J・D・ヴァンス「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」光文社 関根光宏・山田文訳
本書は、私の人生の偽りのない物語である。自分自身に見切りをつけようとしたときに、どう感じるのか、なぜそうせざるをえないのかを、多くの人に知ってほしい。本書を通して、貧しい人たちの生活がどういうものなのか、精神的・物質的貧困が子どもたちの心理にどれだけ影響を及ぼすのかを伝えたい。
――はじめに1970年には、白人の子どもの25%が、貧困率10%以上の地域に住んでいた。それが2000年には白人の子どもの40%にまで上昇した。
――第4章 スラム化する郊外ギャラップ(世論調査会社)の最近の調査では、南部と中西部の人たちの礼拝参加率は、国内最高だと報告されていた。ところが実際には、南部の住民で礼拝に参加している人はとても少ないのである。
――第6章 次々と変わる父親たち「自分の選択なんて意味がないという思い込みを変えたいです」
――第10章 海兵隊での日々じつは、ミドルタウンの住民がオバマを受け入れない理由は、肌の色とは全く関係がない。
――第11章 白人労働者がオバマを嫌う理由ニューヨーク・タイムズ紙が最近報じたところによれば、学費が高いとされている大学のほうが、低収入の学生にとっては、かえって安くあがるという。
――第12章 イェール大学ロースクールの変わり種3人とも、信頼できる家族がいた。そして、お手本となる人物(友人の父親、おじ、職場の助言者)から、人生の選択肢や自分の可能性を教えてもらったのである。
――第15章 何がヒルビリーを救うのか?
【どんな本?】
ドナルド・トランプ大統領の誕生で話題を呼んだ、貧しい家庭から身を興した男の半生記。
著者 J.D.ヴァンスは、アパラチア山脈沿いの貧しい白人家庭に生まれる。母は看護師だったが、離婚と結婚を繰り返し、ドラッグにも手を出す。家庭環境は劣悪ながら、著者は結束の固い一族に囲まれて育つ。その中心には、気性も言葉遣いも荒いながら、芯が強く愛情にあふれた祖母がいた。
海兵隊への入隊をきっかけに、自らの人生を考え始めた著者は、大学へ進み、更にイェール大学ロースクールに入りエリートの世界へと足を踏み入れる。
田舎の白人労働者の世界と、都市に住むエリートである法律家の世界。双方を自らの身で体験した著者が、トランプを支持する貧しい白人たちの社会と、その気持ちを綴り、貧しい家庭の若者や子どもたちを救う手立てを探る、特異なノンフィクション。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は Hillbilly Elegy : A Memoir of a Family and Culture in Crisis, by J. D. Vance, 2016。日本語版は2017年3月20日初版1刷発行。単行本ソフトカバー縦一段組みで本文約385頁に加え、渡辺由佳里の解説が豪華13頁。10ポイント42字×16行×385頁=約258,720字、400字詰め原稿用紙で約647枚。文庫本なら少し厚い一冊分ぐらい。
文章はこなれていて親しみやすい。内容もわかりやすい。文字が大きめの10ポイントなのも、老眼が進みつつある私には嬉しかった。
【構成は?】
だいたい時系列に進むので、素直に頭から読もう。
- はじめに
- 第1章 アパラチア 貧困という故郷
崇拝すべき男たち、避けられる不都合な事実 - 第2章 中流に移住したヒルビリーたち
1950年代、工場とそして豊かさを求めて - 第3章 追いかけてくる貧困、壊れ始めた家族
暴力、アルコール、薬物 場違いな白人たち - 第4章 スラム化する郊外
現実を見ない住民たち - 第5章 家族の中の、果てしない諍い
下がる成績、不健康な子どもたち
- 第6章 次々と変わる父親たち
そして、実の父親との再会 - 第7章 支えてくれた祖父の死
悪化する母の薬物依存、失われた逃げ場 - 第8章 狼に育てられる子どもたち
生徒をむしばむ家庭生活 - 第9章 私を変えた祖母との3年間
安定した日々、与えてくれた希望 - 第10章 海兵隊での日々
学習性無力感からの脱出 - 第11章 白人労働者がオバマを嫌う理由
オハイオ州立大学入学で見えてきたこと
- 第12章 イェール大学ロースクールの変わり種
エリートの世界で感じた葛藤と、自分の気質 - 第13章 裕福な人たちは何を持っているのか?
成功者たちの社会習慣、ルールの違うゲーム - 第14章 自分の中の怪物との闘い
逆境的児童期体験(ACE) - 第15章 何がヒルビリーを救うのか?
本当の問題は家庭内で起こっている - おわりに/謝辞/原注/解説
【感想は?】
もうひとつの「ルーツ」。
世間じゃこの本はトランプ大統領の支持層の実態が云々とか言われている。が、本書の7割はそんな政治的な話じゃない。成り上がった男の半生記だ。
読み始めて最初に驚くのが、彼を取り巻く一族の歴史だ。歴史の中身もさることながら、それ以上に、若い著者が一族の歴史に詳しい事にびっくりする。半ば親代わりの祖父母はもちろん、その祖父母の物語まで、著者はよく知っていたり。これらを、著者が幼い頃に親戚の男たちから聞いている。
こういう点で、著者は「普通のヒルビリー」じゃないと思う。祖父の祖父にまで遡って自分の一族を語れる人が、どれほどいるだろう?
一族の出自を、著者はスコッツ=アイリッシュと呼ぶ。元はスコットランドのプロテスタントで、アイルランドのアルスター地方、今の北アイルランドに移り住み、その後アメリカに来た人たちだ。一族を大切にして、身内の揉め事は身内でカタをつける。
ちょっと皮肉に感じたのは、こういう気性や文化が、「ゴッドファーザー」などが描くイタリー系とよく似ていること。マフィア物だと、主役のイタリー系の敵方としてアイリッシュ系は登場する。アイリッシュは警官が多いのもあるだろうが、イタリー系同様、遅れて新天地アメリカに来たのも似ている。
まあいい。往々にして親戚づきあいはウザいものだが、子どもにとっては世界を広げる格好の窓になる。この本でも、祖父母の兄弟姉妹や、父母の兄弟姉妹、そしてその配偶者などを通して、幼い著者は社会の様々な側面に触れてゆく。
終盤、ロースクールで学ぶ中で、著者は「社会関係資本」の大切さを語っている。何やら偉そうな言葉だが、要はコネ。と言っても、他の偉い人に口をきいてくれるとか、そういう事ばかりじゃない。
例えば著者の恋人ウシャだ。ええトコのお嬢さんであるウシャは、教授と仲良くなるコツを教えてくれる。そして仲良くなった教授からは、志望する職に就くために役立つ実習は何か、具体的で的確なアドバイスを受ける。こういう、ちょっとした助言を貰えるのも、コネの有難さだ。
そういう事を考えると、実は幼い頃の著者も、けっこう豊かな「社会関係資本」を持っていたことが見えてくる。つまり祖母を中心とした、オジサン・オバサン・いとこ・またいとこ、そういった親戚との関係だ。中には裏庭でマリファナを育ててるような変な人もいるけど。
そんな中で、最も存在感が大きいのは、もちろん祖母のボニー・ヴァンス。鼻っ柱の強い典型的な南部女で、12歳の時に牛泥棒を殺しかけ、13歳で駆け落ちする。次々と男を乗り換える母親と暮らす孫=著者を心配し、時にはケンカのコツを教える。
彼女を主人公としたファミリー・ドラマを作ったら、きっと大当たりするだろう。波乱万丈の生涯の中で、常に感情を偽らず、言いたいことは遠慮なく口に出す。台詞は放送禁止用語満載になるけど、だからこそ彼女の啖呵はとても気持ちいい。「自分が同性愛者ではないか」と怯える幼い著者に、彼女が与えるアドバイスなどは、思わず膝を叩いて大笑いしてしまった。
などと、本書の全体を通じて、著者が抱える一族、特に祖母への深い愛情が伝わってくる。
それに対し、児童保護サービスなど政府が子どもに提供するサービスには、強い失望と疑念が流れている。特に印象的なのは、彼がセラピストと対面する場面だ。不安定な環境で育った者は、他人を警戒して、得体の知れない初対面の相手に本当のことを話したりしない。それでも、彼らの一方的な決めつけに著者がキチンと抗議できたのは、やはり祖母の影響が大きいんだろう。
政治的な読み物として話題になったし、そういう部分も確かに多い。ヒルビリーと呼ばれる貧乏白人に焦点を当てた本だから、アメリカだけの話だと思い込みそうだが、実は日本でも似たような環境は沢山ある。というのも。
著者が育った町は、かつて鉄鋼産業で潤い、周辺から労働者が集まって栄えた。だが製造業が衰えるとともに仕事も減り、地域全体が貧しくなった。夕張に代表されるように、「かつては栄えたが今は衰えた」町は珍しくない。そう考えれば、日本にも、著者と同じような境遇にはまり込む子どもや若者は多いのだ。
などと高尚な事を考えてもいいが、それ以上に、鉄火娘のボニー・ヴァンスをめぐる人々のファミリー・ドラマとして面白い。あまり構えず、「僕が大好きなお婆ちゃんの思い出話」として楽しんでもいい。成功者の半生記だが、説教めいた雰囲気はほとんどない。ドラマを観るつもりで気楽に読んでも楽しめる本だ。
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