デイヴィッド・フロムキン「平和を破滅させた和平 中東問題の始まり 1914-1922 上・下」紀伊国屋書店 平野勇夫・椋田直子・畑長年訳 4
サー・ヘンリー・マクマホン「私が心配なのは、アラブの反乱が鎮圧されてしまうことではなく、成功してしまうことなのだ。そんなことになったら、イギリスにとって脅威だ」
――第23章 マクマホン書簡をめぐる怪オスマン政府は、キリスト教徒ばかりでなくユダヤ人、とりわけパレスチナに住む六万人あまりのユダヤ人の忠誠心についても、疑念をいだいていた。
――第26章 敵戦線の背後で(1916年)当時、この国(イギリス)の新聞界は(略)たったひとりの男が牛耳っていた。その人物、ノースクリフ卿(アルフレッド・ハームズワース)は、(略)ロンドンで発行される新聞の半分を同時に支配下に収めていたのだ。
――第29章 連合国で相次ぐ政権交代
デイヴィッド・フロムキン「平和を破滅させた和平 中東問題の始まり 1914-1922 上・下」紀伊国屋書店 平野勇夫・椋田直子・畑長年訳 3 から続く。
【どんな本?】
今なお戦火が絶えない中東情勢の起源を、第一次世界大戦とオスマントルコ帝国の崩壊に求め、荒阿多に発掘した資料を元に、迷走する列強の軍事・外交戦略を、イギリスとオスマントルコ帝国を中心に、つぶさに描く迫真の歴史ノンフィクション。
【アラブの反乱 開演前】
アラブの反乱は、「アラビアのロレンス」で有名だ。が、その実体は、というと、T・E・ロレンス曰く「『知恵(の七柱)』のあの(ダマスカス解放)章は、本当と嘘が半々だからね」。この本は、その創作部分も幾つか暴いてて、私たちの思い込みをひっくり返してくれる。
さて、反乱の神輿として担ぎ上げられたメッカの盟主フサイン・イブン・アリー。この本を読む限り、保守的で老獪な首長って雰囲気で、とてもじゃないが反乱に与するような人物には思えない。これは「知恵の七柱」でも同じで、典型的なアラブの地域ボスって感じだ。
そんなフサインが、なぜ立ったか。一つにはキッチナーが勘違いして与えた餌、カリフの地位もあるだろう。それ以上に重要なのは、彼の尻には火がついてたのだ。少なくとも、フサイン自身はそう思い込んでいた。
メッカの目玉商品は巡礼だ。ラクダやウマやロバのキャラバンで巡礼者を聖地であるメッカやメディナに送り迎えし、それのアガリで食っている。ところがオスマン帝国は、ヒジャーズ鉄道をダマスカスからメッカまで伸ばそうとした。んな真似されたら客をゴッソリ奪われ、フサイン一党は干上がってしまう。
公的な地位の問題もある。メッカの盟主の地位は、オスマン帝国から与えられたものだ。ところが首都イスタンブールでCUP(青年トルコ人)によるクーデターが起き、トップが変わった。そのあおりでフサインは解任される手はずになっていたのが、戦争のドサクサで先送りになっていたのだ。
ヤバいと感じたフサインは、保険をかけた。オスマン帝国内にもCUPを快く思わぬ者はいる。CUPはトルコ語の話者を贔屓するので、アラビア語を話すアラブ人にはウケが悪い。そこで三男ファイサルを通じ、反乱をたくらむダマスカスのアラブ人秘密結社と連絡を取る。
これが裏目に出た。
1916年四月、フサインに悪い知らせが届く。3500人のオスマン軍精鋭部隊がアラビア半島先端に向かう、と。目的は電信基地建設としているが、途中でフサインの縄張りヒジャーズを通る。これをフサインは、裏切り者を撃つ討伐部隊だと思い込んだのだ。
保守的な人間を動かすには、餌をチラつかせるより、足元を揺さぶる方が効果的なんだと思う。
【アラブの怪人】
この裏では、謎めいて胡散臭い人物が暗躍している。ムハンマド・シャリーフ・アル=ファルーキ。1915年に突然現れ、1920年にイラクの路上で殺されている。
1915年当時は24歳。元オスマン陸軍の参謀中尉。ダマスカスで秘密結社に属し、CUP政権の三羽烏ジェマル・パシャ(→Wikipedia)に睨まれ地獄のガリポリ戦線(→Wikipedia)送り。そこで脱走してイギリス軍に身を投じ、重大な情報を握っていると称してカイロのイギリス情報部の尋問を受ける。
ここでファルーキは思いっきりフカす。曰く、ダマスカスの秘密結社アル=アハドはオスマン陸軍に数十万の同志を持ち、またフサインともツルんでいる。フサインが立ち上がれば、呼応して同志も決起するだろう。これを聞いたキッチナー一党、そりゃもう大興奮。
以後、ファルーキはカイロ・メッカ・ダマスカスを行き来し、連絡役を務める。いずれの者からも、ファルーキは他の二者いずれかの使者と思われていたらしい。
と、正体を隠して暗躍したファルーキ、三者それぞれに都合のいい話を吹き込み、ソノ気にさせてゆくのだ。何者なのか、何を目論んでいたのかは全く分からないが、このペテン師が時代を大きく動かしたのは事実で…
アル=ファルーキのたぶらかしに乗ってしまったのは、マクマホン書簡だけではなかったことがわかる。もっと重要なことは、いわゆるサイクス=ピコ=サゾノフ協定を結ぶにいたったイギリスのフランとロシア、のちにイタリアも加えての交渉も、それに続く連合国間のオスマントルコ分割秘密協定の了解事項もまた、謎の人物アル=ファルーキ中尉の仕組んだいかさまが生んだものだったということである。
――第24章 戦後中東の領土分割をめぐる連合国の軋轢
と、現代に至るまでの紛争の種を蒔いている。SF者としては、思わずタイムマシンを絡めた話を創りたくなってしまう。
【アラブの反乱 開演】
そんなわけで、追い込まれたフサインはついに立ち上がる。ただし、その前に、オスマン政府からイギリス相手の戦費として五万ポンド以上の金貨を、イギリスからもトルコ相手の戦費をせしめていたというから、なかなか老獪だ。ただし、肝心の反乱は、ファルーキの話とは違い…
結局のところ、フサインが期待していた「アラブの反乱」は、いくら待っても起こりはしなかった。
――第28章 空回りしたフサインの反乱
オスマン軍中のアラブ人も、他の部族も、誰も立ち上がらなかった。みんなオスマン帝国そのものを潰そうとは思ってなかったらしい。おまけにフサインの手持ちの部隊も数千人程度。これじゃ話にならん、って事で、ロレンスお勧めのゲリラ戦でお茶を濁す羽目になる。
【クートの戦い】
ガリポリの戦いも地獄だが、クート=エル=アマラの戦い(→Wikipedia)も切ない。
「1914年11月6日、イギリスがオスマントルコに宣戦布告をした翌日」、英印連合軍はティグリス・ユーフラテス川の河口から攻め上る。目的はペルシアの油田からの石油補給を守ること。トルコ軍の抵抗は弱く、11月21日には120km奥のバスラまで進軍する。
調子こいたメソポタミア遠征軍司令官のサー・ジョン・ニクソン将軍、チャールズ・ヴィア・フェラーズ・タウンゼント少将率いる第六師団にバグダード攻略を命じる。
タウンゼントは嫌がった。この辺りは湿地と砂漠で、蚊や蠅が伝染病を媒介する。加えて道路も鉄道もなく、補給も進軍も難しい。進めば進むほど友軍の補給線は伸びる反面、バグダートを基地とする敵は補給が楽になる。しかも敵の指揮官は名将コールマン・フォン・デル・ゴルツ元帥である。
にも関わらず、タウンゼントは卓越した指揮でバグダートから160kmのクテシフォンまで軍を進める。が、そこで力尽き、160km下流のクート=エル=アマラまで退却、陣を築いて立てこもる。救援を求めるが、ここで英軍は戦力の逐次投入の愚を犯す。
146日の籠城の末、タウンゼントは「武器を破壊して無条件降伏」。この後が切ない。タウンゼント将軍はイスタンブルで快適に暮らしたのに対し、部下の将兵は…
バグダートまで160km、そこからさらにアナトリアまで800kmの「死の行進」を強いられたあと、鎖につながれて鉄道工事の重労働に駆り立てられた。最後まで生き延びた者は、ごくわずかだった。
――第25章 ティグリス川で勝利を収めたトルコ軍
いつの時代も、ツケは下っ端が払う羽目になるんだよなあ。
【おわりに】
以後、アルメニア人虐殺やキッチナーの死、ロシア革命などが上巻で描かれるけど、わたしの都合でその辺はとばして、次の記事から下巻に移ります。
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- 2014.08.06 T.E.ロレンス「完全版 知恵の七柱 1~5」東洋文庫 J.ウィルソン編 田隅恒生訳 1
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