ペートル・ベックマン「πの歴史」ちくま学芸文庫 田尾陽一・清水韶光訳
ユークリッドは幾何学の父ではなく、数学的厳密性の父なのである。
――第4章 ユークリッドローマは、組織された強盗集団の最初の国でも最後の国でもない。しかし、後の時代の世界中のほとんどの人々をだまして、称賛するようにしむけた点では、唯一の国である。
――第5章 ローマという名のペスト<背理法>というのは、今日までにひろく知られた証明法であるが欠点がひとつある。それは、否定すべきあやまった結論を知るには、まえもって正しい結果を知っていなければならないということである。
――第6章 シラクサのアルキメデス連分数は、現在“失われた数学”の分野に属する。
――第12章 突破への序曲彼(ニュートン)の方法を使うと関数やその積分、微分も無限級数に展開することができる。
――第13章 ニュートンオイラーが(偶然なのだが)πと結びついた問題を徹底的にとりあつかってしまったので、彼の後に、πの計算をするもっとよい方法を見つけた人は、誰もいなかった。
――第14章 オイラー…超越数が存在するとして、それらはなぜ関心をひくのだろうか。その答えは、超越数が多くの興味ある性質を持っているということであり、またもっというと、πの超越性が、昔からの問題である、円を正方形にすることの可能性について、解答をただちに与えるからである。
――第16章 超越数π<コンパスと定規だけしか使えないときには、直線と円しか描けない(これらの方程式は、たかだか2次の代数方程式である)。
――第16章 超越数π<
【どんな本?】
π。円周率。3.14159…。円周の長さを直径で割った数値。今では無理数、それも超越数(→Wikipedia)だと判っているが、かつては 3+1/7 や 3+17/120 などとしていた。
人類は、いかにして正確なπの値へと迫っていったのか。様々な文明は、どんな値を当てはめていたのか。その数値は、どんな性質を持っているのか。そして、その性質は、数学にどんな変化をもたらしたのか。
電気工学者である著者が、独特の歴史観を全面的に押し出し、容赦ない毒舌をまぶしながら語る、個性あふれる一般向けの数学史。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は A History of π, by Petr Beckmann, 1971。日本語版は1973年9月29日に蒼樹書房より刊行、2006年4月10日にちくま学芸文庫より文庫版発行。私が読んだのは2006年5月20日発行の第二刷。文庫本で横一段組み本文約305頁に加え、訳者あとがき3頁+文庫版あとがき1頁。8.5ポイント26字×25行×305頁=198,250字、400字詰め原稿用紙で約496枚。文庫本としては普通の厚さ。
数学の本のわりに文章はこなれている。内容は、読み方によりけり。というのも、やはり数学の本だから、数式はしょっちゅう出てくる。が、これを完全に読み飛ばしても、実は構わない。そういう読み方をすれば、数学が苦手でも、歴史の本として楽しめる。というか、私は読み飛ばした。ただし、超越数については知っていた方がいい。真面目に数式に取り組むなら、三角関数・微分・級数展開ぐらいは使いこなせないと厳しい。
というか、πを求めるのに三角関数を使うのは反則だと思うんだが、どうなのよ←負け惜しみです
【構成は?】
各章はほぼ独立している。歴史の本として数式を飛ばして読む、または数学が得意なら、気になった所だけを拾い読みしてもい。数式を含めて読むなら、相応の覚悟が必要。悪いことは言わない。数式が出てきて「なんか難しそうだなあ」と思ったら、無理しないで読み飛ばそう。繰り返すが、私は数式を読み飛ばした。
- まえがき
- 第二版へのまえがき
- 第三版へのまえがき
- 第1章 夜明け
- 第2章 ベルト地帯
- 第3章 古代ギリシャ人
- 第4章 ユークリッド
- 第5章 ローマという名のペスト
- 第6章 シラクサのアルキメデス
- 第7章 たそがれ時代
- 第8章 暗黒時代
- 第9章 めざめ
- 第10章 数の狩人たち
- 第11章 さいごのアルキメデス学派
- 第12章 突破への序曲
- 第13章 ニュートン
- 第14章 オイラー
- 第15章 モンテ・カルロ法
- 第16章 超越数π
- 第17章 現代の正方形屋たち
- 第18章 コンピュータ時代
- 原註/訳註/参考文献/年代表/訳者あとがき/文庫版あとがき
【感想は?】
歴史観は人それぞれだ。それぞれだが、個性が強いほど、断言する文章が多くなり、本としては爽快で楽しい。
そして、この本には著者の独特の歴史観が強く出ている。だから、気が合う人には、とっても楽しい本だ。では、どんな歴史感か。
著者は1924年のプラハ生まれだ。そのためか、西欧中心の歴史観に反感を持っていて、本書にはアステカや日本の話題も出てくる。また、ナチスやソ連に踏みにじられた歴史からか、全体主義に強く反発する。加えて工学者だ。当然、数学の恩恵を大きく受けているから、数学や科学が大好きだ。そして、母国の歴史も相まってか、政治力や軍事力のゴリ押しが大嫌いだ。
この視点がよくわかるのが、人物や文明への評価だろう。ユークリッドやアルキメデスを高く評価するのは、まあ常識的なところ。ところが、アリストテレスは「2000年近くも科学の進歩を封じてしまった」とこき下ろす。自らの手で実験をせず、脳内で考えをもてあそんだのが気に入らないのだ。
更に強烈なのが、ローマ帝国への評価で、まるしき強盗団扱いである。まあ、ローマの支配下じゃ理論はほとんど進歩せず、土木などの応用技術だけが進んだから、そういう事だろう。パックス・ロマーナに対しては、「チャーチルが邪魔しなきゃパックス・ジャーマニカが成ったぜ」って、某漫才コンビも真っ青な毒舌ぶりだw
さて。主題のπだが、これは自然数でもなければ有理数でもない。超越数(→Wikipedia)だ。超越数を私なりに大雑把な説明をすると…
- 有理数:整数と加減乗除の組み合わせで表せる実数(=虚数部はなし)。
- 無理数:有理数ではない実数(=虚数部はなし)。
- 代数的数:整数と加減乗除とn乗根の組み合わせで表せる複素数。
- 超越数:代数的数ではない数、つまり整数と加減乗除とn乗根の組み合わせでは表せない複素数。
πがいかにケッタイな数か、お分かりだろうか。計算では実態がつかめないのだ。1/3などの循環小数なら、簡単な筆算ですぐわかる。同じ無理数でも、√2は1×1の正方形の対角線の長さとして、方程式で出てくる。だがπは違う。この性質が、ある種の人を惹きつけるらしく…
数の狩人たちがすべてπの値に注目していることは、興味深い現象である。√2やsin1°やlog2を、数百桁まで求めようとした人は、ひとりもいないのだ。
――第10章 数の狩人たち
本能的にヤバさを感じたんだろうか。そんなわけで、近似値を求めるしかない。その方法として最も分かりやすいのが、アンティフォンとアルキメデスの方法だ。円に内接する多角形と外接する多角形の周の長さを求め、少しづつ範囲を狭めていく。三平方の定理を知っていれば、中学生だって思いつくだろう。おかげで…
アルキメデス以来、πの桁数を上げる計算は、純粋に計算能力と忍耐力の問題になってしまったのだ。
――第2章 ベルト地帯
今ならコンピュータで力任せの演算ができるが、当時はそんなモノはない。手計算ならまだマシで、下手すると暗算だ。これを解決する方法は二つ。腕自慢を集めるか、計算量を減らすか。この二つの方向性は、現代の計算機科学でも競い合い協力し合っているから感慨深い。その代表がGoogleで…ってのは置いて。
腕自慢の一人が、ヨハン・マルチン・ツァハリアス・ターゼ。1844年に2カ月以内で200桁のπの値を計算した。ただし、ターゼが優れていたのは計算能力だけで…
…驚異的な計算能力をもつ人々の大多数は、ヨハン・ダーゼも含めて、<あほうな奴隷>のような存在であった。彼らは、計算の素早さではすぐれていたが、他のあらゆる点でまったくのろまであった。数学においても、駄目だった。
――第10章 数の狩人たち
計算能力と数学能力は違うんですね。だもんで、計算は速くても、計算すべき式(というかアルゴリズム)がなきゃ手も足も出ない。その式を与えたのが、数学者 L. K. シュルツ・フォン・シュトラスニッキー。で、この時の式は、アルキメデスの式ではない。つまり計算量を減らす方向でも、進歩していたのだ。
その方法の一つが、級数(→Wikipedia)だ。恥ずかしながら私、今まで級数の何が嬉しいのか全く見当がつかなかったんだが、この本で少しだけわかった。何より計算量で精度が制御できるのが嬉しい。実にコンピュータ向きの手法じゃないか。まあ、コンピュータが出てくるまで数学者が級数の有難みをどれほど分かっていたかは疑問だが、彼らにとっちゃ役に立つか否かはどうでもいいことなんだろう。なんたって…
19世紀に気体運動論があらわれるまで、確率論はギャンブル以外に使い道がなかったのである。
――第15章 モンテ・カルロ法…ラプラスはもっと強力な計算法を発見していた。この方法は電子計算機が発達するまでは役に立たなかった。
――第15章 モンテ・カルロ法
と、役に立とうが立つまいが、面白いと思ったら突き進んじゃう、そういう人たちなのだから。
そのコンピュータは、最終章でやっと登場だ。1949年9月ENIACが2037桁まで70時間で計算したのに対し、1954年11月にはNORCが3089桁まで13分で計算している。5年ほどで300倍以上の高速化だ。とんでもねえ進歩である。ここでは、2進数から10進数に変換する時間までいちいち書いてあるのが、マニアックで楽しい。いや単純な計算だけど、面倒くさいのよ、ホント。
ちなみに今ざっと調べたところでは、2019年3月現在の記録は Google がクラウドで計算した31.4兆桁(→ITmedia)。31.4ってトコがシャレてるね。
などと数学関係の話を主に紹介したが、歴史の話もやたらと楽しい。カエサルはもちろん、ナポレオンも辛らつにこき下ろし、終盤では現代の教養人ぶったラダイトを一言で薙ぎ払っている。そういう意味では、SF者の心を震わせる本でもあった。
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