ジョン・クイギン「ゾンビ経済学 死に損ないの5つの経済思想」筑摩書房 山形浩生訳
イデオロギーは内部から見れば、通常は常識のように思えるのだ。
――序文世界金融危機は、競合する学派の細々とした議論を確認・否定したというよりはむしろ、それらがいかにどうでもいいかを示した。
――第3章 動学的確率的一般均衡(DSGE)実質メジアン(中央値、→Wikipedia)世帯所得は、1973年(長い戦後拡大期の最終年)の45,000ドルから、2008年には5万ドルをちょっと超えた。年間成長率は0.4%になる。
――第4章 トリクルダウン経済学先進国の中で、アメリカの社会的な階層移動はどんな指標で見てもほぼ最低で、ヨーロッパの社会民主主義諸国が最高なのだ。
――第4章 トリクルダウン経済学自律性は概ねゼロサム財なのだ。
――第4章 トリクルダウン経済学
【どんな本?】
ゾンビ経済学とは、とっくの昔に葬られたはずなのに、なぜか今でも信者が絶えない経済理論を示す。世間ではサッチャリズム/レーガノミクス/経済合理主義/ワシントン・コンセンサス/ネオリベラリズム(新自由主義)と呼ばれる思想だ。この本では、以下五つの思想を挙げる。
- 大中庸時代:1985年に始まる時期は、前代未聞のマクロ経済安定の時期だった
- 効率的市場仮説:金融市場がつける価格はあらゆる投資の価値に関する可能な限り最高の推計である
- 動学的確率的一般均衡(DSGE):マクロ経済分析が気にすべきは貿易収支や債務水準などのマクロ指標ではなく、個人の行動に関するミクロ経済モデルから導かれるべきだ
- トリクルダウン経済学:金持ちに有益な政策は、最終的に万人に役立つ
- 民営化:政府の機能は民間企業の方がうまくやる
それぞれ、どんな思想で、いかにして誕生し、どう採用され、どんな悲劇を招き、いかにして失敗を取り繕い、現在まで生き延びているのか。オーストラリアの経済学者による、一般向けの現代経済学の解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は ZOMBIE ECONOMICS : How Dead Ideas Still Walk AMong Us, by John Quiggin, 2010。日本語版は2012年11月10日初版第1刷発行。単行本ハードカバー縦一段組みで本文約268頁に加え、訳者あとがき6頁。9ポイント46字×19行×268頁=約234,232字、400字詰め原稿用紙で約586枚。文庫なら普通の厚さの一冊分。
文章は二重否定などのヒネクレた表現が多く、ちと読みづらい。たぶん英国風のユーモアを意識したんだろう。「選挙の経済学」とかもそうなんだけど、経済学者ってのは、無理して優雅な文章を書こうとする人が多い気がする。その前にわかりやすさを心掛けてほしいんだが。
まあいい。内容も素人にはかなりシンドい。なにせ「プレストン・ウッズ(→Wikipedia)」とかの専門用語がバシバシ出てくる。うち幾つかは後で説明があるから油断できない。
加えて、今世紀に入ってからの世界の経済動向を元にした話が多いので、だいたいの浮沈を知っている方がいい。大恐慌とかオイルショックとかドットコム・バブルとか。年寄りはリアルタイムで経験したから知ってるけど、若い人には辛いだろうなあ。
【構成は?】
章ごとにそれぞれ別のテーマを扱っている。だから気になった所だけを読んでもいい。ただし前の章を受けて後の話が展開する話題もある。経済学や世界経済の動向に詳しければ大きな問題はないが、素人は素直に頭から読んだ方が無難。
- はじめに/序文
- 第1章 大中庸時代
- 1.1 誕生:嵐の前の静けさ
- 1.2 生涯:大いなるリスク移転
- 1.3 その死:反対者たちの勝利
- 1.4 復活:世界危機が移行期のつまづきか?
- 1.5 ゾンビ以後:20世紀の出来事を見直す
- 1.6 参考文献と推奨文献
- 第2章 効率的市場仮説
- 2.1 誕生:カジノから計算機へ
- 2.2 生涯:ブラック=ショールズ、銀行家、バブル
- 2.3 その死:2008年の危機
- 2.4 復活:シカゴ学派の死者召喚
- 2.5 ゾンビ以後:国と市場
- 2.6 参考文献と推奨文献
- 第3章 動学的確率的一般均衡(DSGE)
- 3.1 誕生:フィリップス曲線からNAIRUを経て
- 3.2 生涯:合理性と代表的エージェント
- 3.3 その死:なぜ経済学者はここまで派手にまちがえたのか?
- 3.4 復活:世界金融危機を引き起こしたのはオバマ?!
- 3.5 ゾンビ以後:現実的なマクロ経済学に向けて
- 3.6 参考文献と推奨文献
- 第4章 トリクルダウン経済学
- 4.1 誕生:サプライサイド経済学からダイナミック得点
- 4.2 生涯:格差についての弁明
- 4.3 その死:金持ちはもっと豊かに、貧乏人はどん底のまま
- 4.4 復活:移動なき移動性
- 4.5 ゾンビ以後:経済学、格差、平等性
- 4.6 参考文献と推奨文献
- 第5章 民営化
- 5.1 誕生:われわれすべて、今や市場自由主義者
- 5.2 生涯:理論的裏付けを探す政策
- 5.3 その死:謎と破綻
- 5.4 復活:今度こそ息の根は止まったか?
- 5.5 ゾンビ以後:混合経済
- 5.6 参考文献と推奨文献
- 第6章 21世紀の経済学とは
- 6.1 20世紀の経験を考え直す
- 6.2 リスクと不確実性に対する新アプローチ
- 6.3 経済学に何が必要か
- 注/訳者あとがき/参考文献/索引
【感想は?】
経済学、特に政策に直結するマクロ経済学は、イデオロギーつまり政治思想・倫理思想の世界だ、と私は思う。
経済学者はたくさんいる。それぞれ主張が違う。違う原因は、その人の世界観・倫理観であり、支持する政策だ。みんな、自分の主張に合わせて都合よくデータをつまみ食いしちゃ数式をいじり、辻褄を合わせているのだ。データから政策を導き出すんじゃない。最初に政策があって、理屈は後付けなのだ。
だから、経済学関係の本の良し悪しも、読者の好みで決まる。好みに合えばいい本だし、合わなければ良くて屁理屈、悪ければオカルトになる。読者の手間を省くため、最初に結論を示そう。この本は、こういう立場だ。
経済学者たちは、所得分配をもっと平らにするような政策に関心を向けるべきだ。
――第6章 21世紀の経済学とは
社会主義に近く、大きな政府を好む立場だ。例えば政府の不況対策。不況時には社会保障を充実させて公共事業を増やせ、と主張する。要は貧乏人に味方する立場、つまりリベラルですね。
だから、小さな政府を望む人には向かない。マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガン、そして最近の新自由主義が好きな人、すなわち右派には面白くないだろう。
私はリベラルな貧乏人で、当然この本が好きになった。そういう者がこの記事を書いている。
経済学の本で厄介なのは、やたら専門用語が出てくることだ。しかも、たいていは理論の中身と関係ない。理屈を思いついたり実行に移した人の名前だったり、住んでる場所に因んでたり。ケイジアンとか言われても、何の事やらサッパリだ。どうも経済学者のケインズに因んでるらしい。
この本は、そういう言葉の意味がわかるのが嬉しい。実際、テーマに上がっている五つ(大中庸時代,効率的市場仮説,DSGE,トリクルダウン,民営化)のうち、読む前に私が見当ついたのは二つ、トリクルダウンと民営化だけだ。なお、読み終えた今でもDSGEは巧く説明できそうにない。
やっぱり私が勘違いしてたのは、ネオリベことネオリベラリズム(新自由主義)。リベラルというから弱者に優しいのかと思ったら正反対だった。
最初から全く見当がつかないのが、塩水派と淡水派で、DSGEに出てくる。塩水派はアメリカ東海岸と西海岸の大学で盛んな一派で、淡水派はシカゴとミネソタの湖畔の大学に多い。わかるかそんなもん。中身は全く関係ないじゃん。
いずれも金融政策、それも主に中央銀行の方針を論じるもので、経済政策全般ではない。塩水はケインズ寄りで「産出と雇用も考えろ」で、淡水は「物価の安定だけ考えろ」らしい。
更にどうでもいい話だが、私は金融政策の役割を軽く見ている。理由は簡単。私はケインズ経済学を少しだけ知っているけど、金融はまるっきり知らないから。だもんで、経済に関しては全て需要曲線と供給曲線で考えちゃう。金槌を持つ者にはすべてが釘に見えるんです。
経済学者、特にマクロ経済学者の主張の違いは、政策に基づくものだ、との私の思い込みを更に強めてくれるのが、「第5章 民営化」。これ、ちゃんと得する人がいるのだ。
まず、組合が弱くなる。公共組織の労働組合はたいてい民間より強い。かつての国労(国鉄労働組合、→Wikipedia)の凄さを知っていれば、国鉄民営化でどうなったか実感できるだろう。政治家と経営陣にとって、ウザさがぐっと軽くなる。
経営陣は縛りが軽くなり給料が増える。金融業界は商品が増えて手数料が入る。赤字を抱える政府や自治体にとっちゃ、目先の金が手に入るのも嬉しい。昔はそういうのをタケノコ生活(→Weblio)と言ったけどね。
これはソ連崩壊がわかりやすいかも。全部を公営化したのがソ連で、それはダメだった。民営化が向く業界もあるのだ。この本では、「中小企業が主体の経済部門」としている。分かりやすいのが小売店かな。ラーメン屋を公営化したら、日本じゃ革命が起きかねない。
繰り返すが、大きな政府を望む姿勢の本だ。つまり、社会保障を厚くし、不況時には公共投資をして景気を刺激しろ、金持ちからふんだくり貧乏人に優しくしろ、そういう思想の本である。ビンボな私には心地よかったが、あなたのお気に召すかどうかはあなた次第だ。
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