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2019年10月の11件の記事

2019年10月31日 (木)

SFマガジン2019年12月号

「ここには自分の場所なんてないのよ」
  ――ブルース・スターリング「巣」小川隆訳

「統和機構って、何だと思う?」
  ――上遠野浩平「総裁人間は計算しない」

「聞いてないか? 昨日は史上初めて死者がゼロだったんだ」
  ――ピーター・トライアス「死亡猶予」中原尚哉訳

 376頁の標準サイズ。

 特集は三つ。「テッド・チャン『息吹』刊行記念特集」、「第七回ハヤカワSFコンテスト受賞作発表」、「小川隆追悼」。

 小説は13本。

 特集で5本。「第七回ハヤカワSFコンテスト受賞作発表」で優秀章と特別賞の二本の冒頭、春暮康一「オーラリメイカー」と葉月十夏「天象の檻」。「小川隆追悼」でブルース・スターリング「巣」小川隆訳。「テッド・チャン『息吹』刊行記念特集」で「オムファロス」大森望訳,「2059年なのに、金持ちの子にはやっぱり勝てない DNAをいじっても問題は解決しない」大森望訳。

 連載は4本。椎名誠のニュートラル・コーナー「ズリズリをケトン膜で抽出した断剥種」,夢枕獏「小角の城」第56回,冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第27回,菅浩江「博物館惑星2 ルーキー 第9話 笑顔の写真」。

 加えて読み切りが4本。ジーン・ウルフ「金色の都、遠くに在りて」後編 酒井昭伸訳,草上仁「嘘の藁」,上遠野浩平「総裁人間は計算しない」,ピーター・トライアス「死亡猶予」中原尚哉訳。

 春暮康一「オーラリメイカー」。遠未来。恒星系アリスタルコスは異様だった。九つの惑星のうち四つは、公転面が60度以上も傾斜しており、質量は水星程度、しかも極端な楕円軌道で近日点と遠日点が他の惑星の軌道すれすれを通る。この不自然な星系は意図的に作られたと考え、製作者を仮に星系儀製作者、オーラリメイカーと名づけ、≪連合≫加盟種族のうち五種族が共同で探査に赴く。

 オラフ・ステープルドンをベースに小松左京でダシを取りアーサー・C・クラークで和えデビッド・ブリンを添えたような、骨太で本格的な直球のSF。バラエティに富む五種族は知性化シリーズを、牙の場面はあの傑作カルトSF映画を、災厄が迫るあたりは小松左京を、そして稀有壮大な設定とタイトルからはオラフ・ステープルドンを思わせる。こういうのは大好きだ。早く続きが読みたい。

 葉月十夏「天象の檻」。まもなくシャサは十五歳、成年の儀式を迎える。しかし彼女がアタの場から出かけているうちに、集落が襲われ、皆殺しになった。戻ってきたシャサが見つけたのは、同じくらいの年頃の少年ナギ。襲撃者ではないらしい。山の北、『暁』の者だという。二人で弔いを済ませたとき、老若男女が入り混じった大勢の者が近寄ってきた。

 先の「オーラリメイカー」とは対照的に、古代の山がちな土地を舞台とした本格的なハイ・ファンタジイ。『暁』『蛇』『銀鱗』『巡礼団』などの部族、アタの場、識界、神人イナーなどの大きな仕掛けも魅力的だが、腰帯の文様など細かい所の作り込みも、力強く世界観を支えている。と同時に、冒頭から危機また危機が続くお話作りも巧い。

 ブルース・スターリング「巣」小川隆訳。<投資者>の手引きで、<工作者>のサイモン・アフリール大尉博士は<群体>の<巣>に潜り込む。そこは小惑星の内部だ。<群体>は宇宙に進出してはいるが、道具もテクノロジーも持たない。何より、宇宙にでた種族としては唯一、基本的に知性を持たない種族なのだ。

 看板の<機械主義者>vs<工作者>シリーズの一つ。メカを信奉する機械主義者、生体改造を進める工作者。この作品では工作者が主役を務め、異星人<群体>の巣に潜入する。この巣の中の描写が、なんともおぞましい。生態はアリみたいなんだが、それぞれの個体は地虫みたいな雰囲気ながらバラエティに富んでいて…。覚悟して読もう。

 ジーン・ウルフ「金色の都、遠くに在りて」後編 酒井昭伸訳。夢の中では山脈を目指し旅を続けるビル。現実世界のビルは憧れのスー・サムナーとの関係は深まり、フットボールでは一年生ながらラインバッカーのポジションをかちとり、ダイナおばさんは若く美しくなる。

 ますます異世界転生物の俺Tuee設定っぽい展開で、「え、ジーン・ウルフって、こういうの?」とか思ってたら、終盤で更に意味不明な方向に。すんません、誰か解説してください…って、直後に訳者の酒井昭伸の解説があるけど、やっぱりわからなかった。

 椎名誠のニュートラル・コーナー「ズリズリをケトン膜で抽出した断剥種」。異様な惑星に残ったナグルスと市倉は、そこにあった総合研究所を訪れ、そこに滞在することにした。ベドレイエフ博士に差配人手伝いのランプを紹介され、彼に部屋へ案内される。ランプが言うには、人の出入りが多いとのことだが、ここを出てどこに行くというのか。

 ランプは頭のてっぺんに光る電球がついているし、市倉の隣の部屋の者はひっきりなしに大きな声で喋っている。おまけにこの星の名前はインデギルカ。異様な星に異様な施設、そして異様な奴ら。まあ、もともと、ラクダの胎内で旅をする男なんて異様な設定で始まった話だけど、果たしてお話はどこに向かうのか。

 冲方丁「マルドゥック・アノニマス」第27回。一時的に<クインテット>を率いるバジルは、バロットとの戦闘からいったん撤退を始める。あわてて逃げるのではなく、傷つき動けぬ者を回収しながらの組織だった撤退だ。だが戦闘は終わらない。ストーンとアビーに合流したバロットに、次は<クインテット>に代わり<誓約の銃>が襲い掛かる。

 登場人物一覧にボイルドの名があると、今でもドキリとする。<誓約の銃>はただの銃器ヲタクかと思いきや、やはりいましたエンハンサー。いいなあポリポッド。流行ってるレストランのランチタイムで働いたら引く手あまただぞ←違う 次のビートルは、まあ、なんというか、仮面ライダーV3あたりに出てきそうな。体勢的に射線は安定しそうな感じだけど。

 上遠野浩平「総裁人間は計算しない」。川沿いの繁華街で飲みながら語る三人。交換人間のミナト・ローバイは明るく喋りまくり、つまらなそうに受け答えするのは監査部門のギノルタ・エージ,そして時おりミナトに絡まれては言葉に詰まるギノルタの部下デューポイント。話題は、製造人間ウトセラ・ムビョウに始まり、憎悪人間カーボンへの統和機構からの脱走へと移り…

 陰険な奴ばかりが出てくるこのシリーズ、上の三人のうち誰かとサシで飲む羽目になったら、誰がいいかと考えたら、うーん。ミナトなら話は弾む、というか勝手にいろいろ喋ってくれそうだが、何を巻き上げられるかわかりゃしない。ギノルタ相手じゃ何を話しても尻つぼみで終わりそうだ。デューポイントなら上司の愚痴で盛り上がれるかもw

 菅浩江「博物館惑星2 ルーキー 第9話 笑顔の写真」。<アフロディーテ>開設50周年企画の一つとして、ティティが企画をネジ込んできた。記録係の一人にジョルジュ・ペタンを採用しろ、と。銀塩写真にこだわる48歳のジョルジュは「笑顔の写真家」と呼ばれ、世界各地の人びとの笑顔を写真に収めてきた。代表作「太陽の光」はチリのマプチェ族の幼い男の子を撮ったもの。だが、今のジョルジュの表情は…

 今回は前後編の前編のみ。お騒がせキャラクターのティティ、今回は軽い顔見せだけ。まあ面倒を持ち込んでは尻拭いを健に任せるあたりが、ティティらしいというか。冒頭から美術品闇取引やらクラッキングやらはぐれAIやらと物騒なネタや、「太陽の光」にまつわる怪しげなクレームなど、伏線バリバリ。にしても銀塩写真とは、面白いネタを見つけてきたなあ。

 草上仁「嘘の藁」。4頁のショートショート。校内のいじめが原因とみられる、少年の自殺事件。少年の父親、学校の教師、いじめの加害者、少年にプリントを届けに行ったクラスメート、それぞれの証言はみな食い違い…。

 テッド・チャン「オムファロス」大森望訳。考古学者のドロシーア・モレルは、講演会でシカゴーを訪れる。そこでいとこのローズマリーから妙な話を聞いた。博物館のギフトショップで、原始のアワビの貝殻を買った、と。今のところ、原始のアワビの貝殻が発見されたのは一か所しかない。

 書き出しの「主よ」や「シカゴー」「モンゴリア」で「おや?」と思わせつつ、樹木の交差年代決定法や貝殻の成長輪など、至極まっとうな考古学の手法で安心させた後で、「どひゃあ!」な世界観をサラリと示す。が、この作品じゃ、それすら前菜なのが凄い。ある意味、科学は私たち人間を特権的な地位から「ありがちな生命現象」に引きずりおろし続けてきたんだよね。

 同じくテッド・チャン「2059年なのに、金持ちの子にはやっぱり勝てない DNAをいじっても問題は解決しない」大森望訳。3頁の掌編。遺伝子平等化プロジェクト。遺伝子技術は発達したが、知力強化など高価な遺伝子操作は低所得層には手が届かない。そこで低所得層500組の子どもに知力強化を提供したが…

 荻生田文科省大臣の「身の丈」発言が話題になっている現在の日本にとっては、あまりにタイミングが良すぎる作品。最近のノーベル賞といい、もしかしたら早川書房はタイムマシンを隠し持ってるんじゃないかと疑いたくなる。短いわりに中身はズッシリと重い作品。

 ピーター・トライアス「死亡猶予」中原尚哉訳。バイロン・デュウェイはポータリストだ。黄泉ポータルで次元断層が発生し、現実で赤が消えた。次元断層を閉じるため三日三晩の連続勤務をこなしたバイロンは、友人のビビアンを引き取るため警察に行く。ビビアンはタチの悪いヒモに食いつかれているが、別れる気はないようだ。帰り際、交通事故を見た。負傷者は体が真っ二つなのに生きている。

 書きたてでまたインクが渇いていないホカホカの原稿みたいな感触の作品。いやきっと著者も訳者も手書きじゃないだろうけど。ビビアンは日本でいう地下アイドルっぽい。これも Youtuber みたく過激化してるあたりが、著者らしい。さて、人が死ななくなったら、どうなるか。いや確かにそうなんだけど、巧いわw

 新連載「SFの射程距離」、第1回は「思考のストッパーを外せ」として東京大学大学院情報学環教授の暦本純一。AI研究者にインタビューし、SF作品が現実の科学研究に与えた影響を探る企画。やっぱりSFを読んでる研究者って多いんだなあ。言われてみるとHAL9000の人型でない人工知能って発想は斬新だった。「現実世界が沈没しているときに“沈没した小説”は書けない」って、確かにね。

 柿崎憲「SFファンに贈るWEB小説ガイド」第10回「来る!悪役令嬢ブーム!」。悪役令嬢って言葉は見かけるけど、何なのか分からなかったが、そうだったのか。ってんで「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」を読み始めたら、これヤベェわ。一気にハマって数時間トリップしてしまった。

 東茅子「NOVEL&SHORT STORY REVIEW」、今回は「今年の受賞作・注目作総まとめ」。キャサリン・M。バレンテ「スペースオペラ」が、すんごい面白そう。作品名がジャック・ヴァンスのアレとカブってるだけじゃなく、内容もちょいアレだし。私としては主人公?デシベル・ジョーンズにジョー・ウォルシュあたりを充てて楽しみたい。

 なんと次号から神林長平の雪風シリーズと飛浩隆の廃園の天使シリーズが連載開始だあああぁぁぁっっっ!!!

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2019年10月28日 (月)

モルデハイ・バルオン編著「イスラエル軍事史 終わりなき戦争の全貌」並木書房 滝川義人訳 2

イスラエルの水資源は乏しく、しかも水源は北部に偏り、南部乾燥地帯にはない。(略)“砂漠の緑化”というシオニストの思想は、とくにネゲブ砂漠の緑化というビジョンの中に、強く表明されている。
  ――第5章 水資源戦争

PLOを南レバノンの拠点から駆逐し、この地域をヒズボラに明け渡したのは、イスラエルである。
  ――第10章 ガラリヤ平和戦争

 モルデハイ・バルオン編著「イスラエル軍事史 終わりなき戦争の全貌」並木書房 滝川義人訳 1 から続く。

【どんな本?】

 戦火に包まれながらも1948年の建国をなしとげ、その後も絶え間なく戦いを強いられているイスラエル。彼らはどのような情勢で、どのような敵と、どのように交渉しあるいは戦い、それは中東情勢をどう変えてきたのか。

 建国前の情勢から現在に至るまで、イスラエルと周辺諸国の国内事情や政治・軍事・外交政策、そして国際社会の対応を、主にイスラエルからの視点で描く、中東問題の論説集。

【はじめに】

 前の記事では興奮しすぎたな、と反省しつつ、まず全体の感想から。

 目次でわかるように、イスラエルはかなり特殊な国だ。なにせ建国前から途切れず戦争が続いている。しかも戦争の形が様々だ。

 国家の正規軍を相手に、明確な目的を持って戦った六日間戦争(第三次中東戦争)もあれば、ゲリラ相手にダラダラと続いたガラリヤ平和戦争(レバノン内戦)もある。総力戦の1948年のアラブ・イスラエル戦争(独立戦争、第一次中東戦争)もあれば、限定的な水資源戦争もある。たいていはイスラエル単独で戦っているが、フランス・イギリスと組んだシナイ戦争(第二次中東戦争)もある。

 そんなわけで、色とりどりな戦争の経緯が分かる点では美味しい本だ。ただし、視点は軍事研究家ではなく歴史家に近い。つまり、軍事より政治や外交に多くの頁を割いていて、個々の戦闘や兵器の名前は、ほとんど出てこない。また、中東問題の本としては、徹底してイスラエル視点であり、アラブ側の視点ではない。

【ナセル】

 にも関わらず、人物として最も印象に残るのは、建国の父ベングリオン(→Wikipedia)でも隻眼の将軍ダヤン(→Wikipedia)でもない。エジプトのナセル(→Wikipedia)なのが皮肉だ。

アラブ・イスラエル紛争は、相異する三つの文脈で研究しなければならない。(略)ナセル前の時代(1947/8~1954年)、ナセル時代(1955~1970年)、そしてナセル後の時代(1970年以降)である。
  ――第7章 消耗戦争

 実際、当時の中東情勢は彼を中心に動いていたし、21世紀の現代に至るまで、彼が掲げた理想・思想は、アラブの民の底流に流れている。彼はアラブの者に誇りをもたらした。もっとも、その誇りは、六日間戦争でひどく傷つけられ、その傷口からは今なお血が流れ続けているんだけど。それともう一つ、イスラエルへの憎しみも植え付け、これも不安定化の原因となっている。

【ムフティ】

 実はもう一人、アラブの思想の源流となった人物がいる。ハッジ・アミン・アル・フセイニ(→Wikipedia)、エルサレムのムフティ(大法官)だ。ナセルは国家と正規軍そして国際社会による正攻法でイスラエルに立ち向かったのに対し、フセイニはパレスチナ人を中心としたゲリラ戦の源と言えるだろう。

 もっとも、イスラエルのハガナも、早期(1930年代後半)からゲリラ戦に対抗する策を見いだしている。「塔と防御策」と称し、数百人が夕暮れに村に向かい、一晩で村を柵を囲い中央に塔を建て要塞化してしまう。現代中東版の墨俣一夜城かい。そんなこんなで、フセイニが扇動するゲリラは、イスラエル軍の土台となるハガナを鍛え全国的な組織化を促してしまうのが皮肉だ。

【シナイ戦争】

 日本では第二次中東戦争として知られるシナイ戦争(→Wikipedia)を扱う第四章は、イスラエルが珍しく他国と連合した戦いだ。この章では、イギリスへの恨みつらみが滲み出ているのが面白い。よほど恨んでるんだろうなあ。

戦時中、イスラエル国防軍と英軍との間には、直接の連絡が一度もなかった。
  ――第4章 シナイ戦争

 ただ、恨みつらみが先に立って、戦いの全体像が見えないのはつらい。

【水資源戦争】

 島国の日本じゃピンとこないが、淡水の重要性を実感させられるのが第五章。

水をめぐる争いは、(略)シリアが自国内で流域変更計画を実施しようとし、イスラエルが軍事手段でそれを阻止したということである。
  ――第5章 水資源戦争

 イスラエルはヨルダン川とキネレット(ガラリア湖)の水で南部のネゲブの緑化を計画する。対してシリアはレバノン・ヨルダンと組んでヨルダン川の流域を変え、水の横取りを目論んだ。そういえばシリアは今でもチグリス・ユーフラテス川をめぐりトルコと睨み合ってるなあ、とか思いつつ、国際河川の面倒くささが実感できる章だった。

【六日間戦争】

純軍事的側面からいえば、これは近代軍事史上、一方が圧勝した戦争の一つである。イスラエルは、600機を超える敵航空機を撃破し、同じく戦車及び機甲車両数千両を破壊、兵員に数万の損害を与えた。
  ――第6章 六日戦争

 日本では第三次中東戦争(→Wikipedia)で知られる戦争。エジプト・シリア・ヨルダンを相手にイスラエルが圧勝し、今なおアラブの民のトラウマとなっている戦いだ。執筆者は「第三次中東戦争全史」と同じ人で、本書の中では軍事的な内容が濃い。

【消耗戦争】

…エジプトの総崩れという事態がせまれば、ソ連は必ず超大国の威信にかけて介入せざるを得ない。これがナセルの判断である。
  ――第7章 消耗戦争 1969~1970

 イスラエル軍事史と言いつつ、この章はエジプトの話ばかりなのが面白い。強いカリスマを持つ理想家のナセルと、冷静に国際情勢を見極める実際家のサダトを対比してる。イスラエルの視点じゃどうしてもサダトの評価が高くなるんだろうけど、現代アラブ人の評価はどうなんだろう?

【ヨムキプール戦争】

戦争が長びけば、(イスラエル)国防軍は進出域を拡大できる。
  ――第8章 ヨムキプール戦争

 日本では第四次中東戦争(→Wikipedia)と呼ばれる戦争を扱う。先の「六日間戦争」と同じく、軍事的な内容が多い章。エジプトとシリアがイスラエルの不意を突いて攻め込み、また対空ミサイルと対戦車ミサイル“サガー”が活躍した。互いの軍備にアメリカとソ連の睨み合いが反映していると共に、両大国の介入が早期の終戦に結びついたワケで、冷戦構造も悪い事ばかりじゃない、なんて気もしてくる。

【不正規戦】

パレスチナ革命運動の目的は、昔も今も変わらず一貫している。すなわち、イスラエルなきあとにアラブパレスチナ国家を建設する事である。
  ――第9章 不正規戦

 主に PLO を扱う章。アルカイダなど国際的なテロ組織って今世紀のものかと思ったが、実は当時から国際的に共闘していたのだった。本書ではPLOの仲間として、南アフリカのアフリカ民族会議=ANC,モザンビークのモザンビーク解放戦線=FRELIMO,南西アフリカの南西アフリカ人民機構=SWAPO,ドイツのバーダーマインホフ,イタリアの赤い旅団=BR,日本赤軍をあげている。そういえばテルアビブ空港乱射事件(→Wikipedia)もあったなあ。

 当時のPLOのパトロンはシリアだった。ハマスも指揮官はシリアのダマスカスに潜んでたね。他の組織のパトロンはどこなんだろう? 現代のアルカイダや自称イスラム国にも、パトロンがいる気がしてきた。もっとも、合衆国も南米じゃCIA経由で似たような真似をしてるんだけど。

 ここでは、不法侵入を見つける方法が面白い。国境沿いの道路を、敢えて舗装しないのだ。砂地にしておけば、足跡が残るでしょ。

【ガラリヤ平和戦争】

ガラリヤ平和作戦は、(略)1982年6月6日に開始された。(略)しかし、作戦終結の日については答えがない。
  ――第10章 ガラリヤ平和戦争

 レバノン内戦(→Wikipedia)への介入を扱う章。

 黒い九月(→Wikipedia)でヨルダンを追われたPLOは、レバノンに流れ込み南部を支配下に置き、イスラエル攻撃の基地とする。シリアの介入などで弱体化したレバノン政府はPLOを制御できない。そこでイスラエルはレバノン国内のマロン派と組んで軍事介入を試みる。目的はレバノン国内のPLO殲滅と、親イスラエルのレバノン政権樹立。結果、レバノンからPLOは追放できたが…

 これも今になって思えば、アメリカ vs アルカイダの雛型みたいな経緯を辿っている。地元のマロン派は頼りにならず、航空戦力には限界があり、地上兵力を投入して多くの犠牲を出した末にPLOが消えたのはいいいが、その間隙にはシリアとイランの支援を得たヒズボラが根付いてしまう。非対称戦はキリがない。まるきしモグラ叩きだ。

【パレスチナのインティファダ】

後年PLOはあたかも1987年以降の紛争(インティファダ)を主導したようなふりをしたが、(略)長い間インティファダの持つ意味に気づくことすらなかった。
  ――第11章 パレスチナのインティファダ

 イスラエルではオリエント系の移民が増え、右派と左派の溝が深まり、対パレスチナ強硬派のリクードが力を増す。パレスチナでは高学歴の若者が増えるが、世界的な不況が押し寄せ、学歴に相応しい仕事はない。不満を抱える若者たちは投石でイスラエル軍に立ち向かうが…

 という表向きの動きと、インティファダを支援した四つの組織を明らかにする。統一民族司令部=UNC,イスラム抵抗運動=ハマス,パレスチナ左翼集団,イスラム聖戦。

 アラブと左翼運動って、とても相性が悪いって気がするんだが、どうなんだろ? はやりパトロンの関係なんだろうか。

【防盾作戦】

2000年9月18日、野党リクード党首のアリエル・シャロン議員が、エルサレムの神殿の丘を訪れた。(略)翌9月29日、神殿の丘に参集する信徒数万(略)の暴動でパレスチナ人6人が死亡、数十人が負傷した。この激烈な爆発が、エルアクサ・インティファダの始まりとなった。
  ――第12章 防盾作戦

 せいぜい投石や火炎瓶だった最初のインティファダに比べ、第二次インティファダは自爆テロやロケット弾など、より暴力的になっている。いきり立ちつつも、イラク戦争などの関係で自重を求められるイスラエル。しかしパレスチナ代表のアラファトは矛盾したメッセージを発するばかりで指導力を発揮できず…

 「イスラエルは我慢に我慢を重ねたんだ」という著者の叫びが聞こえてきそうな章。アラファトの狸っぷりは、その遺産で明らかになったけど、その後に台頭したハマスはやっぱり過激な暴力主義で、相変わらずパレスチナ問題は混迷を深めるばかりなんだよなあ。

【その後の『イスラエル軍事史』】

(アイアンドームの)ミサイル(タミール)は一発5万ドル。一発100ドル程度でつくられるカッサムロケットにいちいち対応するのは、費用対効果で疑問視する向きもある。
  ――「訳者あとがき」に代えて その後の『イスラエル軍事史』

 原書は2004年出版なので、それまでの経緯しか書いていない。そこで著者らに代わり訳者がその後の10年以上の推移をまとめたのが、この章。主に扱っているのは三つ、対ヒズボラ戦、対ハマス戦、そして国境沿いに展開する国連軍/多国籍軍。

 国境警備で多少なりとも役立っているのはシナイ正面の多国籍監視隊だけで、レバノン正面の国連レバノン暫定駐留軍は「無能、役立たず」、ゴラン正面の国連兵力分離監視隊は「百鬼夜行」と、実に情けないありさま。自衛隊が行ってたゴラン高原は、そんなヤバい所だったのか。さぞ苦労したことだろう。

【おわりに】

 今はエジプトやヨルダンとは手打ちが済み、睨み合ってるシリアは内戦中なので、正規軍相手の戦争は当面なさそうなイスラエルだが、ハマスやヒズボラなど非対称戦は今後もケリがつきそうにない。長く続いた右派ネタニヤフ政権も組閣を断念した様子で(→CNN)、もしかしたらイスラエル側の政策は方向を変える可能性がある。少しは歩み寄りが期待できるんだろうか。

 その中道「青と白」を率いるのは、ガンツ元軍参謀総長。軍人が政権の重要な座を占める事が多いイスラエルだが、彼らの政治姿勢はモシェ・ダヤンやイツハク・ラビンなど左派も多いのに気がついた。書名は軍事史だが、内容は軍事より内政や外交の比率が高く、より総合的な視点の本だった。

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2019年10月27日 (日)

モルデハイ・バルオン編著「イスラエル軍事史 終わりなき戦争の全貌」並木書房 滝川義人訳 1

1936~39年の戦争では、主にパレスチナゲリラと英軍が戦った。
  ――第1章 アラブの反乱

【どんな本?】

 1948年に戦火の中で生まれ、以来ずっと紛争が続き、今なおパレスチナやヒズボラそしてシリアとの衝突が続くイスラエル。かつての中東戦争では華々しい勝利を続け無敵と目されたイスラエル国防軍だが、最近ではハマスやヒズボラなどを相手とした非対称戦で苦戦しているように見える。

 本書はイスラエル建国前の「アラブの反乱」から2003年までの防盾作戦までの戦いを、主にイスラエルの視点から軍事を中心に外交や政治も含めて扱い、中東問題の全体像を示そうとするものである。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Never-Ending Conflict : A Guide to Israeli Millitary History, Edited by Mordechai Bar-On, 2004。日本語版は2017年2月20日発行。単行本ソフトカバー縦二段組み本文約405頁に加え、訳者による「その後の『イスラエル軍事史』」が豪華16頁。10ポイント23字×19行×2段×405頁=約353,970字、400字詰め原稿用紙で約885枚。文庫なら上下巻ぐらいの文字数。

 文章は比較的にこなれている。が、章により著者が違うため、わかりやすさはマチマチ。例えば「第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争」は歴史的な全体像がスッキリ見える半面、戦闘の経緯はバッサリ省いている。逆に「第4章 シナイ戦」では「セーブル協定」が出てくるが、その内容の説明はない。

 それと、戦場地図が随所に出てくるので、栞をたくさん用意しておこう。

【構成は?】

 各章は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 序文 終わりなき紛争の着地点 モルデハイ・バルオン
  • 第1章 アラブの反乱 1936~39年 イガル・エヤル
  • 第一段階
  • 第二段階
  • 第三段階
  • 第四段階
  • 第五段階
  • 最終段階
  • まとめ
  • 第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争 ヨアヴ・ゲルバー
  • パンドラの箱
  • 戦争史観
  • 歴史修正学派の調査研究
  • パレスチナ・ユダヤ戦争
  • アラブ正規軍の侵攻
  • 両者の戦力比
  • 難民問題の浮上
  • 存在しなかった共同謀議
  • 未解決の四つの問題
  • 第3章 休戦期の戦争 1949~1956年 ダビッド・タル
  • 1948年戦争後の安全保障観
  • 越境潜入者との闘い
  • 対応方法の形成
  • イスラエル・エジプト休戦ラインの緊張
  • まとめ
  • 第4章 シナイ戦争 1956年 モッティ・ゴラニ
  • 「顧みて不満」
  • 「仏軍とは低姿勢を保ち、英軍の視界から消えよ」
  • 航空協力 あいつらは謝り方も知らない
  • 海上協力の実態
  • スエズ運河域での仏イ共同作戦準備
  • イギリスとイスラエル 敵意にみちた協調関係
  • まとめ
  • 第5章 水資源戦争 1960年代 アミ・グルスカ
  • 水をめぐる紛争の根源
  • 1950年代の水資源戦争
  • イスラエルの“全国配水網計画”
  • アラブの“流域変更計画”
  • シリアとの対決
  • 水資源戦争の覚悟
  • 流域変更の波紋 1966年7月~8月
  • 戦争への道
  • まとめ
  • 第6章 六日戦争 ミハエル(マイケル)・オレン
  • 戦いの始まり
  • 戦争への道
  • 開戦初日
  • 戦闘二日目
  • 戦闘三日目
  • 戦闘四日目
  • 戦闘五日目
  • 戦闘六日目
  • 戦争が残したもの
  • 第7章 消耗戦争 1969~1970年 ダン・シュフタン
  • ナセルの“最後の戦い”
  • ナセル時代とポスト1967年のジレンマ
  • 消耗戦争の構想
  • 思い通りにいかない戦争
  • ポスト・ナセル時代のサダト
  • 現代史の中の“忘れられた戦争”
  • 第8章 ヨムキプール戦争 シモン・ゴラン
  • 開戦前
  • 双方の戦力と配置
  • 現役部隊による持久戦と予備役の動員
  • 反撃戦 10月8日
  • 反撃と防勢戦闘の継続 10月9~10日
  • 北部正面の攻勢、南部正面の防勢 10月11~15日
  • 政治正面
  • スエズ運河西岸の橋頭堡構築と強化 10月16~18日
  • 運河西岸地域突破戦と北部正面におけるヘルモン山奪回戦 10月19~22日
  • 第三軍の包囲 10月22~4日
  • ヨムキプール戦争がもたらしたもの
  • 第9章 不正規戦 1960~1985年 ベニー・ミハエルソン
  • PLOとの戦い
  • ファタハの勃興 1965~67年
  • 消耗戦争 1967~73年
  • 1969年3月~70年8月 ヨルダン内戦
  • 1970年9月~73年10月 レバノン基地化
  • 1973~1982年 北部へ移った戦争
  • 1982年9月~83年8月 シーア派の台頭
  • 1983年9月~84年8月 レバノン占領地の管理強化
  • 1984年9月~85年6月 撤収
  • 第10章 ガラリヤ平和戦争 1982年 エヤル・ジッサー
  • 選択肢としての戦争と選択肢なき戦争
  • ガラリヤ平和戦争のルーツ
  • ガラリヤ平和戦争の推移
  • マロン派との同盟 折れた葦
  • まとめ 戦争の遺産
  • 第11章 パレスチナのインティファダ 1987~1991年 ルーベン・アロハニ
  • パレスチナ紛争史
  • インティファダ勃興の経過
  • 第12章 防盾作戦 イスラエル・パレスチナ紛争2000~2003年 シャウル・シャイ
  • エルアクサ・インティファダ
  • 9.11テロ事件とイスラエル・パレスチナ紛争
  • 防盾作戦の発動から2002年9月まで
  • パレスチナ自治政府の改革
  • 紛争解決に向けたアメリカの新たなプラン
  • 「訳者あとがき」に代えて その後の『イスラエル軍事史』 滝川義人
  • 脚注/執筆者

【感想は?】

 今はまだ第4章までしか読んでいないが、そこまでだと。

 中東問題に興味があるなら、「第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争」はぜひ読もう。とても分かりやすく、対立の構造とイスラエル・アラブ・パレスチナそれぞれの認識の食い違いを示している。

 この章では、独立戦争(第一次中東戦争、→Wikipedia)を扱う。イスラエル建国の直前にパレスチナ人を中心とした義勇兵が蜂起し、続いて建国と同時にエジプト・シリア・ヨルダンなどアラブ諸国が攻め込んだ戦いだ。この章では、軍事的な話はほとんど出ない。軍事研究家というより歴史家の視点で、衝突までの経緯と、戦後から現在に至るまでのアラブ・イスラエル双方の歴史認識の話が中心だ。

 ここでいきなり、私は思い込みを覆された。それまでの私の認識は、「おおエルサレム!」で刷り込まれたものだ。いささかイスラエル国防軍を美化した、イスラエル贔屓のものだった。装備と兵力に勝るアラブに対し、少数のイスラエル軍が善戦した、そんな物語である。これを、著者はアッサリとひっくり返す。

戦力比を詳しく調査すると、1948年戦争のほぼ全期間を通して、兵力、装備、兵站能力、組織力のいずれをとっても、ユダヤ人側がまさっていたことがわかる。
  ――第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争

 総合的な戦力では、イスラエルが優っていたのだ。組織力にしても、イスラエルは自警組織ハガナを中心として外敵に備えていたのに対し、アラブ諸国の軍は「政権護持を主任務とし、国内の反乱に備えた存在である」。内乱を抑えるための組織で、他国と戦う体制は整っていなかったのだ。しかも指導者たちは…

指導者はその(国内世論の)圧力にさらされて、いやいやながらパレスチナ侵攻を決めるのである。
  ――第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争

 と、あましヤル気はなかったらしい。実際、エジプトのファルーク王は、この後でナセルらに国を叩きだされてるしなあ。困ったことに、この戦争が、現在まで続くアラブとイスラエルの歴史観の違いとなり、またパレスチナ難民などの問題も生み出してしまう。

20世紀に勃発したほかの戦争と違って、1948年の戦争はまだ終結していない。
  ――第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争

 この章では、イスラエル・アラブ双方の歴史観も扱っていて、ここがとってもエキサイティング。イスラエル国内でも様々な派閥があって、先の私みたいな人もいれば、イギリス悪役説・ソ連の支援のお陰説とかもある。まあ言論の自由があれば、自然とそうなるんだろう。

 対してアラブ側の歴史認識は、資料の公開が進まないこともあり、ある意味単調である意味バラエティに富んでいる。

アラブの研究者は、現実の過程を知ろうとしない。(略)誰が(倫理的に)正しいのか、どちらの主張が不法なのかを追求する。
  ――第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争

 共通してるのは、「イスラエルが悪い」「国際世論はイスラエルを贔屓した」「他国の干渉がなきゃ俺たちが勝った」あたり。加えて「俺は悪くない」が入る。これがバラエティの源で、「俺」が人により違うから。シリア・ヨルダン・エジプト・パレスチナそれぞれが、「俺は正しい」と言い張り、「お前が悪い」と「罪の投げ合いに終始していた」。

 なんともレべルの低い話だとは思うが、日本人が語る太平洋戦争論でも、陸軍悪玉論・海軍悪玉論・マスコミ悪玉論があるし、酷いのになるとアメリカの陰謀なんて説まであるわけで、あまし笑ってばかりもいられない。

ちなみに私はイアン・トールの説に近い。大日本帝国としての統一した外交・軍事政策はなく、陸海軍や各省庁が、それぞれ勝手に「やったモン勝ち」を続けたところ、他国からは領土拡張の暴走にしか見えず、ハブられ追い込まれて戦争以外の道を断たれた、そんな感じです。

 この章ではもう一つ、今も続くパレスチナ難民の原因もわかりやすく説明している。国家観・戦争観の違いだ。

 戦争が始まる前から、パレスチナ人は雪崩を打って逃げ出した。あまりの逃げ足の速さに、イスラエルはパレスチナ指導部の陰謀じゃないかと疑ったほどだ。確かにパレスチナの村人は虐殺を恐れた。イスラエルがハガナを中心に村を守る体制を整えていたのに対し、パレスチナ側は無政府状態で、誰も守ってくれないし。だが、それ以上に、逃げることの意味が違っていたのだ。

 逃げた人々は、停戦や休戦の際に、自分の家へ帰ろうとした。彼らは引っ越したのではなく、一時的に避難しただけなのだ。中東の常識だと、戦争は台風や津波と同じ天災みたいなモノらしい。過ぎ去れば元に戻って今までの暮らしを続けるつもりだった。だから、アッサリと村から出て行ったのだ。

 だが欧州の常識だと、そうはいかない。この点は日本も欧州に近い。敗戦後、多くの日本人が満州や朝鮮から引き揚げた。戦争に負け、敵国の領土となった土地から出て行った者は、他の土地で暮らしを立て直す。勝者は奪った領土に入植する。イスラエルは、そう考えて、出て行ったパレスチナ人の土地を我が物にした。

 なぜパレスチナ難民が生まれたのか、これでスルスルと頭に入ってくる。国境をハッキリと定め、その隅々まで行政組織が把握する中央集権国家と、地域ごとの有力者の連合体にすぎず、地域ごとの自治権が強い中世的・封建的な国家との、国境観・国家観の違いが、パレスチナ難民を生み出してしまったのだ。

もっとも、その後のアラブ諸国のパレスチナ難民や国内のユダヤ人に対する扱いは、双方の美味しい所どりを狙った非情かつ冷酷なものだと私は思う。国内のユダヤ人は欧州風に叩きだし、パレスチナ人は中東風に難民扱いってのは、ちと身勝手が過ぎるんじゃないの? おまけに政府も軍も中央集権型で、クルドなど地方の自治は認めないし。

 などと「第2章 1948年のアラブ・イスラエル戦争」だけでダラダラと書いてしまったが、それだけこの章が面白くてエキサイティングなんだからしょうがない。文句は著者のヨアヴ・ゲルバーに言ってほしい。などと責任転嫁しつつ、次の記事に続く。

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2019年10月23日 (水)

リリー・ブルックス=ダルトン「世界の終わりの天文台」創元海外SF叢書 佐田千織訳

「われわれは今を生きなくてはならないんだ」
  ――p74

彼がここにやってきたのは死ぬためだった。
  ――p88

彼が蓄積してきた地元の知識は、偶然知ったことばかりだった。
  ――p149

あなたの心はそこまで壊れていたのね
  ――p192

災害時に電波に乗って流れる情報を最初につかむのは、いつもアマチュア無線家だ。
  ――p220

【どんな本?】

 アメリカの新鋭作家リリー・ブルックス=ダルトンの小説デビュー作。

 近未来。木星探査船<アイテル>は木星圏でのミッションを無事に終え、地球への帰路についた。一年以上にわたる共同生活でも、クルー六人のチームワークは乱れず、熱心に職務に励む。だが、地球を目指す旅の途中、地球からの通信が途絶えた。技術者のサリーは通信の回復に努める。しかし、入ってくるのは木星圏に残した機器からのデータだけで、地球からの応答はない。

 オーガスティンは78歳の天文学者。人嫌いがこじれ、今は北極圏のバーボー天文台にいる。他の研究者や技術者たちはすべて去った。オーガスティンは一人で天文台を独占し、気の向くまま観測と研究を続ける…つもりだったが、意外な居候が現れる。八歳ぐらいの少女、ルーシーだ。去った者の子供かと思い無線で問い合わせたが、どこからも応答がない。

 家族を置き去りにして宇宙に進んだ女、人とのつながりを拒み極地へと向かった男。静かな風景の中で世界の終わりを描く、少し変わった終末物SF。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2019年版」のベストSF2018海外篇29位。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Good Morning, Midnight, by Lily Brookss-Dalton, 2016。日本語版は2018年1月12日初版。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約260頁に加え、訳者あとがき3頁。9ポイント43字×20行×260頁=約223,600字、400字詰め原稿用紙で約559枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。

 文章はこなれている。内容もわかりやすい。ごく稀に無線通信関係の用語が出てくるが、分からなければ無視して構わない。大切なのは登場人物の心の動きなので、理科が苦手な人でも大丈夫。敢えて言えば、太陽系の惑星の配置。地球から遠い順に木星→小惑星帯→火星→地球、となる。これさえ知っていれば、充分に楽しめる。

【感想は?】

 SFか、と言われると、ちとツラい。が、SFファンの心には鋭く突き刺さる作品だ。

 最初にハッキリさせておこう。人類滅亡の原因は最後まで明かされない。少なくとも核戦争ではないらしい。というのも、オーガスティンはホッキョクグマやシャコウウシやオオカミに出会うのだ。

 ただ、地上の誰もが重大な危機を予期しているのは、冒頭でハッキリと描いている。ここでは、天文台からの計画的な引き上げと、オーガスティンが強情を張って居残る場面がある。

 このオーガスティン、あまり主人公らしくないのが、この作品の大きな特徴だろう。人生の末期、78歳ってのもそうだが、性格もなかなかアレな人でw 最初は研究一筋の純粋な人かと思ったが、あ、いや、確かに研究が大好きな人ではあるんだが…。

 そういう意味だと、この作品はアンチSFとすら言えるほどのインパクトを持っている。孤高といえば聞こえはいいが、同僚の研究者からも持て余されているのが、冒頭でわかる。後に彼の過去が少しづつ明かされるに従い、彼がそうなってしまった経緯も呑み込めてくる。この辺までくると、とても他人事とは思えなくて、「ヤな奴だなあ」とは感じつつも、なぜか嫌いにはなれなかったり。いやあまし近くには居て欲しくないけどw

 そういった点では、グレゴリイ・ベンフォードや松崎有理とも違う視点での、研究者小説またはヲタク小説かもしれない。ただ、そのまなざしは、不器用な人間に深い理解を示しつつも、決して温かいだけのものじゃなかったり。もっとも、これはオーガスティンが住む、雪と氷に包まれた北極圏の風景がもたらす印象が混ざっているせいかも。

 というのも、冒頭の季節が春だからだ。太陽が昇らない長い冬が終わり、少しづつ日が差す春に、物語は始まる。その後、次第に日が長くなり、日が沈まぬ白夜の夏がやってくる。大気が温もりを取り戻すと共に、凍りついたオーガスティンの心も謎の少女アイリスによって揺らいでゆく。そんな彼の心の変化が、この作品の大きな読みどころ。

 もう一人の重要な人物は、宇宙飛行士の一人サリー。念願の木星圏探査船のクルーに選ばれ、木星圏でのミッションには成功したものの、帰路で地球との通信が途絶えてしまう。彼女もなかなかに複雑な環境で育ち、仕事はともかく家庭生活は順調とは言い難く…

 とまれ、こちらのパートだと、サリー自身より、彼女を含めたクルー全体の心の動きが、私には印象深かった。

 おそらく人類初である木星圏の有人探索だ。クルーは選び抜かれた優秀な人ばかり。熱望する冒険的なミッションに成功し、意気揚々と引き上げる…つもりが、地球からの返事はなしのつぶて。これがチームひとりひとりに、どんな影響を与えるか。

 実はサリーのパートだと、私はサリーより船長のハーパーが気になった。

 これが見事にオーガスティンと対照的な人で、選ばれるべくして選ばれたリーダーなんだな。プロフェッショナルな意識こそ共通しているものの、生まれも育ちも考え方も違う多国籍のメンバーを率い、通信途絶という危機にありながら、なんとかチームとして機能させようとする彼の努力は、涙ぐましくさえある。

 50年代のSFだったら、間違いなく彼が主人公になってサバイバル劇で大活躍していただろう。ここでも、背景となる舞台が大きな効果をもたらしている。

 人里離れているという点ではオーガスティンのいる北極圏と似ているが、こちらは板子一枚じゃなかった船殻を隔てた向こうは真空の宇宙。オーガスティンの周囲にはクマやオオカミが姿を見せるが、宇宙じゃ生命を思わせるものは何もなく、気配といえば木星圏からロボットが送ってくるデータだけ。

 宇宙にいるので家族や友人に会えない寂しさはあるが、ちょっと頭を回せばすぐそばに見慣れた、どころか息苦しいほどに見飽きたクルーがいる。それまでは明るい雰囲気だったのが、通信の途絶が長引くにつれ…。こっちのパートだと、別の事故で再び雰囲気が一変するところでニヤニヤしちゃったり。

 終末を迎えるなら、サリーとオーガスティン、どっちの立場に居たいだろうか。私はオーガスティンの方がいいなあ。

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2019年10月21日 (月)

コリン・エヴァンス「不完全犯罪ファイル2 最新科学捜査が挑んだ88の殺人・凶悪事件」明石書店 藤田真利子訳

全国火災データセンターが発表した数字によると、アメリカでは毎年ほぼ200万件の火災が起きている。そのうちおよそ1/4が故意の火災である。(略)放火の動機には通常三つの種類がある。保険金詐欺、復讐、窃盗や殺人など他の反抗の隠蔽である。
  ――放火

銃身を作るのに使われる工具は刻々と磨り減るので、どの銃にも同じ線条をつけるのは不可能である。
  ――弾道学

燃えるときに出すエネルギーは物によって違う。(略)その大きさの洗濯物が出すエネルギーを176キロワットと算出した。(略)炎の最大の高さを算出できる。この事例ではちょうど75cm(略)。しかし、衣類の山に(略)ガソリンをかければとたんに1300キロワットのエネルギーが生み出され、空中に4mの炎を吹き上げる。
  ――クレゴリー・ブラウンとダーリーン・バックナー事件

LE(弱火薬)に殺傷力を与えるのは容器なのだ。(略)最大の損傷を与えるのは秒速900mで外側に進行する衝撃波である。
TNT(トリニトロトルエン)、ダイナマイト、PETN(四硝酸ペンタエリトール)のような高性能爆薬は(略)爆発の速さは秒速6000mにものぼり…
  ――爆発物

復顔の技術には9000年以上の歴史があることを示す証拠がある。1953年にジェリコで発見された紀元前7500年の頭蓋骨は、石膏で肉付けされ、眼窩には貝殻がはめ込まれて目の代わりになっていた。
  ――復顔

「ヘレナがお墓の中から犯人を指差している」
  ――デイヴィッド・フレディアーニ事件

織物のいたんだ部分も繊維を落としやすい。たとえば、自動車が歩行者を轢いたとき、車体にはほぼ確実に衣服からの繊維がついている。
  ――毛髪と繊維

ヴァッサー大学文学部教授ドナルド・フォスター「人間はみな自分の言葉の囚人なのだ」
  ――シオドア・カジンスキー事件

指紋は別かもしれないが、拡大レンズは他の法医学の道具のなかで最も大勢の犯罪者を監獄に送り込んでいる。
  ――顕微鏡

シアン化水素の存在を臭いでわかるかどうかは遺伝的な能力で、40%の人だけに限られている。
  ――リチャード・オヴァートン事件

二人の試験者に(嘘発見器の)同一の結果を渡して解釈させると、(略)二人が正反対の結論を出すことがある。
  ――嘘発見器(ポリグラフ)

プロの殺し屋は、弾丸が貫通しないで被害者の体内に留まるように力を弱くした武器(弾丸)を選ぶということもある。
  ――ウドハム・シン事件

死体を探す典型的な方法は、T型の鉄の探り棒を持ち、地面に突き刺し、それを抜いて腐敗する肉の存在を示す匂いを嗅ぎ取る。
  ――クライド・スノウ

(科学者ジェームズ・)シューメーカーは(略)実験をしてみた。プロピオン酸の入っている血液を七つの研究所に送ってみたのである。おそろしいことに、三カ所までがそれをエチレングリコールと誤って判定した。
  ――パトリシア・ストーリングズ事件

歯の髄質は自然によって汚染されることがないため、最も豊かなDNA情報源となる。
  ――ダレン・ヴィカーズ事件

鋭錐石は自然の中に存在するが量は少なく、存在するのはぎざぎざの不規則な結晶の形である。
  ――ヴィンランドの地図事件

【どんな本?】

「不完全犯罪ファイル」の続編。

 銃で撃ち殺す。火で焼き殺す。ナイフで刺し殺す。ひもで絞め殺す。鈍器で殴り殺す。自動車で轢き殺す。毒を盛る。様々な殺し方があるが、犯人は何らかの形で被害者と接触する。そして接触すれば、どこかに痕跡を残す。

 血痕の形が分かれば、との時に被害者がどんな姿勢でどう動いたのかがわかる。銃創があれば、どんな角度でどれぐらいの距離で撃ったのかがわかる。指紋が決定的な証拠なのは、ミステリ・ファンでなくとも知っている。最近はDNA鑑定がこれに加わった。ひもや布も、繊維が残っていれば決定的な証拠となりうる。そればかりか、大量生産される工業製品さえ、根気よく調べれば「個性」が見つかる。

 物的証拠が犯人を突き止める決定的な証拠となった事件を多数紹介し、犯罪捜査における科学が果たす役割を明らかにするとともに、科学捜査の手法とその進歩に功績を残した人々を紹介し、科学捜査の歩みを記すミステリ・ファン必携の書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Murder Two : The Second Casebook of Forensic Detection, by Colin Evans, 2004。日本語版は2006年2月15日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組み約519頁。9ポイント46字×18行×519頁=約429,732字、400字詰め原稿用紙で約1,075枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。というか、あまり科学の話は出てこない。内容の多くは事件の概要や捜査や裁判の話で、科学の話は1/4~1/5ぐらいか。やはり凶悪犯罪が中心なので、グロが苦手な人には向かないかも。

【構成は?】

 それぞれ4~6頁の独立した記事からなるので、気になった所から拾い読みしてもいい。〇がついた記事は、科学捜査に功績があった人や、科学捜査で使われる手法の紹介で、ついていない記事は事件の紹介。

  • 謝辞/序文
  • ジョン・アラン事件
  • ロウエル・エイモス事件
  • 〇法人類学
  • トロイ・アームストロング事件
  • 〇放火
  • フランク・アトウッド事件
  • 〇検死
  • 〇マイケル・ベイデン 1939~
  • 〇弾道学
  • ロイ・ベック・ジュニア事件
  • 〇アルフォンス・ベルティヨン 1853~1914
  • 〇血痕分析
  • イボリットとリディ・ド・ボカルメ事件
  • ブース・ディリンジャー事件
  • 〇脳指紋
  • アール・ブラムブレット事件
  • クレゴリー・ブラウンとダーリーン・バックナー事件
  • エドウィン・ブッシュ事件
  • ブライアン・カルザコルト事件
  • スデュアート・キャンベル事件
  • 〇フランシス・カンプス 1905~1972
  • サー・ロジャー・ケイスメント日記事件
  • 〇クロマトグラフィ
  • 〇ロバート・チャーチル 1886~1958
  • ハドン・クラーク事件
  • マーティン・コルウェル事件
  • 〇検視官
  • フレデリック・クロウ事件
  • ジェームズ・ロバート・クルス事件
  • ジョーン・カーリー事件
  • 〇DNA鑑定
  • ハワード・エルキンズ事件
  • フレデリック・エメット=ダン事件
  • 〇法昆虫学
  • 〇爆発物
  • 〇復顔
  • 〇指紋
  • ジェイク・フリーグル事件
  • デイヴィッド・フレディアーニ事件
  • テリー・ギブス事件
  • 〇ジョン・グレイスター 1892~1971
  • ジョージ・グリーン事件
  • 〇ハンス・グロス 1847~1915
  • ジョージ・グァルトニー事件
  • ジョン・ヘイ事件
  • 〇毛髪と繊維
  • ジェームズ・ハンラッティ事件
  • ルイス・ハリー事件
  • エリック・ヘイデン事件
  • スティーヴン・ヘフリン事件
  • 〇エドワード・O・ハインリヒ 1881~1953
  • 〇ミルトン・ヘルバーン 1902~1977
  • 〇サー・エドワード・ヘンリー 1850~1931
  • ウィリアム・A・ハイタワー事件
  • デイヴィッドとジョイ・フッカー事件
  • ウィルバー・ハワード事件
  • アイスマン事件
  • マーク・ジャーマン事件
  • 〇サー・アレック・ジェフリーズ 1950~
  • クレイトン・ジョンソン事件
  • ブライアン・モーリス・ジョーンズ事件
  • シオドア・カジンスキー事件
  • ジーン・カイデル事件
  • ロジャー・キビー事件
  • 〇ナイフの傷
  • 〇アレクサンドル・ラカサーニュ 1843~1924
  • カセム・ラシャール事件
  • マリー・ラファルジュ事件
  • アンジェロ・ジョン・ラマルカ事件
  • 〇ヘンリー・リー 1938~
  • エドワード・レオンスキー事件
  • 〇エドモン・ロカール 1877~1966
  • ジョージ・マッケイ事件
  • エルマー・マカーディ事件
  • デイヴィッド・マイヤーホファー事件
  • 〇顕微鏡
  • デイヴィッド・ミドルトン事件
  • ウォルター・リーロイ・ムーディ・ジュニア事件
  • モルモン遺言書事件
  • アール・モリス事件
  • ケヴィン・モリソン事件
  • 〇中性子放射化分析
  • 〇トーマス・ノグチ 1927~
  • 〇チャールズ・ノリス 1867~1935
  • 〇法歯学
  • リチャード・オヴァートン事件
  • スタンリー・パトレクとジョゼフ・ステブカ事件
  • ライザ・ベン事件
  • サムソン・ペレーラ事件
  • ペルシャ・ミイラ事件
  • チャーリー・フィリップス事件
  • フォーンマスターズ事件
  • 〇アラン・ピンカートン 1819~1884
  • ウィリアム・ポドモア事件
  • 〇嘘発見器(ポリグラフ)
  • エドモン・ド・ラ・ポムレ事件
  • 〇心理プロファイリング
  • 〇不審文書
  • デニス・ラーゾとスティ-ヴン・アッツォリーニ事件
  • ジェームズ・ロバートソン事件
  • キース・ローズ事件
  • ダーリー・ルーティエ事件
  • スティーヴン・シャー事件
  • ジョン・シュニーバーガー事件
  • 〇血清学
  • ロジャー・セヴァーズ事件
  • 〇キース・シンプソン 1907~1985
  • ポーラ・シムズ事件
  • ウドハム・シン事件
  • デヴフック・シヴリ事件
  • デニス・スモーリー事件
  • 〇サー・シドニー・スミス 1883~1969
  • 〇クライド・スノウ 1928~
  • ディモシー・スペンサー事件
  • 〇サー・バーナード・スピルズベリー 1877~1947
  • サー・リー・スタック襲撃事件
  • バーバラ・ステイガー事件
  • パトリシア・ストーリングズ事件
  • 〇ケニス・スターズ 1931~
  • 〇オーギュスト・アンブロワーズ・タルディユー 1818~1879
  • 〇チャールズ・アンソニー・テイラー 1885~1965
  • エリック・テツナー事件
  • シャルル=ルイ・テオバル事件
  • 〇死後経過時間
  • 〇毒物学
  • ジャック・ウンターヴェーガー事件
  • ヴィレム・ファン・リー事件
  • ダレン・ヴィカーズ事件
  • 〇フランソワ=ユ-ジェーヌ・ヴィドック事件 1775~1857
  • ヴィンランドの地図事件
  • 〇声紋
  • アルバート・ウォーカー事件
  • 〇デルバート・ウィード事件
  • 〇シリル・ウェクト 1931~
  • レイモンド・ホワイト事件
  • グスタフ・ウィルソン事件
  • ポール・ウルフ事件
  • ウィリアム・ザフ事件
  • 法医学の歩み/索引

【感想は?】

 事例としては、やはり殺人事件が多い。そのため、全体的に殺伐とした雰囲気が漂っている。

 まあ、仕方がないかな、とも思う。なにせ警察も忙しい。どの事件も、捜査にはやたら手間がかかってる。それは科学的な分析だけじゃない。現場から証拠物件を探したり、物件の製造・流通ルートを探ったり、そういった「足で調べる」類の捜査で、大勢の警官が動いている事例が多いからだ。

 だもんで、本書が扱うのも、いわゆる重大事件が中心となる。例えばハドン・クラーク事件では、ヘアブラシから見つかった、たった一本のかつらの繊維が、犯人を追い詰めてゆく。これを証拠とする科学の手法以上に、たった一本の繊維が重要な証拠となると見抜いた捜査員の手腕も凄い。

 髪といえば、ジョーン・カーリー事件も印象深い。ここでは髪の毛からタリウムを盛られた時期を特定した時期を明らかにする。

人間の髪の毛は毒による悪事の驚くべきバロメーターなのだ。人体内にある毒物は髪の毛の中に移動する。髪はかなり一定の割合で成長するので(およそ2.7日に1mm)、毒物がいつ摂取されたかをおおまかなグラフにすることができる。
  ――ジョーン・カーリー事件

 そんなワケで、髪は大事なのだ。私も残った少ない髪をせいぜい大切にしよう。ああ切ない。

 生物的な証拠としては、指紋とDNAが双璧だろう。他にも「死体につく虫が犯人を告げる」ではウジが活躍した。花粉が現場を示すこともある。死体を水中に捨てても…

顕微鏡検査によって、(被害者の体についていた)藻にははっきりと二つの世代があることがわかった。今年生えてきた新鮮な藻と、去年の死んだ藻である。つまり、死体は少なくとも18カ月は水中にあったということだ。
  ――ウィルバー・ハワード事件

 と、藻が死体の経歴を明らかにしたり。

 私が驚いたのは、大量生産の権化でもあるビニール袋にさえ、その気になれば「個性」を見つけられる、ということ。「ポーラ・シムズ事件」では、ビニールのゴミ袋からアシがついた。ゴミ袋は一日に100万mも作られ、どれもこれも同じように見える。だが、顕微鏡で調べれば、違いが見つかるのだ。コンクリートだって…

コンクリートは砂とセメントと水と骨材をいっしょにして型に入れて作られる。乾くと、その混合比によって独特のパターンができる。
  ――マーク・ジャーマン事件

 と、素材の比率を調べれば、出所は判ったり。

 全般的に殺伐とした事件が多い中で、息抜きになりそう、と思ったのがペルシャ・ミイラ事件。

「わたしはクセルクセス王の娘、ローデュギューネ」
  ――ペルシャ・ミイラ事件

 パキスタンのカラチで、紀元前五世紀のペルシャ帝国の王クセルクセス(→Wikipedia)の娘ローデュギューネのミイラが見つかった、なんて話だ。紀元前五世紀当時、ミイラ技術はエジプトにしかないはず。ミイラが本物なら、ペルシャにも技術が伝わっていたか、王女がエジプトで死んだかだ。いずれにせよ、歴史の通説は大きく揺らぐ。ところが…。

 物騒なネタが多い中で、こういった贋作事件は、やはり気分転換になる。中でも印象深いのが、モルモン遺言書事件だ。前の巻でも出てきた変わり者の大富豪ハワード・ヒューズは、亡き後も世間を騒がせる。遺産を巡り人々が騒ぎ駆けずり回る中、彼の自筆の遺言書がモルモン教の本部に届いたのだ。果たして…って、改めて読むと、かなりお粗末な手口だけどw

 偽造事件としては、ヴィンランドの地図事件の方がよほど洗練されている。時は1965年、1440年ごろに書かれたと思われる地図が見つかる。そこには大西洋西部にヴィニランダ・インスラことヴィンランドが書かれていた。用紙の仔牛皮紙は1434年ごろのもの、付属の文書は中世ラテン語。しかし…

 前巻同様、事件物として面白い記事が盛りだくさんだ。ただ、それぞれの事件のタイトルで、少し損をしているのも、前巻と同じ。例えばブース・ディリンジャー事件は、エイブラハム・リンカーン暗殺事件で使われた銃をめぐる話だし、シオドア・カジンスキー事件は、かの有名なユナボマーの記事だ。

 進歩の速い現代科学の世界で2004年の作品というのはいささか残念だが、それでも科学が犯罪捜査にどれほど役立つかは充分に伝わってくる。また、こういった手法が未発達な昔を想像すると、うすら寒い気分になるし、「検視官」のようにその懸念を裏付ける記事もある。「小さな塵の大きな不思議」とかを読むと、未来の犯罪捜査にまで妄想が広がって、眠れなくなったり。

 そこまで妄想を働かせなくとも、犯罪の事例集として野次馬根性で読んでも充分に楽しめるので、気軽に手に取ってみよう。

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2019年10月17日 (木)

コリン・エヴァンス「不完全犯罪ファイル 科学が暴いた100の難事件」明石書店 藤田真利子訳

本書は、現代の犯罪捜査における科学の役割を確立するのに重要な役割を果たした百件の犯罪を世界中から集め、事件の簡潔で正確な要約を通して科学捜査の進歩の跡をたどろうとするものである。
  ――序文

死体を発見したら、三つの質問に答えなければならない。被害者は誰か? 死後どの程度の時間が経過したか? 何が原因で死んだのか?
  ――2 死因

刑務所は「完全殺人」を犯した人々でいっぱいである。
  ――2 死因

爆弾のかなりの部分は爆発後もそのまま残っている。
  ――5 爆発物と火事

一人一人の指紋が違うということは、古代中国やバビロニア文明の時代から知られていた…
  ――6 指紋

指紋の耐久性についてはよく知られている。エジプトのミイラからも、無傷の指紋が見つかっている。
  ――6 指紋

人体の組織のうちで死後も変質しにくいのが歯だ。
  ――8 法医学

殺人事件の犠牲者の大半は顔見知りによって殺害されている…
  ――10 死体の個人識別

血清学の進歩によって今や三百種類の血液型識別法が可能になっている
  ――11 血清学

人が死んでからどれくらい時間がたっているかを知る伝統的な指標は、死後硬直、死斑(または血液沈滞)、死体の体温の三つである。(略)このうちのどれを根拠にしても、確実な死亡時刻は割り出せない。この三つは、周囲の温度、身体の状態、運動、酒、薬など、様々な要素によって早くなったり遅くなったりする。
  ――12 死亡時刻

17世紀までには、裕福な家ではプロの毒殺者を雇うのが日常茶飯事になっていたし、お家騒動を落着させるためにヨーロッパの王室が毒殺者を使うことも珍しくなかった。
  ――13 毒物学

1989年には、合衆国で18,954件の殺人事件があったが、その中で毒物を用いたケースはわずか28件だった。
  ――13 毒物学

中性子放射化合分析(NAA,→Wikipedia)とは、試料を(略)原子炉に挿入して、中性子で衝撃を与え、放射性にする(略)。放射性原子が崩壊する速度を計ることによって、試料に含まれる微量元素を識別することができる。
  ――14 痕跡証拠

【どんな本?】

 犯罪の捜査で物的証拠を掴むには、その時々の最新の科学が動員される。最も王道とされるのは指紋だろう。70年代のミステリでは血液型が多く登場したが、今はDNA鑑定にその座を譲った。最近では、ごくわずかな繊維でも重要な証拠となる。

 本書は、弾道学・毒物・犯罪心理分析・声紋などの技術ごとに、18世紀半ばから1990年代初頭までの事件を例に、それぞれの技術に何が出来るか・どのように発達したか・どう捜査で使われ法廷で認められるようになったかを示し、科学捜査の進歩と発達の歴史を辿ってゆく。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Casebook of Forensic Detection : How Science Solved 100 of the World's Most Baffling Crimes, by Colin Evans, 1996。日本語版は2000年9月20日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約504頁。9ポイント45字×18行×504頁=約408,240字、400字詰め原稿用紙で約1,021枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれている。内容も分かりやすい。というのも、実はあまり科学には踏み込んでいないのだ。むしろ犯罪と捜査の実例集として面白い。

【構成は?】

 それぞれの技術ごとに、古い事件から新しい事件の順に並んでいる。各事例は4~6頁程度で、それぞれ独立した記事なので、気になった事例を拾い読みしてもいい。

  • 序文
  • 1 弾道学
    チャールズ・スティーロウ事件/サッコとヴァンゼッティ事件/ブラウンとケネディ事件/ジョン・ブレイニオン事件/ジョゼフ・クリストファー事件/ジェームズ・ミッチェル事件
  • 2 死因
    ノーマン・ソーン事件/デイヴィッド・マーシャル事件/ジェームズ・キャム事件/ケニス・バーロウ事件/カール・コッポリーノ事件/リチャード・カクリンスキー事件
  • 3 書類鑑定
    ジョン・マグヌソン事件/アアーサー・ペリー事件/ヒトラーの日記事件/グレアム・バックハウス事件
  • 4 DNAタイピング
    ロマノフ家事件/コリン・ピッチフォーク事件/カーク・ブラッズワース事件/ロミー・リー・アンドリュース事件/イアン・シムズ事件
  • 5 爆発物と火事
    フレデリック・スモール事件/チャールズ・シュワーツ事件/シドニー・フォックス事件/ジョン・グラハム事件/スティーブン・ベンソン事件/パンナム103便事件
  • 6 指紋
    フランセスカ・ロハス事件/ストラットン兄弟事件/トーマス・ジェニングス事件/ウィリアム・バーガー事件/ケリー団事件/エドワード・モリー事件/ピーター・グリフィス事件/ジョージ・ロス事件/ヴァレリアン・トリファ事件/リチャード・ラムレス事件/ステラ・ニッケル事件
  • 7 法人類学
    ミシェル・エロー事件/アドルフ・ラトガート事件/ジョージ・ショットン事件/ウィリアム・ベイリー事件/ジョン・ウェイン・ゲイシー事件/ヨーゼフ・メンゲレ事件/ジョン・リスト事件
  • 8 法歯学
    ジョン・ウェブスター事件/ハリー・ドブキン事件/ゴードン・ヘイ事件/セオドア・バンディ事件/カーマイン・カラブロ事件
  • 9 犯罪心理分析
    ジョージ・メテスキー事件/リチャード・チェイス事件/ジョン・ダフィ事件
  • 10 死体の個人識別
    ソーンとナック事件/パトリック・ヒギンズ事件/ハンス・シュミット事件/エドワード・ケラー事件/ベッカーとノーキン事件/パトリック・マホン事件/ヘンリー・コリン・キャンベル事件/パトリック・ブレイディ事件/バック・ラックストン事件/アーサー・エガース事件/リチャード・クラフツ事件
  • 11 血清学
    ピエール・ヴォワルボ事件/ルードヴィッヒ・テスノウ事件/ジェシー・ワトキンズ事件/ジャニー・ドナルド事件/ジョゼフ・ウィリアムズ事件/W・トーマス・ジーグラー・ジュニア事件/アーサー・ハッチスン事件
  • 12 死亡時刻
    ジェームズとシャック事件/アニバル・アルモドバル事件/スティーブン・トラスコット事件/ウィリアム・ジェニングズ事件/デイヴィッド・ヘンドリクス事件
  • 13 毒物学
    メアリー・ブランディ事件/チャールズ・ホール事件/ロバート・ブキャナン事件/エヴァ・ラブレン事件/ジョン・アームストロング事件/ゲオルギ・マルコフ事件
  • 14 痕跡証拠
    ウィリアム・ドー事件/コリン・ロス事件/ドートルマン兄弟事件/ブルーノ・ハウプトマン事件/ジョン・フィオレンツァ事件/サミュエル・モーガン事件/ジョン・ヴォルマン事件/チェスター・ウェーガー事件/スティーブン・ブラッドリー事件/ロジャー・ペイン事件/ジェフリー・マクドナルド事件/ライオネル・ウィリアムズ事件/ウェイン・ウィリアムズ事件/ジョン・ジューバート事件/マルコム・フェアリー事件
  • 15 声紋
    クリフォード・アーヴィング事件/ブライアン・フッソン事件/ジミー・ウェイン・グレン事件
  • 付録 法医学の先駆者たちと代表的事件
  • 索引

【感想は?】

 科学というより、事件物として面白い。

 有名な事件も扱ってるんだが、素人は目次じゃわからなかったりする。例えばセオドア・バンディ事件。世間じゃテッド・バンディ(→Wikipedia)の名で通っている。同様にブルーノ・ハウプトマン事件は、リンドバーグ長男誘拐事件(→Wikipedia)だ。

 このリンドバーグ長男誘拐事件では、犯人が残した手製のはしごが重要な証拠物件の一つとなる。これの材料の木はもちろん、仕上げに使った「ベルト駆動式かんな盤」まで、科学捜査が特定した。だが、科学にできるのはここまで。その後、各地の製材所に問い合わせ、木材のルートを突き止めるのは、しらみつぶしの捜査によるもの。科学は役に立つけど、最終的なケリは従来通りの地道な捜査だったりする。

 心理分析も、ちょっと前に話題になった。最初のジョージ・メテスキー事件では、見事に犯人像を予言してみせる。

「逮捕のときには、(犯人は)ダブルのスーツを、ボタンをかけて着ているだろう」
  ――9 犯罪心理分析

 他にも多くの特徴をあげている。40~50代の男で偏執病、内向的で均整の取れた体、きれい好きで身なりもいい。高学歴だが米国育ちじゃないスラブ系。熟練の機械工で女に関心がなく信心深い…。いずれもちゃんと根拠があったりする。とはいえ、意外とネタは月並みで。

犯罪心理分析の核となるのは、犯罪統計学に対する完璧な知識である。
  ――9 犯罪心理分析

 例えば、暴行殺人は同じ人種間で多い。白人は白人を襲い、黒人は黒人を襲う。また暴行殺人の多くは若い男だ。なんのことはない、ベテラン刑事が経験を積んで身に着けるカンを、統計で裏付けたのが犯罪心理分析なのだ。

 殺伐とした事件が多い中、本好きのニワカ軍ヲタとして目を惹かれたのが、「ヒトラーの日記事件」。1981年2月、ドイツの大手出版社グルーナー・ウント・ヤールに、お宝らしき物が持ち込まれる。

(略)ほとんど読めない字でドイツ語で書かれていたその原稿は、出版界における今世紀最大の掘り出し物だった。ヒトラーの日記である。
  ――3 書類鑑定

 お宝を持ち込んだゲルト・ハイデマンは、約200万ドルを要求する。本物なら、確かにそれぐらいの価値はあるだろう。なんたって20世紀ドイツ最高の有名人だし。とはいえ、いかにも怪しげだ。だから本物かどうか確かめなきゃいけない。そこで、有名な筆跡鑑定の専門家オードウェイ・ヒルトンに真贋判定を頼む。ヒルトンの鑑定結果は…「本物」。

 残念ながら、後の調査で日記は偽物とバレる。紙の漂白剤は1954年以降のもの、紋章の糸はポリエステルで工業化されたのは1953年(→Wikipedia)、インクも戦後のもの。

 実はヒルトンが間違ったのには、ちゃんと理由がある。まず「ヒルトンはドイツ語をまったく理解」しなかった。それより切ないことに、本物のヒトラーの手書きサンプルとして渡されたブツも、「日誌と出所が同じ」だったのだ。そりゃ間違えるよ。

 やはり歴史好きの血を騒がせるのが、「ロマノフ家事件」。そう、スリラーやミステリの定番、ロシア最後の皇帝ニコライ二世とその家族、特に伝説の主役となりがちな皇女アナスタシアの真実を突き止めた話。ここでは現代の犯罪捜査の切り札DNA鑑定が大活躍する。

 時は1991年、場所はエカテリンブルク近くの沼の多い牧草地。見つかったのは骨だけだが、ミトコンドリアDNAの鑑定で本物と結論が出てしまう。いけず。とはいえ、これからも、作家は色々な抜け道を考え出すんだろうなあ。

 などと活躍するDNA鑑定は、真犯人を突き止めるだけでなく…

ブラッズワース釈放の際(1993年6月28日)に、全米刑事弁護人教会DNA作業会会長のピーター・ニューフェルド氏は、これまでに10人前後の在監者がDNA鑑定の結果釈放された、と述べた。
  ――4 DNAタイピング

 と、無実の人の潔白を証明するのにも一役買っているのが嬉しい。日本にもDNA鑑定を望む在監者はいるんだろうなあ。

 この本ではアメリカとイギリスの例が中心だ。向こうは土葬が多いためか、墓を掘り返す話もよく出てくる。こういうのを読むと、日本の火葬も善し悪しに思えてくる。特に犯罪被害者は、犯人が明らかになるまで保存した方がいいかも。

 遺体の調査で凄いのが、「チャールズ・ホール事件」。1871年の事件の真相を、ほぼ一世紀後の1968年に解き明かしたケースだ。

 1871年、合衆国の支援を受け蒸気引船ポラリス号が北極探査に出かけるが、グリーンランドで越冬する羽目になる。船長チャールズ・フランシス・ホールは船医のエミール・ベッセルスと折り合いが悪かった。1871年11月、船長ホールは昏睡状態に陥り亡くなり、凍った岸辺に葬られる。

 当時からベッセルスによる毒殺の疑いはあった。再調査が行われたのは約一世紀後の1968年。調査隊が送られ、彼の遺体が見つかる。「遺体の保存状態は驚くほどよく」「眼孔が空洞になっていたことと鼻の先端が萎んでいたことを除けば顔は無事」というから、さすが永久凍土。さて、彼の遺体から検出されたのは…

 どの事件も科学技術を使っているのは共通しているが、それと共に現場で集めた小さなサンプル、例えば繊維の切れ端や自動車の塗装片などが重要な手掛かりになるケースも多い。科学は発達しても、刑事さんたちの地道な努力が必要な事に変わりはないようだ。何せ大量の事件を収録しているので、ミステリ作家のアンチョコとしてもやたら便利だろう。

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2019年10月14日 (月)

ウィリアム・ギャディス「JR」国書刊行会 木原善彦訳

…この読書体験は、喫茶店や電車で隣に座った人たちの会話を聞いてその背景にある人間関係と出来事を想像するのに似ている。
  ――訳者あとがき

――先生が自分のお金は自分のために働かせなさいって言ったら、おまえは先生に言い返してやるんだ。コツは他人のお金を自分のために働かせることだってな、分かるか?
  ――p148

…こっちが話していることをまったく別の世界に当てはめようとしているみたいな感じ。
  ――p314

…君はただ、嘘をつく相手が欲しいだけなんだ。
  ――p440

…ルールも知らんやつが乗り込んできて、みんなのゲームを台無しにするパターンだな。
  ――p533

…単語一つで話が済むところに二十個の単語を使うのが弁護士だからな。
  ――p635

「目的地に着くまでが楽しいのだ」
  ――p674

――彼は今日のアメリカを作り上げた伝統的な思想と価値観にその身をささげている
  ――p802

新聞は不幸な記事だらけ、人の不幸を読めば誰でも元気が出る
  ――p824

【どんな本?】

 アメリカの作家ウィリアム・ギャディスが1970年代に発表した、独特の文体による金融ブラックコメディ。

 文章の大半は会話で進む。ただしハッキリと話者は示さない。会話の内容も自然な発話に近く、言いよどみ・言い間違い・繰り返しなどを多く含む、独特の文章作法を押し通している。

 1970年代前半、ニューヨーク周辺。

 ゼネラル・ロール社の社長トマス・バストが亡くなった。彼の持っていた株と同社の経営権を巡り、残された者たちが動き出す。現在、主な株を持つのはトマスの姉アンとジュリア,トマスの兄ジェイムズ,ジェイムズの息子エドワード,トマスの娘ステラ・エンジェル,ステラの夫で同社の経営者ノーマン・エンジェル,そしてノーマンの元同僚ジャック・ギブズなどだ。台風の目玉は相続権のあるステラだが、状況次第ではエドワードにも相続権が生じる可能性がある。

 初等学校の校長と銀行の頭取を兼ねるホワイトバックは、今日も苦情の処理で忙しい。学内テレビは不調が続き、そのテレビが映す授業をめぐって住民からは苦情が殺到し、教師は何かといっては欠勤し、予算の確保と使い道では悶着が続き、学内ではヤバいブツが売り買いされている。

 JRは11歳。社会科見学でウォール街を見学した際に金融取引に興味を抱く。実習として学級の資金で買った株を元手として、陸軍放出のフォークを海軍に転売し稼いだのを手始めに、お人好しのエドワード・バストを抱き込んで次々とビジネスを仕掛けてゆくが…

 地口・シモネタ・勘ちがい・行き違い・ドタバタなどのギャグから、古典文学や流行歌などの引用をふんだんに盛り込み、ソープオペラ風の饒舌で突っ走る、ユニークかつクレイジーな巨大小説。

 2019年の第五回日本翻訳大賞受賞。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は J R, by William Gaddis, 1975, 1993。日本語版は2018年12月29日初版第1刷発行。私が読んだのは2019年2月1日の初版第2刷。単行本ハードカバー縦二段組み本文約872頁に加え、訳者あとがき10頁と訳注が豪華35頁。8.5ポイント28字×23行×2段×872頁=1,123,136字、400字詰め原稿用紙で約2,808枚。文庫なら5~6冊になる巨大容量。はい、鈍器です。

 ズバリ、とっても読みにくい。

 いや文章そのものはこなれているんだ。内容も特に専門知識は要らない。当時のアメリカの風俗や俗語が次々と出てくるけど、ひっかかりそうな所は訳注で補ってある。

 じゃ、なぜ読みにくいかというと、これは著者と訳者の企みによるもの。

 まず、背景の説明がほとんどない。文章の大半が会話だ。ただし、誰が喋っているのかは、ハッキリと示さない。誰の言葉かは、内容で読者が推し量る必要がある。

 それだけでもシンドいのに、話し手の大半が人の話なんざ聞いちゃいねえw 隙さえあれば、いや隙があろうとなかろうと、思いつけば人の話をさえぎって喋りだす。しかもその思いつきは相手が話しているテーマと全く関係ない。そのため、たいていの文章は尻切れトンボで終わるし、お喋りのテーマは次々と脱線していく。正直言ってこれはかなりイライラする。

 なんというか、この記事の最初の引用にあるように、「たまたま近くにいた人たちの会話を盗み聞きする」感じなのだ。一台のカメラ&マイクが拾った映像を文章に書き起こした、とでも思って欲しい。

 というのも、時系列は一直線だし、各時間での視点も一つだけ。視点が動く時は、いずれかの登場人物と共に動く、または電話の相手へと移るからだ。ちなみに電話での会話は、どちらか一方の喋りだけが書いてある。

 または、浮遊霊が次々と登場人物に乗り移って見聞きした話、を思い浮かべてもいい。そういう意味では、京極夏彦の「豆腐小僧」シリーズに似ているかも。いやもちろん、肝心の豆腐小僧などの妖怪は出てこない、または黙って記録を続けるカメラ&マイク役なんだけど。

 そんなワケで、読み始めはかなりシンドい。遠慮なく訳者あとがきから読もう。もちろん、豪華な訳註もとても役に立つ。というより、不注意な読者にとって、特に終盤での訳注は必須だ。大丈夫、大事なネタバレは避けた上で、重要な設定を説明し、なおかつ読む際の注意点を親切に教えてくれる。

 そうやって辛抱して読み進めていくと、次第にレンズのピントが合ってくるように、場面ごとの情景が次第にクッキリ見えてくる。ノーミソがこの小説に適応した、とでもいうか。私の場合、見えてきたのは400頁を越えたあたりだ。

 そんなんだから、心身ともに充分に調子を整え、じっくり腰を据えて挑もう。

【感想は?】

 ジョークの迷宮、とでもいうか。

 お話は、思いっきり黒く下品にした映画「チャンス」かな。何も知らない素人が株や債券や先物取引に手を出し、素人ならではのイカれたアイデアで成功を収め、周囲の大人たちが勘違いでキリキリ舞いすると同時に、政治・経済界に大混乱を引き起こす、そんな話だ。

 その素人役がタイトル・ロールのJR、11歳の少年、というよりクソガキと呼ぶのが相応しい。子供だとバレると困るので、姿を隠してアレコレと指示を出すのだが、彼が成功を収めるにつれ虚像も膨れ上がってゆく。

 とかの本筋はもちろん大笑いなんだが、むしろ重要なのは会話のアチコチに注意深く仕掛けられたギャグの数々だろう。

 序盤は罠を仕掛ける段階なので、あまり凝ったギャグはない。その分、語呂合わせの地口やお下劣かつ不謹慎なシモネタが満載だ。お下劣って点ではドリフターズの加藤茶を更に酷くした感じ(アンタもスキねえ、とか)だが、カトちゃんが多用する「間」がほとんどなく、テンポがやたらと速い。不謹慎とテンポって点ではビートたけしが二人いるツービートかも。いや例えが古くてごめん。

 とはいえ、ツービートはうなずき役のビートきよしが居たから漫才になってたわけで、ビートたけしが二人じゃギャグが完結しない。というか、客は笑い声をあげるタイミングを見失う。実際、この作品はそういう構成を取っていて、読者は自分で笑うタイミングを掴む必要がある。これは慣れるまでかなり苦労するんだが、そうするだけの価値はあります。

 もう一つビートたけしが二人で困るのは、双方が相手かまわず喋りまくる事だ。これも本書の性質そのままで、たいていの会話は綺麗に終わらない。誰もが相手の話が終わるのを待たずに口をはさみ、しかも相手の主題とは関係ない話題へと際限なく脱線してゆく。かなり我慢を強いられる構成だが、この脱線にも重要な意味(というかギャグの仕込み)があったりするから油断できない。

 加えて、誰が話しているのかは明確に示さないからタチが悪い。本人の名乗りがあれば親切な方で、会話中にある相手への呼び掛けや、ちょっとしたアイコンで読者が判断しなきゃいけない。例えば主人公のJRは、短い鉛筆,灰色地に黒のダイヤモンド柄のセーター,折り鞄,「やば(ホーリー)」などの口癖で識別するのだ。

 もっとも、中には他の者に成りすましたり、その場しのぎのデタラメをデッチあげる奴がいるので、これまた油断できないんだけど。ジャック・ギブス、お前のことだよ。

 人間ってのは不思議なもんで、そういった細かい所を注意深く読んでいると、なぜか次第にピントが合ってくる。先に書いたように、私は全体の半ば、400頁ほどもかかったけどw 

 そんな小説のどこが面白いのかというと、これが実に説明しにくい。なにせ仕掛けの大半がギャグなんで、ネタを明かしちゃったらギャグにならない。言えるのはせいぜいウンコ・オシッコなどガキが喜ぶ類の地口ぐらいで、JRが手がける事業の出鱈目さとその影響ときたら…。これは終盤のジョン・ケイツ知事の場面で、それまでに仕掛けた地雷が次々と炸裂し、ギャグが怒涛の如く押し寄せてくるので覚悟しよう。

 にしてもケイツ、トコトン嫌な奴ではあるが、相方のゾウナ・セルクはジョンに輪をかけてムカつく奴で。そりゃデレセレアも逃げ出すよ。彼女の逃げ方も、「そりゃそうだろうな」と思わずにはいられない。

 もう一つ、この文体には意外な効果がある。というのも、少しだけあるベッドシーンが案外とイケるのだ。ここは珍しく会話がなく情景描写だけなのだが、他と同様、ハッキリとナニがナニをしてるのか示さない。お陰で読者は思いっきり集中して想像力を駆使しなければならず、それが功を奏して場面を美味しくしたり。

 また、著者もあまり儲からない作家だったらしく、作中に登場する作家志望の人物や、その配偶者の話は、なんとも生々しくて泣けてくる。アイゲン夫妻の会話など、作家志望の人は胃がキリキリ痛むんじゃなかろか。

 否応なく読者に細心の注意を強いる構成で緻密に伏線を張りつつ、その伏線の先に待ち受けるのは、しょうもないギャグや真っ黒いジョーク。これを著した技巧には兜を脱ぐが、なにもギャグのためにそこまでせんでも、ってな気もする。間違いなく超ド級の問題作だが、その実体はマシンガン・トークのソープ・オペラやスラップスティックなわけで、この作品の存在そのものが文学に対する大掛かりなジョークなのかもしれない。

 あ、それと、言うまでもないけど、通勤列車で読むのには向きません。物理的にも、内容的にも。周囲から「変な人だ」と思われつつ筋トレしたいなら話は別だけど。

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2019年10月10日 (木)

ココログ:記事編集で余分な改行が入る→初期設定を通常エディタにする

 2019年3月のリニューアル以来、ココログは幾つものトラブルが続いている。中でも、プログラムのサンプルや番号付きリストに余計な改行が入るのには参った。新しく書く記事ばかりでなく、昔の記事を編集する際にも、勝手に空白行が入ってしまう。おかげで誤字脱字すら直せない。

 サポートにも報告したが、当面は直す気がないらしい。とまれ、一応の自衛策は教えてくれた。あまり万民向けとは言い難い方法だが、なんとか誤字脱字ぐらいは直せるようになったので、ここで書いておく。

【現象:概要】

 番号付きリストなどに、勝手に空白行が入って書き換わる。例えば以下のリストが…

ほんぶん

  1. foo
  2. bar

おわり

 このようになる。

ほんぶん

    1. foo

  1. bar

おわり

 番号なしリストや、整形済みテキストなどでも、エディタが勝手にHTMLタグを追加する。形が崩れるだけならともかく、番号付きリストだと意味まで変わってしまうので、使い物にならない。

【対策:概要】

 記事編集の初期設定を「通常エディタ」にする。その上で、リッチテキストは使わない。

【問題点】

 つまりですね。

 記事の編集は、リッチテキストだけを使うか、通常エディタだけを使うか、どっちかにしろ、という事です。両方を行き来するのは不許可である、と。自分で HTML タグを入れるなら常に 生HTML で書け、そうでなければココログが提供する HTML タグだけを使え、と。

 バリバリと HTML が書ける人ならいいけど、私のようにそうでない人には、かなり厳しい仕様だよなあ。もしくはホームページビルダーの類を使うとか。

【対策:詳細】

 と、そういう無茶な制限があります、と断ったうえで、記事編集の初期設定を「通常エディタ」にする方法を。

A01

1.ブログの「設定」をクリックする。
  →「ブログ詳細設定」画面に移る。
   *画像をクリックで拡大表示

A02

2.「表示方法」をクリックする。
  →「ブログの表示設定」画面に移る。
   *画像をクリックで拡大表示

A03

3.「記事とウェブページの初期設定」の「エディタ設定」を「通常エディタ」にする。
  「エディタ設定」は下の方にあるので、ずっとスクロールしてください。
  →「通常エディタ」ボタンの色が変わる。
   *画像をクリックで拡大表示

A04

4.「記事とウェブページの初期設定」の「保存」をクリックする。
  「保存」ボタンも下の方にあるので、ずっとスクロールしてください。
   *画像をクリックで拡大表示

 これで、次から記事の編集画面を開いたら、通常エディタで開きます。余計な空白行も入りません。

【参考資料】

【現象:詳細】

 今の所、四つの不具合に突き当たった。番号付きリスト・番号なしリスト・整形済みテキスト・ブロック区切り=<div>。以下にサンプルを示す。

1.番号付きリスト

 元の表示結果

ほんぶん

  1. foo
  2. bar

おわり

 元の HTML

<p>ほんぶん</p>
<ol>
<li>foo</li>

<li>bar</li>
</ol>
<p>おわり</p>

 これをリッチテキストで開くと…

ほんぶん

    1. foo

  1. bar

おわり

 そのHTMLは、こんな感じ。

<p>ほんぶん</p>
<ol>
<ol>
<li>foo</li>
</ol>
</ol>
<p> </p>
<ol>
<li>bar</li>
</ol>
<p>おわり</p>
<p> </p>

2.番号なしリスト:style= を指定すると崩れる。

 元の表示結果

てすと

てきすと

 元の HTML

<p>てすと</p>
<ul style="margin-left: 2em; padding: 0pt;">
<li>1</li>
<li>2</li>
</ul>
<p>てきすと</p>

 これをリッチテキストで開くと、勝手に改行が入る。ちとこのサンプルは判りづらいけど、HTML で見て欲しい。

てすと

てきすと

 そのHTMLは、こんな感じ。余計な段落や改行が勝手に入ってしまう。

<p>てすと</p>
<p> </p>
<ul style="margin-left: 2em; padding: 0pt;">
<li>1</li>
<li>2</li>
</ul>
<p>てきすと</p>
<p> </p>

3.整形済みテキスト

 元の表示結果

foo
bar

 元の HTML

<pre>foo
bar</pre>

 これをリッチテキストで開くと…

foo
bar

 そのHTMLは、こんな感じ。

<pre>foo<br />
bar</pre>

4.ブロック区切り=<div>

 元の表示結果

divてすと2はじめ

いち

divてすと2終わり

 元の HTML

<p>divてすと2はじめ</p>
<div style="font-size: 0.9em; display: flex; flex-wrap: wrap;">
<div style="padding-left: 1em; max-width: 20em;">
いち
</div>
<div style="padding-left: 1em; max-width: 20em;">

</div>
</div>
<p>divてすと2終わり</p>

 これをリッチテキストで開くと、「いち」の前に空白行が入る。

divてすと2はじめ



いち

divてすと2終わり

 そのHTMLは、こんな感じ。

<p>divてすと2はじめ</p>
<div style="font-size: 0.9em; display: flex; flex-wrap: wrap;"><br />
<div style="padding-left: 1em; max-width: 20em;"><br />いち</div>
<div style="padding-left: 1em; max-width: 20em;"><br />に</div>
</div>
<p>divてすと2終わり</p>

【おわりに:考察】

 現在わかっている範囲では、どうやら私が挿入したHTMLタグ(=リッチテキスト・エディタが挿入したのではないHTMLタグ)がお気に召さないみたい。「あんたなんか、アタシの言うとおりにしてりゃいいのよ!」ってわけ。わがままな奴だ。

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2019年10月 6日 (日)

ペートル・ベックマン「πの歴史」ちくま学芸文庫 田尾陽一・清水韶光訳

ユークリッドは幾何学の父ではなく、数学的厳密性の父なのである。
  ――第4章 ユークリッド

ローマは、組織された強盗集団の最初の国でも最後の国でもない。しかし、後の時代の世界中のほとんどの人々をだまして、称賛するようにしむけた点では、唯一の国である。
  ――第5章 ローマという名のペスト

<背理法>というのは、今日までにひろく知られた証明法であるが欠点がひとつある。それは、否定すべきあやまった結論を知るには、まえもって正しい結果を知っていなければならないということである。
  ――第6章 シラクサのアルキメデス

連分数は、現在“失われた数学”の分野に属する。
  ――第12章 突破への序曲

彼(ニュートン)の方法を使うと関数やその積分、微分も無限級数に展開することができる。
  ――第13章 ニュートン

オイラーが(偶然なのだが)πと結びついた問題を徹底的にとりあつかってしまったので、彼の後に、πの計算をするもっとよい方法を見つけた人は、誰もいなかった。
  ――第14章 オイラー

…超越数が存在するとして、それらはなぜ関心をひくのだろうか。その答えは、超越数が多くの興味ある性質を持っているということであり、またもっというと、πの超越性が、昔からの問題である、円を正方形にすることの可能性について、解答をただちに与えるからである。
  ――第16章 超越数π<

コンパスと定規だけしか使えないときには、直線と円しか描けない(これらの方程式は、たかだか2次の代数方程式である)。
  ――第16章 超越数π<

【どんな本?】

 π。円周率。3.14159…。円周の長さを直径で割った数値。今では無理数、それも超越数(→Wikipedia)だと判っているが、かつては 3+1/7 や 3+17/120 などとしていた。

 人類は、いかにして正確なπの値へと迫っていったのか。様々な文明は、どんな値を当てはめていたのか。その数値は、どんな性質を持っているのか。そして、その性質は、数学にどんな変化をもたらしたのか。

 電気工学者である著者が、独特の歴史観を全面的に押し出し、容赦ない毒舌をまぶしながら語る、個性あふれる一般向けの数学史。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は A History of π, by Petr Beckmann, 1971。日本語版は1973年9月29日に蒼樹書房より刊行、2006年4月10日にちくま学芸文庫より文庫版発行。私が読んだのは2006年5月20日発行の第二刷。文庫本で横一段組み本文約305頁に加え、訳者あとがき3頁+文庫版あとがき1頁。8.5ポイント26字×25行×305頁=198,250字、400字詰め原稿用紙で約496枚。文庫本としては普通の厚さ。

 数学の本のわりに文章はこなれている。内容は、読み方によりけり。というのも、やはり数学の本だから、数式はしょっちゅう出てくる。が、これを完全に読み飛ばしても、実は構わない。そういう読み方をすれば、数学が苦手でも、歴史の本として楽しめる。というか、私は読み飛ばした。ただし、超越数については知っていた方がいい。真面目に数式に取り組むなら、三角関数・微分・級数展開ぐらいは使いこなせないと厳しい。

というか、πを求めるのに三角関数を使うのは反則だと思うんだが、どうなのよ←負け惜しみです

【構成は?】

 各章はほぼ独立している。歴史の本として数式を飛ばして読む、または数学が得意なら、気になった所だけを拾い読みしてもい。数式を含めて読むなら、相応の覚悟が必要。悪いことは言わない。数式が出てきて「なんか難しそうだなあ」と思ったら、無理しないで読み飛ばそう。繰り返すが、私は数式を読み飛ばした。

  • まえがき
  • 第二版へのまえがき
  • 第三版へのまえがき
  • 第1章 夜明け
  • 第2章 ベルト地帯
  • 第3章 古代ギリシャ人
  • 第4章 ユークリッド
  • 第5章 ローマという名のペスト
  • 第6章 シラクサのアルキメデス
  • 第7章 たそがれ時代
  • 第8章 暗黒時代
  • 第9章 めざめ
  • 第10章 数の狩人たち
  • 第11章 さいごのアルキメデス学派
  • 第12章 突破への序曲
  • 第13章 ニュートン
  • 第14章 オイラー
  • 第15章 モンテ・カルロ法
  • 第16章 超越数π
  • 第17章 現代の正方形屋たち
  • 第18章 コンピュータ時代
  • 原註/訳註/参考文献/年代表/訳者あとがき/文庫版あとがき

【感想は?】

 歴史観は人それぞれだ。それぞれだが、個性が強いほど、断言する文章が多くなり、本としては爽快で楽しい。

 そして、この本には著者の独特の歴史観が強く出ている。だから、気が合う人には、とっても楽しい本だ。では、どんな歴史感か。

 著者は1924年のプラハ生まれだ。そのためか、西欧中心の歴史観に反感を持っていて、本書にはアステカや日本の話題も出てくる。また、ナチスやソ連に踏みにじられた歴史からか、全体主義に強く反発する。加えて工学者だ。当然、数学の恩恵を大きく受けているから、数学や科学が大好きだ。そして、母国の歴史も相まってか、政治力や軍事力のゴリ押しが大嫌いだ。

 この視点がよくわかるのが、人物や文明への評価だろう。ユークリッドやアルキメデスを高く評価するのは、まあ常識的なところ。ところが、アリストテレスは「2000年近くも科学の進歩を封じてしまった」とこき下ろす。自らの手で実験をせず、脳内で考えをもてあそんだのが気に入らないのだ。

 更に強烈なのが、ローマ帝国への評価で、まるしき強盗団扱いである。まあ、ローマの支配下じゃ理論はほとんど進歩せず、土木などの応用技術だけが進んだから、そういう事だろう。パックス・ロマーナに対しては、「チャーチルが邪魔しなきゃパックス・ジャーマニカが成ったぜ」って、某漫才コンビも真っ青な毒舌ぶりだw

 さて。主題のπだが、これは自然数でもなければ有理数でもない。超越数(→Wikipedia)だ。超越数を私なりに大雑把な説明をすると…

  • 有理数:整数と加減乗除の組み合わせで表せる実数(=虚数部はなし)。
  • 無理数:有理数ではない実数(=虚数部はなし)。
  • 代数的数:整数と加減乗除とn乗根の組み合わせで表せる複素数。
  • 超越数:代数的数ではない数、つまり整数と加減乗除とn乗根の組み合わせでは表せない複素数。

 πがいかにケッタイな数か、お分かりだろうか。計算では実態がつかめないのだ。1/3などの循環小数なら、簡単な筆算ですぐわかる。同じ無理数でも、√2は1×1の正方形の対角線の長さとして、方程式で出てくる。だがπは違う。この性質が、ある種の人を惹きつけるらしく…

数の狩人たちがすべてπの値に注目していることは、興味深い現象である。√2やsin1°やlog2を、数百桁まで求めようとした人は、ひとりもいないのだ。
  ――第10章 数の狩人たち

 本能的にヤバさを感じたんだろうか。そんなわけで、近似値を求めるしかない。その方法として最も分かりやすいのが、アンティフォンとアルキメデスの方法だ。円に内接する多角形と外接する多角形の周の長さを求め、少しづつ範囲を狭めていく。三平方の定理を知っていれば、中学生だって思いつくだろう。おかげで…

アルキメデス以来、πの桁数を上げる計算は、純粋に計算能力と忍耐力の問題になってしまったのだ。
  ――第2章 ベルト地帯

 今ならコンピュータで力任せの演算ができるが、当時はそんなモノはない。手計算ならまだマシで、下手すると暗算だ。これを解決する方法は二つ。腕自慢を集めるか、計算量を減らすか。この二つの方向性は、現代の計算機科学でも競い合い協力し合っているから感慨深い。その代表がGoogleで…ってのは置いて。

 腕自慢の一人が、ヨハン・マルチン・ツァハリアス・ターゼ。1844年に2カ月以内で200桁のπの値を計算した。ただし、ターゼが優れていたのは計算能力だけで…

…驚異的な計算能力をもつ人々の大多数は、ヨハン・ダーゼも含めて、<あほうな奴隷>のような存在であった。彼らは、計算の素早さではすぐれていたが、他のあらゆる点でまったくのろまであった。数学においても、駄目だった。
  ――第10章 数の狩人たち

 計算能力と数学能力は違うんですね。だもんで、計算は速くても、計算すべき式(というかアルゴリズム)がなきゃ手も足も出ない。その式を与えたのが、数学者 L. K. シュルツ・フォン・シュトラスニッキー。で、この時の式は、アルキメデスの式ではない。つまり計算量を減らす方向でも、進歩していたのだ。

 その方法の一つが、級数(→Wikipedia)だ。恥ずかしながら私、今まで級数の何が嬉しいのか全く見当がつかなかったんだが、この本で少しだけわかった。何より計算量で精度が制御できるのが嬉しい。実にコンピュータ向きの手法じゃないか。まあ、コンピュータが出てくるまで数学者が級数の有難みをどれほど分かっていたかは疑問だが、彼らにとっちゃ役に立つか否かはどうでもいいことなんだろう。なんたって…

19世紀に気体運動論があらわれるまで、確率論はギャンブル以外に使い道がなかったのである。
  ――第15章 モンテ・カルロ法

…ラプラスはもっと強力な計算法を発見していた。この方法は電子計算機が発達するまでは役に立たなかった。
  ――第15章 モンテ・カルロ法

 と、役に立とうが立つまいが、面白いと思ったら突き進んじゃう、そういう人たちなのだから。

 そのコンピュータは、最終章でやっと登場だ。1949年9月ENIACが2037桁まで70時間で計算したのに対し、1954年11月にはNORCが3089桁まで13分で計算している。5年ほどで300倍以上の高速化だ。とんでもねえ進歩である。ここでは、2進数から10進数に変換する時間までいちいち書いてあるのが、マニアックで楽しい。いや単純な計算だけど、面倒くさいのよ、ホント。

ちなみに今ざっと調べたところでは、2019年3月現在の記録は Google がクラウドで計算した31.4兆桁(→ITmedia)。31.4ってトコがシャレてるね。

 などと数学関係の話を主に紹介したが、歴史の話もやたらと楽しい。カエサルはもちろん、ナポレオンも辛らつにこき下ろし、終盤では現代の教養人ぶったラダイトを一言で薙ぎ払っている。そういう意味では、SF者の心を震わせる本でもあった。

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2019年10月 2日 (水)

藤井青銅「『日本の伝統』の正体」柏書房

「日本の伝統」はいつ、いかにして創られ、日本人はどのようにしてそれをありがたがり、受け入れてきたのか? そこにいくつかのパターンがあることがわかりました。
  ――まえがき 「これが日本の伝統」は、本当か?

伝統というものは、朝廷に淵源を求めたがるものなのだ
  ――正月は「伝統」を作りやすい

七世紀に、喪服は白だった。
  ――喪服の色に、白黒をつける

肉食が一般的になるのは、文明開化の明治以降だ。誰でも知っている。なのに、近江牛や但馬牛といった、いかにも古い名前のブランド和牛があるのはどういうわけだ?
  ――旧国名の伝統感

当時(明治20年代、19世紀末)、政治的意見を言えばすぐに弾圧される世の中だった。そこで、「これは演説ではなく歌ですよ」という形で民衆の不満を歌った…
  ――演歌は「日本人の心の歌」なのか?

【どんな本?】

 初詣、七五三、お花見。いずれも日本の伝統行事だとみんな思っている。伝統とはいえ、何にだって始まりはある。では、それらは、いつ、どのように始まったんだろう? 古典落語や相撲や演歌などの芸能はどうなんだろう?

 これらの中には、葵祭のように実際に古いものもあれば、恵方巻のように新しいものもある。だけでなく、比較的に新しいものには、幾つかのパターンがある事が見えてくる。

 伝統行事・伝統芸能・ご当地名物などの由来を調べ、私たちの身の回りにある行事やモノゴトの歴史を探り、意外な事実を明らかにする、一般向けの歴史雑学本。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年12月10日第1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約215頁に加え、あとがき3頁に充実したフラフと表がつく。9ポイント40字×17行×215頁=約146,200字、400字詰め原稿用紙で約366枚。文庫本なら薄めの一冊分。

 文章はこなれていて親しみやすく読みやすい。内容も分かりやすい。奈良→平安→鎌倉→南北朝→室町→戦国→江戸…程度に日本の歴史を知っていれば、充分に楽しめる。

【構成は?】

 それぞれ3~6頁の独立したコラムになっている。気になった所だけをつまみ食いしてもいい。

  • まえがき 「これが日本の伝統」は、本当か?
  • 第1章 季節にすり寄る「伝統」
    • 日本人はいつから初詣をしているのか?
    • 正月は「伝統」を作りやすい
    • 大安や仏滅は禁止?
    • お中元・お歳暮・七五三に共通するもの
    • 夏の鰻はいつからか?
    • 恵方巻のもやもや感
    • バレンタインデーが作ったもの
  • 第2章 家庭の中の「伝統」
    • 古式ゆかしい神前結婚式?
    • 夫婦同姓は伝統か?
    • 良妻賢母と専業主婦
    • サザエさんファミリー型幻想(三世代同居)
    • おふくろの味は「伝統の味」か?
    • 夏の郷愁・蚊取り線香
    • 正座は正しい座り方なのか?
    • 喪服の色に、白黒をつける
    • 告別式は葬式か?
  • 第3章 「江戸っぽい」と「京都マジック」
    • 「江戸しぐさ」はいつから?
    • 「古典落語」はいつから古典になったのか?
    • 忍者はいたのか?
    • 「都をどり」の京都マジック
    • 千枚漬けと「京都三大漬物」
    • 「万願寺とうがらし」の堂々とした伝統感
    • 旧国名の伝統感
  • 第4章 「国」が先か?「伝統」が先か?
    • 元号は、結構いいかげんだ
    • 皇紀はいつから?
    • 相撲は日本の国技か?
    • 桜はパッと散るから美しい?
    • 「錦の御旗」の曖昧な伝統感
    • 「鎖国」は祖法なり!
  • 第5章 「神社仏閣」と「祭り」と「郷土芸能」
    • 京都三大祭りの「時代祭」
    • 古くて新しい神社
    • 御朱印帳の伝統
    • 民謡「〇〇音頭」
    • 民謡「〇〇節」
    • 津軽三味線のパッション
    • 「よさこい」と「ソーラン」の関係
  • 第6章 外国が「伝統」を創る
    • 日本は東洋なのだろうか?
    • 武士道はあったのか?
    • 演歌は「日本人の心の歌」なのか?
    • 木彫りの熊とけん玉
    • マトリョーシカとアロハシャツ
  • あとがき 「これが日本の伝統」に乗っかかるのは、楽チンだ
  • 一目でわかる「伝統の長さ」棒グラフ
  • 年表「日本の伝統」
  • 主な参考文献

【感想は?】

 うわ、もったいない。

 あ、いや、中身はとっても面白いのだ。じゃ何がもったいないのかというと、売り方とか味付けとか、そういうところで。

 書名から伝わってくるように、「伝統」に疑問を呈する、そんな感じの売り方だ。勘違いした右派を揶揄する雰囲気が強く漂っていて、左派にウケそうな本に見える。

 実際、コラムなどでは、そういう姿勢も滲み出ている。が、この本が本当に面白いのは、ソコじゃない。

 何が面白いと言って、これ、文化史とか産業史とか技術史とか風俗史とか、そういう面でやたら面白いのだ。つまり「教科書とは違った切り口で見る歴史」として面白い。私の好きな本だと、「50 いまの経済をつくったモノ」とか「完璧な赤」とか「キッチンの歴史」とか、あと忘れちゃいけない「戦争の世界史」とか、そういうのが好きな人にウケる本だ。

 …などと並べてみたけど、いずれの本もマニアにしか売れそうにないなあ←出版社の皆さんごめんなさい いや私は好きなんだけどね。ただ、政治的な姿勢を、しかもあざ笑う態度で露わにして、右派にソッポを向かれるのは、本当にもったいない。むしろ、右派にこそ届けるべき本だろうし。

 まあ、それぞれのコラムは短いので、例に挙げた本に比べると、やや食い足りない感はある。が、だからこそ、とっつきやすいし、次々と目新しい話題が出てくるので、読んでいて飽きない。おまけに、それぞれのコラムは独立しているので、忙しい人は少ない空き時間で興味がある所だけ拾い読みもできる。そうやって人を惹きつけて、やがては民俗史の泥沼に←をい

 とっつきやすいとはいえ、けっこうキチンと調べてあるし、目の付け所も「鋭い」と感心する所も多い。例えば「お中元」。ここで「中元というくらいだから上元と下元もありそうだ」とくる。言われてみれば、確かにそうだ。私たちは、こういう言葉を「そういうものだ」と深く考えずに使っているけど、ソコには何かしら意味なり由来なりがあるのだ。

 バレンタインデーのチョコレートが菓子業界の仕掛けなのは皆さんご存知の通り。改めて考えればチョコレート、というかカカオの原産は中央アメリカで(→Wikipedia)、巷で言われる3世紀の聖ウァレンティヌス(→Wikipedia)とは結びつきようがないw にしても「サンジョルディの日」は当たらなかったのか。残念。

 やはり「言われてみれば」なのが蚊取り線香。原料の除虫菊(→Wikipedia)の原産がバルカン半島ってのも驚きだが、それを線香にして、しかも火の持ちがいい渦巻き型に改良したのが1895年(明治28年、→Wikipedia)あたりは、見事な工夫だ。

 この辺まで読むと、明治時代の日本の起業家精神の旺盛さにほとほと感心する。間違いなく、あの頃は日本にもフロンティア・スピリットが溢れていたんだなあ、と思う。もっとも、失敗した事業は残っていない、つまり生存者バイアスが入っているわけで、詳しく見ていけば死屍累々なんだろうけど。

 とかの本論に加え、ついでに書かれたトリビアも楽しい。例えば、演歌の話だと…

戦後はジャズがブームになっている。もっとも外国の音楽はみんな「ジャズ」で、その中にはラテン、ハワイアン、タンゴ、シャンソン、カントリー、ヨーデル……など、なんでも含む。
  ――演歌は「日本人の心の歌」なのか?

 なんて、衝撃的な文章がある。つまり、戦前や戦後の人が言う「ジャズ」は、「Jazz」じゃないのだ。もっと広い意味で、西洋、特にアメリカから入ってきたポップ・ミュージックは、みんな「ジャズ」らしい。がび~ん。こういった西洋かぶれの流行歌に対抗して出来たのが演歌という概念で、それを最初に押し出したのが藤圭子、あの宇多田ヒカルのお母さんだとか。親子そろって音楽の新しい境地を切り開いてるんだから凄い。

 加えて、青江三奈・八代亜紀・前川清・美空ひばり、いずれもデビュー前は「ジャズやオールディーズを歌い」って、マジかい。

 すんません、つい自分の趣味に走ってしまった。音楽じゃ津軽三味線の歴史も楽しくて、やっぱアレは野外で演じ聴くものだったり。それと落語の江戸と上方の違いも、実はルーツがブツブツ…

 などと、私たちが暮らしの中で馴染んだモノゴトの起源を探り、教科書には出てこない日本史の意外な一面を集め、「こういう歴史の捉え方もあるんだよ」と教えてくれる本だ。そういう意味では、歴史が好きな人より、「歴史の何が面白いの?」なんて言っちゃう人にこそ向く本かもしれない。

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2019年10月 1日 (火)

菅浩江「不見の月 博物館惑星Ⅱ」早川書房

「どんな方式を使おうが、あなたはメインを褒めないでしょうよ。(略)自分は細かいところまで<見えている>と主張したいだけだわ」
  ――お開きはまだ

「また一つ、いい傷ができたな」
  ――手回しオルガン

<アフロディーテ>職員拘束事件は、それから四時間続いた。
  ――オパールと詐欺師

「あら、使っているうちに判ってくる特色だってあるし、パフォーマンスしながら見えてくるコンセプトだって大事な」
  ――白鳥広場にて

「うーん。判った。すぐには判らないということが判った」
  ――不見の月

【どんな本?】

 地球と月のラグランジュ・ポイント3に浮かぶ、オーストラリア大陸ほどの表面積を持つ小惑星<アフロディーテ>は、天体まるごとが巨大な博物館だ。大きく三部門、音楽・舞台・文芸全般の<ミューズ>、絵画と工芸の<アテナ>、動植物の<デメテル>に分かれ、加えて<アポロン>が三部門の調停を担う。いずれも学芸員は独特のインタフェースでデータベースを使える。

 兵頭健は国際警察機構内の組織VWAに所属する新人警備員だ。今は<アフロディーテ>で勤務につきながら、新型の犯罪捜査用データベース・インタフェース<ディケ>の教育係も務めている。<アフロディーテ>側から相方としてあてがわれたのは、<アポロン>所属の新人、尚美・シャハム。職務には熱心だが兵頭には悪態ばかりの尚美を持て余しつつ、健は警備に務めるのだが…

 星雲賞受賞作「博物館惑星 永遠の森」と同じ舞台ながら、主な登場人物をルーキーに変えて語る、期待の続編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2019年4月25日発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約286頁に加え、あとがき1頁。9ポイント43字×20行×286頁=約245,960字、400字詰め原稿用紙で約615枚。文庫本なら少し厚い一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。SFだし、コッソリ最新の科学や先端技術の成果を取り入れているが、ソコはマニア向けのイースターエッグみないなモノなので、分からなくても問題ない。それより、舞台や映画や絵画など、何かを創作したり、鑑賞して感動した経験の方が大事です。とはいえ、ソコも語り手を素人の兵頭健とすることで、グッと分かりやすくなっている。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

黒い四角形 / SFマガジン2017年2月号
 中規模美術館<ペイディアス>の展示「インタラクティブ・アートの世界」の目玉は、二人の有名クリエイターだ。ベテランの楊偉と、彼を崇める若手ショーン・ルース。警備の兵頭健が気になるのは、ショーンのマネージャー、マリオ・リッツォだ。ショーンを売り込むためなら手段を選ばない。今回も無茶を吹っかけてきた。ショーンの作品をメインに据えろ、と。
 肝心の『黒い四角形』は、その名のとおり白い地に真っ黒な正方形を描いたもの。振動を感知し、何らかのタイミングで崩れ落ちる。こういうの、子供が喜びそうだなあ。何かが崩れるのって、妙に心地いいんだよね。昔、爆竹の上に使用済みのマッチ棒を山と載せ、爆発させて遊んだなあ。若者を見守るベテランの目線が心地いい。
お開きはまだ / SFマガジン2018年4月号
 ミュージカル『月と皇帝』の初演を目前にして、兵頭健が気になるのはアイリス・キャメロンだ。若く盲目ながら辛口のミュージカル評論家として名をはせている。特にメインに対し厳しい彼女の評は多くの反感を買い、脅迫状も頻繁に届く。アイリスの武器は Relief aquare、両手に握った浮き彫り画像で失った視覚を補う。その Relief square がバージョン・アップし…
 こんなブログをやってる私には、アイリスに食ってかかるヘレナの台詞がグサグサ突き刺さる。ついついやっちゃうんだよな、「賢い僕ちゃんこんな細かい所までわかってるもんね」的な書評。なるたけ「こういう所も面白いんだよ」的に書きたいんだけど、なかなか。全力で楽しんじゃうと、没頭しちゃって書評どころじゃなくなるし。
手回しオルガン / SFマガジン2018年6月号
 「新天地」は、<アフロディーテ>初期に、手回しオルガンの少年奏者を描いた作品だ。作者はピエール・ファロ。これが話題を呼び、奏者のエミリオ・サバーニも客が増えた。今はエミリオも歳を取り、演奏は若いバックパッカーのアンディ・ジブソンに任せている。肝心のオルガンはシュナイダー&ブルーダー社製の逸品だが、今は塗装も剥げアチコチにガタが来ている。
 広島の原爆ドームは、やたら保存が難しいと聞く。きれいに再建しちゃったら台無しだから、崩れた姿のまま維持しなきゃいけない。ロリー・ギャラガーのストラトキャスターも、塗りなおしたらファンが怒り狂うだろう。もちろん、私も。かといって、塗装が剥げたままじゃボディも痛む。どないせえちゅうねん…と思ったら、禿げた感じの塗装でレプリカを作ってる(→Fender)w 使ってこそ楽器とは思うが、そこに物語が貼りつくと、難しい所。また、手回しオルガンの音を表すオノマトペもやたら楽しい。
オパールと詐欺師 / SFマガジン2018年8月号
 ライオネル・ゴールドバーグは山師だ。世界中を掘りあさり宝石の鉱脈を探している。八年前、<アフロディーテ>は彼から依頼を受けた。仔犬の乳歯をオパール化してくれ、と。やっと完成し、受け取りに来るのはいいが、彼の相棒が問題だ。今はカスペル・キッケルトと名乗っているが、元はクルト・ファン・デン・ラック、かつて別件でオパールをだまし取った前科がある。
 宝石というのは奇妙なもので。採掘の現場は、むさくるしい汗だくの野郎どもが、泥にまみれて地面を掘ってる。ところが商品になると、ベルベットをあしらった小箱に入り、清潔で着飾ったご婦人がご鑑賞なさる。その生成や鑑定の過程では、科学者や技術者が最新の技術を駆使した機器を使ってたり。まあ、商品なんてたいていそんなモンだけど。とかはともかく、終盤、ライオネルがポーズを取ってからの、たたみかけるような展開がスピーディかつダイナミックで実に楽しい。
白鳥広場にて / SFマガジン2018年10月号
 兵頭健は、白鳥広場の展示物「Satu sama lain」を見守る。ワヒドの作品だ。素材は<自律粘土>、観客が押したり引いたり何かを埋め込んだりして刺激を与え、専用の人工知能が学習して色や形や肌触りも変えてゆく。どんな形になるのか、作者のワヒドにも予測できない。だが健が考えているのは別のことだ。人に覆いかぶさったり、長い突起が折れたりしたら、危ないじゃないか。誰かが怪我したらどうする。
 警備員の苦労が伝わってくる作品。気まぐれなアーティストに付き合わされるのは、そりゃシンドかろうなあ。おまけに今回は、あのネネすら押し返すティティ・サンダースまで乱入するんだから、健の心労はどれほどかw どうでもいいが、私はオールナイトで観た映画「ウッドストック」を思い出した。途中で寝ちゃって、起きた時は会場のゴミを片付ける場面になってた。
不見の月 / SFマガジン2019年2月号
 宿泊客が襲われた。被害者は吉村亜希穂、50代の女性、亡きイラストレーター吉村輔の長女。被疑者は男二人、うち一人は既に確保した。吉村輔は次女の華寿穂を可愛がり、彼女の死後はそれをしのんでか「不見の月」という22枚のシリーズを描いた。亜希穂がアフロディーテに来た目的は、「不見の月」の一つ#18の鑑定。賊の狙いは、その絵らしい。
 ちょっと前に長年使っていたモニタを新しいのに変えて、色温度の違いに驚いた身としては、「プロはそうくるかー」と参った。スマートフォンとかは、変化の激しい環境で使われるんで、調整も大変だよなあ。肝心のネタ、私が亜希穂の立場なら、更に怒り狂う気がする。にしても、相変わらず天然は最強だなあ。

 前の「永遠の森」がキッチリ構成した重厚な交響曲なら、今回のは思わず踊りだすビッグバンド・ジャズの雰囲気かな。主人公が気苦労の多い孝弘から、若い新人の兵頭健と尚美・シャハムに変わったことで、お話にも勢いが出てる気がする。何より、野暮天の私には、視点が素人の兵頭健なのがありがたい。加えて嬉しいのが、あとがきのコレ。

この続きは<SFマガジン>で連載中です。
  ――あとがき

 やっぱり連載だったのか。続きを待ってます。

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