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2019年5月の13件の記事

2019年5月30日 (木)

世界四大海戦

 きのう読んだ「スペイン無敵艦隊の悲劇」に「世界四大海戦」とある。どの四つか調べると、どうやら人によって違うようだ。世界〇大××とかじゃよくあるパターンだね。とりあえず挙がっている候補は以下6個。

  1. 紀元前480年9月 サラミスの海戦 →Wikipedia
  2. 1571年10月7日 *レパントの海戦 →Wikipedia
  3. 1588年7月~8月 アルマダの海戦 →Wikipedia
  4. 1592年7月7日 閑山島海戦 →Wikipedia
  5. 1805年10月21日 *トラファルガー海戦 →Wikipedia
  6. 1905年5月27日~5月28日 *日本海海戦 →Wikipedia

 *がついているものは、四つに入ったり外れたりする。つまり、サラミス/アルマダ/閑山島がレギュラーで、レパント/トラファルガー/日本海が最後の席を争っている、そんな感じらしい。

 なんで決まらないのかというと、基準が人によって違うからだろう。戦争や歴史に与えた影響を重んじる人もいれば、戦闘に加わった船舶数や人数で考える人もいるし、戦いの鮮やかさ・指揮官の優秀さで選ぶ人もいる。どれも一理あると思う。あ、それと、スペイン人はレパント、イギリス人はトラファルガー、日本人は日本海海戦を入れるんだろう。

 その上で、私なりに選ぶと、こんな感じになる。

  1. 紀元前480年9月 サラミスの海戦
  2. 1588年7月~8月 アルマダの海戦
  3. 1905年5月27日~5月28日 日本海海戦
  4. 1942年6月5日~7日 ミッドウェー海戦 →Wikipedia

 これがどういう基準かというと、戦闘技術で選んだものだ。

 サラミスの海戦は、比較的に波が穏やかな地中海で行われた。主力は三段櫂船である。以後、レパントの海戦まで、主な戦場は内海で、軍船の動力は人力が中心となる。また戦闘方法も、最終的には敵船に乗り込んでの白兵戦が決定的な要素だった。

 次のアルマダの海戦では、戦場が波の荒い外海での戦闘に変わる。また主力艦は風力駆動で木製のガレオン船だ。いや実はガレー船や帆と櫂の両方を使うガレアサ(→Wikipedia)も加わってるんだけど。そんなわけで、潮や風の向きが決定的な意味を持つ。加えて、火砲が使われた。あまり成果はなかったようだけど。なお、この戦いじゃ白兵戦は行われていないが、19世紀初頭のトラファルガーでは白兵戦でケリをつけている。

 これが日本海海戦になると、戦いの様相がガラリと変わる。戦場こそ内海の日本海だが、動力は蒸気機関に変わる。おかげで機動力が段違いに上がり、潮や風の向きの影響が小さくなった。また艦体は鋼鉄製になった。戦闘の大半は砲の撃ち合いで決まり、敵船に乗り込んでの肉弾戦は完全に消えた。また無線電信が導入され、本国との連絡はもちろん偵察・艦隊指揮などで、よりキメの細かい統制が可能となった。

 更にミッドウェー海戦になると、戦闘の決定的な要素は空母と航空機に変わり、艦隊司令官にはほとんど敵船の姿すら見えない。砲の役割も変わり、重要なのは航空機を撃ち落とす対空砲であって、巨砲の価値も軽くなってしまった。いや無くなったわけじゃないのよ。ノルマンディや硫黄島などでは、上陸部隊を支援するために砲撃してたし。でも対陸上戦力用であって、対艦用じゃない。

 いずれの変化も、単に戦い方が変わったってだけじゃなく、国家における海軍の役割や位置づけが変わったって事でもある。レパントの頃なら、国王でなくとも有力な諸侯なら相応の海軍力を持てたかもしれない。でもアルマダ以降は難しくなったし、日本海以降はまず無理だ。もっとも、最近は民間軍事会社が力をつけてきてるから、将来はわからないけど。

 と、適当に選んでみた。なんか偏っている気もするけど、それは私の知識が偏っているためです。「コレが入ってないのはおかしい、なぜなら…」的なご意見は歓迎します、はい。

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2019年5月29日 (水)

岩根圀和「スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに」彩流社

イギリスが自力で勝ったのではなく、むしろ戦闘と言われるほどの戦闘はなかったのが事実であった。ありていにはスペイン艦隊はイギリスから打撃を被ったのではなく、飢えと渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破のせいで被害を被ったのがほとんどであった。
  ――まえがき

…(予定では)スペインから大規模の艦隊をフランドル沖へ回航配備して海峡の掃討警備を固め、その保護のもとにパルマ公麾下のフランドル軍が安全に海峡を渡ってテムズ河口に上陸する。そこから一気呵成に敵軍を蹴散らして一週間でロンドンへ攻め込んでエリザベスの身柄を確保するのである。
  ――第2章 イングランド遠征計画

ベネチア大使リッポマーノがメディナ・シドニア公を評して「この貴族はスペイン随一の大公である。素晴らしい性格で誰からも愛されている。慎重で勇敢なばかりかきわめて善良で温厚な人物である。多数の貴族そしてアンダルシア全体から慕われるだろう。惜しむらくは海の経験が広くない」
  ――第3章 サンタ・クルス候の死去

…この規則はメディナ・シドニア公とても例外なく厳密に適用され、総司令官と言えども水夫と同じビスケットを齧り、おなじぶどう酒を飲んでいた。
  ――第4章 メディナ・シドニア公に王室旗の譲渡

帆船同士の戦いでは先手を取って風上の位置を占めるのが有利に戦うための絶対条件である。
  ――第6章 プリマス沖戦闘 7月31日

イギリスはスペイン艦隊を撃滅する必要はなく、またそれだけの戦力もなかったが、敵をイギリス沿岸から寄せつけずに上陸を阻み、風下へ追いやればよかった。
  ――第13章 北海からスコットランドへ

【どんな本?】

 1558年に行われたスペインの無敵艦隊とイギリス艦隊の海戦、いわゆるアルマダ海戦(→Wikipedia)は、帆船小説の舞台にもよく使われ、名前はよく知られている。だが、その多くは英国の資料や言い伝えに基づくものであり、スペイン側の視点で語られることは少ない。

 本書はスペイン側の資料を丁寧に漁り、当時の時代背景と戦局・アルマダ海戦の目的・計画・準備などから始まり、参加した艦船の種類と能力・搭載した火器の種類と性能・乗艦した人員の出自と技能・食事など船上の生活などにも目を配りつつ、主にスペイン艦隊を指揮したメディナ・シドニア公を中心に、アルマダ海戦の計画から帰還までを再現したものである。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2015年3月30日第1猿発行。単行本ハードカバー縦一段組み本文約308頁。9ポイント48字×19行×308頁=約280,896字、400字詰め原稿用紙で約703枚。文庫本ならやや厚めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もあまり細部にまでは踏み込まず、素人にも理解できるレベルに抑えている。敢えて言えば、イギリス沿岸の地図があるとわかりやすいだろう。

【構成は?】

 序章を例外として、ほぼ時系列順に話が進むので、素直に頭から読もう。

  • まえがき
  • 序章 フェリペ二世の崩御
  • 第1章 スペイン艦隊総司令官メディナ・シドニア公
    エリザベス女王の破門/海賊ドレイク/サン・ファン・デ・ウルア事件/スコットランド女王メアリ・ステュアートの処刑/フランドル軍資金運搬船の拿捕/ポルトガル王位僭称者ドン・アントニオ/ベルナルディーノ・デ・メンドサ隊士の書簡
  • 第2章 イングランド遠征計画
    ドレイクのカディス襲撃/スペイン艦隊の被害状況/ドレイクのその後の行方/*樽材の焼却事件
  • 第3章 サンタ・クルス候の死去
    メディナ・シドニア公の断り状/メディナ・シドニア公、総司令官の受諾/メディナ・シドニア公の管理能力/リスボン出撃まで/スペイン艦隊の全容/スペイン艦隊の主要指揮官/艦船の種類/*三日月型陣形
  • 第4章 メディナ・シドニア公に王室旗の譲渡
    リスボン出港/ひたすらにマーゲイト岬へ/神学校のピクニック/厳しい艦隊生活/スペイン艦隊の食糧事情/食糧・飲料水の腐敗、コルーニャ入港/遠征の中止を進言/イギリスの防衛体制
  • 第5章 コルーニャ出撃 7月21日
    *兵隊の給料
  • 第6章 プリマス沖戦闘 7月31日
    上陸地点の確定/プリマス攻撃の主張
  • 第7章 スペイン艦隊の大砲その他の火器
    大砲類/火縄銃とマスケット銃
  • 第8章 「ロサリオ」放置事件
    事故船の救援活動/ペドロ・バルデスの主張/「サン・サルバドール」爆発事故
  • 第9章 ポートランド沖戦闘 8月2日
    おとり作戦/ワイト島通過/*スペイン艦隊の病院船
  • 第10章 カレー沖 8月8日
    火船攻撃/「サン・ロレンソ」蟹のように潰れて
  • 第11章 出撃してこなかったパルマ公
    相次ぐ出撃要請/パルマ公の裏切り/*スペインの通信網
  • 第12章 グラベリーヌ沖海戦 8月8日
  • 第13章 北海からスコットランドへ
    北北東に進路を取れ
  • 第14章 フランシスコ・クエジャルの苦難
    「ラビア」の座礁/船でスコットランドへ
  • 第15章 アイルランド沖難破、消えた54隻
    サンタンデール入港/ミラノ騎兵隊総司令官レイバの戦死/アイルランド漂着者の処刑/帰還後のフェリペ二世の指令
  • 第16章 スペイン艦隊のその後
    領地サンルカルへ/イングランドの反撃
  • 終章 メディナ・シドニア公の死
  • あとがき
  • スペイン艦隊年表/註/参考文献

【感想は?】

 明らかに著者はスペイン贔屓だ。

 中でもイチオシは艦隊総司令官のメディナ・シドニア公、次いで国王フェリペ二世が好きらしい。対してパルマ公は嫌われている。

 さて、名前は有名なアルマダ海戦だが、その実体を読んでみると意外な事ばかりだ。なんといっても、マトモな戦闘らしきものがほとんどない。いや戦闘はあったんだが、その被害がほとんどないのだ。少なくとも、スペイン側には。

 スペイン側の総数は約130隻。うち戦闘で失ったのは6~7隻だ。ただしスペインに帰れたのは65隻。勘定が合わない分は帰路で失われた。帰路で多くが消息を絶ったのは有名だが、戦闘の被害がそれほど少ないのは意外だった。

 それだけじゃない。当時の海戦じゃ艦砲はほとんど脅しで、最終的な決着は敵船に乗り移っての白兵戦が主体だと私は思っていた。実際、1571年のレパントの海戦(→Wikipedia)では激しい白兵戦になっている。だが、17年後のアルマダの海戦じゃ白兵戦が起きていない。銃の撃ち合いはあっても、剣や槍の出番はなかったのだ。

 有名なカレー海戦におけるドレイクの火船にしても、物語に登場するのとは全くイメージが違う。そもそも火船は奇襲じゃなかった。「木造帆船は火がつきやすいので火船攻撃はこの頃の常識であった」。だからスペイン側も、「水夫の末端に至るまで誰もが火船攻撃を予想して警戒態勢を怠らなかった」と、充分に予測していたのだ。実際、結果も物語とは全く違う。

火船攻撃による実害はなかった。つまり火が燃え移って火災を起こしたスペイン艦船は一隻もなかった。
  ――第10章 カレー沖 8月8日

 確かに密集はしていたし、混乱は起きた。索が絡まるのを防ぐために断ち切ったりはしたが、燃え上がった艦はなかった。なんとも意外な話である。もっとも、映画やドラマを作る立場からすれば、ここでド派手に燃え上がった方が見栄えがするんで、どうしても燃やしたくなるんだろう。

 通して読むと、最初からスペイン艦隊の負けが決まっていたように思える。

 そもそも、スペインの目的は英海軍との戦いじゃない。フランドル(今のオランダ・ベルギー・ルクセンブルグ)のパルマ公と合流し、イギリスに上陸することだ。陸兵をイギリスに届けさえすればいいのである。物語では総司令官のシドニア公が覇気に欠けるように描かれるが、それも当然のこと。目的は陸軍に海峡を渡らせることであって、それまでは戦力を温存したかったのだ。

 ところが、終盤で明らかになるのだが、肝心のパルマ公にはやる気が全くない。イギリス上陸に割く余裕があるなら、フランドルに援軍を寄越せ、というのがパルマ公の本音である。これをシドニア公→パルマ公、パルマ公→フェリペ二世の書簡で暴いていくあたりは、終盤での読みどころだろう。

 書簡を多く収録しているのも本書の特徴で、彼らの人物像が鮮やかに伝わってくる。

 主役のシドニア公は礼儀正しく穏健ながら細部に目が行き届くキレ者で、海の素人とか言われちゃいるがとんでもない。そもそも艦隊そのものから人員や備品まで遺漏なく整備・調達したのはシドニア公で、最初に総司令官に予定されていたサンタ・クルス侯が亡くなった以上、艦隊にもっとも詳しく誰もが順当な人選だと考えていた。

 人物像で私が最も意外に感じたのはフェリペ二世だ。絶対王政の君主だから強引な人かと思ったら正反対。

 特にシドニア公に宛てた手紙を多く収録しているんだが、何度も「あなたはたいへん優れた仕事をしているし、私はあなたを信頼している」と繰り返している。政治的にも財政的にもシドニア公は有力で疎かにできないってのもあるんだろうが、権力をかさにきてゴリ押しするような人じゃない。むしろ若い頃の秀吉のように、相手を巧みに取り込むタイプに見える。

 もっとも、この遠征はさすがに無茶だったけど。それでもちゃんと己の非を認める器量はあって…

国王(フェリペ二世)はメディナ・シドニア公へ迅速に指令を出して帰還者に対する手厚い庇護の手を差し伸べている。
  ――第15章 アイルランド沖難破、消えた54隻

メディナ・シドニア公に対するフェリペ二世からの叱責はいっさいなかった。
  ――第16章 スペイン艦隊のその後

 と、敗戦の将兵を厚くねぎらっている。まあ、下手に刺激して内戦なんかやってる場合じゃないってのもあるんだろうけど、かなり巧みな政治的センスの持ち主なのが伝わってくる。

 とかの偉い人の話に加え、当時の船上での生活を描いているのも、本書の嬉しい所。中でも迫真のリアリティを感じるのが、食事の配給。ビスケットやワインなどの一日の配給量を数字を挙げて書いている。中には米なんてのもあるが、それをどう調理したのかは不明なんて書いてあるあたりには、著者の誠実さを感じる。

 ここではスペインはワインなのに対しイギリスはビールってあたりに、お国柄を感じてクスリとなったり。またベーコンやチーズなども積んでいるんだが、これが続々と腐っていくあたりは、当時の海の恐ろしさを感じると共に、戦略物資としての塩の重要性も伝わってくる。また水の配給量をみると、衛生面もだいたい見当がついたり。臭かっただろうなあ。

 加えて艦の種類や性質、砲の能力なども過不足なく書いてあり、政略などの俯瞰的な視点から、戦術・戦闘技術などニワカ軍ヲタ向けの基本知識、そして給金や食料など兵の生活に関わる部分まで、バランスの取れた内容でスペイン艦隊の悲劇を再現する、迫力あふれる本だった。

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2019年5月27日 (月)

大森望監修「カート・ヴォネガット全短編3 夢の家」早川書房

「まあ、とにかく芝居はできた」
「問題は、それが芝居なのかどうかね」
  ――ローマ

「お気づきですか」とケイディがいった。「このテーブルのまわりを迂回するために、一日に20分の時間と、何百歩分かのエネルギーをむだにしているのを?」
  ――貧しくてゆたかな町

「こんな時間に起きているのは、酔っ払いと浮浪者と詩人だけだ」
  ――この宇宙の王と女王

「不思議の国のアリスになった気分」とローズが言った。「どんどん体が小さくなって、まわりのものがなにもかも大きすぎる」
  ――金がものをいう

「問題ない。コンテスト参加者は自宅の正面に色とりどりの電飾ケーブルをぶらさげる。電力メーターがいちばん速くまわっているやつが優勝だ」
  ――人みな眠りて

【どんな本?】

 「プレイヤー・ピアノ」「スローターハウス5」「猫のゆりかご」「タイタンの妖女」など、シニカルながらも温かみのある芸風でSFファンにもお馴染みのアメリカの人気作家カート・ヴォネガット。彼が遺した短編をまとめ、8個のテーマ別に並べた「COMPLETE STORIES」が、日本では四分冊に分かれての刊行となった。

 この巻「夢の家」では、「ロマンス」と「働き甲斐 vs 富と名声」の2セクションを収録する。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は COMPLETE STORIES, by Kurt Vonnegut, 2017。日本語版のこの巻は2019年1月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約509頁に加え、ダン・ウェイクフィールドの解説「ヴォネガットはいかに短編小説の書き方を学んだか」鳴庭真人訳11頁+川上弘美の解説5頁。9.5ポイント44字×20行×509頁=447,920字、400字詰め原稿用紙で約1,120枚。文庫なら上下巻ぐらいの分量。

 いずれの作品も文章はこなれていて読みやすい。「ガール・プール」の「ディクタフォン」のように、当時のアメリカの風俗を知らないと一瞬戸惑う仕掛けやガジェットもたまに出てくるが、読んでいけばだいたいわかるので、気にせず読み進めよう。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 原題 / 訳者 / 初出。

セクション4 ロマンス(承前)

ガール・プール / Girl Pool / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 エイミー・ルー・リトルは20歳。モンテスマ金属鍛造で働き始めた。所属はガールプール。60人の女性社員が、録音された声から紙にタイプし、取引先や顧客への手紙として形を整える。男性社員の姿を、彼女たちは知らない。知っているのは声だけ。エイミーのボスはミス・ナンシー・ホステッター、勤続22年のベテランで腕は抜群。その日、エイミーのもとに届いた録音は…
 お話の中身より、ガジェットのディクタフォン(→weblio辞書)に気を取られてしまった。つまりはボイスレコーダーだが、スマートフォン用のアプリケーションじゃない。蝋管に録音するのだ。各部署でメッセージを蝋管に吹き込み、蝋管をガール・プールに集める。ガール・プールには大勢のタイピストがいて、到着した蝋管を片っ端から手紙の形に仕立てる。一世紀前のオフィス・オートメーションだね。アメリカってのは、こうやってなんでもかんでも専門化・システム化しちまうんだよなあ。
ローマ / Rome / 大森望訳 / 本書初出
 メロディは18歳。厳格な父親に育てられた、筋金入りの箱入り娘だ。その父フレッドは業界スキャンダルに巻き込まれ、メロディは騒ぎを避けるため姉の家で暮らし始める。深く父を敬っているメロディの気を紛らすため、わたしたちは演劇同好会に誘い、彼女をヒロインに抜擢した。演目はアーサー・ガーヴェイ・エルムの「ローマ」。
 前巻の「こんどはだれに?」に続き、再びアマチュア劇団を舞台とした作品。ファザコンで箱入りのお嬢様に娼婦役をあてがうなんて、無茶しやがってw 彼女の共演者はエエトコのお坊ちゃんブライスと、フェロモンだだ漏れの種馬ジョン。ひと目でメロディにべた惚れのブライス、「いけすかねえ女」と感じるジョン。果たして結末は…
ミス・スノー、きみはくびだ / Miss Snow, You're Fired / 大森望訳 / 本書初出
 26歳のエディはゼネラル金属鍛造に勤めている。妻とは結婚して6カ月で別れた。美しかったが性格は最悪で、離婚の際に多くの財産を分捕っていった。そんなエディの元に、新しい秘書が来た。アーリーン・スノー、見目麗しい18歳。社内でも大人気で、事あるごとに広報誌のモデルに駆り出される。広報担当のアーマンドは副社長の義弟で40歳。
 …ああ、うん、確かにアーマンドは製造業の広報には向いてないなw このセンスはSF雑誌のデザイナーに向いてるw 男社会の製造業で、こういう配置をするのは、たいてい裏に思惑があってですね、それはあなたのご想像通りです。
パリ、フランス / Paris, France / 谷崎由依訳 / 本書初出
 ハリーとレイチェルの夫婦はともに37歳。ハリーは元フットボール選手で、今はコース所属のプロゴルファーだ。レイチェルはフィギュアスケートからモデルに転身し、今は四人の子どもを育てている。家庭の危機を乗り切るため、二人は海外旅行に出かけた。行先はロンドンとパリ、二週間。ロンドンからパリに向かう社内で、二人は二組のカップルと出合う。老夫婦と若者だ。
 二週間の旅行が「駆け足の短い旅行」なんだなあ、なんて本筋と関係ない所で考え込んだり。こういうのも、翻訳物を読む楽しみの一つ。ハリーとレイチェルはいずれも元スポーツ選手なだけに、華やかな青年期から体力が落ちる壮年期への変化は厳しい。それの対照がアーサーとマリー、60代半ばの老夫婦と、初々しい若者のカップル。
都会 / City / 谷崎由依訳 / 本書初出
 彼はバスを待っている。なかなか九番は来ない。彼女もバスを待っている。また11番じゃなかった。
 都市で働く、ちょっと内気な若い二人の数分を切り取った作品。このまんま8頁ぐらいの漫画にしたらウケそうだなあ。

セクション5 働き甲斐 vs 富と名声
解説:ダン・ウェイイクフィールド / 鳴庭真人訳

夢の家 / More Stately Mansions / 宮脇孝雄訳 / コリアーズ1951年12月22日号
 私たち夫婦がこの村に住み着き、最初に温かく迎えてくれたのが、グレイスとジョージのマクレラン夫妻だった。ジョージは落ち着いていて無口だが、グレイスときたら。話し始めたら何時間でも延々としゃべり続ける。しかも話題は室内装飾の事ばかり。板張り、寝椅子、カーテン、絨毯、椅子。なんであれ素材や色について語りはじめたら止まらない。
 とにかくやたらと喋りまくる女っているよね、みたいな話かと思ったら。ある意味、グレイスはオタクなんだよなあ。関心が一つの事に集中してて、しかもやたら詳しく細かい点にも尋常にないこだわりを示す。そんなグレイスに巧みに寄り添うジョージがカッコいい。
ハイアニス・ポート物語 / The Hyannis Port Story / 伊藤典夫訳 / Welcome to the Monkey House 1968
 ハイアニス・ポートには、ケネディ大統領の夏の別荘がある。ちょっとした誤解が元で、防風窓のセールスマンのわたしは、大口の仕事を得た。ハイアニス・ポートにある四階建ての豪邸全部に防風窓を取り付ける仕事だ。依頼主はコモドア・ウィリアム・ハワード・タフト・ラムファード、筋金入りの共和党員だ。
 折り悪く発表時期がケネディ大統領の暗殺に重なり、暫くお蔵入りを余儀なくされた曰く付きの作品。背景に合衆国の現代政治史があり、疎いと分かりにくいかも。ドワイト・D・アイゼンハワーは二次大戦の欧州戦線で連合軍の総指揮をとり、後に大統領となる。バリー・ゴールドウォーターは共和党の上院議員。ケネディは民主党で当時の大統領。いずれも米軍出身である事に注意。
愛する妻子のもとに帰れ / Go Back to Your Precions Wife and Son / 大森望訳 / レイディーズ・ホーム・ジャーナル1962年7月号
 ぼくは防風窓のセールスマンだ。これはニューハンプシャー州に住んでいた時の話で、人気女優のグローリア・ヒルトンと、その五番目の夫の家に、浴槽囲いを取り付ける仕事を請け負ったんだ。残念ながらグローリア・ヒルトンとはあまりお近づきになれなかったが、その五番目の夫で作家のジョージ・マーラとは、商売の話をした。
 また出ました防風窓のセールスマンw 他人の家の中に数日間も入り込むっていう仕事の性質が、小説の語り手として便利なんだろう。実際に親しい人でもいたんだろうか。にしても、なんちゅうオチだw
嘘 / The Lie / 大森望訳 / サタディ・イヴニング・ポスト1962年2月24日号
 レメンゼル一族は長く続いた豊かな一家だ。いずれも全寮制の私立男子校の名門、ホワイトヒル・スクールを卒業している。というのも、ホワイトヒルはレメンゼル家の多大な寄付に支えられているからだ。今日、レメンゼル医師と妻は、13歳の息子イーライの入学手続きのためホワイトヒルに向かう。だがイーライは浮かない顔で…
 「ハイアニス・ポート物語」に続き、代々続く裕福な一族を描く物語。冒頭から続くレメンゼル夫婦の一族自慢は、なかなかに苛立たしいw そんな中、黒のロールスロイスを「この子」と呼ぶ運転手のベンの言葉は、ちょっとした清涼剤。きっと可愛がってるんだろうなあ。ちと厳しいオチではあるが、レメンゼル医師はかなりマシだと思うんだけど、どうですかね。
工場の鹿 / Deer in the Works / 大森望訳 / エスクァイア1955年4月号
 29歳のデイヴィッドは、地域の主観新聞を発行している。双子の男の子に加え、このたび双子の娘も授かった。将来の事も考え、安定した収入を得たいと思い、巨大企業のフェデラル電気工業イリアム工場の入社面接を受けに来た。主な募集人員は機械のオペレーターだが、幸い広報宣伝部に空きが見つかった。
 これまたお話の中身より、冒頭の入社面接の様子に気を取られてしまった。就職希望者が列をなしてる場面から始まるから、よほど厳しいのかと思ったが、なんともまあ。現代の若者が読んだら、「なんてユルくて贅沢な!」と叫びそうな就職事情だ。だって、たった一日で全米屈指の大企業の正社員になれるんだから。
お値打ちの物件 / Any Reasonable Offer / 浅倉久志訳 / コリアーズ1952年1月19日号
 不動産業を営むわたしのところに、年配のベッカム大佐夫妻がやってきた。いかにも羽振りの良さそうな夫婦で、手ごろな物件を探している。最初に案内したのはミスター・ハーティーの屋敷で、温室にプールに厩舎まである豪邸だ。ベッカム夫妻は屋敷が気に入ったらしく、じっくり屋敷を見ていた。大きな商談がまとまりそうだと喜んだが、三日過ぎても連絡がない。
 当時は1ドル360円で…とか換算しても空しくなるだけだから、やめよう。確かにヘルブラナー夫人の物件が相応しい者の手に渡るまでには、かなりの時間が必要だろうなあw インターネットが発達した現在ならともかく、当時は広報するにしたって費用が…いや、相応しい雑誌を選べばなんとかw えっと、つまり、優雅な休暇を安上がりに過ごす方法を教えてくれる作品です。
パッケージ / The Package / 浅倉久志訳 / コリアーズ1952年7月26日号
 アール・フェントンは苦学して大学を卒業し、がむしゃらに働いて事業を切り盛りした末に、引退して全自動豪華な家を建てた。妻のモードとの海外旅行から帰り、新居に足を踏み入れたとたん、大学時代の同級生チャーリー・フリーマンから電話が入った。チャーリーは豊かな家に育ち、振る舞いもソツがなかった。だが今のチャーリーはどこか妙で…
 本当に出来のいい人ってのは、確かにいるもんで。育ちが良く、立ち居振る舞いが優雅で、優れた能力があり、多くの人から慕われ、なおかつ性格もとびっきりいい。ただ、育ちが貧しい者から見ると、どうも素直に見れないんだよなあ。とはいえ、先の「嘘」の医師同様に、アールにもちゃんと「何を貴ぶべきか」が分かっているのが、かすかな救いだと私は思う。人生は長いんだし。
貧しくてゆたかな町 / Poor Little Rich Town / 浅倉久志訳 / コリアーズ1952年10月25日号
 ニューエル・ケイディが事業を立て直す腕前は見事なものだ。今のケイディはフェデラル電気工業と契約している。ニューヨーク州イリアムに新しいオフィスを作るのだ。この計画が進めば、眠ったようなスプールズ・フォールズにも活気が戻る。というのも、ニューエルが屋敷の一つを借りたからだ。町の名士がこぞって彼を歓迎しようと策を練るが…
 ニューエル・ケイディの造形が滅茶苦茶楽しい。彼が郵便局のミセス・ディッキーと交わす会話で、彼の人物像がクッキリわかる。モデルはロバート・マクナマラかな、と思ったけど時代的に違うかも。要は理系のキレ者で合理化の鬼。これに対するスプールズ・フォールズの面々が開くホビー大会も、いかにもアメリカの田舎町らしくて大笑い。なんじゃその玉ってw
サンタクロースへの贈り物 / A Present gor Big Saint Nick / 浅倉久志訳 / アーゴシー1954年12月号
 ビッグ・ニックはアル・カポネの後継者と目されている。彼はクリスマスの直前にパーティーを開く。招かれるのは、幼い子供がいる部下の一家だ。元ボクサーのオヘアはニックのボディガード。当日の朝、オヘアは妻のワンダと四歳の息子のウィリーを連れ、プレゼントを選びに来た。だがウィリーはサンタクロースに怯え…
 ユーモア作家としてのヴォネガットと、その相棒としての訳者・浅倉久志の、巧みなコンビネーションが堪能できる作品。ビッグ・ニックが仕切るパーティーの場面は、テンポのいい演出の舞台で演じたら、笑いが止まらないと思う。特にジングル・ベルの歌には爆笑w 私はこういうしょうもないギャグが大好きだw
自慢の息子 / This Son of Mine / 浅倉久志訳 / サタディ・イヴニング・ポスト1956年8月18日号
 マール・ワゴナーはポンプ工場を立ち上げ、遠心ポンプでは世界一にまで育て上げた。借入金もなく、ゼネラル鉄鋼から二百万ドルで買いたいと申し入れがある。マールは息子フランクリンを連れ工場のルディの所に来た。マールが最初に雇ったのがルディで、優れた旋盤工だ。ルディの息子カールも旋盤工で、腕もいい。四人でクレー射撃に行こうという話になり…
 大学に通う優秀な息子を自慢したいが、将来の事では親子で意見が異なる成功者のマール。腕のいい旋盤工として着実な人生を選び、聞き分けのいい息子と巧くやっているルディ。親の心子知らずとは言うが、子の心も親には分かんないんだよなあ。
魔法のランプ / Hal Irwin's Magic Lamp / 伊藤典夫訳 / コスモポリタン1957年6月号
 ハル・アーウィンは証券会社で働き、コッソリと株に手を出し大金を稼いだ。稼いだことは妻のメアリにも言わず、大邸宅を買い入れ、秘密のプレゼントとしてメアリを驚かせようと考えていた。今までは質素な暮らしだったが、これでメアリも喜んでくれるだろう。だがメアリは今までの暮らしに満足しており…
 ハルのセンスは、さすがにアレではある。どうせなら少しは演技の心得がある者を雇えばいいのに←そうじゃないだろ。まあ、仕事に入れ込んでる男にセンスとか女心の理解とかを求めても無駄ではあるんだが。公民権運動が盛り上がりつつある時代を背景とした物語。
ヒポクリッツ・ジャンクション / Shout About It from the Housetops / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 防風窓のセールスマンのぼくは、飛び込みでヒポクリッツ・ジャンクションのその家に売り込みをかけた。出て来た若い男はパジャマのままで、世界中を憎んでいるような顔をしていて、とりつくしまもない。帰ろうとした時、運よく奥さんを見かけ、さっそく売り込みを始めたが、そこで知ったのはこの夫婦が有名人だということだった。
 はい出ました防風窓セールスマン・シリーズw 教育委員会からクビを宣告される作品って、そりゃぜひ読んでみたいw 本が売れると、本当にそういう事が起きるんだろうか。グレッグ・イーガンの素顔は誰も知らないという伝説があるんだけど。
エド・ルービーの会員制クラブ / Ed Luby's Key Club / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 ハーヴとクレアのエリオット夫妻は、14回目の結婚記念日を祝おうと、例年通りその店に来た。その店は、かつてアル・カポネのボディガードだったエド・ルービーが営んでいる。生憎と店は会員制に変わり、夫妻は門前払いを食らう。ばかりか、ルービーが他の客を殴り殺す所を目撃してしまい…
 マフィアが支配する町で無実の罪を着せられた男が、身の潔白を晴らそうと奮闘するサスペンス作品。なんだけど、そこはヴォネガット。ロバート・B・パーカーのようなハードボイルド・タッチにはなるはずもなく。じわじわと恐怖が高まっていく中盤はともかく、終盤の手術室の場面は、やっぱりドタバタ風味のユーモアが漂っている。私はこういうヴォネガットが好きだ。
この宇宙の王と女王 / King and Queen of the Universe / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 大恐慌が吹き荒れた1932年。ヘンリーとアンはどちらも17歳。いずれも名家に生まれ、やがて結ばれる運命を素直に受け入れていた。パーティの帰り、セントラル・パークを歩いている時に、二人は妙な男に出会う。その名もスタンリー・カルピンスキー、貧しそうな若い男だ。スタンリーは自宅に二人を招き…
 いかにもマッド・サイエンティストなカルピンスキーが出てくるから、SFになるかと期待したんだが、まあ仕方がないか。成功を夢見てアメリカに渡ってきたポーランド人の母子と、人生の初めから成功を手に入れている若者二人の出会いを描いた作品。ヴォネガットが若いころの作品だと思う。
年に一万ドル、楽々と / $10,000 a Year Easy / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 ニッキー・マリーノの父は偉大なテノール歌手だったが、29歳で世を去った。ニッキーも父に続くべく、ジーノ・ドンニーニにボイス・トレーニングを受けているが、今のところはまったく芽が出ず、素寒貧だ。二日後に引っ越しを控えたぼくは、挨拶がてらニッキーを訪れた。彼に10ドルを貸していたのだ。
 今さら気が付いたんだが、誰を語り手にするかってのが、小説じゃ大事なんだなあ。語り手の「ぼく」は、ニッキーともジーノとも親しいけど、引っ越しでしばらく会えない。この距離感があってこそ、この作品は盛り上がる。
金かものを言う / Money Talks / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 ベン・ニクルスンは27歳、ケープコッドで食料雑貨店を営んでいる…今日までは。店は既に債権者の手に渡った。午後七時、最後の客が入ってきた。黒い大きなキャデラックに乗った若い女だ。キャデラックとは不似合いな安っぽいコートを着て、妙におびえた雰囲気がある。道に迷ったらしい。行き先はキルレイン・コテージ、19部屋もある豪邸だ。
 デカいキャデラックと、安物のコートの組み合わせで「はて?」と思わせて、噂話で見当をつけさせる。なんて語り口は定石どおりだけど、屋敷に入った後はタイトル通りって、おいw
人みな眠りて / While Mortals Sleep / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 新聞社の社会部長フレッド・ハックルマンは40代半ばで独身。記者としての腕はとびきりだが、部下や他の部署の者にも同じ水準を求める。ニュースを求める執念は猟犬並みで、クリスマスもへったくれもない、どころか心底憎んでいる。そんなハックルマンに最悪の仕事が回ってきた。野外イルミネーション・コンテストの広報だ。さっそく彼は部下のぼくにおはちを回し…
 なぜ新聞記者? 刑事の方がいいのでは? とか思ってたら、そうきたかw 「エド・ルービーの会員制クラブ」同様に、ハードボイルド作品を書こうとしたけど、やっぱりヴォネガット味になってしまった、そんな感じがする。
タンゴ / Tango / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 ビスコンテュイットは海辺の町だ。大邸宅が集まり、住んでいるのは相応しい者だけ。よそ者の車が迷い込むと、警備員が追い返す。ぼくはそこで、大学入試を控えた若者の家庭教師をした。若者の名はロバート・ブルーア、筋金入りのお坊ちゃんだ。ぼんやりしているが、悪い奴じゃない。あるパーティーでロバートはタンゴに惚れ込み、自室でコッソリと踊り始めた。
 映像化したら、さぞかし面白いものになると思うんだが、ミュージカルの短編ってあるんだろうか? いやタンゴって難しそうだけど、踊りにはキレとメリハリがあるから、ギャグに仕立てると無茶苦茶ハマりそうな気がする。しかしヴォネガットの描く若者って、覇気はなくても品はいい人が多いなあ。
ペテン師たち / The Humbugs / 大森望訳 / While Mortals Sleep 2011
 画家のダーリング・ステッドマンは、もうすぐ60歳になる。大成功はしていないが、着実に稼いでいる。抽象画が多い芸術村にアトリエを構えているが、描くのは古典的な風景画で、観光客のウケもいい。妻のコーネリアは夫が天才だと信じているが、本人は自分の腕はたいしたもんじゃないと思っている。ある時、若い抽象画家のラザロと勝負する羽目になり…
 絵の事はよくわからない。でも小説なら、少しは。ケン・リュウのように、幾つもの芸を奇術師のように繰り出す人がいる。対してレイ・ブラッドベリは優れた作家ではあるけど、実は不器用な人だと私は思っている。だって、何を書いてもブラッドベリ味になるんだもん。でも、ファンにしてみたら、そのブラッドベリ味こそが他の何物にも代えられない彼の魅力なのだ。本人がどう思おうと。

 ヴォネガット本人はSF作家と呼ばれるのを嫌がっていたし、この作品集のどこがSFかと言われると実に困るんだが、そこはアレです、「ヒポクリッツ・ジャンクション」はオチの解釈次第でそうなりませんか。オチのキレは「ローマ」もいい。「嘘」や「パッケージ」で、失敗を描きつつも失意ではないあたりが、ヴォネガットの芸風なんだろうなあ。

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2019年5月24日 (金)

ティム・ハーフォード「50 いまの経済をつくったモノ」日本経済新聞出版社 遠藤真美訳

この本は、紙、バーコード、知的財産、文字など、50の発明をとりあげて、世界経済はどのように動いているのか、その知られざる物語にスポットライトを当てる。
  ――はじめに

1960年代初めには、世界の商品貿易額は世界国内総生産(GDP)の二割に満たなかった。それがいまでは五割前後になっている。
  ――17 輸送用コンテナ

貨幣とは債務なのである。
  ――20 取引できる債務とタリースティック

都市の光景はひっくり返ろうとしていた。そのきっかけをつくったのは、エレベーターを発明した男ではなく、エレベーターのブレーキを発明した男だった。
  ――22 エレベーター

グレース・ホッパー「いままで誰もそんなことを考えなかったのは、みんな私のようにものぐさではなかったからだ」
  ――29 コンパイラ

iPhone の開発の基礎をつくったのはスティーブ・ジョブスではない。アンクル・サムだったのだ。
  ――30 iPhone

世界の財の輸送コストのうち、燃料は約七割を占める。科学者のバーツラフ・シュミルは、グローバリゼーションの原動力がディーゼルではなく蒸気だったら、貿易の発展はずっと遅くなっていただろうと指摘している。
  ――31 ディーゼルエンジン

原油生産量の約8%がプラスチック生産に使われており、うち半分の4%が原材料、残り4%がエネルギーになる。
  ――36 プラスチック

「いま年収七万ドル稼ぐのと、1900年に七万ドル稼ぐのと、どちらがいいですか」
  ――50 電球

【どんな本?】

 エルトン・ジョンとペーパーレス・オフィスの関係は? 40年間、ある発明を禁止することで、日本の社会が被った影響とは? FRB議長と元の皇帝フビライ・カンの共通点は?

 人類の歴史は、様々な発明に彩られている。必要に迫られて生み出されたものもあれば、たまたま巧くいったものもある。車輪のように他の発明の基礎となったものもあれば、他の発明を幾つも組み合わせたものもある。それ自体で便利に使えるものもあれば、しくみ全体の改革を促すものもある。

 発明の経緯が様々なら、それが生み出す結果も多種多様だ。風が吹けば桶屋が儲かる的に、一つの発明が思わぬ所で役に立ったり、または大きな損害をもたらす場合もある。

 発明から始まるバタフライ効果の例50個をジャーナリストがまとめた、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は FIFTY THINGS : That Made the Modern Economy, by Tim Harford, 2017。日本語版は2018年9月21日1版1刷。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約391頁に加え、訳者あとがき3頁。9.5ポイント42字×17行×391頁=約279,174字、400字詰め原稿用紙で約698枚。文庫本なら少し厚い一冊分ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい物が多い。敢えて言えば世界史を少し知っていた方が楽しめるが、知らなくても特に問題はないだろう。

【構成は?】

 それぞれの項目は独立しているので、気になった所だけを拾い読みしてもいい。

  • 1 ブラウ
  • はじめに
  • Ⅰ 勝者と敗者
  • 2 蓄音機
  • 3 有刺鉄線
  • 4 セラーフィードバック
  • 5 グーグル検索
  • 6 パスポート
  • 7 ロボット
  • 8 福祉国家
  • Ⅱ 暮らし方を一変させる
  • 9 育児用粉ミルク
  • 10 冷凍食品
  • 11 ピル
  • 12 ビデオゲーム
  • 13 マーケットリサーチ
  • 14 空調
  • 15 デパート
  • Ⅲ 新しいシステムを発明する
  • 16 発電機
  • 17 輸送用コンテナ
  • 18 バーコード
  • 19 コールドチェーン
  • 20 取引できる債務とタリースティック
  • 21 ビリーブックケース
  • 22 エレベーター
  • Ⅳ アイデアに関するアイデア
  • 23 楔形文字
  • 24 公開鍵暗号方式
  • 25 複式簿記
  • 26 有限責任株式会社
  • 27 経営コンサルティング
  • 28 知的財産
  • 29 コンパイラ
  • Ⅴ 発明はどこからやってくるのか
  • 30 iPhone
  • 31 ディーゼルエンジン
  • 32 時計
  • 33 ハーバー=ボッシュ法
  • 34 レーダー
  • 35 電池
  • 36 プラスチック
  • Ⅵ 見える手
  • 37 銀行
  • 38 カミソリと替え刃
  • 39 タックスヘイブン
  • 40 有鉛ガソリン
  • 41 農業用抗生物質
  • 42 モバイル送金
  • 43 不動産登記
  • Ⅶ 「車輪」を発明する
  • 44 紙
  • 45 インデックス・ファンド
  • 46 S字トラップ
  • 47 紙幣
  • 48 コンクリート
  • 49 保険
  •  結び 経済の未来
  • 50 電球 
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 「世界を変えた6つの『気晴らし』の物語」や「人類を変えた素晴らしき10の材料」に似た面白さがある。

 つまりはアイデアやテクノロジーが、私たちの暮らしをどう変えたか、という話。で、違うのは、大きく分けて三点。

 ひとつは、著者の立場だ。本書の著者は経済学に詳しい。そのためか、「ソレがGDPを何%押し上げたか、または費用が掛かったか」などの数字が出てくる。数字が好きな人に、こういうのは嬉しい。いや私の事なんだけど。もっとも、その大半は「○○の試算によれば」的な断り書きがつくんだけど、とりあえず数字が出てくれば見当がつけやすいのだ。

 次に、扱うモノの数が多いこと。これは良し悪しで、料理で言えば小皿が次々と出てくる感じだ。バラエティ豊かな味を楽しめるのはいいんだが、それぞれの量が少ないため、ちょっと食い足りない気分も残る。もっとも、その辺は、例えば「3 有刺鉄線」は「鉄条網の歴史」を、「17 輸送用コンテナ」は「コンテナ物語」を、「44 紙」は「紙の世界史」を読めばいいんだけど。

 そして最後に、発明が社会に与えた影響を大きく取り扱っていること。特に利益だけでなく、費用や損害についてもキチンと書いているのが特色だろう。

 パッと見ても分かるのが「40 有鉛ガソリン」で、ガソリン・エンジンの効率を上げる反面、都市に住む人に多大な健康被害をもたらした。ハーバー=ボッシュ法は人類を飢餓から救ったが、困った副産物も創り出してしまった。詳しくは「大気を変える錬金術」をどうぞ。いやマジであの本は傑作です。

 私のようなオッサンは、「流しのギター弾き」なる存在を知っている。だがカラオケにより彼らは駆逐された。昔は多少ギターが弾けて愛想がよければ食っていけたが、今は相応の技術とセンスとルックスとコネと若さがないと無理だ。それもエジソンの蓄音機に始まる録音・再生技術の発展によるもの。ジェフ・ベックの妙技に慣れた者は私のギコギコ音なぞ騒音としか思わない。おのれエジソン。

 だが、お陰で私はいつでもエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード(→Youtube)」を楽しめる。二流三流のミュージシャンは淘汰され、一流ミュージシャンは大金を稼ぐ。「上位1%のアーティストのコンサート収入は、下位95%のアーティストの収入を合計した額の5倍を超える」という、たいへんな格差社会になってしまった。

 今や音楽は聴くものであって自ら演奏するものではない…と思ったが、「隠れた音楽家たち」によると、1980年代まではソレナリに生き残っていた様子。日本でも繁華街には楽器屋もあるし、暫くは大丈夫かな? ちなみにクラシック界にも大変動が起きてて、それについては、「音楽の進化史」が詳しいです。

 著者が気づいているかどうかは風明だが、実は似たような変化が19世紀に起きている。主役はチャールズ・ディケンズ、イギリスのベストセラー作家だ。当時のアメリカは新興国で、ディケンズ作品の違法コピーを新聞が堂々と載せていた。まるでちょっと前の日本のアニメと中国の関係だね。これに怒ったディケンズは、1842年にアメリカに渡り抗議するが、新聞に袋叩きにされてしまう。

 幸い晩年になって、ディケンズは大きな利息を手に入れる。25年後に再びアメリカを訪れたディケンズは、公開朗読会で大儲けするのだ。違法コピーによって彼の名は多くの人に知れ渡り、大人気になっていた、というオチ。

 これを今のポピュラー音楽で言うなら、無料配信で名を売りライブで稼げって形か。ちなみに既に20世紀に成功させた人たちもいて、その名をグレイトフル・デッドと言います。まあ知的財産にはご存知のような利害があって、私は「Free Culture」が唱える形が現実的かな、と思ってます。一定期間は全部を無料で保護するけど、それ越えたら延長料を払ったモノだけ保護するって形。

 ちょっと前に某銀行の情報システム改修が話題になった。これにピッタリ合致する例が、「16 発電機」に出てくる。19世紀末から20世紀初頭のアメリカの製造業で起きた、蒸気機関から電気駆動への置き換えだ。これが、意外にも手間取った。

 蒸気機関はデカく、気難しい。起動にも停止にも時間がかかる。だから工場全体で一個の大型蒸気機関を置き、その動力を工場全体にシャフトなどで配っていた。当時の工場は壮観だろうなあ。

 そんなんだから、当時の工場を設計する際は、蒸気機関を中心に考えていた。工場だけじゃない。人員配置も、製造工程も、蒸気機関が支配していた。いかに巧く蒸気機関を使いこなすかが、工場の経営のカギだったのだ。

 これが電気駆動だと全く違ってくる。蒸気ボイラーに比べたら電気モーターは豆粒だ。すぐ動くしシャフトで動力を伝える必要もない。電線をひいてもう一つモーターを足せばいい。蒸気機関は工場全体の動力を賄うが、電気モーターは必要なラインだけを動かせばいい。

 つまり、蒸気機関から電気への移行は、工場経営の概念そのものを変える必要があったのだ。これに時間がかかったのだ。

 これが某行とどう関係してるかというと、あそこ既存システムを単に合体させただけなんだよね。業務の基本概念は変えてない。だから無駄に手間が増えてる。これを本書では、コンピュータ導入による効果の大小で論じてる。曰く、コンピュータに合わせて経営を変えれば効果は大きいが、経営に合わせてコンピュータを組み込んでも成果はない、と。日本でホワイトカラーの生産性が上がらないのも、そういう事だろう。

 さて、その某行でかつて活躍していたのが、「29 コンパイラ」に出てくるCOBOL。もっとも主役を務めるのはその母グレース・ホッパーだけど。

 彼女の言葉が、FORTRAN の開発者ジョン・バッカスとソックリなのが笑える(→Wikipedia)。ちなみに PERL の開発者 Larry Wall 曰く、「プログラマの三大美徳は怠惰・短気・傲慢」。加えてCOBOLのライブラリが充実していく過程は、Linux のデバイス・ドライバが充実していく様子とソックリだったりw ったく、この半世紀でコンピュータは進歩してるのに、プログラマはほとんど進歩してないw

 などと、ハードウェア・ソフトウェア・概念などを取りまぜ、面白ネタを次から次へと紹介してくれるのが、本書の楽しいところ。もっとも、私のように妄想逞しい者が読むと、そっちに気を取られてなかなか頁がめくれないのが欠点かも。

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2019年5月22日 (水)

大森望監修「カート・ヴォネガット全短編2 バーンハウス効果に関する報告書」早川書房

「愛に対してまったく免疫を持たない人間は、あじめて愛にさらされたとき、ショックで死に至る危険がある」
  ――ジェニー

教授があとどれぐらいいきながらえるだろうかとたずねることは、いつまで待てばつぎの世界大戦という祝福がさずかるかと、たずねることにひとしい。
  ――バーンハウス効果に関する報告書

「この世の厄介ごとは」ケーニヒスヴァッサーが言った。「人が多すぎることじゃない――体が多すぎるってことだ」
  ――衣替えには

「これ、気味が悪いわ、ヘンリー。すごく怖い。わたしの考えを聞いて、返事をするのよ」
  ――耳の中の親友

人が想像できる技術の進歩は、いつの日か、科学者の手によって現実のものになる。
  ――ティミッドとティンブクツーのあいだ

「こんどはだれになるんです?」
  ――こんどはだれに?

「いいえ、わたしたちは貧しくない! というか、今夜までは貧しくなかったのに」
  ――恋に向いた夜

【どんな本?】

 「プレイヤー・ピアノ」「スローターハウス5」「猫のゆりかご」「タイタンの妖女」など、シニカルながらも温かみのある芸風でSFファンにもお馴染みのアメリカの人気作家カート・ヴォネガット。彼が遺した短編をまとめ、8個のテーマ別に並べた「COMPLETE STORIES」が、日本では四分冊に分かれての刊行となった。

 この巻「バーンハウス効果に関する報告書」では、「女」「科学」「ロマンス」の3セクションを収録。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は COMPLETE STORIES, by Kurt Vonnegut, 2017。2018年11月25日初版発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約423頁に加え、ジェローム・クリンコウィッツの解説「1950年代のアメリカ短編小説と個人事業主カート・ヴォネガット」鳴庭真人訳11頁+小川哲の解説6頁。9.5ポイント44字×20行×423頁=372,240字、400字詰め原稿用紙で約931枚。文庫なら上下巻に分けてもいい分量。

 いずれの作品も文章はこなれていて読みやすい。SFもあるが、1950年代の作品だけに、難しい仕掛けはほとんどない。むしろ、当時のSFなので、時代背景が分からないとピンとこないかもしれない。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 原題 / 訳者 / 初出。

セクション2 女(承前)

ジェニー / Jenny / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 ジョージ・カストロはゼネラル電器のベテラン営業員だ。特製の最新型GHA冷蔵庫ジェニーをトラックに積み、家電販売店をめぐるセールス旅行で一年を過ごす。伝言を頼まれたぼくは、ジョージを追いかけた。「ジョージの前妻ナンシーが危篤だ。亡くなる前にひと目ジョージに会いたがっている」。ジョージはジェニーと軽快な漫才を演じ、見事に客を集めている。
 ジェニーのボディは冷蔵庫だが、最新技術で特別に改造してある。人の声でしゃべり歌い、必要なら歩く。ジョージとは見事に息の合ったショウを繰り広げる。ヴォネガットがいつこの作品を書いたのかはわからない。でも、あまりに見事に現代日本の風俗を予言しているのに驚いた。とはいえ、ジョージの人生は、これはこれで幸福なんじゃないかと思ってしまう。
エピゾアティック / The Epizootic / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 ミリカンは大手の保険会社、アメリカン安心公正生命損害保険会社の社長だ。優れた手腕を評価され、46歳の若さで社長になった。その会社は現在、危機に瀕している。生命保険会社は平均寿命68年という計算を前提として経営している。だが、二万ドル以上の生命保険に加入している既婚のアメリカ人男性の平均寿命が、たった六ヶ月で47歳になってしまった。
 謎の疫病、エピゾアティック。家庭を持ち、家族を愛する、働き盛りで豊かな男たちの命を奪っていく。普通のSF作家なら医学や生理学を絡めるところを、生命保険会社の視点で描くあたりがヴォネガット流だろう。熾烈な競争が続く合衆国のエリート社会や、金融業が歪に発達した経済構造を揶揄しているようにも読める。セクションとしては「女」というより「男」が相応しいかな、とも思ったり。
百ドルのキス / Hunddred-Dollar Kisses / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 ヘンリー・ジョージ・ラヴェル・ジュニア、33歳。オハイオ州イーグル相互損害補償会社インディアナポリス支社記録課の課長。彼は同じ会社に勤めるヴァーン・ペトリを電話機で殴った疑いで逮捕され、取り調べを受けている。ヴァーンとは部署も違い、昇進を争っているわけでもない。
 警察の取り調べ記録の形で進む作品。これまたセクションは「女」より「男」が相応しい作品。彼らの職場の雰囲気の緩さは、日本だと昭和の雰囲気だなあ。ほんと、野郎ってのはしょうもない生き物で。
ルース / Ruth / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 テッドは軍人のルースと結婚し、新婚五カ月で海外に赴任し、そこで亡くなった。テッドの子を身ごもったルースは、テッドの母ミセス・フォークナーを訪ねる。二人が会うのは初めてだ。どのように迎えられるか、期待と不安を抱えたルース。それに対してミセス・フォークナーは、テッドの子どもの頃の思い出の品を並べた棚を見せ…
 テッドは一人息子なんだろうなあ。結婚する前に、相手の親と顔も合わせないってのは、日本の感覚じゃだいぶ奇妙だけど、アメリカの、特に軍だとよくあるんだろうか? なんにせよ、嫁と姑の関係ってのは難しい。しかも、夫を喪い女手一つで育てた一人息子ともなればなおさら。ルースも軍人の娘ってのが、キモの一つかも。
消えろ、束の間のろうそく / Out, Brief Candle / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 アニーは四十代半ば。牧場を営む夫を喪い、彼の遺した財産でゆっくりと老いを迎えるつもりだった。近所の人達ともほどほどに付き合い、静かに余生を過ごそうと。唯一の例外は、ニューヨーク州スケネクタディから届く手紙だ。相手は雑誌で見つけたジョゼフ・P・ホーキンズ。雑誌で見つけた文通相手で、行間からアニーの気持ちを察し、誌的な美しい文章を綴ってくれる。
 昔は雑誌に文通相手を募集するコーナーがあったんです。最近だとメル友募集の電子掲示板に変わっちゃってるけど。昔も今も、出会い系みたいな商売の需要は絶えないようで。皮肉で哀しくて、でもユーモアがあって、ほんの少しだけ優しいオチが切ない作品。
ミスターZ / Mr. Z / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 ジョージは父も祖父も田舎の牧師だった。朝鮮で従軍した跡は牧師になろうと大学に入り、神学に加え犯罪学の講座も受けた。実習では受刑者との面会が必要で、ジョージはグロリアを受け持つことになった。彼女の罪状は盗品所持。夫のバーナードが盗んだ物と思われるが、バーナードは巧く逃げおおせた。意外なことにグロリアは高いIQの持ち主で…
 田舎育ちで牧師の倅の生真面目なジョージと、賢いながらもドロップアウトしたグロリア。いかにもお坊ちゃんなジョージに反発するグロリアの気持ちもわかるなあ。むしろ、そんなグロリアに興味を持つジョージの方が、よくわからない。
スロットル全開 / With His Hand on the Throttle / 大森望訳 / White Mortals Sleep 2011
 アール・ハリスンは精力的に建築会社を営んでいる。特に贅沢はせず、若い妻のエラと二人で暮らしている。だが鉄道模型だけは別だ。休日ともなれば地下室にしつらえた模型の帝国で、難しいダイヤを運行する。助手はホビーショップを営むハリー・ゼラーバックだ。その土曜日には、アールの母親も訪ねてきていた。
 趣味に入れ込んだ男のしょうもなさを徹底的に描いた作品。いや男というより男の子だね。にしたって、たまの夫婦そろってのお出かけで、どこに行くんだかw 麻薬常用者は巧い例えだw こういう状態の男どものメシなんか、ピーナツバターを塗っただけのサンドイッチで充分なのにw 母ちゃんの雷も見事だけど、その後もひたすらしょうもないw
川のほとりのエデン / Eden by the River / 宮脇孝雄訳 / 本書初出
 森の中を、少年と少女は歩いてゆく。小さく青い石を蹴り飛ばしながら。少年は17歳、少女は19歳。猟師とすれちがったときは、他人同士のような顔をした。
 17歳と19歳で石蹴りとは、なんとも子供っぽいことよ、と思わせて…そう来たか。最後の一行で綺麗に落とす短編。
失恋者更生会 / Lovers Anonymous / 浅倉久志訳 / レッドブック1963年10月号
 才色兼備のシーラ・ヒンクリーは、地元のみんなの憧れだった。にも関わらず、大学を中退してハーブ・ホワイトと結婚した。高卒の事務屋と。結婚式の夜、失意の男たちは失恋者更生会を結成した。酔った勢いでできた会だが、今でも続いている。もっとも、既にみんなそれぞれに家庭を持っている。そんな連中に、妙な噂が流れてきた。シーラとハーブの仲が巧くいってない、というのだ。
 失恋者更生会ったって、つまりは似た年頃の気の合う野郎どもが集まって騒ぐだけなんだけど、そういう緩いつながりってのは案外と長く続くもので。と共に、地元住民の噂ネットワークの恐ろしさも伝わってくる。これまた最後の一行で綺麗に落とす作品。

セクション3 科学
解説:ジェローム・クリンコウィッツ / 鳴庭真人訳

となりの部屋 / Next Door / 伊藤典夫訳 / コスモポリタン1955年4月号
 その夜、8歳のポールは一人でお留守番をしていた。隣のバーガー家との壁は薄く、大きな声で騒ぐと迷惑をかけてしまう。ポールが顕微鏡で遊んでいる時、バーガー家からラジオの音楽が流れてきた。それにかぶさるように、男女が怒鳴り合う声が聞こえてくる。競うように、ラジオの音も大きくなるが…
 国土の広いアメリカには、地元向けの小さいラジオ局がたくさんある。今は多くがFMだけど、初出が1955年だから、AMだろうなあ。今と違い、昔はラジオを聴く人も多かった。だってそれ以外ないんだし。そんな世の中だからこそ、成り立つ作品。関係ないけど、やはりラジオ局が絡む映画として「タイムズ・スクエア」は青春映画の傑作です。百合だし。ポール君に幸運あれ。君にはそれが必要だw
バーンハウス効果に関する報告書 / Report on the Barnhouse Effect / 浅倉久志訳 / コリアーズ1950年2月11日号
 バーンハウス教授は、たいへんな発明をした。心の力を解放し、特定の目標に当てることができる。威力は原爆を遥かにしのぎ、射程距離は地球全土に及び、防衛策は見つかっていない。だが、その力を使えるのはバーンハウス教授ただ一人だ。しかも、今は教授がどこにいるのか、誰も知らない。そのため、全世界は武装解除を余儀なくされた。
 平凡で冴えない独身で学究肌の中年男が、無敵の力を手に入れたら、どうなるか。当時はアメリカとソ連が核兵器を突きつけ合う冷戦のさなかだけに、政府が考えるのはそういう方向なのだが…。スーパーヒーロー物っぽい設定も、ヴォネガットが料理すると、こうなるのか。バーンハウス教授の訴えに激しくうなずく人も多いだろう。
ユーフィオ論議 / The Euphio Question / 宮脇孝雄訳 / コリアーズ1951年5月12日号
 物理学者のフォレッド・ボックマン博士は、電波望遠鏡で奇妙な発見をした。何もない宇宙空間から、強力な電波信号を受信したのだ。しかも、一つじゃない。約五十カ所も。それを音波に変調したものが、<ボックマンのユーフォリア>だ。これには奇妙な効果があり、ラジオ局のアナウンサーのルウ・ハリスンは一儲けを企んで…
 Wikipedia によると最初の電波望遠鏡は1940年だとか。とすると、ヴォネガットも意外と熱心に最新科学を学んでいたことになる。ユーフォリアの影響を試す場面は、ユーモア作家としてのヴォネガットと、訳の宮脇孝雄のコンビネーションが存分に堪能できる美味しいところ。ちなみにロシアがこの作品にヒントを得て開発したのが例のアレで…
衣替えには / Unready to Wear / 円城塔訳 / ギャラクシー・サイエンス・フィクション1953年4月号
 数学者のケーニヒスヴァッサーは精神の世界に暮らしていた。病気にかかるたびに、彼は肉体のわずらわしさに愚痴をこぼしていた。そして、彼は鮮やかな解決策を見いだしたのだ。お陰で私たち両生人は快適な人生が送れる。今、ボディは地域のストレージセンターで整備され、必要な時だけ借り出せばいい。
 ある意味、グレッグ・イーガンの諸作の先駆けとも言えるだろう。つまり、精神のアップロードを扱った作品だ。もっとも、アップロード方法は、50年代風にのどかで、かつヴォネガット流にやや間抜けな形だけどw にしても、マッジさんの執念には頭が下がりますw 真面目な話、AIが自我を獲得するには自前の身体が必要だって説もあって、その辺はどうなんだろうなあ。
エピカック / EPICAC / 円城塔訳 / コリアーズ1950年11月25日号
 エピカックの開発には7憶ドルを越える予算がかかった。予定では超計算機になるはずだったし、オルマンド・フォン・クライヒシュタット博士もそれを期待していた。問題は、ぼくとパット・ギルガレンが、夕方五時から深夜二時まで、同じシフトでエピカックの面倒を見ていたことだ。二人とも数学者で、ぼくは彼女にベタぼれだった。
 これまた当時の最新テクノロジー、コンピュータを扱った作品。入出力が紙テープだったりなど、細かい部分をいじれば、現代でも通用しちゃう話なのが切ないというか残念というか。最近はディープラーニングが話題で、確かに使えはするけど、「その先」を切り拓けるかというと、うーん。
記憶術 / Mnemomics / 浅倉久志訳 / コリアーズ1951年4月28日号
 会社がひらいた記憶術クリニックのお陰で、アルフレッド・ムーアヘッドの調子は上々だった。飛躍的に上がった記憶力のお陰で、書類を作るにしたってメモを調べる必要もなく、手早く書き終えられる。ただ一つの問題は、秘書のエレンとの関係が全く進展しない事で…
 おいおいアラン、大丈夫かw つか、なんで肝心のエレンを使わないw
耳の中の親友 / Confido  / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 ヘンリーは野心に乏しい技術者で、機械の組み立てと修理の腕はいいが、給料はそうでもない。そんなヘンリーは、職場の休憩時間を使って、こっそり新製品を組み立てた。名前はコンファイドー、イヤフォンをつけた小さなブリキ箱。いつもは引っ込み思案なヘンリーが、この時は自信ありげに妻のエレンに差し出した。
 あの ELIZA(→Wikipedia)が1966年だから、これも時代を予見した作品と言えるだろう。もっとも、ELIZA はもっと性格がいいけどw って、1950年代の作品だと思い込んでいたけど、違うのかな?
鏡の間 / Hall of Mirrors / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 催眠術師ウィームズの屋敷を、二人の刑事が訪れた。ベテランのフォルツと若手のカーニー。目的は、行方不明になった女ミセス・メアリの事情聴取。彼女は、この屋敷を訪れた後、消息を絶った。ウィームズの仕事は催眠療法。だが二人の刑事はウィームズが怪しいと睨んでいた。
 いかにもインチキ臭いスピリチュアル系商売の催眠術師と、二人の刑事の頭脳戦を描いた作品。
ナイス・リトル・ピープル / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 マドレインとの七回目の結婚記念日に、ローウェルは一本のペーパーナイフを拾った。中心に小さな石がはめ込まれている。ローウェルは百貨店の売り子で、稼ぎはほどほど。対してマドレインは不動産の営業でがっぽリ稼いでいる。家でペーパーナイフを取り出すと、石が外れて穴が開いている。そこから5~6mmほどの黒い虫が六匹ほど這いだし…
 たぶん書いたのは1950年代、SFパルプ雑誌向けだと思う。フレドリック・ブラウンやリチャード・マシスンやロバート・シェクリイに似た雰囲気を感じる。
ハイ、チーズ / Look at the Birdie / 大森望訳 / Look at the Birdie 2009
 バーのカウンターに座り、大声で憎い奴について話していた。そこに、妙な男が話しかけてきた。「あなたに必要なのは、殺人アドバイザーの冷静で賢明なサービスです」
 これまた1950年代のアメリカの短編小説っぽい、ヒネリの利いた作品。味わいとしてはロアルド・ダールが近いかも。あ、そこのあなた、真似しちゃいけません。
ティミッドとティンブクツーのあいだ / Between Timid and Timbuktu / 宮脇孝雄訳 / 本書初出
 デイヴィッド・ハーディングは若い画家だ。二週間前に妻を喪った。今、彼は時間について考えている。なんとか時を戻し、彼女ジャネットの元に帰りたい。窓の外を見ていると、老いた釣り人が溺れている。急いで助け出し、医者を呼んで人工呼吸を繰り返す。幸い老人は命をとりとめた。老人が意識を取り戻した時、何を言うかは決まっている、と医師は語る。
 やや長いながら、これまた50年代アメリカの短編小説の味わいの濃い作品。

セクション4 ロマンス
解説:ダン・ウェイクフィールド / 鳴庭真人訳

こんどはだれに? / Who Am I This Time? / 浅倉久志訳 / サタディ・イヴニング・ポスト1961年12月16日号
 町のアマチュア劇団の演目は『欲望という名の電車』に決まった。主役はハリー。ナッシュで決まりだ。彼の本職はミラー金物店の店員だが、優れた役者で芸幅も広い。ただ極端なはにかみ屋で、ミーティングにも出てこない。問題はヒロインのステラ役。若い女がいないのだ。幸い電話会社の機械操作を教えるため派遣されたヘリーン・ショーを見つけたが、これがとんだ大根で…
 『欲望という名の電車』を知らなくても大丈夫。実は私も知らない。このまま少女漫画にしてもいいぐらいの、甘い作品。なんならライトノベルのシリーズにしてもいいかも。
永遠への長い道 / Long Walk to Forever / 伊藤典夫訳 / レイディーズ・ホーム・ジャーナル1960年8月号
 ニュートとキャサリンは、隣同士の家で育った。その日、ニュートはキャサリンの家のドアをノックした。会うのは一年ぶりだろう。ニュートは軍の砲兵隊の上等兵だ。キャサリンは一週間後に結婚式を控えている。相手はヘンリー。ニュートはキャサリンを散歩に誘う。
 これまた読み切り少女漫画の原作みたいな作品。
恋に向いた夜 / A Night for Love / 浅倉久志訳 / サタディ・イヴニング・ポスト1957年11月23日号
 満月の夜。ターリーはラインベック研磨剤工業の警備員だ。妻のミリーに愚痴をこぼす。娘のナンシーは、帰宅予定時間を二時間も過ぎている。デートのお相手は社長ラインベックの息子だ。心配するターリーはラインベックに電話しようとするが…
 長く寄り添った二組の夫婦。片方は成功した社長、もう一方は雇われている警備員。しかも妻がかつては社長とつながりがあった、となれば、そりゃ心穏やかじゃいられないよなあ。
夢を見つけたい / Find Me a Dream / 浅倉久志訳 / コスモポリタン1961年2月号
 クリーオンはパイプの町だ。その中心はゼネラル鉄鋼のクリーオン工場。工場の支配人はアーヴィン・ボーダーズ、46歳の独身男。その夜、パーティーに呼ばれたバンドを率いるアンディ・ミドルトン25歳は、一息いれるために場を離れた。すると、泣いている女を見つけ…
 いくらパイプの町だからって、なんでもかんでも名前にパイプをつけりゃいいってもんじゃなかろうにw 果たしてアーヴィンは幸運なのか不幸なのか。うーん。
FUBAR / FUBAR / 大森望訳 / Look at the Brirdie 2009
 ファズ・リトラーはゼネラル金属鍛造のGF&Fイリアム製作所に勤めている。広報部に配属されたが、部屋が満杯だったので、一時的に別の部屋が、彼一人のために割り当てられた。生憎と母が重病で、勤めをやめるわけにはいかない。勤続九年目、ファズは管理職になったが、相変わらず彼の机を置くスペースはない。そこで体育館の地下に部屋を用意された。彼と秘書二人だけの。
 FUBAR は Fouled Up Beyond All Recognition の略で、意味は「見る影もなくめちゃくちゃ」。組織の隙間にはまり込んでしまった静かな男と、元気な新入社員のお話。

 やっぱりヴォネガットのSFはキレがあっていいなあ。SFじゃないけど、男のしょうもなさを書いた「スロットル全開」も、SFファンにはウケそうな作品。全く傾向が違うけど、「失恋者更生会」も楽しい。懐かしいSFの香りがする「バーンハウス効果に関する報告書」もいいが、「衣替えには」でのアップロード方法が、いかにもヴォネガットな芸風でたまらない。こういう微妙な間抜けさが私は大好きだ。

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2019年5月16日 (木)

ポール・ブルーム「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」白揚社 高橋洋訳

本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。
  ――はじめに

…共感は、特定の個人ではなく統計的に見出される結果に対しては反応を示さない。
  ――第1章 他者の立場に身を置く

最善の結果は理性に依拠することで得られる。
  ――第1章 他者の立場に身を置く

…(共感は)焦点の狭さ、特定性、数的感覚の欠如という特質を持つがゆえに、自分の注意を惹くもの、人種の好みなどの影響をつねに受けている。私たちが少なくともある程度の公平さや公正さを保てるのは、共感の作用から免れ、規則や原理、あるいは費用対効果の計算に依拠した場合に限られる。
  ――第3章 善きことをなす

政治的議論は一般に、誰かに共感すべきか否かではなく、誰に共感すべきかに関して見解が分かれるのである。
  ――幕間Ⅰ 共感に基づく公共政策

他者を怒らせた自分の行為は、罪のないものであるか、強制されたものであり、自分を怒らせた他者の行為は、理不尽なものであるか、邪悪なものなのだ。
  ――第5章 暴力と残虐性

共感は私たちが戦争の恩恵を考慮するよう仕向ける。それを通じて被害者のために復讐し、危機に直面している人々を救い出させようとするのだ。それに対して戦争のコストは抽象的かつ統計的であり、しかもコストの大きな部分は、自分たちが気づかうことがなく、したがって共感の及ばない人にのしかかる。
  ――第5章 暴力と残虐性

【どんな本?】

 嫌な小話がある。

朝起きたばかりの、ぼおっとした頭で洗面台に向かった。歯ブラシを手に取って磨いていたんだが、様子がおかしい。洗面台が血だらけになっている。よく見ると、歯ブラシだと思っていたのはカミソリで…

 嫌な話を書きやがって、と思う人もいるだろう。共感とは、そういう事だ。他の人の痛みを、わがことのように感じること。ヒトには、そういう能力が備わっている。だから、苦しんでいる人を助けようとする。少しでも他人の苦しみを取り除こうと、お互いに助け合う。

 いいことじゃないか。

 ところが、著者はこう主張する。「本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ」。

 は? 何を考えている? 自分の利益だけを追求しろ、とでも? 心を捨ててマシンになり、合理性だけで生きていけ、と言いたいのか? 世界を弱肉強食のジャングルにしたいのか?

 違う。

 むしろ著者は互いに助け合い分かち合う世界を望んでいる。だが、そのためには、時として共感が邪魔になる、と言っているのだ。

 なぜ、そんなケッタイな理屈が成り立つのか。苦しむ者を助けようとして、何がいけないのか。それなら、私たちはどうしろというのか。

 挑発的な書名で読者を煽りつつ、ヒトの心の動きを解き明かし、より適切な判断と行動を促す、一般向けの啓蒙書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Against Empathy : The Case for Rational Compassion, by Paul Bloom, 2016。日本語版は2018年2月26日第一版第一刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約284頁に加え、訳者あとがき8頁。9.5ポイント44字×18行×284頁=約224,928字、400字詰め原稿用紙で約563枚。文庫本なら普通の厚さだろう。

 文章はやや硬く、二重否定などの面倒くさい表現もある。が、落ち着いて読めば充分に意味はわかる。内容も特に難しくない。国語が得意なら、中学生でも充分に読みこなせるだろう。敢えて言えば、アメリカ人向けに書いた本なので、出てくる例もアメリカの話が多いってぐらい。ドナルド・トランプは共和党で保守系、バラク・オバマは民主党でリベラル、程度に知っていれば充分だろう。

【構成は?】

 「はじめに」に読み方のガイドがあるので、それに従おう。忙しい人は第1章だけを読めばいい。

  • はじめに
  • 第1章 他者の立場に身を置く
  • 第2章 共感を解剖する
  • 第3章 善きことをなす
  • 幕間Ⅰ 共感に基づく公共政策
  • 第4章 プライベートな領域
  • 幕間Ⅱ 道徳基盤としての共感
  • 第5章 暴力と残虐性
  • 第6章 理性の時代
  • 謝辞/訳者あとがき/原註

【感想は?】

 本書の結論を私なりに解釈すると、こうなる。「落ち着け。そして収支を計算しろ」。

 何やら偉そうだが、誰だって多かれ少なかれやっている。例えば。子供は注射が嫌いだ。だが、たいていの親は、子供に予防接種を受けさせる。親として、子供に痛い思いをさせるのは嫌だ。でも、伝染病で死ぬよりは、注射で痛い思いをする方がマシだ。

 つまり、「子どもが痛がっている」という共感より、「将来の伝染病を防ぐ」という理性に従って行動する。その結果、一時的に子供は痛い思いをするが、その後は健やかに育つだろう。

 予防接種の例は、収支がわかりやすい。政府や自治体も教育と宣伝に力を入れるので、多くの人がその利害を知っている。

 だが、そうでない場合も多い。政治が絡む場合は、政党や派閥によって主張が違う。それでも政治の場合はまだマシで、両派が損益をめぐって論戦を繰り広げる。根気強く両派の主張を読み解けば、支持すべき意見を判断できる…かもしれない。

 もっと怖いのは、そもそも収支を無視している場合だ。本書では、こんな例を挙げる。

 10歳の少女シェリは難病にかかった。療法はあるが、順番待ちの列は長い。療法を受けるまで、シェリは痛みに苦しみ続ける。シェリを列に割り込ませるべきか?

 シェリの痛みに共感し、割り込ませろと考える人もいる。だが、その場合、割り込まれた他の人は、どうなるんだろう?

 著者が指摘する共感の欠点は、そこだ。「10歳の少女シェリ」なんて具体的な年齢や名前が出てくると、私たちはその人物像を思い浮かべる。だが、問いの中に、割り込まれる人の事は何も書いていない。だから、私たちは割り込まれる人の事を失念してしまう。シェリの利益は考えるが、割り込まれる名無しの損害は思い浮かべない。

 これが共感のやっかいな点の一つだ。問いの中に割り込まれる人の事も含めれば、名無しの損害を考える人も増えるだろう。だが、テレビのワイドショウや Twitter の140文字では、そこまで触れない。ひたすら視聴者やフォロワーの感情を刺激しようとする。だって、その方が数字が取れるし。

 また、共感には偏りがある。

 誰だって家族や恋人には強く共感するが、遠い地域のオッサンへの共感は少ない。ケニアのキクユ族の農家は更に少ないだろうし、北朝鮮の朴氏ともなれば敵意すら示すだろう。その人と自分との関係により、強くなったり弱くなったり、時として反転することだってある。

 しかも、共感が暴力を呼ぶことだってあるのだ。どころか、たいていの戦争は共感を利用して始まる。

 わかりやすいのがパレスチナ問題だろう。パレスチナ側はイスラエル軍に撃たれたパレスチナ人をアピールし、イスラエル側はハマスのロケットによる被害を報道官が発表する。お互いが自分を被害者だと主張し、人々の共感を勝ち取ろうと報道合戦を繰り広げる。

 共感には偏りがある。自分に近い者には強く共感し、異なる者への共感は少ない。これを巧みに利用すれば、人々を争いへと駆り立てることができる。イスラエルとパレスチナは極端な例だが、似たような図式は Twitter や匿名掲示板でしょっちゅう見かける。社会問題などに対し、○○派 vs ××派という対立構造に仕立て上げ、罵倒の応酬にしてしまうのだ。

 ネットでの泥試合ならたいした害はないが、法や条例を決める議会でやられたら、たまったものではない。

 では、どうしろと言うのか。著者の主張はこうだ。「最善の結果は理性に依拠することで得られる」。もっとくだけた言い方をするなら、こうだろう。「落ち着いて考えよう」。

 …とか書いてて、やっと気がついた。つまりはそれだけの本なのだ。思いやりがイカン、と言ってるんじゃない。少し落ち着いて、視野を広げて、問題の本質を見つめなおして、見落としがないか確かめて、費用対効果を計算して、もっといい案がないか検討しようよ、そういう事なのだ。

 なんだツマラン、と思う人もいるだろう。でも、ヒトは自分に何が見えないかには気づかないものだ。ソコを指摘してくれるという点では、ありがたい本でもある。

 とりあえず、政治家が具体的な個人の例を挙げて議会の空気を誘導しようとしている時は要注意、と私は考えるようになった。

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2019年5月15日 (水)

ロバート・R・マキャモン「魔女は夜ささやく 上・下」文藝春秋 二宮馨訳

「あの女は縛り首にでもなんでもすりゃあいいが、もう悪魔はファウント・ロイヤルにしっかり居座ってるんだ、救いようはない」
  ――上巻p24

「わたしと書記がここへやってきたのは真実を見つけだすためであって、法という特権を破城槌のように振りまわしに来たのではない」
  ――上巻p137

人は欲するものを捕えて征服できないとなると、それを滅ぼすことにおなじような情熱をそそぐものらしい。
  ――上巻p346

「…姉の最大の罪はなんだったのか、おわかりですね?」(略)
「姉は毛色が変わっていたんです、おわかりでしょ?」
  ――上巻p389

「…いま町に必要なのはほんものの指導者です、威張り屋や泣き虫はいらないんです!」
  ――下巻p209

【どんな本?】

 「スワン・ソング」や「少年時代」などのホラーで人気が高いロバート・R・マキャモンによる、開拓期のアメリカを舞台としたサスペンス小説。

 1699年、新大陸植民地のカロライナ。判事のアイザック・ウッドワードは、開拓中の町ファウント・ロイヤルに呼ばれた。魔女をつかまえた、法に基づいて判決を下して欲しい、と。ウッドワードは書記のマシュー・コーベットを伴い、ファウント・ロイヤルに向かう。

 ファンウント・ロイヤルは、ロバート・ビドウェルが創った。ここを発展させ港町に育て上げようと考えている。しかし町では殺人が相次ぎ、綿もタバコも根付かず、果樹も寄生虫にやられた。天候も不順だ。何かに祟られていると考え、町から逃げ出す者も後を絶たない。このままではファウント・ロイヤルは荒野に戻ってしまう。

 容疑者のレイチェル・ハワースは、意外なことに若い未亡人だった。容疑は夫のダニエルと司祭のダニエル・ハワースの殺害。いずれも無残な形で殺されている。悪魔の儀式を行うレイチェルを見た、と主張する者も一人ではない。

 誰もがレイチェルの処刑を望む中、書記のマシューは幾つかの腑に落ちない事柄に気づく。何か邪悪な意思が働いているのではないか、と疑うウッドワードとマシューは、慎重に調べを進めようとする。しかし、頭に血が上った町の者たちは、早く判決を出せと迫る。

 セイラムの魔女裁判(→Wikipedia)の記憶も新しい新大陸の植民地を背景に、荒っぽく緊迫した空気の中で展開する、長編ミステリ巨編。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Speaks The Nightbird, by Robert R. McCammon, 2002。日本語版は2003年8月30日第一刷。単行本ハードカバー縦二段組みで上下巻、本文約418頁+369頁=約787頁に加え、訳者あとがき4頁+編集部によるロバート・R・マキャモン作品案内14頁。8.5ポイント25字×20行×2段×(418頁+369頁)=約787,000字、400字詰め原稿用紙で約1,968枚。文庫本なら四分冊でもおかしくない巨編。

 文章はこなれていいて読みやすい。内容も特に難しくない。敢えて言えば、歴史を少し知っていた方がいいかも。当時の北アメリカは植民地で、独立国じゃなかった。植民にはイギリスが熱心だったけど、他の国も隙あらばと狙っていたってことぐらい。

【感想は?】

 ジャンルとしては、ミステリになるだろう。

 殺人事件が起き、濃い疑いをかけられた者、レイチェル・ハワースが捕まる。証拠も幾つかある。だが、理屈に合わない点もある。果たして彼女は真犯人なのか否か。そこに名探偵の登場だ。

 探偵物の定型に沿ってか、探偵側の人物は二人だ。例えばホームズ物なら探偵ホームズと記録係のワトソンのように。この作品では、ベテラン判事のウッドワードと若い書記のマシューが真相究明にあたる。ただし、名探偵役を務めるのは書記のマシューなのが、捻っているところ。

 たいていの名探偵は自信に溢れている、どころか己の賢さを過信し、他の者を少し見下しているかのような印象すらある。ところがマシューは違う。20歳という若さもあるが、それ以上にウッドワードを心から敬っている。加えて過去のいきさつもあり、ウッドワードに親しみは持ちつつも、彼との距離感には微妙に屈折した思いを抱いている。

 鋭い頭脳と、疑問を嗅ぎつけたら徹底的に追う執念は持っているが、ウッドワードに異を唱えるには強い抵抗を感じる、そういう生真面目で謙虚な人物だ。このウッドワードとマシューの関係が、この作品の読みどころの一つ。腐った人には別の意味で美味しいかも。

 などの人間関係は、中盤以降に見えてきて、これが終盤になると本を閉じるのに苦労するほど強烈な引力を持つんだが、それは置いて。

 序盤で私を惹きつけたのは、荒々しい開拓地の暮らしだ。物語はファウント・ロイヤルに向かうウッドワードとマシューが、途中で旅籠に泊まる場面で始まる。ここの主人ウィル・ショーカムもなかなかに強烈な人物ではあるが、マシューが備品の不備を嘆く所もいい。ったって、もちろんミニバーやドライヤーじゃない。室内用便器、つまり「おまる」がない、と文句を言っている。

 ここで私は一気に17世紀末の世界、それも開拓地に突き落とされた。冷暖房はもちろん、電話も自動車も水道もない。コンビニなんてとんでもない。たいていの事は「今、そこにあるもの」でやりくりしなくちゃいけない、そんな世界だ。だから、鍛冶屋や医者は重宝される。そういう背景事情が、「おまる」一つで肌に伝わってくるのである。なんたって、誰でも出すモンは出さなきゃならないんだし。

 そんなんだから、町の行く末は重大事だ。人が増えれば便利な店も増える。またクマやインディアンの襲撃もあり、そのための防衛も必要だ。だから民兵がいて、自分たちで町を守っている。政府は遠い大西洋の彼方だから、いちいち手を借りちゃいられない。大抵の事は自分たちでカタをつける、町にはそういう気風が溢れている。

 それだけに、そこに住む者も強烈な人物が多い。町の設立者にして支配者のロバート・ビドウェルもそうで、現代なら強引な経営をするワンマン社長といったところ。ファウント・ロイヤルに君臨し、不作に苦しんじゃいるが踏ん張る意思は強い。決断は早く自分の意見に強くこだわる。

 この物語でマシューらが突き当たる大きな障壁が、このロバートだ。次々と町に襲い掛かる凶事の根源は魔女レイチェルだと思い込み、出来る限り早く始末したいと思っている。ただし、町の歴史に傷を残さぬよう、あくまでも合法的な形で。「俺が大将」な意地っ張りのゴリ押しを、いかにマシューがかわすか。これは全編を通じた読みどころ。

 ホラー作家としてのマキャモンの腕が冴えるのが、このピドウェルに代表される町の者たちの「思い込み」と「気の逸り」を描くところ。ロバートは町の維持のためだが、ヴォーン夫人ことルクリーシャ・ヴォーンの動機は一味違う。菓子屋を営み掃除も料理も腕は一流で商売も巧みなんだが、なかなか強烈なご婦人だ。彼女も現代なら相当に稼ぐだろうなあ、炎上覚悟の特攻商法でw

 そんな連中の集団ヒステリーじみた場面の怖さは、手練れのホラー作家ならでは。しかも、ただえさえカッカしやすい連中が集まってるのに、更にガソリンをブチまける奴が出てくるから意地が悪い。

 それは流れの説教師エクソダス・エルサレム。もう名前からして、これ以上ないってぐらいに胡散臭いんだが、人を扇動するのだけはやたらと巧いんだから困る。

 これもマキャモンの特徴で、「スワン・ソング」や「少年時代」にも色濃く出てた重要なテーマの一つ、宗教との関わり方だ。この作品でも説教師に悪役を割り振っているし、魔女裁判のお話だから、マキャモンは宗教に否定的だと思うかもしれない。でも、実際はそれほど単純じゃないのだ。

 「スワン・ソング」も「少年時代」も、教会は希望や救いの灯でもあった。危機に際し、人々を集め話し合い結びつける舞台として、教会が役割を果たした。この作品じゃ教会はあまり大きな役割を果たさない。むしろ重要なのは各員の心の中の信仰で、「主の祈り」が重い意味を持つ。例えば、魔女の証拠の一つは、レイチェルが頑として主の祈りを唱えない点だし。

 ミステリとしては綺麗にまとまっている。が、それ以上に、開拓地の荒々しい暮らしと、そこで一旗揚げようと踏ん張る人々の姿が、私には楽しかった。登場人物には強烈なエゴを持つ人が多いが、そうでもないと開拓地じゃやっていけないんだろう、というもの伝わってくる。謎解きより、活力に満ちた人々の生き方や、その中で成長してゆくマシューと、それを見守るウッドワードの眼差しが面白い群像劇だ。

 はいいが、これ以降マキャモンの作品が日本で出ないのは何故だ? マシュー・コーベットのシリーズも既に7部まで出てるのに。あ、ちなみに、この作品「魔女は夜ささやく」だけでも、完結した物語として楽しめます、はい。

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2019年5月12日 (日)

レベッカ・スクルート「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」講談社 中里京子訳

「ヒーラ細胞は、過去百年間に医学界に生じたもっとも重要な出来事のひとつだ」
  ――プロローグ 写真の女性

「あの人たち、あんたをタールみたいに真っ黒に焼いちゃったんだね」
  ――5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年

「なんでもかんでも、あの細胞の話だけなんだ。もんな母さんの名前さえ、どうでもいいと思ってる」
  ――6 初めての電話 1999年

「なんで彼女が死んで、あれがまだ生きとるのか。ここに住んでるみんなには、まったくわからんのだ。謎は、そこなんだよ」
  ――10 霊の仕業 1999年

米国医師会は、1910年に実験動物を保護する規定を公布していたが、人間に関する規定については、(1947年のニュルンベルク綱領まで)なにも手がけていなかった。
  ――17 人の道にもとる研究 1954年~1966年

ことの発端は「細胞のセックス」である。
  ――18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年

「もっともシンプルな説明は――」と(スタンリー・)ガートラーは聴衆に語りかけた。「この18種類の細胞はみな、ヒーラ細胞に汚染されているというものです」
  ――20 ヒーラ爆弾 1966年

「…ぼくは“モー”だったんだ。単なる細胞株で、肉片みたいなものだったのさ」
  ――25 「ぼくの脾臓を売っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年

進化生物学者リー・ヴァン・ヴェイレン「われわれはここに、ヒーラ細胞が新たな生物種として独立したとみなすよう、真摯に提案するものである」
  ――27 不死の秘密 1984年~1995年

「あたしが望んでいるのは、ヒーラって呼ばれてる母さんのほんとうの名前はヘンリエッタ・ラックスだってみんながわかるように、ちゃんと歴史に残すことだけなんだ」
  ――29 デボラとの対面 2000年

「たとえ、あたしたちが傷つくことになっても、ザカリヤには話をさせなきゃって。ザカリヤは怒ってる。だから、それを吐き出させなきゃならない。でなけりゃ、爆発しちまうって」
  ――30 ザカリヤ 2000年

「おじょうちゃん、あんたはたった今、奇跡を目にしたんだよ」
  ――32 「これが全部母さん……」 2001年

「覚悟はしておいた方がいい」(略)「知ることは、知らなかったのと同じくらい辛いことがあるから」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「あたしらはもっといっぱい取材しなくちゃならないんだ」
  ――33 ニグロ専用精神病院 2001年

「いつの日かこの子は、曾祖母のヘンリエッタが世界を助けたことを知るだろう!」
  ――37 「怖がることなんて何もない」 2001年

【どんな本?】

 ヒーラ細胞(→Wikipedia)は、ヒトの細胞株の一種である。癌細胞に由来し、増殖が速い。最大の特徴は、「不死」である点だ。普通の細胞は50回程度の細胞分裂で死ぬが、ヒーラ細胞はずっと細胞分裂を続ける。そのため培養しやすく、医学や生物学の実験に便利だ。

 その成果も絶大で、癌の遺伝子研究をはじめヘルペス・血友病・インフルエンザ・血友病・パーキンソン病などの治療薬の開発や、性感染症・虫垂炎・ヒトの寿命など、多くの利益を人類にもたらしている。

 だが、その細胞を提供した人物、ヘンリエッタ・ラックスについては、ほとんど知られていなかった。ラックスの家族すら、彼女が何をしたのか、彼女の細胞がどう使われ、どんな役に立ったのか、全く知らなかったのだ。

 いかにしてヒーラ細胞は誕生し、普及したのか。それは医学・生物学にどんな影響を及ぼし、どう変えたのか。なぜヘンリエッタの家族は何も知らなかったのか。ヘンリエッタ・ラックスとはどんな人物で、どんな生涯を送ったのか。

 不死細胞の由来を追い、現代の医学・生物学そして医療の進歩と問題点を明らかにするとともに、ヘンリエッタ・ラックスとその家族の人生を描き出す、迫真の科学ドキュメント。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Immortal Life of Henrietta Lacks, by Rebecca Skloot, 2010。日本語版は2011年6月14日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで約451頁。9ポイント45字×20行×451頁=約405,900字、400字詰め原稿用紙で約1,015枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しくない。理科で細胞について学んでいれば、中学生でも読みこなせるだろう。

【構成は?】

 ご覧のように時系列は前後するが、ちゃんと考えた上での構成なので、できれば素直に頭から読んだ方がいい。

  • 本書について/主な登場人物/地図
  • プロローグ 写真の女性
  • 娘・デボラの言葉
  • 第1部 生
  • 1 運命の検査 1951年
  • 2 クローヴァー 1920年~1942年
  • 3 診断と治療 1951年
  • 4 ヒーラ細胞の誕生 1951年
  • 5 「真っ黒なものが体中に広がってる」 1951年
  • 6 初めての電話 1999年
  • 7 培養細胞の死と生 1951年
  • 8 再入院 1951年
  • 9 ターナーステーション 1999年
  • 10 霊の仕業 1999年
  • 11 痛みの悪魔 1951年
  • 第2部 死
  • 12 嵐 1951年
  • 13 ヒーラ・ファクトリー 1951年~1953年
  • 14 ヘレン・レイン 1953年~1954年
  • 15 虐待 1951年~1965年
  • 16 白人も黒人も 1999年
  • 17 人の道にもとる研究 1954年~1966年
  • 18 もっとも奇妙な雑種生命体 1960年~1966年
  • 19 クレイジージョー 1966年~1973年
  • 20 ヒーラ爆弾 1966年
  • 21 夜の医者 2000年
  • 22 明かされた名前 1970年~1973年
  • 第3部 永遠なる命
  • 23 「生きてるんだって!」 1973年~1974年
  • 24 せめてすべきこと 1975年
  • 25 「ぼくの脾臓を撃っていいなんて誰が言った?」 1976年~1988年
  • 26 プライバシーの侵害 1980年~1985年
  • 27 不死の秘密 1984年~1995年
  • 28 ロンドンの後 1996年~1999年
  • 29 デボラとの対面 2000年
  • 30 ザカリヤ 2000年
  • 31 死の女神ヘラ 2000年~2001年
  • 32 「これが全部母さん……」 2001年
  • 33 ニグロ専門精神病院 2001年
  • 34 医療記録 2001年
  • 35 魂の浄化 2001年
  • 36 天に属するもの 2001年
  • 37 「怖がることなんて何もない」 2001年
  • 38 クローヴァーへの遠い道 2009年
  • 登場“人物”のその後
  • あとがき

【感想は?】

 科学ドキュメンタリーかと思って読み始めたら、実は「もう一つの『ルーツ』」だった。

 お話は、大きく分けて三つのテーマから成っている。一つは、ヘンリエッタ・ラックスと家族の生涯。次に、ヒーラ細胞が医学界・生物学会に引き起こした騒動。そして最後に、著者がヘンリエッタ・ラックスへと迫ってゆく過程。

 私は二番目、つまり医学・生物学の話を期待して読み始めた。もちろんソレも面白かったが、最初のヘンリエッタ・ラックス一族の歴史と、最後の取材過程の迫力には、ひたすら圧倒された。特にヘンリエッタの末娘デボラが本格的に登場する第3部後半は、嵐のようなドラマが展開する。

 ヒーラ細胞が普及する過程で印象に残るのは、その培養に成功したジョージ・ガイだ。苦学してピッツバーグ大学で学び、ジョンズ・ホプキンス病院に勤める。モノ作りの才も豊かで、研究室まで妻のマーガレットと共に自作してしまう。ハードウェアも自作した、コンピュータ黎明期のハッカーと同じタイプだ。

 しかも、ヒーラ細胞が普及する過程も、unix黎明期とソックリなのに笑った。ヒーラ細胞の培養に成功し、その便利な性質を知ったガイは、誰彼構わず研究者たちにヒーラ細胞を配りまくるのである。おまいはケン・トンプソンかw 科学の進歩に貢献するのが嬉しくてたまらない、そういう人なんだろう。

 ヒーラ細胞の何が嬉しいかというと。たいていの細胞は、培養が難しい上に、増殖に限界がある。50回ほど分裂したら、死んでしまう。科学の実験は、誰もが同じ条件で追実験できなきゃいけない。でも肝心の実験材料=細胞に限りがあったら、同じ実験を再現できない。でもヒーラ細胞は幾らでも増殖する。だから、誰でも同じ条件で追実験できる…はず。

 しかも、ヒトの細胞だ。例えば新しい薬の効果を調べたい。マウスで効果があった。でもヒトでどうなるかはわからない。そこでヒーラ細胞だ。ヒーラ細胞に薬を与えて、効けばよし。効かない、どころか死んじゃったとしても、ヒーラ細胞なら代わりはいくらでもある。ヒーラ細胞を使ってマズい所を突き止め、再び実験すればいい。

 手軽に使える実験材料があるから気軽に実験できる。お陰でポリオのワクチンを皮切りに、ヒーラ細胞は幾つもの研究に貢献してゆく。中には、化粧品の研究まであるのが感慨深い。

 ただ、培養しやすいのは長所ばかりとは限らず、思わぬ落とし穴があるのも、科学の怖いところ。

 さて、化粧品が感慨深いのには、理由がある。元となったヘンリエッタ・ラックスが、身だしなみに気を遣うおしゃれなご婦人だからだ。亡くなった時も、癌に苦しみながら、ベティキュアは忘れなかった。おまけに明るくて気立てが良く、子どもたちを深く愛していた。この辺は是非とも本書をお読みいただきたい。

 そんなヘンリエッタの人生を掘り起こそうとする著者が、ラックス一族へと迫ってゆく過程が、まさしく『ルーツ』そのものなのだ。

 大学院卒で無神論者に近いユダヤ系の著者と、貧しく無学で信心深い黒人のラックス一族の間には、深い溝がある。特に母ヘンリエッタの事を知りたいと強く願いつつも、それまでの無神経な取材や医学者たちの態度に根深い不信感を持つ末娘のデボラが、著者とチームとなり、ヘンリエッタの生涯を追うストーリーは、ミステリとしても大河ドラマとしても重量級の迫力がある。

 このデボラもまた感情豊かな人で、特に弟のザカリヤを見守る姿は、縁こそ薄かったもののヘンリエッタから愛情の深さをちゃんと受け継いでるんだなあ、なんてしみじみ感じてしまう。…とか書いてるとキリがないんで、今日はこの辺で。

 医学・生物学における一つの技術が普及するまでの科学ノンフィクションであり、遺伝子技術が発達した現代における法と倫理を問う問題作であり、激しい人種差別があった時代のスナップ・ショットであり、また今なお残るその禍根のルポルタージュであり、そして何より厳しい中で生き抜いてきたラックス一族のファミリー・ドラマだ。ただし寝不足になっても私は責任を取らないのでそのつもりで。

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2019年5月10日 (金)

中村融編「猫は宇宙で丸くなる 猫SF傑作選」竹書房文庫

「なんで猫さんは大きくならなきゃいけないの?」
  ――ジェフリー・D・コイストラ「パフ」

「知ってる。さっき会った」
  ――ナンシー・スプリンガー「化身」

強盗は猫!?
警察と夜警、「金庫破り」を射殺
  ――シオドア・スタージョン「ヘリックス・ザ・キャット」

「頭がよくて、信用されてる猫には、そうする方法がいくらでもあるんだ」
  ――ジェイムズ・ホワイト「共謀者たち」

「これはわれわれよりおまえたちにとって大事なことなんだぞ、チビ助!」
  ――ジェイムズ・H・シュミッツ「チックタックとわたし」

これはスティーナとバット、クリフ・モーラン、そして<火星の女帝>の物語だ。
  ――アンドレ・ノートン「猫の世界は灰色」

【どんな本?】

 ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」や神林長平の「敵は海賊」シリーズ、高千穂遥の「ダーティペア」シリーズなど、猫?が活躍するSFは多い。本書は1950年代の作品から今世紀の作品まで、主にアメリカの猫SF・猫ファンタジイの傑作を集めた、日本独自の作品集。

 天才仔猫パフを描く「パフ」、妖艶な猫の視点の物語「化身」、知能を得た動物たちの脱出劇「共謀者たち」、そしてタイトルそのままの「宇宙に猫パンチ」など、バラエティ豊かな作品が楽しめる。

 SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2018年版」のベストSF2017海外篇で15位に食い込んだ。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2017年9月7日初版第一刷発行。文庫本で縦一段組み本文約421頁に加え、編者あとがき6頁。8.5ポイント41字×17行×421頁=約293,437字、400字詰め原稿用紙で約734枚。文庫本としては厚め。

 SFとはいっても、小難しい理屈は出てこないので、理科が苦手でも大丈夫。

【収録作は?】

 作品ごとに解説が1頁ある。各作品は 日本語著者名 / 日本語作品名 / 英語著者名 / 英語作品名 / 訳者 / 初出 の順。

<地上編>

ジェフリー・D・コイストラ / パフ / Jeffery D. Kooistra / PUFF / 山岸真訳 / アナログ1993年12月中旬号
 幼い娘のヘイリーのために、生物工学者のわたしはパフを作り上げた。上手くいけば、パフは子猫のまま長く過ごす。成猫になるのは、寿命が来る数年前だ。さいわいヘイリーはパフが気に入った。だが、パフはただの子猫ではなかった。
 子猫ってのは、凶暴なまでに可愛い。そのままでいてほしいって気持ちは、よくわかる。でも成長するとヤンチャで、予め覚悟して準備をしておかないと大変な事になるのも、よくわかる。小さく見えたって、牙と爪を備えた天性のハンターだし。
ロバート・F・ヤング / ピネロピへの贈りもの / Robert F. Young / Pattern for Penelope / 中村融訳 / イフ1954年10月号
 ミス・ハスケルは、教師だった。定年を迎え、今は猫のピネロピと共に年金でつつましく暮らしている。ピネロピはミルクが好きで、ミルク代は頭痛の種だ。二月一日、激しい雪と風の朝、ミス・ハスケルは奇妙な少年を見た。薄着で丘の頂に立っている。心配して家に迎え入れたミス・ハスケルだが…
 ロバート・F・ヤングの影響を強く感じる作家と言えば、梶尾真治だろう。芸幅の広い梶尾真治だが、「美亜へ贈る真珠」などロマンスと時間旅行を絡めた作品は、ヤングのエッセンスを色濃く受け継いでいる。この作品はロマンスが出てこないが、心温まる展開はヤング節が全開だ。
デニス・ダンヴァーズ / ベンジャミンの治癒 / Dennis Danverts / Healing Benjamin / 山岸真訳 / レルムズ・オブ・ファンタシー2009年8月号
 16歳のとき、ぼくは<治療の手>の力を得た。一歳年上の猫ベンジャミンの心臓が止まったとき、ベンのため強く祈った。するとベンは元気になり、以来30年、ベンはぼくと一緒に暮らしている。最近はそれに恋人のシャノンが加わった。幸いシャノンもベンが気に入った。ただ、一つ問題がある。普通、猫は47年も生きない。
 生まれた時から一緒にいる猫を喪ったなら、その悲しみはどれほどのものだろう。だが、たいていのペットはヒトほど長く生きない。昔ならともかく、最近はペットも定期的に獣医に診てもらうようになっている。となれば、47年も生きる猫は色々と困った事態を引き起こす。などはともかく、ローストチキンの場面は爆笑。
ナンシー・スプリンガー / 化身 / Nancy Springer / In Carnation / 山田順子訳 / Catfantastic Ⅱ 1991
 彼女は実体化した。これは九つ目の命だ。幸い、すぐにカーニヴァルを見つけた。力試し、観覧車、オートバイの曲乗り、鏡の迷路、そして欲の匂い。獲物を探し、彼女は会場を物色する。若く、たくましく、醜くない男を。そして見つけた。「あててみようか男」。サングラスで目が見えないが、なにかを持っている。
 「猫は命を九つ持っている」という伝説と、アレを絡めた作品。胡散臭い出し物がズラリと並び、なんかワクワクするが、数日すればどこともなく去ってゆく移動カーニヴァルの怪しげな雰囲気がいい。昭和の頃は酉の市などで蛇女などの怪しげな出店があったんだが、最近はどうなんだろう?
シオドア・スタージョン / ヘリックス・ザ・キャット / Theodore Sturgeon / Helix the Cat / 大森望訳 / Astounding 1973
 ヘリックスは大きな牡の黒猫で、ぼくの親友だ。一年前、ぼくは新しい柔軟ガラスを開発していた。最初のガラス瓶が完成したとき、それが起きた。銃弾が耳元をかすめるような音が聞こえたんだが、ヘリックスには聞こえなかったようだ。しかも手に持っていた栓が勝手に飛び出し、瓶の口におさまった。
 わはは。ヘリックス君、大暴れ。地下室の若き発明家がケッタイなモノを創りだし、それが元で大騒ぎに、ってパターンの作品。スタージョンというと文学的で高尚なイメージがあるが、これは全く違う。狐と狸いや猫の化かし合いというか。ほんと、猫って何を考えてるんだろうなあw

<宇宙編>

ジョディ・リン・ナイ / 宇宙に猫パンチ / Jody Lynn Nye / Well Worth the Money / 山田順子訳 / Cats in Space 1992
 交易船の船長を目指すジャーゲンフスキーに、チャンスが舞い込んできた。ドレブ星人から得たテクノロジーを用いた新型宇宙船<パンドラ>のテスト航行だ。新型だけに危険もあるが、成功すれば特別手当に加え昇進もあり得る。二人のクルー、ダイアニとオカベ、加えて船猫のケルヴィンと共にパンドラは出航し…
 タイトルでだいたいのお話は見当がつくにせよ、こうヒネリを入れるかw もともと捕食獣だし、そういう状況だと頼りになるかも。ただ、その気になるかっていうと、なにせ気まぐれな生き物だけに、そこは問題でw 日本でも三毛猫は縁起がいいとして船乗りに愛されたとか。将来はどうなるんだろうなあ。
ジェイムズ・ホワイト / 共謀者たち / James White / The Conspitarors / 中村融訳 / ニュー・ワールズ1954年6月号
 航行中の宇宙船の中で、<変化>がおきた。<変化>は、脳が小さいほど速い。最初は<小さな者たち>、ネズミだ。知能があがり、テレパシーを使えるようになる。船内でたった一匹の猫、フェリックスの<変化>はゆっくりだが、猫ならではの行動の自由がある。<小さな者たち>と協力して脱出計画を進めているが、そこは猫と鼠。
 図体、というか脳が小さいほど速く賢くなるというアイデアが楽しい。これに加え、狩られる側である鳥のシンガーや鼠の<小さな者>が、ハンターである猫のフェリックスに対し抱く本能的な恐怖が、物語に緊張を与えている。孤独な立場であっても果敢に闘いに挑もうとするフェリックスの姿は、冒険小説のヒーローそのもの。猫の中に熱い血が流れている限り、不可能ということはないのだ。
ジェイムズ・H・シュミッツ / チックタックとわたし / James H. Schmitz / Novice / 中村融訳 / アナログ1962年6月号
 腹黒い叔母のハレットに連れられ、15歳のテルジーはジョンタロウに来た。ここは広大な動物保護区で、狩猟家の楽園でもある。一緒に来たTT=チックタックは、どうも様子がおかしく、何かを伝えたがっているようだ。TTは五年前にテルジーと出合った。当時は猫ぐらいの大きさだったが、今は90kgぐらいに成長した。肢に吸盤があり、体の色を変えられる。
 さすがシュミッツ、やっぱりロリコンだった←をい。わはは。いやだって15歳の天才少女テルジーちゃんと巨猫のチックタックが、いぢわるな叔母ハレットの陰謀に立ち向かう話だし、「惑星カレスの魔女」の著者だし。まあTTは猫じゃなくてカンムリネコだけど。ちょっと映画版「風の谷のナウシカ」みたいな雰囲気の、心地よいジュブナイル。
アンドレ・ノートン / 猫の世界は灰色 / Andre Norton / All Cats Are Gray / 山田順子訳 / ファンタスティック・ユニヴァース1953年8・9月号
 スティーナは大型コンピュータのオペレータで、宙港を渡り歩いている。いつもだぶだぶのつなぎ姿で、滅多に口を開かない。だが彼女が口を開いた時は、じっくり聞いた方がいい。その時、クリフ・モーランはどん底だった。そんなクリスのテーブルに、スティーナが来た。肩に猫のバットをのせて。「そろそろ<火星の女帝>が現れるころよ」
 <火星の女帝>は行方不明になった観光船で、お宝がどっさり載っている、との噂。まるきしタイタニックかU-977か。一攫千金を夢見て捕獲に向かった者もいるが、多くは帰らず、数少ない生還者も堅く口を閉ざす。幽霊船の謎に挑むのは情報通のスティーナと猫のバット、そして野望のほかには借金しかないクリス。という、正統派の宝探しの冒険の物語。
フリッツ・ライバー / 影の船 / Fritz Leiber / Ship of Shadows / 浅倉久志訳 / ファンタシー&サイエンス・フィクション1969年7月号
 <ウインドラッシュ>、またの名をザ・シップ。水夫はキャビンの中に住んでいる。二日酔いのスパーを、猫が叩き起こす。「バカ!ウシュノロ!ヨッパライ!」。野良猫らしい。キムと名づけた。そしてキーパーが営む酒場<こうもりの巣>に出勤する。ゆうべは狼男と吸血鬼と魔女が暴れ、ガーリーとスイートハートが吸血鬼の餌食になった、そうキーパーは言っている。
 帆船ってのは帆があるだけじゃなく、それを操るためのロープも船上に複雑怪奇なまでに張り巡らされてる。舞台の<ウインドラッシュ>も、アチコチにロープがあるから、似てると言えば似てる。が、猫はしゃべるし「排泄管」なんてのはあるし、おまけに吸血鬼や狼男も出る。はてさて。

 いかにもな猫の本音がのぞける「ヘリックス・ザ・キャット」は、皮肉が効いてていい。「共謀者たち」は猫が孤独なヒーローを演じる物語で、一種のハードボイルド。中でも最も猫が活躍するのは、タイトルでわかるように「宇宙に猫パンチ」かな。映像化するなら、実写よりアニメの方が絶対に面白い。

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2019年5月 8日 (水)

デヴィッド・M・バス「『殺してやる』 止められない本能」柏書房 荒木文枝訳

殺人に魅了されるのはまったく筋が通っている――これは優れた生き残り戦略だからだ。
  ――第1章 殺人の長い歴史

アメリカで起きた殺人事件のうち、男性が犯人の割合は例年87%ぐらいである。殺人の被害者もほとんどが男性なのは意外かもしれない。年間の殺人被害者のうち男性が占める割合は平均75%である
  ――第2章 人間が手に入れた殺人戦略

わたしたちが直面するもっとも容赦ない競争は、好ましい伴侶を見つけてつなぎとめておくことだ。
  ――第3章 三角関係の悲惨な帰結

浮気する女性は他の男性への欲情のおもむくままに、浮気相手とセックスするタイミングを排卵に合わせるのに対して、連れ合いとのセックスは一番妊娠しにくい時期に合わせるのだ!
  ――第4章 愛と殺意の微妙な関係

社会経済的階層のトップにいる男性では、他の男性の子どもは2%にすぎない。中産階級では寝取られ率は12%に上がり、下層階級では20%に上がる。
  ――第4章 愛と殺意の微妙な関係

虐待、過剰な監視、隔離は、自らを傷つける関係に女性をつなぎとめるという非道な働きをするのである。
  ――第5章 夫や彼女を殺す女たち

この法律(テキサス州のベビー・モーゼス法)により、女性は生後一カ月未満の赤ん坊を消防署や救急ステーションに放置しても、何の詮索もされないのだ。
  ――第7章 殺し合う家族

アメリカでは一人またはそれ以上の代理の親――結婚による継親や、同じような役割を背負った者――と暮らす子どもは、実の父親と暮らす子どもに比べて、家庭内で殺される確率が40倍から100倍も高いのだ。
  ――第7章 殺し合う家族

【どんな本?】

 デーヴ・グロスマンは「戦争における[人殺し]の心理学」で、こう主張した。「敵と戦っている最中でも、敵を殺したがらない兵士は多い」と。だが、平和な世の中でも、殺人事件は起きている。実際に行動に移さないまでも、誰かを殺したいと考えた経験のある人は多い。逆に「このままでは殺される」と思った事もあるだろう。

 なぜ人殺しが絶えないのだろう? 著者は、こう主張する。「ヒトは殺意を抱くように進化した。生存競争の過程で、人殺しは有効な戦略だった」と。私たちには、人殺しの血が流れているのだ。

 では、どんな時に、どんな人が、どんな相手に殺意を抱くのだろうか。生存競争の上で、人殺しはどんな役割を果たしたのだろうか。映画やゲームの暴力描写が影響しているのだろうか。悲劇を避けるには、どうすればいいのだろうか。

 テキサス大学オースティン校の心理学部教授が、世界中から集めたアンケートや犯罪統計、そしてヤノマミ族など部族社会の研究結果を元に、ヒトが殺人に至る原因を明らかにした、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は The Murderer Next Door : Why the Mind Is Designed to Kill, by David M. Buss, 2005。日本語は2007年3月10日第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約295頁に加え、訳者あとがき2頁。9ポイント46字×19行×295頁=約257,830字、400字詰め原稿用紙で約645枚。文庫本なら少し厚めの一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容もわかりやすい。敢えて言えば、アメリカ人向けに書かれた本なので、南部と北部の文化や風俗の違いを知っていた方がとっつきやすいかも。

【構成は?】

 刺激的な書名のわりに実は真面目な本なので、できれば頭から読んだ方がいい。が、困ったことに、美味しそうな所をつまみ食いしても、かなり楽しめてしまう。

  • 第1章 殺人の長い歴史
    愛する人が抱く殺意/意外な人が殺意を抱く/殺人に魅了される理由/殺すところを生々しく想像する/殺人の動機/人は昔から人を殺してきた/殺すメリットと殺されるリスク/進化が作り上げた防御手段/それでも殺人は起こる/殺人調査
  • 第2章 人間が手に入れた殺人戦略
    殺人に対するいくつかの誤解/統計から見た殺人/人が人を殺す理由/プロファイリングの不十分さ/誰もが殺意を抱いている/絞め殺すか、首をはねてやりたい/殺人の予行演習/殺しに至るまで/進化心理学で殺人の謎に迫る/殺人の恩恵/死んだ男はわが子を守りきれない/殺されないために進化した/チンパンジーも殺し合う/狙う者と狙われる者
  • 第3章 三角関係の悲惨な帰結
    憎い恋のライバル/恋人探しの激しい競争/誰でもいいわけではない/男と女の好みの違い/男が伴侶に求めるもののライバルを蹴落としたい女/男を駆り立てる女とは/男の暴力、女の暴力/暴力が女を惹き付ける
  • 第4章 愛と殺意の微妙な関係
    なぜ愛する人を殺してしまうのか/愛が殺意に変わるとき/愛が求められる理由/愛とは強い絆である/進化が用意した冷徹な戦略/生涯の愛を誓ったのに/優秀な遺伝子を得る/失恋の危険/寝取られる代償/寝取られ男の損失/彼女を心から愛している/伴侶を殺す男の条件/プレイメイトの血まみれの死体/彼女を取り戻したい/誰もがやりかねない伴侶殺し/女が感じる身の危険
  • 第5章 夫や彼女を殺す女たち
    女の動機/進化から見た虐待の理由/異常なまでに支配的な夫/自分を守るために刺した/殺さなければ逃げられない/拒絶された男/死に至るストーカー/レイプの深い傷/殺人とレイプの意外な関係/そいつの性器を撃ってやりたい/レイプによって失うもの/殺されたレイプ犯
  • 第6章 略奪愛の代償
    略奪愛 人間から昆虫まで/伴侶の奪い合い/略奪者の多様な戦術/どうして密通したいのか/危険な略奪愛/密通は歓迎されない/寝取られないよう用心しろ/殺人という解決法/男も女も凶暴である/彼は絶対に渡さない/死をもって復讐する/密通と殺される危険
  • 第7章 殺し合う家族
    不可解な子殺し/進化が子殺しをさせて来た/邪魔な子どもを殺す親/どうせ殺してしまうなら/「おまえなんか殺してやる」/子どもを殴り殺す継父/邪悪な継母の物語/継子殺しの心理回路/子どもによる殺人回避手段/虐待する継母/親を殺す子ども/殺すのは息子か娘か/兄弟姉妹が殺し合う/一族の名誉を守るために
  • 第8章 誇り高き殺人者
    高い地位が得をする/出世するための殺人/ライバルや上司の邪魔/侮辱された男/マッチョ/名誉の文化/性的評判に傷がつく/連続殺人犯も同様である/権力者の動機/大量殺人という戦略/殺人はもっとも効果的である
  • 第9章 どこにでもある殺意
    集団殺戮の原動力/殺しを進化させてきた人間/殺人はこれからも有効か/殺人者は待っている
  • 謝辞/訳者あとがき/原注

【感想は?】

 読んでいる最中はもちろん、読み終えてからも、しばらくは胸の高まりが収まらなかった。

 とはいえ、いわゆる「面白い物語」を楽しんでいる時のトキメキとは違う。何か嫌な感じのする高まりだ。恐れか怒りかもしれない。

 そもそも、本書の主張からして、はなはだ物騒で面白くないモノだ。「ヒトには人殺しの本能が備わっている、殺した者がより多くの子孫を残せたからだ」なんて説なのだから。

 実に忌まわしい説だが、これを統計や実際の事件を根拠とした上に、進化上の生存競争を絡めて説得力の高い理屈で裏付けするから困る。この理屈、何が困ると言って。

 実は「ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち」なんて本がある。炎上の被害にあった人を調べた本だ。この本では「人前で恥をかかせるのは死刑より厳しい」みたいな事が書いてある。心に傷を負うのですね。そのため、炎上の被害者は、長く苦しむ羽目になる。ところが、恥があまり痛くない場合もあるのだ。例として、有名人の男が若い女とアレなナニしたのがバレた話が出ている。

 「ルポ」じゃ「性的な規範が変わった」みたいな解釈をしてた。が、この本の理屈の方が納得いく。極論すれば「ソレも男の甲斐性」みたいな理屈だ。現在の文明社会ならともかく、部族社会なら充分に通用する理屈なのだ。

 実のところ、部族社会は決して平和な社会じゃない。「文明と戦争」や「昨日までの社会」にもあるが、戦争も殺人も部族社会の方が遥かに多い。戦争の利得は幾つかあるが、その一つは女だ。

現在ヤノマミ族の女性の17%は、襲撃中に拉致されて妻となった者である。
  ――第9章 どこにでもある殺意

 進化とは、いかに自分の遺伝子を残すかの競争だ。女を奪って自分の子を産ませれば、自分の遺伝子が残る。だから邪魔な男を殺す。そういう理屈だ。

 戦争は他の部族との間の話だが、同じ部族の中でも睨み合いはある。若く健康な女は、将来たくさん子を産むだろう。そこで邪魔なライバルがいいるなら、蹴落としてしまえ。他の男のものになっていても、奪ってしまえばいいい。逆に、モノにした女がいても、他の男は常にスキを窺っている。下手にナメられたら奪われる。だから、常に睨みをきかせておけ。そういう本能を、進化の過程でヒトは育んできた。

…人――男女どちらも――は人前での侮辱を、男性の男らしさ、体力、精力、味方としての値打ち、性的侵害から女性を守る能力への挑戦とみなすものだ。応酬しなかったり、無視してやり過ごそうとしたりすれば、侮辱された男性は面目を失う。
  ――第8章 誇り高き殺人者

 メンツが潰れれば、弱者とみなされ、自分の遺伝子を遺せない。だから、恥で苦しむ。対して、若い女とヤったなんて醜聞は、道徳的には責められても、遺伝子を残すにはむしろ「巧くやった」事になる。そのため、社会的には痛手でも、本能の部分ではむしろ武勇伝になる。あまり痛く感じないのは、そういう事だろう。

 そんなわけで、殺しの本能は誰にでもあるって結論になる。実際、本書が扱う統計や実例の大半は、連続殺人犯ではない。「連続殺人犯は大々的に報道されるが、実際にはアメリカで起こった殺人事件の1~2%を占めるに過ぎない」。では何を扱うかというと、最も多いのが「痴情のもつれ」なのですね。次に家族間の殺人。これに「いかに自分の遺伝子を残すか」で説明をつけていくのが、本書。

 と書くと、本能を称えているかのようだが、もちろん違う。例えば、人種差別感情について、「第9章 どこにでもある殺意」で、こう理屈をつけている。

昔の人々は現代のような移動手段を持たなかったので、多かれ少なかれ自分に似た者にしか出会わなかった。(略)見た目が似ていないと、敵対的な意図を持つ可能性は偶然よりも高かった。(略)先祖の時代には、外国人嫌いは適応上筋が通っていたのだ。

 私たちのご先祖にとって、ヨソ者は物騒だった。だから、見慣れぬ者を警戒する本能が身についた。だが、現在は航空機や自動車がヒトの移動距離を伸ばしたし、多くの人が集まって住む都市も発達した。法や警察などの社会制度も整ってきた。お陰で、ヨソ者の危険は消えた。どころか…

実際の殺人の圧倒的多数は、同じ人種や民族間で起こっている。アメリカでは白人被害者の88%は白人に殺され、アフリカ系の被害者の94%はアフリカ系に殺される。

 なんてのが現状だ。まあ、社会的な分断があって、接触の機会が少ないってのもあるんだろうけど。

 などと、ここでは男による殺しを中心に紹介したけど、もちろん女による殺しの話も出てくる。また、お堅い話ばかりではなく、野次馬根性で面白い部分もたくさんある。というのも、「殺したい」と思った事はあるか?なんてアンケートを取っており、これの回答が豊富に載っていて、なかなか身につまされるのですね。

 そんなワケで、真面目に読んでも、野次馬根性で読んでも、実に刺激的な本だった。

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2019年5月 6日 (月)

高山羽根子「オブジェクタム」朝日新聞出版

「…単純な数字がつながって関係のある情報になり、集まって、とつぜん知識とか知恵に変わる瞬間がある。生きものの進化みたいに」
  ――オブジェクタム

先月、妻が他界しました。
  ――L.H.O.O.Q.

【どんな本?】

 「うどん キツネつきの」で鮮烈にデビューした高山羽根子の作品を集めた、第二作品集。祖父と共に秘密の新聞を作っていた少年時代の思い出を描く「オブジェクタム」,出征した夫と残された妻の手紙で綴る「太陽の側の島」,先立たった妻が遺した犬を探す男の話「L.H.O.O.Q.」、いずれもトボけた法螺話のような味わいの三篇を収録。

  SFマガジン編集部編「SFが読みたい!2019年版」国内篇の10位。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2018年8月30日第一刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組み本文約159頁。9ポイント39字×16行×159頁=約99,216字、400字詰め原稿用紙で約249枚。文庫本でも薄い一冊分。

 文章はこなれていて読みやすい。内容も特に難しい理屈は出てこない。敢えて言えば、表題作の「オブジェクタム」が、昭和の頃の風景や風俗が出てくるので、若い人にはピンと来ないかな、ぐらい。

【収録作は?】

 それぞれ 作品名 / 初出。

オブジェクタム / 小説トリッパー2018年春号
 子どものころに住んでいた町にやってきた。あのころ、町内には壁新聞が貼られていた。月に一回ぐらいのペースで、十数か所に。誰が何の目的で作り貼っているのか、誰も知らない。でも、熱心に読んでいる人も多かった。別に人騒がせなことが書いてあるわけじゃない。「スーパーと八百屋の茄子と柿の傷み具合」など、役に立つような立たないような、そんな記事だ。
 子どものころに見ていた風景が、まざまざと蘇ってくる。曲がり角で不意に見かける、ような気がする何か。河川敷に捨てられているゴムタイヤや空き缶。草ぼうぼうの空き地にコッソリ作った秘密基地。ふだんは通らない道に迷い込んだ末に見つけた、古ぼけた建物。公民館に集まる大人たち。
 そんな、誰もあまり気にかけない、ごく当たり前にソコにあるようなモノや、普段からよく見かける少し変わった人々にも、ちゃんとソコに辿りつくまでの由来や、その人がそうである理由がある。壁新聞に関わることをキッカケに、少年はそれまで見えなかった町や人々の姿を知りはじめる。
 壁新聞に関わることをキッカケに、少年はそれまで見えなかった町や人々の姿を知ってゆく。茄子の傷み具合,柄タイツ,そして図書館。見過ごしがちなモノゴトの中に、秘密を解く鍵が少しづつ潜んでいる。ただし、それらを組み合わせて物語を作り上げるのは、読み解く者の役目だし、すべての鍵が揃うとは限らない。
 とかのお話とは別に、そこに使われるガリ版やパンチカードなどの小道具や、ガラクタが転がっている河川敷の風景が、私にはたまらなく懐かしく嬉しかった。
南の側の島 / 婦人公論2016年4月12日号
 夫の真平は南方の島に出征した。妻のチズは幼い息子の陽太郎と共に、空襲に怯えながら日々を過ごしている。出征とはいえ、真平がやっているのは土地の開墾だ。気候はよく土地も肥えているのか、作物はすくすくとよく育つ。ときおり上空に敵機を見かけるが、何もせずに飛び去ってゆく。現地の者は普段はのんびりしているが、近く祭りがあるとかで、最近は何やらそわそわし始めて…
 南方に出征した夫と、留守宅を守る妻との心温まる手紙のやり取り…かと思っていたらw 航空機を駆使する現代戦と、のんびりした島の暮らしを対比させ、ってな読み方もある。でも、「SFマガジン2018年2月号」の映画紹介とかを見ると、著者の好みをそのまんま出しただけじゃないかと思う。それぐらい「祭り」の場面は鮮烈で、実はこの場面を描きたかったんだろうなあ、とか。いやどう考えても某迷作映画のパロディというか。
 にしてもこの人、「うどん、キツネつきの」もそうなんだけど、得体の知れない生き物を拾って育てる話が好きだなあ。
L.H.O.O.Q. / 文學界2016年8月号
 妻が若くして逝った。あまり器量のいい方ではなかったが、言い寄る男は多かったようだ。もっとも、妻は興味を示さなかったようだが。これは他の男に限らず、私にも興味がなかったらしく、我儘な乱暴者だった。たいした遺産はなかったが、雄犬を飼っていた。太った小型犬だ。特に私が面倒を見ていたわけではないが、犬は妙に私に懐いて…
 L.H.O.O.Q. って何かと思って調べたらマルセル・デュシャン(→Wikipedia)の作品の一つ、「彼女はおしりが熱い」(→Artpedia)が見つかった。とすると、何か元ネタがあるんだろうか? ヒトは強く興味を惹かれると瞳孔が開くから云々、なんて理屈もつけられるけど、たぶんそれは野暮なんだろう。

 表題作の「オブジェクタム」は、少しづつ「鍵」が集まって物語が見えてくる構造が巧い。でもそれ以上に、「南の側の島」の祭りの場面が余りにも強烈だ。きっと著者の趣味だろw いっそ妻子を呼び寄せちゃえばいいのにw

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2019年5月 5日 (日)

マーク・ペンダーグラスト「コーヒーの歴史」河出書房新社 樋口幸子訳

…コーヒーは、世界の「合法的な」輸出品の中では、石油に次いで最も金銭的価値の高い。そしてコーヒーは、世界中で摂取されている精神に影響を及ぼす薬物の中でも、最も強い作用を持つものの一つだ。
  ――序章 霊薬か泥水か

チャールズ・ウィリアム・ポスト「とても味のよい純粋な食品を作ることは割に容易だが、それを売るのはまた話が別だ」
  ――第6章 麻薬のような飲み物

(大恐慌の際に)コーヒー相場がアメリカの株式市場より二週間早く大暴落したのは、決して偶然の一致ではない。コーヒーは国際通商ときわめて密接に結びついていたからである。
  ――第9章 イメージ戦略で売るジャズ時代

1929年に1ポンド22.5セントだったコーヒーの価格が、二年後には8セントまで下落した。
  ――第10章 焼かれる豆と飢える農民

(第二次世界大戦では)コーヒーを飲むことが軍の各部門の間で競争になったが、消費量では合衆国海兵隊が断然首位を占めていた。
  ――第12章 「カッパ・ジョー」 第二次世界大戦の時代

1988年に、コロンビアがコーヒーの輸出によって得た収入は17憶ドルだったが、不法なコカインの密輸で稼いだと推定される金額は、それよりちょっと少ない15憶ドルだった。
  ――第17章 高品質コーヒー革命

世界全体のコーヒー輸出量は、1980年代の終わり頃より年に平均8400万袋増加していたが、平均年収は107億ドルから66億ドルに、つまり一年間に40憶ドル以上も激減した。
  ――第17章 高品質コーヒー革命

…会社のパンフレットには、スターバックとは『白鯨』に登場する「コーヒー好きの一等航海士」だと明記した。実のところ、『白鯨』の中では誰もコーヒーを飲んでいないのだが。
  ――第18章 スターバックス体験

「高品質コーヒー焙煎業者の方々が、我々(コーヒー生産者)の作ったコーヒーを8ドルから10ドルで売っていると聞いて驚き、当惑しています。私たちは1ポンド1ドル少々しか受け取っていないのに」
  ――第19章 残りかす

…カフェインは天然の殺虫剤なのだ。
  ――第19章 残りかす

【どんな本?】

現在、世界のコーヒー生産量と消費量は、年間一億袋に達している。
  ――第19章 残りかす

私たちの暮らしにはコーヒーがあふれている。テレビでは毎日缶コーヒーの宣伝が流れ、街にはスターバックスが次々と店を出している。最近はコンビニの100円コーヒーが話題だ。

 なぜ、いつから、こんなにコーヒーが飲まれるようになったのか。どこでどのようにコーヒーは作られ、どうやって私たちの元に届くのか。育成・加工・流通には、どんな人たちがどのように携わっているのか。コーヒーの楽しみ方にお国柄はあるのか。そして、現代のコーヒー業界は、どのような道を辿ってきたのか。

 主に20世紀のアメリカのコーヒー業界を中心に、コーヒーとそれに関わる人々の歩みを綴る、一般向けの解説書。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Uncommon Grounds : The History of Coffee and How It Transformed Our World, by Mark Pendergrast, 1999。日本語版は2002年12月30日初版発行。単行本で縦一段組み本文約510頁に加え、訳者あとがき4頁。9ポイント46字×19行×510頁=約445,740字、400字詰め原稿用紙で約1115枚。文庫なら上下巻~上中下巻ぐらいの大容量。

 文章は比較的にこなれている。内容も特に難しくない。ただ、当然ながら、コーヒーが好きな人向けだ。

【構成は?】

 ほぼ時系列に沿って進むので、できれば頭から読んだ方がいい。

  • はじめに 「オリフラマ」農園のコーヒー摘み
  • 序章 霊薬か泥水か
  • 第1部
  • 第1章 世界に広まるコーヒー
  • 第2章 コーヒー王国
  • 第3章 アメリカの国民飲料
  • 第4章 金ピカ時代のコーヒー大戦争
  • 第5章 ジールケンとブラジルの価格政策
  • 第6章 麻薬のような飲み物
  • 第2部
  • 第7章 成長に伴う痛み
  • 第8章 世界中のコーヒーの安全を守るために
  • 第9章 イメージ戦略で売るジャズ時代
  • 第10章 焼かれる豆と飢える農民
  • 第11章 大恐慌時代のショーボート作戦
  • 第12章 「カッパ・ジョー」 第二次世界大戦の時代
  • 第3部
  • 第13章 コーヒー攻撃とインスタントの不満足感
  • 第14章 勝ち誇るロブスタ豆
  • 第4部
  • 第15章 熱狂的な愛好家集団
  • 第16章 黒い霜
  • 第17章 高品質コーヒー革命
  • 第18章 スターバックス体験
  • 第19章 残りかす
  • 謝辞/訳者あとがき/参考文献/索引

【感想は?】

 書名の「コーヒーの歴史」は、間違いじゃないにせよ、正確じゃない。実際には、「アメリカのコーヒー・ビジネスの歴史」だろう。

 コーヒーそのものの歴史は、「コーヒーの真実」の方が詳しいし、視点も世界全体を見ている。対して本書は、アメリカ合衆国に焦点を合わせた感が強い。フィリップ・モリスやP&Gやスターバックスなどが、どのように生まれ育ち市場を奪い合い身売りや合併を経て現在に至ったか、そんなUSAを舞台としたビジネスの話が半分以上を占める。

 スイスのネスレやスターバックスが売り物にしているカプチーノなど、ヨーロッパも少し出てくる。が、あくまでも、背景としてだ。というのも、コーヒーは国際的な商品であり、世界のコーヒー市場の変化は、アメリカの市場にも影響するからだ。アラブに至っては歴史で少し触れるだけで、現代のアラブはほとんど出てこなかった。

 アメリカもヨーロッパも、コーヒーの消費地であって産地じゃない。産地は北回帰線と南回帰線の間、熱帯地域の高地が向く。というのも気温が大事なのだ。最低気温は0℃より高く、最高気温は27℃より低く、平均は21℃ぐらいでなきゃいけない。しかも、アラビカの高級な種は、直射日光に当たらず、背の高い日除け樹の影で育てなきゃいけない。かなりデリケートなのだ。

 そんなわけで、産地はかなり限られる。もともとコーヒーはエチオピアが原産なんだが、本書では中南米の話題が多い。特に存在感が大きいのはブラジルだ。こういう風に、中南米の農産物をUSAが買うって関係は、砂糖(→「砂糖の歴史」)やバナナ(→「バナナの世界史」)と似ている。そして、そこで繰り広げられるドラマも、似たような感じだ。

このたった一つの物資を注意深く観察すれば、それを通して中央アメリカ諸国の構造が見えてくるのである。
  ――第2章 コーヒー王国

 どんな構造か。産地の中南米では、大資本が土地を買い占め、または原住民から強引に土地を奪う。土地を奪われた原住民は安くコキ使われ、または奴隷として使いつぶされる、そういう構図だ。不満を募らせた労働者が逆らおうものなら…

1933年に(グアテマラ大統領のホルヘ・)ウビコ(・カスタニェダ)は、労働組合や学生運動、政治運動などの指導者百人を射殺させ、次いでコーヒーとバナナ農園の所有者は雇い人を殺しても処罰を受けなくてよいという布告を出した。
  ――第10章 焼かれる豆と飢える農民

 もう無茶苦茶だ。ちなみにこのウビコ、機を見る目はあったようで、「真珠湾攻撃の後、ドイツ人農園主たちとあっさり手を切った」。それぐらい真珠湾攻撃は愚行だったのね。まあいい。戦時中は煩い奴らにファシストのレッテルを貼り、戦争が終わり冷戦に突入するとレッテルを共産主義に貼りかえる。USAも赤の脅威と聞けば黙っちゃいない。CIAも政府に協力し…

 こういうパターンはベトナムでも同じなんだよなあ。社会構造・経済構造に根本的な原因があるのに、そこに気づかず手っ取り早くケリがつく(ように思える)軍事力で解決しようとして、後々まで大きな禍根を残す。いつになったらアメリカは学ぶんだろう。

 などの物騒な情勢をヨソに、USAでは幾つもの業者が生まれては消え、激しい競争を繰り広げる。最初はセールスマンが家庭を訪ね歩き、雑誌や新聞や看板で盛んに広告し、ラジオが出回ればスポンサーとして番組を提供し、スーパーマーケットが流行れば棚を奪い合う。当時の広告を多く紹介しているのも本書の特徴で、今なら炎上必至のキャッチコピーがズラリと並んでいたり。

 このあたりは、さすがに時代の変化を感じるところ。

 とまれ、流行り物を嫌う人も世の中には一定数いる。この本ではチャールズ・ウィリアム・ポストがコーヒーの敵役として登場し、優れたビジネスの手腕を見せてくれる。「私は治った!」なんて本を出してコーヒーを攻撃し、自社のコーヒー代用製品ポスタムに切り替えれば「普通の病気ならなんでも治せるのです」と売り込むのだ。

 21世紀の今でも似たような手口はよく使われるが、ポストが活躍したのは19世紀末。ここでは、逆に人の変わらなさを痛感したり。

 終盤では吸収合併による寡占化と、そのスキを突いて台頭するスターバックスに象徴される高品質コーヒーを描き、いまなお戦国時代が続いていることが伝わってくる。スターバックスの面倒くさい注文方法がどう決まったのかは、なかなか笑えるところ。世の中、往々にしてそんなもんです。

 全般的にはUSA内でのビジネスの話が中心ながら、私は原産地である中南米とUSAの関係が面白かった。なんとなく、最近の日本も似た構図に組み込まれつつある、なんて感じるのは私だけだろうか。

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2019年5月 1日 (水)

SFマガジン2019年6月号

「おれはおれを、君に託す」
  ――冲方丁「マルドゥック・アノニマス」

「俺たち、どうなってしまったのかな?」
「地獄に堕ちたのさ」
  ――サム・J・ミラー「髭を生やした物体X」茂木健訳

この二人は俺とは違う。
  ――藤井太洋「マン・カインド」第8回

 376頁の標準サイズ。

 特集は三つ。メインは「追悼・横田順彌」。次いで「栗本薫/中島梓没後10年記念賞特集」と「小川一水『天冥の標』完結記念特集」。

 小説は11本。まず「追悼・横田順彌」として横田順彌の2本、「かわいた風」と「大喝采」。連載は4本。椎名誠のニュートラル・コーナー「巡回軌道」,冲方丁「マルドィック・アノニマス」第25回,藤井太洋「マン・カインド」第8回,夢枕獏「小角の城」第53回。

 読み切り&不定期掲載は5本。菅浩江「博物館惑星2・ルーキー 第7話 一寸の虫にも」,小川哲「ムジカ・ムンダーナ」,小野美由紀「ピュア」,琴柱遥「讃州八百八狸天狗講考」,サム・J・ミラー「髭を生やした物体X」茂木健訳。

 まずは特集「追悼・横田順彌」。

 横田順彌「かわいた風」。焼けはて、かわききった星に、宇宙放浪者ロアはいた。空は青く澄んでいるが、生きるものはいない。/ライフヘルパーが、キャサリンに歴史を教えている。最近のキャサリンは、なかなかいうことを聞かない。/フランクとパトリシアの夫婦は、スイスへの移住を考えている。戦争ばかりを考える政治家に嫌気がさしたのだ。

 1976年の発表。米ソが核兵器を突きつけ合う冷戦のさなか、という時代背景が色濃く出た作品。さすがに正面切ってのメンチの切りあいこそなくなったものの、核兵器は減っちゃいないどころか、プーチンの軍事戦略はは核を前面に押し出したもので、物騒な状況は今も変わっていない。

 横田順彌「大喝采」。明治44年12月2日、鵜沢龍岳と黒岩時子が、押川春浪の家に訪ねてきた。話題は噂の活動写真「ジゴマ」から、妙な方向へと流れが変わる。陛下に関わる話だ。それというのも、先月の肥筑平野の大演習に行幸のおり、陛下は活動写真をご覧になったのだが…

 お得意の押川春浪物で、細かい時代考証が楽しめる作品。「ジゴマ」はともかく、「ニチ」「ヒルム」「セイキスピヤー」なんて言葉が、時代の香りを伝えてくる。弁士次第で映画の出来が変わるってあたりは、サイレントならではの味。案外とMADが、その伝統を受け継いでたりして。そういえば、なぜ字幕って発想がなかったんだろう? 当時のフィルムじゃ難しかったんだろうか?

 横田順彌「ぼくの亜米利加旅行」。1975年(だと思う)、鏡明・荒俣宏・伊藤典夫と共に、ロスアンジェルスSF大会やサンフランシスコとニューヨークを巡った旅行記。筆者のサービス精神が伺えるユーモアあふれる文章が楽しい。ポール・アンダースンの隣の席とか羨ましすぎる。にして、アメリカに行ってまで古本を漁るとはw

 以上、特集「追悼・横田順彌」はここまで。

 椎名誠のニュートラル・コーナー「巡回軌道」。インデギルカ号から、深宇宙探査用のロケットに乗り込み、チコと市倉、そしてナグルスの三人は、目的の惑星に向かう。早いスピードで自転する中心惑星を、ドーナツのような外惑星が取り囲んでいる。ただし外惑星は、食い散らかされたように幾つかに割れている。

 扉のイラストで、やっと「あ、そういう事なのね」と舞台の形が分かった。宇宙探査と名前は偉そうだが、この人が書く人物の旅ってのは、どいつもこいつも行き当たりばったりな感じがぬぐえないのは、やっぱり筆者の行動様式を反映してるんだろうかw

 冲方丁「マルドィック・アノニマス」第25回。バロットはイースターズ・オフィスなどの協力を得て、<クインテット>のアジトを襲い、ウフコックを取り戻す。たちまち抜群のコンビネーションを発揮するバロットとウフコックは、<クインテット>と互角以上に渡り合う。特にバジルとは交渉の余地があると感じ取ったバロットは…

 今回もアクションは少ないが、相変わらず緊張感が漂う展開が続く。しかも<クインテット>の内情が明かされるにつれて、バジルにも肩入れしたくなるからややこしい。法が通用しない分、バロットより苦しい立場なのかも。トゥイードルディの性格って、某書のジョン・アンダーソンに似てるなあw

 小川哲「ムジカ・ムンダーナ」。フィリピンの小さな島、デルカバオには、五百人ほどのルテア族が住んでいる。彼らには独自の文化がある。音楽を取引に使うのだ。高橋大河は、目的があってデルカバオに来た。もっとも裕福な男が所有し、一度も演奏されたことのない、もっとも価値のある音楽を聴くために。

 よく言われるように、貨幣ってのは不思議なもので、価値があると多くの人が信じるから価値がある。誰も聴いたことがないのに、なぜ価値があると思われているのか。とかの謎はともかく、私は音楽のネタだと、頭の中で次々と音楽が鳴りだして、なかなか文章に集中できないんだよなあ。冒頭のロブの話でも、AerosmithのDUDE(→Youtube)やScorpionsのSteamrock Fever(→Youtube)が鳴りだして…

 小野美由紀「ピュア」。衛星ユングには15歳から18歳のメスが住む学園星だ。月に一度、レッド・トーンの期間中に地上に行き、“狩り”をする。男と交わり、終われば食べる。卒業後、私たち特Aクラスは上級士官として軍の服役が待っている。だが子供をたくさん産めば“名誉女性”となり兵役免除だ。ヒトミちゃんは美しい。全身が宝石箱みたく輝く翡翠色の鱗に覆われ…

 ちょっと芸風は鈴木いづみに似てるかも。マミちゃん、そんなにがっついたら、そりゃできるモンもできませんがなw 男女の肉体の強さが入れ替わり、生殖がテーマとなれば暗くなりがち。しかも事後には女が男を喰っちゃうし。でも性欲と食欲を強く結びつけ、主人公のユミが多少能天気なあたりが、スプラッタながらも明るい雰囲気に仕上がってる。いやほんとグチュグチュヌラヌラなんだけどw

 サム・J・ミラー「髭を生やした物体X」茂木健訳。ヘリ操縦士のマクレディは、全滅したマクマード南極観測基地から、かろうじて生きて帰った。だが、彼はときおりマクレディではない。その間、マクレディには記憶がない。何かがマクレディの身体を乗っ取っている。ニューヨークでマクレディはかつての恋人ヒューと出合う。そしてヒューを吸収し…

 映画「遊星からの物体X」に捧げる一編。「命がけで南極に住んでみた」によると、南極基地でも定期的に上映されるとか。食われた者の視点ってのが面白い。と同時に、同性愛や人種問題、そして「遅れちてきた移民」などを巧みに盛り込んでいる。そうか、だからマクレディなのか、と感心した。でもアレには勝てないってのは、SFの伝統?

 琴柱遥「讃州八百八狸天狗講考」。讃州丸亀京極氏屋形で怪異があった。便所から手が出て女の尻を撫でる。輪弥という若侍がそれを聞き、女物の小袖をかぶり便所にはいる。すると下から毛むくじゃらの手が出てきたので、脇差で切りつけた。キャッと声がし、残ったのは狸の前足。以後、便所の怪異はなくなった。あくる年、輪弥の枕元に…

 渡辺綱の鬼の腕ならぬ狸の腕かいw 讃州で八百八狸ってあたりは、いかにも由来がありそうだし、どこまで本当でどこからが作り話かと思ったら、どんどんとんでもない方向に話が向かってw だから二億五千年なのかw やっぱり狸ってのは、どうにもユーモラスな方にいっちゃう生き物でw オチもヒドいw

 藤井太洋「マン・カインド」第8回。これも話が佳境にさしかかったためか、ネタバレせずに内容を紹介するのは難しい。現在の技術革新が続けば、間違いなくこういう技術も使われ始めるだろう。昔からあるテーマだけど、時代的にも技術的にも「今、そこにある」問題だけに、深く考え込んでしまう。果たして移行は平穏に進むんだろうか。

 菅浩江「博物館惑星2・ルーキー 第7話 一寸の虫にも」。兵頭健は憂鬱だ。今回の任務は探し物。しかも27匹。<デメテル>空港から逃げ出したタマムシの捕獲だ。ただのタマムシじゃない。遺伝子改造され、七センチほどに大きくなった、俗称ニジタマムシである。繁殖方法は不明で、下手をすると大増殖して生態系を破壊しかねない。

 イシードロって、どっかで聞いたような名前だなw お気楽極楽な性格が、いかにも南欧人。その弁護士もいい性格してるw それより変人ぶりが際立ってるのが、昆虫担当の学芸員カミロ・クロポトフ。学者さんにありがちなタイプだよね。ピントが合ってる時と合ってない時の落差が凄い人。にしてもニジタマムシ、ニール・ショーンあたりはすぐ気に入りそうだなあ。

 池澤春奈「SFのSは、ステキのS」。ヒトの体は少しづつ入れ替わるのを「モー娘。パラドックス」って、をいw プロ野球チームもそうだよね。次々と選手が入れ替わるのに、チームとしては同じ。これが大学や高校のチームだと、もっと入れ替わりが速いんだけど、それでもファンは「同じチーム」として認識してる。音楽だとベンチャーズとか。ディープ・パープルは…イアン・ペイスがいるか。

 鹿野司「サはサイエンスのサ」、今回のテーマはアルゴクラシー。imidas によると、「人工知能に政策立案・決定を委ねること」。現代中国じゃアリババなど信用サービスの普及で、取引の信用度が上がりサービスも良くなったとか。そういえば中国は昔から科挙でエリートを選抜してたなあ。これがあの国の変化を阻んだんだろうか。

 大森望「新SF観光局」。ラヴィ・ティドハーとアンソロジー編纂の苦労で盛り上がったって話。にしてもイスラエルとパレスティナの作家が同じ本に収まるってのも凄い。「(著者の)人数が増えると完成した本を各国に送るだけで数千ドルの経費がかか」るって、確かにそりゃ大変だ。

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