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2020年9月の8件の記事

2020年9月24日 (木)

ヘンリー・ペトロスキー「本棚の歴史」白水社 池田栄一訳

科学技術とはかように、なくなったときに最もその存在が意識されるのだ。
  ――第1章 本棚の本

沈み込む度合いは、棚の長さの四乗に比例する
  ――第5章 書棚

ウィリアム・ユーアード・グラッドストン「(本が)満ちあふれた部屋で、孤独を感じた人間はいないし、孤独を感じるはずがない」
  ――第10章 可動書架

【どんな本?】

「あなたの本棚はどんなの?」と訊ねられて、あなたはどう答えるだろう?

「ハヤカワの青背が三段ほど」「NutShellはやたらデカくて重くて」「東洋文庫にはいささか自信が」…

 などの答えが返ってくるだろう。

「黒のスチール製で高さは180cm幅は120cm…」

 などと返したら「そっちかい!」とハリセンを食らいかねない。

 だが、この本は、まさしくそういう本だ。

 たかが本棚、されど本棚。本棚には幾つかの役割がある。本を収容し、保存し、お目当ての本を探しやすく、または綺麗に並べる。その本も、媒体はパピルス・羊皮紙・パルプと変転し、形も巻物・コデックス・ハードカバーとと変わり、製作技術も写本・活字印刷・電子書籍と進むと共に、経済的な価値も大きく変わった。そして、本を読む環境も。当然、その容れものである本棚や図書館も、本と読書環境に伴い形を変えてきた。

 古代の巻物から電子書籍まで、本を収納する本棚の変遷をたどり、時代とともに変わる道具の役割と形と使い方を描くとともに、古今東西を通して変わらぬ読書中毒者たちの「あるある」を満載した、本好きのためのちょっと変わった技術史。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Book on the Bookshelf, by Henry Petroski, 1999。日本語版は2004年2月10日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約263頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント46字×19行×263頁=約229,862字、400字詰め原稿用紙で約575枚。文庫なら並の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もやさしい。ただ、所々にモノの形を説明する部分があって、ソコは丁寧に読む必要がある。あと、「前小口」など本の部分の名前がよく出てくるので、予め調べておこう。株式会社イシダ印刷の「花ぎれ、小口とは? ~本の各部、13の名称~」がわかりやすい。

【構成は?】

 だいたい昔→今と時代を辿ってゆく。が、各章は比較的に独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 第1章 本棚の本
  • 第2章 巻物から冊子へ
  • 第3章 保管箱、回廊、個人閲覧席
  • 第4章 鎖で机につながれて
  • 第5章 書棚
  • 第6章 書斎の詳細
  • 第7章 壁を背にして
  • 第8章 本と本屋
  • 第9章 書庫の工学
  • 第10章 可動書架
  • 第11章 本の取り扱い
  • 謝辞/原注/訳者あとがき/図版出典/参考文献

【感想は?】

 書名は「本棚の歴史」だが、「本の歴史」が3割と「書斎と図書館の歴史」も3割ほど混じってる。

 本棚。本を保管し、整理する家具。機能は同じだが、肝心の本や読む環境が変わると、形や機能も変わってくる。これがハッキリわかるのが、第2章の冒頭、古代ギリシアや古代ローマを扱う章。なにせ当時の「本」は巻物だ。だもんで、当然、今の本棚には置けない。そこでドラム缶みたいのに立てて入れたり、棚に横置きにしたり。

 ここで「言われてみれば」なのが、巻物の書き方。日本語や中国語は昔は縦書きだから、紙の右端から1行づつ書けばいい。が、ラテン語は横書きだ。じゃどうするかというと、テキトーな所で行を折ったのだ。

 とまれ、巻物は読み終えたら巻き戻さなきゃいけないし、お目当ての個所を探すのも難しい。ということで、本は木などで表裏の表紙を付けたコデックスになり、厚い本へと変わり、私たちにも馴染みの形に近くなる。でも意外なことに…

今日の本と違ってコデックス本(→Wikipedia)には書名がついていなかったのである。本を指し示すには、第一ページの最初の言葉を用いたと思われる。
  ――第2章 巻物から冊子へ

 なんと書名は「なかった」のだ。そして当時の本は高価で、表紙に宝石を埋めこんだりした。となれば、書庫の本を盗もうとする不届き者も出てくる。そこで修道院などの図書室では、本に鎖をつけた。高価な品なので、現代ほど蔵書の数はない。だもんで、書見台ごとに本を置いても、あまし場所を取らずに済んだのだ。また、本の置き方も違い…

最初のうち、本は前小口を外側に、背を棚の内側に向けて収納していたのである。その背景には、背を見ても著者や書名が書いていなかったということのほかに、本がまだ鎖につながれていたという理由があった。
  ――第5章 書棚

 やがてグーテンベルクの印刷によって本は増え始めるのだが…

15世紀より前に出版された本で装丁し直されずに本来の装丁が残っている例は非常に少ない。古い本は次々と装丁し直され、内容を示す印を背に付ける方法が一般化した。(略)
なかには、本の見かけや収納の仕方にこだわる者も現れた。
  ――第6章 書斎の詳細

 まあ、贅沢な品物だったワケです。そして見てくれに拘る気持ちも分かるなあ。もちろん、これは流通にも影響して…

17世紀後半の本屋には、製本された本はまったく置いてなかったようだ。なぜなら、当時は、未製本の、つまり印刷された紙を集めた丁合の段階で本を買う習慣があったからだ。
  ――第8章 本と本屋

 本屋には本文だけ売っていて、製本は別業者だった、と。だもんで、自分の好みに合わせて本をデザインできたのはいいが、その分、お値段も張ったのは想像がつく。

 とかの本そのものの話に加え、土木や建築が専門の著者ならではのネタも出てくる。例えば図書室には当時ならではの工夫も必要だったり。

図書室用に作られた部屋は、比較的狭い間隔で規則正しく窓が並んでいるので、外観からすぐに分かる
  ――第4章 鎖で机につながれて

 なぜか。窓がないと、暗くて本が読めないのだ。電灯がない時代なので、日の光しかなかったのだ。ランプ? 大事な本が燃えたらどうする!

 という風に、本は大切にされていたんだが、印刷本の流通が増えるに従い、読書家の皆さんに共通の悩みが大きくなってくる。

本を入れる場所がどこにもなくなる状態は、膨張し続ける研究図書館では(事実上、すべての図書館で)よくあることだ。
  ――第7章 壁を背にして

 そんなわけで、電化以前の時代は「いかに多くの日光を取り入れるか」に加え、本の置き場が重要な問題として浮上してくる。これ以降は、「いかに多くの本を使いやすく収納するか」の悩みが本書の大きなテーマとなり、俄然親しみがわいてきたり。なにせ、本は単に置けばいいってもんじゃない。人が入る空間も必要なのだ。

使い勝手の良い書庫に改良を加えても、平均して、床面積の65%を通路が占め、本棚の列を置けるスペースはわずか35%というところで行き止まりになったのだ。
  ――第9章 書庫の工学

 以後、本の高さの違いが「空間の無駄だ」と怒ったり、一つの棚に背の高い本と低い本を二段で入れたり、本棚の天板に本を並べたりと、皆さんお馴染みの涙ぐましい努力が続く。中には賢い人もいて…

空間が取れないときに、本をどんんどん貸し出して、返却を滞らせるようにし向ける知恵者の図書館司書もいる。
  ――第10章 可動書架

 その手があったか! ということで、皆さんどんどん図書館を使いましょうw などと苦労しちゃいるけど、本の出版量は増える一方。例えば1944年、ウェスリアン大学の図書館司書フリーモント・ライダーが恐ろしいデータを示してる。

ここ一世紀の間に、コレッジと大学の図書館蔵書数は平均して16年ごとに倍増している
  ――第10章 可動書架

 そりゃいくらあっても足りないわ。そこで「あまり読まれない本は地域の図書館共通の倉庫に入れよう」みたいな案も出てくる。これで空間は節約できるけど、滅多に使わない本は取り寄せるのに時間がかかる。こういう所は、まるきしコンピュータのディスクとキャッシュみたいな関係だな、と思ったり。いずれにせよ、本棚はすぐに満杯になる運命なのだ。なぜって…

空でも満杯でも、本棚が本を引き寄せるのは自然の法則らしい。
  ――第11章 本の取り扱い

 だから、あなたや私の本棚が見苦しいのは仕方のないことなんです、はい。

 と、そんな風に、本好きには終盤に行くほど身につまされ楽しくなる本だ。本の置き場に困っている人なら、きっと楽しめる。

 ただ、中国や日本など、極東の話が出てこないのは残念。なにせ紙の起源となった地域で、昔から出版も盛んだっだ。だが表紙や背を木や厚紙などで補強せず紐で閉じていたので、本は柔らかく書棚に立てられない。これをどう整理していたのか。

 確か「中国文化大革命の大宣伝」で毛沢東の書斎の写真を見た。本に20~30cmほどのポストイット(のような紙の帯)を貼ってたらし、そこに書名などを書いて、平置きにしていた。私たちが本棚から本を探すとき、背表紙で本を見分ける。彼は垂らしたポストイット(に書いてある書名)で本を見分けたようだ。これが極東の標準だったんだろうか?

【関連記事】

【おわりに】

 ちなみに私の本棚は、東急ハンズで買ったスチールの柱と棚板を組み立てたもの。三つの本棚をコの字型に組み合わせ、地震でも倒れないようにしている。引っ越しのついでに蔵書を整理したんで、今は多少の空きがあるんだが、いつまで保つことやら。

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2020年9月22日 (火)

SFマガジン編集部編「アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー」ハヤカワ文庫JA

「I'm fine.」
  ――宮澤伊織「キミノスケープ」

「スミレみたいな、青よ。声も名前も」
  ――南木義隆「月と怪物」

「あの光はうつくしい綾。硲が編んだ晶表現のよう」
  ――櫻木みわ+麦原遼「海の双翼」

“色のない緑の考えが猛烈に眠る”
  ――陸秋槎「色のない緑」

「ただ、飛びたいんです」
  ――小川一水「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ」

【どんな本?】

 想定外の大当たりとなった「SFマガジン2019年2月号」。その原因となった「百合特集」で掲載された短編四本+コミック一本を中心に、pixiv の話題作や書下ろしを含めた、百合SFサンソロジー。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2020年版」ベストSF2019国内篇でも13位に食い込んだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年6月25日発行。文庫で縦一段組み本文約396頁。9ポイント40字×17行×396頁=約269,280字、400字詰め原稿用紙で約674枚。文庫では少し厚め。

 全般的に文章がこなれていて読みやすい作品が多い。逆に「海の双翼」は、ワザと狙って異質な感触を出している。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 著者 / 初出。

キミノスケープ / 宮澤伊織 / SFマガジン2019年2月号
 突然、街から人が消えた。人だけじゃない、鳥も獣も消えた。電気や水道は通じている。だがテレビやラジオはノイズだらけだし、電話もインターネットもつながらない。スーパーやコンビニには、なぜか新鮮な食品が並んでいる。街の建物は少しづつ入れ替わってゆく。あちこち彷徨ううちに、メッセージを見つけた。「I'm fine.」
 冒頭、朝起きて家を出るまで、5頁と少しかけて、主人公の暮らしを丁寧に描いている。本書の冒頭に相応しい描写だ。状況は「西城秀樹のおかげです」と似てるんだけど、語りの感触もお話の進み方もまったく違う。「西城秀樹…」は開き直った明るさの陰に恨みが潜んでいるのに対し、この作品はごく自然体だ。変わったのはSFなのか社会なのか。
森田季節 / 四十九日恋文 / SFマガジン2019年2月号
 死者の意識は死後も49日ほど此の世にとどまると判ってから50年。そして限られた文字数なら死者とメッセージを交換してよいとなった。最初の日は49文字、以後一日一文字づつ文字数が減る。絵梨は、亡くなった栞と短歌形式でメッセージをやりとりする。意外と栞はアッサリしていて…
 もともと栞が前向きでサッパリした性格なのか、死者はみんなそうなのか。私は後者だと思うんだが、どうなんだろう? 少しづつ減ってゆく文字数、最後の一文字をどうするか。絵文字が充実してる今は選択肢が増えて楽な気もするけど、逆に選ぶのが大変な気もする。
ピロウトーク / 今井哲也 / SFマガジン2019年2月号
 9頁の漫画。前世からのお気に入りの枕を失い眠れないと言う先輩に付き合い、主人公は枕を探す旅に出る。
 この作品は版の大きい単行本で読みたかった。特に3頁目の2コマ目とか、人が減って荒れた町を女子高生二人が元気に闊歩する雰囲気がよく出てる。季節の移り変わりを服や風景で伝えるのも、漫画ならでは。
幽世知能 / 草野原々 / SFマガジン2019年2月号
 もう一つの宇宙、幽世。その無尽の計算能力を使うコンピュータが幽世知能だ。ただし幽世に安定してアクセスできる場所は限られ、神体と呼ぶ。与加能が住む町には使えそうな神体があったが、不安定かつ神隠しの危険が高く、計画は失敗した。その神体で、幼馴染の灯明アキナが待っている。
 エキセントリックなキャラクターを出さないと気が済まない著者ならではの作品。アキナがやたら強烈だと思ってたら… 「常識的なキャラクターを書け」と言われて百合関数に挑んだ意欲作。
伴名練 / 彼岸花 / SFマガジン2019年2月号
 舞弓青子は、真朱様に宛てた日記を綴る。両親に武芸は仕込まれたが、綴りは苦手だ。修身やお裁縫の授業のこと、級友のこと、寄宿舎で過ごす夜のこと。そして真朱も青子に返事をしたためる。花壇の手入れの工夫、オルガンの得意な級友…
 レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」をキム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」的に処理し、大正ロマン風に味付けした怪作。ちょっとジョージ・R・R・マーティンの「フィーヴァードリーム」を思わせる展開も。「死妖」や「緋袴」などちょっとした単語にも凝った文章が雰囲気を盛り上げている。
南木義隆 / 月と怪物 / pixiv 2019年
 セーラヤは1944年に、ソフィーアは三年後に、ソ連北東部の貧しい農家で生まれた。幼くして家族を失い、親戚をたらい回しにされた末に家出し、モスクワの地下で命をつないでいるうちに当局に捕まり、病院のような施設に収容される。施設には多くの子供がいた。当局はセーラヤの妙な能力に強い興味を示し…
 浮浪児が安定した食事と寝床を与えられても、嫌な予感ばかりが漂うのもあの国ならでは。「グラーグ」や「セカンドハンドの時代」を読むと、なかなかに背筋の凍る出だし。あの国なら、そういう研究もしただろうなあ。しかも、強引に。異色作と言われるけど、百合を抜きにしても重い問題に正面から挑んだ力作だと思う。
海の双翼 / 櫻木みわ+麦原遼 / 書き下ろし
 栞が海の話を聞いたのは20歳のとき。以来50年、栞は職業作家として生きた。鱗晶は体調を記録し整え、また光や音で伴奏を添える。硲は栞が書いた原稿に晶表現で伴奏を加えた。細い雨が降る日、栞は仲間とはぐれた鳥人を拾う。当初、鳥人の言葉は拙かったが、羽根は複雑な模様を描いた。
 楽譜はメロディを伝えるけど、音色までは伝えない。テキストは言葉を伝えるけど、声色や表情は載らない。そこに晶表現や光る羽根なんてアイデアを持ってきたのは秀逸。鳥人の「なにものが解釈しようと、言葉の意味は変わらない」や硲の「足すを足すと、引くを引くと呼べばいい」は、チョムスキーの文脈自由文法を示すのかな? 異星人の言葉を翻訳したようなぎこちない文章も、意図的なものだろう。
色のない緑 / 陸秋槎 / 書き下ろし
 ジュディの仕事は、機械翻訳した小説の脚色だ。若者は気にしないが、年配者はヒトが脚色した文章を好む。エマから連絡が来た。モニカは700頁を超える論文を完成させた直後に、モニカが自殺した、と。ジュディはエマと共に葬儀に出席する。16歳のとき、三人は青少年学術財団のプロジェクトで同じ班になった。テーマは言語学。
 今の Google などの機械翻訳は機械学習によるもので、だいぶ精度は上がってきた。長い文章は苦手だが、短い文章はかなり意味が通じる。法律文書やRFCなど、形式が決まっていて論理を重んじ意味が伝わればいいモノには、やがて充分な性能になるだろう。けど小説は、というと、うーん。例えば本作に出てくるフィッシュ・アンド・チップス。この言葉から受ける印象は、ロンドンっ子と江戸っ子じゃだいぶ違う。かといって焼き鳥に変えるわけにもいかないだろうし。
ツインスター・サイクロン・ランナウェイ / 書き下ろし
 巨大ガス惑星の雲の中に昏魚の群れが住み、貴重な元素をもたらす。サーキュラーズの暮らしは昏魚の漁だ。二人乗りの礎柱船でツイスタが船を操りデコンパが網を編む。普通は夫婦で乗り込み、夫がツイスタで妻がデコンパだ。だがテラと気の合うツイスタは見つからず、今は小柄なダイオードがツイスタを担っている。
 高重力の巨大ガス惑星の大気中の生物って発想はA.C.クラークの「メデューサとの出会い」を彷彿とさせる。が、そこは小川一水。ペアでなきゃいけない礎柱船の設計や、そのペアが夫婦でなければならないサーキュラーズの社会構造など、背景事情の設定が上手い。まさか昏魚にまで、そんな事情があるとは。もしかして木星のアレもコレなんだろうか。なお、ハヤカワ文庫JAから長編版がでている。

 相変わらずの草野ワールドが展開する「幽世知能」、古めかしい百合を装いつつ凝った設定が明らかになってゆく「彼岸花」、全体主義国家の冷たい恐怖に満ちた「月と怪物」、実は相通じるテーマの「海の双翼」と「色のない緑」、そして抜群の安定感がある「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ」。百合とは何かを本書から探ろうとすると、かえってわからなくなるぐらい、バラエティに富んで楽しい本だ。

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【今日の一曲】

Roxy Music - Same Old Scene

 百合といえば是非とも推したいのが、1980年のアメリカ映画「タイムズ・スクエア」。市長候補の娘パメラは、父に反抗するも病院に押し込められる。そこで出会った不良娘ニッキーと共に病院を脱走し、二人で暮らし始めるが…

 ええトコのお嬢様と宿無しの野良猫が、胡散臭い奴らがタムロしてゴチャゴチャした当時のニューヨークで生き抜く姿を、あの頃流行のプリテンダーズやゲイリー・ニューマンの音楽に乗せて描いた佳作。当時は、いや今でも青春映画ってくくりだけど、今思えば間違いなく百合。大ヒットしたわけでもないので今は手に入れにくいけど、機会があったら一度は観て欲しい。

 その中でも最も印象に残っているのが、オープニングの曲。ブライアン・フェリーの声が実にイヤラしいw

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2020年9月18日 (金)

「フレドリック・ブラウンSF短編全集 3 最後の火星人」東京創元社 安原和見訳

「わたしは火星人なんです。最後の火星人です。ほかはみんな死んでしまいました。ほんの二時間前にみんなの死体を見たんです」
  ――最後の火星人

「ここでスポンサーからひとこと」
「戦え」
  ――スポンサーからひとこと

【どんな本?】

 アメリカのSF/ミステリ作家、フレドリック・ブラウンのSF短編すべてを執筆順に全四巻で刊行する企画の第三段。

 ブラウンは1940年代のSF黎明期から1960年代にかけて活躍した。彼の短編は親しみやすい文体でオチのキレがよく、今でも多くのファンに愛されている。

 本書は1950年の「存在の檻」から1951年の「処刑人」までを収録する。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は From These Ashes : The Complete Short SF of Fredric Brown, 2001。日本語版は2020年7月10日初版。単行本ハードカバー縦一段組み本文約347頁に加え、牧眞司の「収録作品解題」8頁+若島正の「闇への誘い」5頁。9ポイント43字×20行×347頁=約298,420字、400字詰め原稿用紙で約747枚。文庫なら厚めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。星新一や草上仁に似た芸風で、SFだがヒネリの利いたアイデア・ストーリーが中心なので、理科が苦手でも全く問題ない。どころか、さすがに1950年代初期の作品なので、科学的には、まあ、アレだw 当然、月や金星の描写も当時のもの。その辺は「そういうもんだ」でスルーしてください。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 原題 / 初出。なお★がついているものはマック・レナルズとの共作。

存在の檻 / Entity Trap / Amazinng Stories 1950年8月
 ジョン・ディックスは19歳でアメリカ陸軍に入隊し、81年に激戦となったパナミント山脈の戦いに身を投じた。最終防衛ラインのトーチカでの戦いで、ジョンは敵の爆撃で片目と鼻と頭髪と片腕と両足を失う。やがて命も失うはずだったが…
 ある意味、転生もの…に、なるのか? 異世界ではなく現世界だけどw しかもチート能力つき。でも嬉しくないんだよね、これじゃw
命令遵守 / Obedience / Super Science Stories 1950年9月
 メイ艇長とロス副長は深宇宙を探索中に異星人の宇宙船を発見する。地球のロチェスター級の戦艦にそっくりだ。同時にテレパシーを受信する。「地球人よ、われわれは敵ではない」。総則にはこうある。異星の艦船と遭遇した場合ただちにこれを破壊せよ、破壊できなければ全速力で外宇宙に向かい燃料が続く限り飛び続けろ。
 人類の歴史を顧みれば、殺らなきゃ殺られる、となるのは仕方がないか。アメリカ人作家が語ると、更に説得力があるw 
フラウンズリー・フロルゲルズ / The Frownzly Florgels / Other Worlds Science Stories 1950年10月
数百万年前から小惑星ナクソの地中に住むナクスより、星団じゅうの星に思考のメッセージが届いた。きっとすてきなフラウンズになる。
 ハネス・ボクが描いたイラストに沿った小説をフレドリック・ブラウンが書く。ただし夢やホラ話や錯覚や狂気は不許可。そういうルールで書き上げた作品。解題に載ってるハネス・ボクのイラストのイマジネーションも凄いが、ブラウンの理屈付けもハンパじゃない。
最後の火星人 / The Last Martian / Galaxy Science Fiction 1950年10月
 通りの向かいのバーから、編集室に連絡が入った。「変な客が来た。二時間前に火星から来た、と言い張っている」。ちょっとしたユーモア記事になると踏んで、編集長はビル・エヴェレットを向かわせる。火星人はヤンガン・ダルと名乗り…
 自称火星人、しかも地球に来たのは二時間前。そして今はバーに座っている。なんじゃそりゃ、頭がおかしいのか? ってな引きの強い状況から、ブラウンらしい見事なオチへ持っていく。アイデア勝負のSF短編のお手本みたいな作品。
地獄のハネムーン / Honeymoon in Hell / Galaxy Science Fiction 1950年11月
 東西の冷戦は深刻化し、月面基地建設の足掛かりとしての宇宙ステーション建設の競争も激しさを増す。人類は別の危機に見舞われていた。男児が生まれない。東西ともに。レイモンド・F・カーモディ合衆国宇宙軍大尉は月面着陸に成功したロケット操縦士だ。27歳の独身で退役した今は、国防省秘蔵の巨大人工知能、通称ジュニアの操作員に選ばれる。そのジュニアの様子がおかしい。
 収録作の中では比較的に長い作品だ。だが語り口は軽快かつユーモラスだし、ストーリーはイベント満載で小気味よく進むため、読み心地はとても軽やかだ。オチのキレも見事で、読み終えた後の気分もやたらいい。いやあ、コンピュータって、ほんと四角四面ですねw
星ねずみ再び / Mitkey Rides Again / Planet Stories 1950年11月
 ミツキーは灰色ねずみだ。ドイツからの亡命者でロケット科学者のオーベルビュルガー教授宅に、連れ合いのミニーと住んでいる。かつて月に着陸し高い知能を得たが、帰還直後の事故でただのねずみに戻ってしまった。だが次第に知能を取り戻しつつある。教授は相変わらず月ロケット開発に余念がない。だが今度の実験動にミツキーを使うのは諦めた。
 「星ねずみ」収録の表題作の続編。なんといっても教授とミツキーの会話が楽しい。この香りを日本語で再現した訳者の芸が光る。今回は白ネズミのヴォワイティが加わり、なんとも可愛らしい騒動が繰り広げられる。
六本足の催眠術師★ / Six-Legged Svengali / Worlds Beyond 1590年12月
 金星に向かうエヴァ―トン動物学調査隊に、なんとかぼくは滑り込んだ。目的は新種の生物を捕獲すること。最大のお目当ては金星ドロガメだ。必ず捕獲してみせる、そうぼくは言い切った…らしい。ところが、ぼくは捕獲のアイデアどころか金星ドロガメすら聞いたことがない。
 さすがに今は金星は無茶だけど、そこは他の惑星って事にして読もう。肝心の金星ドロガメには厄介な能力を持つ。近づいた生物から、数時間の記憶を消す。健忘症は数時間続く。そのため、ハンターは亀の存在そのものを忘れてしまう。そんな亀を、どうやって捕まえるのか。捕獲のアイデアも鮮やかながら、このオチはw
未来世界から来た男★ / Dark Interlude / Galaxy Science Fiction 1951年1月
 ベン・ランド保安官を、ルー・アレンビーが訪ねてきた。ルーは妹のスーザンと住んでいるが、この二週間ほど旅行に行っていた。ルーが不在のとき、スーザンは畑に落ちてきた男を拾う。男は学生で、四千年の未来から来たという。目的は調査。この時代から数百年、暗黒時代が続いている。その実体を調べるために来た、と。
 旧いSF小説に対し「今もまったく古びていない」は、本来誉め言葉だ。だが、この作品の場合は悲しみと怒りが沸きあがってくる。発表から70年近くも経ち、既に保安官やルーの孫か曾孫の世代だってのに。
選ばれた男 / Man of Distinction / Thrilling Wonder Stories 1951年2月
 アル・ハンリーは飲んだくれのロクデナシだ。有り金は使い尽くし、あらゆる友人知人に金を借りまくって酒代につぎ込んだ。一晩だって酒を切らせたら、地獄の恐怖に襲われる。だが、彼は偉大なことを成し遂げた。
 四六時中、飲んだくれて酔っぱらっているアルの、支離滅裂で無茶苦茶な屁理屈が楽しい作品。まったく、酔っ払いって奴はw
入れ替わり★ / The Switcheroo / Other Worlds Science Stories 1951年3月
 『グローブ』紙のオフィス。編集長のマッギーが、また怒鳴ってる。「ターキントン・パーキンズの話を聞いてこい」。嫌な奴だが、それでもボスだ。言われたとおり、ジェイクはパーキンズに取材に行く。彼は変なモノばかり作る発明家だ。最近はシロホクラ飲料を作った。酒の逆で、まず二日酔いがきて、翌朝は愉快に酔える。今は入れ替わり機が完成寸前で…
 懐かしSFの定番、世間とはズレてるけど優れた発明家が作る、ケッタイなマシンが巻き起こす騒動がテーマのドタバタ作品。
武器 / The Weapon / Astounding Science Fiction 1951年4月
 ジェームズ・グレアム博士は科学者だ。重要な計画を率いている。ひとり息子のハリーは15歳だが、知能の発達が遅れている。それでもグレアムはハリーを深く愛している。家でくつろいでいる時、ニーマンドと名乗る男が訪ねてきた。「あなたは人類の存続をあやうくするお仕事をなさっていますね」
 5頁の掌編ながら、いやだからこそ、オチのキレは鋭い。「地獄のハネムーン」「スポンサーからひとこと」同様に、東西冷戦の影が色濃い作品。
漫画家★ / Cartoonist / Planet Stories 1951年5月
 ちかごろ一コマ漫画家ビル・キャリガンの景気は悪い。が、この日のネタはイケた。おぞましいエイリアンの話だ。報酬もよかった。さっそくブランデーを買い込み祝いのグラスをあけたとき、それが起きた。ビルが描いたエイリアンそっくりの怪物が現れたのだ。
 冒頭でアメリカの漫画の制作過程がわかる。どうも日本とは大きく違うらしい(→「有害コミック撲滅!」)。こういう、文化や社会の違いがわかるのも、翻訳物ならではの楽しみだ。ブラウンもネタを提供したんだろうか。
 ジョン・ヴァーリーの八世界シリーズやP.K.ディックの作品でもよく使われるネタだ。ヴァーリー作品には無常観・喪失感が漂い、ディックだと足元が崩れ眩暈がするような不安定感を感じるのに対し、ブラウンはカラッと明るく仕上がっている。そんな芸風の違いもまた、小説の楽しみの一つ。
ドーム / The Dome / Thrilling Wonder Stories 1951年8月
 カイル・ブレイドンがドームに籠って30年になる。37歳のとき、ボストンが攻撃を受け壊滅し、宣戦布告がなされた。世界は滅びるだろう。この事態に備えカイルはドームを作っておいた。水爆も防げるが、外の様子はわからない。微量な電力で維持できるが、起動には莫大な電力がいる。スイッチを切れば外の様子がわかるが、再起動は無理だ。そして30年が過ぎた。
 やはり冷戦の影が濃い作品だが、今となっては究極の引き籠り生活がテーマのような気もしてくるw アッメリカには自宅に核シェルターを作る人もいて、ブラウンも自分の作品が現実になるとは思わなかっただろうなあ。
スポンサーからひとこと / A Word from Our Sponsor / Other Worlds Science Stories 1951年9月
 6月9日、世界中でソレが起きた。すべての国で、現地時間の午後8時半に。夏時間を採用している国や地域では、夏時間の8時半に。ラジオの音が途絶え、しばらくしてこんな声が響いた。「ここでスポンサーからひとこと」続いて一秒後に「戦え」。その後、いつもの番組が流れ始めた。折しも世界は冷戦のさなか、互いに先制攻撃を仕掛ける寸前だった。
 なんといっても印象的なタイトルが秀逸で、やたらと有名な作品。今はメディアが多様化してるけど、当時はラジオと新聞が王者だったんです。双方ともに不信感に満ちていて頭に血が上っている状況に、いかにもあからさまな煽りが入ったら…。中でも聖職者と合衆国共産党党首の解釈が笑えるw
賭事師★ / The Gamblers / Starling Stories 1951年11月
 きみは月の天文台に、ただひとりで横たわっている。今まで何日過ぎたのか、わからなくなってしまった。だが39日間生き延びれば、迎えのロケットが来るのはわかっている。水と食料は、なんとか足りる。問題は酸素だ。下手に動けば酸素消費量が増える。それでも生き延びて伝えなければ。異星人にポーカーを教える羽目になった顛末を。
 なんといっても、異星人の性質が面白い。技術は地球人より遥かに進んでいて、考え方も傲慢で身勝手、しかも便利な能力を持っているくせに、妙に几帳面で真面目で義理堅い。そしてやたらとギャンブルが好き。つまりは、いかに相手を出し抜くかがキモの博打小説。ちょっとだけネタバレすると、双方ともにイカサマはなしです。
処刑人★ / The Hatchetman / Amazing Stories 1951年12月
 地球と火星は睨み合っており、金星はどっちつかず。火星はキングストン複製機を手に入れた。膨大な電力を食うが、核分裂物質を除きなんでも複製・転送できる。開拓当初、火星は卓越した能力を持つ人間を複製し火星に転送した。だが、そこには大きな落とし穴があった。複製人間には、倫理観が欠落していたのだ。複製人間たちは火星を乗っ取り…
 なんでも複製・転送できるのは便利と思ったが、費用の設定が上手い。やたら電力を食うので、雑誌や食料など安物に使ったらモトが取れない。だから対象は高級品だけ。今なら複製機は3Dプリンタに読み替え…いや、元素や化合物は3Dプリンタじゃ再現できないな。まあいい。貴重な物資、例えば名画や宝石の複製や移送が安上がりになれば、世界はどう変わるか。これだけでも長編になりそうなアイデアなのに、アッサリ使い捨てるとは。
 お話は処刑人の二つ名を持つ、大統領の腹心マット・アンダースの活躍を描く、ストレートなアクション物。とはいえ、そこはブラウン。誰が複製で誰がオリジナルか見分けがつかないのがミソ。

 初出を見ると、1950年8月から1951年12月までの1年半あまり。短い期間に執筆された作品群ながら、いずれも出来はいい。この時期、ブラウンは脂が乗りきっていて絶好調だったんだろうか。そんな具合に、作家の足跡を時系列順に辿れるのも、この作品集の面白さだ。

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2020年9月15日 (火)

オリヴァー・サックス「色のない島へ 脳神経科医のミクロネシア探訪記」ハヤカワ文庫NF 大庭紀男監訳 春日井明子訳

「私たちは色だけで判断するわけではないのです。目で見て、触って、匂いを嗅いで、それで分かるのです。全感覚を使って考えるんです。あなたたちは色でしか判断しませんけど」
  ――ピンゲラップ島

「グアムでは鳥の鳴き声はしないんだ。(略)昔はいろいろな鳥がいたんだが、今ではまったくいなくなってしまった。(略)みんな木登り蛇に喰われてしまったんだよ」
  ――グアム島

「幹を見れば簡単よ。古いソテツのほとんどの幹には1900年に輪ができているの。その年にひどい台風が来たから。それに、とても強い風が吹いた1973年にも輪ができているわ」
  ――ロタ島

【どんな本?】

 「火星の人類学者」や「レナードの朝」など、脳神経科医としての豊かな診察・治療経験から見聞きした、様々な症状を持つ人々の生きざまを医学エッセイとして記し、知られざるヒトの脳神経の不思議と、人それぞれの形で症状に折り合いをつける人たちの姿を描いてきたオリヴァー・サックスによる、少し毛色の変わった旅行記。

 本書は二回の旅行を元にした二部から成る。いずれも舞台は太平洋の島々だ。

 第一部はミクロネシア連邦カロリン諸島のポーンペイ島とピンゲラップ島。いわゆる赤緑色盲は遺伝性で程度は軽く、男の20人に1人ぐらいだ。完全な色盲=全色盲は珍しく、3万~4万人に1人である。だがこの島は歴史的な経緯で全色盲が12人に1人と、非常に多い。彼らはどのように暮らし、周囲の人々はどう受け入れているのか。同じ全色盲のノルウェー人生理学者クヌート・ノルドビーと共に両島を訪ね、彼らの暮らしを描き出す。

 第二部はマリアナ諸島のグアム島とロタ島。ここに住むチャモロ人にはリティコ-ボディグと呼ばれる風土病がある。筋萎縮性側索硬化症(ALS,→Wikipedia)やパーキンソン病(→Wikipedia)に似た症状を含む多様な症状で、日本の紀伊半島の一部にも似た風土病がある。現地で治療と原因究明に携わる医師のジョン・スティールに誘われ島に飛んだ著者は何を見たのか。

 島ならではの環境と歴史が生み出す奇妙な病気と、それに対応する人びとの姿、そして独自の進化を遂げた生態系とヒトの関わりを描く、著者ならではの旅行記。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Island of the Colorblind, by Oliver Sacks, 1996。日本語版は1999年5月に早川書房から単行本で刊行。私が読んだのは2015年3月25日発行の文庫版で本文約250頁に加え註がなんと91頁に監訳者あとがき7頁+文庫版への追記3頁。註も等々に面白いんで本文に含めてしまおう。9ポイント41字×18行×(250頁+91頁)=約251,658字、400字詰め原稿用紙で約630枚。文庫ではやや厚め。

 文章はこなれていて読みやすい。著者の他の作品に比べると医学的な話も少ないので、理科が苦手な人でも大丈夫だろう。

【構成は?】

 第一部と第二部は独立しているので、どちらから読んでも構わない。ただし先にも書いたように註が91頁と異様に多く、また雑学が好きな人には面白いので、読み逃すのはもったいない。

 前書き
第一部 色のない島へ
 島めぐり便
 ピンゲラップ島
 ポーンペイ島
第二部 ソテツの島へ
 グアム島
 ロタ島
註/監訳者あとがき

【感想は?】

 構成は第一部と第二部だが、テーマ的には三部構成に近い。

 1)は第一部の「色のない島へ」、2)は「第二部 ソテツの島へ」の「グアム島」、3)は「第二部 ソテツの島へ」の「ロタ島」だ。

 1)は珍しい全色盲が異様に多いポーンペイ島とピンゲラップ島の訪問記。ここでは同じ症状を抱えるクヌート・ノルドビーが大きな役割を果たす。彼のお陰で、著者たちは島の人々とグッと距離が縮まるのである。ヒトってのは、共通点を持つ人に親近感を抱く生き物なのだ。

 最初、著者はマスクン(全色盲)とそうでない者の見分けがつかない。ここでもクヌートに指摘されて見分けがつくようになる所で、人間の認識能力の奇妙さを思い知る。全色盲は色が判別できない、すなわちモノクロの世界に住んでいる。だがそれだけじゃない。強い日差しにも弱いのだ。そのため、昼間は目を「しばたいたり細めたりしている」。

 こういう症状が行動に及ぼす影響は、症状をよく知る人だけがわかる。島の人々も症状をよく知っていて、それを活かした職がちゃんとあったり。やはり全色盲ながら島で一番の織り手と言われるブリットの作品は、16色の毛色を使っているが…

「このジャケットの模様を見て楽しむには完全な色盲でなければならないの」
  ――ピンゲラップ島

 たぶん、全色盲の人は色が判らない反面、明度の差には敏感なんだろう。色が判る者はRGBに各8bit割り当ててるのに対し、全色盲はモノクロ24bitみたいな。これは男も同じで…

夜釣りにかけては全色盲の人たちは極めて優れていて、水の中の魚の動きや、魚が跳ねるときにひれに反射するわずかな月の光まで、たぶん誰よりもよく見えているようだった。
  ――ピンゲラップ島

 なんて特技を持ってたり。これは視覚だけでなく…

クヌートの聴覚は驚くほど鋭いのだ。
  ――ポーンペイ島

 そういえばレイ・チャールズやスティーヴィー・ワンダー、ジェフ・ヒーリーなど視覚を失ったミュージシャンも多いなあ。日本にも琵琶法師や瞽女(→Wikipedia)なんてのもいた。まあこれは音楽ファンやオーディオ・マニアも、ある程度は本能的に分かってたりする。真剣に聴き入る時、目を閉じて音に全神経を集中するでしょ。音を聴き分けるには、視覚が邪魔になるのだ。

 ってなのとは別に、島ならではの話も面白かったり。珍しい白人の全色盲であるクヌートに出会った島の人々は、現実に合わせて伝説を書き換えるのである。

私たちが島に着いた二日後には、マクスンに関する伝説が修正された形で伝わり始めた。
  ――ピンゲラップ島

 前世紀の終わりに島に来たノルウェー人が原因だって事になってしまう。古老の昔話ってのは、鵜呑みにしちゃいけないんです。

 続く 2) ではミステリ風に話が進む。

 テーマは風土病のリティコ-ボディグだ。ALSこと筋萎縮性側索硬化症やパーキンソン病に似た症状を示すが、原因はわからない。現地で治療に携わりつつ原因を研究する医師ジョン・スティールを中心に、彼が受け持つ患者たちの姿を交えて話が進む。

 医師として多くの患者を診てきた著者も、末期の患者の姿には衝撃を受け…

リティコやボディグの末期症状にある患者たちを見た私は疲労感に襲われ、どこかへ行ってしまいたい、自分のベッドに倒れ込みたい、素朴なリーフでもう一度泳ぎたい、などといった考えが無秩序に浮かんできた。
  ――グアム島

 と、思わず逃げ出したくなると弱音を吐いている。なにせ原因すら皆目わからない。

 本書にも幾つかの仮説が出てくるが、どれも決定的な証拠がない。島を出て10年~20年ほどして発病する人もいるし、外から島に来てチャモロ風の暮らしを10年~20年ほど続けて発病する人もいる。また世代的な偏りもあって、1960年代以降に生まれた者には症状が出ない。なら何か決定的な事が1940年代にあったのか。

 となると、最も大きな事件は太平洋戦争だろう、と当たりをつけるのだが…。ここでは大日本帝国が遺した戦争の傷痕も痛いが、同時に巻頭の地図を改めて見ると、今なおチャモロ人が置かれている立場の切なさが伝わってくる。これは池上永一が「ヒストリア」で描いた沖縄の痛みと全く同じだ。もっとも、そんな病を抱えた人もいろいろで…

「自殺は良くないよ。それは正しいことじゃない。でも、治る見込みもないのにただ待っているよりは、神が俺の命を終わらせてくれればいいのに、とは思うよ」
  ――グアム島

 なにせ体の自由は利かないけど、思考能力は衰えていないのだ。まあ普段は思い通り動かないけど、対応によっては驚くほど巧みに動く人もいいるのが不思議なところ。音楽が意外な効果を発揮する時もあるのは「音楽嗜好症」にも違うエピソードが出てた。ほんと、音楽ってのは不思議だ。逆に昔の事柄は思えていても新しい事は忘れてしまう症状もある。でも、そんな中でも…

「また来てください。あなたに会った事は忘れているでしょうから、また初めてお会いすることができますよ」
  ――グアム島

 なんて、ユーモアを保っている人もいる。こんな前向きに人生を生きられたらなあ。

 さて、 最後の 3) の「ロタ島」は、全く変わって著者のソテツ愛が炸裂する。

 イチョウと同様、原始的な植物なのだが、街路樹などでヒトに保護され生き延びているイチョウ(→「イチョウ 奇跡の2億年史」)とは異なり、どっこい野生で逞しく生きのびつつ今でも絶賛進化中だったりする。生きた化石と言われると「かろうじて生き延びてる」みたいな印象があるが、実は生存競争のベテラン・プレイヤーなのだ。

 今までのサックス先生の著作と違うのは、第一部・第二部ともに歴史的な事情が大きな意味を持っている点だろう。またやたらと充実した「註」も、モアイの意外な秘密など雑学の面白さが潜んでいて油断できない。くつろいで、でも油断せずにじっくり読もう。

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2020年9月10日 (木)

永田和宏「人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理」講談社ブルーバックス

古代製鉄炉では直接、低炭素濃度のルッペが製造されたが、溶鉱炉で作る銑鉄は炭素の溶解量が多いため、脱炭して低炭素鋼のルッペ鉄にした。
  ――第8章 精練炉の発展

反射炉は石炭を燃焼させて炉のアーチ型天井を加熱し輻射熱で加熱する方法である。これは鉄が石炭と直接接触しないので硫黄吸収の問題が起こらない。溶鉱炉からの直接鋳造に比べ、反射炉で銑鉄を再溶解すると鉄の品質が良くなり、大型の鋳物を制作することができた。
  ――第8章 精練炉の発展

19世紀は、ヨーロッパで錬鉄から溶鋼へと大きな技術革新が起こった時代である。
  ――第9章 鋼の時代

現代の製鉄法はどれほど進歩したであろうか。
意外に思うかもしれないが、「製鉄法」に限って言えば、現代の溶鉱炉は400年前の木炭溶鉱炉から原理は変わっていないし、製鋼法もベッセマーの転炉法から原理的には全く進歩していないと言える。
  ――第9章 鋼の時代

日本の刃物の鉈、包丁、鑿、鏨、鎌などは合金に刃を鍛接する構造になっている。台金には軟鉄である包丁鉄が使われ、刃には高炭素濃度の鋼が用いられた。
  ――第11章 脱炭と軟鉄の製造

【どんな本?】

 ヒトは様々な方法で鉄を作ってきた。古代のボール炉、産業革命で盛んになった溶鉱炉、現代の電気炉、そして映画「もののけ姫」にも出てきた日本独特のたたら製鉄。

 炉の中では何が起きているのか。なぜ鉄鉱石から鉄が取り出せるのか。それぞれの炉や製法にはどんな特徴があり、どんな鉄が取り出せるのか。そしてたたら製鉄は、どこが独特なのか。

 著者は文献を調べるだけでなく、日本はもちろんスカンジナビアまで飛んで炉の遺跡を巡り、更には自ら炉を作って製鉄や鍛冶に挑み、ばかりか「家庭でできるキッチン製鉄」まで考えだし実際に試してゆく。

 鉄に取り憑かれた著者が、製鉄の原理から歴史と現状そして未来までを思い描く、一般向け製鉄解説書の決定版。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年5月20日第1刷発行。新書版縦一段組み本文約241頁。9ポイント43字×16行×241頁=約165,808字、400字詰め原稿用紙で約415枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 ハッキリ言って「濃い」。いや文章は決して悪くないのだ。気取った表現はなく、モノゴトを素直に表現している。ただ、一つの文章に込められた情報が異様に多い。また、鉧(けら、いわゆる鋼)やノロ(スラグ、廃棄物)などの専門用語や、Fe2O3などの分子式がよく出てくるので、相応の覚悟と時間は必要。とはいえ、中学卒業程度の化学の素養があれば読みこなせる。

 なお、本書に出てくる主な元素記号を以下に挙げる。

  • C:炭素
  • O:酸素
  • N:窒素
  • Na:ナトリウム
  • Mg:マグネシウム
  • Al:アルミニウム
  • Si:ケイ素
  • P:リン
  • S:硫黄
  • Cl:塩素
  • Ca:カルシウム
  • Ti:チタン
  • Mn:マンガン
  • Fe:鉄

【構成は?】

 多少の前後はあるが、だいたい前の章を受けて後の章が続く形なので、なるべく頭から読もう。

  • はじめに
  • 第1章 古代人になって鉄を作ってみよう
    たたらとの出会い/材料と道具を集める/永田式たたらを作る/鉧塊作り
  • 第2章 「鉄を作る」とはどういうことか
    鉄は金属の王/鉄は宇宙で生まれた/鉄は銅と同じくらいの温度で解ける/鉄は魔術師/鉄はどのようにして作るか/スラグを見れば鉄のつくり方がわかる/鋼を作る/鉄と炭素を温度を操る
  • 第3章 製鉄法の発見
    製鉄技術からみた区分/銅精錬法から発見した製鉄法/製鉄炉の立地条件/製鉄技術の伝播
  • 第4章 ルッペの製造
    メヒコへの旅/湖底からの鉄鉱石採取と焙焼/ルッペの製造炉の構造/操業/鍛造/ルッペの性質
  • 第5章 最古の高炉遺跡 ラピタン
    ラピタンへの道/農夫炉/最古の高炉遺跡/ノルベリ周辺の高炉遺跡/ラピタン高炉の復元/木炭高炉の操業
  • 第6章 古代・前近代のルッペの製造炉
    鉄器時代初期の製鉄炉/ローマ時代の製鉄炉/中世の製鉄炉/西洋の低炭素鋼ルッペと東洋の高炭素塊
  • 第7章 溶鉱炉の発展
    レン炉から溶鉱炉へ/初期の溶鉱炉/産業革命時代の溶鉱炉
  • 第8章 精練炉の発展
    精練炉と加熱炉の発展/浸炭/ルツボ鋼の製造/パドル法
  • 第9章 鋼の時代
    製鉄の革命 転炉製鋼法の発明/平炉製鋼法の発明/鋼の大量生産時代/鉄スクラップの溶解/現代の製鉄法
  • 第10章 たたら製鉄のユニークな工夫
    たたら製鉄とその発展/日刀保たたら/微粉の砂鉄を飛ばさない工夫/高温を得る工夫/貧鉱の砂鉄を95%に濃化する技術/溶けた銑鉄と大きな鋼塊を作る
  • 第11章 脱炭と軟鉄の製造
    大鍛冶/包丁鉄の製造
  • 第12章 鉄のリサイクルと再溶解
    鋼の溶解と炭素濃度の調整/永田式下ろし鉄法
  • 第13章 銑鉄の溶解と鋳金
    こしき炉/現代のこしき炉/永田式こしき炉
  • 第14章 鍛冶屋のわざ
    鉄と鉄を接合する/鉄の表面に模様を出す
  • 第15章 「沸き花」の正体
    たたら炉で銑鉄と鋼塊の生成を知る方法/大鍛冶で脱炭の程度を知る方法/こしき炉で銑鉄の溶解を知る/鍛冶の「沸き花」/「沸き花」の発生機構
  • 第16章 和鉄はなぜ錆びないか
    鉄の錆び方/鉄の中の酸素濃度/黒錆ができる理由
  • 第17章 なぜルッペや和鉄の不純物は少ないか
    鋼中の不純物濃度を決めるスラグ中の酸化鉄/製鉄炉が下部の温度と酸素分圧/炉高1mと2mが鋼塊と銑鉄の分かれ目/鉄鉱石のサイズが還元速度に影響する
  • 第18章 インドの鉄柱はどのように作ったか
    デリーの鉄柱/鉄柱はどのように作ったか
  • 第19章 製鉄法の未来
    第3の製鉄法/製鉄炉の生産効率/たたらを現代に/マイクロ波製鉄炉の実現可能性
  • おわりに/参考文献/さくいん

【感想は?】

 ヤバい人だ、この著者。

 なにせ、いきなり刀匠の真似をして自分たちで炉を作るのだ。さすがに最初は失敗したが、著者は諦めない。再び刀匠を訪ね秘伝を聞き出そうと食い下がる。さすがに秘伝は聞き出せなかったようだが(そりゃそうだw)、ヒントをもらい改良を重ね、ついに「永田式たたら」を完成させてしまう。きっと刀匠も根負けしたんだろうなあ。

 この辺を読むと、大学の工業系って楽しそう、なんて思ったり。いわゆる「モノ作り」が好きな人には、天国なんじゃなかろか。まあ、レンガを積み重ねるなど気力体力は使うし、一酸化炭素が出るんで危なくもあるけど。

 もちろん、真面目な話も満載だ。例えば…

現在、鉄は炭素の含有量によって次のように分類されている。
工業用純鉄は炭素濃度0.02%以下のものを言う。
炭素濃度が0.02~2.1%のものを「鋼」、
炭素濃度2.1%以上は「鋳鉄」あるいは「銑鉄」と呼ばれる。
  ――第2章 「鉄を作る」とはどういうことか

 なんて基礎的な話はもちろん、炉の中で何が起きているかも、こと細かく説明しているのが嬉しい。ここで主に関係しているのは、酸素と炭素と鉄。

炭素は炉を高温にするだけでなく、自らが鉄と化合している酸素と結びつくことで、鉄を還元する還元剤になる。更に炭素は鉄に溶解することで、鉄の融点を下げることもできるうえ、溶解量を調節することで、鉄を望みの硬さにできる。
  ――第2章 「鉄を作る」とはどういうことか

 炭素(木炭やコークス)が燃え(=酸素と結びつき)熱を出す。熱で鉄鉱石中の鉄が溶け始める。更に炭素は鉄に混じり融点を下げ、更に鉄を溶けやすくする。鉄鉱石の中にはケイ素やカルシウムもあるけど、それらは酸素と化合し融点の高い二酸化ケイ素や酸化カルシウムになり、鉄と分かれスラグになる。他にも一酸化炭素とかが関係してて、その辺をこの本は実に細かく説明していてありがたい。

 当然、「何がどれぐらい混じっているか」で鉄の性質も違う。だもんで、炉の温度の調整が大事なのだ。

強く吹いて鉱石の溶解を速めると、還元された鉄が吸炭してルッペは銑鉄になる。弱火にするとルッペの鍛造性はよくなるが、鉱石の大部分が未還元のままスラグになり、歩留まりが悪くなる。この中間の最も有利な所を取るのが職人の技である。
  ――第6章 古代・前近代のルッペの製造炉

低い温度で製鉄を行うと、鉄中のリン濃度を低くできる。
  ――第15章 「沸き花」の正体

 今の製鉄は溶鉱炉、ドロドロの液体になった鉄が流れ出すアレだけど、昔は違った。炉の底に鉄の塊=ルッペが残るので、これを取り出し製品を鍛造したのだ。だもんで剣ぐらいは作れるけど、大砲は無理。そこで登場したのが溶鉱炉。

溶鉱炉は16世紀にはイベリア半島を除いて西ヨーロッパに広がり、鋳鉄製大砲が製造された。
  ――第7章 溶鉱炉の発展

溶鉱炉は大型化していき、20世紀後半では炉の高さと容量を急速に大きくした。現在では高さ30m、炉の内容積は5000㎥と巨大になり、送風温度は1200℃になっている。
  ――第7章 溶鉱炉の発展

 もちろん、鉄の性質は炉の温度だけでなく、元になる鉄鉱石の種類によっても違ってくる。ボフォースなど製鉄じゃ名高い北欧のスウェーデンやフィンランドにも著者は出かけ、その秘密を探ってたり。この素材はある意味、砂鉄と近いのかも。素材としては鉄は昔から屑鉄も使われていたけど、最近じゃ…

スクラップは様々な合金元素が混じっており、これらの不純物を鋼材の性質に影響を与えない程度に除去することは困難である。(略)現在、スクラップは品質別に細かく分類して集荷され、不純物が混じらないように破砕して物理的に分別している。
  ――第9章 鋼の時代

 などと前半では主に西洋の製鉄技術を追いかけるが、終盤では日本独自のたたら製鉄に焦点が集まってくる。何せ日本には鉄鉱石が少ない。だもんで、材料からして違う。なんと砂鉄だ。これは何かと面倒で…

砂鉄は直径0.1mm程度の微細な粉末である。強く吹くと吹き飛び、目詰まりして高温ガスの通気を阻害する。そのため溶鉱炉では使えない。世界の製鉄技術の歴史の中で、唯一たたら製鉄だけがこの微粉の砂鉄を使って溶けた銑(銑鉄)と大きな鉧塊(鋼塊)を同じ炉で製造した。
  ――第10章 たたら製鉄のユニークな工夫

 この秘密を探るため日刀保たたらにもぐり込み、秘訣を聞き出そうとしてすげなく断られたりw このあたりが同じ学者でも工学者と伝統芸術の守り手の違いなんだろうか。でも結局は調査などで何かと都合をつけてくれたりするのは、やはり知識を求めてやまない学者の業が同志に通じたのかも。

 そんな著者の学者魂が炸裂してるのが、最後の「第19章 製鉄法の未来」の「マイクロ波製鉄炉の実現可能性」。なんとキッチンで鉄を作ってしまう。これ、下手すると小学生でも夏休みの宿題でやれたりするから、実にヤバいw しかもキチンとコストを計算してるあたりが、さすが工学者というか。

 見た目は薄いが中身は思いっきり濃い。とはいえ文章は素直だし記述は親切なので、じっくり読めばちゃんと理解できる。何より、製鉄の過程、それも炉の中で何が起きているかについて、素材や元素の役割から化合の過程までこと細かく書いているのは嬉しい。ただし、繰り返すが中身は濃いので、じっくり腰を据えて挑もう。

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2020年9月 7日 (月)

SFマガジン2020年10月号

「絶対に死なない。死ぬよりも面白いこと見つけたんだよ」
  ――牧野修「アドレレンスと嘔吐/1969」

「ここは間違いなく、戦場です」
  ――神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第二話」

クランツマンの秘仏とは、信仰が質量を持つという一種の思考実験である。
  ――柴田勝家「クラフツマンの秘宝」

「時代というのは、いつだってだんだんとよくなっていくものです」
  ――劉慈欣「2018年4月1日、晴れ」泊功訳

 376頁の標準サイズ。

 特集は「ハヤカワ文庫SF創刊50周年記念特集」。

 小説は10本。

 うち連載は5本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第二話」,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第32回,劉慈欣「2018年4月1日、晴れ」泊功訳,藤井太洋「マン・カインド」第13回,夢枕獏「小角の城」第61回。

 読み切りも5本。牧野修「アドレレンスと嘔吐/1969」一章まるごと100枚33頁,菅浩江「博物館惑星 余話 海底図書館」,柴田勝家「クラフツマンの秘宝」,春暮康一「ピグマリオン」後編,アリ・ロビネット・コワル「火星のレディ・アストロノート」酒井昭伸訳。

 まず「ハヤカワ文庫SF創刊50周年記念特集」から。

 渡辺英樹「ハヤカワ文庫50年の歩み」。SF文庫を刊行する際、取次の重役を説得せにゃならなかったって所に、出版業界の内情がチラリと見える。電子ブックが主流になると、そういうくびきも減るんだろうか。

 SF翻訳家による「わたしのハヤカワ文庫SFベスト翻訳」、あまり表に出ない翻訳家の声が聴けるのが嬉しい。いいよね、「キリンヤガ」。小尾芙佐の講演が聞けるなんて、なんて贅沢な高校なんだ。やっぱり人気はアルジャーノンか。先生、かわいいな。きっと生徒にも好かれてるんだろうなあ。

 牧野修「アドレレンスと嘔吐/1969」。大阪万博を翌年に控えた1969年。中学生のシトこと森賢人は、サドルこと御厨悟と仲がいい。サトルはテレビ漫画「大人はわかってくれない」に入れ込んでいる。オトナ人間に飼われているコドモたちが、オトナ人間に反乱を起こす物語だ。オトナたちは密かにコドモの心に入り込み、オトナ化してゆく。サドルはこの物語を本当だと思っている。

 「テレビ漫画」「ゲバルト学生」「原子力船むつ」などの言葉が醸し出す、あの頃の空気がたまらない。いるよね、ジャージ姿の体育教師。なぜか生徒指導でデカいツラしてる。あの頃は教師もプカプカ煙草吸ってたなあ…なんて遠い目をして油断してると、いきなり地面が溶け出すような牧野ワールドに放り込まれるから要注意。というか舞台はオッサン・オバサンは嬉しいんだが、お話はローティーンに受けそう。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第二話」。フリーのジャーナリストのリン・ジャクスンは、ついにフェアリイ星にやってきた。もともとフェアリイ星は立ち入りが厳しく制限されている。ましてフリーのジャーナリストとなれば、まず取材許可は下りないのだが…

 気が付けば冷戦の只中にいた世代としては、地球のジャムに対する無関心にも納得しちゃったり。物心ついた時からそうなら、そういうモンだと思っちゃうんだよなあ。今月はこれで終わりって、そんな殺生な。「人間の形をした戦闘AI」「問題児というより犯罪人」って、確かにどっかで聞いたようなw 零との対面が楽しみでしょうがないw

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第32回。ハンターたちとの会議では大きな収穫があった。ウフコックにつながる人物が掴めたのだ。さっそく確保に動くイースターズ・オフィス。同じころ、ハンターたちも別の目標へ向かい動き始める。

 静かな緊張感が漂う前半に対し、後半は派手なバトル・アクションが全開。相変わらずエンハンサーでもないレイ・ヒューズはやたら頼りがいがある。また久しぶりにハンターの針が出てきたのも嬉しい。

 菅浩江「博物館惑星 余話 海底図書館」。セイラ・バンクハーストは、博物館惑星<アフロディーテ>の図書館司書だ。いつものように仕事をしていると、<総合管轄部門>の田代美和子が訪ねてきた。十歳ぐらいの背丈のロボットを連れている。野良の自己学習型AIとして潜伏していたC2が、人間型のボディを得たのだ。C2は絵本コーナーで遊び始めたが…

 「不見の月」が2020年の第51回星雲賞の日本短編部門に輝きSFマガジン2020年6月号の「歓喜の歌」でフィナーレを迎えた博物館惑星シリーズのボーナス・トラック。電子化が進むと、図書館の役割も変わっていくんだろう。とすると現在の図書館の雰囲気を味わえるのは、現代だけの贅沢なのかも。AIに体は必要かって問いは今なお議論の真っ最中のはず。ヒトと円滑に意思疎通するAIを育てるには必要だと私は思うんだが、どうなんだろう?

 柴田勝家「クラフツマンの秘宝」。1920年生まれのスウェーデン人の東洋美術学者ヨアキム・クラフツマンは、論文中に「信仰が質量を持つ」と記した。最初はジョークだったが、幾つかの実験も行っている。彼は1961年に伊勢波観音寺を訪れ、約千二百年も非公開とされた本尊の十一面観音像を調査している。

 改めて考えると、確かに秘仏ってのは不思議なシロモノだ。隠されると「ナニか特別なモノ」みたく思うのが人のサガ。そういうヒトの性質を箔付けに利用した、みたいな下世話な解釈もできるけど。やっぱ限定○○とかって客引き文句としちゃ強力だし。お話は諸星大二郎ファンには嬉しい展開。にしても、なぜに柴田勝家だけ「殿」w

 劉慈欣「2018年4月1日、晴れ」泊功訳。基延。ヒトの寿命を約三百年に延ばす技術。約五年前に事業化されたが、今は高価なため一部の者しか使えない。ぼくは悩んでいた。危ない橋を渡らねばならないが、大金を掴む手段の目途がついた。これで基延に手が届く。だが恋人とは別れる羽目になるだろう。世の中ではネット世界のバーチャル国家が台頭し、政治的な実体を持ち始めている。

 2010年の作品だが、IT土方の描写はなかなかの生々しさ。8頁の短編にアイデアとイベントをギッシリ詰めこんで、お話はスピーディーかつドタバタ風味にコロコロと進んでゆく。ノリがよくてビートの利いたリズムは、ちょっとリズムは筒井康隆に似てるかも。

 春暮康一「ピグマリオン」後編。脳内AIのピグマリオンの甲斐あってか、南野啓介は由希と結婚にこぎつけつた。ばかりか、今まで渋っていた由希もピグマリオンを導入する。やがて娘の陽向が生まれ、三人の暮らしは幸せに満ちていた。そんなある日、由希は…

 「火星のレディ・アストロノート」と同様、夫婦間の想いを描いた作品。何事もソツなくこなすピグマリオン、手が届く価格だったら欲しいなあ。会議の場面は「ボッコちゃん」を思い出した。

 藤井太洋「マン・カインド」第13回。ここにきて<アルバトロス>なんて面白そうなガジェットを投入するかあ。実用化はやっぱり軍用が先なのね。事故率が話題のアレ(→Wikipedia)も将来は無人化が進むんだろうか。

 アリ・ロビネット・コワル「火星のレディ・アストロノート」酒井昭伸訳。1952年に米東海岸に巨大隕石が落ちたのをきっかけに宇宙開発が盛んになり、火星にコロニーまでできた。かつて宇宙飛行士として名を馳せたエルマも今は63歳。火星で夫のナサニエルと共に暮らしている。プログラマーのナサニエルには今でも時おり仕事が舞い込むが、エルマにはもう宇宙へ行く機会はないだろうと諦めていたが…

 噂の「宇宙へ」の後日談。ってまだ読んでないけど。敢えてエルマを指名する理由を丁寧に描いている。それ以上に、「間に合わなかった」ナサニエルの気持ちが胸に響く。ああいうの、親しい人より見知らぬ他人の方がいいんだよな。最もいいのはロボット、それもヒトに似てないメカメカしい、いかにも道具って感じのやつ。ちと検索したら色々あって、やっぱり需要は多いんだなあ。早く普及して欲しい。

 東茅子のNOVEL&SHORT STORY REVIEW「コロナの時代」。「クリスタル・レイン」のトバイアス・S・バッケルに懐かしさを感じた後、「倒壊する巨塔」のローレンス・ライトにはビックリ仰天。ノンフィクション作家じゃなかったのか。まあドミニク・ラピエール&ラリー・コリンズも「第五の騎手」なんて傑作を書いてるし。

 AI研究者にインタビュウする「SFの射程距離」、今回はA-Lifeの池上高志。プログラマはサンダーバートだと2号にやたらこだわるって説があるけど、研究者もかw

【今日の一曲】

Hitch a Ride - Lexington Lab Band

 最近、Youtube で昔好きだった曲のカバーをよく聞いてる。中でもコレは演奏力は抜群でアレンジもオリジナルに忠実、そしてなによりレスポールの音色への拘りがたまんない。やってる Lexington Lab Band はUSAケンタッキー州のミュージシャンたち。他にも70~80年代の名曲を巧みにカバーしてるので、プレイリストを聴いてるといつまでも抜け出せない。

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2020年9月 3日 (木)

ハヤカワ文庫NFで文庫化してほしい本13+2冊

 今さらだが Twitter でこーゆーやりとりがあった。

一ノ瀬翔太@shotichin 8月26日
埋もれた傑作ノンフィクションがありましたら弊社で文庫化しますので教えて下さい

ちくわぶ@chikuwafu 8月26日
ジョエル・ベスト「統計はこうしてウソをつく」白揚社
G.M.ワインバーグ「ライト、ついてますか」共立出版
トーマス・ヘイガー「大気を変える錬金術」みすず書房
マーチン・ファン・クレフェルト「戦争文化論」原書房
W.G.パゴニス「山・動く」同文書院インターナショナル

ちくわぶ@chikuwafu 8月26日
ハーレー他「ヒトはなぜ笑うのか」勁草書房
スーザン・フォワード「となりの脅迫者」パンローリング
ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」紀伊國屋書店
ボビー・ヘンダーソン「反★進化論講座」築地書館
ロイ・アドキンズ「トラファルガル海戦物語」原書房

ちくわぶ@chikuwafu 8月26日
デヴィッド・M・バス「『殺してやる』 止められない本能」柏書房
ジョン・パーリン「森と文明」晶文社
中村明一「倍音 音・ことば・身体の文化誌」春秋社

あと御社の
神子清「われレイテに死せず
コリンズ&ラピエール「おおエルサレム!
の増刷を

 まんま「今ちくわぶがお薦めする埋もれたノンフィクション15冊」なんで、ここで紹介する。

  1. ジョエル・ベスト「統計はこうしてウソをつく」白揚社
    世論調査や政策決定などでは、よく統計数字を使う。その実体はどんなものなのか。著者は統計学者ではなく社会学者だ。そのため、統計学の難しい所には立ち入らないので、数学が苦手な人でも大丈夫。それより数字がどのように出来上がっていくか、その過程を暴く迫力が素晴らしい。
  2. G.M.ワインバーグ「ライト、ついてますか」共立出版
    世の中の「問題」は、どのように出来上がるのか。それらは、どうすれば解決できるのか。IBMにプログラマとして勤めた著者が、軽妙な文章とユーモラスなイラストで綴る、問題と解決のエッセイ集。いつかこのブログで紹介したいと思っているんだが…
  3. トーマス・ヘイガー「大気を変える錬金術」みすず書房
    現代の社会を支える化学肥料。その雛型であるアンモニア合成を成し遂げたフリッツ・ハーバーと、それを工業化・産業化したカール・ボッシュ二人の人生を、二つの世界大戦を背景に描く。お堅い印象のみすず書房だが、この本はドラマとして滅茶苦茶に面白い。
  4. マーチン・ファン・クレフェルト「戦争文化論」原書房
    なぜ戦争が起きるのか。クラウゼヴィッツが戦争論で唱えた「戦争は政治の延長である」に真正面から異議を唱え、怖ろしい人間の本性を読者に突きつける問題作。受け入れたくない説だが、戦争を防ぐには直視しなければならない事でもある。
  5. W.G.パゴニス「山・動く」同文書院インターナショナル
    湾岸戦争で兵站を担当した著者による、一種のビジネス本ながら、軍ヲタにとっては「コンテナ物語」と並ぶ必読書。軍事系のわりに文章はこなれている上に、エピソードの紹介も軽妙で楽しく読める。
  6. ハーレー他「ヒトはなぜ笑うのか」勁草書房
    タイトルそのまま、「笑い」を徹底的に分析した本。やはりお堅い印象が強い勁草書房ながら、ジョークをたっぷり収録しているため、とても楽しく読める。優れたハッカーは往々にしてユーモアが豊かなのも、この本に従えば納得出来たり。
  7. スーザン・フォワード「となりの脅迫者」パンローリング
    人との会話、特に交渉において、困った人たちがよく使う汚い手口を徹底的に暴いた本。あまし深い付き合いのない人なら「なるたけ近寄らない」ようにすればいいんだけど、家族や職場の上司だと逃げられないから困るんだよね。
  8. ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」紀伊國屋書店
    善とは、正義とは何か。一見わかりやすいようだが、人により善悪のモノサシは全く違う。これが食べ物や音楽の好みならともかく、善悪となると殺し合いにまで発展しかねない。それはなぜなのか。どうすれば共に生きていけるのか。争いたくない人のための必読書。
  9. ボビー・ヘンダーソン「反★進化論講座」築地書館
    FSM,。Flying Spaghetti Monster。空飛ぶスパゲッティ・モンスター教ことスパモン。最近になって出現した新興宗教の中でも、最も勢いが強く急激に信者を増やしつつあるスパモンの経典。
  10. ロイ・アドキンズ「トラファルガル海戦物語」原書房
    1805年10月21日の、ネルソン率いるイギリス艦隊とヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊の海戦を、政略・戦略・戦術・戦闘はもちろん、乗員の食事から排泄に至るまで、圧倒的な解像度で再現したド迫力の戦記。帆船小説を読む前に、まずコレを読んでおこう。
  11. デヴィッド・M・バス「『殺してやる』 止められない本能」柏書房
    著者は主張する。「ヒトには殺しの本能がある、ある条件下で人殺しは子孫を残すのに有利だった」と。読み終えてしばらく、私は胸の高まりが収まらなかった。
  12. ジョン・パーリン「森と文明」晶文社
    メソポタミア,ギリシア,ローマ。古の文明が栄えた地は、いずれも豊かな森におおわれていた。森と文明の意外な関わりを明らかにし、歴史の見方を変える衝撃の一冊。「木材と文明」と合わせて読むと、林学の泥沼に引きずり込まれます。
  13. 中村明一「倍音 音・ことば・身体の文化誌」春秋社
    人の声はみな違う。ハスキーな桑田佳祐、伸びのある浜崎あゆみ、そして千変万化の美空ひばり。その違いはどこにあるのか。倍音構成を軸に声から楽器そして音楽へと分析を広げ、東西の音楽の違いや政治家の声による印象までを語り、音楽ファンとオーディオマニアに強烈なボディブローを叩きこむ衝撃作。
  14. 神子清「われレイテに死せず
    太平洋戦争末期の1944年11月。陸軍玉兵団(第一師団)は、レイテ島奪還のためオルモックに逆上陸する。第57連隊の神子清伍長は敵の旺盛な火力により兵力の大半を失い、本隊とはぐれジャングルを彷徨う羽目になる。いわゆる遊兵となりフィリピンの島を巡った帝国陸軍兵たちの知られざる実態を生々しく描く、貴重な従軍手記。
  15. コリンズ&ラピエール「おおエルサレム!
    1948年5月14日のイスラエル独立と同時に発生した第一次中東戦争を、焦点となったエルサレム防衛戦を中心に、イスラエル・アラブ双方の指導者から市民まで、多彩な視点でモザイク状に再現する、20世紀ドキュメンタリーの金字塔にして、今なお続くパレスチナ問題の原点を描く傑作ルポルタージュ。

 やっぱ軍事系が多いなあ。あと、「ライト、ついてますか」はそのうち紹介したいんだけど、他にも読みたい本が山ほどあるんでブツブツ…。

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2020年9月 2日 (水)

ヘンリー・ペトロスキー「ゼムクリップから技術の世界が見える アイデアが形になるまで」朝日新聞社 忠平美幸訳

ありふれたものは、一見、単純に思えるだろうが、それらを考案し、開発し、製造して市場に出すことは、ひどくむずかしいかもしれないのである。
  ――はじめに

工学者ドン・クロンキスト「おびただしい数のBOPP(Broken-Off Pencil Point, 鉛筆の折れた芯先)にかんして不可解なのは、どれもこれも大きさと形がほぼ同じだったことだ」
  ――2 鉛筆の先と分析

技術的な企画は、それが定められた時点での最低限の期待値を明示する半面、メーカー側が追及する性能水準を制限するものではない。
  ――5 ファクシミリとネットワーク

技術者が最高の成果をあげるのは、製品の未来の顧客――航空会社であれ乗客であれ――と意見を交換するときなのである。
  ――6 飛行機とコンピュータ

治水は、農業社会が確立してからの数千年間で工学技術が成しとげた最もすぐれた功績の一つである。
  ――7 水と社会

1850年代、ごく高い塔という考えには重大な欠点があった。どうやって人びとを地面から最上部まで運ぶかである。
  ――9 建物とシステム

【どんな本?】

 土木工学の研究者であるとともに、モノや技術の進歩の歴史を辿って楽しく軽妙な読み物に仕上げるヘンリー・ペトロスキーによる、連作コラム集。

 書類をまとめるクリップ。気軽に書ける鉛筆。布製品に欠かせないジッパー。私たちの身の回りにあるモノは便利で使いやすく、単純だと思われている。だが、それらが現在の形になるまでには、様々な紆余曲折があり、幾つもの特許に支えられており、今なお改良が続いている。

 これが大型旅客機や上下水道や橋や高層ビルなどの大がかりなモノとなると、機能と技術と費用に加え、社会・自然双方にわたる環境とへの影響や、地域住民や政府との関係など、より多くの事柄と結びついてくる。

 それらのモノがなぜ今のような形になったのか。エンジニアたちはどんな要素を考えねばならなかったのか。どんな失敗があり、どんな工夫で乗り越えてきたのか。

 身近なモノから有名な建築物まで、様々な工学の失敗と成果を豊富なエピソードで紹介しつつ、曲がりくねった道を辿って進む工学の世界を紹介する、一般向けの工学解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は INVITATION BY DESIGN : How Engineers Get from Thought to Thing, by Henry Petroski, 1996。日本語版は2003年8月25日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約280頁に加え、名和小太郎の解説5頁。9ポイント46字×18行×280頁=約231,840字、400字詰め原稿用紙で約580枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。応力だの剪断力だのといった物理学の言葉が出てくるが、わからなければ読み飛ばしていい。「名前が違うんだから違う力なんだろう」ぐらいで充分。それより大事なのは、時代と共に考え方や設計の目標が変わってゆくこと、その変わり方の原因と過程の物語にある。

【構成は?】

 各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

  • はじめに
  • 1 ペーパークリップと設計
    材料の弾力性/針金をクリップに成形する/ゼムクリップ/クリップの改良/変更と競争/形と機能/クリップの特許の実例/さらにいくつかのクリップの特許
  • コラム もっといいペーパークリップをデザインする
  • 2 鉛筆の先と分析
    片持ち梁/シャープペンシルの先/木軸の鉛筆/BOPP(鉛筆の折れた芯先)/BOPPに目をこらす/さらなるッ分析/分析結果を分析する
  • コラム 鉛筆を描く
  • 3 ジッパーと開発
    スライド・ファスナー/フックレス・ファスナー/関連する開発/プラスチックのジッパー
  • コラム 再密封できるっていうけれど、いま密封されてるの?
  • 4 アルミニウム缶と失敗
    アルミニウムの飲料缶/環境面での失敗
  • コラム こいつを、きみに
  • 5 ファクシミリとネットワーク
    ファクシミリ送信器/電話ネットワーク/ファクシミリ伝送の標準化/社会的、文化的要因/ファクシミリ装置のさらなる発達
  • コラム 同じなのに、ちがう
  • 6 飛行機とコンピュータ
    概念設計/従来の航空機設計/コンピュータ支援設計/フライ=バイ=ワイヤー/エンジンと経済性/ヒューマンファクター
  • コラム 「当機は禁煙になっております」
  • 7 水と社会
    給水と排水/下水道/シカゴの事例/設計の問題/数理モデルとコンピュータ・モデル/水質/その他の問題
  • コラム 「パリの下水道へようこそ!」
  • 8 橋と政治
    サンフランシスコの橋/初期のベイブリッジ案/片持ち梁橋/さらなる提案/場所の選定/最終的な設計/橋と交通/橋と地震
  • コラム 実現できることをする
  • 9 建物とシステム
    水晶宮/塔とエレベーター/ウールワースビル/超高層ビルとエレベーター/高層ビルの揺れやねじれ/予期せぬ問題/環境要因
  • コラム 世界一のっぽの建造物 それはシカゴにはない
  • 解説:名和小太郎/図版クレジット/索引

【感想は?】

 これまで読んできたペトロスキー本の「まとめ」みたいな本だ。

 ペトロスキーは鉛筆やフォークや橋など色々な工業製品について、それがなぜ今の形になったのかを、地道な調査で明らかにしてきた。現代の私たちには単純に思える鉛筆も、今の形にたどり着くまでには幾つもの失敗と小さな成功が積み重なっているのだ(→「鉛筆と人間」)。

 同じテーマが、最初の「1 ペーパークリップと設計」でも繰り返される。昔から書類をまとめる需要はあったが、使われていたのはピンだ。面倒くさいし、下手すると指に刺さったり外すときに書類を破いてしまう。単純かつ完璧に思えるゼムクリップも、針金の端が紙に引っかかったり大量の紙はまとめきれなかったり厚すぎたりと、状況によって不具合は幾らでも見つかる。

新たな改良型クリップの特許が脈々と続いている事実が証明しているように、多くの発明家にとって、完璧なクリップはいまだ達成されていない目標なのである。
  ――1 ペーパークリップと設計

 結局は状況と目的によって相応しいクリップを使い分ける羽目になるわけで、プログラミング言語が際限なく増えていくのも似たようなモンなんだろう。もっともプログラミング言語の場合、プログラマが言語を作るのが好きってのもあるけどw

 そのプログラミング言語、今は LISP みたいなS式や PostScript みたいな逆ポーランド記法は廃れてて、c言語に似た文法が流行ってる。分の区切りはセミコロンって奴ね。関数の引数もたいてい値渡しだし。演算子の優先順位が面倒臭いんで私は好きじゃないんだが…

同じ基本理念を土台にして多様化や改良が進んでゆくのが、たいていの工学的な研究開発の特徴である。
  ――3 ジッパーと開発

 まあハードウェアもノイマン型ばっかしだし、OSも unix 亜流か Windows 亜流ばっかだしなあ。なお、この章では、終盤でジップロックが出てきたのには驚いた。言われてみれば機能はジッパーと同じだね。ところでズボンのジッパーにナニを挟んで痛い思いをした男は多いと思うんだが、あれ防ぐ工夫はないんだろうか? もっとも、できても宣伝が難しいけどw

 そんな風に、モノの進化は失敗と改善の繰り返しだ。もちろん、技術者も経営者も失敗したいワケじゃない。

ある設計をどんな方法で試験しようと、つねにその根本にある方針は、失敗を未然に防ぐことである。
  ――4 アルミニウム缶と失敗

 デバッグは大事だよね。にも関わらず、飲料用の缶は何度も進化を繰り返してきた。年寄りは、オープナーが必要な缶を覚えているだろう。飲む際はオープナーで蓋に二つの穴、空気穴と飲料を出す穴を開けるのだ。さて、ピクニックにオープナーを持ってくるのを忘れたアーマル・フレイズは、「プルトップ式のアルミ缶を一晩で考案」した。

 アイデアそのものは単純なんだけど、みんな「缶とはそういうもの」と思っていたのだ。こういう「なんか不便」って気持ちが、技術を進歩させるんだなあ。

 ところがそのプルトップも、タブのポイ捨てが問題になる。この解決はさすがに一晩でとはいかず…。今のモノの形ってのは、幾つもの失敗の上に成り立っているんです。

 缶みたく生産者→消費者って関係のモノならともかく、ファクシミリは送信者と受信者の双方が装置を持ってないと意味がない。ここでは新聞社によるファクシミリ放送に驚いた。昔のSFには出てくるけど、本当にあったんだなあ。すぐテレビに席捲されたけど。また日本が熱心だったのも意外。欧米はアルファベットが少ないからテレックスでイケるけど、日本語は文字が多いから符号化が大変なのだ。

 これが大型旅客機や建物みたく大規模なモノや、水道や橋など公共のモノともなると、何度も失敗を繰り返すワケにはいかない。だもんで設計の段階で多くの人の意見を聴くんだが、そこで考えにゃならんのは強度や精度など技術的な問題に限らず、美観や法律、そして関係各省庁との調整が必要になったり。前例の有無や有名な事件も重要で…

あらゆる工学の取り組みは、それをとりまく文化や政治や時代によって方向づけられ、その逆もまたいえるのである。
  ――8 橋と政治

 と橋を例に言ってるんだが、次の「9 建物とシステム」では911で潰れたツインタワーが出てくる。これ当時の流行りでチューブ構造なんだけど、ご存知の通り床が崩落した。こういう有名な事件が、橋やビルの設計にも影響してきたり。

 この章では他にも高層ビルが抱える意外な問題が出てきて、ブルジュ・ハリファはどうなってるんだろ、とか妄想が膨らむのだ。ケーブルなしエレベーターとか、まるきし軌道エレベーター試作機みたいでSF者の胸が熱くなる。理屈は上下に動くリニアモーターカーなんだけどね。

 ペトロスキーの他の著作に比べると、取り上げるテーマが広くてバラエティ豊かな味が楽しめる分、掘り下げは少なくてやや薄味な感はある。頁数も少なくとっつきやすいので、ペトロスキーを最初に読む人に向いてると思う。

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