リジー・コリンガム「戦争と飢餓」河出書房新社 宇丹貴代美・黒輪篤嗣訳 2
当時の計算によると、牧畜用の草地は四ヘクタール当たり12人を養えるのに対し、同じ面積の小麦畑は200人、じゃがいも畑なら400人もの人数を養えた。
――第5章 イギリスを養う
リジー・コリンガム「戦争と飢餓」河出書房新社 宇丹貴代美・黒輪篤嗣訳 1 から続く。
【発端】
第二次世界大戦の影響で、多くの人が飢えた。
これは、戦いの犠牲だと私は思っていた。が、どうもそうじゃないらしい。特にドイツは、ワザと飢餓を輸出したようだ。
第一次世界大戦の経験から、ヒトラーは国民の飢えを強く警戒していた。そこにヘルベルト・バッケが登場する。
戦時下の食糧問題について(ヘルベルト・)バッケ(→Wikipedia)が提唱した解決策こそが、1941年6月のソ連との開戦をヒトラーに決意させた直接の要因なのだ。
――第2章 ドイツの帝国への大望
バッケの理屈はこうだ。穀倉地帯ウクライナを奪え。そうすれば、ドイツは飢えずに済むし、ロシアは干上がって倒れる。「バッケの頭の中にあった具体的な死者数は、3,000万人だった」。もともと虐殺するつもりだったのだ。
ドイツ軍がモスクワを目の前にして、カフカスの油田に主軸を移した理由も、ウクライナだ。「ウクライナの農業は機械化が進み、ソ連の産油量の60%を消費している」と、ドイツは考えた。そのために、カフカスの油田がどうしても必要だったのだ。
もっとも、短期決戦を求めてたクセに、その方法が兵糧攻めってのは、なんかおかしい気もする。人間、いったん決めちゃったら、考えを変えられない傾向があるから、矛盾に気づかなかったのかも。
【日本 その1】
さて日本は。
両大戦間に人口が増えた上、都市住民の食べる量も増え、困った事になる。そこで朝鮮から米を強奪してしのぐ。当然、朝鮮人は飢え、「彼らは生きのびるために野草を食べた」。当時の「日本政府の食糧官吏や農業経済学者も『飢えの輸出』と呼んでいた」。
植民地経営なんて大概が残酷なもんだが、大日本帝国も例外じゃなかったのだ。
加えて、日本の農民も苦しむ羽目になる。外国から安い米がたくさん入ってきたので、国産米の値段も下がり、農家の稼ぎも減ってしまう。食糧問題の難しさは、今も昔も変わらないなあ。ってんで、満州だ。
移住計画は、100万戸の農家、すなわち1936年当時の農業人口の1/5を中国に送り込むというものだ。
――第3章 日本の帝国への大望
元から住んでた者の土地を奪い、日本人移民に与える。おお、ラッキーじゃん。土地を追われる側はたまったモンじゃないけど。
こういった大日本帝国の性質は、南方でも変わらない。アジアの米蔵だったビルマ・インドシナの稲作地帯では…
占領軍が市場価格よりはるかに安い値段で米を大量に買い上げ、軍の糧食や本土に送るための備蓄米にしていた。国際市場も域内市場も奪われた農家は、苦労して作物を育てても日本人に買いたたかれるだけなので、生産量を減らした。
――第11章 日本の飢えへの道
と、アジアの穀倉地帯から米を奪い、また地域の流通も壊してゆく。もっとも、奪った米を運ぶ船は、アメリカの潜水艦にボコボコ沈められるんだけど。これに加え、不作やインフレ、輸送用の船の不足、米から黄麻や大麻への強制的な転作も重なり、戦後は地獄と化す。しかし…
フランスも日本も正確な死者数の把握に努めなかった。これまで、100万ないし200万人のヴェトナム人が死んだとされてきた。(略)ヴェトナム北部の多くの村にとって、20世紀最悪の経験はヴェトナム戦争ではなく、この飢饉なのだ。
――第11章 日本の飢えへの道
仏印やビルマで帝国陸軍がやらかした事を、私も、知りませんでした、はい。
もっとも、「日本の新技術が大きな成功をもたらした」と言ってくれるマラヤ人も、少しはいるとか。そうは言っても、イギリスよりはマシって程度なんだけど。
【日本 その2】
ってな悲惨な話とは別に、意外な事実も書いてある。
例えば託児所。戦争が始まり人手が足りなくなると、女も働かにゃならん。そこで、国は幾つかの対策をだす。例えば…
食事の準備を共同で行うために炊事場が一万五千カ所、(略)託児所が三万カ所設けられた。
今でもベビーシッターより保育園が好まれる理由は、こういった経緯なんだろうか。
また、太平洋の戦いは飢えとの戦いでもあった。
ガダルカナル島では戦死者が5,000人だったのに対し、餓死者は15,000人にのぼると今村(均大将)は推定した。
――第13章 天皇のために飢える日本(ニューギニア方面の)第18軍司令官、安達二十三は、1944年12月10日、「連合軍兵士の死体は食べてもよいが、同胞の死体はたべてはならない」という命令を発した。
――第13章 天皇のために飢える日本
などのエピソードが語るように、兵站無視が帝国陸軍の伝統のように思ってたけど…
1929年、(日本)陸軍の食事が供給するエネルギーは、ひとり当たり1日4000キロカロリーだった。(略)ところが、1941年に、軍の糧食は半減した。
――第13章 天皇のために飢える日本
と、戦前は将兵の食糧事情に気を配っていたのだ。加えて、中華料理や洋食の普及にも、軍が大きな影響を与えた事がうかがえる。というのも。
1920年頃の日本兵の体格は貧弱だった。じゃ栄養状態をよくしよう、そのために肉を食わせよう。でもヒトは不慣れな料理を好まない。おまけに、「日本食は地方ごとに味の違いが」大きい。そっか、昔から日本のメシはバラエティ豊かだったのね。って、そういう事じゃなくて。
どこかの地方の味付けにしたら、兵同士でケンカになる。でも、みんなが慣れないなら、ケンカにもならない。そこで、都市で流行りはじめた中華や洋食を真似た。「カレー、シチュー、炒め物、中華麺、豚カツ、唐揚げ」…。皆さんお馴染みのメニューは、帝国陸軍が普及させたわけ。
おまけに、調味料も味噌から醤油を中心にした。これも同じ理由で、味噌は地方色豊かだけど、醤油は「工場生産で味が標準化されて」いるから。そうなのか。味噌は地方色豊かなのか。今度、旅行に行ったら、地元の味噌を漁ってみよう。
加えて、民間にも普及させるため、陸軍は「企業、学校、病院に軍隊式の給食を導入しはじめた」。学校給食も社員食堂も、軍が先導したのだ。家庭に対しても、陸軍の主催で「料理の実演が行われた」。軍人さんが料理教室を開いてたのだ。当然、味も似たようなモンになったんだろうなあ。
ばかりでなく。当時の農村の若者は雑穀交じりのメシを食べてたけど、軍で白米に慣れる。
白米を日本国民全員の主食に変貌させたのは、第二次世界大戦なのだ。
――第19章 豊かな世界
そんなわけで、現代日本人の食生活は、帝国陸軍が創り上げたのだ。これはアメリカも同じで、軍のメシに慣れたGIたちが、今のアメリカの大衆食を形作っているとか。この辺は、「とんかつの誕生」や「カレーライスの誕生」にも触れられてたなあ。
すんません。また次に続きます。
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