ヘレン・スケールズ「貝と文明 螺旋の科学、新薬開発から足糸で織った絹の話まで」築地書館 林裕美子訳
貝殻をつくるというのは面倒な作業で、素材を集めて、それを貝殻につくり変えるという手間がかかる。このような理由から、軟体動物は常に殻をつくり続けているのではなく、殻をつくる余裕があるときに一気に大きくつくり足す。
――Chapter2 貝殻を読み解く軟体動物はいつの時代にも人間の大切な食糧だった。理由は単純で、ほかの動物のように猛スピードで逃げ回らず、浅い海域や、満潮線と低潮線のあいだの浜に生息しているため、狩りがへたな人でも簡単に採集できるからだ。
――Chapter4 貝を食べる人間によって絶滅の危機に追い込まれた最初の野生動物と考えられているのはシャコガイで、それは12万5000年ほど前にさかのぼる。シャコガイは地球上に現存する貝類でもっとも大きく成長し、長さは1メートルをゆうに超え、寿命は100年を超える。
――Chapter4 貝を食べるアンモナイトを見ていくうえでややこしいのは、専門的に見たときにアンモナイトの多くがほんとうはアンモナイトと呼ばれるべきではないということにある。
――Chapter7 アオイガイの飛翔海洋生物の多様性の豊かさでは(フィリピン諸島は)世界に冠たる海域で、世界の魚類の40%がここに生息し、サンゴは全体の3/4にあたる種類がここで見られる。
――Chapter8 新種の貝を求めて「(ヒュー・)カミングのコレクションからは今でも新種が見つかる」
――Chapter8 新種の貝を求めて貝殻はほとんどのものがチョークと同じ成分でできているので、ほんとうならばすぐに砕けてしまうはずである。(略)ところが貝殻は、(略)なかなか割れない。(略)貝殻はなぜ割れにくいのか。
――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発分布域が狭い種類ほど絶滅しやすい。
――Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発寿命が短い生物のゲノムは複製がつくられる頻度が高いために、DNAの写し間違いが蓄積しやすく、自然選択がはたらく遺伝子はバラエティに富むことになる
――Chapter10 海の蝶がたてる波紋
【どんな本?】
軟体動物。美味しいカキやサザエ、タコやイカやウミウシなど、海にいるものが思い浮かぶが、オカヤドカリ・カタツムリ・ナメクジなど、陸に住むものもいる。古生物ではアンモナイトが有名だ。ヒトは貝塚でわかるように大昔から食用にしてきたほか、タカラガイを貨幣として使い、戦や宗教など重要なイベントではホラガイを吹いた。
彼らは、どこで何を食べて生きているのか。規則的でありながらも複雑な貝殻の模様は、なぜできるのか。「海の絹」の伝説は本当なのか。マテガイはどうやって砂に潜るのか。カキの養殖のコツは?
節足動物に次いで多様性に富む軟体動物について、イギリスの海洋生物学者が彼らの不思議な性質や生態を紹介するとともに、食用・装飾・加工品の原料そして最新素材開発に至るまでのヒトとの関わりをユーモラスに描く、一般向けの科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Spirals in Time : The Secret Life and Curious Afterlife of Seachells, by Helen Scales, 2015。日本語版は2016年11月30日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約331頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント46字×19行×331頁=289,294字、400字詰め原稿用紙で約724枚。文庫本なら厚い一冊分ぐらい。
文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ご想像のとおり色々な貝やタコやカニの名前が出てくるので、ついその姿形を調べたくなる。Google で探すなり図鑑で調べるなりしよう。
【構成は?】
各章はほぼ独立しているので、美味しそうな所だけをつまみぐいしてもいい。ただし「Chapter 1 誰が貝殻をつくるのか?」は、この本のテーマである軟体動物全体を定義するところなので、ザッと目を通しておこう。
- 日本の読者のみなさんへ
- プロローグ
- Chapter1 誰が貝殻をつくるのか?
軟体動物は何種類いるのか/熱水噴出孔にいる軟体動物/軟体動物とはどんな生きものか/ことの始まり バージェス頁岩/軟体動物の祖先? ウィワクシア/軟体動物が先か、貝殻が先か/防弾チョッキに穴をあける歯 削り取り、噛み砕き、つき刺し、銛を打つ/サーフィンを覚えた巻貝/千に一つの殻の使い方 外套膜
- Chapter2 貝殻を読み解く 形・模様・巻き
イポーの丘で見つかった巻貝/螺旋の科学/貝殻をつくる四つの原則/貝殻の仮想博物館 考えられる限りの貝殻の形/なぜ形が重要なのか/右巻きと左巻き/自然界のお遊び 模様/マインハルトのシミュレーション・モデル/理論を裏付ける証拠/軟体動物の日記を解読する/コウイカの模様の解明
- Chapter3 貝殻と交易 性と死と宝石
貝殻の持つ神秘の力/最古の宝飾品/不平等の兆候/世界中で使われたスポンディルスの貝殻/旅するタカラガイ 貨幣/奴隷とタカラガイ/ヤシ油と貝殻貨幣
- Chapter4 貝を食べる
セネガルのマングローブの森で/イギリス人と貝/好ましい海産物?/事件の全容 貝毒による被害の原因/誰がシャコガイを食べたのか/カキの森の守護者 ガンビア/トライ女性カキ漁業者協会/二日にわたるカキ祭り
- Chapter5 貝の故郷・貝殻の家
失われたカキ漁/カキと生物群集/カキ漁の復活をめざして/カキの冒険/育成の足場になるカキ殻/共同体をつくる炎貝/ヤドカリ 殻をつくるのをやめたカニ/順番待ちするオカヤドカリ/ヤドカリに居候する生き物たち
- Chapter6 貝の物語を紡ぐ 貝の足糸で織った布
海の絹でつくられた伝説の布/ピンナの足糸/シシリアタイラギと海の絹/海の絹の神話と現実/海の絹の産地 ターラントとサルディニア/海の絹を織る姉妹/海の絹の殿堂 足糸博物館/極秘の足糸の採取方法/シシリアタイラギと共生する生き物
- Chapter7 アオイガイの飛翔
殻をつくるタコ/オウムガイの殻/アンモナイトが祖先?/蛇石と雷石/肥料になったコプロライト(糞石)/アンモナイトかナンモノイドか/白亜紀末の大量絶滅とアンモナイト/19世紀にアオイガイを調べた女性 お針子から科学者へ/自分で殻をつくるアオイガイ/アオイガイの奇妙な性行動/ジェット噴射
- Chapter8 新種の貝を求めて 科学的探検の幕あけ
オウムガイでつくられた器/海外遠征した博物学の先駆者たち/科学的探検の幕あけ/新種の貝を求めて太平洋を横断 ヒュー・カミングスの探検/二度目の探検 中南米の太平洋岸/サンゴ三角海域へ フィリピン諸島/商取引されるオウムガイ/カミングの標本と有閑階級/ロンドン自然博物館に収蔵されたカミングの貝コレクション/貝の図鑑 『アイコニカ』と『シーソーラス』
- Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発
イモガイの秘密をあばく/複合毒素の複雑な作用/貝毒から薬をつくる/生物接着剤になったイガイの足糸/二枚貝がつくり出す液状化現象/割れない殻の秘密 真珠層/巻貝の鉄の鱗/危機に瀕するイモガイ
- Chapter10 海の蝶がたてる波紋 気候変動と海の酸性化
海の蝶を訪ねて グラン・カナリア島/海の蝶の不思議な生態/酸性度の問題/石灰化生物たちの困惑/軟体動物が受ける酸性化の影響/死滅への道を歩む海の蝶/海の蝶の糞の役割/生態系を調べる手段/酸性化の時間/海の酸性化と科学者/人間の活動と海
- エピローグ
- 貝の蒐集について
- 用語解説/謝辞/訳者あとがき
- 本文に登場する書籍(原著名)の一覧/参考文献/索引
【感想は?】
真面目な本なんだが、どうにも腹が減って困る。
軟体動物って言葉は気色悪そうだけど、つまりは貝・タコ・イカだ。本書で見慣れない名前が出てくると、思わず「どんな味なんだろう」と考えてしまうのは、日本人のサガというか業というか。
中身は大きく分けて三つ。一つは軟体動物そのものの話、二つ目は軟体動物の研究者の話、そして最後はそれ以外の人間との関わり。
人間との関わりでは、軟体動物の中でも貝が大きな比重を占める。というか、本書全体でも貝の扱いが大きい。やはり貝殻という形で、死んでからも痕跡が残るのが大きいんだろう。それが綺麗だったり大きかったりすれば、蒐集家も子供も喜んで集める。流通の発達した現代ならともかく、昔はこの傾向がもっと顕著だった。
日本だと山伏が持ってるホラガイ、ギリシャ神話だとポセイドンの息子トリトンが吹いている。今、調べたらホラガイの生息域は「インド洋、西太平洋」(株式会社科学技術研究所のホラガイ)。なぜ地中海のトリトンが持ってるんだ? またチベットでも祈りの合図で使ってる。インド洋からチベットまで、ヒマラヤを越えはるばる運んでいったのだ。
こういう国際貿易の話は、「Chapter3 貝殻と交易」が詳しい。昔から、綺麗で貴重なものは貨幣になる。
西アフリカじゃ14世紀からタカラガイが使われた。原産地はインド洋のモルディブ。インドを経てアラビアの商人がサハラを越え西アフリカまで運んでた。これにポルトガル・オランダ・イギリスが目を付け、大規模な奴隷貿易に使った結果、インフレになる。更に19世紀にアフリカ東海岸のザンジバルでハナビラダカラが見つかった結果、インフレが加速して価値は暴落、市場は崩壊しましたとさ。
なんか南米から金銀が雪崩れ込んで崩壊したスペイン経済みたいな話だ。ヒトは何度も似たような事を繰り返してきたんだろうなあ。そういえば日本も養殖真珠でペルシャ湾岸の真珠産業を潰してます。
この章では光ルミネッセンス年代測定法(→Wikipedia)なんてのが出てきて、こでも面白い。石英や長石に光が当たると時計はゼロにリセットされる。暗い所、つまり地中に埋まっていると時計は進む。これで古代の遺物が、どれだけ地中に埋まっていたか=どれだけ古いか、が分かるのだ。モロッコ島北部の洞窟からは、10万~12.5万年前の貝殻の装飾品が見つかっている。人類は昔からお洒落だったのだ。
交易も現代になると規模が大きくなりすぎて、漁場を枯らすことも増えてきた。今じゃ二枚貝の養殖の7割が中国産だとか。最も有名なのはカキだろう。「Chapter4 貝を食べる」ではセネガルのマングローブでの、ちょっと変わったカキ産業振興の話が出てくる。カキが難しいのは、群れてないと次の世代が育たない点だ。雄は海中に生死を放出するので、近くに雌がいないと受精しないのだ。
生殖で面白いのが、「Chapter7 アオイガイの飛翔」の主役アオイガイ(→Wikipedia)。これも今調べて気づいたんだけど、小安貝ってこれか。見た目も名前もカイみたいだけど、実はタコ。殻を持つのは雌だけで、雄の体重は雌の1/600。腕の先にペニスがあって、雌にペニスごと植え付け、やがて死ぬ。雌は受け取ったペニスを複数持ち歩き(なんちゅうビッチだw)、好きな時に受精する。カマリキよか酷いw
ここでは、アイオガイを研究した19世紀のジーン・ヴィレプレの生涯もドラマチックで楽しい。
過去の話ばかりでなく、未来も垣間見えるのが「Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発」。今まで新薬といえば植物由来の物が多かったが、ここでは魚まで毒殺するイモガイ(→Wikipedia)が大活躍。奴の毒は凶悪で、即効性+とどめを刺す毒の複数の毒を使う。毒が何の役に立つのかというと、痛みをブロックする、すなわち鎮痛剤になるのだ。効果はモルヒネの千倍で中毒になりにくい。
ただし、これの投与法は、体に埋め込んだ「ポンプで脊髄液の中に薬剤を直接注入」って、まるきしSFだ。きっと某国はコレを使った「痛みを感じない兵士」を研究してるんだろうなあ。
この章では「レナードの朝」でお馴染みのL-ドーパが意外な形で使えたり、貝殻の真珠層が軽くて丈夫な構造の秘密を隠してたり、マテガイ(→Wikipedia)の砂潜りが土木工法のヒントになったりと、SF者には興奮が尽きない章だ。
奇妙奇天烈な軟体動物の生態から、それを巡る人間の世界にまたがる通商ネットワーク、彼らに憑かれた研究者たちの個性的な生涯、そして最新科学が解き明かした彼らの秘密とめくるめく応用範囲と、読みどころは満載。ただ、繰り返すが、どうしても読んでいるとお腹がすくのが欠点かも。
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