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2019年5月12日 (日)

レベッカ・スクルート「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」講談社 中里京子訳

「ヒーラ細胞は、過去百年間に医学界に生じたもっとも重要な出来事のひとつだ」
  ――プロローグ 写真の女性

「あの人たち、あんたをタールみたいに真っ黒に焼いちゃったんだね」
  ――5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年

「なんでもかんでも、あの細胞の話だけなんだ。もんな母さんの名前さえ、どうでもいいと思ってる」
  ――6 初めての電話 1999年

「なんで彼女が死んで、あれがまだ生きとるのか。ここに住んでるみんなには、まったくわからんのだ。謎は、そこなんだよ」
  ――10 霊の仕業 1999年

米国医師会は、1910年に実験動物を保護する規定を公布していたが、人間に関する規定については、(1947年のニュルンベルク綱領まで)なにも手がけていなかった。
  ――17 人の道にもとる研究 1954年~1966年

ことの発端は「細胞のセックス」である。
  ――18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年

「もっともシンプルな説明は――」と(スタンリー・)ガートラーは聴衆に語りかけた。「この18種類の細胞はみな、ヒーラ細胞に汚染されているというものです」
  ――20 ヒーラ爆弾 1966年

「…ぼくは“モー”だったんだ。単なる細胞株で、肉片みたいなものだったのさ」
  ――25 「ぼくの脾臓を売っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年

進化生物学者リー・ヴァン・ヴェイレン「われわれはここに、ヒーラ細胞が新たな生物種として独立したとみなすよう、真摯に提案するものである」
  ――27 不死の秘密 1984年~1995年

「あたしが望んでいるのは、ヒーラって呼ばれてる母さんのほんとうの名前はヘンリエッタ・ラックスだってみんながわかるように、ちゃんと歴史に残すことだけなんだ」
  ――29 デボラとの対面 2000年

「たとえ、あたしたちが傷つくことになっても、ザカリヤには話をさせなきゃって。ザカリヤは怒ってる。だから、それを吐き出させなきゃならない。でなけりゃ、爆発しちまうって」
  ――30 ザカリヤ 2000年

「おじょうちゃん、あんたはたった今、奇跡を目にしたんだよ」
  ――32 「これが全部母さん……」 2001年

「覚悟はしておいた方がいい」(略)「知ることは、知らなかったのと同じくらい辛いことがあるから」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「あたしらはもっといっぱい取材しなくちゃならないんだ」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「いつの日かこの子は、曾祖母のヘンリエッタが世界を助けたことを知るだろう!」
  ――37 「怖がることなんて何もない」 2001年

【どんな本?】

 ヒーラ細胞(→Wikipedia)は、ヒトの細胞株の一種である。癌細胞に由来し、増殖が速い。最大の特徴は、「不死」である点だ。普通の細胞は50回程度の細胞分裂で死ぬが、ヒーラ細胞はずっと細胞分裂を続ける。そのため培養しやすく、医学や生物学の実験に便利だ。

 その成果も絶大で、癌の遺伝子研究をはじめヘルペス・血友病・インフルエンザ・血友病・パーキンソン病などの治療薬の開発や、性感染症・虫垂炎・ヒトの寿命など、多くの利益を人類にもたらしている。

 だが、その細胞を提供した人物、ヘンリエッタ・ラックスについては、ほとんど知られていなかった。ラックスの家族すら、彼女が何をしたのか、彼女の細胞がどう使われ、どんな役に立ったのか、全く知らなかったのだ。

 いかにしてヒーラ細胞は誕生し、普及したのか。それは医学・生物学にどんな影響を及ぼし、どう変えたのか。なぜヘンリエッタの家族は何も知らなかったのか。ヘンリエッタ・ラックスとはどんな人物で、どんな生涯を送ったのか。

 不死細胞の由来を追い、現代の医学・生物学そして医療の進歩と問題点を明らかにするとともに、ヘンリエッタ・ラックスとその家族の人生を描き出す、迫真の科学ドキュメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Immortal Life of Henrietta Lacks, by Rebecca Skloot, 2010。日本語版は2011年6月14日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約451頁。9ポイント45字×20行×451頁=約405,900字、400字詰め原稿用紙で約1,015枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。理科で細胞について学んでいれば、中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 ご覧のように時系列は前後するが、ちゃんと考えた上での構成なので、できれば素直に頭から読んだ方がいい。

  • 本書について/主な登場人物/地図
  • プロローグ 写真の女性
  • 娘・デボラの言葉
  • 第1部 生
  • 1 運命の検査 1951年
  • 2 クローヴァー 1920年~1942年
  • 3 診断と治療 1951年
  • 4 ヒーラ細胞の誕生 1951年
  • 5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年
  • 6 初めての電話 1999年
  • 7 培養細胞の死と生 1951年
  • 8 再入院 1951年
  • 9 ターナーステーション 1999年
  • 10 霊の仕業 1999年
  • 11 痛みの悪魔 1951年
  • 第2部 死
  • 12 嵐 1951年
  • 13 ヒーラ・ファクトリー 1951年~1953年
  • 14 ヘレン・レイン 1953年~1954年
  • 15 虐待 1951年~1965年
  • 16 白人も黒人も 1999年
  • 17 人の道にもとる研究 1954年~1966年
  • 18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年
  • 19 クレイジージョー 1966年~1973年
  • 20 ヒーラ爆弾 1966年
  • 21 夜の医者 2000年
  • 22 明かされた名前 1970年~1973年
  • 第3部 永遠なる命
  • 23 「生きてるんだって!」 1973年~1974年
  • 24 せめてすべきこと 1975年
  • 25 「ぼくの脾臓を撃っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年
  • 26 プライバシーの侵害 1980年~1985年
  • 27 不死の秘密 1984年~1995年
  • 28 ロンドンの後 1996年~1999年
  • 29 デボラとの対面 2000年
  • 30 ザカリヤ 2000年
  • 31 死の女神ヘラ 2000年~2001年
  • 32 「これが全部母さん……」 2001年
  • 33 ニグロ専門精神病院 2001年
  • 34 医療記録 2001年
  • 35 魂の浄化 2001年
  • 36 天に属するもの 2001年
  • 37 「怖がることなんて何もない」 2001年
  • 38 クローヴァーへの遠い道 2009年
  • 登場“人物”のその後
  • あとがき

【感想は?】

 科学ドキュメンタリーかと思って読み始めたら、実は「もう一つの『ルーツ』」だった。

 お話は、大きく分けて三つのテーマから成っている。一つは、ヘンリエッタ・ラックスと家族の生涯。次に、ヒーラ細胞が医学界・生物学会に引き起こした騒動。そして最後に、著者がヘンリエッタ・ラックスへと迫ってゆく過程。

 私は二番目、つまり医学・生物学の話を期待して読み始めた。もちろんソレも面白かったが、最初のヘンリエッタ・ラックス一族の歴史と、最後の取材過程の迫力には、ひたすら圧倒された。特にヘンリエッタの末娘デボラが本格的に登場する第3部後半は、嵐のようなドラマが展開する。

 ヒーラ細胞が普及する過程で印象に残るのは、その培養に成功したジョージ・ガイだ。苦学してピッツバーグ大学で学び、ジョンズ・ホプキンス病院に勤める。モノ作りの才も豊かで、研究室まで妻のマーガレットと共に自作してしまう。ハードウェアも自作した、コンピュータ黎明期のハッカーと同じタイプだ。

 しかも、ヒーラ細胞が普及する過程も、unix黎明期とソックリなのに笑った。ヒーラ細胞の培養に成功し、その便利な性質を知ったガイは、誰彼構わず研究者たちにヒーラ細胞を配りまくるのである。おまいはケン・トンプソンかw 科学の進歩に貢献するのが嬉しくてたまらない、そういう人なんだろう。

 ヒーラ細胞の何が嬉しいかというと。たいていの細胞は、培養が難しい上に、増殖に限界がある。50回ほど分裂したら、死んでしまう。科学の実験は、誰もが同じ条件で追実験できなきゃいけない。でも肝心の実験材料=細胞に限りがあったら、同じ実験を再現できない。でもヒーラ細胞は幾らでも増殖する。だから、誰でも同じ条件で追実験できる…はず。

 しかも、ヒトの細胞だ。例えば新しい薬の効果を調べたい。マウスで効果があった。でもヒトでどうなるかはわからない。そこでヒーラ細胞だ。ヒーラ細胞に薬を与えて、効けばよし。効かない、どころか死んじゃったとしても、ヒーラ細胞なら代わりはいくらでもある。ヒーラ細胞を使ってマズい所を突き止め、再び実験すればいい。

 手軽に使える実験材料があるから気軽に実験できる。お陰でポリオのワクチンを皮切りに、ヒーラ細胞は幾つもの研究に貢献してゆく。中には、化粧品の研究まであるのが感慨深い。

 ただ、培養しやすいのは長所ばかりとは限らず、思わぬ落とし穴があるのも、科学の怖いところ。

 さて、化粧品が感慨深いのには、理由がある。元となったヘンリエッタ・ラックスが、身だしなみに気を遣うおしゃれなご婦人だからだ。亡くなった時も、癌に苦しみながら、ベティキュアは忘れなかった。おまけに明るくて気立てが良く、子どもたちを深く愛していた。この辺は是非とも本書をお読みいただきたい。

 そんなヘンリエッタの人生を掘り起こそうとする著者が、ラックス一族へと迫ってゆく過程が、まさしく『ルーツ』そのものなのだ。

 大学院卒で無神論者に近いユダヤ系の著者と、貧しく無学で信心深い黒人のラックス一族の間には、深い溝がある。特に母ヘンリエッタの事を知りたいと強く願いつつも、それまでの無神経な取材や医学者たちの態度に根深い不信感を持つ末娘のデボラが、著者とチームとなり、ヘンリエッタの生涯を追うストーリーは、ミステリとしても大河ドラマとしても重量級の迫力がある。

 このデボラもまた感情豊かな人で、特に弟のザカリヤを見守る姿は、縁こそ薄かったもののヘンリエッタから愛情の深さをちゃんと受け継いでるんだなあ、なんてしみじみ感じてしまう。…とか書いてるとキリがないんで、今日はこの辺で。

 医学・生物学における一つの技術が普及するまでの科学ノンフィクションであり、遺伝子技術が発達した現代における法と倫理を問う問題作であり、激しい人種差別があった時代のスナップ・ショットであり、また今なお残るその禍根のルポルタージュであり、そして何より厳しい中で生き抜いてきたラックス一族のファミリー・ドラマだ。ただし寝不足になっても私は責任を取らないのでそのつもりで。

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