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2017年9月20日 (水)

ピーター・ワッツ「エコープラクシア 上・下」創元SF文庫 嶋田洋一訳

血はすべてその子宮の外にある。
  ――上巻 前兆

もちろん、今の世界にはゾンビがいる。それを言うなら吸血鬼も。
  ――上巻 原式

「何かが――隠れている。名状しがたいものが」
  ――上巻 寄生

「この世界には、武装した者たちの暴力があまりにひどくて、意識ある生命として存在することをやめたくなるような場所もある」
  ――上巻 獲物

「…われわれは哺乳類が核兵器を作ったあとも生きている。きわめて単純なOSで動いていて、たいていどんな環境でも作動する。われわれは考える肉体のカラシニコフなのだ」
  ――下巻 猛獣

今、全裸でこの文章を打っている。
  ――下巻 参考文献

「…それはあなたの目の前にあって、あなたがそれを正視していないだけよ」
  ――下巻 大佐

【どんな本?】

 前作「ブラインドサイト」でSF界に大騒ぎを巻き起こしたカナダ出身の海洋生物学者による、前作の続きとなる長編SF小説。

 2082年、65536個の人工物が地球を取り巻き、消える。これを異星人の偵察と考えた人類は探査船<テーセウス>を建造、選び抜いたクルーを乗せ太陽系外縁へと向かう。彼らは異星の知性体と接触するが、消息を絶ってしまう。

 その7年後、地球。

 人類は過去から吸血鬼を蘇らせ、研究所に隔離していた。高い知性と優れた運動能力を持つが、人類とは全く異なる思考をする、人類の亜種にして天敵。だが吸血鬼のヴァレリーは監視の裏をかき、脱出を果たす。

 それとは違った形で高い知性を得た者もいる。両球派。メンバーの脳を緊密なネットワークでつなぎ、一つの集合精神にまとめあげる。両球派は人里離れた土地に修道院を築き、他の人とは接触せずに暮らしていた。

 現生人類で生物学者のダニエル・ブリュクスは、サバティカルを利用しオレゴンの砂漠にフィールドワークに出かける。だがタイミングが悪かった。戦闘用ゾンビを従えた吸血鬼ヴァレリーが、両球派の修道院を襲う所に居合わせてしまい…

 人類を遥かに超えた知性同志の出会いと、それに居合わせた現生人類の戸惑いを、奇想天外なアイデアを思いっきり詰めこみながらも、クールな文体で描く、サイエンス・フィクションの極北。

【いつ出たの?分量は?読みやすい?】

 原書は Echopraxia, by Peter Wats, 2014。日本語版は2017年1月27日初版。文庫本で上下巻。本編の「エコープラクシア」が上巻約302頁+下巻約180頁=482頁に加え、特別収録短編「大佐」40頁を収録。おまけに渡邊利通の解説10頁と、参考文献が豪華44頁。8ポイント42字×18行×(302頁+180頁+40頁+10頁+44頁)=約435,456字、400字詰め原稿用紙で約1,089枚。上下巻は妥当な所。

 前作の「ブラインドサイト」同様、かなり読みにくい。前作同様、主な登場人物の思考様式が人類とは大きく違う上に、最新の科学の成果を使ったSFガジェットが大量に出てくる、とても濃い作品だ。並みのSFでは満足できないスレッカラシ向けなので、覚悟して挑もう。

 なお、解説はとても親切にネタを説明してくれているが、同時にネタっばたしにもなっているので、要注意。もちろん、ちゃんとその由を警告しているけど。

【感想は?】

 そう、この作品は、とっても濃い。

 なんたって、凄まじいガジェットが次から次へと出てくる。冒頭の吸血鬼、伝説から復活させた人類の天敵ってのも相当なもんだが、それにちゃんと「十字架が苦手」なんて弱点も与えるだけでなく、そこにキチンと理屈と仕掛けがついてるあたりも、タダモノではない。

 この理屈と仕掛け、いちいち「説明しよう」なんてやってたら、それだけで数頁を費やしてしまいそうな凝ったシロモノなため、アッサリと流しちゃってるのが憎い。この手の話に詳しい者にはたまらない美味しさなんだが、慣れない人には何の事だか見当もつかない。

 例えば、この世界の情報ネットワークを示す「クインターネット」。名前からしてインターネットの進化版で、量子コンピュータや量子ネットワークを使ったモンなんだろう、と当たりはつく。が、作品中では名前が出てくるだけで、なんの説明もなく話が進んでゆく。

 じゃどうでもいいネタなのかというと、そうでもない。この作品の大事な登場人物?である両球派が成り立つために、どうしても必要になる基礎技術の一つでもある。

 なんたってヒトの脳が発する信号を、ほぼリアルタイムで、多くの脳で共有しようなんて話だ。要求される通信容量は桁違いである。これを捌くには新世代の通信技術が必要で、となれば量子ネットワークだろうなあ。

 なんて所まで、たった一つの言葉「クインターネット」に押し込めちゃってる。実に手ごわい。

 その分を、豪華44頁もかけた参考文献で補っている…のはいいが、一部の文献は2055年や2072年や2093年だったりと、なんとも意地が悪いw

 さて、その両球派。高度な技術を投入した結果、出来上がった集合知性はたいしたもので、「特許局の仕事の半分を占領」するほど。とはいえ、その代価も高い。なんたって脳をいじっちゃった結果、「現実世界では、手助けがないと道路も横断できない」。ある意味おバカでもあったり。

 そんなわけで、砂漠の真ん中に修道院を建て、そこに閉じこもっているんだが、楽しいのは修道院の防衛システム。なんとも奇想天外なシロモノながら、ある世代の日本人には妙に懐かしかったり。そう、砂の嵐に守られているのだ。わはは。

 賢いながらも、ある意味おバカな両球派、これを俗な言い方をすれば「賢さには代価が要る」で終わりそうだが、その代価がオーディンの片目(→Wikipedia)のようにわかりやすい形じゃないのが、この作品のテーマの一つ。

 何より、物語で重要な役割を果たす者たちが、主人公のブリュクスより賢い奴らばかり、という構造が皮肉だ。

 先の「ブラインドサイト」では、意識が重要な主題だった。それはこの作品でも同じで、意識なき知性の脅威が、主にヴァレリーを通して何度も繰り返し強調される。と同時に、語り手が現生人類である点も、小説としての工夫の一つ。

 両球派や吸血鬼に、いいように小突き回され、それでも連中の裏をかこうと工夫を凝らすブリュクスのあがきは…

 最新科学の成果を駆使した大量のガジェットをブチ込み、異様な世界の中で異形の者たちに囲まれた主人公の恐怖で追い打ちをかけて読者の脳をオーバーヒートさせつつ、冷徹かつ壮大な世界観へと導く問題作。時間をかけ、頭を冷やしながら、じっくり読み解こう。

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