オリヴァー・サックス「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」早川書房 太田直子訳
…私はこの本を、幻覚体験とそれが体験者に及ぼす影響を語る、幻覚の自然経過記録、またはアンソロジーのようなものと考えている。なぜなら、幻覚の力を理解するには、当人による一人称の記録によるほかないからだ。
――はじめに片側の失明や視力障害が負の症状だとすれば、それにとどまらず、正の症状も出ることがある。つまり、見えない領域やかすんでいる領域に幻覚が生じるのだ。突然半盲になった患者の約10%が、そのような幻覚を起こす――そしてすぐに、それが幻覚であると気づく。
――第9章 両断 半視野の幻覚人は自分の夢に加わるか、加わっている人を観察するが、入眠状態では人は単なる傍観者だ。
――第11章 眠りと目覚めのはざまウェールズの一般開業医のW・D・リースは、配偶者に先立たれたばかりの人たち約300人と面談し、そのほぼ半数に、亡くなった配偶者の片鱗を錯覚でかいま見たり、またはその幻覚に正面から向き合ったりした経験があることを知った。
――第13章 取りつかれた心
【どんな本?】
脳神経科医として勤務するかたわら、その経験を活かして「妻を帽子とまちがえた男」「レナードの朝」「音楽嗜好症」などの楽しいエッセイを書き続けたオリバー・サックスによる、幻覚や幻聴をテーマとした、科学エッセイ集。
彼の著作の特徴は、単に一見奇妙な症状を紹介するだけではない。もちろん、医師として経過と原因そして治療法も紹介する。が、それに加えて、症状を抱えながらも、その人なりの形で症状と折り合いをつけながら暮らしてゆく人々の姿も詳しく描き、人の持つ知恵と逞しさ、そして心の不思議さを感じさせる点が、彼の作品の醍醐味なのだ。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Hallucinations, by Oliver Sacks, 2012。日本語版は2014年10月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約343頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント45字×17行×343頁=約262,395字、400字詰め原稿用紙で約656枚。文庫本なら少し厚め。なお、今はハヤカワ文庫NFから「幻覚の脳科学 見てしまう人びと」の題で文庫版が出ている。
文章はこなれていて読みやすい。ときとき脳の部位の専門用語が混じるけど、「脳みそのどっかなんだろう」ぐらいに思っていれば充分。
【構成は?】
各章は比較的に独立しているので、美味しそうな所をつまみ食いしてもいい。
- はじめに
- 第1章 静かな聴衆 シャルル・ボネ症候群
- 第2章 囚人の映画 感覚遮断
- 第3章 数ナノグラムのワイン においの幻覚
- 第4章 幻を聞く
- 第5章 パーキンソン症候群の錯覚
- 第6章 変容状態
- 第7章 模様 目に見える片頭痛
- 第8章 「聖なる」病
- 第9章 両断 半視野の幻覚
- 第10章 譫妄
- 第11章 眠りと目覚めのはざま
- 第12章 居眠り病と鬼婆
- 第13章 取りつかれた心
- 第14章 ドッペルゲンガー 自分自身の幻
- 第15章 幻肢、影、感覚のゴースト
- 謝辞/訳者あとがき/引用クレジット/参考文献
【感想は?】
幻覚がテーマの本だ。だから他人事だと思っていたが、そうじゃない。これは私の事でもあるのだ。
それを強く感じるのが、「第11章 眠りと目覚めのはざま」だ。ここで扱うのは入眠時幻覚。というと何か難しそうだが、誰だって経験があるはず。わかりやすいのが、居眠りの時に見るアレだ。完全に寝入ってる時ではなく、寝ぼけて見るモノ。
実は私の場合、「見る」のではなく「聴く」のが多い。見知らぬ男たちが、何か仕事しながら喋っている。男たちも仕事も、私とは何も関係がないし、お喋りの中身はよく聞き取れない。最近はだんだんと真に迫ってきたんで、なにかヤバいんじゃないかと思ったが、この本を読んで安心した。寝ぼけての幻聴は「幻視と同じぐらい一般的」らしい。
やはり「私の事だ」と思うのが、「第10章 譫妄」。この章では薬物による譫妄の例に加え、病気によるものも多い。特に「あるある」と感じたのが、子供の頃に熱を出した時の話。日本人だと、天井の木目が「何か」に見えた経験がある人が多いはず。ここでは、体が伸びたり縮んだりする譫妄が出てくる。ちゃんと名前もついていて、「不思議の国のアリス症候群」(→Wikipedia)と言うのだとか。
居眠りなら大したことはないが、病気だと困ったことになる。ナルコレプシー、いわゆる居眠り病(→Wikipedia)の場合だ。これ生活習慣とかは関係なくて、肉体的な問題だとは知らなかった。ふつう、視床下部はオレキシン=覚醒ホルモンを分泌する。この部位に不調があると、不意に眠りに落ちたりするのだ。
この章では金縛りも扱っている。いずれも睡眠の不調だ。金縛りもナルコレプシーも幻覚を伴う時がある。が、特にナルコレプシーの場合…
人はたいてい認めるのをためらい、ナルコレプシー患者でいっぱいの部屋でさえも、そのことがオープンに話しあわれることはほとんどなかった。
――第12章 居眠りと鬼婆
こういう「幻覚や幻聴を隠そうとする」のは、ナルコレプシーに限らず、他の病気でも同じらしい。気持ちは分かる。いわゆる「頭がおかしくなった」と思われるのが嫌なのだ。だが、実はありふれた経験らしい。視覚を失った人は幻覚を見るし、嗅覚を失った人は幻臭をかぎ、四肢を失った人は幻肢に悩む。パーキンソン病や片頭痛も幻覚を伴うし、大切な人やペットを失った時もそうだ。
つまり、幻覚や幻聴は、ありふれたものなのだ。ただ、私たちが勝手に「それは頭がおかしい」と思い込んでるだけ…と言いたいが、昔はそうでもなかった事を「第2章 幻を聞く」で暴露している。
1973年、『サイエンス』誌の論文「狂気の場において正気でいることについて」が大騒動を引き起こす。八人の偽患者が「声が聞こえる」と症状を偽り、病院を訪れる。一人は躁鬱病、他の者はみな統合失調症と診断され、二ヶ月も入院する羽目になり、誰も仮病を見破られなかった。当時の精神医学は、その程度だったのだ。これに懲りてできたのがDSM(→Wikipedia)。
この話にはオチがある。本物の患者の一人は、ちゃんと仮病を見破っていたのだ。ちなみに幻聴に関しては…
(オイゲン・)ブロイラーによると、「入院している統合失調症患者は、ほぼ全員『声』を聞く」。しかし彼は、逆が真ではないことを強調している。つまり、声が聞こえることは必ずしも統合失調症を意味しない。(略)声が聞こえる人の大半は統合失調症ではないので、これは大きな誤解だ。
――第4章 幻を聞く
という事で、やはりありふれた現象らしい。
他の著作に比べ、著者自身の話が多いのも、この本の特徴の一つ。中でも「第6章 変容状態」では、若い頃にドラッグを試した経験を語っている。特に著者の性格がよく出ていると思ったのが、常用していた薬物を断った時の話。激しい幻覚に襲われながらも、落ち着きを保つために症状を細かく記録し…
混乱、失見当、幻覚、妄想、脱水、発熱、頻脈、疲労、発作、死。もし誰かが私のような状態だったら、すぐに救急処置室に行くようアドバイスしただろうが、自分自身のこととなると、私は耐え抜いてすべてを経験しつくしたかった。
――第6章 変容状態
と、あくなき好奇心に従って行動する。まったく、学者って奴はw
そんな風に、ヒトの脳や神経系の不思議さ・絶妙さを実感するエピソードがたくさん載っている。と同時に、サックス先生らしいのは、それぞれの症状を抱えた人々の暮らしにまで踏み込んで描いていること。皆さん、いろいろと工夫して症状と折り合いをつけ、人生を楽しもうとしている。科学と人間が交わり、少しだけ心に余裕ができる…ような気がする本だ。
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