ビョルン・ベルゲ「世界から消えた50の国 1840-1975」原書房 角敦子訳
切手の製造は、1878年にアルゼンチンの郵便制度が国営化されるまで続いた。この時期をはさんで多くの偽物が出たが、そのどれにもいえる特徴が、ほぼまちがいなくオリジナルより品質が高いということである。
――コリエンテス パン屋の切手…イギリス人は何をすべきかを承知していた。なぜなら、独自の切手発行ほど社会がきちんと機能していることを証明する手立てはないからだ。
――マフェキング 陽動作戦に出たボーイスカウト石油生産が1870年代に始まると、バクー油田はまもなく世界の石油の50%以上を産出するようになった。その中心で一切を取り仕切っていたのは、スウェーデンのノーベル兄弟社である。
――バトゥーミ 石油ブームとクロバエイニニの地表の面積はベルギーの倍あるが、人口は3000人しかなかった。この数字には土着の先住民は入っていない。先住民の人数をわざわざ数えようとする者などいなかったのだ。
――イニニ 人を寄せつけない熱帯雨林の道徳の罪…ほぼ確実にいえるのが、その大半がこの国をまったく通過せずに収集家に直販されているということである。
――タンヌトゥバ 封鎖された国と奇抜な切手カロンジは有力なルバ族の族長で、(略)その施政は軍国主義に傾いた独裁制だった。他の部族民は放逐され、政敵は暗殺か追放の憂き目にあった。(略)その後の数週間で新首都には、コンゴ全域のルバ族がどっと押し寄せた。その多くが執念深いルラ族からやむをえず逃げてきたのだった。
――南カサイ 悲惨なルバ族と貴重な鉱物
【どんな本?】
何をもって国家とするのか。この定義は、けっこうあいまいだ。独自の通貨を発行し、それが実際に流通していれば、充分に国家と言えるだろう。だが通貨を発行し、それが国民や他国の信用を得るとなると、けっこう難しい。例えば東ティモールだ。独立国として認められてはいるが、経済は米ドルで回っている。
対して切手は、独自通貨よりも発行が簡単だ。また、切手を発行することで、その政府は郵便制度を整え運用できる由を、他国にアピールできる。
著者は趣味の切手収集を通じ、世界史の中で埋もれた様々な国に出会う。シチリア王国やオレンジ自由国やビアフラのように名の知れた国もあれば、ヴァン・ディーメンズ・ランドやアルワルなど、どこにあるのかもわからない国もある。それぞれが独自の事情で独立国となり、それぞれの事情で消えていった。
切手を通じ、世界史の重箱の隅を掘り起こす、ちょっと変わった歴史と塵の本。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は LANDENE SOM FORSVANT 1840-1970 (NOWHERELANDS 1840-1975), by Bjørn Berge, 2016。日本語版は2018年7月30日第1刷。単行本ハードカバー縦一段組み本文約373頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×18行×373頁=約302,130字、400字詰め原稿用紙で約756枚。文庫本なら厚い一冊分ぐらい。
文章はこなれている。内容も特に難しくないが、19世紀以降の世界史に詳しいとより楽しめるだろう。世界地図が欲しくなるが、マニアックな土地ばかりが出てくる上に、昔の地名で出てくるので、Google や Wikipedia に頼る羽目になるかも。
【構成は?】
それぞれ6頁ほどの独立したコラムになっている。気になった所だけをつまみ食いしてもいい。
- まえがき
- 1840~1860年
- 両シチリア王国 底なしの貧困と飽食の貴族
- ヘリゴランド 島の王国から爆撃の標的へ
- ニューブランズウィック うまい話に一杯食わされた移民
- コリエンテス パン屋の切手
- ラブアン いかがわしい南海の天国でどんちゃん騒ぎの酒宴
- シュレスヴィヒ スカンジナビア主義と軍歌
- デンマーク領西インド諸島 奴隷島のバーゲン・セール
- ヴァン・ディーメンズ・ランド 流刑地と不気味な切手
- エロベイ、アンノボンおよびコリスコ 反帝国主義と気の弱い宣教師
- ヴァンクーヴァー島 木造の神殿
- 1860~1890年
- オボック 武器取引と山羊のスープ
- ボヤカ 戦時の退廃
- アルワル 尊大な藩王と甘いデザート
- 東ルメリア 図面上の国
- オレンジ自由国 讃美歌と人種差別
- イキケ 不毛な土地の硝石戦争
- ボパール ブルカをまとった王女
- セダン シャンゼリゼからコントゥムへ
- ペラ スズに取り憑かれて
- 1890~1915年
- サント・マリー島 熱帯ユートピアの文明人パニック
- ナンドゲーアン 平和な熱狂
- 膠州 惨めなゲームで気まぐれにふるまう皇帝
- ティエラデルフエゴ 成金独裁者
- マフェキング 陽動作戦に出たボーイスカウト
- カロリン諸島 石貨とナマコの交換
- 運河地帯 カリブ海のシベリア
- 1915~1925年
- ヘジャズ 苦いイチゴ味の切手
- アレンシュタイン 独立の夏
- ジュービ岬 砂漠の郵便機
- 南ロシア 白い騎士が覇権を手放す
- バトゥーミ 石油ブームとクロバエ
- ダンツィヒ スポンジケーキとヒトラー
- 極東共和国 ツンドラの理想主義者
- トリポリタニア イスラム教発祥の地でのファシストのエアレース
- 東カレリア 民族ロマン主義と陰気な森林地帯の悲哀
- カルナロとフィウメ 詩とファシズム
- 1925~1945年
- 満州国 実験国家
- イニニ 人を寄せつけない熱帯雨林の道徳の罪
- セザノ 世界一寂しい場所の子どもの天国
- タンヌトゥバ 封鎖された国と奇抜な切手
- タンジール国際管理地区 近代のソドム
- ハタイ 虐殺と仕組まれた国民投票
- チャネル諸島 切手でサボタージュ
- サウスシェトランド諸島 ペンギンの厳しい試練
- 1945~1975年
- トリエステ 歴史の交差点
- 琉球 組織的な自決
- 南カサイ 悲惨なルバ族と貴重な鉱物
- 南マルク 香辛料とテロ
- ビアフラ 飢餓と代理戦争
- アッパーヤファ 泥の家と悪趣味な切手
- 訳者あとがき/原注/参考文献
【感想は?】
イギリス大暴れ。良くも悪くも。
扱う時代が大英帝国の興隆と崩壊にまたがっているため、どうしてもイギリスの野望が遺した傷痕が多くなる。だが、ちゃんと役立つ遺産も残しているのだ。他でもない、ペニーブラック(→Wikipedia)、世界初の郵便切手だ。
とはいえ、イギリスを持ち上げているのは「まえがき」だけで、本文中ではジョンブルの悪行を延々と連ねているように見えるのは、気のせいだろうかw 著者がノルウェー人だから、遠慮なく暴けるのかもしれない。
その酷さがよく出ているのが、ヴァン・ディーメンズ・ランド。
今はオーストラリアに組み込まれ、タスマニアと呼ばれている。元は囚人の流刑地で、オーストラリアと同じだ。囚人たちはカンガルーを狩って腹の足しにした。ところが、この島にはもともと原住民がいて、カンガルーは彼らの主な食材であるばかりでなく、皮や骨も衣類や道具になる。そのカンガルーが移住者によって狩りつくされ…
今でもオーストラリアには白豪主義なんてのがあるけど、こういう歴史で成り立った国だとすれば、そういうのも残っちゃうんだろうなあ、なんて思ってしまう。誰だって悪役にはなりたくないし。
これほどあからさまではないにせよ、アルワルでも植民地ならではの害が見える。1803年当時の名前はウルワル、インドの藩王国の一つだ。マハラジャとして君臨していたのはバクタワール・シン。彼はイギリス東インド会社と組む。東インド会社は、取引先の代表者がコロコロ変わると困る。だからたいていは現政体を支援する。おかげでマハラジャの地位は安泰となった。
東インド会社は面倒を嫌い、藩王国の内政には原則として口出ししない。取引さえちゃんと履行すりゃいいのだ。ここでマハラジャが賢く国民を導けばいいが、バクタワール・シンは皆さんが想像するインドの王族そのものの尊大さ。さすがにムスリムの虐殺は東インド会社にたしなめられたが、作物をアヘンに切り替えたのは反乱を招く。
これ東インド会社がなければ、アルワルの王朝は他国の侵略か国民の反乱で滅びていただろう。なまじ大国イギリスのバックアップがあったために、愚かな王朝が続いてしまったのだ。1970年代の南ベトナムや、現在のシリア・北朝鮮みたいなもんだね。宗主国にとっては、愚かで威圧的な独裁者の方が都合がいいしなあ。だって賢いと取り引きしにくいし、民意を重んじると宗主国に対し反乱を企てるし。
逆に賢く立ち回った藩王国もある。ボパール、史上最悪の化学工場事故(→Wikipedia)で有名な所だ(「ボーパール午前零時五分)。ムガル帝国の撤退に始まる1818年の建国以後、四代続いて女王が治める。国民の多くがムスリムだったため反発はあったが、いずれも賢く治めたようだ。特に最後のカイフスラウ・ジャハンは、選挙に基づく立法議会を設立している。
などと白人のやらかす事は…ってな気分を覆すのが、サント・マリー島。マダガスカルの東にある島だ。フランスの植民地だが、17世紀から海賊の根城だった。海賊というと物騒なようだが、実は意外と民主的で、福祉もちゃんとやってる(「図説 海賊大全」)。
リバテーシアの海賊船は(略)、海洋を忙しく横断していた奴隷船を拿捕したときは、その場で捕虜を解放してやり、サント・マリー島に住んで仲間になる機会も与えた。
――サント・マリー島 熱帯ユートピアの文明人パニック
はずが、「25年で突然行き詰った」。原因は不明どころか、「その一切が壮大なホラ話であったかだ」。海の底には今も海賊船の残骸が眠っているというから、もしかしたら隠したお宝も…
切手収集家の面目躍如と思えるのが、ヘジャズ。「知恵の七柱」では、ヒジャーズと呼ばれている土地だ。
そう、ここではアラビアのロレンスことT.E.ロレンスが活躍する。なんと「ロレンスは最終的な印刷工程も監督している」。「知恵の七柱」でも印刷に強いこだわりを見せたロレンス、ここでも「糊にイチゴの風味をくわえた」。おかげで「切手を舐めるためだけに購入する者が続出した」。なんと見事な商売人っぷりw ちなみに著者も舐めて確かめてます。
とかの歴史の片隅のエピソードもあれば、最初の「両シチリア王国」では現在のイタリアにも残る南北の経済格差の源流が見えたり。切手を通して世界史を辿ることで、意外な視点が得られる、そんな本だ。
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