原因は、まさしく代表作にあった。しかも、その代表作に目をつけた何者かが、妙なちょっかいを出している。失ってしまった笑顔を取り戻そうと、素人なりに健は気を回すのだが…
 実質的に先の「笑顔の写真」と前後編を成す作品。と同時に、自我をもつAIについての議論の一つにも挑んでいる。どういえばこの作品集、<ダイク>や<エウポロシュネー>のハードウェアには触れてなくて、あくまでも健や尚美とのインタフェースだけの描写になってる。たぶん分散処理してるんだろうなあ。最後の一行が、いかにも健らしくて心に染みる。
遥かな花 / SFマガジン2020年4月号

「この絵描き、本当は何を表現したかったのだろうね」

 動・植物部門が管理する孤島キプロスは、人工的に生み出された生物を隔離していて、一般には非公開だ。作業員を装いプラント・ハンターのケネト・ルンドクヴィストは作業員を装い侵入し、あっさり捕まる。製薬会社アベニウスの会長ヨーラン・アベニウスが身元を引き受けてもいいと申し出たが、ケネトは父親フレデリクの因縁でヨーランを憎んでいる様子。
 Wikipedia じゃプラントハンターは過去の遺物みたいな扱いだけど、「フルーツ・ハンター」によるとドッコイ今でも元気に世界中を駆け回ってる。最近は中国が熱いんじゃないかな。いるよね、能天気で気ままだけど妙に憎めなくて、誰とでも友達になっちゃう奴w 人類がアフリカを出たのは、そういう奴が先導したのかも。
歓喜の歌 / SFマガジン2020年6月号

細かい仕事は雲霞のように湧いてきて目の前をふさぐ。

 <アフロディーテ>50周年記念フェスティバル前夜。多くの訪問者でにぎわう中、尚美・シャハムは次々と舞い込むトラブルで大忙し。もちろん問題児マシュー・キンバリーも騒ぎとも縁じゃない。同じころ、兵藤健は大捕り物に備え緊張している。長く尻尾が掴めなかった国際的な美術品犯罪組織アート・スタイラーに、接触する機会が得られたのだ。
 日本では年末の風物詩ともなった「歓喜の歌」(→Youtube)をBGMに、あの壮大な曲にふさわしい見事なフィナーレを決める完結編。今までの短編でじっくり仕込んだダシが、鮮やかな隠し味となって効いてくる。この著者、音楽が絡むとホントいい作品を書くんだよなあ。にしても尚美さん、最初から最後まで怒りっぱなしなのはどうよw

 「永遠の森」から続いた博物館惑星シリーズ。いまよりちょっと進んだ技術をネタにしつつ、「ヒトと作品」の関係を見つめた連作短編集だ。「不見の月」以降は、芸術オンチの兵藤健を主人公に据えることで、芸術には素人の私も親しみを持てるお話になった。

 なお、SFマガジン2020年10月号には、ボーナス・トラックに当たる「博物館惑星 余話 海底図書館」が載っているので、気になる人は古本屋か図書館を漁ろう。

 ところで十日町たけひろによるカバー、実に巧みに内容を表してるんだけど、これポスターとして売ってほしいなあ。

【関連記事】

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2021年8月18日 (水)

ベン・ルイス「最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の『傑作』に群がった欲望」上杉隼人訳 集英社インターナショナル

現代の美術界が抱える問題は、美術界が変わったということではなく、変わっていないということなのだ。
  ――おわりに

【どんな本?】

 2017年11月、クリスティーズの競売で絵画の落札価格の最高額が更新される。その額4憶5千万ドル。対象はレオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」(→Wikipedia)。

 この作品は幾つかの点で型破りだった。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは名高いわりに作品は少ない。高名なオールドマスターの作品が今世紀になって発掘される事は滅多にないし、出てきても専門家が真作と鑑定することも滅多にない。

 誰が、どうやって、どこから作品を発掘したのか。姿を現すまで、どんな運命を辿ったのか。発掘されてからオークションにかけられるまで、どんな者がどのように関わったのか。そして、なぜこんな高値が付いたのか。

 描いたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの活動、発掘した美術商、真贋判定に関わった専門家たち、そして売買に関わった人々やその動機などを通し、知られざる現代の美術界を描き出す、迫真のルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Last Leonardo : The Secret Lives of the World's Most Expensive Painting, by Gen Lewis, 2019。日本語版は2020年10月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約431頁に加え訳者あとがき5頁。9ポイント45字×18行×431頁=約349,110字、400字詰め原稿用紙で約873枚。文庫なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらい。

 文書はこなれている。内容も分かりやすいし、歴史や美術に馴染みのない人のために充分な説明もされている。レオナルド・ダ・ヴィンチとモナリザを知っていれば大丈夫。

【構成は?】

 内容的に各種はほぼ独立しているが、なるべく頭から読む方がいい。というのも、人物や固有名詞などは前の章を受けた形で出てくるため。

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  • 本書の構成について
  • 本書に登場する主な人物
  • 『サルバトール・ムンディ』の歴史
  • プロローグ レオナルドの伝説
  • 第1部
  • 1 ロンドンへのフライト
    勝負に出るひとりの男/レオナルド・ダ・ヴィンチによるものと思われるある絵
  • Secret Episode 1 クルミの木の節
  • 2 埋もれた宝
    ニューオーリンズの競売会社で売り出された一枚の絵/美術界の最下層にいた男、アレックス・パリッシュ
  • Secret Episode 2 紙、チョーク、ラピス
  • 3 感じる!
    レオナルド劇場の興行主マーティン・ケンプ/『美しき姫君』
  • Secret Episode 3 レオナルドの特徴的な描き方
  • 4 青の手がかり
    レオナルドの魔法/最大の疑問
  • 5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント
    Provenance 起源、出所、来歴、真贋、品質/作り上げられた「傑出した来歴」
  • Secret Episode 4 王の絵画
  • 第2部
  • 6 サルバトールのすり替え
    所蔵品目録で確認できる三枚の『サルバトール』/ジョン・ストーンが買い上げた『サルバトール』/エドワード・バスの第二の『サルバトール』/ジェームズ・ハミルトン卿の第三の『サルバトール』/「ヴェンツェスラウス・ホラーが原画をもとに制作」/『サルバトール・ムンディ』の公式来歴/ガナイの『サルバトール』/絵の裏に隠されたCとRの焼き印
  • 7 復活
    歴史上のどの作品よりも破損が激しい/ニューヨークで評判の修復家モデスティーニ夫妻/「自分はレオナルドの作品を相手にしている」/ダ・ヴィンチの手の痕跡 モデスティーニの修復作業/闇の世界に生きる修復家たち/鑑識眼の能力が限界まで求められる
  • Secret Episode 5 レオナルドの弟子たち リトル・レオナルド
  • 8 数多くの『サルバトール・ムンディ』
    イギリス王家の『サルバトール・ムンディ』/膨れ上がるロンドンの美術市場/『サルバトール』がいくつも……/プーシキン美術館の『サルバトール・ムンディ』/誰が責任を負うべきか?
  • 9 天上会議
    『サルバトール』完成/いざ、ナショナル・ギャラリーへ/「顔は損壊が激しく、誰が書いたのかもはや判断がつかない」/胃売り込みは密かに、だが積極的に行われてていた/レオナルドの絵とはっきり明記されない/「絵がどのように作り出されたか、遺憾ながら事情は知れない」
  • Secret Episode 6 エンターテイナーでエンジニア
  • 10 地上最大のショー
    2011年ナショナル・ギャラリー「ダ。ヴィンチ展」/『サルバトール』に対するさまざまな反応/二度目の大きな修復作業が開始される/「レオナルデスティーニ」新たなハイブリッド作品?
  • 11 おい、クックは手放したぞ
    1913年のクック家の目録/ジョン・チャールズ・ロビンソンの鑑識眼/新たな技術で『サルバトール』を探す/フランシス・クックとクック・コレクション/「レオナルドを思わせる、だが明らかに質の低い作品」/レオナルド作品の重要な鑑定家だったハーバート・クック/「レオナルド風のものを探り出すには緻密な観察が必要」/「考えられないような素人が絵を塗り直した」/買い上げたのはニューオーリンズの収集家?
  • 第3部
  • 12 オフショアの偶像
    幾らで売れる?/21世紀の美術市場/誰に売る? 誰に買ってもらえる?/ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフ/仲介者、イヴ・ブーヴィエの存在/リボロフレフとブーヴィエ/第四のプレイヤー、サザビーズ/ついに『サルバトール』と対面/信頼関係は崩れた/美術をめぐる史上最大の詐欺事件/サザビーズをめぐるもう一つの訴訟/勝者は誰?/リボの誤算/ブーヴィエ事件の余波/新たな競売へ
  • Secret Episode 7 レオナルド、安らかに
  • 13 19分間
    「競売番号9bレオナルド」/歴史的瞬間/落札者は?/ルーヴル・アブダブで公開される?
  • 14 ニューオーリンズに一軒の家がある
    いつどこで手に入れたのか、よく覚えていない/最低見積価格より25ドル低い1175ドルで落札/セントチャールズ・ギャラリーに売ったのは誰?/2005年当時の匿名所有者「トゥーキー」との会話/きわめてアメリカ的な収集家
  • 15 砂漠に立ちのぼる蜃気楼
    世界で最も豪華な美術館ルーヴル・アブダビ/ビン・サルマーン皇太子の暗い噂/政治的駆け引きに使われた?
  • 16 こわれやすい状態
    ポスト・トゥルースのレオナルド/芸術における悲劇の象徴『サルバトール・ムンディ』
  • おわりに
    絵の周辺を飛び交う詐欺や欺瞞を告発しようとした/美術品の値段はますます高騰する/世界は変化しているが、美術品は変わらない/『サルバトール・ムンディ』は誰もが見られるものでなければならない
  • 日本の読者の皆さんへ 『サルバトール・ムンディ』は今どこに?
  • 謝辞/訳者あとがき/図版クレジット

【感想は?】

 書名や副題からは、ゴシップ系の印象を受ける。なんたって、最高額を記録した絵画の取引きがテーマだし。

 確かにそれは間違いじゃない。実際、著者は『サルバトール・ムンディ』がどんな運命を辿ったのか、歴史家や探偵のごとく丹念に調べてゆく。その取材と調査の範囲はすさまじい。

 かつての所有者と目される王家の遺産目録や有名な美術商のカタログそして掘り出した美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュはもちろん、田舎の骨董市のような競売の伝票やインターネット上にある個人住宅の写真まで、世界中を飛び回り唖然とするほどの執念で情報を集めて検証をしてゆく。

 だが、ゴシップはあくまで客寄せパンダまたは狂言回しだ。著者の目論見は違う。『サルバトール・ムンディ』の取引きをサンプルとして、現代の美術界の姿を描き出すことだ。

 当然ながら、そこには美術品が異様な高額になっている事への危機感がある。大金には様々な利害やシガラミが絡む。その影響は、例えば学会にも及んでいる。

マーティン・ケンプ「未知の、あるいは比較的知られていない作品を巨匠たちの作品と特定するのは、歴史家としての評価を葬り去ることだ」
  ――3 感じる!

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見つけた」と専門家が言い出せば、世界中で大騒ぎになる。そして「間違いでした」となれば、盛大に叩かれる。だから、下手なことは言えないのだ。しかも、専門家同士の確執もある。

「偉い学者たちほど早く見せないとへそを曲げますからね」
  ――9 天上会議

 なんてメンツにこだわる人もいれば、「奴の説には反射的にケチをつける」みたいな学者同志の対立もあったり。だから、デカいヤマほどデビューは慎重にやらないといけない。

 そんな風に古色蒼然としているような美術界だが、最新技術もちゃんと取り入れている。『サルバトール・ムンディ』をデビューさせたのは、二人の美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュ。彼らの仕事は、要はせどり(→Wikipedia)だ。各地の競売やネットを漁り、掘り出し物を探して転売する。

写真の技術が現代の美術史を作り上げたと言っても過言ではない。
  ――5 ヴィンチ、ヴィンチア、ヴィンセント

 サイモンとパリッシュの目がどれほど優れていたかは、『サルバトール・ムンディ』の経歴を辿る過程で明らかとなる。なにせ…

19世紀から20世紀に時代が変わる中で、その時代を代表する著名な美術史家や美術商、収集家のほとんどが一堂に会し、全員が『サルバトール・ムンディ』を目にしていたのだ。だが誰もそれを買い入れることはなかった。
  ――11 おい、クックは手放したぞ

 と、現物を見た当時の一流の専門家が気づかなかった傑作を、二人の若い小物美術商が掘り出したのだから。そんな彼らを支えたモノの一つがインターネット。

世界最高額の絵はインターネットと電話で取引されたのだ。
  ――14 ニューオーリンズに一軒の家がある

 専門家が現物を見ても気づかなかったお宝を、彼らは写真で見出した。たいした眼力である。もちろん、写真やインターネットだけでなく、現物を手に入れてからは、赤外線リフレクトグラフィーや顕微鏡カメラなども駆使し、絵画のはらわたや骨格にあたる部分まで徹底的に暴き出してゆく。

 これら科学を手掛かりとしつつ、磨き上げた技術を振るう職人も欠かせない。本書では修復家ダイアン・モデスティーニが、小説のような物語を繰り広げる。

修復家にとって自分たちが加えた仕事を最高の形で示せるのは、それに気づかれないことだ。
  ――7 復活

 この言葉、「修復家」を様々な職業に置き換えても通用するんだよなあ。ネットワーク管理者とか鉛管工とか。あなた、幾つ挙げられます?

 さて、そんな美術品のスカウトとマネージャーに当たるのが美術商だとすれば、テレビや映画のプロデューサーに当たるのが美術館のキュレーター(学芸員)だろう。その職業名から受ける学者然とした印象とは異なり、ちょっとした興行手みたいな手腕も求められるのが意外。

今日のキュレーターにとって展覧会成功の鍵を握るのは物語だ。
  ――10 地上最大のショー

 結局、「いかに人を集めるか」なんだよね。とまれ、話題になるモノに集うのは、観客だけじゃない。人が集まれば、カネもあつまる。そこで美術品は投資の対象にもなる。

今日、美術は高級資産だ。現在、多くの投資ポートフォリオ(投資家の資産構成)において、資産の10%はアートに投資されていると言われている。
  ――12 オフショアの偶像

 こういった美術品売買の実態を描く第3部は、やたらと金額を示す数字が出てきて生々しいと同時に、そのとんでもない額にファンタジイっぽい非現実感が漂ったり。「オフ・ザ・マップ」にも出てきたジュネーヴィ・フリーポートとかは、格差社会を恨めしく思ったり。お金持ちってのは、お金を隠す手腕にも長けてるんです。

 そしてもちろん、隠れるのはお金だけじゃなく、美術品も姿を消してしまうのが切ないところ。

最後にその存在を確認された2018年の秋を最後に、『サルバトール・ムンディ』はどこにあるかわからなくなってしまっている。
  ――16 こわれやすい状態

 などと悲しい話になりそうな所を、修復家ダイアン・モデスティーニが『サルバトール・ムンディ』を気遣う言葉が一層ドラマを盛り上げてくれる。

 衝撃のデビューを果たしつつも姿を消した『サルバトール・ムンディ』を軸に、有象無象が徘徊する美術界の実態を、鬼気迫る執念の取材と調査で暴き出し、そこで生きる美術商・修復家・歴史家・美術館そして様々な代理人などを生々しく描いた重量級のドキュメンタリー。

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2021年8月 6日 (金)

小川哲「嘘と正典」早川書房

マジックは演出がすべてだ。
  ――魔術師

もし何かを変えられるとしたら、それは未来ではなく過去なのです。
  ――時の扉

「音楽がそこにあることが一番重要さ」
  ――ムジカ・ムンダーナ

人々は、誰でもない誰かになりたかった。
  ――最後の不良

「共産主義は万有引力なのか、それとも『オリバー・ツイスト』なのか」
  ――嘘と正典

【どんな本?】

 「ユートロニカのこちら側」で鮮烈なデビューを飾り、「ゲームの王国」でSFファンの度肝を抜いた新鋭SF作家・小川哲の第一短編集。

 マジシャンの親子が壮大なトリックに挑む「魔術師」,父が遺した競争馬のルーツを探る「ひとすじの光」,時間旅行と過去改変の逆説を扱う「時の扉」,奇妙な島の風習を描く「ムジカ・ムンダーナ」,「最後の不良」,「嘘と正典」の6編を収録。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2020年版」のベストSF2019国内篇で4位に輝いた。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年9月25日初版発行。私が読んだのは2020年1月20日の3刷。売れたなあ。単行本ハードカバー縦一段組み本文約265頁。9.5ポイント42字×17行×265頁=約189,210字、400字詰め原稿用紙で約474枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もSFとはいえ科学の難しい話は出てこないので、理科が苦手な人でも大丈夫。ただし、「魔術師」はトリックがミソなのでミステリ的な注意力が必要だし、「時の扉」は時間物特有のややこしさがあるので、注意深く読もう。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

魔術師 / SFマガジン2018年4月号
 マジシャンの竹村理道は若くして成功したが、やがて多額の借金を抱えて行方をくらまし、人々からも忘れ去られる。再びマジシャンとして姿を現した竹村理道の公演は満席となり、特にタイムマシンを使ったトリックの評判がいい。娘は彼を嫌っていたが、マジシャンとして身を立てている。タイムマシンのトリックを見破ろうと父の公演を見た娘は…
 理道の最後のショーはトリックなのか本物なのか。トリックだとすると、これは一回しか使えないワケで、芸人ってのはそこまでやるモンなんだろうか。いや、やるんだろうなあ。脱出トリックも死の危険と隣り合わせだし。タイムマシンだとしたら、一種のマッドサイエンティストというか、そんな大それた発明をショーに使うか、と呆れてしまう。
ひとすじの光 / SFマガジン2018年6月号
 縁が薄かった父は、大半の遺産を整理していたが、一頭の競走馬の馬主資格だけは僕の判断に任せた。その馬テンペストは五歳の牡馬で、たいした才能もなさそうだ。父が遺した段ボール箱に入っている資料を元に、僕はテンペストのルーツを探り始める。
 某アニメとゲームのお陰でスペシャルウィークの名前だけは知っていたんだが、なかなか波乱万丈の現役時代だったんだなあ。競馬ファンはそれぞれの想いやストーリーを馬に託してるんだろうけど、走っている馬の実際の気持ちはどうなのか。そもそも馬がなぜ走るか、なぜ速いかというと…
時の扉 / SFマガジン2018年12月号
 遠い場所から来た男は、業火の只中にいる王に語る。「時の扉」の力により、王に与えられるものがある、と。未来を変えることはできない、でも過去は変えられる、と。
 これまた「魔術師」と同様に、時間を扱った作品。SFではあるが、実際にそういう症状を示す病気があるのだ。オリヴァー・サックスの「妻を帽子とまちがえた男」には、その極端な症状であるコルサコフ症候群(→Wikipedia)が出てくる。私たちは多かれ少なかれ、常に自分を再構成している。このカラクリをチョイとイジると…
ムジカ・ムンダーナ / SFマガジン2019年6月号
 フィリピンのデルカバオ島は小さな島で、五百人ほどの住民はほぼ自給自足で暮らす。独特の文化があり、島の言葉は歌のようだ。高橋大河(だいが)は、音楽を聴くために島を訪れる。島で最も裕福な男が所有していて、これまで一度も演奏されたことがない音楽を。
 現代は録音技術・配信技術ともに発達し、好きな音楽はいつでも何度も聴けるし、毎日のように世界中の新しい音楽を見つけることができる。これは人類史上、極めて特異な状況で、音楽の価値は暴落しているのかも。語り口は大まじめだし、父と息子の関係は深刻なんだが、実はトボけたバカSFなんじゃないかって気がしてきた。
最後の不良 / Pen2017年11月1日号
 「流行をやめよう」が合言葉となり、MLS=ミニマム・ライフスタイル、無駄も自己主張もない風潮が世間を席巻した。その影響で総合カルチャー誌『Erase』は休刊に追い込まれる。編集者の桃山は辞表を出して会社を出た後、特攻服に着替え改造車に乗り込み首都高をトバす。特攻服も改造車も最後のヤンキーから譲り受けたものだ。
 掲載誌が違うせいか、他のシリアスな作品とは大きく異なり、コミカルな芸風の作品。「SFマガジン2021年6月号」収録の「SF作家の倒し方」も楽しかったが、これもなかなか。ちょっと「反逆の神話」を思わせるやりとりも楽しい。ほんと、流行って、何なんだろうね。プログレも賞味期限切れかと思ったら、本家の英国をよそに北米や北欧や東欧から面白いバンドが続々と出てきてるし。
嘘と正典 / 書き下ろし
 CIAモスクワ支局に本国から活動停止の命令が下ったすぐ後、工作担当員のジェイコブ・ホワイトに支局長から有望そうな話が舞い込む。情報提供の申し出だ。KGBの罠である可能性も考慮しつつ、≪エメラルド≫とコードネームをつけ、ホワイトらは慎重に対応を進める。
 1844年イギリスのマンチェスターにおけるフリードリヒ・エンゲルスの特別巡回裁判で始まった物語は、いきなり冷静時のCIAモスクワ支局に。ひたすら生真面目に研究を進めようとしつつも、あまりにも狂った体制に愛想をつかすペトロフの気持ちは、大きな組織に勤める者ならおもわず「うんうん、わかるわかる」と共感してしまうところ。とか思ってたら、終盤では大仕掛けを使った意外な方向へ。

 「魔術師」「ひとすじの光」「ムジカ・ムンダーナ」と、父と息子の関係を扱った作品が多いのは、何か意図があるんだろうか。緊張感が漂う「嘘と正典」もいいが、それ以上に「最後の不良」のコミカルな味が気に入った。こういう作品が書ける人は貴重なので、今後も期待してます。

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2021年8月 4日 (水)

新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新報社

私たちの日常で、大変な事が起ころうとしています。
  ――第1章 MARCHに合格 AIはライバル AIが仕事を奪う

論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 意味を理解しないAI

日本の中高生の読解力は危機的と言ってよい状況にあります。その多くは中学校の教科書の記述を正確に読み取ることができません。
  ――第3章 教科書が読めない 全国読解力調査 人間は「AIにできない仕事」ができるか?

【どんな本?】

 2011年より、著者は人工知能の開発に挑む。名づけて「ロボットは東大に入れるか」、俗称「東ロボ」(→プロジェクトホーム)。目的はコンピューター・プログラムで大学入試問題を解くこと、目標は東京大学に合格できる成績をあげること。

 さすがに東大合格ラインには届かなかったが、いわゆるMARCH(明治・青山・立教・中央・法政)の一部の学部には届いた。偏差値は57.1.少なくとも半数以上の受験生より優れた成績を残した。

 東ロボの思考法は人間と全く違う。そもそも東ロボは問題の意味をわかっていない。にもかかわらず、平均以上の成績を取れたのである。

 これに著者は危機感を抱く。問題の意味すら分からぬコンピューターが、並みの受験生より成績が良かった。では、東ロボ未満の成績しか取れぬ受験生は、どうなのか。そもそも、問題文の意味すら分かっていないのではないか。

 この仮説を確かめるため、著者は読解力を調べるRST(リーディングスキルテスト)を作り、中学生と高校生に受けてもらう。結果は仮説の支持するものだった。すなわち、中高生の多くは、文章の意味が分かっていない。

 コンピューター・プログラムとは何か。AIとは何を示し、どんな研究をされてきたのか。何ができて、何ができないのか。東ロボは、どんな手法を使っているのか。それは他のAIとどう違うのか。今後、AIは人間の社会をどう変えるのか。そして、これらの問題と、読解力にどんな関係があるのか。

 AIの基礎から現代日本の教育が抱える根本的な問題点、そして来る社会の大変革を語る、エキサイティングな科学・技術解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年2月15日第1刷発行。私が読んだのは2018年4月27日発行の第8刷。爆発的な売れ行きだなあ。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約275頁。9.5ポイント40字×16行×275頁=約176,000字、400字詰め原稿用紙で約440枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容は…プログラミングの経験者にはやたらわかりやすいんだが、経験のない人には数学とAIの関係が分かりにくいかも。数学→プログラム→AIが、なぜ・どうつながるか、その辺の説明が極めてかいつまんでいるので、人によってはピンとこないかも。特に最近のコンピューターはIMEやGoogleがやたら賢くなってるんで、仕組みが分かりにくいんだよなあ。

【構成は?】

 第1章と第2章はコンピューター&AIや東ロボの歴史と仕組み、第3章は日本人の読解力の現状、第4章は将来の話となる。第2章以降は前の章の知識を基礎としているので、素直に頭から読んだ方がいい。いや自分でディープラーニングのライブラリを使ってAIを作れるぐらい詳しいなら話は別だけど。

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  • はじめに
  • 第1章 MARCHに合格 AIはライバル
  • AIとシンギュラリティ
    AIはまだ存在しない/シンギュラリティとは
  • 偏差値57.1
    東大合格ではありません 「東大ロボくん」/プロジェクトの狙い/東大ロボくんがMARCHに合格したらどうなるか
  • AI進化の歴史
    伝説のワークショップ/エキスパートシステム/機械学習/ディープラーニング/強化学習
  • YOLOの衝撃 画像認識の最先端
    東大ロボくんのTEDデビュー/リアルタイム物体検出システム/物体検出システムの仕組み/AIが目を持った?
  • ワトソンの活躍
    クイズ王を打倒/コールセンターに導入
  • 東大ロボくんの戦略
    延べ100人の研究者が結集/世界史攻略/論理で数学を攻略
  • AIが仕事を奪う
    消える放射線画像診断医/新技術が人々の仕事を奪ってきた歴史/もう「倍返し」はできない/全雇用者の半数が仕事を失う
  • 第2章 桜散る シンギュラリティはSF
  • 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗
    東大不合格/東ロボくんにスパコンは要らない/ビッグデータ幻想/日米の認識の差/英語攻略は茨の道/200点満点で120点を目標に英語チーム結成/常識の壁/150億文を暗記させる
  • 意味を理解しないAI
    コンピューターは計算機/数学の歴史/論理と確率・統計
  • Siri(シリ)は賢者か?
    近くにあるまずいイタリア料理店/論理では攻略できない自然言語処理/統計と確率なら案外当たる
  • 奇妙なピアノ曲
    確率過程/自動作曲/とりあえず、無視する/「意味」は観測不能/やっぱり、私は福島にならない
  • 機械翻訳
    やふーほんやく⇒×/私は先週、山口と広島に行った。/オリンピックまでに多言語音声翻訳は完成するか/画像処理の陥奔
  • シンギュラリティは到来しない
    AIはロマンではない/科学の限界に謙虚であること/論理、確立、統計に還元できない意味
  • 第3章 教科書が読めない 全国読解力調査
  • 人間は「AIにできない仕事」ができるか?
    問われるコミュニケーション能力/日本人だけじゃない
  • 数学ができないのか、問題文を理解していないのか? 大学生数学基礎調査
    会話が成り立たない
  • 全国2万5000人の基礎読解力を調査
    本気で調べる/東ロボくんの勉強をもとに、リーディングスキルを開発/例題紹介
  • 3人に1人が、簡単な文章が読めない
    アレキサンドラの愛称は?/同義文判定ができない/AIと同じ間違いをする人間/ランダム率
  • 偏差値と読解力
    基礎的読解力は人生を左右する/何が理解力を決定するのか/教科書を読めるようにする教育を/AIに代替される能力/求められるのは意味を理解する人材/アクティブ・ラーニングは絵に描いた餅/「悪は熱いうちに打て」/現場の先生たちの危機感/処方箋は簡単ではない/AIに国語の記述式問題の自動採点はできない/いくつになっても、読解力は養える
  • 第4章 最悪のシナリオ
  • AIに分断されるホワイトカラー
    同志て三角関数を勉強しなきゃいけないの?/AIで代替できる人材を養成してきた教育/AI導入家庭で分断されるホワイトカラー
  • 企業が消えていく
    ショールーミング現象/AI導入で淘汰される企業
  • そして、AI世界恐慌がやってくる
    AIにできない仕事ができる人間がいない/私の未来予想図/一筋の光明
  • おわりに

【感想は?】

 これは意外な掘り出し物。

 世間で話題になったのは第3章、中高生の読解力を憂いた所だ。でも、実はAIというかディープ・ラーニングの優れた入門書でもある。ソコを説くのが、第1章と第2章。

 第1章では伝説のダートマス会議(→Wikipedia)とフレーム問題(→Wikipedia)による挫折、エキスパート・システムと知識表現による挫折、現代のディープラーニングによるAI、そして東ロボの概要へと続く。

 こうやって見ると、AIの歴史って挫折ばっかりだなw なお東ロボ、実は中の人が3人いるというか、三重人格だったり。教科ごとにプログラムが違うのだ。世界史はIBMのワトソン型(→Wikipedia)、数学は由緒正しい論理型、英語は強化学習型。なんかズルくね?

 とか言いつつ、私には東ロボ開発秘話の第2章がやたら面白かった。例えば、いきなりコレだ。

「そこそこのサーバーを使って5分で解けない問題は、スパコンを使っても、地球滅亡の日まで解けない」
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 漫画などで、スーパーコンピューターを使えば、どんな難問でも解けるかのように描かれることがある。でも、それは間違いだ。どんな問題でも、それを解くにはソフトウェア=プログラムが要る。そして、プログラムが作れない問題もあるのだ。とりあえず今のところは。

 この手の勘ちがいは漫画家だけでなく、有名なSF作家もしでかしている。かのR・A・ハインラインの傑作で映画にもなった「夏への扉」には、文化女中器が出てくる。家事ロボットだ。当時は弾道計算より家事の方が自動化しやすいと思われたのだ。だが、現実の21世紀、チェスの王者には勝てても炊事・洗濯・掃除は自動化できていない。

私たち人間が「単純だ」と思っている行動は、ロボットにとっては単純どころか、非常に複雑なのです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 何が自動化できて、何ができないか。これはヒトの直感と全く異なるのだ。これを見事に物語る、東ロボの英語対策の失敗は、世のプログラマなら身につまされるだろう。「こんなのフェアじゃありません」には腹を抱えて笑ってしまった。そこのプログラマ、きっとあなたにも身に覚えがあるはず。ここで得た教訓は…

英語チームが経験したような「失敗」は論文に掲載されることはありません。(略)
取り上げられるのは、ディープラーニングがうまくいったときだけです。(略)
どれだけ投資してもディープラーニングはうまくいかない、という情報こそが今まさに喉から手が出るほど必要なのではありませんか。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁 詰めこみ教育の失敗

 だよねー。世界中のバグのデータベースとかあれば、きっと面白いだろうなあ。

 総括として、現在のAIは…

AIには、意味を理解できる仕組みが入っているわけではなくて、あくまでも、「あたかも意味を理解しているようなふり」をしているのです。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF 意味を理解しないAI

現在の情報検索や自然言語処理は、基本的に論理で処理させることは当面諦めて、統計と確率の手法でAIに言語を学習させようとしています。
  ――第2章 桜散る シンギュラリティはSF Siri(シリ)は賢者か?

 要は機械に条件反射を仕込んでるんだな。ただし、コンピューターはすさまじく物覚えが悪い。犬やモルモットはせいぜい百~千回ぐらいで覚えるのに対し、コンピューターは百万とか億とかの回数を繰り返さなきゃいけない。そのかわり疲れたり飽きたりしないのがコンピューターのいい所なんだけど。

 だもんで、今のAI(というかディープラーニングや強化学習)は、既にある仕事を自動化・高速化するだけで、何か新しいモノを生み出すワケじゃない。

AIは自ら新しいものは生み出しません。単にコストを減らすのです。
  ――第4章 最悪のシナリオ 企業が消えていく

 もっとも、コストを減らすワケで、そのせいで仕事をAIに奪われる人が沢山でてくるぞ、と著者は警告している。正直、この辺、私は騒ぎ過ぎって気もする。だって Excel で算盤の技能は無用になったけど、事務の仕事は増えてるし。あなた、どう思います?

 もっとも、電子メールのお陰で読み書きの機会は増えた。ここで問題の第3章、読解力だ。問題が解けないんじゃない。そもそも問題の意味が分かってないんじゃないか、そういう危惧である。この本じゃ中高生を槍玉にあげてるけど、元中高生すなわち大人だって同じなのだ。 Twitter では有名人が頻繁にイチャモンをつけられているが、イチャモンの大半は元の文の意味が分かってなかったりする。

 そういう人の多くは、「文章」を読んでない。文の中の目立つキーワードを拾い、連想で意味を創り上げてる。困ったモンだが、じゃどうすりゃ読解力がつくのか、というと。

 「まず読書だろ」と考えがちだが、そうでもないのが意外だった。

読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎尾的読解力には相関はない
  ――第3章 教科書が読めない 全国読解力調査 偏差値と読解力

 本好きか否か、どれだけ本を読んでいるか、どんな本を読んでいるかは、関係ないのだ。少なくとも、自己申告で調べた限りでは。

 じゃお手上げかというと、これまたそうでもない。詳しくは戸田市の教育関係者に聴こう。

 とか書いてきたけど、最近の政治家の言動を見ると、むしろ質問の意図を理解しない能力こそが出世の秘訣と思いたくなるから、なんともはや。

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【今日の一曲】

Suddenly the Rain - Simon Says

 どうにも後味の悪い終わり方なんで、口直しに。スウェーデンの人だそうで、楽器や音創りは今世紀風なんだけど、曲作りは70年代~80年代の YES や Genesis 風という、時代錯誤感がたまらんです。

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2021年8月 2日 (月)

坪内祐三「靖国」新潮文庫

靖国神社の起源は、幕末の尊王攘夷運動の中で斃れた志士たちの霊を弔慰する目的で作られた招魂墳墓、招魂場にある。
  ――第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか

招魂社には当初、神官がいなかったのである。
  ――第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居

【どんな本?】

 靖国神社は、8月15日の政治家の公式参拝をめぐり、政治的な話題となりがちだ。だが、その靖国神社とは、どんな目的で建立され、どのような歴史を辿ってきたのか。なぜ九段坂のあの場所にあるのか。そして、建立以来、日本人は靖国神社をどう見て、どう受け止めてきたのか。

 東京の九段坂という土地に注目し、靖国神社発行の「靖国神社百年史」「事歴年表」はもちろん、大量の書籍・雑誌はては個人所有のスクラップ・ブックまでを漁り、明治維新以降の日本それも東京の文化史・精神史を探る評論。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は1999年1月に新潮社より刊行。2001年8月1日に新潮文庫で文庫化。私が読んだのは2006年7月25日の七刷。じっくりと売れてます。文庫で縦一段組み本文約334頁に加え野坂昭如の解説7頁。9ポイント39字×17行×334頁=約221,442字、400字詰め原稿用紙で約554枚だが、イラストや写真も多く収録しているので、実際の文字数は8~9割ぐらい。文庫では普通の厚さ。

 文章はやや硬い。いや著者の地の文は比較的に読みやすいのだ。だが明治時代の文章の引用が多く、現代文に慣れている私にはソコが少々シンドかった。とはいえ内容は素人にもわかりやすく書いてあるので、特に前提知識はいらない。せいぜい維新→明治→大正→昭和、ぐらいを知っていれば充分。また靖国神社周辺の地理に詳しいと、更に楽しめる。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に進むが、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

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  • プロローグ 招魂斎庭が駐車場に変わる時
  • 第1章 「英霊」たちを祀る空間
  • 第2章 大村益次郎はなぜその場所を選んだのか
  • 第3章 嘉仁親王は靖国神社がお好き
  • 第4章 招魂社から靖国神社へ、そして大鳥居
  • 第5章 河竹黙阿弥「島衛月白波」の「招魂社鳥居前の場」
  • 第6章 遊就館と観工場
  • 第7章 日露戦争という巨大な見世物
  • 第8章 九段坂を上る二人の男
  • 第9章 軍人会館と野々宮アパート
  • 第10章 力道山の奉納プロレス
  • 第11章 柳田國男の文化講座と靖国神社アミューズメントパーク化計画
  • エピローグ 「SUKIYAKI」と「YASUKUNI」
  • 文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて
  • 解説 野坂昭如

【感想は?】

 タイトルは「靖国」だし、確かに靖国神社が視点の中心にある。

 が、内容はあまり政治的じゃない。例えば各道府県にある護国神社は出てこない。著者の関心はむしろ文化的な面だ。それも東京を本拠地とする明治以降の文化人にこそ、著者の関心は向いている。

 それを示すのが、本書に出てくる人々だ。明治天皇などの政治家や大村益次郎などの軍人も出てくるが、圧倒的に多くの紙面を占めるのは、次のような文化人である。

 開国以来、日本には欧米の文明・文化が雪崩れ込んできた。庶民の生活や政治も変わってゆくが、美術・文筆・建築・舞台などの文化面での衝撃はそれ以上に大きかった。その結果、大きく分けて二つの流れが生まれてくる。

 ひとつは、積極的に欧米の文化を取り入れようとするもの。もう一つは、対象物・比較物としての欧米文化を得て、日本的な文化の神髄を見つめなおそうとするもの。両者は単純に対立するわけではない。多かれ少なかれ、何らかの形で欧米的な手法を取り入れていく。

 中には、新しく伝統を「創造」するものまで居る。その代表が相撲だ。それまで藩のお抱えだった力士たちは、政治体制の変化でパトロンを失う。そこで国技館をシンボルとして「国技」の伝統を創りだし、近代的な相撲界を生み出す(→「相撲の歴史」)。

 こういった東京を発信地とした維新以降の文化の歴史を、著者は九段から辿ってゆく。なんといっても、九段は維新政府の中枢である薩長の者が住む山の手から、旧幕府の支配下にあった下町を監視するのに格好の地だ。

九段坂は、東京の下町と山の手を分断する、まさにその境となる場所だった。
  ――第8章 九段坂を上る二人の男

 このように、靖国神社の元となる招魂社は、あからさまに政治的・軍事的な性質で建立される。祀られているのは、維新で戦死した薩長の軍人たちだ。幕府側は邪霊として祀られない。以後、西南戦争などの内戦でも、官軍の戦死者だけが祀られる。ここにはハッキリと維新政府の意向が出ている。

 これが変化するのは日清・日露戦争だ。以降は維新政府というより大日本帝国政府軍の戦死者が祀られる。内戦の季節を過ぎて統一国家の体裁が整った、そういうことだろう。

 だが、そんな政府や軍の思惑を置き去りにして、場としての靖国は意外な方向へと変わってゆく。なんと庶民の観光名所やアミューズメント・パークと化すのだ。

 なんたって広い。そこで相撲・競馬・勧工場(百貨店、→コトバンク)・ジオラマ・絵画・花火・プロレスなど、多くの庶民を集める見世物・興業が続々と開催される。伝統文化どころか、旺盛に欧米の文化・技術を取り入れた、最新の娯楽施設なのである。

明治初年代の靖国神社は、(略)モダンでハイカラな場所だった。
  ――第10章 力道山の奉納プロレス

 こう変わった原因を、著者は画家・高橋由一に求める。

高橋由一「霊場には必付属の遊興場あるへし」
  ――第6章 遊就館と観工場

 この辺、日本の特異な宗教観が現れているよね。維新政府も高橋由一も意識してなかっただろうけど。いやシナゴーグや教会やモスクに遊興場は要らないだろ普通。もっとも教会のパイプオルガンは極上の娯楽施設だと私は思うんだが、教会は決して認めないはずだ。

 そんな風に、意図せずに靖国神社は日本の伝統的な精神を体現する場になってしまった。お陰で、上記のリストのような文化人たちの足跡が残る。著者はソレを丹念に辿り、明治期の東京を中心とした日本文化の変転を描き上げ、本書として結実したのである。

 明治の、それも東京のハイソな文化にこだわる著者だからこそ描き得た靖国神社の歴史と実態は、終戦記念日に話題となる姿とは全く違ったものだった。これを踏まえて政治家たちの動きを評する“文庫版『靖国』の「あとがき」に代えて”は、なかなか痛快である。明治以降の日本の歴史を捉えなおし、「日本の伝統」の正体を見極める一助となる一冊だ。

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【終わりに】

 ところで、「エピローグ」にはボブ・ディランが登場する。ここで、私は考え込んでしまった。

 本書には多くの文化人が出てくる。その文化人たちの活躍の場は、いずれも東京なのだ。いや「靖国」だから当たり前なんだけど。

 対してアメリカはどうだろう? 私が好きなロックだと、例えば ZZ Top はテキサス、Blue Oyster Cult はニューヨーク、Van Halen はロサンゼルス、Grateful Dead はサンフランシスコと、実に地方色豊かだ。他にもシカゴ・ブルースやカントリー&ウェスタンのナッシュビル、ソウル・ミュージックのデトロイト(モータウン)など、ご当地音楽に事欠かない。

 土地の広さや州政府の自治権の強さ、小出力のFMラジオ局の乱立、そして州が集まって連邦国家ができた歴史など原因は様々だが、文化の発祥地の多さという根本的な豊かさは、とてもじゃないが日本が太刀打ちできるものではない。

 本書では明治天皇の行幸など、維新政府が日本を一つの国にまとめ上げようとした歴史も描いている。その過程で、文化的にも東京への一極集中が進み、地域の色は失われてしまった。

 まあジャズやロックも所詮は輸入物だし、そこに地域の色が入り込む余地は最初からなかったのかもしれない。でも、ビートルズ来日から半世紀も経って、いまだに地域のロックがないのは、どういうことなんだろう? 地域色を放っているのは、せいぜい沖縄ぐらいじゃなかろうか。

 などとウダウダ言ってるけど、要は「もっと色々な音楽が聴きたいぞ」と、そういうことです。まとまりがなくてすんません。

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