榧根勇「地下水と地形の科学 水文学入門」講談社学術文庫
本書では、具体的な事例を引きながら、最も身近な水である地下水を観察し、理解する方法について述べ、地下水たちとの好ましい付き合い方を探ってみたい。そして、そのことを通じて地球環境問題についても考えてみることにしたい。
――はじめに いま地下水の何が問題なのか地下水は圧力変化に反応するが、地下水を動かしている力は圧力ではない。
――第二章 泉がいたるところに湧きだしていた一般に「地下水面は地形面の高まったところで高く、低まったところで低い」。
――第二章 泉がいたるところに湧きだしていた海岸の砂浜で穴を掘ると、最初は真水が出る。穴を深くすると、ある深さで水は塩からくなる。
――第四章 扇状地の地下水を養う黒部川国土地理院発行の五万分の一地形図「東京西北部」図幅を買ってきて、50メートルの等高線を色鉛筆でなぞってみると、面白いことがわかる。井の頭池、善福寺池、富士見池がすべて、この等高線のすぐ下に並ぶ。
――第五章 武蔵野台地の地下水を探る(東京の)地下水は全体として、西部の大地から東部の低地に向かって流れている。
――第六章 東京の地下鉄で起こっていたこと
【どんな本?】
高度成長期には、首都圏の地盤沈下が社会問題になった。地下水を使いすぎたためだ。厳しい取水制限が幸いし、今は問題が収まっている。が、地下に埋めた廃棄物による井戸水の汚染など、地下の水は思わぬ形で私たちに問題を突きつける。
かと思えば、熊本県熊本市や富山県入善町のように、地下水を巧みに使っている土地もある。また、ミネラルウォーターや名水百選のように、特徴のある美味しい水は多くの人に愛される。石けんの泡が出やすい軟水もあれば、洗濯や入浴に向かない硬水もある。
見えない地下の水は、いつ、どこから来て、どんな所を、どれぐらい、どう流れているのか。なぜ土地により水の質が違うのか。地下水は環境をどう変えるのか。そして、研究者は、どうやってそれらを調べるのか。それは、何の役に立つのか。
私たちの暮らしに欠かせない、だが普段はあまり意識しない地下の水について、その基本と研究の現状を、広く一般向けに説きあかす科学解説書。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
1992年にNHKブックスから出た「地下水の世界」を加筆訂正したもの。2013年2月12日第1刷発行。文庫本で縦一段組み、本文約239頁に加え、あとがき4頁。9ポイント38字×16行×239頁=約145,312字。400字詰め原稿用紙で約364枚。文庫本としては薄い方。しかもグラフや地図を多く収録しているので、正味の文字数は9割ぐらいだろう。
文章はこなれている。内容も意外とわかりやすい。世界中の地名が出てくるので、地形が分かる地図があると便利。
【構成は?】
科学解説書の常で、前の章の知識の上に次の章が展開する形だ。が、各章のつながりはけっこう緩いので、美味しそうな所だけを拾い読みしてもいいだろう。
- 学術文庫版まえがき
- はじめに いま地下水の何が問題なのか
- 第一章 地下水観を日本と西洋にみる
地下水脈/二月堂のお水取り/水脈占い師/国際学会でも/西洋の地下水観/川崎直下型地震の前兆?/水脈占い師の論理/地下水脈と水みち/著しく遅い地下水の流速/水理学から水文学へ/地下水の持つ情報/バリ島の聖なる水/開聞町のそうめん流し
- 第二章 泉がいたるところに湧きだしていた
佐久知穴/地下4000メートルの構造/大作鑚井盆地/アルトワ井戸/掘抜き井戸/五井・市原自噴帯の後退/浪井/地下水は水圧では動かない/砂丘湖/ヤ・ヤト・ヤツ・ヤチ/やっかいな翻訳語/古代の瑞穂の国
- 第三章 地下水の水質は進化する
ホートン地表流/軟水と硬水/所変われば水変わる/軟水にも種類がある/水が岩石を溶かすわけ/地下水も進化する/フィールドノート/ミネラルウォーター/デンバーの人工地震/地下水汚染
- 第四章 扇状地の地下水を養う黒部川
入善町には水道課がない/筑波移転反対運動/黒部川扇状地帯湧水群/天然記念物「杉沢の沢スギ」/蜃気楼と埋没林/ガイベン・ヘルツベルクのレンズ/地下水を養う黒部川/沿岸海域土地条件図が語っていること/水温異常が明らかにした埋没地形面/黒部川扇状地をつくる/地下水の循環速度/埋没林が残っていたわけ
- 第五章 武蔵野台地の地下水を探る
武蔵野夫人/まいまいず井戸/50メートル等高線上の湧水/70メートル等高線上の谷頭/武蔵野台地の地形/武蔵野台地の古水文/湧水がそこにあるわけ/水みちの成因/立川断層と矢川緑地湧水群/トトロの森/学術文庫での付記/地下水というコモンズの管理
- 第六章 東京の地下鉄で起こっていたこと
生ぐさいことども/地盤沈下/地下水面の変化と酸欠空気/地下水位と地下水面の違い/地下水の流れを阻む立川断層/不圧地下水と被圧地下水/武蔵野線の路盤浮上事故/適正揚水量はあるか - むすび 新しい地域水循環系の創出をめざして
玉川上水と野川/望ましい環境とは/イデオロギーと科学/予測科学から診断科学へ - あとがき/参考文献
【感想は?】
もしかしたら私は、とんでもない世界を覗いてしまったのかもしれない。次の一節を読んで、私は一瞬、恐れおののいた。
箱根崎は往還が残堀川と交差する、地下水に不自由しない場所(一般に武蔵野台地は地下水面が深く、新田開発の苦労が多かった)に発達した街道集落と考えてよかろう。
――第六章 東京の地下鉄で起こっていたこと
SFやファンタジイが好きな者なら、架空の町や国を妄想した事があるだろう。大都市はたいてい大きな川の近くにある。大きな川は水運に便利だし、生活用水にもなる。
では、街道の宿場町は? まず思い浮かぶのは、小さな川のほとりだ。いずれにしたって、ヒトが生きていくには水が要る。だが、道は川沿いだけじゃない。では、街道沿いのどんな所に町ができるか。湧水や井戸水が得られるところだ。じゃ、どんな所なら湧水や井戸水が得られるか。
黒部川扇状地の扇端部には、かつて豊富な湧水があり、そこから流れる水流に沿って杉が自生していた。
――第四章 扇状地の地下水を養う黒部川
やっぱり、川の近くなのだ。少なくとも、日本のように雨が多い気候なら。そして、地下水が豊かな所なら、そこに沿って森や林が育つ。地下の水は、町や農地などヒトの社会だけでなく、森や林など動植物の分布にも大きな影響を与えるのだ。
では、どう影響を及ぼすのかというと、これには降雨量などの気候や、山と川などの地形、そして地質や断層など地質学的な土地の形成の歴史が関係してる。
「山は水を持ち、山があるから水が沸く」
――第五章 武蔵野台地の地下水を探る
と、基本は簡単なのだが、ソコの地層によって水を通しやすいローム層とそうでない岩盤層があり、また断層によって地下水の分布や流れも変わり…
ってな事を考えると、世界の設定に凝る者にとっては、嬉しいような戸惑うような。なんたって、考証すべき要素が爆発的に増えてしまうのだ。これは怖い。世界というのは、とんでもなく多くの要素が複雑に絡み合っているんだなあ、と肌で感じて、架空世界を創るのが恐ろしくなってくる。
こういう「私が知らない所に大きな世界が広がっている」のを感じさせるって点では、ヨアヒム・ラートカウの「木材と文明」やウィリアム・H・マクニールの「世界史」や藤原稜三の「格闘技の歴史」に匹敵するインパクトを持っている。
ただ、先の三作品は、見るからにヤバい。いずれも鈍器のような厚さで、読む方も覚悟はできている。それに対し、この本は薄い文庫本だ。正直、私も最初はナメてかかっていた。そこにこんな不意打ちである。本の世界は恐ろしい。
など、「こんな事が分かってます」な面白さだけでなく、「どうやって調べたのかというと」な所も、センス・オブ・ワンダーいっぱいだから楽しい。
基本は水を調べるのだ。川の水を調べ、湧水を調べ、井戸を掘って調べる。ここで現代科学の新兵器、同位体を使う放射年代測定(→Wikipedia)が登場する。地表の水と地下の水の同位体の比率を見て、その地下水が「いつ、どこから」来たのかを調べるのだ。これにより…
「洪水時の川水の大部分は地下水である」
――第三章 地下水の水質は進化する
なんて意外な事もわかったりする。かと思えば、いかにも学者魂を感じる逸話もあって…
…トリチウムは、宇宙線の作用により大気上層で一定量絶えず生産されているが、人工トリチウムも水爆実験により成層圏の大気中へ大量に放出された。降水のトリチウム濃度は1963年にピークに達し、日本では天然レベルの約200倍まで上昇した。
――第三章 地下水の水質は進化する
トリチウムって福島の原発でも散々話題になったよね、なんかヤバくね? と思ったが、その実体は水素。普通の水素は陽子一つだが、トリチウム=三重水素は、陽子一つと中性子二つを持つ。半減期は12.4年なんで、数年~数十年ぐらいの時間を測るのに便利だ。そこで…
この高濃度のトリチウムが地下水中に入り、地下水を汚染した。しかし人体には無害な濃度だったため、大きな社会問題とはならなかったから、むしろ地球規模で水循環のトレーサー実験を行ったようなものである。
と来るから学者ってのはw お陰で…
私たちのグループも含めて、全世界でトリチウムをトレーサーにした地下水循環の研究が多数行われ、地下水の研究はこれにより飛躍的に進んだ。
となるから、水爆も少なくとも一つは人類の利益になったらしい。
他にもスリランカのウエットゾーンとドライゾーンの極端な水質の違いや、オランダのアムステルダムの人工地下水、密室殺人ミステリに使えそうなトリックなど、驚きのエピソードには事欠かない。軽そうに見えるが、実は学問の底なし沼に人を引きずり込む、どんでもなく危険な本だ。
【関連記事】
- 2018.7.1 ブライアン・フェイガン「古代文明と気候大変動 人類の運命を変えた二万年史」河出書房新社 東郷えりか訳
- 2018.1.23 ヨアヒム・ラートカウ「木材と文明 ヨーロッパは木材の文明だった」築地書館 山縣光晶訳 1
- 2017.11.10 シンシア・バーネット「雨の自然誌」河出書房新社 東郷えりか訳
- 2012.08.29 ブライアン・フェイガン「水と人類の1万年史」河出書房新社 東郷えりか訳
- 2011.05.06 ウィリアム・H・マクニール「世界史」中央公論新社 増田義郎・佐々木昭夫訳
- 2010.09.15 岡崎正孝「カナート イランの地下水路」論創社
- 書評一覧:科学/技術
| 固定リンク
「書評:科学/技術」カテゴリの記事
- ドナルド・R・プロセロ「岩石と文明 25の岩石に秘められた地球の歴史 上・下」築地書房 佐野引好訳(2022.05.09)
- スティーヴン・ジョンソン「感染地図 歴史を変えた未知の病原体」河出書房新社 矢野真千子訳(2022.04.08)
- マット・パーカー「屈辱の数学史」山と渓谷社 夏目大訳(2022.04.04)
- 鳴沢真也「連星からみた宇宙 超新星からブラックホール、重力波まで」講談社ブルーバックス(2022.02.25)
- ジャンナ・レヴィン「重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち」早川書房 田沢恭子・松井信彦訳(2022.01.16)
コメント