佐藤岳詩「メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える」勁草書房
メタ倫理学においては、そもそも規範倫理学が前提としている様々なことが疑問に付される。たとえば「正しいこと」など本当に存在するのだろうか。そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのだろうか、などである。
――第1章 メタ倫理学とは何か道徳について何かを問うても、答えなど見つからない。偉そうなことを言っている人も、結局は自分の感情を表現しているだけだ、と表現型情緒主義者は述べる。
――第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである非実在論―非認知主義―表出主義的な世界観は、道徳を自分たちの中から生み出されて、私たち自身を導くものとして捉えた。他方で、実在論―認知主義―記述主義的な世界観は、道徳を世界に実在する真理と考え、それが見えれば私たちは自らそれに向かって歩みを進めるものと捉えた。
――第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することであるまっとうな心をもった人であれば、そうした場面に遭遇したときに、そうしなければならないことがわかるし、それでいい。そう直感主義は考える。
――第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
【どんな本?】
倫理学は大雑把に三つの分野がある。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学だ。
規範倫理学は、善悪の基準を求める。最大多数の最大幸福を求める功利主義、善き性質を身に着けるのが大事とする徳倫理学などだ。
応用倫理学は、私たちが直面している切実で生々しい問題を扱う。脳死臓器移植の是非、IT技術者などの規範を決める専門職倫理学、環境問題を考える環境倫理学などだ。
対してメタ倫理学は、規範倫理学の根拠に疑問を呈する。
そもそも善悪の基準は存在するのか? そもそも善悪とは何なのか? そもそも善悪について語る必要はあるのか?
そう、メタ倫理学の特徴は「そもそも」にある。規範倫理学が礎としている基本的な事柄に対し、「そもそも、○○って何なの?」と疑い、何らかの解を示す。それがメタ倫理学だ。
ただし、今のところ、メタ倫理学に決定的な解は出ていない。幾つもの流派が分かれては合流して新しい流派を生み、喧々囂々の戦国時代にある。
そこで本書は、メタ倫理学の入門書として、メタ倫理学の全体を見渡す「地図」を目指している。
メタ倫理学は、どんな問題を扱うのか。それぞれの問題に対し、どんな説や流派があるのか。流派の間では、どんな議論が交わされているのか。そして、そもそもメタ倫理学とは何なのか。
敢えて個々の流派の深みに踏み入る事を避け、あくまでもメタ倫理学全体を俯瞰する立場で著した、素人向けのメタ倫理学の入門書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2017年8月20日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約325頁に加え、あとがき8頁。9ポイント52字×20行×325頁=約338,000字、400字詰め原稿用紙で約845枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。
つまりは哲学の本なので、どうしてもややこしい表現が多いのは覚悟しよう。ただし、できる限り分かりやすくするために、著者は工夫を凝らしている。なるべく身近で具体的な例を示す、部や章の最初と最後に「まとめ」を入れる、箇条書きを使う、などだ。また、本文頁に脚注を入れ、頁をめくらずに済むようにしているのも嬉しい。
表紙の漫画っぽいイラストや、手に取りやすいソフトカバーの製本など、ややこしい事柄をできる限りわかりやすく伝え、読者をメタ倫理学の泥沼に引きずり込もうとする、著者の熱意と陰謀が伝わってくる本だ。
【構成は?】
最初に全体を俯瞰して、続く章で個々の話を述べる形だ。なので、なるべく素直に頭から読もう。
- はじめに
- Ⅰ 道徳のそもそもをめぐって
- 第1章 メタ倫理学とは何か
- 1 倫理学とは何か
- 2 倫理学の分類
- 3 メタ倫理学はなんの役に立つのか
- 4 メタ倫理学では何が問われるのか
- 5 本書の構成
- 第2章 メタ倫理学にはどんな立場があるか
- 1 客観主義と主観主義
- 2 道徳的相対主義
- 3 客観主義と主観主義のまとめ
- Ⅱ 道徳の存在をめぐって
- 第3章 「正しいこと」なんて存在しない 道徳の非実在論
- 1 道徳の存在論
- 2 錯誤理論 道徳の言説はすべて誤り
- 3 道徳の存在しない世界で
- 4 道徳非実在論のまとめ
- 第4章 「正しいこと」は自然に客観的に存在する 道徳実在論 1)自然主義
- 1 実在論の考え方と二つの方向性
- 2 素朴な自然主義 意味論的自然主義 もっともシンプルな自然主義
- 3 還元主義的自然主義 道徳を他の自然的なものに置き換える
- 4 非還元主義的自然主義 道徳は他と置き換えられない自然的なもの
- 5 自然主義全般の問題点
- 6 自然主義的実在論のまとめ
- 第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する 道徳的実在論 2)非自然主義的実在論
- 1 神命節
- 2 強固な実在論
- 3 理由の実在論
- 4 非自然主義的実在論のまとめ
- 第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか 第三の立場と静寂主義
- 1 準実在論 道徳は実在しないが、実在とみなして構わない
- 2 感受性理論 道徳の実在は私たちの感受性を必要とする
- 3 手続き的実在論 道徳は適切な手続きを通して実在する
- 4 静寂主義 そもそも実在は問題じゃない
- 5 第三の立場および第Ⅱ部のまとめ
- Ⅲ 道徳の力をめぐって
- 第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである 表出主義
- 1 道徳的な問いに答えること
- 2 表出主義
- 3 表現型情緒主義 道徳判断とは私たちの情緒の表現である
- 4 説得型情緒主義 道徳判断とは説得の道具である
- 5 指令主義 道徳判断とは勤めであり指令である
- 6 規範表出主義 道徳判断とは私たちが受け入れている規範の表出である
- 7 表出主義のまとめ
- 第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することである 認知主義
- 1 認知主義
- 2 内在主義と外在主義
- 3 ヒューム主義 信念と欲求は分離されねばならないか
- 4 認知は動機づけを与えうるか
- 5 道徳判断の説明のまとめ
- 第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
- 1 Why be Moral 問題
- 2 道徳的に善く振る舞うべき理由などない
- 3 道徳的に善く振る舞うべき理由はある プリチャードのジレンマ
- 4 道徳的価値に基づく理由
- 5 最終的価値に基づく理由 理性主義
- 6 そもそも理由なんていらなかった? 直感主義、再び
- 7 Why be Moral 問題および第Ⅲ部のまとめ
- おわりに
- あとがき/文献一覧/事項索引/人名索引
【感想は?】
そう、この本は地図だ。惑星「メタ倫理学」の地図だ。
きっとあなたは、メタ倫理学なんか知らない。聞いたこともないだろう。だが、この本のどこかに、あなたは居る。
なぜなら、あなたは善悪を判断できるからだ。何が正しくて何が正しくないかを分かっているからだ。いや、時として分からなくなることがあるかも知れない。というか、普通に生きてりゃ「どうすりゃいいのか」と悩むことは必ずある。
それでも、悩んだ挙句に、あなたは何らかの解を出す。つまりは、あなたなりに「正しさ」の基準を持っているのだ。
ただし、往々にして、人によって「正しさ」の基準は違う。体罰や夫婦別性などでは、激しい議論が沸き起こる。賛否いずれの側も、自分が正しいと思っている。では、「正しい」って、何なんだろう?
その解は、人によって違う。違うけど、みんな自分なりの解を持っている。それはつまり、誰もが惑星メタ倫理学上のどこかに居るってことだ。
そういう点で、この本は万民向けの本だ。あなたはメタ倫理学上において、必ず何らかの意見を持っている。ただ、自分の意見がどう呼ばれているか知らないだけだ。
この本の面白さのひとつが、ソレだ。自分の居場所がわかる。自分だけじゃない、あなたとは意見が異なる人の居場所もわかる。もっとも、居場所がわかるだけで、なぜ違うのか、どっちが正しいのかまでは判らないけど。その辺は中立的というか、議論を紹介するに留めているのが、この本のもう一つの特徴だろう。
ちなみに私は非実在論―非認知主義―表出主義らしい。これを突き詰めると、ある意味ヤバい考え方になる。なにせ…
非実在論の立場によれば、道徳的な事実や性質といったものは、いっさい存在しない。
――第3章 「正しいこと」なんて存在しない
と、解釈の仕方によっては、とんでもねえ思想って事になりかねない。なんたって、極論すれば「正義なんてない」って思想なのだから。少なくとも、アブラハムの神を真剣に信じている人からすれば、不道徳きわまりない奴に見えるだろう。つか、こんな事を全世界に向けて書いて大丈夫なのか俺。まあ、そういう発想は生理的に受け入れられないって人向けに、こういう論も紹介している。
その説明があまりにも、私たちの直感からかけ離れたものであるとすれば、それはそれで理論としては問題含みである。
――第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する
理屈はどうあれ、結論が納得できないなら、やっぱ間違ってるんじゃね? と、そういう事だ。ソレはソレで、世の中の仕組みと合ってるだろう。賢い人がいくら精緻な理屈を述べようと、国民の多くが反対する制度や法律は、たいてい成立しないし。
などと、「こんな問題があります」「それについてはこんな論があります」「対してこんな反論もあります」と話を進め、なんか賢くなった気分にさせた後で、一気にちゃぶ台返しを食らわすから、この本は油断できない。
この考え方(静寂主義)によれば、そもそも私たちは道徳的な事実の実在をめぐって議論する必要はなく、そのような形而上的な議論については静寂を保つべきである。それはなぜかと言えば、道徳的な事実が存在しようとしまいと、私たちの日常には何の影響もなく、何の道徳的問題も解決されないからである。
――第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか
をいw 今までの議論は何だったんだw せっかく頑張ってややこしい理屈を読み解いたのにw
私の感想としては、どの主義も「有り/無し」のデジタル思考に囚われすぎというか、ヒトの心を単純化しすぎというか、そんな風に感じた。
例えば、この本では、大雑把に二つの対立陣営を紹介している。非実在論―非認知主義―表出主義的と、実在論―認知主義―記述主義だ。これキッパリ切り分けられるんじゃなくて、たいていの人は双方を含んでいて、その割合が人によって違うし、時と場合と状況によっても割合が変わるんだろう、とか。
また、今のところメタ倫理学は理屈から現象を検証しようとしてるけど、逆に現象から理屈を導き出そうとしてる行動経済学とかと交流が盛んになったら、なんかとんでもねえ化け物が出てきそうな気がする。
と、自分の位置を確かめるって読み方をしてもいいし、自分には理解できない立場、例えば人種差別主義者の立ち位置を想定してみてもいい。または「哲学者ってのは何をやってるのか」を覗き見する楽しみもある。ややこしくて面倒くさいけど、ソレはソレで面白そうな仕事だよなあ、と思ったり。少なくとも、倫理学にハッキリした解は(少なくとも今のところは)出ていないのだ、ってのだけでも分かれば、この本を読んだ価値は充分にある。
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