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2019年1月 9日 (水)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 2

いま会社を持っているのはどんな人ですか。キプロス島やマイアミに別荘を持っているのは? 共産党のお偉方だった人たちです。
  ――街の喧騒と台所の会話から(1991-2001)

彼ら全員が共産主義者というわけではなかったが、全員が偉大な国家を支持していた。変化をおそれていたんですよ。というのも、変化があるたびにいつも貧乏くじを引いてきたのは農民だったから。
  ――孤独な赤い元帥と忘れられた三日間の革命

いまなら発言ではなく、なにか行動しなくちゃならない。なんでもかんでもいうことができるけど、ことばにはもうどんな力もないのです。
  ――思い出の施し、意味の渇望

あの人は、パンを見るとすぐに、もくもくと食べはじめるのです。どんな量であっても。パンは残しておいちゃいけないものなんです。それは収容所の割当食。
  ――苦悩することの甘美さとロシア的精神の焦点

ひと月前はみんながソヴィエト人だったのに、いまではグルジア人とアブハジア人……
  ――殺人者のだれもが、自分は神に仕えていると思っている時代

「恐怖がなければわが国ではすべてが一瞬でばらばらになってしまうんだ」
  ――赤い小旗と斧の微笑

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「セカンドハンドの時代 『赤い国』を生きた人びと」岩波書店 松本妙子訳 1 から続く。

 この記事では、「第一部 黙示録による慰め」を中心に紹介する。

【どんな本?】

 千万単位の犠牲者を出しつつも独ソ戦にかろうじて勝利し、以後は冷戦の一極として東側に君臨し、ゴルバチョフの登場で淡い期待を抱きつつ、1991年のクーデター&エリツィン登場で新時代の到来を夢み、だが訪れたのは国の崩壊とならず者の跳梁跋扈だった、旧ソ連。

 そんなソ連に産まれ生きた人びとは、どんな人生を歩み、何を考え、今は何をしているのか。どんな家族に囲まれ、新しい時代をどう思tっているのか。

 ウクライナ産まれベラルーシ育ちで、2015年度にノーベル文を学賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる、旧ソ連で生きた人びとの声を届ける、膨大なインタビュウ集。

【第二次世界大戦】

 最初から貴重な証言が出る。なんと対フィンランド戦、冬戦争(→Wikipedia)だ。

 従軍したのは証言者の父。いきなり「この戦争のことは伏せられていて、戦争ではなく、フィンランド出兵と呼ばれていたんです」。そりゃ、あれだけ被害を出せば、なあ。

 フィンランドの戦い方は噂の通り。「スキーをはき、白い迷彩マントを着て、どこにでもひょいとあらわれる」「ひと晩のうちに前哨部隊や一個中隊が全滅させられる」。しかもスナイパーを恐れていたというから、シモ・ヘイヘみたいな人は多かったんだろう。

 幸か不幸か捕虜となって生還。しかし「わが国の捕虜は(略)敵として迎えられた」。てんで、永久凍土を相手に鉄道建設。

 日本も捕虜になった兵には冷たかった。そういう体質は、ソ連やロシアと似てるんだよなあ。

 ただ、出征した人からもその家族からも、戦争中にアメリカから莫大な支援を受けていた事は、全く出てこない。きっと、知らないんだろう。

【ユダヤ】

 ソ連時代、同級生がイスラエルに移り住んだ時の思い出話。

 学校全体で同級生を説得する。「わが国にはりっぱな孤児院がある、ソ連に残りなさい」と。「ぼくらにとってその子は裏切り者だったんです」。

 だが出国が決まり、校長先生は朝礼でわざわざ話題にあげる。「あの子と文通をはじめる生徒は卒業がむずかしくなりますよ」。さて、子どもたちはどうしたか。「その子が出国したあと、ぼくらはみんなでいっせいに彼に手紙を書き始めたんです」。

 大人のタテマエより友情を取ったいい話なのか、子供でも西側とのコネの価値がわかっていたって事なのか。私は後者だと思うんだが、どうだろうね。

【孤児院】

 その「立派な孤児院」とやらの実情が分かるのが、第一部の最後「赤い小旗と斧の微笑」。

 語り手は59歳の建築家、女。なんと、生まれはカザフスタンの収容所だ。まず父が逮捕され、その無実を証明しようとした母も収容所送りとなる。なんの科かは不明だが、他の記事で「スターリンに似ていたから」なんて理由もあった。なんじゃい、そりゃ。

 それがともかく、収容所に送られた時、母は胎内に語り手を宿していた。語り手曰く。

ソルジェニーツィンの『イワン・デニースヴィチの一日』が(略)掲載されたときのことが。(略)みんなが衝撃をうけていた。(略)でも、わたしには理解できなかった、なぜそんなに関心がもたれるのか(略)。わたしにとっては知っていることばかり、ごくあたりまえのことでしたから。
  ――赤い小旗と斧の微笑

 母と共に暮らしたのは三~五歳まで。ちなみに収容所の区域は「ゾーン」と呼ぶそうな。ストルガツキー「ストーカー」の「ゾーン」は、ここから来たんだろうか?まあいい。収容所の暮らしは、ご想像のとおり。

わたしたちは、ひろえるものならなんでもひろって口にしていた。なにか見つけて食べようと、いつも足元を見ていた。草も食べ根っこも食べ、石ころをぺろぺろなめていた。

 そんな彼女も五歳になり、孤児院に送られる。「保母さんや先生というのはいなかった。(略)いたのは指揮官たち」。その指揮官は、子供たちに対し…

「あんたたちはぶってもいいし、殺したっていいくらいだ。あんたたちの母親は敵なんだからね」

 ってなわけで、実際、言葉通り「ふとしたことでぶったり、ただなんとなく……ぶったりした」。当然、子供たちの健康状態も悲惨で、「みんな疥癬もちで、おなかに赤くてぶあついおできができていた」。家畜だって、もう少しはマシな扱いを受けるもんだが。

 教育も恐ろしい。なんたって「密告する子はいい子」だ。実際、「子どもたちはおたがいに密告しあっていました」。ただ、誰がチクったのかは子どもたちも気づいた様子。

 当然、スターリン崇拝も仕込まれる。「わたしたちが文字を覚えると、(略)口述されるままに、(略)わたしたちの統率者に手紙を書いたのです」。権力ってのは、まず最も弱い者にヤラセを強いるんです。

 そんな語り手も、母親が刑期を終え、迎えに来る。とっはいっても、完全に自由になったわけじゃない。内務人民委員部からお触れが出る。「国境地帯に住んではならない、軍需企業や大都市の近くに住んではならない」。どないせいちゅうねん。

 やがて家庭を持った語り手は、かつて住んだ収容所の跡地を訪れる。が、既に畑になっていた。地元の農民曰く…

「ジャガイモ畑じゃ、毎年春の雪どけや雨のあとで骨がでてきよる」「ここらの土地はそこらじゅう骨がごろごろ、石ころみたいなもんじゃ」

 語り手と同じ目的で訪れた人は語る。

「わたしはここの老人たちと話をしたんです。彼ら全員が収容所で勤務、あるいは仕事(略)していた。料理人、看守、特務部員」。

 仕事のない土地じゃ、収容所は稼ぎの安定した職場だったのだ。やはり別の男は語る。彼の父も「仕事」をしていた。

「父親は、フルシチョフ時代にこの地を離れたかったのだが、許可が下りなかった。国家の秘密を口外しないという念書を全員が書かされていた。だれも外に出すわけにはいかなかったのです」

 この後、語り手の息子のインタビュウが続く。これがまた強烈だ。密告した者とされた者、拷問した者とされた者が、隣り合って生きているロシアの現状を、まざまざと見せつけてくれる。

【おわりに】

 第一部では、他にも「粗連人(ソヴォーク)」なんて自嘲の言葉が印象に残る。1991年に抱いたエリツィンヘの期待と、その後の失望を語る人が多い。モスクワは相当にヤバかったようで、アパートの中庭にはしょっちゅう死体が転がっていたそうだ。

 なんか、この本の凄さを全く伝えられてない気がするけど、次の記事でなんとか…

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