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2021年6月18日 (金)

リジー・コリンガム「大英帝国は大食らい」河出書房新社 松本裕訳

本書は、イギリスの食糧探求がいかに大英帝国の誕生につながったかを語る。(略)
各章で語られるのは別々の物語だが、そのすべてが、帝国の推進力の源泉が食にあったことを明らかにするテーマへとつながってゆく。
  ――はじめに

【どんな本?】

 レシピを集めたサイト cookpad には、在日英国大使館も寄稿している。その一つクリスマス・プティングは、英国大使館料理長が「英国の伝統的なクリスマスのデザート」と認めている。その材料の多くは輸入品だ。レーズンはオーストラリア、ナツメグはマレーシア、牛脂(スエット)はニュージーランド、オレンジピールは南アフリカ、砂糖とラム酒は西インド諸島、ブランデーはキプロス、卵はアイルランド。

 イギリスは帝国へと成長する過程で、植民地から様々な食材を調達し、自国の料理に取り入れ、また植民地にも自国の料理を広めてゆく。中にはカレーや紅茶のように、世界中に広がっていったものもある。と同時に、植民地を帝国の部品の一つとするために産業構造・社会構造を大きく変え、また各地の伝統料理も改造し、または滅ぼしていった。

 親しみやすい料理をテーマとして、その材料がどこでどう作られ流通し、その過程で英国や生産地にどんな影響を及ぼしたのかを描き、大英帝国をモデルとして現在の食のグローバル経済の歴史をたどる、美味しくて少し苦い一般向けの歴史書。

 なお「イギリスとその帝国による植民地経営は、いかにして世界各地の食事をつくりあげたか」の副題がついている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Hungry Empire : How Britain’s Quest for Food Shaped the Modern World, by Lizzie Collingham, 2017。日本語版は2019年3月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約336頁に加え、訳者あとがき3頁+藤原辰史の「皿の上の帝国主義 解説にかえて」4頁。9ポイント44字×21行×336頁=約310,464字、400字詰め原稿用紙で約777枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章は硬くはないんだが、少々ぎこちない。これは訳者のクセだろう。内容はわかりやすい。ただ、スエット(牛脂)やスグリ(→Google画像検索)など、料理に疎い者にはわからない素材がよく出てくる。というか、私は知らなかった。

【構成は?】

 ほぼ時系列順に話が進む。が、各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。

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  • はじめに
  • 第1部
  • 第1章 ポーツマスの港に居停泊したメアリー・ローズ号では魚の日だった話
    1545年7月18日土曜日/ニューファンドランドの塩ダラはいかにして帝国の基礎を築いたか
  • 第2章 ジョン・ダントンがオートケーキとバターで似たノウサギをコンノートの山小屋で食べた話
    1698年/アイルランドはいかにしてイングランド人に入植され、食料供給基地となって擡頭する帝国の台所となったか
  • 第3章 ホロウェイ一家がトウモロコシ粉のパンと塩漬けの牛肉入りサコタッシュをニューイングランドのサンドイッチで食べた話
    1647年6月/自由農民の夢を追い求めたイギリス人は、いかにして妥協を強いられたか
  • 第4章 ジェームズ・ドラックス大佐がバルバドス島のサトウキビ農園で宴を催した話
    1640年代/西インドのサトウキビの島々はいかにしてイギリス第一帝国の成長を促進したか
  • 第5章 ラ・ベリンゲールがアフリカ西岸でシェール・ミシェル・ジャジョレ・ド・ラ・クールブをアメリカ産のアフリカ料理でもてなした話
    1686年6月/西アフリカはいかにして人間をトウモロコシとキャッサバに換えたか
  • 第6章 サミュエルとエリザベス・ピープスがコヴェント・ガーデンのフレンチレストランでピジョン・ア・レステューヴェとブッフ・ア・ラ・モードを食した話
    1667年5月12日/イギリス人はいかにしてコショウによってインドに導かれ、インド更紗と紅茶に出会ったか
  • 第2部
  • 第7章 レイサム一家がランカシャー州スキャリスブリックで牛肉とジャガイモのシチュー、糖蜜がけプディングを食べた話
    1748年1月22日/イングランドの地方労働者の貧しさはいかにして大規模食糧生産につながったか
  • 第8章 奴隷の一かがサウスカロライナのミドルバーグ農園でトウモロコシ粥とフクロネズミを食べた話
    1730年代/サウスカロライナのアメリカ人入植者はいかにしてアフリカの米によって築かれたか
  • 第9章 レディ・アン・バーナードが喜望峰への船旅で絶品の夕食を楽しんだ話
    1797年2~5月/帝国はいかにして供給産業を奨励したか
  • 第10章 自由の息子たちがボストンのマーチャンツ・ロウにあるゴールデン・ボール亭でラム・パンチを飲んだ話
    1769年1月のある寒い晩/ラム酒はいかにしてアメリカ人入植者を団結させ、イギリス第一帝国を崩壊させたか
  • 第3部
  • 第11章 カマラがビハール州パトナ近郊で家族のために料理をした話
    1811年2月/東インド会社はいかにしてアヘンを茶に変えたか
  • 第12章 サラ・ハーディングと家族がニュージーランドのホークス・ベイ、ワイパワでおいしい食事をたらふく食べて太った話
    1874年7月29日/飢えはいかにして19世紀のヨーロッパ人大移住を加速させたか
  • 第13章 フランク・スワンネルがブリティッシュ・コロンビアで豆のシチュー、種なしパンとプルーンパイを食べた話
    1901年11月15日/加工食品はいかにして家庭を意味する魔法のシンボルとなったか
  • 第14章 ダニエル・タイアーマン牧師とジョージ・ベネット氏がソシエテ諸島のライアテア島でティーパーティーに出席した話
    1822年12月4日/ヨーロッパからの食料品のお普及はいかに味覚を植民地化していったか
  • 第4部
  • 第15章 ダイアモンド鉱山労働者たちが雨季にガイアナの酒場でイグアナカレーをこしらえた話
    1993年/非ヨーロッパ人たちはいかにしてイギリス人のために南国食材を生産する大規模農園で働くべく移住してきたか
  • 第16章 バートン家がマンチェスターのロンドン・ロードにあるスラム地区でウィルソン家をお茶でもてなした話
    1839年5月/労働者階級のパンを焼くための小麦はいかにしてアメリカ人と入植地で作られるようになったか
  • 第17章 プラカーシュ・タンドンがマンチェスターの公営住宅で大家の一家と日曜日のローストを楽しんだ話
    1931年/外国からの食糧輸入はいかにして労働者階級の食生活を改善し、イギリスを帝国に依存させたか
  • 第18章 イリオのレシピが変わった話
    ケニア、1900~2016年/帝国はいかにして東アフリカの自給農家に影響を与え、植民地の栄養不足を招いたか
  • 第19章 歩兵のR・L・クリンプが北アフリカの砂漠にある前線野営地で缶詰牛肉とサツマイモを食べた話
    1941年9月/帝国はいかにして第二次世界大戦中に英国を支えたか
  • 第20章 オールドノウ氏が帝国のプラムプディングを作る夢を見た話、およびブリジット・ジョーンズが新年にウナ・オルコンベリー主催の七面鳥カレービュッフェの昼食会に出席した話
    1850年12月24日/1996年1月1日/クリスマス料理はいかにして帝国をイギリスの家庭へと持ち込んだか
  • 謝辞/訳者あとがき
  • 皿の上の帝国主義 解説にかえて 藤原辰史
  • 註/参考文献/図版クレジット

【感想は?】

 イギリスの食卓が、どうやってできたかの話だ。だが、現在となっては、日本の食卓の話でもある。なにせ食料自給率は40%を切っている(→農林水産省)。飼料自給率に至っては25%だ。日本の食卓も、外国に頼り切っているのだ。

もっとも、日本の食糧自給率が低いのは今さらの話ではなく、戦前から低かったんだけど(→「ラーメンの歴史学」)。

 物語は16世紀から始まる。

大英帝国は、ニューファントランドの岩がゴロゴロする浜辺で生まれた。
  ――第1章

 ニューファンドランド、カナダ東岸の島。この沖グランド・バンクスは今でも豊かな漁場として名高い。ここのタラに目をつけたイギリスの漁師たちが遠征してタラを捕りまくり、英国海軍の胃袋を支えたのだ。漁師たちのバイタリティは凄い。最初に到着した船の船員は森から木を伐りだし、桟橋や小屋そしてボートまで現地で作りあげる。なんという逞しさ。

 だが農民たちは囲い込み(→世界史の窓)で食い詰める。自分の土地を得て腹一杯食うためにニューイングランドに入植した者たちは、原住民の農法やレシピを真似ながらも彼らから土地を奪い、次第に夢を実現してゆく。

アメリカの栄養がすぐれていたことは、独立戦争時のアメリカ兵の身長を見ればわかる。イギリス人兵士と比べると、彼らは平均して約9cmも高かった。
  ――第3章

 昔からアメリカ人はデカかったんだなあ。こういう身長の話はなかなか身に染みて、19世紀になっても…

(イギリスの)工業都市に住む労働階級の思春期の男子は、恵まれた環境の同年代の男子よりも平均してなんと10インチ(約25.5cm)も背が低かった。
  ――第16章

 なんて切ない話も出てくる。本国でさえこうなんだから、植民地の現地人については言うまでもない。

 対して新大陸南部というか西インド諸島に移民した者は、サトウキビで稼ぐ。そこで働くのは、西アフリカから連れてきた奴隷たちだ。その奴隷にしても、ヨーロッパ人が自分で調達するわけじゃない。西アフリカには、既に奴隷市場があったのだ。

(アフリカに)奴隷を探してやってきた彼ら(ヨーロッパ人)は、すでに確立されていた貿易制度に参入することになったのだ。実際、奴隷はアフリカ社会という織物に欠かせない要素であって、単なる動産ではなかった。
  ――第5章

 市場なだけに、ちゃんと需給は調整されている。

意外なことに、人口統計を見ると西アフリカの人口は、奴隷貿易のおこなわれていた300年間で増えなかったものの、安定していたことがわかる。
  ――第5章

 なぜか。新大陸に売られた奴隷のうち「女性は1/4程度しかいなかった」から。嫌な例えだが、一般に牛や羊などの家畜は雄より雌の方が値が張る。子を産むからだ。実際、奴隷たちは消耗品扱いで、「平均余命はたったの七年」。

 その見返りってワケでもないが、アフリカには新大陸からトウモロコシとキャッサバが入ってくる。今、調べたら、キャッサバ生産の世界一はナイジェリア(→Wikipedia)。それは同時に、この地域の伝統的な粟料理を駆逐した事でもある。そういやウガンダじゃバナナが大モテだった(→「バナナの世界史」)。

 そのトウモロコシ、カロリーが高いのはいいが、アルカリで処理しないとナイアシンが不足しペラグラ(→Wikipedia)を引き起こす。新大陸の者は消石灰で煮る調理法で防いでいたが、調理法までは伝わらなかった。「紙と人との歴史」にあるように、モノは伝わっても、技術や製法は伝わりにくいのだ。

 もっとも、アフリカも作物を輸入するだけではなく、輸出もしている。その代表が、意外なもの。

革命(1775年のアメリカ独立戦争)時、米がすべての北米入植地でタバコと小麦粉に次いで三番目に貴重な輸出品だったのも頷ける。
  ――第8章

 そう、米だ。しかも陸稲ではなく水稲。水稲栽培には高い技術とインフラが必要なんだが、奴隷たちが故郷から持ち込んだらしい。現場の者に任せた方が上手くいく場合もあるのだ。

 そうやって力をつけた北米植民地は、ラム酒の勢いもあって独立へと突き進む。

(アメリカの)地元の法廷審問は居酒屋の別室でおこなわれることが多く…
  ――第10章

 自分の土地を持ち豊かになるチャンスがある北米やニュージーランドに、イギリスの農民は移り住み、ヨーロッパ式の農法を広めてゆく。

19世紀を通じて、ヨーロッパからの移民は世界の耕作地や生産性の高い牧草地を拡大し、15~20億エーカー(600万~810万㎢)ほど増やした。これが農業生産に多大な影響を与え、19世紀の最後の四半期に誕生した新たな世界食糧体制の基礎を築いたのだった。
  ――第12章

 それでも故郷の味は懐かしい。とはいえ、気候も植生も違う植民地じゃ、故郷のレシピを再現するのは難しい。大英帝国は国際貿易の中心地で様々なモノが集まるが、辺境の植民地には回ってこない。この問題を解決したのが、食品の保存技術、すなわち缶詰だ。

缶詰食品に対する(イギリス)国内の反応はいまひとつだったかもしれないが、植民地では熱狂的に歓迎された。
  ――第13章

 日本じゃ客をもてなす料理に缶詰を使うのはあまり喜ばれないが、アメリカじゃそうでもないらしいのは、こういう歴史的経緯があるためだろうか。そういや「ナイル自転車大旅行記」では、エジプトの奥様が著者を鰯の缶詰でもてなしていた。

 この傾向を更に助長したのが、冷蔵技術。南米アルゼンチンで育てた牛の肉を、大西洋を越えイギリスまで腐らせずに船で運ぶ技術は、アルゼンチンを「世界で九番目に豊かな国」へと育て上げ、イギリスでも庶民が肉を食べられるようになる。

1890年代までに、イギリスは世界中で取引される食肉の60%を吸収していた。
  ――第17章

 ここでは地元の肉屋が示す冷凍肉への反発と、そのスキにチェーン店を展開するアメリカ等の精肉会社、逆に植民地に農園と工場を作る食料雑貨店の話が面白い。現代の産地から店舗までつながる国際サプライ・チェーンは、19世紀に生まれているのだ。

 もっとも、そういう故郷の味を世界中に持ち込めるのはいいが、現地の味を滅ぼしていくことにもなる。

白人入植者の大流入は、やがて伝統的な暮らしを忘れさせていった。(略)
北米の豆やカボチャ、トウモロコシ、プレーンズ・インディアンの塩漬けバッファロー肉、
マオリ族のシダの根やタロイモ、サツマイモ、
アポリジニのアシの根茎で作ったダンパーやカエルの丸焼き、
こうしたものがすべて、味気なく洗練されてもいない開拓者の食事に淘汰されてしまった。
  ――第14章

 加えて、植民地同士の味の交流も増えるのが面白いところ。産業革命で大英帝国は更に発展するが、そのあおりを食らう者たちもいる。

イギリス国内に独自の大量生産可能な紡績工場ができ、(略)安価なマンチェスターの綿がインドに流れ込み、(インドでは)何百万人もの手工芸職人が職を失った。
  ――第15章

 職を失ったインド人たちは、仕事を求めて他の植民地に稼ぎに行く。大英帝国が奴隷貿易を禁じたため、植民地では働き手を求めていたのだ。故郷の味が恋しいのは白人ばかりじゃない。彼らは移り住むと共に自国の料理も植民地へと広げてゆく。

 そうやって食のグローバル化が進み、農産物は商品化して価格の変動が大きくなる。植民地では換金作物の栽培や一つの産業への集中が進む。巧くいってる時はいいが、ひとたびコケると…

1875年から1914年の間には、1600万人ものインド人が飢餓で命を落としている。(略)
自由市場がなんの制御もなく機能し、商人たちが最も高値をつける外国の入札者に小麦粉を売り続け、インフレによって貧困層が食べ物を買うことができなくなったためなのだ。
  ――第16章

 現在でも、独立した植民地が発展に苦労している原因の一つがこれだ。英帝国は大きな機械みたいなモンで、各植民地はその部品だった。部品に過ぎない植民地は、大戦後に政治的に独立しても、経済的には宗主国に依存したまま。

(第二次世界大戦中の)イギリスはヨーロッパの端にぽつんと浮かぶ小さな島だったのではない。兵士や武器、弾薬、原材料、そしてなんといっても食料を調達する強力なネットワークの中核だったのだ。
  ――第19章

 ドイツ海軍のUボートが脅威だった理由も、ネットワークを切り刻んだためだ。これに対応するためチャーチルはインド洋の船舶を大西洋に回す。当然ながらインド洋の輸送はひっ迫し…

北アフリカ戦線でい命を落とした連合軍の歩兵は3万1千人を少し超えるぐらいだったが、飢餓と栄養失調で死んだベンガル人の数はおよそ300万にのぼった。
  ――第19章

 ベンガルの飢餓は知らなかったなあ。そりゃガンジーも縁を切りたがるよね。

 なお、戦中・戦後に船舶が足りず人々が飢えたのは太平洋も同じ。敗戦後に日本が飢えたのは皆さんご存知だが、インドシナも飢えている。原因の一つは船舶の不足だが、大日本帝国が米どころのビルマやベトナムに換金作物の麻栽培を押しつけたのも大きい。帝国の崩壊は物流ネットワークをズタズタにして、特定の産業に特化した地域も苦境に陥れるのだ。

 食のグローバル化は私たちの食卓を豊かにする面もあるが、同時に地域の独立性を奪い伝統的なレシピをすりつぶしてゆく。大英帝国をモデルとして個々の食卓を描きつつ、その材料の由来やレシピが生まれた背景を掘り下げることで、トラファルガー海戦などの表向きの歴史が大洋の向こうに与える影響も見えてくる。

 各章には主題となる料理のレシピも出ていて、これもなかなか楽しい。中にはウミガメとか無茶な素材もあるけどw どんな味なんだろう?

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