« 劉慈欣「三体」早川書房 立原透耶監修 大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳 | トップページ | アントニー・ビーヴァー&リューバ・ヴィノグラードヴァ編「赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45」白水社 川上洸訳 »

2021年4月23日 (金)

ジェイムズ・クラブツリー「ビリオネア・インド 大富豪が支配する社会の光と闇」白水社 笠井亮平訳

超富裕層の台頭、格差がもたらす複合的問題、企業が持つ強固な権力――本書はインドの現代史のなかで決定的な意味を持つ、これら三つの要素を描き出してゆく。
  ――序章

メディアをめぐるインドの状況はとにかく大規模かつ複雑で、新聞は8万2千紙、テレビは900局近くにのぼり、大半が英語以外の言語だ。
  ――第11章 国民の知る権利

【どんな本?】

 2016年11月8日、インド首相のナレンドラ・モディ(→Wikipedia)は、何の前触れもなく衝撃的な政策を発表する。

「腐敗の蔓延を断ち切るべく、現在流通している500ルピー紙幣(約7ドル)と1000ルピー紙幣(約14ドル)は今晩零時をもって法的紙幣としての効力を失うとの決定を下しました」
  ――第5章 汚職の季節

 いきなり高額紙幣を紙切れに変えてしまったのだ。無茶苦茶なようだが、これには現代インドの政界・財界の深刻な現状に対するモディなりの真摯な対策でもあった。

 幾つかの点で、インドは中国に似ている。人類文明の黎明期にまで遡る悠久の歴史。第二次世界大戦後の建国。広大でバラエティに富む国土と民族。13億5千万もの膨大な人口。そして政府による統制経済から自由主義経済の導入に伴う、目覚ましい経済成長。

 と同時に、大きく異なる点もある。最大の違いは、インドが民主主義である事だろう。強固な共産党一党支配が続く中国に対し、インドは独立当時から普通選挙による民主主義を貫いてきた。

 今世紀の前半において最も高い経済成長が期待されるインドだが、ロシア同様に巨大な経済格差が広がりつつもあり、社会的にも経済的にも懸念は尽きない。政治的にも、初代首相のジャワハルラール・ネルー率いる国民会議が支配的な地位を占めていたが、2014年からインド人民党のナレンドラ・モディが首相となり、新たな潮流を成しつつある。

 インドの政界と財界は、どんな関係なのか。なぜ現在のような関係が生まれたのか。インドの社会主義はどのようなもので、自由主義経済の導入はどのように行われたのか。その過程で、どんな問題が起きているのか。そして、今後もインドは成長を続けられるのか。

 ファイナンシャル・タイムズ紙ムンバイ支局長を務めたジャーナリストの著者が、成長するインド経済を率いる大富豪たちやモディ首相を筆頭とする政界の大物たちを追い、インド経済の現状とその歴史を語り、未来のインドを描こうとする、政治・経済ルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Billionaire Raj : A Journey Through India's New Gilded Age, by James Crabtree, 2018。日本語版は2020年9月10日発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約420頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×20行×420頁=約386,400字、400字詰め原稿用紙で約966枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章は比較的にこなれていて親しみやすい。内容も、各章の扉に地図があるなど、親切でわかりやすい。日本人には馴染みのないインドの政界・財界の話だが、いずれも丁寧な紹介があるので、素人でも大丈夫。ただし、地名や人名などの固有名詞が、慣れないヒンディー語だったりするので、覚えるのにちと苦労した。冒頭の「主要登場人物」は何度も見返すので、栞を挟んでおこう。また、「第10章 スポーツ以上のもの」はクリケットのネタなので、クリケットに詳しい人は楽しめるだろう。

【構成は?】

 各章の繋がりは穏やかだ。なので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいいが、できれば頭から読んだ方がいい。

クリックで詳細表示
  • 主要登場人物
  • プロローグ
  • 序章
  • 第1部 泥棒貴族
  • 第1章 アンバニランド
  • 第2章 栄光の時代の幕あけ
  • 第3章 ボリガルヒの台頭
  • 第2部 政治マシーン
  • 第4章 「モディファイ」するインド
  • 第5章 汚職の季節
  • 第6章 金権政治
  • 第7章 南インド式縁故主義
  • 第3部 新・金ぴか時代
  • 第8章 債務の館
  • 第9章 苦悩する豪商
  • 第10章 スポーツ以上のもの
  • 第11章 国民の知る権利
  • 第12章 モディの悲劇
  • 終章 革新主義時代は到来するか?
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/原注

【感想は?】

 政治と経済の本だ。もっと言うと、経済に重点を置きつつ、政治、というか政界との関わりも見る、そんな本だ。

 この手の本は大雑把に二種類ある。「ショック・ドクトリン」のように現状を描く新聞や週刊誌的な本と、「国家はなぜ衰退するのか」のように原理・原則を探る教科書的なものと。

 本書は前者、つまり現状報告に近いが、教科書的に原理原則を語る部分もある。分量にすると8割が現状報告、2割ぐらいが教科書かな。

 右派・左派だと、穏やかな右派だろう。あくまでも主題は国家の経済成長だ。貧富の差も懸念しているが、それは貧富の差が経済成長を妨げるからだ。目的は国家の経済成長であって、貧富の差を減らすのは手段に過ぎない。終盤では腐敗を扱っているが、「ある程度は仕方ない」という姿勢だ。「発展途上の国家に腐敗は付き物で、少しなら有益ですらある。酷すぎると害だけど」、そういう姿勢だ。ちなみにニューディール政策には好意的。

 さて。冒頭では軽くインドの歴史に触れる。ここでいきなり驚いた。

17世紀後半、イギリスがインド沿岸部でわずかに数カ所の都市を支配しているにすぎなかったころ、ムガル帝国は世界全体のGDPの1/4近くを手にしていた。それが1947年の独立から間もなく、イギリス軍が完全撤退したころには、その割合は4%になっていた。
  ――序章

 もともとインド(というかムガル帝国)は強国だったのだ。にしても、分母すなわち世界全体の経済が成長したのもあるだろうが、1/4から1/25とは。

 それでも、成長できる底力はあるのだ。「ルワンダ中央銀行総裁日記」などから見えるアフリカ諸国とは、社会構成が違う。アフリカでは商業が未発達だが、インド商人は南アジアからアフリカまで、世界中で活躍している。

 また、人口構成でも、少子高齢化が進む中国と違い…

インド総人口の半分以上が25歳以下である。
  ――第2章 栄光の時代の幕あけ

 と、今後の市場の拡大も期待できる。もっとも、同時に、そういった若い世代に、いかに職を与えるかって課題もあるんだけど。加えて、富の極端な偏在も深刻だ。

GDPに超富裕層の資産が占める割合を計算したところ、インドはロシアに次いで二位だった
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 ロシアの酷さは別格で、「ショック・ドクトリン」や「強奪されたロシア経済」に詳しい。要はソ連崩壊のドサクサにまぎれた火事場強盗ね。インドも経済の自由化に伴う現象って点は似ている。

「土地、天然資源、政府との契約もしくはライセンスという三つのファクターが、インドの億案長者が持つ富の圧倒的に大きな源泉なのです」
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

「すべての主要インフラ企業には、二つの興味深い共通点ある。一つは政治家かその近親者によって経営されているという点。もう一つは公共セクターの金融機関から莫大な額の借り入れをしているという点だ」
  ――第7章 南インド式縁故主義

投資銀行のクレディ・スイスは、インドの大規模上場企業のうち2/3が同族経営だと算出し、規模の大きい世界各国の市場のなかで最大の比率になっていると算出した。
  ――第9章 苦悩する豪商

 要は政治家と経営者の癒着ですね。これには大きく二つの理由があって、一つは民主主義だって点。選挙で勝つにはカネがかかる。だから政治家はカネが必要。そこで企業経営者と取引するワケです。これはアメリカなど、どの国でも見られる現象。

 もう一つは元社会主義的な国だったって点。起業しようにも規制がガチガチで、大量の許可を得なきゃいけない。インドのお役所の動きの鈍さは、バックパッカーなら「ノープロブレム」の連続で身に染みてる。というか貧乏旅行者が感じる役人のやる気のなさは、かつての中国の「没有」も有名で、これは共産主義・社会主義国に共通してるんだろう。

2016年に当時の最高裁長官が涙ながらに訴えたように、審理中の案件が3300万件にものぼっている。別の判事の指摘によると、現在のペースで進められた場合、すべての案件の審理を終えるのに300年かかるという。
  ――第12章 モディの悲劇

 もっとも、インドの場合、役人に鼻薬を利かせりゃ上手くいくあたりは融通が利くというかなんというか。更に早く動かしたければ、トップの政治家にドカンと払い、政治力で突破すりゃいい。そんなんだから、インド人は政治家を実行力で評価する。

2014年に当選した下院議員のうちざっと1/5が誘拐や恐喝、殺人といった「重大な」犯罪歴を持つ者で、この割合は10年前と比べてほぼ倍増している。(略)
犯罪容疑をかけられている候補者が当選する確率は犯罪歴のない候補者よりも三倍高くなっている。
  ――第6章 金権政治

 強引であろうとも、モノゴトを動かせる者は頼もしい、そういう価値観だ。昔の自民党もそうだったね。「仁義なき戦い」を読むと、ヤクザと癒着どころかヤクザが政治家やってたりするし。

 これに加え、グローバル経済の影響もある。

国際貿易のなかで扱われるすべての物品とサービスの半分以上が比較的少数の巨大多国籍企業で行き来している
  ――第3章 ボリガルヒの台頭

 例えばハイデラバードは英語力を活かしたコールセンターなどで成長してるけど、取引してるのはマイクロソフトなどの巨大多国籍企業だ(→Wikipedia)。貿易が増えれば経済も成長するけど、成長の半分以上は巨大資本が吸い取っていく。つまり金持ちの所に金が集まるわけ。これを是正しようにも、役所はガバガバで…

額の多寡に関係なく所得税を納めているインド人はわずか1%しかおらず、収入1000万ルピー(15万5千ドル)以上の者の中ではわずか5000人…
  ――終章 革新主義時代は到来するか?

 ガチガチに規制をかあけてるクセに金の流れはガバガバってのは旧ソ連も同じだったなあ。なんなんだろうね、こういうバランスの悪さ。本書じゃ「無理に規制すると裏技が発達する」みたく説明してる。アメリカの禁酒法でマフィアが稼いだようなモンかな?まあいい。これは金融業界も同じで…

「債務の館」企業10社の借入金は、まったくもって次元の違うスケールだった。債務額を合計すると840億ドルにもなり、これは銀行業界全体の総貸出額の1/8以上にもなったのである。
  ――第8章 債務の館

 発電所を作るにせよ、道路を通すにせよ、元手が要る。インドの起業家たちはコネを使って公営銀行からカネを借りた。銀行は借り手の懐具合をロクに調べもせず貸した。結果、不良債権が膨れ上がった。これを当時のインド準備銀行総裁ラグラム・ラジャンは苦労して調べ上げたんだが…

「わたしたちが次に直面したのは、問題が存在することを彼ら[銀行]に認めさせることでした」
  ――第8章 債務の館

 独ソ戦末期のヒトラーとか、太平洋戦争末期の大日本帝国上層部とか、権力者なんていつもそんなモンだ。我が国の現内閣も新型コロナに関してはコレだよなあ。この辺は「愚行の世界史」が楽しいです。まあ、どんな組織でも、上昇期に出世する人ってのは、楽観的な見積もりで攻撃的な手を好むんだよね。お陰で情報ネットワークのインフラ担当者とかはセキュリティ対策の予算獲得に苦労するんだけど。

 これを本書は「計画錯誤」(→NIKKEI STYLE)としている。「鉄鋼需要は永遠に増え続けるから製鉄所をガンガン作れ、石炭はずっと安いから発電所は作るだけ儲かる」みたいな見通し。景気がいい時はそれで巧く行くけど、ブレーキがかかったらボロボロになる。今のモディ政権は、そういう苦境に立ってる。

 加えて、モディ政権の支持層も、問題を抱えてる。ドナルド・トランプが狂信的な福音派を支持母体にしたように、モディも原理主義的なヒンディーの支持を頼りにしてて、著者はそこを危ぶみつつも…

インドが豊かになるにつれて、総じて暴力を伴う事件は減少していった。過去数十年間で宗教対立による暴動発生率は着実に減少しているのである。たとえそうであっても、ヒンドゥー狂信者ら――ほぼ全員がモディ支持者――による憂慮すべき事件が2014年以降増加しているのも確かだ。
  ――第12章 モディの悲劇

 と、「もう少し見守ろう」みたいな態度だ。そういったお堅い内容だけでなく、「第10章 スポーツ以上のもの」では、イギリスの遺したもう一つの遺産クリケットを巡る国際的な醜聞も扱ってる。

 日本人には馴染みがないクリケットだけど、インド・パキスタン・オーストラリアなど旧イギリス植民地じゃ国際的な人気スポーツなのだ。中でもインドは野球におけるアメリカのように強くて市場もデカく、よって国際クリケット界でも図抜けた発言力を持つ。そういう「私たちの知らない世界」が見えるのも楽しいところ。いや知ったからどうなるって事もないんだけど。

 なお、その市場のデカさは社会主義から自由主義への移行に伴うインドのクリケット界の市場開拓努力が功を奏した結果。目ざとくチャンスを見つけテレビ局と契約を結びイベントを催して盛り上げたのだ。このあたりは国家の体制とスポーツ・ビジネスの関係が見えて、なかなか楽しかった。似たような問題は中国の卓球でもあるんだろうか。

 また、本好きとしては、インドの出版状況のネタも。

ベストセラー作家アミーシュ・トリパティ「10年くらい前までは、インドの出版業界と言っても『インド』というのは名ばかりだったんです」
「イギリスの出版業界がたまたまインドに拠点を置いている、というのが実情でした」
  ――第11章 国民の知る権利

 このトリパティさんのベストセラーは「ヒンドゥー教のシヴァ神を題材にとった神話サスペンス小説三部作」って、中国の封神演義や吉川英治の三国志みたいなのかな? なんにせよ、インドじゃ娯楽小説の市場が広がりつつあるそうで、ならいずれ「三体」並みの傑作SFも…と期待しつつ、今日はここまで。

【関連記事】

【今日の一曲】

Tu Meri Full Video | BANG BANG! | Hrithik Roshan & Katrina Kaif | Vishal Shekhar | Dance Party Song

 インドで思い浮かぶのは、やっぱり To Me Ri でしょう。火柱がドッカンドカンと燃え上がるなか、ノリのいいリズムと覚えやすいメロディをバックに、イケメンと美女を中心に大人数が、やたらキレのいい、でも微妙にブロードウェイとは違うダンスを踊りまくる、踊るドラッグみたいな動画です。歌はヒンディー語らしく、何言ってんだかサッパリわかんないんだけどw

|

« 劉慈欣「三体」早川書房 立原透耶監修 大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳 | トップページ | アントニー・ビーヴァー&リューバ・ヴィノグラードヴァ編「赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45」白水社 川上洸訳 »

書評:ノンフィクション」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 劉慈欣「三体」早川書房 立原透耶監修 大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳 | トップページ | アントニー・ビーヴァー&リューバ・ヴィノグラードヴァ編「赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45」白水社 川上洸訳 »