スティーヴン・ピンカー「暴力の人類史 下」青土社 幾島幸子・塩原通緒訳
中絶が広く利用されるようになった時期から今日までのあいだで、あらゆる種類の暴力の発生率は低下しており、(略)子どもの命の価値は急激に上昇しているのである。
――第7章 権利革命1960年から2000年までに、アメリカにおける書籍の年間発行数は約五倍に増えたのである。
――第7章 権利革命心理学者のフィリップ・テトロックは、神聖視されている資源に対してはタブーの心理――ある種の考えが明るみに出されることへの怒りの反応――が働くのだろうと述べている。神聖な価値は、ほかのどんなものとも交換が考えられない価値なのだ。
――第9章 善なる天使暴力に心を奪われる作家も、暴力に反発を覚える人びとも、ある一点では共通している。彼らは兵器のことしか見ていないのだ。
――第10章天使の翼に乗って…宗教は、どんなものの歴史においても単一の力となったことがないのである。
――第10章天使の翼に乗って
スティーヴン・ピンカー「暴力の人類史 上」青土社 幾島幸子・塩原通緒訳 から続く。
【感想は?】
「第7章 権利革命」までは、「第4章 人道主義革命」「第5章 長い平和」「第6章 新しい平和」と同様に、私たちの常識がどれほど変わってきたのかを示す。
これは私にも思い当たることがある。煙草への感覚は、ここ20年ほどで大きく変わった。昔はくわえ煙草で道を歩いても何も言われなかったが、今は罰金だ。太平洋戦争終戦の時には、もっと激しい衝撃を味わっただろう。倫理とは変わるものなのだ。中でも大きく変わったのが、人権に関わる感覚だ。
(かつて)レイプは女性に対する犯罪ではなく、その女性の父親、夫、あるいは所有者(彼女が奴隷だった場合)といった、男性に対する犯罪だったのだ。
――第7章 権利革命
おいおいマジかよ、と思うかもしれないが、今だってパキスタンあたりで起きる「名誉の殺人」も、その奥に「女は男の所有物」って感覚があるなら、理屈は通る気がする。同性愛に関しても…
多くの法体系は男性の同性愛だけを犯罪としているが、女性の同性愛だけを犯罪としている法体系は一つもなく、男性同性愛者に対する憎悪犯罪は女性同性愛者に対する憎悪犯罪に比べて、約五倍も多い。
――第7章 権利革命
うん、そうだよね。百合は尊い←違う これも、法や制度は男が支配してたから、とすれば、わかる気がする。いや説明しろと言われたらできないけど。
【第8章 内なる悪魔】
第8章では、ヒトの心のメカニズムに立ち入って、暴力を引き起こすアクセルを探る。これは五つだ。捕食・支配・復讐・サディズム・イデオロギー。
捕食はわかりやすい。金が欲しい、ヤりたい、お前が邪魔、そんな所。自分の利益や欲望のためなら他者の犠牲を顧みない、ただそれだけ。
支配も最近は説明しやすい。要はマウンティング。意外なのが自尊心・自己評価との関係で…
精神病質者をはじめとする暴力的な人びとは、自己愛が強く、しかも自分の業績に比例して自分を高評価するのではなく、生まれつきの特権意識からそうしている。
――第8章 内なる悪魔
うぬぼれの強い人ほどヤバいのだ。最近話題の「あおり男」とかは、これだろうなあ。「のび太のくせに生意気だぞ」とかは、こういう人の気持ちを巧く表してるよね。だから、彼らは自分が悪いとは思っていない。
実際の悪行を犯している人びとは(略)、本人としては合理的で正当と感じながら、被害者からの挑発も含めたもろもろの状況に反応して、その悪行を犯しているからである。
――第8章 内なる悪魔
根本的に世界観を変える必要があるのだ。犯罪者にセラピーが必要な理由が、これだろう。当然、被害者は復讐の念に燃える。
復讐は病気などではない。復讐は「よい人」が搾取されるのを予防するという意味で、協力に必要なものなのである。
――第8章 内なる悪魔
やはり「あおり男」の例だと、多くの人が犯人たちだけでなく、似たような真似をする者に対し厳しい目を向けるようになった。かつて危険運転致死傷罪の罰則が厳しくなったように、今後はあおり運転への対処も厳しくなるだろう。とはいえ、今の日本の風潮を思うと、暗い気分になる事も書かれてて。
人は誰かからの操作で他人を傷つけてしまった場合、その傷つけた人に対しての自分の見方をあとから変えて、その人の価値を落としてしまうことがある。
――第8章 内なる悪魔
とかは、某国との関係を考えると、モロだよね、と思ってしまう。おまけに…
19世紀と20世紀のナショナリズム運動は、売文家の一団を雇い入れ、自分たちの国の不朽の価値と栄光をうたった上っ面だけの歴史を書かせていた。
――第9章 善なる天使
いや21世紀になってもやってる国があるんですけど。まあ、気持ちはいいんだよね、あーゆー「俺たちスゴい」って物語は。
【第9章 善なる天使】
そういう困った傾向に対するブレーキも、ちゃんと人間は持ってる。著者は共感・自己制御・理性そして進化をあげる。
共感は、人の痛みを我がことのように感じたり、泣く赤ん坊をあやしたりする気持ちだ。「反共感論」にあるように、これはときどき困った働きをする。同じ被害を受けた人見ても、それが日本人だと同情するけど、外国人だと「ざまあみろ」と思ったり。でも、これも物語が変えることができるのだ。
…架空の人物を含め、誰かの視点を通じて物事を見てみると、それまで共感をもてなかったその誰かや、その誰かが属する集合に対しても共感がもてるようになるのである。
――第9章 善なる天使
きっと日本もアニメのお陰で随分と得してると思うんだが、どうでしょうね。
自己制御は身に染みる。「食べたい、でも痩せたい」だ。
経済学者たちの指摘によれば、人びとに好きなように任せておくと、まるで自分があと数年で死ぬと思っているかのように、退職後に備えての貯蓄をほとんどしないのだそうだ。
――第9章 善なる天使
すんません。これについては偉そうなことは言えません。テヘw
理性と進化では、かの有名なフリン効果(→日経サイエンス)を例に挙げる。実はこれ、私は疑ってたのだ。IQの平均が上がってるって、変じゃね? 知能指数の平均は常に100になるはず。が、それは私の勘ちがいだった。確かに平均は100なんだ。でも、IQ100の得点が上がってたのだ。
今日の平均的なティーンエイジャーは、1950年にタイムトラベルできれば、そこではIQ118になれる。
――第9章 善なる天使
これは抽象的にモノを考える能力が上がってるらしい。もっとも、こんなニュースもある(→TrendsWarcher)。でも「魚をたくさん食べて育った子どもたちが、より高いIQを持つ傾向がある」って、これ「暴力の解剖学」にあったアレじゃ? 要は「魚を食べると頭がよくなる」です。
もう一つ、イデオロギーの対立で、ありがちな誤解が、これ。
(ジョナサン・)ハイトによれば、イデオロギーの両極端にいる双方の信奉者は、互いに相手を不道徳だと見なしがちだが、実際のところ、彼ら全員の脳内では道徳回路が同じように明るく輝いており、ただ、道徳とは何かということに関しての概念がまったく違っているだけなのである。
――第9章 善なる天使
これについては「社会はなぜ左と右にわかれるのか」が詳しい。保守・リベラル・リバタリアンの違いは、何を重んずるかの違いなのだ。保守が権威を大切にするのに対し、リベラルは平等を大切にし、リバタリアンは自由を求める。だから道徳教育とか言っても話がかみ合わない。それぞれ、よかれと思ってるんだけど。
【おわりに】
上巻は納得できるところが多かった。若い男がヤバい、なんてのは「「自爆する若者たち」」とピッタリはまる。「戦争文化論」は「人は楽しいから戦争するんだ」みたいな本だけど、それを楽しまなくなるようになった、とすれば納得がいく。なんの本だか忘れたけど、「文化人類学者は左派ばっかり」なんて話を読んだことがある。これも彼らが「他者の視点」を豊かに持っているためなら、理屈が通る。
が、逆に「強引じゃね?」と思う部分もある。例えば下巻p525だ。旧東欧は巧く民主化できたけど中央アジア諸国はアレだ。この原因を著者は学校教育などの制度や人々の資質に求めてる。でももっと単純な理由があるのだ。
地図を見ればいい。民主主義は西欧や北米が本場だが、中央アジアは本場から地理的にも経済的にも遠く、人の交流も少ない。しかもいずれも内陸国で、ロシアを通さないと欧米と貿易できない。政治・軍事・経済いずれの面でも、ロシアが首根っこを押さえている。そしてロシアは手下の民主化を喜ばないし、USAも内陸国への介入には及び腰だ。チェチェンも見捨てたしね。だって海軍力を使えないし。
とかの勇み足はあるものの、豊富に集められた統計資料には唸らされるし、論調が明るいのも気持ちいい。ちょっとしたトリビアにも事欠かないし、パレスチナ問題の意外な解決案には舌を巻いた。コワモテな印象を与える外見にしては、意外と読みやすいし、秋の夜長には相応しい本だろう。
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