オリヴァー・サックス「色のない島へ 脳神経科医のミクロネシア探訪記」ハヤカワ文庫NF 大庭紀男監訳 春日井明子訳
「私たちは色だけで判断するわけではないのです。目で見て、触って、匂いを嗅いで、それで分かるのです。全感覚を使って考えるんです。あなたたちは色でしか判断しませんけど」
――ピンゲラップ島「グアムでは鳥の鳴き声はしないんだ。(略)昔はいろいろな鳥がいたんだが、今ではまったくいなくなってしまった。(略)みんな木登り蛇に喰われてしまったんだよ」
――グアム島「幹を見れば簡単よ。古いソテツのほとんどの幹には1900年に輪ができているの。その年にひどい台風が来たから。それに、とても強い風が吹いた1973年にも輪ができているわ」
――ロタ島
【どんな本?】
「火星の人類学者」や「レナードの朝」など、脳神経科医としての豊かな診察・治療経験から見聞きした、様々な症状を持つ人々の生きざまを医学エッセイとして記し、知られざるヒトの脳神経の不思議と、人それぞれの形で症状に折り合いをつける人たちの姿を描いてきたオリヴァー・サックスによる、少し毛色の変わった旅行記。
本書は二回の旅行を元にした二部から成る。いずれも舞台は太平洋の島々だ。
第一部はミクロネシア連邦カロリン諸島のポーンペイ島とピンゲラップ島。いわゆる赤緑色盲は遺伝性で程度は軽く、男の20人に1人ぐらいだ。完全な色盲=全色盲は珍しく、3万~4万人に1人である。だがこの島は歴史的な経緯で全色盲が12人に1人と、非常に多い。彼らはどのように暮らし、周囲の人々はどう受け入れているのか。同じ全色盲のノルウェー人生理学者クヌート・ノルドビーと共に両島を訪ね、彼らの暮らしを描き出す。
第二部はマリアナ諸島のグアム島とロタ島。ここに住むチャモロ人にはリティコ-ボディグと呼ばれる風土病がある。筋萎縮性側索硬化症(ALS,→Wikipedia)やパーキンソン病(→Wikipedia)に似た症状を含む多様な症状で、日本の紀伊半島の一部にも似た風土病がある。現地で治療と原因究明に携わる医師のジョン・スティールに誘われ島に飛んだ著者は何を見たのか。
島ならではの環境と歴史が生み出す奇妙な病気と、それに対応する人びとの姿、そして独自の進化を遂げた生態系とヒトの関わりを描く、著者ならではの旅行記。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Island of the Colorblind, by Oliver Sacks, 1996。日本語版は1999年5月に早川書房から単行本で刊行。私が読んだのは2015年3月25日発行の文庫版で本文約250頁に加え註がなんと91頁に監訳者あとがき7頁+文庫版への追記3頁。註も等々に面白いんで本文に含めてしまおう。9ポイント41字×18行×(250頁+91頁)=約251,658字、400字詰め原稿用紙で約630枚。文庫ではやや厚め。
文章はこなれていて読みやすい。著者の他の作品に比べると医学的な話も少ないので、理科が苦手な人でも大丈夫だろう。
【構成は?】
第一部と第二部は独立しているので、どちらから読んでも構わない。ただし先にも書いたように註が91頁と異様に多く、また雑学が好きな人には面白いので、読み逃すのはもったいない。
前書き
第一部 色のない島へ
島めぐり便
ピンゲラップ島
ポーンペイ島
第二部 ソテツの島へ
グアム島
ロタ島
註/監訳者あとがき
【感想は?】
構成は第一部と第二部だが、テーマ的には三部構成に近い。
1)は第一部の「色のない島へ」、2)は「第二部 ソテツの島へ」の「グアム島」、3)は「第二部 ソテツの島へ」の「ロタ島」だ。
1)は珍しい全色盲が異様に多いポーンペイ島とピンゲラップ島の訪問記。ここでは同じ症状を抱えるクヌート・ノルドビーが大きな役割を果たす。彼のお陰で、著者たちは島の人々とグッと距離が縮まるのである。ヒトってのは、共通点を持つ人に親近感を抱く生き物なのだ。
最初、著者はマスクン(全色盲)とそうでない者の見分けがつかない。ここでもクヌートに指摘されて見分けがつくようになる所で、人間の認識能力の奇妙さを思い知る。全色盲は色が判別できない、すなわちモノクロの世界に住んでいる。だがそれだけじゃない。強い日差しにも弱いのだ。そのため、昼間は目を「しばたいたり細めたりしている」。
こういう症状が行動に及ぼす影響は、症状をよく知る人だけがわかる。島の人々も症状をよく知っていて、それを活かした職がちゃんとあったり。やはり全色盲ながら島で一番の織り手と言われるブリットの作品は、16色の毛色を使っているが…
「このジャケットの模様を見て楽しむには完全な色盲でなければならないの」
――ピンゲラップ島
たぶん、全色盲の人は色が判らない反面、明度の差には敏感なんだろう。色が判る者はRGBに各8bit割り当ててるのに対し、全色盲はモノクロ24bitみたいな。これは男も同じで…
夜釣りにかけては全色盲の人たちは極めて優れていて、水の中の魚の動きや、魚が跳ねるときにひれに反射するわずかな月の光まで、たぶん誰よりもよく見えているようだった。
――ピンゲラップ島
なんて特技を持ってたり。これは視覚だけでなく…
クヌートの聴覚は驚くほど鋭いのだ。
――ポーンペイ島
そういえばレイ・チャールズやスティーヴィー・ワンダー、ジェフ・ヒーリーなど視覚を失ったミュージシャンも多いなあ。日本にも琵琶法師や瞽女(→Wikipedia)なんてのもいた。まあこれは音楽ファンやオーディオ・マニアも、ある程度は本能的に分かってたりする。真剣に聴き入る時、目を閉じて音に全神経を集中するでしょ。音を聴き分けるには、視覚が邪魔になるのだ。
ってなのとは別に、島ならではの話も面白かったり。珍しい白人の全色盲であるクヌートに出会った島の人々は、現実に合わせて伝説を書き換えるのである。
私たちが島に着いた二日後には、マクスンに関する伝説が修正された形で伝わり始めた。
――ピンゲラップ島
前世紀の終わりに島に来たノルウェー人が原因だって事になってしまう。古老の昔話ってのは、鵜呑みにしちゃいけないんです。
続く 2) ではミステリ風に話が進む。
テーマは風土病のリティコ-ボディグだ。ALSこと筋萎縮性側索硬化症やパーキンソン病に似た症状を示すが、原因はわからない。現地で治療に携わりつつ原因を研究する医師ジョン・スティールを中心に、彼が受け持つ患者たちの姿を交えて話が進む。
医師として多くの患者を診てきた著者も、末期の患者の姿には衝撃を受け…
リティコやボディグの末期症状にある患者たちを見た私は疲労感に襲われ、どこかへ行ってしまいたい、自分のベッドに倒れ込みたい、素朴なリーフでもう一度泳ぎたい、などといった考えが無秩序に浮かんできた。
――グアム島
と、思わず逃げ出したくなると弱音を吐いている。なにせ原因すら皆目わからない。
本書にも幾つかの仮説が出てくるが、どれも決定的な証拠がない。島を出て10年~20年ほどして発病する人もいるし、外から島に来てチャモロ風の暮らしを10年~20年ほど続けて発病する人もいる。また世代的な偏りもあって、1960年代以降に生まれた者には症状が出ない。なら何か決定的な事が1940年代にあったのか。
となると、最も大きな事件は太平洋戦争だろう、と当たりをつけるのだが…。ここでは大日本帝国が遺した戦争の傷痕も痛いが、同時に巻頭の地図を改めて見ると、今なおチャモロ人が置かれている立場の切なさが伝わってくる。これは池上永一が「ヒストリア」で描いた沖縄の痛みと全く同じだ。もっとも、そんな病を抱えた人もいろいろで…
「自殺は良くないよ。それは正しいことじゃない。でも、治る見込みもないのにただ待っているよりは、神が俺の命を終わらせてくれればいいのに、とは思うよ」
――グアム島
なにせ体の自由は利かないけど、思考能力は衰えていないのだ。まあ普段は思い通り動かないけど、対応によっては驚くほど巧みに動く人もいいるのが不思議なところ。音楽が意外な効果を発揮する時もあるのは「音楽嗜好症」にも違うエピソードが出てた。ほんと、音楽ってのは不思議だ。逆に昔の事柄は思えていても新しい事は忘れてしまう症状もある。でも、そんな中でも…
「また来てください。あなたに会った事は忘れているでしょうから、また初めてお会いすることができますよ」
――グアム島
なんて、ユーモアを保っている人もいる。こんな前向きに人生を生きられたらなあ。
さて、 最後の 3) の「ロタ島」は、全く変わって著者のソテツ愛が炸裂する。
イチョウと同様、原始的な植物なのだが、街路樹などでヒトに保護され生き延びているイチョウ(→「イチョウ 奇跡の2億年史」)とは異なり、どっこい野生で逞しく生きのびつつ今でも絶賛進化中だったりする。生きた化石と言われると「かろうじて生き延びてる」みたいな印象があるが、実は生存競争のベテラン・プレイヤーなのだ。
今までのサックス先生の著作と違うのは、第一部・第二部ともに歴史的な事情が大きな意味を持っている点だろう。またやたらと充実した「註」も、モアイの意外な秘密など雑学の面白さが潜んでいて油断できない。くつろいで、でも油断せずにじっくり読もう。
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