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2018年11月 5日 (月)

「KGBの世界都市ガイド」晶文社 小川政邦訳

商店はスパイのエイジェントの仕事にとってバスや地下鉄に劣らず重要である。巨大なハロッズは出入り口が多く、いつも人がいっぱいで、尾行がついても簡単に群衆にまぎれこめる。
  ――ロンドン

「新ロシア人」は書店を一生懸命避けて通ります。博物館、図書館その他あらゆる文化センターがこのカテゴリに入ります。
  ――ベルリン

わたしは、ワシントンでは執行権力の正面入口がのんきにスラム街と隣り合わせになっていることにいつも驚いていました。(略)モスクワではニクソン大統領の最初の訪問までに数区画が撤去され、建物の正面は飾り立てられました。
  ――ワシントン

「ロシアでは全員が子どものときから軍事訓練を受けさせられ、娘たちは十五歳までに自動小銃を発射し、戦車を操縦し、爆薬を仕掛けられるようになるとか」
  ――バンコク

KGBの経理が(博物館や観光名所の)入場券の代金を払ってくれたことは一度もない
  ――パリ

「副領事に伝えてください。彼が明晩カジノ『オマル・ハイヤーム』で会うことになっている人物はCIAのエイジェントです」
  ――カイロ

われわれの部(英文露訳)にはロシアからの移民が大勢いた。彼らはわれわれソビエト人を猛烈に憎み、あらゆる機会に「噛みつく」構えだった。
  ――ニューヨーク

【どんな本?】

 1991年のソビエト崩壊に伴い、ロシアの出版界では一風変わったブームが巻き起こる。元KGBによる海外勤務生活の体験集である。これはそんな本の一つで、世界の有名都市ガイドの体裁を取っているのが特徴だ。

 彼らは数年にわたり各都市に住む。そのため、行きずりの観光客ではなく、そこに暮らす住民としての視点が新鮮だ。不慣れな海外生活でのカルチャー・ギャップも描かれており、それが逆にソ連/ロシア社会の特徴を浮き上がらせる。そしてもちろん、皆さん興味津々なスパイの仕事内容も。

 東西対立の厳しかった冷戦期に、KGBのスパイは何を目論み、どこでどんな事をやっていたのか。いかにして地元の者に取り入り、どんな者をエイジェントに仕立てるのか。そして、それぞれの都市と住民の印象は。

 ちょっと変わった世界の都市ガイド。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Путеводитель кГБ по городам мира, 1996。日本語版は2001年7月10日初版。私が読んだのは2001年7月15日の二刷。売れたんだなあ。単行本ソフトカバー縦二段組みで本文約360頁に加え、訳者あとがき5頁。9ポイント25字×22行×2段×360頁=約396,000字、400字詰め原稿用紙で約990枚。文庫本なら上下巻ぐらいの分量。

 執筆者が複数のため、文章の質はいろいろ。全般に、文学かぶれの素人っぽく、気取った比喩や詩の引用を多用した、無理にカッコつけた文章が多い。いかにもロシア人らしいが、KGBの印象とは違う。

 際立った例外がニューヨークのオレーグ・ドミートリエヴィッチ・ブルイキン。彼の文章は落ち着いて礼儀正しいながら、キビキビして歯切れがよく、無駄がなく明確だ。なにより読みやすく分かりやすい。これフレデリック・フォーサイスなどのスリラー作家やジャーナリストの文体だよな…と思って経歴を見たら、専門がジャーナリストだった。

【構成は?】

 それぞれの記事は完全に独立しているので、美味しそうな所だけをつまみ食いしてもいい。

  • 序文
  • ロンドン
    スパイ、古巣に戻る/恥ずべき情熱/浣腸器、モロトフ、左側通行/ハイド・パークでレディに言い寄るには/王室のたくらみ/スパイの本場、イギリス/フィッシュ&チップス万歳!/カール・マルクスの墓/衣類の買い方/娼婦たちの魅力について/イギリス人を怒らせるな/テムズ川とロシアの潜水艦/パブで酔ってはいけないか/文化と下劣さ/貧乏は恥ではない
  • ベルリン
    ミュンヘンから首都へ/バイエルン・アルプスの「感化エイジェント」/シュロット博士式治療/アウトバーンを行く/ボンのクラブ「マテルヌス」/ベルリンの「秘密チャンネル」/新ロシア人にアドバイス/ユリアン・セミョーノフのベルリン/国防軍最高司令部外国諜報局商工との出会い
  • ワシントン
    諜報機関チーフの妻の目で/アンドローポフとの会話/体制の都市/ホワイトハウスの周辺/十六番街の邸宅/ごみコンテナの中のFBI用情報/ダレス空港からスーパーマーケット「ミコヤン」へ/特務機関員の侵入/アーリントン墓地と議事堂/『ワシントン・ポスト』の記事/性的スキャンダルの都市/ナショナル・ギャラリーからFBI博物館へ/帰国
  • バンコク
    神の都/場末のレストラン/何でもない/アメリカ軍人への関心/スクンビット通りのバー/イギリス人ごっこ/グルメの天国/チャオプラヤー河岸のスパイの巣/人民解放軍の機密/インド首相の最良の友/あんたのロシアってどこにあるの
  • パリ
    「屋根」としての妻/パリのふしだらな空気/不貞もどきのスパイ活動/アンジュー河岸通りの謎の女エイジェント/シャブリと鳩/ヘルニアとサン・ルイ島/精神異常になるには/女エイジェント、オルセー美術館に登場/サン・ジェルマン・デ・プレで/便所のドラマ/モンマルトルの酔いどれ天才たち/「アジール・ラパン」でのランデヴー/ネー元帥との会話
  • カイロ
    ピラミッドに登る/四千年のほこり/エジプト料理/通信回線としてのオペル車/パレスチナ人の切手収集家/ルクソールを見ずしてエジプトを語るなかれ/スエズ運河の岸辺の秘密/「ヒルトン」会談/町ごとに友を持て/運命よ!わたしをカイロに戻してくれ
  • ニューヨーク
    国連本部で/フルシチョフとキャデラック/八十六回までの階段を駆け上がる/レストラン八十軒のコレクション/ブロンクス動物園の秘密/祖国の裏切り者芸能人/ボリショイから来たバレリーナたち/マディソン・アベニューの四つの角/シカゴで「挟み撃ち」/ホワイトカラーの町での恋
  • 東京
    日出る国への長い道程/60年代の東京/日本人との最初の会話/スパイ妻への指令/寿司屋の大物/わが友アリタさん/途中に交番
  • リオ・デ・ジャネイロ
    旅行中も働く諜報員/「一月の川」/隠れ蓑の職業/カリオカとは/ブラジル式コーヒー/異国情緒を味わいながら/シュラスカリアの二十四種類の肉/軍艦の女性は災いを招く/リオのビーチ/キリストのモニュメント/睦むことはブラジル人の生業/マラカナン・スタジアム/カーニバル/オデオン座近くでの密会/サンボドロモ
  • ローマ
    コロセウム、こんにちは!/クリトゥンノ通り四十六番地/スパゲティ・アッラ・キタッラ/KGBとはデリケートな仕事/ナヴォナ広場での会食/世紀の取引/クラウディア・カルディナーレと再会/スタルエノ墓地のフョードル/真実の口/仕掛けられた時限爆弾/教皇に会見
  • 訳者あとがき

【感想は?】

 そう、ご期待のスパイ活動についても、もちろん書いてある。が、それとは別に。

 彼らは数年に渡り、それぞれの都市に住む。そのため、行きずりの旅行者ではなく、生活の場として都市を見る。これに加え、スパイには土地勘も必要だ。

 幾つかの記事に共通して書いていることがある。彼らは、赴任してしばらくの間、その都市に馴染むため、アチコチをウロつきまわるのである。そうやって土地と人を知り、鉄道や地下鉄やバスなどに慣れ、エイジェントとのランデブーに相応しい場所を調べる。

 同じ土地でも、旅行者の目と生活者の目は違う。旅行者にはホワイトハウスなどの観光スポットが詰まったワシントンも、暮らす人にはちと不便。なぜって、「ワシントンの大きな店は全部郊外にあるのです。(略)華やかなアーケード街は、都心から車で20分から30分」。さすが車社会アメリカ。

 ちなみに、冒頭の引用にあるように近くにスラム街もある。となれば安い生活用品もソコで仕入れられそうなモンだが、そういう所にロシア人がウロついたら目立つんだろうなあ。

 もちろん観光地もバッチり調べてある。ピラミッドだって頂上まで登っちゃう。本当は立ち入り禁止だけど、エジプトの警官は鼻薬が大好きなのだ。他にもカイロの記事は地元色・スパイ風味いずれも色々と濃い話が盛りだくさんで、なかなか刺激的。

 観光地の話の戻ろう。観光名所を見る時も、スパイの視点はちょっと違う。便利な点は、もちろんある。色とりどりの多くの人がいるので、紛れ込みやすい。また美術館は回廊や行き止まりが多いので、尾行者を巻くのに便利だとか。また書店や動物園もスパイには何かと便利で…

 もっとも、ワザと尾行させる場合もあるけど。だって巻こうとしたら、尾行者が「奴は何か大事な仕事の最中だな」と思うでしょ。ああ、狐と狸の化かし合い。この点、東京は…

交通状況は変わっていたが、悪名高い交番は残っていた。これは諜報員にとって最も不愉快な施設だった。
  ――東京

 と、実に評判が悪い。だって、尾行を巻いても、交番の警官に見つかっちゃうから。あれ、治安以外の役にも立ってたのね。東京の項では、他にも「あの頃」を思い出させる記述がチラホラ。そういえば横断歩道の黄色い旗、最近はあまり見かけなくなったなあ。

 冷戦期の話だけに、時代を感じさせるエピソードも多い。

 カイロに店を出すパレスチナ人の切手収集家もそうだが、ローマの記事も印象的だ。筆者レオニード・セルゲーエヴィチ・コロソフは、第二次世界大戦で戦死したレジスタンスの英雄の墓を訪れる。その英雄は、当時ソ連の兵士で…

 二次大戦がらみでやはり強い印象を残すのが、ベルリンで出会った年配の紳士のエピソード。ポツダム広場の近くに居を構える紳士の正体が、あけてびっくり玉手箱。

 それとは別に、各国のお国柄も楽しい。ドイツでは博士の肩書がモノを言う。タイ人は日本人と同じく、断る時にも相手の面子を潰さないように配慮する。中でも傑作なのが、1964年のリオ・デ・ジャネイロ。軍事クーデターで緊迫した空気の中、ソ連大使館が群衆に包囲される。そこに現れた救世主は…

 などと良いことばかりのようだが、困った点もある。スパイだけに、エイジェントを釣る際には相応の饗応をせにゃならん。ってなわけで、各地の名物料理が次から次へと出てくる。なにせ自分の舌で確かめただけあって、どれも真に迫った描写。空腹時に読むには向かない本だ。ああ牡蠣が食べたい。

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