岩根圀和「スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに」彩流社
イギリスが自力で勝ったのではなく、むしろ戦闘と言われるほどの戦闘はなかったのが事実であった。ありていにはスペイン艦隊はイギリスから打撃を被ったのではなく、飢えと渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破のせいで被害を被ったのがほとんどであった。
――まえがき…(予定では)スペインから大規模の艦隊をフランドル沖へ回航配備して海峡の掃討警備を固め、その保護のもとにパルマ公麾下のフランドル軍が安全に海峡を渡ってテムズ河口に上陸する。そこから一気呵成に敵軍を蹴散らして一週間でロンドンへ攻め込んでエリザベスの身柄を確保するのである。
――第2章 イングランド遠征計画ベネチア大使リッポマーノがメディナ・シドニア公を評して「この貴族はスペイン随一の大公である。素晴らしい性格で誰からも愛されている。慎重で勇敢なばかりかきわめて善良で温厚な人物である。多数の貴族そしてアンダルシア全体から慕われるだろう。惜しむらくは海の経験が広くない」
――第3章 サンタ・クルス候の死去…この規則はメディナ・シドニア公とても例外なく厳密に適用され、総司令官と言えども水夫と同じビスケットを齧り、おなじぶどう酒を飲んでいた。
――第4章 メディナ・シドニア公に王室旗の譲渡帆船同士の戦いでは先手を取って風上の位置を占めるのが有利に戦うための絶対条件である。
――第6章 プリマス沖戦闘 7月31日イギリスはスペイン艦隊を撃滅する必要はなく、またそれだけの戦力もなかったが、敵をイギリス沿岸から寄せつけずに上陸を阻み、風下へ追いやればよかった。
――第13章 北海からスコットランドへ
【どんな本?】
1558年に行われたスペインの無敵艦隊とイギリス艦隊の海戦、いわゆるアルマダ海戦(→Wikipedia)は、帆船小説の舞台にもよく使われ、名前はよく知られている。だが、その多くは英国の資料や言い伝えに基づくものであり、スペイン側の視点で語られることは少ない。
本書はスペイン側の資料を丁寧に漁り、当時の時代背景と戦局・アルマダ海戦の目的・計画・準備などから始まり、参加した艦船の種類と能力・搭載した火器の種類と性能・乗艦した人員の出自と技能・食事など船上の生活などにも目を配りつつ、主にスペイン艦隊を指揮したメディナ・シドニア公を中心に、アルマダ海戦の計画から帰還までを再現したものである。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
2015年3月30日第1猿発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約308頁。9ポイント48字×19行×308頁=約280,896字、400字詰め原稿用紙で約703枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。
文章はこなれていて読みやすい。内容もあまり細部にまでは踏み込まず、素人にも理解できるレベルに抑えている。敢えて言えば、イギリス沿岸の地図があるとわかりやすいだろう。
【構成は?】
序章を例外として、ほぼ時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。
- まえがき
- 序章 フェリペ二世の崩御
- 第1章 スペイン艦隊総司令官メディナ・シドニア公
エリザベス女王の破門/海賊ドレイク/サン・ファン・デ・ウルア事件/スコットランド女王メアリ・ステュアートの処刑/フランドル軍資金運搬船の拿捕/ポルトガル王位僭称者ドン・アントニオ/ベルナルディーノ・デ・メンドサ隊士の書簡
- 第2章 イングランド遠征計画
ドレイクのカディス襲撃/スペイン艦隊の被害状況/ドレイクのその後の行方/*樽材の焼却事件 - 第3章 サンタ・クルス候の死去
メディナ・シドニア公の断り状/メディナ・シドニア公、総司令官の受諾/メディナ・シドニア公の管理能力/リスボン出撃まで/スペイン艦隊の全容/スペイン艦隊の主要指揮官/艦船の種類/*三日月型陣形
- 第4章 メディナ・シドニア公に王室旗の譲渡
リスボン出港/ひたすらにマーゲイト岬へ/神学校のピクニック/厳しい艦隊生活/スペイン艦隊の食糧事情/食糧・飲料水の腐敗、コルーニャ入港/遠征の中止を進言/イギリスの防衛体制 - 第5章 コルーニャ出撃 7月21日
*兵隊の給料 - 第6章 プリマス沖戦闘 7月31日
上陸地点の確定/プリマス攻撃の主張
- 第7章 スペイン艦隊の大砲その他の火器
大砲類/火縄銃とマスケット銃 - 第8章 「ロサリオ」放置事件
事故船の救援活動/ペドロ・バルデスの主張/「サン・サルバドール」爆発事故 - 第9章 ポートランド沖戦闘 8月2日
おとり作戦/ワイト島通過/*スペイン艦隊の病院船 - 第10章 カレー沖 8月8日
火船攻撃/「サン・ロレンソ」蟹のように潰れて
- 第11章 出撃してこなかったパルマ公
相次ぐ出撃要請/パルマ公の裏切り/*スペインの通信網 - 第12章 グラベリーヌ沖海戦 8月8日
- 第13章 北海からスコットランドへ
北北東に進路を取れ - 第14章 フランシスコ・クエジャルの苦難
「ラビア」の座礁/船でスコットランドへ
- 第15章 アイルランド沖難破、消えた54隻
サンタンデール入港/ミラノ騎兵隊総司令官レイバの戦死/アイルランド漂着者の処刑/帰還後のフェリペ二世の指令 - 第16章 スペイン艦隊のその後
領地サンルカルへ/イングランドの反撃 - 終章 メディナ・シドニア公の死
- あとがき
- スペイン艦隊年表/註/参考文献
【感想は?】
明らかに著者はスペイン贔屓だ。
中でもイチオシは艦隊総司令官のメディナ・シドニア公、次いで国王フェリペ二世が好きらしい。対してパルマ公は嫌われている。
さて、名前は有名なアルマダ海戦だが、その実体を読んでみると意外な事ばかりだ。なんといっても、マトモな戦闘らしきものがほとんどない。いや戦闘はあったんだが、その被害がほとんどないのだ。少なくとも、スペイン側には。
スペイン側の総数は約130隻。うち戦闘で失ったのは6~7隻だ。ただしスペインに帰れたのは65隻。勘定が合わない分は帰路で失われた。帰路で多くが消息を絶ったのは有名だが、戦闘の被害がそれほど少ないのは意外だった。
それだけじゃない。当時の海戦じゃ艦砲はほとんど脅しで、最終的な決着は敵船に乗り移っての白兵戦が主体だと私は思っていた。実際、1571年のレパントの海戦(→Wikipedia)では激しい白兵戦になっている。だが、17年後のアルマダの海戦じゃ白兵戦が起きていない。銃の撃ち合いはあっても、剣や槍の出番はなかったのだ。
有名なカレー海戦におけるドレイクの火船にしても、物語に登場するのとは全くイメージが違う。そもそも火船は奇襲じゃなかった。「木造帆船は火がつきやすいので火船攻撃はこの頃の常識であった」。だからスペイン側も、「水夫の末端に至るまで誰もが火船攻撃を予想して警戒態勢を怠らなかった」と、充分に予測していたのだ。実際、結果も物語とは全く違う。
火船攻撃による実害はなかった。つまり火が燃え移って火災を起こしたスペイン艦船は一隻もなかった。
――第10章 カレー沖 8月8日
確かに密集はしていたし、混乱は起きた。索が絡まるのを防ぐために断ち切ったりはしたが、燃え上がった艦はなかった。なんとも意外な話である。もっとも、映画やドラマを作る立場からすれば、ここでド派手に燃え上がった方が見栄えがするんで、どうしても燃やしたくなるんだろう。
通して読むと、最初からスペイン艦隊の負けが決まっていたように思える。
そもそも、スペインの目的は英海軍との戦いじゃない。フランドル(今のオランダ・ベルギー・ルクセンブルグ)のパルマ公と合流し、イギリスに上陸することだ。陸兵をイギリスに届けさえすればいいのである。物語では総司令官のシドニア公が覇気に欠けるように描かれるが、それも当然のこと。目的は陸軍に海峡を渡らせることであって、それまでは戦力を温存したかったのだ。
ところが、終盤で明らかになるのだが、肝心のパルマ公にはやる気が全くない。イギリス上陸に割く余裕があるなら、フランドルに援軍を寄越せ、というのがパルマ公の本音である。これをシドニア公→パルマ公、パルマ公→フェリペ二世の書簡で暴いていくあたりは、終盤での読みどころだろう。
書簡を多く収録しているのも本書の特徴で、彼らの人物像が鮮やかに伝わってくる。
主役のシドニア公は礼儀正しく穏健ながら細部に目が行き届くキレ者で、海の素人とか言われちゃいるがとんでもない。そもそも艦隊そのものから人員や備品まで遺漏なく整備・調達したのはシドニア公で、最初に総司令官に予定されていたサンタ・クルス侯が亡くなった以上、艦隊にもっとも詳しく誰もが順当な人選だと考えていた。
人物像で私が最も意外に感じたのはフェリペ二世だ。絶対王政の君主だから強引な人かと思ったら正反対。
特にシドニア公に宛てた手紙を多く収録しているんだが、何度も「あなたはたいへん優れた仕事をしているし、私はあなたを信頼している」と繰り返している。政治的にも財政的にもシドニア公は有力で疎かにできないってのもあるんだろうが、権力をかさにきてゴリ押しするような人じゃない。むしろ若い頃の秀吉のように、相手を巧みに取り込むタイプに見える。
もっとも、この遠征はさすがに無茶だったけど。それでもちゃんと己の非を認める器量はあって…
国王(フェリペ二世)はメディナ・シドニア公へ迅速に指令を出して帰還者に対する手厚い庇護の手を差し伸べている。
――第15章 アイルランド沖難破、消えた54隻メディナ・シドニア公に対するフェリペ二世からの叱責はいっさいなかった。
――第16章 スペイン艦隊のその後
と、敗戦の将兵を厚くねぎらっている。まあ、下手に刺激して内戦なんかやってる場合じゃないってのもあるんだろうけど、かなり巧みな政治的センスの持ち主なのが伝わってくる。
とかの偉い人の話に加え、当時の船上での生活を描いているのも、本書の嬉しい所。中でも迫真のリアリティを感じるのが、食事の配給。ビスケットやワインなどの一日の配給量を数字を挙げて書いている。中には米なんてのもあるが、それをどう調理したのかは不明なんて書いてあるあたりには、著者の誠実さを感じる。
ここではスペインはワインなのに対しイギリスはビールってあたりに、お国柄を感じてクスリとなったり。またベーコンやチーズなども積んでいるんだが、これが続々と腐っていくあたりは、当時の海の恐ろしさを感じると共に、戦略物資としての塩の重要性も伝わってくる。また水の配給量をみると、衛生面もだいたい見当がついたり。臭かっただろうなあ。
加えて艦の種類や性質、砲の能力なども過不足なく書いてあり、政略などの俯瞰的な視点から、戦術・戦闘技術などニワカ軍ヲタ向けの基本知識、そして給金や食料など兵の生活に関わる部分まで、バランスの取れた内容でスペイン艦隊の悲劇を再現する、迫力あふれる本だった。
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