キム・スタンリー・ロビンスン「ブルー・マーズ 上・下」創元SF文庫 大島豊訳
少しでも油断すれば昔ながらの行動パターンにずるずると逆戻りしてしまう。一つのヒエラルキーを壊せば、すぐに次のヒエラルキーが生まれてとってかわろうとする。われわれはそれに対して警戒しなければならない。地球の複製を作ろうとしている人間はいつでもいるからだ。
――上巻p15「わたしたちは原初の惑星に住みたいのよ。洞窟や崖を利用した住居か、あるいはクレーターの外輪山を掘りぬいたものね。大都市も惑星緑化もなし」
――上巻p233ぼくらの肉体自身が火星の水の作る模様なんだ。
――上巻p415「よい政府とは無視しても安全な政府」
――下巻p102「こちらはあの子たちを教育して、子どもたちがわたしたちを裁くのよ」
――下巻p151「今の火星は過去と未来が戦っている戦場だ。そして過去は力を持っている。けれど、ぼくらがみな向かっているのは未来だからね」
――p403「わたしたちは自分たちの能力では理解できないところまで、テクノロジーを進めてしまっているのよ」
「うーん。理解はできると思う。ただ、信じられないだけだ」
――p508
【どんな本?】
アメリカのSF作家キム・スタンリー・ロビンスンが、人類の火星植民・開発を描いた「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」に続く三部作の完結編。レッド・マーズは1998年、グリーン・マーズは2001年に日本語版が出たが、16年の時を経ての完結編刊行となった。いやあめでたい。
20世紀初頭、科学者集団の定住から始まった火星開拓は、多くの植民者を引き寄せ、様々な集団がそれぞれ独自の社会を発展させてゆく。地球は超国籍企業体が台頭し、海面の上昇と180億に増えた人口を抱え、社会は崩壊の危機を迎えていた。
人口の圧力を抱える地球は、多くの移民を火星に送り込もうとする。火星では独立を求める声が高まり、両者の軋轢は火星の軌道エレベーター破壊などの被害をもたらしつつ、危うい均衡状態を保っている。
一方火星では、手つかずの火星環境の保護を求めるレッズや、更なるテラフォーミングを進めようとするグリーン、そして火星で生まれ育った世代を中心とするフリーマーズなど、多様な集団が争いまたは協力し、憲法を定めて地球からの独立を果たそうとしていた。
科学と工学を駆使した環境改変技術、気候の変化に伴い変わってゆく生物相、綿密に書き込まれた火星の地質、そして過酷な環境の中で生きるために使われるテクノロジーなどの科学から、地球生まれの一世・火星生まれの二世以降・新たに地球から来た入植者など世代の違い、資本主義に変わる社会の構想、そして新たな世界へと散らばってゆく人類の姿など、SFの全てを詰め込んだ壮大な叙事詩。
【いつ出たの?分量は?読みやすい?】
原書は BLUE MARS, by Kim Stanley Robinson, 1996。日本語版は2017年4月21日初版。文庫本の上下巻で縦一段組み、本文約600頁+609頁=1,209頁に加え、渡邊利通の解説11頁。8ポイント42字×18行×(600頁+609頁)=約914,004字、400字詰め原稿用紙で約2,286枚。4~5冊に分けてもいい巨大容量。
文章はやや硬い。内容も、かなり歯ごたえがある。SFガジェットはてんこもりだし、描写も凝っている。例えば温度は絶対温度表記で、気圧もヘクトパスカル。ちなみに摂氏零度は絶対温度で約273K、1気圧は約1000ヘクトパスカル。他にも量子力学・有機化学・地学・生物学など、科学の全方面に渡るトピックが続々と出てくるので、好きな人にはたまらない濃さだ。
また、続き物なので、多くの登場人物が前の「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」と同じだし、背景事情も色濃く引きずっている。とはいえ、下巻の解説で、大まかに前二作のあらすじを紹介しているので、かなり助かった。私はレッドもグリーンも読んでいたんだが、中身はすっかり忘れていた。わはは。
そんなわけで、人物間の関係はよく分からなかったが、舞台となる火星の風景がやたらと魅力的。サイエンスとフィクションで言えば、サイエンス分が好きな人向け。
【感想は?】
20世紀SFの総決算。
タイムトラベル以外のSFテーマを全部ブチ込んでじっくり煮込み、SF者がこだわる火星風味のダシを存分に染み込ませ、アメリカ西海岸風の味付けで仕上げた贅沢な作品だ。
まず、なんたって舞台がいい。大胆なテラフォーミングで北半球に大洋が出来た火星。他にも様々な温暖化の試みで、主に北半球の低地を中心に少しづつ気温と気圧が上がりつつあるが、南半球や高地では赤茶けた荒々しい風景が広がっている。
こういった風景を、各地を旅する多くの人物の目を通し、迫力たっぷりに紹介してくれる。だけでなく、100年以上の年月の中で変わっていく様子もじっくり描いてゆく。
例えば大気だ。物語が始まったころは、みんな気密環境の中に居るか、専用のスーツを着ている。外は寒いし空気は薄いしで、生身の体じゃ生きていけないのだ。でも地衣類や苔ははびこりつつある。これが中盤以降になると、草ばかりか木まで育ち始め、動物も…
なんてのは海がある北部の低地の話。
火星の魅力の一つは、やたらと高低差が大きいこと。例えばオリュンポス山は2万1千メートルもある(Wikipediaとの数字の違いは海の出現によるもの)。しかも、火星は地上から水がなくなって久しいので、川などによる浸食も少なく、クレーターが幾つも残っている。
地質学者にとっては、涎が止まらない環境だろう。環境保全を叫ぶレッズの頭目が、地質学者のアンなのも、変に納得しちゃったり。
そのクレーターも、舞台を彩る楽しい仕掛け。大きな湖にすうる所もあれば、一つの閉鎖的環境になってる場合もある。これを活かして自分なりの生態系を創ろうとする環境詩学なんてのは、庭いじりが好きな人にはたまらないアイデアだろうなあ。
そう、この物語の風景は、多かれ少なかれ、人の手が入っている。その手の入れ方が、ミクロなものから稀有壮大なものまで、SF小僧の妄想をくすぐりまくる魅力的なものばかり。
冒頭から騒ぎの焦点となる軌道エレベーターは、A・C・クラークともチャールズ・シェフィールドとも違って独自のものだし、熱を供給しているソレッタもワクワクする。私が最も感激したのは、ヘラス海と北海をつなぐ大運河の掘削方法。地球上じゃまず無理な滅茶苦茶な方法を使ってるw
いずれも脳内の妄想マシーンに大量の燃料をくべるシロモノなため、私は読みながらしょうもない妄想に浸ってしまい、なかなか読み進められず困った羽目になった。例えば1km四方の土地を緑化するには、どれだけの水が必要か、なんてのを調べ始め、点滴灌漑がベストかなあ、とか。もうストーリー関係ないしw
そんな人間が引き起こす環境の変化が、そこに生きる人々の社会にも大きな影響を与えていくあたりは、フランク・ハーバートの「デューン」シリーズへのオマージュとも取れる。
科学者が多いためか、比較的にリベラルな風潮の<最初の百人>は、皆から一目置かれちゃいるが、その中にもレッズとグリーンの対立がある。火星生まれを中心とするマーズ・ファーストは、資本主義とも共産主義とも違う、火星ならではの社会を築こうとする。そこにやってくる移民たちは、地球の価値観を引きずって…
ってなあたりは、移民問題でゴタついている現代のヨーロッパやアメリカへの風刺みたく思えてくるからなんとも。いや1996年発表の作品なんだけど。移民が築いた国アメリカの作家だけに、当時から意識してたのかも。
加えて、表紙にもあるように、火星でのスポーツを描いているのも、この作品ならでは。意外とスポーツを扱ったSFって少ないんだよね。ただ、基本的に個人競技ばかりで、球技がないのは、著者の趣味かな?
やはり重力の違いは大きくて、記録も火星ならでは。この重力の違いは自然環境にも大きな影響があって、海での航海を描く場面でも、火星ならではのサスペンスを存分に味わえたり。にしても、そんな秘密兵器を隠しているとは卑怯なw
一つの世界の誕生と成長、そしてそれが人類全体に与える影響を、当時の最新科学トピックと縦横無尽なガジェットを組み合わせ、西海岸的な自由主義を底流としながらも、細部にまで気を配った描写で描き切った、20世紀SFの到達点を示す巨大作。たっぷり時間をかけて、じっくり味わおう。
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