« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月の10件の記事

2019年11月27日 (水)

アン・アプルボーム「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社 川上洸訳 3

…強制移住させられた民族は公式文書から抹殺され、『ソヴィエト大百科事典』からさえも末梢された。当局は彼らの故郷の地を地図から消し去り、チェチェン・イングーシ自治共和国、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、カバルジノ・バルカール自治共和国、カラチャーイ自治州を廃止した。
  ――第20章 「よそ者」たち

東ドイツの収容所の入所者の大半は、ナチ高官や札つきの戦争犯罪人ではなかった。そのたぐいの囚人は(略)ソヴィエトの捕虜収容所またはグラーグへ入れられた。
「スペツラーゲリ」は(略)ドイツ・ブルジョアジーの背骨をへし折ることを目的にした。その結果、(略)裁判官、弁護士、企業家、実業家、医師、ジャーナリストらが収監されることになった。
  ――第21章 恩赦 そしてそのあとで

1953年に党中央委員会の命令で実施されたもう一つの監査は、収容所の維持費が囚人労働から得られたすべての利潤を上回っていることを明らかにした。
  ――第22章 収容所=産業複合体の絶頂期

政治囚の数もスターリン時代よりずっと少なかった。1970年代半ばのアムネスティ・インターナショナルの推定によれば、ソ連の囚人100万人のうち政治的判決を受けたのは1万名以下で…
  ――第25章 雪どけ そして釈放

「私たちは彼らを暴露したり、裁判にかけたり、断罪したりしなかった……そういう質問をするだけで、われわれ一人ひとりが愛する誰かを裏切るリスクを冒すことになるのだ」
  ――エピローグ 記憶

これらの数字を合算すると、ソ連における強制労働者の犠牲者は2870万人になる。
  ――補説 犠牲者の数は?

 アン・アプルボーム「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社 川上洸訳 2 から続く。

【どんな本?】

  • 第3部 収容所=産業複合体の盛衰 1940~86年
    • 第19章 戦争勃発
    • 第20章 「よそ者」たち
    • 第21章 恩赦 そしてそのあとで
    • 第22章 収容所=産業複合体の絶頂期
    • 第23章 スターリンの死
    • 第24章 ゼークたちの革命
    • 第25章 雪どけ そして釈放
    • 第26章 異論派の時代
    • 第27章 1980年代 銅像のうちこわし
  • エピローグ 記憶
  • 補説 犠牲者の数は?
  • 訳者あとがき/文献・出典一覧/主要人名索引

 アレクサーンドル・ソルジェニーツィンの「イヴァーン・デニーッソヴィチの一日」で一躍有名となり、西側諸国にもその冷酷かつ悲惨な実体が明らかになったソ連の収容所。それはどのように始まり、どのように変わっていったのか。革命→スターリンの君臨→独ソ戦→東欧吸収→スターリン死去→フルシチョーフによるスターリン批判→アンドローポフの締め付けなど政治情勢の変化は、グラーグにどんな影響を及ぼしたのか。

 文学作品や手記そして直接の取材はもちろん、ソ連崩壊に伴い公開された資料も漁り、集中収容所の全貌を明らかにする衝撃のノンフィクション。

【はじめに】

 全体は3部から成る。

  • 第1部 グラーグの起源 1917~39年:収容所の歴史・前半
  • 第2部 収容所の生活と労働:収容所の中の暮らし
  • 第3部 収容所=産業複合体の盛衰 1940~86年:収容所の歴史・後半

 この記事では、「第3部 収容所=産業複合体の盛衰 1940~86年」を中心に紹介する。つまり独ソ戦以降ですね。

【戦争勃発】

 ただでさえ苛烈な収容所の環境は、独ソ戦勃発で更に悪化する。食糧をはじめとする物品の補給が滞った上に、逮捕対象のカテゴリーが広がって入所者が増え、政治囚の刑期が伸びた。つまり入ってくる囚人は増えたが、出ていく囚人は減る。当然、ただでさえ過密な収容所にさらに囚人を詰め込んだというのに、配分すべき物品は減り、作業ノルマは増える。

 おまけに西部の収容所は急いで引っ越しだ。囚人の移送が間に合わない? 刑事囚は釈放していい、だが政治囚は始末しておけ。前の記事にも書いたけど、政治囚に対する冷酷さと憎しみは、なんなんだろうね。その結果…

…二百万を優に超える人びとが戦時中にグラーグの収容所とコロニーで死んだ。
  ――第19章 戦争勃発

 アウシュヴィッツのユダヤ人収容所を見つけたソ連は、解放者として盛んにそれを宣伝したけど、似たような真似を自分たちもやっていたのだ。

【「よそ者」たち】

 1939年のソ連によるポーランド侵攻やバルト三国占領などで、ソ連国内には異邦人が増える。彼らに加え、もともとスターリンの気に入らなかった民族も、戦争を言い訳に弾圧を加える。強制移住だ。

 その対象は様々なカフカース人、クリミア・タタール人、メスヘト・トルコ人、クルド人、ヘムシル人、ブルガリア人、ギリシャ人、アルメニア人などだ。その理屈も無茶苦茶である。

…ヴォルガ・ドイツ人(→Wikipedia)の誰ひとりとして、そのような多数の破壊工作員およびスパイ(略)をソヴィエト当局に通報していない。すなわちヴォルガのドイツ人住民は(略)敵を自分らのあいだに隠匿している。
  ――第20章 「よそ者」たち

 通報がないから、みんなグルにちがいないって、言いがかりにもほどがある。

 加えて、戦争が進むに従い、敵国の捕虜もこれに加わる。ドイツ人捕虜の惨状は「ベルリン陥落」に詳しい。もっとも、捕虜の扱いはドイツ軍も似たようなモンだけど(「スターリングラード」)。もちろん、多くの日本人も捕虜になってます(→Wikipedia)。

 ドイツに対し反旗を翻したポーランド国内軍(「ワルシャワ蜂起」)まで流刑にしてるんだから、その目的は対独戦とは関係ないのがわかるだろう。この手の連中は、国家存亡の危機すら、都合の悪いやつを強引に叩き潰す機会として利用するのだ。たとえそれが戦争遂行に不利になるとしても。連中にとって最も大事なのは十分の権力維持であって、国家の利害は二の次でしかない。

 そんな捕虜や強制移住者たちが追いやられたのは、もちろん何もない荒野である。そして今もロシアはクリミアやチェチェンを牛耳り、ウクライナも東部に居座ろうとしているんだから、たいした鉄面皮だよなあ。

【恩赦 そしてそのあとで】

 とはいえ、戦争中は兵隊が足りない。そこで、政治囚と重い刑事犯を除き、恩赦となる。ったって、行先は悪名高い懲罰大隊(→Wikipedia)だけど。

 ポーランド人にも恩赦が与えられる。ヴワディスワフ・アンデルス将軍が率いるポーランド軍師団を結成するためだ。とはいえ、ソ連は補給も移動手段も与えない。結局、アンデルス将軍はイラン経由で欧州戦線に参加、モンテ・カッシーノ攻略(→Wikipedia)で勇猛果敢の名をはせるんだから、歴史ってのはわからない。加えて、彼らの生き残りの証言は、後に西側諸国にグラーグの実態を知らしめてゆく。

 このグラーグ制度は後に中国に輸出され、今でも北朝鮮で盛んに利用されている。

【収容所=産業複合体の絶頂期】

 戦後も恩赦は続く。政治囚でない女も恩赦の対象となる。というのも、孤児がやたらと増え、それが浮浪児や愚連隊となったからだ。「イワンの戦争」にも「連隊の子供」が出てきたけど、子供こそが戦争の最大の被害者だよなあ。これを扱った「廃墟に生きる戦争孤児たち」も凄い迫力です。

 収容所の管轄も大きく変わる。というのも、NKVDがMGB(後のKGB)と内務省=MVDに別れ、収容所はMVDの管轄となったからだ。それまでに釈放された元囚人も、1948年に再逮捕の波が来る。秘密警察はアルファベット順に逮捕したというから、律義というか間抜けというか。

 この騒ぎは、収容所に大きな変化を起こす。それまでの政治囚は大人しかったが、今度の政治囚の多くは戦場帰りである。ヤクザ共を返り討ちにし、癒着した看守たちにだって歯向かう。この辺は、読んでて気分がよかった。

【スターリンの死】

 しまいにはユダヤ人の収容所送りまで目論んでいたスターリンだが、1953年3月にお陀仏となる。後を継いだベーリヤは果敢に改革を進め、複数の運河計画など無謀な土木工事を取りやめる。中には「サハリーンへの海底トンネル」なんてのもあったから驚きだ。収容所も100万人以上を恩赦とする…が、フルシチョーフによってあえなく塀の中へ。諸行無常ですなあ。

【ゼークたちの革命】

 そのフルシチョーフ、スターリン告発などで路線を大幅に変更、「雪どけ」と呼ばれる方向へ向かう。この頃、収容所は幾つかの民族系派閥が力をつけている。ウクライナ人、バルト人、ポーランド人などだ。いずれも元は筋金入りのパルチザンで、一筋縄じゃいかない。チクリ屋は一掃され、しまいには大規模ストライキへと発展する。

 ただしこのストライキ、MVDの画策だって話もあるから闇が深い。雪どけが進み収容所が閉鎖になったら、失業しちゃうからね。結局、最後は戦車T-34まで投入して鎮圧するんだけど。天安門事件かい。

【雪どけ そして釈放】

54年6月に実施されたグラーグ財政についての再度の調査は、多額の国庫補助金を受けていること、とりわけ警備の費用が財政を赤字にしていることを改めてしめした。
  ――第25章 雪どけ そして釈放

 MVDが懸念したのも当然で、つまりは赤字だったのだ、収容所は。ここでMVDは改革を進めようとし、KGBは骨抜きにしようとする。KGBの体質がよく分かるね。

 駆け引きのためか、恩赦は進むが元囚人の名誉回復は進まない。その理屈が凄い。

もし一挙に全員無実と宣言したら、「この国が合法的な政府ではなく、ギャング団によって動かされていたことが明らかになってしまう」
  ――第25章 雪どけ そして釈放

 「俺たちがギャングだとバレたら困る」ってわけだ。ちなみに戦中と冷戦時の国際会議におけるソ連代表団の素行の悪さは有名で、パリのホテルじゃ備品がゴッソリ消えたとか。フランス外交部は、次の舞台となるロンドンのイギリス外交部にその由を警告したって話をどっかで読んだ。

 フルシチョフの演説は上層部しか知らないが、知人だった囚人が戻ってくれば民衆も雪どけを実感する。もっとも、彼らをチクった連中は居心地の悪い思いをする羽目になるんだが。なお、収容所は釈放に当たって「中であったことを言いふらすな」との文書に署名を求めている。どんだけ往生際が悪いんだか。

 そこに爆弾がさく裂する。アレクサーンドル・ソルジェニーツィンの「イヴァーン・デニーッソヴィチの一日」だ。元囚人による感想は、「戦地の図書館」冒頭に出てくる海兵隊員の手紙に匹敵する極上のファンレターだ。

「涙で顔がぐしゃぐしゃになりましたが、私はそれを拭きませんでした。雑誌のわずかなページに込められたこれらのいっさいが私のもの、私自身が収容所で過ごした15年の毎日毎日身をもってあじわったものだったからです」
  ――第25章 雪どけ そして釈放

【異論派の時代】

 1950年代末から、新たなタイプの囚人が出現する。「異論派」だ。人権活動家たちの多くがスターリンの犠牲者の子弟ってのが興味深い。そりゃ体勢に反感を持つよ。

 中には変わったのもいる。ロシア正教会の古い儀式を守る古儀式派だ。1919年に北部ウラルの原生林に住み着き、「KGBのヘリコプターが50年後に発見するまでそこで完全に秘密に生活していた」。同じころアメリカで流行ったヒッピーのコミューンとは、覚悟も年期も違う。

 古儀式派は例外として、新しい時代の政治囚たちは、「自分がなぜ逮捕されたのかを知って」いるのが、かつての政治囚との大きな違い。しかも、彼らは準備ができていいた。

 というのも、「物語創世」にも出てきた地下出版「サミズダート」が発達していたため。中でも「時事クロニクル」は、人権侵害・逮捕・裁判・デモ・新刊サミズダートを扱い、「スターリン後のソヴィエト収容所の生活についての主要情報源」へと成長する。

 「時事クロニクル」は西側にも漏れ、風当たりが強くなる。これに対するKGBの対策が古典的だ。異論派を精神病者に仕立て上げ、MVD直轄の病院に閉じ込めるのだ。奴らは変わらないなあ。

 この章にはもう一つ、面白い挿話がある。

 1991年、国外追放されていたヴラジーミル・ブコーフスキイが里帰りする。時のロシア大統領エーリツィンは共産党の禁止を求め、反発する共産党は裁判に持ち込んだ。ブコーフスキーは憲法裁判所にハンドスキャナーとラップトップ・パソコンを持ち込み、堂々と証拠書類のコピーを始める。ロシアじゃ誰もパソコンやハンドスキャナーなんか知らないと踏んだのだ。

 彼の目論見は見事に当たり、バレたのは完了間近。ブコーフスキイはまっすく空港に向かい、ロシアから逃げましたとさ。なんつーか、ロシアになっても、まず隠そうとする体質は変わってないんだなあ。

【1980年代 銅像のうちこわし】

 どころか、明らかに逆方向に向かうだろう、と思うのが、フルシチョーフ路線からの逆走を始めたアンドローポフの経歴が…

1956年にブダペスト駐在のソ連大使だった彼(アンドローポフ)は、知識人の運動があっという間に民衆革命に転化するようすをまのあたりにした。
  ――第27章 1980年代 銅像のうちこわし

 現ロシア大統領のプーチンも、元KGBで、1989年に東ドイツでベルリンの壁崩壊を体験してるんだよなあ。

 さて、1980年代の収容所で、政治囚は刑事囚と隔離されている。お陰で収容所は「一種のネットワークづくりのための施設」になった。アラブの刑務所と同じだね(「倒壊する巨塔」,「ブラック・フラッグス」)。ここで若い異論派は、第二次世界大戦の古強者たちと出会い、交流を深めていくのである。

 そしてゴルバチョーフが登場し、市民の間でも新しい動きが現れる。「レーニンの墓」にも出てきた、メモリアール協会だ。メモリアールは、「収容所生存者からの聞き書きを収集していた」。ほんと、事実の記録を残すってのは大切だよね。そして…

ゴルバーチョフは1986年末、ソヴィエトの政治囚全員の全面的釈放を決定した。
  ――第27章 1980年代 銅像のうちこわし

【記憶】

 過去に光を当てようとする動きに対し、元ソ連の人々の反応は様々だ。ロシア人は「昔のことを掘り返すな」、沈黙、そして「もっと知りたい」。リトアニアは追悼施設を、ラトヴィアは占領博物館を、ハンガリーもドイツ占領とソ連時代をいっしょに展示する博物館を開く。対してベラルーシは虐殺跡地を道路にしようとする。わかりやすいね。

 そして肝心のロシアは…

ロシアは弾圧の歴史をあつかった国立博物館をもっていない。ロシアは国立の慰霊場所、犠牲者とその家族の苦しみを公式にみとめるモニュメントももっていない。
  ――エピローグ 記憶

 この点については、日本もロシアを責める資格はないだろう。なにせ特高や憲兵の弾圧を記録し国民に示す国立博物館を持たない。犠牲者の慰霊碑もない。そもそも、この本「グラーグ」に該当するような、特高や憲兵の弾圧を手記から統計まで広く含めた本すら、まず見当たらない。もしご存知なら、ぜひ教えてください。

【おわりに】

 権力が暴走するとどうなるのか、言論弾圧の向こうに何があるのか、自らの間違いを隠すため役人がどこまでやるのか。そんな真面目な意味でも面白かったし、刑事囚と政治囚の関係などは下世話な野次馬根性で楽しかった。分量は多くてちょっと尻込みしたくなる本だが、書かれているエピソードは「まとめブログ」記事が余裕で三桁書けるぐらいの濃いネタがギッシリ詰まってる。やっぱりソ連・東欧物ドキュメンタアリーは刺激的な本が多いなあ。

【関連記事】

【つぶやき】

 悪役令嬢をきっかけに、「小説家になろう」にハマった。今、読んでるのは、「異世界のんびり素材採取生活」と「ラスボス、やめてみた ~主人公に倒されたふりして自由に生きてみた~」。ポンポンとハイテンポでストーリーが進んでいくのが心地いい。

| | コメント (0)

2019年11月26日 (火)

アン・アプルボーム「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社 川上洸訳 2

監獄では収監者がしばしば協力し合い、強者が弱者を助けていたのに、ソ連の収容所ではどの囚人も「自分のことだけしか考えず」、他人を蹴落として収容所の序列のなかでわずかでも高い地位を獲得しようとしていた。
  ――第17章 生き残り戦略

エヴゲーニア・ギーンズブルクもレフ・ラズゴーンもヴァルラーム・シャラーモフもソルジェニーツィンも、いちばん広く読まれた古典的な回想記筆者たちは実質上すべて、時期こそ違うが特権囚だった。
  ――第17章 生き残り戦略

 アン・アプルボーム「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社 川上洸訳 1 から続く。

【どんな本?】

 「シベリア送り」で有名な、旧ソ連の収容所。それはいつから始まったのか。どんな目的で、どんな所に作ったのか。どんな者が送られ、どの部署が管轄したのか。革命→大テロル→独ソ戦→スターリン死去などの事件は、収容所にどのような影響を与えたのか。そして、収容所内の暮らしはどのようなものだったのか。

 有名な「収容所群島」などの文学作品や多数の人々が残した手記と直接の取材、そしてソ連崩壊に伴い公開された文書などをもとに、ソ連の収容所の実態を明らかにする、衝撃のドキュメンタリー。

【はじめに】

 全体は3部から成る。

  • 第1部 グラーグの起源 1917~39年:収容所の歴史・前半
  • 第2部 収容所の生活と労働:収容所の中の暮らし
  • 第3部 収容所=産業複合体の盛衰 1940~86年:収容所の歴史・後半

 この記事では、「第2部 収容所の生活と労働」を中心に紹介する。当然、悲惨な描写が多いが、「塀の中の懲りない面々」的な面白さもある。

【逮捕】

  • 第2部 収容所の生活と労働
    • 第7章 逮捕
    • 第8章 監獄
    • 第9章 移送、到着、選別
    • 第10章 収容所での生活
    • 第11章 収容所での労働
    • 第12章 懲罰と褒章
    • 第13章 警備兵
    • 第14章 囚人
    • 第15章 女性と子ども
    • 図版
    • 第16章 死にざま
    • 第17章 生き残り戦略
    • 第18章 反乱と脱走

 逮捕したのは、OGPU、後のKGBだ。逮捕の名目は、「その時点で疑惑の対象とされたカテゴリーの住民層」。具体的には…

  • トロッキストなどスターリンの政敵
  • 1920年代後期の技術者と専門家
  • 1931年のクラーク=富農
  • 独ソ戦中のポーランド人・バルト人(エストニア・ラトビア・リトアニア)
  • 外国人の共産党員
  • 外国にコネがある者
  • ベーリヤ贔屓のサッカーチーム相手に活躍したサッカー選手

 と、偏見丸出しな上に、お偉方の気分次第でもある。終戦後はドイツ軍の捕虜はもちろん、ポーランド国内軍などナチス相手に戦ったレジスタンスも収容所に送ってる。ナチス相手に逆らう気骨のある者は、ソ連共産党にも逆らうだろうって理屈。まあ間違っちゃいないけどね。おまけに占領した東欧諸国の共産主義者もシベリア送りだ。

 なお、収容所とは別扱いだが、大戦中にはドサクサに紛れてチェチェン人やクリミア人を強制移住させている。出征しナチス相手に戦った兵士が復員してきたら、村ごとゴッソリ消えてたって話もあった。確か「イワンの戦争」だったかな?

 人を属性で決めつけ、具体的な嫌疑もなく逮捕するってのも酷いが、その後の取り調べや裁判も、ご想像のとおり。抗議したところで…

「われわれは無実の者をけっして逮捕しない。かりにあなたが有罪でないとしても、釈放することはできない。そんなことをすれば、無実の人びとをしょっぴいているとみんなが言うだろうから」
  ――第7章 逮捕

 と、連中が自分たちの間違いを認めるはずもなく。こういうのって、どうすりゃいいんだろうねえ。航空機事故の原因究明では、「人の罪を問わない」ことにして回避してるらしいけど。

 こういった「政治犯」に加えて、人殺しや泥棒などの刑事犯も収容所に送ってる。これが収容所の暮らしに大きな影を落とすのだが、それは後に。

 他に有名な囚人としては、後にロケット開発を主導するセルゲイ・コロリョフ(→「ロシア宇宙開発の巨星の生涯」)や航空機設計者のアンドレーイ・トゥーポレフ(→Wikipedia)がいる。

【監獄】

 ソ連、特にチェカーの陰険さは収容所でも徹底していて、「各房にすくなくとも一人の密告者がいる」なんて状態。もっとも、チクリ屋がバレると村八分にされるんだけど。そりゃ嫌われるよなあ。

 そんな中でも囚人たちは連絡を取り合おうとする。彼らは独自のモールス信号を開発するのだ。ロシア語のアルファベットを6×5の行列に並べ、壁などを叩く回数で文字を送る。うーん、賢い。

【移送、到着、選別】

 収容所への輸送中、多くの囚人が渇き飢えた。警備兵が配るのを面倒くさがったのもあるが、それ以上に嫌がったのが排泄。そこで考え出した対策が「飲み食いしなけりゃ何も出さない」。となりゃ当然、輸送中に多くの者が亡くなり、たどり着いた者も瀕死の状態。森林伐採や鉱山などで働かせようにも、使い物にならない。これだからお役所仕事ってのは←いや問題はソコじゃないだろ

【収容所での生活】

 やはり出す話だが、もちろん当時は水洗トイレなんかない。それでも室内に桶がありゃマシで、屋外だと切ない事になる。特に北方の冬、零下30~40℃なんて時にゃ、遠くの便所まで歩くのが億劫だってんで、野郎どもは途中でチョイとつまんで済まそうとする。冬の間は固まってるんだが、春になると…

 そんな囚人同士の間でも、派閥ができる。後にはウクライナ・バルト・ポーランドなど民族で固まるんだが、当初「いちばんよく組織されていたのは、刑事囚だった」。中でも人殺しなど凶暴な奴ほど地位が高いから怖い。やがてこういうヤクザどもが房を仕切るようになり、ヤクザの掟が房を支配するようになる。これじゃ更生もヘッタクレもありゃしない。というか、似たような状況はどの国の刑務所でも起きてるんじゃなかろか。

【収容所での労働】

 戦後に連行されたドイツ人科学者はロケットを設計していた(「ロケット開発収容所」)。また…

…首都モスクワには囚人が航空機を設計している収容所があり、中部ロシアの収容所の囚人は原発を建設、運営したし、太平洋岸の漁業収容所、南ウズベキスタンの集団農場収容所もあった。
  ――第11章 収容所での労働

 おいおい、原発ってマジかい。まさか生物・化学兵器工場も(→「死神の報復」)…。

 食糧の分配や刑期の短縮で囚人を釣るものの、生産高は上がらない。それもそのはず、機械は故障して動かず修理工もいない。技術者だからって専門でもないのに架橋の責任を負わされた囚人もいる。その橋は「最初の出水で流されてしまった」。まあ当然だよね。権限を振りかざすしか能のない奴が権力を握ると、たいていこうなるんだよなあブツブツ…

【懲罰と褒章】

 ベーリヤは収容所の規則を細かく定めたが、複雑すぎる上にしょっちゅう変わるんで、結局は収容所長の気分次第となる。おまけに看守も面白半分で嫌がらせするし。手紙や小包のやりとりも制限される上に、看守たちが横領することもある。つまりは無法地帯ですね。

【警備兵】

 面白いことに、囚人から看守に成り上がる場合もある。ナフターリイ・フレーンケリに至っては、収容所長になり白海運河建設まで仕切っている。もっとも、大半は無学で「1945年4月現在、グラーグ管理者の3/4近くが初等教育しか受けていなかった」。そんなん仕切る所長も大変だよなあ。

 もっとも、中には悪い奴もいて、囚人にワザと脱走をそそのかすのだ。脱走兵を射ち殺せばボーナスと休暇がもらえるから。

 逆に親切な看守もいるんだが、全体として統制をとるのに使う手口は、お馴染みのレッテル貼り。

…レッテル貼りは、たんなる無意味な言葉の遊びではなかった。配下の囚人どもを「敵」あるいは「下等人間」と描き出すことで、警備兵はみずからの行為の正当さを再確認したのだ。
  ――第13章 警備兵

 卑劣な奴がやる事は、今も昔も、洋の東西も問わない。

【囚人】

 先に書いたように、囚人は大きく分けて政治囚と刑事囚がいる。当初、房を仕切ったのは刑事囚、それも銀行強盗や列車強盗など筋金入りの悪党だ。役人もこれを利用し、刑事囚の配置を工夫して「他の囚人を統制させた」。比較的にまっとうな教育を受けた政治囚たちが、職業的犯罪者と一緒になって戸惑う場面は印象深い。

 困ったことに刑事囚の多くは教育がなく、よって手記の類もほとんどない、と著者は嘆いている。記録を残すって、けっこう大事なんだなあ。

 そんな刑事囚の派閥に対し、ウクライナやバルト諸国など民族や出身地別の派閥もできてゆく。面白いのは、最大多数であるロシア人の派閥がないこと。どうも派閥ってのは、互いを結びつける外からの圧力がないとできないらしい。

 宗教別の派閥もあって、こっちは正教徒派とカトリック派が、互いの祝日に労働を交換して協力しあってたり。共産主義の世界で信仰を守る人ってのは、余程の覚悟がある人なんだろう。

【女性と子ども】

 収容所内の女の立場は、まあご想像のとおり。同性愛もあるんだが、受け役の少年は悲惨だ。「彼らはのけ者あつかいにされ、共同のコップで水を飲むことをゆるされず、侮蔑の対象となっていた」。攻め役、守ってやれよ。

 子供の環境も酷い。収容所内の仕事は色々ある。保育の仕事は楽なので、「『特権囚』の仕事とされ、職業的犯罪者にわりあてられるのがふつうだった」。こんな連中がマトモに仕事をするはずもなく…

 興味深いのが、保育方針が子どもに与える影響。調べたところ、「ものを学習する能力をしめしたのは母親とのなんらかの接触を維持していた一人か二人だけ」というから、乳幼児とのスキンシップは大切なんだろう。

【死にざま】

 そんな環境だから、囚人は次々と死んでゆく。飢餓の進行には段階があって…

顔や体を洗わなくなり、椀をまともに持てなくなり、侮辱にたいして人間としてあたりまえの反応を示さなくなった囚人は、最後には飢えのあまり文字どおり発狂した。
  ――第16章 死にざま

 そんな死者に対し、他の囚人は、故人の服や帽子を奪い合うのである。

 あんまし死者が多いと当局から目をつけられる。そこで…

死亡率が「高すぎる」と判断されたラグプーンクトの所長たちは処刑されるおそれがあった。(略)そのため、収容所監査官に見つからないよう死体を隠した医師もいたし、死にかけている囚人を早期釈放するのがあたりまえとなっていた収容所もあった。
  ――第16章 死にざま

 きっと、死者は期末の方が多かったんだろうなあ。そうすれば食料をチョロまかせるし。

【生き残り戦略】

 そんな地獄で生き残る秘訣の一つは、サボりだ。適当に働くフリをして休むのである。マトモに働く奴は村八分にされたり。その成果は班で水増しされ、収容所で水増しされ、収容所群で水増しされ…と、お決まりの共産主義的な統計数字となる。

 もう一つは病院に入ること。中には「左手の指四本を切り落と」したり。統合失調症を装う者もいたが、これを見破る方法は…

ほんものの患者と同じ病室に入れることだった。「いいちばんしたたかなニセ患者までもが、数時間のうちにドアをたたいて、ここから出してくれと言うのだった」。  ――第17章 生き残り戦略

 政治囚は立場が弱いが、特技を活かして生き延びる方法もある。娯楽の少ない収容所では、芸が身を助ける。絵を描ける者、彫刻の心得がある者は、作品とひきかえに食料を得た。音楽家はもっと有利で、所長に取り入ることもできる。また多くの政治囚は…

回想記を書いたおどろくほど多数の政治囚たちが(略)自分たちが生き残れたのは「語り」の才能のおかげだったと言っている。
  ――第17章 生き残り戦略

 知っている小説や映画を房のボスに語り、おこぼれにあずかったのだ。人ってのは、生死に関わる時でも物語を求めるんだなあ。

【反乱と脱走】

 脱走は難しい。収容所がタイガなど自然環境で隔絶されている上に、町にたどりついても通報される。通報すれば賞金250ルーブルが出るのだ。それでも脱走者はいて、1933年だと脱走者45,755名、うちつかまったのは28,730名。成功率は約4割だから、賭ける価値はあるかな? 特に…

脱走予備軍の圧倒的多数が職業的犯罪者だった(略)。首尾よく大きな町にたどりつくと、地元の犯罪世界のなかにまぎれこみ、証明書を偽造し、隠れ家を見つけることができた。
  ――第18章 反乱と脱走

 と、刑事犯の方が有利だった上に、追う側も刑事囚はテキトーに済ますのに対し、政治囚は「近隣のすべての村落を動員し、国境警備隊の支援を要請」した、というから熱の入れ方が違う。そんなに政治犯が憎いのか。こういう心理は、なんなんだろう?

 さて、脱走しても、すぐに食料が尽きる。そこで、刑事囚たちは、例えば二人で脱走する際は、三人目も誘う。なぜかって? 自分で歩く食糧って、便利だよね。

【おわりに】

 などの収容所も、バルバロッサ作戦の発動と共に大きな変化が訪れる。それについては、次の記事で。

【関連記事】

【つぶやき】

 澄んだ声の女性シンガーでは、ポーランドのバンド Quidam にいた Emila Derkowska も凄い。最初に聴いた時は、一瞬背筋が寒くなった(→Youtube)。

| | コメント (0)

2019年11月25日 (月)

アン・アプルボーム「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社 川上洸訳 1

これはグラーグの歴史、(略)ソ連の東西南北全域にわたって散在していた労働収容所の一大ネットワークの歴史である。
  ――序論

「…ここにはソヴィエト権力はない。あるのはソロヴェールキイ権力だけだ」
  ――第2章 「グラーグ収容所第1号」

【どんな本?】

 「シベリア送り」で象徴される、旧ソ連の収容所。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの「収容所群島」などで有名で、多くの人がボンヤリとその印象を持っている。気まぐれな逮捕とおざなりの裁判、そして過酷な労働と劣悪な環境。だが、その実体はどんなものだったのか。

 誰が、どんな理由で収容所に送られたのか。収容所内の暮らしは、どんなものだったのか。どこにどれぐらい収容所があったのか。誰が生き残り、誰が亡くなったのか。ソ連政府のどこが管轄し、どのような目的で運営したのか。

 ソ連崩壊に伴い公開されたソ連の公式文書を中心に、監督官・囚人双方の収容所生活経験者の手記なども漁り、収容所の実態を明らかにする、衝撃のドキュメンタリー。

 2004年度ピュリツァー賞一般ノンフクション部門受賞作。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は GULAG, by Anne Applebaum, 2003。日本語版は2006年7月15日発行。単行本ソフトカバー縦二段組み本文約632頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント27字×24行×2段×632頁=約819,072字、400字詰め原稿用紙で約2,048枚。文庫ならたっぷり4冊分の巨大容量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ただ、歴史と共に収容所の性格も変わっているので、ソ連の歴史を知っていると更に深く理解できる。

【構成は?】

 第一部は収容所の歴史前半、第二部は収容所の実態、第三部は再び収容所の序歴史後半となる。

  • 凡例/謝辞/序論
  • 第1部 グラーグの起源 1917~39年
    • 第1章 端緒をひらいたボリシェヴィキー
    • 第2章 「グラーグ収容所第1号」
    • 第3章 1929年 偉大な転換
    • 第4章 白海運河
    • 第5章 収容所の拡張
    • 第6章 大テロルとその余波
  • 第2部 収容所の生活と労働
    • 第7章 逮捕
    • 第8章 監獄
    • 第9章 移送、到着、選別
    • 第10章 収容所での生活
    • 第11章 収容所での労働
    • 第12章 懲罰と褒章
    • 第13章 警備兵
    • 第14章 囚人
    • 第15章 女性と子ども
    • 図版
    • 第16章 死にざま
    • 第17章 生き残り戦略
    • 第18章 反乱と脱走
  • 第3部 収容所=産業複合体の盛衰 1940~86年
    • 第19章 戦争勃発
    • 第20章 「よそ者」たち
    • 第21章 恩赦 そしてそのあとで
    • 第22章 収容所=産業複合体の絶頂期
    • 第23章 スターリンの死
    • 第24章 ゼークたちの革命
    • 第25章 雪どけ そして釈放
    • 第26章 異論派の時代
    • 第27章 1980年代 銅像のうちこわし
  • エピローグ 記憶
  • 補説 犠牲者の数は?
  • 訳者あとがき/文献・出典一覧/主要人名索引

【感想は?】

 |┃三     , -.―――--.、
 |┃三    ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
 |┃    .i;}'       "ミ;;;;:}
 |┃    |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
 |┃ ≡  |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|
 |┃    |  ー' | ` -     ト'{
 |┃   .「|   イ_i _ >、     }〉}     ______
 |┃三  `{| _;;iill|||;|||llii;;,>、 .!-'   /
 |┃     |    ='"     |    <  聞かせて貰った!
 |┃      i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {     \ シベリア送りだ!
 |┃    丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ     \
 |┃ ≡'"~ヽ  \、_;;,..-" _ ,i`ー-     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 |┃     ヽ、oヽ/ \  /o/  |    ガラッ

 …なんてアスキー・アートがあるぐらい、ソ連の収容所は有名だし、多くの人がなんとなく知っている。そこは過酷な所で、スターリンの気まぐれで収容所送りになる、と。

 だが、「収容所群島」を読み通した人はどれぐらいいるだろう? いや私も全く読んでないけど。それに、「収容所群島」は文学作品で、ソルジェニーツィンが体験したこと、見聞きしたことを中心に書いている。それに対し、本書はより多くの人々の体験談を集め、また公的文書や統計も漁り、より俯瞰的な視点で収容所の全体像を描き出そうとするものだ。

 この記事では、本書の第一部を紹介する。というか、実は記事を書く時点じゃ第二部までしか読み終えていない。そういうわけで、第一部、収容所の歴史の前半部分、1917~1939年までを紹介する。

 元々、帝政ロシア時代の18世紀から収容所はあった。未開拓の北方と東方を開拓するためだ。革命で権力を奪ったソ連も、これを受け継いだ。が、「この段階では収容所の目的は不明確なままだった」。ボリシェヴィキーも、社会には収容所が必要だと思っていたんだろう。お題目じゃ世界革命を唱える共産主義者も、所詮はロシア的な文化・風習に囚われていたわけだ。

 これが1920年代になると、OGPU(後のKGB)の管轄になり、「経済的利益のために奴隷労働を活用する」方針を打ち出す。つまりはタコ部屋だね。とはいえ、ソ連の経済政策が間抜け極まりないのは皆さんご存知だよね。工業化を目指す最初の五カ年計画で…

もっとも目立ったのは、技術専門家の逮捕だった。
  ――第3章 1929年 偉大な転換

 工業化するのに技術者は不可欠だと思うのだが、OGPUの理屈は違った。工業化計画がコケるのは技術者が怠けているからなのだ。これを皮切りに、馬鹿が権力を握るとロクな事がない、そう感じさせる記述が本書には何度も出てくる。ったく、なんだってこう権力を握る才能を持つ奴ってのは、権力を使う能力が見事に欠けてるんだろう。

 続いて1930年代には「悲しみの収穫」にある農業集団化とホロドモール(→Wikipedia)で、多くの農民が収容所送りとなる。以後、スターリンが死ぬまで農民が収監者の大部分を占めた。飢饉だってのに、農民を農地から離すとは、何考えてんだか。

 そんな収容所の奴隷労働の情報は西側にも届き、反発も出てくる。特に影響が強かったのはアメリカ労働総同盟(AFL)が呼びかけたボイコット。極右の人は労働組合を赤の手先と決めつけるけど、たいていは悪質なデマです。

ソ連側は(収容所に抗議する西側の)ボイコットの脅威をきわめて深刻にうけとめ、外貨流入の途絶を防止するためいくつかの手を打った。これらの措置の一部は、うわべをごまかすだけものもで、たとえばヤーンソン委員会はそのすべての公式発表からコンツラーゲリ(集中収容所)という表現をすっかり削除した。
  ――第4章 白海運河

 ってな具合に、経済制裁にもソレナリの効果はあるのだ。もっとも、ソ連側の対応はいつも通りのセコい隠蔽だけど。

 そういう全体主義の間抜けっぷりがよく出てるのが「第4章 白海運河」。白海とバルト海を運河で結ぼうって壮大な計画だ(→Wikipedia)。スターリンの命令で工事は特急となる。独裁者ってのは、壮大な土木・建設工事が大好きなんです。ところがその無謀な計画に間に合わせる方策は、手抜き工事だ。お陰で運河の水深はたったの3.6m、今じゃ通過する船は「いちばん多くて日に七隻」なんて体たらく。ところが、そのコストは…

ある推定によると囚人二万五千人以上が死んだが、これには病気や事故で釈放された者や、釈放後まもなく死んだ者は含まれていない。
  ――第4章 白海運河

 これだけの人間が、一つの建物に入るはずもなく。だからこそ収容所「群島」と呼ばれる。バラックをボコボコ作り、次第に町となってゆく。しまいにゃ共和国まで出来てしまう。コーミ共和国(→Wikipedia)がソレだ。

 もともと前人未到の荒野で、「1937年までコーミでは有刺鉄線は使用されなかった」。だって周囲は何もないタイガだし。収容所建設の目的は地下資源開発で、そのため1928年11月「絶妙のタイミングでOGPUは著名な地質学者のN・チホノーヴィチを逮捕」している。今もコーミ共和国は石油産業で稼いでますね。

 やがて1930年代後半の大テロルがやってくる。囚人は続々とやってくるが、受け入れ態勢は整っていない。バラックも食料も衣服も足りない。そもそもソ連の流通網の無能さは有名だ。ってんで、囚人は次々と死んでゆく。肝心の経済効果も…

公式統計によれば、全体としてグラーグの収容所の取引額は1936年に35億ルーブルだったのが(大テロルの)1937年には20憶ルーブルに落ち、収容所の総生産も11憶ルーブルから9憶4500万ルーブルに低下した。
  ――第6章 大テロルとその余波

 これにはさすがのベリヤ(OGPUの親玉、→Wikipedia)もヤバいと思って改善に乗り出し、「収容所=産業複合体」へと進化してゆく。

 さて、その収容所の中はどんな具合か、というと、それは次の記事で。

【関連記事】

【つぶやき】

 往年のプログレッシヴ・ロックをカバーしてる Fleesh って二人組がすごい。伸びやかで澄んだ歌声は、アニー・ハズラムを凌駕してるかも(→Youtube)。

| | コメント (0)

2019年11月21日 (木)

デニス・E・テイラー「シンギュラリティ・トラップ」ハヤカワ文庫SF 金子浩訳

「シリラがベイビーロックで探知した異常物を掘りだそうとしたんです。バスケットボールくらいの小さな物体です。プリチャードがそれを拾いあげようとして手をのばしたら、それからなにかが飛びだしてきて彼の右腕を包みこんだんです」
  ――p82

「…彼はいったい、なにを必要としているのかしら?」
  ――p187

「…肝心なのは、きみがいまもきみだっていうことだ」
  ――p215

意見は過大評価されている。意見を持つのは傍観者だ。傍観者にすぎない観客は意見を持つ。プレーヤーは決断をくだし、結果に責任を持つのだ。
  ――p334

「…どうして銀河系内に文明を発見できないのか、というのが、地球外文明の数を推定するドレイク方程式にまつわる長年の大問題でした」
  ――p398

「…軍事的解決策の問題は、道徳権利を有するほうではなく、また万全の策があるほうでもなく、強大なほうが好んで採用することだ」
  ――p464

【どんな本?】

 銀河系宇宙を舞台とした本格スペース・オペラ「われらはレギオン」で話題を呼んだカナダの新鋭SF作家デニス・E・テイラーによる、期待の新作長編SF。

 アイヴァン・プリチャードはコンピュータ技術者だ。妻と二人の子がいるが、暮らし向きは悪くなる一方。そこで一発逆転を狙ったプリチャードは、有り金をはたいて小惑星探鉱船<マッド・アストラ>に乗り込む。しばらくは家族と会えないが、資源の豊富な小惑星を見つければ大儲けできるはず。

 ところが<マッド・アストラ>、最近は空振りが続いて台所は身売り寸前の悲惨な状態。加えて今回も最初の探索は空振りに終わった。仕方なく延長戦に入ったところで、大当たりを引き当てる。はいいが、とんでもないオマケがついてきた。小惑星のすぐそばにあった岩塊をプリチャードがつついたところ、岩塊から飛び出した何者かが…

 人類の存亡がかかったファースト・コンタクトをユーモアたっぷりに描く、本格SF長編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Singularity Trap, by Dennis E. Taylor, 2018。日本語版は2019年10月25日発行。文庫本で縦一段組み本文約496頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント41字×18行×4996頁=約366,048字、400字詰め原稿用紙で約916枚。文庫の上下巻でもいい分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。一応、天文学や物理学関係でソレナリの仕掛けが出てくるが、分からなかったら「なんかソレっぽいことを言ってるな」程度に解釈しておこう。

【感想は?】

 スペース・オペラには、大きく分けて二種類がある。光速を超えるものと、超えないものだ。

 一般に光速を超える作品はストーリーやキャラクターを重んじるもので、超えないものは科学的な整合性を重視する作品が多い。前者の代表が「スタートレック」や「星界の紋章」で、後者の代表は「火星の人」や「航空宇宙軍史」だろう。

 本書は、光速を超えない。となると、堅苦しい作品のように思うかもしれないが、とんでもない。著者の本邦初登場シリーズの「われらはレギオン」も、敢えて光速の制約を受け入れることで、ボブたちの「戦い」に緊張をもたらした。

 本作の前半では、カッチリした技術的なディテールが楽しい。地球の重力井戸から這い出す<スリング>の描写も、現代の力任せな化学燃料ではなく、費用対効果の高い方法を採っている事が伺える。たぶん磁気カタパルトだろうなあ。それでも宇宙では空間そのものが貴重なので、宿泊施設はアレだったり。そんなもん、なぜ著者は知ってるんだ?

 こういう、技術だけじゃなく経済面も考えているあたりが、21世紀SFらしいリアリティを感じさせてくれると共に、「案外と宇宙時代はすぐソコに来てるのかもね」的な高揚感を与えてくれる。と同時に、「でも、君が考えてるほどロマンチックじゃないよ」と釘をさすのも忘れない。窓とかスポンジとかスピン方向とか、そーゆー小技がスレたSF者には心地いいのだ。

 本作の舞台は、近未来だ。小惑星の採鉱は、民間企業に任されている。しかも、主人公プリチャードが乗り込む探鉱船<マッド・アストラ>は、大企業の所属じゃない。船長ジェニングスの持ち船だ。こういった所は、資本主義を信じ挑戦と起業を美徳とする、北米人らしいバランス感覚だろう。

 と同時に、本作の舞台裏にある人類社会の、技術的・政治的背景も巧みに仄めかす。プリチャードが乗り込むのに、株を買い入れるあたりは、「大航宙時代」を連想してニヤリとしたり。この世界が持つ、活気あふれるフロンティアの香りが漂ってくる。

 などと、科学的な細部はキッチリ書き込みつつも、本作は決して堅苦しくない。何より、いきなり冒頭で大風呂敷を広げてくれる。かの傑作「2001年宇宙の旅」や、SFマニア歓喜の「サターン・デッドヒート」を思い起こさせる、宇宙SFの王道展開だ。遠い遠い昔、知的種族が太陽系に飛来し、「道しるべ」を仕掛け、去っていった…。そう、これは先人の偉大な傑作に真正面から挑む、大いなる野心作なのだ。

 こういった底に流れる明るさは、プリチャードに変化が訪れる中盤以降で、更に勢いを増す。いや肝心のプリチャードは常識じゃ考えられない異常な状況にキョドりまくりなんだが、読んでる私たちは「どんな御利益があるのかな?」と妙な期待に胸がワクワクしちゃったり。ほんとゴメン、プリチャード。

 もっとも、単に明るいだけじゃ済まないのも、中盤以降の展開で。謎のエイリアンの目論見もそうだが、それより地球の事情がいささか不穏なのだ。温暖化は悪化し、世界は二陣営で睨み合っている。プリチャードの噂で暴動が頻発する場面でも、科学とテクノロジーを愛する著者らしい世界観が覗けて「やっぱり」と思ったり。この人、きっと「インディペンデンスデイ」も好きだろ。

 そして、終盤では、ファーストコンタクト物に付き物の大きな壁「ドレイクの方程式(→Wikipedia)」と「フェルミのパラドックス(→Wikipedia)」をめぐる問題に真っ向から立ち向かい、今世紀のSFに相応しい新たな解を提示してくれる。

 もちろん、スタートレックにはじまり2001年などのイースター・エッグも随所に仕込んであり、マニアを喜ばせるトラップには事欠かない。ばかりでなく、終盤での頭脳戦では、人類の命運をかけた大博打を打ちつつ、それに相応しい壮大なビジュアルが展開する。

 お得意のクセのあるユーモラスな会話は健在で、細かく章を分けた構成もスピード感があって親しみやすい。そして何より、本格SFの醍醐味ファースト・コンタクトに本腰を入れて挑んだのが嬉しい。最新の知見を折り込みつつも、SFの楽しさをギッシリ詰めこんだ、今世紀ならではの太陽系スペース・オペラだ。

【関連記事】

【どうでもいい話】

 たぶん次の記事はしばらく間が開きます。かなり歯ごたえのある本なんで。

| | コメント (0)

2019年11月19日 (火)

薄葉重「虫こぶ入門 増補版 虫えい・菌えいの見かた・楽しみかた」八坂書房

…生物の寄生の影響で、植物体の細胞に生長や分化の異常が起こり、結果として奇形化したり、過度に肥大化あるいは未発達に終わるような組織や器官が“ゴール(gall)”ということになる。
  ――第2章 虫こぶの生物学 1.虫こぶの定義

虫こぶをつくる昆虫で、最も種類数が多く、広範囲の植物群に虫こぶを作っているのはタマバエ類である。タマバエ科のハエは4500種ほど知られ、その約半分は虫こぶを作るという。
  ――第2章 虫こぶの生物学 8.タマバエ類とその生活

…菌糸は虫こぶ内で保護されて育ち、タマバエ幼虫は菌糸から栄養を摂取する。また成虫は菌の胞子などを伝播して繁殖を助ける。
  ――第2章 虫こぶの生物学 9.虫こぶを利用する他の生き物

一般に群落の内部は虫こぶを探しにくく、実際にも少ないように思われる。群落の周辺部、道端、渓流の岸など植生に変化があるところを探すのが能率的である。
  ――付録A 虫こぶ観察の手引き 2.探し方のポイント

虫こぶを開いて、すぐ成虫が見つかるのはアブラムシ類やクダアザミウマ類ぐらいで、多くは幼虫なので、すぐには虫こぶをつくる昆虫がわからない場合が多い。
  ――付録A 虫こぶ観察の手引き 4.虫こぶの記録・標本の保存

【どんな本?】

 葉がきれいに開かず、一部がクルリと巻いてしまう。緑色の葉の上に、虫ピンの頭のような形の赤い珠や、黄色いピラミッド状のものができる。果実が異様に大きい、または未熟なまま変形する。幹や枝の途中に妙なデキモノができる。

 これらは虫こぶかもしれない。原因はウイルスや菌の場合もあるが、多くは昆虫が作ったものだ。往々にして農家や園芸家にとっては大敵だが、時として植物と共生関係を築いているものもあれば、人間が利用する場合もある。

 理科教師として勤務する傍ら、虫こぶに魅せられ各地の虫こぶを収集・研究してきた著者が、虫こぶの魅力と研究の実態を伝える、身近な生物学研究の案内書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 元は1995年に八坂書房より自然史双書6「虫こぶ入門 虫と植物の奇妙な関係」として出版。2007年7月30日に同社から増補版として初版第1刷発行。単行本ソフトカバー横一段組み約271頁。9ポイント29字×29行×271頁=約227,911字、400字詰め原稿用紙で約570枚。文庫本なら普通の厚さの一冊分ぐらいだが、イラストや写真を多く収録しているので、実際の文字数は8割ぐらい。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。植物、特に樹木に詳しいと更に楽しめるだろう。

【構成は?】

 素人向けに親しみやすさを考えた構成なので、素直に頭から読もう。

  • 序章 春のマジック 舞台はエゴノキ
  • 第1章 虫こぶの文化誌
  • 1.虫こぶの歴史
    • 虫こぶをめぐる関心と混乱
    • 日本の古い記録に見る虫こぶ
      笹魚/ナラゴウ/五倍子/イスノキの虫こぶ/マタタビの虫こぶ
  • 2.虫こぶの利用
    • 虫こぶが利用されてきたわけ
    • どのように利用されてきたのか
      薬にする/インクをつくる/なめす/染める/食べる/入れ墨・お歯黒・花材・除草など
  • 3.有名な虫こぶ
    • 没食子
    • 五倍子
  • 4.イチジク果の中の虫こぶ
  • 5.飛び跳ねる虫こぶ
  • 6.忠誠のシンボルとして
  • 7.奇妙な学名
  • 8.植物図鑑に現れた虫こぶ
    イスノキ/ヌルデ/ノブドウ/マタタビ/ニガクサ/ムシクサ/シラヤマギク/マコモ/エゴノキ/ケヤキ
  • 第2章 虫こぶの生物学
  • 1.虫こぶの定義
  • 2.ゴールの細胞や組織の特徴
  • 3.ゴール形成の仕組
  • 4.ゴールのつくりとでき方
  • 5.ゴールが見られる植物
  • 6.ゴールをつくる生物
  • 7.タマバチ類とその生活
    • 分類上の位置とおよその生活
    • 生活史の型
  • 8.タマバエ類とその生活
    • 分類上の位置とおよその生活
  • 9.虫こぶを利用する他の生き物
    • 寄生者(Parasite)
    • 寄居者(Inquiline)
    • サクセッソリ(Successori)
    • 共生者
  • 10.虫こぶの害
    • ヘシアンフライ
    • フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)
  • 11.“移動”する虫こぶ
    • クリタマバチ
    • イギリスでのタマバチの分布拡大
    • 日本の帰化植物の虫こぶ
  • 第3章 虫こぶ観察ノートから
  • 1.カイガラキジラミ
  • 2.ムクノキトガリキジラミ
  • 3.トゲキジラミ
  • 4.タケノウチエゴアブラムシ
  • 5.イスノキの虫こぶ
  • 6.シバヤナギのハバチによる虫こぶ
  • 7.ニシキウツギハコブフシ
  • 8.日本の野生イチジク類とコバチ類
    イヌビワ/アコウ、ガジュマルなど
  • 9.ヤブコウジクキコブフシ
  • 10.アオカモジグサクキコブフシ
  • 11.ヨシメフクレフシと寄生蜂
  • 12.ヨシのタマバエによる虫こぶ
  • 13.ハリオタマバエ類
    キヅカツボミフシ/シラキメタマフシ/ヘクソカズラツボミホソフシ/ヒイラギミミドリフシ/ヤブコウジフクレミフシ/アセビツボミトジフシ/ダイズサヤクビレフシ
  • 終章 日本の虫こぶ研究
  • 付録A 虫こぶ観察の手引き
  • 1.採集
  • 2.探し方のポイント
  • 3.飼育
  • 4.虫こぶの記録・標本の保存
  • 5.野外観察
  • 付録B 日本で普通にみられるゴール
  • あとがき/用語解説/参考文献/索引/補遺

【感想は?】

 きっかけは、こんな葉だ(蓮コラなど集合体恐怖症の人は要注意、→写真)。

 散歩していて、見つけたものだ。実は本書を読み終えた今でも、正体はわからない。虫こぶかもしれないし、病気かもしれない。いずれにせよ、やたら目を惹く葉である。

 本書に出てくる虫こぶは、もっと派手なモノが中心だ。大きさは1cmぐらいから、中には10cmを超えるものもある。その多くはタマバエまたはタマバチによるもの。かつては薬として使われたモノもある。ケッタイな形で目立つから、つい「何か凄い効用がありそう」とか思っちゃうんだろうなあ。

 著者も剛毅で、ナラゴウを「味わってみると柔らかく、うすい酸味とかすかな渋みが残る」とか、食ったんかい。やんちゃだなあ。科学を志す人は、好奇心旺盛な人が多いんだろう。もっとも、メキシコじゃ「砂糖より甘い虫こぶがあり、果物店で売られているという」。でも大抵の虫こぶはタンニンが濃いので、あまし美味しくなさそうだ。その代わり、皮なめしに使われてたり。

 虫こぶを作る虫の生態も、けっこう複雑で、例えばオーク・アップルに虫こぶを作るタマバチ、Biorhiza Pallida。

  1. 交尾後の雌が、オークの根に大豆ぐらいの虫こぶをつくる。
  2. 根の虫こぶから成虫が出てくる。ただし雌だけで、蟻のように羽根がない。
  3. 蟻雌がオークの冬芽に卵を産み、これが虫こぶになる。
  4. この虫こぶから雌雄双方が出てきて交尾する。

 世代ごとに雌だけだったり、雌雄双方があったりする。おまけに雌のみ世代は羽根がない。だもんで、かつては二つの世代は別の種だと思われていたとか。そりゃそうだよね。つか、どうやって同じだと判ったんだろう。往々にして実在の生物の生態は、SF作家の想像力を超えてるなあ。

それとも七回の変態で八つの姿を経る、と考えるべきだろうか。根の卵→根の幼虫→根の蛹→根の成虫→芽の卵→芽の幼虫→芽の蛹→芽の成虫、と。

 などと、一種だけでも複雑なのに、一つの虫こぶに複数種の虫がいるからややこしい。

…寄生者に二次的、三次的に寄生する高次寄生者(Hypetparasite)があり、なかには同種の他個体に寄生するものもある(Autoparasitism,自己寄生)。
  ――第2章 虫こぶの生物学 9.虫こぶを利用する他の生き物

 虫こぶは目立つ。寄生バチにとっては、産卵所のいい目印だ。例えば、既にある卵や、幼虫が幼いうちに卵を産み付け、美味しく育ったところでいただく。寄生されるタマバエにとっちゃたまらん話だが、観察する研究者にとってもいい迷惑だったりする。というのも…

 「面白い虫こぶだ」と思って観察してたら、タマバチが出てきた。「おお、これはタマバチの虫こぶか」と思うでしょ、普通。ところが、実際にはタマバエが作った虫こぶで、そこにタマバチが寄生してた、とかあり得るのだ。しかも、空き家になった虫こぶに住み着くアリやハチやクモがいたり。つか、これも宇宙SFのネタになりそうな話だなあ。

 当然ながら、寄生される植物にとっちゃ嬉しくない、どころか時として壊滅的な被害をもたらす事もある。1920年代にアメリカのコムギに大損害を与えたタマバエのヘシアンフライや、19世紀末にヨーロッパのブドウに猛威を振るったアブラムシのフィロキセラの話などは、農業が本質的に持っている脆さが肌に伝わってくる。単一種を大規模で栽培するってことは、病原菌や害虫に楽園を提供することでもあるのだ。

 「第3章 虫こぶ観察ノートから」では、著者ならではの旅行の楽しみ方を持っているのが伺えて微笑ましい。高校の教師として勤める傍ら、部活の合宿や修学旅行などで出かけた先で、虫こぶを探しては集め研究者の仲間に相談し…と、思いっきり満喫している。私にはただの林に見える風景も、著者には変化に富んだ採集フィールドに見えるんだろうなあ。そういう人生って、豊かだよね。

 とか思うと同時に、生物学という学問の、底知れない幅の広さも、つくづく思い知らされる本だった。何せ昆虫は種類が異様に多い。Wikipedia によれば「2018年時点で知られている昆虫は約100万種」だ。それをカバーするには、著者のような在野の研究者による、熱心なフィールドワークの協力は欠かせないだろう。何か自分にもできることがあるんだろうか。いや今の私は樹木の区別もつかないボンクラなんだけど。

【関連記事】

| | コメント (0)

2019年11月17日 (日)

高島雄哉「エンタングル:ガール」東京創元社

…わたしは夏を撮ることができたのだろうか。
  ――p9

人間の観測精度には上限がある。それは世界の原理なのだ。
  ――p55

「これって、主語が全部ロボットなんだよね」
  ――p126

そう、世界に謎があるんじゃなくて、世界はそれ自体が謎なんだ。謎がからまって世界を形づくっている。
  ――p163

「…お前はすげえよ、了子。また映画手伝うからさ、舞浜で待っててくれ」
  ――p228

「あたし、この世界を超えたいよ、守凪ちゃん」
  ――p241

【どんな本?】

 2006年放送のTVアニメ「ゼーガペイン」と、2016年の映画「ゼーガペインADP」の、同じ世界を舞台としたスピンオフ小説。

 舞台は少し未来の千葉県、舞浜。守凪了子は映画監督になりたい。中学生の頃から短編は撮っていた。役者は幼馴染の十凍京やその友人の冨貝啓に頼んだが、脚本や撮影や編集は自分ひとりでやってきた。だが、これからはチームで本格的に映画製作に取り組みたい。

 そう考えた了子は、舞浜南高校に入学してすぐ、映画研究部を訪れる。幸い三年で部長の河能亨が部室にいたが、返ってきたのは意外な言葉だった。

「きみは映画監督になれない」

 映画を愛する少女・守凪了子と、映画研究部の面々の目を通し、ゼーガペイン世界を語りなおす、SF青春群像劇。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年8月31日初版。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約250頁に加え、あとがき5頁+花澤香菜の解説5頁。9ポイント43字×19行×250頁=約204,250字、400字詰め原稿用紙で約511枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 文章はこなれている。内容も難しくない。量子力学の用語が出てくるけど、実はかなり強引に屁理屈をつけてるので、分からなくても大きな問題はない。ただ、世界設定が重要で、ゼーガペインの設定を知らないと、終盤の印象が大きく違うだろう。また、映画が好きな人向けに、アチコチに仕掛けが施してある。

【感想は?】

 ああ、まぶしい。若さが、熱意が。

 出てくるガジェットは、間違いなく21世紀のSFだ。今より少しだけ進んだ未来が持つ輝きやワクワク感が、ちょっとした小道具から滲み出している。だが、それを使う人の姿は、ちょっと懐かしさが漂ってたり。そう、かの眉村卓が書いた学園ものを思わせる、爽やかで切なく、だがサスペンスが効いた青春群像劇だ。

 やはり主役の守凪了子がいい。今どき映画監督だ。Youtuber じゃない。この、ちょっと古臭い、でも敢えて王道をまっすぐに行こうとする、真面目だけど熱意のある姿勢が、オジサンにはやたら可愛い。と同時に、ダラダラと過ごしてしまった自分の高校時代を、「もったいないことしたなあ」などと悔やんでみたり。じゃ、やりなおしたいか、というと…

 まあいい。ゼーガペインは、守凪の幼馴染である十凍・上腕二頭筋・京を中心に物語が進んだ。サンライズらしいヒーローで、先頭を突っ走るタイプだ。本作の守凪は、ちょっと違う。何せ目指すは映画監督だ。チームを率いなきゃいけない。今まではほぼ独力でやってきたが、これからはチームを動かす必要がある。

 彼女が映画研究部のメンバーを集め、守凪組へとチームに仕立ててゆく過程も、目標へと向け成長しようとする彼女の若さがほとばしる。それを強く感じるのが、三年の飛山千帆を脚本家として引っ張る場面。千帆の卓越した才能は認めるものの、映画人としてはどうしても妬みを感じてしまう。そこをどう乗り越えるか。

 ここの記述はアッサリしているけど、守凪の納得の仕方に、彼女の若さをつくづく感じるのだ。自分の将来像をしっかりと持っていて、今後の己の成長を信じて疑わない姿勢。そうなんだよなあ、いいいなあ、若いって。

 その飛山千帆と因縁を抱えた二年の深谷天音は、ガジェット担当の理系少女。彼女の作るガジェット、特にドローンが、本作では大活躍する。言われてみれば確かに、ドローンの活用が進めば映画の撮影は大きく変わっていくだろう。それは単に様々なアングルで撮れるってだけじゃない。

 特に感心したのは、謎のDVDを巡り守凪と話し合う場面。ここでは、今後のドローン・カメラが克服すべき問題点の指摘に加え、ちょっとヤバさを抱えた可能性も示唆していたり。機能としては嬉しいんだが、そこを自動化するのが果たして良いのかどうか。でも執筆アプリは欲しいなあ。語彙に乏しい私には有難いことこの上ない。

 などの小技に感心しているうち、次第にゼーガペイン世界が物語に侵入してくる。ここで舌を巻いたのが、守凪が映画監督を目指すという、この作品の骨組みだ。守凪が映画を撮ることに、ゼーガペインならではの意味と強いメッセージが関わってくる。それも、幾つものレイヤーで。ヒトによる創作物であること、それが映画であること、映画製作は何人もが関わるチームであること、そしてそれを守凪が率いること。

 花澤香菜の解説も、彼女の肉声が聞こえるような生々しさがある。と同時に、ゼーガペイン世界の、苛烈なまでの厳しさを改めて突きつけてきて、そこで生き映画を撮ろうとする守凪の姿の眩しさが増す。そして脳裏に、あの傑作コピーが蘇るのだ。

消されるな、この想い
忘れるな、我が痛み

【関連記事】

| | コメント (0)

2019年11月15日 (金)

アニー・ジェイコブセン「アメリカ超能力研究の真実 国家機密プログラムの全貌」太田出版 加藤万里子訳

第二次世界大戦終結から数年後、アメリカ政府は超常現象が軍事と諜報の効果的なツールになると考え、秘密作戦に利用する道を探りはじめた。本書は、その取り組みと現代までの軌跡を明らかにする。
  ――プロローグ

ナチス国外諜報局局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将「神秘主義信仰は、政治思想の普及と国民の政治的支配にぴったりの手段である」
  ――第1章 スーパーナチュラル

ガマル・アブデル・ナセル・エジプト大統領が「たった今死んだか、もうじき死ぬ」
  ――第6章 ユリ・ゲラーの謎

ESPと超心理学に対する明確な意見は、たいていの場合、深い個人的信念に根ざしている。
  ――第14章 サイキック兵士

陸軍科学委員会の科学者は、このころまでに軍事機関が直面する「重要な課題」を特定していた。それは、機械が賢くなっているのに人間が進歩していないことだった。
  ――第17章 意識

「それってまるでアカシック・レコードじゃないか」
  ――第19章 第三の目を持つ女

(ユリ・)ゲラーは、アル・ゴアの自宅を訪れ、いつか大統領に選出されると告げたことを覚えているという。
  ――第20章 ひとつの時代の終わり

アメリカ政府の23年に及ぶ超感覚的知覚(ESP)とサイコキネシス(PK)研究の歴史の終わりは、1991年11月19日、AP通信が「国連のイラク兵器施設発見にサイキック企業が協力」という見出しの三段記事を掲載したときにはじまった。
  ――第23章 崩壊

1975年、CIAは次のように結論づけた。「ESPはまれにしか現れず、確実性に欠けるものの、信頼できる数々の確かな実験証拠により、本物の現象として存在すると認めざるを得ない」
  ――第23章 直感、予感、合成テレパシー

2014年、海軍研究所(ONR)は海軍軍人と海兵隊員のために、285万ドルをかけてスパイディー・センスという予感と直感を探求する四年間の研究プログラムに着手した。
  ――第23章 直感、予感、合成テレパシー

【どんな本?】

 テレパシー,透視,予知,念動力,ダウジング。多くの科学者や数人のマジシャンは徹底的に否定するが、固く信じるものは後を絶たない。ばかりか、アメリカ合衆国では軍や情報機関が国家の予算を投じて研究し、時として実際に応用してきた。

 本書は、2017年に公開されたCIAの文書を中心に、情報公開法に基づき入手した合衆国国防総省や陸海空軍の文書、そしてこの研究に携わった研究者や超能力者などの直接取材を元に、合衆国における超能力研究の実態を明らかにしようとするものである。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は PHENOMENA : The Secret History of the U.S. Government's Investigations into Extrasensory Perception and Psychokinesis, by Annie Jacobsen, 2017。日本語版は2018年3月20日第1版第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約508頁に加え、訳者あとがき5頁。10ポイント45字×17行×508頁=約388,620字、400字詰め原稿用紙で約972枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。ただ、多くの人物が出てくるので、できれば人名索引が欲しかった。

【構成は?】

 ほぼ時系列に進むので、素直に頭から読もう。

  • プロローグ
  • 第1部 初期
  • 第1章 スーパーナチュラル
  • 第2章 プハーリッチ理論
  • 第3章 懐疑論者とペテン師とアメリカ陸軍
  • 第4章 疑似科学
  • 第5章 ソ連の脅威
  • 第2部 CIAの時代
  • 第6章 ユリ・ゲラーの謎
  • 第7章 月面に立った男
  • 第8章 物理学者と超能力者
  • 第9章 懐疑論者対CIA
  • 第10章 遠隔視
  • 第11章 無意識
  • 第12章 潜水艦
  • 第3部 国防総省の時代
  • 第13章 超物理学
  • 第14章 サイキック兵士
  • 第15章 気功と銭学森の謎
  • 第16章 殺人者と誘拐犯
  • 第17章 意識
  • 第18章 サイキック・トレーニング
  • 第19章 第三の目を持つ女
  • 第20章 ひとつの時代の終わり
  • 第21章 人質と麻薬
  • 第22章 崩壊
  • 第4部 現代
  • 第23章 直感、予感、合成テレパシー
  • 第24章 科学者と懐疑論者
  • 第25章 サイキックと宇宙飛行士
  •  訳者あとがき
  •  取材協力者と参考文献

【感想は?】

 日本版の書名が内容をズバリと表している。まさしく、合衆国による超能力研究のドキュメンタリーだ。それも、軍が正式な予算をつけ、組織だって行った。

 超能力に対し、人は二つの側に分かれる。信じる人=ヒツジと、信じない人=ヤギだ。読者の姿勢により、本書の評価は分かれるだろう。

超常現象研究の世界は「肯定と否定のふたつの反応から成り立っており、その中間はほとんどない」。(略)
超常現象を肯定するデータの支持者には、「“転向”経験がある者が多い。彼らは、たった一回の“説明がつかない成功によってその現象が本物だと信じ込む”ことになった」
  ――第10章 遠隔視

 著者はヒツジに近い。「エリア51」も、緻密な調査で驚きの事実を明らかにしつつ、最後でヤバい方向に走っちゃったし。もっとも、私がヤギだから、そう感じるのかもしれない。とはいえ、ヒツジよりの立場だからこそ、書けた本でもある。

 冒頭から、有無で簡単には割り切れないのだ、と思い知らされるエピソードが出てくる。ルドルフ・ヘスの渡英(→Wikipedia)事件だ。2002年、この事件の背景をBBCがスッパ抜く。これはイギリスの諜報機関の仕掛けだ、と。有名な占星術師を使い、ドイツの信者に偽のホロスコープを渡して、ヘスと取り巻きをそそのかしたのだ。

 もっとも、肝心の占星術師は黙秘を続け、BBCにリークした者も沈黙を守っているため、真偽は不明なんだけど。この本は、そういう「実際は判らない」ネタも多い。その代表が、かの有名なユリ・ゲラーだ。彼には「モサドでは?」との噂がある。著者も本人に訊ねているんだが、ハッキリとは答えない。当然だよね。スパイが身元を明かすワケないし。とはいえ…

ユリ・ゲラー「アラブ・レストラン。弁護士や娘のところ。私はどこへでも行けるんだ。誰にも疑われずにね。完璧な隠れ蓑だよ。私はただのスプーン曲げの男なんだ」
  ――第25章 サイキックと宇宙飛行士

 とか言われると、「もしや…」と考えてしまう。隻眼の英雄モシェ・ダヤン(→Wikipedia)や当時の首相のベンヤミン・ネタニヤフとも親しいし。つかモシェ・ダヤン、なんちゅうヤバい趣味してんだw

 肝心のアメリカが本気になったのは、1970年代初頭だ。きっかけは、ソ連がソッチの研究に本腰を入れている、との報告が入ったため。ソ連もかなり無茶やってて、モスクワの合衆国大使館にマイクロ波を浴びせたりしてる。また1983年には、やはりモスクワの合衆国大使館新築に当たり…

ソ連は(モスクワのアメリカ大使館建設用の)プレキャスト・ブロックのなかにセンサーを埋めこんでいただけでなく、コンクリートにゴミを混ぜこんで、ゴミのあいだのハイテク・センサーが特定できないようにしていたのだ。
  ――第18章 サイキック・トレーニング

 なんちゅうか、油断もスキもありゃしない。もっとも、そのネタを掴んで、建材を調べるCIAも凄いけど。

私も若い頃、模様替え中の某国大使館に入った事がある。建材関係の業者で人足のバイトをしてて、納品しに行ったのだ。改めて考えると、バイトや職人を装えば、潜り込むのは意外と簡単なのかも。

 などの諜報関係の真面目なネタも面白いが、やはり本題は合衆国内の超能力研究・利用の実態を暴くところ。最も熱心にやっていたのは、陸軍の情報保全コマンド=INSCOMだろう。軍全体、特に上層部ではヤギが多いようだが、大きな組織になればヒツジも混じる。そういう人が、こういう組織に惹きつけられるんですね。

 その代表がアンジェラ・デラフィオラ。「私はサイキックなの」と自信満々に語る彼女、元は情報アナリストとして陸軍情報部に務めていた。ただし身分は民間人。そこで陸軍内の超能力系セミナーの話を聞きつけ、強引な手口でセミナーに参加し、優れた才覚を表す。

 彼女が主に行っていたのは、リモート・ビューイング、透視だ。例えば誘拐された人物を指定し、どんな所にいるかを尋ねると、「水の上」などのヒントが出てくる。または現場の風景などだ。広い草原とか、大きな機械とか。

 そういった所は「当たるも八卦、当たらぬも八卦」的な胡散臭さが漂ってて、なかなか楽しい。加えてヒツジの中でも、「普通の人も鍛えればなんとかなる」派と「生まれつきの才能で決まる」派が睨み合ってたり、キリスト教原理主義団体がリモート・ビューイングを「悪魔の所業」と非難したりと、ソッチの派閥の関係が見えるのも面白い。

 現象の原因を巡っても、厨二病が完治していない者にとっては、美味しいネタが入ってる。第三の目やアカシック・レコードやアストラル界なんてのもあれば、昔は電磁波だったのが最近は量子エンタングルメントに変わったりと、ネタの傾向が見えてきてニヤニヤしたり。ただ、サイコップ(→Wikipedia)などヤギにはいささか辛口なのが、ちと納得いかないけど。

 怪しげなシロモノを、至極真面目な組織が、至極真面目に研究した実態を、少しも茶化さず至極真面目に取材したドキュメンタリー。ではあるんだけど、陸軍のおかたい軍人さんがニューエイジ風のモンロー研究所で修行する風景には、ちょっと笑っちゃったり。そういう、堅さと怪しさのミスマッチが楽しい本だった。また、オルダス・ハクスリーとカール・ユングの登場も嬉しかった。やはりユングはヤバい人だったなあ。ヴォルフガング・パウリまで巻き込んだのはアレだが。

【関連記事】

【どうでもいい話】

 すんげえ久しぶりに献血してきた。あのポスター騒動で献血に興味を持ってた時に、勢いのいい呼び込みが聞こえてきて、ついフラフラと。いろいろな意見があるけど、騒ぎのせいで献血する奴が、少なくとも一人はいたわけで、だとすると騒ぎにも意味はあったのかも。

 あと、ロバート・ T・キャロル 「懐疑論者の事典」ってのが面白そう。

| | コメント (0)

2019年11月12日 (火)

小野不由美「白銀の墟 玄の月 1~4」新潮文庫

「心からお帰りをお待ちしておりました……!」
  ――1巻p52

「…私は結局のところ、天意の器にすぎない。私が選ぶのではありません。天が選ぶのです」
  ――2巻p25

「どちらを主と呼ぶかは、私が決めます。それで良ければ」
  ――2巻p218

「せめて台輔を」
  ――2巻p405

「…わたしはこの世界と王の関係に興味があるんだ。何が起こればどうなるのか、それが知りたい」
  ――3巻p73

「民が保身を考えてはいけないのか?」
  ――3巻p96

――ついに翼を手に入れた。
  ――4巻p33

【どんな本?】

 前史「魔性の子」から本編「月の影 影の海」へと続き、「黄昏の岸 暁の天」で物語はピタリと止まり、その後に幾つかの短編集はあったものの、世界全体の行方は知れず、多くのファンをヤキモキさせてきた長編ファンタジイ・シリーズ十二国記、待望の新長編。

 戴国は荒れていた。王の驍宗は消息を絶つ。しかし王の逝去を告げる白雉は鳴いていない。では驍宗は生きているのか? この時、戴麒もまた蓬莱へと流されてしまった。そして六年。戴国の将、李斎の努力が実り、慶国や雁国の協力を得て、戴麒は蓬莱より戻った。しかし戴麒は角を失うと共に麒麟の力も失せ、変化もできず、王気を感じる能力も失った。

 戴国では阿選が王として君臨し、反対派をことごとく弾圧する。しかし国を治めようとはせず、里は荒れ民は飢え、妖魔の徘徊も始まった。

 荒れた戴国に戻った戴麒と李斎は、驍宗を求め旅を続けるが…

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 1・2巻は2019年10月12日発行、3・4巻は2019年11月9日発行。文庫で全4巻、縦一段組みでそれぞれ本文約369頁+412頁+367頁+426頁=約1,574頁に加え、末國善己による解説10頁。9ポイント39字×17行×(369頁+412頁+367頁+426頁)=約1,043,562字、400字詰め原稿用紙で約2,609枚。文庫の4巻としてはやや厚め。

 舞台が産業革命前の中国風のファンタジイのため、やたら画数の多い漢字が多いが、要所要所にルビがふってあるため、見た目より遥かに読みやすい。長いシリーズ物のため設定も込み入っているが、大事な設定は改めて説明が入るので、ここから読んでもなんとか理解はできる。

 が、その背景にある人物のドラマは、この作品だけだとイマイチ伝わり切れない。できればシリーズを通して読んでほしい。とはいえ、どこから読み始めるのがベストかは、ファンの間でも(少なくとも)三派に分かれるからややこしい。

  1. 「魔性の子」:刊行順派その1。一言でいうと「俺に触れると火傷するぜ」。本作の主人公、高里=戴麒が主人公。ただし、本シリーズの中華風ファンタジイではなく、現代日本を舞台としたホラーだ。そのため、外伝的な色合いが強い。また、オチが本シリーズの設定に深く関わっているが、あまり説明がないので、知らない人はかなり戸惑いそう。
  2. 「月の影 影の海」:刊行順派その2。簡単に説明すると「JKヨーコは異世界でホームレスになった」。十二国記がハッキリとシリーズになった作品。TVアニメにもなったので、ここから手に取る人も多い。ただ、上巻はひたすら鬱展開が続くので、気の短い人は途中で放り出したくなるかも。とまれ、シリーズ通しての主人公ともいえる人物が主役を務め、また世界設定も親切に説明している点でポイントが高い。
  3. 「図南の翼」:初心者には親切に派。サブタイトルをつけるなら「恭の使い魔」。外伝的な位置づけの作品だが、とっつきやすさはピカ一。賢く気が強い少女が、王の座を目指し化け物のウロつく荒野を旅する話。全編を通してアクションが多く、また主人公の性格もあり、明るい雰囲気でお話はポンポンと心地よく進む。加えて本シリーズの重要な設定も親切に説明しているのが嬉しい。

 ちなみに私は「図南の翼」派。お断りしておくが私がロリコンだからじゃないぞ、違うったら。いや珠晶は好きだけど。

【感想は?】

 いやホント、ずっと待ってました。半ばあきらめかけてたけど。

 元は少女を主な顧客に見据えた講談社ホワイトハートで始まったシリーズだ。それが講談社文庫に移り、更に新潮文庫に移籍しての再スタート。しかも豪華四巻だ。そりゃ期待する。

 結果として、移籍してよかったと思う。もともとこのシリーズの長編は、「月の影 影の海」から、お話の前半は鬱展開が長く続く。それは本作も同じ、いやそれ以上で、李斎と戴麒が驍宗を探す旅は、なかなか実を結ばない。

 この展開が気の短い若い人には向かないだろう、ってのが、移籍を喜ぶ理由の一つ。だが、それ以上に、李斎たちが旅の途中で出会う人々の姿こそが、この作品の前半の目玉だろう。

 李斎は将軍で、戴麒は麒麟。いずれも高い地位にある貴人だ。しかし、道中で彼らが出会うのは、私たちと同じ市井の人たちである。例えば最初に出てくる園糸。元はただの村人だ。だが謀反人を匿ったとして里を焼かれ、家も家族も失い、幼い子供を抱えて浮浪者として彷徨う羽目になった女。

 彼女には何の罪もない。巻き添えで全てを失った。かといって誰かが助けてくれるわけじゃない。王座をめぐるゴタゴタで国は機能していない。それでも生きていかなきゃいけない。だから半端仕事で食いつなぎ、仕事がなくなれば次の里へ行く。その里だってカツカツだ。余計な余所者に食わす分はない。

 こんな事態を、更に悪くしている者の代表が土匪で、その代表が朽銭。もともと、彼らは鉱山を仕切っていた。ところが鉱山が枯れ、商売にならなくなる。そこで里を襲い、金品を奪って食いつなぐ。要は山賊やヤクザだね。彼らにしても、元は園糸みたいなホームレスだったりする。まっとうな生き方を追われ、たまたま腕っぷしが強かったために土匪になった者たちだ。

 そんな物騒な奴が出没するから、里も余所者を怪しむ。そのため園糸は里に入れず、仕事どころか宿にすらありつけなかったりする。

 国が荒れ政(まつりごと)が誤っているから、園糸のような者が出る。土匪にしても、軍が討伐すれば被害は減るんだが、その軍もロクに機能していない、どころか玉座争いで里を焼き払う始末。

 そこで国を立て直し再興しようとするのが李斎たちだ。しかし、今を生きるのが精いっぱいの園糸や朽銭らとは、目線がまったく違う。

 この目線の違いが、この作品では何度も繰り返される。私が最初に痛感したのが1巻の110頁、項梁が李斎と共に旅立つ場面。大きな目的に向かう者と、とりあえず今日の命をつなぐことに必死な者。けど、国が国として成り立つためには、どちらも必要なのだ。

 若い頃の私だったら、李斎たちに肩入れしただろう。でも今は園糸の気持ちが痛いほどよくわかる。いやもう、それでもヤケを起こさず、まっとうに生きてるだけで立派だよ、園糸。

 対して、組織に務める者の悲哀をしみじみ感じるのが、簒奪者である阿選側のパート。

 こちらは典型的な「お役所」を、更にデフォルメした感じに仕上がっている。いろいろと事情があって、各役人は、自分の周りの事しかわからない。上位の者の権限が必要になって、そう報告しても、やたら動きが鈍い。というか、全く動かない。でも命令は降ってくる。典型的な縦割り行政、または大企業病だ。

 あなた、そんな経験ありませんか? まさか中華風ファンタジイで勤め人の悲哀を実感するとはw そうか、スルーするには「聞いた」とだけ答えればいいのか←違う

 と、そんな風に、齢経て仕事や暮らしで経験を積んだオッサンオバサンだからこそ楽しめる場面がやたらと多いのだ。広い年齢層を対象とした新潮文庫に移籍してよかった、と思う最大の理由が、これ。

 とかの魅力に加え、道観だの神農だのと、国家とは別の次元で成り立つ組織や社会が見えてくるのも、この作品の面白いところ。なにせハイ・ファンタジイだ。この現実とは違う世界を、いかにもありそうに描き出すのも、こういった物語の欠かせない魅力の一つ。

 ここでは中華風ならではの特色が活きている。西洋風だと中央集権的な一枚岩の教会組織が牛耳りがちなんだが、中華風だと怪しげな宗派が乱立してても「さもありなん」と思えてくる。この組織の拡がり方・根の張り方が、当たり前ながら国家組織とは全く違う形で、作品世界をもう一段深くかつ強健にしている。こんな風に、世界の解像度が増してくるのも、ハイ・ファンタジイの魅力だろう。

 にしても、戴がコレなら、他の国もいろいろありそう…とか考えると、妄想が止まらなくなるから困るんだよな、こういう長期シリーズはw

 驍宗失踪の真相は? 王を失った戴の現状は? なぜ阿選は暴挙に出たのか? 角を失った戴麒は麒麟であり得るのか? そして戴麒と李斎の悲願は成るのか? 首を長くして待ったファンがやっと報われる、感動の巨編だ。

【関連記事】

| | コメント (0)

2019年11月 7日 (木)

高野史緒編「21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作選 時間は誰も待ってくれない」東京創元社

「私はこんなに老けて、こんなに孤独で、こんなに疲れて……」
  ――オナ・フランツ「私と犬」

「現実に人間にしてもそうたくさんのタイプがあるわけではありませんよ」
  ――ロクサーナ・ブルンチェアヌ 「女性成功者」

テレビの背面カバーのネジを外そうとしてもつれた配線に指で触れる時、転がった鉛筆を拾おうとベッドの下にもぐり込もうとする時、私たちが姿を現すのは謎の洞窟のなかなのだ。
  ――ミハル・アイヴァス「もうひとつの街」

世界の終わりは日曜日の正午に始まった。
  ――シチェファン・フスリツァ「カウントダウン」

首都の名門銀行の上級顧問、ホートーニン氏は、列車の中で神と出会った。
  ――ゾラン・ジヴコヴィッチ「列車」

【どんな本?】

 東欧のSF作家というと、チェコのカレル・チャペックやポーランドのスタニスワフ・レムが思い浮かぶ。チャペックは大戦間の人だし、レムは冷戦期の人だ。その東欧は1989年のベルリンの壁崩壊以降、大きく変わった。と同時に、冷戦前から受け継いできた文化も再び芽を出し始めている。

 その東欧(とロシア)における、ファンタスチカの概念は広い。序文によると、「SF・ファンタジー・歴史改変小説・幻想文学・ホラー等を包括したジャンル」である。

 50年代アメリカSFを思わせるおおらかなアイデア・ストーリー,ヒネリの利いた短編の佳作,現代の問題を扱う生々しい作品,激動の歴史を感じさせる短編など、バラエティ豊かな東欧ファンタスチカの世界を紹介する、贅沢な作品集。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2012年版」のベストSF2011海外篇で8位に食い込んだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2011年9月30日初版。単行本ハードカバー縦一段組み本文約272頁に加え、沼野允義による解説「東欧の『幽霊』には足がある? 見えざる『もう一つのヨーロッパ』の幻想の正体を探る」12頁+編者あとがき5頁。9ポイント43字×19行×272頁=約222,224字、400字詰め原稿用紙で約556枚。文庫なら普通の厚さの一冊分ぐらい。

 お堅い文章を覚悟していたのだが、意外と軽快でノリのいい作品も多い。全般的にサイエンス・フィクションは少なく、ユーモラスな社会批評や幻想的なホラーが中心なので、理科が苦手でも大丈夫。むしろ歴史や地理の知識があると、より深く味わえる作品が多い。

【収録作は?】

  国ごとに1~2頁の解説が。各作品は 日本語著者名 / 日本語作品名 / 著者名 / 作品名 / 訳者 / 初出年 の順。

序文 ツァーリとカイザーの狭間で 高野史緒
<オーストリア>
ヘルムート・W・モンマース / ハーベムス・パーパム(新教皇万歳) / Helmuth W. mommers / Habemus Papam / 識名章喜訳 / 2005
 2866年。ローマ教皇ベテディクト17世死去に伴う教皇選出会議は難航していた。ヴァチカンには179名の枢機卿が集い、既に28回の選挙が行われたが、まだ白い煙はあがらない。人類の宇宙進出に伴い、ローマ・カトリックも宇宙へと版図を広げ、そればかりか…
 宇宙時代のローマ・カトリックはどうなるのか? 1950年代のアメリカSFを思わせる、おおらかながらSFらしい視点でチクリと風刺を利かせた作品。世の中が変わり、ローマ・カトリック信徒の範囲が広がれば、聖職者のメンバーも変わってくる。それも面白いが、敢えて変えない部分も面白かったり。
<ルーマニア>
オナ・フランツ / 私と犬 / Ona Franz / Eu și un cîine / 住谷春也訳 / 2005
 息子を安楽死させた三日後、安楽死禁止法が出た。妻は既に亡く、私は猫と共に一人で暮らし始める。火星で最初のコロニーの建設が始まったとニュースが報じている。医学では、最悪の病気を早期に犬が嗅ぎつける技術が完成した。私は今までどおり仕事を続けた。そして月日は過ぎ…
 髪が抜け始めたオッサンには身に染みる作品。ロボットなどの細部はやや古めかしい感はあるが、それが逆に切ない気分を盛り上げる。老いて何かと利かなくなる自分の体、それに比べて便利になり機能が増える身のまわりの品々。特に不満を持つでもなく、静かに日々の暮らしを続ける一人暮らしの男。犬との淡い交流が、読了後にささやかな余韻を残す。
ロクサーナ・ブルンチェアヌ / 女性成功者 / Roxana Brincoveanu / O femeie de succcess / 住谷春也訳 / 2005
 建築家として華々しく成功した女は、夫を買うことにする。欲しいのは仕事で役に立つロボットじゃない。人生の伴侶だ。大会社の有名モデルじゃ誰かとカブりいかねない。そこで無名の会社を選んだ。テクニカル・チームの細かい質問に答え、何日かして再び訪れると、夫が私に永遠の愛を誓ってくれた。
 これまた1950年代のアメリカSFを思わせる、おおらかなアイデア・ストーリー。加えてこの作品は、かなり高ピーでお喋りな女の語りが巧くハマり、テンポのいい文章に乗せて物語がポンポンと心地よく進んでゆく…と思ったら、こうきたか。このオチもまた、フレドリック・ブラウンや草上仁みたいな味がする。
<ベラルーシ>
アンドレイ・フェダレンカ / ブリャハ / Андрэй Федарэнка / Бляха / 越野剛訳 / 1992
 チェルノブイリ事故のあと、村から人がどんどん出ていく。残ったのは村一番の顔役だった爺さん夫婦、年寄りの准医師、そしてうすのろでろくでなしでのんだくれのブリャハだけ。元顔役の爺さんは、豚の解体を手伝ってくれとブリャハに頼みにきた。
 非SF。チェルノブイリ事故のあと、地元に残った人たちの物語。今更 Google Map で調べたら、チェルノブイリはウクライナ北端でベラルーシの国境近くなんだね。立入禁止地区に「ゾーン」なんてルビがついてると、ストルガツキー兄弟の名作「ストーカー」を思い出すんだが、そういう連中はチェルノブイリにも徘徊してて…。
<チェコ>
ミハル・アイヴァス / もうひとつの街 / Michal Ajvaz / Druhé město / 阿部賢一訳 / 1993, 2005
 私たちの街より古く、だが私たちが何も知らない世界。それは小さなひび割れなどの向こうに広がっている。<私>はその存在に気づき、しるしを求めてプラハの街を探して歩きまわる。その朝、向かったのはポホジェレッツ。しばらくすれば観光客でいっぱいになるだろうが、今は誰もいない。開いているビストロに入ると…
 長編の抜粋。幼いころ、熱を出して寝込んでいた時、天井の木目模様が様々なモノに見えた。そんな感覚が蘇ってくる、不気味な雰囲気に溢れた作品。チャイナ・ミエヴィルの「都市と都市」も二重都市を扱った作品だが、いずれの都市も人間の領分だった。だがこの作品の「街」は、もっと物騒で禍々しい。
<スロヴァキア>
シチェファン・フスリツァ / カウントダウン / Štefan Huslica / Odpo č ítavanie / 木村英明訳 / 2003
 ヨーロッパの十数カ所の原子力発電所が同時に襲われた。犯行グループは民主主義急進派。中国共産党体制に対し、民主主義のために戦争を布告せよ、さもなくば原子炉を爆破する、と。EUは平和的な解決を打診するが、犯行グループは一歩も譲らない。
 今世紀に入ってから中国の経済成長は著しいだけに、発表当時とは作品の印象が大きく変わっているんだろう。だが、中国が共産党の一党独裁なのは変わりないわけで、私たちのオツムは結構いいかげんなモンだと改めて考え込んでしまう。そんな状況で普通の市民に何ができるのか、というと…
シチェファン・フスリツァ / 三つの色 / Štefan Huslica / Tri Farby / 木村英明訳 / 1996
 ハンガリーとスロヴァキアの対立は市民戦争となり、町が戦場に変わった。街角では国連軍や赤十字、そしてCNNを見かける。
 スロヴァキアの国旗は白・赤・青、ハンガリーの国旗は赤・白・緑。なぜ戦争になったのかは語らず、市街の様子を突き放した文体で描いてゆく。「ボスニア内戦」や「セカンドハンドの時代」を読むと、社会ってのは意外と簡単にこういう事態に陥ってしまうような気がしてくる。
<ポーランド>
ミハウ・ストゥドニャレク / 時間は誰も待ってくれない / Michal Studniarek / Czas nie czeka na nikogo / 小椋彩訳 / 2009
 僕が幼いころ、祖父はよく若い頃の話をしてくれた。ワルシャワのシェンナ通りにある、レンガ造りのアパートでの暮らしを。祖父の誕生日に、シェンナのアパートの写真か絵葉書を送ろうと考えた僕は、骨董品店を訪ね歩く。<ヴィエフの店>を紹介された僕は、ハロウィーンの日に彼と待ち合わせ…
 第二次世界大戦でドイツはポーランドを占領、ソ連へと進撃するが、やがてソ連に押し返される。赤軍が目前に迫った時、ポーランド国内軍は蜂起し拳銃と火炎瓶でドイツ軍に立ち向かうが、赤軍は足を止める。国内軍はドイツ軍に蹂躙され、ワルシャワは瓦礫の山と化す(→「ワルシャワ蜂起1944」)。そんなワケで、戦前のワルシャワの写真や絵葉書は、ワルシャワっ子には特別な意味があるのだ。
 ハロウィーンは、日本だとお盆にあたるだろうか。いや季節は全く違うけど、雰囲気的に。東京の下町や広島に住んでいた人なら、より深く味わえる作品だと思う。
<旧東ドイツ>
アンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー / 労働者階級の手にあるインターネット / Angela & Karlheinz Steinmüller / Das Internetz in den Händen der Arbeiterklasse - Ein Begebnis aus dem jahr 1997 / 西塔玲司訳 / 2003
 ヴァルター・アダムチクは東欧崩壊の直前に西へ亡命し、今は遠隔医療の専門家として研究所で働いている。その日、ヴァルターに妙な電子メールが届いた。送信者はヴァルター本人、ただしアドレスは東独の科学アカデミーの研究所。イタズラかと思ったが…
 シュタージ=国家公安局やIM=民間諜報協力者=チクリ屋といった言葉から、東独時代の重苦しい気配が伝わってくると共に、その時代に生きたヴァルターの心には、今も冗談では済ましきれないモノが残っているのがわかる。実は自分のメールアドレスから来る迷惑メールって手口は既にあって(→脅迫スパム)、現実がSFを超えてしまった。ちなみに特撮ファンには嬉しいクスグリもあります。
<ハンガリー>
ダルヴァシ・ラースロー / 盛雲、庭園に隠れる者 / Darvasi László / Sen-Jün, a kertrejtőző / 鵜戸聡訳 / 2002
 千年も続いたと言われる竜たちの戦場を、公の家祖たちは清朝庭園に仕立てた。若き君主は庭園を愛で、自ら草を抜き枝を剪り手入れに勤しんだ。そこに盛雲と名乗る男が訪れてくる。面相は間抜けで体臭はきつい。不遜にもこう述べる。自分は清朝庭園に隠れ、公が一日かけても見つけ出せないだろう。
 編者の解説によると、ハンガリー文学には「中国もの」というサブジャンルがあるとか。確かにちょっと聊斎志異っぽい雰囲気はある。改めて考えると、いい歳こいた野郎二人が、必死になってかくれんぼするってだけの話なんだが、そこまで意地になるかw
<ラトヴィア>
ヤーニス・エインフェルズ / アスコルディーネの愛 ダウガワ河幻想 / Jānis Einfelds / ASKOLDĪNE / 黒沢歩訳 / 2009
 ダウガワ河の川岸に人が集まり、大笑いしている。人の群れをかきわけて川を見ると、不思議な幻が見えた。二本マストの船が大きな波に揺れている。ブリッジやデッキには、酔った水夫や士官がよろめいている。一人、美しい娘がいたが、引き立てられてどこかに閉じ込められてしまった。
 ダウガワ河と美しい娘と船が登場する、メルヘンっぽい話の断片が続く。それぞれの話は少しづつ重なり合い、だが微妙に違っている。どの話もバルト海にそそぐ川に相応しく、冷たく残酷で荒々しい。
<セルビア>
ゾラン・ジヴコヴィッチ / 列車 / Zoran Živković / Voz / 山崎信一訳 / 2005
 銀行で上級顧問を務めるホートーニン氏は、列車のコンパートメントで神と出会った。退役軍人のように見える神は、ホートーニン氏に告げる。「どんな質問にも答える、見返りは求めない」と。
 「神です」には笑ったw 全知全能の存在に対し、何を尋ねるべきか。宇宙の成り立ちやリーマン予想とかカッコつけたいところだが、きっと答えを聞いても私には理解できないだろうなあ。リーマン予想に至っては問題すら理解できないし。やっぱりホートーニン氏みたいな問いになるんだろうけど、なんちゅうオチだw
解説:東欧の「幽霊」には足がある? 見えざる「もう一つのヨーロッパ」の幻想の正体を探る:沼野允義
編者あとがき:高野史緒

 軽妙な「ハーベムス・パーパム」「女性成功者」「列車」や、不気味な「もうひとつの街」は、私のような古いSF者には妙な懐かしさを感じる。「私と犬」の、しみじみとした情感も心地いい。中でも最も気に入ったのは、書名にもなっている「時間は誰も待ってくれない」。東京の下町を舞台にして翻案したら、多くの日本人を泣かせるんじゃなかろか。

【関連記事】

| | コメント (0)

2019年11月 5日 (火)

モート・ローゼンブラム「チョコレート 甘美な宝石の光と影」河出書房新社 小梨直訳

世界におけるカカオの栽培総面積は約千五百万エーカー(約600万ヘクタール)。その九割が12エーカー(約5ヘクタール)に満たない土地で、人手を雇うにしてもごくわずかという家族経営の農園である。
  ――第1章 神々の朝

ジャック・ジェナン「チョコレートは生ものだから(略)すぐに食べないとだめなんだ」
  ――第2章 ショコラ その魅力にとりつかれた人々

テオブロマ・カカオの種としての原産地は、推測に頼るしかない。原産地は南アメリカのアマゾン川流域――オリノコ川とアマゾン川に挟まれたあたりだろうとされている。
  ――第3章 種の起源 チョコレートの誕生と進化

もっとも条件のよいときでさえ、コートジボワールのカカオ農民は、最終的に小売店に売られるチョコレートからもたらされるカカオ1ポンドあたりの価格の1/100足らずしか、収入として得ることができない。
  ――第6章 チョコレート海岸

本物のチョコレートは三つの材料、すなわちカカオマス、ココアバター、砂糖からつくられる。そこに乳化剤としてよくつかわれる大豆レシチンを微量加えても、味はほとんど変わらない。そして、貴重なココアバターは化粧品の世界での需要が非常に多い。
  ――第9章 フランスの名ショコラティエ

ベルギー王国には現在、手づくりの工房と工場生産のメーカー合わせて約五百のチョコレート会社がある
  ――第10章 ベルギー ホビットのチョコレート

だれがどこのスーパーマーケットへ行っても買える、いちばん値段が手頃なまともなチョコレート、それがリンツだと私は思う。
  ――第13章 伝統のスイスと新生ロシア

「ヌテッラは食べ物じゃない。薬、ヤクだよ、万能薬」
  ――第14章 ヌテッラをさがせ!

「…純粋なクリオロ種の木は、もうほとんど存在しない、どこにも」
  ――第16章 合衆国チョコレート革命の兵士たち

【どんな本?】

 みんな大好きチョコレート。カカオの苦味を活かしたダークチョコレート、甘くとろけるミルクチョコレート、フルーツやお酒を包んだボンボン、賛否両論が激しく交わされるミントチョコ。

 その原料であるカカオが南米出身なのは、広く知れ渡っている。だが、古の時代からその楽しみ方のバリエーションがどれほど豊かなのかは、あまり知られていない。

 そして現代、チョコレートの本場ヨーロッパでは、高級チョコレートの王座を争い、老舗のスイスと名声高いベルギーに対し、快楽の狩人フランスが激しく追い上げている。そしてハーシーとマーズの両巨頭が君臨するアメリカでも、革命が起こりつつある。

 現在のカカオの主な産出地であるアフリカ西海岸、古代の名残りを色濃く残すメキシコ、高名なショコラティエが腕を競うフランスとベルギー、そしてアメリカのハーシータウンと、チョコレートの名所を訪ね著者は世界中を飛び回る。

 チョコレートの歴史から製法、現代の流通ルート、しのぎをけずるショコラティエたちなどチョコレートに憑かれた者たちから、知られざる名店やニューフェイスなど高級チョコレートの紹介まで、チョコレートを愛する人たちに送る香り高いガイドブック。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は CHOCOLATE : A Bittersweet Saga of Dark and Light, by Mort Rosenblum, 2005。日本語版は2009年1月30日初版発行。単行本ハードカバーー縦一段組み本文約375頁に加え訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×375頁=約328,624字、400字詰め原稿用紙で約822枚。文庫なら厚い一冊か薄い上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容もわかりやすい。敢えて言えば、世界中を飛び回る話なので、地図帳か Google Map があると便利かも。

【構成は?】

 第1章はチョコレートの原料から製法までが書いてあり、いわばチョコレート入門とでも言うべき内容なので、素直に最初に読もう。以降はほぼ独立しているので、美味しそうな所からつまみ食いしてもいい。

  • 第1章 神々の朝食
  • 第2章 ショコラ その魅力にとりつかれた人々
  • 第3章 種の起源 チョコレートの誕生と進化
  • 第4章 チョコレートと七面鳥
  • 第5章 ほろ苦い町ハーシータウン
  • 第6章 チョコレート海岸
  • 第7章 プリンシペ島のクラウディオ
  • 第8章 チョコレートの殿堂ヴァローナ
  • 第9章 フランスの名ショコラティエ
  • 第10章 ベルギー ホビットのチョコレート
  • 第11章 女王のお召し物 ゴディバ社の謎
  • 第12章 バラのクリームと代替油脂
  • 第13章 伝統のスイスと新生ロシア
  • 第14章 ヌテッラをさがせ!
  • 第15章 身も心も チョコレートは体にいい?
  • 第16章 合衆国チョコレート革命の兵士たち
  • 第17章 キャンプ・カカオ
  • 謝辞/訳者あとがき

【感想は?】

 ちょっと不安になってきた。果たして私は今までチョコレートを食べたことがあるのだろうか。

 もちろん、ロッテのガーナチョコレートや明治のミルクチョコレートは大好きだ。だが、本書が主に扱うのは、そういった量産品ではない。名のあるショコラティエ(チョコレート職人、→Wikipedia)が丹精込めて作った高級チョコレートだ。当然、甘いミルクチョコレートではなくカカオ成分が多いダークチョコレートが主役となる。きのこたけのことか言ってる場合じゃない。

 同じチョコレートを扱った本として「チョコレートの帝国」がある。こちらはアメリカでのハーシーとマーズの熾烈な戦いがメインテーマだったが、本書では第5章だけに押し込めてしまう。

 代わりに活躍するのが、フランスを中心にベルギー・イタリア・スイスそしてアメリカ合衆国で腕を競うショコラティエたちと、全天候レーダーよろしく美味しい高級チョコレートを目ざとく見つけるチョコレート鑑定人クロエ・ドゥートル=ルーセルだ。特にクロエの言葉は、世界中のチョコレート中毒者に対する有難い赦しをもたらす。

「(チョコレートを)食べるときには、自分を許さなきゃだめ」
  ――第2章 ショコラ その魅力にとりつかれた人々

 そんな著者とクロエによる高級チョコレートの定義は、チョコレートに対する私の常識を軽く吹き飛ばす。かのゴディバでさえ、11章では酷い扱いだ。にも関わらず売れるのは…

ゴディバには販売戦略担当者の発見した、ある秘密の法則があった――他のチョコレートより美しく見せれば高くても売れる。
  ――第11章 女王のお召し物 ゴディバ社の謎

 と、製品そのものより販売戦略の賜物とアッサリ切り捨てる。

ゴディバの名誉のために補足すると、少なくとも日本の販売店の店員は文句なしに一流だ。「たった今、場外馬券場で有金スってきました」的な風体で店を訪れた私に対し、完璧な笑顔で懇切丁寧に応対してくれた。ただし味は判らない。手土産として買ったので、私の口には入らなかったのだ。幸い、訪問先のご婦人方には口の肥えた方もいるのだが、土産の評判は良かった。

 その分、脚光を浴びるのは、主にフランスのショコラティエたち。中には政府から授与されるMOF=メイユール・ウヴリエ・ド・フランス=スランス最優秀職人の肩書を持つ人までいる。というか、フランスにはそんな制度があるのか。さすが美食の国フランスだ。しかも「フランスではロックスターや哲学者にも匹敵する存在」ってのにも驚く。奴ら本気だなあ。

 そんなショコラティエたちの店を訪ね歩く所では、ちょっとしたフランス旅行案内の感もある。必ずしも店がパリにあるわけじゃないし、パリでも大通りに派手な店を出してるわけでもない。いわゆる「隠れた名店」だ。これはベルギーも同じなので、あの辺に旅行に行くなら、詳しくメモしておくと同行者に通として威張れるかもしれない。

 どのショコラティエも新しい挑戦に余念がないが、同時に製造上の微妙な調整にも厳しく気を遣う。とはいえ、チョコレートの工程は様々だ。これは「パンの歴史」でもそうだった。小麦農家から直接に仕入れる人もいれば、製粉会社から仕入れる人もいる。チョコレートも同じで、大手のヴァローナ社(→ヴァローナジャポン)から仕入れる人もいれば、カカオ農園と契約する人もいる。終盤での農園の奪い合いなどは、ショコラティエたちの執念が伝わってくるのだが、思わず笑ってしまうのはなぜだろう。

 と書くと気取った話ばかりのようだが、チョコレートの道は広く豊かだ。第四章では古のアステカ時代の香りを伝えるチョコレート・モレを求め、いかにもメキシカンな家庭料理を堪能する。唐辛子とチョコレートって一見唐突な組み合わせのようだが、実は伝統的な味だったり。

 かと思えば第14章では罪深きヌテッラ(→Wikipedia)を巡り、世界中の家庭で繰り広げられる戦争をレポートしたり。うん、たしかにチョコレートを味わう時には自分を許さなきゃダメだ。

 などと、チョコレートの歴史からカカオの原産地の状況、製造・流通過程、量産型・専門店・地域密着型の意外なレシピ、世界中のショコラティエたちの挑戦、チョコレート産業が抱える問題から健康への影響など、チョコレートに関する色とりどりの話題が詰まった香り高い本だ。ただし読み終えたら近くの専門店に飛び込みたくなるのが難点かも。

【関連記事】

| | コメント (0)

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »