マーティン・プフナー「物語創世 聖書から<ハリー・ポッター>まで、文学の偉大なる力」早川書房 塩原道緒・田沢恭子訳
テキスト、とりわけ基盤テキストというのは、世界に対する人の見方を変え、さらに世界に働きかける方法も変える。
――第1章 アレクサンドロスの寝床の友人類の進化の歴史は文字の発明によって、私たちにとってたどり着くのが不可能な時代と、他者の心にたどり着ける時代とに分けられる。
――第2章 宇宙の王 ギルガメッシュとアッシュールバニバル基盤テキストとは、神聖だと宣言され、それ自体が崇拝の対象となるものなのだ。
――第3章 エズラと聖書の誕生コルテスはユカタン半島への最初の侵略時に、別のものも見つけて懐にした。二冊のマヤの本である。
――第8章 『ポポル・ヴフ』とマヤ文化 第二の独立した文学伝統文学の歴史は焚書の歴史でもある。本が燃やされるのは、書かれた物語に威力があることの証なのだ。
――第8章 『ポポル・ヴフ』とマヤ文化 第二の独立した文学伝統物語を語る力に打ち勝つには、もっと物語を語るしかない。
――第9章 ドン・キホーテと海賊この宣言書(『フランス植民地支配の過程』)に先立って彼(ホー・チ・ミン)が書いたベトナムの独立宣言書は、アメリカ独立宣言書を手本にしていた
――第12章 マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東 共産党宣言の読者よ、団結せよ!「これは著者の同意なく出版されたものです」
――第13章 アフマートヴァとソルジェエニーツィン ソビエト国家に抗った作家語り部は記憶しているエピソードの蓄えから、その場、その時の観客にあわせて最も適したエピソードを選ぶので、毎回、語られる内容は違ってくる。
――第14章 『スンジャタ叙事詩』と西アフリカの言葉の職人存続を保証する唯一の方法は、それを使いつづけることなのだ。
――第16章 ホグワーツからインドへ
【どんな本?】
『イリアス』,『聖書』,『源氏物語』,『ドン・キホーテ』,『共産党宣言』,そして『ハリー・ポッター・シリーズ』。昔から優れた物語や書物は私たちを魅了してきただけでなく、私たちの考え方を変え、世界をも動かしてきた。
と同時に、口伝えで始まった物語の伝達・伝承は、文字・製紙・印刷などの発明や技術開発によって様相を変え、それによって物語もまた新しい姿と力を得るに至った。
著者は文献にあたるだけでなく、物語ゆかりの地を訪れ、それぞれの物語が生まれ育った環境と歴史を辿り、物語が社会に与えた衝撃と影響、そして現代における意味を探ってゆく。
本と物語の半生を綴る、本好きのためのちょっと変わった歴史書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は The Written World : The Power of Stories to Shape People, History, Civilization, by Martin Puchner, 2017。日本語版は2019年6月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約398頁に加え、田沢恭子による訳者あとがき6頁。9.5ポイント48字×19行×398頁=約362,976字、400字詰め原稿用紙で約908枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。
文章はこなれている。内容もわかりやすい。有名な古典作品が次々と出てくるのだが、読んでなくても大丈夫。実は私もほとんど読んでいない。読んだのは『ポポル・ヴフ』と『千夜一夜物語』だけだ。偏ってるな、わははw それぞれの本の大事なところは本書内で説明しているので、だいたいの見当がつく。
【構成は?】
各章は穏やかに繋がっているが、ほぼ独立しているので、気になった所から読み始めてもいい。
- はじめに 地球の出
- 文学の世界の地図
- 第1章 アレクサンドロスの寝床の友
紀元前336年、マケドニア/若きアキレウス/ホメロスの響き 紀元前800年、ギリシャ/アジアのギリシャ化/アレクサンドロスのホメロス/アレクサンドロスの文学的記念碑
- 第2章 宇宙の王 ギルガメッシュとアッシュールバニバル
西暦1844年ごろ、メソポタミア/基盤テキストと文字の発明/アッシュールバニバルの書記教育 紀元前670年ごろ、メソポタミア/剣と葦/未来のための図書館
- 第3章 エズラと聖書の誕生
紀元前6世紀、バビロン/紀元前458年、エルサレム/巻物の民/エルサレム 聖書の町
- 第4章 ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスの教え
ブッダ 紀元前5世紀、インド北東部/孔子 紀元前5世紀、中国北部/ソクラテス 紀元前399年、アテナイ/イエス 紀元1世紀、ガラリヤ湖(イスラエル)/翻訳と様式をめぐる闘い/中国の二つの発明 紙と印刷/火と石
- 第5章 紫式部と『源氏物語』 世界史上最初の偉大な小説
西暦1000年、京都/紙と屏風の世界/漢字、筆談、日本文学/宮廷暮らしの指南書/作者の回顧
- 第6章 千夜一夜をシェヘラザードとともに
第一千年紀、バグダッド/なぜシェヘラザードはこれほどたくさんの物語を知ってるのか/物語の枠組み/アラブの紙の道/オルハン・パクムのイスタンブール
- 第7章 グーテンベルク、ルター、新たな印刷の民
1440年ごろ、マインツ/発明はこうする/神の言葉を機械が記す/マルティン・ルター 聖書学者の怒り 1517年、ヴィッテンベルク
- 第8章 『ポポル・ヴフ』とマヤ文化 第二の独立した文学伝統
罠と本 1532年、ペルー/書物戦争 1519年、ユカタン半島/1562年の大アウトダフェ/『ポポル・ヴフ』 協議の書/マルコス副司令官 2004年、チアパス
- 第9章 ドン・キホーテと海賊
1575年、地中海/中世騎士物語の何がまずいのか/文芸海賊とどう戦うか
- 第10章 ベンジャミン・フランクリン 学問共和国のメディア起業家
1776年、北米植民地/新聞という新市場/学問共和国/学問共和国への課税/コンテンツプロバイダー - 第11章 世界文学 シチリア島のゲーテ
1827年、ワイマール/文学の世界市場/起源を探して 1787年、シチリア島
- 第12章 マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東 共産党宣言の読者よ、団結せよ!
1844年、パリ~1848年、ロンドン/新しいジャンルの誕生 宣言書/読者たち レーニン、毛沢東、ホー・チ・ミン、カストロ
- 第13章 アフマートヴァとソルジェエニーツィン ソビエト国家に抗った作家
1935年ごろ、レニングラード/アフマートヴァ、バーリンと会う/証言の文学 アフマートヴァ、ソルジェニーツィンに会う/ノーベル文学賞
- 第14章 『スンジャタ叙事詩』と西アフリカの言葉の職人
吟唱される叙事詩/識字の第一の波 中世後期、マンデ人の領土/イブン・バットゥータのマリ訪問 1352年、タンジール/識字の第二の波/新しい文学大系
- 第15章 ポストコロニアル文学 カリブ海の詩人デレク・ウォルコット
2011年、セントルシア/カリブ海のホメロス/グロス・アイレット/神経をやられた大西洋沿岸にて
- 第16章 ホグワーツからインドへ
書字技術の新たな革命/ある文学祭 2014年、ラージャスターン州ジャイプル/新しいものと古いもの - 謝辞/訳者あとがき/図版クレジット/原注/索引
【感想は?】
本にはたくさんの魅力がある。その一つは、時を超えることだ。
と書くと、昔の人の言葉が現代に届くから、または現代の言葉が未来に届くから、と思うだろう。実際、本書は紙数の多くを、そういう点に割いている。特にハッキリ出ているのが「第5章 紫式部と『源氏物語』」だろう。
ここでは、紫式部がこと細かく描いた都の暮らしの風景が、優れた歴史資料となっている、と説く。と同時に、発表当時はマナー読本や流行通信、または恋愛指南として読まれただろう、と推測している。この章が引用してる更級日記で、源氏物語に没頭する愉悦を語るくだりでは、世界中の本好きや映画ファンが激しくうなずくだろう。この菅原孝標女ちゃんの可愛さったら。そう、
いつの時代も、文学のもたらす最大の魔法とは、亡くなって久しい人も含めて他者の心に触れる手立てを読者に与えてくれることである。
――第5章 紫式部と『源氏物語』 世界史上最初の偉大な小説
が、それだけじゃない。現代に書かれた物語が、過去を照らすこともある。それを気づかせてくれたのが、「第15章 ポストコロニアル文学」。ここでは、カリブ海の小国セントルシア出身のノーベル文学賞作家デレク・ウォルコットを訪ね、物語が国家に与える力を探ろうとする。この章は、こう始まる。
新しい国は、その国民に自分たちが何者であるかを伝えられる物語を必要とする。
――第15章 ポストコロニアル文学 カリブ海の詩人デレク・ウォルコット
それ以前の「第10章 ベンジャミン・フランクリン」では合衆国の独立宣言を、「第12章 マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東」ではソビエト連邦や中華人民共和国の源流となった共産党宣言を扱った。そして文書や書物が国家を築くこともあるのだ、と説いてきた。
実際には、国家を築くというより、国民を作るとした方が妥当かな、と今は思う。なぜかというと、この章の冒頭の文章で私が思い浮かべたのが、『古事記』と『日本書紀』だからだ。
いずれも歴史書であり、また創世神話を含む。神話としては、国家が主導して編纂した点で、独自性が光っている。なぜ国家が主導して創世神話を編んだのか。上の引用で、その目的が分かった。中央集権国家として、国民に一体感を持たせるために、国民みんなが共に持つ一つの神話が必要だった。それが記紀なのだ。
と、そんなわけで、現代に書かれたポストコロニアル文学が、過去の大和朝廷の目論見を照らしてくれることもあるのだ。いや単に私が早合点してるだけって可能性もあるけど…
ヘブライ語聖書が生きながらえたのは、特定の土地や王や帝国に依存していなかったからである。これらの要素が不要で、聖書をどこへでも持ち運ぶ信者を生み出すことができたおかげなのだ。
――第3章 エズラと聖書の誕生
と、書物(旧約聖書)があったからこそ、民族としてのユダヤ人が存在し得たって例もあることだし。
もちろん、遠い過去から現代へと続く物語の基本形もある。教師と生徒の物語だ。本書ではプラトンが用いた対話篇を例に、これが多くの人を惹きつける理由をこう語る。
王や皇帝の物語とは対照的に、師と弟子を中心としたテキストは、たいていの人にとって身につまされる経験を利用している。私たちはみな一度は生徒だったし、そのときの思い出を生涯にわたって持ちつづけている。
――第4章 ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスの教
そうか、だから「なんでここに先生が!?」は面白いのか←違うだろ それはともかく、これで学園物がウケる理由もわかる。人は大人になると、営業や技術者や役人や商店主などに分かれ、「共通する体験」がなくなってしまう。でも学園生活は、みんな体験している。誰だって、自分に関係がある物語が好きだ。つまり学園物は、みんなが体験しているから、市場が大きいのだ。
技術史として面白いのが、「第7章 グーテンベルク、ルター、新たな印刷の民」。
印刷の始祖として名高いグーテンベルクだが、ここに描かれる彼の実像は、技術者というよりしたたかで冒険心に富む起業家が近い。また彼が最初に印刷したのは聖書だとばかり思っていたが、実際はラテン語の文法書だったというのも知らなかった。また彼は印刷の応用にも長けていた。免罪符の印刷は今のフォーム印刷だし、反トルコを煽る冊子はチラシやパンフレットの元祖だろう。そして聖書は…
グーテンベルクの聖書は、単に手書きのように見えるというレベルではなかった。もっと見栄えがよく、どれほど修業を積んだ修道士も夢見ることすらしないほどの正確さと対称性を実現していた。
――第7章 グーテンベルク、ルター、新たな印刷の民
そう、美しかったのだ。人の手による写本よりも。かく言う私も、機械が字を書いてくれるのにはとっても助かっている。だって私の字はアレだし。ってのは置いて。ここでは、多色刷りに挑戦しつつも見切りをつける、経営者としての思い切りの良さも印象深い。
それはそれとして、印刷した免罪符で荒稼ぎした教会も、多くの聖書が出回ったことで、大きなツケを支払う羽目になる。そう、ローマ・カトリックのパンクス、「音楽の進化史」でも大暴れしたマルティン・ルターだ。彼は聖書をドイツ語に訳し冊子やチラシを刷っては配り、世論を巧みに煽ってゆく。
ルターの生きた時期にドイツで発表された刊行物の1/3以上が、マルティン・ルターによるものだった。彼は印刷という新たな世界に誕生した最初のスーパースターであり、印刷を通じた論争という新しいジャンルの支配者となった。
――第7章 グーテンベルク、ルター、新たな印刷の民
そういえばヒトラーもラジオを巧みに使っていた。ドイツ人はお堅いって印象があるけど、実は新しいメディアの使い方には長けてるんじゃね?
そんな技術の進歩に逆行したのが、ソビエト時代の作家たち。アンナ・アフマートヴァの苦闘を描く「第13章 アフマートヴァとソルジェエニーツィン」では、まるきしレイ・ブラッドベリの「華氏451度」な場面まで出てくる。ブラッドベリも、まさか自分が現実を描いてるとは思わなかったろうなあ。
ここに出てくるサミズダートとトルストイのジョークは、ちょっとカクヨムあたりで実際にやってみたかったり。え? 三方行成? 何それ美味しいの?
とかの歴史やエピソードが楽しいだけじゃなく、読みたくなる本が増えるのも、本好きには嬉しいところ。やっぱ『源氏物語』ぐらいは日本人として読んどかないとなあ、などと思いつつ、いちばん心を惹かれたのは『スンジャタ叙事詩』なんだが、残念ながら今の所は日本語訳が出ていない。うぐう。
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