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2019年12月 6日 (金)

イタロ・カルヴィーノ「最後に鴉がやってくる」国書刊行会 関口英子訳

…なぜ私が人間と一緒に暮らし、人間のために働かなければならないのでしょう。
  ――養蜂箱のある家

SSに母親を逮捕された晩、兄弟は夕飯を食べに<コミュニスト>の家へ向かった。
  ――血とおなじもの

「司令部はどこなんだ?」
  ――司令部へ

「おーい、みんな。今日はフライを食いたいと思わないか?」
  ――海に機雷を仕掛けたのは誰?

【どんな本?】

 イタリアの作家でSFファンにも人気が高いイタロ・カルヴィーノの初期作品を集めた短編集。1949年刊行の作品集「最後に鴉がやってくる」を中心に、日本独自のセレクションで編集した。

 解説によると、大雑把に三つの傾向から成る。

 まず、著者が若い頃を過ごしたイタリア北西部のサンレモを舞台として、農村の暮らしを描いた作品。次に、第二次世界大戦中のイタリアを舞台とした作品。最後に、戦後のイタリアを舞台として、混乱の中で逞しく生きる人々を描いた作品。

 後年にみられる幻想的な味わいは少ないが、特に三番目の傾向では、イタリア人らしい明るいユーモアが漂っている。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年3月23日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約302頁に加え、堤康徳の解説「イタロ・カルヴィーノの出発地 リヴィエラの風景とパルチザンの森」18頁+訳者あとがき6頁。9ポイント40字×16行×302頁=約193,280字、400字詰め原稿用紙で約484枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 文章はこなれている。内容も難しくない。ただし、戦中を舞台とした作品群は、第二次世界大戦中のイタリアの歴史を知っていた方がいい。枢軸側として参戦したが、連合軍が南部から上陸し、ファシスト勢力は北へと追いやられていった。

【収録作】

ある日の午後、アダムが/裸の枝に訪れた夜明け/父から子へ/荒れ地の男/地主の目/なまくら息子たち/羊飼いとの昼食/バニャスコ兄弟/養蜂箱のある家/血とおなじもの/ベーヴェラ村の飢え/司令部へ/最後に鴉がやってくる/三人のうち一人はまだ生きている/地雷原/食堂で見かけた男女/ドルと年増の娼婦たち/犬のように眠る/十一月の願いごと/裁判官の絞首刑/海に機雷を仕掛けたのは誰?/工場のめんどり/経理課の夜
解説「イタロ・カルヴィーノの出発地 リヴィエラの風景とパルチザンの森」堤康徳/訳者あとがき

【感想は?】

 幻想的でナンセンスな芸風かと思っていたが、全く違うのに驚いた。

 まず最初の「ある日の午後、アダムが」から、完全に勘ちがいを思い知らされる。舞台はたぶん1940年代のイタリアの田園で、一種のボーイ・ミーツ・ガールだ。庭師で15歳の少年リベレーゾが、14歳で小間使いの少女マリアと出会う。リベレーゾはマリアを喜ばせようと贈り物をするのだが…。

 自分が気に入ってるモノは女の子も喜ぶはず、と思い込んでいるのを、子供らしい純真さといえば聞こえはいいが、実はええ歳こいたオッサンになっても、男ってのはほとんど学習も成長もしてなかったりする。身に覚えがあるだけに、オチには笑いつつも少し苦みが混じってたり。

 「地主の目」「なまくら息子たち」「羊飼いとの昼食」は、いずれも地主で旧世代の父と、新世代で知的ながら軟弱でごくつぶしの息子世代を対比する作品。地主と言っても大地主じゃない。父は小作人と共に畑に出て汗を流し、農業にも詳しい。こういった世代の断絶は、戦後の日本でもあったんだろうなあ。親を無教養で野卑だと感じつつも、働き者で人望も甲斐性もある点は認めざるを得ない、屈折した想いが濃く出た作品だ。

 「バニャスコ兄弟」は、同じ小地主の息子兄弟が主人公。教育もあり、都市のしゃれた暮らしも知っている兄弟が、地元では違う顔で過ごしている。地元を離れ都市で仕事に就いた人向けの作品だろう。

 「養蜂箱のある家」は、人里離れた山の中で暮らす、人間嫌いの男を描く作品。蜜蜂と共に暮らす、達観した仙人みたいな人だと思ったら…。途中で空気が一気に変わるあたりいが、第一の芸風と第二の芸風の狭間に相応しい。

 「血とおなじもの」からは、第二次世界大戦中のイタリアを舞台とした作品。この作品では理屈が先立つ兄と、銃器に興味津々な弟の対照が面白い。

 「ベーヴェラ村の飢え」は、戦争に巻き込まれた村を描く。村を占拠され、村人は山の洞窟に逃げ込むが、食料が尽きてきた。町へ買い出しに行かねばならないが、途中の道は激しく砲撃されており…。被弾したカタツムリや巣を壊された蟻を描く場面が印象に残る。そうだよなあ、彼らも被害者だよねえ。

 「最後に鴉がやってくる」は、少し幻想的。山を行くレジスタンスに、一人の少年が加わる。見事な銃の腕を見せた少年は、面白がって鳥や木の実を次々と撃ち落とすのだが…。少年は戦術もヘッタクレもなく銃を撃ちまくるんだが、つまりは新しいおもちゃを見つけたんで楽しくてしょうがないってだけなんだろう。撃つ方は気楽なもんだが…

 「地雷原」は、一種のスリラー。男は峠を越えようとするのだが、そこには多くの地雷が埋まっていて…。どこに埋まっているかわからない地雷原の恐怖を、じっくり描いた作品。

 「食堂で見かけた男女」からは、戦後のイタリアを描いた作品。闇商売でガッポリ稼いだ未亡人と、没落して貧乏暮らしの老貴族が、大衆食堂で相席となり…。価値観が完全に変わってしまった事を、まったくわかってない老貴族の姿が切ない。

 「ドルと年増の娼婦たち」からは、だいぶ芸風が違い、ヤケになったようなユーモアが楽しい。32歳のエマヌエーレは、妻のイリオンダと共に闇両替で稼いでいる。今夜もフェリーチェの店でアメリカ人水兵相手に商売しようと出かけたが…。終盤でドタバタがエスカレートしていくあたりは、短編映画にしたらさぞ笑えるだろう。大柄の水兵は若い頃のシュワルツネッガーあたりで。雰囲気、かのジョン・ベルーシが大暴れした映画「1941」を彷彿とさせる。

 「犬のように眠る」は、駅でねぐらを探す者たちの話。飢えた者たちが、美味い食いものについて語り合う物語はあるが、心地よいねぐらについて語り合う話は珍しい。

 「十一月の願いごと」も、開き直った芸風のコメディ。寒さが身に染みてくる11月、冬物のシャツと下穿きの施しが始まった。多くの者が長い行列を作り順番を待つところに、バルバガッロがやってくる。老いたこの男、ミリタリーコートを羽織ってはいるが…。なんちゅうか、開き直ったオッサンってのは、無敵だよねw 映像化は、様々な事情でちと難しいけどw

 「裁判官の絞首刑」は、ダークな味わいの分かりやすい寓話。今までオンオフリオ・クレリチは裁判官として強い信念に基づき判決を下してきた。だが最近は風当たりが強くなり…。

 「海に機雷を仕掛けたのは誰?」は、海辺の町が舞台。富豪ポンポーニオの屋敷には、将軍や代議士や新聞記者が集まっている。そこに老夫バチが今日の漁の獲物を持ってくる。新鮮なウウニとカサガイだ。ただし妙なオマケも持ってきて…。 これまた、気取った上流階級の連中と、逞しく日々を生きる貧しい者たちを対比させた作品。

 「工場のめんどり」は、戦後も落ち着いたころを舞台としたコメディ。工場の警備員のアダベルトは、工場の中庭で一羽のめんどりを飼っている。おとなしいし、毎日卵を産む上に、中庭でミミズを漁るので助かっている。めんどりは工場内を歩き回り、工員たちも大目に見ていた。中でもベテラン旋盤工のピエトロは一計を案じ…。ブラック企業ってのは別に今に始まったワケじゃなく、昔からあったんです。ピエトロ爺さん、もう少し要領が良ければねえ。

 最後の「経理課の夜」は、夜のオフィスを舞台とした、少し幻想的な作品。社員が帰った後、幼いパオリーノは母と共に掃除の仕事を始める。経理課に立ち寄った時、残業していた男から世界の秘密を打ち明けられ…。 後の芸風の片鱗をうかがわせる、微妙に人を食ったような話。

 農村生活を描くもの、戦中の暮らしを描くもの、戦後が舞台の作品と、三種類の芸風の中じゃ、私は「ドルと年増の娼婦たち」以降の開き直ったようなコメディが、わかりやすくて好きだなあ。「十一月の願いごと」とか、かなりしょうもないネタなんだけど、だからこそインターナショナルなのだ。いやそんなご大層なシロモノじゃないんだけどねw

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【つぶやき】

 読み終えてから気づいたんだけど、これ国書刊行会の「短編小説の快楽」シリーズの一冊なのね。このシリーズ、カバーが謎めいていていいんだよなあ。

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