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2020年7月の6件の記事

2020年7月28日 (火)

小川一水「天冥の標Ⅹ 青葉よ、豊かなれ PART1・2・3」ハヤカワ文庫JA

「どう、ダイア。ここに国を作ってくれない?」
  ――PART1 第1章 芽生えざる種

「彼らが知りたいのは、俺たちがどこへ向かうのかということだ」
  ――PART1 第2章 迎賓の火

「ものすごく、ものすごく面白いなりゆきじゃないか?」
  ――PART 2 第5章 魅力的な子ら

「護衛艦はすでに全滅しました」
  ――PART 2 第7章 「冠絡根環」にて

人間は異質なものを排除する。異質なものがなければ、それを内部に作り出しさえする。
  ――PART3 第10章 青の惑星にて

【どんな本?】

 SF作家の小川一水が2009年から書き続けてきた全10部にわたる本格SF長編シリーズ、堂々の完結編。

 人類が壊滅した太陽系で、唯一生き延びた元小惑星セレスに住むメニー・メニー・シープと≪救世軍≫は、なんとか和解に至る。そのセレスは太陽系を脱し、カルミアンの母星へと向かう。そこにはセレスだけでなく、超銀河団の諸種族が集っていた。生態も思考様式も技術レベルも異なる雑多な者たちの中で、人類の生存を賭けた駆け引きと戦いが始まる。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい! 2020年版」のベストSF2019国内篇で第3位に輝いた。

 というか例年ならトップが確実な作品なんだけど、この年は豊作過ぎたんです。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 PART1は2018年12月25日、PART2は2019年1月25日、PART3は2019年2月25日発行。文庫本で縦一段組み本文約322頁+333頁+355頁=約1,010頁に加え、あとがき7頁。9ポイント40字×17行×(322頁+333頁+355頁)=686,800字、400字詰め原稿用紙で約1,717枚。文庫本3巻は妥当なところ。

 文章はこなれていいて読みやすい。ただし本格SFのフィナーレに相応しく続々と奇想天外なガジェットが飛びだす濃い作品だ。また長編シリーズの完結編なので、登場人物たちの背景事情も重要になる。なので、できれば最初の「天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ 上・下」から読もう。新型肺炎が猛威を振るっている今は、「天冥の標Ⅱ 救世群」から読み始めるのもいいかも。

【感想は?】

 長編シリーズは怖い。

 何が怖いって、読み終えると、登場人物たちの背景が気になって、前の巻を漁りたくなるのだ。そうやって前の巻のアチコチを漁っていると、いつまでたっても読み終えられない。いや読み終えても、登場人物たちが脳内に住み着いて、読者の情報処理能力を食いつぶしてしまう。多くの読者の脳内に巣食い、その処理能力をカスめるのがノルルスカインの生存戦略か←違います

 そういう怖さがギッシリ詰まった完結編だ。じっくり腰を据えて挑もう。

 とか思ってたら、やや静かなオープニングに続き、いきなりド派手な宇宙艦隊船が炸裂する。ここで傍若無人に暴れまわるエンルエンラ族に始まり、続々と登場する奇妙奇天烈なエイリアンたちには、スレたSFファンも充分に満足できる。バラエティに富んだエイリアンたちの百鬼夜行ぶりは、デビッド・ブリンの「スタータイド・ライジング」や小松左京の「虚無回廊」以来の大興奮だ。

 その「スタータイド・ライジング」のエイリアンたちは、強欲かつ凶暴ながらも、それぞれが長い付き合いがあって、知性化の序列による一応の秩序もあった。だが、ここに集った連中は、ここに来た目標こそ同じものの、多くは初顔合わせな上に、目的も考え方も違う。そんな連中が、どうやって意思疎通をはかるのか。

 人類と異星人のファースト・コンタクトを描いた作品は多いが、エイリアン同士のファースト・コンタクトなんて無茶なお題に挑むのは、この作品ぐらいだろう。ここでは、日本語の柔軟な表現力を存分に使い尽くした妙技が炸裂する。と同時に、それぞれの生存環境や生態を反映したエイリアンらしい比喩表現も、伝統的なスペース・オペラのファンには美味しいところ。

 などの伝統的なスペース・オペラからニューウェーブの洗礼そしてサーバーパンク革命を経て現代へと続く歴史をキッチリと受け継いだ上で、さらにその先を目指す今世紀ならではの気迫が満ちている。かつてのSFじゃは白人の男ばっかりだった宇宙が、この作品ではちょっとした単位系にも銀河レベルの国際?感覚がほとばしってたり。

 そんなエイリアンどもの中には、凶暴なのもいれば狡猾なのもいるし、賢いのもいる。ばかりでなく、スペース・オペラに欠かせない可愛いのも。いいなあ、「ごじうごおう」、ウチにこないかなあ。抱えたくなる気持ち、わかるなあ。

 もちろん、エイリアンどもが集う「目標」も、全10部にわたる大長編に相応しい、大げさかつクレイジーなシロモノだし、そこに迫るまでの活劇も危機また危機のジェットコースター・ストーリーで、なかなか頁を閉じさせない。

 もちろん、活劇は宇宙空間だけでなく、銃撃戦や肉弾戦もたっぷりだし、ケッタイな乗り物も大活躍するから嬉しい。もちろん、我らのロマンの結晶であるドリルは欠かせない。わはは、そうきたかあw

 しかも、そこに今までの巻で張られた伏線が合流してくる。これまた長いシリーズものならではの味で。舞台こそ同じ世界なものの、テーマは全く違っていて外伝かな?と思えてたアレやコレが、「おお、そういうコトか!」と腑に落ちる快感は、やはりこれだけの量だからこそ。なるほど、あの連中、お楽しみに乱入するだけのお邪魔虫じゃなかったのね。いやここでもやってる事は、やっぱりある意味「邪魔」なんだけどw

 当然ながら、そういった伏線を背負うのは個々の登場人物たち。この完結編では、それぞれの者が背負い受け継いできたアレやコレらが、業病の冥王斑を介して銀河の運命そのものと絡み合っていく。こういった所は、小説、それもSF小説だからこその醍醐味だ。

 といった大技はもちろん、ちょっとした言葉遣いにも伏線が潜んでるから油断できない。被展開体ってのも、この展開から考えるに…

 とかの、アチコチに潜んだイースター・エッグまで拾っていると、何日あってもキりがない。なので、とりあえず今はサービス満点な大長編を読み終えた満腹感に浸っていよう。

 ベテランの小川一水が10年以上をかけて執筆するのに相応しい、アイデアと意気込みに溢れた王道の本格SF大作だ。SFを愛するすべての人にお薦め。

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2020年7月21日 (火)

デイヴィッド・パトリカラコス「140字の戦争 SNSが戦場を変えた」早川書房 江口泰子訳

かつては国家だけがコントロールできた情報発信という極めて重要な領域を、ソーシャルメディアが個人に開放してしまったのである。
  ――イントロダクション

プロジェクト全体にとって最大の追い風が吹いた(略)。彼ら(イスラエル国防軍報道官部隊)が公開した動画を、ユーチューブが削除してしまったのだ。
  ――第2章 兵士

ソーシャルメディアには、卓越したふたつの能力がある。メッセージを増幅する力と、人びとを動員する力だ。
  ――第4章 フェイスブックの戦士1

「ロシアの納税者は、トロール工場に税金を支払っています」
  ――第6章 荒らし

20世紀の既存機関は21世紀の個人よりも適応速度が遅い。
  ――第9章 解釈者2

アイマン・アル=ザワヒリ「戦いの半分以上はメディアという戦場で行われているのだ」
  ――第10章 勧誘

「政府機関の紋章がついていれば、コンテンツに対する信頼性は失墜してしまいます」
  ――第11章 対テロリスト

「優れたアイデアは階層組織を生き残れません。ソーシャルメディアは稟議決裁の手続きには向いていません」
  ――結論

私たちはいま、事実よりナラティブを重視する世界に生きている。
  ――結論

【どんな本?】

 かつて、2ちゃんねるは「便所の落書き」と揶揄された。頭のオカシイ連中が集い品の悪いデマが飛び交う怪しげな所。それがインターネットに対する世間の印象だった。だが今は皆がこぞってインスタ映えを競い、大統領自らがツイッターを使う時代だ。もはやインターネットは私たちの暮らしに欠かせないメディアになった。

 マルティン・ルターは印刷技術を用いて宗教革命を盛り上げた。アドルフ・ヒトラーはラジオでドイツ国民を煽った。JFKはテレビ討論でニクソンを圧倒した。メディアを巧みに使えば、社会に大きな影響を及ぼせる。

 ただし、インターネットは従来のメディアと大きく違う。ラジオやテレビは放送局が、雑誌や書籍は出版社が仕切る。放送や出版に至るまでには、ディレクターや編集者などがネタを取捨選択する。良くも悪くも、そこにはフィルターがかかっている。

 だが、インターネットは誰でも使える。フィルターを通さず、直接世界にメッセージを送れる。

 当初、これは自由への鍵だと思われた。だが、最近はいささか様子が変わってきた。2ちゃんねるに限らず、ツイッターやフェイスブックにもデマが飛び交っている。そして、強烈な印象を与えるものは、多くの人の目に触れ、時として世界すら動かしてしまう。たとえそれがデマであっても。

 この性質を理解し、巧みに使いこなす者たちもいる。

 パレスチナで、ウクライナで、シリアで。銃弾が飛び交う前線だけでなく、はるか後方、どころか国境すら越え、インターネットを使い、戦争を操る者たち。

 彼らは何者なのか。彼らの目的は何か。何をやっていて、戦場にどんな影響を及ぼしているのか。そして、彼らに対し政府や軍や私たちは、どんな対策を取っているのか。

 インターネット、特にSNSが変えつつある21世紀の戦場を生々しく描く、ホットなルポルタージュ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は War in 40 characters : How Social Media is Reshaping Conflict in the Twenty-First Century, by David Patrikarakos, 2017。日本語版は2019年5月25日初版発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約334頁に加え、安田純平の解説7頁。9ポイント45字×20行×334頁=約300,600字、400字詰め原稿用紙で約752枚。文庫なら厚い一冊分ぐらい。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。特にツイッターやフェイスブックを使っている人なら、皮膚感覚で伝わってくるだろう。

【構成は?】

 第1章~第3章はガザ紛争、第4章~第9章はウクライナ内戦、第10章~第11章はシリア内戦を扱う。ただし同じガザ紛争でも、第1章はガザに住む民間人の少女、第2章と第3章はイスラエル国防軍と、章ごとに違う視点で話が進む。忙しい人は興味のある章だけを拾い読みしてもいい。

  • イントロダクション
  • 第1章 市民ジャーナリスト 物語vs.銃の戦争
  • 第2章 兵士 礎を築く者、ホモ・デジタリスの登場
  • 第3章 将校 ミリシア・デジタリスは“戦場”に赴く
  • 第4章 フェイスブックの戦士1 仮想国家の誕生
  • 第5章 フェイスブックの戦士2 戦場のホモ・デジタリス
  • 第6章 荒らし 帝国の逆襲
  • 第7章 ポストモダンの独裁者 虚構の企て
  • 第8章 解釈者1 ベッドルームから戦場へ
  • 第9章 解釈者2 個人vs.超国家
  • 第10章 勧誘 友達以上に近しい敵
  • 第11章 対テロリスト 超大国vs.1000の石つぶて
  • 結論
  • 謝辞/解説:安田純平/原注

【感想は?】

 本書の主なテーマはインターネット、特にSNSが戦争に与える影響だ。

 と言ってしまえば簡単そうだが、そこには様々な側面がある。その「様々な側面」を落ち着いて描き出した点が、この本の特徴だろう。

 第1章の主役はファラ・ベイカー。2014年のガザ紛争を、そこに住む者の視点で世界にツィートした(当時)16歳の少女だ。家の前で爆撃された車など見聞きした事柄だけでなく、停電や照明弾への恐怖などの素直な気持ちを、彼女は日夜つぶやく。特に…

子どもたちの被害を強く訴えることが、ファラ(・ベイカー)のツイートの共通テーマだった。
  ――第1章 市民ジャーナリスト

 もちろん、ただの民間人の少女である彼女は、パレスチナ問題の歴史的経緯なんか知らない。それでも、気持ちを素直に現わす彼女は、特に西欧の人々から注目を浴び、パレスチナへの共感とイスラエルへの憎しみを呼び起こす。

顔のない人びとの中で、ファラ(・ベイカー)はテイラー・スウィフトだったのだ。
  ――第1章 市民ジャーナリスト

 対するイスラエル国防軍の反撃を扱うのが、第2章と第3章だ。第2章では、反撃のための報道官組織を立ち上げるアリザ・ランデスの奮闘を描く。民間人のファラ・ベイカーがリアルタイムで中継するのに対し、軍のアリザ・ランデスは上司の許可を得なきゃいけない。ITエンジニアの多くは、動きの遅い組織にイラつくアリザに共感するだろう。ほんと組織ってのはブツブツ…

 第3章ではランデスの努力が実った現在のイスラエル軍を描くが、相変わらずイスラエルは圧倒的に不利だ。なにせSNSで重要なのは事実でも論理でもない。インパクトなのだ。

「血を流したほうが優位に立つんだ」
  ――第3章 将校

「普通の市民はあまりデータについてじっくり考えたりしません。理屈はあまり重要ではなく、市民は自分の考えを感情で決めるのです」
  ――第3章 将校

 なお、ここでは、病院やモスクに武器を隠すハマスの欺瞞なども暴いていて、パレスチナ贔屓の人には不愉快な話も多い。覚悟しよう。

 第4章と第5章では、ロシアのウクライナ侵略に抗うアンナ・サンダロワを描く。政府も軍も腐敗したウクライナは、前線も物資が足りない。そこでアンナはフエイスブックで寄付を募り、自ら前線に届けるのである。ここではアナログ時計やドイツ製軍服の有難みなど、ニワカ軍ヲタにも嬉しいネタがチラホラ。

 続く第6章は、やっぱりやってましたロシアのトロール(荒らし)工場ルポ。元KGBのプーチンが情報戦略を軽んじるはずもなく。連中の目的は二つ。

(ロシア)国内の有権者が進んで信じ、それゆえ拡散するようなナラティブを提供して、国内世論の基盤を固めることである。(略)第二の目的とは、単に少しでも多くの混乱のタネを撒き散らすことだった。
  ――第6章 荒らし

 最近は5ちゃんねるにも連中が紛れ込んでるから油断できない。しかも素人臭い手口でネトウヨを装ってたり。きっとアメリカの4chanでもやってるんだろうなあ。

 その成果を描く第7章に対し、第8章~第9章は、ロシアの欺瞞を暴くエリオット・ヒギンズの活躍が心地よい。彼が挑んだのは2014年7月17日のマレーシア航空17便撃墜事件(→Wikipedia)。民間人の彼は、インターネットで知り合った仲間の協力を仰ぎ、インターネットを駆使してロシア製地対空ミサイルのブークの移動経路をつきとめる。ここは藤井太洋の小説みたいな驚きと心地よさに満ちている。

 終盤の第10章は自称イスラム国が若者をたぶらかす手口を、第11章はこれに対抗するアメリカの苦闘がテーマだ。ここでは支配地域内の階級関係が印象に残る。外国人が偉くてシリア人は最下層。そりゃ嫌われるよ。やはり、こういう戦いじゃ政府は苦戦するようで…

(米国務省対テロ戦略的コミュニティセンターのアルベルト・)フェルナンデスが早い段階で理解していたのは、「アメリカはイスラム教徒を歓迎し、この国では幸せに暮らせます」といった類の、いわゆる“ソフト路線”のプロパガンダが最も信頼性が低いという事実だ。
  ――第11章 対テロリスト

 やはり刺激が強い方が有利なんだなあ。おまけに政府の公式発表は遅いし。

 と、SNSを貶めるでも持ち上げるでもなく、SNSが持つ様々な側面をまんべんなく紹介しつつ、かつそういった八方美人的な本が往々にして持つ「まだるっこしさ」とは程遠い生々しい迫力に溢れていて、読んでいて興奮しっぱなしの刺激的な本だった。軍ヲタはもちろん、ツイッターやフェイスブックやインスタグラムなどSNSを使うすべての人にお薦め。

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【おわりに】

 「第9章 解釈者2」の主役はエリオット・ヒギンズだ。彼はインターネットと科学を駆使して、2014年7月17日のマレーシア航空17便撃墜事件(→Wikipedia)の真相を突き止め公開した。その彼が、主催するサイト「ベリングキャット」について、寂しそうに語るのが印象的だ。

 バズフィードをまね、タイトルを疑問形にし、画像をつける。いずれも客を増やす工夫だし、実際に大きな効果があった。この章から伝わってくるヒギンズの性格は、科学者に近い。感情より理性を信じ、煽情的な演出より事実を元にした理論を重んじるタイプだ。

 その彼が、感情に訴える疑問形や画像の効果を認めざるを得なかった。この意味はヒギンズに残酷だ。人の多くは理性より感情で動く。この事実を受け入れるのが、理知的なヒギンズには辛かったんだろう。

 ブロガーの一人として、私もちと寂しい気分になった。ご覧のとおり、このブログも文字ばっかしで実に愛想がない。絵が下手とか描くのが面倒臭いとかデータ容量が増えて表示が遅くなるとかの理由もある。が、もう一つ、私なりの理由もある。

 文字ばっかで愛想のないブログだけど、そういうのを好む人にこそ来てほしい。つか、そもそも書評が中心なんだし、なら読者も本が好きで長文を読み慣れた人が多いに違いない。しかも、紹介する本の傾向から、方向性も絞れる。自分の思い込みに沿う言説を喜ぶのではなく、むしろ思い込みを覆されるのを心地よいと感じる、そういう人に来てほしい。

 いや今さら流行りに乗ろうと足掻いても無駄だし、零細ブログの負け惜しみなのも認める。ただ、これは言っておきたい。

 読者がコンテンツを選ぶように、書く側も読者を選んでるんです。

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2020年7月16日 (木)

藤井太洋「ハロー・ワールド」講談社

「神なるドローン様、今度はわたしにルンバを降らせてください――神様」
  ――行き先は特異点

ライブ中継には遅延が絶対に必要だ。
  ――五色革命

中国政府が変わったのではない。
ツィッターが変わったのだ。
  ――巨像の肩に乗って

「こんな暮らしをしていますから、どこの国でも使える通貨があるといいですよね」
  ――めぐみの雨が降る

【どんな本?】

 「Gene Mapper - full Build -」で鮮烈なデビューを飾った藤井太洋が、得意とする最新ITテクノロジー、それもオープンソース系を中心に、オープンソースならではのテクノロジーが世界に及ぼす影響を、至近未来を舞台に描く連作短編集。

 ITエンジニアの文椎泰洋は、講習会で知り合った仲間と共に、iPhone 用の広告ブロックアプリ<ブランケン>を開発し公開した。最初はあまり反応がなかったのだが、ある時から急に利用者が増える。調べてみると、その大半がインドネシアだった。特にインドネシア独特の機能はつけていない。奇妙に思い更に調べ続けると…

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2019年版」のベストSF2019国内篇で第4位。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年10月16日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約273頁。9ポイント43字×19行×273頁=約223,041字、400字詰め原稿用紙で約558枚。文庫なら普通の厚さ。

 文章はこなれていて読みやすい。内容は、さすがに Swift や GIrHub などIT系の単語が続々と出てくる。が、その大半は「知っている人を唸らせる」ためで、わからなくても大きな影響はない。とりあえずスマートフォンが使えれば話のすじは追える。最近噂になった台湾のIT担当の唐鳳(オードリー・タン)大臣のニュースを読んで何が書いてあるか見当がつくなら充分だろう。iPhone と iPad と MacBook の区別がつけば更によし。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

ハロー・ワールド / 「小説現代」2016年3月号
 文椎泰洋はIT系のなんでも屋と自任している。得意先との折衝から機材の確保、多少の開発まで一通りこなすが、どれも一流とは言えない。講習会で知り合った開発者の郭瀬敦・販売管理の汪静英と共に、iPhone 用の広告ブロックアプリ<ブランケン>を作り公開する。当初はほぼ無反応だったが、いきなりインドネシアで利用者が増えた。別にインドネシア独特の機能はついていないのだが…
 ドラマなどで活躍するプログラマは凄い勢いでキーボードを叩くけど、実際は…。こういった現場の様子や、iPhone 用の開発環境とか、その手の読者を唸らせる描写はさすが。多国語対応のあたりから、IT産業が既に世界の経済を変えつつある様子がヒシヒシと伝わってくる。当然、それは民間だけでなく…。この記事を書く前にPCを立ち上げたら、いきなり Edge のアップデート通知が出てきて、やたらビビってしまった。
行き先は特異点 / 「小説現代」2016年11月号
 文椎泰洋はアメリカにいる。上司の幾田廉士に命じられ、ラスベガスに行く途中だ。目的は買収した会社のドローン製品<メガネウラ>を届けること。カーナビに従いフォードを運転していたが、なぜかキャンプ場に迷い込む。おまけに、Google が実験中の自動運転車に追突されてしまう。幸いスピードは出ていなかったし、相手のドライバーのジンジュは友好的だ。警察を呼んだがしばらく時間がかかる。暇つぶしに<メガネウラ>の試験飛行をすると…
 これまた Google や Uber が変えつつある、私たちの仕事環境を切実に感じさせる作品。昔の製造業じゃ盛んにQCとかやってたけど、今はそれどころじゃないんだよなあ。そんなトラブルさえビジネスに利用する幾田廉士の逞しさには感服してしまう。ベンチャー企業を経営するには、それぐらいのしたたかさが必要なんだろう。台湾の唐鳳IT担当大臣と日本の政治家の知識の差を騒ぐ日本のマスコミで、GitHub をチェックしてる記者は果たしているんだろうか?
五色革命 / 「小説現代」2017年4月号
 出張でタイに来た文椎泰洋は、帰国の日にバンコクのホテルで足止めを食らう。恒例のデモが予定より早く始まり、しかも規模が大きいのだ。デモの主催団体は一つじゃない。農民たちは赤、市民連合は青、新興仏教のオレンジ、軍の緑。それぞれ主張も違う。同じホテルに缶詰めになった客たちと話し込んでいた泰洋に、乱入してきた者たちが詰め寄ってきた。
 年中行事のようにクーデターが起きるタイ、それもバンコクの現状を伝える作品。先代のラーマ九世は国民から絶大な支持を受けていたが、今のラーマ十世はムニャムニャ。そんなタイのデモの裏事情や、外国人の立場の描写も生々しい。こういう「あまり知られていない国際事情」を、市民の視点で巧みに盛り込むあたりは、故船戸与一を彷彿とさせる。
巨像の肩に乗って / 「小説現代」2017年8月号
 中国政府は金盾でインターネットを検閲している。そんな中国に対し、Google や Facebook は撤退するなど対応に苦慮している。その中国政府にツィッターが折れた。これに刺激された文椎泰洋は、ツイッターに似たサービス<マストドン>(→WIkipedia)の改造版<オクスペッカー>を作り始める。暗号化して当局が追跡できないようにするのだ。
 某事件に対する著者の怒りが静かに伝わってくる作品。ほんと、もったいない。アレを巧く育てれば、国際的な力関係を大きく変えられたのに。その原因がメンツと無理解によるのもってのが、実に馬鹿々々しい。もっとも、本作品に登場するのは某事件と異なる部署なんだけど、ソッチはどうなんだろうねえ。もっと酷いんじゃないかと思うんだが。
めぐみの雨が降る
 文椎泰洋は、マレーシアのクアラルンプールにいる。仮想通貨のセミナーに呼ばれたのだ。空港へと向かう空き時間に、呉紅東と名乗る男に話しかけられる。先の<オクスペッカー>で泰洋に注目したらしい。最初は穏やかだった呉だが、中国の公安当局からのクレームの話題になると…
 ホットな話題になっている仮想通貨をテーマに、長編小説を数編書けるようなネタを惜しげもなくギッシリと詰めこんだ贅沢な作品。たかが90頁にも満たない作品なのに、次から次へと著者ならではの知識と発想が披露され、読んでいると知恵熱が出そうになる。改めて「そもそも通貨って何だろう?」と、深く考え込んでしまった。

 日本のマスコミはもちろん、CNNやBBCのニュースだけじゃわからない国際事情に焦点を当て、市民の視点でわかりやすく描くあたりは、故船戸与一を思わせる作品が多い。加えて、ITテクノロジーがもたらす豊かさと、それに伴い変わっていく世界、そしてかつてインターネットが抱かせた自由への幻想が現在はどうなっているかを冷静に見つめる目は、著者ならではのものながら、その底に流れるテクノロジーと人間への信頼は、J.P.ホーガンのファンに強く訴えるものがある。「今はとても熱い時代なんだよ」と読者に伝える、力強い物語だ。

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2020年7月13日 (月)

デイビッド・モントゴメリー「土・牛・微生物 文明の衰退を食い止める微生物の話」築地書館 片岡夏美訳

土壌劣化の問題は、人類が直面する差し迫った危機の中で、もっとも認識されずにいるが、同時にきわめて解決しやすいものでもある。(略)その秘訣は、彼らが収穫量を維持し、あるいは増やしながら利益を向上させていることにあるのだ。
  ――序章

小規模で多様性の高い農場は、工業化された単一栽培の大規模なものより、面積当たりの収穫量が多いのだ。(略)1992年のアメリカ農業センサスの報告によれば、小規模な農場はエーカーあたり、大規模な農場の二倍もの生産高をあげている。
  ――第2章 現代農業の神話

「家畜がいないわけじゃない。顕微鏡でないと見えないんだ」
  ――第6章 緑の肥料

(集約放牧で成功したゲイブ・)ブラウンは、自分のやり方では財政が多様であるため、人のためにも土地のためにもいいのだと確信している。
  ――第9章 過放牧神話の真実

鍵となる概念の転換は、短期間の集約放牧のあとに長い回復期間を置くという組み合わせだ。
  ――第9章 過放牧神話の真実

熱帯地方はバイオマス生産の速度では最高だが、分解の速度ももっとも速い。したがって有機物の蓄積が難しい。
  ――第10章 見えない家畜の群れ

産業革命から20世紀の終わりまでに大気に加えられたすべての炭素の1/4~1/3は、耕起によって増えたものだ。
  ――第11章 炭素を増やす農業

…現在は中国が世界のリン生産のほぼ半分を占めている。
  ――第12章 閉じられる円環

【どんな本?】

 「土の文明史」で、著者は警告した。「土が荒れれば文明は滅ぶ、土を守れ」と。実際、合衆国はダストボウル(→Wikipedia)で痛い目を見た。

 だが、守るだけではジリ貧だ。世界の人口増加はしばらく続く。だから食糧生産も増やさなきゃいけない。新しい農地を開拓するだけでなく、既に荒れた農地を蘇らせる方法はないのか?

 ある、と著者は言う。環境保全型農業だ。その名前から、ナニやらいかがわしい臭いを嗅ぎつける人も多いだろう。実際、その手法は従来の農業の常識を覆している。そこで、論より証拠とばかりに著者は合衆国・ガーナ・コスタリカなど世界を巡り、環境保全型農業に切り替えて稼ぎを増やしている農家を訪ね歩く。

 環境保全型農業とは何か。それはどんな方法で、どんな効果があるのか。そこにはどんなメカニズムが働いているのか。なぜ稼げるのか。誰が得をして誰が損をするのか。そんなに美味しい方法なら、なぜすべての農家が採用しないのか。

 環境保全・科学・経済・政治など、多角的な視点で環境保全型農業の推進を訴える、一般向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Growing a Revolution : Bringing Our Soil Back to Life, by David R. Montgomery, 2017。日本語版は2018年9月7日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約314頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント49字×19行×314頁=約292,334字、400字詰め原稿用紙で約731枚。文庫なら厚い一冊分ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、農家への補助・保険制度がよくわからなかった。また、あくまでも一般向けの解説書であって、本業の農家向けではない。原理・原則は何度も繰り返し触れているが、実際の手法は個々の農家の事情により異なるため、このままでは使えない。もっとも、日本では、似たような事を既にやっている農家も多いと思う。

【構成は?】

 全体として一つの物語になるように組み立てているので、できれば頭から素直に読もう。

  • 序章
  • 第1章 肥沃な廃墟 人はいかにして土を失ったのか?
    人類最悪の発明 犂/自然と働く道/新たな革命 土壌の健康を求める農法
  • 第2章 現代農業の神話 有機物と微生物から考える
    神話の真実 化学製品は世界を養うか?/遺伝子組み換え作物が招いたいたちごっこ
  • 第3章 地下経済の根っこ 腐植と微生物が植物を育てる
    回帰の原則 菌根菌の役割に気づいた農学者/土の中の生命 根の回りで起きていること/微生物がにぎわう健康な土
  • 第4章 最古の問題 土壌侵食との戦い
    高いコストと衰えゆく土/土壌有機物はなぜ半減したのか?/くり返す土壌喪失 古代ギリシャと新大陸/土が文明を左右する
  • 第5章 文明の象徴を手放すとき 不耕起と有機の融合
    新たな道 環境保全型農業の三原則/ダスト・ボウルへの道 犂がもたらした大砂嵐/誰もが無料で採用できる解決策/零細農家を救った被覆植物/普遍的で単純な土壌管理の原則/深く根を張る作物を求めて/新しい多年生作物
  • 第6章 緑の肥料 被覆作物で土壌回復
    実物大の実験農場/雑草が生える余地をなくす方法/自給自足の肥料/輪作で害虫管理/ハイテク不耕起農業/農業システムを改善するための単純な原則
  • 第7章 解決策の構築 アフリカの不耕起伝道師
    自給農家向け不耕起センター/ミスター・マルチ/農民たちの日曜学校/渇水から作物を守る/森の土壌を再現する/食糧ジャングルの成案力/金は食べられない/土地の特徴を生かす研究
  • 第8章 有機農業のジレンマ 何が普及を阻むのか?
    有機不耕起農法は可能か?/有機農業のメリット 経済・環境・土のメリット/「有機っぽい」農業のすすめ/「農業はなくてはならない」/菌根菌と土壌団粒 グロマリンの働き/再生可能な農法へ
  • 第9章 過放牧神話の真実 ウシと土壌の健康
    四種の畑/よりよいやり方/低コストの再生可能農業/雑草をベーコンに 有畜農業/水の浸透と昆作の関係/過放牧の効果/ウシが温暖化を食い止める
  • 第10章 見えない家畜の群れ 土壌微生物を利用する
    微生物を生かすバイオ炭/コンポストティー/コーヒー農家を変えた微生物接種/さび病と土壌微生物/食べ物の森 経済と生物の恩恵/バイオ炭に棲む地下の家畜/希望の光
  • 第11章 炭素を増やす農業 表土を「作る」
    炭素を土中へ/根菜が高める土壌栄養素/農場破産の原因/成功の鍵は多様性/世界が注目する農場/庭に見る土壌の回復
  • 第12章 閉じられる円環 アジアの農業に学ぶ
    排泄物を肥料に/バイオソリッド 現代の栄養循環/都市農業を活性化させる/終わりのない再生
  • 第13章 第五の革命
    生物多様性と持続可能な農業/農法転換の鍵/土を取り戻す新しい哲学
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 いきなり、けっこう無茶を言ってくる。不耕起、つまり「耕すな」だ。アタマ大丈夫かおい。マリファナで頭ヤラれたんじゃねえの? だが、読み進めると、それなりに理に適っているように思えてくる。実は単に不耕起ってだけじゃない。三つを組み合わせなきゃいけないのだ。

環境保全型農業は三つの単純な原理の上に成り立つ農業体系だ。
1.土壌の攪乱を最小限にする。
2.被覆作物を栽培するか作物残渣を残して土壌が常に覆われているようにする。
3.多様な作物を輪作する。
  ――第5章 文明の象徴を手放すとき

 これらの目的は、土を作ることにある。肥えた土を作り保つこと。それが環境保全型農業のキモだ。実際、昔から、農地は質で価値が違った。肥えた土地は高価で痩せた土地は誰も欲しがらない。なら肥えさせりゃいいじゃん、そういう理屈だ。けど、そんな事、本当にできるの?

 やはり昔から、農家は肥えた土地と痩せた土地を見分けがついた。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒが、これに科学的のお墨付きを与える。リービッヒの最小律(→Wikipedia)だ。植物の育成に必要な養分は三つ、窒素・リン酸・カリウムだ、と。なら足りない養分を補えばいいってんで出来たのが化学肥料。フリッツ・ハーバーさん、カール・ボッシュさんありがとう。あなたがたは人類を救った(→「大気を変える錬金術」)

 …はずだったが、結果はダストボウルだ。どうしてこうなった? 土が死んだからだ。むき出しの土地は死ぬ。だから被覆作物で覆え。同じ作物を作り続けると土地が痩せる。そこで多様な作物の輪作で防げ。

 って、ちと急ぎ過ぎた。実は本書もリービッヒの最小律を認めている。ただ、三要素の補い方が違う。ここで意外な元素に目を向ける。炭素だ。ほおっておいても、植物は土に炭素を注ぎ込む。また枯れた茎や落ち葉も土に炭素を供給する。これの何が嬉しいか、というと…

植物は土壌中に、みずから作った炭素を豊富に含むさまざまな分子を放出する。それは光合成による生産物の1/3以上を占めることもある。こうした滲出液は主に、土壌微生物には魅力的な餌となるタンパク質と炭水化物(糖)でできている。
  ――第3章 地下経済の根っこ

有機物含有量が1%から3%に増えると、土壌の保水力は時には二倍になり、一方で浸水した土壌中の病原体が好む嫌気的な条件ができるのを防ぐのに役立つ。
  ――第6章 緑の肥料

 土がフカフカになって、水を保ちやすくなるんですね。だけじゃない。マメ類に寄生する根粒菌は窒素を固定して土を肥やすのが知られている。根粒菌だけじゃなくて、他にも様々な菌があって、リンやカリウムも補ってくれるのだ。

「土壌がなければ植物はありえないし、植物がなければ土壌もありえない。ミッシング・リンクは菌類だった」
  ――第8章 有機農業のジレンマ

 ただし、菌類が増えるには炭素、つまり有機物が必要なんです。

炭素は、施肥設計に欠かせないものとして計画されることはない。農家と研究者は通常、窒素、リン、カリウム、ことによるとカルシウム、硫黄、亜鉛に重点を置く。植物は土壌炭素を直接吸収しないからだ。だが炭素は、植物のマイクロバイオーム、つまり根圏に生息する錬金術師のような微生物の集団の餌になる。
  ――第11章 炭素を増やす農業

 と、大雑把な理屈はそうだし、具体例も本書にたくさん出ている。ただし、理屈を現実に当てはめるのは難しい。農家だって食ってかなきゃいけない。そもそも、農業はバクチだ。米作農家でコメが取れなかったら年収を失う。農家が頑固なのも当たり前なのだ。あなた、一年間も無収入でやってけます? だから、どうしても今までやってこれた方法にすがるのも仕方がない。ところが、昆作だと自前の保険が効くのだ。

農家が輪作、群集、昆作を使って多様な作物を育てているとき、それは自家製の保険のようなものなのだ。もしある作物がだめになっても、別のものに頼ることができる。
  ――第7章 解決策の構築

 それでも、少しづつ環境保全型農業は広がっている。その原動力が…

私が訪れた地域で、環境保全型農業の受け入れがうまくいくための共通要素は、農家に採用を促進する実験農場が重視されていたことだった。
  ――第13章 第五の革命

 小難しい理屈を並べる奴より、実際に稼いでいる人の方が説得力がある、と。そりゃそうだ。もっとも、それだけじゃなく、環境保全型農業で安定して稼ぐのは難しいのだ。

私がインタビューした人の例に漏れず、(オハイオ州立大学のラッタン・)ラルは、この方法を実行する際、慣行農法から低投入不耕起栽培への移行に二、三年を要すると注意を促した。
  ――第11章 炭素を増やす農業

 と、切り替えに時間と費用がかかる。だけじゃなく、土の状態・気候・市場などで、具体的な作物や栽培法が違うため、広く深い知識と経験が必要ななのだ。

(ガーナ不耕起農業センター所長コフィ・)ボアは作物の収穫後の地面の状態と市場の状況――作物が熟する時期に売れるもの――に応じて決定を下す。(略)浅根の作物のあとに深根のものを栽培したほうがよい。バイオマス生産量の低い作物のあとに高いものを栽培したほうがよい。栄養を吸収する作物のあとに栄養を固定するものを栽培したほうがよい。
  ――第7章 解決策の構築

単純なレシピがあれば有機農業はもっと受け入れやすいんだが
  ――第8章 有機農業のジレンマ

多くの地域で、環境保全型農業を地域の条件と作物に適応させる知識が欠けていることが、その採用の主な障害となっている。
  ――第13章 第五の革命

 昔のSFじゃ、世代型宇宙船の食糧は水耕栽培が供給していたけど、植物ってのは、それほど単純じゃないらしい。とまれ、実は複雑な生態系が実りを支えている、みたいな話なので、異星に植民して開拓する話とかに膨らませることはできそう。なんてSFな妄想は置くとしても、大気中の炭素を減らす案もあって、いろいろと夢が広がる本だった。

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2020年7月 9日 (木)

SFマガジン2020年8月号

「家の改築材料をホームセンターで買い揃え、山積みの角材を前に途方に暮れてるんだ」
  ――高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」

わたしたちは信じられるものになにかを捧げているときにこそ、一番気持ちがよくなるのだから。
  ――麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」

「桜塚展開2次の項には花が咲く」
  ――大滝瓶太「花ざかりの方程式」

虚構世界においてのエントロピーとは、いったいなんだろうか?
  ――草野原々「また春が来る」

「雪風を狙うやつはたとえ相手が人間だろうと、敵だ」
  ――神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」

「<ピグマリオン>はあなたの脳機能をマッピングして、なんらかの現実的意味をその世界に反映させています。あなたはそのなかで見たことをとおして、自分の心の働きを再起的に知ることになります」  ――春暮康一「ピグマリオン」前編

「牛たちの敵は脳の奥深くにある。人間と同じく、電気信号の自閉的な連鎖が作り出す架空の敵に怯えている。具体的でないから、余計に恐ろしい」  ――津久井五月「牛の王」

 376頁の標準サイズ。

 特集は「日本SF第七世代へ」。

 小説は豪華14本。

 まず英語圏SF受賞作特集で8本。高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」,麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」,大滝瓶太「花ざかりの方程式」,草野原々「また春が来る」,三方行成「おくみと足軽」,春暮康一「ピグマリオン」前編,津久井五月「牛の王」,樋口恭介「Executing Init and Fini」。

 連載は6本。神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」,飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第4回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第31回,,劉慈欣「クーリエ」泊功訳,藤井太洋「マン・カインド」第12回,夢枕獏「小角の城」第60回。

 高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」。大学生の僕は、ノンフィクションの取材のためインディアナのセカンドポイントに毎週通っている。母方の祖父は、出身地のここでUFOを目撃した。他にもUFOの目撃者・接触者・その血縁などが集まる組織の人々と会い、また大量の資料を集めたが、肝心のノンフィクションは遅々として進まない。

 もしかしたら三島由紀夫の「美しい星」のパロディかなと思ったが、主人公のUFOマニアたちへのまなざしはかなり温かい。あと主人公の生い立ちとかはスティーブン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」や「E.T.」かな? 資料ばっかり集まって…って所は、とっても身に染みる。ブックマークはやたら充実するけど、肝心のモノはいつまでたっても構想すらまとまらなかったり。

 麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」。平均寿命48歳、みんなクスリづけで路地にたむろする地元を出て、わたしは働くことにした。今は労働と呼ばない。朗働と呼ぶ。フィットネスクラブで運動しながら、脳を法人に預ける。仕事が終わると、勤務中の記憶はすべて消える。一日の最大勤務時間は10時間まで。運動不足や仕事のスランプで悩むことはない。

 新型コロナの騒ぎでリモートワークが増えた今、なかなかに切実な設定。「いや宅急便の配送とか、体がないと困る仕事も多いよね?」と一瞬思ったが、その懸念は序盤で解決しているのであった。もっとも副作用もあって、この描き方が実に巧い。組織の中で専門的な仕事をしている人は、自分の仕事の内容を他人に説明するのに苦労するんだよなあ…とか思ってたら、話はどんどんエスカレートして…

 大滝瓶太「花ざかりの方程式」。数学者の桜塚八雲の最後の論文「稀薄期待におけるナビエ・ストークス方程式に寄生した植物の存在とその一般性」は、数学界で話題を呼ぶ。トンデモではない。厳しい査読を通り、由緒正しい専門誌に掲載された論文だ。しかも、この論文を理解した者は、その植物が見える。

 「死圏」は「カート・ヴォネガット全短編1 バターより銃」で読めます。ナビエ・ストークス方程式(→Wikipedia)は「正しいけど使えない」ので有名な流体力学の式。解が判ってりゃ解けるんだけど、だったら解く必要ないじゃん、と。だもんで、普通は変数の幾つかを定数に置き換え簡略化して使います。いや私も判ってないんだけど。ってな難しいネタと、ヴォネガットのおバカな短編を組み合わせた短編。

 草野原々「また春が来る」。作家にも四季がある。冬のあいだ眠っていた作家たちも、春が来ると目覚めて仕事をはじめる。作家の仕事は虚構世界を作ることだ。作りはじめの虚構世界は、エントロピーが低い。解釈の幅が狭く、読解の余地が少ない。世界も小さく、キャラクターの動きも制限されている。

 …と、そんな風に、草野ワールドは育っていくのです。なぜか女の子しかいない世界が多いけどw まあ中には読者が勝手に世界を広げちゃう場合もあって、というか「最後にして最初のアイドル」はまさしくソレな気がw

 三方行成「おくみと足軽」。本陣の娘おくみは十歳。彼女は大名行列が好きだった。大名は大きい。宿場のどんな建物より大きい。そんな大名の行列は、とても美しい。去年は大名を見るため宿場のはずれにある樹にのぼった。なにせ大名は大きい。下から見上げても、てっぺんは見えない。だから高い松に登れば、甲羅のてっぺんにある御駕籠が見えるだろうと思ったのだが…

 言われてみれば、当時の庶民にとって大名行列は一種のパレードみたいなモンで、楽しみにしてる人もいたんだろうなあ…なんて予想は、当たらずとも遠からず? もっとも増設腕とか四脚亀形とか、なんか妙な言葉が紛れ込んでくるんだけどw 確かに、そんあ大名行列なら、今だって子供たちに大人気だろうなあw

 春暮康一「ピグマリオン」前編。22歳の南野啓介は、<ピグマリオン>手術を受ける。その機能の一つは、自分の精神世界を客観視すること。感情や思い込みを排し、現実の姿を見ることができる。もう一つは、脳内にAIで理想の人格を作り出すこと。AIは利用者にアドバイスを送る。アドバイスを受けいれるに従い、利用者の人格はAIに近くなる。すなわち、理想の自分に近づいてゆく。

 最初の機能は、いわば精神の鏡ですね。見たいような、見たくないような。「お前、また逃げてるな」とか言われたらムカつくし。とはいえ、もう一つの機能は嬉しいよね。忘れっぽかったり、面倒くさいこと・苦手なことを、ついつい後回しにしちゃうクセがあると、やっぱ欲しくなるなあ。

 津久井五月「牛の王」。アンソニー・ルドラは、マイクロマシン通信理論の祖だ。彼がカシミールに設立した研究所から、多くの研究者が巣立ち、技術と産業を発展させた。2054年、ライ・クリモトは、久しぶりに師を訪れる。半年前、師は一番弟子のテレーズ・アンヌ・マリーを喪った。テレーズの研究を継いでほしい、そう師はクリモトに告げる。

 長編の冒頭部分。そうか、紅茶はそういうことか。確かにマイクロマシンで通信するのは難しい。細菌や白血球とかは化学物質で情報をやりとりしてるみたいだけど、それで巧くいってるってのも、ちと信じがたい話。とはいえ犬とかも臭いでなわばりを判別してるから、案外と化学物質の情報量は大きいのかも。

 樋口恭介「Executing Init and Fini」。初めて会ったとき、フィニーはバロウズと名づけた大きな鎖鎌を持っていた。彼女は文字を狩る。

 バロウズはたぶんウィリアム・バロウズ(→Wikipedia)を示すんだろうなあ、ぐらいしかわからなかった。

 神林長平「戦闘妖精・雪風 第四部 アグレッサーズ 第一話」。クーリィ准将の予想通り、地球から戦闘機部隊がFAFにやってきた。ただし正式な地球連合軍ではない。中心はオーストラリア空軍で、日本海軍航空部隊が支援する形だ。これには地球の政治情勢が関わっている。そのため、発足したアグレッサー部隊の二名、深井大尉と桂城少尉は、ブッカー少佐から政治情勢のレクチャーを受けていた。

 わはは。桂城はともかく、深井零に政治情勢を分からせるってのは、無茶やろ…と思ったら、やっぱり無茶だったw しかも、今回は珍しく零が感情剥き出しの長台詞があったり。もっとも、その感情の向かう先がソッチなあたりは、やっぱり零だよなあw

 飛浩隆「空の園丁 廃園の天使Ⅲ」第4回。啄星高校に転校してきた印南棗を中心に、山下祐・儀間圏輔・杉原香里の四人は、天使化が始まった早坂篤子を襲う。時は始業前、場所は高校の自転車置き場。篤子の体は砂のようなものに侵食されつつある。

 今回はド派手なバトル回。なにせ舞台は数値海岸なだけに、戦闘の様子もこの世界ならでは。特に篤子が<手>で反撃するあたりは、凄まじくデンジャラス。にしても三次元空間を官能素で満たすには、いったいどれだけのメモリと演算能力が必要なんだろう、とか考えるとキリがない。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第31回。バロットらイースターズ・オフィスが、やっと得たハンターたちとの会合の場。ローレン大学で学んだ経験を活かし、バロットは敢えて沈黙を武器とする。彼らからウフコックの情報を引き出すために。ウフコックを救い出すために。

 前回に引き続き、会話に強い緊張感が漂う回。確かに交渉時に沈黙は怖いよなあ。と同時に、ちょっとした「しぐさ」からも多くの情報を引き出そうとする、タフでしたたかなバロットが拝める回。そんなバロットに対し、身内抱えた危機を微塵も感じさせず静かに対応するハンターもクールだ。

 劉慈欣「クーリエ」泊功訳。若い頃の彼は、特許局に勤めながら屋根裏部屋で暮らしていた。今は老いて、ブリンストンで静かに暮らしているが、悩みは尽きない。うっとうしい悩みから逃げるように、バイオリンを弾くのだった。ここしばらく、一人の青年が彼のバイオリンを聴いているのに気づく。

 7頁の掌編。好きな人なら、老いたバイオリニストの正体は最初の方でピンとくるかも。とまれ、青年が彼を訪れた目的には、著者の想いというか願いがこもってると思う。

 藤井太洋「マン・カインド」第12回。いよいよ終盤に差し掛かった模様。最後の数行は、盛んにデモが行われている現在のアメリカを考えると、なかなかにヤバくて怖くなる。本当にそうなったら、どうなるんだろう?

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2020年7月 3日 (金)

佐藤岳詩「メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える」勁草書房

メタ倫理学においては、そもそも規範倫理学が前提としている様々なことが疑問に付される。たとえば「正しいこと」など本当に存在するのだろうか。そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのだろうか、などである。
  ――第1章 メタ倫理学とは何か

道徳について何かを問うても、答えなど見つからない。偉そうなことを言っている人も、結局は自分の感情を表現しているだけだ、と表現型情緒主義者は述べる。
  ――第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである

非実在論―非認知主義―表出主義的な世界観は、道徳を自分たちの中から生み出されて、私たち自身を導くものとして捉えた。他方で、実在論―認知主義―記述主義的な世界観は、道徳を世界に実在する真理と考え、それが見えれば私たちは自らそれに向かって歩みを進めるものと捉えた。
  ――第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することである

まっとうな心をもった人であれば、そうした場面に遭遇したときに、そうしなければならないことがわかるし、それでいい。そう直感主義は考える。
  ――第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか

【どんな本?】

 倫理学は大雑把に三つの分野がある。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学だ。

 規範倫理学は、善悪の基準を求める。最大多数の最大幸福を求める功利主義、善き性質を身に着けるのが大事とする徳倫理学などだ。

 応用倫理学は、私たちが直面している切実で生々しい問題を扱う。脳死臓器移植の是非、IT技術者などの規範を決める専門職倫理学、環境問題を考える環境倫理学などだ。

 対してメタ倫理学は、規範倫理学の根拠に疑問を呈する。

 そもそも善悪の基準は存在するのか? そもそも善悪とは何なのか? そもそも善悪について語る必要はあるのか?

 そう、メタ倫理学の特徴は「そもそも」にある。規範倫理学が礎としている基本的な事柄に対し、「そもそも、○○って何なの?」と疑い、何らかの解を示す。それがメタ倫理学だ。

 ただし、今のところ、メタ倫理学に決定的な解は出ていない。幾つもの流派が分かれては合流して新しい流派を生み、喧々囂々の戦国時代にある。

 そこで本書は、メタ倫理学の入門書として、メタ倫理学の全体を見渡す「地図」を目指している。

 メタ倫理学は、どんな問題を扱うのか。それぞれの問題に対し、どんな説や流派があるのか。流派の間では、どんな議論が交わされているのか。そして、そもそもメタ倫理学とは何なのか。

 敢えて個々の流派の深みに踏み入る事を避け、あくまでもメタ倫理学全体を俯瞰する立場で著した、素人向けのメタ倫理学の入門書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年8月20日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約325頁に加え、あとがき8頁。9ポイント52字×20行×325頁=約338,000字、400字詰め原稿用紙で約845枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。

 つまりは哲学の本なので、どうしてもややこしい表現が多いのは覚悟しよう。ただし、できる限り分かりやすくするために、著者は工夫を凝らしている。なるべく身近で具体的な例を示す、部や章の最初と最後に「まとめ」を入れる、箇条書きを使う、などだ。また、本文頁に脚注を入れ、頁をめくらずに済むようにしているのも嬉しい。

 表紙の漫画っぽいイラストや、手に取りやすいソフトカバーの製本など、ややこしい事柄をできる限りわかりやすく伝え、読者をメタ倫理学の泥沼に引きずり込もうとする、著者の熱意と陰謀が伝わってくる本だ。

【構成は?】

 最初に全体を俯瞰して、続く章で個々の話を述べる形だ。なので、なるべく素直に頭から読もう。

  • はじめに
  • Ⅰ 道徳のそもそもをめぐって
  • 第1章 メタ倫理学とは何か
    • 1 倫理学とは何か
    • 2 倫理学の分類
    • 3 メタ倫理学はなんの役に立つのか
    • 4 メタ倫理学では何が問われるのか
    • 5 本書の構成
  • 第2章 メタ倫理学にはどんな立場があるか
    • 1 客観主義と主観主義
    • 2 道徳的相対主義
    • 3 客観主義と主観主義のまとめ
  • Ⅱ 道徳の存在をめぐって
  • 第3章 「正しいこと」なんて存在しない 道徳の非実在論
    • 1 道徳の存在論
    • 2 錯誤理論 道徳の言説はすべて誤り
    • 3 道徳の存在しない世界で
    • 4 道徳非実在論のまとめ
  • 第4章  「正しいこと」は自然に客観的に存在する 道徳実在論 1)自然主義
    • 1 実在論の考え方と二つの方向性
    • 2 素朴な自然主義 意味論的自然主義 もっともシンプルな自然主義
    • 3 還元主義的自然主義 道徳を他の自然的なものに置き換える
    • 4 非還元主義的自然主義 道徳は他と置き換えられない自然的なもの
    • 5 自然主義全般の問題点
    • 6 自然主義的実在論のまとめ
  • 第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する 道徳的実在論 2)非自然主義的実在論
    • 1 神命節
    • 2 強固な実在論
    • 3 理由の実在論
    • 4 非自然主義的実在論のまとめ
  • 第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか 第三の立場と静寂主義
    • 1 準実在論 道徳は実在しないが、実在とみなして構わない
    • 2 感受性理論 道徳の実在は私たちの感受性を必要とする
    • 3 手続き的実在論 道徳は適切な手続きを通して実在する
    • 4 静寂主義 そもそも実在は問題じゃない
    • 5 第三の立場および第Ⅱ部のまとめ
  • Ⅲ 道徳の力をめぐって
  • 第7章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである 表出主義
    • 1 道徳的な問いに答えること
    • 2 表出主義
    • 3 表現型情緒主義 道徳判断とは私たちの情緒の表現である
    • 4 説得型情緒主義 道徳判断とは説得の道具である
    • 5 指令主義 道徳判断とは勤めであり指令である
    • 6 規範表出主義 道徳判断とは私たちが受け入れている規範の表出である
    • 7 表出主義のまとめ
  • 第8章 道徳判断を下すとは事実を認知することである 認知主義
    • 1 認知主義
    • 2 内在主義と外在主義
    • 3 ヒューム主義 信念と欲求は分離されねばならないか
    • 4 認知は動機づけを与えうるか
    • 5 道徳判断の説明のまとめ
  • 第9章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
    • 1 Why be Moral 問題
    • 2 道徳的に善く振る舞うべき理由などない
    • 3 道徳的に善く振る舞うべき理由はある プリチャードのジレンマ
    • 4 道徳的価値に基づく理由
    • 5 最終的価値に基づく理由 理性主義
    • 6 そもそも理由なんていらなかった? 直感主義、再び
    • 7 Why be Moral 問題および第Ⅲ部のまとめ
  • おわりに
  • あとがき/文献一覧/事項索引/人名索引

【感想は?】

 そう、この本は地図だ。惑星「メタ倫理学」の地図だ。

 きっとあなたは、メタ倫理学なんか知らない。聞いたこともないだろう。だが、この本のどこかに、あなたは居る。

 なぜなら、あなたは善悪を判断できるからだ。何が正しくて何が正しくないかを分かっているからだ。いや、時として分からなくなることがあるかも知れない。というか、普通に生きてりゃ「どうすりゃいいのか」と悩むことは必ずある。

 それでも、悩んだ挙句に、あなたは何らかの解を出す。つまりは、あなたなりに「正しさ」の基準を持っているのだ。

 ただし、往々にして、人によって「正しさ」の基準は違う。体罰や夫婦別性などでは、激しい議論が沸き起こる。賛否いずれの側も、自分が正しいと思っている。では、「正しい」って、何なんだろう?

 その解は、人によって違う。違うけど、みんな自分なりの解を持っている。それはつまり、誰もが惑星メタ倫理学上のどこかに居るってことだ。

 そういう点で、この本は万民向けの本だ。あなたはメタ倫理学上において、必ず何らかの意見を持っている。ただ、自分の意見がどう呼ばれているか知らないだけだ。

 この本の面白さのひとつが、ソレだ。自分の居場所がわかる。自分だけじゃない、あなたとは意見が異なる人の居場所もわかる。もっとも、居場所がわかるだけで、なぜ違うのか、どっちが正しいのかまでは判らないけど。その辺は中立的というか、議論を紹介するに留めているのが、この本のもう一つの特徴だろう。

 ちなみに私は非実在論―非認知主義―表出主義らしい。これを突き詰めると、ある意味ヤバい考え方になる。なにせ…

非実在論の立場によれば、道徳的な事実や性質といったものは、いっさい存在しない。
  ――第3章 「正しいこと」なんて存在しない 

 と、解釈の仕方によっては、とんでもねえ思想って事になりかねない。なんたって、極論すれば「正義なんてない」って思想なのだから。少なくとも、アブラハムの神を真剣に信じている人からすれば、不道徳きわまりない奴に見えるだろう。つか、こんな事を全世界に向けて書いて大丈夫なのか俺。まあ、そういう発想は生理的に受け入れられないって人向けに、こういう論も紹介している。

その説明があまりにも、私たちの直感からかけ離れたものであるとすれば、それはそれで理論としては問題含みである。
  ――第5章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する

 理屈はどうあれ、結論が納得できないなら、やっぱ間違ってるんじゃね? と、そういう事だ。ソレはソレで、世の中の仕組みと合ってるだろう。賢い人がいくら精緻な理屈を述べようと、国民の多くが反対する制度や法律は、たいてい成立しないし。

 などと、「こんな問題があります」「それについてはこんな論があります」「対してこんな反論もあります」と話を進め、なんか賢くなった気分にさせた後で、一気にちゃぶ台返しを食らわすから、この本は油断できない。

この考え方(静寂主義)によれば、そもそも私たちは道徳的な事実の実在をめぐって議論する必要はなく、そのような形而上的な議論については静寂を保つべきである。それはなぜかと言えば、道徳的な事実が存在しようとしまいと、私たちの日常には何の影響もなく、何の道徳的問題も解決されないからである。
  ――第6章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか

 をいw 今までの議論は何だったんだw せっかく頑張ってややこしい理屈を読み解いたのにw

 私の感想としては、どの主義も「有り/無し」のデジタル思考に囚われすぎというか、ヒトの心を単純化しすぎというか、そんな風に感じた。

 例えば、この本では、大雑把に二つの対立陣営を紹介している。非実在論―非認知主義―表出主義的と、実在論―認知主義―記述主義だ。これキッパリ切り分けられるんじゃなくて、たいていの人は双方を含んでいて、その割合が人によって違うし、時と場合と状況によっても割合が変わるんだろう、とか。

 また、今のところメタ倫理学は理屈から現象を検証しようとしてるけど、逆に現象から理屈を導き出そうとしてる行動経済学とかと交流が盛んになったら、なんかとんでもねえ化け物が出てきそうな気がする。

 と、自分の位置を確かめるって読み方をしてもいいし、自分には理解できない立場、例えば人種差別主義者の立ち位置を想定してみてもいい。または「哲学者ってのは何をやってるのか」を覗き見する楽しみもある。ややこしくて面倒くさいけど、ソレはソレで面白そうな仕事だよなあ、と思ったり。少なくとも、倫理学にハッキリした解は(少なくとも今のところは)出ていないのだ、ってのだけでも分かれば、この本を読んだ価値は充分にある。

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