サム・キーン「空気と人間 いかに<気体>を発見し、手なずけてきたか」白揚社 寒川均訳
私が望んでいるのは、本書によってあなたが抱いていた気体のイメージが修正されることだ。
――はじめに 最後の息隣人と出会うとき、気体分子は互いに衝突し、四方八方に跳ね返る。(略)その速度は、たとえば摂氏22度の空気の分子であれば、平均して時速1600キロにもなる。
――第1章 初期地球の大気それ(約6億年前)以降の数億年の酸素濃度は、15%まで下がったと思ったら35%まで上昇といったように、酔っ払いの千鳥足のようにふらふらと推移した。
――第3章 酸素の呪いと祝福平均的な大人であれば、常に20トンの力が体の内側に向かってかかっている。
――第5章 飼いならされた混沌水の温度を一度上げるのと、100度の水を蒸気に変えるのでは、必要とする熱量に5倍もの差があるのだ。
――第5章 飼いならされた混沌固体や液体の場合、ものが違えば共通点はほぼない(略)。だが気体は、お互いに信じられないほど似通っている。化学的にそうであるとは言えないとしても、少なくとも物理的には、すべての気体は同じようにふるまうのだ。
――第6章 空に向かって近年、ハリケーンで死亡する確率が1900年の1%にまで減ったのは、気象学者のおかげである
――第8章 気象戦争温室効果ガスがなければ、地球の平均気温はマイナス18度、氷点を下回る。
――第9章 異星の空気をまとう
【どんな本?】
空気。約78%の窒素、約21%の酸素、約1%のアルゴン、そして二酸化硫黄・硫化水素・二酸化炭素・アンモニア・メタン・エタノールなどの微量成分を含む。
日頃から特に意識もせずに吸い込み吐き出している空気は、いつ・どのように出来上がったのか。空気が含む様々な成分は、それぞれどこから生まれ、どんな性質を持ち、どんな働きを担っているのか。いつ・だれが・どうやって、空気の成分を見極めたのか。
原始地球の大気から化学肥料と毒ガスの発明、人体発火現象からロズウェルのUFO、おなら芸人から最新天文学による異星探索まで、気体にまつわる科学と歴史の面白エピソードを集めた、一般向けの楽しい科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Caesar's Last Breath : Decoding the Secrets of the Air Around Us, by Sam Kean, 2017。日本語版は2020年12月21日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本約446頁。9.5ポイント44字×18行×446頁=約353,232字、400字詰め原稿用紙で約884枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。
文章はこなれている。科学系の本の中でも、かなり親しみやすい部類だ。内容も易しい。出てくる数式も一つだけだし、単純な比例式だ。化学式はたくさん出てくるが、単純なものが大半な上に、わからなければ読み飛ばしても差し支えない。中学生でも理科にアレルギーがなければ楽しんで読めるだろう。
【構成は?】
各章はほぼ独立しいているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。
クリックで詳細表示
- はじめに 最後の息
- Ⅰ 空気を作る 最初の四つの大気
- 第1章 初期地球の大気
- 幕間 爆発する湖
- 第2章 大気のなかの悪魔
- 幕間 危険な武器を溶接する
- 第3章 酸素の呪いと祝福
- 幕間 ディケンズより熱く
- Ⅱ 空気を手なずける 人間と空気の関係
- 第4章 喜びガスの不思議な効能
- 幕間 フランスの「放屁狂」
- 第5章 飼いならされた混沌
- 幕間 悲劇に備える
- 第6章 空に向かって
- 幕間 夜の光
- Ⅲ 未知の領域 新しい至福の地
- 第7章 放射性降下物の副産物
- 幕間 アインシュタインと庶民の冷蔵庫
- 第8章 気象戦争
- 幕間 ロズウェルからの轟音
- 第9章 異星の空気をまとう
- 謝辞/注と雑録/参考文献
【感想は?】
いくつもの科学系の本から、美味しい所を拾い集めたような本だ。
例えば「第2章 大気のなかの悪魔」。ここで主役を務めるのはフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュ。そう、化学肥料のハーバー・ボッシュ法を切り拓いた二人だ。彼らは何を成し遂げたのか。
今日でさえ、ハーバー・ボッシュ法に関連して消費されるエネルギーは、世界全体のエネルギー供給の1%を占める。また人類は毎年1憶7500万トンのアンモニア肥料を生産しているが、その肥料で世界の食糧生産の半分をまかなっている。
――第2章 大気のなかの悪魔
現在の人類の半分は、彼らが支えているようなものだ。だが、両名とも無条件に称えられることはない。フリッツ・ハーバーは毒ガスを生み出して第一次世界大戦の戦場を地獄に変え、カール・ボッシュは合成ガソリンを生産してナチス・ドイツの戦線を支えた。それでもハーバーは、職場のユダヤ人を追い出すようナチスから圧力をかけられた際に…
フリッツ・ハーバー「40年余、私は自分の共同研究者を彼らの知性や性格に基づいて選んできました。彼らの祖母が誰だったかで選んだことは断じてありません」
――第2章 大気のなかの悪魔
と断り辞任しているんだが、今でも両名の評価は功罪相半ばといったところだろう。両名のドラマは「大気を変える錬金術」が詳しい。傑作です。なお、ここでは、同じ研究者でも大学のハーバーと企業のボッシュ、その両者の対比も読みどころ。新聞に出る科学・技術ニュースの読み方も少し変わるかも。
この章で両者を取り持つのが、窒素だ。大気の78%を占め、不活性に思える窒素だが、実はかなりヤバいシロモノでもある。そのヤバさを象徴するのがダイナマイトであり、ダイナマイト誕生の悲話を描くのが「第5章 飼いならされた混沌」。
この章では「馬力」誕生の意外な真相も楽しいが、私が最も面白かったのは、火薬と爆薬の違い。爆薬の方が圧倒的に反応が速い(約千倍)のは「火薬のはなし」で知っていたが、同時に体積の膨張率も一桁高いのだ。また、現代の兵器に欠かせない雷管の誕生の物語にも驚いた。兵器マニアよ、アルフレッド・ノーベルを崇るべし。
爆薬より更に物騒なのが、核兵器。原爆の開発プロジェクトであるマンハッタン計画は有名だが、アメリカはその後も熱心に核兵器の開発を続けた。その熱意を示すのが、1946年7月の核実験クロスロード作戦(→Wikipedia)だろう。
それには4万2千人の人員と、データ収集のために2万5千個の放射線検出器および45万7200メートルの長さのビデオテープ(当時における世界の供給量の約半分)が必要だった。
――第7章 放射性降下物の副産物
ビデオテープの消費量の凄まじさが、当時のアメリカの熱意と同時に、科学力・産業力の底力を感じさせる。この物騒なエピソードで始まる「第7章 放射性降下物の副産物」は、核に対する世間の認識が、1940年代から現代まで、どう変わってきたかを物語ってゆく。1940年代だと、核はむしろ歓迎されていたのだ。
その認識が変わったのは、放射性降下物の恐ろしさが伝わってから。切ないことに、広島と長崎の被害状況からでは、ない。キッカケはフィルム・メーカーのイーストマン・コダック社。インディアナ州産のトウモロコシの皮から作った包装材に、放射性物質がついており、これによりフィルムが台無しになってしまった。この放射性物質は、核実験の産物だ。
人々を核兵器信奉から脱却させたのは、ほかのどんな危険よりも、放射性降下物だったと言ってよい。
――第7章 放射性降下物の副産物
これが切ないのは、世論を変えた原因が、他人である広島・長崎の原爆被害ではなく、「俺にも害があるかもしれない」放射性降下物だって点だ。「他人の痛みなら幾らでも我慢できる」なんて言葉がフト思い浮かんでしまう。
そんな物騒なネタに対し、妙にユーモラスなのが、麻酔を扱った「第4章 喜びガスの不思議な効能」。ここでは、19世紀末に笑気ガス(N2O)を求めるボヘミアンがブリストルに集う様子が、ヒッピーの根城だった1960年代のサンフランシスコに似ていて、少し笑ってしまう。いつだってドラッグを求める輩はいるんだなあ。
その元凶となったハンフリー・デービー(→WIkipedia)、間抜けにも笑気ガスの「痛みを感じさせない」効果を見逃し、麻酔の発明者の名誉を逃してしまう。
その名誉をかっさらったのが、エーテル(C2H5-O-C2H5)をひっさげたウィリアム・モートン。その麻酔効果で特許を申請するも…
歴史を見渡しても、これ(ウィリアム・モートンによるエーテル麻酔)ほど広く侵害されさらにそれが問題視されなかった特許はない。
――第4章 喜びガスの不思議な効能
と、酷い扱いを受ける。あまりの有用さに拒まれたってワケじゃない。彼自身の胡散臭さが原因だ。Wikipediaには「歯科医」とあるが、本書じゃ「ペテン師」と散々な評価。その実体は、まあ実際に読んだうえで判断してください。
終盤の「第8章 気象戦争」では、SFファンお馴染みカート・ヴォネガットの兄ちゃんバーナード・ヴォネガットもチョいと顔を出し、アーヴィング・ラングミュアとヴィンセント・シェーファーによる降雨実験の顛末を描く。これも「気象を操作したいと願った人間の歴史」に詳しい。更にSFファンなら見逃せないのが、アイス・ナインの話。
ラングミュアはアイデアをH.G.ウェルズに売り込むがアッサリと捨てられ、同じアイデアをカート・ヴォネガットが拾って結実したのが「猫のゆりかご」。マジかい。ちなみにヴォネガットのファンには猫派と妖女派がいるそうだけど、私は猫派です。
そんなSFファンが思いっきり楽しめるのが、最後の「第9章 異星の空気をまとう」。今世紀に入ってから太陽系外の惑星を見つけた、しかも大気の組成までわかった、なんてニュースが次々と飛び込んでくるけど、どうやってソレを調べたのかって話がやたら楽しい。テラフォーミングのネタも飛びだして、SFファンとしては思わずアンコールを叫びたくなるところ。
気体に焦点を絞りつつ、おなら芸人や人体発火現象やロズウェル事件など一見キワモノなネタで野次馬根性を満足させ、また要所では理想気体の状態方程式(→Wikipedia)などカッチリした科学の所見を示す、親しみやすくてわかりやすい理想的な一般向け科学解説書だ。
【関連記事】
- 2020.9.10 永田和宏「人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理」講談社ブルーバックス
- 2017.06.21 松永猛裕「火薬のはなし 爆発の原理から身のまわりの火薬まで」講談社ブルーバックス
- 2015.07.03 井上勲「藻類30億年の自然史 藻類からみる生物進化」東海大学出版会
- 2011.05.19 トーマス・ヘイガー「大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀」みすず書房 渡会圭子訳 白川英樹解説
- 2014.07.14 ジェイムズ・ロジャー・フレミング「気象を操作したいと願った人間の歴史」紀伊國屋書店 鬼澤忍訳
- 2011.10.24 交通研究協会発行 牧野光雄「交通ブックス308 飛行船の歴史と技術」成山堂書店
- 書評一覧:科学/技術
| 固定リンク
「書評:科学/技術」カテゴリの記事
- ライアン・ノース「科学でかなえる世界征服」早川書房 吉田三知代訳(2024.09.08)
- ニック・エンフィールド「会話の科学 あなたはなぜ『え?』と言ってしまうのか」文芸春秋 夏目大訳(2024.09.03)
- アダム・クチャルスキー「感染の法則 ウイルス伝染から金融危機、ネットミームの拡散まで」草思社 日向やよい訳(2024.08.06)
- ランドール・マンロー「もっとホワット・イフ? 地球の1日が1秒になったらどうなるか」早川書房 吉田三知代訳(2024.06.06)
コメント