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2018年11月 8日 (木)

ウィリアム・トレヴァー「聖母の贈り物」国書刊行会 栩木伸明訳

「パパはボタンのビジネスをしているんだ」とトリッジは晴れやかに答えた。「トリッジ商会って知ってるでしょ」
  ――トリッジ

「あの人たちはあなたをこわがっているのよ」と彼女はその晩言った。「全員がね」
  ――ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳

「これでお終い、またしても」
  ――マティルダのイングランド 1.テニスコート

「だって私は現在ってものが嫌いなんです」
  ――マティルダのイングランド 3.客間

「おまえも早く戻りなよ、ポーリー」
  ――丘を耕す独り身の男たち

ミホールに神のお召しが訪れたのは十八歳のときだった。畑を耕し家畜の世話をする暮らしを捨てて修道院へ行け、と夢の中で告げられたのである。
  ――聖母の贈り物

ひとりぼっちの人間にとっては、つらつら考えることが友達みたいなものだ。
  ――雨上がり

【どんな本?】

 ウィリアム・トレヴァーは、アイルランド出身の作家。1928年生まれ、2016年没。彼の作品から12編を選んだ、日本独自の作品集。

 この作品集では、風景はのどかながら、カトリックとプロテスタントが絡み合う複雑なアイルランドの社会を背景に、人の気持ちのスレ違いを描いた作品が多い。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 2007年2月15日位初版第1刷発行。単行本ハードカバーー縦一段組みで本文約388頁に加え、訳者あとがき10頁。9ポイント44字×19字×388頁=約324,368字、400字詰め原稿用紙で約811枚。文庫本なら厚い一冊か薄めの上下巻ぐらいの分量。

 幾つかの作品はアイルランドの歴史と社会が背景にある。大ざっぱに言うと、民衆はカトリックで、侵略者であり地主階級のイングランド人はプロテスタント。ただし「アイルランド便り」のフォガーティー姉弟のように、落ちぶれたプロテスタントもいる。

【収録作は?】

 それぞれ 邦題 / 原題 の順。

トリッジ / Torridge
 寄宿舎学校で、トリッジは天然ぼけで明らかに浮いていた。特にトリッジに構うのは三人、ウィルトシャーとメイス=ハミルトンとアロウスミスの三人だ。この学校には秘密の伝統がある。上級生は、特定の下級生の後ろ盾になる。ある日、トリッジに…
 校長の「要領を得ない話」は、前菜ながら、この作家の特色をよく表している。十四年間つとめてきたって、そりゃ自分の無能を告白しているようなモんなんだけど、気づいていないんだろうなあ。この気づいていないってのが、後半になって…
こわれた家庭 / Broken Homes
 ミセス・モールビーは八十七歳。二人の息子を戦争で喪い、夫も五年前に他界した。今はひとりで暮らすのにも慣れたし、近所の人も何かと気を使ってくれる。ただ耄碌したと思われるのは嫌だった。ある日、中等学校の教師と名乗る男がやってきて…
 これまた教師の間抜けっぷりが炸裂する話。なんだけど、こういう自信満々の奴ってのは、まずもって自分じゃツケは払わない。というか、だいぶ前から話題になっている社会問題を私は思い浮かべた。ご近所と付き合いがあっても、これじゃあ…
イエスタデイの恋人たち / Lovers of Their Time
 時は1960年代。ノーマン・ブリットは旅行代理店に勤める40歳の冴えない男。妻のヒルダは同い年。子供はいない。最近、気になる女がいる。マリー、職場近くのグリーンズ薬局にいる娘。マリーから休暇の旅行の相談を受けたノーマンは、昼休みに彼女を誘い…
 1960年代といえば若者が元気にはっちゃけた時代、みたいな印象を持っていた。でも、中年もソレナリにノッていたのかも。
ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳 / The Raising of Elvira Tremlett
 父さんとジャック叔父さんは一緒に自動車修理工場をやってる。ブライアン兄さんとリーアム兄さんは工場を継ぐと期待されてる。エッフィー姉さんは計算が得意で、工場の会計を任せるのにちょうどいい。キティー姉さんは父さんのお気に入りだ。でも僕自身は…
 「トリッジ」同様、浮いちゃってる少年の話。子供が五人、町にパブが29軒って所が、いかにもアイルランドだなあ。1873年没ってのに何か意味があるのかと思って Wikipedia の「アイルランドの歴史」を見たら、土地改革でイングランド人地主の土地を小作人に分け与えていた頃。
アイルランド便り / The News from Ireland
 1839年、アイルランド。先代の地主ヒュー・パルヴァータフトが亡くなり、後継ぎの一族がやってきた。屋敷も敷地もいい具合に崩れかけていたが、後継ぎは職人を集め屋敷を整えている。フォガーティー姉弟は落ちぶれたプロテスタントで、屋敷で働いている。そこに住みこみ家庭教師のアンナ・マリア・ヘッドウがやってきた。
 1845年~1849年は有名なジャガイモ飢饉(→Wikipedia)の時代。ジャガイモの疫病による不作に加え、イングランド地主の無慈悲な政策が飢餓に拍車をかけた。冒頭でざっくりとアイルランドの歴史をまとめてあって、これが最後の文と見事につながっている。
エルサレムに死す / Death in Jerusalem
 兄のポール神父は才気に溢れ、アメリカに渡って成功し、世界中を飛び回っている。無口な弟のフランシスも信心深く、今は母の金物店を引き継ぎ働いている。毎年恒例の里帰りの際に、ポール神父はフランシスを聖地エルサレムへの巡礼に誘う。
 社交性とエネルギーと才気に溢れてはいるが、母との折り合いが悪い兄のポール。無口でお人好しながら、母との暮らしに満足しているフランシス。私はポールに入れ込んじゃったなあ。登場人物の視点の違いによる、気持ちのスレ違いを巧みに描く作品が多い中で、この作品は特に心に刺さった。
マティルダのイングランド / Matilda's England
 1.テニスコート / The Tennis Court
 2.サマーハウス / The Summer-house
 3.客間 / The Drawing-room
 昔のチャラコム屋敷は賑やかで、たくさん人を雇っていた。でもミスター・アッシュバートンが先の戦争で出征し、復員した時は抜け殻になってしまう。以来、家は落ちぶれ負債は嵩み、1929年に亡くなる。返済のためミセス・アッシュバートンは地所を切り売りした。父の農場も、その時に買ったものだ。
 そして1939年、5月。老いたミセス・アッシュバートンンは9歳の私をマイ・マティルダと呼び、可愛がってくれる。15歳の兄ディックと14歳の姉ベティーが一緒のとき、ミセス・アッシュバートンが言う。「チャラコム屋敷にはテニスコートがあるから」「プレーしたくなったらいつでもどうぞ」
 今、調べたら、WIkipedia に「マティルダ・オブ・イングランド」なんて記事がある。何か関係あるのかな?
 イングランドの田舎で生まれ育った娘マティルダの一人称で語られる物語。短編三つと言うべきか、三部構成の中編と言うべきか。
 改めて読み直すと、ミセス・アッシュバートンは、なかなか気のいいご婦人じゃないか。零落しても気品は保ち、かつての名声に拘らず農場の子どもたちにも気さくに声をかける。老いて独り身の寂しさが理由とはいえ、お高くとまってないのがいい。
 マティルダはミセス・アッシュバートンがあまり好きじゃない様子。それでも仲の良い家族に囲まれ、幸せな子供時代を送る。そのハイライトが、最初の「テニスコート」の終盤だろう。だが海の向こうではドイツが暴走を始め…
 戦争の影が濃い作品だ。が、それ以上に、私はマティルダ自身の性格が強いと思う。彼女は決してSFなんか読まないだろう。でもジャック・フィニイの「ゲイルズバーグの春を愛す」は気に入るんじゃなかろか。未来より過去が好きな人なのだ。こういう人は、いつでも、どこにでも居る。
丘を耕す独り身の男たち / The Hill Bachelors
 幾つもの丘を越えて、末っ子のポーリーが帰ってきた。亡くなった父を見送るため、母の住む農場の家に。父はフランセスがお気に入りで、次にメナを可愛がっていた。そつのないケヴィンも、長男のエイダンも。だが末っ子のポーリーとは…
 農家の嫁不足はどこも同じらしい。そして、農家の嫁の待遇も。子供が五人ってのも、いかにもアイルランド。にしてもポーリー、実はけっこうモテてるのに…
聖母の贈り物 / The Virgin's Gift
 18歳の時、ミホールは神のお召しを受けた。修道院へ行け、と。ひとり息子であるにも関わらず、父はミホールを送り出してくれた。幼馴染のフォーラは違ったが。やがて修道院でも…
 ある意味、信仰に身を捧げた者の物語なんだが、決して祭り上げられることはないだろう。タイトル通り、キリスト教信仰の色が濃い…と思ったが、日本でも昔はこんな坊さんがいたんじゃないかな。でも、こういう形で終わるのは、やっぱりキリスト教だなあ。
雨上がり / After Rain
 ハリエットは30歳になったばかり。本当はふたりでエーゲ海のスキロスでバカンスを過ごすはずだった。でも今はペンシオーネ・チェザリーナで一人。恋が終わってしまったのだ。そこで、子どもの頃、家族と一緒によく来たここに再び来たのだ。
 失恋旅行に出かけた女の話…なんだが、日本のような島国に住む者としては、気軽に外国に旅行に行けるヨーロッパがひたすら羨ましかったり。

 ポップ・ミュージックのレコードやCDに倣い、12編を集めた作品集。レコードなら、さしずめ「トリッジ」~「エルサレムに死す」がA面で、「マティルダのイングランド」~「雨上がり」がB面だろうか。微妙に性格の悪さが滲み出ているA面に対し、B面は密かに悲しみと諦観が漂っている。その双方が入り混じった「エルサレムに死す」が私は好きだなあ。

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